月報巻頭言 Vol32「主の恵みに生かされる②」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 今年のテーマ「苦難の襲うときにも、静かに待ちます」 副題は「主の恵みに生かされる②」です。
先月に引き続きキリストの「恵みの手段」について考えています。
皆さんはご家族と会うとき、
またご友人のところを訪問される時に、
キリストによって与えられている
その「恵みの手段」を意識されることはあるでしょうか。
誰かのところへとお伺いするにあたって
手みあげの一つでも持っていかないとどこか落ち着かない。
そんな思いをされたことは誰しもあるのだろうと思います。
そのような中、
9月に代理牧師として就任してくださった吉岡契典先生と共に、
訪問聖餐に出かけさせて頂いています。
訪問聖餐式とは、
病床でお過ごしの教会員へご本人からの願いがあるときに、
小会での決議を経て執り行われる正式な聖餐式のことです。
ご本人や周囲の状況にもよりますが、
み言葉の解き明かしがなされ、
式辞が読まれ、
パンとぶどう酒の配餐に与り、
感謝の祈りをささげるという通常の礼拝に与ります。
可能ならば賛美歌も歌います。
この原稿もその礼拝と聖餐の恵みに与ったのち書かせて頂いています。
毎回そうなのですが、
そのような家庭での礼拝はなによりも素晴らしく、
楽しいのはそこにキリストがおられる。
そう味わえるからです。
それはマタイ18:20で
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
と仰ってくださる故です。
聖餐式が伴うと、更にその恵みが「見えるみ言葉」としてありありと示されます。
その最初の訪問時に吉岡先生が仰っておられた教えが、
今でも私の胸に留まっています。
その教えとは「私たち(教師)がそれぞれの家へとお持ちすることの出来るのは、
これだけなんですよ。」という一言です。
その一言を聞いたとき、
そのお持ちすることの出来る「これだけ」こそ、
「み言葉」、「聖礼典」、そして「祈り」という
「恵みの手段」のことなのだなと改めて思いました。
では、教師でなければ、
その恵みを誰かのところに持っていくことは出来ないのでしょうか。
確かに聖礼典をそれぞれの家へとお持ちすることの出来るのは教師に限られます。
ただ、「み言葉」と「祈り」とをもって
家庭での礼拝を守ることは教会員なら誰しもが招かれていることです。
ですからぜひ、二人また三人と集まってくださり、
皆さまもみ言葉と祈りにある
キリストの恵みの賜物を味わって頂きたいと思うのです。
そして、そのためには遠慮せず、
私や役員の皆さまをも用いて頂きたいとも思っています。
なぜならその人たちは神からそのために召された人々だからです。
吉岡先生はその先頭に立ってくださり、
出来得る時間をとって、
今、訪問をしてくださっています。
その意味で今、主イエスが伊丹・西谷両教会に
吉岡先生を遣わされている意義はとても大きいと思っています。
自分だけで聖書を読むこと、
また一人で祈る場所にどうぞ私たちを招いてください。
規模において、それらは小さな礼拝であるかもしれません。
ただその豊かさが決して小さなものではないこと。
先んじて集まった方々がその唇で証しする通りですし、
聖書に記されている通りのことです。
そしてなぜその時や場所が豊かであると言い切れるのか。
「わたしもその中にいる」とキリストが言ってくださるが故のことです。
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