ヤコブの手紙

2013年9月22日説教「信仰と行い」姜 世媛カンセウオン先生(WEC派遣宣教師/神戸改革派神学校特別聴講生)

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聖書:ヤコブの手紙

【行いを欠く信仰は死んだもの】

2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、

2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。

2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。

2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。

2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。

2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。

2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

(説教要約 文責近藤)

今日は「信仰と行い」ということを御言葉から考えてみたいと思います。ヤコブの手紙は主イエス兄弟であるヤコブが書きました。宛先は離散しているクリスチャンです。この手紙は行いを強調していると誤解されている面がありますが、すでに救われて信者になった人びとに書かれたものであります。

 

一つの質問ですが「信仰生活」とはなんですか。韓国人はこう聞くと多くの人が「はい、はい」って答える人は多いですが、日本人は余り答える人は少ないですね。それは間違っていないかなーと、正しい答えを探しているからだと思いますが、しかし一人一人答えは違うと思いますね。

 

「信仰生活」と言う4文字熟語になりますが、「信仰」と「生活」とに分けられます。

信仰を持っている信者の生活と言えます。すべての教会の集会に出席する模範的な人、これらが信仰生活と思う言う人もあります。間違っているとは思いませんが、生活全般における人格的に成熟した状態と考えることが出来ます。信仰と生活を分けて考える人、信仰と生活は分けられないと考える人の両方が考えられます。

 

私は13歳で信仰に入りました時、日曜日が来るのは本当に楽しみでした。しかし月曜日になると寂しくなりました。

信仰と生活を分ける人はこのように世間に出る顔と教会に出る顔が違います。「それでもあなたはクリスチャン」と聞かれるとガッカリいたします。

 

信仰と生活また行いと言うことで今日は3つのことを考えてみたいと思います。

 

【「行いのない信仰は死んだものです」】

1番目は「行いのない信仰は死んだものです」

ヤコブの手紙に217節、そして226節を共に読んでみましょう。

 

2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

今日の1516節に

2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、

2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

そしてこのように結びます、

2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 

行いの伴っていない信仰は信仰と言えるでしょうか。

今日でも日本に食べる者のない人がいると聞くと本当に驚きました。日本で統計的に103人は食べるものがないというのです。

また寂しいと言う人がいるとしますね。忙しくてすぐに帰らなければならないとします。その時「あなた大丈夫、主がともにいます」という言葉だけで済ますことはどうでしょうか。

韓国での話ですが、ある婦人が「私は、主人が亡くなってから寂しい」と言われます。教会全員に毎日同じことを繰り返し繰り返し訴えられます。聞かされる方はもう困惑いたします。その方はうつ病で入院されましたが。いつこの話が終るのだろうと。

 

周りのの誰かが困っているなら、出来るなら助けてあげるべきです、16節にあるように食べ物がなければ与えるべきです。

17信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 

この前、韓国に帰ったとき大学時代親しくした友人がいました。彼女は結婚して幸せで三人の子供に恵まれましたが、主人の腎臓が悪くなって人口透析をしていましたが遂に腎臓移植を受けることになったのです。主人のために彼女は自分の片方の腎臓を提供いたしました。そしてその主人は回復致しました。そのような事は私にできるでしょうかと迷う気持ちがあります。このように親しい家族にも迷いがあることに驚きました。

 

家族、友人、教会の人、あるいは好きな人、好きでない人にも、主イエスのようにすべての人を愛して命を与えることが出来るでしょうか。できなくても神様は最善をすることを願っておられます。

 

【行いのない信仰はむなしい】

二番目、「行いのない信仰はむなしい」と言うことをヤコブの手紙2章20節で言っておりますが、この「役に立たない」という言葉が新共同訳聖書に書かれておりす。しかしこれを新改訳聖書は「むなしい」と書かれております。

 

