◆コロサイの信徒への手紙  連続講解説教

「神からの恵みと平和」  コロサイ1:1~2    2026.2.15
                     ウェストミンスター信仰告白26:2
 
Ⅰ.コロサイ教会と使徒パウロ
 今日からコロサイの信徒への手紙を読み進めることとします。
 コロサイの町は、小アジヤにあって、ラオデキヤなどと並ぶ町であり、コロサイ教会はエパフラスによって立てられた教会であると考えられています(1:7)。そして著者とされるパウロも(1:1)、一度も行ったことがない町でした(1:4、2:1)。
 ただ批判的な神学者は、パウロの名を借りた他の者が手紙を執筆したと語ります。理由は、このコロサイ書において、他のパウロ書簡では用いられていない語彙が数多く用いられているからだと語ります。
 私たちはこれからコロサイ書を読み進むのですが、コロサイ書に置かれた特別な状況も考えなければなりません。つまり、異端的な思想でありますグノーシスと呼ばれる思想があり、その教えに対する反駁をパウロは語ります。そのため、他のパウロ書簡において用いられていない語彙が用いられていても、気にする必要はありません。
 たとえパウロが手紙の著者でなくても、パウロのことを良く知っている人物が手紙を記したと言えます。
 さらに言えば、コロサイ書が神の御言葉である聖書に留められていることから、私たちは、コロサイ書を主なる神が私たちに語りかける御言葉として読べば良いのです。

Ⅱ.コロサイ教会とパウロを結びつけるエパフラス
 パウロとコリント教会を結びつけるのが、コロサイに教会を建て、自身もこのコロサイ出身であったエパフラスです。エパフラスは、コロサイ書が執筆されているとき、パウロの所に留まっています(4:12-13)。
 また、「キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています」と語られており(フィレモン23)、エパフラスはパウロと共に囚われの身となっています。つまりエパフラスはパウロと共に、迫害を恐れることなく、福音宣教に励んでいたのです。
 そうであるならば、このエパフラスは、コロサイの教会のことを心配して、パウロに熱心に語っていたことではないでしょうか。また、これだけパウロに影響を受けているエパフラスであれば、コロサイの教会の人たちにも、パウロのことを語っていたはずであります。そうしたことから、パウロがコロサイ教会に、手紙を書き送ることとなったと言って良いかと思います。

Ⅲ.手紙が執筆された理由
 パウロは、一度も伺ったこともないコロサイ教会に手紙を書き送ることとなったのは、コロサイ教会において、異端的な教えであるグノーシス思想が教会の中に持ち込まれ、教会が揺れていたからです。
 グノーシスとは、ギリシヤ語で「知識」「認識」を意味しますが、グノーシス主義は,人間はグノーシス(霊知)を持つことによって救済されるという主張に立ちます。グノーシスという霊知をもたらすのがキリストであり,それを霊的直観によってとらえるように教えました。つまり信仰に、いわゆる精神論が持ち込まれます。
 またグノーシス主義の特徴は,徹底した二元論にあります。すなわち,霊と肉・霊と物質を分けて,前者は純粋で神秘なもの,後者は罪を持ち堕落したものとします。
 二元論になると、信仰が歪んできます。教会が健全に成長することができず、むしろ崩壊に向かいます。
 この手紙をパウロは、兄弟テモテとの連署、つまりパウロ個人からの手紙としてではなく、教会としての公的な手紙として、コロサイ教会に手紙を書き送ります。

Ⅳ.霊的な交わりが行われるパウロ・エパフラスとコロサイ教会
 パウロは、「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」と語ります(1)。この時点で、コロサイ教会にグノーシスの影響がどれだけ及んでいるかは分かりません。しかし教会は現に存立し、そこに主への信仰に立つ忠実な信仰を持つキリスト者がいました。
 そしてパウロは、キリスト者相互の霊的交流により、互いの信仰の養い、特にグノーシスと戦いながらも健全な信仰を保つようにコロサイの信徒たちを励まします(参照:ウェストミンスター信仰告白26:2)。
 聖徒の交わりは、離れていても、文書や祈りにより、交わりを行うことができ、互いに励まし合いことができます。
 そのために中会・大会的な交わりは、直接、集会等で出会うことと共に、互いの教会を覚えて、祈りあうことが大切です。
 互いの教会が、弱り・小さくなる時代だからこそ、中会・大会、あるいは教派を超えた交わりを持ち、互いの信仰の養いをもつことが大切です。
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「希望に基づく信仰と愛」  コロサイ1:3~5    2026.3.1
                      ウェストミンスター小教理問86
 
