マルコによる福音書

2016年4月24日説教「ポンテオ・ピラトの前で」金田幸雄牧師

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聖書:マルコによる』福音書15章
1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

教要旨 マルコ15:1-5.doc クリックで説教が読めます

礼拝後にギデオン協会 西岡 巧兄の報告と証がありました。
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2016年04月24日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年4月17日説教「キリストの苦難・ペテロの否認」金田幸男牧師

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マルコによる福音書14章66~72節
66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

本日午後
ラフェスタ プリマベラ2016(クラシックカー公道パレード)で会堂前を通過した
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2016年04月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年4月10日説教「イエス・キリストの苦難/裁判」金田幸男牧師

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説教要旨 マルコ14:53-65.doc高法院で裁判を受けるイエス・キリスト



木村秀樹神学生かおり姉歓迎会IMG_7244.JPGIMG_7242.JPG
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2016年04月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年4月3日説教「イエス・キリストの苦難/逮捕」金田幸雄牧師

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聖書:マルコ福音書14章
14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
一人の若者、逃げる
14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。


2016年04月03日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年3月27日説教「死人の中からの甦り」金田幸男牧師

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教要旨 マルコ16:1-8イースター説教.doc


説教要旨 「死人の中からのよみがえり」マルコ16:1-8

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2016年03月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年3月20日説教「ゲッセマネの園の祈り」金田幸男牧師

説教要旨 マルコ14:32-42.doc

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説教「ゲッセマネの園の祈り」

聖書 マルコ14章32-42

32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 


2016年03月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年3月13日説教「散らされる羊たち」金田幸男牧師

説教要旨 マルコ14:27-31.doc 
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説教「散らされる羊たち」

聖書:マルコ14章27-31

27 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。
28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
29 するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。
30 イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。
31 ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。



2016年03月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年3月6日説教「主の晩餐の制定」金田幸男牧師

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説教要旨 マルコ14:22-26.doc

の晩餐(マルコ福音書14章)
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」


2016年03月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月28日「過ぎ越しの食事」金田幸雄牧師

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聖  書        マルコによる福音書14章12~21節(新共同訳新約聖書91頁)
過越の食事をする
12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

説教「過越の備え」金田幸男牧師

聖書:マルコ福音書14章10-21

 

要旨

【ユダの裏切】

 14章10-11に、イスカリオテのユダがキリストを裏切って祭司長や律法学者たちの手に渡そうと決心したことが記されています。なぜユダがキリストを裏切ろうとしたのか。今までいろいろな説が語られてきました。しかし、謎のままです。いろいろな憶測はあります。例えば、ユダはキリストのユダヤの社会改革運動に期待していたのだ。今や、エルサレムに多くの民衆の歓呼も受けて入城した。ところがキリストは立ち上がろうとしない。ユダは期待を裏切られと思い、その不信感からキリストを裏切ったのだというのです。

 

けれども、ユダがそのような革命思想を抱いていたという証拠はどこにもなく、まして、彼がキリストにそんな期待を寄せていたという痕跡も見いだされません。また、お金が欲しかったからだという説もあります。ベタニヤでラザロの姉妹マリヤが300デナリオンの香油を惜しみなく注いだとき、ユダはクレームをつけました。福音書記者のヨハネは、ユダがイエスの弟子たちの財布係をしていてその中身をごまかしていた。そのようにお金に『汚い』性格の人間だからマリヤの行為を批判したと書いています。そこから、こういう説が出てくるのですが、イエスを裏切って得た収益は銀30枚でした(マタイ26:15)これではあまりにも金額が低すぎます。銀30枚は30デナリオンに相当しますが、自分の師を売渡すにはあまりにも少額です(30万円そこそこ)。

 

マタイ26章では確かにユダから祭司長らに申し出た金額のように書かれてありますが、ユダにはこの金額でなければならない必然性はなさそうです。結局のところ、ユダがなぜキリストを裏切ったのか福音書記者には分からないのだと思います。ヨハネは「ユダにサタンが入った」と表現しますが(13:27)、この表現が具体的にどういうことなのか分かりません。むしろ、誰もユダの内心をはかることができなかったので、このような曖昧な表現となったのではないかと思います。   

 

ただ、分かることは、祭司長や律法学者たちは過ぎ越しの期間では、イエスを捕らえて殺そうとする計画は騒ぎになるおそれがあるので実行を延期したのですが、ユダのこの決心で事態が変わった。つまり、キリストの十字架へと、人間の企てや思いを越えて、神の計画が実行されようとしています。キリストの苦難と十字架は不可避です。ユダの裏切りもその一つの要素です。

 

【過越の小羊が屠られる日】

12節から、もう一つのことが記されます。除酵祭の第一日、過越の小羊が屠られる日とあります。正確にはこの二つの日付にはずれがあります。過越はユダヤの暦ではニサンの月(太陽暦では3月もしくは4月)の15日に行われます。

 

【過越の小羊】

過越の祭とは、過越の食事を取ることが主なる行事でした。過越の食事では、小羊の肉、イースト菌の入っていないパン、ぶどう酒、苦菜のはいったスープを食べることになっています。メインは、過越の小羊で、小羊は前日のニサンの14日に屠られることになっていました。ユダヤ人ならば必ずこの食事をとらなければなりませんでした。その上、エルサレムに上ってくる巡礼の場合は、エルサレムの城壁の内側で過越の食事をしなければならないという習慣もありました。ところが、ニサンの14日になっても、キリストが過越の食事について何も指示していなかったと思われます。弟子たちは業を煮やして、いったい今回の過越はどうなるのかと心に焦りを感じて、キリストに問うたのだと思います。弟子たちはエルサレムの住民ではありません。早く場所を確保しなければ過越を守れなくなる可能性があります。それは信仰厚いユダヤ人の弟子たちにしてみればあってはならないことです。

 

キリストはこの弟子たちの心の動揺をご存知であったと思われます。二人の弟子をエルサレムに派遣したことが記されます。都に行け。そこで水がめを持った人に出会う。実は水がめを運ぶのは女性の仕事であったとされています。男性が水がめを運ぶことはまれでした。町に入ればすぐその人であることが分かります。その人の後をついていったら、過越の食事をするべき部屋の家の所有者に会える。そこで準備万端整えよ。このような指示を与えられました。この一連のキリストの言葉は一種の予見だという見方もできます。しかし、ここはそのように考える必要はないと思います。キリストは予め手はずを整えておられたと考えらます。つまり、この準備に特別奇跡的要素はないということです。

 

キリストは弟子たちには知られないように、過越を支障なく行えるように準備をされたのです。キリストご自身が過越を是非とも守ろうとされたのです。このたびの過越はいつもの過越とは異なって、キリストが率先して是非とも弟子たちと共に守ろうとされたのです。

 

なぜ、そのようなことをされたのか。過越はなぜ守らなければならないのか。それは単なる行事とか儀式ではありません。行事とか儀式というと何か軽く扱われているように思います。しかし、どのような宗教にでも行われている行事、その中には祭りも含まれます。また儀式には祭儀と言われるものも含まれます。これらは過去にあったことをつねに想起するという意味が含まれています。過去にあったことはそれだけではなく、未来にも起こるという期待を伴います。ですから、行事や儀式は宗教にとって極めて大きな意味を持っています。イスラエルの場合も同じでした。

 

【出エジプト最大の禍:最初に生まれた男子は死ぬ】

イスラエルはエジプトでは奴隷状態のなかで苦しめられていました。その時、神はモーセを立ててイスラエルの民を解放しようとされます。モーセはエジプトの王ファラオの前でさまざまな奇跡を行って見せますが、ファラオは心を頑なしにし続けて、モーセの要求を拒否し続けます。ついにモーセは神の最後の命令を伝えます。その夜、エジプト中を、災いを下すみ使いが駆け巡る。その時、小羊を殺してその血を玄関の鴨居に塗りつけてある家を災いは通り過ぎていく。しかし、それをしていない家では、人間だけではなく、家畜に至るまで、最初に生まれた男子は死ぬ。出エジプト記12章12-36節に記されています。そして、この過越を覚えるために、イスラエルでは例年、過越の小羊を屠ってこれを食べるように命じられます。その都度、イスラエルは、神がエジプトで先祖たちに何をなされたのか思い起こしたのです。単に過去を想起するだけではなく、神を信頼する民にはかつてと同様に神の救済のわざにあずかれると確信したのです。

 

過越はイスラエルの人々にとって救いの神を思い起こす機会となりました。神は決してイスラエルを忘れられない。頼るものを神は必ず守られる。その証拠が何よりも出エジプトの出来事であったのです。

 

イエス・キリストは過越を特に守ろうとされたのは、一般のユダヤ人がしているような習慣の遵守のためではありません。明らかに間もなくご自身の上に起きる受難、特に十字架の死と、過越が示している意味を結びつけるためでした。どちらも、犠牲によって災いを受けなくされるという点で共通しています。キリストは過越の小羊のように殺されます。しかし、それによって、神は罪のもたらす最高の災いである滅びから私たちを救われるのです。キリストはご自身が過越の小羊として殺され、それによってすべての罪人を救われようと願われたのです。

 

旧約聖書はこの点で新約聖書と密接に結びつきます。旧約聖書のないキリスト教はありえないのです。旧約聖書から使信を引き継いで新約の喜ばしい知らせがあるのです。だから、キリスト者は旧約聖書から救いの希望を聞き取ることができるのです。

キリストが過越を弟子たちと共に守りたいと願われたもう一つの目的があったと思います。先に遣わされた二人の弟子たち(ペトロとヨハネ ルカ22:8)は食事を整えます。食事に必要な食材とそれから、クッションとかテーブルなども用意されたはずです。ニサンの15日は夕方から始まります。二人の弟子はベタニヤまで急いで戻ったか、それともキリスト一行を待ったのか分かりませんが、過越は、ニサンの15日が始まる日没後、ただちにかあるいは深夜までの間に行われることになっていました。

 

【裏切り者ユダ】

イエス一行は準備された家の二階間に到着し、早速過越の食事を開始します。その時、キリストは裏切り者のことを持ち出されます。このところを読んで誰も不思議に思うことが、これだけはっきりと裏切りと言う事実がすでにおきていること、そして、キリストはイスカリオテのユダに向って裏切りのことを分かっていると言われているのに、弟子たちはそれが誰のことをいっているのか分からなかったという点です。ここでもやはりキリストの弟子たちはイスカリオテのユダの心に入り込んだ裏切りを悟ることができなかったということを示しています。彼らはユダの内心を彼のそぶりからは知ることができなかったのです。

 

イエス・キリストはそのユダを過越の食事に加えておられます。ここまで分かっているのであれば、ユダの参加を拒んでもよかったのではないでしょうか。いっそのこと、裏切り者がユダであると名指ししてもよかったのではないでしょうか。なぜそれをされなかったのか。

 

キリストはユダに翻意、つまり、最後の悔い改めのチャンスを与えようとされているではないかと思います。すべての計画は進行中です。それは神の計画です。ユダの裏切りもその中の一環です。それなのに、キリストは過越の食事を共にしようとされています。過越の意味は無論ユダも承知していたはずです。小羊の血と言う犠牲によって罪のもたらす災いを避けることができる。ユダは裏切り者、そのままであれば、この世に生まれてこなかったほうがその人のためといわれる大きな罪です。しかし、その罪をも許すことができるのは神の子キリストの尊い十字架の血、その犠牲なのです。キリストは最後の最後までユダに心を入れ替えることを求めておられます。(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年02月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月21日「最高の奉仕」金田幸雄牧師

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説教要旨 マルコ14:1-9.doc
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説教「最高の奉仕」

 

聖書:マルコ福音書14章1-9

1 さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。2 彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。

3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。

6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。

8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

 


2016年02月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月14日説教「目を覚ましていなさい」金田幸男牧師

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マルコ福音書13章32~37節
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説教「目を覚ましていなさい」

聖書:マルコ13章32-36

 

要旨 

【神殿の崩壊はいつ起こるか】

 イエス・キリストがオリーブ山で弟子たち、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人(13:3)に語られたいわゆる「オリーブ山説教」を4回にわたって学んできました。今回で5回目になります。オリーブ山説教の主題は、4人の弟子たちが「そのことはいつ起こるのか」という問いに対する答として語られたものです。「そのこと」とは、イエス・キリストが語られた神殿の崩壊(3:2)を指しています。

 

しかし、キリストはエルサレム神殿の崩壊だけを語られたのではありません。それは、終わりのときの予兆の一つだとされます。戦争、飢饉、地震、そして、迫害、内部の争いといった艱難は終わりの日の前に起きます。それらの艱難の一つがエルサレム神殿の破壊なのです。弟子たちは、いつエルサレムが滅ぼされるのか、と問いますが、エルサレムの崩壊は神がこの世界を滅ぼされる終わりの日を予兆するものなのです。

 

【主イエスの再臨】

 終わりの時に起きるのは、人の子の来臨です。第1回目の来臨はベツレヘムの馬小屋でした。しかし、第二回目の来臨(再臨)は栄光と力を持って来られます。それはさばきの日でありますが、また、新しい世界が完成するときもあります。

 

 その日はいつ来るのか。弟子たちの関心事はそこにありましたし、この個所を読むものすべてにとっても大いに興味を引く問題です。いったいその日はいつなのか。聖書をあちらこちら引用し、終わりの日を西暦何年何月何日と正確に日を預言する人たちがいますが、キリストご自身がその日がいつかは誰も知らないと言います。ここでは、天使も御子も知らないと記されますが、使徒言行録1:6-7では新しいイスラエルの再建あるいは神の国の完成のときについては誰も知らない、ただ、御父だけがご存知であると語られています。

 

【神の子の受肉】

 御子が知らないということに躓きを覚える方がいるかもしれません。神の子であるはずのイエス・キリストが知らないはずがない、知らないのは神の子ではないからだ、という主張ですが、これは受肉の教理に対する誤解から来ています。

 

受肉とは神の御子は私たち人間と罪を除いては全く等しいものになられたという教説です。クリスマスにはこのことが繰り返されます。御子が私たちと全く同じになられたということは、私たち人間が終わりのときを知らないという限界まで同じになってくださったという意味です。それほどまでキリストはへりくだってくださいました。私たち人間の知識の限界まで身を低くしてくださいました。だから、キリストがその日を知らないとしても不思議ではありません。

 

【どう備えるか】

 誰もその日は知らない。でも終わりの日は必ずやってきます。だからどうすればいいのか。どういう備えをすべきなのか。誰も将来のことは分かりません。数時間先のことも知らないのです。だから、先のことなど考えてもしかたがないと諦め、終わりの日に関して思考停止にする人の何と多いことでしょうか。しかし、知らないから思考停止にすることは正しくありません。

 

キリストはたとえその日がいつか分からなくても、相当の準備をせよといわれます。大抵の人は備えなどしないままに日を過ごしますが、終わりの日は必ずあります。初めがある以上終わりもあるからです。終りのときが来ないなどということは誰も断定できない真理です。終わりは必ず来ます。それがこの世界の冷徹な真実です。この厳かなキリストの預言を軽く見ることは決してできません。それほど重大問題です。

 

【旅に出る主人の譬え】

 そのために、キリストは譬えを語られます。それは旅に出る主人の話です。この主人はたくさんの使用人(奴隷)を抱えていました。当然大きな邸宅の持ち主でもあったと思います。彼は長い旅に出なければなりませんでした。そこで、家人に仕事を割り当て、責任を課します。それはただ厄介な重荷を与えるということだけではなく、使用人を信頼しているから仕事を割り当てたのです。

 

そして、門番には特に厳重に命令を与えます。当時、物騒な世の中でした。特に強盗は厄介でした。そのためにしなければならないのは厳重な戸締りです。扉をしっかり閉じておけば強盗団は侵入できません。しかし、門番は、主人が戻ってきたらすぐの扉を開かねばなりません。戸締りをするのはいいのですが、主人が帰ってきたとき門を開けられないでは困ります。当時、旅人が夜に行動することは珍しくありません。季節によりますが、夏などは日中の日差しを避けて夜に行動するほうが少々危険があっても楽でした。主人は夜に帰館することは大いにありえました。

 

【門番の務め】

 門番は盗人が侵入してこないように寝ずの番をしなればなりませんでした。そして、主人が帰ってきたら家のものを起さなければなりません。主人が帰ってきたときに寝込んでいたら懲罰をこうむるに違いありません。このように門番は大変重大な仕事を課せられたということになります。

 

ここで、夕方、夜中、鶏の鳴くとき、明け方という言葉が並んでいますが、これはローマの夜の時間の区分を指します。鶏が鳴く時間とは午前3時か4時ごろだろうと思います。夜明けは、5時か6時ごろになるでしょうか。ローマ人は夜を等分に分割していませんでした。朝方のほうが短時間になります。そして、この時間の節目に夜の警備兵が交替します。このような習慣が民間でも採用されていたということでしょう。門番は、このように時間の区切りで交替します。朝方のほうが短時間であるのは合理的です。朝方のほうが眠気に襲われやすく、そのために時間が短くされていました。任務に当たる門番はその間は緊張して待たなければなりません。その間眠りこけていることは許されません。

 

 主人が帰ってきたら大声で他のものを起こします。こうして全員で主人の帰りを喜びます。

 以上が譬えの内容です。私たちはこの譬えから何を学ぶのでしょうか。

 

 門番が私たちを表わしていることは明白です。門番は緊張して待たなければなりません。緊張して待つというには並大抵のことではありません。わたしなど待つのが大いに苦手とします。特に、大きな病院で待たなければならないのは苦手です。予約制になっていても自分の名が呼ばれるまで待たなければなりません。その間本で読めればいいのですが、いつ名を呼ばれるか分かりませんので、何もできず、ひたすら待たなければなりません。この間の長い時間の感覚にうんざりします。待つことは骨が折れるものです。けれども、待たなければなりません。

 

いつ終わりの日が来るのか私たちには知らされていません。だからその日に私たちの名が呼ばれたときいつでも返事ができる準備が必要です。

 

 使用人たちも割り当てられた仕事をまっとうし、責任を果たしておかなければなりません。いつ主人から呼び出され、その仕事の成果を報告できるようにしておかなければなりません。一番してはならないことは怠慢です。仕事を怠り、仕事を忘れてしまえば厳しい懲罰を受けること間違いありません。奴隷ならば主人が生殺与奪の権を持っているのですから、処罰を避けることはできません。

 

 私たちも同様です。割り当てられた仕事はそれぞれ置かれた場所で忠実さを現わすべきものです。私たちはいつ何時でも主の前に立つ準備をしていなければなりません。そして、自分のしていることについて弁明できるようにしておかなければならないのです。恥ずべきところのないものとして神にいい訳ができるかどうか。

 

 このように言われますと、誰もがとても主の前に立てない、今終わりの日があると困る・・・このように思い戸惑うばかりに陥ってしまいます。それが誰にも現実であると思います。ですから終わりの日の教説を不安と恐怖心だけをもって受け止めている人も多いと思います。

 

【終わりの日は喜びの日】

 私たちは終わりの日をただ恐れだけをもって迎えるとすれば不幸なことです。譬えを思い出してください。主人が戻ってくること自体喜びです。今日と違い旅は危険この上ありませんでした。旅の途中追いはぎに狙われることもあります。大水や洪水にも襲われます。特に航海は危険で、難破の恐れと隣り合わせでした。主人が戻ってきた時、使用人は歓呼して迎えたはずです。もし主人に事故があれば一家は離散し、使用人たちは仕事を失い、流浪の身になりかねません。そして、主人は大切な仕事を終えて戻るのですから、その益に使用人たちも預かれます。土産話も楽しいものでした。テレビやネットワークのない時代です。旅人の話が最新のニュースとなります。主人からそのような話を聞くだけでも喜びであったでしょう。

 

 そのように、終わりの日の到来は喜びの日の到来でもあります。その日は、ただ終わりの日というのではありません。あるいは滅びの日というだけではありません。確かにその日は滅びの日です。滅びは存在を失うことを意味します。しかし、その日は新天新地が来る日でもあります。その日に起きることはキリストの再臨であり、そのとき神の国は完成します。神の国に選ばれた者たちはそのときよみがえらされます。もはや朽ちない体に復活させられます。もはや二度と死ぬことのない命を与えられ、苦しみも悩みもない喜びの神の民に加えられます。

 

 終わりの日は素晴らしい喜びの日ですから、私たちは苦虫を噛み潰したようにしてこの日を待つことは愚かなことです。むしろ待望の心をもってその日を迎えることができるように願って今を生きていくことこそ肝心であるといえるでしょう。

 

 終わりの日は私たちの終わりと直結しています。私たちが終わると、終わりの日が時間的ではありませんが、論理的に連結しているということを覚えたいと思います。(おわり)

2016年02月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月7日説教「神の言葉は滅びない」金田幸男牧師

説教「神の言葉は滅びない」 

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聖書:マルコによる福音書1328~31

28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

要旨

 【いちじくの葉が出る頃】

いちじくの木はパレスティナでは大変よく知られた果樹で、ぶどう、やし、ざくろと並んでその果実はよく食用に供されています。もともと小アジア原産でしたが、古くから移植され、広く栽培されていました。果実は生のままか、乾燥されて食べられていました。熱帯では常緑樹なのですが、山地では冬(12月ごろ)、葉が落ち、早春の3月ごろ、小枝の先に小さな緑のこぶしができ、そこから葉が出てきて、その葉のところに青い実がなり、夏ごろ急激に大きくなって食用になります。

 

いちじくは聖書にもしばしば登場しますが、マルコ2-14,20-22に出てきます。そこでは実がなかったためにイエスに呪われて一晩で枯れてしまった木のことが記されていました。

 

【エルサレム神殿崩壊とこれらのこと】

ぶどうはしばしばイスラエルを象徴し、神の豊かさを表わすものとして描かれますが、なぜかいちじくの木は神の裁きと結び付けられています。想像をたくましくすれば何か言えるかもしれませんが、ここからだけではその理由は分かりません。植物は季節に敏感です。自然現象を見て季節の変わり目を知るという農民や漁師の感覚を私たちは驚きをもって経験します。いちじくの葉が伸びてくると夏が近いと悟る。そのように「これらのこと」を見たら、人の子が戸口に立っていると悟れ。この「これらのこと」が何を指しているのか、という問題があります。この主の言葉が語られて40年後のローマ軍によるエルサレム、その神殿の破壊を指しているとする考え方もありますが、ここはそれも含めて、キリストがすでに語られた苦難を指していると見たほうがよいと思われます。   

 

【人の子の来臨】

戦争、飢饉、地震、迫害、内部告発などキリストの弟子たちが味わうであろう苦難のすべてが起きるのを目撃したら、人の子の来臨の近さを知りなさい。キリストはこのように言われたと解釈されます。

 30節を見ますと、はっきり言っておく、という主の言葉がでてきます。主が来られる終わりのときの接近に当たって、私たちはどういう姿勢、態度を示すべきなのか。このはっきり言っておく、という言葉をキリストはしばしば用いられますが、このことは重要だから決して軽く見ないようにという警告を含みます。アーメン、然り、わたしはあなた方に言う。キリストは厳かに命じられます。しかし、それはまた、聞くものがおうおうにして軽く評価をしているということを意味します。

 

キリストが言われていることは重視せず、どうでもいいことに時間を費やし、精神力を消耗するのがつねです。主の来臨、接近を私たちは軽々に判断してはならないのです。

 

【人の子が戸口に立っている】

 人の子が戸口に立っている。このキリストの来臨の言葉は聖書のほかのところでも出てきます。

 

ヤコブ書5:7-9「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。」

 

【忍耐していなさい】

主が来られる。そのために忍耐していなさい、とヤコブは命じます。忍耐とはただ我慢のことではありません。動揺せず、神を信じ、心を堅く保つことを指しています。ここでは、主の来られるときとは終わりのときを指していることは明らかです。主が終わりのときに再び私たちのところに来られるという事実を、戸口に立つと証言されます。

 

【悔い改めよ】

終わりの日を直接指しているわけではありませんが、ヨハネの黙示録3・19-20では、「悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と語られています。

 

主が来られるときの私たちの備え方は悔い改めだと言われます。このように、主が近いという事実を前にして、私たちはもっともっと真剣にならなければならないのです。

 

 これらのことはみな起きるだろう。しかし、これらのことが起きるまで、この時代は決して滅びない。この主の言葉には二つのことが含意されます。ひとつは、終わりがくるまでこれらの災難、苦難、危機、困難はまだまだ起きるという警告と取ることができます。キリストは弟子たちに、終わりのときがまだ来ていない以上、神の民を襲う苦難はまだまだ続く。そのように言われます。だから苦難を避けることはできません。それはいつまで続くのか誰も分かりませんが、それまでは災いは終わることがない、そのように覚悟をしなければなりません。これでもか、これでもかと災いは襲ってくる。これが現実でもあります。

 

【滅び】

 もうひとつの点は必ず終わりが来るという予告です。すべて計画されていることは実行されます。実行されるべき計画が終われば必ず滅びがきます。

 

 滅びとは何でしょうか。私たちは存在しています。私たちがここにあるということは自明の真理で動かしがたい真実であると私たちは思っています。ところがどうなのでしょうか。存在しているこのことほど脆いものはないのではないでしょうか。存在するものは何かの上に存在している=立っていると言うことができると思います。エルサレムの壮大なヘロデが建てた神殿は大きな基礎の上に建てられていました。その土台の上の神殿は不動のものと思われていました。しかし、それは簡単に倒されます。存在しているものは、実は危うい基礎の上に建てられているに過ぎません。

 

【私たちの存在の基盤】

わたしはここにある。存在するものはそれ自体存在している。何ものにも依存していないと思っていますし、そう確信しています。それは反面、事実です。しかし、その基礎はあっけなく崩壊してしまいます。この世界は何の上に建てられているか。私たちは大地の上にしっかり足を踏ん張っているように思います。都市はしっかりとした地盤のうえに建てられたと思っています。ところがあっけなく崩れます。地震は来て大揺れにゆり動いたものは崩壊します。大地という基礎はさほど堅固ではなかったということです。私たちの人生もそうです。私たちの人生は基礎の上に建てられています。資産、学歴、健康、良運、人間関係、その他の人生にとって基礎と思われるものが多くあります。そのような基礎の上に立てられた私たちの人生は堅固そのものと思いますが、それは錯覚に過ぎません。その基礎はそんなに強固ではないのです。人生を強固としていたものは一夜にして失われます。

 

 滅びとはその基礎を失うことです。神はこの世界の基礎を失わせます。終わりの日に起きることです。終わりの日とはこの世界を成り立たせていたものはことごとく失われ、存在していたものがもはや存在できなることを意味しています。あらゆるものは失われるときが必ず来ます。それが終末です。

 

【最後の審判】

 終わりが来たら一切は消滅します。存在していたものはことごとく失われます。終わりとはそのように思っている人が多いのではないでしょうか。まさしく、終わりとは存在していたものが存在しなくなること。それはゼロに帰することなのだ、何もなくなることだ、というふうに考える人が多いと思います。

 この世界の終わりとは何もなくなること。そういう観念はどこから来たのでしょうか。それは滅びに対する誤解です。根拠がありません。滅びは神のさばきが行われることであり、恐るべき審判の行われる日であるという理解は間違っていません。しかし、それだけなのでしょうか。

 キリストはこの世界はことごとく滅びると宣告されます。同時に、「わたしの言葉は滅びない、決して滅びることはない」と断言されます。

 

【新しい創造】

 キリストの言葉とは単なる音声ではありません。語られたことは必ず実現するという言葉です。終わりの日に一切合切終わり、何もなくなるというのではありません。終わりの時、キリストが来られる時、天と地は全く新しくされます。終わりではなく、新しい創造が起きるのです。すべてが刷新されます。終わりの日はこのまったく新しい天地の始まりでもあります。終わりの日はそれで究極の終末というわけではないのです。イエス・キリストが約束されたことはことごとく成就します。キリストが予告されたことはすべて実現します。神の主権と威厳は完全に回復し、神の栄光が明らかになります。死んだものも生き残っていたものも、すべての神の民が結集されます。

 終わりの時、世界は一新されます。キリストの言葉は滅びてしまい消滅するようなことはありません。

 

【私たちの人生の終末】

 そして、大切なことは、世界の終末を考える場合、私たちの終わりも考えるべきだということです。この世界が終わるように、私たちの人生も終わります。私たちの死はあらゆる意味で終わりを意味するのでしょうか。死をそのように受け止める人のなんと多いことでしょうか。死はあらゆる意味で終わり。それで終結。後は何にもない。しかし、このような死生観を持っている人はそれを証明できたわけではありません。それは根拠のない話です。

 

だれが死んでしまえば一切おしまいといったのでしょうか。根拠なしにそう思っているだけです。イエス・キリストは「わたしの言葉は滅びない」。つまり存在を失うのではないと言われます。キリストはおられる限り、私たちは滅びることはありません。存在しなくなるわけではなく、それどころか、終わりの時は新しい始まりとなります。

 このようなことは信じるしかありません。終わりの時はいつか分かりませんが、今から言えば、まだ将来のことですし、未来のことは誰にも分かりません。私たちはただキリストのみ言葉を信じるだけです。信仰とはまさしく信じるだけなのです。(おわり)

2016年02月08日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2016年1月31日説教「人の子が来る」金田幸男牧師

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説教 「人の子が来る」

 

聖書:マルコによる福音書13

24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、

25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

要旨 

【それらの日】

オリーブ山でキリストが弟子たちの語られて、いわゆるオリーブ山の説教を学んでいます。マルコ13章24に「それらの日」という表現が出てきますが、13章19にも同じ言葉がでてきます。天と地が創造されてからも、そして将来も起こることのないような苦難、大事件がその日に起こると記されています。このような前代未聞の大きな出来事が起こるのは、終わりの日、この世の終末を指していることは明らかです。

 

 この世界はいつまでも続くものではなく、終わりなどないと思われています。しかしまた、はじめのあるもは必ず終わると何となく思っている人もいます。

 

この二つの思いを両方抱えている人が多いのではないでしょうか。矛盾しているようですが、一方ではこの世界は永続すると信じ、少なくともあと何億年は存在すると思い、他方では、こんな世界はいつまでも続かない、間もなく終わるのではないかと不安がちに思っているのです。将来のことは分かりません。しかし、聖書は終末について明確に語ります。旧約聖書でも語られていました。

 

【旧約聖書イザヤ書13章10】

イエス・キリストはその旧約聖書のイザヤ書13章10を引用しておられます。

 

イザヤ13章9-10見よ、主の日が来る 残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず 太陽は昇っても闇に閉ざされ 月も光を輝かさない。」

 

イザヤはバビロンという罪に満ちた国家の滅亡を預言するのですが、それはまた腐敗した国家、都市に対して下される神のさばきの予兆と見ています。これは主の日に起きます。主の日とはキリスト者にとって日曜日を指す言葉でありますが、ここはそうではなく、主が主権、権威、権勢を明らかにされる恐るべき終わりの日を示しています。これを引用されるとき、キリストは、40年後にやってくるローマによるエルサレム侵略と、そして、それがあらかじめ指し示す終わりのときの予告に当てはめられています。

 

罪と腐敗に満ちた世界は滅ぼされなければならないのです。終わりのときは必ず来ます。キリストはそのように明言されています。旧約聖書はほかにも同様の終末を語ります。イザヤ24章33,34章4、ヨエル2章30-31、アモス8章9、エゼキエル32章7-8など。キリストは旧約の預言者たちが証言したことを肯定されているのです。

 

 その時、恐るべき現象が起きるとイザヤは語り、キリストはそれを引用されます。この天体の異変は文字通り起きるのか、それとも比ゆ的な表現に過ぎないのか、解釈に違いがあります。ある人は核戦争のような人間が引き起こす災禍とし、ある人は日食や月食、あるいは流星のような天体の現象だと解釈します。イエス・キリストはそのような現実世界でありえるような出来事のことを語っておられるように思えません。ここに記されていることはもっと大きな、この世界が破滅するような大事件です。それでは何を指しているのでしょうか。文字通りでありますが、私たちには想像もつかないような激しく大規模で、つまり宇宙規模で、凄まじく、言葉ではとても言い表すことができないような天体現象だという人もいますし、他方では、そのような激しい現象をこのように表現されたのであって、実際に起きることそのものではないと解する人もいます。わたしはどちらであるか決定しないほうがいいと思います。両者のうち、どちらの可能性もあるからです。

 

 終わりの日に、この世界がもはや存在できないような激しい現象が起きる。それだけ聞いただけで恐怖を引き起こし、不安に駆られます。

 

【人の子が来る】

 26節で、その日に、もう一つの大きな出来事が生じると予告されています、人の子が来る、というものです。大いなる栄光と力を持って、天から降ってくる。人の子はイエス・キリストがご自身を指して使われた表現です。そのイエス・キリストは今度は栄光と偉大な力を持ってその姿を現されます。第一回目はベツレヘムの馬小屋にキリストは来られました。第二回目の来臨は栄光の輝きと共に来られます。終わりのときとは、キリストは再び来られる「再臨」を指しています。終わりのときとキリストの再臨は同時だといってもいいでしょう。

 

 このことは、ダニエルがすでに予告していたと語るために、キリストはダニエル書7章13を引用されます。

「夜の幻をなお見ていると、 見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。」

 

ダニエルも「人の子」がくること、「日の老いたるもの=神」の前で、栄光の姿を取り、大きな力を発揮されます。このダニエルの黙示は、イエス・キリストの再臨のとき実現します。キリストはダニエルの言葉が実現すると言われます。

 

【バビロン滅亡を預言】

 ダニエルがまず直接語っているのはバビロンのことです。バビロンは歴史上最大の軍事的専制国家であったアッシリアをあっけなく滅ぼした強大国家でした。ダニエルは黙示的表現を用いてそのバビロンも滅亡を預言するのですが、それがただ単にバビロンという国の滅亡だけを語っているのではなく、明らかに、もっと大きな出来事の到来が告知されます。それこそ終わりのときなのです。

 

【イエス・キリストの再臨】

 ここでいう「人の子」をイエス・キリストと同定することを拒否する人々が多いのですが、ここはやはり、イエス・キリストのことを語っていると受け止めざるをえません。イエス・キリストはダニエルが予告した預言の言葉はご自身において成就すると語っておられます。そして、そのキリストが栄光を持って降るとき世界は終わると言われています。終わりのときとはイエス・キリストの第二の来臨に他なりません。

 

 終末の教理を聞いていると誰でも恐怖心を起され、不安に駆られるに違いありません。実際に終末を語って動揺を引き起した宗教集団は数多くありました。終末を語ることでもたらされる結果として、熱狂的になった人々、異常な心理的状態に陥った人たち、孤立して、山中などに逃れていった人々、こういう現象には枚挙の暇がありません。終末の教えを武器にした宗派は瞬く間に人心を集めます。しかしながらその多くはまやかしであり、危険な教えに堕してしまいます。

 終末を正しく理解しなければなりません。

 

【地の果てから選民を召し集める】

 キリストは天使を送って、地の果てから選民を召し集めるとも語られました。このことはどういう意味でしょうか。天使が送られるといわれますが、天使は見ることのできない存在です。地の果てまで送られるのですが、それを見る人はいません。誰にも見えないからです。ではどうして天使が地の果てまで送られることがわかるのでしょうか。また選民が集められるとはどういうことでしょうか。

 選民とはまことに神を信じ、従う者たちのことです。正しい教会のメンバーと言ってもよいでしょう。彼らがそのようになったきっかけは福音が宣教され、その福音を信じたことによります。福音は伝道者を通して、あるいは、キリスト者により、宣べ伝えられたものです。今はさまざまなメディアが使用されますが、手段方法は変わっても福音は世界中に宣教されています。そして、福音を信じ、教会に所属するようになります。地の果てまで天使が派遣された結果です。終わりの時、地の果てまで天使が働いているのです。

 

 終わりのときはいつか誰も分かりません。キリストの直接命令により、福音が宣教されてもう2000年近く経っています。天使が世界中に行き巡ったのではないかと思う人がいます。それなのに、まだ終わりが来ていない、これからも来ないのではないかと疑う人もいます。それは誤りです。

 

主にあっては一日は千年のごとく、千年は一日の如し、終わりの日は明日かもしれません。明後日かもしれません。そういうことは知らされていませんが、今日起らないから明日もないなどとはいえません。福音がこのように世界中に宣教されたということは終わりの接近を予告しているのかもしれません。私たちにとってそれは信じながら緊張して待つ日なのです。

 

 終わりの時、私たちはキリストに招かれ、召し出されます。そのときすでに墓に入れられていたものもまた、キリストに招かれ、集められます。キリストは、そのときただ私たちを呼び集めるだけではありません。

 

【さばきの日は希望の日】

 終わりのときはさばきの日でもあります。私たちが裁き主なる神の前に出るとき、どうなるでしょうか。大抵人たちはそんなことがあったら神に処罰されるだけだと思うでしょう。しかし、私たちはそう思いません。思う必要がありません。そのときキリストは私たちのために執り成しをしてくださいます。罪のあがないを全うされたキリストは私たちの傍らに立って苛酷な処罰ではなく、無罪を宣告され、全く清いものとされ、神の前にはばかることなく近づくことができます。私たちはもはや死ぬことのない新しいからだによみがえり、永遠に神を喜ぶことができるのです。終末は恐怖の日どころか、それは希望の日となります。私たちは大きな期待と思って終末を待ち望むことができます。

 終わりのときまで私たちは生き残っているかどうか分かりません。しかし、ここではっきり確認しておかなければなりません。私たちの人生の終わりのときはそれで一切の消滅を意味していません。それどころか、終わりの日に、私たちは新しいからだのよみがえりという幸い、祝福を受ける約束をいただいています。私たちの終わりのときはその日に直結しています。生き残ってキリストの再臨に出くわすものも、そのときこの世を去っているものも同様の祝福にあずかることができます。(おわり)



2016年02月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年1月17日説教「終わりの時の到来のしるし」金田幸男牧師

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説教「終わりの時の到来のしるし」

 

聖書:マルコによる福音書13

1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

終末の徴

3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。

11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 

 

 

要旨  マルコによる福音書13章全体は、オリーブ山の説教と言われているところで、終わりのとき、終末について語られています。

 

【二つの誤った考え】

 終わりのときについて、二つの誤った考えがあります。

 

ひとつは否定です。世界は永久に続くというもので、もし終わりがあるとしても何億年も先のこととされます。太陽がエネルギーを失い、大膨張し、太陽系そのものが消滅するとされたときとか、宇宙そのものが消滅するときです。

 

もうひとつは終わりのときは間もないとか、あるいは何年何月まで計算され、その日が近いというものです。聖書のあちこちを引用しながら、終わりのときの接近を叫び、早急の対処を求めます。恐怖心をあおったり、宗教的熱心を促したりします。

 

 確かに、終わりのときはあります。私たちの理性がそのように判断します。この世界には初めがあります。始めのあるものには終わりがあります。私たち自身の人生がそうです。出生があれば死亡があります。罪ある世界では、どのようなものも存在する限り、最初があり、時間と共に古び、そして、失われます。聖書もまた、終わりについて語っています。イエス・キリストがそれを証言してくれています。このマルコ13章もそのひとつです。

 

【最後の審判と希望】

聖書は、終わりのときが単なる存在の終焉に止めません。終わりのときは神のさばきのときでもあります。キリストはこのことについても明言されています。ただ、ここではっきり言わなければならないことは、キリストは終わりについて語られる場合、読者である私たちを恐怖に陥れる意図は決してありません。むしろ、終わりのときはキリストにあるものは終わりのときこそ完全な救いのときとなるのであり、終末は期待して待つ希望の終わりのときなのです。キリストからこのことを学び取りましょう。

 

【神殿の賞賛】

 キリストは神殿を去ろうとされます。そして、キデロンの谷を隔てている、いつも休みを取られるオリーブ山に行かれます。神殿から出て行こうとされたとき、弟子たちは神殿の建物を賞賛します。当時、ヘロデ大王によって新しい神殿の建物が建築中でありました。

 

最初のエルサレムの神殿は、BC958年ごろソロモンによって建てられます。これがエルサレム第一神殿と呼ばれ、その壮大さは当時類を見ないほど壮大で華美を窮めました。多くの装飾がなされ、堅固な建築物でした。ところが、この神殿はBC587年にバビロンによって破壊されてしまいます。その後、BC536年に指導者のゼルバベルの指導下で再建されます〔エズラ6:15〕。

 

これが第二神殿ですが、捕囚となった人々がその厳しい条件下で再建した建物で、再建に多くの民は感激しましたが〔エズラ3:11-13〕実際には、第一神殿に比べて規模も外観も内部装飾も、おそらくみすぼらしいものであると思われます。そして、この神殿はしばしば外国の略奪を経験します。BC169年にはセレコウス朝シリアに、そして、その後またローマに占領されます。

 

こうして第二神殿はかなり破損し、痛んでいました。そこで、ユダヤの王となったヘロデ大王は、自分が外国人であり、ローマと結託して権力を握った手前、その力を誇示するためにも、エルサレム神殿の増築を手がけるようになります。BC20年ごろ着工し、AD64年に完工します。イエス・キリストと弟子たちがエルサレムに上られたときはまだ建築中であったことが分かります。しかし、そのころ工事はかなり進行していて、神殿の建物はすでに出来上がり、工事はおそらく神殿を囲む壁とか、神殿の庭の装飾などに時間がかけられていたのではないかと思われます。弟子たちはすでに出来上がった建物を見て、その壮大さに感嘆します。神殿に用いられた当時のローマの土木・建築技術は最高水準のもので、大きな石がふんだんに使用されていました。弟子たちの大半はガリラヤの出身です。彼らのふるさとの地にはエルサレムの神殿のような大きな施設はなかったでしょう。ヘロデは自身の権力を示すために当時の異教の神殿建築以上に資材を投入したと言われています。弟子たちが驚嘆の声を挙げても不思議ではないほど立派で、多額のお金が使われました。

 

【主は神殿崩壊を預言】

 ところがイエス・キリストはこのヘロデの第三神殿の崩壊を預言されます。弟子たちはそれを聞き、おそらく驚愕したのではないでしょうか。こんな堅固で壮大な建物が壊れてしまうなどということはありえないと思った弟子もいたに違いありません。あまりにも意外なことばを聞いた弟子たちはキリストの言葉にどう考えていいのか全然分からなかったのではないでしょうか。沈黙して、キリストと共にキデロンの谷を通って行きました。キリストはオリーブ山の頂上だと推測できますが、そこに座っておられたとあります。谷を隔てて神殿の建物がよく見えたはずです。

 

【終末のときはいつか?】

そこで4人の弟子たちがやってきます。彼らは恐る恐るやってきたのかもしれません。内容が内容だけに他の弟子たちは尋ねることができなかったのかもしれません。あるいは彼らが他の弟子たちを代表して質問をしているのかもしれません。

 

 弟子たちは、エルサレム神殿の破壊は、単に建物の崩壊だけと認識していたのではないことが分かります。彼らはエルサレム神殿の破壊は終末のときであると受け止めていました。神殿のような、神がそこにいますことが堅く約束されている、ユダヤ人にとっては信仰の拠り所が破壊されるときというのは尋常なことではありません、それはありえない、しかしもし起きればたいへんなことが起きるに違いない、このように考えていたことは明らかです。

 

【終末の到来の兆候は】

 弟子たちは、神殿破壊とは終末の到来と思ったのでしょう。そのときはいつか。そして、その日の到来のしるし、兆候は何か、と問います。この世界の終わりについて緊張しつつ問うたはずです。

 

 キリストは答えられています。13節までに、四つのしるしが語られます。終わりのときの到来、接近を示すしるしはあるのだ。キリストはそのように語られます。

 

【キリストの名を騙るものの登場】

 第一は、キリストの名をかたるものの登場です。彼らは人を惑わします。イエスの名を語り、イエスの名でかたり、教えます。偽ってそうしますので、彼らのことを偽キリストと呼ぶことができます。キリストは救い主、救世主のことです。偽キリストは宗教的な事柄だけではなく、あらゆる領域でも人類の救済を叫びます。独裁者はこの手法を用います。独裁者の言っていることを受け入れることが国家の安泰、国民生活の安定、繁栄を伴うと宣伝されます。独裁者はしばしば救済者であるかのように振る舞います。むろん、宗教界においても救済者はあとを絶ちません。

 

当時、ローマ帝国の支配に対抗し、その転覆をはかるものがメシヤを自称したことが知られています。偽キリストは何度も現れては消え、また現れてきます。

 

【戦争、地震、飢饉】

第二は、戦争、地震、飢饉です。戦争のうわさはいつも叫ばれます。21世紀になっても戦争はやみません。それどころか、かたちを変えた戦争が増えています。国、特に、民族と民族の戦争は、ついに世界大戦にまで発展します。国際的な戦争だけではなく、国内では民族紛争が絶えません。

 

飢饉は、未だに収束することはありません。一方では飽食があり、他方では何万人もの人たちが栄養失調になり、餓死するものさえあります。このような災害は地震のような自然災害、そして人間が作り出す人災とその数その種類は数え上げることもできません。人間の科学的知識や技術は進歩しましたが、悲劇は繰り返されています。

 

【迫害】

第三は迫害です。キリストの弟子たちは、その信仰のゆえに迫害を受けます。キリストがここに上げられているのは当時の裁判の手順です。宗教的な犯罪も含め、まず訴えられたものは地方の裁判所に連れて行かれます。それに付随して、ユダヤ人の会堂で取調べを受けます、取調べといっても拷問に他なりません。そして、さらに上級の裁判は地域の支配者によって行われます。信仰のゆえにキリスト者はどの時代でも裁判を受けたり、取調べを受けたり、そして投獄され、処刑されました。

 

【家族の離反】

第四は、家族の離反、争い、そして、命を奪われることも珍しくありません。

 

以上のようなことが終わりのときのしるし、兆候だとキリストは言われますが、ここで考えてみると、これらは特別な現象、出来事でありません。終わりは必ず来ます。そのしるしは何か。特別な不思議な現象が起きると思いがちです。ところがキリストが言われているしるしは常に、あらゆるところで起きている事件に過ぎません。つまり、終わりのときのしるしだとすぐに見分けられるようなしるしではなく、その兆候はいつどこにでも起きている事件なのです。

 

 するとどうなのでしょうか。私たちは終わりの日の到来をどうすれば予測できるのでしょうか。特別明瞭なしるしでなければどうすればいいのでしょうか。

 

【いつ、その日が来てもいいように備えをすること】

 わたしにできることはいつその日が来てもいいように備えをすることです。終わりに日に備えて準備をすることです。ではどういう準備をするのか。キリストは迫害が拡大する、それは福音が地の果てまで宣教されることであり、その宣教が終わるまで終わりの日は来ないと言われます。宣教は福音の宣教にほかなりません。

 

【救いの完成のとき】

神の救いの恵みがあまねくすべての人に伝えられるとき、そこに救いが宣言されます。これは終わりの日の到来を示すのであれば、終わりの日は悲劇的な苛酷な時の到来ではなく救いの完成のときとなります。福音が宣教され、信じるものが満たされるときこそが終わりのときですから。その日の到来は信じるものには神の大いなる御業を経験するときとなります。さらに、最後まで忍耐するものは救われると約束されます。それまでの間は大きな困難に見舞われます。耐えがたい苦痛と苦悩を経験するでしょう。しかし、その期間が終われば救いは完成します。備えをするとはこの希望を持って忍耐することに他なりません。終わりの日は恐るべき、そんな日が来たら困るという日ではありません。むしろ、その逆なのです。私たちには終わりのときは救いの完成のときであり、待ち遠しく思われる日なのです。(おわり)



2016年01月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年1月10日説教「献げるとは」  金田幸男牧師

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説教「献げるとは」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書12

41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

要旨

【献金】

 イエス・キリストはエルサレム神殿の庭で教えを語られていましたが、13:1で、神殿の境内を去っていかれたとありますので、神殿で教える働きを終えてしまわれます。その神殿の境内での出来事の最後にあったことが記されています。場所は賽銭箱の置かれていたところとあります。

 

神殿の一番奥は聖所で、そこは祭司しか入ることが許されていませんでした。その後がイスラエルの庭で、さらにその外に「婦人の庭」があり、そのさらに外側が異邦人の庭とされ、異邦人で改宗者がそこまでは入ることができました。ユダヤ教徒ではない異邦人は異邦人の庭にも入ることができませんでした。

 

その婦人の庭には宝物庫がありました(ヨハネ8:20)。この婦人の庭には、賽銭箱が置かれていました。トランペットの形をした金属製の賽銭箱が13個もずらっと並べられていたそうです。賽銭=献金が奨励されていましたが、イスラエルの人々には2種類の献金が奨励されていました。ひとつは義務的なもので、イスラエルの男性に割り当てられていた献金です(出エジプト30:13,14、1年につき、銀半シェケルと決められています)。もう一つが自主的な献金で(列王記下11:5-6)、この献金は神殿の修復のために集められました。新約の時代にはこの献金はイスラエルの貧しい人たちのために使われたといわれています。イエス・キリストは婦人の庭で賽銭箱の前に陣取って様子をご覧になっていたとあります。トランペット型の賽銭箱は金属性で作られていましたから、賽銭が投げ込まれるとチャリンチャリンと音がします。キリストはその音をじっと聞かれていたのかもしれません。

 

【金持ちの献金】

 この賽銭箱に献金を投げ込んでいたのは多くの金持ちでした。婦人の庭は、イスラエルの庭への通過点となります。当時は過ぎ越しの祭り直前でたくさんのユダヤ人がさらに奥のイスラエルの庭を目指します。とうぜん、金持ちたちが献金しているのはよく見えます。チャリンチャリンと大きな音がする上に、巡礼者たちがここを通過して行きますので、金持ちたちの行動は他の人からよく目立ちます。

 

 献金はその人の敬虔、信心の表現と理解されていました。献金することで、金持ちたちが善行をしているとみなされます。そうすれば社会的に尊敬に値するとみなされます。

 献金は献身のしるしです。少なくともそのような内面の心のあり方の、外側への現われが献金とみなされていました。このこと自体は非難されるべきことではありません。献金はまさしく献身のしるしです。献金することでイスラエルの中で尊敬に値する人物と評価されます。金持ちたちは少なくとも人々から、敬虔で善人という評判を求めた。これが金持ちたちの本心であったと思われます。献金が信仰、特に献身のしるしであるという考えはイスラエルの中でも浸透していました。たくさんの人が通っていく婦人の庭の賽銭箱に献金をするならばその人はたいへんよく目立ちます。だから、金持ちは人に見られ、善人だと思われるためにささげものをしていたのです。このようなみせかけの善行は非難されるべきです。しかし、献金が献身のしるしというのは全く正当な見方です。金持ちたちはその献金の原則を曲解していたのです。

 

【貧しいやもめの献金】

 それに引き換え、貧しいやもめが2レプトン銅貨を献金したことが評価されています。2レプトン銅貨が1クァドランスだと記されます。1クァドランスは64分の1デナリオンに相当するとされています。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金であったとされますが、現在の金銭に変換すれば1万円くらいでしょうか。すると、1クァドランスはせいぜい200円くらいということになります。そして、これがやもめの一日分の生活費であったと記されていますが、1日200円で生きていこうとするのはほぼ不可能なことです。

 

 このやもめが何歳であったかは記されていません。老齢のやもめである可能性が大きいと思います。しかし、若いやもめであったことも否定は出来ません。

 キリストは様子をご覧になっておられました。金属製の賽銭箱にお金が投げられるときチャリンチャリンと音がするのを面白がって見ておられたのかもしれません。

 

キリストは弟子たちを呼ばれます。そして、厳かな言葉で語られます。「はっきり言っておく。」これは極めて重要なのだという意図をはっきりするためにこの言葉が使われます。弟子たちにも重大な問題であると意識させるために使われます。私たちも聞き漏らしてはならない重大な意味が隠されています。弟子たちはこのとき、キリストと同じくベンチに座って様子を見ていたのではなさそうです。

 

 イエス・キリストは金持ちたちの行動を批判されていることは確かです。しかし、どの点を批判されたのか。やもめは評価されていますが、どの点を評価されたのでしょうか。

 

 資産に対する献金額の割合でしょうか。やもめは有り金全部を献金しました。その点では彼女は100パーセント献金しました。金持ちは割合からすれば財産に比してわずかというべきでしょう。 

 

キリストは収入や財産に比べて大きな割合でささげることを評価され、だから多額をささげよと教えられているのでしょうか。そのようなことは考えられません。できるだけ多額の献金をするものが信心深いということにはなりません。しばしば露骨に言われなくとも、献金を多くする人は熱心な信仰の持ち主だという考え方は消えることはありません。

 

 金持ちが批判されるのはみせかけの敬虔や信心を献金で表わそうとしたところにあります。それではこのやもめのどこが評価されるのでしょうか。

 

【同労者】

 献金には多くの意味が含まれています。献金の勧めをする場合、その献金の意味を教会員に教える作業を伴わなければなりません。それは恵みの機会の提供です。例えば献金は、遠くにいる働き人と共同作業を可能にします。遠くに同行することができなくても献金で働き人と共に働きます。

 

【献金における罪の赦しと恵み】

献金は罪の赦しを求めてささげられることもあります。それは決して取引などではありません。純粋に、神に対する思いを献金で表現することは決して間違っていません。

 

 しばしば、献金を奨励する場合、何かお金集めに過ぎないと批判にさらされることがあります。献金など形式に過ぎないと批評され、献金の勧めをためらう人も多くいます。

 

しかし、それは誤解です。献金の勧めは恵みにあずかるようにとの勧めに他なりません。伝道のための献金で、私たちが福音宣教の第一戦に立つ働き人と共にたつこと、共に働くことが可能ならばこれこそ神の聖なる大事業に参画することになります。

【主は貧しいやもめの献金の何を賞賛されたか】

 貧しいやもめの献金をキリストはどうして評価されたのでしょうか。彼女が生活費と比べて大きな割合の献金をしたことではありません。貧しい人たちはその日暮らしのために悪戦苦闘しています。キリストはそういう民衆の生き様を否定されるはずがありません。信仰とはそんな日々の営みなどを忘れてひたすら業、修行などに励むこととされたりします。通常の営みを放棄してもっぱらその宗教団体のために奉仕することが価値あることだというような教えが語られたりします。そういう熱心を示すことが厚い信仰とされたりします。

 

 キリストはそういう熱狂を奨励されているわけではありません。

 

【献金は、祈り】

 では何を評価されているのでしょうか。献金は、祈りである、これが多くの宗教に見られる考え方です。賽銭を投げ入れるとき。交通安全とか商売繁盛の祈願がささげられます。献金はその意味で願いをささげることです。むろんその献金の多寡で願いが成就するのだという考えもありますが、献金の多寡よりも献金そのものが祈りとしてささげられることが稀ではありません。

 

【やもめの苦境】

 このやもめがどういう状況に置かれていたのか私たちには分かりません。やもめの年齢も分かりません。当時夫をなくした女性は経済的困窮に陥る場合が多くありました。生きていくために必死になり、その上、よくない評判に巻き込まれることもあったでしょう。老いたやもめならば身よりもなく、生きていくこと自体が困難になってしまうでしょう。ある人は病を負っていたかも知れません。精神的な苦痛と戦っている人もいたでしょう。とにかく、生きていく上でどうすることもできない状態に陥っていたかもしれません。

そういうところで何ができたのでしょうか。最終的に何ができるのか。神だけが頼りである。彼女が行き着いた最後の場面は、神の前で祈りをささげることであったと考えても差し支えないのではないでしょうか。

 

【最後に頼れるお方】

 最後のところで、ただ神だけが頼りである。これこそ「神頼み」です。しかし、神頼みなど弱い、あるいは怠惰な人間のすることだという誤解があります。最後まで努力することこそ大事だと言うのです。しかし、人間にはどうすることもできない局面に遭遇することも珍しくありません。そういう時、神すらも頼りにできない、そういう絶望を味わうしかない人がいます。それに比べて、最後の最後で神を信頼することができるのは幸いというべきでしょう。

 

このやもめがそこにあったからこそあとのことも考えないでささげものをし、祈ったのでしょう。神だけが頼りであると信じきっていたからこそあとのことなど考えないで献金をしたと考えてよいのだと思います。

 

 必死に祈りました。それは神が必ず助けてくださると信じたからです。キリストが評価されたのはこの神への信頼の姿であったと思います。

 

 私たちはやもめのような信心までいたっていないかもしれません。しかし、彼女は私たちの信仰の模範となっています。神が最終的に助けてくださる。どんなに追い込まれても神は助け主である。この信仰に私たちも立っていくように召されています。(おわり)

2016年01月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年12月27日説教「本当のメシヤ・キリスト」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書12章
35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。

説教「本当のメシヤ・キリスト」

聖書:マルコ12:35-37

 

要旨

【メシヤはダビデの子とは?】

 イエス・キリストは、このときもエルサレム神殿の境内で教えを語られていましたが、注目すべきことは、今までは質問を受ける側に立つキリストが描かれていましたのに、ここでは、キリストのほうが質問をされています。ただし、答えたのはイエス・キリストご自身、つまり、自問自答の形を取っています。

 