信仰を伴わない生活は「むなしい」ものだと言われます。


ナイアガラ瀑布を渡った曲芸師

アメリカとカナダの間のナイアガラ瀑布での話ですが、ある綱渡り曲芸師が綱渡りをすることになりました。曲芸師は見物のみんなに聞きました。私はこの綱渡りが成功するでしょうか。みんなは「できる、成功する」。彼は綱渡りに成功した。次に見物人に聴きました。「背中に椅子を背負って綱渡りを成功できるできるでしょうか」。皆は「できる。できる」と喝采した。曲芸師はもう一度聞きました。「それでは誰かこの背中の椅子に乗って私と一緒にナイアガラ瀑布を渡りませんか」と聞きました。が見物客みんなは沈黙しました。誰も彼と一緒にナイアガラを渡りたいと言う人は一人も居ませんでした。観衆は綱渡りの成功を信じましたが行いが伴わなかったのです。

 

「信仰があっても行いの伴わないものは虚しい」と言うことであります。

今日の2章18節には、

2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

良い行いをしても信仰が伴わなければ悪霊どもの信仰と一緒だと言われます。

 

【悪霊どももそう信じて、おののいています】

2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。

 

ここで悪霊どもでさえ神を信じていると言われます。

マタイによる福音書829節にそのことが書かれています。

8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。

8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」

 

悪霊でさえ神の子を認めており、イエス様は神の子だとわかっておりました。しかし善い行いはありませんでした。

愛する皆さん。だから「行いのない信仰はむなしい」ということが分かりますね。聖霊の助けで良い行いに励みましょう。

 

【信仰と行いは相働いて実を結ぶ】

三つ目は「信仰と行いは相働いて実を結ぶ」ということです。21節から26節を河内長老に読んでいただきます。

2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。

2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

 

アブラハムと娼婦ラハブの例が書かれております。

そのことはまたヘブライ人への手紙1117節と31節に書かれています。

ヘブライ人への手紙11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです

ヘブライ人への手紙11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

 

 

独り子イサクを捧げようとしたアブラハムの行為を彼の信仰と神は認められたのです。

娼婦らハブのした行為も同じで、信仰によってしたことです。

 

ルカによる福音書64344節に書かれています。

6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。

6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。

 

私たちが真の信仰を持っているなら善い行いが伴います。そして善い実を結びます。

 

アナニアとサッピラ

使徒言行録5章に初代エルサレム教会の献金のことでアナニアとサッピラ夫婦の悪事の例がございます。彼らは自分の持ちものを売って献金しましたが、そのそれは賞賛を得るためで見せかけでありました。その一部だけを出して、それは自分たちの手全財産だと言って嘘をつきました。これは見せかけの聖霊を欺くまた兄弟姉妹を欺く信仰のない行いでした。そしてアナニアとサッピラ夫婦は即座に使徒の前で死にました。

私が高校生の時私はこれを聞いて驚きました。しかしある先生が言われたが現代教会にもアナニアとサッピラはいます。イエス・キリストの名で捧げものをする人がありますが、その人は人々に自分の売名行為のためにし、かれらには信仰はありません。

 

ヨハネの手紙一318~19節に書かれています。

3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます

 

聖書は口先だけでなく誠実と行いをもって愛し合おうと勧めます。

しかし思いを伝えるのに言葉が大事であることについて私は思います。わたしは主人に「私を愛していますか」とききますと、主人はあれこれと他の言葉で弁解します。一言「愛している」と言えばよいのに。

 

男性は言葉より行いを重視する傾向があり、話さないことが美徳である考える傾向がありますね。最近の若者は言葉で言ってくれないと分からないと考える人が多くなってきたようです。言葉で表すと言うことも必要であります。言葉と行いで誠実に人を愛しましょう。

 

愛する皆さん。主イエスは望んでおられます。主イエスとともに信仰と行いに励み、神様の愛をあらわすために信仰と行いが共に相働いて豊かな愛の実を結ぶことを願っております。(おわり)

2013年09月22日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , ヨシュア記

2013.6.9.説教「試練に出会うとき」姜 世媛(カン・セオン)先生(WEC派遣宣教師)

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2013.6.9.説教「試練に出会うとき」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)

聖書:ヤコブの手紙11~12:

1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。

10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。

12試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

 

説教要約(文責近藤)

 

【自己紹介】

わたしはWEC宣教団で働いている宣教師で滋賀県からきました。日本にきて4年目です。4年目の安息年として1年間の休暇が与えられ、その間、神戸改革派神学校で主人とともに学ぶことにしました。主人は特別研修生ですので試験もありますが私は聴講生ですから試験はありません。1年間伊丹教会に派遣され今日は西谷伝道所で奉仕することが叶えられ感謝です。