序.
 パウロは、エパフラスが伝道して立て上げたコロサイの教会に手紙を書き送っています。グノーシスという異端が教会の中に入ってきている最中、エパフラスがパウロに手紙で福音を語ることを、依頼したのだと考えられます。

Ⅰ.コロサイ教会のことを思うパウロ
 いわば教会の危機の時ですが、パウロはコロサイ教会の人たちを批判することはしません。パウロはむしろ、コロサイ教会の人たちが信仰に踏みとどまっていることをねぎらう言葉をかけているようです(2)。
 そして続いて、「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」と語ります(3)。まったくキリスト者がいなかった街に、キリスト教会が立てられ、そこにキリスト者が集っていることはすごいことです。伝道したのはエパフラスですが、そこにキリスト者を起こしてくださったのは、主なる神の御業です。そのことをパウロは、主に感謝しています。

Ⅱ.キリスト・イエスにおいて持っている信仰
 続けてパウロは「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです」と語ります(4)。
 コロサイ教会には異端が入り込んでいます。そうであっても、今なおキリストの十字架の贖いに与り、信仰の道を守っている兄弟姉妹がいます。このことが大切です。
 ここで語ることは、主なる神とあなたがたという縦の関係です。十戒が語る第一の板に相当します。三位一体である主なる神のみを信じ、他の神々・偶像を拝むことなく、主なる神を忠実に礼拝して、主なる神との交わりが与えられています。

Ⅲ.聖なる者たちに対して抱いている愛
 続けて語ることが、隣人に対する愛、横の関係です。信仰と共に、自己中心の生活から離れ、隣人に対する愛に生きること、これは十戒の第二の板に記されていることであり、「隣人を自分のように愛しなさい」と語られる主イエスの御言葉に従った歩みです(マタイ19:19)。
 イエス・キリストに対する信仰、隣人に対する愛、この正しい縦と横の関係を形成することこそが、主なる神がキリスト者に求めておられる生き方そのものです。

 コロサイ教会では、異端も入ってきて、問題も抱えています。しかし、信徒たちはキリスト者としての基本的な信仰をもって歩んでいるのです。

Ⅳ.信仰・愛の礎としての希望
 パウロは続けて、「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものである」と語ります(5)。キリスト者としての正しい信仰は、罪が赦され、約束されている神の御国の永遠の生命の希望に基づきます。
 この希望は、主なる神による恵みの契約に基づくものであり、主なる神がキリストの十字架の御業により、私たちにお与えくださった祝福です。この救いの約束の希望に生きようとするとき、必然的に、三位一体の神への信仰が養われ、救いの希望に生きることから、自分だけではなく、隣人に対する愛が生じてきます。
 パウロは、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と語り(Ⅰコリント13:13)、信仰・希望・愛の三つがキリスト者として大切であると語られます。そしてここでも信仰・希望・愛が語られていると言われています。
 しかしコロサイ書では、神により与えられた罪の赦しと神の国の希望に基づいて、主なる神への信仰が与えられ、隣人を愛して十戒に従った信仰が養われていると言ってよいかと思います。
 ですから、信仰・希望・愛と並べるのではなく、希望に基づく信仰と愛、あるいは信仰と愛の礎としての希望と語った方が、良いのではないかと思います。

Ⅴ.希望を伝える福音宣教
 そしてパウロは最後に「あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」と語ります(5)。罪の赦しと神の国における永遠の生命の約束に基づく希望は、福音としての御言葉の説教を聴かなければ生じません。つまり御言葉抜きの神秘的な信仰、超自然的な現象において神を信じることはなく、通常は、福音が伝えられ、その福音を受け入れることにより救いの希望が生じ、信仰が与えられます。
 このように考えるならば、私たちが信仰に生きるとき、同時に福音を宣べ伝えることが大切です。
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「福音は実を結び成長する」  コロサイ1:6~8    2026.3.8
                      ウェストミンスター小教理問90、大教理問159
 

Ⅰ.信仰が守られているコロサイ教会
 パウロは、エパフラスが伝道したコロサイの教会に手紙を書き送っています。エパフラスは、コロサイ教会にグノーシスという異端が教会の中に入ってきていることが心配でしかたがなく、パウロに助けを求め、手紙を書き送ってもらっているのです。
 キリスト者が信仰を維持し続けることは簡単なことではなく、困難なことです。そのためパウロは、コロサイの信徒の信仰が守られていることを、神に感謝します(3)。
この堅実な信仰と愛は、救いによる希望に基づいて与えられます(5)。

