月報巻頭言 vol.3 「わたしたちを見なさい」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 今年のテーマは「主にある喜びと感謝に満たされて語り継ぐ」 第3回目の副題は「わたしたちを見なさい」です。
「ちむどんどん」という言葉をご存じでしょうか。NHKの朝の連続テレビドラマの題名です。調べてみたら沖縄の方言で「胸がワクワクする気持ち」という意味だそうです。今、我が家にはテレビがなく、未だ、そのドラマそのものは見ていません。主な情報元は地元の新聞とラジオ、そしてインターネットです。
私が神学生の時は、朝食を取りながら皆でNHKの情報番組を見聞きすることが習慣でした。寮生は授業に備えて8時くらいまでには朝食を取り終え、授業が始まる8時半まで準備をします。父の介護のこともあって自宅から通いながらの生活だった私にとって、その30分は貴重な空き時間でした。その時間をつかって予習をしたり、たまに朝ドラを見たり、また新聞を読む時間に充てていました。
西谷に赴任させて頂き、『語り継ぐ』という目標が与えられてから、その言葉が使われているニュースに目が留まるようになりました。敢えて具体的な例を挙げませんが、特に地元の紙面で数多くの事件・事故・災害、そして戦争の記憶が語り継がれ、それらに触れる機会を頂きました。それぞれの事柄を外面的にしか見ていなかった自らに気付かされることが多く、幾度となく心砕かれる思いがしました。その中で先ほどの「ちむ」という言葉の付いた言葉と出会いました。
「ちむ」は漢字で書くと「肝」、つまり直接的には内臓を意味しつつ、主に心情や心のありようを表わす言葉だそうです。「ちむぐくる(肝心)」と書けば「一番大切な気持ち」や「真心」という意味なのだとか。そして新聞で出会ったのは「ちむぐりさ(肝苦りさ)」。かわいそう、悲しいを意味する言葉でした。
この「ちむぐりさ」は決して上から目線の言葉ではなく共感をも表わす言葉で、目の前の人と苦しみや悲しみを共にしているという意思表示だということを知りました。紙面ではこの「ちむぐりさ」が今、私たちに欠けているのかもしれない、と締めくくられていました。
キリストの名を語り継ぐ私たちはどうでしょうか。自らを省みつつ、私たちの「ちむ」には数々のみ言葉が浮かぶのだと思います。そのような中、私の「ちむ」に浮かんだのは使徒言行録3章1節からのみ言葉でした。足が不自由で施しを乞うばかりであった人が、主イエスの名によって立ち、完全に癒される物語です。躍り上がって立ち歩き出した(8節)彼の様子は、まさに主にあって身も心も「ちむどんどん」にされた人と言えるでしょう。
私たちキリスト者はこれからペンテコステ以降の歩みを始めます。私たちはみ言葉を通して「ちむぐりさ」の欠けているものだということを知る者です。ペトロたちはどうだったでしょうか。彼らが『わたしたちを見なさい』(3:4)と言った時、お互いの容姿ばかりでなく、「ちむぐくる」をも見合ったことは確かです。足の不自由な人が見たのは、何も持たず、また主にあって「ちむぐりさ」の欠けをもおぼえた姿でした。ただ霊においてその「ちむぐくる」を満たされた人の姿であったのです。
主は欠けの多い私たちを「ちむどんどん」してくださったお方である。今月の私たちはこのことをおぼえたいと思います。私たちが主にあって「ちむどんどん」であれば、それだけで十分な証しとなることが聖書には記されています。その上で語り継ぐ志をも与えられた私たちは畏れつつ自らの唇で「わたしたちを見なさい」と言いたいのです。語り継ぎたいのは「主にある喜びと感謝に満たされて語り継ぐ」姿であり顔でもあるからです。
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