 

【ヤコブ】

今日はヤコブの手紙から御言葉に聞きたいと思います。新約聖書には4人のヤコブがいます。この手紙を書いたヤコブは主イエスの兄弟でした。主が生きておられた間はただの人間の兄弟として主を見ていましたが主イエスが復活されたあとは神様と信じ受入れました。

 

【ヤコブの手紙について】

この手紙はペテロの手紙やヨハネの手紙と同様に公同書簡と言われ宛先は多くの教会になっています。ヤコブの手紙のあて先は国外に散らされているユダヤ人クリスチャンです。1世紀に書かれています。

 

このヤコブの手紙はクリスチャンの良き行いが強調されていることから歴史的にみて宗教改革者たちからは聖書の中で一番低く見られていました。何故かと言うとパウロの手紙などのように信仰によって救われると言うことを強調していません。行いを重要視しているように思われています。しかし最近はヤコブの手紙は新約聖書の箴言と言われ信じる信仰を実践する事の大切さを教えて見直されています。

 

試練に出会うとき神様が私たちに願っておられる3つのことを今日は考えましょう。

 

1番目、試練に出会うとき喜びなさい】

 

ヤコブの手紙12節から4節を読みましょう。

2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。

 

2節「いろいろな試練に出会うときは」とあるように誰しも試練に出会います。試練という言葉は辞書的に信仰の強さを試すもの、またその時受ける苦難だと言われることは適切だと思います。信仰の強さや実力を厳しく試すことが試練の持つ意味です。

 

今日のヤコブの手紙には試練と誘惑という二つの言葉が使い分けてありますが、しかし同じ言葉の翻訳もあります。原語聖書も韓国語も同じ言葉を使い韓国語では試験と言ってます。

 

愛する兄弟姉妹。私たちはいろんな試練に出会うと書かれています。これは認めなければなりません。クリスチャンになっても試練はあります。

試練は人によって違います。どんな試練がありますか。

 

病気、経済的、人間関係などいろんな試練があり、その時の反応は「何で?」と言う思いで、神様に疑いを持ちます。しかし聖書は理不尽な試練に会うときも2節後半「この上ない喜びと思いなさい」と勧めます。

 

使徒パウロはフィリピの信徒への手紙 44 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言っておりますが、この手紙を書いたのは牢獄の中からでした。

 

彼が喜ぶことが出来たのは信仰の成長があったからです。34節「3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。

 

皆さん。試練の中にある方は全てのことを神様に委ねて喜ぶ努力をしませんか。今の試練は私たちの信仰の成長の為だと信じませんか。神様は私たちを待っておられます。

 

2番目、試練に出会った時祈ること】

 

ヤコブの手紙5~8節を一緒に読みましょう。

5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」。

 

【知恵を求める】

5節は私の好きなことばです。韓国で学生時代キャンパスクルセ-ドで活動しました。ここで勉強の前に読んだ詩編とヤコブの手紙が自分の信仰と生活に非常に有益に働いたと思い返します。

 

5あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」とありますが知恵は本当に必要でしょうか。

 

私の持っている辞書には「知恵とは人生に対する実際的洞察力で、多くの試練に忍耐をもって打ち克つときに得られる」と書かれています。知恵は単なる知識でなく私たちの様々な経験が積み重なって得られる広いものです。5節で知恵を求めるということは私たちが直面している様々な問題に必要な力を求めるということです。

 

日本のことわざに「苦しいときの神頼み」というのがありますが普段は信じていないのに苦しいときに神に頼ると言うことです。世間の人でも何か大変なことがあると普段信じていない神様に頼ります。私たちにはこの世の神に勝る本当の神様がおられます。

 

使徒パウロは試練に出会ったとき祈りました。

使徒言行録1623~26節を読みましょう。

23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。:24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。

26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」

 

パウロはフィリピで占いをする女奴隷から主イエスの名によって悪霊を追い出したために牢屋に入れられました。

 

パウロとシラスが牢屋のなかで歌った讃美や祈った祈りはどんなものだったでしょうか。

彼らは牢から出る事よりも何よりも神様に感謝を捧げ神のご存在をほめたたえました。

 

