月報巻頭言 Vol.9「心が確かに定まらなかったとき③」
西谷教会では月に一度「月報」を発行しています。 今年のテーマは「主にある喜びと感謝に満たされて語り継ぐ」 第9回目の副題は「心が確かに定まらなかったとき③」です。
信仰の継承について思い起こしたことを順に綴っています。そして思い起こすほどに、信仰も確信も真実、ただ神から与えられるものだということを知らされています。
信仰の継承を考えるとき、私にとって切り離すことの出来ないひとつの試練があります。それはその試練において私が父母のことを心から憎んだことです。ただ憎んだだけではありません。その試練において私は自らに与えられた命の意味さえ見失いました。
私が自らの命の意味を見失ったそのとき、私は不思議な体験をしました。目に映る世界が輝かんばかりに美しかったのです。すべては輝いていましたが、その輝く世に私は属していない。私からははるかに遠く、そのことだけはわかるという大変不思議な体験でした。身体も動きませんし、食事をとることさえ殆ど出来ていませんでしたから、両親にも家族にも心配をかけました。
そのときの理由を詳しく書いてお示しすることは控えます。父母ばかりにその理由があるわけではないからです。そしてその理由について私は両親に、また関わる方々にその責任を問うことが出来ません。自らが親になってみて、そしてなにより牧者となって、改めてそのことに気づかされました。ただ申し上げることが出来るのは、私たちからは信仰よりもむしろ罪のほうが継承されやすいということです。実に信仰とは、悔い改めなく継承され得ないものである。語り継ごうとする私たちはこのことにこそ自覚を持つべきかもしれません。
あのときの体験はいったい何であったのだろうと長く思っていました。あるとき末期ガンを患われた方の言葉を読む機会があり、ハッとしました。すべての検査と度重なる治療を終えて、一切の望みが断たれたとき、私には世界がただ輝いて見えた。そう書かれていたのです。あのとき私が見た光景は絶望であったのだ、と私はその方の言葉で知りました。私はそれまで絶望とはなにか希望が断たれて目の前が真っ暗になること、途方にくれることだと思っていました。詩編88編には、暗闇に親しむ方の歌が記されています。詩人が暗闇の地にいる時、世界は遠く輝いて見えていたのかもしれないと思いました。
あのときの私が暗闇の地から引き出され、その命が保たれたのは、ただ主の恵みと憐れみによるものだとしか言えません。私がしたことは消極的なもので、世のすべてに絶望し、生きることを諦めて、ただ御もとへと連れ去ってくださることを願っただけのことです。ただ、そのとき絶望に代えて与えられたみ言葉がありました。それが「あなたの父母を敬え」でした。受け入れ難いみ言葉でしたが、主は実に唐突に、ご自身の贖いが意味することを私に知らせて下さいました。主がその御手で触れてくださって、父母を敬えというご命令と共に愛の種を私の心に与えて下さいました。
種とは、育つのに時間がかかるものですね。隠さずに申し上げるならば、救われてなお私は両親を御元へと送るときが来たら、今までの不平不満を告げてやろうと思っていました。ところがそのときが来て、脈拍20ばかりの母に対して私の唇から出た言葉は罪からの言葉ではなく、「ありがとう」という霊から出た言葉でした。
決して自分の力で出た言葉ではありません。主はふさわしいときを定め、罪に打ち勝つ言葉さえも備えて下さるお方でした。そして私は奇しくもその同じ「ありがとう」を父からの最後の言葉として受け取りました。牧者としての歩みをすすめる中で、初めて与えられた信徒の方へのご訪問の機会が父であったのです。聖書のみ言葉を共に聞いて、感謝をもって互いを送り出せたこと。そのとき神は私たちの家に信仰を継承してくださいました。そしてまた、主イエスは、喜びと感謝をもって信仰者としての、また牧者としての私の心をお定め下さったのでした。
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