月報巻頭言 Vol42「主にあってたゆまず祈り続ける②」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 2025年のテーマは「主にあって喜び、耐え忍び、祈り続けよう」 副題は「主にあってたゆまず祈り続ける②」です。
先月は、「たゆまず」という言葉に着目をして、聖書から学びました。
パウロが言うところの「たゆまず祈る」とは、
祈りを何か特別な事柄と捉えず、
日常のことにしていくこと。
そして祈りを通してキリストと結ばれている恵みと祝福とを
存分に受け取っていくことだと教えられました。
ただ、そもそもなぜ、
祈ることが救いへと結びつくのでしょうか。
そのことについて宗教改革者の一人である
カルヴァンは聖書を通して、
神ご自身が私たちに祈るよう、
招いておられることを挙げています。
例えばカルヴァンは詩編50編にこのようなみ言葉があると言います。
告白を神へのいけにえとしてささげ
いと高き神への満願の献げ物をせよ。
それから、わたしを呼ぶがよい。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
そのことによって
お前はわたしの栄光を輝かすであろう。
(14,15節)
また、主イエスご自身が
「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカ11:9)
と言われたことを挙げています。
思えば、西谷教会で読み進めているルカによる福音書で描かれていたこと。
それも折に触れて祈られる主イエスのお姿でした。
私たちの主イエスはそのように、
祈りを通して育まれる父なる神との交わりの日々を
大切にして、その地上での日々をお過ごしになられていました。
そのように旧・新約聖書全体を貫いて、
またなにより私たちの主イエス・キリストのお姿として、
神は私たちに祈るよう招き、そして求めておられます。
それゆえに、とも言えるでしょうが、
カルヴァンはこのローマ12:12の解説を締めくくるにあたって
「不断の祈りこそ最上の救いの道である。」と言っています。
また彼はそのように救いへと至る最上の道として、
神が御用意くださった祈りには前提となることがあると言います。
それは神から告げられている救いの約束を
その祈りにおいて切り離さずにおくこと。
つまり、祈りの前提は信じることだと言うのです。
彼は「主の勧めは、、、確かな保証と約束なしにはない。」
(キリスト教綱要3巻20:24)と言います。
それは先に挙げられたみ言葉の通りでもあります。
ゆえに私たちが祈る前にまず神を信じなければならない、と言うのです。
使徒ヤコブもその手紙の冒頭で
「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(1:6)と書き記しています。
もし私たちが神を疑い、信じていないのであれば、
祈ることはとてもむなしいことです。
ですから、神を信じることがたゆまず祈ることの前提だという主張は、
ごく当然のことです。
そしてそのような信仰と祈りの関係性は、
前提であると共に相互性をも有する、とカルヴァンは言います。
なぜならみ言葉を得た預言者ハバククが
祈りをもって神に応答しているからです。(3:1)
そう考えていくとき、私はハッとさせられました。
私たちがなにか祈らなくなる、あるいは祈れなくなるときとは、
実のところ私たちの信仰が揺らいでいるときなのですね。
祈らなくなることで、私たちは自らの信仰を弱くし、
またその信仰の弱さから祈らなくなる。
そのような負の連鎖へと陥った過去の自分自身のことを思い出しました。
そのような弱さをもつ私たちに
ダビデの詩として「あなたの道を主にまかせよ。」(詩編37:5)
とのみ言葉が備えられている、ともカルヴァンは言います。
祈りにおいて神に自らの心の一切を注ぎだすこと。
喜びも悲しみも、安心も不安も、
そのすべてをいついかなるときでも、
その愛と慈しみからお受け下さるお方が今も生きておられるということ。
私たちが祈りにおいてすべてをまかせられる源泉は、
キリストであられる主イエスにこそあります。
ですから、どうぞ皆さんも主イエスを信じて、
祈ってみてください。
その祈りはしっかりと聞かれています。
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