 どうして、律法学者たちは、「メシヤ=油注がれたものというヘブライ語で、ギリシヤ語ではキリストは、ダビデの子だ」と言っているのか、とキリストは問われます。ダビデの子とはダビデの子孫を指しています。大事なことは、ここでイエス・キリストは、メシヤはダビデの子、つまり、ダビデの子孫からではないといわれているのではないという点です。イエス・キリストの質問は、どのような意味で、律法学者たちはメシヤ=キリストをダビデの子孫だと言っているのかということです。メシヤがダビデの子であり、ダビデの家系から出るということは、これは旧約聖書の一貫した主張です。メシヤはダビデの子である。ユダヤ人はこのことを信じていました。

 

イエス・キリストもエルサレムに入城するときには、ホサナと歓呼の声を受けられましたが、そのときも、ダビデの来るべき国、つまりダビデの子孫が支配する国の王として入場されたのでした。

 

以下の聖書は旧約、特に預言者たちのことばです。イザヤ9:2-7,11:1-9、エレミヤ23:5-6、30:0,33:15,17,22、エゼキエル34:23-24、ホセア3:5、アモス9:11など多数。

 

 律法学者たちは聖書研究の専門家として、メシヤはダビデの子であると認めていました。しかしながらどういう意味でそのようなことを言うのか。この個所では明確に記されていませんが、律法学者も含め、当時のユダヤ人がどのようなメシヤを期待していたか、それはさまざまな資料を通しても知ることができます。 

 

【ユダヤとローマ帝国】

彼らは切実にダビデの王国の再建を願っていました。その当時、ユダヤはローマ帝国に支配下にありました。名目上、ヘロデ王家が支配者でありましたが、ヘロデ家の支配者たちは、ローマ帝国の権勢のもとでの傀儡政権と言っても過言ではありませんでした。ローマ帝国は支配地の政治や経済機構、文化、宗教などを尊重します。ただし、課税と言うことと、それから、ローマに対する忠誠という点では、支配地を縛り付ける方針をとります。ユダヤ人の中にはこのような体制を受け入れるものも多かったのですが、異民族の支配を潔くないと思うものも多数ありました。どんなに寛容な政策が行われても民族の誇りまで消し去ることはできません。ユダヤ人は誇り高い民族であるというだけではなく、ただひとりの神を信じているというだけではなく、その神から選ばれた民であるという自覚に生きていました。ローマの支配はその自覚と対立するものに他なりませんでした。

 

【ユダ国家再建のメシヤ】

だから、ローマ帝国からの独立は悲願であり、そのために手段は選ばないとまで考える愛国者もいました。このような人々にとって、ローマからの独立、主権の回復は大きな願望でした。その国家再建はメシヤによって実現する、このようにあるユダヤ人は切望し、メシヤを期待しました。その王国再建はダビデ家の出身者が起される。このような期待は当時のユダヤ人社会に充満していました。実際、もうしばらくして、ユダヤ人の中の愛国者たち、熱心党という党派が蜂起して対ローマ戦争を引き起こします。熱心党でなくとも、ユダヤ人はメシヤという指導者が登場し、国家の独立を願ったのです。

律法学者たちも過激な政治運動を画策するものたちと同じであったわけではありませんでしたが、このような民族的な願望から距離を置いたのでもありませんでした。彼らも民衆に迎合して、あるいは本心から、メシヤはダビデの子孫から出る、それが神の約束だと主張していたに違いありません。メシヤはそのように期待されていました。

 

メシヤがユダの国家主権を回復してくださる。ユダはダビデ時代のように繁栄を取戻す。ユダは豊かな経済を営み、強大な軍事国家になる。このようなメシヤ期待がますます大きくなってきていた時代です。イエス・キリストはこのような当時の多くのユダヤ人が心に抱いていた思いを総括して自問自答のようなかたちで明らかにされているのです。キリストは、そのような一般的なメシヤ期待をよくご存知で、律法学者たちもその枠の外にいたのではありませんでした。

 

【真のメシヤ】

 キリストは、このようなメシヤ観に対して否定をされます。当時のユダヤ人が考えていたメシヤと違う、しかし聖書が明らかにするメシヤとはどのようなものか。イエス・キリストは答えとして詩編110:1を引用されます。

 

この詩編はダビデの詩と理解されていました。その中で、主がわが主にお告げになった、とあります。主はヤハウエといわれる主なる神のことです。それは主なる神ご自身です。その神がダビデから見ればわが主、つまり、キリストに対して語られたというのです。主なる神とメシヤとダビデは別個の存在として描かれています。ダビデから見れば、メシヤはわが「主」=主人を表わしています。さらに、そのメシヤはその右の座に座ることを命じられます。右の座に座するものとは、王と同等の権威権力を持って支配することを意味しています。つまり、神の右に座するものとは神そのものといったも過言ではありません。

 

主なる神が仰せになった相手は、単なるダビデ家に属するメシヤというのではなく、もっと偉大な存在である、それは神に等しいものだと詩編自体が明らかにしている。これがキリストの言葉でした。メシヤはダビデ自身が主と呼ぶほどの偉大なものだとキリストは詩編を解釈されます。これは重大な解釈です。キリスト自身が詩編をこのように読み取っておられます。これは決して無視してはならない事実です。

 

【ダビデ以上に偉大な方】

メシヤはダビデ自身が詩編で明らかにしているように、ダビデ王家以上の権威と力、栄光を持っておられるのです。ダビデの子孫であることから見れば、ダビデに比べれば低いかもしれません。しかし、実際にはダビデに比べてはるかに偉大な方、それがメシヤであるとイエス・キリストが明らかにされたのでした。メシヤは神なのです。

 

 キリストはここで結局メシヤとは誰かという問題を突きつけておられます。いったいメシヤをどのような意味で信じ告白するのか。当時もいろいろのメシヤ観がありました。その最大のものがダビデ王国の再建でありました。あるいは再来と言ってもいいかもしれません。すでに数百年もダビデ家が滅んでいましたが、ダビデの子孫がイスラエルを再建し、かつてと同じ版図に拡大し、ユダを強大国にするような偉大な支配者の出現を人々は待望していました。

 

 同じような問いが私たちにも示されます。キリストをどう見るか。ある人は偉大な宗教家、宗派の開祖だと信じています。釈迦や孔子、あるいはマホメットと同じような偉大な宗教的天才であると認めます。ある人は混沌とした現代社会を変革する革命理論を明らかにした人物とみます。あるいは、博愛主義者で、隣人への献身的な親切の実行者、だから、私たちはキリストに倣うものとならなければならないと主張されます。ある場合、キリストというのは狂信者で、結局大言壮語してローマ政府から疑いの目で見られ、ついに逮捕され、殺害された人生の敗残者に過ぎないとさえ言うものもいます。

 

 今日、ますます、イエス・キリストを誰とするかに関して混乱は甚だしくなってきているように思われます。そして、私たちもまたこのことについて自己吟味する作業を怠ってはならないと思います。気づかないうちにキリストを見損なっていることもありえます。

 

【キリストは神】

 イエス・キリストとはいったいどういう者か。キリストは自ら答えられています。詩編110:1を引用されていますが、二つのことに注目させられます。まず第一にメシヤは神の右に座するものと言われるところです。メシヤは単にダビデの子孫というのにとどまりません。また、かつてのダビデ王国の王と同じようにユダを強国にする英雄、あるいは独裁的権力者というのではありません。キリストはまさしく神であられます。

 

 そして、このキリストは敵を打ち滅ぼされる方です。敵を屈服させる方と言われますが、ただ地上の戦争に勝利する軍隊の司令官という意味ではありません。キリストが打ち滅ぼす相手はあくまで霊的な勢力をも指しています。ときには、神の民を滅ぼそうとする国家権力であり、神を信じるものを憎む暴君です。あるいは、宗教的な見せ掛けをして、自分の弟子にしようとする偽キリストの場合もあります。その勢力は拡大し続けます。そして、この世を自らの権力の下に置こうとする霊的な勢力もあります。神に反抗する勢力であり、神の国の建設を極力押さえ込もうとする反キリストが支配する連中です。キリストはこのようなものを破壊する救い主です。

 

【罪の力を滅ぼすためにキリストは世に降られた】

 そのような神に敵対する勢力を動かしているのは罪です。この罪は、私たちに根深く突き刺さっています。キリストはこの罪の力を破壊するために、メシヤとして来られました。

 

 今私たちが学んでいるこのところの直後に記されているのは、キリストの十字架です。キリストは間もなくゴルゴタの丘の上で十字架につけられます。その十字架の上でキリストが死ぬことによって私たちの罪もそこで十字架につけられます。私たちはキリストの犠牲によって罪が許されます。

 

キリストとは誰か。どのような意味でメシヤはダビデの子というのか。ダビデの子孫として生まれてこられますが、単にダビデの子孫というのはなく、それ以上のお方としてこの世に来られました。神として、神に敵対するあらゆるものを破壊し、滅ぼす方としてこられました。私たちはこの方こそダビデの子、まことのメシヤとして受け入れ信じるのです。(おわり)


2015年12月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年⒓月⒔日説教「もっとも大切な戒め」金田幸男牧師

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2015年12月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年12月6日説教「神は生きているものの神である」金田幸男牧師

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説教「神は生けるものの神」

 

聖書:マルコによる福音書12

18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、

19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。

22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

 

24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。

25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。

 

 

要旨

【サドカイ派】

 イエス・キリストは人々が集まる神殿の庭で教えを語られていました。次々とイエスと論争を企てるものが押しかけてきます。このたびはサドカイ派がキリストを陥れようとして議論を吹っかけてきます。

 

サドカイ派とは、ダビデの重臣団の一人、祭司ツァドクに由来すると考えられています(サムエル下8:17)。ツァドクをギリシヤ語で読みますと、サッドゥクとなります。ここからサドカイ派という名称が出てきたらしいのですが、ツァドクとサドカイ派の関係は不明です。サドカイ派がユダの大祭司一族とどのような関わりがあったのか不明だからです。

 

新約聖書でもサドカイ派は何度か登場しますが、ファリサイ派ほどではありません(ファリサイ派は100回以上、サドカイ派は14回だけ)。そして、紀元70年のユダヤ戦争の際のエルサレム陥落と共に姿を消します。このようなところから、サドカイ派は、エルサレムを中心に活動していたようですが、ユダの上流階級に属し、知識人が多く、民衆からは尊敬を受けていなかったというようなことが推量されています。

 

新約聖書では、サドカイ派が復活を否定していたグループであったことが分かります。このマルコ12:18-27もそうですが、使徒言行録23:6でパウロは最高議会から審問を受けたとき、議会の構成がファリサイ派とサドカイ派からなり、両者がからだのよみがえりについて見解が全く対立しているのを見て、「死者の復活に望みを置く」と語って、議論を混乱させたことが記されます。サドカイ派は復活などないという彼らの立場を聖書の実例から証明をしようとします。サドカイ派は聖書からその証拠を引き出してきます。律法に記されている、いわゆるレビラート婚を材料にしてからだの復活否定を試みます。

 

【レビラート婚】

 レビラート婚というのは、申命記25:5-10に記されています。レビラートとは、ラテン語のレビールから派生した言葉で、子どもがない夫婦で、夫が先に死んだ場合、寡婦となった女性は夫の弟と結婚し、こどもが生まれたら、その子に亡夫の血統、財産を相続させるという規定です。サドカイ派はこの聖書に規定されている定めを持ち出してきて、復活否定を展開します。

 そのために持ち出したサドカイ派の考えは、おそらくからだのよみがえりに関して論争相手であったファリサイ派を揶揄し、嘲弄するための、作り話であったようです。7人の兄弟がいた。長男夫婦はこどもなくして夫が亡くなります。レビラート婚の規定に従って、次男が兄の未亡人を娶ります。ところが、この次男も子どもを残さないで死にます。三男が、未亡人を妻にしますが、彼も先に子どもを残さないで死んでしまいます。次々と兄弟が死に、女性は、次々に夫の兄弟と結婚しますが、結局子どもを残さないままに、兄弟のほうは7人とも死に、最後に女性も死んでしまいます。すると、復活があると困ったことになるとサドカイ派は主張します。再婚を繰り返した女性はいったい誰の妻になるのか。復活があるとしたらとても不合理な事態が生じます。いったい誰の妻か分からなくなる。これはたいへん困った事態です。

 

 サドカイ派は、復活否定のためにレビラート婚の規定、つまり聖書から証明をしようとしています。復活などあったらややこしい問題が起きます。

 サドカイ派は聖書から、彼らの考え方を証明しようとはかります。他でもない、聖書からの論証で、これには反論の余地がなくなります。聖書を用いて、復活を否定する。これにはたいていの人は反対できなくなります。サドカイ派が狙ったのはこの点でした。

 

 イエス・キリストはこのようなサドカイ派に明確に反駁されます。サドカイ派はイエス・キリストを侮蔑して、「先生」と呼びかけていますが、本心からではありません。イエス・キリストから何がしかの教えを聞くために「先生」などとは言いません。サドカイ派は、聖書に通じていると自負していたはずです。わざわざイエス・キリストに耳を傾けるつもりなどありませんでした。

 

【あなた方は聖書も神の力も知らない】

 キリストは答えられます。あなた方は聖書も神の力も知らない。サドカイ派はこの言葉を聞いて激昂したかもしれません。彼らは聖書をよく読んでいた人々であったと想像されます。ファリサイ派と真っ向から論じ合う実力があると思っていたかもしれません。聖書に通じていたと自覚していたのです。聖書を知らない、とキリストから決め付けられてしまうには心外であったはずです。キリストは聖書だけではなく、神の力を認識していないと指摘されます。

 

【天使のように】

 神の力は人間の力以上です。人間の知恵,力に比べれば比較にならないほど、神の力は強大なもののはずです。死者の復活のとき、人間的に見れば、レビラート婚で再婚した女性の立場は困ったものです。しかし、そのとき、天使のようになるといわれます。そうしますと、娶ったり、嫁いだりするようなことはない。天使のようになれば、人間のしがらみは消え去ります。

 

 聖書を学び、そのときに、神の力という視点から読み解釈される必要があります。レビラート婚の記事を人間的視点で見るならば、復活は不合理な考え方になります。しかし、神の力で見るとき、この地上世界に見られるような人間関係のしがらみはもうありません。神の力でレビラート婚を読み取るとは、神の大きな力に対する信仰の目をもって見るということになります。復活否定など起こりません。

 

【夫を亡くした女性】

 レビラート婚を信仰の目をもって見るとどうなるでしょうか。夫を亡くした女性はたちまち困窮にさらされます。親から多額の財産を所持するというようなことがなければ、本来は子どもに養われるべきなのですが、子どもがいないと身の置き所もなくなります。女性にはたいへんな自体になります。レビラート婚には救済的な側面があったのです。それはいうまでもなく、神の憐れみの表現です。神は社会的に不利な立場に置かれるもののためにおきてを定められました。レビラート婚をキリストの復活否定のために引き合いに出すことなどできなかったのです。

 

【死人の復活と夫と妻、親と子、兄弟姉妹の関係】

 終わりのとき、死人は復活します。そのとき、夫と妻、親と子、兄弟姉妹の関係が亡くなるというと悲しくなる人が出てくるかもしれません。復活のとき、もう夫婦ではなくなる。そんなことは受け入れがたい。そう思う人がいても不思議ではありません。ここでも神の力の観点から読み込めば、別の視点も出てくるはずです。神が地上の人間関係などくだらない、価値のないことと切り捨てられるはずがありません。むしろ、さまざまな思いを聖化してくださる神です。私たちの思いを越えて神は素晴らしいことをなさいます。

 

【】

 キリストは、今度は聖書から、復活の真実性を証明されます。聖書に文字通りに書かれていないことはたくさんあります。キリスト教信仰の重大な教理には文字でそのように書かれていない教理もあります。例えば三位一体の神です。しかし、私たちは聖書を信仰の眼をもって眺めるとき、重大な真理を読み取ることができます。文字通り書かれていないから真理ではないなどとはいえません。

 

【アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神】

 キリストは、出エジプト記3章を引用されます。ここでは、モーセに神が現われ、自らを、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と自己紹介されます。ところで、モーセにこの啓示が与えられたとき、すでにアブラハムから数百年過ぎています。もう彼らの姿はどこにもありません。遺体は墓に収められましたが、もうすでに土に帰ってしまい、形の上ではもうどこにも存在しなかったかもしれません。とっくに無くなっていた。死はあらゆるものを無に帰してします。死は一切の終わり。死んでしまえばもう何もかもなくなるのだと思われています。この考えは何も現代人だけの特徴ではありません。モーセのころ、アブラハムもイサクもヤコブも消滅していたと考える人もいたでしょう。ところがキリストはこの出エジプト記の記事を取り上げて解釈されます。出エジプト記3:6をキリストは取り上げられます。すでに数百年の年月が過ぎ去り、モーセの父祖らは消え去っていたと見えます。

 

【永遠の契約】

 神はアブラハム、イサク、ヤコブを忘れていなかったというだけではありません。神は、彼らと契約を結ばれました。特にアブラハムにはあなたの子孫は海の砂、天の星のようになると約束されます。また彼らに、乳と蜜の流れる約束の地を与えると言われ、契約を結ばれました。この約束は反故にされることはありません。アブラハムたちが死んでも約束は消えません。約束は必ず実現します。契約の内容は必ず実現します。アブラハムの死と共に神の約束は消滅したのではありません。とすれば神は復活を前提にアブラハムに約束をされたと言うことになります。

 

 神は死んでしまい、もうそれで一切が終了してしまったものの神ではなく、一度は死んでもそれでもなお約束が必ず成就するようにされる神です。神はいのちを与えるかたでもあります。約束は必ず実現します。

 

堅く契約を守られるという信仰をもって、この個所を読みます。すると、神は生けるものの神であるということが分かります。信仰を持って聖書を読むときにこそ真理が明らかになります。信仰を持って、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と自分を明らかにされた神は当然のことながら、今は死んでいるかもしれないが、いつまででも死んだままの者の神ではなく、必ず終わりのときにキリストによりもはや死ぬことのないいのちを与えられたものたちの神なのです。キリストと同じく、その神は私たちをも永遠の命によみがえらされます。おわり

 

 

 

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2015年12月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年11月29日説教「神のものは神に返しなさい」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書12章13-17
13 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。
14 彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。
15 イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。
16 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。
17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

要旨 

【ヘロデ派とファリサイ派】

12章13によりますと、ある人々が、イエスの言葉尻をとらえようとして論争を仕掛けたと記されます。今回の居場所や時間は記されていません。11章27~12章12ではイエスは神殿の庭で祭司長たちと論じ合ったと記されますが、ここではヘロデ派とファリサイ派と論争相手が選手交替をしています。イエスは神殿の庭で教えをされたので場所は神殿の庭であろうとも思われますすが、時間はその翌日であったと推測されます。

 

 ところで、ヘロデ派とファリサイ派はふだんは敵対していました。ヘロデ派は当時ユダヤを支配したヘロデ王家の支持者たちでした。ヘロデ家はローマ帝国と結託してユダヤの支配権を確保していた権力者であり、ヘロデ派はその支持者たちでした。

 

一方ファリサイ派はユダヤ人の信仰と生活の規準である律法を重視し。民衆にも律法の遵守を奨励しました。当然のことながら、ヘロデ派のようにローマ帝国に媚を送るような考え方を嫌悪しました。ですからヘロデ派とファリサイ派は日頃は対立関係にありました。しかし、彼らは共通の敵イエスに対しては共同戦線をとります。敵対者が力をあわせて攻めてくる。それは強大な力を発揮することになります。この世の中で神を信じて生きていこうとするものに、普段は対立しているものたちが手を組んで攻撃してきますが、それは大きな勢力となり、恐るべき敵対者となります。

 

【美辞麗句を用いて】

 彼らはイエス・キリストに論争を仕掛けるにあたり、美辞麗句を用います。「彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」。

 

むろん本心から出た言葉ではありません。うわべだけの言葉ですが、しかし、これほどイエス・キリストが誰か、どんな働きをしているのかを明瞭に語られているところはありません。的を得ていますが、それだけ敵対者の心はキリストから離れています。これは皮肉と言えば皮肉です。これ以上キリストとは誰か、的を得た言葉を語りながら空虚な言葉でしかありません。

 

【ところで、皇帝に税金を納めるのは・・】

反対者の質問は、「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。というものです。皇帝に税金を収めることが律法、つまり、聖書の教えに一致しているか。これは律法に合致しているかどうかだけの問題ではありませんでした。イエスがこれを語られたときから約30年ほど前のAD6年、ヘロデ大王の息子アルケラオの失政のためにローマ帝国はユダヤを属州にしてしまいます。属州は、ローマの直轄領で、総督が派遣され、そのもとで地方政治が行われます。アルケラオの領土はユダヤ州と呼ばれるようになります。

 

【納税の義務】

ローマは属州にはかなりの自治を認めますが、ただ、納税だけは厳格に守ることを求めます。税金さえ納めておれば属州は中央からあまり干渉を受けることもありませんでした。しかし、納税を履行しないとこがあれば帝国政府は苛酷な圧迫を加えます。納税を求められることこそ、ユダヤがローマの支配下にあることを示します。ユダヤ人にはそれは屈辱的な事態でした。それだけではありません。

 

【ローマのコイン】

ローマ政府はローマのコイン、銀貨で納税することを求めます。ところで、そのコインには皇帝の肖像が刻まれ、王の権力を示す銘が彫られていました。ローマ帝国の東部地方では皇帝を神として崇める宗教生活が徐々に展開していました。ギリシヤ人にとっては人間が神になることはその宗教の特質でもありました。ユダヤ人たちはこの意味でコインの肖像を警戒します。それは単なる人間の肖像ではなく、神の偶像なのだとされます。当然ユダヤ人は嫌悪をします。

 

【ロマ皇帝の神格化】

 キリストが地上で活躍されたとき、皇帝を神格化する動きが盛んでした。ユダヤ人からすればこれはとても不愉快な事柄であり、信仰に反しますし、嫌悪すべきでありました。しかし、それは帝国政府に反旗を翻すことになります。だから、たいていのユダヤ人は表面上は反抗しませんでしたが、快く思いませんでした。極度に反感を持ったユダヤ人の一派もありました。熱心党と呼ばれいる党派で、彼らはローマの支配に反抗し、独立を取戻そうとしました。当然、皇帝に税金を納めることに反対し、拒否します。このために、武装闘争の道を選び、ついに二度にわたりローマとの戦争に突き進みました。キリストは地上での働きをされていたとき、すでに熱心党はかなりの影響力を持ち始めていました。このような反ローマ的は動きをローマ政府は見逃すことはできませんでした。

 

 このような複雑な問題につながっていく微妙な問題をファリサイ派、ヘロデ派の共同戦線が攻撃してきたのです。

 実際、ポンテオ・ピラトの裁判のとき、キリストを訴える偽証言者の言葉に、キリストが皇帝への税金の納入を拒否したと言うものがありました。この罠にかかればイエスは、ローマ政府から処罰されたり、あるいは答え次第でユダヤ人民衆の支持を失うことになります。このような下心から質問が投げつけられたのです。

 

【聖書に書かれていない問題】

 ところで、律法には皇帝への納税のことなど記されていません。聖書に書かれていない問題をどうするのか、敵対者は問います。

 

 聖書を何もかも教科書のように見る人がいます。しかし、聖書はあらゆる人間の営みについて書かれてあるわけではありません。書かれていないこともたくさんあります。書かれていない事柄はどうなるのか。たいていの人は、自由だと言う考え方を持っています。聖書に書かれていないことは自分で判断すればいいというのです。

 

こういう立場の人は結局自由だと言っても答えは簡単ではないので、世間で通用しているような考え方を取ります。聖書に書かれていないことはこの世の価値基準を採用します。ここでは分裂が起きてしまいます。信仰と世俗が分裂し、結局は信仰よりもこの世的な規範が支配的になります。世俗的は、信仰に反するこの世の常識が生き方の原則になります。そういう生き方の末路は結局信仰なしの生き様になります。

 

 もう一つのやり方は、聖書に書かれていないことはたくさんあることと認め、そこに伝承とか伝統を重視します。当時のユダヤ人も今日のユダヤ教でも共通することですが、むかしのラビ(律法研究者)の聖書の解釈などを価値あるものとみなし、聖書に書かれていないことついての規準や規範を引き出すのです。カトリック教会も聖書に並んで、教会が保持する伝承を聖書と同等の価値を認めます。

 

 このような聖書に対する考え方は聖書を軽視するものとなりかねません。では、どう考えればいいのでしょうか。イエス・キリストはどういう考え方をされるのでしょうか。

 

【皇帝のものは皇帝に】

キリストの答えは次のようなものでした。イエスは、彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。そこに皇帝の肖像が書かれてあるとしてもそんなものと関わりなく皇帝に税を納めよ。ファリサイ派はためらいながら税を納めていました。キリストはためらうことなく税金を払えと言われます。ここでは、[返す]と言う言葉が用いられますが、元に戻せ、つまり、本来のもち手に返せという意味です。本来、ローマのコイン=お金は皇帝のもの、それならば返せばよい。

 

 ここまでですと、キリストはただ皇帝に税を納めることを肯定しているだけです。異民族で、異教徒のローマ人の支配にただ服従しておればいいということになります。政治的に無関心であれとも取れます。

 

【神のものは神に】

しかし、キリストは、神のものは神に返せ、と言われます。神は全世界の創造者であり、支配者です。神に返せとはすべてを返せということになります。皇帝と神は同等ではありません。神に返せとはすべてを返せということになります。あらゆるものは神に属します。私たちの所有は何もありません。本来は神のもの。皇帝に納税することの是非よりも、地上での私たちの生活が一切神の主権のもとにあるということに注目すべきなのです。皇帝への納税の問題よりも、神に如何に借りたもの、つまり、あずかったものをどのようの返却していくのか、そのような人生のほうが重要な問題だと教えられます。

 

【信仰的判断】

 聖書に書かれていないことは自由ではなく、信仰的に判断しなければなりません。信仰をもってどう考えるかのほうが重要なのです。聖書に書かれていないことであっても、聖書に育まれて信仰的に判断するのです。だから、私たちは日々聖書を学ばなければなりません。どれがキリスト教的ものの考え方なのか、信仰者としてどう考えればいいのか。このように毎日具体的な事柄で私たちは判断を下すべきなのです。

 

このために、私たちに必要なことは教会で、あるいはキリスト信者の交わりにおいて、聖書の考え方を学び、信仰を育まれ、キリスト教的なものの見方を身につけていき、信仰によって決着していくのです。聖書に書かれていないからといってキリスト教信仰と関わりのない結論を出すのではなく、聖霊の導きのもと、信者として一番ふさわしい決定をしていくのです。人生の重大な局面でこそ、このことができるかどうか、それが大きな課題となってきます。聖句一つだけで判断せず、毎日聖書を学びながら、総合的に聖書を読み、その知識でもって具体的な事柄に決着をつけていくのです。(おわり)

 




2015年11月29日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年11月22日説教「土台となる捨てられた石」金田幸男牧師

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マルコによる福音書12章
1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。


 

要旨

【権威のついて論争】

  イエス・キリストが三度目、神殿に来た時、当時のユダヤの宗教、政治の指導者らと権威のついて論争をされました(11:27-33)。そのつづきが今日の12:1-12で、まず、イエス・キリストは譬えを語られています。このたとえは今までのように一般の聞き手に語られたのでもなく、内容も今までの譬えのような「牧歌的」雰囲気は皆目ありません。

 

相手は、権威を振りかざす祭司長、律法学者、長老たちでありました。譬えで語られたのは、そこで彼らの隠された心を暴露するためであって、直接語られなかったのは、まだそのとき、つまり彼らと決定的衝突を回避されるためであったと考えてよいのではないだろうかと思います。

 

 この譬えは内容がとても深刻で、しかも敵対者の心の中を見抜いています。あまりにも露骨なのでイエスが本当に語ったのか疑問視されることもあります。しかし、その信憑性は疑いようありません。真正なイエス・キリストの言葉として受け入れてよいと思います。

 

【ぶどう園】

この譬えですが、舞台はぶどう園です。ぶどう園は旧約聖書にしばしば登場します。このキリストの譬えはイザヤ書5章1-7をすぐさま思い起こさせます。

 

わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。

しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。」

 

ここに記されているように、ぶどう園はイスラエルを象徴しています。イエスの譬えでもぶどう園はイスラエル、その指導者たちを表わしていることはすぐ分かります。農園主は主である父なる神を指していることも分かります。

 

【農園主と農夫】

 このぶどう園には、垣、搾り場、見張りの塔が造られます。垣は石で組まれたと思われます。搾り場に設置する搾り機は普通は石を刻んで造られます。そして、見張りの塔は、見張り台であると共に野獣から農夫たちが身を守るための施設です。これだけきちんと設備が整っているぶどう園はすぐれた農園ということができます。当時のぶどう栽培はぶどう酒を醸造するのが目的で、大掛かりな農業になっていました。イエス・キリストはイザヤ書からこの譬えを語られたようですが、当時の実態も反映していると言えます。当時、パレスティナにはローマの占領と共に、資産を持っている裕福な人々が農地を安く買い取りました。彼らは不在地主で、その所有地には住まないで、農園を農夫に貸し、収穫のとき一定の割合で所有者に納めるという契約を結びました。

 

 この譬えでは、所有者である農園主は何か落ち度があるようなことをしていません。彼は自分の農園に多くの資本を投入して、立派な農園を造っていました。そして、農民とは正式の契約を結んだのでありましょう。何も不当なことをしていません。落ち度なく農園主として、収穫の一部を期待したに違いありません。

 

 ところが陰惨な事件が記されます。農園主は収穫期になったので、契約通りに、ぶどう酒を送ってくるように連絡をします。ところが農夫たちは送られてきた農園主の使いにひどいことをします。送られた来たしもべを殴るは、たたくは、袋叩きにしてしまいます。その上、別のしもべを殺してしまいます。

 

 農夫たちはなぜこんなひどいことをしたのか。農園主が外国の占領軍と一緒に入ってきたものだったからかもしれません。しかし、農園主が外国人であったとは記されていません。とにかく、農夫たちは農園主に契約通りの貢納を拒否しました。ひとり息子を殺害したのはなぜか。おそらく、農夫たちは農園主が死んだと思ったのではないでしょうか。そんなうわさが飛んだのかもしれません。農園主が死ねばその財産は一人息子が継承します。しかし、その息子もいなくなれば、農園主はいなくなり、耕作をしているものたちのものになるかもしれません。おそらくの話ですが、農夫たちは豊かにぶどうを生産するこの土地が欲しいと思ったのでしょう。欲しくなると手段を選ばない。

 

農夫たちの動機は欲であったといえるのではないでしょうか。欲しいものを自分のものにしたいと思うと手段を選ばなくなります。殺人も犯す。これが人間の罪ではなくて何なのでしょうか。次々と農園主が送る使者を亡き者にした理由は貪欲、物欲、所有欲であり、その欲望を満たすためならば手段を選ばない。あるいは欲望を阻止しようとするものも殺してしまいたくなる。このような感情は決して作り話ではありません。現実の私たちの姿でもあります。

 

 一つ不思議なのは、なぜ農園主はこれほどまでされながら農夫たちから収穫の一部を獲得しようとしたのか。農夫たちを信頼していたのかもしれません。どんなひどい仕打ちを受けても我慢するほどに、農夫たちが必ず心を入れ替えてくれる。そう信じたのでしょう。

 

 農園主は、農夫たちと契約を結びました。契約は単なる約束ではありません。それが神の前でなされたとすればその契約は決して破られることはない・・・農園主はそう信じたのかもしれません。相手を信じる、これが農園主の心であったと考えることができると思います。

 

 この譬えで送られたしもべらが預言者であったこと、その一人息子こそイエス・キリストであることはすぐ分かります。

 

 イエスの譬え話を聞いて、祭司長たちは自分たちに言われているとすぐに気がつきます。イザヤ書のことは聖書の専門家ならばよく知っていた話であったと思います。

 

 イエス・キリストはこの譬えを閉じるにあたって、息子を殺した農夫たちがどんな結末を迎えるか語られますが、祭司長たちが烈火のごとく怒ったとしても不思議ではありません。イエスをこのままにしておくことができないと思ったでしょう。しかし、群衆が近くにいたので手を出すことができませんでした。

 

 ここまで読むと、キリストは、間もなく起こるであろう、十字架の苦難を予告していると取ることができます。キリストはエルサレムで経験される恐ろしい出来事、祭司長たちの陰謀によって逮捕され、裁判を受け、処刑されるであろうことをよく承知しておられたということを示しています。キリストと祭司長たちの間は険悪となったことを知ります。

 

 ただ、このキリストの譬えはこれで終わりませんでした。キリストは詩編118篇22-23を引用されます。

 

家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。」

 

家を作るとき、多くの石材が用いられます。ところがある石は不要とされ、道端に放り出されます。ところが、増築のためか、あるいは近くに新しい建物を新築するためか、捨てられた石が丁度、柱石にすることが適当となります。基礎となる石がしっかりしておればその上に柱を立て、大きな建物を支えることができます。いったん何の役にも立たないとされた石が今は大きな構造物を支える石となります。

 

 譬えの中で、農園主の子どもは、殺されて、農園の外に放り出されます。ユダヤ人は死体が葬られることなく、野ざらしに放置されることほど嫌悪したことはありません。葬られることなく死ぬ、それは一番悲しむべき事実でした。農夫たちは農園主の息子に最大限の侮辱を行ったのでした。許しがたい行為です。

 

 イエス・キリストもまた同じように十字架という残酷で残忍な処刑方法で殺され、木の上に放棄されました。キリストが蒙った辱めは言語に絶するものでありました。

 

 しかし、キリストは、その捨てられたものが神の救いの事業の中核となるのだと語られます。詩編の言葉はキリストにおいて現実となります。これにまさる驚くべき事件はありません。みなから捨てられ、辱められ、卑しめられた方が神の救いの働きを完成させられます。捨てられたキリストこそがまことの救い主なのです。

 

この事実をキリストはご自身の十字架と共に語られました。むろん、祭司長や律法学者たち、長老たちはキリストのこの言葉を全く聞いていません。譬えが自分たちにあてこすりだと感じてあとはもう聞いていません。詩編の引用で、捨てられたキリストこそ、新しいイスラエルの救済者であり、まことの神の家の土台となられたのだと、キリストは明言されています。

 

【裁きと救い:神の愛】

 そこで、キリストが語った譬えだけしか聞かなかったものには厳しいさばきのことばをだけを聞いたことになります。神の御言葉を中途半端に聞けば怒りを引き起こされるだけ、あるいは戸惑いを生じるだけということもしばしばあります。しかし、キリストの意図は、ただ滅びを予告されるというだけではありません。キリストの本当のみ心はそんなところにあるのではありません。神のひとり子を遣わされるほどまで神は私たちを心に留め、愛し、何とかして救おうとしておられるのです。間違いなくそうなのです。(おわり)

 

2015年11月22日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年11月15日説教「イエス・キリストの権威」金田幸男牧師

(本日の音声説教はありません)

説教「イエス・キリストの権威」

聖書:マルコによる福音書1127~33

27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。

32 しかし、『人からのものだ』と言えば......。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 

要旨

【最高議会の祭司長、律法学者、長老たち】

 イエス・キリストとその弟子たちは三日目もまた、エルサレムの神殿に入って行かれます。そこで、祭司長、律法学者、長老たちと出会います。これはたまたま出会ったというのではなく、彼らがイエスを探していたと理解すべきです。この人々は、ユダヤ人の最高議会を構成する人たちです。

 

最高議会、サンフェドリンとよびますが、単に法律を定めるというだけではなく、ユダヤの宗教問題を取り扱い、また、各地のユダヤ人社会の揉めごと、民事紛争などの最終的な裁定を下すことになっています。ときには法律違反に対して処罰を下すこともあり、ローマの支配がなかったときは死刑の判決執行の権限も与えられていました。神殿警察を管轄してもいました。イエス・キリストは前日、神殿の境内で、商人たちの机や椅子をひっくり返すという「騒ぎ」を起しています。商人たちから多額の上納金を得ている祭司長たちからすれば、イエス・キリストの行為は許しがたいものと見えたはずです。

 

11章18に、祭司長や律法学者たちがイエスを殺そうと謀議を行ったとありますが、これはイエスを逮捕し、治安を乱すという罪をなすりつけて処刑してしまおうと考えたことを示しています。

 このたびは、イエスをすぐに逮捕して投獄するというようなことをしていません。群衆が周囲にいたからであると思われます。イエス・キリストは神殿の庭を中心に教えを語られていました。(11:17、18)。群衆はその教えに感動していたとあります。群衆の大半がイエスの教えを受け入れたのではなかったでしょうけれども、多くの人がその教えに心を動かされていたのを、祭司長たちも認めざるを得なかったのです。

 

 祭司長たちは、イエスを逮捕するように、同行していた神殿警察に命令を下したりしません。それよりも、穏やかに質問をしたとあります。むろん、穏やかであってもその真意は、キリストの返答次第ではキリストを逮捕してしまおうと考えていたに違いありません。あるいは、その答えによって群衆が失望したり、反感を感じたりする可能性を考えていたということもありましょう。

 

【何の権威によって、このようなことを】

 何の権威によって、このようなことをするのか。「このような」とは、直接には宮清めと言われている商人たちの追い出しを指していると思いますが、また、祭司長たちの許可もなしに勝手に神殿で人を教えていたということもあり、また、三日前、群衆は「ホサナ」と叫んでイエスと共にエルサレムに入城したことも含まれていると思われます。

 

 祭司長たちが問題にしたのが権威の問題でした。実際、祭司長たちこそ当時権威を持つものとされていましたし、彼ら自身そう自覚していました。祭司長は神殿を管轄し、ユダヤの宗教的権威とされていました。政治権力も掌握し、事実上、ユダヤの国家元首のような立場にありました。

 

律法学者は律法の解釈と適用の最高権威と認められていました。律法は単に宗教だけではなくユダヤ人の日常生活を律する役割を持っていました。

 

長老たちは各地のユダヤ人社会の指導者であり、最高議会に送られる前の民事裁判を司ったのです。彼らこそユダヤ人社会の権威でありました。

 

【権威とは】

 権威というものは単なる名目の問題に過ぎないというのではありません。権威はそれ自体威圧する力を持っています。権威は大家とも言われます。ある流派の師匠はその道の権威とされます。権威を持っている以上、その権威の下に人を置き、命令し、あるいは、服従を求めます。権威とはそういうものです。権威が単に名目などというのは言葉の矛盾です。権威はその成員に対して力を振るいます。権威は威圧する力を伴います。

 

 最高議会にとって彼らが持っている権威に対する挑戦は許しがたいとされます。彼らが持っている権威は手放すことなどありません。政治権力がその代表です。いったん政権を掌握するとそれを手放すというようなことは絶対と言っていいほどしません。権力を掌握した政治家はその権威を振りかざします。それが政治というものです。権威を持つものはその権威を振りかざして、多くの人間を権威の下に置こうとします。

 

 イエス・キリストがしていることは最高議会の権威に逆らうものとみなされたのです。イエスを許しておくことができません。誰が神殿でそんなことをしてもよいという許可を与えたのか。そのような許可は最高議会の権能に属するものと思われていました。ところが何の了解も許可も得ずに不埒なことをしている。これが最高議会の受けた印象でした。

 

【イエス・キリストの権威】

 ところがイエスは彼らの思惑にはひっかかることはありませんでした。キリストは最高議会のメンバーに答えるという形ではなく、キリストご自身が質問をします。

 

【ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか】

 ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか。天からのものとは神からのものを意味します。洗礼者ヨハネのことは福音書に断片的に記されていますが、マタイ3章2でヨハネの言葉が記されています。これはヨハネの説教の要約と言うことができます。

 

ヨハネは[悔い改めよ、天の国は近づいた]と公言しました。ヨハネはこうして悔い改めたものに洗礼を授けました。洗礼者ヨハネの洗礼とは、悔い改めて受ける洗礼のことです。悔い改めよ、と叫んだヨハネは預言者とみなされていました。聖書の中にその言葉が残されている預言者の系列にあり、神の言葉を受けて、それを語る人々がいました。彼らは神の言葉を語りました。だから預言者と呼ばれていました。今日ではもう、預言者活動は終わっていますが、キリストの時代は預言者も活躍していたのです。神からの託宣を受けたものとして語ります。洗礼者ヨハネは預言者だと思われていたのです。ヨハネはキリストに先立って、御言葉を語りました。

 

 キリストも洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その点で、洗礼者ヨハネと同じようにキリストも預言者と認められていたのです。ヨハネは民衆から預言者だとみなされていました。このことは祭司長たちも認めざるを得ませんでした。

 

むろん、祭司長たちが本心からヨハネが預言者と認めたいたわけではありません。その反対です。ヨハネの権威など認めるはずがありません。もし、ヨハネが預言者であれば、神からもみ言葉を受けたのです。ヨハネが語る言葉は神からの権威によって語られたものです。民衆はヨハネを預言者だと認めているからには、ヨハネの教えもまた神からのものといわなければなりません。

 

 むろん、祭司長たちは、ヨハネが預言者だとか、神からの権威で語っているなどと信じていたわけではありません。むしろ否定をしていたはずです。しかし、では人からの権威に過ぎないといえば、群衆は祭司長たちに反感を持ち、あるいは暴動でも起したかもしれません。ですから、ヨハネが神の権威をもって語っていたとか、まことの預言者だと認めるようなことはできませんが、では人からの権威によって語っているというのではあれば、民衆から袋叩きに会うかもしれません。口が避けても言えないことです。そこで彼らの出した結論は[分かりません]でした。分からないということはむろん答えになっていません。彼らはイエスの質問をはぐらかせたことになります。イエス・キリストはそのような祭司長たちの答えに[自分も何も答えない]と宣言されます。キリストも沈黙をもって答えられます。むろん、キリストは言わずもがなに答えておられます。キリストもまた神からの権威で語っているのだと。

 

【権威を否定する】

 権威というものは、それに直面すれば二つの態度表明の方法があると思われます。ひとつは拒絶です。沈黙であれ、権威に対する反抗であれ、権威を否定するという態度です。自分が持っている権威を固守するためにそうする場合もあります。相手が持っている権威、そのために威圧を持って差し迫ってくるものに、人は反抗する傾向をもともと持っているのではないでしょうか。

 

人が最初に出会う権威は親の権威です。親は親の権威を振りかざして威圧してきます。子どもは3歳くらいでもう反抗します。親の権威に反抗しながら子どもは成長していくものかもしれません。

 

次は教師の権威、学校の権威にたてつきます。生涯にわたって権威を否定し続ける人もいます。権威を嫌悪しながら人生を過ごす。

 

【権威に服従する】

もうひとつの態度は服従です。権威に対して弱いという特性をまた人はもっています。権威にたてつくことばかりしながら、ある権威にはめっぽう弱いという人もいます。

 

 私たちは、ここでキリストの権威に直面します。祭司長たちもそうでした。キリストの権威に直面していたのです。しかし、彼らはむろんキリストの権威を認めるようなことはしません。自分の持っている権威は手放すことがなく、またその権威に並び立つ権威など認めません。しかしながら、私たちもまた同様に、神の権威に直面しているのです。

 

 祭司たちはキリストの言動の権威が神からのものであるということを認めませんでした。そうすることで彼らは自分たちの持つ権威を擁護しようとしました。その権威をもって威圧する態度を変えることはありませんでした。

 

 私たちはここで神の権威を考え直さなければなりません。権威は威圧する力を伴います。神の権威もまた威圧する力を持っています。しかし、この権威は、恩寵という力で、救うという神の意志が明らかになっている威圧を伴います。この威圧に対して相変わらず多くの人たちは反抗します。そんな権威は認めないというのです。

 

【それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい】

 私たちは間違いなく神の権威の直面します。そして服従を示さなければなりません。祭司長たちはその権威を受け入れませんでした。沈黙でもって答えて祭司長たちに対しては神の権威でもっているということを明らかにされないままでした。それはさばきでもあります。(おわり)

2015年11月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年年11月8日説教「神の宮、祈りの家」金田幸男牧師

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聖書:マルコによる福音書11章

15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。

16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。

17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」

18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。

19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。



要旨 

【エルサレムに入場】

 イエス・キリストはホサナと叫ぶ群衆と共に、エルサレムに入場されました。キリストは預言者ゼカリヤの言うようにろばに乗って行かれます。その日はベタニヤ村に戻られ、翌日、再びエルサレムに向かわれます。途中季節外れではあるが実を結んでいないいちじくの木にキリストがのろいの言葉を投げかけられたという記事が挿入されます。

 

【宮清め】

都に入っていくのはキリストとその弟子たちだけで昨日の群衆はもういません。弟子たちと神殿に入って行きますが、そこでキリストがなさった働きを「宮清め」と一般に言われています。ヨハネ福音書にも宮清めの記事が記されていますが、キリストの公的な働きの初期に属します。マタイ、マルコ、ルカ(共観福音書)はその終わりに属します。同じ記事なのに時期が違うのでどちらかが間違いという説もありますが、わたしは二度宮清めがあったと解釈しています。

 

【キリストの怒り】

ところでここに記されているキリストの行動はまことに過激というか、乱暴なものです。神殿で物を売り買いし、両替をしている商人の机や椅子をひっくり返すというものです。明らかにキリストは暴力を使ったというので、あの、おやさしい、心温かいキリストがそんなことをするとは、と驚く人もいるかもしれません。それ以上に、キリストは怒りをあらわにされています。しかし、福音書において、しばしばキリストが怒り、憤ったということが記されています。

 

マルコ10:14では、祝福をしてもらおうと連れてこられた幼児たちを阻もうとした弟子たちにキリストは憤られます。また、ヨハネ11:33では、ラザロという人物が死に、多くの人たちが嘆いているのを見て、激しく憤ったと記されます。その他にもキリストの怒りが爆発する場面が描かれています。キリストは怒る方でした。

 

 怒りはどのような場合に起きるのでしょうか。まず正義が損なわれているところだろうと思います。特に社会的正義と言われるものが無視されたり、蔑ろにされているときにだれもが怒ります。あるいは思っていること、願っていることが実現しないとき人は怒ります。あるいは大きな悲しみに圧倒されるとき激しい怒りにさらされます。

 

 キリストは何を怒られているのでしょうか。

 従来、二つのことが言われてきました。ひとつは、神殿で商売が行われていた点です。神殿にはたくさんの巡礼が各地から上ってきます。神殿では犠牲がささげられます。時期は過越の近くでしたが、過越には子羊がささげられます。また、神殿ではいろいろな儀式が行われています。そのとき、牛や山羊のような家畜が犠牲として屠られました。貧しいものは、鳩のような鳥も変わりにささげられることが認められていました。このような犠牲の動物を遠方から連れてくるのはたいへんです。

 

【両替と宗教的指導者】

そこで、このような家畜を売る商人たちが神殿の庭で店を開いたのです。また、当時はローマ帝国が発行した貨幣が使用されていましたが、その表面には皇帝の像が刻み込まれていました。イスラエルは出エジプト30:11にあるように、イスラエルの男子は年に半シェケルの銀を神殿税として収める義務がありました。当時、人間の像を刻んだローマの貨幣が通用していましたが、神殿税とすることはできません。像が描かれているだけでも忌避されるべきですが、ローマの皇帝は神として崇められてもしていたからです。これでは、神殿にささげられる貨幣としては不都合なので、これと神殿で用いられるシェケルの貨幣と交換する必要がありました。そこで両替商人が神殿で両替の商売をしたのです。当然、犠牲となる動物も市価よりも高く売られたでしょうし、両替商も不当な交換比率を設定していたのです。商人は、神殿を利用して多額の利益を獲得しました。そして、その一部は神殿の祭司長たちに上納金として吸い上げられたはずです。このような仕組みをキリストはよくご存知で、不当な利益を食い物にする連中に対して激しく怒られたのだというのです。今もそうですが、宗教は不当な利益を引き出す口実を作り出しやすいものです。キリストは私服を肥やす宗教的指導者を弾劾しようとしていると読み取ることができます。

 

【異邦人の庭】

 もうひとつの理由は、商売が行われていた場所のゆえです。神殿には三つの庭がありました。第一は「祭司の庭」で、ここは神殿の中枢部を占め、祭司だけが入ることが許されてしました。なかでも至聖所は一年に一度だけ大祭司が入ることが許されている聖なる場所でした。その隣に、「イスラエルの庭」と呼ばれる庭がありました。ここはイスラエルの成人男子だけが入れました。そして、さらにその外側に「異邦人の庭」がありました。商売人が商売をしていたのはここです。

 

【異邦人が神殿で祈りをささげるとき】

イスラエルの女性、あるいは、改宗した異邦人がここで祈りをささげることができたのです。ところがキリストはイザヤ書56章7を引用されて、すべての異邦人が神殿で祈りをささげるときが来るはずだといわれます。ところがその神殿の異邦人の庭は商人たちが商売をするところと化しています。いけにえにする犠牲の動物の鳴き声でそこは喧騒が渦巻くようなところになってしまっていました。また、両替をするものたちの取引の声が張り叫ばれていました。

 

マルコはこの場所が通行人に近道にもされていたと記しています。これでは祈りどころではありません。祈りはむろん騒がしい場所でもできるでしょうけれども普通は静かな場所で祈りがささげられるべきなのです。ところが祈りの場所が騒々しいところになってしまっています。イザヤの預言にもかかわらず、神殿でイスラエル以外の人間が祈るために備えられているところで祈れないという状況が生み出されていました。

 

エレミヤ書7章11のいうとおり、ここは厳粛な祈りの場所ではなく、強盗が割拠しているような場所に成り下がっているのだとキリストは語られます。本来信心、経験の聖なる場所がいまや喧騒の場所となっている、キリストはこれを怒られたのだというのです。

 

【神殿】

 キリストがこのような理由で怒られたことはありえます。他にも、大王と呼ばれたヘロデが建設した第三神殿の壮大さをキリストが怒っておられるという理解もあります。いうまでもなく第一神殿とはソロモンが建設したものです。それはバビロンの手で破壊されてしまいます。捕囚の地から帰国したイスラエルは、ゼルバベルらに指導されて再建を企てます。苦心してようやく神殿を再建しますが、それが第二神殿で、ソロモンの神殿に比べて見劣りのする建物でした。ヘロデは権力の座に着くと、他の地域の異教神殿に劣らない壮大な建築物を建てようとしました。紀元前20年ごろから開始され、紀元後64年ごろになって完成したと言われます。その後数年してローマとの戦争でこの神殿も破壊されてしまいます。キリストが見られた神殿はまだ建築中であったかもしれませんが、それでも規模や構造ではどこにも見劣りのしない建築物でした。しかしながら、この神殿はヘロデの権勢を誇るための政治的な意図で建てられたものです。

 

キリストはこのような意図に怒られたかもしれませんが、聖書ではキリストは第三神殿を非難された気配は見い出されません。

 

【信仰の欠如】

 キリストは何に怒られたのか。もうひとつの可能性があると思います。この宮清めの直前いちじくの木を呪われました。いちじくの木はイスラエルを比ゆ的にしまします。そのいちじくは本来3月4月ごろでは実を結ぶはずもありませんが、だからこそ常識に反することが起きると信じる信仰が求められるのです。その信仰は、山を移すほどの信仰でもあります。ところがキリストはイスラエルにその信仰が欠如していることをいちじくに託して厳しく叱責されます。

 

 キリストが神殿で見たのは信仰の欠如でした。前日、群衆はホサナと叫んでキリストの入場を歓迎しました。しかし、翌日そのような声は聞こえてきません。潮が引くように熱狂は薄れていきました。キリストはマラキ書3章1-3の預言を心に抱いておられたのではないでしょうか。

 

見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。」

 

【真の過越の子羊】

キリストはメシヤ=救い主として神殿に来られました。そのメシヤは過越の時期にこられました。過越とはかつてイスラエルがエジプトで奴隷状態にあったとき、神はモーセを立てて約束に地に脱出させられます。脱出の夜、神はイスラエルの子羊を屠りその戸を玄関の門に塗れと命じられます。そうしないものに神のさばきが下されます。イエス・キリストはその過越の子羊があらかじめ示していたまことのメシヤとして来られました。そして、そのキリストの犠牲によって、イスラエルの罪は贖われます。あがなわれたものは罪の結果である死から免れ、神の国に至る特権を与えられます。

 

 過越はまさしくこのような神の救いのみわざを覚えるときでした。ところが、今どうなっているか。大半の巡礼者たちは神殿の庭の商売人との交渉で大騒ぎをしています。とてつもない多くの群衆がこのとき各地からエルサレムに来ます。一見すればユダヤの宗教の盛んさを見せつけるものです。実際それは見掛けの繁栄に過ぎません。いちじくの木が豊かな葉を茂らせているのと同様です。しかし、外見だけにとどまります。過越がどんなに盛大に守られていてもそこに神の赦しに対する信仰が欠けています。まさしく信仰の欠如がそこに見い出されます。キリストはこの信仰の決定的な欠落を見抜いておられるということができるのではないでしょうか。そして、そこには過越の祭が指し示している神の大いなる業(わざ)はかき消されています。これこそキリストが厳しい目で見られている問題の根源ではないかと思います。(おわり)


2015年11月08日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年11月1日説教「実を結ばない者」金田幸男牧師

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聖書:マルコによる福音書11章
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

20 朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。
23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。
26 〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕」。



説教「みを結ばないもの」

聖書:マルコ福音書11章12-14、20-26

 

要旨 

【いちじくの木を呪われる主】

 ホサナと歌いながら大声で賛美する群衆と共にエルサレムに上られたイエス・キリストは、その夜はベタニヤ村に戻り、そこで泊まられます。そして、翌朝、再びエルサレムに上って行かれます。このたびは、人々を多数同行しているように思われません。翌日も続々と巡礼者たちはエルサレムに上って行ったはずですが、この日は、イエス・キリストが早朝に出発された可能性があります。

あるいは人に気づかれないように目立たずに出発されたのかもしれません。その途中キリストはひどく空腹をおぼえられました。キリストは木の葉が茂ったいちじくの木をご覧になられます。

 

ところがその木には実がつけられていませんでした。いちじくはだいたい6月ごろに実を結びます。イエス・キリストがエルサレムに上ろうとされたのは過越しの祭のときです。過越しは太陽暦で言えば3月か4月の中旬になります。実がなっているはずもないのですが、キリストはこの木に向かって「今からのち、いつまでもお前から実を食べるものがないように」と言われます。呪詛といってもよいことがらです。11:20を見ますとそこにはこのいちじくの木が根元から倒れ、枯れてしまっていたのでした。

 

 この物語の解釈はたいへん難しいとされています。その理由を三つ挙げたいと思います。

 

まず第一は、こんな奇跡はあるはずがないというものです。キリストは言葉を発しただけです。ところがその言葉が呪いとなっていちじくの木を倒してしまいます。単に言葉ひとつで奇跡が起こります。

 

第二に、キリストは意志も感情もない木に向かって語っておられます。しかも、その木が枯れてしまうという言葉です。あたかも人に向かって語っています。なんとも奇異に感じられるはずです。

 

そして、第三。イエス・キリストは、実を結ぶはずもない時期にその果実を要求しているように思われます。実際、実は夏にできるはずです。過越しの時期、3/4月のころに実を求めること自体無理難題というものです。イエスの言われていることはまったく常識外れです。道理に適っていません。以上の3点だけ挙げてもこの物語は矛盾だらけ、解釈が難しいところです。

 

【奇跡】

 奇跡そのものがありえないならば、この物語は読むに耐えない愚劣な話ということになります。奇跡などありえるはずがないという前提であれば奇跡はありません。あるかないかというだけならば、奇跡がないと信じている人に奇跡はあるはずもありません。しかし、奇跡は存在するかしないかの問題ではなく、認識の問題です。つまり、奇跡と認識するかしないかです。イエス・キリストは神の子であり、全能者の御子であれば、奇跡を行いうるお方です。とすれば、この前提に立ちさえすれば奇跡はありえます。起こりえます。

 

 第二の問題についてはどうでしょうか。イエス・キリストはしばしば譬え話を語られますが、そのとき、さまざまな植物を用いられます。旧約聖書もまた同じような譬えを用いています。

 

いちじくについては、ホセア9:10。「荒れ野でぶどうを見いだすように/わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように/お前たちの先祖をわたしは見た。」ここでぶどうの木もいちじくもイスラエルを表わしています。

 

ナホム3:12、イザヤ28:4、ミカ7:1などでもイスラエルはいちじくにたとえられます。イエス・キリストは実物をたとえに用いられていると見ることが出来ると思います。では何をたとえているのでしょうか。エルサレムにキリストは上って行こうとされています。そこにはヘロデ(大王)が建てた壮大な神殿が聳え立っていました。それは異教の神殿に匹敵するほど立派な建築物であったとされています。そこには多くの祭司が儀式を司っていました。特に過越しが近づき神殿はますます華やかな儀式が執り行われています。

 

