◆哀歌  連続講解説教

「主の契約の愛に立ち返る嘆き」  哀歌1章  ウェストミンスター信仰告白18:1~3
 

Ⅰ.哀歌とは
 哀歌は、「エレミヤの哀歌」とも呼ばれ、エレミヤによって記されたと言われています。実際にエレミヤが執筆したのかは疑問も持たれていますし、エレミヤに特定する必要もありません。しかしエレミヤと同時期、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、多くの民が捕囚の民としてバビロンに連れて行かれた時代に、エルサレムに残された民が記した歌であると言うことは確かです。
 哀歌は5章を除いてアルファベットによる詩、つまりいろは歌です(参照:詩119編、箴言31章)。5章を含めてすべての詩が、ヘブライ語アルファベットと同じ22節です(3章は66節)。
 哀歌の作者は、単に都であるエルサレムが破壊され、ユダが滅びたことを嘆いているのではありません。イスラエルの民にとって、エルサレムが滅ぼされることは、神の住まいとしての神殿が崩壊したのであり、神が死んだ・神が敗北した、神が逃げ出してイスラエルの民が捨てられたと感じていました。
 しかし哀歌は単なる嘆き・悲しみではなく、神への祈りの手紙です。現実に起こった出来事を顧みつつ、主なる神の御計画に伴う摂理をどこにあるのかを確認し、主がイスラエルの民に何を求めておられるのかを、歌っています。真の悲しみは、悔い改めを生じさせ、信仰への熱心を取り戻します(Ⅱコリント7:10-11)。

Ⅱ.主による一時的な裁き
 南ユダ王国の都エルサレムは、バビロンによって攻撃され、そして滅ぼされました(1-6)。しかし哀歌の作者は、これが主なる神の御業であることを知っています(12-14)。この現実は、イスラエル自身の罪の結果です。
 主なる神はイスラエルの民を祝福して下さいました。モーセにおいても祝福を約束してくださいました(申命記28:1-2)。しかしこのとき、主は続けて語られました。「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」(28:15)。
 主なる神による南ユダ王国とエルサレムの破壊は、主の約束のとおりであり、神による御計画と恵みの契約から顧みるとき、決してイスラエルの民が見捨てられた結果、滅ぼされたのではないということが見えてきます。
 ウェストミンスター信仰告白は第17章「聖徒の堅忍について」を告白します。
「1.神がその愛する御子において受け入れ、自らの霊によって有効に召命し、聖とした人々は、恵みの状態から全面的に落ちてしまうことも、最終的に落ちてしまうこともありえず、かえって、最後まで恵みの状態の中に確実に堅忍し、永遠に救われる。
2.略
3.……、その心は頑なにされ、良心は傷つけられ、他の人々を損ない、躓かせ、自分たちに一時的な裁きを招く」。
 エルサレムの滅びは、神の契約の破棄ではなく、契約の民であるイスラエルが悔い改めに導かれるために、父なる神によってもたらされた懲らしめであることを、哀歌の作者は、はっきりと受け止めています。

Ⅲ.主の御業は正しい
 苦しみの中に置かれるとき、自らの苦しみを訴えます。またイスラエルを滅ぼしたバビロンに目を向けます。しかしこの苦しみをお与えくださるのは主なる神です(17)。
 イスラエルに与えられた苦しみは、主から与えられたものであり、破壊ではなく、イスラエルが悔い改め、回復するために父なる神の愛から示された鞭であり、イスラエルの民はこのことを受け入れることが求められています(参照:ヘブライ12:4~11)。そのため、主なる神は、イスラエルに対して、滅ぼされ捕囚の民となるが、70年後に解放されることをお約束して下さったのです。
 それ故に作者は、「主は正しい わたしが主の口に背いたのだ」と語ります(18)。自らの罪を受け入れ、悔い改めることが、主の恵みによる救いを受け入れる私たちに求められています。苦しみの中にあっても、誰も助ける者はありません。しかし、自らの罪の結果与えられた苦しみを享受します(20-21)。

Ⅳ.恵みの契約を信じて生きよう
 主なる神による恵みによる救いを信じる者には、悔い改めにより祝福が約束されています。しかし主に逆らい行く者には、自らの罪の故の死と裁きが与えられます。主なる神の恵みに生きようとするとき、結果として主に逆らい続ける者の滅びは避けられません。ここでは作者は、自分たちを苦しめ、滅ぼし、あざ笑っている者たちに対して、主の正しい裁きを願っています(21-22)。
 主による恵みの契約を受け入れ、信じて生きるとき、私たちはどれだけの苦しみの中にあっても、神による救いと祝福に希望に生きることが許されています。
 
