◆エレミヤ書  連続講解説教

「エレミヤの召命」  エレミヤ書1章
 

Ⅰ.エレミヤの働いた時代
 主なる神はエレミヤを預言者として召し出し、イスラエルの民に主の御言葉を伝える働きに任じます。「主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年のこと」でした(1:2)。ヨシヤ王は8歳で王となり、31年間、王位にありました(歴下34:1)。つまりエレミヤとヨシヤ王は同年代でした
 またヨシヤ王(BC640~609年在位)は、BC628年に偶像礼拝を禁止し(歴代下34:3)、宗教改革運動を断行し、列強諸国の中で独立と自治のために戦いました。特に神殿修復事業の過程で律法の書が発見され(BC622年)、この運動はユダ全土及びその周辺にまで広がっていきました(列王下22~23章)。つまり、エレミヤが預言者としての召しを受けた前半は、ヨシヤ王の下、ユダの民も宗教改革を行っており、エレミヤが語る言葉も、人々に通じたのではないかと考えられます。
 BC586年にユダはバビロンに滅ぼされ、バビロン捕囚となりますが、それまでエレミヤは、41年にわたってユダの民に主の預言を語ることとなります(3)。こうしたバビロン捕囚に行き着くイスラエルの罪に対する主の裁きを預言することは、エレミヤに多くの労苦を強いることとなります。
 21世紀に生きる私たちキリスト者は、まさに終末の時代に生きているのであり、主がエレミヤを通してお語りになる預言の言葉に耳を傾けることが求められています。

Ⅱ.エレミヤに与えられる主の権威
 主の言葉がわたしに臨んだ。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
 あなたを知っていた。
 母の胎から生まれる前に
 わたしはあなたを聖別し
 諸国民の預言者として立てた。」(4-5)
 主なる神がエレミヤを預言者として立て、召し出してくださることは、母の胎から生まれる前から主のご計画にありました(4-5)。
 主なる神からの召しを受けたとき、最初は否定したり、躊躇したりします。エレミヤも例外ではありませんでした(6)。
 自らの言葉が、年長者に届くはずがないと思ってしまいます。人は年を重ねると経験値があり、人の言葉を聞いても、自らの経験値で判断してしまいます。そのため年長者は説教を聴いているつもりでも、時として、上の立場に立ち、聞いた言葉を自らの経験値で判定してしまいます。
 このとき主がエレミヤに語ります(7-10)。第一に、エレミヤが人々に語るのですが、主ご自身がお語りくださいます。エレミヤには主の権威が委ねられています。主が共におられ、聖霊に満たされて語るのです。
 パウロはテモテに対して、「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」と語ります(Ⅰテモテ4:12)。主からの権威が与えられたからといって、生活を整えなければ、主からの御言葉を語っても、受け入れられません。主からの権威を授かり、御言葉を語る者として、生活を整えることも求められます。

Ⅲ.エレミヤが託された主の預言
 主なる神は、エレミヤに対して二つのことを語られます。エレミヤが生涯にわたって預言を行うことを象徴する言葉です。
 第一に、アーモンドの木を見せ、「主なる神が見張っている(共にいてくださる)」ことを語ります。ヘブライ語では、「シャーケード」と同じ言葉が用いられています。
 エレミヤは、人々に主の預言を語り聴かせても人々に受け入れられず、苦しみが伴います。それでもなお、主は常に共にいて支えてくださいます。
 もう一つは、エレミヤが預言することですが、北(バビロン)が責めてきて、ユダに住むすべての民が襲われて滅ぼされ、捕囚の民とされるということです。しかも、このことは、イスラエルの罪に対する主の裁きとして行われるということです(16)。
 異教宗教に囲まれて生きていると、主なる神を信じていると思っていても、次第に周囲の偶像に取り込まれていきます。信仰の規準が緩くなってきます。つまりここで語られていることは、現在日本に生きるキリスト者である私たちに対しても語られていると言って良いかと思います。

Ⅳ.エレミヤに対する励ましの言葉
 最後にエレミヤに対する励ましの言葉が語られます(17-19)。預言者は孤独に置かれます。理解してもらえないことがあり、矢面に立たされます。それでもなお主なる神が共にいてくださり、助けてくださいます。
 これは、預言者としての牧師、またキリスト者がほとんどいない世にあって生きる私たち一人ひとりへの主の語りかけです。
 