Ⅱ.福音が伝えられる事により、実は必ず結ぶ!
 パウロは、「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」と語ります(6)。
 福音が伝えられると、必ず実は結んで福音を受け入れ信じるキリスト者が増え、一人ひとりのキリスト者の信仰が成長します。
 福音とは、「良き知らせ」のことであり、イエス・キリストの十字架の贖いにより救いに与ることです。これが福音の中心です。同時に、聖書全体を神の御言葉として正しく解き明かすこと、聖書全体の歴史、救いの秩序正しい理解が深められることが求められます。
 そのため、説教者・牧師の説教を語る姿勢が問われることとなります。ウェストミンスター大教理問159「神の言葉は、その職務に召された人々によって、どのように説教されなければなりませんか」。
答 御言葉の宣教に労するように召された人々は、健全な教理を、〔第一に〕折が良くても悪くても、熱心に、〔第二に〕人間の知恵の、心そそる言葉によらず、御霊と力との証明によって、わかりやすく、〔第三に〕神の計らいの全体を知らせて、忠実に、〔第四に〕聞く人たちの必要と能力に合わせて、賢明に、〔第五に〕神と神の民の魂への燃え立つ愛をもって、熱烈に、〔第六に〕ただ神の栄光と神の民の回心・教化・救いをめざして、真摯に、説教しなければなりません。

 パウロは、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。…忍耐強く、十分に教えるのです。…あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」と語ります(Ⅱテモテ4:1-5)。
 説教者が聖書を忠実に解き証し、福音を伝えているならば、必ず実が結びます。この言葉は私たちに慰めとなります。今、世界中で、神を信じるキリスト者、毎週礼拝を献げる者が減っています。高齢化し、長老・執事が減り、若い人たちが少なくなっています。いわば諦めに近い状態です。しかし私たちも、主なる神の御業を信じ、御言葉を語り続けていくことが求められています。主なる神は、信仰が実を結び、キリスト者とされる者が現れること、信徒一人ひとりの信仰が養われ、成長することを約束してくださっています。洗礼者の数が問題なのではありません。教会に来られた方々が確実に信仰に導かれること、また教会に集う教会員が信仰の養いに与り続け、信仰の成長が与えられることが大切です。

Ⅲ.パウロに助けを求めるエパフラス
 しかしコロサイ教会はグノーシスの異端が混入し、教会全体が苦難の中に置かれています。こうした時にエパフラスは、教会の中で一人悪戦苦闘していません。パウロの下に赴き、現状を報告し、助けを乞います。それがこの手紙の執筆に繋がります。聖徒の交わりが、大切なことです。
 今でも、教会が苦難に陥ると、自分たちの群だけで精一杯となります。そして視野が狭くなり、中会に出かけません。しかしこういう時にこそ、教会間の交わり・連携が求められます。互いに交わり、弱さを覚え、必要な助けを求め、祈り合うことです。

Ⅳ.教会間の交わりを増やし、信仰を客観視せよ!
 視野が狭くなると、主観的になります。しかし神の知恵は、世界中の教会において宣べ伝えられています。それらを確認し、自分たちの信仰を告白したものが信仰告白です。福音を語るのも自己流ではなく、ウェストミンスター信仰規準に基づいて語ることが大切です。そうすると、異端的な考えの過ちを確認することができ、福音の実りと成長をもたらします。
 そして私たち一人ひとりの持っている信仰も正されていきます。教会の危機のときにこそ、視野を広くして、中会・大会の交わりを行い、互いの信仰を確認し合い、祈り合うことが求められています。
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「主に喜ばれる信仰」  コロサイ1:9~12    2026.3.15
                      ウェストミンスター小教理問86
 
