◆日本キリスト改革派教会 平和宣言 連続講解説教

「平和の宣言を学ぶ~今という時代を見つめる~」  創世記2章15~17節、3章1~19節    2024.4.21
 
 序.
 改革派教会は、昨年10月「平和の福音に生きる教会の宣言(平和宣言)」を採択しました。私たちは聖書が語る平和について考えていくことをしなければなりません。

Ⅰ.現状の確認
 世界から戦争がなくなるとの希望もあったのですが、2022年2月にロシアがウクライナに対して戦争を始め、また昨年秋からイスラエルがパレスチナのガザに戦争を始めました。また今、イスラエルとイラン・中東全体において不穏な動きがあります。
 だからこそ、「今、平和を語らなければならない」と言われることはごもっともなことです。しかし私たちは、オウム返しに「戦争反対・平和を実現せよ」と叫んでいても、平和を実現することはできませんし、多くの人の協力を得ることはできません。
 「キリスト教会こそが排他的で、戦争をしてきたのではないか」とも語られる事実を無視してはなりません。イスラエルがパレスチナに対して戦争することを、キリスト者の中にも賛同する人がいますが、その新約聖書の解釈の誤りであることを指摘するように、過去のキリスト教会が主導して行った戦争をも、私たちは聖書により「否」と言わなければなりません。
 この平和の宣言を学ぶにあたり、「なぜ人間は争い・戦争を行うのか」をテーマに掲げ、3つのことを確認していきたいと思います。
 Ⅰ.人間は罪人である(全的堕落)
 2.旧約聖書における聖絶とイスラエル
 3.新約聖書が語る平和と現状・
   神の国に向かう私たち

Ⅱ.神によって創造された人
 最初に「人間は罪人である」ことを確認しなければなりません。
 最初に創世記2章・3章をお読みしましたが、その前に、1:26~28を確認しなければなりません。人の創造についてです。
 人は三位一体の神にかたどり、神に似せて造られました(創世記1:26-28)。神との愛の交わりの内に、生きる者、つまり死ぬことのない者として創造されました。ここには罪はなく、争いもありません。主なる神を誉め讃え礼拝し、隣人を愛する者でした。
 主なる神は、愛する人間に対して、一つの約束を求めました。生命の契約と呼ばれます(創世記2:16-17)。人は神の求めを適切に判断する能力をも身につけていました。

Ⅲ.全的堕落
 しかし人が蛇の誘惑により罪を犯しました(創世記3:1-19)。ここで語られていることは、最初の人の1回限りの罪です。しかし最初の罪は、彼らから普通に生まれるすべての人に罪の性質が引き継がれ、原罪と現実罪により、すべての人は主の御前に罪を犯します(参照:ウェストミンスター小教理問16-19)。
問18 人間が堕落して陥った状態の罪性は、どのような点にありますか。
 答 人間が堕落して陥った状態の罪性は、アダムの最初の罪の罪責と、原義の欠如と、一般に原罪とよばれている、人間の全本性の腐敗、および、原罪から生じるすべての現実の違反、とにあります。
問19 人間が堕落して陥った状態の悲惨とは、何ですか。
 答 全人類は、かれらの堕落によって神との交わりを失い、今では神の怒りと呪いのもとにあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と、死そのものと、地獄の永遠の苦痛を免れなくされています。
 そして神を知らない人たちは、主の恵みに留まることがないため、自らの欲望・罪が満ち、人を支配し、自らの名声を高めようとします。このとき、独裁者が生まれ、敵対する人と争い、戦争が生じます。
 だからこそ、「戦争反対」、「平和を実現しよう」とただ語ったとしても、相対的にムーブメントとして平和運動が広がったとしても、時代の変化と共に、独裁者の行動を阻止することはできず、戦争となります。

