◆使徒言行録 連続講解説教 |
「復活のイエスと聖霊の約束」 使徒言行録1章3~5節 |
Ⅰ.主イエスの復活が示された人たち 主イエスの十字架の死から復活を遂げられました。キリスト教信仰の中心は、キリストの十字架と死からの復活の事実です。 しかしルカ福音書では、主イエスの十字架の死から復活された事実を伝え、同時に弟子たちの心の目が開かれ、十字架の御業を受け入れ、主イエスを救い主として信じることが記されています。 Ⅱ.御言葉による信仰の養い 死から甦られた主イエスは使徒たちに聖霊を通して目を開かれました(1-2)。そして「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し」(3)ました。 主イエスは12使徒たちを選び、共に歩んできました。主イエスが使徒たちと共にいたとき、真の福音を語りました。旧約聖書において約束されたことが、主イエスご自身において実現することを語りました。そして主イエスご自身が神の御子であることを、力ある業・つまり病人の癒やしや奇跡によりお示しになりました。そして、十字架の死と復活を3度にわたり予告していました。しかし使徒たちは、主イエスの教えと十字架が結び着きませんでした。 しかし復活の主イエスは、主イエスが使徒たちに語ってきたこと・行ってきた御業が、ご自身の十字架の死と復活に結び付いていることを、使徒たちに伝えます。 ここに信仰に求められることが語られています。私たちが「主なる神さまを信じる・信仰を持つ」と語るとき、一つには、十字架の上に死に、復活された主イエスと出会うことが求められます。私たちは、使徒たちのように直接、復活の主イエスと出会うことはできませんが、主イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と語られたように、主イエスが十字架の死から三日目の朝に甦られたことを、信仰により信じています。 さらに、キリストの十字架の死と復活により、①旧約の時代に約束されたメシアとしての御業であること、②キリストの十字架こそがあなた自身の罪の贖いのために必要であったこと、③キリストが死から復活されたように、キリストを信じる私たちも、復活の生命が与えられ、神の御国での永遠の生命が約束されていることが示されます。 このように主の御言葉の教えと主イエスの十字架の御業が結び付くことにより、私たちの信仰は強められます。 Ⅲ.教育的伝道 多くの教会において、復活の主イエスが「伝道命令」を出されたことから(マタイ28:16-20)、伝道することを求めます。主イエスが命令されているから、出て行って伝道しなければならないことは確かです。しかしこれだけでは時に律法主義になります。 聖書は、御言葉の養い抜き・聖霊の招き抜きの伝道は求められていません。つまり伝道を行うにあたって、まず、御言葉により信仰の養いが求められています。旧約聖書で語られていることと、主イエスの御業、新約聖書で語られている福音が結び付きます。そして、キリストの再臨と神の国の完成により、私たちは、神の御国に入れられ、祝福に満たされます。私たちは今日も、主の晩餐の礼典に与りますが、信仰を告白した者は神の御国の祝福が約束されています。 旧約聖書・新約聖書において語られている福音の理解を深めることにより、キリストの十字架の御業により罪が贖われ、神の子とされている確信が深められます。 この結果、教会から日々の生活に戻っても、救いの喜びに生きることとされます。私たちがキリスト者として生きることにより、信仰の証しとなり、キリストご自身が人々に示されることとなります。そうすれば、必要な時に証しすることが求められ、御言葉を語る機会も出てきます。これこそが伝道であり、教育的伝道です。 Ⅳ.聖霊に委ねて生きる 主イエスは、40日間弟子たちと共におられ、教え続けられました。しかし弟子たちはエルサレムで聖霊降臨を待たなければなりません。主イエスが天に上られ、弟子たちの前からいなくなるからです。 このとき、使徒たちは、「自分たちは主イエスから教えられた。だから自分たちの力で出て行き、伝道するのだ」と、語った所で、そうした行為は、人間的な行為です。 今に生きる私たちに求められていることは ①復活の主イエスと出会うこと ②心の目が開かれ、信じること ③御言葉が教えられ、信仰の養いに与る ④聖霊に委ねる こうした信仰に生きることこそが、真のキリスト者としての伝道となります。 |
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