月報巻頭言 Vol26「礼拝にある主の恵みに生きよう」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 今年のテーマ「苦難の襲うときにも、静かに待ちます」 副題は「礼拝にある主の恵みに生きよう」です。
最近、水曜日の教会サロンで共に歌い続けている賛美歌があります。
「恵み」という曲で、四国・西部中会合同修養会の時に与えられた賛美歌です。
せっかく集まって歌う賛美だから練習しようということで歌い始め、
今でも歌い続けています。
その中にこんなフレーズがあります。
「あたりまえなことなど一つもない。すべてが主のみ恵み。」
先月は伊丹教会で13年間お働き下さった赤石先生ご夫妻を、
横浜の青葉台教会へと共に送り出しました。
先生は送別会の中で「皆さんとあまり離れる気がしていない。」と仰っていました。
その先生の念頭にはこれまで葬儀で司式をなされた召された兄弟姉妹とのことがありました。
み言葉にあって主の御元へと送り出した兄弟姉妹たちと
私たちは主日ごとに今も共にみ言葉に聞き、礼拝をささげている。
だから、地上にある私たちの間柄ならば言うまでもない。
そこには礼拝にある主のみ恵みを
「あたりまえ」のこととしていない赤石先生の姿がありました。
そのお話を聞きつつ、少し前に西谷であった吉岡巧兄の葬儀のことを思い起こしていました。
吉岡兄のご葬儀、特に教会で行わせていただけるのかについては私たちが心配し、
また祈ってきたことでした。
主はみ恵みによって、まずご家族との連絡を密にさせてくださいました。
そしてまたこの葬儀は伊丹教会での受難早天祈祷会で、
キリストの葬りについてみ言葉から聞いた直後のことでもありました。
葬りの時まで共におられるキリストをおぼえつつ、
み言葉から語らせていただけることもあたりまえではない主のみ恵みでした。
一方で詩編94編が求めているのは「報復の神」(1節)です。
改めてその最初から読むと気づかされること。
それは裁き手としての主なる神を求める切実な訴えと願いです。
報復や裁きと言われるとなんだか怖くなりますが、
懸命に生きておられる方々にとって、
神こそが正しい裁き主であることはなによりの恵みです。
そしていつの世でも、
不当に苦しみを受けている方々にとってそれは慰めでもあるでしょう。
ただ、報復の神とキリスト、
またそのことがどう恵みと結び付くのかは分かりにくいかもしれません。
「いかに幸いなことでしょう。/主よ、あなたに諭され/あなたの律法を教えていただく人は」(94:12)を読むと気づかされることがあります。
この人が神から教えられ諭されているのは、
自分がその従うべき律法から外れていたということです。
気付かぬうちに自分自身が逆らう者となっていた。
この人はそのことをみ言葉から諭されているのです。
ああ、自分は神から恵みどころか
裁きを受けるにふさわしいものなのだなと気づかされるとき、
改めて思い起こして頂きたいみ言葉があります。
それはキリストが地上でのお働きを始めたとき、
読まれたみ言葉イザヤ書61章のみ言葉です。(ルカ4:18~19)
見比べて読んで頂くとわかりますが、
最後のところ「主の恵みの年」に告知されるのは、
「報復」であるとイザヤ書には記されています。
そうです、神はそのひとり子イエス・キリストの十字架で、
その報復をご自身の身で成し遂げてくださったのです。
ですから礼拝が備えられているのは
「ご自分の民を決しておろそかに」なされない主のみ恵みです。(詩編94:14)
私たちに集うべき教会があり、いつも礼拝に招かれている。
これこそあたりまえではなく、主のみ恵みです。
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「子供連れで行きたいので母子室を利用したいのですが…」
「なるべく前のほう(後ろのほう)の席に座りたいです。」
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