そして、その神殿には各地から巡礼が大勢上ってきます。神殿は大賑わいでした。しかし、キリストが神殿で見たものは何であったのでしょうか。11:15-19に記されているように、神殿は商売人たちが商売をするとことなり、その喧騒でエルサレム神殿はどこかの市場と変わらなくなってしまっていたと思われます。どんなにたくさんの巡礼が遠くから上って来てもそこで行われている儀式は形式的なもの、人々は習慣として祭を行っているだけでした。過越しにおいて神がなされた救いのみわざのことは忘れられていました。このような当時のイスラエルの信仰は、いちじくの木と同じです。見かけは青々として茂る葉に覆われ、活気があるように思われます。しかし、それは外見だけであって、イスラエルの信仰の実態は何も実を結んではいないのです。そして、イエス・キリストに対しては何ら貢献できていないというべき状態です。

 

このいちじくの有様はイスラエルの現状を反映しています。実を結ばないいちじくの木は倒されるしかないように、主に対して不誠実、不真実なものは神にさばかれ、滅ぼされるしかありません。

 

 そして、第三のこと。この時期、実を結ぶはずもないいちじくが実を結んでいないから枯らし倒れさせるというのは理不尽ではないか。自然の理に反することをキリストは要求しているということになります。

 

【神を信じなさい】

 私たちは自然法則のもとに生きています。常識に沿って生きています。それが当然だと思っています。自然の道理に反することは起きるべくもないと思っています。しかし、キリストはありえないことを信じるように求められています。神を信じなさい。この物語の核心はここにあると言っても過言ではありません。キリストはその常識に反することを行われました。自然の理に適わないことを行われます。

 

 キリストの周囲にいた人たち、ここではキリストの弟子たちですが、彼らは信仰を求められたのです。この実を結ぶはずもない一時期が実を結ぶ。こんなことはありえないと思うのは当然ですが、信仰はその常識を超えます。ありえないと思い込んでいるのが私たちです。しかし、キリストはここでその常識が壊されるようにされています。

 

 信じるならば、ありえないこともありえます。

 23節以降は、22節と切り離して考えるべきだという解釈者がいます。23節以後は他の福音書に出てくるみ言葉でもあります。(マタイ6:13-14,7:7,17:20,18:19、ルカ11:9,17:6など)つまり、他の福音書の個所の聖句の羅列ということになります。しかし、なぜそんな言葉をこの個所でわざわざ急に羅列しなければならないのか理由がありません。

 

 むしろ、キリストは信仰を求められました。その信仰がいかなるものかを弟子たちにさらに語っておられると理解すればいいのだと思います。

 実のなるはずもない時期に実を結ぶ奇跡を信じることが信仰とされます。ありえないことがあると信じることが信仰です。私たちがいつも常識で考えている限り、あるいは日常がいつも繰り返しに過ぎないと思っている人には、そんなことは起こりえないと一蹴することばかりです。しかし、信仰はそれを乗り越えるものです。

 

 私たちはいつも普通の日常生活で満足しています。自然の理を歪めてしまうようなことはありえないと思っています。しかし、本当にそうだろうかと思います。私たちの常識を超えて何かが起こる。私たちはそのように私たちの生きている世界を見る必要もあるのではないでしょうか。

 常識では割り切れないことが多々あります。それを無視するか、あるいは信じるか。二者択一です。

 

【信仰の世界、信仰体験】

私たちは常識だけで生きられません。あるいは自然法則にのかっかってだけ生きているべきでしょうか。この世界にあるさまざまな法則にだけ流されている、そういう人生が人生でしょうか。そうではない。信仰の世界があります。信仰体験があります。山に移れ、海に飛び込めというとその通りになる。それが信仰です。そして、神の約束によれば信仰の通りになります。

 

【祈りはかなえられる】

 このあり方は祈りと共通します。祈りは単なる願望ではありません。祈りはかなえられるものです。実現すると信じて祈る、それが祈祷です。実際、その通りになります。祈り求めるとき、それが実現していなくてもその通りになると信じる、祈りに信仰が必要です。信仰のない祈祷ほど空しいものはありません。祈祷は神に実現を強制するものではありません。しかし、信仰のないところで祈りは成就するはずがありません。

 

【赦しという奇跡】

 そして、第三に赦しが続きます。これが信仰、祈祷とどう関係するのでしょうか。恨みを持っている人がいる。その恨みはなかなか忘れることはできません、まして、赦すなどできないことです。敵対している相手を愛することなどできません。それが普通であり、常識というものです。けれども、赦すことができる。本来私たちの心は変わらない性質を持っています。それが変わる。これは信仰と同じ類の精神であるはずです。心が変わる中に信仰も含まれています。何も信じられないとがんばっている人が信じることができるようになる。そこでは奇跡が起きています。それは信仰の領域に属します。

 

【み言葉の力】

 むろん、私たちは信仰を容易に持つことができず、必ずかなえられると信じて祈ることができず、まして、憎む相手を赦すことなどできるわけがありません。もう一度いちじくの木の物語を見なければなりません。キリストは葉が茂っていちじくの木を一夜で枯らしてしまわれました。むろんキリストは何も手を下したと記されてはいませんが、明らかにこの奇跡を行われたのはキリストですし、キリストのみ言葉には奇跡さえ起す力が含まれています。私たちはキリストのみ言葉を心に留めるときそこで何が起きるのか。キリストは生きて働いておられます。(おわり) 

2015年11月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月25日説教「ホサナ、ダビデの子イエスよ」金田幸男牧師

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マルコによる福音書11章
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説教「ホサナ、ダビデの子イエスよ」

聖書:マルコ11章1-11

 

要旨

【エルサレム入城を前に】

 イエス・キリスト一行はエルサレムに近づきます。オリーブ山はエルサレムの城壁から、キデロンの谷を隔てて東側に位置し、小高い山で海抜814メートル。エルサレムは海抜790メートルですから、ほぼ同じ高さの丘と言ってもいいでしょう。オリーブ山の東の麓にはベテファゲとベタニヤという村がありました。イエス・キリストはこれらの村を通過してエルサレムに入って行こうとされます。

 

【二人の弟子を遣わされた】

 キリストはその直前、二人の弟子をその村に送られましたが、その村はどちらであったか記されていません。ただベタニア村にはラザロ、マルタ、マリヤの兄弟姉妹が住み、ハンセン病患者のシモンの家もあり、キリストはそこで休息されています(マタイ21:17,26:6、マルコ14:3)。遣わされた二人の弟子がだれであったかマルコは記していません。

 

【だれも乗ったことのない子ロバ】

 キリストは二人の弟子に細かに指示をされています。用件はだれも乗ったことのない子ロバを用意することでした。キリストがその村にだれものったことのない子ロバがいたことをどうしていったのか。あるいはロバの持ち主がどうしてすぐにわけも聞かずロバを連れて行くのを許可したのか、マルコは詳細に記していません。キリストが予見する能力があったので、二人の弟子たちは障害なくロバを連れてくることができたのか、あるいは、キリストとロバの主人の間ではすでに了解済であったのか、詳しいことはここに記されていません。イエス・キリストがいわば遠目で先のことを知っていたのかもしれません。あるいはロバの主人公はイエス・キリストをよく知っていたのかもしれません。こういう問題は興味あるものには面白いでしょうけれども、この記事が訴えていることからするとあまり関係がありません。とにかく二人の弟子はキリストの言うとおりであったことに気がついています。

 

【なぜ小ロバか】

 二人の弟子はキリストのところへ子ロバを連れてきました。なぜ小ロバであったのか。ロバは今日、頭の悪い家畜であるとか、乗用ではあるが、高級な乗り物ではなかったという誤解があります。しかし、当時のユダヤ人の間ではロバはごく普通の乗り物でありました。身分の高いものはロバを使用しないなどということはありませんでした。

 

 なぜ、キリストはロバ、しかも子どものロバを所望されたのでしょうか。ロバは子どものときは人を乗せることはできません。成熟するまで人を乗せることができなかったのです。キリストはそのような間もなく乗用に供する若いロバを求められました。だれも乗ったことがない、それはこのロバが聖なる目的に用いられるためでした。キリストはご自身が聖なる目的でエルサレムに上って行こうとされます。だれも人を乗せたことのないロバが聖なる目的に用いられるのは相応しかったのです。

 

【預言を成就:見よ、あなたの王が来る・・雌ろばの子に乗って】

 それ以上にキリストは子ロバを用いられる目的がありました。ゼカリヤ書9-10をご覧ください。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 

 イエス・キリストはこの預言を成就するためにロバを求められました。ゼカリヤは間もなくユダヤにまことの王が立てられると期待していました。その預言を成就するためにキリストはエルサレムに入城する決心をされました。

 

【真に平和をもたらすメシヤ】

この場合、キリストはローマ帝国を打倒し、一大帝国を築くメシヤとしてエルサレムに入っていこうとされたのではありません。あるいは終末的な世界の救済者となるものでもありませんでした。ゼカリヤが預言するメシヤは平和をもたらすメシヤでした。キリストはゼカリヤの預言を成就するためにエルサレムに上って行こうとされています。平和の君としてエルサレムに上って行かれます。

 

【戦車でなく】

当時の勝利者、凱旋する軍隊の司令官は凱旋すると、二頭の馬に引かれた戦車の乗ってその勝利を誇示しました。あるいは人が担ぐ床几の上に乗って祖国に凱旋するのが普通でした。そこで用いられる家畜はロバではありません。イエス・キリストはご自身ゼカリヤの言うようにメシヤとしてエルサレムに上って行かれます。キリストは固くご自身がメシヤであると自覚されていたことを示します。ゼカリヤの預言は成就しなければなりません。ゼカリヤの言うとおり、軍人でもなく、卓越して政治家でもなく、そのような栄光を受けたメシヤではありません。キリストはロバに乗られます。キリストは決して当時の人々が期待するような働きでメシヤであることを知らされませんでした。ロバは普通の人が乗る常用の家畜でした。征服者でも、暴力で覇者になるのではなく、キリストは平和をもたらす救済者でありました。

 

【群衆は上着を脱いで、葉のついた木の枝を】

 二人が村に入るとイエス・キリストの言うとおりでした。ロバの所有者はすぐに応答します。ロバがキリストのところへ連れてこられます。弟子をはじめ人々がしたことが記されます。弟子たちは鞍の代わりにするために上着を脱ぎます。群衆は上着を脱いで、それを道路に敷き詰めます。さらに葉のついた木の枝を切ってきて道路に敷き詰めます。これらの行動は旧約に前例があります。

まず、列王記9:13です。この記事には預言者エリシャが油を注いでイエフが反乱を起す次第がすりされています。エリシャが油を注いで、イエフを王としたのですが、彼の家臣たちが上着を敷きます。いまでも国賓を迎えるとき、じゅうたんが敷かれます。じゅうたんはこのように身分の高い人を賛辞する行為です。ここではそのじゅうたんが即時準備できなかったので、部下たちが上着を敷物にしてイエフを王として迎えました。この故事に倣って、ユダヤ人はキリストをメシヤとして受け入れようとしています。

 

イエフは革命家と言ってもよいでしょうか。ヨラム王に反抗して王位を確保します。イエフを王としようとした人々はこのように急遽じゅうたんを確保できなかったので上着を敷物にしたのですが、この行為はイエス・キリストにおいても繰り返されました。葉のついた木の枝も道路に敷かれます。これも過去のユダヤ人の行動を反映しています。

 

【マカバイ家のシモン】

マカバイ第一、13:51に記されていることですが、紀元前142年ごろ、ユダヤは隣国で強力な力を持っているシリアと戦います。シリアのほうがむろん軍事力では強力であったと考えられます。しかし必死の戦いで、マカバイ家のシモンはシリアからの独立を樹立します。シモンがエルサレムの神殿の近くにある要塞まで登っていくとき、葉のついた木の枝が道路に敷き詰められたのでした。それは棕櫚に気でした。棕櫚の木はエリコのような熱帯性気候の地域ではよく育ちます。人々は棕櫚の木などを切ってきて道路に敷いたのでした。

 これらの記事から分かりますが、人々が求め願ってきたメシヤはユダヤを軍事大国にしようとするメシヤに他なりません。旧約にあったように革命を引き起こし、暴力によって統治しようとするメシヤが期待されていました。

 

【ハレル詩編歌】

 さらに、人々は詩編118;25-26を歌ったと記されます。詩編113-118はハレルの詩編歌といい、仮庵の祭り、過越しの祭といった大きな祭のときエルサレムに上って来る巡礼がこの詩編を歌いました。巡礼を待ち構える神殿の祭司の聖歌隊がこの詩編を歌い、群衆もその詩編で応答しました。この詩編はエルサレムに上っていく人々がメシヤの到来を期待したのです。その詩編は今まで慣習的に歌われていましたが、いまやその歌と共にメシヤがエルサレムに上っていこうとしていると人々は考えたのでした。

 

【ホサナ「今、救ってください」】

 人々はホサナと歌ったとあります。ホサナとは「今、救ってください」という意味ですが、この語は神讃美に用いられるようになっていました。メシヤの到来を喜び讃美する詩編と思われていました。

 このあとキリストは神殿を見てまわり、遅くなったので、ベタニや村に戻っていかれました。

 この記事はイエスのエルサレム入城のことであり、とても華やかな光景とも思えます。棕櫚の日は教会カレンダーでは受難週の開始を告げる、教会行事にはなくてならない大事な日として記憶されました。子どもの聖書物語ではこの場面はイエス・キリストの栄光のみ姿に描かれます。

 

【メシア理解:キリストと群衆の大きな隔て】

 けれども、よく考えてみると、キリストと群衆の理解には大きな隔てがありました。齟齬があったというべきでしょう。あくまで群衆はこの世界に大きな変革をもたらすメシヤを期待していました。ところがキリストはそういうメシヤではありません。

 

 キリストを正しく完璧に理解できるのでしょうか。私たちのキリスト理解ははじめから完全ではありません。その反対です。ここの登場する群衆は過越しを都で守ろうとする巡礼ですが、彼らはもう少し時間が経つと「十字架につけろ」と叫び出す人々です。あまりにも格差があります。

 キリストを正当に理解していない、そのためにキリストを十字架につけてしまいました。無知が解決されず、キリストを十字架に追いやるものたちとなります。

 

 はじめからすべての人がキリストを理解しているわけではありません。時間はかかりますが、キリストを理解することは肝心なことです。次第にキリスト理解は異なっていきます。

 私たちもそうです。何もかも正確にキリストのことが分かっていなくてもいいのです。短期間でキリストのことを完璧に知ることなど不可能なことです。それでもいいのです。徐々にキリストを理解していく。それが肝心なことなのです。

 


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2015年10月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月18日「行け、あなたの信仰があなたを救った」金田幸男牧師

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マルコによる福音書 10章46~52節
46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
:49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
:51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。


説教「行け、あなたの信仰があなたを救った」

聖書:マルコ福音書10章35-45

 

要旨

【エリコという町】

  イエス・キリストとその一行はエリコという町の到着したとあります。エリコはヨルダン川が流れ込む死海の北11キロ、ヨルダン川からは西に9キロ、エルサレムからは東北23キロの、高地の麓に位置し、地中海から海抜250メートルで気候は熱帯に属します。現代でもヨルダンの首都アンマンからの主要道の沿線にあります。紀元前8000年紀には人が住んでいたとされ、古い都市で、旧約聖書にも何度も登場します。例えば、ラハブの物語(ヨシュア記5:13-6;27)に舞台として有名です。新約聖書の時代では、ヘロデ大王が冬の宮殿を建設し、とりで、あるいは競技場などを建てていました。福音書でも、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:30)、ザアカイの話(ルカ19;1)の舞台でもありました。

 

【バルティマイという盲人】

イエス・キリストはエリコからエルサレムの上って行こうとされます。都上りというだけではなく実際、丘の上にある町、エルサレムへは上り道でありました。多くの群衆も一緒であったことが分かります。彼らは過越をエルサレムで守ろうとする各地から登ってきた巡礼です。そのエリコの道路わきにバルティマイという目が見えず、物乞いをしている人物が座っていました。古代世界では障がいのある人々の多くは物乞いをして命を保っているという場合が多かったのです。からだに障がいがあるだけでも苦しみを負わなければならないのですが、彼の場合は人に慈悲に頼って生きていかなければなりませんでした。それは苦痛であり屈辱であったに違いありません。

 

バルティマイという名前が記されています。このことはマルコが福音書を書くとき、その資料にバルティマイの名があったということでしょう。それはマルコが執筆したときバルティマイの名はキリスト者の間でよく知られていた可能性があります。バルティマイ自身がその経験をマルコに語ったかもしれません。つまり、マルコが福音書を書いていたとき、彼も教会に属していたのかもしれません。とすればこの記事はたいへん信憑性があるということになります。

 

【「ダビデの子、わたしを憐れんでください」】

バルティマイの前をキリスト一行が通り過ぎていこうとしていました。彼はイエス・キリストのことを聞いていました。道路際で毎日座って通行人に物乞いをしていたのですから、うわさを聞いていた可能性はあります。ガリラヤで大きな働きをし,奇跡を行い、み言葉を教えていたという話を何度も聞かされていたかもしれません。彼は前をキリストが通過していくと感じ、大声で「ダビデの子、わたしを憐れんでください」と叫びます。

 

「ダビデの子」とは単にダビデの子孫という意味ではありません。当時はメシヤ=救済者はダビデの子孫から出てくると信じられていました。今日もユダヤ人はメシヤが来ると信じていますが、ダビデの子孫であるとは限っていません。バルティマイがこのように叫んでいたのですが、周囲の人たちは黙らせようとします。なぜ黙らせようとしたのか。「ダビデの子」という名称を叫ぶことは危険でありました。ローマに反抗する政治的指導者は、ダビデの子が反旗を掲げると信じられていました。ローマ帝国はローマに対する反抗を極度に警戒していました。ダビデの子など叫べば騒乱が起きかねません。あるいは、イエスがメシヤなどであるはずがないと思っている群衆もたくさんあったはずです。バルティマイの叫びは彼らの思いを逆なでするものです。不快な思いをさせられたくないように、沈黙させようとしたとも受け止められます。

 

バルティマイを静かにさせようとして、それは逆効果となります。目が見えないだけにそれだけに言うことを聞きません。黙らせようとすればするほど大きな声で叫んだのだろうと思われます。その声はキリストに達します。

イエス・キリストは立ち止まります。そして、バルティマイを近くまで来させようとされました。人々はバルティマイに「立ちなさい」と申します。目が見えませんのに、彼は上着を脱いで、踊りあがってキリストのところに駆け寄ります。上着はふだん物乞いのとき敷いていたかもしれません。彼はそれをはおり、それから脱ぎ捨てます。こういう描写はたいへんリアルに聞こえます。つまり、バルティマイは自分の体験をそのまま語れます。イエスが呼ばれたことに大きな喜びを感じ、上着を脱いで、と表現します。からだ中で喜びを表しています。

 

【何をして欲しいのか】

キリストは何をして欲しいのかと尋ねられます。キリストはこのように問われる前からバルティマイの心をご存知です。私たちは以心伝心を好みます。しかし、キリストは私たちが率直に心の中にある思いを言葉にすることを求められます。あえて尋ねられるのはキリストが知らないからではなく、むしろ、個人的な深い関わりを求められるからです。祈る前からキリストは私たちの必要を不ご存知なのですが、私たちに祈れと命じられるのもこのためです。私たちは信頼してキリストに私たちの不足を申し上げ、願いをはっきり言葉にする必要があります。そこまでキリストは求めておられます。親しい関わりこそキリストが求められるのです。私たちはともすればこんなことを求めても恥ずかしいとか、くだらない、つまらないとか考えます。これも同様です。キリストは私たちの心の中を率直に申し上げることを願われます。

 

【目が見えるように】

バルティマイの言葉はどういうものだったでしょうか。そのものズバリ、「目が見えるようになることです」といいます。あまりにも単刀直入で読んでいるものには戸惑いを覚えさせられます。もっと別の言い方があってもよさそうと思うのです。心に平安を、とか、気持ちを穏やかにして欲しいとか、あるいはできうれば、とか。バルティマイはそんな言葉の修飾をしません。彼にとって目が見えないことこそ人生の苦悩をもたらす原因です。これさえなければ、といつも思っています。だからそれが解決することが最大の願いです。

 

【あなたの信仰があなたを救った】

あまりにも率直で、だから粗野と感じるかもしれません。イエス・キリストはバルティマイの願いを退けられたでしょうか。そうはされませんでした。「あなたの信仰があなたを救った」そして、バルティマイの目は見えるようになったと記されています。

私たちはしばしば他人の目を気にします。あるいは人の言っていることに心が塞がれてしまい、こんなことをお願いしても聞かれるはずがないと合点してしまうのです。あるいはこんなことを願っても神様ご自身もためらわれるに違いないと判断してそれ以上のことを停止してしまうのです。

 

果たしてバルティマイの言動は信仰に値するか。イエス・キリストはバルティマイの思いを信仰と認め、その信仰が彼を救ったというのです。

バルティマイの信仰は無知と紙一重です。彼はキリストについて明確に理解をしていたわけではありません。その逆です。殆ど何も知らないのです。ところがキリストはバルティマイの言動を信仰と認められています。これは驚きです。信仰は多くの相応しい知識、敬虔さ、立派な言動、宗教生活があってこそだと思われています。少なくとも疑いとか粗野さとか、無知などは信仰的ではないと思われています。

 

【信仰、希望、愛】

信仰とは何か。バルティマイが示したものは、ただ「期待」に過ぎないと言っても過言ではありません。あるいは希望です。

パウロは信仰、希望、愛という三つの言葉の組み合わせを好みます(1コリント13:13、ガラテヤ5:5-6、1テサロニケ1:3など)。使徒パウロのトライアングル(三角形)とも言われます。これは信仰は希望、あるいは愛という意味だと思います。信仰とは何か。結局希望を抱くことだと思います。

 

私たちの生きているこの時代、失望、絶望の時代ということができるかもしれません。現実問題が大きすぎてとても望みを置けないと思わせられます。だからこそ信仰は希望なのです。希望できないように私たちを押させつけるもの、例えば常識、あるいは科学的精神、この世界の風潮、小学校から教えられているような薄っぺらい宗教心、そういうものが希望をくじこうとします。だからこそ、私たちは希望を持つのです。神が希望となってくださる。これこそ信仰です。

 

バルティマイの信仰など薄っぺらいものだと考えても当然です。彼の信仰などたいしたものではありません。私たちの信仰も同じです。疑いと不信仰が同居しているような心情をいつも心に抱いています。信仰を自己評価して100点満点などという人はまずはいないでしょう。ところがイエス・キリストはそれがあなたの信仰だといわれ、その信仰のゆえにバルティマイの目を見えるようにされました。

 

【奇跡を起こす信仰】

奇跡など起こるはずもない、と私たちは思い、希望を失います。希望のない信仰は所詮生命力を持ちえません。希望を持てないところでこそ神に願い、神に実現の希望を託す。これこそ信仰というべきものです。

 

【イエスに従う愛】

そして、信仰は愛と言えます。バルティマイは目が見えるようになり、それで信仰が完結したのではありません。彼はイエスに従っていきます。その後、キリストと共にエルサレムに上っていったのかそうでないのか何も知ることはできません。しかし、彼は従いました。服従は自発的である限り、キリストを愛する結果です。信仰は愛でもあります。キリストに喜んで従い、キリストの弟子として振舞う。これこそキリストを愛する行動です。

バルティマイはこのように使徒パウロのトライアングルよろしく、イエス・キリストを信じ、キリストに希望を抱き、またキリストを心から愛しました。私たちの倣うべきところです。(おわり)


伊丹教会臨時会員総会(金田牧師協力牧師の任期延長の件)2015年10月18日午後1時30分~  伊丹教会会堂にて


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2015年10月19日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月11日説教「聖書人の死から学ぶ」金田幸男牧師

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説教「聖書人の死から学ぶ」金田幸男

 

聖書:創世記23章1-4

 

要旨

 創世記には一見すると荒唐無稽、到底現代人の感覚では受けいれられないような記事がたくさん記されています。しかし、創世記には現代社会の仕組み、問題の発端、諸課題の解決の糸口について多くの示唆を与えてくれる記事が満載されています。

 

聖書から演繹的に真実を引き出す聖書の読み方こそ今日きわめて重要だと思います。ともすれば聖書を現に遭遇している問題解決のためだけに読んでしまう読み方をしているのではないかと思います。確かに聖書はさまざまな問題に対して答えを提供してくれます。ただそれだけでは聖書はその都度対処方法を示すだけになってしまいます。

 

【旧約聖書】

聖書はもっと根本的な原理原則を示し、その上で私たちは問題の本質を見抜くことができます。旧約聖書は、特に創世記は夫婦、家庭、そして、社会、国家の原型を示します。また、創世記は労働の価値、犯罪、法、諸制度、あるいは人間存在の起源、生と死などの問題にもさまざまなあり様を示します。

 

【創世記は、人間の死について語る】

 創世記は、人間の死について語ろうとします。特に人間はなぜ死ななければならないのか、どうして死ぬべきものとなったのかを語っています。死の問題はだれも避けたいと感じます。死を扱うなどとは不吉だというのです。誰も死を避けることはできません。特に親しいものの死に直面したとき、あるいは大病などをして死にかけるというような経験をしたとき、誰も死を自分の問題とするはずです。そのとき、死はどうして人間世界に入り込んできたのか、死は回避できないのか、考え、できないゆえに絶望し、あるいは激しい憤りをおぼえるものです。

 

【人間の創造と罪の結果・死】

 聖書、創世記は何を語るでしょうか。創世記1章27,2章7で神は人間を創造され、いのちの息を鼻に吹き入れられたと記されます。人間はこうして生きるものとなります。ところが、創造された人間は神の命令を破り、神に並び立とうとします。これこそ罪と呼ばれるもので、その結果、人間は塵に帰るものとされます(創世記3:19)。罪の結果死が入り込みます。

 

死の原因は神が命を取り去るからであり、そうなったのは神への反抗のせいです。人が死ぬのは神が死を賜ったからに他なりませんし、その原因は神への反抗心にあります。この罪がもたらした死をいかにして解決するのか。これこそ聖書の主題といっても過言ではありません。聖書は一貫してこの罪と罪がもたらした死の問題に取り組み、解決策を示します。キリストとキリストの十字架の死による贖いこそ答えなのです。

 

【人は生まれ、死ぬ/創世記5章】

 創世記5章をご覧ください。ここにはアダムの子孫の系図が記されますが、ここに記されるのは、人は生まれ、そして、死ぬということで共通しているという事実です。きわめてありふれた事実ですが、これは真実です。人間は死ぬべきものに過ぎないのです。人生はいろいろな経験があります。人は決して他の人の人生を生きることはできません。偉業を成し遂げ、それが後世まで語り伝えられるという人もいます。しかし、それはきわめて少数、例外です。ところで、この創世記の記事は人は生まれ、そして死ぬだけと語ります。どんな偉業を残したと思われる人も所詮は生まれ死ぬだけなのです。これがアダムの子孫のありのままの姿です。それは今日でも共通です。人は墓碑にその人生を記録できません。大半の人にとっては、記録できるには生まれた日、死んだ日だけなのです。

 

【アベルの死/人類最初の死】

 創世記4章には最初の人類の死のことが記されます。創世記4章8にはアベルの死を告げますが、この死が人類最初の死に他なりません。ところがその死は殺人による死でした。不本意な、理不尽な、無残な死でした。アダムの死がもたらしたおそろしい現実でした。

 

 創世記は5章までが第1部といえるでしょうが、そこに記されていることは見方によれば死人ばかりです。死が累々と折り重なっています。創造された人間を共通に襲うのは死でした。6章以下でノアが主人公となります。ここで記されていることは何か。大洪水の記事です。それによってノアの一族以外、すべてが死に絶えます。ここにも大量の死者が報告されます。自然災害ではありますが、神の前に悪を積み重ねた人類を襲う神のさばきに他なりません。

 

 ノアの時代の人々は死に絶えます。数え切れない人の死がここでも記されます。創世記はこれでもかこれでもかと人間の死を記録しています。創世記を読めば必ず死に直面させられます。回避できない現実です。

 

 創世記にはいろいろのことが記されますが、一貫して死を扱っていると見ることができましょう。すべてを吟味できたわけではありませんが、死の問題を避けて通ることができません。創世記を読み、死の問題に直面させられないような読み方は不完全ではないでしょうか。

 

【エノク】

(他に、エノクのことも触れなければなりません(創世記5章21-24)。エノクは他の人と比べて短命でした。しかし、彼は神と共に歩み、最後は神が取られてしまいます。短命であることがすなわち不幸だとか不運だとはいえません。その人生が神と共に歩む人生であるかどうかこそが問われます。長く生きることが幸いであり、短命は不幸だと単純にはいえません。長寿社会となってますますそれがよく分かります。ただ単に長く生きることを長寿とは単純にいえなくなってしまったのです。エノクの姿が見えなくなったことは姿を消したというだけではなく、むしろ、神に早く受けいれられたことを表しています。また、死を味わうことがなかったという意味でもあるとされることもあります。エノクは短命でありましたが、それが直ちに不幸だとか不運だと決めることもできません。)

 

【アブラハムと妻サラの死】

 創世記11章27以下ではアブラハムが主人公となります。アブラハムこそイスラエルの祖なのです。そのアブラハムも死に直面しています。23章1-20ではアブラハムの妻サラの死が記されます。信仰の人アブラハムは最も親しいものの死を味わうのです。自分の死の問題だけではなく、私たちは最も親しいものの死も経験することになります。アブラハムはそのとき妻を葬る土地を持ちませんでした。妻に遺体の傍らで嘆き悲しみます(23章2-3)。死は悲痛な思いをもたらします。そしてそれに耐えなければなりません。それが死の現実です。アブラハムは妻の墓地のためにヘトの人と交渉し、高額を支払いようやく墓所を確保します。葬りのためにアブラハムは大きな苦労をしなければなりませんでした。死は大きな悲しみ、そして、途方にくれることを経験させます。アブラハムは暗い思いとそれにもかかわらず生き残ったものの義務を果たします。

 

【息子イサクを献げる】

 彼はもう一つの死にも直面します。創世記22章には、神がイサクを焼き尽くす献げものとして殺害せよと命じられます。これはまったく理不尽な命令です。死はしばしばわけの分からない、理にそぐわない事態を招きます。神がそんなことを命じるとは、と誰もが思います。しかし、死は多くの場合、理不尽で、あってはならないことです。死は不条理であり、過酷な苦悩をもたらします。一体誰が絶えられるでしょうか。ところがアブラハムは神の命令に従います。ときには、人はいやおうなくこのような事態に追い込まれるものです。アブラハムはこのような理不尽な神の命令に反抗することをしていません。むしろ神の命令を守ろうとします。私たちも不条理で理不尽な死を経験しなければならないことがあります。そのとき私たちは神に対しても激しく憤ります。そうせざるを得ないのです。それが普通のことです。アブラハムも同じように思ったに違いありません。神はどうされたのでしょうか。代わりに雄羊が屠られ、イサクは解放されます。死は理屈に合わない悲しみをもたらします。人はその悲哀に耐えがたくなります。そのとき、神は身代わりを備えてくださり、そこから救い出されます。

 

【イエス・キリストの贖い】

神は私たちが罪のゆえに滅ぼされるべきにもかかわらず、イエス・キリストを送り、その死によって私たちを死の縄目から解放してくださいます。イサクは助けられました。それは死からの救出です。神は私たちには不条理である死からキリストによって贖い出してくださいます。これは信じがたいほどの神の壮大な救いのみ業です。アブラハムはこのように死を経験しますが、ついに彼自身も死ななければなりませんでした。

 

【満ち足りて死んだアブラハム・イサク】

 創世記25:7に、アブラハムは長寿を全うし、「満ち足りて」死んだと記されます。さらにその子イサクについて創世記は「高齢のうちに満ち足りて死んだ」と記します(35章29)。アブラハムもイサクも死を迎えなければなりませんでした。しかし、彼らの死は「充実した」死でした。死に充実などありえるのかと思われる方もあるでしょう。なぜ充実した死というのでしょうか。むなしい死でありません。それは約束の地カナンで、神がアブラハム、イサクの神であり続けられたからです。

 

【ヤコブ・ヨセフの死】

ところが、ヤコブについては創世記49章29でこの「満ち足りた」死を記していません。また、ヨセフについても同様です(創世記50:26)。これはどうしたことでしょうか。考えられることはヤコブもヨセフも約束の地カナンで生涯を終えることができなかったことと関係があるのではないでしょうか。二人ともエジプトで死にます。ヤコブの遺体はアブラハム、サラの葬られたマクペラの地まで移送されますが、亡くなった地は約束の地ではありませんでした。ヨセフも同様です。神がアブラハムに約束された地こそ祝福に満ちた御国を予表するものです。満ち足りたというのは単に精神状態がそうであったというだけではなく、神の約束に包まれた地、神が臨在しているところであると考えられます。それこそが満ち足りているところなのです。私たちもまたこの充実した死を経験したいものです。(おわり)



2015年10月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年10月4日説教「仕える者が一番偉い」金田幸男牧師

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説教「仕えるものが一番偉い」

聖書:マルコによる福音書10

35 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。

 

41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。

 

45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

 

要旨

【仕える者になりなさい】

 イエス・キリストはエルサレムに上って行こうとされる時、エルサレムで経験される苦難と復活を予告されました。これは第三回目の予告です。2回目の予告のとき、その直後で弟子たちは一番偉いのは誰かと議論をしました(9:30-32)。そのときキリストは「一番先になりたい者はすべての人のあとになり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。

 

【ゼベダイの子ヤコブとヨハネ】

3回目の予告のあとまた同じことが起きています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出ました。お願いしたいことがある。是非叶えて欲しいと言います。このマルコの記事と平行しているマタイ福音書20章20ではその母がイエスにお願いをしたとありますけれども、二人の兄弟にとっても強い願いであったことは確かです。

キリストは「どんな願いか」尋ねられます。二人がストレートに言わなかったのはその申し出がどんなに重大か分かっていたからでしょう。「あなたが栄光を受けるとき、あなたの右と左に座らせてください。」右と左は真ん中に立つものの側近となることを意味しています。そして、彼らは、イエスがエルサレムに上っていき、そこで「栄光を受ける」と思っていたことを示しています。

 

栄光を受けるときの具体的な内容をマルコは記していません。しかし、栄光を受けるとはエルサレムで大きな力を獲得すると理解していたことは確実です。イエスが王であるメシヤとして権力を獲得すると考えていたかもしれません。あるいは、終末の時代が来て、メシヤであるキリストは天変地異と共に世界を一変させ、その王座に座る偉大な人間を想定していたかもしれません。イエス・キリストは病人を癒し、悪霊を追い出し、自然に圧倒する力を発揮されました。そのようなことをなさるキリストですから、その目撃者である弟子たちにはエルサレムでキリストが大きく表されると期待しても少しも不思議ではありません。キリストはエルサレムで驚くべきみわざをなされる。弟子たちはそれを期待しました。

 

 ヤコブもヨハネも今先ほど語られたエルサレムでのキリストの苦難の予告を全然理解していなかったことだけは確実です。これほど明確にキリストはエルサレムで経験する受難を語られたのですが、弟子たちはそのキリストの言葉を理解できていませんでした。弟子たちの念頭にあったことがキリストの予告の真意理解を妨げたのでした。

 

 キリストは二人に言われます。まず、あなた方は何を願っているのか分かっていない。つまり、自分の言っていることが分かっていないという意味です。そして、わたしが飲む杯、わたしが受ける洗礼をあなた方も受けることができるかと問われます。キリストはエルサレムで苦難を受けられます。それは律法学者や祭司長たちに裁判を受けさせられ、異邦人の手に渡され、侮辱され、ついに処刑されるという苦難です。キリストはエルサレムで受ける苦難を「杯」と「洗礼」と言い換えられます。そして、この二つの言葉は旧約聖書に慣れ親しんでいるものにはよく聞く言葉でした。

 

【杯】

まず杯ですが、詩編75篇9を挙げたいと思います。すでに杯は主の御手にあり/調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み/おりまで飲み干すでしょう。」調合された酒とは劇薬が混ぜられているぶどう酒のことで、酒と一緒に飲めば効果は早く、また確実に効果が出るようになります。主のみ手に毒薬の入った杯があります。それを主に逆らう罪人が仰ぎ飲めば必ず死に至るのです。そのように主は敵対するものをさばかれます。その他、イザヤ51:17、エレミヤ49:12、エゼキエル23:31-34を参照にしてください。

 

【洗礼】

洗礼は、ここではキリスト教の礼典である洗礼を指しているのではありません。水を注ぐことを指しています。旧約聖書において、頭上から大水が注がれることを指しています。詩編69篇2-3「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み/奔流がわたしを押し流します。」洪水が起こり、激流が押し迫り、あらゆるものを押し流していく災害が描かれています。死が待ち構えています。   その他詩編18篇17も参照してください。大水は神の懲らしめ、そこから救い出されるようにとの叫びが発せられます。キリストはエルサレムで杯、大水が示す大きな苦難を忍ばれます。

 

 そして、二人に、あなた方自身も栄光ではなく、それ(杯と洗礼)を受けることができるかと問われます。ヤコブとヨハネは受けることができると平然と語ります。むろん彼は何を言っているのか分かっていません。キリストは二人がご自分と同じ苦難を受けるだろうと明言されます。それが何を意味しているかまだ誰にも分かっていません。さらにキリストはみ国が完成したとき二人がどのような位置を占めるかについても、それは父なる神だけがご存知であると言われました。それはみ父の専権事項なのです。私たちは何事も自分の思い、発想でことがなると思いがちです。しかし、キリストはみ父だけが実行できる事柄に委ねておられます。私たちはキリストがそうされたようにあらゆることを神にお任せすることが求められます。人間の運命に関してキリストはいっさいはみ父の御心の中にあると語られます。それは今でも同じことです。私たちの将来、定め、行くべき道は神が定められます。私たちはその神の意志に委ねること、それが信仰であると思います。

 

【他の10人の弟子たち】

 41節以下を見ます。他の10人の弟子たちが登場します。彼らは憤慨をしています。だれが一番偉いのか議論をした彼らにとってまだまだその関心事は弟子たちが受ける高い地位に関するものでした。イエス・キリストからすでにキリストの弟子たちの中ではだれが一番偉いのか教えられていました。しかし、弟子たちはなおも分かっていません。誰が一番偉いのか。イエス・キリストは間もなくエルサレムにメシヤとして入城されます。そのときだれが権力を掌握するのか。

 キリストは異邦人の中で通用している考え方を指摘されます。異邦人、外国人の問題だけではありません。ユダヤ人も異邦人も関係なく、この世界の人々が何を求めているのか明らかにしておられます。一言で言えば偉くなりたいということです。それは権力を握る、力を獲得することを意味しています。

 

【世的権力】

 人間はだれでも力を得たいと思っています。力は政治的権力が一番分かりやすいでしょう。政治家はこの権力を独占するために悪戦苦闘をします。偉い人間とは権力を掌握するものだと思われています。現在は独裁者が権力を掌握するという事例はたいへん少なくなりました。むろんないわけではありません。ただ民主主義の時代でもだれもが権力あるいは覇権といった力を希求します。力は政治権力だけではありません。軍事力も具体的な力です。諸国間で軍事力の強大化が願われます。今日では力はお金の力でもあります。そして、私たちが知るのはこの力はときに抽象的である場合も多いのです。学歴、出身学校、あるいは、地位という力もあります。抽象的といえば芸術をはじめ文化的な力というものもあります。その力は他を支配する力ともなります。

 

力そのものは悪でも何でもありませんが、その力を行使する人間の本質、罪が作用する時、その力がもたらすものは残酷な結果、悲惨な結末となります。それは言葉では言い表せないような惨事にもなります。なぜそうなるのか。あきらかに、それは罪の結果です。人間の罪性が力と結びつくときにその結果は見るに耐えないものとなります。

 

【仕える者・しもべとなれ】

 キリストは弟子たちの間ではそのような権力志向であってはならないといわれます。むしろ、あなた方の間では偉くなりたいものは仕える者に、上の人になりたい者はしもべとなれと命じられます。これは常識に反する教えです。

 

 しかし、私たちはこのキリストの教えを悟りません。逆に世間で通用する原理や原則を教会に導入しようとします。逆説的な立場は受け入れがたいものではあります。社会で通用しないことがありますと、だから教会は時代遅れだとか世間を知らないと批判する人がいますが、そもそもキリストは世間では通用しないことを真っ向から教えられる方です。教会でこの逆説を実行しようとするとまずは不可能という反応が生じるはずです。確かに世間で通用しない原則を実践することはほぼ不可能ですが、どうすれば可能となりますか。

 

【人の子】

 キリストはご自身が模範となられました。45節は今日学ぶマルコの福音書のクライマックスです。人の子は・・とキリストは言われますが、これは1人称「わたし」の代用ではありません。この言葉が用いられるときはキリストがまさしくメシヤ、救世主であることを厳かに宣言する場合です。キリストはご自身を「身代金」と表現されます。

 

【身代金】

これは本来、奴隷を買い戻すお金を指します。キリストは罪の奴隷状態に陥り、その結果神から離れ去り、神のさばきに値するもののためにご自身を身代金となられました。私たちは罪の奴隷です。その買戻しのためには多額の身代金を要します。私たちの場合、いのちという代価を払わなければ罪とその結果である死から解放されることはありません。そして、私たちは今やキリストが支払ってくださった代金で買い戻され、自由にされました。

 

 キリストが私たちのために最も低いものとなり、仕えるものとなり、しもべとなられました。これをキリストは実践してくださいました。私たちはキリストのようにとてもなれないように思われます。人間的にはそのとおりです。できるわけがありません。不可能なことをどうしてできるでしょうか。しかし、私たちは知ります。キリストが実行した方です。その実行力を私たちにも聖霊なる神によって可能としてくださいます。私たちにとってそれは信じるべき事柄です。(おわり)

2015年10月04日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年9月27日説教「キリストの死と復活の予告」 金田幸男牧師

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説教「キリストの死と復活の予告」

 

聖書:マルコによる福音書10章32-34

:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。

:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。

:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 

要旨

 イエス・キリストはエルサレムに上って行かれます。エルサレムはユダヤ人の都、そこに神殿が聳え立っていました。イスラエルの宗教、政治、文化の中心でもありました。キリストは先頭に立ってどんどんエルサレム方向に足を向けられます。周囲にいた人たちはこれを見て、驚き、恐れたと記されています。その理由をマルコは記してくれていませんが、容易に推測できます。

 

【過越祭】

このとき、エルサレム周辺、それから遠隔地からエルサレムの神殿を詣でるため多くの人がやってきていました。過越の祭が近くなってきていました。過越祭は1年に1度の大きな祭で、エルサレムでそれを祝おうと続々と押しかけてきていました。巡礼者といいます。イエス・キリストの弟子たちだけではなく多くの巡礼はエルサレムに向かいつつあります。大きな祭のときは、町中に店が出たり、踊ったり、歌ったりすることで商売をするものもいたでしょう。過越祭はユダヤの過去の神のわざを想起するときではありますが、また楽しいときではありました。

 

【メシヤ=救済者の期待】

また多くに人たちがエルサレムにやってきます。彼らを扇動して騒ぎを起こそうとするものもありました。民衆を動員して反ローマ帝国騒動を引き起こそうとするものがいたのです。当時はそのようなローマに対する反感が人々の中に沸き立っていました。ローマはユダヤ州を直轄的に支配し、総督が派遣されてきていました。彼らの政治は必ずしも公正ではありませんでした。その他のユダヤ人が多く住む地方ではヘロデの息子たちが領主として支配をしていましたが、ローマ帝国の傀儡に近い統治が行われていました。このようなローマの支配を覆し、ユダヤ人が治める国家を作ろうとするものもいました。

 

 イエス・キリストがこれからエルサレムに上って行こうとされています。キリストがエルサレムで騒動を起そうとしているのかもしれないと疑う人もいたでしょう。キリストの弟子たちの場合はそのような期待があったかもしれません。

 

 イエス・キリストはエルサレムに上っていく。それは異国の軍隊を追い出し、メシヤ=救済者が王となり、イスラエルを支配し、強力な国家を作り上げるという期待が弟子たちの中にもあったはずです。キリストが軍隊を指揮し、ローマ軍を滅ぼし、ユダヤ人の国家が出来上がる。そのようにイエスに対して期待するものもいたでしょう。また、終末的メシヤとでもいうべきか、天変地異が起こり、想像できないような現象が次々起こり、こうしてイエスは世の終わりを来たらせる救済者として君臨することが期待されました。このようにイエスキリストがエルサレムに上ろうとしたとき、多くの人たちにはいろいろな期待が満ちあふれたのです。

 

 ところがキリストが明らかにされるのは政治的な、あるいは軍隊の指揮官としてのメシヤなどではありませんでした。

 

【キリストの予告】

 キリストは弟子のうち12人を呼び寄せられます。そして、彼らにはエルサレムで起きることを予告されます。なぜ12人の弟子たちだけに教えられたのでしょうか。この時点では12人の弟子たちも十分に理解をしていたのではありませんでした。キリストが予告されていることは到底理解しがたいものでした。それほどまでキリストのエルサレム行きは不可解な行動でした。

 

 ここでイエスが予告されている点を見ておきましょう。イエスはここで「人の子」という表現を用います。これは一人称、「わたし」と同義と考えられるときもありますが、ここではやはりイエスは人の子=メシヤと言う考えを示しておられると取ったほうがいいと思います。イエスはメシヤがここに記されているようなことを経験すると予告をされます。

 

【人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される】

 そのメシヤは①祭司長たちや律法学者に欺かれて引き渡される。これは裏切られるという意味が含まれています。イエス・キリストは裏切られて引き渡されます。銀30枚でイスカリオテのユダがキリストを売り渡してしまいました。それが裏切りです。

 

【彼らは死刑を宣告して】

②祭司長たちは死刑を宣告します。裁判にかけるということを意味しています。キリストはユダヤ人の最高議会でさばかれます。キリストはユダヤ人から裁判を受けたのです。

 

【異邦人に引き渡す】

③キリストは異邦人に渡されます。この場合、ローマ総督を指しています。ユダヤ人はローマ帝国の支配を受けています。ユダヤ人は法律でさばいても死刑に処する権限を与えられていませんでした。だから、異邦人ポンテオ・ピラトに渡されたのでした。

 

【人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打っ】

④異邦人はイエス・キリストをなぶりものにします。唾をかける行為は最大級の辱めでした。鞭打ちは多くは不従順な奴隷に対して執行されます。キリストは奴隷ではないのにまるで奴隷扱いをされました。

 

【殺す】

⑤そして、殺される。ここでマルコは十字架と記しません。十字架刑は当時最悪の処刑方法でした。死刑にもいろいろランクがありました。貴族などが有罪宣告をされたりすると、自死のみを選ばせられます。多くの場合手首を切り、血管を切り開き、大量出血をさせ、死に至るのですが、これは名誉ある処刑方法でした。その逆が十字架刑でした。残酷で、残忍な処刑方法であると共に極悪犯人や政治犯、あるいはローマ市民権を持たない外国人がこの方法を適用されました。キリストは十字架について言及されなかったのは十字架刑そのものに対する恐怖心を弟子たちにここでは与えられないためと思われます。

 

【キリストは復活する】

⑥そして、キリストは復活されます。詳しく語られていませんが、復活とは死んでいたものが生き返ることです。それは死に対する勝利に他なりません。このことはすぐに理解されるはずです。

これらはこれからエルサレムで起こることを正確に述べるものです。私たちは将来のことなど分かりません。1分たりとも私たちは未来に関してはまったく無知です。キリストがこんなに正確にこれから起きることを予告できるはずがないと考える人も多くいます。そのために、ある人はこの部分はのちに起きたことをあたかも予告と書く。つまり「事後預言」だとする人もいます。しかし、キリストは将来のことを予見することができる神の子です。

 

それから、ルカ18:31に記されていますように、預言者が書いたことをキリストは皆実現するために来られました。預言者とはここでは旧約の預言者を意味していますが、それではどの預言かということになります。ある特定の預言書が引用される場合もあります。

たとえば苦難についてはイザヤ52,53章を、復活についてはホセア6:2などが取り上げることもあります。しかし、聖書の一ヶ所や二ヶ所といった少ない個所からキリストの苦難と復活が預言されていると受け止めないほうがいいと思います。旧約聖書全体がキリストの到来を語り、その役割を示しています。聖書の全体から私たちはキリストの苦難の意味を知り、復活の偉大さを学ぶことができます。

 

イエス・キリストはむろん神から直接ご自身のエルサレムにおける使命を示されていたはずですし、さらに、聖書に精通していたキリストはエルサレムで何が起きるかをすでによく知っておられたのです。

 

キリストはエルサレムで起きることを弟子たちに明確に語っておられます。それは弟子たちがキリストの苦難を直接目撃したときにその意味を理解するようになるためでした。弟子たちはキリストが苦難を受けているときすらも逃げ去っています。弟子たちは十分にその当座理解できていませんでしたが、のちには十分に理解するに至ります。

 

キリストがここで語っておられるのはまず苦難でした。十字架の上でキリストは死なれました。それが私たちの罪を身代わりに引き受けての死でした。キリストは私たちのために犠牲となられました。かくして、私たちは罪が許されます。神の前にはばかることなく近づけるようになりました。神は私たちを和解し、神の子としての特権を与え、天の国籍を賦与してくださいます。

 

キリストは復活されました。死人の中から死を克服し、死に対して勝利をあげられました。キリストを信じる信仰によって私たちはキリストの復活にあずかるものとされます。

 

キリストはこのためにエルサレムに上って行かれます。キリストは政治的な権力を奪取するためにエルサレムに向かわれたのではありません。また、終末的な超人的な活躍が期待されるようなメシヤとしてエルサレムに向かわれるのではありません。キリストはご自身の死と復活によって救済者としての働きを全うされます。罪の許し、さらに神の子とされること、神と和解されて神と共に歩むものとされます。

 

このような十字架からの、私たちが受ける恩恵の大きさを信じるときに、真の力が経験できます。この世の人々は政治権力、財の力、あるいは人数の多さこそ力と信じ、それを何とか手に入れようとしています。それが人類を決して幸福などにはしません。むしろ、私たちは十字架のキリストの中に神の御心を味わい知ります。その神の愛と恵みを覚え、心に留め、感謝し、このことを喜ぶことを通じて幸いを経験できます。

 

また世界は天上が真っ二つに裂け、地面が火にあぶりだされ、天変地異が各地に生じ、そのような中で雲に乗ってメシヤが来て世界が終わり、新しい世が始まるといったような終末論的な再臨がエルサレムで起き、キリストが何かを演じるというのではありません。そんなことで世界が救済されるとは教えられません。あくまでキリストの十字架と復活によってのみこの世界は救われます。

私たちはキリストを信じるとき、その復活も信じます。そして、信じるものにはキリストが得られた復活の命を約束されます。キリストを初穂として私たちもまた復活の命を受け、この命に生かされていきます。最大の救いの約束はキリストと共によみがえる希望にあります。ここにだけまことの救いがあります。(おわり)

2015年09月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年9月20日説教「神の国に入るのはむつかしいか」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書10章23~31
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
:27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。28 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、30 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。31 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。

説教「神の国に入るのは難しいか」

聖書:マルコ10章23-31

 

要旨

【神の国にはいるのに必要なものとは】

 イエス・キリストに従えと言われながら、従うことができなかった議員であり、金持ちであった若者のことを見ました。彼の場合、財産を捨てることができないためにキリストに従えなかったのです。彼は財産を持ったまま神の国を相続しようとしました。彼にとって財産は生きていくうえで不可欠であり、それなしに人生は成り立たないと考えられたのです。しかし、財産だけではなく、私たちにとってそれがないと生きられないと思うようなものがたくさんあります。ある人にとっては名誉地位であり、家族であり、土地であったりすることもあり、健康や職業も人生にとって欠くべからざるものと思われます。

 

宗教の世界でも、宗教への傾倒,熱心さ、あるいは神学研究へ没頭してしまい、それがないと神の国に入れないかのように思われることもあります。私たちの人生経験、価値観、世界観などに影響されて、神の国に入るためにそれ相応の経験や体験を要すると考えられています。それらが神の国に入る交換条件のように錯覚するのです。

 

 イエス・キリストにところにやってきた若者の場合、律法の行いが神の国に入る条件であると思われていました。律法を守りさえすれば神の国には入れるのはないかと思ったのでした。しかし、彼の予想は覆されます。神の国に入るためには財産を放棄すべきであるとされます。

 キリストは、弟子たちに顔を向けられます。キリストは間もなくエルサレムに行こうとされます。そこで十字架にかけられて命を失うことになっています。それは贖いのみわざです。これによって罪人に救いの道が開かれます。弟子たちに救い、つまり、神の国に入るためにはどうすればいいのか改めて教えられます。

 

【財産のあるものは神の国に入れない】

 財産のあるものは神の国に入れない、つまり、永遠の命を獲得できないと言われます。財産のあるものはそれに固執して、結局、財産も救いにとっては不可欠であると錯覚してしまいます。財産がなければ救いは危うくなると思うようになるのです。財産があればこそ救いも安泰と思うようになります。

 

 ユダヤ人は財産を築くことは神の恩寵であると思っていました。そのように資産が増えることは神の祝福であるということには間違いありません。ユダヤ人の中ではイエス・キリストの教えに違和感を感じる人がいても当然です。富のあるものが神に近いと思われていたのです。英国のピューリタンもそうですが、彼らは、事業の成功自体、自分たちが救われ、救いに選ばれていることの証拠、神の祝福であると確信をしていました。アメリカン・ドリームということがありますように。

 

事業の成功は神の祝福であると考えるのです。敬虔で信心深い人が事業に真剣に取り組み、それでもって豊かな生活ができるようになる、それは神の恵みと考えられたのです。特に資本家にとっては、収益増大は予定されているものに対する神の格別の働きに他ならないとまで考えました。その上、彼らは浪費などしません。その儲けを新しい事業に投資する。結果的に資本が増加し、資本主義が栄えるようになるのでした。近代の資本主義促進とピューリタンの関係を説く学者もいます。もし金持ちが神の国に入れないとすると、財産を得ることが神の恵みとする一般ユダヤ人と衝突することになります。このような考えは誤解であることは間違いありません。確かに財産を獲得することができるのは神の恵みです。しかし、その財産が神の国に入るために妨げになることもあるのです。財産があたかも人間の救いを保証するかのように考えられるならば、その財産は救いにとって妨げとなります。

 

【神に国に入ることは難しい】

 イエス・キリストは弟子たちに語り続けられます。神に国に入ることは難しい。まして、金持ちが神の国に入ることはいっそう難しい。ふたつの文章は同じことの繰り返しではなく、別個の問題を明らかにするものです。私たちはしばしば前半を誤解することが多いと思います。つまり、この文章も金持ちを対象にしていると考えてしまうのです。キリストは弟子たちに向かって語られています。金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい。これは不可能だというものです。しかし、弟子たちなら神の国に入れるのでしょうか。キリストはここで弟子たちが神の国に入るのは難しいと言われたのです。弟子たちもまた神の国に入るのは不可能に近い。まして、金持ちはさらに難しい。ここは弟子たちのほうが可能性は若干高いというような感じはまったくありません。神の国相続は誰にとっても困難なのです。

 

 弟子たちはイエスの言葉をそのまま受け入れています。人間のうち、一体で誰が神の国に入る資格を持っているか。だれが果たして救われるのか。イエスの言葉とおりならば、だれも神の国に入れないではないか。

 

【人には出来ないが神には出来る】

 キリストは弟子たちに答えられています。人間にはできない。しかし、全能の神にはできないことはありえない。神は何でもできる。だから、人間的にとっては到底不可能と燃えるようなことが起きるのです。まったく神の国に縁がないと思われるものにも神の国の招きがあるでしょう。人間的には神の国など遠いものと思っているかも知れませんが、神にはできないことはありません。決心されたら神は最も救いに遠いところにいるものにも招き、救いを与えられます。神はそのように救いの道を明らかにされます。

 

 人間は自力ではまったく神の国を相続できるような存在ではありません。しかし、神が可能にしてくださいます。イエス・キリストを十字架につけ、それによって、私たちは神の御前に近づくことが出来るようにされたのでした。人間には救いは不可能であるが、イエス・キリストにあって救いの道を神ご自身が案内されます。

 

ペテロ:「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」】

 ところがペトロが登場します。福音書の中でペトロの行動は愚かな質問をし、的外れの答をしたりでとても12人の使徒団のリーダーとは思えません。キリスト復活後のペトロの役割から見るとずいぶん違ったイメージの弟子と思われます。ここでペトロが言いたかったことは、自分たちはキリストの弟子として全てを投げ打ってきた。キリストにすべてをささげている。となると神の国は私たちのものではないか。キリストの弟子たちの中でペトロは人一倍熱心であったことは間違いありません。金持ちの若者は悲しいことに去って行きました。それに比べて弟子たちははるかに神の国に入るために好条件に恵まれているではないか。ペトロの気持ちの中には、われわれはあの金持ちの若者とは違うのだという自負心も感じ取られます。あのような若者に比べれば、我々は神の国に入る相応しさはあると思ったことでしょう。ところがキリストはそういうことを認められませんでした。永遠の命を得るために家屋、家族、財産を捨てるだけではすみません。そこで求められていたのは神に対する絶対的依存の信仰でした。実際、この時点ではペトロは何も分かってはいませんでした。彼は自分こそ神の国で相当の地位を得られると思っていたのでしょうか。 