【心が定まらない人】

時には祈っても答えられないことがあります。なぜでしょうか。試練にあった時、人は神様を疑うこともあります。

 

聖書はヤコブの手紙16~8 6いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」と語ります。

 

【二心のある人】

今日の箇所の8節「心が定まらず」疑う人のことを新改訳聖書は二心のある人、英語でDouble mindedとも言います。信仰と不信仰が分裂している人、神と神以外の者に信仰が分かれている人、二股を賭けると言う言葉もあります。不倫を行う人もそうですが、聖書に姦淫を犯すと言うことは真の神様を信じると言いながら神様以外の偶像を礼拝する人のことを言います。

 

そのように心に疑いを抱くときは神様は祈りに応えられません。

 

マタイによる福音書 7 7求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」。

 

私たちを愛する神様は必要なら奇跡をも行うことがおできになる全能の神様で、無から有を作り出された神様です。そのような神様が私たちの祈りに耳を傾けておられます。「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に」全てのことを委ねて試練を乗り越える知恵を神に願いませんか。神様は待っておられます。

 

3番目、試練に出会ったとき耐え忍ぶこと】

 

今日の手紙ヤコブ1章の12 「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」

 

聖書は試練を耐え忍ぶ人は幸いだと言います。なぜでしょうか。試練を耐え忍ぶ人は神様から約束された命の冠を戴くからです。ここに書かれている「約束された命の冠」とは何でしょうか。これは主イエスの十字架の死の贖いによって取り換えられた新しい命のことで主イエスが約束してくださったものです。

 

ヨハネによる福音書1125~26「イエスは言われた。『25わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」と。

 

【ヨブの試練と忍耐】

旧約聖書のヨブの試練を思い起してください。ヨブは神の前に真実な人でしたが彼は試練により子供も財産もすべて失った。しかし決して神様に恨み言を言わず神様を讃美しました。

 

旧約聖書ヨブ記120~22節を見てください。

20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。

21 『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。』22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」。

 

また家族も財産も健康も失ったヨブに対して三人の友人からもヨブは神様のまえに隠れた罪があるはずだと彼の心は鞭打たれました。しかしヨブはこのような酷い試練にあっても決して神様を非難せず耐えました。神様はヨブの忍耐を喜びその信仰を認められ試練により失ったものを2倍にして返しヨブを祝福された。

 

ヨブのことをヤコブの手紙511 で語ります。

「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」

 

【命の冠を受けるために】

皆さんは試練に会っておられますか。どうしても解決できない問題で涙しておられますか。神様はすべてを御存知です。神様は慈愛と憐れみをもって私たちを顧みてくださいます。神様が準備しておられる命の冠を受けることを期待しながら今日も与えられた道を神様と共に歩みませんか。神様は私たちを待っておられます。私たちが試練にあっても、喜ぶこと、祈り求めること、耐え忍ぶことを神様は願っておられ、聖霊様の助けをもって励ました下さいます。(おわり)

 

 


2013年06月09日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , 新約聖書

2012年9月30日説教「舌の力」ウイリアム・モーア宣教師

2012年9月30日説教「舌の力」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヤコブの手紙3章1~12節
1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。
12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。
説教要約(文責近藤)

【兄弟げんか】
子どもの頃、私の両親が一つの格言を教えてくれました。「石と棒はあなたの骨を折ることは出来るが、あなたの言葉は決して傷つけられない」と。
兄と喧嘩したときのこと兄は私を「太った豚」と罵りました。それでこの格言で言い返しましたが、兄は嘲笑ってもっと悪辣なことばをもって私に返しましたので兄の言葉はもっと私を傷つけました。

【舌の力】
言葉は相手を傷つける力があります。言葉は石や棒より相手を傷つける力があり、その回復は肉体的損傷より簡単ではありません。

今日の御言葉は舌の出す力を述べて舌の監督の重要性を強調します。
人はいろいろな悪行を避けることに努めますが言葉となると自己の理性が働きません。舌の力を軽く見積もる傾向があります。舌のもつ善と悪の作用は大きいです。言葉一つで天国にもなり地獄にもなります。
特に教会のなかでは言葉に注意が大切です。

