◆エフェソの信徒への手紙  連続講解説教

「使徒パウロからの手紙」  エフェソ1:1~2    2024.7.7
 
 序.
 夕拝では、教理としてウェストミンスター信仰告白、改革派教会の宣言(創立宣言・20周年宣言・平和宣言)を学んできていますが、その間にパウロ書簡のガラテヤの信徒への手紙を読みました。今日からその続きエフェソ書を読み始めます。
 私たちはエフェソ書がどのような意図で記されたのかを顧みることが大切です。

Ⅰ.エフェソの信徒への手紙
 「エフェソにいる聖なる者たち」(1)と記されていることから、この書簡を「エフェソの信徒への手紙」と付けられています。書名、段落の表題、さらに言えば章・節は、記された手紙にはありませんでした。後の時代に、書名や章・節が付けられ、さらに新共同訳聖書では、より分かりやすくするために、段落毎に表題が付けられています。
 また聖書が記された時代は、手書きで書き写されていました。古い時代・初期の写本には「エフェソ」が欠けており、後の時代にパウロの手紙が編集される段階で加えられたのではないかと語られています。
 それでもエフェソと記されているには、いくつかの理由があります。エフェソは、パウロが約2年半滞在していた街であり(使徒19:8,10, 20:31)、小アジアの諸教会の中心でした。そのため、パウロ書簡を編集するにあたり、この地域の教会に記された手紙として、「エフェソ」という地名が記されたのだと考えられます。
 一方、これは単に「エフェソ教会」のためだけに記された手紙でもありません。著者パウロは最初から、一つの教会だけではなく、諸教会において読まれるために記したと理解することが求められます(参照:コロサイ4:16、Ⅰテサロニケ5:27)。つまり本書は、エフェソを中心とした小アジヤの諸教会(スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア、さらにコロサイ、トロアス、アソス。参照:黙示1:11)に回し読みされたと推察することができます。
 私たちはこの大宮教会に集い、一つの場にあって主を礼拝することを大切にしています。昔から「説教とは一回限りであり、一期一会である」と語られてきました。このことを否定するつもりはありません。しかし同時に、説教が印刷され配布されてきました。私も、礼拝説教・祈祷会奨励の要約を記し、週報やHPで公開しています。さらには現在はYouTubeで公開されています。
 つまり私たちは、一つの場所に集い、説教に与ることを大切にしつつも、同時に、この場に集うことのできない人たちに対して、この説教と出会う場を提供しています。これからさらに説教者が少なくなっていく時代に、こうした道具を用いることの重要性は、さらに増していきます。

Ⅱ.手紙の意図
 ではパウロが手紙を記した意図は何でしょうか? 近隣にあるコロサイ教会に、グノーシスやその他の異端的な思想が広まっていたことが大きな要因です。
 どのような異端であったのかは、エフェソ書を読み進んでいく中、説明することとして、今回は割愛させていただきます。
 私たちは、信条教会として信仰告白と教理問答を採用しています。教理問答は聖書の基礎的知識を身につけることが目的ですが、信仰告白は私たちとは異なった聖書の読み方をする人たち(異教・異端・他教派など)に対して、私たちがどのように聖書を読み、信じているかを、弁証する文書です。
 宗教改革を経たプロテスタント教会の中には、「聖書のみ・聖書全体」であり、「聖書以外のもの(信仰告白や教理問答)をもつ必要はない」と語られる方もあります。
 コロサイ書やエフェソ書は、当時の異端的な考え方に対して、主なる神が教えた信仰を弁証している言葉です。つまり、聖書自身が信仰告白文書でり、その延長線上に、私たちの持っている信仰告白・教理問答があります。そのため、私たちの教会はウェストミンスター信仰規準を採用しています。

Ⅲ.平和を構築する教会になろう
 パウロは「…恵みと平和が、あなたがたにあるように」と語ります(2)。私たちは、平和宣言を学びました。「平和」とは、単に戦争や争いのないことではなく、ハラスメントや少数者をも受け入れること、聖書的に語れば、隣人愛であり、遜りをもって隣人に寄り添うことでした。
 教会とは、第一に、身体的・精神的・その他の障がい者、少数者、疲れている人、苦しみの中に置かれている人が、受け入れられ、寄り添う兄弟姉妹がいる場所です。
 また、信仰の一致をもって、罪の赦しと神の国の完成に向けて、歩みを行う者たちが集うことが求められます。
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「主による永遠の選び」  エフェソ1:3~6    2024.7.14 
 
序.
 前週よりエフェソ書を読み始めました。そして、手紙はパウロの信仰告白であり、誤った教えを反駁し福音を正すために、記されたことを確認しました。

Ⅰ.主なる神と人間の関係
 ある人たちは、「信仰とは、私が神を選び取り、私が神を信じること」と思っています。こうした考え方は、残念ながら今でも多くの教会で語られています。しかし、聖書はこのようには語りません。
 つまり、主なる神は天地万物を創造し、私たち人間をも創造し、今も世界を統治してくださっています。そして、私たち人間は、主の恵みによって今日も生命が与えられています。だからこそパウロは、主なる神が、天の霊的祝福で、私たちを満たしてくださると語ります(3)。私たちが神を求めるのではなく、主なる神が私たちを覚え、祝福で満たしてくださっています。
 創造者である主なる神と、神によって創造され、生命が与えられた被造物である人間の関係を、理解しなければなりません。
 私たちが神を探し求め、主なる神を信じる以前に、主なる神が、ご自身の手で創造した私たち一人ひとりを知っておられ、私たち人間が、罪の故に滅び行く姿を放っておくことなく愛してくださり、霊的な祝福で満たしてくださっています。

Ⅱ.神の一方的な恵みにより救いに導かれる私たち
 「では、神はなぜ、選びの民とそうでない民を定めたのか? 不公平ではないか」との声が聞こえてきます。
 しかし私たちは、主の創造に続く、人間の行いを省みなければなりません。人は主なる神の御前で罪を犯しました。罪の刑罰は死であり、滅びです。罪を担った人間として生まれ、日々の生活の中で主の御前に罪を犯す私たち人間は、誰一人、神の救いに生きることができないものでした。
 ですから、神が救われる者とそうでないものを選んだのではなく、本来滅び行く人間を、主なる神が愛してくださり、滅びではなく、救いへと選んでくださったのです。
 このとき、創造者と被造物の関係性をしっかりと覚える必要があります。パウロは焼き物師と器の関係で語っています(参照:ローマ9:19~24)。出来の悪い器は、普通ならばすべて割られて捨てられます。しかし主なる神は、本来ならば、罪の故に割られて捨てられるべき私たちを、キリストの十字架によって罪を贖い、罪のないものとして、素晴らしい体にしてくださり、その上で、救いへと導いてくださいました。ですから罪人の滅びの責任を主なる神に責めるのではなく、滅び行く人間を救い出してくださった主なる神に感謝すべきなのです。

Ⅲ.主によって提示されている救い
 しかも主は、天地創造の前に、それを定めてくださいました(4)。しかしこのとき、私たちは、誰が救われ、誰が自らの罪の故に滅びるのかは示されていません。
 その上で「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)とお語りくださいます。
 主の決定に不平を語り、主を拒否するのは、あなたの責任です。つまり、救いを受け入れるのは主の恵みによることですが、罪の故に主の裁きに遭うのはその人自身の罪の結果です。自らが主なる神を拒否した上で、滅びの責任を主なる神に押しつけるのは、筋違いと言わなければなりません。
 主なる神は、罪の赦しと救いを私たち一人ひとりにお示しくださっています。この真実を拒否することなく受け入れるとき、私たちは神による救いに招き入れられます。だからこそすでに救いに導かれた私たちは、まだこの真実を知らない人たちに、証しすることが求められているのです。それでもなお、主による救いを拒否する者に対して、主なる神も、私たちも責任を負うことは求められません。

Ⅳ.救いの目的:私たちが神をたたえるため
 主なる神が、私たちを救いへと導いてくださった目的が語られています(6)。創造主である神は、すべての者が死に滅びても良かったのです。しかし主は私たちを愛し、私たちの救いへと導いてくださいました。それは、救いへと導かれた私たち神の民が、主なる神を誉め讃えるためです。ヨハネの黙示録7章には、救いに導かれた者たちの天における賛美が語られています(7:9~12)。
 ウェストミンスター小教理問1
問1.人間の第一の目的は、何ですか。
答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
 主なる神による救いの提示を受け入れ、主を信じた私たちは、神の国に招かれています。そして、永遠に喜びと祝福をもって、主を讃美します。主の恵みに感謝と喜びをもって、今日も主の恵みに生き続けよう。

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「キリストによる贖いに与るキリスト者」  エフェソ1:5~7    2024.7.21 
 
 Ⅰ.創造主なる神と被造物人間の関係
 パウロは3~5節で、私たち人間は主の被造物であり、主の恵みにより救われる人が定められ、主を誉め讃えるために選ばれたことを確認してきました。滅び行く人間が、神が選ばなかったからと不平を語るのはお門違いであり、主による救いの招きに応えない者の信仰が問われています。
 つまり信仰は、自己中心に考えるのではなく、創造主である神を中心に考えることが求められます。つまり、私たちが自分の意思で生き、神を求めて信じるのではありません。主なる神が私たちに命を与え、日々の生活のすべてを整えることによりお与えくださり、今日も私たちは、主の恵みにより生かされています。
 そして罪に汚れ、死と滅びの中に陥っている人間に対して、どうするのかの決定権は、主なる神が持っておられます(参照:焼き物師と器:ローマ9章)。
 ここで一つ大きな問題が生じてきます。
 つまり私たち人間は特別な存在であり、主の被造物でありながらも、自由意志が与えられ、自らの思いにおいて生きています。
 そして、主が人を創造されたときの状態、つまり神にかたどり、神に似せて人は作られたのであり(創世記1:26)、生命の息吹が吹き入れられました(同2:7)。このときの状態であれば、人は、善であり、神に喜ばれることを望み・行う自由と力を持っていました(ウェストミンスター信仰告白9:1,2)。
 しかし人は罪を犯しました。罪の刑罰は死です(創世記2:17)。そのため、人は死ぬ者となりました。そして神と交わりが途切れ、人は神の御意思に従わなくなりました。その結果、罪の中生きる者となりました。これが自我です。人間が罪の故の自我を持っていれば、主からの御言葉が与えられても、神を信じることはありません。

Ⅱ.主の恵みに生きるキリスト者と自我に生きる者
 それでもなお、主なる神は私たち人間を愛してくださり、尊い存在と見なしてくださいました。そのため、私たちが死ぬ者ではなく、生きる者としてくださいました(6)。
ウェストミンスター小教理問答問1
問1.人間の第一の目的は、何ですか。
答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。
 主なる神を信じ、主の恵みに生きるとき、私たち人間は、自我に生きることがなくなります。つまり、罪の中、死に向かっていましたが、それよりも、神と共に生きることにより、復活と天国における生命に希望をもって生きる者とされます。
 私たちは、今、自分の意思で生き・考え・行動します。しかし、主の恵みによりキリスト者として生きるとき、主が聖霊を通して私たちに働きかけてくださいます。
 そのため、主がお語りくださる御言葉に聴き従い、主の義・聖・真実に生きるようにと変えられます。これこそ、神の子であるキリスト者の生き方であり(ウェストミンスター信仰告白9:4)、それが聖化となります。
 しかし、神を信じない人たちは、主の御言葉を信じることができません(同9:3)。そして、イエス・キリストを神の子として受け入れることができません。

Ⅲ.キリストの十字架と出会い、神の子として生きる者とされた私たち
 しかし、主なる神の恵みにより、主を証しする民とされたキリスト者は、キリストと出会い、キリストの十字架の血の贖いにより、罪の故に滅び行く体が、主なる神と共に生きる生命が与えられます(7)。
 救いの順番として、キリストの血の贖いがあり、神の子として救いの喜びが伴って、主を証しする民とされます。しかしここでは逆の順番で記されています。
 つまりパウロは、三位一体の神を念頭に、記しています。神の創造に与った被造物である人間が罪を犯しましたが、なおも主は人を選び、救いへと導いてくださいました。その感謝と喜びに、主に従って生きる者とされるのですが、神の子とされるために、罪の赦しが求められます。その働きを主なる神は、御子キリストに委ねられたのです。
 ですから主の恵みに生きるキリスト者は、主を証しする者とされるのですが、キリストによる罪の贖いに与ることが徹底的に重要になります。つまりキリストの十字架に与ることにより、罪が赦され義と認められるのです(参照:ウェストミンスター信仰告白11:3)。
 主は、私たちの救いの御計画とキリストの十字架の贖いを行い、それを御言葉において私たちにお示してくださいました。あなたがそれを受け入れ、信じるとき、主は、キリストの十字架の贖いによりあなたの罪を赦し、神の子として天国へと導いてくださいます。主がお与えくださった恵みを、感謝して、主を信じて歩んでいただきたい。
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「神の秘められた計画が示される」  エフェソ1:8~9    2024.7.28
  