序.
 パウロは、エパフラスが伝道し、今グノーシスといった異端の教えに苦しみを覚えるコロサイ教会に手紙を書き送っています。

Ⅰ.コロサイ教会に対するパウロの祈り
 そしてパウロはコロサイ教会のために祈ります(9a)。パウロは、神の国が約束された希望に基づく、イエス・キリストによる救いの信仰と聖なる者の間で抱いている愛が、コロサイ教会の信徒はあることを神に感謝しつつ、コロサイ教会の信徒たちの信仰が守られるようにと祈っています(4-6)。
 そしてパウロは、コロサイ教会の信徒たちの信仰が守られるための礎として、神の知恵が与えられることを神に祈り、願います(9b)。神の御心は、一人ひとりが主の御前に罪を悔い改め、信仰に生き、神の御国の約束を受け入れることです。
 このため御言葉である聖書を理解することが求められます。主の御心は、聖書を通してすべて私たちに啓示されています。私たちが聖書を読み、理解することにより、主によって与えられる救いの希望が深まり、私たちの信仰は養われ、隣人への愛が深まります。そして、誤った考えが教会の中に混入してきたとしても、信仰が守られることとなります。
 一方祈りは、①主の栄光を讃えること、②主の恵みに感謝すること、③懇願、④執り成しの4種類が求められます。自らの願いや感情をぶつけるだけではありません。もちろん、艱難・試練の中に置かれたとき、思いを主なる神にぶつけることもあるかと思いますが、聖書に基づく主の約束に揺らぎがなければ、主なる神による加護を信頼し、すべてを委ねて祈ることができます。
 パウロは、コロサイ教会のことを覚えて自分自身が祈ると同時に、コロサイ教会の信徒たちが、信仰に基づき、祈りの生活が行えるように願っています。
 改革派神学校では、聖書知識に基づく信仰と、神の愛に基づく祈祷、そして信仰の証しである伝道は、一体であることを学びます。聖書に基づく真の知識は、私たちの信仰生活そのものの変化をもたらします。

Ⅱ.主に喜ばれる生活へ
 聖書の知識に基づく主なる神への信仰が確かなものとされるとき、神の民にふさわしい生活へと変えられます(9b-10)。それは、神が聖霊をとおして、私たち一人ひとりの信仰を養い、聖化の歩みが始まることを意味しています。それは、私たち自身が主による救いに喜びをもって生きる者とされることであり、同時に、主御自身が神の国において喜びが満たされることとなります。
 信仰生活に喜びが生じると、主の御言葉に従った歩みへと導かれていきます。それが実を結ぶということです。
 律法としての十戒は、常に律法主義が混入する恐れがあります。十戒は、「ねばならない」と繰り返され、主への従順が求められているからです。しかし十戒が語ることは、十戒への従順の結果、救いが与えられ、主に喜ばれることではありません。
 十戒の前文が語るとおり、主は奴隷であったイスラエルをエジプトから救い出した後に十戒をお与えくださいました。それと同様に、罪の奴隷としての死と滅びに定められていた私たちを、すでに主は救い出してくださっています。その上に主は、十戒に従うことを求めておられます。それは私たちが再び罪の道を歩むことがないように主が守ってくださっているからです。
 十戒の戒めは、神の私たちへの愛に基づくものです(参照:マタイ22:37-40)。

Ⅲ.救いの希望に基づく忍耐
 神による救いに喜びをもって信仰生活を送り、主なる神による喜びに与るとき、私たちは主なる神による救いの御業にしっかりと捕らえられていることとなります(11)。
 つまり私たちは、主なる神の御力・神の栄光の力によってしっかりと守られています。そうであるならば、私たちの信仰と試練や艱難による忍耐は、主なる神によって守られ、導きが与えられることとなります。
 そして神の御国に入れられるときまで、信仰が守られます。これが聖徒の堅忍です。日々の信仰生活の中に苦しみがあるからこそ、主による恵みの契約に基づく救いの約束があり、救いの契約書が有効であることは、希望と喜びとなります。

Ⅳ.神の国の相続者となる恵み
 私たちが救われ、神の国における永遠の生命が与えられることは、神の国の相続者となることです(11b-12、参照:ローマ8:14-17)。
 だからこそ、コロサイの信徒たちは今、教会内に持ち込まれようとしている異端による混乱がありますが、なおも主によって与えられた救いと信仰に、御父に感謝するように、パウロは祈りつつ呼びかけます。
 教会の先行きが見えない今の時代に生きる私たちも、御言葉に基づく救いの希望に満ち、主を信じ、主に祈りを献げる信仰が求められています。
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「御子による罪の贖いと罪の赦し」  コロサイ1:13~14    2026.3.29
                      ウェストミンスター信仰告白9:3
 