Ⅳ.キリスト者として平和を語るために必要なこと
 そのために私たちに求められることは、信仰の枠を超えて、平和を唱える人たちと共闘することであり、同時にキリスト者が、聖書に基づいて平和を神学することです。
 キリスト者は、旧約における聖絶の意味・キリスト教の名において戦争を行ってきたことの誤り・今、イスラエルがガザを攻めていることを賞賛するキリスト者がいる中、なぜ私たちが反対するのかを応えることができなければ、人は付いてきません。
 そのために私たちは、聖書の真理を理解することから始めなければなりません。聖書が語る罪、そして神の愛の根本原理を理解し、新約に生きる私たちが、キリストの十字架の贖いにより罪が赦されていること、主が隣人を愛すること、罪を赦し和解することを語り続けなければなりません。
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 「平和の宣言を学ぶ~戦後80年と改革派教会の歩み」  ローマ11章25~36節    2024.5.12
 
 序.
 平和の宣言で今日は序文を学びます。コロナ後、戦争や独裁が顕著になっているが、他国のことを語るのではなく、私たちは日本に生きるキリスト者として、私たち自身がいかに主から託された平和を実現していくことを考えていかなければなりません。

Ⅰ.明治期からの日本の教会
 序文では、日本のキリスト教会が犯した罪について告白し、悔い改めを行っています。1859年に開国し、プロテスタント教会の宣教が始まりましたが、最初の教会は、一つの教会を目指し「公会」と名乗りました。そのため、私たち改革派教会がウェストミンスター信仰規準を信仰規準として持っているような詳細な信条を持つことをしませんでした。立場の異なる教派の宣教師が一緒に行動するためです。そのため、一つひとつの教理がなおざりになり、情勢・周囲の状況に流されることとなりました。
 また、教会の指導者たちは、禁教令におけるキリスト教迫害を知っており、政府に認められることを切に求めました。しかし、日本国政府は、禁教令を廃止しましたが、自ら積極的に廃止してキリスト教を受け入れたのではありませんでした。海外の宣教師が来日する中、キリシタンに対する弾圧などが明らかになり、それを批判されることを嫌い、禁教令を廃止したに過ぎません。

Ⅱ.日本の教会の罪
 このことを十分に理解することなく、政府に受け入れられようとするとき、やはり代償を払うこととなります。
 1912(明治45)年2月、三教会合が行われます。つまり、政府により神道・仏教・キリスト教の代表者が集められ、日本におけるキリスト教会は、憲政史上始めて公的な塲で神道・仏教と対等に扱われたことを歓迎する教派の人たちがいたことより、これを受け入れることとなります。
 その結果、戦争に協力し、朝鮮・中国・台湾への侵略に対して、キリスト教会も現地に日本の教会を建てて行くこととなります。つまり現地には、現地の教会がすでにあるにも関わらず、現地の人々も日本人化させるために、キリスト教会が積極的に戦争・植民地化に協力したのです。
 そればかりか、文部省が「神社は宗教に非ず」と語ることを良いことに、礼拝の場に、宮城遙拝を持ち込み、君が代を讃美歌として歌うことが行われました。
 また、教会の指導者たちは、積極的に神社参拝を行い、偶像崇拝を行ったのです。
 つまり日本の教会は、神社参拝を行うことにより主の御前に偶像崇拝を行う大きな罪を犯したと共に、戦争に協力し、朝鮮・中国・台湾その他の地域を植民地化することに協力し、現地に生きる人たちを苦しめたのです。