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 「主の怒りの下にあるおとめシオンの希望」  哀歌2章
  ウェストミンスター信仰告白15:1~5

序.
 哀歌では、滅ぼされ、捕囚の民とされていくイスラエルの民に対する強烈な裁きとそれを眺めている作者の嘆きが語られています。

Ⅰ.おとめシオンとお呼びくださる主なる神
 しかし私たちは、この凄まじい裁きの中に、主なる神の愛と恵みを読み取ることができます。この2章では「おとめシオン」(1,4,10,13,18)、「おとめエルサレム」(10,13,15)と繰り返し語られます。シオンとは神の住まう都であり、エルサレムは契約の民です。ここで「むすめシオン」、「むすめエルサレム」と語りかけるのは、主なる神がイスラエルを花嫁として選び、愛し、守ってくださっていることを物語っています。
 このおとめシオンに対して、主は憤り・卑しめられます。そのため作者は「なにゆえ」(1)と問いかけます。そして「主は…見放された」、「主は容赦せず圧倒し、憤って…破壊し、…打ち倒して辱められた」と語ります。
 主なる神は義であり、罪に対して裁きを行われます。そのため預言者を遣わし悔い改めを迫ったにも関わらず、悔い改めることをしないユダの人々に対して裁きを実行されます(参照:申命記28:15,20)。
 しかし主は「おとめシオン」と語りかけてくださり、ユダの人々を見捨てることはなさいません。苦しみは、ユダの人々に悔い改めを迫る、主なる神の愛の鞭です。

Ⅱ.現実を受け入れ、主の御前に悔い改めよ!
 「おとめシオンの長老は皆、地に座して黙し…」(10)、「預言者はあなたに託宣を与えたがむなしい、偽りの言葉ばかりであった」(14)と語ります。イスラエルの民の嘆きの叫びがある中、主なる神は沈黙し、神に代わって偽預言者が語りかけます。そして人々からの嘲りがあります。イスラエルの民は、まさに主なる神に見捨てられたかのようです。祈っても、答えがありません。
 しかし主は黙しておられます。こうしたとき私たちは偽預言者の声・人々の嘲りが耳に入ってきて、ざわつき、心が揺さぶられます。
 しかしこうしたときにこそ周囲の言葉に耳を塞ぎ、主なる神の御声に聞くことが求められます。主は、ユダの人々の心を深く探り、神とのより深い交わりへと招いておられます。
「主は計画したことを実現し
 約束したことを果たされる方。……
 あなたを破壊し、容赦されなかった」(17)。
 今行われている主による破壊は、イスラエルの罪の故であることを受け入れなければなりません。何が主の御前に罪であったかを顧みることが求められています。
 私たちは過去の成果は顧みますが、自らの罪・失敗を受け入れることができません。それは教会でも同じです。改革派教会は80周年を迎えましたが、志・ビジョンなどは創立から振り返ろうとしています。しかし、なかなか失敗を数えることができません。今、私たちは、自らのこと、自らの教会のことを振り返り、悔い改めが主から迫られているのです。

Ⅲ.主に向かって心から叫べ
 その上に、主の御前に主を呼び求めることが許されています(18-20)。主の裁きがあり、絶望な中にあって、心からの主への叫び、主への祈りを行うとき、主は応えてくださいます。おとめシオンに対して、主の怒り・主の裁きは永遠ではありません。主は救いの道を指し示してくださいます(参照:詩編30:5-6)。

Ⅳ.真の神礼拝を回復するキリストの十字架
 しかしこのとき作者は語ります。「祭司や預言者が主の聖所で殺されているのです」(20)。神への叫びも吹き消されるような厳しい裁きが、改めて語られます。これで本当に神の助けはあるのか、と嘆きたくなります。
 しかしここで語られていることは、祭司も預言者も、主に仕え・主の働き人として働いておらず、主の聖所を汚し、主を拒絶しているため、主は聖所を含め、すべてを裁き滅ぼされることを語っているのです。今も神の言葉が軽んじられ、牧師が堕落し、その上で神礼拝が形骸化しているならば、神の聖所自身が取り去られる必要があります。
 しかし同時に、ここにキリストの十字架が指し示されていることを、私たちは受け止めなければなりません。真の預言者・真の祭司・真の王としてのキリストが十字架で死を遂げられることにより神の神殿は崩壊しました。
 しかしキリストは崩壊された神殿を3日で建て直すことを約束されました(ヨハネ2:19)。キリストの十字架の死により、汚れた預言者・汚れた祭司は死に、汚れた神殿も崩壊しました。しかしキリストが復活することにより、真の預言者・真の祭司・真の王であるキリストが統治し、真の礼拝が回復することが、人々に明らかになりました。ここで、キリストの十字架において逆転し、民に恵みが回復されることを、哀歌は指し示しています。
  
