月報巻頭言 Vol20「子らが神に信頼を置くため⑥」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 通年テーマは「主にある喜びと感謝に満たされて語り継ぐ」 第20回目の副題は「子らが神に信頼を置くため⑥」です。
前回の終わりに、
「子らが自らに宿る信仰をどう自覚しているかに思いを馳せてみたい」と申しました。
そしてこの事において、まずは
ウェストミンスター信仰告白第18章「恵みと救いの確信について」
特にその4節を読んで頂きたいと思いました。
そこにはこう書かれています。
「真の信仰者たちも、自分の救いについての確信がさまざまの仕方で揺さぶられ、弱められ、中断されることがある。それは、たとえば確信を維持することを怠ったり、良心を傷つけ、御霊を悲しませるような何か特別な罪に陥ったり、また、何か突然の、あるいは激しい誘惑を受けたり、神が御顔の光を取り去られて、神を畏れる者たちさえも闇の中を歩いて、全く光がないような目にあわせられたりすることによってである。それにもかかわらず、彼らは神の種と信仰の命、キリストと兄弟たちへの愛、心の誠実さと義務感、を全くなくしてしまうことは決してなく、これらのものから、御霊の働きによって、この確信は、しかるべき時に、回復される。そしてそれまでの間も、これらのものによって、彼らは全くの絶望に陥らないように支えられるのである。」
(「ウェストミンスター信仰告白」村田・袴田訳、一麦出版社、2009年より)
「信仰告白」にある「真の信仰者たち」とは18章1節に書かれている「主イエスを真実に信じ、心から愛して、ひたすら正しい良心をもって主の御前で歩もうと努めている者たち」と言い換えられるでしょう。そのような人々でもその信仰は揺さぶられ得る、と「信仰告白」は言うのです。
これはなにか信仰というものの不確かさを示しているわけではありません。
むしろその自覚(ウェストミンスターで言うところの確信)の根拠と「救いの根拠」には区別があるということです。
救いの根拠とはキリストご自身です。
私たちの日常で、その根拠たる救いへの信仰が揺さぶられることがありますよね、と
「信仰告白」はその偽らざる心の内を明かしてくれているわけです。
また「信仰告白」は、そんな揺さぶられているときの私たちの行動をも明らかにしてくれてもいます。それは「確信を維持することを怠ったりすること」等です。
礼拝や教会にいきたくないなぁ、行っても意味ないやん、というのは揺さぶりなんですね。
以前、私の中で教会が定まったのは教会と自らの距離を感じた時だ、ということを申しました。
その当時、揺らぐほどさえの信仰を私は自覚していませんでしたが、
「信仰告白」を読んでそんな私にも
キリストは「神の種」をお与えくださっていたと自覚しました。
今になって考えれば、種がなければ悩んだり恥ずかしがったり、
あるいは時に激しく親や教会に抵抗することもないのですよね。
それらは「神の種」、いわば「からし種」一粒ほどの信仰が
既に神から与えられているからこそです。
そのような私ですから子らに、既にある「種」を疑い得ないのです。
「信仰告白」は「この確信は、しかるべき時に、回復される」、
「全くの絶望に陥らないように支えられる」と言います。
つまり私たち教会の使命は、このキリストの回復と支えの業に仕えること。
それが語り継ぐ上で求められていることだと言えます。
であるならば、今、問われているのは彼らが自らの信仰に自覚的であるかどうかではなく、
既に先立って彼らを支えておられるキリストに、
私たち教会が自覚的であるかどうか。
この一点に尽きると思わされるのです。
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