 Ⅰ.主の恵みに生きるキリスト者
 パウロは「神はこの恵みを」と語ります(8)。私たちは、神の御計画、前もって定められました。そしてキリストによって神の子、救いに入れられていることが、私たちの恵みであると語ります(5-6)。
 それは、生まれながらに罪人であり、罪を繰り返す私たちの罪を贖うために、御子の血による贖い、つまりキリストの十字架により、罪を赦すことによって実現してくださいました。キリストの十字架と復活は成し遂げられ、私たちの罪の赦しと救いは、すでに完成し、確定しています。
 そして私たちは、創造主を誉め讃えるために、生きる者とされています。
 ウェストミンスター小教理問答
問1 人間の第一の目的は、何ですか。
答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。

Ⅱ.私たちに与えられた聖書
 主なる神は、聖霊をとおして私たちにキリストによる救いをお示しくださり、私たちをキリストを信じる者へとお導きくださいました(8a)。このとき私たちはキリスト者となり、信仰を告白し、神の恵みに満ち溢れた喜びが与えられます。だからこそ、真にキリスト者として生きるとき、主との交わりとしての教会・神礼拝に積極的に与り、神との交わり、主にある兄弟姉妹との聖徒の交わりに与ることを喜びとされます。
 このとき私たちは知恵と理解力が与えられ、信仰が強められます(8b)。主なる神は、この知恵と理解を私たちが得るために二つの方法を用いられます。一つは、聖霊を用いて、私たちの頑なな石の心を砕いてくださいます(内的手段)。第二に、外的手段としての聖書を私たちにお与えくださいます。こうして主は、私たちが主を信じ救われるために必要な知恵をお与えくださいます。
 私たちは、漠然と聖書を読んでいるだけでは、信仰は与えられません。私たちが聖書読むとき、聖霊の働きが与えられることにより聖書を理解し、神を信じる信仰が与えられます。
 そして私たちが聖書を理解しようとするとき、二つのポイントがあります。第一に聖書の全体像(概要)を理解することです。天地創造・罪による堕落、イスラエルの選び、奴隷と出エジプト、約束の地とバビロン捕囚、キリストの来臨と十字架、新約の教会、終末と神の国の完成です。
 第二に一つひとつの御言葉に聴くことです。これは説教に行われます。聖書が記されたのは、新約聖書でも約2000年前です。昔の物語として読んでいれば、知識の肥やしにしかなりません。しかし旧約聖書と新約聖書は、時代・文化・言葉を超えて今に生きる私たちに語りかけられた言葉として、私たちは聞かなければなりません。
 このときに聖書をどのように理解すれば良いのか、ガイドの役割をするのが、信仰規準であるウェストミンスター信仰告白、大・小教理問答です。つまり聖書を読んだとしても、自分の都合の良いように解釈していれば、私たちに語りかけられた生きた神の言葉とはなりません。

Ⅲ.秘められた計画(秘義)が知らされた私たち
 「秘められた計画を私たちに知らせてくださいました」(9)。「秘められた計画」は、「奥義・秘義」と訳されている言葉です。これはすでに語ってきた神の知恵と理解であり、私たちの救いに関わる事柄です。
 しかし主なる神は、私たち人間に意地悪をされているのではありません。むしろ、主なる神は、すべての人に伝道し、福音を伝えるように命じられています。
 しかし「奥義・秘義」である聖書の御言葉は、聖霊が働くことにより初めて理解し、主による救いを受け入れ、主を信じることができるようにされます。だからこそ、本来、罪の結果死に定められていた私たちが、秘義を理解させていただくことにより、キリストの十字架の御業の故に、罪が贖われ、救いに導かれたことに感謝をもって、受け入れれば良いのです。その上で、救いの福音を人々に伝えれば良いのです。
 「これは前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです」(9b)。神が救いを予定)したと語ると、神の冷淡さを思い浮かべる人がいるかも知れません。しかし救いの御計画は、キリストにおいて、御父・御子・御霊なる三位一体の交わりの中にあって、神の恵みによって生きる者、主を誉め讃える者を定められました。
 救いは、私たちが信じて勝ち取らなければならないものではありません。主が聖霊をとおしてお示し下さる聖書の言葉を受け入れることです。主の恵みに喜びと感謝をもって、御言葉に聴き続けていただきたい。
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「キリストにおいて完成した救い」  エフェソ1:10~11    2024.9.8
   
Ⅰ.永遠の神の御計画と三位一体の神
 エフェソ書では1:3~14が一つの区切りであることを覚えながら、今日与えられた10~11節を理解することが求められます。そして3~14節を読むとき、2つの視点があるかと思います。
 まず第一に、永遠から永遠に生きておられる主なる神が存在されていることです。この主なる神は、天地創造の前にすべてを御計画し、私たちキリスト者を選び、神の子としてくださいました。そして天地創造とその後の歴史を支配し、神の国の完成に向けて、すべてを統治されているお方です。
 そして第二の視点は、主なる神=父なる神がおられると共に、第二位格としての御子イエス・キリスト、そして第三位格の聖霊が、三位一体の神として、存在しておられ、また、それぞれの働きを担って働いておられるということです。
 三位一体の主なる神にあって、私たち一人ひとりは、生命が与えられ、今、主の御前に集められ、神の子とされています。
 このとき私たちは、自分で生きているのではなく、主なる神により創造された被造物であり、神により生命が今も与えられていることを忘れてはなりません。つまり、主の御前に生きる私たちキリスト者は、創造主であり、贖い主である主なる神の御前に生きています。そのため、私たちの生きる目的について、ウェストミンスター小教理問1は、次のように語っていました。
 問1 人間の第一の目的は、何ですか。
 答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。

Ⅱ.救いの秩序:御言葉と聖霊の働き
 そして主なる神は、罪人である私たちを、キリストの十字架により罪を贖い、罪を赦してくださいました。これは主の一方的な恵みです(7)。そのため、私たちキリスト者にとって、キリストの十字架は、救いの本質の中心に置かれることとなります。
 しかし主なる神による救いの予定と、キリストの十字架の御業は、主なる神の側の行為であり、それだけでは私たちが神を信じて、神の救いに入ることができません。
 主なる神は、この秘められた計画である救いの奥義を、聖書を通して私たちにお示しくださいました。しかし、人間は、聖書が与えられるだけでは、自らの罪を顧み、主なる神を信じることはできません。
 外的な照明である聖書が与えられると共に、内的照明、つまり聖霊が、私たちの石の心に働きかけ、石を打ち砕き、そして肉の心、つまり主なる神を知り、キリストの十字架の御業を自らに与えられた恵みとして信じて受け入れる者とされます。ここに聖霊の働きがあります(8~9)。

Ⅲ.神の国の完成
 主が定められたときに、聖霊をとおして私たち一人ひとりに働きかけられ、私たちは聖書に記された神と救いの業を受け入れるものとされ、救われるのですが、ここで「時が満ちるに及んで」と語るのは、個人の救いの時ではありません(10)。神の国の完成の時、つまりキリストの再臨と最後の審判を経て、主によって救われたすべての神の民が天国に集められる時です。
 つまり、私たち個人の救いは、主なる神を信じ、信仰を告白したときに完成するのですが、ここで「救いの業が完成された」と語るのは、すべての民の救いが完成したときのことです。
 ここで、「頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」(10)と語るのは、神の国における礼拝です(ヨハネ黙示録7:9~12)。キリストの御前に集められたすべての神の民が、救いの喜びをもって主を礼拝します。バベルの塔の建設により言葉がバラバラにされましたが、このときすべての違いが取り除かれます。

Ⅳ.約束の相続者とされた私たちキリスト者
 そして「約束されたものの相続者とされました」と語ります(11)。予定における選びを確認してきましたが、ウェストミンスター信仰規準を受け継ぐ私たちは、契約神学を信じています。信じることにより救われるという恵みの契約ですが、契約を受け継ぐことは、神のすべてを受け継ぐ遺言が与えられ、私たちキリスト者は神の相続人とされ、すべての恵みを受けることがゆるされています。
 ですから、今、私たちが主により救われたキリスト者として生きるのは、地上の生涯において、主による救いに喜んで生きるという個人的なことではなく、それ以上の目的が、天において約束されています。それが、神の相続人とされ、神の恵みをすべて受け継ぐ者とされているということです。
 神の国が完成したとき、キリストにあって、神の救いは完成するのです。
 
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 「神の栄光をたたえるために救われた」  エフェソ1:12~13    2024.9.15
 
序.
 私たちの救いは、主なる神の御計画に従って、キリストの十字架の贖いによって完成しますが、それが私たちが主なる神を信じることにより、実現します。
 このときに私たちキリスト者に約束されたものは、主の相続者となること、つまり、神の栄光を受け継ぐ者とされるのです(11)。ここまでは、主なる神による御計画が、私たちに明らかにされ実現します。

Ⅰ.神による救いに与るとは……
 そして神による救いの決定が、私たちに示され、私たちが信仰を告白するとき、私たちが神の子となることは決定しています。
 このとき私たちは、どのように対応するのでしょうか? 自らの力で、主なる神を求めようとする必要はありません。神さまを信じ続けなければならない、礼拝に出席し続けなければならない、奉仕し続けなければならない、といった「ねばならない」ことからも解放されます。神が御計画して下さったことが実行され、私たちはそれを受け入れ、信仰告白すれば良いのです。つまりキリストの十字架の故に、罪が贖われ、神の子としての天国の祝福が約束されており、感謝の心が生じます。そして、主なる神の存在を全面的に受け入れ、主がお与えくださった恵みに喜び、主の栄光を讃える者とされます(12)。
 ウェストミンスター小教理問答問1
問1 人間の第一の目的は、何ですか。
答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、
  永遠に神を喜びとすることです。
 私たちは「神を喜びとする」わけですが「永遠に神を喜びとする」と教理問答は答えます。私たちに与えられる救いの喜びは、肉の死を遂げても、復活の生命が与えられ、神の御国において永遠に継続します。

Ⅱ.御言葉中心の信仰生活
 私たちの信仰は、主なる神から救いの予定として示されるのですが、私たちが救いに入れられたことを知ることにより、主を誉め讃えた生活が始まります。礼拝中心、御言葉中心の生活です(13)。
 神の救いに生きる、神の栄光を讃えて生きるとき、私たちは神との交わりに生きることとなります。それが、神を礼拝し、神の御言葉に聴く生活となります。
 主の御言葉に聴くとき、主なる神がおられること、自分自身が神の救いに入れられていることが示されます。御言葉の説教、そして主の晩餐としての聖礼典に与ることにより、信仰が強められます。
 それと同時に、神の民キリスト者として、どのように生きれば良いのかが示されていきます。それが神の愛との関係において十戒において示されています。十戒をそのまま読んでいると、「~してはならない」と禁止事項が並んでいます。私たちは、行い・言葉・心において、十戒を守りきることなどできません。しかし主は、キリストの十字架において、あなたの罪は赦されたと宣言して下さいました。だからこそ、罪が赦されて救われた神の子は、なおも罪の中にあり、完全には十戒の戒めを守ることができません。それでもなお神の子にふさわしい歩みを行うよう、十戒を守ることにより、罪から守られ、神の恵みに生きることができます。このとき、神の愛に感謝と喜びをもって生き、同時に神に愛されている者として隣人を愛し、隣人の罪をも赦す者となるようにされます。
 その上でパウロは、「そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」と語ります(13)。私たちは、罪を悔い改め、信仰を告白することにより、洗礼を授かりますが、洗礼とは、主が私たちと結んでくださる救いの契約書です。「神の救いの予定が洗礼によって有効となり、あなたの罪を赦し、神の子として、天国における永遠の生命を約束する」と記されています救いの契約書は、神の側が、私たちに対して、一方的にお与えくださった恵みです。そのため、この契約書は無効にされることは決してありません。だからこそ神の予定に基づき恵みの契約に私たちがキリスト者として生きるとき、何の心配もいりません。