序.
 パウロは、エパフラスからの願いを聞き入れ、コロサイ教会に手紙を書き送っています。コロサイ教会には、グノーシスという異端が入ってきており、信者の中に広がり始めています。そうした中、主がお語りくださる福音とはどのようなものであるのかを、パウロは手紙で語っています。
 誤った考えが教会の中に入ってくると、何が正しいのか分からなくなります。そうした中でも、手紙を受け取っている人たちは、正しい信仰に立っていることをパウロは喜んでおり、主に感謝しつつ、根気よく耐え忍ぶように語ります。

Ⅰ.闇の下に生きる人間
 そうした中パウロは、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して」と語ります(13)。キリストと出会う前、コロサイの信徒たちも、今に生きる私たちも、罪の故に闇の力・サタンの支配下、肉に死に滅び行く者でした。全的堕落であり、自分の力では神の義を獲得することができません(参照:ウェストミンスター信仰告白9:3)。そのため、神に救われ、神の子どもとして生きようとするならば、神からの救いの提示を受け入れることが求められます。
 十戒の序文は、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と語ります。エジプトで奴隷であったイスラエルに、主がモーセを指導者として立て、一方的に救い出し、約束の地カナンに導いてくださいました。同じように、闇の力、霊的な奴隷状態に生きている私たちは、主なる神からの恵みがなければ、救われることはありません。主は私たちを救い出そうとして下さっています。そのために、御言葉に聴くことが求められています。

Ⅱ.キリストの支配下に置かれるキリスト者
 コロサイの信徒たちは、まさにエパフラスが語る主の御言葉を受け入れ、闇の力から救い出されました。そしてこのとき、「愛する御子(キリスト)の支配下に移されました」(13)。闇の力=肉の死・滅びに行く力ですが、キリストの支配下に移ったのです。イエス・キリストは十字架に苦しみ、死を遂げられました。しかしキリストは、死に打ち勝ち、罪に打ち勝ち、サタンに打ち勝つことにより、死から甦り復活されました。私たちがキリストの支配下に移されると、私たちは、このキリストにある永遠の生命に生きる者とされます。
 ですからパウロは、「わたしたちの本国は天にあります」とも語ります(フィリピ3:20)。御子キリストの支配下にあるとは、神の臨在の場である天国に国籍があり、永遠の生命に与ります。

Ⅲ.罪の贖いが与えられた
 では闇の力の下、滅びに向かっていた私たちが、キリストを救い主として信じて御子の支配下にあることにより、なぜ、救われ、永遠の生命に与ることができるのかをパウロは続けて語ります。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(14)。
 キリストは、マリアの子としてお生まれになりましたが、聖霊によって宿ったのであり、真に神の御子、神そのものでした。そのため、キリストは罪をまったく行うことはありませんでした。そのお方が逮捕され、有罪判決を受けて、十字架の道を歩まれました。罪のないお方が、罪の刑罰を受ける必要はありません。本当ならば私たちが背負わなければならない罪の刑罰を、キリストが代わりに担い、償いくださったのです。
 そしてキリストが十字架において、私たちの罪の償いを行ってくださったことにより、主なる神御自身が、私たちの罪に対する怒りを放棄して、和解し、罪の赦しをお与えくださいました。
 つまり贖いとは、私たちの負の遺産である永遠の死の裁きが不要になることであり、他方、キリストの十字架の御業により神との関係が回復し、永遠の生命を持つ主なる神と共に生きる者とされました。ですから罪の贖いと罪の赦しは、一体的に語られますが、負の遺産の解消と神との交わりの回復という積極的なことと、表裏一体です。

Ⅳ.神の子とされたキリスト者
 ここで一つ確認しなければならないことは、私たちが「神を信じる」、「罪が赦される」と語るとき、私たちの感情・心の問題であると考えがちです。しかし、そうではありません。キリストの十字架により、私たちが罪の贖いに与るとき、神の側で、法的に、私たちの罪の赦しを宣言してくださいました。これが恵みの契約です。
 そのため私たちは、神にしがみつく必要はありません。「ねばらならい」ことから解放されています。神が私たちに救いの契約書を示し、宣言して下さっているのですから、主なる神を信じる私たちは、もう、滅びに向かうことはありません。
 だからこそパウロは、コロサイの信徒たちに対して、誤った教えが教会の中に入ってきて混乱もあるだろうが、あなたがたはキリストによる罪の贖いと赦しが与えられているのだから、不安になる必要もなく、安心して生きることができるのですよとお語りくださっているのです。
 今に生きる私たちも同様です。主の約束があるからこそ、私たちは、安心して信仰生活を歩んで行くことができるのです。
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「万物は御子によって造られた」  コロサイ1:15~17    2026.4.26
                      ウェストミンスター信仰告白4:1
 