Ⅲ.教会と国家との関係を顧みよ!
 その上で宣言では、「わたしたち日本キリスト改革派教会は、戦時下の日本の教会が主の御前に犯した罪に共同の責任を負うことを告白するとともに、戦後与えられた信教の自由の恵みのもとで、神の言葉と有神的人生観・世界観に基づく改革派教会を創立し、国家に対する教会の自律性を主張して、宣教と教会形成に励んでまいりました。しかし、その歩みを見つめ直すとき、そこには平和の福音に生きる教会としての使命に応える力も熱心さも乏しく、特に教会内外において社会的・民族的な差別を受けている人々に対する共感や認識も真に不十分であったことを認め、主の御前に赦しを乞うものです」と告白します。
 「有神的人生観・世界観に基づく改革派教会を創立し」とは、常に神の御前に生きるということです。国家・為政者という人を見るのではなく、彼らをも支配している主なる神を見上げ、主の御前に教会を立てることを考えなければなりません。
 その上で、主がお立て下さった教会と、国家の関係を顧みなければなりません。国家が、主を否定する偶像崇拝を求めれば、私たちはそれを拒否することが求められます。国家が、他国に戦争をしようとするならば、私たちは隣人を愛する者として、否を語らなければなりません。国家が人権を尊重することなく、差別するならば、私たちは否を語らなければなりません。

Ⅳ.真に平和を築く教会として
 教会と国家の関係を考えるとき、偶像崇拝(ヤスクニ問題)のみに矮小化してはなりません。隣人を愛する者として、平和の問題、人権の問題も考えなければなりません。改革派教会は、すでに創立宣言・30周年宣言・教会と国家の問答集・韓国高神派との宣教協力に関して罪責告白と謝罪を公にしてきました。その上に、聖書の教えに合致する日本国憲法(平和主義)の堅持を行っていくことが求められています。
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 「平和の宣言を学ぶ~神の平和と世界の平和」  Ⅱコリント5章11~21節    2024.5.26
 
 序.
 平和宣言は、昨年10月の大会において採択しました。平和とは、戦争を反することとしての平和でもあります。この平和宣言の審議を始めたのはコロナ前です。この時点では、平和憲法である9条が改悪されることを危惧して、議論が始まりました。
 しかし、教会において平和を考え、今回採択した宣言はそれだけではありません。

Ⅰ.世界の平和?
 平和宣言の1.神の平和と世界の平和は、次のように告白します。
 「聖書が示す「平和」(シャローム)は、戦争や争いのない状態のみならず、何よりも神との霊的な関係における自由と幸福、肉体的健康や物質的充足、人間関係における調和や喜びをも意味します」。
 人権の問題に対しても語っています。つまり一口に平和と語りますが、隣人への愛と語り変えても良いかと思います。
 また主は霊的な統治を教会にお与えくださっていると同時に、公共善として人々の生活のために為政者をお立てくださっています(参照:ウェストミンスター信仰告白23:1)。
 本来、国家的為政者は、主なる神が天地万物を創造したときに語られた「それは極めて良かった」(創世記1:31)ことを目指して、政治を行うことが求められています。

Ⅱ.罪に満ちた世界に生きるキリスト者
 しかし現実は、今なお世界で戦争や迫害が行われ、人々は虐げられています。
 安倍政権下で憲法9条と安保法制の改悪が行われようとしたとき、「積極的平和主義である」と叫ばれました。「平和」という言葉を用いつつ、軍隊を持つことを正当化しています。真に平和を求めるのであれば、敵対している人たちと寄り添い、交わることが必要です。そうしたことなしに、軍事力を付けて、自国を守ろうとすることは、主が求めている平和ではありません。
 続けて宣言は告白します。「しかし、人間は自らの欲望と自己中心性のゆえに、この平和を破壊して堕落し、神と敵対し、神と隣人とを軽んじる暴力と混乱に満ちた世界をもたらしました」。神の求めている平和のために政治を行っているのか、否か、私たちは判断することができるはずです。1859年に日本が開国してから入ってきたプロテスタント教会は、政府に認められようとして必死でした。そのため、一つの教会(公会)として、簡易信条しか持ちませんでした。為政者の側は、キリスト教会を恐れ、江戸時代以来の禁教令を引き継ごうとして、「神と敵対」していました。そうした相手に、教会が近づいて行った結果、教会は組み込まれていきました。植民地に宣教師を派遣し日本人教会を立て、戦争に協力すること、さらに礼拝の中で宮城遙拝を行い、神社参拝を行う偶像崇拝を行いました。
 信仰を貫き、主が求めている平和を作ろうとするとき、目の前の人が、どこを向いているのか、確認することが求められます。それを行うことなく、無条件に受け入れるとき、主に反することに協力することとなります。私たちキリスト者は、そういう意味では、日頃から、主が私たちに求めていることを考えつつ、物事を判断し、行動することが求められています。