Ⅲ.信仰の確かさ
 しかし私たちキリスト者は、社会の中で生き、信仰が弱くなることもあります(参照:ウェストミンスター大教理問81)。
 「しかしかれらは、かれらが完全な絶望に沈んでしまわないようにする神の霊の臨在と支えがないままに放置されることは決してありません」(同問答後半)。神の御計画、恵みの契約は、永遠に有効であり、主なる神があなたを神から切り離すことはありません。だからこそ、予定と恵みの契約に生きる私たちキリスト者は、安らぎをもって、安心して信仰生活を送ることができます。

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 「御国を受け継ぐ保証としての聖霊」  エフェソ1:13~14    2024.9.22
 
序.
 エフェソ書は1:3~14を一つの区切りとして読むことが求められています。

Ⅰ.永遠の神の御計画と三位一体の神
 前回お語りしましたが、この3~14節を読むとき、2つのポイントがあります。
 まず第一に、永遠から永遠に生きておられる主なる神が存在されていることです。主は、天地創造の前にすべてを御計画し、私たちキリスト者を選び、神の子としてくださいました。そして天地創造とその後の歴史を支配し、神の国の完成に向けて、すべてを統治されています。
 第二に、主なる神=父なる神がおられると共に、第二位格としての御子イエス・キリスト、そして第三位格の聖霊が、三位一体の神として、存在しておられます。また、それぞれの位格が固有の働きを担って働いておられます。
 そして私たちの信仰の中心にあるのが、キリストの十字架による罪の贖いです。

Ⅱ.神による救いの御業
 そして主によって予定され、キリストによる贖いが行われた私たちの救いが、私たちに示されます。ここで働くのが聖霊です。
 聖霊という言葉は、13節・14節のみに出てきますが、8節で語られていることも聖霊の働きです。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました」(8-9)。
 私たちの石の心に聖霊が注ぎ込まれることにより、肉の心が与えられます(参照:エゼキエル36:26)。このことは、神学的な言葉を用いるならば、有効召命です。

Ⅲ.私たちの側の応答:悔い改めと信仰告白、そして洗礼
 このように聖霊の働きにより、私たちは聖書が語る神の言葉を理解し、主なる神を受け入れ、信じると同時に、自らの罪を悔い改めることとなります。そして洗礼に与る恵みに導かれます。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(13)。
 御言葉である聖書の言葉に聞くとき、ただ聖書を学ぶことに留まらず、主なる神を信じ、自らの罪の悔い改めに導かれ、それは結果として洗礼の礼典に招かれることとなります。つまりそれは、今までの生き方を180度向きを変え、御言葉によって示された主なる神を信じ、主の御言葉の養いによって生きる者とされます。

Ⅲ.私たちの信仰を強くする聖霊の働き
 自らの罪を悔い改めること・信仰を告白することは、私たち自身の自発的行動ですが、私たちが洗礼を授かるとき、同時に主なる神は、神の永遠の救いの予定を有効し、永遠に有効なものとして、恵みの契約書に聖霊で証印が押してくださいます。つまり主により救いの契約書が作成され、シールが貼られ、割印が押されるのです。
 この契約書は、神の側で管理されています。ですから私たちの救いは、神の側で実行されるのであり、決定しています。私たちは、礼拝に出席しなければならない・聖書を読まなければならない・奉仕をしなければならない・献金しなければならない、といったことから解放されています。主は私たちのこうした弱さ・罪をも知り、赦し、救いをお与えくださいます。
 こうした神の側での御業は、聖霊により私たちに明らかにされます。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14)。
 聖霊は目に見えません。言葉を発することもありません。しかし、私たちキリスト者は、聖霊をとおして、キリストが臨在されていることを確認することができます。

Ⅳ.礼拝に表される聖霊の働き
 その中心に、神礼拝があります。コロナ以後、オンラインで礼拝の配信を行っています。しかし、礼拝は聖書研究会ではありません。オンラインは、礼拝に出席することができない方の補助的手段です。
 私たちは、礼拝における御言葉の説教、そして主の晩餐の礼典、さらに祈祷により、信仰が養われます。礼拝に出席することにより、信仰が養われ、救いの確信が強くなるのは、まさにここに聖霊が共におられ、キリストの臨在に与っているからです。
 そして信仰の養いに与ることにより、私たちは、キリストの十字架により罪が贖われたこと、神の子としての神の国における永遠の生命を確信し信仰が強くされます。そして神の栄光をたたえて、讃美と喜びをもって、日々歩む者とされていきます。
 〔ウェストミンスター小教理問答〕
問1 人間の第一の目的は、何ですか。
答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです。

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「祈りの度に感謝する」  エフェソ1:15~16    2024.10.6
 
 序.
 パウロは、主なる神の御業により、永遠の救いの御計画が、一人ひとりに示され、キリストの十字架の御業を受け入れ、聖霊によって召され、神を信じ、キリスト者とされることを語ってきました(1:3-14)。

Ⅰ.会衆に思いを向ける宣教者・牧師
 ここでパウロは、手紙を書き送っているエフェソ教会に思いが行きます(15-16)。
 パウロは、手紙を書き送っているエフェソ教会ばかりか、パウロが宣教した各々の教会のこと、またそこに集っているキリスト者のことを覚えて、日々祈っていました。
 牧師は、教会に属する一人ひとりのことが気にかかります。私は筆無精ですから、なかなか直接連絡をとることはありませんが、心に覚え祈るのです。連絡を受けた方々、気になっている方々を覚え祈るのです。

Ⅱ.祈りを献げるにあたり
 ウェストミンスター小教理問答問98に、祈りが定義されています。
問98.祈りとは何ですか。
答 祈りとは、神の御心にかなうことを求めて、キリストの御名により、わたしたちの罪の告白と、神の憐れみへの心からの感謝と共に、わたしたちの願いを神にささげることです。
 私たちは、どうしても私自身の願いを祈ることが第一になってしまいます。後述するとおり、私たちの願いを神に祈って良いのです。否定されるべきではありません。しかし、これが第一、こればっかりになると困るのです。
 私たちは主の被造物であり、創造主である神により生命が与えられ、今日も生命が与えられ生かされていることを忘れてはなりません。私たちの生きる目的です。
 ウェストミンスター小教理問答問1
問1 人間の主要な目的は何ですか。
答  人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです。
 つまり私たちが生きるとき、主を悲しませることは望まれていません。主の栄光をたたえ、神を喜んで生きるとき、自ずと主の御心に適う行動を行う者とされます。
 ですから、主の御心に適う祈りを行おうとするとき、私たちが主により創造された被造物であること、キリストの十字架により罪が贖われ、救われた民であることを、忘れないことが、何よりも大切です。
 キリストの十字架による罪の贖いを覚えることが、小教理問答が語る「キリストの御名により」です。キリスト抜きには、私たちの救いはありません。

Ⅲ.何を祈るか?
 ウェストミンスター小教理問答は具体的に何のために祈るのか、3つ挙げます。
 第一に、「わたしたち自身の罪の告白」です。主が創造主であり、私たちは主の被造物であるならば、すべてを統治されている主の栄光を讃えつつ、自らの姿を顧みなければなりません。小教理では、罪の告白だけが記されていますが、主の栄光を讃えることも忘れてはなりません。
 主は私たちのすべてをご存じです。そして私たちのすべてにおいて、主の義・聖・真実において律法に適っているかを見ておられます。私たちはそれを思いにおいて、言葉において、行いにおいて、十戒で示された律法に適っているかが問われます。その日の出来事を顧みて罪を悔い改め、そして主の栄光を讃美するのです。
 第二に、「神の憐れみへの心からの感謝」です。主は、私たち人間を創造されたのですが、すべてを自分で行うことを求めておられるのでしょうか? 確かに,主なる神は、最初の罪を犯したアダムとエバに労働の苦しみを与えられました(創世記3:16-19)。
 しかし同時に、主イエスは山上の説教において語られています(マタイ6:25、30-31)。
 主が私たちの生活に必要なものを整えてくださいます。思い悩むことなく、主に委ね・祈ればよいのです。
 パウロはエフェソの教会のクリスチャンに与えられた恵みに感謝しています。主の恵みは、私たちだけに留まりません。自分自身・家族・教会・社会・国・世界……、と広がりを見せています。
 主はすべてを支配しておられます。それら一つひとつを顧みるとき、主の御支配、主の恵みに感謝することとなります。その延長線上で、パウロはエフェソ教会のために感謝の祈りを献げていました。
 最後に「私たちの願いを祈り求める」ことです。創造主と被造物である私たち人間の関係を顧みつつ、主がすべての恵みをお与えくださることを信じて、すべてを委ねて祈ることです。この祈りも、隣人・社会・世界への広がりがあり、それが執り成しの祈りとなります。
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 「心の目を開いてください」  エフェソ1:17~18    2024.10.13
 
 序.
 パウロとエフェソ教会との間には友好的な関係があり、教理に対しても理解力がある教会でした(1:3-14)。そのためパウロはエフェソを覚えて、主に感謝します(15-16)。

Ⅰ.心の目を開いてください
 そうした中、パウロはさらに「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」(17)と語ります。「心の目を開いてくださるように」と語るとき、それはまだ神を知らない者が、「わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える」(エゼキエル11:19b)と語っているように思います(参照:ウェストミンスター信仰告白10:1:有効召命)。
 私たちが信仰生活を続けていく内に、私たちは、礼拝に出席すること、御言葉の養いに与ることにより、信仰が成長していきます。しかしこのとき、主なる神が、私たちに召しを与え、主なる神を信じるように導いてくださらなければ、私たちは主を信じることも、信仰の養いも無かったのです。
 信仰の原点を見失ってはなりません。

Ⅱ.信仰の成長が求められる
 しかし同時に私たちは、日々信仰が成長していくことが求められています。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」(Ⅰコリント3:1-2)。いつまでも幼子のような信仰ではいけません。
 そのために、主なる神がどのような存在であり、主の御前に立つ自らの姿を明らかにすることが求められます。
 主なる神は、義・聖・真実において完全なお方です(参照:ウェストミンスター小教理問4)。
 一方、主の御前に立つ私たちは、行い・言葉・心において、十戒に示された言葉に照らし、罪人です。
 主なる神を知り、罪人である自らの姿が明らかにされたとき、キリストの十字架により私たち自身の罪が贖われたことが示され、私たちは、主の御前に罪を悔い改めて、遜り、神の栄光を讃え、主を証しする者とされます(参照:ウェストミンスター小教理問1)。

Ⅲ.信仰が成長するために
 ではこのとき、具体的にどのようにすれば信仰の成長を行うことができるのでしょうか。
 主なる神は御言葉である聖書を通して、神の知恵と啓示、さらには神を深く知るように導いてくださいます。そのため私たちは、主がお語りくださる御言葉である聖書、また聖書の解き証しである説に聞くことが求められます。
 このときに私たちがガイドとして用いるのが信仰規準です。ただ聖書を読む、学んでいても、ガイドがなければ誤った方向に歩み始めます。松谷好明先生(ウェストミンスター信仰規準翻訳者)は、信仰規準は、武道(柔道や空手等)における型であると語られます。基本である型を身につけて聖書を学ぶことにより、私たちは日々の生活における問題に対応することが可能となるのです。
 礼拝においては、主の晩餐(聖餐式)が行われます。聖餐式は、目に見える説教・五感で味わう説教とも語られます。御言葉の説教において確認したキリストの十字架の贖い、そして私たちが与えられる神の国の祝福を、確認することができます。
 さらに祈ることが大切です。祈るために、自らを低くし、主に委ねることが求められます。同時に日々、主が聖霊を通して私たちと共にいてくださり、私たちを養い・必要を満たしてくださるお方であることを、祈りにより確認することができます。
 つまり私たちは、目で見る説教と共に聖礼典(特に主の晩餐)の執行、さらに祈祷を通して、信仰の養いに与ります。だからこそ、教会に集うこと、主の礼拝に招かれることが大切なのです。

Ⅳ.希望というゴールを目指した信仰
 さらに私たちは、目的・ゴールである希望を見失わないことです(18)。主が私たちにお与えくださる希望とは、キリストの十字架により私たち自身の罪が贖われ、神の子として神の国における永遠の生命が与えられ、主の祝福に与ることです。
 私たちは聖書を読む度・礼拝に招かれる度に、このことを確認することが求められています。このとき私たちの石の心は日々砕かれ、心の目が開かれていきます。初めは単純に、朧気にしか理解していなかった罪の贖いと救いの御業が、次第にはっきりと見えるようにされていきます。
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「絶大な働きをなさる神の力」  エフェソ1:19~22    2024.11.3
 