先頭に戻る

「説教」ページに戻る
 
 
 「主なる神を捨てたイスラエル」  エレミヤ書2章1~19節
 
序.
 主なる神は若きエレミヤに主の言葉を託し、イスラエルの民に悔い改めを求める預言者としての働きを与えました。

Ⅰ.主からの恵みと、信仰の応答としての献げ物
 若造が人々の前に行き、語ることが求められます(1,2)。多くの人々は耳を傾けることはしないことでしょう。しかし預言者は、主の言葉を人々に語ることが求められます。恥じらいがあってはいけません。

 ②主なる神への純真な信仰に生きていた
 2b わたしは、あなたの若いときの真心
 花嫁のときの愛
 種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。
 主なる神は、イスラエルとの関係を、男女の関係において語ります(2節後半)。主なる神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出し、さらに荒れ野の40年間、マナにより養い続けてくださいました。
 このとき主なる神は、イスラエルの民に、律法としての十戒をお与えくださいました。主の恵みに感謝をもって従順に聴き従うとき、主は救いを約束してくださいました。そして主なる神の恵みに生きるイスラエルに収穫の初穂を献げるように求められます。
 しかしイスラエルはそれを怠りました(3)。

Ⅱ.主から離れるイスラエル
 主なる神は改めてイスラエルの民に呼びかけます(4)。出エジプトを果たしたイスラエルの民に、主はマナを与え、40年の荒れ野の旅路を守り導いてくださいました(5)。
 しかしイスラエルの民は不平を語り(6)、金の子牛の像を造り「これこそが主なる神である」と拝んだのです(出エジプト32章)。
 それでもなお、主なる神はイスラエルの民を約束の地にお導きくださり、蜜のあふれる豊かな土地をお与えくださいました(7a)。
 しかしイスラエルの民は、主なる神を離れ、偶像を求めたのです(7節後半)。
 今に生きる私たちキリスト者も「主なる神を信じている」、「キリストを救い主として信じている」と語ります。しかし近頃、信仰の質の変化を感じます。特に中会や大会の会議において、実感します。教会は時代と共に変化します。しかし何が大切なことかを教会が確認し、固持することが求められます。それは、改革派信仰においてウェストミンスター信仰規準に生きることであり、長老主義として教会規定を学び、信仰の本質を確認し続けることです。

Ⅲ.指導者たちの責任は大きい
 イスラエルの民が変質していこうとするとき、主がお立てくださった祭司、律法を教える者たち等の指導者たちは、イスラエルの民に対して語りかけ、信仰の本質を取り戻し、罪の悔い改めを求めなければなりませんでした。しかしイスラエルの現実は彼らにも罪が蔓延していました(8)。
 主によって立てられた指導者は、それだけ責任が伴います。そのため、イスラエルの民と同じように罪を犯したとしても、それは主の御前により重たい罪となります(ウェストミンスター大教理問151)。
 今の教会も同じです。教会全体が変質しようとしているからこそ、教会において、中会や大会の会議において、信仰の本質を語り続けることが求められています。
 そして主なる神は、若き預言者エレミヤをとおして、イスラエルを告白します(9)。

Ⅳ.主なる神を捨てたイスラエル
 主なる神は、イスラエルの民に対して問いかけます(10-13)。「キティムの島々」・「ゲダル」という地名が出てきます。「キティム」とはキプロス島の地名ですが、キプロス島全体、さらには地中海の島々を指し、パレスティナからの西方全体を指し示しています。また「ケダル」とは、パレスティナからメソポタミヤまで広がるシリヤ・アラビヤ砂漠の遊牧民族のことであり、パレスティナの東方全体を指し示しています。
 つまり主なる神は、西も東もすべての国々を確認して、今のイスラエルのような状況があったのか、確認しようと語ります。
 他の国において、自らの神を取り替えること、さらには神でもないものを神とするようなことは行われたことがありません(11)。
 イスラエルの民は二つの悪、つまり主なる神を捨てたこと、そして偶像を神とし拝むことを行ったのです(13)。
 奴隷には力がないため、武力に頼り、エジプトに、アッシリアに頼ろうとするのだと、主は訴えます(18)。
 私たちは、今も生きて働かれる主なる神を信じ、主にすべてを委ねて生きているのか、改革派教会・長老主義教会を立て上げるために、主の御言葉に聴き、歴史に学んでいるか、私たちは、今改めて問われているのだと思います。
  