 

 キリストはペトロを叱りつけたり、非難されていません。直接ペトロの名を挙げてペトロの発言を退けるようなことをされていません。キリストは本当に神のみ国に入れるのは誰かと教えられています。それは、まず家(家屋)、家族、そして、最後に土地(所有)を捨てるものだと言われています。これらを本当に捨てたものだけが救われます。ペトロはどうであったでしょうか。彼はカファルナウムに自宅があったようです。また、妻子もあったようです。キリストの弟子たちの中には裕福なものもいました。例えば収税人もいたのですが、彼らは不正な手段で多くの財産をかき集めていました。マタイは弟子になったときもその財産をすべて失うように決心したのではないと思います。また、キリストの弟子たちの中には財布係もありました。12人以上が団体で行動するのでした。経費が必要であったようです。ペトロが、キリストの弟子たちの中では、筆頭格で、財産を放棄したとありますが、まったく資産を持たなくなったのではありませんでした。

 

【迫害を受ける】

その上、迫害を受けるとも記されています。迫害に耐えられず、脱落していくものもあるでしょう。こうなると神の国を相続できるのは一体誰と誰かということになります。誰もいないのです。

 このように徹底的に放棄できる人ならば神の国に入れるだろうけれども、どのようなキリスト信者も、とても神の国ははるかに遠いものです。あのペトロとて同様です。何もかも捨ててきましたといえるほど彼らは努力を積み重ねてきたはずですが、キリストが示される基準には達しないはずです。ペトロはここで認めなければならなかったのですが、彼にはとても神の国に入る資格はありません。これを認めてただ神の救いの恵みに頼らざるを得なかったのです。人間はどういうことをしても神の国に入ることができません。ただ神にお願いするしかありません。神の恵みにより、信仰によって捉えるものなのです。

 

 それでもなお、自分は神の国に入るために最大限の努力をしてきた、だから神の国に入れる資格はあると強弁するものもいたことでしょう。キリストは言われます。先のものが後になり、あとのものが先になる。このみ言葉はいろいろなところで用いられています。マタイ20:16、ルカ13:20・ただ文脈から見ると違ったところにおかれていますので、キリストはこの言葉をいろいろな場合に用いられたのでしょう。自分は先頭を切って忠実に努めて来た。こういう自負心を持つものも出てくるでしょう。キリストはそういう先頭を切っていたものも最後には脱落寸前にまで追いやられ、勝利者は別人となるといわれます。自ら救いを率先して獲得できると自負するものはかえって神の国を得られず、できないと思い、神に信頼するものはそれを得るのです。(おわり)


2015年09月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年9月13日説教「私に従って来なさい」金田幸男牧師

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説教「わたしに従いなさい」

聖書:マルコ10章17-22

17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。


 

要旨

【ある人】

 10章17に「イエスが旅に出ようとされると(ちょうどそのとき)ある人が走り寄って」来た、と記されています。イエスの出発のことは10章1に記され、ユダヤ地方、エルサレムに向かわれます。

 

ある人が急いでキリストに会おうとしています。一刻も早くという思いでやってきたのです。それほど彼にとっては重大問題であり、イエスがこの地を去る前に是非とも答えを得たいと切に願っています。マルコによる福音書では飛び込んできたこの人物のことを詳細に述べていません。

 

【青年・議員】

同じことを記すマタイによる福音書では青年とあります(マタイ19:20)。この言葉は20歳くらいを表します。ルカ福音書では議員とあります(ルカ18:18)。おそらく、ユダヤ人の最高議会の一員であったと想像できます。最高議会(サンフェドリン)は今で言う国会と最高裁判所を兼ねたような国家の機関で、ユダヤ人社会の中では相当地位の高い家柄でなければこの議員にはなれません。

 

【金持ち】

三つの福音書共通にこの人物は金持ちであったと記します。彼は地位も高く、名誉ある立場にあり、また裕福であり、若さもありました。前途洋々たる人生が目の前にありました。

 

【永遠の命】

 イエス・キリストのところにやってきたこの若者は永遠の命を獲得するためにはどうしたらいいのかと尋ねます。永遠の命、いたって宗教的な課題です。この人がなぜ永遠の命を求めたのだろうかと思います。ある人は、この人物は安楽な日々を過ごし、信仰を趣味としているような人間と見ます。

 

【慈しんで語れた】

実際今日、宗教に関心のある人はよほどの暇人と思われています。仕事で忙しい人は宗教などの関心を持たないと思われています。だから一種の趣味のように宗教を考えているに過ぎない軽薄な人物を解されるのです。しかし、イエスはこの若者をじっと見つめ、慈しんで語れたとあります。慈しんで、は「愛を持って」とも訳せます。イエス・キリストはこの若者を切り捨て、取り合わないようにされたのでは決してありません。だから、この人は生半可な思いでイエスに接近してきたのではありません。彼はたいへんまじめにイエスに問うています。若い人は立身出世や目先の栄華を目指しやすいものです。この若者はそういう同世代の人間とは違った道を行きます。彼は永遠の命をどうすれば得られるのかが最大の関心事でありました。

 

【何をしたらいいのか】

永遠の命を獲得するために何をしたらいいのか。このような問いを投げかける若者は当時もそうでしたし、今日も同じです。その点でもこの若者はユニークな存在でした。永遠の命などと言うあまり人が関心を持たないし、特に若者ならばあまり関わりを持とうとしないものを追求していたのです。この人はそういう点で稀有な存在でありました。昔の人も今日の人も永遠の命などに真剣に探求しようなどと思わないでしょう。人はそういう問題よりも今日をどう生きるかに関心があります。今というときを大切に思い、永遠の命など空論だと思うのです。ところがこの若者は真正面から永遠に生きる道を尋ね求めたのでした。

 

 なぜ永遠の命を求めたのか、マルコ福音書は沈黙しています。止むに止まれぬ切羽詰まった情況があったのでしょう。

 

【よい教師・義の教師】

 彼はイエスに向かって「よい教師」と呼びます。よい先生。これは当時のユダヤ人社会の事情を考えなければなりません。ユダヤ人が律法を重視していました。それは神の与えられた掟でありました。この律法を研究し、相応しい解釈を専門的に行う人々が存在していました。律法学者といわれているように律法を深く研究している人たちがいました。ところがそのような律法学者の中に頭だけの信仰ではなく、律法を熱心に行い、それゆえに人々から尊敬を受けるまで自己修練に励む人たちがおりました。彼らは「義の教師」と呼ばれていました。義の教師は特別敬虔な歩みをしています。彼らはただ律法に忠実だと言うだけではなく、その徳を分かち合うことができると信じられていました。あるいは、特別な教え、それは秘密をされるものですが、これを与えることが出来るものと考えられていました。

 

 イエス・キリストは自分はそのような義の教師であることを否定されます。キリストが何か功績を積みそれを他の人に分配すると言った特別な働きをするものではないと証言されます。あるいは特別な秘儀を隠匿しているようで、特別の仕掛けでそれを得られると言ったような教師とは全然違うのです。そういうことは神の領分です。イエス・キリストはみ父にまさって弟子たちに義を分与できる方ではありません。それも律法の行いではなく、ただ神の恵みに依存して得られるもので、それを与えることが出来るのは父なる神だけです。

 

【十戒の後半】

 その上で、キリストは十戒を引用されます。モーセは神から律法を与えられます(出エジプト記20:12-16、申命記5:16-20)。それは石の板2枚に記されています。キリストが引用されているのは第二の板です。よく見るとキリストは十戒を改変されています。ひとつは、父母を敬えという第5の戒めを一番最後にもって来ています。これはおそらく強調のために順序が変えられたのだと思います。もうひとつは第10戒、貪るな、を、奪い取るな、とされています。奪い取ることと貪りとは厳密に言えば違うでしょうけれども、酷似しています。乱暴に、あるいは策略を用いて、他人から大切なものを奪い取り、それを自分のものとしてしまう。それが貪欲と言うものです。

 

【知っているか?】

 さて、ここで注意していただきたいのは、キリストは「知っているか」と尋ねられただけです。ところがこの若者は実行していると答えます。知っていると、実行しているとは異なります。キリストが問題にされたのは律法の意味、もっといえば霊的な意味なのです。律法が本来持っている神意はどこにあるか。キリストは律法をこの観点から捉えられます。山上の説教を見ましょう(マタイ5:21以下)。ここでは兄弟を誹謗するものは殺人罪と同罪であり、裁きを受けなければならないといわれます。あるいは女性を淫らな思いで見るものは姦淫罪を犯しているとキリストは指摘されています。このようにキリストは律法を心の問題にされます。律法が本来持っていた神の意図を読み取らなければなりません。外面的な実行だけが問題ではないのです。

 

【実行しています】

 ところが若者は、知っているかという問いを誤解します。彼は、十戒を小さいときから実行していますと答えます。知っていることと実行することは異なります。しかも、文字面だけではなく、その掟の言葉の奥にある深い神意を知らなければなりません。ところがこの若者は律法を行っているかどうかと言う観点からキリストの言葉を受け止めたのです。

 

この若者は子どものときから掟を守っていると答えますが、ユダヤ人社会では13歳のとき神殿に行って特別の儀式にあずかり、そのとき以来律法を行うべきもの(掟の子)とされたのです。そうは言っても大半の家庭ではさほど厳しく掟の遵守を求められませんでした。この若者の家庭はどうであったか。おそらく他と違って厳格に教育を受けたのでしょう。よき躾を受けていました。この点から見て、若者は品性もまた優れていたと言えると思います。

 

【行け、持ち物を売り払え、施せ、そして、従え】

 キリストはすれ違いをすぐに指摘されません。むしろ、別の言葉を投げかけられます。四つの命令の言葉が並びます。行け、持ち物を売り払え、施せ、そして、従え。若者は永遠の命を得るために律法の行いに務めるべきだという考えを知っていたようです。だから、そういうものは行っている、とすると永遠の命は自分のものとなるか。こういう考えを持っていたのかもしれません。イエスにそれを確かめたかっただけかもしれません。イエス・キリストはそのような若者の考え方に冷水を浴びせられます。

 

【財産を多く持っていたからだ】

 若者は失望しながら去っていきます。なぜなら、財産を多く持っていたからだとされます。イエスから持ち物を全部売り払えと命じられてそれは出来ないと答えます。

 イエスの命令はすべてを捨てよ、という命令と受け止められ、このために、財産を捨て山奥にでも入り隠遁生活をすることしか解決策はないということになります。イエス・キリストはそのような財産放棄をしなければ永遠の命、天の富、天の宝を獲得できないと教えられたのでしょうか。

 

 この若者の生き方を分析すれば、名誉、地位、権力、財産、若さなどの上に永遠の命を重ねようとしています。所詮、永遠の命は彼の人生にひとつを加えるだけなのです。私たちもこういうものをもっています。ある人は学歴、社会的評価、あるいは技能、職業、人生経験、健康、運動能力などを拠り所にし、そのようなものの上に永遠の命を重ねる、それが人生だと思っています。しかし、永遠の命はそのような人生で獲得するものの追加事項ではありません。それはすべてなのです。

 

 律法は、私たちに善行が神の前でいかに無効か、そして、私たちが知るのは掟によっていかに罪深い人間かを知ることです。この若者が律法を行っていてもそれは彼の功績を積み上げるだけに終わります。

 

彼に必要なことは、永遠の命は無償で、ただで受け取るべきものという知識でした。掟はいやおうなく私たちに自力では永遠の命など得られないという事実を突きつけるものです。

 私たちはこの若者のように財産があるわけではありません。しかし、他のものがあります。そして、そういうものを積み重ねていく人生に、さらに究極の永遠の命、天の宝を加えることが幸福だと思っています。しかし、それは誤謬です。永遠の命はあらゆる人間的な救いの可能性を断念し、ただひたすらに神の無償の救いを求めることに他なりません。

 

 イエス・キリストに従うとはどういうことなのかはっきり分かります。ただ、キリストの憐れみを信頼して、救いはそこから来ると確信することなのです。(おわり)

 

 

 

2015年09月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年9月6日説教「子どもを祝福するイエス・キリスト」金田幸男牧師

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説教「子どもを祝福されるイエス・キリスト」

聖書 マルコ福音書10章13-16

 

要旨 今までマルコによる福音書を学んできましたが、子どもが登場する個所が2ヶ所ありました。

 

【主イエスの子ども観、1】

9章36では、弟子らが、自分たちの中で誰が一番偉いのかと論じ合っていたとき、キリストは彼らの真ん中に子どもを立たせ、「わたしの名のために、このような子どもを受け入れるものがわたしを受け入れるのだ」と言われました。イエス・キリストのために、キリストの代わりに子どもを受け入れるようなものこそ一番偉いのだというのです。子どもは価値のないものとされていました。その子どもをキリストのために受け入れ、尊ぶものこそ弟子たちの中で重視されるべきなのです。

 

【主イエスの子ども、2】

第二は9章42で「わたしを信じるこれらの小さいものの一人を躓かせる者は大きな石臼を首にかけられて海に投げ入れられるほうがはるかによい」とあります。小さいものは子どもを指していますが、比ゆ的に用いられていて、小さいものはただキリストを信じるもので、その中でもあまり重視されていないようなものを指しています。弱いものを躓かせ、キリストから引き離すようなことをするものは溺死刑に処せられたほうがよい。

 

【主イエスの子ども、3】

そして、第三に上げられるのは今日学ぼうとしている10章13-16です。子どもがイエスに触れていただくために連れて来られたとあります。この子どもを祝福するイエスの働きについてはマタイとルカ福音書にも記されています。

 

マタイ19章13では「そのとき、イエス手を置いて祈っていただくために」子どもが連れて来られたとあります。当時の習慣では、名声を博している教師、あるいは有名な人が来ると彼らに子どもを祝福してもらうことになっていました。偉い人であればあるほどその祝福の祈祷には効力があると思われていました。そして、祝福は単なる祝福祈願に留まるものではなく、その祝福は現実に実を結ぶと信じられていました。

 

ルカ18章15では、触れていただくためにやってきたものの中には、乳飲み子も含まれていたことが知られます。マタイとマルコの出てくる子どもは12歳くらいの子どもをさす用語ですが、ルカの場合はまるっきりの赤ん坊を指しています。中には泣き叫ぶような小さい赤ちゃんもいたでしょう。さらに、人々と訳されている言葉は「男たち」と訳されてもよい表現です。連れてきたのは一家の長でした。だからその妻も同行し、子どもの兄弟姉妹もいた。となるとこの場は騒然としていたに違いありません。

 

【叱る弟子たち】

 イエスの弟子たちがこれを見て叱りつけたとありますが、理由は容易に推測できます。キリストは長時間教えておられました。今日と違いマイクやスピーカーがあるわけではありません。キリストは声を張り上げて語られたことでしょう。長時間の教えにキリストは疲れきっていました。弟子たちも同様に疲れを覚えていたでしょう。そこでたくさんの人が押し寄せてきたのです。弟子たちはその勢いに怒りをおぼえたのです。疲れきっているキリストをはじめ、弟子たちの休息を邪魔するなどとはとても失礼なものと思ったのでした。

 

【主の憤り】

 ところがキリストはそのような弟子たちの言動に憤られたとあります。なぜ、キリストは腹を立てられたのでしょうか。マルコの福音書では、キリストの感情を率直に記している個所があります。マルコはイエス・キリストをこのように情に動かされるものと見ています。実際キリストは喜怒哀楽を示す方です。決してキリストは冷血漢ではありません。キリストの感情がよく表現されています。マルコの特徴的な表現です。

 

 キリストは子どもたちを祝福したいと切に思われていたに違いありません。ところが弟子たちが阻もうとしています。それに憤られたのです。キリストは子どもたちを祝福したいと願われました。子どもは祝福されなければならないと思われ、祝福したいと願われたのです。

 

 キリストは子どもたちを来させ、神の国はこのようなものたちといわれます。「はっきり言っておく」は厳かに真理を宣言されるときに使われる表現なのですが、神の国の真理をキリストは自らの口で明言されようとしています。

 

【子どもはなぜ祝福されねばならないか】

 ここで私たちは二つのことを十分区別しておかなければなりません。この二つはもちろん相互に深く関係します。ただ、区別が必要なのです。

 

 まず第一のことから見て行きましょう。イエス・キリストは何としても子どもたちを祝福しなければならないと思われます。弟子たちがそれを阻もうとしたとき激しく怒られました。それほどキリストは子どもの祝福を重視されています。

 

 今日、私たちが見ている子どもたちと当時の子どもたちは大いに異なる状況に置かれていました。子どもは弱い、というよりも価値のないものとみなされていました。その弱さは二重の意味を持っています。まず、子どもたちが幼くして死ぬ率は極めて大きなものでした。私たちの中で高齢者と言われている世代には,子どものころに兄弟をなくした方も多いのではないでしょうか。わたしも実は6人兄弟ですが、二人の姉は「赤痢」とか「疫痢」と言われている病気で、一人は6歳,もう一人は3ヶ月で亡くなっています。子どもすべてが順調に育つことのほうが稀な致死率でした。

 

イエス・キリストの時代にはいろいろな病気があり、栄養状態も悪く、それにさまざまな事故で子どもはあっけなく命を失ったのでした。キリストはそのような子どものために祝福を祈ろうとされています。

 

もうひとつの弱さは社会的なもので,子どもは価値のない存在と見なされていました。家父長制家族制度の中で父親は生まれたばかりの子どもを殺害しても犯罪にはなりませんでした。また、子どもを負債のために奴隷に売ってしまう権利を有していました。子どもの置かれた状態はこのように劣悪でありました。それは実はほんの2.3百年前まで続いてきた状況でした。子どもは弱く、価値もなく、重視されていません。まして子どもの人権などまったく認められてはいませんでした。そのような子どもたちをキリストは祝福されたのでした。それは弱いものへの憐れみ、同情を持って祝福するものであったと断言できます。

 

キリストは弱い立場のものへの憐れみを示されます。10章1-12では、離縁された社会的には疎外されている女性への憐れみを示されていますが、ここでは弱いものと見られていた子どもへの深い慈しみを示されます。

 

 ここでキリストは子どもたちを祝福されました。この子どもたちは、劣悪な状況に置かれていましたが、キリストはその子どもたちが苦しみの中にないようにと願われたのです。そして、実際医学の進歩で子どもが小さいときに命を失う状態は少なくなって来ています。ますます医学が進歩して子どもたちが幼いときに死ぬというような悲しみが少しでも少なくなるように私たちは願い、また実現のためにもっともっと教会は関心を払うべきでしょう。

 

キリストの祝福から2000年も過ぎています。その間、キリストのなされた祝福は文字どおりに現実のものとなって来ています。また、社会的に子どもの人権が認められて来ています。子どもたちは大事に育てられています。これこそキリストの祝福の実現です。キリストが祝福されて何百年かかり、祝福が現実のものとなって来ています。だからこそ、世界にも日本にも不幸で悲惨な状態にある子どもが多くいることを覚え、そのような子どもたちが少なくなることを願い祈り、またそのために支援の働きも肝心でしょう。

 

【子どものように】

 もうひとつのことを学ばなければなりません。イエス・キリストは厳粛に真理を宣告されます。神の国は子どものような者たちに属する。子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることは出来ない。ここで子どもは比ゆ的なものとして表現されています。

 

子どものように、という表現は二種類の意味があります。ひとつは子どものような無知蒙昧で、知恵がないという意味がありますが、ここでキリストがいわれる意味ではありません。キリストがここで言われているのは、子どものように素直で、純真で、疑うところのない、という意味です。

 

母親がこのような経験をしていることだろうと思います。疑うことなく母親の愛に依存している子どものように、神に疑わず、真実に、神を信じるもの、そのようなものが神の国に入れます。

 神の国とは何か。単語そのものは「神の支配」を意味しますが、抽象的な物言いです。地獄はどういうところか私たちはすでに見ました。(10章42-50)

 地獄は聖書ではどういうところか表現されていませんでした。私たちはこの世界で地獄を見ます。地獄絵を見たと表現されたりします。そのとおり、地獄のような悲惨な有様を、私たちは目にします。戦争、飢餓、疾病、あるいは、天災、このような事件に遭遇してその有様を見た人には地獄をみたかのように思われますが、それは地獄絵なのです。正確に言えば、本当の地獄はそれ以上だということです。想像を超えています。私たちは地獄がどれほど恐るべきか真実に知らされているのではありません。

 

神の国、天国についても同じことが言えます。黙示録21以下に記されている新しいエルサレムはまことの神の国の表象ではありません。あくまで幻です。黙示とはそういうものです。偽りではありません。しかし、それは本当のものを目撃して言い表されたものではありません。神の国はそれ以上なのです。私たちはその神の国に入りたいと思うのであれば子どものように、神を信じ、自らは救いに相応しいものは何もないとへりくだり、ひたすら神からの救いの賜物を期待するしかありません。自分の相応しさを主張し、救いに相応しい実績をもっていると神の前で強弁など出来ないもの、それがここでいう子どものようなものを指しています。ただ、神から恵みを受けられることだけを期待する、それが神の国に相応しい子どものようなものなのです。(おわり)

2015年09月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年8月23日説教「心の頑なさと神の掟」金田幸男牧師

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聖書:ルコによる福音書10章
1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

説教「心の頑なさと神の掟」

聖書:マルコ10章1-12

要旨

 マルコ10章1で、イエス・キリストは「そこを」立ち去ったとありますが、それはガリラヤ湖周辺のカファルナウム(8:33)を指しています。そこからユダヤ地方とヨルダンの向こう(東側)に向かわれます。ヨルダンの東はペレヤ地方と言い、当時、ヘロデ・アンティパスが領主として治めていました。キリスト一行はペレヤを抜けてそこからエリコの町に入り(10:46)、エルサレムに向かわれます。エルサレムでキリストは十字架の上で贖いの死を遂げられます。

 

【ヘロデ・アンティパス】

ヘロデ・アンティパスは6章14以下に記されていますように、ヘロデヤとの結婚を批判した洗礼者ヨハネを投獄した上、殺害しています。

 イエス・キリストはペレヤでも群衆に教えましたが、ヘロデ・アンティパスの近くで活動されたのです。そこにファリサイ派が登場します。彼らはイエス・キリストの質問をしますが、むろん教えを請うためにやってきたのではありません。

 

2節に「試そうとした」とあります。その試みは悪意から出たものですが、離婚について問うということは、あわよくば、ヨハネと同じ運命に陥らせようとするものであったと考えられます。イエス・キリストがヘロデとヘロデヤの結婚を非難するなら、そのうわさはすぐにヘロデの耳に入るはずです。このようにファリサイ派の質問は決してまじめなものではなくイエスを亡き者にしようとする意図が見え隠れします。ですから、ファリサイ派は離婚の是非を質問したり、論じ合ったりするつもりはなかったと見るべきです。

 

【妻を離縁すること】

 妻を離縁することは律法に適っているかどうか。合法的かどうか。もし、イエスが不法だと言えばどうなるでしょうか。ヘロデを非難することになります。この質問の下心を、イエス・キリストは見抜いておられます。だから、キリストは質問に答えず、逆に質問をします。「モーセの律法には何と書かれているのか。」ファリサイ派は直ちに答えます。妻を離縁することは合法的である、これがファリサイ派の答えです。

 

ファリサイ派が根拠とするのは申命記24章1以下です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。」(1-4)

 

離縁状を書いて渡せば離縁することが出来る。ファリサイ派はこのように離婚を合法としていました。ただし、ファリサイ派には大きな議論がありました。離縁の理由となる「気に入らなくなる」についての解釈をめぐって厳格派と穏健派が対立していたのです。厳格な立場は妻の不貞が明らかになった場合と解釈しました。穏健派は例えば妻の料理が下手だとかというように広く解釈するものでした。この両者に白熱した議論が交わされていたのです。

 

ファリサイ派の質問には、イエス・キリストがどちらの味方なのかという点をはっきりさせようと思いが見え隠れします。一方の立場を支持すれば反対派からは敵視されます。結局キリストを論争に巻き込む結果となってしまいます。

 

 ファリサイが申命記を持ち出しましたが、よく見るとたいへん恣意的な用い方をしています。そして、当時のユダヤ人の結婚に対する考え方、習慣をも見ていかなければなりません。申命記の規定は離縁状さえ書けば結婚が合法的だなどという意味が主ではありません。ここはそのあとに書かれてあるように、いったん離縁した妻ともう一度再婚はできないということを規定するのが本来の律法の目的なのです。

 

【弱い女性の立場】

 ユダヤ人の社会では、男は女と結婚するのですが、女が男と結婚は本来できない存在でした。女は結婚されるだけであったのです。つまり、結婚の主体ではありませんでした。ですから、離婚も女性は不利な立場におかれます。夫の方に例えばその職業、あるいは夫の不貞、暴力、病気などの原因があり、妻から離婚を申し立てる場合は裁判所に行かなければなりません。裁判でいろいろ尋問され、離婚は認められます。しかし、彼女には汚名が着せられます。夫の場合は離縁状を書けばあっさり離婚は成立します。このような不平等な習慣が通用している社会でした。

 

 イエス・キリストの答えはこのような背景で考えられなければなりません。キリストは指摘されます。モーセの律法は確かに離縁を認めている。しかし、それは結婚を維持できない事情のあることを認めた上での規定とされます。ところがファリサイ派はそれを人間の権利、あるいは特権のように扱います。特に妻を離縁することが夫の自由、恣意的な決定で決まると解釈します。

 

【結婚の意味】

 そこで、キリストは創世記1,2章に記される結婚観を明らかにされます。イエス・キリストはなぜこんな個所を持ち出されたのか。当時の状況を見ていかなければなりません。当時のローマ人社会の家族制度は家父長制度です。家長は特に子どもに対しては、生殺与奪の権すら握っていました。奴隷に売り払うことも合法的であるとされていました。ユダヤ人の間でも家長の権限は大きなものでした。結婚も家長の許可なしに出来ません。しかし、結婚すると、父親は子どもに対してもはや絶対的な権威を振るうことが出来ません。むしろ、結婚したものの絆が固い。

 

ここで、「神が結び合わせたものを切り離すな」と命じられるとされますが、この箇所を離婚を禁じる御言葉だと解釈されてきました。しかし、キリストがここで指摘されているのは、離縁が安易に行われている事実に対するものです。聖書を一箇所引用して、夫が離婚する身勝手さが合法化されます。

 このような聖書も用い方は今日でもしばしば見られます。自分の都合のよいように聖書の言葉を持ち出します。しかも文脈を外れて解釈したものです。あるいは聖書に書かれていないから自由だとされます。カルヴァンは「聖書に書かれていないことは禁じられる」と主張したのもこの人間の恣意的な解釈の弊害を避けるためでした。聖書の全体を十分に理解し、その全体的な理解から聖書の言葉を理解すべきなのです。聖書には必ず答があります。ただし、明瞭に分かる部分もあれば明白ではないところもあります。それを丹念に研究していくときに答えは明らかになってきます。

 

【ファリサイ派の間違い】

 キリストは離婚そのものを罪だとか、よこしまなことだと言われていません。創世記を挙げられているのは結婚の絆が父親の権限以上だといわれているだけです。ですから、今結婚をしているものは固い絆で結ばれている。父親ですらその絆を解くことは出来ないというのです。結婚の本質はその一致の堅さにある。ファリサイ派はそれを安易に評価していました。だから、申命記を用いて男性が妻を離縁しやすいようにしてしまっていたのです。家長は自分の思いとおりに権力を行使するのは間違っているとキリストは言おうとしておられます。

 

【不法な結婚】

 家の中でキリストは弟子たちにさらに教えられたとあります。ここでは三つのことを挙げたいと思います。まず、同じような記事はマタイ19:1-12に記されています。マタイ19:9で「不法な結婚でもないのに」という言葉が記されています。実際、不法な結婚が行われていました。例えば人身売買的な結婚です。そういう結婚で束縛されている人の離婚を不当とすることはできません。

【男女平等】

第二に、キリストは夫と妻の両方を挙げています。妻の場合、離婚の申し立ては不利な立場におかれていました。ところがキリストは区別をされていません。夫も妻も同じように扱われなければならないという意味です。今日では結婚は両性の合意によるのであって、一方的ではないとされていますから、キリストの指摘は当たり前のことにあっていますが、当時はまったく事情は異なります。

 

【姦通の罪】

第三に、妻を離縁して他の女と再婚すると「姦通の罪を犯す」とあります。なんともおどろおどろしい表現のように見えます。しかし、ここは、姦通の罪を犯させると理解すべきです。当時、妻は不当に離婚させられました。つまらない理由で夫が妻を追い出したのです。彼女には何の落ち度もありませんでした。そのような女性は社会的には不遇な立場におかれます。彼女から申し立てた裁判では申し立てどおりになっても彼女は汚名を着せられました。それは不当なことです。その上、離縁されたものの生活は惨めな場合が圧倒的に多かったのです。よほどの財産を持っていなければ離縁された女性の境遇は極めて悲惨でした。だから、再婚するしかありません。不本意な再婚である場合が多かったのです。こういう不本意な再婚を強制的にさせることは罪を犯させることと同じです。離婚そのものをキリストは罪だとか邪悪だとかいわれていません。むしろ、不当な扱いを受けざるをえない女性に対して同情以上に好意的です。言い換えれば恣意的な離婚の権利を振舞わす男性を断罪するものと見てもよいでしょう。弱い立場に追いやられるものの味方になろうとされるのがキリストです。

 

 ここに記されていることは、今日の結婚、あるいは離婚にそのまま当てはめると変な話になります。同時に、不当な扱いをされているもの、それは男女を問いません。そのような苦しむものにとってキリストがどういう考えを持っておられるかを知ることは大きな慰めです。そして、さらに大切なことは自分の欲していることを聖書から合理化して正当とするのではなく、もし過ちがあれば主に許しを求めるべきです。主の十字架を仰いで、許しを求め、許されている幸いを感謝して立ち上がるべきなのです。(おわり)





2015年08月23日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年8月16日説教「本当に恐れるべきこと」金田幸男牧師

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聖書:マルコによる福音書9章
41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。
44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。
46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。
49 人はすべて火で塩づけられねばならない。
50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。


説教「本当に恐れるべきこと」

 マルコ9章42-50

 

要旨

イエス・キリストが弟子たちだけを集めて語られた教えが続きます。42節以下50節までは三つの部分(42、43-48、49-50)に分かれていますが、それぞれ別個の教えとも取れます。しかし、つながりがあるとも考えられます。その見方でこの部分を学びたいと思います。

 

【小さな者】

まず42節ですが、41節と結びついていると考えられます。「小さな者」とは子どもを意味しますが、ここでは「わたしを信じる」とありますから、イエス・キリストの弟子たち、しかも12人の弟子たちだけではなく、広くその他の弟子をも指していると見るべきです。

 

イエス・キリストを信じているものたちを躓かせるものは首に石臼を巻きつけられて海、この場合はガリラヤ湖に投げ込まれたほうがいい。石臼を首に結わえられて湖に放り込まれたら溺死は避けられません。生きたままですから、当然苦しみながら死ななければなりません。これは法に則った処刑ではなく、個人的な憎悪からなされる私刑ではないかという人もいます。できるだけ苦しむように殺すやり方です。

 

キリストの弟子たちを躓かせるとは、キリストの弟子として生きることを妨げる行為を意味しています。キリストの教えに従うことを阻み、その道から落伍させてしまうようなこと、その中には暴力的に圧迫して棄教させることも、誘惑で信仰の道から外れてしまうようにすることも含みます。

 

キリストの弟子たちを惑わせ、試み、信仰から逸脱させるようなことをするものは、ひどい殺され方で死ぬほうがよほどましだ。キリストの言葉は激烈です。世間では宗教とか信仰とかは小さな問題で、信仰の道を行くものを脱落させても些細な問題だと思われています。

 

しかし、キリストは弟子を信仰から外れるようにすることは最大級の悪虐行為だとしています。罪を犯させることは決して神の前では小さな問題ではありません。それは恐るべき邪悪な行為なのです。宗教など小さな問題、取るに足りない問題に過ぎないと片づけられてしまいます。神の眼からすればそうではありません。小さいもの=キリストの弟子たちに一杯の水を施すものには大きな報いがあります。その逆にキリスト者を躓かせるものは最大級の処罰があります。

 

43-48節には、手、足、目が取り扱われます。一方の手、足、目が躓かせる。罪を犯させるという意味です。42節で躓かせるのは外部の人間を指していましたが、ここでは本人です。本人の手、足、目が躓かせる。罪を犯させる。その根っこには邪まな願望や欲望があるでしょう。何かを無闇に欲しがるようなことを念頭に置けばいいのでしょう。その場合、片手、片足、片目を切り捨てたり、潰したりしたほうがよい。両手、両足、両岸が無事だが地獄に陥るよりもそのほうがよほどよい。

 

【地獄:ゲヘナ:ベン・ヒノムの谷】

ここで地獄と訳されている元の言葉は「ゲヘナ」です。このゲヘナは、実在するヘブライ語でいうベン・ヒノムの谷のことなのです。ヘブライ語をギリシヤ語で読むとゲヘナとなるのです。

 

ベン・ヒノムの谷とは丘の上に立つエルサレムの右側の谷を指します。ここは旧約聖書に出てきます。列王記下23:10にはヨシヤ「王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。」

 

モレクは近隣の諸国で礼拝されていた偶像神ですが、ベン・ヒノムの谷ではその神が礼拝されるだけではなく、子どもを犠牲ささげていたというおぞましいことが行われていました。ヨシヤ王は改革の中途でエジプト軍と戦いあっけなく戦死をします。その後のユダの状況はエレミヤ7:31-32で知ることができます。「彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。そのとき、人々はもはや余地を残さぬまで、トフェトに人を葬る。」

 

ユダ王国滅亡寸前の時代までこのような悪弊が行われていました。こののち、この谷はエルサレムのゴミや汚物が投げ込まれる場所とされました。また、死んだ動物の死体も、ときには人間の死体も投げ込まれました。エルサレムの町から見ればいつもゴミを焼く火が見え、悪臭が漂い、骸骨さえ転がっている薄気味悪いところとされました。エルサレムの人たちはそれが地獄絵のように見えたのです。醜悪で、汚染し、気味が悪い、とても人間のいるべきところではない様子を見て、地獄とはこのようなところだと想像したのです。

 

聖書には不思議なことに地獄についての詳しい描写はありません。48節では「蛆が尽きず、火も消えない」と言われていますが、これだけでは地獄が十分に描写されていません。地獄に行って戻ってきた人はありませんから当然のことかもしれません。ゲヘナつまり地獄とはベン・ヒノムの谷のようなところだと想像されました。それはあたかも地獄絵のようだと思われたのです。

 

地獄はそれ以上の、想像を絶した恐ろしいところとしかいいようがありません。地獄の存在を否定する人が多くいます。しかし、聖書は、人間の目で見る最悪の災害、それは人災であり、自然災害であるのですが、特に戦争などが引き起こす悲惨な光景はまるで地獄のような風景です。地上にも地獄のような光景が展開されます。しかし、それは地獄そのものではありません。地獄は想像を超えたところであり、景色なのです。

 

地獄はそれは恐ろしいところです。もし、手、足、目が私たちを躓かせるならば健全なまま地獄に落ちてしまうでしょう。しかし、両手、両足、両眼が健全なまま地獄に落ちてしまうよりも片手、片足、片目を失うほうがよほどいい。イエス・キリストの言葉はここでも過激です。しかし、私たちは躓き、つまり、罪によって神から裁きを受けることを恐れるべきなのです。それは本当に恐ろしいことなのです。躓き以上に恐ろしいことはありません。罪を犯すことは些細な問題ではありません。罪は放置しておけば地獄に落ちてしまう原因となります。それは最大級に私たちが警戒すべきことなのです。ところが、手が、足が、目が、罪を犯しても平気、些細な問題と片づけけられています。これは恐ろしいことなのです。これこそ身震いするべき重大問題です。

 

地獄は恐ろしいところです。しかし、私たちには想像を超えています。罪がもたらす地獄の問題は小さい問題ではありません。それは世界最大級の問題です。ところがこの罪の問題ほど軽く思われているものはありません。罪がもたらす大きな災いを誰も念頭に置きません。地獄の問題は空想とされます。だから、罪の結果が地獄だと言われても平気です。この世の地獄を見たと言う人でも、神が用意されている本当の地獄が恐ろしいとは思いません。この世界の地獄絵以上に地獄は悲惨なのであり、悲劇的なのです。キリストはこのように罪の結果を軽視することに警告を発せられます。

 

49-50節は、43-48節と直接に関係にない話のように思われるかもしれません。塩のたとえ話です。しかし、49節で「人は火で塩味をつけられる」とあります。この火は前とのつながりから言えば地獄の火と言うことになります。人間と言うものは地獄の火で味気がつく。地獄絵を見たものはそれによって塩味をつける。ところが当時の塩は岩塩を砕いて利用しました。岩塩には不純物が含まれ、塩化ナトリウム以外の物質が含まれています。そういうところをいくら砕いても塩味にはなりません。まさしく味気がありません。何の役にも立たないのですが、いくらこの世の地獄を見たと言っても、それで味気を持たないなら何とも食えたものではありません。

 

地獄を想像し、あるいは恐れ、身を引き締めることもないようなものは塩気がないために食べても味のないつまらないものとなります。地獄を教えられても、それを聞き流すだけ、あるいは無視するだけ。そういう人は結局、塩味のない食べ物と同様と言うことになります。

 

では、塩が塩気を失えばどうするか。そのような塩は捨てられるだけですが、もうひとつの方法は自分の内に塩を持つことだと言われます。この塩とは何なのでしょうか。地獄と言う火で塩味をつけられない場合どうするか。そのままでは煮ても焼いても食えない状態、つまり何の役にも立たない状態です。しかし、塩を内に持つことができます。

 

【塩の役割】

その場合の塩とは何か。旧約聖書を思い起こします。レビ記2:13「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」神は日々穀物のささげものをささげることを命じられます。ささげものは献身のしるしです。それは動物の犠牲だけではありません。ささげるのは祭司ですが、それは民の代表として行なう行為です。そして、このささげものには塩を加えなければなりませんでした。

 

 塩はむろん保存用に用いられるのですが、そのような実用以上の目的がありました。それは神との契約を示す役割です。イスラエルの民は穀物に塩を混ぜた供え物をささげて、神との契約を確認しました。契約は、神がイスラエルの神、イスラエルは神の民であると言う契約です。こうしてイスラエルは神から特別の民とされ、憐れみと救いの対象とされます。塩はこの神の契約のしるしでした。

 

塩は契約の神に対する信仰を示します。神こそ契約を締結して私たちを贖われる。この塩を内に持つとは契約の確かさを真実に信じる信仰に他なりません。

 契約の民であることの自覚は、互いに平和であることに結びつきます。イエス・キリストの12人の弟子たちの間に亀裂が生じそうでした。キリストはそれを察知して、弟子たちに、まことのささげものの塩を持ち、互いに契約の民と自覚して、互いに一致せよと命じられていると受け取ることができると思います。(おわり)

2015年08月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年8月9日説教「本当の味方はだれか」金田幸男牧師

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説教「わたしの味方」

 

聖書 マルコによる福音書9章38-41

38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。

39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。

40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。

41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。

 

要旨

 イエス・キリストは弟子だけを集めて、ぐるりと取り囲んでいる彼らの中に座して教えられます。ただ一方的に話をされるだけではなく、意見を聞き、質問に答えられました。その一つがここに記されています。

 

【使徒ヨハネ】

それはヨハネの言葉です。マルコ福音書で、ヨハネが単独で語っているところはここだけです。ただし、彼は「私たち」という言葉を使っています。ヨハネが語っていますが、他の弟子たちを代弁しているといってよいでしょう。ただヨハネが代表して語ったことには意味があると思われます。

 

【あなたの名を使って悪霊を追い出す者

 ヨハネの意見は、イエス・キリストの名を用いて悪霊を追い出しているものがいるが、止めさせた、というものです。この当の悪霊を追い出している人物がどういう人なのかここからは分かりません。イエスの名を用いるとはイエスの権威によって行う行為に他なりません。

 

この人は12人の弟子たちとは違う人物です。しかし、イエスの名を用いるからにはイエスのことをそれだけよく知っていたことを示します。悪霊追放は医療行為のようにも見られていました。この人物はそういうところから医師のような働きをしていたのかもしれません。イエスの名を用いるとたいへん効果的であることを学んでいたのです。営利事業のようにしていたかもしれません。彼が広い意味でのキリストの弟子団に属していたかどうか分かりませんが、可能性は高いと思います。

 

 12弟子はこの人物を不快に思っていたことは確実です。その理由はいろいろと推測できます。ヨハネはそうでありませんでしたが、他の弟子たちは、てんかん症状を引き起こす悪霊を追い出すことに失敗していました。ところが12人の弟子でもない人が悪霊を追い出している。失敗ばかりしていると成功している人をねたましく思うものです。12人の弟子ではない、いわば格が低いものが悪霊を追い出すという奇跡を行うことができる、それはなかなか理解できないことでありました。したがって意識しないまま、弟子たちはやめさせた。つまり、悪霊追放を妨害することになります。

 

【悪霊追放の権能】

第二に、悪霊追放は特別な権能です。弟子たちはそれを授けられました。ところが、その権能行使に関してはあまり交遊もない人物が悪霊を追い出しています。これは弟子たちの持っている特権を害することになる。弟子たちにして見ればけしからぬことに思われたはずです。自分たちだけに許されている悪霊追放を実行している。これは特権を侵害するものと考えられます。そして、弟子たちのエリート意識を叩き壊すことになります。神の国が完成するとき、その国で弟子たちは特別な地位を獲得するでしょう。弟子たちにしてみれば、イエスの名で悪霊を追い出すこの人物は12人の弟子たちの自尊心を傷つけるものであったはずです。

 

 キリストの弟子たちの心理状態はもっと分析することが出来るでしょうが、とにかくその行動を阻止しなければならないと思ったことは確実です。ヨハネが登場するのはこのためであったと思います。ヨハネはボアネルゲス(雷の子)と呼ばれていました(マルコ3:17)。推測に過ぎませんが、ヨハネは大きな声の持ち主であったかもしれません。ヨハネが大声でその悪霊を追い出している人の行動を止めさせたこともありえます。大きな声はそれだけで威嚇になります。

 

【わたしの名で力あるわざを行いながら、わたしをそしることはできない】

 ところがイエス・キリストの言葉は意外なものです。まず止めさせるな、と言われます。イエスの名で悪霊を追い出して成功しているなら、奇跡を行った直後にキリストの悪口は言えまいといわれます。キリストの名によって悪霊を追い出しています。悪霊追放はキリストの権威に基づきます。奇跡を行った直後にそのイエスの悪口を言うと、先に行った奇跡は信用されなくなります。イエスの名で、その権威で奇跡を行ったのですから。

 

【わたしの味方とは】

 そして、キリストは、「わたしに逆らわないものは、わたしの味方である」といわれます。普通、キリストに敵対するものは敵である。これはそのとおりです。敵味方を明確にしたがるのが私たちです。敵か味方か、はっきりしたいのです。すると、イエス・キリストに反対はしない、ただ、傍観者の立場にいるだけ。こういうあいまい態度表明をする人をどうするか。しばしばそういう人たちを敵扱いすることが多いのではないでしょうか。キリストに逆らわないけれども、態度を曖昧にしたままとか、一定の距離を保ったままにする人を敵対するものと同類にします。そういう人は卑怯者、あるいは、信念に欠ける人物扱いするというようなこともおきます。

 

 キリストに対して何らかの事情もあって明確に態度を示せない場合も多々あります。しかし、それでキリストを否定しているのでもありません。キリスト教信仰を嫌悪したり、敵意を持って眺めているのでもありません。そういう人たちはキリストに逆らっているのではありません。キリストは大胆にもそういう人たちはわたしの味方であると断言されます。

 

 いわば中立の人もいます。あるいは中間を好む人もいます。しかし、キリストは彼らを敵だとは言われません。むしろ、味方なのだ。

 私たちはともすれば教会員とは味方であるが、そうでない教会の外の人たちを敵対者と見なす傾向にあるのではないでしょうか。欧米では一応キリスト教国となっています。生後あまり時間の経たない内に洗礼を受けます。こういうところでは、信仰を明確に告白していない人も当然キリスト者扱いです。信仰があるかないか判断することができません。それでもその人たちはキリスト者扱いです。翻って日本では、明確な信仰的な態度が表明できなければならないという先入観があり、明確に信仰を持っていない人はキリストの弟子団の外にあるかのような扱いを受けます。そして、神の国から疎外されているかのようです。

 

【わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方】

 罪人を救うのは神の主権です。誰を救うか神の御心にあります。だから、私たちが勝手にキリストをはっきりと信じて、信仰の態度を明らかにしない人はみな「非」信者であって、救いからはるかに遠いと見なされます。それが信者の家族でも同じです。信仰を告白していなければ教会の外に放り出されているものたちという観念と結びつきます。しかし、キリストは、キリストに敵対しない人、その中には中立を決め込む人もいるでしょう。傍観者の立場のままでいる人もいます。態度を表明しないままの人もいます。キリストはそういう人もキリストの味方であると言われます。はっきり信仰を告白していなくても、キリストに対して好意的な人はたくさんいます。そういう人をキリストはわたしの味方なのだといわれます。家族、伴侶、友人知人、地域の住民・・・そういう人に中にはキリスト教に対して反対をしないという人も多くいます。キリストはそういう人をどうご覧になっているのか。少なくともキリストの敵だとはされていません。

 

 確かに信仰を明確に表明しないし、洗礼を受けることもしない、そういう人は周囲にたくさんいます。私たちは少数派ですから周囲はすべて異教徒です。異教徒だから私たちはいつも敵対すべきなのでしょうか。少なくとも敵と見なすべきなのでしょうか。そうではありません。

 

 キリストに対して明確に敵対しない人をキリストは味方であると認められたこの原則は今日こそ大いに適用されるべきなのです。

 

【弟子に、水一杯を飲ませるものの報いは大きい】

 キリストはもうひとつの言葉を与えられます。キリストの弟子という理由で、キリストの弟子に水一杯を飲ませるものに大きな報いがある。のどが極度に渇いているとき水を与えられることは大きな感激です。しかし、実は水一杯のもてなしほど小さな行為はありません。イスラエルの人々にとって、宿を提供すること、食事を整えることこそ大きな美徳とされていました。水一杯などささやかな親切でしかありません。ローマ帝国下でキリスト者が迫害されているとき、キリスト教に好意的だというそれだけの理由で逮捕されたり、投獄されたりしました。キリスト者とは関わりを持たないということが賢明な策であったかもしれません。しかし、人目を忍んでキリスト者に水一杯だけを与える。これは最小限の親切でした。キリストはこのような親切に対して報いを与えると宣言されます。報いは小さなものではありません。神が報われるのです。それは素晴らしい祝福そのものを含むでしょう。キリスト教はときに迫害されます。そのようなとき、キリスト者は萎縮してしまい、孤立するということがおきます。誰をも信頼せず、ひたすら嵐が収まるのを待つ。このような接し方をする場合が多いと思われます。

 

【キリストへの善意から】

 しかし、私たちはこの世でも、同じような経験をします。周囲はすべて敵対するものばかりです。そのような中で、私たちはどうするべきか。

 周囲はすべて敵だと決め付けるような態度は正当ではないと思われます。冷たい水一杯だけですが、それでも親切心から出る好意を示されます。たかが水一杯と考えるべきでしょうか。そうではなく、そのような行動の背後にあるものを見なければなりません。それはキリスト者への、すなわちキリストへの善意です。私たちは緊急事態のときでも、困難なときでも、そこに人々」の助けを受けることになります。彼らは敵ではありません。敵ではないものは味方なのです。敵ではない態度、言動を示す人たちを私たちはキリスト者ではないから切り捨てたいと思うこともあります。けれども彼らは神から報いを受けています。神の報いは小さなものではありません。

 

 味方であれば、無理やりに敵意を示す必要もありません。キリストの味方である以上は、彼らを神がよく扱い、ついには神の救いの恵みにあずかるように祈っていかなければなりません。それこそ、彼らの心が開かれるきっかけとなるでしょう。(おわり)

2015年08月09日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年8月2日説教「誰がいちばん偉いのか」金田幸男牧師


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 マルコによる福音書9章30~38節

説教「誰が一番偉いのか」

聖書 マルコ9章30-37

 

要旨 新共同訳聖書では、9章30-32と33-37はふたつの部分に分けられていますが、相互に関連するものとしてまとめて取り扱いたいと思います。

 

イエス・キリスト一行はそこを去ったとありますが、14-29節がフィリポ・カイサリア地方で起きたことでありますと、一行は南のほうに下り、ガリラヤ地方のカファルナウムに至ったと考えられます。そこでは家に着いたとありますが、いつもカファルナウムではペトロの家を用いていたと思われます。

 

【弟子たちにだけ語るイエス】

30節では人に気づかれるのを好まなかったとあります。以前は公然と群衆を相手に語っておられましたが、このたびはそのような人々を避けられます。なぜこんなことをされたのか。ひとつは働きの範囲をガリラヤからエルサレムに移すため、ガリラヤでの働きにピリオドを打つためであったと考えられますが、その他にも目的があったと思われます。キリストは31節では弟子たちにだけ語られ、33節では家の中で、つまり群衆を避けて、弟子たちだけを集めて教えを語られます。

 

35節にある、弟子たちとをぐるりと座らせ、ご自身が彼らの前に座る光景は当時の教師が弟子を教えるスタイルそのものでした。キリストは腰を据えて弟子たちに特別に教えようとしておられます。ではこんなことをしてまでもう一度弟子たちを一から教えようとされたのでしょうか。

 

弟子たちに、人の子=メシヤは苦難を受け、死に、しかし、復活すると二度も語られています(8:31)。同じことを二度繰り返すのは強調のためという場合があります。ここは強調とは思えません。むしろ、弟子たちの無理解が原因であったと思います。キリストは肝心要のことを語ろうとしています。

 

ところが最初のときもペトロがそのようなメシヤをまったく拒否する態度を示し、そのためキリストから厳しい叱責を受けます。弟子たちは二回目のキリストの言葉を聞かされました。

 

8:31と9:31の違いは若干記されます。9;31では長老、律法学者、祭司長から排斥を受けるとありますが、彼らは最高法院=サンフェドリンを構成します。最高法院はユダヤ人の宗教問題について裁判権を持っていました。ここでは「渡される」とあります。誰が渡すのか明記されていません。当然、キリストを渡したのはイスカリオテのユダでしたが、ユダというよりも神ご自身がキリストを渡されたのだという解釈もあります。これは興味深い理解です。

 

キリストの苦難は最高法院が裁判を行い、あるいは裏切ったものが神殿警察に身柄を引き渡したことを意味しますが、実はそうされたのは神であり、キリストは無実であるのに裁判にかけられ、処刑される。あるいは、死に渡される。それはキリストの苦難が神の計画の実現に他ならないことを示します。

 

【弟子たちはメシヤの苦難と復活の意味が怖くて尋ねられない】

弟子たちは再度キリストからメシヤの苦難と復活を語られるのですが、今回はその意味を尋ねることが出来ませんでした。その理由は怖かったからだと記されます。

 

分からないことは尋ねよ、は解決の秘訣ですけれども、弟子たちは恐れから聞けなかったのです。聞けないのは、彼らがメシヤについて今まで教えられ、信じてきたことをひっくり返される不安を感じたからだと思われます。ユダの人々にとってメシヤの期待は民族の希望であり、信仰であり、確信でした。それがひっくり返らされようとしています。イエスのいう人の子=メシヤは彼らが思ってきたメシヤと違っていたのです。さらに、弟子たちの間に亀裂があったのではないかと推測します。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人は主の栄光を垣間見ました。誰にも語るなと命じられていましたが、何かあったと他の弟子たちは思ったはずです。そして、残りの9人は悪霊を追い出すことが出来ませんでした。これは失策です。弟子たちの間にふたつのグループが出来そうです。それは分裂の兆しです。

 

弟子たちには信仰的不十分さが見られます。長い間キリストと行動を共にしながら理解は不十分、こういうことは起こりえます。私たちの教会も肝心の信仰の中心が曖昧になったり、分裂が起きたりします。危機的状況と言ってもよいでしょう。そのときどうしたらいいのでしょうか。いろいろ知恵を集めてあれでもないこれでもないと議論をしても始まりません。世間の知恵を借りて問題解決を図ろうとします。その道の専門家から忠告を聞こうとします。しかし、全然解決しないのです。

 

【キリストに聞く】

イエス・キリストはどういう方法を取られたでしょうか。弟子たちを集めて直接教えられました。問題を解決する方策はキリストに聞くことです。それ以外に方法はありません。私たちはいろいろの声に耳を傾けるべきでありますが、それは決定的な方向を示される道ではありません。困難なとき、惑うとき、悩むとき、私たちはキリストに答を見い出すべきです。聖書にはキリストのみ言葉が記されます。だから、聖書に聞き、答を求めるのです。この世の人々が言うような解決策ではないかもしれません。でも、そこにキリストの意志が示されます。それが最も正しい道なのです。

 

 弟子たちは議論をしていたのでキリストは尋ねられたとあります(33)。メシヤの苦難と復活については問うことが出来ませんでした。しかし、メシヤが来るとき神の国が完成するという信仰は弟子たちの共通の信仰でした。神の国は神の直接的な支配を意味します。弟子たちはそのような国が現実に成就すると信じていたのです。もっといいますと、弟子たちにとっては、神の国はローマ帝国のようなユダを圧迫する国家を打ち倒すことで成立し、ローマ帝国のような強国を打倒する現実の国家なのです。

 

神の国は弟子たちにとっては夢幻の国家ではなく、現実に存在する新しい国家そのものでした。むろん、神の国についてさまざまな考え方がありましたが、弟子たちがそこで高い地位を得られると言う望みを抱いていました。ところが弟子たちの中で3人組とその他の弟子たちの間で亀裂が生じ、神の国が完成したとき誰が一番高い地位につくかと議論を始めたと考えられます。

 

【間違ったメシヤ理解】

根本にはメシヤについての理解に間違いがあります。弟子たちはキリストから再度メシヤの苦難と復活を教えられましたが、受けいれられず、固執していました。それだけではなく、その国で高い地位に付くのは誰か議論をしていたのです。キリストは弟子たちの不十分さを叱り付けられていません。むしろ、神の国で一番偉いのは誰かということを教えられます。

 

【神の国では一番えらいものとは】

 キリストの教えは、一番えらくなりたいと思うものは仕えるものとなれというものであり、そのためにキリストは子どもを彼らの前に連れ出されます。この子どもはペトロの家のものかもしれません。ある注解書によると、アラム語では子どもと召使は同じ語であるそうなのですが、そうであればキリストが子どもをみんなの真ん中の立たせたのはどういうことか分かります。

 一番えらいものは誰か。一番先に立つもの、先頭を切るものは誰か。それは一番あとのもの、身分が低いものだと言うことになります。仕えるものとは、召使、奴隷のことです。当時の社会では身分の違いは決定的でした。ところが神の国が来たとき起こることは何か。それは普通に考えられているのとはまったく違う事態なのです。神の国では一番えらいものとは召使のように人に仕えるものだ。

 

 一番えらいものは最高の召使、奴隷なのだと言われます。つまり、神の国で実行される原則は、この世界とは逆なのです。子どもは古代ローマ社会では価値のないものとされていました。父親は嬰児を殺害する権利を持っていましたし、成長した子どもを奴隷として売り払うことも認められていました。子どもが権利を認められる、いえ、それ以上に人格を認められるようになったにはほんの数百年までで、それまでは子どもの権利などまったく認められていませんでした。キリストはそのような子どものようなものが神の国では権威があるとされています。

 

 そして、教会はその神の国の予表です。教会は予め完成された神の国を示します。ですから教会は神の国で通用する原則が生きているところです。教会では最高の地位あるものは一番へりくだっているものです。

 

 教会で、上に立つものが権力を振るうということがよく起きます。物理的な力、暴力さえときに用いられます。しかし、教会が神の国を予め示すものであれば、その教会は神の国で通用する原則に生きているところといえます。

 

 神の国の主はキリストです。そのキリストは、神の子でありながら、その栄光をかなぐり捨てて人となり、それどころか私たちのためにご自身を犠牲にされました。それはしもべの姿でした。キリストは最高に仕えるものとなられました。キリストこそ模範です。

 

 キリストのなされたことはこの世界の知恵とはまったく逆です。この世界では力を持つものが上に立ちます。政治的権力を握るもの、金の力を掌握するもの、ときには伝統とか技量とかを振るって上に立とうとします。地位とか学歴もときには上に立つための条件とされます。能力のあるものがもてはやされ、上に立つものと見なされます。キリストはそうではないと宣言されます。

 

 キリストの言われていることは理解はできます。ただ実践できるかと言われるとそうではありません。この世界のただなかに生きている私たちは、キリストの弟子たち同様、この世の原則や価値観で行動します。キリストの教えと齟齬を来たします。それが当然です。神の国の原理はこの世と異なります。私たちは神の国の原則に立つときこそ、神に受け入れられます。

