月報巻頭言 Vol37「主にあって希望をもって喜ぶ②」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 2025年のテーマは「主にあって喜び、耐え忍び、祈り続けよう」 副題は「主にあって希望をもって喜ぶ②」です。
春というものの備えは実に力強く、また来るときには突如としてやって来るものですね。
3月後半の暖かさには本当に驚かされました。
実にその数日前まで、この西谷では雪景色だったからです。
その凍える雪の中でもイヌノフグリなど、
野の小さな花たちが土手沿いにしっかりと咲いていました。
遠くの山々に聞こえる少し慣れないウグイスの歌声にも、
やはりゆるぎない春の訪れを感じます。
まもなくソメイヨシノも咲き乱れ、またヤマザクラが山中に香る春です。
教会学校に通ってくれるお子さんの一人も、この四月からは中学生。
ほんの少し前まではあどけない様子もありましたが、
決してもう子ども扱いなど出来ません。
そんな折、夫婦そろって風邪をひいてしまいました。
思えば去年もそうでした。
いつまでも若いと自らを過信してきたツケであろうと思います。
一向に熱が下がらないので、診療所でお薬を頂いて家に閉じこもり、静養に努めました。
そんな3月最後の日、車で猪名川のほうに向かってまた驚きました。
道沿いには菜の花が咲き乱れ、川沿いには桜が既にキレイに咲いていたからです。
たった2週間ほど外に出なかっただけですが、
ずいぶんと春から取り残された心持ちになりました。
ただその心持ちは、その桜の下でお見かけした、
春を愉しむご家族の姿にずいぶんと慰められました。
礼拝の翌日に、
そうして時宜に適ったご家族の和やかな交わりに触れさせて頂けたことは
嬉しいことでした。
思いがけず心の中に春のおすそ分けを頂いて、ずいぶんと元気が回復しました。
体調のことはともかく、
私は長くこの春と受難節とにある狭間を思い悩んできました。
春をなにか喜べない。
それはもちろん主の御苦しみのことがあるからです。
クリスマスも含めて悔いては犯す罪の日々ならば、
いっそ自分にもまた他者のことにも無関心であればよい。
そのように思った時もありました。
でもそれは明らかに違う。
そうではないのだということを、
3月最後の主日に共に聞いたルカによる福音書17章のみ言葉から改めて教えられました。
主イエスはその冒頭で「つまずきは避けられない。」と仰いました。
そして主イエスはそのつまずきの数々を甘んじて避けずにお受けになり続けられました。
十字架に架けられたとき、
その隣にいた罪人にでさえ関心を持ち続け、
赦されたのです。
主イエスがどれほど隣人に関心を持ち続け、
その心を救いへと砕かれ続けてきたかということを思わされます。
一方でそのことをただ「しなければならないこと」として
義務的になされ続けたのか、というとそれも違うと言わざるを得ません。
なぜなら、未熟な弟子たちがその働きを終えて帰ってきたとき、
主イエスは聖霊によって喜びにあふれておられたからです(10:21)。
福音に生き、生かされる日々は、
めぐり合うほんの小さなことにも関心を持ち、
そこに主の喜びを見ることだと思わされました。
主イエスは既に世に来られ、
私たちは赦しの恵みを礼拝で受け取りながら、生きています。
それは本当の春の訪れであり、ゆるぎないものです。
たとえその身は苦しみにあったとしても、
主の赦しを味わい、その赦しのうちに生きてみること。
それが私たち赦された罪人としての回復の一歩なのかもしれません。
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