Ⅲ.隣人を愛することにより実現する平和
 主は、主ご自身が願っておられる平和を実現するために、御子をこの世にお遣わしくださいました。宣言は、「(キリストが)弱さの中にいる人々の病を癒し、空腹を満たして、その心に喜びを与えられた」と語り、一人ひとりの苦しみを知っておられ、苦しみを取り除いてくださることを語ります。これこそ神の愛です。
 キリストの愛の働きを知った私たちキリスト者は、ただ「戦争反対」を叫び、政府批判をするに留まらない、平和を作り出すキリスト者として立てられていきます。それが、隣人への愛を実践することです。
 私たちは教会や中会において、隣人への愛を実践しているか、問いかける必要があります。今日は、せんげん台伝道所との役員協議会を行いました。大宮教会の隣人であるせんげん台伝道所に対して、何ができるのか、役員間や会員相互の交わりを始めることにより、相互理解をして、これからの交わりの在り方を考えています。
 私たちは、「平和を実現しなければならない」と語ろうとすれば、「私たちは何をすれば良いの? 自分には何もできない」となってしまいます。しかし、主が共におられ、主がお与えくださった人たちがいます。そうした人たちとの交わりをとおして、私たちは主の平和を実現することが求められています。

Ⅳ.十字架を成し遂げたキリストと共に歩む人生
 キリストの十字架の御業は、すでに成し遂げられました。天地創造において「極めて良かった」と創造された世界が回復します。私たちは、主がお与えくださるこの神の国に向けて歩みを続けています。
 そうであるならば、今なお憎しみと争いが絶えることなく、苦しんでいる方々がいます。私たちは、和解の福音を語り続け、平和のための祈り、平和を実現するために行動し続けることが求められています。
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 「平和の宣言を学ぶ~戦争と平和と国家」  イザヤ書2章1~22節    2024.6.2
 
 序.
 前回は「第1章:神の平和と世界の平和」より、神の求めている平和と、罪の中に生きる人間(特に為政者)の求めている平和には違いがあること、そして主なる神は地上に平和を取り戻すために御子をこの世にお送りくださったことを確認してきました。

Ⅰ.神の平和とこの世の平和
 そして今日は「第2章:戦争と平和と国家」についてです。
 「神の平和とこの世の平和を同一視することはできません」。前回も確認しましたが、為政者もまた罪人であり、自らの欲望の実現の手段として戦争を用います。そのため、キリスト者であっても戦争に巻き込まれることを逃れることはできません。

Ⅱ.神による戦争、人による戦争
 主なる神は、世の平和を築こうとする手段としての戦争・争いを拒否され、主の裁きに値します(マタイ26:52)。そのため私たちキリスト者は神の武具を身につける必要があります(エフェソ6:10~18)。神の国が完成すれば、武器は不要になります(イザヤ2:4)。
 私たちは、人が行う「正しい戦争」・「合法的戦争」と、主なる神が神の名の下に行う「聖戦」を混合してはなりません。
 旧約聖書において、主なる神が、イスラエルの民に命令される戦争は、聖戦と呼ばれます。聖戦は、主なる神によって行われる罪の裁きです。主は、旧約の異邦人たちが、主に逆らい・滅びることを定められているからこそ、この時点で裁きを行われます。しかし、新約の時代である現在では、主の直接啓示はなく、聖戦は存在しません。
 一方合法的戦争は、私たちキリスト者が、主の求める平和を実現するために行う戦争です(ウェストミンスター信仰告白23:2)。「合法的戦争である」と宣言できるのはキリスト者為政者であって、主なる神を信じていない為政者が「合法的である」と宣言して行う戦争には当てはまりません。ですから日本が戦争を行うことになった場合、キリスト教会が「これはやむ得ない、合法的戦争である」とすることはあり得るかと思います。
 合法的戦争とは、「抵抗権」と言われ、虐待・迫害されている民が、それを阻止するために、結果として剣をもって為政者・戦争遂行者を殺す行為です。
 しかし、武器を取って戦うことは、最終的・限定的であるべきであり、積極的に行われることではありません。
 また核兵器や大量殺戮兵器を用いることは、聖書の時代においては考えられていなかったことですが、戦争を遂行する当事者以外の多くの市民が巻き添えになることであり、肯定することはできません。

