月報巻頭言 Vol38「主にあって希望をもって喜ぶ③」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 2025年のテーマは「主にあって喜び、耐え忍び、祈り続けよう」 副題は「主にあって希望をもって喜ぶ③」です。
キリスト教会はイエス・キリストの復活を祝うイースターを経て、
ペンテコステ(聖霊降臨日)へと向かう日々を過ごしています。
それはいわば主イエスとの蜜月の日々だと、
とある先生が仰っておられたことを思い起こします。
木々の新緑が目にまぶしい季節は
復活の主から改めて教えられる日々でもあることを思うと、
どこか晴れやかな気持ちになります。
そのように主イエスが天に昇られるまでの毎日を
改めてその教えと共に生きていくこと。
それは神はなぜイエス・キリストをご復活させてくださったのか。
そのことについて思いを馳せていくときでもあるでしょう。
そのこともあって西谷では、
今年の受難週からイースターにかけて、
福音書と使徒パウロの手紙から一つずつ、
主のご復活についてのみ言葉に与りました。
与ったのはマルコによる福音書の最後のところと、
コリントの信徒への手紙Ⅱの5章からでした。
そのどちらにも神へのおそれが表されていたことをお気づきになられたでしょうか。
そのおそれに触れたとき、ふと
創世記に綴られているノア物語を思い起こしました。
ノアは家族や共に過ごした生き物たちと共に箱舟から出て、
そして主のためにささげものをささげます。
描かれてはいませんが、
そのときノアは神をおそれつつ礼拝したのだろうと思います。
その後に描かれるロトとその家族もそうであったでしょう。
またアブラハムのイサク奉献の場面においてもそうです。
このとき神はみ使いを遣わし、
アブラハムの名前を二度呼びつつ、
彼が神の裁きをおそれる者であったことを告げていました。
それらのおそれについて、
神の裁きへの畏敬の念であることは理解しつつも、
私自身、
気付かぬうちにどこか偏って滅びの出来事のほうに
そのおそれを結び付けていたように思います。
受難から復活にかけて与えられたみ言葉は
その偏った神の裁きへの思いを正しく導いてくださいました。
その一方で、蜜月であり、
春の始まりであるご復活の主が近づいて来てくださって、
一緒に歩き始めてくださったとしても、
その主のお姿が分からないことがある。
そしてみ言葉をかけて頂いても
暗い顔をして立ち止まってしまうことがある。
聖書はそのような弱い弟子たちの姿も描いています(ルカ24:17)。
まるで自分のことを見るようでもありますが、
そのことに落ち込む必要はないのですね。
未だ弱い信仰であったとしても、
主はその者たちと共に歩み、食事を共にし、
み言葉と、讃美、そして祈りとをもって
そのご存在に気付かせてくださる(同30節以降)お方だからです。
そのそれゆえにご復活の主にこそ、
礼拝を通して私たちが結び付けられていくことの大切さを
改めて思わされています。
そのように神がその正しさにおいて裁かれることを
おそれと共に理解すること。
それは一つ「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7ほか)
とある通りのことです。
ただ、そのおそれが滅びと言う裁きの一側面に偏るならば
神におかれるべきふさわしいおそれではないことを、
主のご復活に触れた女性たちの姿から
見て取ることが出来るでしょう。
神がいつでも正しく裁かれるお方であること。
その裁きが恵みであり救いへの道行きであることを示すべく
神はキリストをその初穂としてご復活させられたのだということ。
その希望への道のりを今、天におられるご復活の主と、
また教会に集う皆さまと共に歩ませて頂けている。
改めてそのことを心から喜び、キリストに感謝しています。
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