 

子ども=価値がないと思われているものを受け入れる、それはキリストの教えを受け入れることです。キリストを受け入れるものには神を受け入れることになります。神を受け入れることこそ、神に受け入れられる条件となります。キリストの弟子たちは、このようにして正しい道を歩むことが出来るようになるのです。(おわり)

2015年08月02日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年7月26日説教「信じるものは何でもできる」金田幸男牧師

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聖書:ルコによる福音書9章
14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
16 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、
17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。
18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。
21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。

2015年07月26日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年7月19日説教「苦しみを受ける救い主」金田幸男牧師

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説教「苦しみを受ける救い主」

聖書 マルコ福音書9章9-13


9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」


 

要旨

【このことはしゃべるな】

 おそらくヘルモン山だと思われますが、そこで、キリストは栄光の姿に変えられました。その山から降りてくるとき、キリストは誰にもこのことはしゃべるなと命じられます。ただし、それは条件がついています。人の子=メシヤが死者の中から復活するまでは誰にも言うな、と言われました。

 

キリストは復活した後はそれを明らかにしなければならないのです。なぜしゃべるなと言われたのか。それは復活までに他の人に語られると誤解を生じるからです。特に山上での変貌が予示するキリストの復活について間違った情報が伝えられかねない、これが禁止理由であったと思います。

 

【復活とは何か、弟子たちの議論】

事実、弟子たちは、キリストが復活するまで誰にも話すなといわれましたが、早速復活について議論を始めています。キリストが言う復活とは何か。

 

 今日でも復活についてはさまざまな見解が流布しています。

 

一番多いのは、復活などありえないと言う立場ではないでしょうか。聖書に書かれてあることで一番信じがたいのはこの死人の復活です。死者がよみがえるということを頭から否定する人が圧倒的に多いことでしょう。

 

あるいはキリストは仮死状態であった、その後蘇生をしたのだが弟子たちはそれを復活と勘違いしたのだというものもあります。

 

また、復活は弟子たちの精神が異常な状態になっていたときの幻視、あるいは思い込みだという説もあります。見なかったものを見たと妄想しているのだともいわれます。

 

現代ではどういうふうに信じられているか。キリストの最初の弟子たちが復活を信じたことは確かとされます。彼らはキリストの裁判、十字架上の処刑のとき、逃げてしまいました。ところが、その後弟子たちは命がけでキリストの復活を語り始めます。初代の教会がキリストの復活を信じたことは紛れもない事実です。それは確実だが、実際に復活があったかどうかはもう誰も証明できない。これが多くのキリスト教研究の専門家の結論です。これ以外にも復活に関してさまざまな見解があります。

 

弟子たちはキリストから「復活」という言葉を聞きましたが、その意味するところが理解できません。復活については当時既にいろいろな説がありました。弟子たちもどれが復活なのか分かっていなかったのです。それで互いに論じ合うのですが、ついに師であるイエス・キリストに質問をします。

 

【復活とはエリヤが再来する?】

律法学者はエリヤが来ると言っていますが・・・この質問と復活とどう関係するのだろうかと思われる方もいるでしょう。関係ない事柄だと思われても仕方がありません。しかし、エリヤに関する質問は復活をめぐる問いかけでもありました。律法学者の多くはファリサイ派に属していましたが、このファリサイ派が復活を信じていたことで知られています。使徒言行録23:8では、パウロは裁判の席につけられますが、そのとき、彼はサドカイ派が復活はないと主張し、ファリサイ派は復活はあるという立場で対立していることを見抜き、両者を対立させて、彼の見解に同調させようとします。律法学者の大半はファリサイ派に属していました。ですから、ここで挙げられている律法学者は復活を信じていたものと推測できますが、エリヤが来ると主張していたのは、ただ、恐るべき日の到来に先立ってエリヤが再来するという、マラキ3:23の預言を受け入れていたというだけではありません。

 

おそらく、律法学者は、エリヤの再来こそ復活だと主張していたのです。つまり、復活とはエリヤの再来に示されているというのです。

 

エリヤは列王記下2:11によれば、火の戦車に乗って天に挙げられたとあります。エリヤは向こうの世界、つまり、彼岸と言われているところに死を見ることなく送られたとされていますが、エリヤは生きているものから見れば別の世界にいました。ところが、エリヤは天に挙げられた者たちの中から戻ってくるとされていたのです。マラキの預言はそのようにしか読み取れないとされています。エリヤは死なない。そして、元の世界に戻ってくる。これが復活だとされたのです。

 

死を見ない。今日では形は少し違いますが、霊魂は死なない、不滅である。復活とはこの霊の再生に過ぎないとされます。死なない霊魂が戻ってくる。それが復活だ、こういう主張はのちの教会にも侵入してきます。グノーシスという立場は肉体は穢れている、肉体が復活するはずなどない。復活するのは霊魂だというのです。

 

【霊媒、口寄せの類の厳禁】

聖書は生きているものと死者の間を峻別します。その間に交流はあってはならないとされます。その証拠が霊媒、口寄せの類の厳禁です。律法はそれらを厳禁しています(申命記18:11)。この禁を破ったサウル王は悲惨な最期を遂げます。彼は王として解決できない問題に直面し、既に死んでいるサムエルの霊を呼び出そうとします。それはしてはならないことでした(サムエル記下28章)。ここから明らかになるのは、死んだものと生きているものは交流できないことです。

 

むろん、死者が生きているものと関わるような実例は今日でもあるかもしれません。そういう不可解な現象がないと断定はできません。合理的に説明できないことも多々あります。死者の亡霊と生きているものが出会って対話するような事例もあるでしょう。そういうことは一切ないとはいえないと思います。しかし、そういうことがあろうとも、神はそれを厳禁されています。死(者)の世界は生きているものの世界とは隔絶してしまっています。ところがサウル王はそれを超えてしまったのです。

 

 エリヤが戻ってくるのであれば、死者の世界から現世へ戻ってくることを意味します。エリヤは死ぬことなく天に挙げられたとはいえ、現世にいたわけではありません。そもそも、エリヤは戻ってくることができるのでしょうか。ここをよく読めば、主イエスはエリヤの再来を復活などと肯定されているのではありません。つまり、律法学者のいう復活をキリストは認めておられるのではありません。ただし、エリヤが来ることをキリストは認めておられます。マラキの預言は成就しなければならないのです。マラキは終わりの日にエリヤは来ると語りましたが、その預言はむなしくなることはありません。マタイ11:14では、イエス・キリストご自身、洗礼者ヨハネがエリヤだといわれています。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼が現れるはずのエリヤである。」

 

しかし、キリストは、では洗礼者ヨハネがエリヤの生まれ変わりだとか、あるいは変身をしたものだとか言われているのでは決してありません。そういうことを復活というのではありません。天上にいる、死ななかったエリヤが戻ってくることを復活とは言いません。あるいは生まれ変わりでもありません。輪廻転生というような思想はここでまったく関係がありません。洗礼者ヨハネがエリヤだという場合、決して、エリヤとヨハネが同一人物だというのではありません。天にいるものが現世に戻ってくることを復活とは言わないのです。

 

【洗礼者ヨハネがエリヤの再来とは】

では洗礼者ヨハネがエリヤの再来と言われるのはどうしてでしょうか。列王記上17章以下でエリヤの活躍が記されていますが、エリヤが相手にしたのはイスラエルの王アハブとその妃イゼベルでした。特にイゼベルはイスラエルにバアル礼拝を導入しようとします。エリヤはこのようなイゼベルの行動を強く反対したのです。夫のアハブはその間で動揺します。エリヤはイスラエル王を厳しく批判をします。ヨハネはこのような統治者に批判者である点では共通します。彼はヘロデ・アグリッパとその妻となったヘロデヤを激しく攻撃します。そのためについにヨハネは捕らえられ、首を切られてしまいます。エリヤとヨハネの共通点はイスラエルに悔い改めを求めたことです。それは、来るべき救い主、メシヤの到来の備えをするためでした。エリヤが来て、すべてを元通りにするとはこのことを指しています。

 

 エリヤとヨハネは使命において共通しています。エリヤはイスラエルに反省と悔い改めを求めましたが、その使命を再度行うものは洗礼者ヨハネでありました。ヨハネは決してエリヤの再生、生まれ変わりなどではありません。両者は別人です。ただ、使命において共通している。エリヤがしようとしたことをヨハネは繰り返します。マラキの預言とはこのヨハネの働きにおいて実現されるのです。

 

 では、キリストの復活とは何か。誰かの再生、転生ではありません。あるいは死を経験しなかったものの再来ではありません。キリストは確かに死んだのです。

 

【死に対する勝利者はキリストのみ】

 死んだものは二度と生き返ることはありません。死はそれほど厳粛なものです。しかし、キリストは復活したのです。死人の中からキリストはよみがえったのです。

 復活とはただ生き返るというのではなく、死に対する勝利です。

 

 その死もまた単なる自然死ではありません。苦しみを受けて死ぬ死です。その苦しみは意味があります。キリストは身代わりとなって死んだ犠牲の死です。この死からキリストはよみがえられたのであって、単なる蘇生でもなく、生き返りでもありません。

 

 死を克服し、死に勝利する方はキリストだけです。

 弟子たちは未だこの時点では復活を正しく受け止めていませんでした。当時の専門家の言うところを聞いてはいますが、それを十分理解できていたのでもなかったのです。だから議論をするだけで結論を出せませんでした。復活とは何か。しかし、まもなくその目でキリストの復活を目撃することになります。復活とは何かが分かります。それは単なる蘇生でもなく、誰かの転生、再来でもなく、復活は死に対する勝利、その征服でありました。

 

 この復活は単なる魂の(不滅)復活ではありません。それはからだの復活でした。復活はからだのよみがえりです。キリストを信じるものはこの復活にあずかることができる。これが確固たるキリスト教信仰です。疑い得ない信心なのです。

 

2015年07月19日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年7月12日説教「イエス、山上の変貌」金田幸男牧師

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聖書:新約聖書
マルコによる福音書9章
2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。


説教「山上のイエスの変貌」

マルコ9:2-8

 

要旨  

【六日ののち】

六日ののち、イエス・キリストは12人の弟子のうち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを選んで高い山に登られました。先ず、六日とはいつからか明示されていません。また、高い山がどの山かも記されていません。キリストが主としてみわざを行われたガリラヤ湖周辺であるとすれば、エスドラエロン平原からよく見えるタボル山であろうと推測する注解者がいます。タボル山は533メートル。これで高い山と言えるかという疑問が生じます。そこで、この高い山はこの地方の最高峰、ヘルモン山だと考える人もいます。

 

ヘルモン山は2814メートルですからかなり高い山と言うことになります。ヘルモン山の麓にフィリポ・カイサリアの町が建設されていました。フィリポ・カイサリア地方で、ペトロがイエスを指して「あなたはメシアです」と告白をしました。キリスト一行がフィリポ・カイサリア近辺におられて、ペトロの驚くべき告白から数えて6日後と解釈することができます。すると、キリスト一行4人は6日間かけてヘルモン山に登られたと受け止めることができます。6日もあればヘルモン山のいただき近くまで十分に行くことができます。そこは人が殆どいない場所であったと考えてよいでしょう。キリストは誰も見ることのない人里離れた山中でその姿が変わるという大きなみわざをなさったのです。

 

【山上の変貌】

 ここに記されている記事は山上の変貌と言われます。キリストはその前に、人の子―メシアは苦難を受ける。つまり、ユダヤ人の最高議会によってさばかれ、有罪とされ、処刑されるとメシアの運命を予告されました。同時にキリストはメシアが復活すると明言されます。

 

復活は単なる蘇生ではありません。仮死状態から息を吹き返すというのは復活ではありません。復活は死人の復活であり、死に対する勝利を意味します。それはまた、死をもたらす罪を帳消しにし、赦しと贖いの結果でもあります。このような復活は普通の人間が経験するものではありません。それは神の力を持つもの、それ以上に神の性質と働きを併せ持つ方そのものを指しています。

 

つまり、変貌するキリストは神の栄光の輝きを照らし出し、神ご自身であることを告知されるのです。変貌は単に姿かたちが変化したと言うのではなく、キリストの本質が明らかにされたと言うことを示しています。復活するメシヤはどういう方か明らかにされます。その姿を見て弟子たちはしっかりしたメシヤ観を持たなければなりませんでした。特にペトロが問題でした。彼はメシヤが受難すると言うことを受け入れられませんでした。それでは栄光に満たされたメシヤを理解し、受け入れることができるかどうか。それはのちに分かります。

 

 山上の変貌は、キリストの栄光を垣間見させます。まだ、完全に現される時は来ていません。キリストはゴルゴタの丘で十字架にかけられますが、そののち三日して墓からよみがえられました。それは神の栄光の御子を指し示しています。山上の変貌は栄光のキリストが一瞬ご自分を現された事件、出来事なのです。

 

【光り輝くキリスト】

 キリストは真っ白に輝かれます。その白さはどんな職人に布をさらして白くすることが出来ないほどの白さであったとされています。白は清さを表します。キリストはあらゆる罪とは切り離され、罪を一切担わないお方です。ここでキリストは単に白い衣を着ているのではなく、また白く変化した着物を着ていたというのではありません。内から強烈な光が上着を刺し貫いているのです。そのためにキリストは白く輝いているように見えたと言う意味でしょう。それほどまでキリストは光となっておられます。キリストは光の光、光の主となられています。光は神の栄光を啓示しています。

 

神はしばしば光り輝く方と表現されます。神は見ることは出来ません。しかし、その臨在は光において知ることができます。キリストは神の栄光の輝きによってご自身が神であることを明白に現されます。キリストが神であることを明瞭に語る、そのゆえにこの記事はとてつもなく重大です。

 

 しかし、ここに記されていることは現実にありえないと思う人が圧倒的多数だと思います。聖書を読む人が単純にここに書かれてあることを受け入れるわけがありません。聖書は宗教書だから、奇跡など信じがたいことが書かれる。しかしそれは事実ではない。たいていの人はそう思います。ここに記されていることが作り話ではないとしても幻想、幻視の類なのだと考える人もいます。とにかくありえない、そういう印象を抱かれます。

 

【三人の弟子たちの証言】

 ふたつの理由で、この山上の変貌は事実であったと認めなければなりません。第一は三人の弟子たちの存在です。聖書が書かれた時代、ユダヤ人社会では二人以上の証人の証言は何よりも確実な証拠でした。今日では物的証拠という客観的、科学的な証拠の方が証拠能力があるとみなされますが、古代では逆です。人間の証言ほど確実なものはないとされていました。三人の弟子たちが選ばれたのは彼らが確実な証人となるためでした。

 

【キリストは神ご自身であること】

第二に、キリストはこの変貌によって神の力を持つ神的な人物、それ以上に神ご自身であることを証言されます。キリストが神の栄光をあらわすということは決して見過ごしにしてはならない真実です。これは事実でなければ、キリストが神の御子であることをあいまいにしてしまいます。山上の変貌が事実であれば、キリストは神の栄光を担う大いなるメシヤ、救い主であられます。

 

【エリヤとモーセ】

 この場面にエリヤとモーセが登場します。エリヤについては旧約聖書列王記上17章以下に登場します。しかし、ここで重要なのはマラキ3:23の預言です。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」エリヤは火の車に乗って姿を消しますが(列王記下2:11)、終わりの日に再来すると信じられていました。エリヤは死ぬことなく天に挙げられた稀有な存在です。それゆえにエリヤは再来すると信じられたのです。その信仰はキリストの時代に人々の心を捉えていました。モーセもまた終わりの日に現れて、第2の出エジプトを敢行させる、つまりイスラエルを再度救済されると信じられていました。このことは明確に旧約聖書には記されていません。モーセは確かに死んでいます(申命記34:5)。モーセは自分のような預言者が立てられると語っていました(申命記18:15)。モーセのような人物が再来する。特にモーセは出エジプトの立役者でした。モーセがしたような救済のわざを神は行われる。そのような信仰が人々を捉えていました。

 

【終わりの日】

 エリヤとモーセの登場は、終わりの日の接近を語ります。間もなく終わりが来る。かれらの出現はそれを示します。ということはキリスト・イエスのみわざの完成も近いという意味でもあります。終わりの日とは恐るべき審判の日でもあります。しかし、強調すべきは救いの完成でしょう。

 

 ペトロの言動が続きます。彼は3人が話し合っているところに介入したとあります。口を挟むなどということは出来るような人たちではありませんでした。どうしてそこにいた人物がエリヤ、モーセだと分かったか記されていません。ペトロには面識などなかったわけですが、それ以上の大きな問題は、この二人は旧約を代表する偉大な人物です。ペトロはのちにはよく知られた大使徒になりますが、それでも、エリヤとモーセは偉大すぎます。こういう人の会話に介入するなどとはありえないことです。その上、彼は、小屋を建てようと提案しています。ここは高い山であって人もいません。この小屋はテントを指しています。雨露をしのぐための家という意味でしょうか。しかし、エリヤとモーセ、それにイエスをとどめておくような施設ではありません。小屋など作ってどうしようと言うのでしょうか。ペトロの言っていることは支離滅裂です。彼はおそらくパニック状態に陥ったのでしょうか。わけの分からないことを口走っています。

 

 しかし、このような場面に居合わせた者は誰でもおそらくペトロと同じようになるのではないでしょうか。ペトロのように何を言っているのか分からない混乱振りを示すだけではないでしょうか。山上の変貌は誰もが見聞しても信じがたい光景であったでしょう。

 

 雲が起こり、そこに居合わせた人たちを覆い隠します。そして、声がありました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」この言葉はキリストの聖霊のときの声に似ています。

 

 ペトロは大混乱を起しました。当然です。このような光景を見たらパニックになるでしょう。ペトロはメシヤは苦難を受けるというイエスの言葉を受け入れることができませんでした。今度は栄光のメシヤを見ても信じがたいというか、わけが分からなくなっています。誰でも同じことです。容易にキリストが神の栄光を担う偉大な救い主であると信じがたいのです。

 

【栄光のメシヤ】

 しかし、天からの声は、キリストに聞け、でした。キリストのみ声に聞くことこそ栄光のメシヤとは誰かを認知する道だというのです。

 私たちが栄光の主と言われてもなかなか理解することが出来ません。しかし、ペトロは徐々にキリストこそ栄光の主であることを知るようになります。時間はまだまだかかりますが、ペトロはキリストとは誰かをはっきりと認識するようになりました。そのためには十字架の主を見、また復活の主を目撃しなければなりませんでした。主イエスから彼は教え続けられます。私たちもキリストのみ言葉を何度も学びながら、キリストとは誰かを学びます。そして、ついに栄光の主がどういう方か明瞭に知ることができるようになっていきます。(おわり)

2015年07月12日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年7月5日説教「イエスに従う者の決意」金田幸男牧師

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説教「イエスに従うものの決意」金田幸男

聖書:マルコ8:34-9:1

 

要旨

【キリストをいさめるペトロ】

 イエス・キリストはペトロから「あなたこそメシヤ・キリスト」という告白を受けました。しかし、キリストはそのことを誰にも話すなと命じられます。キリストはメシヤがユダヤの最高議会で裁判を受け、殺されること、そしてよみがえると予告されます。

 

ペトロはそのようなことはありえないとキリストをいさめます。ここでいさめるとは叱ることです。弟子がその師を叱っているとは。ユダヤ人の期待していた救い主が死ぬはずがないということでしょう。キリストが殺されるなどというのはペトロにはたわごとと聞こえたのです。

 

それはまたキリストを陥れようとする、キリストの贖罪的な死を阻もうとする、サタンの策略でもありました。キリストはそのペトロを厳しく叱りつけます。

 

【34節「それから」】 

34節は「それから」とあり、前の記事と連続しているようですが、主題は異なります。だから、この「それから」は時間的な連続性を示しているのではないと理解したほうがよいと思われます。ただ、まったくつながりがないわけではありません。弟子たちにとってのキリストが苦難を受けるのであれば、その弟子たちもまた苦難を避けることができないという連続性です。

 

【弟子と群衆に語られた】

 キリストは弟子と群衆に語られたと記されます。そこには弟子であるためには過酷な運命が待っているとされています。なぜ弟子だけではなく群集にもこのようなことが語られたのでしょうか。   この場合、将来信者になるはずの人々であるという意味だとされます。しかし、ここはそのような限定は記されていませんし、暗示もありません。そうだとすると、キリストの弟子になろうかと思っているような人々を指して、弟子になることは甘いことではない、よほどの覚悟がなければ弟子になれないと、予め釘をさしているのだと受け止めることも出来ます。生半可な気持ちで弟子にはなれないという警告かもしれません。

 

確かに、キリスト教会はローマ帝国から迫害を受けることになります。その日は近くなっています。キリストは弟子になろうか、あるいはならないか逡巡しているような人を対象に語られたと受け止めることもできます。迫害に耐えられないものは去れ、というのです。

 

【弟子になるふたつの条件】

 確かに一読して、キリストの弟子になることは大変な覚悟が必要です。キリストは弟子になるためにはふたつの条件があるとされます。

 

第一は、自分を捨てるということです。第二は十字架を背負うということです。このふたつはときどき本来の意味を曲げて理解され、誤解されていることがあります。

 

十字架は十字架刑を意味しています。当時のユダヤ人は十字架刑をよく知っていました。それはいくつも種類があるローマの処刑法の一つで、ローマに反抗した政治犯などを処刑する方法で、その残酷さのゆえに最も身分の低い階級の囚人を対象としました。ローマは見せしめのために十字架刑を公衆の面前で執行しました。十字架刑に処せられる囚人は処刑場まで十字架を背負わせられました。ゆえに、十字架を負うとは何か重荷を背負う意味によく取られますが、ここではズバリ死を意味します。ですから「自分を捨てる」とは単に自己主張をしないとか、財産、名誉、地位などを捨てると解釈されますが、ここでは死ぬことを意味しています。つまり、キリストの弟子になることは死を免れないといわれているのです。

 キリストの弟子になるためには重大な決心が求められます。それは死ぬ覚悟でなければなりません。ということを聞いて不安にならない人はいないでしょう。キリスト教を信じたいならば死を覚悟せよ。こういわれてぎくっとしない人はいません。

 

【殉教】

 確かに、キリスト教の歴史は殉教の歴史と言っても過言ではありません。古くはローマ帝国下での猛烈な迫害、日本でも豊臣徳川時代のキリシタン弾圧、キリスト教信仰のゆえに殉教の死を遂げた人は数多くいます。キリストはその弟子になりたいと思うものは殉教者となる決心をしなければならないと言われたのでしょうか。文字通り読めばその通りです。そして、実際信仰のゆえにさまざまな困難を忍ばざるを得ず、中には命を失ったものも珍しくありません。

 

 このようなことを言われて怖気づかない人はいないでしょう。誰も死ぬことは嬉しいことではありません。勇気をもてない人がいても不思議ではありません。誰も死に立ち迎えられるほど信仰が強いわけではありません。死は誰も一度しか経験できません。死を恐れない人もいますが、そんなに死に対して達観できている人は多くありません。死を考えると恐怖心におそわれても少しも不自然ではありません。

 

肉体の死は誰もが薄気味悪く、不安にかられるものです。ですから、キリストが弟子となる条件を示されたとき、誰が耐えることが出来るでしょうか。恐ろしい話です。

 では、キリストは安易に弟子になれないと警告されているのでしょうか。予めキリストは弟子の条件を示して、多くのものが入信することを拒んでおられるのでしょうか。そういうことはあり得ないと思います。

 

【永遠の命が与えられるために】

 確かに、キリスト教信者になることは危険を伴います。苦難を忍ばなければならない場合もあります。苦境の中を生き、ついに命さえ奪われることもありましょう。そういうことをキリストは否定されるのではありません。ただし、だから予め入信者に特別な決意を求めているのでしょうか。そうであれば多くの人たちは立ち止まってせっかく心に決めたこと、つまり、キリストの弟子となることを断念してしまうでしょう。

 

 キリストは自分の命に固執するならば、つまり十字架を背負うことを拒否するならばどうなるかを教えられます。キリストのために、その福音のため、伝道のために命を失うものは、命を得ることになる。逆説的なことを言っているように聞こえますが、肉体的な命、つまりその命でもって、現実に私たちが今生きているのですが、その死ぬべき命ではない、朽ち果てない命が与えられると語られます。肉体の命は死んでいきます。その肉体的生命ではない永遠の命の与えられる局面をキリストは語られます。

 

 その命はいつ与えられるか。むろんキリストを信じるときに与えられるのですが、特に終わりのとき与えられると語られます。

 

 38節は、み言葉を恥じるものについて語られていると理解できますが、これを反対側から見ることも出来ます。み言葉を聞いて受入れ、信じるものは、その日、栄誉を受けるものとされると言われているととることができます。終わりのとき、キリストの弟子として生きているものは大きな栄誉にあずかる。

 

 9:1も理解しにくい文章ですが、神の国は現われるとき、つまり神の国が完成するときを指しています。終わりのとき、キリストが再び聖なる天使と共に下ってこられます。そのときに、死ぬことのない奇跡にあずかるものがいると語られていると理解します。

 

 キリストはここで言われていることは、キリストの弟子として生きるときに与えられる祝福のことです。それは比べるもののない大きな神の幸い、恩寵です。キリストが与えられる幸いを思うならば、それを失うことの損失は計り知れません。キリストは弟子たちにこの幸いを必ず与えられます。この命の代価は考えることができないほどです。それほど壮大で偉大なものです。キリストに従わないで、自分のことばかり考えているものはこの命を失います。つまり神はこの命を与えられません。

 

 キリストはこうして、終わりのときに神を信じ、キリストに従って生きるものの恩寵を確言しておられます。このことは単にあれとこれの比較の問題ではありません。

 

 キリストに従って生きていくことは至難です。死をも覚悟しなければなりません。誰でも死を覚悟して信じることはたやすいことではありません。だからこそためらい、決心がつかないのです。

 

ではどうすれば決心できるのでしょうか。死を覚悟しないと弟子になれないといわれるとたいていの人は二の足を踏みます。当然です。私たちは信仰のゆえに殉教をしなさいと命じられたら躊躇することになるでしょう。当然です。

 

【キリストに従うことで得られる絶大な光】

 しかし、私たちはキリストに従うことで得られる栄光を教えられます。それは、終わりのときに明確になるものです。メシヤ・キリストから誉れを受け、もはや死ぬことのない、新しい命に復活させられます。このことをキリストは約束されています。文章そのものには出てこないのですが、言わずもがなで語られています。

 

 この栄光に比べれば、その他は色褪せるだけです。

 よほどの覚悟をしろといわれるだけでは誰も覚悟など出来ません。死は未経験であるだけ気味が悪いものです。またそれは不安と恐怖をもたらします。しかし、もしもキリストが約束されている絶大な価値のある永遠の命を考慮すれば、私たちは弟子として苦難を受けることの覚悟をすることができるでしょう。

 

 単純にキリストの弟子となることに伴う危険性を考えれば私たちはなかなか決心がつかないでしょう。私たちが求められるのは神の前で恥を受け、命さえ喪失するという負の側面だけを考慮しないことです。それよりも私たちが与えられるであろう幸いの大きさを心に留めることこそ肝心だと思います。そうあってこそ、私たちは恐怖を乗り越え、不安を制御できるようになります。(おわり)

2015年07月05日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月28日説教「死んで復活する救い主」金田幸男牧師

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説教「死んで復活する救い主」金田幸男

聖書 マルコによる福音書31-34

31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、

32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、

33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 

要旨

【あなたこそメシヤです】

 フィリポ・カイサリア地方で福音を宣教している最中にキリストは、人々は自分のことをなんと言っているかと質問をされます。弟子たちは次々に巷間のうわさを報告します。そのあと、キリストは弟子たちに「それではあなた方はわたしのことを何者だと思うのか」と尋ねられます。

 

それに対してペトロが弟子たちを代表して「あなたこそメシヤです」と答えます。メシヤとは油注がれたものを意味していますが、ユダヤ人の間では終わりのときに神の救済事業を特別な力を持って実行するため神に任じられた救済者と信じられていました。ユダヤ人はメシヤの到来を期待している民族です。今もなお、ユダヤ人はメシヤが来ると信じています。ユダヤ教という宗教はその点変わりがありません。

 

しかし、イエス・キリストは、ペトロが言ったことを誰にも話すなと命じられます。そのあとに、31節のみ言葉が語られます。

 

【人の子】

冒頭「人の子」という表現が出ています。福音書においてキリストはご自分を指して人の子と言われます。しかし、私たちはキリストが一人称「わたし」の代わりに「人の子」という表現をされたと考えるべきではありません。

 

人の子は旧約聖書にも出てきます。詩編8篇15「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」ここでは人の子とは人間のことです。エゼキエル書にも人の子は多く出てきます。多くの場合、人の子よ、とエゼキエル自身が呼ばれます。

 

しかし、ダニエル7章13-14では「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」とあり、人の子は神的な栄光と権威をもち、君臨する絶大な権力者、支配者を意味しています。

 

キリストが「人の子」という言葉を用いるときは、このような絶大な権力を掌握し、世界を支配する救済者を念頭に置かれていることは間違いありません。終末のときに来たり、全世界を変革し、統治する救済者が期待されていました。人の子とはこのような神のわざを行う特別な存在とされます。

 

【メシヤ観の修正:メシアの苦難】

 キリストは人の子という表現を用いるとき、超越的存在的な、メシヤを意図されているのは明らかです。弟子たちはあなたこそメシヤであると告白をしましたが、キリストはこの言葉でそれを明確に肯定されたのです。イエスこそユダヤ人が期待してきたメシヤご自身なのです。と同時にキリストは一般にユダヤ人が持っているメシヤ観を修正されます。そのメシヤは苦しまなければならないのです。メシヤはメシヤでもイエス・キリストが明らかにされるメシヤとは苦難の中に置かれるメシヤに他なりません。

 

苦難のメシヤはイザヤ53章に記される苦難のしもべを髣髴させます。イザヤは、神がしもべを立て、そのしもべに苦難を与えられ、そのしもべの苦難は実は民の代わりに受ける苦しみであったと明らかにします。そして、この苦難を引き受けるしもべこそ救済者とされます。

 

ユダヤ人はこの苦難のしもべは個人ではないと解釈しました。それはユダヤ民族そのものだと思ったのです。キリストはそうではなく、この苦難のしもべこそメシヤだと教えられます。

 

【十字架死への言及はまだない】

 メシヤは苦しまなければなりません。キリストは弟子たちにこのことを明らかにされます。苦難について、私たちはここで二つのことを学びます。ひとつは、キリストはメシヤの死を語られますが、十字架の死とはいわれていません。マルコでは3ヶ所メシヤの苦難を予告されます(マルコ31-32,9:30-32、10:32-34)。この3ヶ所ではキリストは十字架に言及されません。どうしてなのか。

 

十字架刑のことはユダヤ人にもよく知られていました。それはローマ帝国の処刑方法のひとつで、最も残酷でローマの身分の高いものには執行されませんでした。ローマに反抗を企てたような政治犯にこの十字架刑は宣告されましたが、その囚人への苛酷な扱いは十字架刑を知る人を震え上がらせるものでした。キリストはこの残忍な処刑法で殺害されるとはまだ言われません。それは弟子たちがそれを知れば躓き、耐えられなくなるからでした。弟子たちの魂のために十字架の上で殺されることをキリストはまだ語られません。弟子たちへの魂の配慮、牧会のためでした。

 

【長老、祭司長、律法学者たちからの排斥】

第二に、キリストは長老、祭司長、律法学者たちから排斥されると言われます。どういう形での排斥か。長老は文字通りユダヤ人のなかの年長者ですが、同時に、世知に長けた民衆の指導者でもありました。彼らは選ばれて最高議会(サンフェドリン)に選ばれます。祭司長は、その議会の議長をすることになっていました。律法学者もまた法律の専門家として最高議会に席を占めていました。つまり、この3者は最高議会の構成員であり、結局のところ、最高議会を意味しています。

 

最高議会はいわゆる民法や刑法だけではなく、宗教関係の裁判も行いました。最高議会は死刑も宣告できましたが、ローマはユダヤを征服しますと、最高議会から死刑執行権を奪ってしまいます。 

 

【メシヤは裁かれる】

例外を除いて、死刑は執行できません。ただ、死刑に値するとローマ総督に訴えることができました。人の子、メシヤは裁判にかけられるということを意味しています。メシヤは裁判を受けなければなりません。無実にもかかわらず有罪宣告を受けます。そして結果は死刑なのです。

 メシヤの苦しみとは、裁判を受け、有罪と宣告され、死刑に値するとされ、そして、殺される(十字架にかけられる)ことを意味していました。

 

 メシヤは苦しむ、しかも十字架の苦しみを受ける。これは重大な発言でした。だからこそペトロは受け入れることが出来なかったのです。

 

【なぜメシアは苦しまれねばならないか】

 メシヤの苦しみは、キリスト教信仰の中核部分です。メシヤは苦しまなければなりません、なぜ苦しむのか。私たちの罪を背負い、私たちに代わって十字架の上で死に、私たちはもはや罰せられることのないようにされたのです。キリストは裁判を受け、無実なのに有罪とされ、そして、処刑されました。それは私たちの罪を引き受けてその刑罰を引き受けてくださったのです。こうして私たちの罪は許されます。帳消しにされます。こんなに喜ばしい出来事はありません。

 

【メシアの復活】

 メシヤは3日後よみがえられます。3日後と言っても72時間後ということではありません。キリストが十字架につけられたのは金曜日の日没前でした。一日の境い目は日没となっています。キリストは日曜の朝復活されました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人・・・この人たちは皆死んで、蘇生したと想像されています。

 

蘇生と復活は異なります。蘇生はまた死ぬ可能性があります。つまり息を吹き返しただけで、また死ぬことになります。エリヤは火の車で天に駆け上って行きました(列王記下2:11)。彼の場合は蘇生、あるいは、再来となりますが、これは復活ではありません。復活は死に対する完全勝利を意味しています。このような復活はキリストの勝利でもあります。

 

復活は単にキリスト個人だけが復活するというのではありません。キリストだけ例外的に復活したと言うのではありません。キリストは私たちをもよみがえらせるためにご自身が先ず復活されました。この点で決定的にキリストの復活は大きな神のみわざといえます。

 

【ユダヤ人のメシヤ理解】

 メシヤは死んで復活する。ユダヤ人は到底こういうことを信じることはできませんでした。彼らのメシヤに対する考え方では、キリストと真正面から衝突していました。ユダヤ人のメシヤ理解はあくまでも世界を改変し、ユダヤ民族を救済する(政治的にも)解放者の役割を期待するものでした。メシヤとは死んでよみがえるものなのだと教えられます。このメシヤの考え方は一般のユダヤ人が心に抱いたメシヤ観と異なります。だからこそペトロも聞き入れることを拒みます。ペトロの持っていたメシヤ観は一般のユダヤ人と異なりません。メシヤは栄光に満たされ、権威、権力を掌握しています。メシヤは苦しむはずがない。これがペトロの考えであったでしょう。

 

【サタンよ、引き下がれ】

 ペトロは、イエスをいさめ始めます。ペトロはイエス・キリストに弟子なのに、それを弁えようとしません。キリストは一喝されます。「サタンよ、引き下がれ」。キリストはペトロのほうを向かず、弟子たちを見ます。これは微妙なキリストの御心の発露だと見ていいのではないでしょうか。確かにいさめたのはペトロです。ペトロ自身が苦難のキリストという観念を受け入れることが出来ませんでした。しかし、サタンはそのような人間の考え方を利用し、キリストに対して敵意をむき出しにします。ペトロの言葉はサタンの常套文句でありました。ペトロは苦難のしもべたるキリストを受け入れることは出来ませんでした。メシヤがそんな惨めな仕方で死ぬはずがない。これがペトロの考えでしたが、サタンはそれを用いて、メシヤは苦難を受けるはずがない、犠牲の死を遂げるはずがないといっているのと同然です。しかし、このキリストを否定することこそサタンの考えなのです。

 

キリストはペトロを叱りつける場合、神のことを思わず、人間のことを思っていると言われます。人間のこととは、何か日常生活の中で自分の欲得のことばかり考えているといった意味で用いられることがありますが、本来ここでキリストが言われたのは、キリストが苦難を引き受けるメシヤであるということです。これを否定することこそがサタンの主張であり、苦難を受ける神の子はありえないという意味です。しかし、それこそサタンの考えなのです。

 

私たちのために裁判を受け、代わって有罪宣告を受け、ご自身を犠牲にして罪のあがないをし、その上で信じるものに復活のいのちを与える。これを否定することこそサタンの考えなのです。

2015年06月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月21日説教「あなたはメシア・キリスト」金田幸男牧

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説教「あなたはメシヤ・キリストです」金田幸男 

聖書:マルコ8:27-30

 

要旨

【フィリポ・カイサリヤ】

 イエス・キリストと弟子らの一行はフィリポ・カイサリヤという町とその周辺まで行かれます。フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北約40キロ、ヨルダン川の源流に近いヘルモン山(標高2814メートル)の麓に位置します。ヘルモン山はパレスティナの最高峰です。古くから集落がありましたが、そこでカナンのバール神が礼拝されていました。ギリシヤ人はこの町をペナスと呼びますが、それは牧羊神パンの神殿があったからです。いわゆるヘロデ大王がローマの皇帝アウグストウスから領土を得るとそこに皇帝のために神殿を築きます(紀元前20年)。

 

ヘロデ大王の息子のフィリポが町を拡大し、フィリポ・カイサリアと名づけます。地中海沿岸にあったもうひとつのカイサリアは港湾都市として発展しますが、フィリポ・カイサリアは辺鄙な地方都市のままで、現在はバニアスという小さな町として残っているに過ぎません。キリストの伝道活動の北辺にあたります。ユダヤ人はこのようなパレスティナ北辺にある異教的な都市を好みません。当然そこには多くの異教徒が居住していました。このようなユダヤ人も見向きもしないような地方までキリストは足を伸ばし、福音を宣教されました。

 

【旅の目的】

 なぜ、キリストが弟子たちをこのようなギリシヤ風の町まで連れてこられたのか。むろん、ここにいる異邦人に伝道をするためであったでしょうが、それ以上の目的があったと言えます。それこそ、キリストは何者であるかを弟子たちに明白にするためであったことは間違いないでしょう。

 

 キリストがフィリポ・カイサリアでなさったことは異例な場面と行動を伴っていました。先ず第一は、わざわざフィリポ・カイサリアを選ばれたことです。ここはユダヤ人が少ないところです。キリストはユダヤ人に知られたくない重大な真実を明らかにするためにこの地を選んだということが出来るでしょう。ユダヤ人に知られるとキリストの身が危ないという意味です。

 

【「人々はわたしのことを何と言っているか」】

第2に、キリストと弟子たちの対話は異例なものでした。キリストは弟子たちに「人々はわたしのことを何と言っているか」と質問をしますが、普通の律法学者ならこんな質問はすることがないのです。イエス・キリストは正式の律法学者ではありませんが、律法学者のような存在と認められています。たとえ律法学者ではなくても、他人に律法に関する事柄を教えるからには、律法学者のごときものと見なされていたはずです。そのような人物が、「わたしのことを何と言っているか」など人のうわさを気にして、弟子たちに尋ねることはありません。律法学者なら、弟子たちが「あなたは誰ですか」と問いかけます。このような異例の質問をしているところに、普通ではないキリストの姿勢が見られます。なぜキリストはこんな質問をしたのか。むろん人のうわさなどキリストが気にされているわけがありません。むしろ、キリストは重大な事実を弟子たちに明らかにしようとされています。

 

【偉大な預言者たち】

 キリストとは誰か。これこそ重大な問題でした。これは他のユダヤ人に聞かれてはならない秘密です。しかし、弟子たちにはそれを明らかにしようと決意されたのです。

 

 キリストは弟子たちが次々と出される答を聞いておられます。キリストは先ずその否定から始めます。弟子たちがうわさになっている人の名を挙げていきますが、キリストは明確に否定をされているのではありませんけれども、文脈から見れば、キリストは弟子たちが挙げるうわさをそうではないと否定されていることは明らかです。

 

 弟子たちの返答に注目すべき点が二つあります。それはマルコ福音書には明瞭に書かれていません。先ず第一は、この記事と平行個所がマタイにもあります(マタイ16:143-20)。そこではエレミヤもうわさになっていることが記されています。第二は、ここに挙げられる、エレミヤも含めて、過去に生きていた人物で、キリストの時代にはみんな死んでいましたが、人々のうわさでは、みなよみがえったことになります。死んでよみがえったものが大きな働きをする。イエス・キリストはこのような人々の生き返りではないと明確に語っておられます。

 

つまり、それ以上だということになります。イエス・キリストは人々がうわさをしているような人物ではありません。キリスト自ら否定されます。すると、イエス・キリストとは誰か。死んで復活して大きな働きをするというような人物以上のお方だと言えます。

 

となると、それは人間以上の存在と言わなければなりません。ここに上げられている人たちは偉大です。大きな働きをしました。ある意味で人間以上の力を発揮しています。しかし、キリストはそれ以上の力あるもの、つまり、神ご自身といえるのです。このことをキリストが自らら明らかにされているといえます。

 

【洗礼者ヨハネの再来か】

うわさでは、洗礼者ヨハネの再来と言われていました。洗礼者ヨハネはマルコ6:16-29にありましたように、ヘロデ・アンティパスの暴虐の犠牲となって殺されていました。ヨハネは大きな影響力を残した人物です。悔い改めよと叫び、多くの人々を回心に導きました。彼は来るべき者、救い主の備えをするものでした。しかし、キリストは生き返った洗礼者ヨハネではないと断言されます。キリストはヨハネ以上の存在です。

 

【エリヤか】

第2に、エリヤだといううわさがありました。エリヤは列王記上17章から登場し、列王記下2:1-18でその最後が記されています。エリヤは旧約史上最大の働き人の一人です。彼は激しい説教を語り、ときには国王に面と向かって非難し、攻撃しました。奇跡も行っています。そして、最も注目すべきは、彼は死ぬことなく、火の車に乗って天に昇って行ったと記されています。エリヤは戻ってくる、このことがユダヤ人の中で信じられていました。終わりの日にエリヤは再来して大きな働きを行う。しかし、キリストは自分はエリヤの再来ではないと宣言されます。そして、それ以上のものだと言われるのです。

 

【預言者の一人か】

第三は預言者の一人といううわさがありました。ここで言う預言者は旧約の預言者のことであろうと思われます。エレミヤもその一人でした。エレミヤはユダがバビロンに滅ぼされる前後に預言者活動を行い、その預言の言葉の峻烈さは心を刺し貫くほどの強力なものです。エレミヤの最後は不明です。彼もまた再度終わりのときに現れ、かつても同じように預言者としての働きを実行すると信じられていました。洗礼者ヨハネもエリヤも預言者と見なされています。うわさではイエス・キリストは旧約の預言者のような存在だと言われていたことになります。キリストはご自身がそれ以上の存在であると語っていることになります。

 

【「あなたこそメシヤです」】

 弟子たちが挙げたうわさの人物であることを否定され、ではあなた方はわたしを何者だと思うのかと切り込まれます。ペトロが答えます。「あなたこそメシヤです。」

 

 メシヤとはヘブライ語の油注がれたものを意味します。ギリシヤ語に訳されると「キリスト」になります。イスラエルでは、王、祭司、それに預言者は油を注いで任職されました。油は神の聖霊を表しています。聖霊が与えられて、神の人としてその働きを完遂すると思われていたのです。王も祭司も預言者も神の務めの代行者でした。油注がれてその職務を果したのです。

 

 ところが時代が下るにつれてメシヤはもっと広い意味を持つようになっていました。パレスティナ地方がギリシヤやローマの支配を受けることになりますが、そのような時代、神は終わりのとき、メシヤを送られ、世界の救済を敢行されると信じられていました。そのような信仰、終わりの時の救済者、解放者という観念がユダヤ人の中に芽生え、定着していました。むろん、そのメシヤが意味している概念はひとつのものではなくて、それこそ他にも多様な考え方がありました。対ローマ戦争を指導する軍事的なメシヤ、あるいは終末的な幻想と言うべき姿で現われるメシヤ、道徳的革命をになう世界改造者等々、メシヤとは何か、いろいろ考え方が並存していました。

 

【ユダヤ人を救う解放者】

 しかし、世界を救済するもの、特にユダヤ人を救う解放者という観念は共通しています。間もなく神は救済者を送られる。これがユダヤ人の希望でありました。ペトロはイエスがそのメシヤであると告白したのです。むろんペトロ一人の告白ではなく、彼は弟子たちを代表してこのことを言葉にしたのです。

 

 これは重大な言葉です。ユダヤ人は今もメシヤを待望し続けています。メシヤを神が送られる、この希望こそユダヤ人の最大の希望であり、信仰でした。イエスとはキリストである。救い主である。このことこそキリスト教信仰の最も重大な信仰内容です。他のことは曖昧であろうとも、あるいは知らなくても、イエスこそまことのキリストであるという信仰さえあれば、キリスト教信仰にとっては十分だともいえるのです。

 

【キリストの口止め】

 しかし、キリストは口止めをされます。遠く、フィリポ・カイサリアまで来て明らかにされたことです。それは重大な信仰告白です。だから、キリストは誰にもこのことを語るなと言われます。ユダヤ人が知ればイエスにとっても弟子たちにとっても危険な事態を招きかねません。

 それと共にペトロの信仰ではまだ不十分であったからです。まだ十字架と復活が起きていません。十字架の上でキリストが犠牲となり、その結果、私たちの罪が赦されるようになり、罪がもたらす死の問題が解決されるまで、そして、キリストがよみがえり、死に対する勝利者となり、さらに、永遠の命が約束されるようになってからメシヤとは誰かと言うことが明白になります。それまでキリストは誰にも言うなと命じられます。(おわり)

2015年06月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月14日説教「はっきり見えるようになる」金田幸男牧師

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2015614日説教「何が見えるか」金田幸男

聖書:マルコ78:22-26

 

要旨

【ベトサイダ】

イエス・キリストの一行はベトサイダの町に到着したとあります。ベトサイダは、ガリラヤ湖北岸、ヨルダン川が湖に注ぐ地点に位置します。ベトサイダととは「漁師の家」という意味ですが、辞典には、同じ名前のふたつの町があったと記すものもあります。ヨハネ1:44,12:21によると、ペトロ、アンデレ、フィリポの3人はベトサイダの出身であると記されています。

 

そしてまた、ベトサイダはルカ10:13にも出てきます。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。」

 

ベトサイダはキリストの宣教にあずかりながら、その教えを無視し、聞き入れなかったゆえに、厳しい叱責の対象となっています。この町が、もうひとつのベトサイダを意味しており、この町はヘロデ大王の息子の一人であったフィリポがギリシヤ風の町に建て直し、ユリアスと改名されます。

 

住民にはユダヤ人も多かったのですが、ユダヤの正統的な聖書に対する忠実さやその信仰よりもギリシヤ風の生活や文化の影響を強く受けた人たちが多かったと考えられます。ペトロたちの出身地のベトサイダは辺鄙な漁師の村を想像させられますの、領主フィリポが再建した町と別個の町だと考えることもできますが、特に別個の町と考える必要もないかもしれません。このようなギリシヤ文化の影響が濃いところでは、当然キリストの教えも顧みない人たちが多かったでしょう。

 

【村の外に盲人を連れだす】

イエス・キリストがベトサイダを責めるときはその不信仰に対するものであったと容易に考えることができます。このような背景を見ていくと、なぜキリストが村の外にこの人を連れ出した上で奇跡を行われたのかも理解できます。

 

人々がキリストのところへ盲人を連れて来ます。盲人が自発的にキリストのところへやってきたとも、人々にイエスのところへ連れて行って欲しいと言われて連れてきたとも記されません。ベトサイダの人々がこの盲人を連れてきたのは別の動機があったからだと思われます。決してこの盲人への同情や憐憫から行動したのではなく、キリストが盲人の目を癒すという特別なわざを目撃したかったからだと思われます。つまり奇跡を見物したかったのです。

 

その動機は好奇心であり、珍しいものを見たがっただけのことなのです。つまり、イエス・キリストがどんな奇跡を行うのか見たかっただけのことです。奇跡を見物する。これが彼らの動機でした。

 

【密かに行われた奇跡】

キリストは今まで奇跡を公然と行っておられます。密かに一部の人だけしか分からないようなやり方ではありません。ところがマルコ福音書では3回だけ密かにそのわざを実行されています。

 

先ずマルコ5:37です。会堂長ヤイロの娘の蘇生の奇跡が行われたとき、キリストはヤイロと3人の弟子だけしか娘の部屋に入ることを許されませんでした。泣くことを専門とする女たちの騒ぎから離れるためであり、そのような人の目から、そこで行われていることを隠すためであったと考えられます。

 

また、7:33では、耳の聞こえない人の癒しが記されますが、群衆の中から彼を連れ出し上で奇跡を行われています。人々がキリストに癒しを求めてやってきました。その動機は、このベトサイダの人々と同じであったと考えられます。彼らも見物したいというだけであったと思われます。だから、キリストは奇跡を目撃されることを拒否されたのです。

 

奇跡は驚くべき神の行為です。しかし、それは単なる好奇心で見られるべきものではありません。ましてや見世物ではありません。そのような動機の人々には奇跡は一切行われることはないのです。

神の力に圧倒されることもなく、奇跡が行われてもただの見物。こういう人々の心情のあるところで奇跡は行われることはありません。

 

それは今日でも同じではないでしょうか。はじめから受け入れることもなく、驚くべき神の働きなど見物するだけのこと、それ以上ではないという受け止め方があるところでは奇跡が起こりません。

キリストはこの人を「村」の外に連れ出されます。ベトサイダは決して村というような小さな集落ではありません。ローマとかエルサレムのような人口の多いところではありませんが、とても「村」などとは言われないでしょう。寒村であれば、この用語もぴったりします。それはともかく、キリストはベトサイダの町の住民がキリストの大きな働きの目撃者となることを願っておられません。

 

【キリストの「手当て」】

キリストはこの盲人を、村の外に連れ出されます。そして、目に唾をつけ、両手をこの人の上に置きます。手を置くという行為は「手当て」という表現があるように、ひとつの治療方法でありました。キリストはこの意味では、治療を実施されたということになります。しかし、この行為はやはり奇跡に他なりません。単なる普通の治療ではありません。イエス・キリストは明白に奇跡を行われたのでした。

 

キリストは盲人に何が見えるかと尋ねられます。「人が見える」と答えます。木のようだが、歩いているのが分かります。よく考えて見ると奇跡は殆ど効果を表していません。ある注解者は、この目の見えない人がもともと全盲ではなく弱視であったら、殆ど奇跡が起きていないことになると断定をします。人なのか、木なのかが判別できないようではあまりキリストの行為は効果があったとはどうしても言うことはできません。こんなことでは癒されたことにはなりません。そのあと、第2回目のキリストの働きが行われてこの盲人の目は完全に開かれます。

 

【2回の業】

キリストは一挙に問題を解決するように奇跡を行われませんでした。2回もキリストは働きかけられました。最初のキリストの働きは効果を表わしませんでした。この盲人にとって切なる願いは見えることです。それが直ちに行われない。失望したことと思います。期待していたとおりにはなっていません。

 

私たちキリスト者もいろいろな重荷を背負っています。長い病気を背負っている人もいます。障害のある人もいます。事業がうまくいかない。学業がついていかない。突然の災害に見舞われた。人間関係がうまくいかない・・・いろいろな苦悩、悩みを味わっています。キリスト者であろうとなかろうと人生は労苦ばかりです。信者はさらに信仰のゆえの苦しみを味わっています。人生はさまざまな重荷を背負っていくものでしょう。そのとき、私たちは神に願います。労苦から解放してくださいと叫びます。ところが直ちに神は問題を解決してくださらない。

 

この盲人ははじめ何の効果も経験できませんでした。そこで彼はこの場所を去ることは可能でした。キリストは何もしてくれないという不満が生じたかもしれません。だから盲人はその場所を去ることもありえました。つまり、キリストともう何の関係もないようにすることです。そして話はそれで終わりということになります。

 

神は直ちに私たちの問題を解決してくれません。何も起こらないも同然の状態に任せられます。私たちも経験します。祈りは聞かれると信じ、祈り続けます。しかし何も起こりません。相変わらず苦しみは続きます。神は一体何をしているのかと、不満さえ漏らします。そして、神に背を向けてしまうことも珍しくありません。

 

【完全な癒し】

私たちは見ます。キリストは第2回目の行動をとり始め、結果は完全な癒しでした。キリストはこの盲人の目を完全に癒されました。ここから私たちが学ばねばならないこと、それは決して失望しないことです。キリストは最終段階まで助けのみ手を伸ばされる方です。

 

神は全能の神ですから一挙に、直ちに信じるものの苦しい状態から解放することもできます。しかし、そのわざは短期の内に完了するものではありません。キリストは意図的に直ちに助けのわざを完成されません。むろん、即刻解決されることもあります。けれども、多くの場合そういう方法を取られません.神は必ずその民を救われます。間違いありません。でも、私たちが要求すると直ちに言うことを聞いてくれる便利な方ではありません。

 

もし、私たちの願いを何でもかんでも速やかに実行されるだけならば、神は私たちにとって便利な存在だけに過ぎません。神はときに私たちをじりじりさせられます。神に不平をぶっつけたくなるほど神は動かれません。だから、私たちは「もう神は嫌いになった、神のことなど考えず、期待もしない」などと捨て鉢な言葉を発するようになってしまいます。そんなことがあってはなりません。

私たちは今すぐに期待が満たされなくても、ある期間が過ぎ去れば神は思いを超えて大きな祝福を味わわせてくださいます。

 

キリストは盲人の目を開きますが、村に戻らず、直ちに家に帰るように命じられます。これはベトサイダの人々、特に彼をキリストのところへ連れてきた連中に会わないようにするためでした。

 

【過去との決別】

なぜ、このようなことをされたのでしょうか。不信仰な人々と再び会わない、つまり奇跡を見せないためだと考えられますが、この人自身が元に戻らないためです。彼がキリストを信じてキリストのもとに来たのではありません。はじめ彼自身も癒しを信じてはいなかったのではないでしょうか。ところが彼は驚くべき神のわざにあずかりました。そのとき、彼は圧倒的な神の働きに心を動かされ、キリストを信じるようになったに違いありません。もう過去に戻ることはありません。過去との決別なのです。ただ直接家に帰るとは単なる帰宅ではありません。別の人間に変えられているのです。 (おわり)




2015年06月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月7日説教「まだ悟らないのか」金田幸男牧師

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説教「悟らないのか」金田幸男牧師

聖書 マルコ78:4-21

 

要旨 

【ファリサイ派と天からのしるし】

ファリサイ派はイエス・キリストに天からのしるし、つまり天変地異と言うべき大きな奇跡を見せろと要求します。むろん下心は、キリストにはそんな奇跡は行えないだろう、そうすれば民衆の信頼は失墜し、キリストがまことの救い主であるとの信仰は潰えます。これがファリサイ派の目論見であって、キリストをためし、試みることに他なりません。奇跡を見たら信じようと主張する人は多くいますが、奇跡があるなどとはじめから思っていません。だから、ただ信じないと言うことを公言しているのです。そのファリサイ派との論争を避けるためもあったと思います。イエス・キリストは船に乗り込み向こう岸、8:22によれば、ガリラヤ湖北岸の町ベトサイダに向かわれます。

 

【パンがひとつしかない】

 この船の中の弟子たちの会話のことが記されます。それはパンがひとつしかないという問題をめぐる議論でした。ここから弟子たちが何を論じ合ったか推測できます。先ず、責任追及であったと思われます。キリストの弟子団には財布係りがありました。それはイスカリオテのユダが担当していました。弟子たちの中には食料調達係もあったのではないでしょうか。弟子たちの集団は人数を増やしていったはずです。毎日のパンを購入する担当者が選ばれていて当然です。ところがキリストの出発が急なものでしたからパンを購入する時間がなかったのでしょう。しかし、これは言い訳にはならないかもしれません。予め心を砕いているべきでした。それから、事態を打開するためにどうしたらいいのかという議論があったと思います。

 

船を岸辺に寄せてそこでパンを買い求めるべきだ。いや、ベトサイダまで辛抱すべきだ。とにかく今は腹がすいてたまらない状況であったので雰囲気はよくなかったはずです。当面の難題を解決するためにどうしたらいいのか。弟子たちは真剣に論じ合っていたのではないかと思います。問題が起こると必ずといってよいほどの論議とはこういうものではないでしょうか。なぜこの問題がおきたのかという原因の解明、そのなかには責任者の追及も含まれます。それから事態解決のための議論。ああでもないこうでもないという堂々巡りに陥ることも珍しくありません。延々と論じ合っているけれども結論は出てこない。

 

【ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ】

 このような弟子たちの議論を傍らで聞いていたイエスは、まるで文脈から外れたようなことを語りだされます。

 ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ。この場合のパン種=イースト菌は何を意味しているでしょうか。あまりいい意味で使われていませんが、聖書の中でのパン種はあまりよく思われていません。例えば、ガラテヤ5:9ではパン種は真理から逸らせるものとされています(1コリント5:6-8も参照のこと)。このことは旧約聖書の出エジプトの際の、過越と関係すると思われます。エジプトで奴隷状態で苦しめられていたイスラエルはモーセに率いられて脱出することになります。そのとき、神はイスラエルの人々の旅の食料としてパンを持参させられますが、その場合、パン種の入っていないパンを作れと命じられます。除酵のパンといいます。なぜ除酵のパンを持って行けと命じられたのか。イ-スト菌を入れたパンは膨らみ、柔らかく香りもよく、味も格別のよくなります。ですからこれだけ見ればイースト菌は有用な細菌といえると思います。しかし。エジプト脱出と言う緊急事態ではのんびりしておれません。イースト菌で発酵させるのには時間がかかりすぎます。また、イースト菌の発酵の管理は容易ではなく、失敗すればパンは酸っぱくなり、食用には相応しくなくなります。このような理由で本来は有益でありますが、聖書ではイースト菌はよくないものとして扱われます。

 

 ところで、ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種とは何を意味しているでしょうか。ファリサイ派はイエス・キリストに奇跡を要求しました。ヘロデの場合も奇跡を求めたことが記されています(ルカ23:8)。キリストの裁判のときヘロデは同席します。キリストに興味を持っていたのですが、それはキリストを信じるところから出てきた思いなどではありません。興味半分、好奇心から出たものです。パン種とは明らかにキリストに奇跡を要求すること、そしてその要求を出している心根のことであることは明らかです。ファリサイ派もヘロデもキリストなどくだらない人間だとしか見ていません。奇跡を求めるのは信仰からではなく、むしろキリストへの疑い、不信から出てきたものです。

 

奇跡、しるしを求めるのはキリストをためすため、もっと言えばキリストに力などないということを立証せんがためです。キリストに奇跡を要求するのはキリストを心も誘惑するためでした。キリストはファリサイ派やヘロデの内心をよく見抜いておられました。決してキリストに大きな期待を抱き、信仰をもって対応することなどありえません。

 

 このようなファリサイ派やヘロデのようになってはならない、注意せよと警告されています。弟子たちはパンがひとつしかないことを論じ合っていました。当面パンをどうするか。腹の問題だから深刻です。私たちは何を食べようかと心配し、果たして食べることができるかと心配をしています。その弟子たちにファリサイ派やヘロデのようになるなと警告しておられます。パンがひとつしかないことを論じ合っている状況はファリサイ派やヘロデがキリストに奇跡を要求する状況と同じなのです。

 

 ファリサイ派の過誤はしるしを求める思いの背後にあるキリスト不信でした。これこそパン種でした。このイースト菌がパンを膨らませ、結局限界を超え、食用には不適にしてしまうように、しるしを求めることは神に嫌われてしまう結果を招きます。それは不信と言う点で共通します。

 

 キリストは続いて疑問形で言葉を連発されます。見ていても見ないのか。聞いていても聞かないのか。おぼえていないのか、記憶にないのか。キリストはこのようの言われて弟子たちを叱責しているのだと思います。何を叱責しているのか。それは見なければならないものを見ておらず聞かねばならないことを聞いていない状態を批判されるものです。

 

 私たちは現実に目を奪われます。起こっていることに右往左往します。目の前に起こっている現象に心が奪われ、混乱したり、失望したり、怒ったり、嘆いたりして落ち着きません。時にはもうだめだと諦め、時には事態を招来した原因を追究ばかりしています。世間が悪い、誰それが悪い、時代が悪い。場合によっては自暴自棄になってしまうこともあります。

 

【事柄の本質を見極めよう】

 しかし、それは表面だけ見ているのであって、真実の問題点は見過ごしています。若いころ、わたしの信仰を導いてくださった先輩はいつもこのように言われました。物事の本質がどうなっているかを見なさい。時代の態勢はある方向に向かって進行していくでしょう。圧倒的多数が流れを作り出しますと、バスに乗り遅れるなと言う叫びが湧きあがります。こうして国家自体が間違った方向へ突き進んでいくと言うことは起きるべくして起こります。出来事の表面だけ見ていてはそうなってしまいます。世相とか時流とか、ひとつの方向へ集団が流れていくとき、問題の本質を見極めて大勢に流されることのないようにしなければなりません。だから、私たちは事柄の本質を見極める必要に迫られています。

 

 キリストはここで何を見よと言われているのでしょうか。見ていながら見ていない。聞いていながら何も聞いていない。すっかり起きたことを忘れている。キリストはこのように叱責されて、先だって行われた多くの群衆にパンを食べさせる奇跡を思い起こさせておられます。

 パンはひとつしかない。どうするか。弟子たちは先だって起きた奇跡を思い起こすべきでした。

 

ファリサイ派は奇跡を要求しました。ヘロデも同じです。弟子たちは奇跡を求めていません。むしろパンがひとつしかないことに心が向いています。船の中にはキリストがおられます。キリストならどうされるでしょうか。キリストに求めたときどうなるでしょうか。

 キリストはこのパンひとつでも奇跡を行うことができる方です。そのキリストを全然見ていないのが弟子たちです。ファリサイ派もヘロデもキリストを信じてはいません。パンがひとつしないことで論じている弟子たちの前にキリストがおられます。

 

【5000人、4000人を食べさせたキリスト】

 弟子たちが見なければならないのはひとつのパンではありません。パンをめぐって議論などしても意味がありません。しなければならないことは、5000人、4000人を食べさせたキリストを思い出すことです。

 見なければならないこと、聞かなければならないこと、それはパンがひとつしかないという事実ではありません。むしろ、見なければならないのは、同じ船の中にいるキリストです。目で見るべきはキリストです。茫漠としてみるのではありません。必要ならば奇跡を起すこともできるキリストをその心に思い浮かべることです。目で見るべきは助け主キリストです。私たちは信仰を持って見なければなりません。キリストが何をしようとされているのかを見極めることこそ、私たち

がしなければならない選択です。

 ファリサイ派の要求にはキリストは応えられていません。弟子たちにはどうでしょうか。キリストはパンがひとつしかないことで論争している弟子たちに一挙に解決できる方のいることを示しています。事態をどう解決するかそれだけを見ていると何も解決策は出てきません。ではどうするか。キリストに私たちは信頼を寄せることを求められておられます。キリストならば何事もおできになるという一点に視点を集中するべきです。(おわり) 

2015年06月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月31日説教「天からのしるし」金田幸男牧師

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説教「天からのしるし」金田幸男牧師

聖書 マルコ8章1-4

 

要旨

【キリストを「試す」ため】

 キリスト一行はダルマタヤ地方に上陸されます。現在ではそれがどこであったか不明ですが、同じ記事が載せられているマタイ15章39ではマガダン地方とあり、それがマグダラのことであろうと考えられています。マグダラはキリストの女弟子であったマグダラのマリヤの出身地で、カファルナウムとティベリアの間にある町です。キリスト一行はおそらくガリラヤ湖の西岸に着いたのだと思われます。そこにファリサイ派の人たちがやってきます。同じ記事が記されるマタイ16章1-4ではサドカイ派も一緒であったとされています。普段は敵対する関係の両派がキリストのところへやってきたのはキリストを「試す」ためでありました。

 

この「試す」はマルコ1:13の「誘惑」と同じ言葉です。サタンはキリストを荒野で誘惑しますが、その誘惑はそれで終わったのではなく絶えず手を変え品を変えて続いてということを示しています。

 

【天からのしるし】

 ファリサイ派が求めたのは「天からのしるし」でした。しるしとは奇跡であることは間違いありません。天からの奇跡ですから、おそらく壮大で絶大な奇跡、言語を絶するほどの奇跡のことでしょう。神が実行なさる最大級の奇跡。天変地異のようなものが想定されていたのでしょうか。山が二つに割れる。星が落下する。地上のものがなぎ倒される暴風。あるいは大洪水、火山の噴火、大地震。おそらくそのような誰も経験したことのないような大きな奇跡を行なえとイエス・キリストに要求しています。むろん、それはキリストを試みるためです。

 

 ファリサイ派は今までの奇跡を経験しなかったとは思えません。今までキリストは病人を癒し、悪霊を追い出し、何千人もの群衆に少ないパンで腹を満たし、湖の上を歩かれました。そのすべての目撃者ではありませんでしたが、いくらかは見聞していたのではないでしょうか。そのような経験は一向にファリサイ派の考え方を変えることはなかったと思われます。奇跡を目撃した。それは稀有な経験ですが、彼らにはイエス・キリストへの恐れも敬いも生じませんでした。かえって反感なり疑いなりを生み出したようです。

 

 どうして奇跡を見たのに変化がないのでしょうか。当時の医学には呪術的なものも含まれていました。まじないもれっきとした治療法の一つであってみれば、ファリサイ派にはキリストのなさった奇跡はその類のものでしかありません。つまり、少々不思議であってもさほどびっくりするほどのものではない。だから、ファリサイ派が奇跡を見たからといって彼らの心を変えることがなかったと想像できます。あるいは、奇跡を見てもキリストへの反感が圧倒して、キリストへの考え方を変えられず、ひいては疑いを帳消しにできなかったともいえるでしょう。

 

 たとえそこで奇跡が行なわれていても、キリストへの疑い、反感がまさって、奇跡そのものになんら感動もしないということは起こりえます。頭から信じないかたくなな思いが奇跡と言う事実を捻じ曲げてしまうこともありえます。

 

 ファリサイ派にとっては、キリストは議論の対象でしかありません。むろん友好的な議論ではありません。キリストをないがしろにし、引き摺り下ろそうとする議論です。キリストがどんな権威を持っているかどうかを議論し、その権威が疑わしいものであれば宗教当局(サンフェドリン)に告発するつもりであったでしょう。ファリサイ派はイエス・キリストが民衆に人気があることに耐え難い思いを抱いていたに違いありません。権威を失墜させれば民衆は離れていきます。

 

【深く嘆かれ】

 キリストはどのような反応を示されたか。まず、深く嘆かれます。この言葉は7章34で出てきます。息をハーと吐く行為を示しています。息は命を表します(創世記2:6)。吐き出す行為はむろん単なる呼吸に過ぎませんが、癒しにおいてはキリストの生命力がその人の上に吐き出され、ここでは生気を失うほどまでの失望が表現されています。

 

 イエス・キリストは天からのしるしを与えられることはありませんし、一切のしるしを行なわれることがありませんでした。 

 私たちの常識では、神が大いなる奇跡を行なえば世界中の人間が一瞬にして信じるだろうと思います。全世界の人が驚愕するような大奇跡。そういうものを神が実行されたら人々はみな神に額づき、跪いて神を敬うだろうと考えます。私たちはよく言われます。奇跡が起これば信じよう。そうでなければ信じない。そして、奇跡などない。だから何も信じない。

 

 こういう不遜な人たちに奇跡があれば彼らはたちまち神を信じるものに変わるでしょうか。そんなことはまずないでしょうし、神はそのようなことをされません。キリストはファリサイ派の前でどんなことも行なわれませんでした。

 キリストを信じないものに何もなされることはない。これが結論です。キリストはただその権威や力を疑うものには沈黙されるだけです。

 

 不信仰という土台ではキリストは何もしない。このことは今も通用する真実です。不信仰なところでは奇跡はないのです。

 

【奇跡はいまも】

 むろん、奇跡というべきものがないわけではありません。私たちにとってさまざまな経験がありますが、その中には奇跡としか言いようのないことも多々あります。不治の病が癒される。間一髪災害から免れる。こういうことは奇跡と言うべきかも知れません。また、私たちには説明ができないような事象もよく起こります。むろん、そのようなものを一概に奇跡と言うことができない場合もあります。不信仰の目を持ってみれば結局何も起きていません。どんな奇跡があってもファリサイ派と同じく何も心に変化が起こりえないどころか、かえって、キリストを無視し、敵対するだけなのです。

 

【ヨナのしるし】

 奇跡はないのか。しるしはないのか。マタイ16章1-4をもう一度ご覧ください。そこでは、キリストはヨナのしるし以外には与えられないとありますが、ヨナのしるしは与えられるとの意味に取れます。

 

ヨナのしるしとは何でしょうか。旧約聖書のヨナ書を読んでいただかなくてはなりませんが、ヨナは神からニネベ伝道を命じられます。しかし、ニネベはイスラエルの敵です。そんなところへ行くのは真っ平ごめんとヨナは拒否します。そして、神の命を避けるために逃亡を企て、大きな船に乗船します。ところが大嵐に巻き込まれます。その原因がヨナであることが判明します。そこでヨナは自分を海に放り投げてくれと申します。結局その通りにされるのですが、ヨナは大きな魚に飲み込まれてしまいます。その後ヨナは三日三晩魚の腹の中にいるのですが、ついに吐き出され、そして、拒んだはずのニネベで悔い改めを求める宣教活動をします。

 

【キリストの復活】

ヨナのしるしとは大魚の腹の中に三日間もいたことですが、これは、イエス・キリストが三日間墓にいたことに対応します。つまり、三日目に死人の中からよみがえられた復活の事実を予め示す出来事でした。ヨナのしるしとはしたがってキリストの復活を示すことになります。

 

ヨナのしるし以外にしるしは与えられないとはキリストの復活というしるし以外にはしるしは与えられないことでもあります。ファリサイ派には何のしるしも与えられません。ただし、キリストの復活と言う巨大な奇跡が与えられます。むろんファリサイ派は復活ということ自体は信じていました(使徒言行録23章8)が、この奇跡=キリストの復活を受け入れることはありませんでした。しかし、キリストの復活を信じることは天からのしるし以上の類例のない恐るべき、しかし、大きな奇跡を信じることに他なりません。

 

天からのしるしはファリサイ派が要求したようには与えられません。今日でも奇跡を見たら信じようと侮りの気持ちで語る人には何も起こりません。しかし、復活の奇跡は奇跡中の奇跡、いやそれ以上の奇跡です。この奇跡を信じるならば、その他のさまざまな奇跡というべきものは信じることができるようになるでしょう。そればかりではなく、キリストの復活にあずかる希望を与えられることになります。

 

 奇跡は起こりえます。むろん、キリストが行われた様な奇跡が起きるという意味ではありません。しかし、神は今も働いてくださっていますし、そのなかには到底信じがたいことも含まれます。それが起こるのです。わたしは信じるはずもない頑なで強情なものが主イエスを信じるようになることは奇跡だと思います。また、神は私たちをお見捨てにはなりません。これもまた奇跡です。この愚かで罪深いものが神に守られて生きること自体奇跡としか言いようがありません。その意味で奇跡が起こります。

 

【未来を知る】

 マタイ16章1-4では、ときのしるしとされます。朝焼けを見て近く雨になる、夕焼けを見ると明日はよい天気になる。経験ある漁師は空を見て気象を判断します。しかし、私たちは将来のことを見分けることができません。未来は知りたいものです。占いやおみくじの類はどの時代でも盛況です。なぜか。未来を知りたいからです。けれども、私たちには1秒先だって分かりません。ときのしるしとは、終わりのときの予兆のことです。終わりが来て救いは完成します。その時はいつの日なのか。聖書の字句を並べて正確な終わりのときを計算するものもいますが、残念ながら誰一人知ることは許されていません。では、私たちは将来について一切知らされていないのか。ヨナのしるしであるキリストの復活は、そのとき、私たちはキリストの復活にあずかってもはや死ぬことがないものとされ、永遠の命を獲得し、復活のからだを勝ち取ることができます。これは確かな将来です。終わりのときがいつ来ようとも私たちは一切恐れる必要がありません。(おわり)

 


2015年05月31日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月24日 説教「4000人給食の奇跡」金田幸男牧師

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2015524日 説教「4000人給食の奇跡」金田幸男牧師

聖書 マルコ78章1-10

 

要旨

【ふたつの給食記事】

 マルコはすでに6章30-44で5000人に少しのパンと魚で満腹させるという奇跡の記事を載せています。ふたつの記事はよく似ていますので、本来はひとつの出来事を伝える資料がいつの間にか別個の物語にされてしまったという説が唱えられています。

 

しかし、両者を比べると多くの点で異なっています。先ず一方は5000人、他方が4000人の「給食」となっています。6章では群衆の空腹を心配したのは弟子たちですが、ここはイエス。キリストご自身が群衆のことを気にしています。奇跡に用いられたパンと魚の数が違いますし、残ったパンくずを集めた籠の数が違います。実はその籠の種類も異なっています。

 

6章では群衆は50人、100人に分けられていますが、8章ではそんなことは記録されていません。キリストは一方では天を仰いで祈ったとありますが、8章には感謝の祈祷、讃美の祈りがなされたとだけあります。このように見ていきますと、ふたつは別個になされた奇跡だと言えると思います。

 

なぜマルコはわざわざよく似た奇跡を記しているのでしょうか。このふたつの奇跡は決定的に異なっていますが、最も重要な相違点は、これらの奇跡がどこで行われたかにあると考えられます。

 

6章のほうは、キリストは12人の弟子を近隣の村に派遣をします。彼らが帰ってきてキリストに報告をするのですが(6:30)、弟子たちが戻ってきたところはユダヤ人の居住地と想像できます。キリストは6章の時点では異邦人のところまで宣教活動を拡大していません。

 

ところが、7章24以下で知られますように、キリストは異邦人の住む所を通過して行かれました。それはただ通過したと考えるべきではなく、御国の福音を宣教し、力あるわざを行われたと考えてよいと思います。

 

【異邦人の街々】

7章31のガリラヤ湖畔とは、デカポリス地方のそれと考えてよいと思います。デカポリスは10個の町を意味する言葉で、文字通り、アレキサンドル大王の将軍たちが紀元前4世紀ごろに建設したギリシヤ風の都市でした。むろんそこに住むのはユダヤ人から見れば異邦人、つまり外国人です。8章10ではこの奇跡が行われたあと、キリスト一行は「ダルマヌタの地方」に行かれたとありますが、このダルマヌタはどこにあたるのか不明です。マタイ15章32-39にも4000人の給食の奇跡が記されていますが、そこではキリスト一行はマガダン地方に行かれたとあります。

 

マガダンとはマグダラと同一とされ、マグダラのマリヤの出身地です。カファルナウムとティベリヤの中間に位置するガリラヤ湖西岸の町ですが、キリストが湖を渡って対岸に行かれるのが普通ですから、この奇跡はガリラヤ湖の東岸デカポリス地方のどこかで行われたと結論していいのではないでしょうか。

 

【異邦人伝道】

すると、キリストは、6章にあるようにユダヤ人に対してなされたと同じような奇跡を異邦人にも行われたと見てよいのだと思います。マルコがこの記事を個々に記すのはキリストが異邦人にも神の恵みを豊かに示されるという事実を記録するためであったと考えられます。神の憐れみはユダヤ人だけに限られるのではない。これが如実に語られています。異邦人にも救いの恵みは拡大していく。それがマルコの記す目的ではなかったかと思われるのです。

 ユダヤ人から見れば、異邦人は神から遠くはなれた存在でした。彼らは汚れていて、神に決して受け入れられることはない人々とみなされていました。神から遠い、したがって神の救いから漏れているものたち、これが異邦人の特徴であると思われていました。少なくとも異邦人は救われない者たちと思われていました。しかし、キリストはその異邦人に御手を伸ばし、救いの恵みを示し、そのなかに導き入れられます。救いから遠いと思われ、縁がないとされている人々にもキリストは大きな働きをされます。

 

3日間食べていかった?】

 ところで、キリストは群衆をかわいそうに思われます。これはキリストが全面的に憐れみを抱かれたという意味です。なぜ、キリストが同情されたのか。群衆はキリストは3日間食べていかったとありますが、これは異常な事態です。食べ物も持たないで3日間キリストの許にいたというわけです。おかしな話です。まるで、どこかで迫害され、命からがら逃げ出してきたかのようです。食料も持たないで、いったいどうしてキリストのところへ来たのか。マルコは何も記していません。

 

どう見ても単にキリストの話を聞くために遠路はるばる食料も持たないでやってきたとは想像できません。何かがあったのかもしれません。当時のデカポリスが政治的不安定であったかどうか分かりませんが、何か問題があったのかもしれません。キリストに助けを期待したのだろうと思います。政治的ではなく、もっと社会的な不安が充満していたのかもしれません。キリストは彼らが三日間食べていないから同情をされたのではなく、そうせざるを得ない必然性のある人々、つまり、深刻な問題を抱える人々を深く同情されたと想像します。何があったのか分かりません。

 

今日でも私たちは不測の事態に巻き込まれることがあります。天災も人災もそうです。戦乱や飢餓もないとは限りません。キリストに助けを期待してキリストのところに集まって行きます。そのようなものをキリストは深く憐れまれ、助けの御手を伸ばされます。異邦人であろうと艱難の中で呻く者たちを助けられるのがキリストです。

 

 ここでなされたのはパンを与える奇跡でした。パンの問題を解決されました。パンの問題はいつの時代でも切実です。食べることが人間にとって一番の心配事です。私たちはいまや飢えることは余りありません。しかし、本当に将来にわたってパンの問題は解決済みなのでしょうか。そんなことはありません。異常気象で広範な地域で農作物が収穫できないというニュースはしばしば流されています。人口が増大して食糧生産が追いつかないとはありえない問題ではありません。食べられない事態は深刻な問題です。キリストはパンの問題を一切関わりなしとされる方ではありません。

 

【信仰とパン】

いえ、これこそキリストが関心を払っておられる問題でもあります。キリストはパンを提供なさる力ある方です。パンの問題だからこそキリストは力ある働きをされるのです。信仰は腹の問題と関係がない、先ず腹を満たすことのほうが先だと公言する人がたくさんいます。パンの問題の解決が第一であって、信仰など暇な人間のすることだというのです。そうではありません。キリストはパンの問題だからこそ力を振るわれるのです。にもかかわらず人はキリストに期待をしないのです。それは間違っています。私たちはこの奇跡からキリストに期待をするように求められています。信仰とパンの問題は決して無関係ではありません。

 

 弟子たちのことが記されています。弟子たちが群衆の圧倒的な多さに目を回し、またもや不信仰な言葉を吐いていると見ることが出来るかもしれません。しかし、そうではないと見ることもできます。確かに6章で5000人もの人々を食べさせなさいとキリストから言われて、みんなに食べさせるのには200デナリ、今日の価値にして100万円以上のお金が必要だと答えます。

 

【弟子たちの信仰】

ここには弟子たちの不信仰ぶりが述べられます。そして、キリストが湖上を歩く奇跡が行われますが、6章52では、弟子たちはパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたと酷評されます。キリストから面と向かって批判されたのです。それなのにまだ弟子たちは悟っていなかったと取るべきなのでしょうか。そうかもしれません。しかし、「これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか」という弟子たちの言葉は疑いの言葉ではなく、いわゆる反語的に、キリストに向かって、「あなたにはできないはずがありません」と奇跡を期待する言葉と解釈することはできないでしょうか。

 

弟子たちが信仰的に開眼したのではないことは8章14-21にキリストの叱責の言葉から明らかですが、弟子たちがキリストを何もできないお方とは見ていないことは確かです。彼らはすでに何度も奇跡を目撃しているからです。

 

 キリストはパンを取り、感謝の祈りをしたとあります(6.7節)。魚には讃美の祈りをしたとあります。私たちは感謝と讃美を別物と考える傾向にあります。しかし、キリストの祈りを見ると、両者は別個のものではありません。祈りのなかで感謝と讃美は同一の種類のものと見なければなりません。感謝のないところでは讃美は出てきません。神に感謝することなくただ讃美が単独でなされることはありません。感謝は神を讃美することにつながって行きます。

 

【大きな籠で7籠の残飯】

 残ったパンくずは集められます。6章では12籠、8章では7籠となっています。単純に見れば6章の場合のほうが残りが多いと思われるのですが、ここで用いられている言葉をみると、6章の籠は旅行者が持つ食料=パンを入れる籠なのだそうです。8章の籠は大きな籠のことで、パウロがダマスコを脱出するとき、城壁伝いに釣りおろされたのですが、そのとき使用された籠と同じものなのです。4000人の人たちは3日間食べていませんでした。だから残り物が少なくても不思議ではありませんでした。ところが、大きな籠で7籠。正確にはいうことができませんが、6章の場合と比べて決して少ない量ではありません。むしろ、こちらのほうが多かったと想像することができます。

 

キリストがなされた神の大きな働き、恵みのわざにおいて、キリストは豊かに、人々を満たしておられます。これがキリストのなさった働きです。相手が異邦人であろうとなかろうと関係ありません。キリストはただ憐れもうとするものを憐れむ方なのです。ここに記されている奇跡は科学万能の合理主義からは信じがたいものであるかもしれません。確かに現代人には受け入れがたいかもしれません。信じるしかありません。ただ、信じることによって、私たちはいかに神がキリストによって恵みに満ちている方なのかを改めて教えられ、励まされます。(おわり) 

2015年05月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月17日説教「二重苦からの救い」金田幸男牧師

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説教「二重苦からの救い」金田幸男牧師

聖書 マルコ7章31-37

 

要旨

【異邦人(外国人)伝道】

 今日共に学びたいと願っている、耳が聞こえず、ものも言えないひとの癒しの記事はマルコだけが記しています。なぜマルコがこの記事を記載したのでしょうか。考えられることは、直前の24節以下で、シリヤ・フェニキアの女性の娘の癒しが記されていましたが、彼女は文化、民族、言語の上で異邦人、外国人です。外国人はユダヤ人から見れば救いから離れているものたちと見なされていましたが、キリストはそのような人たちにも神の大いなる御力を示さます。この異邦人への働きは一回限りではなく、繰り返してなされたことをマルコは語ろうとしていると思います。

 

【ガリラヤ湖】

マルコはイエス・キリストがティルス地方から、シドンを抜けてデカポリス地方を回って行かれたとありますが、これらは異邦人の住む地域です。シドンはティルス地方から北にあるフェニキアの有名な港町、デカポリスはアレキサンデル大王の将軍たちが建設した10のギリシヤ風の町のあったヨルダンの東の地域です。これらの地域をキリストはただ通過しただけとは思われません。これらの地域でも御言葉を語りしるしを行われたと想像できます。そして、ガリラヤ湖にやって来られたとありますが、ガリラヤ湖周辺の異邦人居住地域と想像することは可能です。キリストは異邦人に大きな働きをなさいます。そのひとつがここに記された二重苦の人の癒しであったと考えられるのです。

 

【耳が聞けず、舌の回らない人】

 人々がこの人を連れてきます。耳が悪い人は、自分の声を聞き取りことができないために、特別に訓練をされていなければ正しく発声発音ができません。声帯や舌は正常な機能を持っていてもしゃべれないのです。耳が聞こえない障害と、機能がありながらそれを使えないという障害を抱えています。それは二重苦と言ってもよいものです。機能や能力があってもそれを使うことができない、それは人間として苦しい状況です。このような事態に追い込まれている人がいます。

 

【手を置いてやって欲しい】

 人々は手を置いてやって欲しいと申し出ます。手を置く行為は「手当て」と言う表現がありますように、古代世界では医療者の行為でありました。今でもただ触れるだけで痛みが収まったり、和らいだりすることは珍しくありません。医療行為だけではなく、祝福を求めることも表わします。教会で役員に任職するときは先任の役員が手を置きますが、それは聖霊が降ることを願う象徴的な行為であると共に、実は役員に神の祝福を願い求める行為でもあります。そこで与えられる祝福は特別なものに他なりません。マルコは手を置いてやって欲しいとだけ書きますが、むろんここでは癒して欲しいということであり、また障害を取り除いて欲しいという意味でもあります。

 

 ところで、マルコは「舌の回らない」と言う表現をここで用いています。ここで使われている言葉は、新約聖書ではここだけで、しかもギリシヤ語訳旧約聖書では、イザヤ35章5で用いられています。これは偶然ではなく意図的にこの単語が用いられたと考えてよいのではないでしょうか。

 

イザヤ35章は有名な、よく知られている預言です。少し長くなりますが、引用をします。神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(4-6)

 

イザヤはこの他、荒れた地、砂漠が回復するとも語り、また野獣の住むところが人間の居住適地となるとも語ります。新しい天、新しい地の出現です。暗黒と悲惨が支配していた世界に代わって神の再創造された世界は新天新地になります。

 マルコは余り使われていない言葉を用いることで、ここで起きていることが特別なことであると主張しています。

 

【救いとは何か】

救いとは何か。私たちはいろいろのほう面から救いを考えることができます。ここでは、新しい世界の再創造を見ることが出来ます。あるいは古い世界の再生ともいえるかもしれません。神の救いは創造されたこの世界の刷新であり、再生であり、再創造なのです。

 

 イエス・キリストがここでなされたしるしは世界の再創造の働きと見ることが出来ます。それは驚くべき神の働きに他なりません。事実37節でキリストのみわざを目撃した人たちは驚き、その働きをとても素晴らしいこととたたえています。それほどまでにキリストのなさった働きは偉大であり、神の救いの完成を現すものでありました。異邦人に対するキリストの働きは、ただユダヤ人の救いの余りものを与えると言う程度の奇跡ではなく、救いの完成という神の働きを指し示す重大なみわざであったのです。

 

 連れて来られた人に対してキリストのなさった行為が比較的詳細に記されます。その意味でここは大切な個所ともいえます。マルコはなぜこんなに詳しく記したのだろうかと思われます。詳細に記すのは、目撃証言であったことを示します。この場面を目撃したのはむろん弟子たちです。

 

その一人、ペトロの証言が基礎ととなってこの個所が記されたと考えてもよいと思います。ペトロがマルコに資料を提供したと考えられます。もうひとつは、詳細と言っても厳密に微細に記されてはいません。ただ、キリストのなされたわざが克明に書かれることで、二重苦にあえいでいた人に対するキリストの憐れみが明瞭にされます。生き生きとそれが伝わってきます。

 

 キリストは手を置くように求められましたが、それ以上のことをなさいます。先ず、キリストは耳に指を差し込まれます。塞がれていた耳が開きます。舌に唾をつけます。舌が動くためです。キリストはこの人に接触して、奇跡を行われます。

 

 そして、天を仰いで深く息をついたとあります。息をはーと吐く行為です。天を仰ぐとは祈りの姿勢でありますが、単なる祈りの姿勢ではありません。息はしばしばいのちを表すものとされます(創世記2:7)。その息を吐き出すとは精魂を込めて神に祈ったと言うことを示します。キリストは形式的に祈りの姿勢を取られたのではありません。全身全霊を込めて祈られたのです。

 

相手が異邦人であろうとキリストは軽く扱われることなどありません。必死にキリストは祈られたのです。エッファタという言葉を発せられています。これは当時この地域で使われていた言語であるアラム語です。新約聖書にはいくつかのアラム語やヘブル語が残されています。なぜ、このような言葉が新約聖書に収録されているのか。考えられることは、このようないくつかのアラム語、あるいはヘブル語が教会の中に保存されていたということです。教会では使徒たちがキリストから聞いた言葉、あるいはみわざを口伝えに伝えていたと思われます。「キリストはあの時、このようにおっしゃった」とか、「キリストは私たちの前でこれこれしかじかのことをなさった」と教会で語っていたのだろうと思います。それが文書として残されたものが福音書であると考えられます。伝達される内容には、キリストが使われていたであろうと考えられるアラム語がいくつかそのままに保存されていたと思われます。それは重要な場面であったり、特に聞き手に印象的な場面であったりすると考えられます。

 

 エッファタはそれ自体特別難しい意味はありません。開けよ、と言う意味です。マルコは外国人読者を意識してわざわざ翻訳をしてくれています。二重苦に苛まれている人をキリストは癒されます。この場面に居合わせた人たちは特別な印象を受けたに違いありません。

 開け。口が開くと言うだけではありません。そこにはそれ以上の大きな意味が込められていると考えてよいのではないでしょうか。

 

【障害のある人】

 ここでは耳が聞こえず、ものを話すことができないという障害を背負う人の癒しが記されています。神はどうしてこのような障害のある人を創造されたのか。これは大きな疑問です。世界を創造された神はどうしてこんな障害のある人を創造されたのか。神は不公平ではないか。このように思う人がいると考えられます。障害だけではありません。病気もそうです。健康な人が一方ではいますが、病を何重にも背負っている人がいます。経済的困苦、社会的な差別を受ける人、あるいは、精神的な労苦を負う人。この世界にはいろいろな人が苦しんでいて、その苦しみは他の人に比べて何倍も大きく、何重にも苦しみを背負っています。なぜなのでしょうか。

 

【人の重荷と救い】

 なぜ神はこんなに人をひどく扱うのでしょうか。

 人は何とか原因を追い求めます。運命のせいにする人がいます。あるいは、偶然の所産と諦める人もいます。あるいは遺伝と言うか、父母からもって生まれた悲運とみたり、責任を両親や祖先に帰する人もいます。そうすることで自分に納得したり、できなければ世間を呪い、世間を誹謗します。この時代にすねてみたり、なるに任せて自暴自棄になります。こういう解決では何にもなりません。そこで現在は自己責任という主張も出てきましたが、それで私たちの心が安んじるわけではありません。

 

 確かに私たちは不幸や災いの原因を人間の罪に帰することができますし、それが答です。しかし、神は人間の罪の結果、二重苦、三重苦にあえいでいる状態を放置されているのではありません。まして、神から離れ背を向けている報いだとして、ざまあ見ろとせせら笑っている残酷な神ではありません。そんなことは決してありません。

 

 神は救いの完成を目指しておられます。キリストがここでなされた奇跡はその日の到来を予測させるものです。その日は分かりません。しかし、神はその日をすでに備えておられます。キリストの働きはこの日を明確に示すものです。私たちはその日の到来を期待します。そのとき、あらゆる苦しみは消滅します。私たちは今は二重苦や三重苦を背負うとしても神は必ずそのとき確実に解放して下さいます。(おわり)


2015年05月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月10日説教「救いの拡大」金田幸男牧師

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説教「救いの拡大」 金田幸男牧師

聖書:マルコ7:24-30

 

要旨 

【ティルス地方に行かれた目的?】

イエス・キリストはティルス地方に行かれたと記されています。ティルス地方は現在のレバノンの南部一帯を指します。現在も人口が1万人弱の都市として存続していますが、古くからの港湾貿易都市で、紀元前2000年代には町がありました。初めは海岸地帯にありましたが、のちには地中海にあった大きな岩盤の上に都市が築かれます。この構造は難攻不落の都市と評価されましたが、その都市の豊かさのゆえにしばしば外国の侵略を受けています。

 

 イエス・キリストが何のためにティルスに行かれたのか記しされていません。結果として異邦人伝道の機会となったのですが、当初から異邦人伝道を目指してはいなかったと思われます。それは、キリストがティルスの、とある家に入られますが、誰にも知られないようにしていたとありますから(24節)、異邦人にも知られたくないということです。どうしても異邦人伝道が目的であったと思われません。だから、ティルスのユダヤ人を相手に伝道する意図があったかもしれません。しかし、マルコは何も記していません。分からないことは分からないままにしておく。これも聖書の読み方かもしれません。分からないことがあるとそれからまったく先に進めないかのような聖書の読み方をされる方がありますが、それは少なくとも「利口な」読み方とは思えません。

 

 キリストはガリラヤから、徒歩、あるいはせいぜいロバに乗って行かれたと思います。今日なら車で1,2時間でしょうけれども、当時は数日かけて旅行をしたと思います。それまでしてティルスで何をしようとしていたのか分かりません。

 

【シリヤ・フェニキア生まれの異邦人女性】

 キリストのうわさはすでにこのティルスにまで広がっていました。イエス・キリストは力あるわざを行っておられました。そのうわさは伝聞で口伝えに伝わっていました。当時はこの方法が一番一般的でありました。うわさはユダヤ人だけではなく異邦人にも伝わっていました。

 このうわさに反応した人の中にひとりの女性がいました。彼女について知られることは先ずギリシヤ人であったという点です。これはギリシヤ系の民族ではなく、ギリシヤ語を語る文化圏に属していたという意味であったと思います。シリヤ・フェニキアの生まれとありますから、アラム人=シリア人であったと考えられます。ユダヤ人と同じくセム系の民族ではありましたが、ユダヤ人とは歴史的にはライバル関係にありました。またシリアはローマの属領、シリア州であり、ガリラヤとは異なった政治的な立場にありました。つまりこれから知られることはユダヤ人から見ればまったくの異邦人、外国人でありました。宗教上はもちろん、文化的にも政治的にもこの女性はユダヤ人から見れば異邦人であり、ということは神の救いからは縁遠いものに他なりません。

 

【汚れた霊につかれた娘の癒しを願って】

またそれはユダヤの宗教に関しては殆ど無知であったと考えてもよいでしょう。もうひとつの点は娘が汚れた霊につかれていたということです。しかし、これも曖昧です。悪霊につかれていたとありますが、どういう症状であったのか分かりません。ある人はてんかんのような病気であったと想像します。ただ、病気は何でもかんでも悪霊のせいというのではありません。古代エジプトの医学書が残っていますが、病名は現在と多く共通していますし、その病気の治療法も、薬剤(薬草)や簡単な外科手術でした。悪霊に原因が帰せられているのは僅かなのです。難治の病気が悪霊のせいとされています。この女性の娘の病名は分かりませんが、かなり治療困難な病であったと想像できます。それだけに娘のことを思うといても立ってもおれない気持ちになっていたと思います。

 

 この女性はイエス・キリストのうわさを聞いてやってきます。キリストが悪霊を追い出しているといううわさです。しかし、彼女はイエス・キリストのことを詳しく知ったわけではありません。知っていたのは悪霊を追い出す力を持つものだということだけであったでしょう。イエス・キリストがどういうことを教えていたかは知らなかったと思われます。ただ子どもの苦しむ姿を見て何とかしたいと思い、イエス・キリストのうわさを聞いてキリストの居所を探し出してやってきたのでしょう。

 

 彼女はキリストの足元に平伏します。この姿は最大級の敬意を表すものです。この行動に彼女の必死の思いが現れています。そして、この行為は宗教的な意味さえ持っています。それは礼拝行為に類するものでもあったのです。ギリシヤの文化圏ではしばしば人間が神的なものとして礼拝されていました。ローマ人も同様でした。偉大な人物、行為の人物を神として崇めることは珍しいことでありませんでした。彼女は深く考えることなくイエス・キリストに最大級の敬意を示しました。

 

 キリストはこのような態度をもって平伏す女性に対して直ちにその願いを聞き入れられたかというとそうではありませんでした。それほど必死の思いできたのです。すぐに反応されてもしかるべきでした。しかし、キリストの態度は私たちを驚かせるものです。

 

【子どもと犬】

 キリストは婉曲的に彼女の申し出を退けられているかのようです。キリストの言葉で、子どもはキリストの同胞であるユダヤ人を指していることは明らかですし、犬は外国人であることは分かります。このようなイエス・キリストの言葉を前提にやり取りが続けられます。

 

しかし、犬という動物が当時どう見られていたかを知ると話しはそう簡単ではありません。犬は聖書の世界においてはあまり評判がよくありません。お前は犬というとそれは激しく侮辱する意味になります(サムエル上17:43)、死んだ犬は汚らわしいとされています(サムエル上24:14)、犬は聖なるものを理解しない(マタイ7:6)間違った教理の信奉者(フィリピ3:2)、罪の生活をするもの(2ペトロ2:22)は犬に比されます。これはユダヤ人の中で通用する言い方ではあるでしょうけれども、異邦人であるこの女性も自分が犬と言われていると知れば激怒しても不思議ではありません。最大級の侮辱の言葉です。

 

こんなことを言われて腹を立てないはずがありません。異邦陣人世界でも犬の大半は野良犬、野犬でした。自分を犬というようなイエスを嫌い、関係を持たないようにしても当然のことです。ところが彼女は引き下がりませんでした。

 

 キリストがどうしてこんなことを言われたのでしょうか。大変ひどい言葉です。キリストがこんな非道なことを言うはずがないと思う人がいるかもしれません。

 

 キリストは当時のユダヤ人が抱いていた一般的な異邦人への考え方を語っていることは確かです。しかし、それは本心からか、というと決してそうではありません。キリストは結果としてこの女性の娘を癒されます。しかも、娘が近くにいないところで悪霊を追い出すという奇跡を行われます。マルコ福音書では距離が離れているところにいる人を癒されたのはここだけです。それだけここでなされた奇跡は大きなキリストの働きであることを証言します。そこまでなされたのですから、キリストが異邦人を排除していたなどと考えることはできません。むしろ、キリストは相手が異邦人であろうと区別なく憐れみを示されます。

 

【なぜキリストはひどい言葉を】

 ではなぜキリストはこんなひどい言葉を語られたのでしょうか。このような経験は私たちもするところです。神は私たちにいつも暖かく優しく、慈しみに満ちているようにだけ接してくださるのではありません。逆の場合もあります。大きな病気になったり、大きな災害に巻き込まれたり、思わぬ事故をあったりします。私たちの人生には不幸の種はつきません。そんな時私たちは嘆きを神に吐き出さざるを得ません。なぜこんなひどい目にあわせられるのか。どうしてこのような苦しみを味わわせられるのか。神にこのように訴えるしかない経験のしばしばあります。大きな試練を経験します。神は私たちをあたかも見捨てられているとしか思えない。神とは憐れみ深い御顔をいつも向けており、私たちはそのやさしさに心が豊かになる・・・私たちは神をそのように見ています。なぜ神が・・・という思いに耐えられないのです。

 

 神は私たちを見捨てられたかのように思うこともしばしばありますが、だからといって、神は私たちを憎み、ひどい目にあわせ、その上でせせら笑っているような残酷な神を決して想定できません。神はいつも最善を行ってくださる方です。

 

【子犬でも食卓からこぼれるパンくずにあずかる】

 シリア・フェニキアの女性もまた簡単に引き下がりません。彼女は、犬でも食卓からこぼれるパンくずにあずかることができるはずだと反論します。彼女はユダヤ人と異邦人の関係を少しは知っていたと思います。ユダヤ人は当時各地に散在していました。そういう関係にもかかわらず彼女はキリストに期待をしました。キリストから是非とも憐れみを受け、娘の悪霊を追い出して欲しいと期待をしました。キリストが見捨てておられるかのように思わざるをえない中でも、彼女は望みを失いません。これが信仰です。神は必ず期待に応えてくださるという望みを失いません。

 

 家に帰るとこの女性の娘は癒されていました。ベッドの上で元通りになっていました。神の救いは国境や文化圏の違いで阻まれることはありません。異邦人にも救いは及びます。キリストが十字架にかかられ、よみがえられるまで積極的に異邦人に福音を宣べ伝えられませんでした。それは時が満ちるまでの父なる神の意志であったからです。しかし、だから異邦人に一切福音を語らない、大きなわざをおこなわないとされていたのではありません。キリストは機会があれば積極的に異邦人にも福音を語られます。距離が離れていてもキリストは奇跡を行われました。今日天と地上の間ははなはだ大きいのですが、キリストはそんな距離など臆することなく今もなお同じように奇跡をおこなわれる方です。だから同じく期待をしましょう。 (おわり)


2015年05月10日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月3日説教「人を本当に汚すもの」金田幸男牧師

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説教「人を本当に汚すもの」金田幸男

聖書 マルコ福音書7章14-23

 

要旨

【言伝えにもとずく偽善】

 ファリサイ派と律法学者はイエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見て、非難の材料を見つけ出しました。しかし、キリストは彼らの非難の根拠が言い伝えに基づくと喝破し、そのように言い伝えを根拠にユダヤの民の宗教生活、ひいては日常の生活を規制し、それによって敬虔な、あるいは信じ深く見せるのは偽善であると語られます。偽善とは、俳優が演技をすることを意味する言葉から出ているそうです。悪人を演じる俳優が悪人であるわけではありません。偽善は、見せ掛けの善人、義人を振舞う言行であって、キリストは言い伝えで善人を装いながら神の御言葉をないがしろにし、神の律法を軽んじる偽善的な行為を非難されます。

 

そのもうひとつの偽善の実例を挙げられます。コルバン(神への供え物)と宣言すれば、両親に与えなければならないものでもそうする必要がないという巧妙なやり方が考案されます。これこそ偽善の最たるものと言わなければなりません。

 

【汚れと聖潔】

 キリストは汚れの問題をもう一度取り上げられます。汚れの問題はユダヤ人にとっては重要でした。汚れの問題は汚れない状態、つまり聖潔、聖さの問題でもあります。汚れを避け、聖さを求める。これは今日でも多くの宗教の課題ですが、ユダヤ人にとっては最重要問題でありました。

 

【汚れた民】

汚れにあずかる人は汚れたものと見なされます。キリスト時代のユダヤ人のなかでは、羊飼いも収税人もこの類と見なされました。そして、「地の民」などと蔑視されました。聖書では「罪人」と称されます。犯罪人でもないのに汚れているものと見なされたものは罪人とされたのです。汚れたものは神に近づくことができないとされます。それはユダヤ人にとっては恐るべき位置づけです。

神に見離されたものだからです。ですから、汚れから離れ、近づけないこと、それは敬虔なユダヤ人には特に注意しなければならない課題なのです。

 

 特定の病気になった人、汚れているとされる身分に属したり、職業に従事している人は汚れているとされます。これこそ今日でもさまざまな領域で現実に生じている深刻な問題の根っこにあるものです。汚れの問題はユダヤの宗教だけではなく、多くの民族の宗教生活において大きな役割を示しています。それは慣習となり、社会的な拘束力を持つようになり、汚れていると見なされた人は排除され、制裁を受けることも珍しくありません。

 

【見かけの聖さ】

ですから、聖くあることを追求する熱心も大きくなるはずです。聖さを求めて、煩瑣な儀式が生まれ、その儀式に参加することで聖性が保たれると主張されるようになります。その聖性を獲得したものは尊敬されます。ファリサイ派や律法学者が追い求めたのはこの聖性でした。そのために、いろいろな発明が工夫され、それが実践され、いつの間にか言い伝えとなって伝えられていきます。聖くあるためにどうすればいいのか。詳細な体系が生み出されていきます。ユダヤ人の宗教はこのようなさまざまな言い伝えに基礎付けられています。

 

タブー(禁忌)は私たちの社会でも大きな影響力、あるいは拘束力を振るっています。豚肉を汚れているとする宗教の信者のために特別に調理した食品が必要とされます。豚肉を料理した道具や食器は使用されてはならないとされます。このために、観光客を誘致したい観光業者は四苦八苦しています。豚肉をタブーとする信者にとってはどうでもいい問題ではありません。タブーはそれ自体不合理だといってしまえばそれまでですが、多くの領分で避けることができない問題となっています。決して軽視することができないような深刻な結果を生み出しています。

私たちの国は一見すれば宗教色の少ない国とされていますが、日常生活の根底にはこのタブーは根強くはびこっています。汚れなどまったく不合理であることは誰もが承知しながら、その汚れを避けるためにどんなに多くの精力が注がれているか。聖性を獲得するためにどんなに過大な努力が試みられているか。

 

【旧約聖書と汚れの問題】

ユダヤにおいては汚れの問題は聖書の重要なテーマです。例えば、レビ記10章―14章は重い皮膚病が汚れとされます。15章は人間の体液の漏出を扱います。死体に触れても汚れるとされます(レビ11:24-28など)。祭司の場合は身内の遺体にも触れることが禁じられます。むろん汚されるからです。汚れの問題は神の掟ですからこれを軽んじることは許されません。ユダヤ人がどうして汚れの問題を重視したのかその根拠はここにあります。汚れを避けることにユダヤ人は最善を尽くそうとしています。それは神の民であることの必須の条件とされたのです。だから汚れを避けることは必死に実現すべき目標でありました。

 

【キリストと汚れの問題】

 キリストは汚れの問題を軽んじられたはずがありません。聖なることを求め、汚れを避けることは聖書の立場です。キリストがこのような重大な問題を無視されるはずがありません。キリストの弟子たちも聖なる者とならなければなりません。しかし、キリストは汚れの問題をまったく別の視点から見ておられます。それは革命的と言ってもよい視点です。

 

 どういう視点でしょうか。食物そのものが人を汚すものではない。口から入って消化され、排泄されるものが人を汚すことはない。つまり、ある特別な、汚れているとされる動物の肉を食べてもそれが人を汚すことはない。このみ言葉はユダヤ人にはまったく驚きでしかなかったはずです。どのような食べ物も人を汚すことはない。口から入り、消化されて排出される食べ物自体は聖いと言われます。当然のことながら、人間の体から出る体液が人を汚すこともありません。衛生上、汚いものは存在します。腐ったもの、悪臭を放つもの、形の上で醜悪なものはあります。そのような人間のからだが作り出すものが人を汚すのではありません。

 

宗教的には、つまり霊的には食物も、漏出物も人を汚しはしない。これは多くの宗教にとってはその根本をひっくり返すだけの原動力となるような主張になってしまうはずです。汚れから清めるプロセスこそ多くの宗教の存立基盤と言ってもよいと思います。汚れを洗い清めるためにどうすればいいのかを提示するのが宗教だとすれば、キリストの言葉は革命的響きを持っています。

 

キリストはそれでは何が人を汚すとされるのでしょうか。汚れをいかに避けるべきは聖書の重要な主題です。汚れはどうすれば清められるのか。キリストはもちろん汚れの問題を軽視されてはいません。

 

それは神の掟です。神の律法は守られなければなりません。しかし、キリストの教えはファリサイ派や律法学者、というよりも、当時のユダヤ人の理解とはまったく異なりました。汚れを避けるべきことは神の掟そのものです。しかしながらここで考えていただきたい。なぜ、それは汚れているのか。考えてみれば神が命じる理由など分かりません。豚という家畜がどうして汚れているのか合理的な解決策は見当たりません。なぜ神がそんなことを命じられるのかすべてが分かるのではありません。

 

【重要なのは神の命令に服従すること】

人間が創造されたとき善悪を知る木から取って食べてはならないと命じられました(創世記2:17)。善悪を知る木がりんごであったという伝説もありますが、どんな種類の木であったか分かりませんし、余り神の命令には関係のないことです。問題は食べるなという命令にあります。アダムとエバにとって重要なのは神の命令に服従するかどうかでした。そこでは服従、従順を求められていたのです。しかしながら、アダムとエバがしたことは神の言葉を破ることでした。これが罪といわれ、違反とされるものです。汚れの律法の問題も同じです。追求すべきは、タブーの遵守ではありません。神の前に聖くあることを求められたのです。神に従順であることで聖なるものであることができるのです。

 

人を汚すのは食べ物ではありません。では何が人を汚すのか。それは人の心から出てくる悪い思いだとされます。人から出てくるものが人を汚します。正確に言えば人の心から湧き上がってくるものが人を汚します。悪しき思いです。

 

その悪しき思いから出てくるものが列挙されています。ひとつひとつ説明することは避けます。実践されない、心の状態も含まれています。むろん実行される悪、罪もあります。性的な邪悪さに関わる罪が3個もあります。人を汚すのはこのような人間の邪悪さなのです。罪こそ人を汚す原因なのです。この問題が解決されなければ人は聖くなることはできません。悪い思いこそが人を汚します。この罪がもたらす汚れは罪そのものが解消されなければなりません。罪そのものはどうすればなくなるのでしょうか。人間はどのようにしても罪を拭い去ることはできません。人は生まれたままにある限り罪を避けることができません。つまり、人間は汚れた存在であり続けます。

 

どうすればこの罪の結果である汚れから解放されるのか。どんな宗教でもこの汚れの解消法を教えるはずです。多くが儀式によるとされます。しかし、どのような儀式もこの汚れを洗い清めることはできません。この聖性を取り戻すためにいかに宗教は膨大な体系を作り出したか。キリストはこの汚れをどう解決しようとされたのか。ここにキリスト教信仰の真髄があります。

 

【十字架の血潮は、罪と汚れを完全に洗い流す】

キリストはご自身が十字架につけられました。それは、罪に対する神のさばきを受けるためでした。キリストは十字架の上で死ぬことで、罪の問題を解決されました。つまり、汚れをもたらす根本問題を解決されました。もはや、神の前で私たちには汚れをもたらす原因はなくなったのです。神の前で私たちは聖なる者とされたのです。私たちはこの世に生きている限りは汚れを完璧になくすことはできません。しかし、私たちはもうすでにキリストに導かれて聖なる者なのです。そして、私たちの終わりのとき、完全に聖なるものとされる希望に生きることができます。(おわり)

2015年05月03日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年4月26日説教「外見上の汚れとまことの汚れ」金田幸男牧師

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説教「外見上の汚れとまことの汚れ」金田幸男

聖書:マルコ7:1-13

 

要旨

【主のもとにファリサイ派の人々と律法学者が来た目的】

  7章1節には前の記事、ゲネサレト平原での癒し、と時間や場所との関連は記されていません。そこで、連続して起きた事実が記されているのかどうか分かりません。

 

 イエス・キリストのところへファリサイ派に属する人々と律法学者がやってきたと記されますが、彼らの目的は容易に推測できます。マルコ福音書では彼らの存在がいくつか記録されています(2:6,2:16,3:6)。キリストの評判がますます広がって行きます。彼らはイエス・キリストの言行を調査し、ユダヤ人の政治や宗教問題の議決機関であった最高議会(サンフェドリン)に、イエス・キリストの誤りを告知しようとしていたに違いありません。そして、最高議会で有罪として、キリストを排除しようとしたのです。

 

【弟子たちが食事の際、手を洗わない】

 彼らはキリストを訴える材料を見つけます。キリストの弟子たちが食事の際、手を洗わないで食べていたのです。これは不衛生だというだけの問題ではありません。ユダヤ人にとっては、それは彼らの言い伝えを破る行為であったからです。手を洗わないで食事をする、つまり汚れた手で食べるということは別に聖書の、神の掟に禁じられてはいません。神の言葉である聖書の規定ではありません。しかし、ユダヤ人はこれを禁止事項にしていました。

 

マルコ福音書は、外国人である読者のために注解を加えています。念入りに手を洗う。手を洗う順序、洗い方、洗う場所など細かな規定があったということです。また市場など人の集まるところから帰宅するといっそう丁寧に体を洗ってからでないと食事をしませんでした。市場には汚れているとされた外国人がいますし、ユダヤ人のなかでも汚れているとされる人たちと知らずに接触する可能性もあり、このためいっそう丁寧に体を清めたのです。その他、食器類、挙句の果ては寝台=ベッドまで清めないとだめだとされました。こういうことはいうまでもなく旧約聖書の律法には記されてはいません。それではどこからこういう習いが始まったのか。

 

【タルムード】

 ユダヤ人は旧約聖書だけではなく、タルムードという膨大な書を重視しています。これはミシュナーとゲマラという部分からなっていて、パレスティナ・タルムード=38講・5世紀、バビロニア・タルムード=63講・6世紀の2種類があります。ミシュナー(反復口授の意)はレビ・ユダ・ハナシという人物(135-220年ごろ)がまとめたもので、捕囚後から、数世紀まで遡る、ラビたち(律法学者)による、文章になっていない律法が6部からなる内容で保存されています(農産物・祭・結婚と離婚・財産と訴訟・神殿行事・潔め)。ちなみにゲマラ(補充の意)はミシュナーの解説に当たります。ユダヤ教では旧約聖書は、キリスト教徒同じく経典として受け入れられていますが、タルムードの使用と重視という点ではキリスト教とユダヤ教は異なっています。この点、イスラムが旧約聖書とコーランを重視して、キリスト教と異なるのと同じです。ミシュナーにはキリスト時代のユダヤ人の言い伝えも多く含まれています。

 

 キリストは、言い伝え、あるいは伝承を頭から否定されているのではありません。また、掟を退けられているのではありません。ここでは汚れの問題と親に対する敬意が扱われていますが、これらについて否定されているのではありません。問題は言い伝えを重視することで、神の掟、み言葉を軽んじている点を厳しく批判されているのです。

 

【汚れの宗教的意味】

汚れの問題は重要でした。単に不衛生と言う問題ではありません。これは宗教的な意味があります。汚れの代表的なものは、汚れている動物の肉を食べることです。具体的には豚肉ですが、豚肉がどうして汚れているのか、ただそれは神の命令によるもので、神が汚れているとされたゆえに食べてはならないだけのことなのです。

 

 ユダヤ人は手を洗わないで食事を取ると汚れると考えました。汚れを清めるのは水で手をよく洗うことだとされます。考えてみれば水で洗ったくらいでは汚れなど落ちるはずもありませんが、何とか清めるためには水を用いればよいと思いついたのです。そうするとそれがいつの間にか規則となり、守らなければ罪とされ、議会に訴えられ、裁判にかけられてしまいます。ファリサイ派や律法学者たちがしようとしているのはこのことです。

 

もともと汚れの問題でありましたが、いつの間には、手を洗う問題にすりかえられていたのです。汚れを除くということ自体まじめな動機であったはずです。ところがいつの間にか手を洗う、汚れているとされるものを水洗いする、それが汚れを免れる方法だと言う考え方が固定してしまいます。形式的に手を洗っておれば清められる。手を洗わないと汚れてしまう。

 

【本来の汚れと偽善】

 本来の汚れとは何か。それは神の掟に対して忠実ではないことを意味していました。イエス・キリストはイザヤ29章13を引用し、ユダヤ人の偽善を暴かれます。いつの間にか言い伝えとして、あるいは重要な伝承とされているものは実は偽善なのだというのです。