Ⅲ.戦争を回避する手段
 安倍元首相は、憲法改正を煽る中、軍事力を肯定するために「積極的平和主義」と語り、武力を肯定しました。しかしこうした道は、為政者やマスメディアに扇動されて、社会を形成していきます。こうした時にこそ、私たちキリスト者は、信仰を貫く意味でも、社会に迎合することなく、「否」の声を挙げることが求められています。
 またどのような相手であったとしても、対話することです。敵国だからと武器をもって構えるのではなく、意見が異なる立場の人・国家であっても、対話のチャンネルを持つこと、対話し続けることが大切です。
 このことは個人的な交わりにおいても言えることですが、話し合う前から相手を全面否定することは、対話になりません。意見が異なり・おかしいと思ったことでも、最後まで意見を聞き、その上で同意することができることと、誤りとを確認して正すことを行っていく必要があります。初めから対立ありきでは、対話は成立しません。両者が、相手の言葉に耳を傾けることができるようになることが求められています。

Ⅳ.キリスト者として行うこと
 この世では、必ず戦争が起こります。だからこそ、その前の対話が大切です。そのために私たちキリスト者は、声を発することも必要ですが、すべてを主に委ね、祈り続けることもまた大切です。
 そして、現実に戦争に巻き込まれたとき、キリスト者は「合法的戦争」のことを十分わきまえて、私たちキリスト者に求められていることを共に考え、訴えていくこと、行動することが求められます。
 宣言ではこの段落の最後で、良心的兵役拒否に関しても語ります。良心的兵役拒否を行えば、「非国民」と語られることかと思います。しかし、信仰を貫くために、戦争を否定する立場で兵役を拒否することは、命を惜しんで逃亡することとは異なります。時として逮捕されること、迫害される可能性もありますが、なおも信仰を貫くことが大切です。そのため、平和宣言でも、良心的兵役拒否を認めています。
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 「平和の宣言を学ぶ~平和と正義と愛の業」  詩編85章2~14節    2024.6.9
 
 Ⅰ.構造的暴力を理解しているか?
 平和宣言第3章は「平和と正義と愛の業」ですが、構造的暴力についてです。
 暴力には、戦争や虐待等の「直接的暴力」に対して、「構造的暴力」があります。貧困・差別・人権侵害等、社会の構造的に存在する暴力のことです。また「文化的暴力」は、直接的暴力・構造的暴力を正当化する・声を出さず追認する文化のことです。
 宣言では序文において「構造的暴力」を語りました。構造的暴力は、マイノリティ(少数者)や差別(階級・年齢・性別・民族・同質⇔異質・中心⇔周辺、価値の違い)によって生じてきます。
 宣言では、「平和」と「正義と慈しみ」を併記し、「平和の福音に生きる教会もまた人間社会が生み出す不正義に無関心ではいられません」と告白します。しかし実際に日本キリスト改革派教会において、マイノリティや差別に対して、真剣に考え、こうした人たちを積極的に受け入れてきたのか、顧みることが求められます。