序.
 主なる神が私たちを召し出してくださり、御言葉・祈祷・礼典により信仰の養いをお与えくださり、そして神の御国の約束が与えられています(15-18)。

Ⅰ.主の絶大な働きとしての人の救い
 それを受けて、「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」と語ります(19)。
 主の御力は絶大なわけですが、それが私たち信仰者に対して働きます。主は天地万物を創造し、その時から永遠に至るまで、世界を統治しておられます。世界の歴史のすべてが主の御業です。ノーベル賞を受賞するような立派な発見・発明も、主の統治の表れです。
 しかしパウロは、私たち一人ひとりが自らの罪を悔い改め、信仰を持ち、主に従う者とされることが、主の絶大な働きであり、これ以上大きなことはないと、語ります。
 このことは、主なる神による人間の創造において、すでに示されいたことです(創世記1:26~27、2:7)。人は、神にかたどり、神に似せて造られました。そして神の命の息が吹き入れられました。そのため、唯一、神との交わりに生きる者とされました。これが神を礼拝・讃美することです。すべての被造物の中でも人間は特別な存在です。
 この特別な存在として主によって創造された人間が、罪を犯し、主から離れていきました。このことは、神にとって非常に悲しむべきことです。こうした中、主は絶大な力を発揮し、人間を滅びから救い出してくださいました。滅び行く人間を、一人またひとりと救い出すことが、主の最大の目的であり、御業です。
 そのために神の独り子であるイエス・キリストが人として遣わされました。そして、キリストの十字架と復活によって人の罪を赦し、救いを成し遂げてくださいました。
 この主による救いの御業が、罪の故に滅び行く私たちに対して、御言葉である説教により示されました。石の心であり、滅びに一直線であった私たちに、主による救いが、聖霊をとおしてもたらされました。これこそが、神の絶大な働きであり、これ以上に大きな出来事はありません。
 このために、ここに教会が建てられ、一人またひとりと神を信じ、救いの民となることは、主なる神にとって、掛け買いのない素晴らしい行為です。

Ⅱ.キリストによる支配を忘れるな!
 そして神は、この絶大な御業を成し遂げるために、御子であるキリストをこの世にお送りくださいました。そして十字架に明け渡してくださいました(20-21)。キリストは神の御力により、十字架の死から甦り、復活することが許されました。
 このお方が今、天の神の右に座しておられます。まさに主なる神の御力・権力が、御子であるキリストに与えられたのです。
 この世における国々、王・支配者は、世界を支配し、自らの権威を世界に示そうとします。その結果、権力闘争や迫害が行われ、ときに戦争も行われます。独裁者が登場するのは、この罪から生じる権力欲を持っているからです。そのため、どれだけ科学技術が発展し、世界の状況はインターネットによりつぶさに分かるようになっても、独裁者も戦争もなくなることはありません。
 これは主なる神、救い主イエス・キリストを忘れた結果、知らない結果です。
 祈祷会でイザヤ書を読み進んでいます(イザヤ45:4-5、9)。イスラエルの民は、主の選びの民とされながらも、主なる神を忘れ、偶像崇拝を行い、淫らな生活を送ります。そのため、主は「あなたは(わたし:主を)知らなかった」と強調されます。そして「災いだ」「あぁ」と嘆いておられます。
 主なる神の右に座しておられるキリストが、支配・権威・勢力・主権の上におられます。私たちは、この主の御前に罪が赦され、救われました。だからこそ私たちは、主なる神から離れてはなりません。主がどのようなお方か知らなければなりません。

Ⅲ.主の御業のために教会が用いられる
 そのために私たちは、教会に寄りすがる必要があります。教会で、主の御言葉が解き明かされ、そこに集う一人ひとりが主の絶大なる働きにより石の心が砕かれて、肉の心を取り戻し、救いへと招かれるのです。
 そのために立てられた御言葉に仕える牧師の働き、説教は、とてつもなく大きな勤めであることを痛感させられます。
 私たち一人ひとりが、主の絶大な御業に与り、罪の赦しと救いへと招かれました。そして同時に、新たに教会に加えられる人たちを目撃することにより、主の絶大な御力が示されています。
 
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「教会はキリストの体である」  エフェソ1:22~23    2024.11.17
 
序.
 夕べの礼拝では、エフェソ書の学びを続けています。3~14節で、三位一体の神のダイナミックさが示され、15~18節では、主なる神が私たちを召し出してくださり、御言葉・祈祷・礼典により信仰の養いをお与えくださり、そして神の御国の約束が与えられていることを確認してきました。

Ⅰ.キリストを頭とする教会に属する
 21節では、「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と語られていました。主なる神による支配が、神の民とされる私たち一人ひとりに表されました。このとき主は、キリストによる罪の贖いにより、私たちの罪を赦し、神と和解してくださいますが、同時に、キリストを頭として私たち神の民が集う場として教会をお与えくださいます。
 しかし、私たちは今、教会において、キリストを見ることも、キリストの声を聞くことはできません。
 カトリック教会であれば、ミサにおいて、「これはキリストの体である」、「これはキリストの血である」と聖定の言葉が語られ、聖体拝領することにより、キリストの肉を食し・キリストの血を飲むと語りますが、私たちの理解は異なります。
 キリストは今、天に、父なる神の右に座しておられるのであって、教会の中に肉体を持っておられることはありません。
 パウロが、「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」と語りますが、キリストは霊的に、聖霊をとおして教会に臨在されています。キリストの臨在は、神の御言葉である説教、洗礼と主の晩餐の礼典、祈祷において、聖霊をとおして指し示されています。このときに私たちは、信仰が与えられ、罪を悔い改めます。そして洗礼を授かり、神の子として、キリスト者とされます。

Ⅱ.救いの喜びをもって教会形成のために奉仕するキリスト者
 このときに、キリストにあって生きる者とされます(参照:ローマ12:1)。信仰が与えられ、神の民とされた私たちは、御言葉の養いと聖餐と祈祷の恵みにより、神に喜ばれる生活を求めるようにされていきます。
 このときに、それぞれに与えられた個性・賜物を用いて、主に仕え、教会で奉仕する者となります(参照:ローマ12:3b~8)。教会で各々が交わり、奉仕を行うとき、ここにキリストが宿ります。キリストの体としての教会が形成され、教会が成長します。
 このときに弱さを担っている者たちに対する愛の業が行われていきます。それは教会内で行われ、弱さを担う伝道所において行われ、また自然災害などの被災者に向けられていきます。
 キリストの教会ですから、この日本キリスト改革派大宮教会だけのことを考えていてはなりません。改革派教会全体、特に東部中会であり埼玉東部地区を覚えます。キリストの体を強くするために、中会・大会での諸行事が行われており、こうした働きにも積極的に関わっていくことになります。
 今、教会が高齢化し、また縮小傾向です。すると教会も内向きになっていきます。しかし私たちは内向きになってはなりません。苦しみが伴いますが、なおも中会・大会に奉仕する教会となることが必要です。

Ⅲ.見えない教会に属するキリスト者
 ウェストミンスター信仰告白 第25章 教会について 1.「目に見えない、公同的あるいは普遍的教会は、その頭であるキリストのもとに、過去・現在・未来を通じて、一つに集められた選びの民全員から成り、すべてにおいてすべてを満たしているキリストの、花嫁・体・満ちておられる場、である」と告白します。私たちの属している日本キリスト改革派大宮教会は目に見える教会です。それに対して、天国、すべての神の民が集められる神の国にある教会のことを、「目に見えない教会」と語ります。
 目に見えない教会は、罪が取り除かれ、義・聖・真実であり、永遠です。もう苦しみもなければ、悲しみもありません。頭であるキリストが支配しておられます。
 ここには、アダムとエバの時代から旧約、イエス・キリスト、新約の世界の教会に生きる、民族、言葉、文化、身分、性別、障がいの有無に関わらず、すべての神の民が集います。完成された神の国に、私たちも招かれています。

Ⅳ.キリストにある希望に生きる
 神の国こそが私たちキリスト者のゴールです。今、様々な苦しみがあろうとも、キリストは私たち一人ひとりを慰めてくださいます。だからこそ、教会が小さくなり、今後、教会の存続さえ問題とされる時代であったとしても、なおもキリストにあって希望が与えられています。
 現実の問題に関しては、現在立てられている教会が、主から与えられた賜物を用いて、さらに主なる神が聖霊をとおして導いてくださることを信じて、解決の道を探らなければなりません。そうすることにより、教会に集う一人ひとりの不安を取り除き、希望に生きる教会としなければなりません。弱さ、足りない部分を、キリストが担い、解決してくださることを信じ、主にすべてを委ねた信仰生活を送り続けることが求められています。
 
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「私たちを愛し、生かしてくださる神」  エフェソ2:1~6    2024.11.24
 
 
 Ⅰ.罪のために死んでいた私たち
 パウロは最初に、「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と語ります(1)。「弱っていた」、「罪を犯す可能性のある存在であった」ではなく、「死んでいた」です。私たちは、良いことをまったくできない状態であったと、パウロは語ります。
 キリスト教会は、全的堕落・全的無能力を受け入れ、神の一方的な恵みにより罪の赦しが与えられ、救われたことを信じるか(参照:カルヴィニズムの5特質)、そうでないか(つまり自力救済を求めなければならないか)に分かれます。
 全的堕落を受け入れなければどのような信仰になるのか。いくつかあります。
 ①律法主義:十戒に代表される律法を守ることにより救われたと語る人たちです。主イエスはユダヤ人たちの律法主義を、徹底的に非難され排斥されました。
 ②ペラギウス主義:これは律法主義も含まれるかもしれませんが、人間は最初(生まれたとき)、良いことを行うことも、悪いことを行うこともできたのだと考えます。そして、神を信じる人たちは、良いことを行い、救いを勝ち取ったと語ります。
 ③半ペラギウス主義・アルミニウス主義:人間は良いことを行うことはできないが、神を信じること、神を選び取る判断力は与えられており、自分で神を信じた結果、救われるのだと語ります。
 パウロの語る「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」という言葉を受け入れるには、全的堕落、全的無能力を受け入れざるを得ません。その結果が2・3節で語られています。主を信じることもなく、主の御言葉に従わずに生きることにより、神の怒りを受け、死・主による裁きを逃れることができない者となります。

Ⅱ.神の恵みによる救い
 では、どのようにすれば救われる者となったのか。私たちの救いの根底にあるのは、「憐れみ豊かな神」です。この神が、「わたしたちをこの上なく愛してくださった」結果です。「あなたがたの救われたのは(神の)恵みによるのです」(4-5)。
 「無条件的選び」であり「不可抗的恩恵」です(参照:カルヴィニズムの5特質)。神学用語を覚える必要はありませんが、私たちが救われたのは、神からの一方的な恵みであって、私たちの側で何か良い行いを何か一つでも行ったからではありません。
 私たちは主なる神を信じるように、聖霊を通して働きかけがあり、同時に御言葉が示されることにより、神を受け入れ信じる者とされたのです。不可抗的恩恵と語れば、私たちが神を信じることが強いられたように聞こえるかも知れませんが、神から示された救いを拒否することなく、救いの恵みを得る祝福に満たされたのです。

Ⅲ.すでに神の国に着かせていただいている!
 最後に、「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(6)。ここで時制に注目していただきたいです。過去形です。
 私たちは、キリストの十字架の贖いにより救われていることを信じることにより、信仰告白して、洗礼を授かりました。
 このとき、アルミニウス主義の人たちは、「信じることをやめると、救いから漏れる」と語ります。そうであるならばどうでしょうか?神さまを信じ続けなければならない。礼拝に出席し続けなければならない。奉仕・献金……。どこまでいっても、救いの確信は得られません。
 しかしパウロは、肉の死からの復活と天の王座(神の国・天国)に着くことを過去形として語ります。つまり、信仰を告白し、洗礼を授かった私たちは、今、キリストの復活に与り、私たちの復活も決定しています。神の国の祝福がすでに与えられています。だからこそ私たちの信仰は守られるのです(聖徒の堅忍)。