先頭に戻る

「説教」ページに戻る
 
「『わたしは汚れていない』と言えるか」  エレミヤ書2章20~37節
 
序.
 私たちは毎週主の日毎に神を礼拝します。これが慣れて習慣化すると、生きて働く主が不在となり、形だけの礼拝となります。

Ⅰ.主による救いから離れ偶像崇拝を行うイスラエル
 主なる神は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民に、モーセを立て主の御力による奇跡により救い出してくださいました。
 しかしイスラエルの民は、繰り返し主を裏切りました。出エジプトのとき、モーセがシナイ山に登っている最中、自分たちの神として金の子牛をつくり、拝みました。約束の地カナンに入ってからも、士師記が語るように、主なる神から離れ偶像に仕え、主による裁きがもたらされると助けを求め、主が士師を立てることが繰り返されました。
 彼らは主なる神への信仰を捨てたわけではありません。しかし次第に、周囲にある偶像に呑み込まれたのです。彼らは偶像崇拝を行っている自覚すらありません。
 私たち日本に生きるキリスト者も、意識していなければ、習慣化した偶像が私たちの生活に入ってきて、私たち自身は主なる神のみを信じているつもりであっても、偶像に呑み込まれることがあり得るのです。
 主なる神は、主との約束(恵みの契約)を、イスラエル自らは破棄して、偶像崇拝に走っているのだと指摘します(20)。
 一方主なる神は「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる 確かな種として植えたのに」とお語りになり(21)、主を信じる者は救われます。このことは、アダムとエバに与えられた原福音(創世記3:15)以来、ノア・アブラハム・モーセ・ダビデと時代を超えて変わることがありません。主はイスラエルに救われる条件を何か求めたわけではありません。しかしイスラエルの民は、主なる神を裏切り、背きました(21)。

Ⅱ.あなたは神の名を汚していないと言えるか?
 問題は、イスラエルの民が主を裏切り、罪を犯したことを自覚していないことです。
 「わたしは汚れていない
 バアルの後を追ったことはない、と」(23)。
 「わたしには罪がない」とか、「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う(35)。
 つまり、神とはどのようなお方であり、どのように礼拝すべきかを忘れ、「自分はイスラエルだ。神を信じている」と語り、実際には偶像に呑み込まれて、主を無視して生きています。問われていることは、あなた自身の信仰です。主の御前に、習慣化された偶像に呑み込まれていないか、問い直さなければなりません。

Ⅲ.信仰をチェックしよう!
 私たちは自らの信仰をチェックすることが求められています(ウェストミンスター信仰告白21:2)。大切なことは、父・子・聖霊なる神以外を礼拝しないことです(第一戒)。同時に大切なことは、第二戒「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」です(参照:金の子牛 出エジプト32章)。
 さらに、どのように神を礼拝するか、つまり礼拝の要素も大切になってきます。礼拝はマンネリ化・形骸化する危険性もあります。礼拝で大切なことは、御言葉の説教と正しい聖礼典(洗礼・主の晩餐)の執行です(参照:ウェストミンスター信仰告白7:6)。

Ⅳ.礼拝の大切さ
 第一に御言葉の説教です。御言葉の説教を語る牧師が忘れてはならないこととして、罪の悔い改めについて語ることが求められています(参照:ウェストミンスター信仰告白15:1)。また説教を聴く者は、「敬虔な畏れをもって聖書を朗読すること、神に従順に従って、理解・信仰・畏敬の念をもってなされる、御言葉の健全な説教と御言葉への傾聴すること」が求められています(同21:5)。
 第二に聖礼典です。旧約のイスラエルの聖礼典は割礼と過越でした。イスラエルの民は割礼を受け「自分たちはイスラエルである」との自負は強かったですが、過越が形骸化していました。
 つまり私たちは、主の晩餐に与ること自体が大切なのではなく、その意味を考えて理解しつつ臨むことが大切です。そのため主の晩餐に与るときは、御言葉の説教と共に与ることが大切です。キリストが十字架の死と復活を遂げられたのは、あなたの罪の贖いのためであったことを忘れてはなりません。そのために説教において罪の指摘と悔い改めが語られるのです。
 同時に主の晩餐において、主の約束である神の国の永遠の生命が提示されています。そこでは罪・苦しみ・悲しみは、すべて解き放たれ主の栄光を賛美しつつ喜びをもって主の招かれる晩餐に与るのです。
 説教により自らの罪を顧み、すでに与えられた救いの恵みとしての主の晩餐に与ることを大切にすることが求められています。
   
先頭に戻る

「説教」ページに戻る
 
 
 



 
COPYRIGHT(C) 2025 日本キリスト改革派大宮教会  ALL RIGHTS RESERVED