月報巻頭言 Vol40「主にあって苦難を耐え忍ぶ③」

月報巻頭言 Vol40「主にあって苦難を耐え忍ぶ③」

西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 2025年のテーマは「主にあって喜び、耐え忍び、祈り続けよう」 副題は「主にあって苦難を耐え忍ぶ③」です。

「苦難を耐え忍ぶ」についての学び。
3回目にあたる今回は、私たちの主イエス・キリスト、その苦難からです。

ここで注目したいのは使徒信条です。
その言葉を順に思い返して頂ければ、
そこに小さく主イエス・キリストが
「苦しみを受け」という
言葉が付されていることをお気づきになられると思います。

16世紀に書かれた”ハイデルベルク信仰問答”はその問37で、
主イエスが受けられた苦しみについて以下のように解説しています。

問37 「苦しみを受け」という小さな言葉によって、あなたは何を理解しますか。
答  主が地上のご生涯のあらゆる時に、特にその終わりの時に、体と魂において、全人類の罪に対する神の怒りを担われることであります。それは、主が、罪を償う唯一の供え物としての、その御苦しみによって、わたしたちの体と魂を、永遠の刑罰から贖い出し、わたしたちのために、神の恵みと義と永遠の生命を得て下さるためであったのです。

ここでのポイントは四つあります。
一つ目は、主イエスの苦難とはその全生涯であったこと。
二つ目は、体と魂における御苦しみであったこと。
三つ目は、そこには全人類の罪に対する神の怒りを担われるという特別性があったこと。
そして最後はそれらの苦難が私たちのためであったということです。

一つ目の全生涯の苦難ということ。
福音書は主イエスがそのご生誕から苦難のうちにあったことを明らかにしています。
飼い葉桶に寝かされ(ルカ2:7)、
ときの王によって殺されそうになり(マタイ2:13)、
周囲と家族からも「気が変になっている」と思われていました(マルコ3:21)。
また故郷でも敬われず(マタイ13:57)、
弟子たちにも理解されなかった(マタイ16:22ほか)その苦難の日々は、
確かにその終わりの時に集中します。
主イエスは実に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですが」(マルコ15:34)
と叫ばれて、平和を求めてうめく人々、また涙する人々の友となられました。
しかしそれはご自身で「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」(マルコ10:45)と言われる通りのことでした。つまり主イエスはキリストとしてのご生涯を人格的かつ自覚的に苦難の僕として歩まれたのです。

二つ目は信仰問答が、その苦難について「体と魂」における苦難であったと強調していることです。体と魂における苦難とは、つまり全人的な苦難であったという意味です。
主イエスは神なのだからその体は強靭で痛みなど感じなかったわけでも、
また心や魂が痛まなかったわけでもありません。
キリストは実にまことの人として、
人が生涯受け得るすべての苦難を担われました。

三つ目は、その苦難には全人類の罪を担われるという特別な性質があったということです。
そのような主イエスの全人的な御苦しみは、
私たちが地上で受けるいかなる苦難と比較し得るものではありません。
これはその程度の問題ではなく、
私たちの救いのために、御心のままに受けられた神の怒りの「杯」(マタイ26:39)でした。
一方でポイントとなるのは、
担われたその御苦しみが、
はたして誰から、もたらされたのかということです。
使徒信条は「ポンテオ・ピラトによって」と記します。
これはそのギリシャ総督個人の責任で、
十字架の御苦しみと私たちとが無関係であることを意味しません。
なぜなら聖書には、
「異邦人やイスラエルの民と一緒になって、、、聖なる僕イエスに逆らいました。」(使徒4:27)と書かれているからです。
ましてや聖書には、
はっきりと「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」(使徒2:36)とも記されています。
ですからキリストの苦難とは、
主が愛された弟子をも含めたすべての人間による責任性がある。
故にキリストは付き従う婦人たちに「わたしのために泣くな。自分と自分の子供たちのために泣け。」(ルカ23:28)と言われるのです。

キリストの苦しみは私自身の罪による。
その自覚に立つとき、ようやく私たちは
主イエスの苦難が私たちのためであったという言葉の本当の意味に触れることとなります。
そのようにして私たちが負うべき神からの苦難。
その苦難は主にあってすべて取り去られたと聖書は記します。
そのことを事実として受けとるとき、
私たちは先立って歩まれる主イエスの、
キリストとしてのその慈愛に満ちた御顔に気付くことでしょう。

ですからいかなる意味でも
救われるために苦難を耐え忍ぶのではありません。
私たちは主に贖われ、
救われた者として、福音のために苦難を耐え忍ぶ。
そのことを通して平和の主イエス・キリストは、
世にご自身のお姿をありありとお示しくださるのです。

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