Ⅳ.神の国に属する者として、今与えられている恵み
 ウェストミンスター大教理問答問84では、目に見えない教会の会員が、この世において教授する恵みについて告白します。「目に見えない教会」とは、「神の国・天国」のことです。大宮教会という目に見える教会に属する私たちは、天国の教会の会員でもあります。「キリストにあって、かれが完全に所有している栄光にあずかるものとされており、そしてその保証として、神の愛の自覚・良心の平和・聖霊による喜び・栄光の希望を享受します」。神の国の民として、この世にあっても、御言葉の養いに与り、救いの希望が与えられ、恵みの中、信仰生活を歩み続けることができます。

  「私たちを愛し、生かしてくださる神」エフェソ2:1~6 (11/24)資料


カルヴィニズムの5特質(TULIP)(参考:ドルト信仰規準)

(1)全的堕落(Total depravity)
 堕落後の人間はすべて、全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
   vs 律法主義
   vs ペラギウス主義
   vs 半ペラギウス主義、アルミニウス主義

(2)無条件的選び(Unconditional election)
 神は、無条件に特定の人間を救いに選んでいる。他の人たちは自らの罪の結果、滅びる。
信仰は自分で勝ち取るものではない。

(3)限定的贖罪(Limited atonement)
 キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。

(4)不可抗的恩恵(Irresistible grace)
 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。

(5)聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)
 いったん予定された人間は、最期まで信仰に堅く立って耐え忍び、必ず救われる。
信仰が弱まるとき、ときに教会から離れることがあっても、主の加護の内にあり、信仰が守られ、教会に帰ってくることが約束されている。
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「神の賜物としての救い」  エフェソ2:7~10    2024.12.1
 
  
 序.
 前回、完全に罪人である私たちを主なる神が一方的に聖霊によって召してくださり、救い、神の国・天国が約束されていることを確認しました。神の愛の故です。

Ⅰ.主による御計画・約束・成就
 主は、私たちを罪から贖い、神の国における永遠の生命へと御計画し、約束してくださっていますが、主の計画は、実際に実行に移されます。そのため主は、私たち一人ひとりに御言葉をお語りくださり、聖霊により、理解し・受け入れ・信じるように導いてくださいます(7)。

Ⅱ.神の賜物としての信仰
 しかし、教会に来ること・神を信じて洗礼を受けること・キリスト者になることは、「自分の意志だ」と、語る人たちがいます。前回キリスト者は、自分は完全に罪に汚れて良いことを行うことはできない・神を信じることもできないと考える者と、そう考えない者とに、分かれるとお語りしました。後者の人たちは、「自分の力で教会に来て、神を知り、自分で信じた」と語ります。
 しかしパウロは「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」と語ります(8)。私たちは聖霊の働きにより主を受け入れる者とされました。
 パウロはさらに「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」と語ります(9)。行いによる義(律法主義)、信じる行為による義を否定しています。私たちは神からの一方的な恵み、賜物として与えられた信仰を受け入れ、感謝の生活を始めることが求められています。
 肉に死に、滅び行く者であった私たちが、主の恵みにより、キリストが復活を遂げられたように、死んでも復活の生命が与えられ、主の恵みと祝福により、神の御国における祝福に満たされる者とされました。ここには主なる神の働きがあるのであって、私たちは自らを誇ることなど、できません。

Ⅲ.「ねばならない」から解放された礼拝生活
 私たちがこの神の恵みを受け入れるにあたり忘れてはならないことは、「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた」(10)ことです。私たち人間は、神の被造物であって、神の恵みにより自由意志が与えられているのに過ぎません。このことを理解することにより、私たちが神の恵みにより日々の生活が守られ、そして救いもまた、神の恵み、神からの賜物であることを受け入れることができるようになります。
ウェストミンスター信仰告白 第14章 救いに導く信仰について
1.選びの民がかれらの魂の救いのために信ずることができるようにされる、信仰という恵みの賜物は、かれらの心の中におけるキリストの霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出される。
 神から与えられる信仰という賜物は、通常、御言葉の宣教によって生み出されます(ウェストミンスター信仰告白14:1)。だからこそ、私たち自身が御言葉の養いにより信仰が与えられたように、私たちは伝道すること・証しを語ることが求められています。
 しかし同時に、これは私たちの一生懸命さではありません。主によって与えられた賜物を用いて行うことです。このとき主が、私たちの体を神の器として、私たちの賜物を主の働きのために用いてくださいます。
 だからこそ、伝道・証しは「行わねばならない」ことではなく、必要に応じて語れば良いのです。主からの賜物であり、必要な言葉も主が備えてくださいます。
 主は、私たちの日々の信仰生活において、御言葉の宣教・聖礼典の執行・祈りにより信仰の養いをお与えくださいます。
 信仰は一度告白すれば完成するものではありません。信仰は弱まることがあります。そのため、週に一度、主を礼拝することが求められています。その中心に、御言葉の宣教・聖礼典の執行・祈りがあるのです。
 特に御言葉の宣教が大切です。説教は、常に聖書の全体像を確認しつつ、その聖句が語る言葉を確認することが求められます。
 真に御言葉の説教が語られると、主は聖霊をとおして私たちに理解する力をお与えくださり、聖礼典の執行により、信仰を強めてくださいます。
 また日々の祈りもまた同様です。日々の出来事と御言葉が結びつき、主の恵みが示されていくこととなります。また、願望の祈りが、聞き届けられ、適えられるとき、主が共におられ、私たちに生命を与え、恵みをお与えくださることが示されます。
 自分で教会生活を続けなければならない、奉仕しなければならない、献金しなければならない、伝道しなければならない……、となれば、信仰生活が苦しくなります。信仰は主の賜物として与えられています。行いではありません。「ねばならない」から解放されなければなりません。
 主はいつも、私たちと一緒にいてくださいます。私たちを見守り、私たちのために、執り成しの祈りを献げ続けてくださっています。そして礼拝の場にこそ、主の満ち満ちた恵みが備えられています。教会に来ることのできる恵みをお覚え頂きたいと思います。このとき主は、私たちの信仰を養ってくださいます。
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「キリストの血による救い」  エフェソ2:11~13    2024.12.8
 
  
序.
 パウロは2章に入り、あなた方を死・滅びから主の愛により、キリストの十字架の贖いにより救い出したこと、そのために、主があなたがたに一方的に救いの恵みに満たしてくださったことを語ってきました。

Ⅰ.ユダヤ人キリスト者の存在
 パウロはエフェソの信徒たちに訴えます。「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました」(11)。パウロが働いていた頃は、このエフェソを初め、地域一帯に、ディアスポラと呼ばれる約束の地を離れたユダヤ人がある程度おり、また教会の中にも、ユダヤ人キリスト者がいました。
 そしてユダヤ人にとって、肉においてイスラエルに属しているかどうかではなく、割礼を受け、イスラエルに数えられているかが大切なことでした。そのため、ユダヤ人キリスト者は、神を信じる者は割礼を受けた上で、洗礼を授かることを求めました。
 異邦人が教会に加えられるとき、割礼が必要であるか否かについて、エルサレム会議で話し合われました(使徒15章)。そして会議では、 「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」とヤコブが語り、決議されます(15:19-20)。つまり会議は、「異邦人に割礼を施す必要はない」と結論づけました。この決議は現在の教会でも有効であり、私たちが割礼を求められることはありません。

Ⅱ.キリストに出会う前
 続けてパウロキリストと出会う前のことを語ります。「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(12)。ここで、5つのことを確認します。①キリストとかかわりがなく、救われる概念すらなかった。②イスラエルの民に属しておらず、イスラエルに与えられる祝福を受け継ぐことがなかった。③約束を含む契約と関係がなく、恵みの契約の外にいる存在であった。④この世の中で希望をもつことがなかく、神の救いと永遠の生命の希望からかけ離れた生活をしており、肉の死と滅びに向かう生活を送っていた。⑤主なる神を知らず偶像の神に仕えていた。
 つまり、イスラエルの神を知らない異邦人として生き、さらにイスラエルに指し示されたキリストによる救いを知らずに生きていた。このような生活の中には、生きる希望はないと言えるであろう。

Ⅲ.キリストに結びつく
 「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13)。しかしいま、教会に来ることにより、キリストが示され、キリストの十字架の贖いに与る者とされ、神に近い者とされ、神の救いに入れられたのです。
 そうすると11~12節のことがすべて逆転します。⓪異邦人→霊によるイスラエルとして、洗礼によりキリストに結びつく者とされました。①キリストとかかわりがない者→キリストと結びつく者とされた。②イスラエルの民に属していない者→霊によるイスラエルとして、恵みの契約に属する者とされた。③約束を含む契約に関係ない者→恵みの契約に入れられた者とされた。④この世の中で希望を持たない者→この世においても、神の国においても、生命の希望・救いの喜びの希望に生きる者とされた。⑤神を知らずに生きていた→神を信じ、神と共に生きる者とされた。
 ここで大切なことは、異邦人かイスラエルかの問題ではありません。キリストに結びつくことです。キリストに結びつくことにより、旧約に属していたイスラエルも、新約に生きる異邦人も、キリストにより罪の贖われ、神により救われ、永遠の生命にいたる恵みの契約が付与されました。

Ⅳ.聖礼典の恵み
 この神の救いに入れられたとき、私たちは自らの罪を悔い改め、信仰を告白し、洗礼の恵みに与ります。ウェストミンスター大教理問答162では、「聖礼典とは何ですか」と問うていますが、答えの中で一番大切なことは神による恵みの契約に入れられ、神の刻印が押され、キリストの十字架による罪の贖いと救いは決定している事実です。だれもキリストと私たちを引き離すことはできません。私たちは、この神の恵みの契約に入れられています。契約書に神による署名・捺印が押されています。ここにキリスト者としての希望と喜びがあります。
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「神と和解されたキリスト者」  エフェソ2:14~18    2024.12.15
 
 
序.
 前回、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者とは関係なく、ただキリストの血、つまりキリストの十字架によって、罪が贖われて、皆がキリスト者となったのだということを確認しました。

Ⅰ.ユダヤ人と異邦人との分断を解消し、平和を築く
 そしてパウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(14)と語ります。
 つまりユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の分断が解消され、平和がもたらされます。パウロは、キリストの十字架によって、この分断が無くなり、平和が到来しました。
 「平和」とは、単に戦争・争いがない社会ではありません。実際に争いがなくても、両者の間に溝があり交流がなければ、そこに平和はありません。主が私たちにお与えくださった平和は、主を愛すること、そして隣人を愛することによって形成され、愛の交わり・交流を行うことにより、初めて「平和」を築くことができます。
 つまり、ユダヤ人と異邦人の間で、キリストにあって平和が実現したというとき、互いに寄り添い交わり、互いの違いを理解し違いを認めた上で、理解し合うこと、赦し合うことが求められます。
 今、世界中で戦争や争いが絶えないのは、寄り添うこと、話し合うことを行わなくなったからです。インターネット空間で批判し合い、直接会い話し合わないからです。
 だからこそ私たちは「戦争がなくなるように」と祈る前に、近くにいる隣人を愛することが大切です。つまり、家族・社会・地域・国内・世界において、互いの違いを尊重し、話し合うことから始めなければなりません。それがキリストにあって「敵意という隔ての壁を取り壊す」ことです(14)。

Ⅱ.キリストの贖いに基づく罪の赦し
 そしてパウロは、「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」と語ります(15)。ユダヤ人は旧約聖書に基づく律法に従って生きようとしてきました。しかしキリストはユダヤ人たちの誤りを指摘し、ユダヤ人たちは律法主義者であると断罪しました。
 これは律法に生きることと、似て非なるものです。律法の目的は、律法を守ることで救いに入れられていることを自認することではありません。道徳律法において、神の御前に罪人であることに気付き、神の愛による罪の赦しに生きることです。罪があるけれども主なる神を信じることにより、罪が贖われ、救いが与えられたのです。
 キリストにあって「律法が廃棄された」(15)とは、律法の効力が無くなったのではなく、本来あるべき律法に対して、新たな規則と戒律を定め、それを守るように求めることを、キリストが廃棄されたのです。
 キリストは十字架にお架かりになりました。キリストの十字架は、罪人の罪の贖いです。キリストの十字架は、ユダヤ人キリスト者のため・異邦人キリスト者のため・そして今に生きる私たちのためでした。
 その意味で、ユダヤ人も異邦人も関係なく、キリストにあって罪が贖われ、赦され一つなんだと、パウロは語ります。