Ⅱ.あなたは隣人を真に愛しているか?
 先日行われた研修所の夜間信徒講座では、長谷川はるひ先生が講演をして下さいましたが、「日本キリスト改革派教会村」という言葉を用いました。一方で、執事的働き・隣人愛を語りながら、「神の栄誉」と語り、排除していることも語られました。
 ここには、キリストがあなたのためにも、その人のためにも十字架にお架かりくださり、罪を贖ってくださったことが抜けています。あなたの罪が赦されたようにこの人の罪も赦された。だからこそその人の罪を赦し、和解をすることが求められています。
 ウェストミンスター信仰告白の受け入れにおいても、神の教理である第1章~第16章(神論・罪論・キリスト論・聖霊論)までは重要であるが、それ以降倫理的なことはそれほど重要ではないと思われています。
 このことは隣人愛の理解に問題があります(参照:マタイ22:37~40)。またあなたの隣人とは誰かと、主イエスは善きサマリア人へのたとえで語られました(ルカ10:25~37)。隣人愛が理解され、初めて信仰共同体であるキリストの教会が成立します。信仰を神との個人的な関係に留めるならば、教会が成長し・信仰継承ができるはずがありません。
 「キリストに愛されたわたしたちは、この世に満ちる差別・暴力・不正の犠牲者に寄り添い、不安と恐れの中にいる人々の隣人となることを選び取ります」。改革派教会において今までできていなかったことを正直に告白し、この宣言の告白をもって始めなければなりません。「今までも行ってきた」と語る所に、「改革派教会村」のおごりがあると言わなければなりません。

Ⅲ.加害者意識に敏感になれ!
 「また、加害者の責任を問いつつも自ら罪人であることを忘れずにへりくだり、赦しの愛によって平和をつくる道を模索します」。「自分は差別やヘイトな行為は行っていない」と語り、自分は構造的暴力の加害者になっていないと思っていたとしても、言動のなかに、少数者や障害者などを排除している場合があります。また最初に「文化的暴力」を語りましたが、差別等に対して積極的に反対の発言を行うことなく、結果として、その構造が持続することに手を貸している場合があります。
 ですから宣言では「加害者の責任を問いつつも」と語りますが、自らも加害者の立場に立っている場合が多々あり、常々問題意識を持ち続けることが大切です。
 宣言は、「キリストの十字架を掲げる教会は、もはや敵意と憎悪に生きることができないからです」と告白します。現実には、教会においても敵意や憎悪を取り除くに至っていません。そのために教理と共に、キリストの十字架に出会う信仰のリアリティが問われています。

Ⅳ.教会は、人権に対して本当に問題意識を持っているか…
 「わたしたちにはまた、神の被造世界における平和と正義を希求し、これをよく治める責任(スチュワードシップ)が委ねられています」。聞こえは良いですが、社会における人権や少数者に対して、教会が積極的に発言し、構造改革を行うことを宣言しています。この宣言を発表するにあたり、改革派教会が変化し、教会が活性化することが求められます。そのために教師・牧師・長老・そしてすべての教会印の信仰が、今、問われています。
 つまり私たちは、神の民として神が求める平和を築いていくことが求められていますが、直接的暴力と共に、構造的暴力としてのマイノリティや差別・人権の問題に関しても、私たち一人ひとりが問題意識を持ち、一から学び始める必要があることが、突き詰められています。
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 「平和の宣言を学ぶ~平和のための協働と連帯」  イザヤ書54章11~17節、ローマ書12章8~21節    2024.6.16
 
序.
 実際的な暴力としての戦争や暴力と、ハラスメントや差別・少数者を無視すること等の構造的暴力・さらにはそれらを黙認する文化的暴力は、それが相手を苦しめていることを理解すること、隣人を愛することから始めなければなりません。

