月報巻頭言 Vol.2 「神への慣れ」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 今年のテーマは「主にある喜びと感謝に満たされて語り継ぐ」 第2回目の副題は「神への慣れ」です。
西谷に赴任して1か月が経ちました。「もう慣れましたか?」とお声がけを頂きます。「生活面で落ち着いた」という意味では、素直に夫婦共々に「はい」と申し上げます。近隣の皆さまとのご挨拶も済み、日々の生活がようやくなじんできました。そして、なにより教会に住まわせて頂けてとても喜んでいます。
ただ、み言葉を説き明かすということに慣れたかと言われると慣れません。むしろ慣れることを恐れています。「こんなもんかな」とは思いたくなくて、何度も書き直して、ずっと格闘の日々です。そしてその格闘において教会に住まわせて頂けることがなによりの助けになっています。教会に触れながら皆さまの顔を思い起こす、また伺った一つひとつのことに思いを馳せながらみ言葉に触れていると、主の御心が少しずつ明確になるのです。
ふと思い立ち、改めて『慣れ』という言葉が聖書でどのように使われているかを調べてみました。すると旧約聖書にのみ5回登場していて、ほとんどの場合あまりよい意味では用いられていませんでした。その最たる例が申命記4章25節からのみ言葉です。『あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び起こして証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得る土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決して出来ない。必ず滅ぼされる。』実にドキっとさせられるみ言葉です。
ここで使われる『慣れる』という言葉は、もともと「眠る」という意味の言葉です。当時は今ほどに医療技術や食糧事情、衛生事情が発達しているわけではありません。子や孫が元気ですくすく育つことも稀であれば、自らも元気でその顔を見られることは、奇跡としか言いようがありません。生活にも困らないで眠ることが出来るのは神の業であったのです。ただ、その眠りを重ねるうちに子や孫を『もうけ』(=産む)させてくださった神の恵みにさえ『慣れて』しまう。そのうちに『像を作る』、つまりは自己中心になることをみ言葉は戒めています。ウクライナに端を発した情勢不安が世界中に広まりを見せています。また最近地震も多く、未だコロナ過も治まる兆しが見えません。御怒りを感じるような日々は決して『慣れ』て離れてはならないお方がおられることを気づかせてくれます。
4月から祈祷会の名を「教会サロン」と新たにしました。そして改めて創世記から順に読み進めています。それは『神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、…尋ねてみるがよい。』(32節)とのみ言葉に従っているのです。そしてみ言葉に触れながら『あなたは、主こそ神であり、他に神はいないということを示され、知るに至った。』(35節)それぞれに神を知るに至ったこと等をざっくばらんに話し合い、それらに基づいて代表者の祈りへと導かれています。語り継ごうとするわたしたちが神共にある生活に慣れないために、どうぞ「教会サロン」毎週水曜日14:30~にもお越し下さい。
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「なるべく前のほう(後ろのほう)の席に座りたいです。」
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