【言葉で過ちを犯さない人は自分の全身を制御できる完全な人です】
箴言18章21「 死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。」とあり、また
ヤコブの手紙1章26節「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」とあります。

【教師になるな】
さて今日の御言葉の1、2節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

ここで教師とは教会のリーダーであり役員です。教会の役員は信者に影響力があり自己中心になることに警告をしています。教会員にたいして自分の言葉を制御する責任があります。

私たちは言葉で過ちを犯すと記されています。言葉で落度がないように
神の助けで舌を完全に監督できるようにしたいのです。

なぜなら言葉で過ちを犯さないなら自分の舌を制御できる完全な人になります。

【言葉と行動】
言葉は行動と連なっているからです。行いは口の言葉に支配されているからです。まず悪を考えて次に舌で悪を表現してその後に悪を行うからです。
それゆえ舌の監督は特別に大切です。

今日の御言葉の6つの例をもって舌の力を考えましょう。
1、舌は馬の轡に譬えられる。3節を見てください。轡(くつわ)は小さいが馬の口に嵌めることで御者はおおきな馬全体を自由に制御することができる。舌も同じです。小さくても人の善と悪を支配します。

2、4,5節で船の舵も舌に例えられる。舵取りは小さな舵で船の方向をおもいのままに定め船を無事に目的の港に導きます。同じように小さい舌でも人を大言壮語させます。

3、5節後半~6 節「見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」

ここに舌は火に例えられる。ほんの小さな火花が大火災を引き起こすように、小さな不親切な言葉が大きなダメージを人に与えます。とくに子供や目下の者に手厳しい言葉を発すると想像できないほどのダメージを与えてしまいます。

1970年代、世界的になった人気歌手のカーペンターズは兄リチャードと妹カレンのデュオポップスですが、ある音楽批評家が妹カレンを悪く言いました。それが原因で彼女は拒食症になり32歳の若さで亡くなりました。

4、7節からは舌は恐ろしい獣に比べられます。7節~9節「7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。9 わたしたちは、この舌で父なる主を讃美し、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」

人間は恐ろしい動物をも支配しますが自分の舌を支配できません。神を賛美した後で相手を呪います。これは大いなる矛盾ですが私たちの舌はそのようなものです。

5、最後に11~12節「 11泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。

6、12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」

愛する兄弟姉妹。舌の矛盾した働きについて賛成されるはずです。神を喜ばす為になる言葉だけを語ろうとするなら、舌を制御するために、自分の口を開く前に以下の5つの点を自問自答してみてはどうでしょうか。
自分の語る言葉は真理に基づいているものでか。噂さ話は大抵その真実は疑わしいからです。
自分の話は相手に役立つものですか。
自分の話は相手を鼓舞するものですか。
自分の話は相手に必要なものですか。その話はいい目的からですか。
自分の言葉は親切と心遣いが含まれているもんぽですか。相手を少しでも傷つけることはありませんか。
以上を自問自答してから正直に答えるなら舌を制御できるでしょう。しかし、何より、神のみが相手を喜ばし励ます言葉を発するような心を与えて下さいます。神のみが私たちにその変化を齎してくださいます。

コリントの信徒への手紙二 5章17 を見てください
「だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

今日からのこの1週間、神の愛をもって隣人を愛し言葉を制する時私たちはきっと勝利できます。(おわり)

2012年09月30日 | カテゴリー: ヤコブの手紙

「御言葉を実践する人」ウイリアム・モーア2011.7.17.

聖書;ヤコブの手紙1章19−27

 

【説教は済みましたが、まだ行われていません】

ある男の人が礼拝の為に結構遅く教会に入り、案内係にこう聞きました。「説教はもう行われましたか。」そうすると、案内係は賢明にこう返事しました。「今日の説教はもう済みましたけれども、まだ行われていません。」それはとても良い答えだと思います。神の御言葉の解き明かしを聞く事は大事ですが、毎日の生活に於いて御言葉を実践する事もとても重要であります。つまり、御言葉は私達の行動を通して行うものです。

 

2011年07月17日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , 新約聖書

信仰と行い ウイリアム・モーア宣教師

ヤコブの手紙2章14−26◆行いを欠く信仰は死んだもの

14:わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 15:もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16:あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17:信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

18:しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。19:あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。20:ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。 21:神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22:アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。23:「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。24:これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。25:同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。 26:魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

【発明家ベルと電話】
アレクサンダー•グレアム•ベルは有名な科学者で発明家でした。色んな大事な物を発明しましたけれども、一番大きな影響を及ぼした発明は現在も私達と全人類が毎日使っている物です。その物がなければ、私達の生活は大変不便になります。ベル先生と言えば、皆さんはもうお分かりになったでしょう。彼の発明は電話です。電話の発明のお陰でベル先生は通信に革命を起こし、素晴らしい賜物を人類に下さいました。そして、それだけではなく、ベル先生は電話で有名になり、大金持ちにもなりました。

2008年09月14日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , 新約聖書

「迫害に遭っても喜ぶ」マタイ福音書5章11~12 淀川キリスト教病院牧師 田村英典

淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:マタイ5章(山上の説教)

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆幸い

3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」


【迫害を受けるクリスチャンの反応】
マタイ5章の冒頭にあるイエスの教えから、真のクリスチャンとはどういう者かを学んでいます。イエスは3~10節で8つの側面からそれを描かれますが、その最後は10節

「義のために迫害される」


という点です。今日の11、12節は10節の続きであり、補足説明と言えます。

2008年08月10日 | カテゴリー: ヘブライ人への手紙 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

主イエスによって永遠の命を得る ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書3章1−17

◆イエスとニコデモ 1:さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。  2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9:するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10:イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありなが     ら、こんなことが分からないのか。11:はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12:わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によ    って世が救われるためである。

 

【あなたがどんな人であっても救われます】
ある学者が名門の神学校の学長に選ばれ、学校のPRと紹介の為に色んな所へ巡回して挨拶をしました。ある日、都会にあるロータリークラブに招かれました。集まっていた皆を笑わせようと、面白いと思ったエピソードを語り始めました。その日、彼はロータリークラブの会場まで 地下鉄に乗って来ました。地下鉄から出るとそこには救世軍が貧しい者の為に募金をしていました。そして、クリスマス時期なので学長は献金箱にお金を少し入れました。そうすると献金箱を見ていた救世軍のボランテイアが突然、「あなたは救われていますか」と彼に聞きました。神学長がその出しゃばりを聞くとびっくりして、はっきりした返事をしませんでした。そしたら、ボランテイアさんは、「イエス・キリストを救い主として信じ、主に従っていますか」と新たに尋ねました。そう言う質問を聞かれると、彼は自分の身分をボランテイアに教えようとしました。 誇りを持っていた彼は、「本当は、私は有名な神学校の学長ですよ」と自分の地位を明かしました。きっと、その事を聞くと、しつこいボランテイアは静かになるだろうと思いましたが、またこう言われました。「そんな事は気にしないで下さい。あなたがどんな人であっても、どんな事をしても、今でも救われますよ。」

2008年04月13日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

愛する神と悪の諸問題 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙8章28節
 
【偶然の悲しい出来事】
この間、ロスアンジェルス•タイムズと言う新聞でこの悲しい記事を読みました。記事の題は、「生まれたての赤ちゃんが流れ弾で殺された」とありました。「ベビーカーに寝っていた23日の新生児がロスアンジェルスのマッカーサー公園で流れ弾に撃たれました。日曜日の午後9時30頃、母親が赤ちゃんを公園へ連れたときに撃ち合いに巻き込まれました。三人のラテン・アメリカ系男性と屋台の主人との間で射撃事件が起きて、一人の男も銃で打たれました。彼は病院へ運ばれ、安定した状態で治療を受けています。しかし、赤ちゃんルイス•ガシアが午後10時過ぎに病院で死を宣告されました。当局は事件を調べていますが、犯人達とその動機はまだ不明だそうです。
          
公園の周辺には小さい売店と屋台が沢山あり、その殆ど全部はラテン系の人の経営です。事件の近くの店の店長が事件についてこのように語りました。「多くの家族が買い物と公園に、ここに集まって来るのに、 残念ながら、ここは危険な所です。 近辺は暴力で悪名になってしまいました。」
 