Ⅰ.平和宣言を採択したことにより
 第4章は「平和のための協働と連帯」です。つまり、平和を築くために何をすべきかということです。宣言は、「主イエス・キリストにある愛の交わりが、神の平和の礎です」と告白します。真に平和を回復するためには、真の平和の姿をお示し下さった主イエス・キリストを礎に置かなければなりません。つまり暴力や戦争が存在する中で真の平和を実現しようとするならば、暴力を振るった相手を、無条件に罪を赦す愛が示される他にないからです。それを実現して下さったのがキリストの十字架です。
 主なる神は、エジプトで奴隷であったイスラエルを、無条件で救い出してくださり、キリストの十字架の御業を受け入れ信じる者に、罪の赦しと救いをお与えくださいました。ここに無条件の罪の赦し・愛があります。これを平和の礎となります。
 宣言は「わたしたちは平和をつくり出すために、民族や国境を超え、教派を超えて、すべてのキリスト者と協働し連帯します」と告白します。今回、私たち改革派教会が平和宣言を発表しました。しかし真の平和は、他教派との協力が必要です。「平和宣言を採択したから、一緒に連帯しましょう」と言っても、同じキリスト教会だからといって、他の教会がすぐに連携できる者ではありません。聖書解釈や信仰告白の背景が異なるからです。イスラエルとパレスチナの戦争に関して、無条件にイスラエルの行動に賛成する教会のグループがあります。
 またアメリカの教会のこと、韓国の教会のことを聞いていますと、同じ改革派信仰・長老主義の教会であっても、考え方がかなり違うことを認識させられます。
 そのために、聖書解釈・信仰告白において一致を求めていくことが求めていくこと、互いに違いがあることを確認しつつ、共通認識を広げていくことが求められます。
 そのため、「民族や国境を越え、教派を超えて、すべてのキリスト者と協働し連帯します」と語ることは、一筋縄ではいきません。そのため私たち自身が、この宣言を十分に理解することから始め、教会の内外において、平和の実現のために、信仰の証しを行っていくことが求められます。

Ⅱ.思想・信条・宗教・民族・人種・性などの違いを超えて
 教派や国境を超えたキリスト教会内において一致を見いだすことが安易ではありません。しかし宣言は、「思想・信条・宗教・民族・人種・性など、あらゆる違いを越えてすべての人を尊び、謙遜に対話を重ね、個々人に与えられた務めと関係を通して共に働きます」と告白します。
 このことは、前の段落で語ってきたキリストを礎とすることを表に出すことなく、「平和・人権」ということで広く一致を確認し、協働していくことです。この認識は、構造的暴力としてのハラスメントや少数者の立場を考えるときにも求められます。
 告白は「すべての人を尊び、謙遜に対話を重ね、個々人に与えられた務めと関係を通して共に働きます」と告白します。隣人愛・人権を尊重することが大切です。

Ⅲ.平和を実現する人となれ!
 「この世における平和はまた、絶えずつくり続けなければ失われます」。
 平和を阻害すること、これは実際的な暴力ばかりか、ハラスメント・人権においても、繰り返し発生します。人間自身が全的に堕落し、完全聖化がないためです。
 だからこそ、平和に対して、絶え間なく、語り続けることが求められます。また、歴史を学ぶことは、ただ過去の事実を知るのではなく、そこにある罪を顧み、同じ失敗を繰り返さないために必要なことです。歴史を学ぶことは地道な作業です。また、「歴史修正主義」と語られるように、自分たちに不都合な事実が消滅させられ、歴史が書き換えられようとします。そうした中で、歴史を紐解き、不都合な事実を学び続けることには大切なことです。
 「平和」とは、平和なときには実感がわきません。しかし、いざ暴力や戦争・ハラスメントに虐げがあると、大きな問題となります。そればかりが「文化的暴力」と呼ばれるように、無理解・沈黙が行われることにより、苦しんでいる人たちがいます。
 だからこそ私たちは、キリストに愛されているように、隣人を愛し、また声に出ない苦しみをも理解し、改善していく努力も求められています。
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 「平和の宣言を学ぶ~終末における平和の希望と祈り  ヨハネ福音書16章25~33節    2024.6.23
 
