月報巻頭言 Vol17「子らが神に信頼を置くため➂」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 通年テーマは「主にある喜びと感謝に満たされて語り継ぐ」 第17回目の副題は「子らが神に信頼を置くため➂」です。
7月23日の午後に伊丹教会設立60周年を記念する会が行われました。
そこで伊丹教会牧師の赤石先生は『後の世代に語り伝えよう~60年の麦束 または天に注ぐナイル川』と題してご講演下さいました。
特に感謝だったのは、私たち西谷教会のことを強くおぼえつつ、語ってくださったことです。
月報として残しておくべきと思い、記すことにしました。
先生は冒頭でこの60年の歩みを振り返られつつ、
決して私たちの歩みは主の御前に手放しで喜び得る歩みではなかった。
きよいところもきたないところも併せ持つ、
例えるならナイル川のような歩みであった、と語り出してくださいました。
そして神の収穫(すなわち麦束)としての私たちということに触れてくださいました。
知れば知るほどにナイル川の民であるクシュの人々と変わらない、
よい麦とは思えない自分がいるわけです。
しかしそのことに誰より忍耐してくださっていた、
あるいは未だ忍耐し続けて下さっているのは主ご自身であるということを
特に主の聖餐をもって示してくださいました。
また、主は決して御自身の収穫を手放さず、
み言葉をもって
よい麦につくり変えてくださるということを
ヘブライ人の手紙12章から諭してくださいました。
そして、それゆえに語り継ごうとする私たち自身がまずより一層、
私たちを自由にしてくださる主の力により頼むべきである。
このことをヨハネ21:21、22のみ言葉から大変力強く語ってくださいました。
ご講演を経て得た3つの点をご紹介します。
まずタイトルともなった「ナイル川のイメージ」です。
先生のイメージをより具体的に掴むのには
エゼキエル書29章から30章のみ言葉を読むのがよいのではと思っています。
特に『ナイル川はわたしのもの/わたしが自分のために作ったものだ』(29:3)のイメージです。
そこには神の歴史をすり替えようとする人の思いが描かれています。
そして、そこから流れ出るアモス書の9章ある主の言葉、
ナイル川のイメージも鋭く私たちに迫ります。
『イスラエルの人々よ。
わたしにとってお前たちは
クシュの人々と変わりがないではないかと
主は言われる。』(7節)
つまり、語り継ごうとする私たち自身も、
またその先にいる隣人も等しく神の御前にあって罪人であるということです。
2つ目は、先生が「言葉にせずとも伝わる伝わり方」と言われたことです。
これは伊丹・西谷の年報から改めて先生が繰り返された言葉です。
ご講演と重ね合わせつつ、私はパウロが弟子のテモテに告げたみ言葉である
『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。』(Ⅰテモテ1:15~16)を思い起こさずにはいられませんでした。
3つ目は、ご講演を締めくくるにあたって詩編78編に加えて、
『あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。』(ルカ22:28)が与えられたことです。
多くの先達と共に、西谷には教会創立時を知る2長老1執事がおられます。
西谷の民には言葉にせずとも伝わる伝わり方としてのよき手本が今も与えられていることを神に心から感謝しています。
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