月報巻頭言 Vol39「主にあって苦難を耐え忍ぶ①」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 2025年のテーマは「主にあって喜び、耐え忍び、祈り続けよう」 副題は「主にあって苦難を耐え忍ぶ①」です。
急に蒸し暑くなってきました。
ついこの前まで必要だったストーブが必要だったのにと、
なかなか心も身体もついていかない日々です。
さて引き続き、今年の目標として私たちに与えられたみ言葉
「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:12)から
教えられたいと思っています。
2月から5月にかけては冒頭にある「希望」というみ言葉から、
主日に与えられたみ言葉との係わりも含めて様々なことを思い、
また教えられてきました。
ですので、また3か月ほどをかけて、
今度は続く「苦難を耐え忍ぶ」とのみ言葉から教えられたいと思います。
その「苦難」について。
まずパウロがローマの信徒への手紙で何を言っているのかを見ておきたいと思います。
調べてみるとパウロはローマ書で苦難、口語訳では患難とも訳されていますが、
いずれにせよその言葉をそこまで多く用いていません。
原文を確認すると4か所でした。
有名な部分はやはり5章にある
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(4節)のところです。
ただ、ここだけを読むと、
私たちはどことなくその教えを一般化し、
なにか普段の生活で忍耐することにも、させることにも意味があるように考えます。
一方その時、パウロがその前にいったい聖書のどこを引用して、
その苦難について語っていたかと問われると、あまり思い出せないのです。
ここでパウロがその苦難の前提として聖書から語っていること。
それは創世記にあるアブラハム物語、
特に妻のサラとの間に子どもがいないということでした。
パウロはそのことについて、
もはや彼らにとっては既に苦難を通り超えて
「希望するすべもなかった」(4:18)と言っています。
なぜならそれは「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、
既に自分の体が衰えており、
そして妻サラの体も子を宿せないと知」っていたからです。(同19節)。
ですからここで言われている苦難とは、
いわば告げられた神の言葉と正反対の現実、
つまり「信仰による従順へと導く」(ローマ1:5)ことと
相反して存在する外的な「妨げ」(同13節)のことだということです。
また妨げという意味では、
これも皆さまがよくご存じのこととして、
自らにイサクが生まれると聞いたとき、サラは笑いました(創世記18:12)。
ですから妨げとは先ほどの外的な事柄ばかりではなく、
聞いて思わず笑ってしまう。
それほどに現実性がないと思い込むことで生じる
私たち自身の内的な妨げ、つまり心の弱さや頑なさのことでもあります。
ですからここでの苦難とは、
むしろ神の言葉を通して希望すべき事柄がはっきりと確約されている。
それゆえに生じる苦難なのであって、その逆ではありません。
ましてや神ならぬ人がわざと隣人に
苦難や忍耐を強いることで希望が生みだされることなどありません。
その一方で、
神を信じなければ苦難もないのかというとそうではありませんよね。
なぜならパウロもローマ書の結論部分で
神こそが「希望の源」(15:13)と記す通りのことだからです。
神はキリストの福音を通して
ありありとその希望の源たるお姿をお示しくださいます。
ゆえに私たちがいかに自らと、
その置かれた境遇とがたとえ笑ってしまうほどに弱くとも、
神はその希望の道行きにある苦難を忍耐する力をもお与えくださる、ということです。
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