序.
 パウロは、グノーシスという異端が教会の中に混入して、信仰の戦いを行っているコロサイ教会に手紙を書き送っています。異端に対抗する信仰を伝えるためには、主なる神がどのような神であるかを伝えることが求められます。パウロは三位一体の神がおられ、御父が御子をこの世に遣わし、十字架の御業により私たちの罪の贖いと救いを成し遂げてくださったと語ります(13-14)。

Ⅰ.御子は、見えない神のかたち
 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(15)。御子であるイエス・キリストは、マリアの子としてお生まれになり、十字架の道を歩まれました。しかし、御子は人としてお生まれになる前から存在されていました。御子は主なる神により天地万物が創造される前から、父なる神と共に存在された、主なる神そのものです。永遠の次元で、父なる神から生まれたお方が御子です。
 つまり、御子は神の被造物ではなく、御自身も永遠の神御自身です。このことは、コロサイの異端者たち(グノーシス)が、キリストを「高位の霊的な存在」であって、神そのものではないと語ることに対して、強烈に「否」と語っています。
 御子は、神そのものであり、神の本質を御自身においても完全に現しておられるお方です。そのため、神を知ろうとするためには、キリストを見て、キリストがどのようなお方であるかを知ることにより、主なる神を知ることができるのです。

Ⅱ.御子による創造
 「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(16、参照:ウェストミンスター信仰告白4:1)。
 このことは、創世記1章で確認することができます。「初めに、神は天地を創造された」(1)。「神は言われた。「『光あれ』」(3)。「神は言われた。『水の中に大空あれ』」(6)。……。神が言葉を発することにより、天地が創造されていきます。
 このことを、ヨハネも福音書において証しします。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(1:1-3)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14)。聖書が語る言葉(ロゴス)は、三位一体の神の第二位格・御子であるイエス・キリストです。
 つまり天地創造の御業は、父・子・聖霊なる三位一体の主なる神の御業ですが、御父の御計画に従い、御子が中心的な働きを行いました。
 パウロは、「万物は…御子のために造られました」とも語ります(16)。このことが主なる神が天地万物を創造された目的・理由であり、キリストのため、キリストの栄光が讃えられるためです。
 宇宙も、地球も、そして歴史も、私たち一人ひとりも、その存在理由は、キリストの栄光が讃えられるためです。神に栄光を帰すること、つまりキリストの栄光のために、私たち人間は存在し、生きています(参照:ウェストミンスター小教理問1)。
 私たち人間は自由意志が与えられ、自分の力で生きているつもりでいます。しかし、この自由意志も、主なる神が、私たち人間に生命をお与えくださるときにお与えくださった恵みです。神の恵みによって命が与えられているからこそ、私たちは、創造主であり、贖い主である主なる神を信じ、主の栄光を讃えて生きることが求められているのです(参照:ローマ9:20-23)。

Ⅲ.御子は私たちと共にいてくださる
 「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(17)。つまり天地創造だけではなく、すべてのものの維持・統治も御子の御業です(摂理:ウェストミンスター信仰告白5:1)。
 しかし、御子は私たちが目で見ることがないため、神の存在を受け入れることができない多くの人たちがいます。そのため人は、自分の力・判断で生きています。現在の世界の状況を見るならば、神が存在していないように感じてしまいます。苦しみの中にある人たちにとっては、まさに神の不在を嘆きたくなります。
 しかし主なる神は御子と共にいてくださり、統治し、私たちを導いてくださいます。だからこそ私たちは神に祈ることができるのです。祈りにおいて「主イエス・キリストの御名によりお祈りします」と最後に語るのは、御子が今も私たちと共にいてくださり、支配しておられるからこそです。
 宗教改革の標語の一つに、コーラム・デオ(神の御前で)という言葉があります。主なる神は、今も生きて働いておられ、私たちを支配しておられます。だからこそ、私たちは神の御前に生きるのです(参照:有神論的人生観世界観)。今も神が共におられ、キリストの再臨を信じ、キリストにおける最後の審判があるからこそ、私たちは、艱難の中にあっても信仰に生きることができるのです。
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「キリストは教会の頭」  コロサイ1:18    2026.5.3
                      ウェストミンスター信仰告白25:1、2 

