2020年05月31日「聖霊の尊い恵み」
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聖霊の尊い恵み
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- 田村英典 牧師
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使徒言行録 2章1節~13節
聖書の言葉
2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると、皆が聖霊に満たされ、御霊が話させるままに、他国の色々なことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちは皆、ガリラヤの人ではないか。
2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国の国語で話を聞くとは、いったいどうしたことか。
2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
2:13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
(新改訳聖書 2017年度版)
使徒言行録 2章1節~13節
メッセージ
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今日は今年のペンテコステですので、聖霊の恵みについて学びたいと思います。
ギリシア語で50を意味するペンテコステは、ユダヤで過越祭の安息日の翌日から50日目に祝われた祭であり、日本語では五旬節とか五旬祭と訳されます。
これを教会は何故尊ぶのでしょうか。イエス・キリストが過越祭の時に人間の罪を背負って十字架で死なれ、しかし三日目の日曜日に復活され、50日目の丁度この日に、聖霊が弟子たちに驚くべき形で特別に臨まれたからです。
弟子たちは、イエスに言われた通りエルサレムに留まり、集って祈っていました。すると突然、2節、激しい風のような音が家中に響き、3節、炎のような舌が一人一人の上に分れて留まり、4節、皆は外国語で話し始めたのでした。世界中から来ていたユダヤ人たちは物音に驚いて集まりますと、何と夫々の国の言葉で「神の大きな御業」(11節)を語る弟子たちがいたのでした。
驚くべき光景ですが、ここには色々象徴的なものが見られます。「風」はヘブル語で「霊」も意味し、「炎」は聖(きよ)さ、「舌」は言葉を象徴します。つまり、聖霊が、特にイエスのことを中心とする神の偉大な御業(みわざ)を、全世界の人に語らせるために弟子たちを清め、特別に働かれたのでした。事実、この時から弟子たちは、イエス・キリストの福音を伝える世界伝道を始めます。その意味で、ペンテコステはキリスト教会の誕生日とも呼ばれます。
以上、ペンテコステの出来事とその基本的意味を確認しました。
では、これは今日の私たちにとってどんな意味があるでしょうか。かつてオランダの改革派教会の指導者A.カイパーは『聖霊の働き』という分厚い本を書きました。本当はそれ位豊かにあるのですが、今朝は三つの点に絞ります。
第一は、神とその御心が理解でき、またそれを人に伝えることの出来る知的恵みです。
13節によりますと、弟子たちを見て「新しい葡萄酒に酔っているのだ」と嘲る人たちもいました。物事を冷ややかに見るこの種の人はどこにもいます。しかし、注目したいのは、これに対する14節以降のペテロの説教です。ペテロはこの出来事を、16節「預言者ヨエルによって語られたこと」と説明し、17~21節で旧約聖書のヨエル書2:28~32を引用し、25節以降ではイエスの復活を預言する詩篇16を引用して説明し、34節ではイエス・キリストを預言する詩篇110を紹介します。
救い主に関するペテロのこれらの見事な聖書知識や理解は、復活後の40日間、度々弟子たちに現れられたイエスご自身から学んだのでしょう。そしてこの日、聖霊が働かれ、ペテロは見事に人々に話すことが出来ました。のちに4章が伝えますが、彼はユダヤ議会の権威者たちの前でも見事に語ります。4:8は「その時、ペテロは聖霊に満たされて」とその理由を伝えています。
ペテロは元々ガリラヤの漁師であり、議会の議員たちは彼を4:13「無学な普通の人」と見ていました。けれども、彼は反論出来ない見事な聖書知識と霊的理解力で明快に語り、説明することが出来ました。何故こんなことが出来たのでしょうか。聖書が説明する通り、それはただ聖霊の恵みによるのでした。
更に7章が伝えますが、殉教する直前にステパノは旧約聖書の見事な知識を、それも体系的に的確に述べ、ユダヤ人の頑なさと罪を糾弾しました。それは見事な説教でした。6:5はこのステパノを「信仰と聖霊に満ちた人」と伝えます。
聖霊によらなければ、色々な勉強も知識も、神と人と教会、また自分のためにも実を結びません。イエスが下さる聖霊が何より大事なのです。
聖霊は、イエスに代って私たちと共におられ、御言葉を用いて神と永遠の救いに関する知識、全体的体系的理解力、またそれを人に語る時の説得力まで下さることを、聖書から教えられます。知的な面での聖霊の恵みを改めて覚え、夫々が自分を低くして、聖霊を熱心に求めたいと思います。
第二は、キリストの救いの恵みを伝え、私たちキリスト者の希望を証しする時などの大胆さや勇気など、つまり強い意志を与えられることです。ユダヤ議会の錚々(そうそう)たる大勢の議員たちを前にイエスを伝えたペテロ。自分が殺されるのを承知の上で人々の頑なさと悔い改めを訴えたステパノは、何と大胆だったでしょう。