序.
 主なる神が求める平和とは、単に戦争や暴力を振るう直接的な暴力だけではなく、ハラスメントや少数者の立場を考える構造的暴力、さらにこうした暴力を許容する文化的暴力があることを宣言において確認してきました。そして、真に平和を求めていくためには、キリストの十字架による贖い抜きには、成立しません。

Ⅰ.終末に生きるキリスト者として、神の国の完成は約束されている
 平和宣言の最後の章は、終末に生きるキリスト者であることを意識しています。新約=終末の時代です。
 終末の時代に生きるキリスト者は、苦難の中、時に絶望の中に生きることが強いられます(ヨハネ16:33)。しかし、主イエスは「わたしは既に世に勝っている」(同)とお語りになります。神の御子であるキリストがこの世に来られることにより、すでにサタンに勝利を遂げておられます。だからこそ、「神の国は近づい」(マルコ1:15)ています。
 そしてキリストは十字架の死と死からの復活を遂げ、今、天におられます。サタンの敗北は確定します。だからこそ「勇気を出しなさい」と語られ(ヨハネ16:33)、私たちはキリストにあって平和を得ることができます。それはキリストが再臨し、最後の審判と神の国の完成により成し遂げられます。
 私たちが今平和を求めても、理想であり、現実的ではないかも知れません。しかし、キリストが神の国を完成してくださる時、約束が成就します。私たちキリスト者はこのことに希望をもっています。このことを宣言は、「終末において、神は完全な平和をこの世界にもたらされます。その日に至るまで、わたしたちはなお自分自身とこの世界の罪の現実との戦いを避けることができません」と語ります。

Ⅱ.終末の時代に、キリスト者として生きる
 十字架におけるキリストの勝利があるからこそ、私たちはこの世の生活が、どれだけ苦しく、また希望が見ない中でも、主にある希望を持ち続けることができます。そして神の国の完成においてもたらされる平和に希望を置きつつ、今の世にあって、平和の道を模索し続けることとなります。
 その上で、「この世の悪しき霊との戦いに神の武具を身に着けて立ち向かい、平和の主の到来を待ち望みつつ、心を高く上げて祈ります」と告白します。神の武具です(エフェソ6章)。神の武具を身に着け、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物とする。なおその上に、信仰を盾として取り、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取ることが求められています。そして「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」。
 まさに、憎しみと争いの絶えない世にあって、私たちキリスト者は、御子によってもたらしてくださった平和の道を、信仰によって歩み続けることが求められています。

Ⅲ.神の国に希望をもって生きよ!
 私たちキリスト者が、信仰に生きようとするとき、自分の人生ですが、同時に、主の道具となります。主が私を、主の道具として用いることにより、私たちでは不可能と思われることであっても、主が成し遂げてくださいます。歩むべき道を主が備えてくださり、平和を実現するために必要な知恵と力を、主が聖霊によってお与えくださいます。
 今なお世界各地で戦争が行われ、多くの国々で政治的・信仰的理由で迫害が行われています。主の御力が為政者に示され、自らが行っている戦争や迫害の罪が示され、悔い改め、主への信仰・平和への道を歩み始めることができるように、主に委ねることが私たちに求められています。
 このことを「あなたによって立てられた為政者たちが、「剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする」勇気を与えられ、平和のために働くことができますように」と、宣言は告白します。
 しかし私たちの信仰は、今、個々の問題が一時的に平和が成就することが目標ではありません。キリストが再臨され、最後の審判と共に、神の国を完成し、真実の平和の御国が完成することを求めることです。
 この平和宣言は、戦争の時代にあって「平和を実現しよう」とスローガンを掲げたのではなく、現実社会の諸問題は、罪に由来する暴力であることを認め、私たち自身もまたその中に生きる者として悔い改めが求められ、無関心であってはなりません。
 その上で、地上における平和を求めると共に、恒久的な平和が実現する神の国を見据えていなければなりません。
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