 序.
 パウロは、グノーシスの異端に苦しむコロサイ教会に対して手紙を書き送っています。そして16・17節では、御子が神そのものであり、三位一体の第二位格であることを確認し、さらに御子は神として永遠に生きておられること、天地万物は御子の言葉により造られたこと、それも万物は御子のために造られたことを確認しました。

Ⅰ.キリストを頭とする教会を立てるには
 私たち人間は、御子のために生きるものとされました(参照:ウェストミンスター小教理問答問1)。
問1 人間の第一の目的は、何ですか。
 答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、
   永遠に神を喜びとすることです。
 これは、キリストという体を立て上げるために私たちが用いられるということであり、それが神の御国につながります。パウロはこのように語ります。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Ⅰコリント12:27)。目・耳・口・手・足・心臓…、一人ひとりが担うべき働きが違います。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(12:26)。教会に集う一人ひとりが、キリストの体を作り上げるために働きが与えられています。
 一方コロサイ書では、「御子はその体である教会の頭です」と語ります(18)。私たちはキリストの体を立て上げていくのですが、その頭が御子キリストであるとパウロは語ります。
 「教会のために伝道しなければならない」、「奉仕をしなければならない」、「礼拝に出席しなければならない」と語られることがあります。しかし教会の頭がキリストであるならば、教会があることにより、キリストが示されることが教会の本質です。伝道が教会の本質ではありません。
 カロリック教会はペトロから引き継がれた教皇が教会の頭であり伝統を大切にしますが、「伝統」を大切にしても、キリストは指し示されることにはなりません。
 教会においてキリストが指し示されるためには、御言葉である聖書が明らかにされる必要があります。だからこそ改革派教会では、御言葉が解き明かされる説教と礼拝を大切にするのです。
 しかし牧師一人の判断・解釈で説教が行われるとき、御言葉によって一致することはできません。むしろ人間的な教会になります。
 そのため改革派教会では、主なる神が御言葉をとおして私たちに何を語ろうとされているかと、主に聖書の誤った考えを否定することにより、信仰告白を積み上げてきました。
 ですから信仰告白を用いて説教を語ることは、主なる神が私たちに求めている御言葉の解釈を獲得するために、非常に重要なことです。まさに、信仰告白に従った聖書解釈を行い、説教が語られるところに、キリストが指し示され、主が立てるキリストの教会が立てられていきます。

Ⅱ.キリストの十字架が語られる説教
 パウロは続けてこのように語ります。「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」。「御子は初めの者」とは、「御子はすべてのものが造られる前に生まれた方」であり、永遠のうちに父なる神から生まれた方です。そして、「死者の中から最初に生まれた方」とは、十字架の死からの復活のことであり、同時に霊的に生きる者となった神の子として、神の御国に招かれる者となったことを語っています。
 そうであるならば、教会において、御言葉の解き証しとしての説教が語られるとき、その中心にキリストの処女降誕、十字架の死と復活が語られることが、何より重要であると言えます。
 このとき、キリストは真の神として三位一体の神であること、処女降誕、二性一人格であること、キリストの十字架の死と復活、奇跡等の教理として確認され、教えられていくこととなります。
 つまり、行き着くところはすでに語ってきた信仰告白なのですが、教理がまとめられ、そして教えられていき、信仰における一致が求められます。こうして教会は、キリストの御業が証しされ、一致が生まれたところに建てられていきます。

Ⅲ.キリストの愛に生きる教会
 このとき、教会においてキリストが証しされるとき、キリストにあって教会に一致が生じてきます。このとき、キリストが指し示された愛が指し示されることとなります(参照:エフェソ4:12-16)。そしてキリストの体を作り上げていくことにより、誤った考えに引きずられることがなくなり、グノーシスに対しても対抗することが可能となります。
 教会においてキリストが指し示されるとき、ここにキリストの持っている愛が示されることとなります。苦しむ者に助けの手が与えられ、滅び行く者に罪の赦しが宣言されることにより、キリストの愛が教会の中に示されます(参照:Ⅰコリント13章)。主なる神・キリストへの愛に生きるとき、隣人への愛にも生きる者とされます。
 神の御子であり、救い主であるキリストを知り、キリストの御言葉、キリストの愛に生きるとき、私たちはキリストを頭とする教会を立て上げることができ、私たちの信仰をとおしてキリストが証しされ、福音宣教が行われていきます。
 
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「御子による神との和解」  コロサイ1:19~20    2026.5.10
                      ウェストミンスター信仰告白8:1
 