 

 偽善とは、演技者として振舞うことを意味しています。演劇の演者は本物ではありません。悪人を演じている俳優が悪人などではありません。それは演技です。偽善者は本当の姿ではないのに、敬虔で信心深い外見を売り物にしようとする人たちです。何かよいことをしている人を「偽善的」などという人がいます。それはまったく間違った用法です。単純な誠意から善を行おうとする、それを偽善とは言いません。本心は別のところにあるのに外見だけ取り澄まそうとする場合これを偽善と言うのです。単に善行を偽善などとは言いません。

 

 ファリサイ派や律法学者は自分たちを清いものだと見せびらかそうとして、汚れを取り扱います。言い伝えを作り出して、それを守れば清いのだと言い出したのです。

 はじめはなんでもない行為が時間を経るといつの間にか習慣となり、規則となり、その集団では拘束力を持ち、破ったものは制裁を受ける。こういう現象は宗教だけではありません。集団が結成されて時間が経ち、世代を重ねると、当初は余り意味がなかったことも、大きな拘束力を持つようになる例はたくさんあります。ユダヤ人の場合、信心の規準となり、反対の場合、社会的な処罰を伴うようにもなりましたが、キリストはこれを偽善とされます。

 

【神を畏れ、敬う内面の清さ】

 清いと言うことは信仰的には大きな価値があります。それは神に対する態度です。清くあろうとすることは信心、敬虔さの問題であり、究極的には神に対する畏怖からでてくる行為です。神を畏れ、敬うところから清くあろうとするのです。ところがユダヤ人は外見上の清さだけを取り上げようとしています。内面性が忘れられているのです。

 

【神への供え物コルバンと 第5戒】

 この偽善について、キリストはもうひとつの例を持ち出されます。それは、コルバンの問題です。コルバンとはここに記されていますように、神への供え物を意味する言葉です。聖別を意味します。神にささげられたものは聖別されています。清くされるとそのものは人間は指一本触れることはできません。これを子どもたちが悪用します。本来ならば親に必要なものであっても、いったん「コルバン」と宣言されてしまうと、親であってもそれを使うことができません。食べ物なら深刻な事態となります。親が食べないと飢えてしまうようなものでも「コルバン」と宣言されると親は食べられなくなります。あくどいことは、その親が手にすることができないものを子どもが勝手にするということも可能となります。これは宗教的な言葉の乱用です。こんなことはあってはならないことなのですが、キリストの時代、言い伝えの中にはこんなひどいものも含まれていたのです。神を畏れるはずのところで悪辣な行為が是認されていました。

 

【第5戒:父母を罵るものは死刑に処せられる】

 第5の戒め、それは極めて重要な戒めでした。出エジプト21章7にありますように、父母を罵る、つまり侮辱するものは死刑に処せられる、これが戒めでした。違反は重大な罪とされます。ここまで神は第5の戒め、親に対する敬意を重視していました。ユダヤ人はこのことを知らないはずがありません。ところが巧みに言い伝えを創作します。ユダヤ人は宗教を重んじた民族です。それをうまく利用して、両親を敬えという戒めを骨抜きする方策をどんどん発明したのです。

 

 こういう操作は至るところで見かけられます。親に対する孝行は道徳的な項目だとされます。口先では親を敬いなさいと教えます。しかし、これは何ともいえない建前になっていることでしょうか。子どもの人権とか、自由とか、を口実にして、親の言うことが重視されていない。そういう実例は枚挙の暇もありません。     

   

 キリストは、ここで何を言おうとしているのか明白です。重視するべきは神なのです。神の戒め、神の言葉が重視されなくてはなりません。形式的に外見的に重視されるのではありません。そこに心が伴っていなければならないのです。神からその心は離れているのに見かけ上はいとも信心

深く見せようとしているだけ。外見上聖いと思わせるのに熱心であるのですが、それは人からの評判をよくしたいだけ。これこそ偽善なのです。

 

【偽善ではなく、神に許しを求める】

私たちはファリサイ派や律法学者がどれだけ敬虔で、清らかな振る舞いをしようとしたかを知っています。簡単なことではありません。熱心さにかけては、彼らは誰にも劣らないでしょう。しかし、キリストは彼らに欠けているものを指摘されています。偽善ではなく、神に許しを求めることこそ肝心なことでした。神の言葉にそぐわない現実を直視し、いかに神の前で罪人であるかを認識し、神の前で許しを求めていくことをキリストは命じられるのであって、言い伝えで積み上げたような外見上の聖性は意味がないどころか有害でもあるのです。(おわり)

2015年04月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年4月19日説教「病を癒すイエス・キリスト」金田幸男牧師

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説教「病を癒すイエス」金田幸男牧師

聖書 マルコ6章53-56

要旨

【ゲネサレト:肥沃な土地】

 この個所は場面が移動する連結部分に過ぎないこと、1:32-34、3:7-12と内容が似ている(悪霊の追い出しを除く)ので余り重視されていません。イエス・キリストがみ業をなされたあと、人々が集まってきて、そこで病人を癒すという内容です。病の癒しはキリストの重要な働きであって簡単に見過ごしはできません。

 

 イエス・キリストとその一行はガリラヤ湖の北岸沿いに西に航行されます。ゲネサレトという平原地方に着いたと記されます。ここは現在の情景を写した写真でも分かりますが、肥沃な土地で、豊かな穀倉地帯でした。ガリラヤ湖の近くには荒野もあり、必ずしも全域が豊穣の地とはいえません。ゲネサレトにはたくさんの農産物が生産されていました。当時農業が最大の産業であり、経済的に恵まれた地域で人口も比較的多いところでした。安定した生活ができるという自然の恩恵を享受していました。

 

【病気】

 しかし、どんなに恵まれた生活ができても解決できない問題があります。そのひとつが病気です。

イエス・キリストがゲネサレト地方に到着したと聞いて、たくさんの人々が病人を床に乗せて運んできました。この病人たちは歩くことができなかった人々であったことが分かります。この豊かな地域にでもたくさんの寝たきりの病人がいたのです。当時、病気になるということはたいていは死に直結していました。当時の医療技術のレベルは低いものでした。治せない病気のほうが圧倒的に多かったに違いありません。薬草の類はあったでしょうけれども購入できる人が限られています。多くの人にとっては病気にかかればただ床に寝かせられているだけでした。苦しみながら死を迎える、それが病人の運命のように思われていました。

 

 だからこそ、人々は何とかしたいと思ったのです。何もできなければできないほど何とかならないものかと焦燥感に襲われるものでしょう。患者を抱える家族は病人に何も出来ないという悲しみ、苦悩、焦りに見舞われたはずです。

 

 今日、多くの病気はなおせるようになりました。医療技術の進歩は目覚しいものがあります。ほんの10年前まで手の施しようがなかった病気も直るようになりました。病気の死亡率が低くなって来ています。かつては不治の病とか、手の施しようのない病気とされていた種類の病気の特効薬が発見されたという例はいくつもあります。

 

 病気そのものは苦しみを伴います。先ず、典型的なものは痛みではないでしょうか。息苦しい、だるい、食欲がない、歩けない、力が出ない、しんどい・・・その上気力も衰え、精神的な負担も大きくなります。自覚症状のない病気もありますが、気がつけばもう手遅れということも珍しくありません。現在でもあらゆる病気が治るのでもありません。むしろ、かつて聞かなかったような病名の病気が増えてきていると思われます。多くの病気は治りますが、それでも直らない病気があります。不治の病に襲われた者の不安や苦悩は想像を絶するものでしょう。突然にそのような病名を宣告されて戸惑い慌てふためく場合も珍しくありません。今日でも病が人を苦しめている事実は変わりありません。

 

【病の痛みは今日・・】

 病気になることに伴う痛みはかつては厄介なものでした。痛みはその人自身が体験するもので、他人にはその痛みは分かりません。主観的なものといってよいかもしれません。ある人に痛みは絶えられるが、他の人には耐え難いと感じる場合もありでしょう。それが激痛であれば耐え難い苦しみの淵に追いやられます。今日幸いにして、痛みは解消されつつあります。大きな手術を受けても痛みは余り感じなかったという人も多くなって来ています。末期症状といわれた悶絶しそうな痛みも今では克服されそうです。こうして、医学や医療技術の進歩で私たちは余り病気を恐れなくなったことは確かです。しかし、私たちは病気そのものから解放されていませんし、おそらく人類の最後のときまで病気は存続するのではないでしょうか。そして、病気が与える恐怖心は解消されず、ひいては死に対する恐れを結びついたままです。

 

【癒し主イエス・キリスト】

 イエス・キリストの時代、病気になることの苦痛は今日は比較できないほど深刻であったはずです。私たちは今日の視点でイエス・キリストの時代の人々の生活を見てはならないのに注意しなければなりません。病気が与える恐怖、不安は今日と単純に比べることはできません。病気になるということは大変な破目に陥ることを意味しました。だから人々はイエスのうわさを耳にすると大挙してやってきたのです。イエス・キリストは人々が運ばれた町や村、そして小さな集落である里にも足を延ばして行かれます。ゲネサレト地方は人口が多い地域です。小さな集落も各地にたくさん散在しています。そういうところまでイエス・キリストは厭わないで入って行かれます。そして、広場に集められた病人を次々に癒して行かれます。だから、キリストはたいへん多忙であったと思われます。

 

 キリストは病人を憐れみ癒されました。その経過については詳しく記されていません。ここではキリストの着ている服のすそに触れたいと願ったとあります。癒しの方法はこれだけしか記されていません。キリストの病人の癒しの経過を詳しく記す個所はありません。唾を泥に混ぜて患部にあてたとか、手を伸ばして触れたとか、簡単に記すだけです。福音書は魔法の本でもなく、病気を治す奇跡の解説書でもありません。知りたがる人もいるでしょうけれども、どのような手順で癒されたかは知る必要のないことなのです。

 

【衣のふさ】

 キリストのすそについては民数記15:37-39に記されています。「主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。 それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。」キリストの服のすそは敬虔な律法を遵守する義の人であることのしるしでした。病人を連れてきた人も含め、癒してもらいたいと願った人がイエス・キリストをどう見ていたのかここから推量できます。キリストに特別なもの、神からの力を認めたからに他なりません。これを信仰だと解釈する人もいますが、明確な信仰があって癒しが行われたのではありませんでした。信仰が明瞭に見られないところでもキリストは病人を癒されたと考えるべきでしょう。キリストは病人とその家族を憐れんで癒しを実行されました。

 

【今日癒しの奇跡は】

 ここで大きな問題に触れなければなりません。

 キリストを信じるものは病気の癒しというキリストの特別な力を受けることができるのか。今日の多くの人は、こんな奇跡は信じないと決めつけます。科学的にありえないというのです。また、キリスト教はいわゆるご利益宗教ではないから病気の癒しなどを求めるのは邪道だという人もいます。信仰と病気の癒しは関係がないのでしょうか。

 

【主の憐れみ】

 信仰は神との取引材料ではありません。その人に信仰があれば神が病気を治さなければならない義務を負うなどとは考えられません。ただ憐れみによってキリストは行動されます。だから、信仰など無駄なのでしょうか。役に立たないのでしょうか。

 

 キリストはその服のすそに触ったものをすべて癒されましたが、これは病気に苦しむものへの憐れみに他なりません。キリストは今も病気に苦しむものを憐れまれていることは確かです。キリストは今も生きて働いておられます。今日医療技術は格段に進歩しました。さらに医療制度も整いました。このような環境の中で私たちは病を癒されて生きますが、これはキリストの憐れみによるものだといってもいいと思います。キリストはこのようにして今も働いて病人を病気から解放されます。キリストは全能の神の御子です。今日でも奇跡としか説明がつかない病気に癒しもあるでしょう。それをまったく否定するつもりはありません。けれども、病気はかつてと同じ方法ではありませんが、癒しの御手は伸ばされ続けています。だから、病気が癒されるようにとの祈りは続けられるべきです。イエス・キリストに私たちは期待をし続けなければなりません。絶望せずに祈ることが肝心です。キリストは病に倒れているものを憐れみ癒し助けようとしておられます。このことは確かです。私たちはキリストの憐れみにより頼むべきです。ここに信仰があります。

 

【不治の病と死】

 それでも癒されないままの病気はどうなるのでしょうか。これからも癒されなかい病気はいつまでも残るでしょう。病気はなぜ発生したのかといえば、人間が死ぬべきものとなったからであり、アダムの罪の結果であるといえます。罪がある限り病は消え去りません。このことも厳かな事実です。そして、キリストは人類の罪の許しのために十字架にかかられました。キリストは今も断固として罪の結果を除去しようと憐れみの中で働かれますこのことは決して変わることがありません。

 

 信仰は病が治る対価でも交渉の材料でもありません。しかし、病が癒されることで信仰が生まれてきます。癒されない場合はどうなのか。私たちは病を得て自分の弱さを徹底的に知らされます。病んだために、人間は神に依存する存在だと痛感させられます。そして、神に頼ることこそもっとも大切な人間の営みであると知ります。その果てに、私たちにとっては、神の永遠の祝福を仰ぐことに導かれていきます。(おわり)



2015年04月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書

215年4月12日説教「湖の上を歩かれるキリスト」金田幸男牧師

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説教「湖の上を歩くイエス」金田幸男牧師

聖書;マルコ6章30-44

 

要旨

 

【5000人配食のあと】

 イエス・キリストは空腹である群衆を憐れみ、男子だけで5000人もの人たちに、パン5個、魚2匹をもって満腹する奇跡を行われました。45節に「それからすぐに」と記されます。大きな奇跡が行われたのですから、群衆はもっと大きな奇跡を期待したに違いありません。ところがキリストは群衆を解散し、弟子たちを強いて船に乗り込ませ、ベトサイダに向かわせます。

 

弟子たちはもともと奇跡が行われたところで休息を取るはずでした。弟子たちにゆっくり休息を取らせなければなりません。弟子たちにとって疲労は極限に達してしています。これ以上疲れさせることはできない。だから追い立てるように船に乗せます。また、群衆の熱気を冷ますために解散させたように思われます。一人でキリストはそうします。人を集めることも困難ですが、解散させることも至難です。キリストは一人で群衆を解散させるという難しい働きをされました。そして、キリストは一人山に登られます。それは祈るためでした。

 

【祈るキリスト】

マルコ福音書では3回、キリストが祈ると記されます。1:35,6:46、14:32-36です。1:35はキリストがカファルナウムで伝道の働きを始められた直後に祈ったと記されます。14:32-36はゲッセマネの園でキリストは苦しみ悶えながら祈られます。その直後キリストは逮捕され、裁判にかけられ、十字架の上で処刑されます。

 

公的な働き、伝道のはじめと終わりでキリストは祈ったと記されています。キリストにとって伝道の働きのはじめと終わりは大切です。そのときキリストは一人祈られ、神に助けを求められました。では、6章46の場合はどうでしょうか。ヨハネ6章にも5000人の給食の記事が記されます。そのあと、キリストが湖の上を歩かれた奇跡が記されます。マタイ、マルコ、ルカとヨハネ福音書が共通した内容になっています。これは珍しい個所です。

 

【民衆の期待/危険な意図】

ヨハネ6章14-15にはイエス・キリストのなさった働きを見た人々はキリストを王にしようとしたと記されます。この場合、王は油を注がれたもの=メシヤ、救い主を意味します。しかし、それは当時の征服者であったローマ帝国に対抗する政治的指導者を意味しました。革命を起し、政治的な秩序を打破する革命家、イスラエルを世界に覇者とする王者、それがキリストに期待するところであったはずです。むろんキリストはそのようなメシヤではありません。群衆がキリストを担ぎ上げようとしていますが、それはキリストの意図ではありません。そのような群衆の動きはキリストを危険にさらします。人が担ぎ上げることはキリストのこの世においでになった意図とは相反するものです。キリストの使命を危険にさらします。キリストはそのような群集の危険な意図を見抜いて群衆を強いて解散させたと見るべきです。

 

【危険に遭遇するとき/キリストの模範】

 この点、私たちもキリストを見習うべきです。私たちもまたいろいろな危険に遭遇します。大きな決断をしなければならないときもあります。重大は判断を下さなければならないときもあります。そのような時おうおうにして私たちはいろいろな可能性を考えあぐねます。こうすればよい、ああすればよい。それは自然なことです。しかし、キリストも危険な事態にめぐり合わせて、神に祈りをささげます。自分の判断よりも、あるいは決心よりもその前に、神の前に静まって祈るということの大切さをキリストは身をもって教えられます。祈りは気休めではなく、最初の私たちの行動であるべきなのです。キリストが模範を示されています。

 

【湖の逆風の中で】

 この個所に記されている時間の記述から興味深いことが分かります。夕方になったと記されます(7節).。弟子たちはすでに出発しています。弟子たちはガリラヤ湖を横断して対岸に行こうとしたのではありません。ベトサイダは湖の北東岸にある町で、5000人給食の奇跡が行われた場所とは近いところにありました。ですから弟子たちは海岸に沿って船を漕いでいたはずです。ところが船はなかなか前進しなかったようです。逆風のためだと記されます(48節)。キリストが湖の上を歩いてこられたのは夜明け前でした(48節)。この間、少なくとも数時間は過ぎています。ひょっとすると5,6時間はかかっていたかもしれません。岸に沿っての航海です。こんな長時間かかるはずがありません。逆風は激しかったと想像できます。51節を見るとかなりの強風に見舞われていたに違いありません。季節は初春であったと思われます。39節から青草の時期、冬の終わりの雨に季節が終わり、乾燥した好天の日が続くころです。嵐とはいえ、岸から弟子たちが遭遇している異常な事態を、キリストから見られえいたはずです。キリストは水の上を歩いて弟子たちのところに近づかれました。

 

【湖の上を歩くキリスト】

  湖の上を歩くなどとは信じがたいことです。そこで合理的は説明がなされました。キリストは弟子たちの乗る船に平行して湖岸を歩かれた。ところが、風が強く、波も立っていた。弟子たちは海岸を歩くイエスを見て、湖の上を歩いていると錯覚したのだというのです。実際にはキリストは土の上を歩いていたのですが、弟子たちからは湖上を歩いているように見えた。こんな合理的は説明を覆す文章が続きます。キリストを見た弟子たちはそれが幽霊だと思ったとあります。幽霊は死者の霊というよりも、水の霊、つまり精霊だという考えもあります。

 

いずれにしても弟子たちはキリストを目撃しているのにキリストだと分からなかったのです。つまり信じがたいものを見ているということになります。彼らはその目でキリストを見ていますが、まさか湖の上を人が歩くなどということは到底信じがたいと思っているのです。弟子たちは湖の上を歩く人物を目撃しています。実際、キリストは水の上を歩いているとしか思えません。弟子たちの錯覚ではありません。見ていても信じられないのです。

 

【信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか】

 湖の上をキリストが歩いているのを簡単に信じられるものではありません。信じられなくても不思議ではありません。信じないことが自然です。特に私たちは合理的精神にもとづく、科学優先の考えを小さいときから教え込まれてきました。私たちの住む社会が非宗教的なのは教育のせいだと思います。無神論的な合理精神が真理だと教えられて来ています。だから、奇跡など信じられないと言っても当然の結果です。

 では、どうすれば信じられるのか。この湖の上を歩くキリストの奇跡はマタイ福音書にも記されています(マタイ:22-33)。そこでは、ペトロの行動が記されます。ペトロはイエス・キリストのところへ歩いて行こうとします。ところが彼は強風に恐怖を感じます。とたんに沈みかけ、大声で助けを求める破目に陥りました。

 

 そのところでキリストは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されます。信仰が求められています。ペトロに欠けていたのは信仰でした。

 

どうすれば信仰を持つことができるのか。奇跡をどうすえれば信じることができるのか。奇跡はそう簡単に信じられるものではありません。私たちは先ず疑う者です。はじめから疑ってかかるものなのです。

 

奇跡を見たら信じられるか。奇跡を見ても信じられるものではありません。今まで経験しなかったことを信じろと言われても信じがたいのです。弟子たちの場合がそうです。信仰はそう簡単に持てるものではありません。でも、私たちは信じられます。なぜなのでしょうか。

 

【安心しなさい。わたしだ。恐れることはない】

キリストは水の上を歩いてこられますが、船に近づくと通り過ぎようとしたとあります(48節)。知らぬ顔をして側を通過していったという意味にとってはならないと思います。これはキリストが弟子たちに接近してこられたという意味です。船の中にいる弟子たちはみなキリストを認めることができるほどまでに接近したのです。キリストは弟子たちの近くにおいでになりました。そして、言葉をかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」

 

 大切なことは言葉が与えられたと言うことです。言葉は音声です。ただの音声としてだけ聞くならば、ここでは何も起きません。音だけでは人は動きません。その音が言葉となって心に通じるときに言葉が人を動かします。

 

 信じることは誰でも大変難しいことです。それを否定することはできません。その不信の状態、つまり疑う心を打ち砕くのは神の言葉です。聖書の言葉はそれ自体ただの語彙の連続に過ぎません。

 

【心に響くキリストのみ声】

しかし、聖書の言葉が心に響きます。キリスト者となった人たちはこれを経験します。何でもない言葉の連なりに過ぎない聖書の一句が突然私たちの心を打ちます。そのとき、私たちは心開かれます。奇跡であることは信じがたいのですが、それを信じることができるようになります。マタイ14:33では弟子たちはキリストを神の子として拝んだと記されますが、心開かれて私たちはキリストこそ神の子と告白せざるを得なくなります。聖書の言葉が決定的なのです。キリストはその姿を見ることはできませんが、側にいてくださいます。そして、私たちの心に直接み言葉をかけられます。私たちは心動かされます。

 

 み言葉が肝心なのです。弟子たちはみ言葉を聞きました。私たちもみ言葉を聞かされます。そこで私たちは信仰に導かれます。そのなかには信じがたい奇跡を信じることも含まれます。キリストが神の言葉を語る神の子であると信じるならば、そのときこそ私たちは奇跡をも信じることができるようになります。(おわり)



2015年04月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年3月29日説教「5000人給食の奇跡」金田幸男牧師

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説教「5000人の給食の奇跡」

聖書 マルコ6章30-44

 

要旨

【5000人を5つのパン、2匹の魚で食べさせた奇跡】

 5000人以上の人々を、5つのパン、2匹の魚で食べさせた奇跡が記されています。30-33節はこの奇跡の記事の導入部に当たります。

 

 30節に「使徒」がキリストの元に集められたとありますが、「使徒」はキリストの昇天後、教会に聖霊が下り、教会が宣教活動を開始してから教会を指導する人たちに当てはめられる呼称で。キリストが十字架に上げられるまで「使徒」という表現はふさわしくありませんが、「使徒」とは遣わされたものを意味しますし、また、弟子たちは、宣教、悪霊の追放、癒しをキリストの代理として行なっていますので、まさしく、「使徒」として働いていたことになります。

 

【弟子たちの休息を求めて】

 キリストがこの弟子たちを集められたのは、彼らが教えたことを確かめ、その働きをひとつひとつチェックするためでした。その上で、キリストは彼らを休ませようとされます。そのために人里離れたところを選ばれます。荒野といってもよいのです。荒野というと索漠荒涼とした砂漠を想起しますが、まったく人が寄り付けないようなところではなく、むしろ、人が住んでいないところと理解すべきです。キリストはそこでしばらく静寂のうちに精神的な休息を取るようにされたのです。弟子たちは疲労困憊でした。からだも心も休まなければならないのです。

 

【群衆の先回り】

 キリストはこのように弟子たちのことを配慮されるのですが、そのキリストの計画を群衆が妨害するかのようです。キリスト一行は船で対岸に行こうとされたに違いありません。するとガリラヤ湖の北東岸という想像が可能です。そこは余り人が住んでいない地域です。ところが向かい風のために船足が遅かったのかもしれません。群衆のほうが先に着いてしまいます。キリストの向かう先が湖の北東岸であれば、群衆はヨルダン川を渡らなければならなかったはずです。39節に奇跡が行われたのは青草の生えているときとあります。これが冬の終わりか早春を意味しています。そのころ雨が降ります。降雨量の少ない地域ですが、この時期はかなりの雨が降ります。おそらくヨルダン川は増水していたはずですが、群衆は歩いて渡ってきたと想像できます。それほどイエス・キリストのところへ急いだということになります。

 

【飼うもののない羊のように】

 しかし、キリストの当面の思いは弟子たちを休ませるところにありました。その意図を妨げるかのような群衆の行動です。キリストはこの群衆を近づけないようにすることもできました。どちらを優先すべきかといえば、弟子たちを休ませて再度派遣するほうが先だと考えても不思議ではありませんし、間違っていません。つまり、奇跡が行われる予定ではなかったはずです。群集というものは得て勝手な存在と見えることもあります。大切なキリストの目論見を蔑ろにする面倒な存在と思われます。

 

【荒野とは】

 キリストはこの群衆を遠ざけてしまうようなことをされませんでした。キリストは群衆を見て、飼うもののない羊のように思われたとあります。この場面は、旧約聖書を思い起こさせます。まず、荒野に多くの群衆が助けを求めてやって来ています。モーセは奴隷状態にあるイスラエルを救出するために指導者として立つのですが、最初彼は民衆を荒野に導いていきます。荒野は荒涼たる砂漠も含みますが、イスラエルが40年間さ迷ったところはまったくの不毛の地ではなく、家畜を飼いながら、イスラエルはカナンに入る準備をしたのです。荒野はエレミヤ31章2で言われているように「主はこう言われる。民の中で剣を免れた者は荒野で恵みを受ける」、またイザヤ63章12「主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが、彼らは荒野を行く馬のように躓くことはない」とあって、イスラエルにとって神の救いへの道でした。しかし、キリストの目には、荒野の群衆は飼うものがなく、野獣が狙っていたのです。神の民が羊飼いのいない羊(民数記27:17)のようになっています。それは哀れな場面でした。

 

【弟子たちを試されるキリスト】

 キリストはこの群衆を教えられます。病人の癒しなどのことが書かれてありませんが、キリストは群衆の求めに応えられたはずです。ところが時間が過ぎ夕方になってしまいます。これまでの弟子たちの思いは記されていませんが想像はできます。彼らは休息を取るために船に乗ってここまできたのです。ところが群衆が大挙してやってきたためにその計画は潰えます。夕方になりました。弟子たちにしてみれば一刻も早く群衆を解散させたかったに違いありません。彼ら自身がはやく休みたかったと思います。

 

 キリストはそのような弟子たちの心を見抜いていたはずです。以下に記されるキリストの言動は明らかに弟子たちを試すものです。

 

 キリストは先ず弟子たちに「あなた方が群衆の食事の用意をしなさい」と言われます。5000人は成人男子で、その他に彼らの家族もいたはずですから1万人近い人数がそこにいたはずです。弟子たちはすぐに計算をしたはずです。この人数を食べさせるために、200デナリオンものお金が必要だと思いました。よく知られているように、1デナリは当時労働者1日分の賃金でした。200デナリオンを現代の金額に換算すると、おそらく100万円から200万円近い額になると思います。

 

弟子たちがそんな大金を持っていたかどうか分かりませんが、それにしても大金です。群衆を食べさせることなど不可能と考えて当然です。どこにそんなお金があるか。これが正直、弟子たちの感想ではなかったかと思います。

 

 イエス・キリストは食べ物がどれくらいあるかと尋ねられます。弟子たちにとってそれは彼らの食事の分であったと考えられます。彼らは空腹でした。ところが、休みは取れない、なけなしの食物も拠出されそうになっています。でも、こんな少ない食料でどうして大群衆を食べさせることができるか。弟子たちはそう思い、内心腹を立てていたかもしれません。

 

 弟子たちの持ってきた食料だけでは到底群衆を養うことができません。僅かのパンくずだけが割り当てられるに過ぎません。考えてみればそれも不可能なことかもしれません。

 

【5000人給食の奇跡】

 5000人給食の奇跡が行われます。ここにはその奇跡の具体的な経過は何も記されていません。福音書は奇跡がどのようにして実施されたかを詳しく語りません。なぜなら、聖書は奇跡の行い方を書いてはいないからです。ただ、キリストは、食べ物を取り、天を仰いで祈りをささげています。これはおそらくユダヤの食前の感謝の祈りであったと思われます。その祈祷は、神を創造主として呼びかけることから始まります。食べ物は天と地をその中にあるすべてのものを創造された方からきます。

 5000人以上の人々が食べます、しかも、満腹しただけではなく余りも出ます。この奇跡は、洗礼者ヨハネを殺害するきっかけを作ったヘロデ・アンテロパスの祝宴と対照的です。ローマ人上流階級の食事、宴会は豪華なもので、食べきれないご馳走が並びます。

 

この宴とキリストの5000人の給食は対照的です。一方は食べきれない食事が並び、贅を究め、美食の限りを尽くします。対照的にキリストの給食はパンと魚だけです。質素といえばそのとおりです。しかし、ここには奇跡が行われています。ヘロデの祝宴では醜悪な計画が実行されました(洗礼者ヨハネの殺害)。

 

 5000人給食の奇跡はたいていの人にとっては信じがたいと思われるのに違いありません。少量の食料でそんなに多くの人の腹を満たせるわけがない。

 

【奇跡に合理的解釈は要らない】

 そこでいろいろな合理的解釈が行われてきました。ある人は、これはイエスが一種の暗示をかけた。そこにいた人はイエスの話を聞いて精神的にその気になった、つまり食べた気になったのだと考えるのです。ある人は、残りのパンを入れた袋は携帯用の子袋で、そこにはもともと食べ物が入っていた。それをみんなで分け合ったのだといいます。ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をするのを嫌いました。異邦人は汚れた動物の肉を食べます。彼らと同席すると汚れに巻き込まれるとして、食事には自分の分を持参していたのです。

 

 このような合理的解釈では私たちは何も心は満たされません。洗礼者ヨハネの死はキリストの受難の予告であったように、ここに記されている奇跡はキリストの復活の前触れと見てもよいのだと思います。

 

【キリストは命のパン】

 パンはそれなしに生きていけません。生きていくうえでパンは必要不可欠です。いのちを維持し、支えます。そのいのちのパンをキリストは準備されました。キリストは大群衆をただ食べさせただけではありません。そこに彼らにとっていのちを与える力を持っている方としてご自身を示しておられます。

 

 キリストは死を打ち倒された方です。死人の中から三日目によみがえられました。聖書はこのキリストの復活の証人たちの証言集と言っても過言ではありません。キリストはよみがえられました。

 

【キリストの復活】

その証人たちが地の果てまでキリストの復活を証しし続けました。多くの人たちはキリストの復活など信じられないといいます。そのとおりです。常識では考えられないことです。しかし、キリストは事実よみがえられました。もし、キリストがよみがえったのであればキリストこそいのちの主です。そのいのちを、キリストは信じるものに約束されています。キリストが5000人もの人々にパンを提供されたとしたら、信じるものには確実に、もはや死ぬことのないいのちの息、いのちのパンであるみことばを約束してくださると信じて疑いません。(おわり)

2015年03月29日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年3月22日説教「正しく聖なる人ヨハネ」金田幸男牧師

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説教「正しく聖なる人ヨハネ」

聖書 マルコ6章14-29

 

要旨

【人々はわたしを何者だと言っているか】

 イエス・キリストの宣教地は拡大して行きます。当然、そのイエスについてのうわさも広がって行きます。ガリラヤを治めていたヘロデの耳にうわさが伝わりました。ここではヘロデ王とありますが、正確には四分の一領主というべきで、父ヘロデ大王の治めていた領域の四分の一にあたる、ガリラヤとペレヤ地方を治めていた、ヘロデ・アンティパスのことです。

 

彼の耳に「洗礼者ヨハネがよみがえった」という風評も伝わっていました。その他、「彼はエリヤだ」という声もありました。また、昔の、つまり旧約時代の預言者のような預言者」だという人もありました。

 

マルコ8章27-29では、イエス・キリストが「人々はわたしを何者だと言っているか」と問われています。キリストは弟子たちを訓練されますが、弟子たちがキリストを宣教するに当たって、イエスとは誰かということが重要になってきていました。そのような背景の中で、弟子たちもイエスとは誰かという問題を突きつけられます。マルコはヨハネのことを記しますが、その目的は、イエスとは誰ではないのか、に答を見い出そうとしていると言えます。

 

【イエスはエリヤの再来か、否】

イエスはエリヤか。イエス・キリストの時代、エリヤが再来するという信仰が存在していました。マラキ3章23に「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤを遣わす」とあり、死ぬことなく火の車に乗って天に昇ったエリヤ(列王記下2:11)は再度地上に下って来ると信じられていました。しかし、キリストはマタイ17章10-12で、洗礼者ヨハネこそがエリヤだと明らかにされています。

 

【イエスはモーセの再来か、否】

また、イエスは旧約の預言者の一人であるという評判も流されていました。主なる神は申命記18:15で「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける」と言われました。モーセのような預言者であって、単なる旧約の預言者の一人ではありませんでした。申命記34:10で「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現われなかった」とあり、イエス・キリストはかつての旧約の預言者と同じような預言者ではありません。となるとイエス・キリストはそれ以上の預言者でした。人々のうわさにあるような預言者ではなく、それ以上の預言者に他なりません。

 

【イエスは洗礼者ヨハネの再来か、否】

イエスはよみがえったヨハネだと言われていました。そのとき、ヨハネは死んでいました。ヨハネは確かに死んでいて復活したのではない。マルコはこれを証言しようとしています。

 

洗礼者ヨハネは逮捕され、投獄され、その上殺害されていました。それを実行したのがヘロデ・アンティパスでした。ヘロデ・アンティパスは紀元前4年から39年までその地位にありました。父親の領地の四分の一しか相続できなかったことは不本意と感じていました。この人物は狡猾、小心、放縦、迷信家として知られ、イエス・キリストも「狐」と呼んでいます(ルカ13:32)。

 

【フィリポの妻であったヘロディア】

何故、ヘロデはヨハネを捕らえ、投獄したのか。ヨハネはヘロデの私生活を攻撃しました。ヘロデはもともと隣国ナバテヤ王国のアレタ4世の娘と政略結婚をしていました。ところが、ヘロデは兄弟フィリポの妻であったヘロディアと結婚します。ヘロディアはヘロデの姪にあたります。その結婚は律法に反するものでした。フィリポはまだ生存中でした。レビ記18:16で、まだ生存している兄弟の妻との結婚は不法とされています。当時の王族のあいだではこのような乱婚もありふれたことではありましたが、ユダの民の中では行われるべきではない悪だと、ヨハネは叫んだのでした。ヨハネの立場からすればその統治者の行動は許されない不品行と思われたのでした。

 

ヘロデはむろん個人攻撃として受け止め、激怒したことでしょう。ただそこに留まりません。ヘロデの統治していたペレヤとナバテヤ王国は国境を接し、両国は必ずしも平和な状態ではありませんでした。ヘロデはそのナバテヤ王の娘を離縁してしまったのです。ナバテヤ王はヘロデを敵とみなし、事実、30年に兵を送りヘロデの軍隊を敗北させています。ヘロデは宗主国であったローマから信用をなくし、のちにローマに召還され、流刑となり、そこで亡くなってしまいます(39年)。

 

ヨハネは民衆に影響力のある人物でした。その声に民衆が動かされえるようなことがあれば、ペレヤで不平分子の反乱がおきかねません。ヘロデはそのような事態に陥らない前に予防手段を講じたのです。それがヨハネの逮捕であったのでした。ヨハネの逮捕はこのような政治的意図からなされたことです。

 

ヨハネは支配者の不道徳な行為を非難し、ヘロデがそれに不興をおぼえたというのは事実だと思います。イスラエルでは預言者はしばしば政治的影響力を振るったものでした。その口を封じることは自然な政治的判断でした。

 

と同時に、ヘロデはすぐにヨハネを処刑することができませんでした。ヨハネは正しい聖なる人であったとヘロデ自身認めざるを得なかったのです。ヘロデはヨハネの語る言葉に恐れを抱きました。良心の咎めを感じたからかもしれません。ヨハネの説教を聞く機会もあったことだろうと思います。そのたびにヨハネが語るところに一理があると思い、全く否定することができなくなってしまったのです。むろん、ヘロデはヨハネの背後に民衆の心情を忘れることができませんでした。ヨハネを支持する人々が多かったのです。

 

【ヘロデの妻へロディア】

このような理由からもヘロデはヨハネをすぐに処置してしまえなかったのです。ところがヘロデの妻へロディアは違っていました。激しくヨハネを憎みました。私生活への批判を直情的に受け止め、彼女に対する侮辱であると逆恨みをしたものです。彼女はヨハネを何とかしたいと思います。機会を狙っていたのですが、ついにその折がやってきます。ヘロデは自分の誕生日の祝宴を開催します。当時の上流階級は何かにつけて宴会を催し、ご馳走を食べ、酒宴となりました。そこには多くの軍や政府の指導者たちが招待されます。

 

宴も盛り上がってきたとき、ヘロディアの娘がみんなの前で踊ります。身分の高い娘が人前で踊ることもめったになく、またその踊りは淫らな踊りであったとされています。ヘロディアの娘は別の文献では、その名はサロメとされています。サロメが人前で踊ったと言うことは余りありえませんが、ヘロデ。あるいはヘロディアの宮廷の場合、さもありなんと思われるほどその道徳性は失われていたと想像できます。それほどまで堕落していたと言えます。

 

【サロメ、ヨハネの首を所望】

その踊りは絶賛を博します。酔いもあったと思いますが、ヘロデはサロメに好きなものは何でも与えると約束をしてしまいます。国の半分でも与えると言うのは大袈裟すぎますけれども、ヘロデは大きく出過ぎました。サロメはさっそく母親のところに行きます。ヘロディヤは娘にヨハネの首を所望させます。ヘロデは口に出した手前引っ込めることができなくなります。ヘロディヤはヨハネの首をすぐにもらいたい。それを盆の上に乗せてもってきて欲しいと要求します。この一連の成り行きはヘロディアのとっさの思いとは思えません。彼女の胸に仕舞いこんでいたものと思います。機会があれば実行しようと決意してきたものです。

 

このようにしてヨハネは命を失ってしまいます。ヘロデのしたことはローマの法律にも違反しています。ヘロデの国はローマの属国に過ぎません。ローマ政府の許しなく、処刑することはできません。ここではそのような手続きが取られたと思われません。ヘロデは即刻獄の中で死刑を執行します。ヘロデは人倫に反しています。いくら酔った上のことでもこのような行為は許されないものでした。ところがヘロデは人々の目を気にして、やってはならないことをしています。ヘロディアの要求を退けるべきでした。しかし、彼は、ことの重大性など構っていません。

 

このようにして、ヨハネは死にます。ヨハネは死んだのです。ヘロデが恐れたように、イエス・キリストはヨハネが生き返って再来したのではありません。ヨハネは確実に死んだのです。そして墓に収められました。弟子たちはそのようにしたのです。

 

イエス・キリストに対するうわさはどれも正しくありません。キリストは一体誰かと言う問いに答えるならば、イエスはメシヤ・キリストであると答えるべきです。弟子たちもそれに気がつくべきなのです。

 

イエスとはキリスト。油注がれたメシヤ、救い主と言う告白こそ正しい告白なのです。イエスとは誰か。油注がれた救い主なのです。

 

【イエス・キリストの受難】

何故マルコは克明にヨハネの死を記録しているのでしょうか。理由がるはずです。ここには洗礼者ヨハネ受難の物語が記されます。ヨハネはイエス・キリストの先駆者でした。ヨハネは呼ばわるものの声であり、その道をまっすぐにする備えのものです(マルコ1:2)。ヨハネはキリストに先立っていき、キリストを指し示します。ヨハネは受難を経験します。政治犯として逮捕され、言われなく、不条理の中で殺されます。不当な扱いを受けて死にました。

 

このような受難は、ヨハネに後続してくるものが誰であるかを示しています。実際キリストの政治犯として、つまりローマに対する反逆者として処刑されます。ピラトはキリストに罪がないと認定しながら、ローマに対する政治犯が受ける十字架刑に処せられてしまいます。キリストも受難を受けました。イエスとは誰か。生ける神の子、メシヤです。しかし、このメシヤは苦難を忍ばなければならない救い主でした。

 

ヨハネの場合、遺体は弟子たちに引き取られ、葬られます。ところがイエス・キリストの場合、弟子たちは逃亡し、イエスの遺体を引き取ったのはアリマタヤのヨセフという人物でした。この相違はキリストの死の悲惨さを倍加します。ただ、キリストの苦難のゆえに大きな神のわざがなされます。キリストの苦難は私たちに変わる苦難です。キリストは十字架につけられ死なれました。それによって私たちも共にしに、キリストの復活によって共に生かされます。(おわり)

 

 

 

2015年03月23日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年3月15日説教「何も持たないでいく」金田幸男牧師

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2015年3月15日説教「何一つ持たないで」金田幸男牧師

聖書:マルコによる福音書6章6(後半)それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。

11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」

12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 

要旨  

【それから・・】

冒頭の6節後半が、6:1-6にかかるのか、7-13にかかるのかという問題があります。前にかかるとすれば、1-6に記されていたのは、イエスの育った町ナザレの人々がイエス・キリストを受け入れなかったということで、その場合、6節の後半の意味は、ナザレでキリストが拒否された結果、そこを去ってナザレ近辺の村々で福音を宣教したということになります。

 

7-13節にかかるとすれば、6節後半は、キリストが伝道範囲を拡大し、そのために人手が不足するようになった原因を記します。こうして、今まで訓練してきた弟子たちを、各地に派遣することになったという意味で取ることができます。

 

どちらが相応しいか。新共同訳は明らかに6節後半は7-13と関係すると解釈していますし、これが穏当だと思います。キリストはガリラヤ地方での伝道の範囲を拡大して行かれます。キリストの教えを受け入れる人が多くなってきます。キリストの伝道は同心円的に拡大していき、ついに地の果てまで拡大していきます。

 

【弟子訓練】

キリストは12人の弟子を選ばれました(マルコ1:13-19)。弟子たちはすぐには各地に派遣されません。その前に訓練する必要がありました。その訓練方法は、実地訓練というべきやり方です。キリストは単にどこかの教室で学ばせるというやり方ではなく、実際に会堂やその他の場所で民衆に教えられますが、弟子たちはそれを聞かされます。譬えで語り、その意味を弟子たちには明らかにされました。

 

また、嵐を静め、悪霊を追い出し、病人を癒されました。弟子たちはそれを目撃しました。キリストは弟子たちをこのようにして訓練されたのです。訓練期間がどれくらいであったか分かりません。そんなに長期ではなかったことだけは確かです。キリストの弟子訓練は何十年もかけて行われず、むしろ短期間であったと思われます。しかし、きわめて効果的な訓練であったことは確かです。

 

弟子訓練は時間の長さではなく、実際にキリストが何を語り、実際に何をしたかにかかっています。キリストがなさったことを体験すること、それが弟子訓練の最も重要な部分でありました。私たちも頭でなく、実際にキリストが語られ、弟子たちはキリストの働きを証言しているところに立たなければなりません。

 

【二人一組で派遣】

キリストは弟子たちを派遣するに当たって、二人を組にして派遣されます。一人ではなく、二人を宣教に遣わされます。

ひとりでは孤立します。孤立はキリスト者にとっては大きな試練となります。一人で知らない土地に派遣され、そこで伝道しろといわれても怖気づくものです。何も知らない町で伝道するとなると、もうひとり同志がいることは大きな励ましになります。励ましあい、支えあうことは伝道に必要です。もっとも、相互監視としても機能することを否定できません。そのように弟子として振舞わなければならないとしたら悲劇です。

 

【二人以上の証言】

しかし、二人組にしての派遣は別の目的があったと考えるべきです。申命記19:15-19では、裁判のとき、二人以上の証言は確固とした証拠能力があると見なされていました。今日では物証のほうが優先されます。現場に残された遺留品は証拠能力があるとされます。

今日では、目撃証言は物証以上に評価されません。しかし、古代世界では、二人以上の証言があれば、その裁判を左右する有力な証拠とされます。これは今日の時代の流れにそぐわないと受けとめられています。キリストが二人を組にして派遣されたのはその語ることが真実であると思わせるためでした。弟子たちはキリストの説教を聞き、奇跡を目撃しました。その目的の真実さを受け入れるようになるために二人組にして派遣されたのです。

 

キリストの弟子たちの語ることは真実です。私たちはここからキリスト教宣教の真実を知らされます。誰かの発明ではなく、何か教えを改変してしまったのではなく、キリストの弟子たちはキリストこそ多いなるみ業を行う神ご自身であることを証言しています。弟子たちは単にキリスト教団を拡大するために派遣されるのではありません。我々は見た、ということを宣言するために派遣されたのです。

 

【権能を移譲】

 キリストは弟子たちを派遣するために権能を委ねられます。権能とは力を伴います。人を派遣するとき、権能を与えなければその働きは効果を発揮できません。タイトルだけ与えて実際の権能を与えなければその人は何もできません。権能が委ねられることもないような派遣はありえません。

 

【悪霊を追い出す権能】

この権能は悪霊を追い出す権能でした。権能はこの世界の権能ではなく、霊的勝利をもたらすための権能でした。弟子たちはこの権能を委ねられ、実際、13節にあるように、その権能の行使を実行しています。

 

 キリストは権能を授けますが、それは派遣するものがキリストの代理者であることを示します。弟子たちがしたことは12-13節に記されますが、彼らは悔い改めを宣教し、悪霊を追放し、病人を癒します。これはキリストがなさったことです。弟子たちのすべきことは、キリストがなさったことと同じです。弟子たちはこの範囲からはみ出すことを許されません。

 

【派遣のための訓示】

キリストは弟子を派遣するために訓示を与えます。先ず、杖を1本持て。マタイ10:10では杖を持たないようにと命じられています。どちらが正しいのか。どちらと決めることは困難です。歩行のために杖があると楽です。急な坂を登ったりくだったりするとき杖を持っていると助かります。弟子たちは険しい道も行かなければなりません。杖は必需品とされます。しかし、杖は武器ともなります。マタイが記すように、キリストは弟子たちに杖の持参も禁じられたとすると、無防備であることを奨励しているということにもなります。古代のユダヤの社会ではそれはとても危険なこととされます。強盗や山賊が跋扈する社会では旅行者は杖を必要としますが、キリストはあえて無防備で伝道しろといわれているかのように受け止める人もいます。そのために勇気が求められます。キリストは単純な無抵抗を奨励しているのではありません。キリストは杖だけを持参することを認められたと理解していいのだと思います。

 

パンは腐りにくく乾燥させます。そのように処理された食料は旅行を実行するために必要です。長い距離を行くとき、途中で宿泊施設を見い出すのは困難でした。そのパンを持つな。その日の食事のことでアクセク考えるなという意味です。パンはどころか何一つ食べる機会を失してしまうことにもなります。

お金は小額の貨幣を指しています。僅かのお金もなく、無一物で旅行をしなさいとは無茶な話です。大金ならいざ知らず、僅かのお金も持たないで伝道する。無茶な話です。

 

履物はサンダルです。当時の人々は、大半は素足で歩きました。しかし、裸足では徒歩で長時間歩くことは不可能です。サンダルだけ認められるのは長距離のせいです。弟子たちはこれから遠くまで派遣されていきます。サンダルを履かないでは長い伝道旅行をすることはできません。伝道旅行は思う以上に過酷なものです。

 

最後に下着を二枚持つなと命じられます。当時の下着は長く体を覆うことが出来るようになっています。夜中野宿をするような場合、夜露を避けることができます。夜中宿を取ることができなければ夜露を避けることができないまま寝るようになってしまいます。

 

以上のようなキリストの訓示は大変過酷な伝道旅行を暗示されているように思われます。実際伝道は困難です。そこには厳しい日常生活があります。一部の信者ならばできるかもしれません。しかし、大半の信徒にはできないような要求となっています。

 

このようなキリストの訓示をどう理解したらいいのでしょうか。キリストの弟子たちは無一物となって、厳しい日々の生活を過ごさなければならないのでしょうか。キリスト教の歴史から知ることは何もかも捨てて献身的に働いた人々のことです。私たちは宣教するときは無一物、つまり一切を投げ捨てなければならないのでしょうか。キリストは伝道に従事するものは禁欲的に生きて行けとはいわれていません。

 

【キリスト者を迎え入れる親切な家】

キリストは10節において、キリスト者を迎え入れる親切な人のことが記されます。神は、無一物の伝道者を路傍に捨てるようなことをされません。必ず、働き人を喜んで迎えて世話をする人が出てくるようにされます。

 

キリスト教会では最初から旅人への親切が奨励されていました。ホスピタリティといわれるものです。神は各地を巡り歩くもののために彼らを援助する信徒を用意されていますから、何も持たないでいいのです。伝道者は飢えなければならないとか、無一物で働けという声を聞きます。それは間違っています。むしろ神は伝道者が飢え乾かないように整えられます。何も持つな、あとはどうなろうと関わらない神ではありません。キリストは伝道者のために配慮をされます。

 

これは伝道者だけの問題ではありません。キリスト者は苦難の道を歩まなければならないことを知っていますが、また、同信の人々の助けも用意されています。孤独で伝道することはできません。多くの陰で支える働き人があってこそ、伝道者はその務めをまっとうできます。

 

しかし、安楽だからといって長居できません。目的が達したらさっさとそこは立ち去らなければなりません。また、必ず受け入れられるとは限りません。そういうところは足のちり、ほこりを払って出て行きなさいといわれます。足のほこりを払うのはユダヤ人のやり方で、ここは異教徒の住居でそういうところとは縁を切るという宣言でもあります。私たちは福音を受け入れず、伝道者をなおざりに扱うものとは関わりないと宣言されます。弟子たちはこのような福音との無関係さをも人々に宣告する役割も果します。(おわり)

2015年03月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年3月1日説教「イエスにつまずかないこと」金田幸男牧師

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説教「イエスに躓くこと」金田幸男牧師

聖書 マルコ福音者6章1-6a

1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。6 aそして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。

 

要旨

【イエス、故郷ナザレに帰る】

 イエス・キリストは、敵対する諸勢力に勝利を示されます。キリストを飲み込もうとする嵐、汚れた霊、そして、病気と死を圧倒されました。会堂長ヤイロに対して、ただ信じなさいと語られました。12年間出血を患っている女性には、信仰があなたを救ったと断言されています。

 

 それとは対照的に、イエスの故郷では不信仰が明らかになります。

 イエス・キリストは故郷のナザレに行かれます。それは単なる帰郷ではありません。まして故郷に錦を飾るためではありません。弟子を同行しています。それは弟子を訓練するためでありました。

 

イエス・キリストがどのようにして聖書の学びをしたか、実地に示すこともあったでしょうけれども、ナザレの人々の、キリストに対する態度、姿勢を通して、逆説的に、つまり反面教師的に、イエスとは何者かを示そうとされたとも考えられます。そして、信仰とは何かを教えられます。

 

【イエスの説教】

安息日になったので、キリストはユダヤ人の会堂に入られます。その町の会堂長は、朗読された聖書の箇所について、列席している律法の教師に講解を求めました。それが習慣でありました。キリストがどのような聖書の解説をしたかは記録されていませんが、いつものように朗読された聖書がいまや成就しているという主題であったか、あるいは、神の国の完成、到来が近いこと、神の福音の恵みを語られたことは間違いありません。それは心打つ話であったと思われます。多くのナザレの人々はそれを聞いて驚いたと記されています。キリストの説教は今まで聞いたことのないような、感動的なものであったということでしょう。しかし、それで、キリストを信じるとか、受け入れるとかの行動に出たのではありませんでした。むしろその逆です。

 

【イエスは誰の子か】

 イエスの知識はどこで学んだのか。その手のわざはどこで仕入れたのか。つまり、イエスという人間がそんなことができるわけがない、胡散臭いというキリストに対する疑いがそこにあると考えてよいのでしょう。それは、イエスのことを我々はよく知っていると言う先入観に基づきます。

さらに、イエスに対するもっと低い評価の原因もあったと想像されます。それは、イエスを「マリヤの息子」という表現から推量できるかもしれません。母親の名前を出してその息子という言い方は普通ではなかったとされます。その父親が死んでいても、その父親の名前が出されるはずだったのです。ヨセフの子、イエス、これが正式の呼称です。ところが、マリヤの子という言い方には侮蔑、過小評価、悪意の含みも考えられるのです。つまり、父親が誰か分からないような子どもだというのです。ナザレで、ある人たちは、このようにイエスを見ていたと考えられます。これはひどい言い方です。イエスに対するこのような侮り、侮蔑が、ナザレの人々の中にあったとすれば、それはキリストに対して全く低い評価を与えて当然です。

 

【乙女マリヤより生まれ】

 しかし、私たちは別のことを語ることができます。イエス・キリストは処女マリヤから生まれたということです。世間ではイエス・キリストに対してひどい評判が立っていました。しかし、それはまたキリストが処女マリヤの胎に宿り生まれたがゆえにこのようなうわさ、あるいは風評が立っていたともいえるのではないか。そのように推測できます。キリストの処女降誕の教義はキリスト教信仰にとって重要であるということができます。それなしにキリスト教の最も重要な教説、キリストは罪なくして生まれ、アダムにおける原罪を引き受けることがなかったという教理は確立できません。キリストはアダムの罪を引き受けることはない。キリストはその意味でも無罪であった。だから、私たちに代わって神の前で贖いをまっとうできたのです。

 

 しかし、ナザレの人々にとっては、イエスは評価などできない人物でした。マリヤのうわさのことを別にしても、イエスは小さいときから知られている同郷人です。彼のことはよく知っている。ナザレの人々はそう思ったことでしょう。だから、今はどんなに偉くなっていても子どものころを思い出せばとても尊敬などできない、そういう思いが人々を捉えたことは容易に想像できます。

 

そんなイエスの言うことなど信じがたい。イエスは何者か、我々はよく知っているという偏見でキリストを見ているのです。このようなキリストに対する偏見がキリストの教えを受け入れさせないのです。ナザレの人々は会堂でイエスの教えを聞きました。しるしも目撃しました。キリストの教えがそれまで聞いていた教師たち以上に深く、感動的であることも知ったはずです。しかし、キリストに対する偏見が彼らの目を遮ってしまっています。だから、キリストを受け入れることが出来ませんでした。私たちも同じです。キリストの言葉が卓越しているということは認めます。しかし、そのキリストは単なる人間に過ぎないという前提で見ますと、キリストの教えは、そしてキリスト教信仰は拒否することになってしまいます。

 

【預言者は故郷では受け入れられない】

 イエス・キリストは、このようなナザレの人々の態度を見て、預言者が故郷の人々に受け入れられない、という格言めいた言葉を語っておられます。この種の格言はユダヤ人の間でもギリシヤ人の間でもあったそうです。その場合、預言者ではなくて、政治家、あるいは哲学者などに向けられた言葉であったと思われます。出世をし、あるいは成果を挙げた人物も故郷では鼻垂れ小僧扱いされます。故郷では正当な評価を受けることなく侮られる。

 

 そして、キリストはナザレではあまり多くの奇跡を行われませんでした。福音書は、少数の人々を癒しただけで、その他の奇跡は行うことができなかった、と記します。この言葉は奇異に感じさせられます。キリストにもできないことがある。その行動の制約がある、という表現になっているからです。キリストの働きを制御するようなことがあってよいのだろうかと私たちは考えます。そんなはずはないと思うものです。しかし、ここでははっきりキリストが奇跡を行うことができなかったとあります。そのような事態を招いたのはナザレの人々の不信仰でした。

 不信仰があるところで、キリストの事業が阻止される。これは受け入れがたいのですが、真実です。私たちの不信仰がキリストの大きな働きを邪魔するのです。

 

 不信仰というのはそのように深刻な事態でもあります。不信仰など所詮人間のひとつの態度表明に過ぎないと思っているのです。いえ、不信仰というのは人間らしい決断であると思っているのです。キリストはむろん何でも思うところを行う力を持っておられます。そのキリストは、私たちに信仰を求められます。会堂長ヤイロには、ただ信じなさいと命じられます。ヤイロが信じようが信じまいが関係ないと言っても言い過ぎにはならないでしょう。少女の問題だ、その少女は死んでいる。だから、人間の信仰の有無によらずキリストは果断に行動すればよいではないか。それが私たちの思うところでしょう。キリストは、人間の不信仰ではなく、信仰を要求されます。あたかも信仰がないところでは行動が妨げられるといわれているかのようです。

 私たちはもちろん信仰がないところでキリストが働かれないという事実を受け入れざるを得ませんし、それは常識問題かもしれません。

 私たちは信仰が弱いものです。信仰が弱いところで果たして神は働かれるだろうかと考えますと、それは否定できるところではありません。受け入れざるを得ません。祈りは信じて祈るべきです。  

 

ところが私たちは信じきれないままに祈ります。そうすると祈りが実現しないのは当たり前だと思い、実現しなくても仕方がないと諦めます。これが私たちの一般的な心情といってもいいかもしれません。祈りがかなえられないのは、信仰が薄いからだ。そう思うのです。

 キリスト教会が弱いのはキリスト者の信仰が弱いからだ。だから、キリスト者よ、もっと信仰を燃やせ。こういうアピールもしたくなってきます。

 