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「暗闇のただ中にある契約の希望」  哀歌3章
 
序.
 哀歌:嘆きの歌を読み続けています。3章もアルファベットの歌ですが、3章は3節が一組のアルファベットの歌となっています。

Ⅰ.現実を前にした嘆きの声
 この3章においても、著者はイスラエルが敗北しエルサレムが滅ぼされ滅ぼされ、神殿が崩壊したことを嘆いています。
「わたしは
 主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。
 闇の中に追い立てられ、光なく歩く。
 そのわたしを、
   御手がさまざまに責め続ける」(1-3)。
「助けを求めて叫びをあげても
 わたしの訴えはだれにも届かない」(8)。
「わたしの魂は平和を失い
 幸福を忘れた」(17)。
 エルサレムの崩壊は個人的な苦しみがもたらされたのではありません。主の御声に聞き従わなかったイスラエルに対する裁きです(参照:申命記28:15、20)。主なる神は義でり、罪を罰するお方です。そのため、神の民が罪に陥ったときも、主は彼らを懲らしめ、主御自身に忠実であられることが明らかにします。

Ⅱ.主は救いの民を忘れられることはない
 しかし、主なる神はイスラエルを裁きが目的ではなく、神の民としてなおも守ろうとされています。そのことは、ウェストミンスター信仰告白 第17章「聖徒の堅忍について」で明らかになります。
3.「それにもかかわらず、聖徒たちは、サタンと世のさまざまな誘惑、かれらの内に残っている腐敗の勢い、かれらを保護してくれる手段を無視すること、によって、ひどい罪に陥り、しばらくの間その中に留まり続けることがある。それによってかれらは、神の不興を招き、神の聖霊を悲しませ、自分たちに与えられている恵みの賜物と慰めをある程度取り去られるにいたり、その心は頑なにされ、良心は傷つけられ、他の人々を損ない、躓かせ、自分たちに一時的な裁きを招く」。
 また、同第15章「命にいたる悔い改めについて」では、次のように告白します。
4.「裁きに値しないほど小さな罪が存在しないのと同様に、真実に悔い改める者に裁きをもたらしうるほど大きな罪も存在しない」。
 主なる神によるイスラエルへの裁きは、滅ぼすためのものではなく、罪を悔い改めさせ、回復を求めることが目的です。
 そして19~21節の言葉が与えられます。
「苦汁と欠乏の中で
 貧しくさすらったときのことを
 決して忘れず、覚えているからこそ
 わたしの魂は沈み込んでいても
 再び心を励まし、なお待ち望む」。
 そして、22~24節の言葉と繋がります。
 「主の慈しみは決して絶えない」(22)。これは、主なる神が恵みの契約をお与えくださる愛に起因しています。主の約束は変更されることはありません。罪を繰り返すイスラエルでも、罪を悔い改め、主へ立ち戻るとき、赦しと救いが与えられます。私たちはここに希望をもって生きることが求められています。
 「主の憐れみは決して尽きない」(22)。主の憐れみは主の忍耐と言い換えても良いかと思います。罪に罪を繰り返しても、主は悔い改めを喜び、受け入れてくださいます。
 そして「それは朝ごとに新たになる」(23)と語られます。悔い改めのチャンスは一度限りではなく、朝毎に訪れます。主は悔い改めを忍耐強くお待ちくださいます。
「『あなたの真実はそれほど深い。
 主こそわたしの受ける分』と
    わたしの魂は言い
 わたしは主を待ち望む」(23-24)。
 主なる神は繰り返し「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(出エジプト6:7等)とお語りくださいます。

Ⅲ.恵みの契約に生きるキリスト者
 絶望の中に置かれたとしても、生きて働く主なる神が指し示されるとき、主を信じるときに与えられる罪の赦しと神の国の希望が示されます(25-33)。この希望があるからこそ私たちは、困難な中にあっても立ち上がり、日々歩み続けることができ、自らの罪の悔い改めと主への信仰告白が発せられるようになります(40-42)。
 絶望の中に置かれたとき、呆然としてしまいます。自分で何とかしなければと考えてしまいますが、どうすれば良いのか分からず途方に暮れてしまいます。しかし主なる神は、恵みの契約、神を信じる者に対する救いをお与えくださいます。私たちキリスト者は、この希望に生きることが求められています。
 現在に生きる私たちキリスト者は、キリストの十字架の御業が成し遂げられたことを知る新約の時代に生きています。神の国の希望が約束されています。だからこそ、私たちは、主なる神への信仰の道を、歩み続けるのです。
    
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