序.
 パウロは、グノーシスの異端に苦しむコロサイ教会に手紙を書き送っています。グノーシスは、キリストが人となられたことを否定し、霊的な力と考えます。そのためパウロは、キリストは神の御子であり、永遠に父から生まれたお方であること、キリストは教会の頭であることを語ってきました。

Ⅰ.御子は神そのものである!
 そして「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせられた」(19)と語ります。新改訳聖書初版は「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」と訳します。キリストに神の本質が宿っています。つまりキリストは、神の被造物ではなく、神そのものです。
 それも「満ちあふれる」です。父なる神の一部がキリストに宿ったのではなく、主なる神のすべてがキリストに宿り、持っておられます。つまり、キリストは神に似ている・神に近い存在・一部が神であり、人間の部分がある・神と人が混合しているのではなく、キリストは神そのものです。
 ですから、御子が人としてお生まれになったとき、神であることを止められたのでもなくなったのでもなく、部分的に人となられたのでもなく、完全に人としてお生まれになられたのであり、なおも神そのものでした。このことを「二性一人格」と語ります、キリストは完全に神そのものでありながらも、同時に完全に人としての性質をもっておられます。

Ⅱ.御子の来臨は、和解のため
 この真の神でありつつ、真の人となられた御子イエス・キリストは、十字架の死と復活・昇天を成し遂げてくださいました。なぜ神の御子が人となられたのか、その理由をパウロは20節で語ります。それは、主なる神が私たち人間が和解するためです。
 そもそも人間は、神との約束を破ることにより、罪人なり、肉の死と裁きを避けて通ることができなくなりました。この時同時に、聖・義・真実な神は、罪を赦すことができないため、神と人間との間に、交流の断絶が起こったのです。神との断絶が起こった人間は、隣人との間でも断絶が起こり、それが差別・ハラスメント・虐げ・権力闘争・迫害・戦争を引き起こします。平和・戦争と語れば、国家間の闘争を思い浮かべますが、隣人との関係の断絶は、家族にあって、教会にあって、地域にあって、社会にあって起こりうるものであり、その延長線上に国家間の戦争があります。
 主なる神は、それでも人を愛してくださり、神の子とするための和解の道を示されました。それが罪がない御子による贖罪であり、人となられたキリストが十字架に架かり、肉の死を遂げられることにより成し遂げられました。そして神は、キリストの御業を受け入れ、信じる者に対して、「あなたの刑罰は、キリストの十字架によって贖われた」と宣言してくださり、神の御前に義と認め、和解を与え、神の子として認めてくださいました。
 つまり私たちが救われるためには、私たちが神を信じて御言葉に従って良き行いを行うことにより勝ち取るものではなく、御子によって成し遂げられた十字架の御業こそが、自分の罪の刑罰のためであったことを受け入れることによって、主なる神からの恵みとして救いが与えられます。
 そして神との間に和解が与えられ、神の子とされた者は、同時に聖徒の交わりにおいても和解することが求められます。このとき私たちキリスト者は、隣人を配慮し、小さな社会における愛の交わりを形成することから始めます。
 平和宣言において「構造的暴力」と語りましたが、奴隷制度・男尊女卑・障害者問題・性的少数者のことなど、長年放置されてきた社会構造は、罪が原因です。こうしたことの一つひとつに問題があることを確認し、解消していく努力が求められます。その延長線上に、迫害・国家間の暴力である戦争に対する解決があります。
 そのため、私たちの生活の周りにおいて愛の交わりを行い、隣人との間で和解をする努力ができなければ、声高に「戦争反対」を叫んでも、「愛がなければ、…騒がしいどら、やかましいシンバル」(Ⅰコリント13:1)となり、人々に届くことはありません。

Ⅲ.すべての被造物に及ぶ御子の和解
 「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(20)。和解がもたらされるのは、神と人との間だけではなく、主なる神が造られたすべての被造物に及びます。
 そもそも、神が天地万物を創造し、人を創造されたとき、人はすべての被造物を管理することが求められたのであり、支配することではありませんでした(参照:創世記1:26)。
 しかし人間の罪の結果、神と人との関係ばかりか、人と被造物の関係も崩れ、人は家畜の肉を食べるものとなり、ノアの洪水の後、神はそれを許容された状態にあります(創世記9:2~4)。
 しかし、御子による和解がもたらされ、神の国が完成したとき、すべての被造物において和解がもたらされます(参照:イザヤ11:6-10、66:25)。
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