皆さん、このような悲惨な出来事を聞くと、その赤ちゃんの家族の悲しみと怒りを容易に想像出来ると思います。もし、自分の家族にそのような酷い乱暴があったら、もちろん悔しくてたまりません。産まれたばかり無邪気な赤ちゃんがそのように無意味に殺されたのは悲劇の中の悲劇になります。その事件はこの世にあるもっとも酷い悪の縮図であると思います。

2007年09月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ガラテヤの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記 , 詩篇

教会の交わり ウイリアム・モーア宣教師

エフェソの信徒への手紙2章19−22
 
【100人の子供】
最近新聞で次の驚くべき記事を読みました。「78人 の子供を持つ一本足のアラブ首長国連邦の市民ダアド•ムラド•ムハンマド•アブドウル•ラーマンさんは次の二人の妻を募集しています。何故なら、彼は2015年までに100人の子供を儲けたいからだそうです。60歳のアブドウルル•ラーマンさんは今まで15人のお嫁さんがありましたが、イスラム教は同時に妻4人しか許されないので、その中、13人の妻を離婚しました。「2015年に私は68歳になり、子供100人を目標にしています。それに成功したら、新しい結婚はもうしません」とアブドウルル•ラーマンさんが言いました。地元の新聞は第一面に78人の子供に囲まれた彼の写真を載せました。長男は36歳で、末っ子は産まれてわずか20日です。そして、現在、二人の妻は妊娠中です。
 
アブドウルル•ラーマンさんによりますと、自分の大家族は15件の家に住んでいます。退役軍人である彼は年金と国の援助で家族を支えるんだそうです。
 
この世には色々な家族がありますね。アブドウルル•ラーマンさんは何故そんなに大きな家族を築いたのかは分かりません。恐らく子供が大変好きなんでしょう。あるいは、子供を儲ける事によって有名になりたがったのかも知れません。しかし、それは決して楽な年金生活ではないと思います。子供の名前を覚える事さえも大変です。それぞれの妻との関係も確かに複雑です。 気の毒ながら事業自得です。

2007年08月26日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , コロサイの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , ペトロの手紙一 , ヤコブの手紙 , 新約聖書

キリスト者の為のチェックリスト:その2 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙12:9−13

【天国に入るには】
ある人が亡くなって天国の門に着きました。そうすると、主イエスの弟子ペトロは彼を迎えに来てこう言いました。「天国に入るには一千点が必要です。あなたは何点をお持ちでしょうか。」そして、その人は、「何点を持っているかと聞かれると、困りますよ。溜まった点数の合計はさっぱり知りません。」「それでは、あなたの生涯を調べて見ましょう」とペテロが返事しました。「あなたが実行した全ての善い行いを教えて下さい。私が点数を計算します。」そうすると、その人は一生懸命に自分が行なった善い行動を思い出し、全てをペテロに語り始めました。小さい親切から大きい善行まで一つ一つを数え上げました。彼がやっと終わった時、ペテロはその点数を計算して、全部で百点しかないと知らせました。天国に入る為に一千点が必要なのに、ただの百点しか持っていないその人は大変がっかりしてしまいました。彼は、「やっぱりとても無理ですね。一生頑張ったのに、百点しか溜まらなかった」とペトロに言いました。「神の恵みでなければ決してこの所には入れないですね」と彼は呟きました。その事を彼の口から聞いたペテロは大変喜んで、こう言いました。「実は、神の恵みは九百点の価値がある。どうぞ、入って下さい。」
 
【神の恵みのみ】
我々キリスト者は神の恵みのみで救われ、神の恵みのみに頼ります。罪人である私達はいくら頑張っても私達の救いを勝ち得る事が出来ません。イエス・キリストを信じる事によって神の賜物、御自分の救いを自由に受けられます。使徒パウロが書いた通りに、

「私達は信仰によって義とされたのだから、私達の主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」


(ローマの信徒への手紙5:1−2)

2007年02月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「平和を実現する人々は幸いである」田村英典

聖書:マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

【平和を実現する】

今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」


何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。

まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。

勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。

聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。

2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

命を選びましょう ウイリアム・モーア

マタイ7章13-29

【豊かな命を与える主イエスの教え】
今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。

イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。


「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)

【二つの門、二つの道】

山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。

今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

2005年11月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書