月報巻頭言 Vol.7「心が確かに定まらなかったとき①」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 今年のテーマは「主にある喜びと感謝に満たされて語り継ぐ」 第7回目の副題は「心が確かに定まらなかったとき①」です。
毎年行われてきた伊丹教会と西谷教会合同の修養会が今年は延期となりました。コロナ過の影響もありますが、その主な理由には「語り継ぐ」、すなわち信仰の継承という事柄について、時をかけて向き合いたいとの思いと祈りがあります。
その中で赤石先生から先月の小会にて、牧者として立てられた私にどのように信仰は継承されたのか。私の目に映った父母の信仰はどうであったのか。またその信仰を妻や子・孫へとどのように語り継いでいこうとしているのか。そのことについてこの月報の巻頭言を通して書き連ねてくださいとのご依頼を受けました。どのくらいの時を要するものなのか。また、皆さまの信仰に資する読み物として耐え得る事柄が書けるのか。自らでもわかりません。
ただ、準備をする中で、主から頂いた機会として、詩編78編8節の「心が確かに定まらない世代」とのみ言葉が目に留まりました。私自身がいつ、何をきっかけとして教会というものが定まったのか。そのことから語り始めさせて頂きます。
まず私の信仰歴を調べてみると、私は生後4か月半の7月に、当時11歳の姉と共に、林茂雄先生から幼児洗礼を受けていました。父は、ほぼ時を同じくして家具を製造する会社を立ち上げ、また私たち家族も伊丹から宝塚へと引っ越しています。もとあった住まいは伊丹教会から15分くらいのところ、伊丹市立のローラースケート場から少し南にありました。
物心がついたころの私にとって、教会とは日曜日に家族そろって行く場所のことでした。私はいつも父と一緒に2列目の中央に座っていました。また私にとっての教会とはみんなで立ったり、座ったり、目をつむったり、時には歌を歌ったりするところでした。教会というところでは少々音が外れていても、また間違っていても、みんなが声を揃えて、讃美歌を大きな声で歌うのです。言葉の意味がわからなくても、楽譜が読めなくても、繰り返し歌うので、徐々に歌えるようになる。そのことが嬉しくて、私は歌を歌うこと、そして教会の歌が好きになりました。そんな私の傍らで、父はわたしに立つタイミングや座るタイミングを教えてくれ、また調子はずれな私の歌をニコニコ聞きつつ、共に歌ってくれました。
そして教会とはみんなが聖書のお話を聞くところでした。父が神妙な面持ちで泥谷先生のお話を聞き、時に小さくされたパンを食べ、小さな器に入った葡萄酒を飲んでいたことをよく覚えています。ですから日曜日に集まってみんなで歌うところ。またお話しを聞くところ。それが未だ心の定まってはいなかった私にとって教会が意味することでした。
では私の中で教会が定まったのはいつだろう。あの時かな、それともこの時かな。そのことをずっと考えてきましたがなぜか全く思い出せません。私の意識にも記憶にも出てこないのです。先日、伊丹教会で牧師であった泥谷逸郎先生の奥様、ちひろ姉の納骨がありました。その際に息子さんの謙司兄とお会いして、「よく一緒に遊んだのを覚えてる?」と聞かれて驚きました。不自然なほど全く記憶にないのです。遊んでもらった記憶さえないことはショックでした。
そしてなぜないのかをずっと考えて、ひとつ思い出したことがありました。それは私が日曜学校なるものの存在を知った時のことだったのです。ある礼拝で私は子ども聖歌隊が賛美をするという場面に出会いました。日曜学校の生徒が練習をして賛美をするという試みだと聞きました。その時、感じた感覚を通して私は初めて教会というものを意識したのだと思います。私はその聖歌隊にいないし、その場所も与えられていないという現実です。自分と教会との間にある、目には見えない大きな距離の存在。わたしと教会には見えない壁がある。奇しくもそう感じたことを通して主は私の中の教会をあるように定められたのでした。(つづく)
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