Ⅲ.同一の契約を示す旧約と新約
 旧約の時代、割礼や生け贄が求められました。それは、救いの実態であるメシアが、まだ来られていなかったからです。割礼に与ることは、「あなたは神の約束にあるイスラエル」であることのしるしです。しかしエルサレム会議では、キリスト者は水の洗礼を授かることにより、罪の赦しと神の民であることが証しされ、改めて割礼は不要であることを確認しました(使徒15章)。洗礼が、割礼に代わったのです。
 また生け贄は、動物において罪の贖いを確認していたのですが、本来、キリストの十字架において確認することであって、キリストの十字架と復活が示されている現在、動物の生け贄は不要となりました。
 だからこそ、新約の教会・異邦人の教会においては、割礼は水の洗礼に代わり、動物の生け贄は不要となり、過越の食事は主の晩餐に受け継がれたのであり、キリストの十字架にあって同じものを指し示しています(参照:ウェストミンスター信仰告白7:6)。
 旧約の教会(ユダヤ人)と新約の教会(異邦人)は形式が異なりますが、救いの本質は同一であり、一つの契約「恵みの契約」です。

Ⅳ.愛の律法に生きるキリスト者
 私たちはキリストの十字架が与えられ、神の愛が示されました。だからこそ神の愛と救いに感謝して、主なる神を信じて、主を愛し、主の教えに従います。
 そして、主の愛に基づいて、違いがある者・敵対する者であっても、キリストにあって愛し合い、互いに理解し、赦し合い、和解して平和を築く者となることが求められています(参照:マタイ22:37~40)。
 
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「キリストを土台として生きる」  エフェソ2:19~22    2025.1.5
 
  
序.
 パウロは、異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者と何の差もなく、両者が和解し、平和を実現して、一つのキリストの体を作り上げるのだと語ってきました。

Ⅰ.あなたがたは神の家族
 そのためパウロは、エフェソ教会にいる異邦人キリスト者に対して、「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」と語ります(19)。キリストの十字架によって罪が贖われたということでは、ユダヤ人キリスト者とまったく同じ聖なる民なのです。
 ユダヤ人がイスラエルとして神の民とされていたのは、メシアである主イエスが来臨を予定されていたからであって、ユダヤ人が神の民として相応しいからではありません。ですからここでパウロは、異邦人キリスト者もまた神の家族である宣言します。

Ⅱ.私たちの信仰の土台
 主イエスは山上の説教で「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。…岩を土台としていたからである」と語ります(マタイ7:24-25)。このとき主イエスは、私たちの信仰の土台は、主イエスが語られる神の御言葉であると語られました。
 ここでパウロは、「使徒や預言者という土台の上に立てられている」と語ります(20)。使徒とは新約聖書、預言者とは旧約聖書のことを指し示しています。つまりキリスト者である私たちは、旧・新約聖書を土台とする信仰が求められています。
 この信仰の土台のかなめ石、つまり一番の中心はキリスト・イエスご自身であり、キリストの十字架と復活です。キリストの十字架の御業を受け入れるすべての者が、キリストの十字架の御業の故に、罪の赦しが宣言され、神の子とされました。
 ウェストミンスター小教理問答問2
答 旧新約聖書に含まれている神の言葉は、どうしたら神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことができるかについて、わたしたちを教え導く唯一の規範です。
 「神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶこと」とは、小教理問1が語る「人間の生きる目的」です。これを実現するために、旧・新約聖書が、私たちに与えられています。

Ⅲ.聖書全体・教理全体
 このときに大切なのが、旧・新約聖書の全体像を理解すること、またどこ(神の国)に向かって語られているかを理解することです(別紙参照)。
 また、ウェストミンスター信仰規準の構造も、図で示しています。聖書に何が語られているかを、構造的に書き直したものとなりますが、神ご自身のこと(三位一体なる神)、教会であり御言葉としての聖書が私たちに与えられ、私たちの生活として、悔い改めと信仰に始まり、律法・終末と神の国が示され、生きる目的があります。
 この聖書の全体像と聖書から示される教理の全体像を理解することにより、私たち一人ひとりの信仰が養われます。

Ⅳ.建物全体は組み合わされ成長する
 「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」(21)。一人ひとりの信仰の養いが与えられるとき、キリスト者の集まりである教会も成長します(参照:ローマ12:4-8)。
 つまりキリスト者一人ひとりの信仰が成長するとき、それぞれに与えられた賜物が組み合わされることにより、各々キリストに結ばれて一つとなり、教会が成長します。
 そしてこのとき「主における聖なる神殿となります」(21)。一人ひとりの信仰が強まり、教会全体が成長することにより、神の臨在がさらに明らかになっていきます。
 私たちは、信仰の成長・教会の成長と語ります。「成長」とは、量的なものではなく、質的向上が大切です。礼拝出席者が増えたとか、信徒が増えたということではなく、一人ひとりの信仰が養われ、教会役員として、あるいは様々な奉仕者として用いられていくことかと思います。
 しかし一人ひとりの信仰が成長し、教会が成長しているとき、キリストが内在し、ゴールに達したということでもありません。教会員一人ひとりの信仰の養いが行われ、教会が霊の働く神の住まいとなっても、教会に集う一人ひとりは罪赦された罪人であり、日々罪を繰り返す弱さを担っています。そのため、教会もまた、完全聖化することはありません。罪があり、弱さがあります。
 そのため、パウロがここで語ることは、私たちの目指すところでありますが、同時に、これらが達成するには、キリストの再臨と神の御国の完成を待たなければなりません。
 
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「キリスト・イエスの囚人パウロ」  エフェソ3:1    2025.1.12
 
   
序.
 今日からエフェソ書3章に入ります。
 「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……」(3:1)。

Ⅰ.異邦人キリスト者のため
 今日は「囚人」という言葉に注目したいと思います。ここで「キリスト・イエスの囚人」と語られていますが、実際にはローマで投獄されていました。そのためこのエフェソ書は、フィリピ・コロサイ・フィレモン書と共に、獄中書簡と語られています。
 またパウロは、「あなたがた異邦人のために囚人となっている」と語ります。2章において、ユダヤ人と異邦人とは同じ神の民であり、キリストにあって一つになっていることを語ってきました。
 ユダヤ人と異邦人の関係について、一つはユダヤ人キリスト者からの反発を買いましたが、このことはエルサレム会議において解決しました(使徒15章)。異邦人キリスト者に割礼を施す必要はなく、洗礼によりユダヤ人キリスト者と同じ神の民となったことです。このことをパウロはエフェソ書2章において確認してきたのです。
 しかし主なる神を信じていないユダヤ人にとって大きな問題として残りました。そのために、ユダヤ人たちはキリスト者を逮捕・迫害します。パウロ自身も、復活のキリストと出会う前、キリスト者を逮捕し、殺害を行っていました。そしてユダヤ人たちは、パウロを逮捕します。ただ、パウロ自身がローマ市民であることを告白したため、ローマにおいて裁判を受けるためにローマに移されたのです。
 つまりパウロは、エフェソにいる異邦人キリスト者に対して、キリストにあって、ユダヤ人も異邦人も関係なく、神の民であることを語ると同時に、あなたたち異邦人キリスト者が生きるために、自分は囚人となっているのだと語っているのです。

Ⅱ.キリストとの出会い
 パウロは「キリスト・イエスの囚人」であると語ります。パウロは自分を語るとき、「キリストの僕(奴隷)」(フィリピ1:1)、「キリストに仕える者(船こぎ奴隷)」(Ⅰコリント4:1)、「キリストに仕える者(給仕・ディアコノス)」(Ⅱコリント11:23)と語ります。ここで語る「キリストの」とは、「キリストのための」ではなく、「キリストが主人として所有しているところにあって」です。
 パウロはキリストを信じ、キリストを主人として仕えるが故に、逮捕されました。私たちは、キリストと出会い、キリスト者となり、キリストの奴隷・囚人となる以前のことを考えなければなりません。
 キリスト者となっていない人たちは、自由に生きていると思っています。つまり人間として生まれてきた以上、誰もが死を迎えると信じています。しかし、これこそが罪の奴隷に生きていることです。「死」は罪の刑罰であり、罪を犯さなければ死はありません(参照:ウェストミンスター大教理問27)。
 しかし十字架と復活のキリストと出会ったとき、私たちは肉に死んだとしても、キリストが十字架の死から復活されたように、私たちも復活の体が与えられ、キリストの再臨と最後の審判により罪の赦しが宣言され、神永遠の生命と祝福が与えられます。
 そしてキリストの十字架にあって与えられた神の御国の生命を覚えるとき、キリストの奴隷・囚人となり、信仰の戦いをすることができるようにされていきます。

Ⅲ.迫害にあってもキリスト者として生きる
 十戒の序文は、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と語ります。イスラエルの民は、実際にエジプトにあって奴隷になっていたことから、主なる神がモーセによって救い出してくださいました。私たちキリスト者は、罪の奴隷からキリストの十字架によって救い出され、キリストの奴隷となったのです。だからこそ十戒を守るのは、救いを獲得するためではなく、キリストにあってサタンの誘惑・罪から信仰が守られ、キリスト者として信仰を貫くために必要なことです。
 もちろん誰も逮捕・迫害など遭いたくありません。逮捕され殉教の死に至るまで信仰を貫くことができるのは、自分の力ではありません。主が共にいてくださり、私たちを守ってくださるからです。だからこそ、主に委ね祈るのです。
 主イエスは「人々を恐れてはならない。……体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:26,28)と語ります。神の国を司るのは、主なる神のみであり、最後の審判によって、すべての者が裁かれます。
 
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「実現される神の計画」  エフェソ3:2~5    2025.1.19
 
Ⅰ.キリストの奴隷としてのパウロ
 パウロは3:1で、自らはキリスト・イエスの囚人・奴隷(僕)となっていると語りました。主に用いられて遣わされる者となったとも言うことができるかと思います。
 「神がわたしに恵みをお与えになった」(2)、つまりパウロが信仰をもった経緯について、エフェソの信徒たちは既に知っています(参照:使徒9:1-19、22:3-16, 26:9-18)。ユダヤ人・ファリサイ派でありながら、復活のキリストと出会い、異邦人に宣教する者とされた次第です。
 主はパウロをユダヤ人と異邦人に遣わすと語られ(使徒26:17)、宣教者としての召しを受けました。その上で、「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」と語ります(使徒26:18)。

Ⅱ.キリストの御計画が表れるパウロの宣教
 つまりパウロの働き・宣教は、パウロ自身のプランによって行われるのですが、主による召しによって行われます。主がパウロをキリストの僕としてお用いになるのであり、主の御業は、主の御計画に基づいたプログラムを実行することとなります。
 ですからパウロが、ローマに行って宣教したい・エスパニアに行き宣教したいと願っても、主なる神の許しがなければ、行くことができません。実際には、逮捕された後にローマに行きますが、エスパニアにまでは行くことができませんでした。

Ⅲ.パウロによって明らかになる奥義
 そして、「初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました」と語ります(3)。「秘められた計画」は「奥義」のことです。神の救いの御業は、私たちには隠されていますが、主が啓示、つまり御言葉をもって提示してくださることにより、初めて私たちに示されます(参照:ウェストミンスター大教理問155)。
 2章においてユダヤ人と異邦人のことが語られてきた後に、「奥義」が語られることは、旧約と新約の違いを理解する上に意味があることです。つまり、旧約において奥義が明らかになったのはイスラエルの民にでした。もちろん預言者によってイスラエルに語られるとき、異邦人に対する呼びかけもあり、異邦人の中からも罪を悔い改め、主を信じる民が起こされましたが、中心的に語られたのはイスラエルの民でした。
 一方、キリストの十字架の御業が成し遂げられ、異邦人伝道のためにパウロが召された後は、大宣教命令(マタイ28:16~20)に従い、全世界に福音が宣べ伝えられています。
 そしてパウロはこの奥義を明らかにしてきました(2:17~22)。つまりユダヤ人と異邦人に違いはなく、信じる者が救われるということです。そして異邦人に福音を宣べ伝えるために召され、神の僕とされたのが、パウロでした。