ペテロには元々大胆な所もありました。かつてガリラヤ湖の上を歩かれるイエスを見て、彼は言いました。マタイ14:28「私に命じて、水の上を歩いてあなたの所に行かせて下さい。」イエスが「来なさい」と言いますと、何と彼は実際に舟から足を出し、水の上をイエスの方へ進んだのでした。無謀とも言える大胆さです。でも、これは彼の生来の気質によるものであり、霊的大胆さではありません。ですから、イエスが捕えられた時、ペテロは他の弟子と共に蜘蛛の子を散らすように逃げました。あとでイエスの裁判を見ようと、大祭司の家の中庭に密かに戻って来たましが、女中に怪しまれ、声をかけられますと、必死になってイエスを否定しました。その時、イエスのおっしゃっていた通り、鶏が鳴き、彼は外へ出て激しく泣きました。
しかし、こんな彼が五旬節以来、変わりました!いいえ、変えられました!復活されたイエスの遣わされた助け主、聖霊がペテロに働かれた時、あれ程恐れたユダヤ議会の前で堂々とイエスについてこう断言しました。4:12「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名(みな)の他に、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない…!」議員たちは、4:13「ペテロとヨハネの大胆さを見、また、二人が無学な普通の人であるのを知って驚」きました。けれども、尚も彼らは脅そうとします。すると、その彼らに二人は言いました。4:19、20「神に聞き従うよりも、あなた方に従う方が、神の御前に正しいかどうか、判断して下さい。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません!」
実はこの迫害の中、他の弟子たちも変えられました。弟子たちの祈りとその様子を4:29以降はこう伝えています。「『主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたの御言葉を大胆に語らせて下さい。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒しとしるしと不思議を行わせて下さい。』彼らが祈り終えると、集っていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語りだした。」
ステパノの強さの理由もここにありました。伝道や証しを初め、大事な時に必要な大胆さ、勇気など、強い意志を、私たちも改めて本気になって聖霊に求めたいと思います。
第三は、私たちが助け支え合う元となる喜びや親切、善意といった温かいもの、要するに愛です。聖書の優れた知識、理解力、説得力など知的な面と、死をも恐れない大胆さや真理のための強い意志が如何に大切かについては、繰り返す必要がないでしょう。しかし、初代教会に与えられた聖霊の恵みはこれだけではありません。それらはいわば外に向ってのものですが、三つ目は教会員相互という内なるものです。これも誠に尊い恵みです。そして、それを伝えるのが、2:44以降に見られる持物の共有の出来事です。2:44「信者となった人々は皆一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、夫々の必要に応じて、皆に分配していた。」
持物の共有は、この時は確かに必要でした。しかし、教会の永遠普遍の原理ではありません。現にあとの5:4でペテロは、土地や家を無理に売らなくても良いと教えています。
大切なことは、互いに助け、支え、労り合う元となる喜びや親切、善意といった温かい清い愛に、ペンテコステ以後、弟子たちが本当に満たされていたことです。これは聖霊による以外の何ものでもなく、聖霊の導きの下、皆は愛し合い、助け合わないではおられませんでした。ガラテヤ5:22、23の言う「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の結ぶ実、聖霊の恵みが見られたのでした。
外に対する時の聖霊の重要な恵み!それと共に、信徒相互の愛と助け合い!これは、当教会の季刊誌『よろこび』の目的、すなわち、私たちが共に喜びに満たされるための主にある交わりでもありますが、実はこれが初代教会の伝道の大きな力ともなりました。すぐあとの使徒2:46、47はこう伝えます。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、全ての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えて下さった。」
今日でも同じです。聖霊の恵みである信者相互の誠実で温かい助け合いや労り、すなわち、愛を、周囲の人たちは見ていないようでいて、実はよく見ています。私たちの信じていることが本物かどうかの一端を、これで計っているのです。
しかし、こういう伝道の面だけでなく、私たちも時々自分自身を省みる時、本当は他人のことに無関心で自己中心な冷たい自分であることに気付き、神に申し訳なく思うことがないでしょうか。ですから、聖霊の恵み、すなわち、聖霊が私たちの内に結んで下さる麗しい実の一つである愛を、もっともっと心から求めたいと思います。
今朝は聖霊の三つの尊い恵みを確認しました。どうか、主が、マラキ3:10にあるように「天の窓を開き」、私たちに聖霊を更に豊かにお与え下さいますように!そのために、何度でも共に集い、天を仰ぎ、心を一つにして熱心に祈り続ける岡山西教会であれますように!