月報巻頭言 Vol30「信仰と悔い改めにある主の恵みに生きよう③」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 今年のテーマ「苦難の襲うときにも、静かに待ちます」 副題は「信仰と悔い改めにある主の恵みに生きよう③」です。
ルカによる福音書を読み進めて、11章の終わり近くまで来ました。
その冒頭で主イエスは弟子たちに請われ、祈りの教えを説かれていました。
その際にも申し上げたことでしたが、
改めて私たちの目と耳を、そして心をも天へと向けることの大切さを教えられました。
その教えのあと、聖書に記され続けていること。
それはどれだけ私たち人間、その心のすべてが天ではなく、
むしろ地上のことへと熱心に向けられているということです。
以前、教会サロンでは
「自らを省みて、自分の興味のあることにしか興味がない」
というご意見がありました。
まさにその通りの人々の姿が聖書で記されています。
そして主イエスはその人々に教えを説き、福音を信じて悔い改めるよう招いておられました。
今、身近なところで私たちと隣人の目が向けられているのはお米のことかもしれません。
不作だった昨年のお米が、
地震への備えと合わさって一気にスーパーから消えました。
お米の産地からほど近い猪名川や三田でも、
レトルトのお粥さえなくなっていたので驚きました。
政府によれば、備蓄米はまだ充分にあるそうですが、
育ち盛りお子さんがおられるご家庭では、さぞお困りのことと思います。
その思いのうちに、
改めて福音を信じて悔い改めるということについて考えていたとき、
ふとあるみ言葉に目が留まりました。
それは創世記3章9節にある「どこにいるのか。」というみ言葉です。
これはアダムとエバが罪を犯してしまったあと、
神が初めて二人におかけになった言葉です。
神は二人の所在をご存じです。
ではなぜ「どこにいるのか。」とお尋ねになったのか。
神はアダムとエバ自身がその所在、
本当に恥ずべき心の所在について自覚をするために聞いて下さったのです。
ですから「どこにいるのか」とは、
本来罪を犯してしまった二人が、悔い改めて神を信じるよう招くためでした。
悔い改めとは、
神の御前で私たちの心の所在を明らかにすることです。
そのことは小教理にあるとおりに、
恵みとしてその自覚が与えられることから始まると言えるでしょう。
アダムもエバも
それ以前に神の歩く音が聞こえるだけで神の顔を避け、隠れました。
神がそのすべてを造られたのにもかかわらず、です。
一方、その二人の裸の姿を通して私たちが理解すべき大切なことがあります。
それは二人が何を恐れ、恥じるべきだったかということです。
二人が恐れ、恥じるべきは自分たちが今、裸だということではなく、
造り主である神の名を辱めたことでした。
調べてみると敗戦の年、1945年は大不作で、
翌年を含めて食料調達は大変だったそうです。
そのようなときに私たちの教会の諸先輩方はその創立宣言で
「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、神の栄光を現す」と謳い、
そのすべてを天へと向けておられました。
どれほどのご苦労と覚悟の中で書かれた言葉でしょうか。
ただそれはやはり「どこにいるのか」と神から問われ、
戦時下における教会の在り方への悔い改めあってのことです。
早生米もまもなく出荷されると聞きました。
十分な実りを与えて下さる主に祈ります。
ただ困る方がおられれば、その方の状況にこそ興味をもつこと。
そしてときに私たちも聞いた教え通りに、
友に十分な米を貸してくれるよう頼まなければなりません。
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