Ⅳ.すべてが明らかにされた神の救いの計画
 パウロの召しのこと、パウロが今まで語ってきたこと、さらにパウロと共にエフェソの信徒たちに起こった回心の出来事を照らし合わせることにより、主の救いの御計画が実現したことが明らかになりました。そしてあなた方は、このことを理解しているのではないかと、語っているのです(4)。
 「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました」(5)。
 旧約の時代は、アブラハムが召され、イスラエルとしての祝福が与えられましたが、イスラエルは、キリストを指し示すことが目的であり、彼らもまたキリストの十字架の御業により、罪の赦しと救いの恵みに与ったのです。ですから旧約の民には、メシアについての救いの御業の詳細、さらに神の救いの全体像は、隠されてきました。
 しかしキリストによる十字架の御業が成し遂げられ、救いが成就しました。このとき、主は使徒たち・パウロを召し出し、全世界の人々に福音を宣べ伝え、啓示を広めることを求められました。それが今の時代、新約の時代です。
 私たちは、使徒たち・パウロによって明らかになった奥義を、神の啓示の書としての新約聖書において聞くことが許されています。罪の故に死に、滅び行く私たち人間に対して、主は御子イエス・キリストをお送りくださり、十字架の贖いを完成させてくださいました。この方を受け入れ、信じるとき、旧約のイスラエルと同様に神の民とされ、天国が約束されています。
 難しく考えるのではなく、頭を整理し、神によって提示された救いを信じ、主にある神の国の希望に生きたいと思います。
 
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「神の約束にあずかる者」  エフェソ3:6~9    2025.2.2  

Ⅰ.旧約の時代における救いの提示
 旧約の時代、イスラエルに救いが示されていましたが、それは罪を悔い改めて主なる神のみを信じ、従う者であることを求めていました。しかし旧約聖書は、特にイスラエルに対して語られていますが、異邦人に対しても呼びかけられていました。ですから旧約の時代は、イスラエル中心でしたが、ただイスラエルの人々にだけ、救いが向けられていたと言うことではありません。
 しかしパウロは「この計画は、……今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」と語ります(5-6)。
 つまりユダヤ民族はイスラエルとして、選ばれた民でした。しかしそれは、メシアである主イエスが指し示されるため、イスラエルに特別に語りかけられていました。

Ⅱ.異邦人に伝えられる福音
 一方、旧約の時代、異邦人には直接、福音が語られていませんでした。それが「今や」、つまりキリストの十字架と復活の御業が完成することにより変化しました。肉の民としてのイスラエルの特殊性がなくなり、さらには復活のキリストによって宣教命令が語られました(マタイ28:16-20)。
 そして、ペトロがヤッファにおいて幻を見ることにおいて明らかにされていきます(使徒10:9~33)。ペトロの前に、旧約の時代には食べてはならないとされていた獣等が提示されました。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」との声がしました(13)。そして「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15)と語られます。こうした問答が3度あり、旧約の時代から新約の時代に変化したことが示されたのです。その後、百人隊長であるコルネリウスたちにペトロは福音を語り、異邦人も聖霊を受け、そして彼らは洗礼に授かります(同10:44-48)。
 このことが、エフェソ3:6で語られていることです。

Ⅲ.異邦人宣教者パウロ
 そして相前後してパウロにも復活のキリストが現れ、主なる神を信じる者とされたばかりか、異邦人に福音を伝える者と召されたのです(使徒9章)。そして使徒13章以降でパウロの異邦人宣教が始まります。
 このことを、パウロは次のように語ります。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました」(エフェソ3:7-8)。
 ここで「最もつまらない者」と訳すと少しニュアンスが違ってくるかと思いますが、「最も小さな者よりも小さな者」と訳すべき言葉です(参照:Ⅰコリント15:9)。
 パウロは、ユダヤ人ベニヤミン族の出身で、ファリサイ派に属していました。そのため、キリスト者を迫害し、復活の主イエスと出会ったときも、ダマスコの諸会堂に行き、キリスト者を縛り上げるために行こうとしていたときでした。しかし復活の主イエスと出会うことにより、ユダヤ人であるパウロが異邦人に、ファリサイ人が主なる神を信じていない人々に福音を伝えることとなったのです。このことを、パウロ自身、「最もふさわしくない者である」と表現したのです。石からでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる主なる神が(マタイ3:9)、パウロを異邦人宣教者としてお立て下さいました。
 その意味では、今、福音宣教者として立てられている牧師もまた、同じです。神の召しを経て、牧師となる教育を受け、按手されるのですが、相応しくない者、つまらない者、語りベタな者を、主なる神がお用いくださり、神の約束にあずかる者たちが、教会へと集められていくのです。

Ⅳ.私たちに明らかにされた福音
 そして「わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています」とパウロは語ります(8b-9、参照:ローマ16:25-26)。秘められた計画(奥義)は、今やすべての人々に明らかにされています。
 私たちは、自分には伝道などできないと思います。しかし私たちは、キリストの十字架によって罪が贖われ、神の子とされました。この福音に喜んで生きることは人々に伝わります。私が行うのではなく、主が
私を用いてくださいます。
 パウロが異邦人宣教のために用いられたように、私たち一人ひとりも、主なる神によって神の救いの約束に入れられたと共に、主の器として福音を証しするものとして用いられるのです。
 
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「キリストによって実現した神の計画」  エフェソ3:10~11    2025.3.2 

序.今までの流れの確認
 今日の御言葉は、ここまでの流れを確認しなければ理解できません(3:3-9)。そのため、簡単に説明します。
 主なる神は、御計画によりすべてを予定されていましたが、罪人であり滅び行く者を救うことです。このことがキリストの御業により実現しました。
 このキリストの御業による恵みに与る者として、ユダヤ人だけではなく、異邦人・すべての人に福音が提供されています。
 そして、この福音を宣べ伝えるために、パウロが主により召され、福音宣教者とされ、すべての人に福音を伝えています。

Ⅰ.教会に現れる神の知恵
 これらのことを受けて、「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は」となります(10)。つまりこれらの神による働きは、神の知恵に基づいて行われています。
 そしてこの神の知恵は、福音宣教を通して教会・そして私たちに現れます。

Ⅱ.神の知恵としての御計画
 ここに一つ注目すべきことがあります。つまり主なる神の御計画は、あくまでもキリストの教会、つまり私たちキリスト者の内に現れるのであって、滅び行く者は、神の知恵の内にはありません。
 神の御計画とは、神の民に対する救いの計画(予定)ですが、今に生きる私たちは、御言葉・伝道によって示されることにより、私たちは神を信じる者とされます。
 ある人たちは、二重予定と語ります。つまり神は、神の民として救う者を予定するだけではなく、滅びるべき人を遺棄へと予定しているのだと、語ります。しかし神の知恵は、あくまで神の民の教会にもたらされます。別の言い方をすれば、滅びる者に対しては、神の知恵は及ぶことはありません。罪人の滅びは、アダムとエバが罪を犯して以来、すべての者が犯している罪の結果であり、神の救いの計画ではありません。

Ⅲ.神の主権が及ばないところはない!
 続けてパウロは、「天上の支配や権威に知らされるようになった」と語ります(10b)。「天上の支配や権威」とは何のことか? 私たちには理解し難い表現です。
 パウロの活躍した時代、1世紀後半から2世紀にかけて、「グノーシス」という異端が幅を効かせ、キリスト者を惑わしていました。哲学的な思弁です。「グノーシス」とは「知識・認識」と訳される言葉であり、「人間はグノーシスを持つことにより救われる」とも語られていました。コロサイ書などは、グノーシスに対して、パウロがキリスト教を弁証しています。
 私たちには理解に苦しむのですが、パウロはこうしたグノーシスの異端に対して、主なる神が、天上をも支配し、統治しているのであり、グノーシスを身につけることにより、自分の力で救われることはないことを、語ろうとしています。
 そしてこの「天上の支配や権威」を、「天使」であると解釈されてきています。現代に生きる私たちは、聖書から天使のことを意識することはほとんどありません。しかし、新約聖書は天使に対して繰り返し言及します。宗教改革、ウェストミンスターの時代も、教会は、天使に対して言及してきました(ウェストミンスター大教理問56、89、105)。天使も神によって創造された被造物であり、神の支配の下にあります。だからこそ、天使が独自に働いたり、知識という形で救いに必要な条件となることはありません。
 ですから、神の知恵(御計画)は、私たち人間には、摂理という形で歴史において明らかにされますが、ここにおいてパウロが「天上の支配」と語るとき、天使たちも主なる神の御支配の下にあり、教会に現れた神の知恵が天使たちにも示されることを語っているのです。主なる神の御支配・権威が及ばない場所などはありません。

Ⅳ.キリストの十字架こそ、神の永遠の計画の中心に位置する
  「これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです」(11)。
 永遠の神の計画は、主キリスト・イエスによって実現しました。これは、まさにキリストの来臨・十字架・死と復活のことを指し示しています。
 御言葉が語られ主が証しされることにより、私たちはキリストの御業に出会います。そしてこのキリストの御業に私たちが出会ったとき、キリストの十字架の贖いが私たちキリスト者にもたらされ、神の救いの御計画が、実現します。
 神の救いの御計画がありますが、それは私たちキリスト者を教会へと集め、神の民として、神の御国に導くことですが、そのために教会が立てられ、伝道と説教を中心とする礼拝が行われています。
 そしてその中心にキリストの十字架があります。キリストの十字架抜きに、キリスト教会は成り立つことはありません。それと同時に、このキリストの十字架を受け入れ信じる者に、主は救いの計画の内にあることを提示し、神の民として下さいます。
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「大胆に神に近づく」  エフェソ3:12~13    2025.3.9  
Ⅰ.主なる神により救いへと導かれる!
 私たちは、主なる神により召しを受け、信仰が与えられました。それは罪の故に滅び行く者でしたが、神の御子イエス・キリストが、人として十字架で死を遂げることにより、罪の贖いが行われ、義と認められ、神の子とされた故に、神の御国における永遠の生命が約束されました(参照:ウェストミンスター信仰告白8:5)。
 それ故キリスト者にとって、主キリストと結びつくことが何よりも重要なことです。このことは、クリスマスにお生まれになったイエスは、真の神の御子であることを信じることから始まります。マリアの処女降誕、さらにはキリストの十字架の死からの復活は、一般常識では考えられないことですが、創造主であり贖い主であるからこそ、私たちは主の御力を信じるのです。
 私たちは信仰の故に、罪人であり滅びる道を歩んでいたにもかかわらず、キリストの十字架の御業により罪が贖われ、神の子として永遠の生命が与えられました。そのため、神に近づくことなどできない存在でしたが、信仰の故に、確信をもって大胆に神に近づくことができる者とされたのです。

Ⅱ.この世にあってキリスト者として生きる!
 一方、手紙を書き送っているパウロは、投獄されています。神により召され、神の御力の下にあるのであれば、喜びの人生が待っており、投獄・迫害されることはなくなるのではと、思われるかもしれません。
 しかし現実には、信仰の故に迫害に遭う者、投獄される者、さらには殉教の死を遂げる者もいます。なぜなのか? なぜ落胆する必要はないのでしょうか?
 私たちが神を信じ、救いに与るのは、神の秘められた計画(奥義)であったものが、私たちに示されたのであり、神を知らずに生きている人たちからすれば、まさに非常識なことが起こったのです。
 一般的に人は、違うことを行う者を嫌います。日本における村八分と同じです。
 もう一つ、主なる神を信じて生きる時、神を知らずに生きるときと、価値観が違ってきます。神の指し示す義に従って生きることであり、隣人を愛することとなります。このとき、自己中心・人を支配して生きようとする者に対して、否を語ることとなります。ここに衝突が起こります。
 そのため主なる神を信じ、信仰を貫いて生きるとき、迫害・虐げが生じます。

Ⅲ.真に信仰を貫いて生きよ!
 そして、パウロは、自分が苦難の中にあることを、あなたがた(私たち)にとっては栄光であると語ります。キリスト者は、迫害する側に立てば、生かしておくことが恐ろしい存在です。つまり迫害する者にとって、キリスト者、そしてその背後におられるキリストは、自分たちの存在を陥れる存在なのです。
 肉において死に行く人たちは、サタンに隷属しています。そしてサタンはキリストの御力を知っています(参照:マタイ8:28~31)。だからこそ彼らは、自分たちが生きる道を得ようとして、必死に、主なる神を拒絶し、抵抗し、キリスト者を迫害するのです。
 そのため、パウロがキリストにあって迫害されることは、まさに主なる神の栄光、御力が彼らに示されている結果なのです。そのため、迫害されること、苦難に遭うことを、パウロは否とすることなく、むしろキリストが証しされている証拠として、栄光が示されているのだと誇ります。
 今、日本では、直接的な迫害はありませんが、キリスト者が少ないがため、信仰を貫くことの困難を覚えている人たちがいることも確かです。私たちも、彼らに合わせるのではなく、キリストを証しする者として、主の御言葉に聴き従った歩みを行うことが求められているのだと思います。
 また、別の観点から考えると、キリスト者に対する迫害、虐げが少なくなっているということは、主なる神を信じない人たち、サタンに隷属されている人たちからしても、キリスト者が邪魔な存在になっていないことを物語っています。キリスト者が、地の塩、世の光として、真に信仰に生き、キリストを証しし、義に反することに対して、否を語っているか、問われているということもできるのではないでしょうか。
 
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「愛に根ざして生きる」  エフェソ3:14~17    2025.3.16
  
序.
 パウロは「こういうわけで」と語り始めます(14)。つまりパウロは、「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは」と語ったのち、神の秘められた計画に定められたとおりに、キリストの十字架の御業により罪が贖われ、救われていることを確認してきました。その結果を受けて、改めて「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」と語ります。

Ⅰ.主がお与えくださる信仰とは……
 秘められた計画が明らかになり救われるときに大切なことは、救いの恵みに基づいて、信仰が養われていくことです。
 ウェストミンスター信仰告白第14章「救いに導く信仰について」は、次のように告白します。1.「……信仰という恵みの賜物は、…キリストの霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出される。信仰は、また、この御言葉の宣教と、聖礼典の執行、ならびに祈りにより、増し加えられ、強められる」。信仰は主から与えられるだけでは、信仰が強められることもなければ、教会が成長することもありません。信仰は、礼拝における説教・聖礼典の執行・祈りにより、強められる必要があります。
 今の日本の教会は、教会に集う者が少なくなっています。そのため諸活動に支障が出てきています。諸活動を行うためには、積極的に活動に参加する人が求められますが、そうした人が減少しています。一人ひとりの信仰が養われ、主の働き人として主に仕えることが求められています。しかし自分の生活、自分の教会の活動だけで精一杯となるために、中会・大会の働きを行う人が少なくなっています。

Ⅱ.信仰の養いに与り続けるために必要なこと
 今、私たちに求められることは、第一に、教会が小さくなることを恐れることなく、与えられた器の中にあって、私たち一人ひとりが主からの信仰の養いに与ることです。そのために、礼拝が豊かなものとなる必要があり、牧師も信徒も信仰の養い・訓練されることが求められています。
 このときに大切なことは、礼拝に出席し、説教・主の晩餐の礼典・祈りに与ることですが、それで良しとしてはなりません。主の霊により、私たちの内なる霊が強められ、心の内にキリストが共にいてくださることです。礼拝は聖書研究会ではありません。
 このとき大切なことは、主なる神・キリストがどのようなお方であるかを知ることです。主なる神は義であり、罪を裁く厳しいお方であると知れば、信仰は窮屈なものとなります。律法主義的になり、「ねばならない」ことを追求する信仰となります。
 本来、自らの罪の故に滅び行く私たちが、ただただキリストの十字架の御業の故に、罪が赦され、滅び・死ではなく、神の子として永遠の生命が与えられ、祝福の内に生きる者とされたのです。

Ⅲ.主による愛に生き続けよ!
 「救いに導く信仰の主な行為は、恵みの契約のゆえに、義認と聖化と永遠の命を得るため、ただキリストのみを認め、受け入れ、依り頼むことである」(ウェストミンスター信仰告白14:2後半)。私たちが信仰に生きるとき、主による恵みの契約に生かされています。それが義認・子とすること・聖化によって確認して、天国における永遠の生命の希望に生きることです。
 続けて信仰告白は、「キリストのみを認め、受け入れ、依り頼むことである」と告白します。神の御言葉に聴き従うことです。それは言い換えれば十戒に生きることです。十戒は「ねばならない」律法主義ではなく、神の愛に基づいて用いられるべきです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37-40)。
 十戒の第一の板(第一戒~第四戒)が語ることは、主なる神によって愛されている者として、主なる神を愛することです。そして第二の板(第五戒~第十戒)において、自分を愛するように、隣人を愛することです。
 パウロは17節で、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」と語ります。キリストの愛に生きることです。そうすれば、「ねばならない」ではなく、キリストの愛に感謝と喜びに生き、その結果が主なる神を愛する者として、隣人を愛する者として生き、また求められた行動に移すことができるのではないでしょうか。
 
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「キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さ」  エフェソ3:18~19    2025.4.6
  
 序.
 パウロは、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになるよう」にと祈ります(18)。

Ⅰ.神の愛に広さ・長さ・高さ・深さ
 「すべての聖なる者たちと共に」私たちが知らなければならないことが4つ記されています。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さです。
 ヨハネは、「互いに愛し合いましょう。愛は神から出る者で、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。…神は愛だからです」と語ります(Ⅰヨハネ4:7-8)。ですからパウロが語ろうとしていることは、主なる神がどういう方かということです。
 第一が神の愛の広さです。イスラエル・ユダヤ・あるいは私たちと限られた空間に主なる神がおられるのではなく、世界をつくり、宇宙を創造された神の御支配は、世界に広がりを持っているということです。
 神の愛の長さは、天地万物の創造のときから、旧約の時代、キリストの来臨の時代、そして新約の時代である現在、未来において、主は時間を超えて、いつでも世界を支配しておられるということです。
 第三の神の愛の高さは、すべての人、つまり王や支配者から労働者、そして当時であれば奴隷・囚われの身、さらには身体障害者・精神障害者、ユダヤ人やローマ人・日本人といった民族を超え、言葉を超えて、主が支配しておられると言うことです。
 最後にある神の愛の深さは、私たち一人ひとりのすべてに関わること、つまり生まれる前から今に至るまで、そして肉の死に至るまでの間、私たちの行い・口から発する言葉・心の中のすべてを知っておられると言うことです。
 つまり、地理的にも、時間においても、社会においても、私たち個人においても、すべてが主の御支配の下に置かれています。こうした神の愛を私たちキリスト者が知り、祈りを献げることが求められています。

Ⅱ.無限の神の愛
 私たち一人ひとり、人間の持っている知識は限られています。AIという無限に答えを与えるツールを手に入れたように思うわけですが、しかしそれらは人間の持っている知恵をコンピュータに覚えさせることにより一人の人では持ち得ない回答を行うだけであり、人の知恵を超える無限の知識を持っているのではありません。
 しかし主なる神は、無限の知恵を持っておられ、無限の愛に満ちておられます。そして主は天地万物の創造のとき、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)とお語りになりました。
 しかし人が罪を犯すことにより、無限の神の愛、無限の知恵はなくなり、世は罪に満ちました。この世を救うために、主なる神は、メシアによる救いを約束されました。
 この約束に基づき、キリストは人として世に来られ、そしてこの神の愛に基づいて、主イエスは一つひとつの御業を行われました。貧しい者を憐れまれ、病者を癒やされ、苦しむ者を助けられました。そして人を救うために、ご自身が十字架にお架かりになりました。この愛に基づいて、キリストが再臨されたときに、神の御国が完成します。
 そのためパウロは、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:13)とも語ります。
 神の御国において神の愛が満たされます。もうサタンはいません。罪も、死の恐怖も、戦争・迫害もありません。互いに寄り添い、互いに神と共にあることに喜び、救いの希望に生きることができます。
 つまり主なる神の愛により、真の平和がもたらされます。国と国・民族と民族・権力者と市民・強い者と弱い者との間、社会・地域、そして家族においても、対立・差別がある社会は、なくなります。そのためパウロは「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになるよう」と祈ります(19)。

Ⅲ.神の愛に基づきキリスト者として生きる
 そして、キリスト者とキリスト教会は、この神の国において完成する平和を、この世にあって実現するため、教会を形成しています。このときに、私たち一人ひとりが求められることは、主なる神を愛し、隣人を愛することにより、主からの戒めとしての十戒に従うことです(参照:マタイ22:37-40)。
 十戒に従って生きるのは、「ねばならない」ことではなく、主の愛に生き、神を愛する者として、隣人を愛する者として生きることです。これこそが「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるよう」に生きることです(19)。
 神の広さ・長さ・高さ・深さを知り、主の愛に心から感謝して、主なる神を信じ、主に従って行きたいと思います。
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「世々限りなくある神の栄光」  エフェソ3:20~21    2025.4.13
   
序.
 パウロはエフェソ書の前半(1~3章)で、主なる神の御業の大いなる御業が示され、その結果として罪のために死んでいた私たちを救いへと導き、私たちは主に結びつけられ、主の恵みに生かされていることを語ってきました。そして前半の終わり(3:14-21)を祈りで語り終えようとしています。

Ⅰ.主の御前に献げられる祈り
 祈りは神への賛美(頌栄)、感謝、懇願、執り成しの4種類に分けることができますが、パウロは執り成しを祈ってきました(14-19)。神の愛が私たちキリスト者にしっかりと根づき、愛にしっかりと立つキリスト者となるようにとの祈りです。そのためにこそ主なる神の愛の広さ・長さ・高さ・深さがどれほどのものであるかと知ることにより、計り知ることができない神の愛に満たされて生きることができるようになることが求められます。その上で、最後に神への賛美としての頌栄の祈りとなります。
 忘れてはならないことは、私たちが祈り求めている主なる神がどのようなお方であるかを理解することです(18-19)。このとき、創造主であられる神と被造物である私たち人間の関係を忘れてはなりません。このことを理解した上で、主なる神の御前で祈りを献げようとするとき、私たちの思いを超えて働かれる主なる神の御前にひれ伏し、主の愛に基づく御業を信じ、主こそが祈りを適える力があることを確信して、祈り求めることとなります(20)。

Ⅱ.私たちに見え隠れする主の栄光
 主なる神への栄光を称えるとき、主の御支配が明らかになることが求められます。しかし、実は主なる神ご自身は常に栄光に満たされています。
 しかし私たちの目には、主なる神の栄光は見えないこともあり、遠のいて感じることもしばしばあります。曇りのときや雨が降るときに太陽が見えないのと同様です。太陽がなくなることはなく、雲で覆われていることを私たちは知っています。
 そのため、私たちの祈りは、私たちの目に主の栄光が明らかになるようにと祈りとなります。
 ですから、主の栄光を求める頌栄ですが、このことはまず、教会に見えるかたちで適えられるように祈ることとなります(21)。
 また主の栄光は、世々限りなくあるように祈り求めます(21)。先程も語りましたが、神は常におられ、主の栄光は、私たちに与えられ続けています。
 朝の礼拝において、主イエスは天に上られるにあたり、弟子たちを祝福され続けながら天に上られたことを確認しました(ルカ24:50~53)。つまり祝福は、キリストの再臨により復活の生命が与えられ、神の御国に入れられた時に明らかになります。
 そして、この世においては、次の世代の人たち、将来生まれ来る人たちにも、主の栄光が示され続けます。
 ですから、今、教会は高齢化し、規模が小さくなりつつあります。つまり、ときには教会が小さくなることも、部分的に消滅することもあるのです。しかし、主なる神がいなくなったわけでも、主の栄光がなくなったわけでもありません。だからこそ私たちは、次の世代の人たちの中からも神の民が興され、教会が継承されること、復興することを祈り続けるのです。

Ⅲ.神中心の信仰生活
 パウロは、ここで一区切りして、信仰編を語り始めます(4章~)。パウロはローマ書でも同様の語り方を行います。そしてウェストミンスター信仰規準も、同様です。前半の教理編に続いて、後半に信仰編があり、その中に教会論が語られています。
 この順序を守ることは大切です。私たちは、キリスト者としてどのような信仰生活が求められるのかを考えがちです。しかし、私たちの信じている三位一体である主なる神がどのようなお方であり、私たちとの関係がどうなのかがはっきりと示されることにより、私たちの信仰生活もまた、明らかになってくるからです。
 逆の言い方をすれば、信仰編が最初に来ると、私たちが中心となり、主なる神が、私たちに隷属した形、言葉は悪いですが、私たちの手下、奴隷のごとくにすることも起こり、主従が逆転します。そうなれば、信仰は名ばかりであり、自分の都合の良いように神を利用することとなります。
 主なる神がおられ、私たち人間は主の被造物であり、主の愛・主の恵みによらなければ、罪の赦しも救いもありません。だからこそ、改革派教会では神中心の信仰となります。主の栄光を称えつつ、感謝と喜びをもって、信仰生活を送っていただきたいと願っています。
 
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