 私たちの信仰の度合いにしたがってキリストは行動されざるを得ない。こういう考え方は正しいでしょうか。確かに私たちに不信仰は反省しなければなりません。信仰の熱心を燃やさなければなりません。信仰がないところではキリストは行動されないという思いがそうさせます。

 

【不信仰にかかわらずキリストは奇跡をなされた】

 不信仰が奨励されてはなりません。しかし、ここではもうひとつの側面が記されています。ナザレの人々の不信仰のただなかで、キリストは奇跡を行っておられます(2節と5節)。ナザレで全く何もされなかったのではありません。わずかであろうと奇跡は行われたのです。ナザレの人々の中の数少ない信仰を持っている人にだけ奇跡が行われたのだと見る見方もあるでしょうけれども、今までのキリストの働きから言って、そうとは限りません。つまり、不信仰のただなかでも奇跡は行われたと見てもよいのではないかと。不信仰が蔓延しています。不信仰に取り囲まれています。その中にはキリストに対する許しがたい侮辱も含まれています。にもかかわらずキリストは奇跡を行われていることも確かです。不信仰はキリストの働きを妨害します。不信仰は譴責されるべきです。不信仰は神の御業をないがしろにします。不信心は奨励などされてはなりません。同時に、キリストは僅かではあっても不信仰を前にしてその大きな御業を行われます。驚くほど少なくても奇跡は起こります。

 

 私たちの信仰は弱い、それは褒められたものではありません。しかし、信仰が弱い、まるでないかのようだと思われてもキリストは必要ならばそこで奇跡を行われます。繰り返します。不信仰は督励されてはなりません。しかし、私たちの信仰が文字通り完璧でなければキリストは何にもされないなどと考えることは不要であるとも断言してもよいのではないでしょうか。(おわり)

2015年03月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年2月22日説教「恐るな、ただ信じなさい」金田幸男牧師

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説教「恐れるな、ただ信じなさい」金田幸男牧師

聖書 マルコによる福音書5章35―43

 

要旨

【2人の女性の癒し】

 マルコ4:35からイエス・キリストに敵対する勢力への勝利の物語が三つ並んで記されています。最後の5:21-43には、病気という大きな、キリストの働きを阻止しようとする勢力への勝利が記されます。病んでいるのは2人の女性です。この2人へのキリストの働きは共通点があり、関連していますが、今回は別個に取り上げます。その2人の女性とは、12年間出血と患う人と会堂長ヤイロの12歳の娘です。

 

【会堂長】

 会堂長について若干説明します。ユダヤ人の宗教生活に神殿での行事、そのところでの礼拝は重要ではありましたが、キリストの時代には、それ以上に安息日に会堂【シナゴーグ】に集まって礼拝を守ることが重視されるようになっていました。ユダヤ人はその集落を営むところでは会堂を建て、そこに集まりました。この会堂を管理するものが会堂長です。多くはその地のユダヤ人の間で尊敬されている人物が選ばれました。彼らは律法学者や祭司のような専門家ではなく、一般のユダヤ人の信徒でした。カファルナウムのようなユダヤ人が多く住むところでは会堂の規模もそれなりに大きく、したがって会堂長は複数の人が選ばれていたようです。

 

【ヤイロの懇願と癒しの中断】

ヤイロ(ヘブライ語ヤイル=彼は照らすの意=のギリシヤ語読み)の娘が重病に陥ります。どんな病気であったか記されていませんが、ヤイロはキリストのことを知っており、取りも取りあえず、キリストのところで駆け込みます。彼はキリストの前に平伏して懇願します。その気持ちは分かります。彼にとって、この娘は可愛い盛りでありました。目に入れても痛くないほど激愛していたのに違いありません。切羽づまってキリストに助けを求めたのでした。キリストはいつものように多くの民衆に教えを語っておられる最中でしたから、ヤイロの行動はキリストの働きを中断させるものでした。キリストは、そのようなヤイロの行動を責めることなく、その家まで同行しようとされます。ヤイロはその時点ではひと安心という思いになったかもしれません、ところが、またもや中断が起きます。12年間出血を患っている女が群衆に隠れてキリストの服に触ろうとしました。実際彼女は癒されます。キリストはその女性に名乗り出るように求められます。ヤイロの言動や態度は記されていませんが、気が気でなかったことは容易に想像できます。一刻を争う緊急事態なのにキリストは悠長に女性が名乗り出るのを待っています。

 

 私たちは、心急くことがあり、緊急に何とかして欲しいと思うような経験をしばしば味わいます。ところが、思い通りには行かないのです。これが人生だというべきかもしれません。私たちはいつもかくあって欲しいと思うような願いを心に抱きます。それは緊急の場合も多くあります。しかし、実際には実現しないのです。それは、私たちの信仰生活の中でも起きてきます。神に、願う。懇願する。実現を切に願う。ところが神は一向に答えてくださいません。焦燥感に駆られ、失望をします。こころの苦しみを体験します。

 

【娘の死の知らせ】

 そして、そこに悲報が伝えられます。12年間出血を患っていた女性とやりとりをしている間にヤイロの娘が亡くなったという知らせです。もうキリストに来ていただく必要がない。キリストに来ていただいても何の役にも立たない。もう手遅れである。

 死が私たちにもたらす感情は万事休すです。死が来た時人間はもう何もすることがないし、できない。死によって一切は終了した。生きているときには手の打ちようもあるかもしれないが、死んでしまえば何もできない。人は死の前で全く無力である。死は諦めを促します。死の知らせが伝えられるとき、私たちの心に去来するものは大きな失望です。万事休す。死は一切の終わりである。誰もがそのように考えても不思議ではありません。死に直面して、このような感情が私たちの心を支配します。恐るべき力を持って臨んできます。そして、キリストの関与を拒絶します。死は、キリストをいわばお払い箱にしようと企てるのです。死の領域では、支配者は断じてキリストではないと宣告したがります。死は、死の力の強大さを誇示しようとします。病気もまたこの死を確実にもたらしてくる強大なキリストの敵であると言っても過言ではないでしょう。

 

【「恐れることはない。ただ信じなさい。」】

 ところがキリストはそのような死の厳粛さをぶち壊してしまうような雰囲気を醸しだされます。キリストは言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」ヤイロに言われていますが、この言葉をそこに居あわせた人が聞いています。

 敵対する勢力、ここでは病気と死ですが、人間に圧倒的な力を振るっています。この力の前で人間は全く手の施しようがないかのようです。ところが、キリストはこの敵対する力に抗して、求められるのは信仰です。12年間出血を患っていた女性には、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。信仰がその奇跡を起こしたと言われているかのようです。むろん、病を癒されたのはキリストの力です。キリストこそ病を打ち倒す実力を持っておられる方です。

 

【死に対するキリストの凄まじい闘い】

ただ、病気も死も恐ろしい力を発揮しています。この力を打ち破るために、キリストは私たちにただ信じなさいと命じられるのです。病と死に対するキリストの闘い、それは凄まじい闘いと言ってもよいでしょうけれども、私たちは単なる観客ではないのです。キリストを信じきることが求められます。信仰のないところでは、病と死という圧倒的な力を前にして、抵抗する術は全くありません。医療技術の進歩で信仰など入る余地がないように思われています。治療に信仰などかえって邪魔だと公言する人もいます。そうでしょうか。病気と死が持っている強烈な力は今もなお健在ではないでしょうか。それを目の前にするのは自分が病んだり、死を目の前にしたときです。そのとき死がおごり高ぶっていることをいやおうなく知らされます。むろん、信仰さえあれば医者は要らないとか、病院に行くことを拒否してもよいなどと言うのではありません。神はそれらを用いて癒しのわざを行われます。神の働きを信じて治療を受けるべきなのです。 

 

【癒しの証人】

 さて、キリストは群衆から離れ、三人の弟子だけをヤイロの家に連れて行きます。奇跡は見世物ではないからです。しかし、密かに行われるべきものではなく、3人プラス、ヤイロとその妻は証人として選ばれます。

 

キリスト一行がヤイロの家に到着したときすでに葬儀は始まっていました。当時のユダヤ人の葬儀はかなり騒然としていたと考えられます。葬儀には必ず泣き女と言って大声を出して泣き叫ぶ職業的専門家が招かれました。大きな声を出して泣き、その場の雰囲気を盛り上げるといってもよいでしょう。ヤイロのような町の有力者の場合はそれ相応の人数の泣き女が招かれたことでしょう。死は悲しい、そういう雰囲気を作り上げることが葬儀の目的でした。葬儀は、今日では、エンターテインメントになっています。専門の業者が入り、葬儀の雰囲気を作り上げます。とても悲しい声で、葬儀が進行されていきます。厳粛な雰囲気を作り上げるためにさまざまな工夫がなされます。しかし、多くの場合、葬儀は、死そのものを直視させようとしません。葬儀の雰囲気は厳粛であり、それ自体責められるべきものではないとしても、死そのものは隠されています。例えば、花や香料で死(者)のにおいはかき消されます。死は葬儀の場では後退させられます。泣き女の存在はその場の悲しみを盛り立てはしますが、それは専門的にその場を悲しい場にしようとするもので、死の問題、死者の存在は後ろのどこかに忘れさせようとしています。しかし、葬儀こそ、私たちはそこで死を直視し、死に対決させられる場なのです。

 

【子どもは死んだのではない。眠っているだけだ】

 キリストが到着します。「子どもは死んだのではない。眠っているだけだ。」この眠りは昏睡を意味しますので、キリストの言葉の通りこの少女は死んでいたのではないという説明をする人もいますが、この文章の流れから言うと確かに死んでいるのであり。キリストはただよみがえらせられることを前提にしてこの言葉を語られただけです。泣き女をはじめそこにいた人は嘲笑します。確かにヤイロの娘は死んでいたのです。誰が聞いてもキリストの言葉は奇異に感じるはずの発言でありました。

 

【タリタ・クム】

 キリストは、少女の手を取って「タリタ・クム」と言われます。ここには呪術の気配は一切ありません。タリタ・クムとはアラム語で、少女よ、わたしは言う、起きなさい、と言う意味です。わざわざアラム語(当時、使われていた共通言語)を記していることは、5人の存在、あるいはあとで食事をさせなさいと言われたキリストの言葉からして、大変リアル(現実的)と感じさせられます。少女に食事をさせるのは特に大きな意味があるとは思われません。詳細な記述です。それがここにあるのは、目撃証言と見てよいのではないかとおもわれます。つまり、ここは実際それを見た目撃者の文体なのです。キリストは間違いなくこの奇跡を公然と行われたのでした。少女は本当に死んでいました。眠ったかのように見えただけです。その死んだ少女を死から確実によみがえらされました。

 

【死に対する勝利】

 キリストは死を打ち破る力を発揮しておられます。そして、これは驚くべき場面です、死そのものがキリストに敗北しています。死に対しても圧倒的な力を発揮されたキリストを私たちは目の前に差し出されています。聖書に書かれてあることでこれほど信じがたい記事はありません。信じがたいのですが、私たちはこの記事のリアルさを思い、また、キリストが大きな力を示されたのを目撃したものの証言であることを支えに、信じることが要求されています。ただ信じるしかありません。信仰とは、信じがたいのですが、それでもなお信じるほかはないと認めていく私たち心の動きであると思います。(おわり)

2015年02月22日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年2月15日「安心して行きなさい」金田幸男牧師

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説教「あなたの信仰があなたを救った」 

聖書:マルコ福音者5:21―34

 

 

要旨 

【重病のヤイロの娘と12年間出血を患った女性】

イエス・キリストが敵対する諸勢力に勝利された三つの箇所の最後を共に学びたいと願います。ここには12年間出血を患った女性と、ヤイロの娘の癒しという二人の女性の癒しの物語が記されていて、両者は密接な関係にあると見るべきですが、それぞれ大切なことを示していますので、別個に取り上げたいと思います。

 

 21節には、イエス・キリストは船に乗って再び対岸、ガリラヤ湖の西岸に渡ったと記されます。1-20節に記録されている汚れた霊につかれた男の癒しはゲラサ地方で起きたことですが、そこは異邦人の多い地域、デカポリス地方でした。キリストは異邦人の間での働きよりもユダヤ人に伝道することを急がれました。ゲラサでは残って働きをし続けることをせず、西の岸、ガリラヤ地方での宣教に戻られます。岸につくとまた多くに人々が集まって来ました。キリストは群衆を相手に教えを説かれます。そこに、会堂長のひとりであったヤイロがやってきて、キリストの前に跪き懇願します。娘が危篤状態で何とかして欲しい。

 

 キリストは群衆に語っている最中です。ヤイロの行動はキリストの働きを中断させます。つまり、妨害でもあったのです。一般的に言えば、ヤイロの行為は不届きで、迷惑な話です。キリストの働きを中断し、自分の都合を優先する行動で、失礼な話です。自分のことばかり考えている利己的な行為と決め付けることもできるかもしれません。しかし、ヤイロにとっては可愛い娘が死にかけているのであって何とかして欲しいと必死です。キリストはヤイロに対して何を語ったのかここには記されていませんが、キリストは直ちに行動されます。

 

【12年間出血を患った女性】

 ところが、そのキリストの行動を再び妨害する女性の行為が記されます。こっそりとキリストに近づき、その服に触ろうとしたというのです。その女性のことは短く記されます。12年間出血を患っていた。多くの注解書は彼女の病気は婦人病であったとしています。

 

 病気は多くの苦しみをもたらします。まず、肉体の苦痛です。おそらく12年間、貧血に悩まされていたと想像できます。そのために、床に伏している状態が続いていたでしょう。青白い顔をして、起き上がれず、からだはだるく、不快感に悩まされていた。病の多くは痛みを伴います。激痛もありますし、何となく痛むという痛みもあります。痛みは感覚です。長く続けば耐え難い思いになるに違いありません。不眠、食欲不振も辛いものです。味気がない食事を何年も続けなければならないとすると、人生は耐え難くなるに違いありません。

 

 病気は経済的な苦痛ももたらします。この女性の場合、医療費のために全財産を使い果たしたとあります。現在は社会保険制度が完備して、高額の医療費の支払いを免れることもできますが、それでも、治療費やそれに伴う費用は馬鹿になりません。病むことは家族にとっても大きな負担を与えることになります。

 

【「汚れ」の問題】

 この女性の場合、まだ深刻な問題が伴いました。レビ記15:25-27には、女性特有の出血もそうではない特殊な出血も、「汚れ」とされていました。汚れは宗教的な意味があります。それは神殿の礼拝に参加できないというだけではありません。汚れているという状態は、霊的な欠陥とされます。神の前でまともではない。そういうレッテルが貼られます。汚れたものには救いはないと思われてもいました。汚れは神から遠く引き離されることを意味します。汚れたものは神に近づくことができないのです。神から捨てられても当然とされます。

 このような汚れたものは、他の人をもけがしますので、人が集まっているところに近づくことができません。社会的な苦痛をいやおうなく味わうことになります。

 

以上挙げただけでも、病気は、ただ症状だけの苦しみではなく、心の苦痛を伴い、精神的な痛みとなります。心の痛みは、不安、恐れ、孤独、絶望といった苦痛となります。

 

病を得るということは誰もが味わう可能性があります。突然病気は襲ってきます。健康で病知らずを誇っていた人が突然の病に伏してしまうことは決して珍しくありません。病気は誰にもやってくる厄介な状態です。病気は人を選びません。時間も空間も関係なく、病苦は襲ってくるものです。

 

 この女性も病苦から逃れたいと必死の思いになっていました。そこで、キリストのうわさを聞いてキリストに接近しようと計ります。彼女の計画は成功します。キリストの服に触れたのです。すると彼女は病気が直ったと感じます。出血は完全に止まります。

 

キリストは、自分の服に触ったのは誰かと言われました。弟子たちは、イエスの言葉を無視します。こんなにたくさんの人が押し迫ってきている混乱状態、しかも、ヤイロの家に向かう忙しい途中です。誰がキリストの衣服に触ったか分かるはずもない。こういう気分であったと思います。ところがキリストは止められません。なおも、誰がわたしに触れたのかと繰り返されます。女性は恐れつつ、自分の身に起こったことを、ありのまま、群衆の前で語ります。そこで、イエスがいわれた言葉「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」が語られます。

 

【「娘よ」】

 このキリストの御言葉こそこの奇跡物語を理飼するための鍵句です。「娘よ」、という呼びかけは福音書ではここだけだけです。娘はむろん息子に対応する言葉です。神の子という意味と同じでしょうけれども、もっと神に属するもの、神から特別に愛されているものという印象を受けます。12年間も病気であり、社会から疎外され、孤独な人生を過ごしてきたこの女性も神の娘に違いないのです。また、この言葉には、差別され、区別されてきた女性に対する憐れみの感情が明らかにされているように思われます。

 

信仰が救った、彼女は何よりも長い病から解放されます。それが救いであることは間違いありませんが、病がもたらす悲惨からの解放、苦悩からの救出であったことはいうまでもありません。それが信仰のもたらしたものです。では、信仰とは何か。

 

【迷信的な信仰】

 彼女の示した信仰は最初は、特別な能力のある人に接触すれば病は治るという迷信的なものでありました。注解書や説教集を読んだりすると、この女性の行為は迷信的なものであったと説明されます。確かにそうかもしれません。古代世界では、偉人、英雄に触れることでその特別な力を伝授されるという迷信的な信仰があったことは事実です。しかし、単純に彼女の信仰は迷信だと片づけるわけにはいかないと思います。彼女はキリストのうわさを聞き、彼に期待をしました。信仰は期待から始まります。キリストに何の期待もしない。そこからは何も起きません。祈りは期待です。期待なしの祈りなどありえません。祈りは信仰に基づきます。迷信的であってもそこにこの女性の信仰が表現されています。

 

【信仰の体験】

 しかし、キリストはこれで彼女の信仰をよしとされていないのも事実です。彼女にも求められていることは、その身に起きたことを明らかにすることでした。衆目に晒されているところで、キリストが何をしてくださったかを語ることは信仰の告白です。勇気が必要です。信仰はその中に神が何をしてくださったかを含みます。信仰は神のなさったことの体験を語ることでもあります。それは信仰の告白です。キリストが何をしてくださったのか、それをわきまえることも信仰の一部です。キリストは十字架の上で私たちの罪をあがなってくださいました。わたしの罪が許されたということはわたしの実感に属します。わたしのためにキリストが身代わりになってくださった結果、神の前に義とされているのは神のわざです。それを告白することも信仰に属します。

 

【信仰告白】

 キリストは彼女の内に何が起こり、彼女がそれをどう経験したかを語らせることで、信仰を告白させようとしておられます。信仰は、神が何をしてくださったかを認識することを含みます。

 この信仰が彼女を病気から救い出したのです。病気と病気に伴う、彼女を苦しめていた足枷から彼女を解放したのです。信仰は、自分が神から何を受けているのかを認識することを伴います。神がわたしに何をしてくださっているのか。それを認めてこそ信仰は確固とした基礎を獲得します。イエス・キリストはこの信仰に至るように誰がわたしの服に触れたのかと尋ねられたのです。

 彼女にとってこれはおおきな試みでありました。だまってこの場を去ることも可能でした。しかし、彼女は大胆にみんなの前でキリストがしてくださったことを明らかに語ったのです。神の大きな恵みを語ったのでした。

 

彼女を閉じ込めていた病苦は巨大な力でした。人間を縛り付け、苦悩のどん底に突き落とす要因でした。キリストはこの圧倒的な力から私たちを解放されます。キリストは敵対する諸勢力をこのようにして打解されるのです。

 

【完全な癒し】

 彼女の病は癒されました。レビ記15:28以下では出血の汚れを清められたものは祭司の手で犠牲をささげなければなりませんでした。重い皮膚病を癒された人は祭司に見せ、全快を証明してもらわなければなりませんでした。ところが彼女の場合、キリストはそんなことを命じられていません。何故そうなのでしょうか。キリストの癒しは、祭司の証明も不要なほど明白であり、完璧でありました。キリストは完全に病気を癒し、汚れの根源を除去されました。だから、祭司に見せることを求められなかったのです。(おわり)

2015年02月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年2月1日説教「何故怖がるのか」金田幸男牧師

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2015年2月1日説教「何故怖がるのか」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書4

35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。

37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。

38 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。

39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。

40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。

41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。

 

 

要旨 

【反キリスト】

マルコ4章35-5:4には、敵対する力に対するキリストの勝利の物語が三つ連続して記されています。今日はそのうちに第一、イエス・キリストが嵐を静めた物語を共に学びましょう。

 

【ガリラヤ湖と嵐】

まず、ここに記されていることは誰も到底信じがたいと思われるでしょう。現代人は自然現象が全て科学的に証明されるものと考えています。したがって、超自然的現象とは考えません。ガリラヤ湖はすり鉢型の地形になっていて、夜や朝方、主として西風が急斜面を下り降るとき加速してこ面を吹き抜けるという現象がしばしば起こります。

 

この風をイエス・キリストが鎮静化したと到底信じがたいと人は思うのです。イエス・キリストはこの風が一時的なもので、すぐに静まると知っていて「静まれ」といわれたのだと合理的解釈をする人もあります。しかし、果たしてそうなのでしょうか。ここに記されていることから気づかせられることがあります。

 

先ず、イエスは船に乗ったままであったと記されます。いったん岸辺にも行かず沖合いに船を進ませています。また、この文脈と関係なく、他の船のことが記されます。この船の消息は書かれてありません。この物語には不要の記事です。さらに、イエスは船の艫のほうに寝込んでいたと記されます。ガリラヤ湖は交通の要衝で湖もよく利用されていました。旅客船には十数人が乗船でき、その船尾には上等の乗客のためにクッションが敷かれていたそうです。キリストの乗った船は小さな漁船ではなかったことが分かります。このような詳細な部分から、書き手は嵐を静めるイエスの業を直接目撃したということになります。しかし、これでこの物語の信憑性を誰もが信じるようになるわけではありません。

 

【嵐を静めるイエス】

イエス・キリストがここに記されているように嵐を静めたかどうか真実性を確かめる術は実際にはありませんし、たいていの人間は信じられないというだけでしょう。

 

 コロサイ1:16-17をご覧ください。

「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王権も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてものものより先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」。

 

あらゆるものは御子イエス・キリストによって創造され、支持され、支配されています。この信仰からすれば、イエス・キリストが嵐を静めることができたとしても不思議ではありません。ここに記されているようなキリストであれば、嵐を静める大いなる力を保持、保有されています。そして、このキリストを信じる信仰がまぎれもなくキリスト教信仰の核心です。

 

【超自然的力を顕すキリスト】

キリスト教を冠しても、多くのキリスト教では、もはやこのようにキリストが信じられていません。熱心なキリスト者でも嵐を静める、つまり自然現象を変えてしまうような力を持つキリストは信じられなくなっています。

 

そうでなくて、キリストは心の平安を与える程度の力しかもっていないとしか信じられていせん。むろん、心の平安を与える方としてキリストが信じられているとしてもそれを非難したりできません。キリストを信じて得られる平安は大きな価値を持っています。そのようなキリスト信仰を否定などできません。それはそれですばらしい信仰といえると思います。

 

しかし、コロサイ1:16-17が記すキリストを信じることのほうがもっとすばらしい。キリストは単なるよきことの教師に留まるのではなく、また、精神的な領域だけで活躍する救済者と考えることだけではキリストを正しく把握しているのではありません。キリストは天地の創造主として、また支配者、維持者、指導者であられます。このようなキリストを告白し、信じるところで私たちは大きな励まし、慰めを受けるはずです。

 

【疲れて寝込まれるキリスト】

 さて、奇跡を見ていきましょう。イエス・キリストは朝から夕暮れまでずっと教えを続けられていました。キリストは岸辺から少し離れたところから群衆に説教をされていました。おそらくキリストは疲労困憊となってしまったのでしょうか。群衆から離れるために、岸辺に戻らず、そのまま対岸まで行かれようとしたのは間違いないでしょう。キリストは疲れきっていたのです。キリストは疲れきって船の中で寝込んでしまわれたのです。キリストが疲労困憊になって寝込んでしまったという記事は他で見当たりません。キリストが弱さを見せられたのですが、マルコはためらうことなくキリストの弱さを記録します。人間と全く同じくキリストは疲れをおぼえる方でした。同時にキリストは創造主として嵐を静める大きな力を発揮されます。この対照をマルコは意識していたに違いありません。

 

激しい風が吹いてきて船は水をかぶり、沈没しそうになって来ました。同じく湖の上に出た他の船のことは何も記されていませんが、ある注解書では他の僚船は破船したに違いないと記されます。あるいは西風に吹き飛ばされて岸辺に到着したのかもしれません。

 ガリラヤ湖の上の破船は珍しくありませんでした。この船は旅客用の船であれば比較的大型となります。漁船以上の大きさはありました。だから、少々の大風も大丈夫といってよかったと思います。イエスの弟子たちの中で、ペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネはこの湖で長く漁師をしていました。彼らは湖のことを知りつくしていました。その彼らが恐れを抱いたのです。

 

【恐怖に襲われる弟子たち】

 よほどの大型船と違い、旅客用の船でも危険をおぼえさせられるものですが、その船上で、この湖のことをよく承知したいたものですら恐怖に襲われています。そして、漁師たちも手の施しようのない危機に直面していると認識しました。それほど嵐は巨大であったと想像できます。現在では、異常気象で、今まで経験したことのない災害に見舞われています。ここでも、今まで経験できなかったような、史上最大級の風、大雨が襲ってきています。このたびの嵐も想像を絶する大きな嵐であったと考えていいのではないでしょうか。今までも弟子たちの中の漁師ですらも想像もできそうにもない危険な大風であったと思われます。

 

弟子たちは眠っているキリストをたたき起こします。イエス・キリストに大きな力があると信じていたので、助けを求めたのだという解釈も成り立つかもしれませんが、ここは熟練の漁師たちもどうしていいのか分からなくなるほどパニック状態に陥って、ぐっすり寝込んでいるイエスを起したのだと考えてもよいのではないでしょうか。それほどまでこの嵐はとてつもなく大きな現象であったと言えるのです。

 

【嵐の背後にある悪の存在】

普通ではない現象が起きています。その背後には巨大な力が厳然と存在しています。イエス・キリストを湖底まで静めてしまおうとする恐るべき敵対者が働いています。

 イエス・キリストが単なる嵐を静めただけの存在ではありません。ここに記されている嵐は表面上は単なる大きな嵐です。しかし、その嵐を扇動する大きな力がうごめいています。

 

自然現象を利用する勢力が存在します。大きな力を利用して、キリストを圧倒しようとする力が働いています。自然そのものは中立です。それを用いてキリストを圧倒しようとする計略を組み、キリストの働きを阻む敵対する勢力が力を振るって、キリストを圧倒しようとしています。

 

だから、あたかも人格があるかのように、キリストは嵐に向かって語り、湖にも語られます。キリストは嵐そのものだけに語っているのではなく人格を持ち、しかもキリストに反抗するだけの役割を果たす霊的な諸勢力と対峙されています。

 

 【勝利者キリスト】

キリストはこの霊的敵対勢力に向かって行動をされています。キリストは恐るべき敵に勝利を獲得されました。キリストは天地の創造者ですが、また、見えないところで働かれる救済者でもあります。嵐を利用としてキリストを滅ぼそうとする霊的な勢力をキリストは圧倒されます。

 

 私たちはさまざまな敵対勢力に直面しています。キリストは恐ろしい敵対者をうち平らげる方なのです。この物語がそれを証言しています。

 

自然を利用して私たちを誘惑し、試練を与え、苦悩と恐怖のどん底に陥れようとする勢力があります。そのとき、私たちはキリストがどういう力を持っているか痛感させられるのがこの奇跡です。

 

イエス・キリストは嵐を静められます。キリストは弟子たちに、何故怖がるのか、信じないのかと責められます。嵐の前、生命が失われそうになっているときに、恐れているのか、怖がっているのかといわれると筋がはっきりしますが、ここでは嵐を静めてしまってから、キリストは弟子たちにこのように言われました。時間的にずれがあるように思われます。そう思うのは訳語のためかと思います。何故怖がるのかは、「何故、かくもあなた方は小心者なのか」と訳すこともできます。

 

【小心者であってはならない】

恐れているのは小心者だからです。肝っ玉の小さな人間はちょっとしたことに恐れを抱き、怖がりすくんでしまいます。小心者とは不信仰者です。いわゆる言うところの小心者ではありません。御子が何者か知らないゆえに御子を信じないものを指しています。小心のゆえにパニックに陥ります。むろん、ただ元気だけ、勇気があるだけでは何にもなりません。ここでは恐怖心に縛られ、右往左往しているだけで、神に向かわない小心さが不信仰とされています。だから、私たちは小心者であっても、神を信頼することだけでいいのです。小心者だからこそ、神の御子を信じるのです。御子は嵐を静め、その本質を明らかにされます。キリストは神なのです。嵐を静めるキリストはただ奇跡を行う力をたまたま持ちえたというのではありません。キリストは神の子、全てのものの創造者なのです。(おわり)

2015年02月03日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年1月25日説教「神の国は何にたとえられるか」金田幸男牧師

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「神の国の譬え」


マルコによる福音書4章

26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。

29 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。

30 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。31 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、32 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

33 イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。4 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

 

説教要旨 

【神の国とは】

 マルコが記している一連の譬え話の最後のふたつを連続して学びます。どちらも神の国はどのように譬えることができるか(26,30)というキリストのみ言葉が示すように、神の国についての教えが語られます。

 

神の国という場合、聖書では、この語は広い意味で使われています。さしあたって3種類考えられます。「国」はギリシヤ語では「支配」を意味する言葉が用いられていますので、神の国といっても具体的に領土や領域、政府や行政機関、時には法律は規則を持っている国家とは異なった概念としてこの語が使われています。神が支配する領域が神の国ですから時間空間を越えて存在します。それは私たちの心にも関わります。私たちの魂が神の支配下にあるならばそこには神の国があることになります。福音が宣教され、その宣教された言葉に服従する地域が拡大していくときに、神の国が広がると表現されます。

 

【終末的な国】

第二の意味では、神の国は終わりの時に完成する、終末的な国を意味します。そのときには敵はことごとく打ち滅ぼされ、神の権威と主権だけが残ります。完成されたこの神が直接統治される国を神の国と呼ぶ場合もあります。さらに、私たちは、死んだものが直ちに行くところを「天国」つまり「神の国」という場合もあります。

 

このように、神の国という概念は多様で、一括りでは収めきれません。イエス・キリストが神の国について教えられますが、その神の国は狭義の神の国と理解するべきではありません。イエス・キリストが「神の国は何に譬えられようか」と言われたとき、「国」という言葉で連想される以上の意味を持っていると考えてよいと思います。

 

【蒔かれた種の譬え】

 最初の譬えから見て行きましょう(26-29)。ここでは、蒔かれた種がどのようにして成長していくのか、一般の人には分からないけれども確実に植物は成長すると言われています。土地は耕作に適した土地であることが前提になっています。蒔かれた種は芽を出し、茎が出て、花が咲き、そのうち実を結び、刈り取れば多くの収穫となります。種を蒔いた農民は喜びを抱いて鎌を入れ収穫します。専門家ならば日々どのように植物が成長していくかを見分けることができるでしょうけれども、私たちの目にはそれは判別できません。毎日同じような状態と思われます。ところが、生長する植物は着実に成長しています。むろん農民は水をやり雑草を抜き、手入に余念がありませんが、しかし、成長を早めるために土から引き抜こうとすればその植物は枯れてしまいます。

 

【成長する植物/人生】

 成長は植物の特質です。成長しない植物はただ枯れるだけです。神の国は植物の成長に譬えられるとイエスは言われました。成長は、神の国の特徴です。すると、成長は生命の特質でもあります。ここで、神の国が譬えられていますが、それは私たちの生命を譬えているようなものです。ただし、私たちの肉体の生命ではありません。確かにこれは成長します。人間は生まれて成長をし続けますが、しかし、いつか死にます。若いころ、子どものころは成長しますが、次第に成長は止まり、ついに死を迎え、肉体は滅びます。死が成長のきわみとは言えません。それは滅びであり、消滅です。

 

神の国がこのような、死をもって終了するいのちの比ゆに使われているはずがありません。では、どんないのちでしょうか。神が支配する生命、神が与えられるいのちを指していると考えてよいと思います。そして、生命は人生そのものです。肉体のいのちは死をもって閉じられるいのちですが、私たちの人生が神の国に属するとき、その人生は、朽ちない、祝福に満ちた神が与えられるいのちに基づく人生であるはずです。

 

 このいのちは成長し続け、ついに収穫のときを迎えます。成長は私たちには見えません。それで、私たちはこの成長を信じられず、疑問をいだきます。私たちの人生は挫折したり、敗北したりします。そのとき、私たちは成長していないものと思ってしまうのです。神のいのちが与えられているのに、いのちは失われたと思ったりします。このいのちの気配は見えなくなってしまいます。

 

【信仰に基づく人生】

 神のいのちに基づく人生は言い換えれば信仰に基づく人生です。その信仰は揺らぐことがあります。信仰がなくなったと思うのです。するとその魂から神のいのちも消滅したと錯覚します。それは間違いです。神は私たちに信仰を与え、罪を赦し、神の子としての特権にあずからせて下さいました。私たちは神からいのちをいただいて、神の国に属し、神の国の一員として国籍を獲得しています。そうであれば、私たちの主観的な思い、私たちが心に抱く妄想によって神のいのちが失われるようなことは決してありません。ひとたび私たちの心にみ言葉が蒔かれるならば、必ずそれは成長し、私たちのうちでいのちとして結晶していきます。私たちはその限りにおいて神の国に属し、そこから外れることはありません。神の国は、私たちの内に確実に定着します。私たちの内にある神のいのち、すなわち神の国は成長の極点に確実に達します。イエス・キリストはこのいのちを与える主です。

 

 神の国は、福音宣教が拡大するところで拡大し続けます。全く進展しないように見えても必ず進展します。見た目だけで、私たちは神の国の拡大が終焉したなどと考えてはなりません。数字の上で成長が止まっているように思われても必ず神は成長を見せてくださいます。一時の衰えはあっても成長は止まりません。それが神の国の本質だからです。

 

【からし種の譬え】

 第二の譬えを学びます(30-32)。神の国はからし種に譬えられるとイエスは言われます。からし種以上に小さい種はむろんありますが、一般人の知識ではからし種が一番小さい種だと思われていました。からし種が成長すると3-5メートルもある、樹木のような植物となります。どんな野菜よりも大きくなり、その枝には小鳥も巣を作る。ここでもからし種は成長するものと受け止められていますが、それよりも強調されているのは、成長したときの巨大さです。

 

 神の国がからし種に譬えられるという場合には、その成長した終局の巨大さを物語っていると思われます。神の国は成長するものです。それは生命的です。生命の特徴は成長にあります。神が与えられるいのちも同様に必ず成長があります。それは、26-29節の成長する譬えが語るとおりです。しかし、このいのちは、ただ成長するだけではありません。マルコが種に関する譬えを並べているのは、ふたつの間の関連性に着目しているからだと考えられます。からし種は成長するだけではなく、成長したあかつきには大きな木のようなものとなる。

 

イエス・キリストが住まわれた地域は、樹木が生い茂っていません。そういうところでからし種の成長した姿はよく目立ったはずです。その成長振りは驚くべきものであります。そのように、神の国に属するいのちも終わりのとき、巨大なものとなる。神に属し、神が与える生命は永遠の生命です。

 

【永遠/無限の世界】 

私たちは有限の世界に生きています。有限の世界にある限り、無限を把握できません。どんなに想像を逞しくしても有限の世界では無限を想像することはできません。永遠は時間的な無限を意味しています。私たちは時間の中に生きています。しかも、長い歴史から見てほんのわずかの時間しか生きていません。この地球は何十億年前にできたとよくいわれます。私たちにとって1億年など想像もできない年月です。わずか10年先のことも正確に想像できないものです。そんな私たちが永遠を想像することはできません。

 

 イエス・キリストを信じて、キリストの復活のいのちにあずかるならば、そのいのちは永遠であり、私たちはこのいのちをキリストから与えられています。すでにキリストにあるならば私たちはとこしえのいのちを受けています。それこそがキリストの約束です。キリストを信じ、キリストの御名によって洗礼を受け、教会の枝となり、日々祈り、神の言葉を信じて従順である者は永遠の命を刻印されています。このことは確かです。

 

【永遠のいのちを信ず】

 そのようなものの一人である私たちは到底信じがたい神のわざにあずかっています。永遠の命を約束されたものとして今を生きています。私たちはそれぞれ、ついにその人生にピリオドが打たれます。誰しもこれを避けることはできません。そのとき、私たちの肉体は土に帰るときを迎えますが、それで一切が終わりではありません。それどころか、からし種が巨大な樹木のように成長するように、私たちもまた、永遠の命という想像を超える、想像もできないようないのちに生きるものに変えられます。

 

私たちは毎週礼拝で使徒信条を唱えています。われはとこしえのいのちを信ずと告白しています。考えてみればすごいことを毎週告白しているのです。有限なるものは永遠を理解することなどできません。それなのに私たちは口を極めて永遠の生命への信仰を言い表しているのです。このように言い得るのは本当にすばらしいことなのです。私たちは想像を絶するようなすばらしい祝福に導かれつつあります。

 

キリストはこのように譬えで語られました。人々の聞く力に応じて譬えを語られました。譬えそのものは面白い話です。しかし、それで奥義を理解できたかどうかは別問題です。キリストは弟子たちには密かに説明をし、解き明かされました。それは救いの道を明らかにすることです。私たちは、永遠のいのちに至る道を教えられる幸いな者です。(おわり)


2015年01月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年1月18日説教「聞く耳あるものは聞きなさい」金田幸男牧師

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説教「聞く耳のある人は聞きなさい」

聖書:マルコによる福音書4章21また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。

23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。

25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」


 

要旨

【四つの譬え】

 4章1-34には、四つの譬えが記されています。そのうち、最初の種まきの譬えはキリストご自身の解き明かし、謎解きが記されていますので、譬えの意味を知ることができますが、残りのはそれが記されていません。

4章34には、キリストは譬えで語られたが、その全てを解き明かされたとあります。しかし、マルコはそのキリストの謎解きを記録してくれていません。譬えをどう解釈するかは、読者に委ねられています。説教者はその解釈を試みるのですが、誰が読んでも同じではなく、それどころか、譬えの解明を試みる人の数だけ見解が分かれます。このたびも譬えの解明を試みますが、唯一の解釈だとは思いません。ただ、キリストの教えからは外れることのない解説が求められていることだけは言い得ます。

 

 先に四つの譬えと申しましたが、4章21-25にはともし火の譬えと秤の譬えが記されていますので、計五個の譬えが記されていることになります。ではなぜ四つなのか。21-23節と24-25節はそれぞれ3行からなる文章になっています。ですから形式は同じです。さらに、譬えの内容も同じとはいえなくとも深く結びついていると考えられるからです。

 

【ともし火の譬え】

 4章21-23ではともし火の譬えが記されています。イエス・キリストの時代、多くの庶民の家は一部屋しかありませんでした。夜、部屋を明るくするともし火には、オリーブ油が用いられることもありましたが、高価なので、一般には獣油が用いられました。部屋にひとつだけ、オリーブ油はよい香りを出しますが、高価なので、悪臭を放っても、獣油がともし火として燃やされます。広い部屋ではともし火ひとつではほの暗いのですが、それでも、貴重な光でした。

 

そんな大切なともし火の上に枡を置いたり、寝台の下に置くようなことは誰もしなかったはずです。キリストはそのような庶民の家のことをよくご存知でこの譬えを語られたと思います。このように、ここまでで情景を描くことができます。しかし、このともし火の譬えの意味は何か。

 

 22節との関連で、この譬えを、私たちの心中にあるよこしまな思い、あるいは知られることがなかった私たちの罪はいつか露見するという意味だと説明されることもあります。どんな悪事もいつか明らかになるから、悪いことをしてはならないという教訓を引き出すこともあります。そういう解釈を否定することはできないのですが、別の理解もあるのではないかと思うのです。

 

 ともし火は持って来られると記されています。暗い部屋にともし火が運び込まれます。当時は夜の室内は真っ暗でした。真の闇というべきかもしれません。そこに、弱い光であっても、ともし火が燭台の上に掲げられますと、部屋の中にあるものを明らかにします。イエス・キリストはご自身光でした。闇を照らし出す命の光でした(ヨハネ1:5)。

 

 キリストは、闇の夜を照らす光としてこの世に来られました。全てを照らす光でした。そして、常に、時代は闇の世です。死の陰の谷です。罪がもたらす悲惨に満ちています。今日の世界も同様です。罪と欲望が支配し、暴虐と悲惨が我が物に振舞う時代です。恐るべき闇が私たちの心を押さえつけ、闇の力が自由に行動しています。この闇はますます拡大しています。

 

【キリストは世の光】

 キリストはこの闇の世に光として来られました。キリストがこの世に来られるまでは、福音は明確ではありませんでした。福音は隠されていたのです。また、それは秘められていた奥義でした。

しかし、今、キリストはこの世に来て、託されていた使命を全て果たされました。キリストは福音の光をもって真理を示されました。救いに必要な全ては明らかにされました。一部の人しか分からないような謎でもありませんし、特別な訓練を受けないと分からないような真実ではありません。キリストの教えられた教説は誰にも明らかなのです。

 

 キリストは光です。その光を今やすべて顕(あらわ)にし、公にされています。少しも不明なところはありません。キリストによる救いは誰にも明らかです。

 

【聞く耳のある者は聞きなさい】

しかし、3行目では、聞く耳のある者は聞きなさい、と言われます。光は示されました。その光に照らされなければ見ることが出来ません。聞かなければ、どんなにすばらしい教えであっても何の効果もありません。だが、私たちは自分の欲得を第一にしたり、快適さを求めたり、安楽を好んで、結局耳を塞ぎ、目を閉じてしまっています。これでは光が高く掲げられていても、その光によって心が照らされることはありません。

 

 福音の真理は聞かれなければ何の結果も生み出すことはありません。光は高く掲げられています。その光に照らされています。その光を覆い隠そうとするものは愚かです。キリストはご自身を隠そうとされませんでしたし、今も同じです。福音に耳を傾けるものは、上からの光に照らされて、まことの光の源である神にいたることが出来、光に満ちている神の国まで導かれていくのです。

 

【秤の譬え】

 もうひとつの譬えは秤の譬えです。秤は、当時天秤が使われました。棒の両端に器を垂らし、一方に計るべき物を置き、他方に分銅を置きます。分銅を少しずつ増やし釣り合ったところで分銅の重さの合計を計るとその重量が計測されます。ところで、今日では重量を測る器具には公の機関が正確さを保証しています。公的検査を通過しないような計測器具を用いることは犯罪とされます。

 

【不正な秤】

イエス・キリストの時代、そんな公的な機関はありません。商人は重量を測る分銅を都合のよいように変えてしまい、そのことによって不正な利益を獲得していました。金銀のような少量のものであれば、少しの操作でも、収益は異なります。こうして不正な商人が莫大な利益を得たのでした。当時、貨幣は金属の重量で決められていましたし、地域ごとにその貨幣が異なりますので、両替商がたくさんいました。その中には不正なものもいたようです。イエス・キリストがそのような商人たちの行動を知っていたかどうか分かりませんが、庶民の生活にキリストはよく通じていましたので、このようなことをご存知であった可能性は大きいと思います。

 

 そうすると、この譬えで言われていることは何か。マタイ7章2で同じ譬えが記されていますが、そこではさばきの不可避性、必然性という、さばきの文脈で記されます。ここでも、文脈からそのように読めないわけではありませんが、前後の文章(3行句の前と後)との関連で見ますと別の読み方も可能ではないかと思います。

 

【自らを測る秤で測る】

「何を聞いているかに注意しなさい(24節)」。この場合、「み言葉を聞いている」と取ることができます。福音の真理を聞いているという意味です。すると、何を分銅にして測るのかというと、み言葉で測ることになります。自分の測る秤は他人の秤ではありません。それはごまかしようのない測り、規準です。他の規準で測れば間違った結果となりますが、自分で測ればそんな不正はできません。しかし、私たちはいろいろな規準を用いて自分を測ります。他人の規準、世間の規準、常識という規範、利得の価値基準を持って自分を測ろうとします。

 

 自分の測りで測ることこそ正確です。正確な取引は賞賛されます。その賞賛は思いのほかの結果をもたらします。予測以上の真実を発見するというような・・・。

自分の秤で測るならばごまかしようがありません。曇りのない眼をもって自分を見る、それはいやでも真実の姿です。否定のしようのない自分の姿です。無視していた自己も発見します。

 

 わたしは過去の時間と未来の時間を比べると圧倒的に過去のほうが多くなりました。過去を思い出します。ところが、いい思い出もありますが、いやな思い出も次々と思い浮かんできます。中には恥ずかしくなるような思い出もあります。過去を思い出して、苦しくなります。

 

 神の前で、過去を振り返れば、わたしにはひどい罪人であるとしか認識できません。こういう思い出し方は不快ですから、忘れてしまうとか、他のことを考えて居直ってしまうとか、何とかして消し去ろうとしますが、過去は簡単に忘れることはできません。

 

 曇りのない眼で自分を見ると言いましたが、実は耐え難い行為です。考えていた以上の醜悪な自己発見になります。だから、私たちは違った秤で自分を測ります。自分を測るのではない秤で、何事も測って安心したり、自分を慰めたりしています。

 

 しかし、そういう自己認識では結局なにものも生じないのです。自らを測る秤で測るとき、それは真実な計測を実践していることになります。そういう計測では思う以上の結果をもたらします。神の言葉で自分を測るとき、私たちは想像以上の罪深さを測ることになります。そういう自己認識に耐えられるものはありません。結果はひどいものです。

 

【十字架の福音】

 もし、私たちが、この自分を測った結果を見れば絶望状態になります。神にさばかれ、滅ぶだけです。だからこそ、私たちは罪の赦しの福音に耳を傾けざるを得ません。キリストの十字架にしか私たちに希望はありません。もし、赦しを確信できなければ私たちは恐るべき神の裁きだけを覚悟しなければなりません。十字架の福音こそ唯一の望みです。

 

 25節の、持っているものとは神の言葉と理解することができないでしょうか。罪の赦しの福音です。これを持っているものは、神の赦しに安らうことができます。そして、これ以上の平安の根拠はありません。しかし、神の言葉を拒否すれば当然このような罪の赦しの約束は心に何の影響も残しません。罪の赦しのないところでは、安らぎもなければ心の平安もありません。(おわり)

2015年01月18日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年1月11日説教「種まきの譬え」金田幸男牧師

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2015.1.11説教「種まきのたとえ」

 

聖書 マルコによる福音書マルコ4章1―20

1 イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。2 イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、3 「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。

5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。

8 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

9 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。

10 イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。

11 そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。

12 それは/『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。

13 また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。

14 種まきは御言をまくのである。

15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。

16 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、17 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

18 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、19 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。

20 また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。

 

要旨 

【譬えで語られる】

 4章1-34には四つの譬え話が記されています。今日はその最初の譬えを学びたいと思います。この部分では、あとの三つの比べると違う点があります。それは13-20節なのですが、謎解きというべき解説が記されています。福音書では例外的なので、ここは後世の教会の付記だという説もありますが、33-34節でキリストは弟子たちにはその意味を説明したと記されていますので、マルコ福音書の著者が他の譬えの謎解きを記さなかったというだけだろうと思われます。

 

【なぜ譬えで語られたのか】

 ところで、1-20節の中に、なぜキリストが譬えで語られたのかを語るところがあります(10-12節)。そこではイエス・キリストはその人々には譬えで語られてもそれを理解することがないといわれます。つまり、外部の人、キリストの弟子ではない人たちが分からないようにするために譬えで語ると言われます。これは妙な表現です。実際、譬えは話を分かりやすくするために用いられます。難しい話を、「譬えてみればかくかくしかじかだ」とよくいわれます。教会の説教でも話を分かりやすくするために、世間で起きている事件を譬えとして用いる手法が用いられます。

 

改革派教会ではあまり推奨されませんが、新聞記事やテレビ報道を材料にして、つまり、ひとつの譬えとして語ることがあります。これを一概に拙いとはいえません。教会学校の教師のために例え話集なども出版されています。子どもたちに教理を説明するために比ゆや例話を用いるのは昔からのやり方です。

 

【彼らが、「聞くには聞くが、理解できない」ため】

 イエス・キリストは弟子ではない人たちに譬えで語るのですが、それは、彼らが、見ても認めず、「聞くには聞くが、理解できない」ためだといわれます。こうして立ち返って(悔い改めて)罪が赦されることがない。これはそのままではありませんが、イザヤ6章9-10の引用です。譬えで語られるのは、分からなくするためというのは理屈にあわない話です。キリストはどのような意味でこのように語られたのでしょうか。

 

【理解するとは】

 理解する、あるいは分かるというのは二重の意味があります。種まきの譬え話のように、全て共通しているのは一応聞くということです。分かりやすい日本語で聞けば大体分かります。聖書はどんな無学な人にも分かるように書かれてあります(ウエストミンスター信仰告白1:7、誰でも「通常の手段を用いれば、十分な理解に達する」)。聖書を紐解けば書かれてあることは理解できます。だから、それでほんとうに理解したのかというとそうではありません。もうひとつの理解があるのです。その理解は単に書かれたあることを理解するという以上の理解です。腹に収まるという言葉がありますが、それ以上の理解です。人生を変えるような、価値観や世界観をひっくり返されるような理解があります。心が満たされ、じっとしておれないような感激を伴う知識もあります。

 

 譬えで語られてもその情景は思い浮かべることができるかもしれません。キリストがここで語られた譬えは当時のパレスティナの農業形態を反映しています。粗放というか、粗い農法が用いられていましたから、その情景を見慣れている人たちにはイエスの譬えはすぐ分かったはずです。しかし、それで譬えの意味が分かったわけではありません。謎解きをしてもらう。そして、それで終わりではありません。そこに記されていることに感動するか、衝撃を受けるか。

 

【二重の理解】

 言葉そのものは誰でも分かるけれども、それで終わりではありません。例えば、祈りは聞かれる、という約束は言葉としては分かっても、祈り、しかも約束を信じて祈り祝福を受けるということとは異なります。この言葉に震え、感動することとは違います。聖書に書かれてあるのは単なる言葉ですが、その言葉を信じて受け入れるとき、聖書の言葉は衝撃的に作用します。このような二重の理解があり、理解の究極までイエス・キリストは導こうとされていますが、所詮外部の人、つまり、神の言葉を受け入れない人には、どのような分かりやすい譬えもそれ以上には聞かれないのです。

 

キリストが求められているのは、外の人ではなく、キリストの弟子となって聖書の言葉を生きた神の言葉として聞き、理解することなのです。

 

【播かれた種】

 譬えそのものを学びましょう。この譬えは分かりやすい譬えである上に、説き明かし、すなわち、イエスの解説までついています。種まきは神の言葉を語ります。語り手がイエス・キリストか、父なる神ご自身か、それとも、御言葉の宣教者かは判断できません。種はみ言葉です。そして、蒔かれた土地は受け入れる人のこころのあり方を示しています。

 

【道ばたに落ちた種】

種まく人は麦の種を空中に投げます。種は風に乗って広範に地面に落ちます。日本の農法のようにひとつひとつを丁寧に土に埋め込むというようなことをしません。すると、当然、種は畑地にだけ落ちません。中には道路に落ちてしまうものもあります。道路は人や家畜が歩くところですから、固くしまっています。そんなところの落ちた種は根を出すことなどできません。そのうちに鳥がやってきて食べてしまいます。

【石地に蒔かれた種は】

パレスティナは耕作に不向きな土地が多いところといわれています。それは石灰岩のような石がいその石地の上に重ねなければなりません。当然薄いものとなります。上から見ても分かりませんが、蒔かれた種は根をおろそうとしてもしっかり根を張ることができません。太陽が照って来ると枯れるしかありません。

 

【茨の土地に蒔かれた種は】

茨の土地の場合はどうでしょうか。日本の冬にはたいていの草は枯れるとしても若干青い草はどこかに生えています。かの地では乾燥期には雑草も全く枯れてしまいます。種が蒔かれたときは耕作地に見えます。ところが雑草は急速に成長しますので、せっかく目を出した麦も陰になり、成長することができません。よい土地に蒔かれると豊かに実を結びます。

 

【譬えの解説】

 この譬えをイエス・キリストは解説されます。道端に蒔かれる種が鳥に食われてしまうとは、サタンがやってきてみ言葉を奪い取ってしまうことだ。具体的には分かりません。御言葉を受け入れようとするものに邪魔をするのがサタンです。サタンの方法は多様です。み言葉を聞いてもくだらないと思う、あるいは経験が邪魔をする。一応は聞くが、宗教に対する偏見がみ言葉を拒否するという場合もそうかもしれません。石地に蒔かれるが、結局枯れてしまうとは、み言葉を聞くが、艱難や迫害、辛いことが起こると躓いて、み言葉から離れてしまう。茨の中に蒔かれて成長しないとはこのようも思い煩い、富の誘惑に負けて、いろいろな欲望に妨げられて、み言葉をいったん受け入れても途中で捨て去ってしまう。

 

 このような意味であることもすぐに分かります。よい土地に蒔かれるとたくさんの麦に実る。これも分かります。よい土地で多くの実を結ぶ点について考えたいことがあります。実はその土地の農業形態を知っている人はキリストの譬えに首を傾げるはずなのです。キリストはよい土地に蒔かれた麦が30倍、60倍、100倍になるといわれました。これは常識ではありません。麦の生産量は、せいぜい数倍といわれています。今日小麦を生産するところでは、肥料を多くやり、手入もきちんとして、十数倍は収穫することができるのですが、100倍は大変多い数字だそうです。ちなみに米は多く実ります。それでも農法が発達していない昔はさほど多い収量は望めなかったそうです。ということは、30倍、60倍、100倍という数字は極端というか、ありえない、あるいは奇跡的と言ってもよいのです。

 

【み言葉を受け入れ信じるとは驚くべき奇跡】

 好条件の土地に落ちた種が引き起こす現象はそれ自体奇跡と言ってもよいものなのです。み言葉を受け入れて信じると、そこから大きな祝福を受けるという謎解きに違いありません。み言葉を受け入れて信じるならばその結果その人の中に大きな神の祝福が生じます。それは驚くべき祝福です。

 奇跡と言ってもいい現象が起きます。それは神がなさるわざです。み言葉を受け入れるということは奇跡を伴うのだというのです。

 実際、御言葉に心を開いて受け入れること自体が奇跡といわなければなりません。その上、信じるところには信じがたい神に働きがなされます。

 

【最大の奇跡は、キリストの復活にあずかること】

最大の奇跡は、キリストの約束のとおり復活にあずかることと思います。キリストは死を打ち倒して三日目に墓から復活されました。これは最大の奇跡です。そして、私たちはキリストを信じて受け入れるならばキリストとひとつにされて、神の子とされ、復活のいのちにあずかることができます。死ぬべき私たちが、死を征服したキリストに結合されることほど大きな奇跡はありません。この大きな奇跡と同様、私たちは信仰によってさまざまな幸いを約束されていますし、事実その約束の実現を我が物とすることができます。

 

【罪の赦しも奇跡】

罪の赦しの恵みもまた偉大な奇跡です。イエス・キリストを信じるならば、私たちはその十字架の贖いによって罪が赦され、神に受け入れられます。私たちは神の民として、み国に集合できます。神のまことの家族の一員として受け入れられます。それだけではありません。私たちはイエス・キリストに守られ、導かれ、成長することができます。

 

 これらは信じて受け入れるしかありません。そのとき、キリストは約束されています。種まきの譬えそのものは分かりやすい、興味あるお話であって、理解しがたいところは何もありません。しかし、そこで留まっていては、この譬えからまだ何も学んだことになりません。み言葉を学んで、信じ、受け入れ、それによって私たちが大きく変えられる、そのことが期待されます。み言葉を受け入れるところでは言語の絶する大きな神の働きがあるのです。



2015年01月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年1月4日説教「まことの家族とは」金田幸男牧師

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マルコによる福音書3章:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

説教「まことの家族」 

聖書:マルコ3章31―35

 

要旨

【身内の人々がイエスを、取り押さえに】

 3章21節に、イエスの身内の人々がイエスを、取り押さえに来たと記されています。イエスは気がふれたと思って取り押さえに来たとも、イエスが病人の癒しに食事も取れず過労となって健康を害するのではないかと心配をし、故郷に連れ戻そうとしたとも受け止められます。彼らはおそらくナザレからカファルナウムにやってきたのでしょうが、ふたつの地点は直線でも40キロ近くあります。徒歩なら二日の道のりです。

 

【母マリヤと兄弟たちが来た】

そして、31節には、母マリヤと兄弟たちが来たと記されます。マルコ福音書ではマリヤが登場しますのはここだけです。イエス・キリストの兄弟たちの名はマルコ6章3に出てきます(ヤコブ、ヨセ(フ)、ユダ、シモン)。

 

マリヤたちもナザレから来たとすれば、先の身内がイエスを連れ戻せなかったので、直接母親がきたと考えられます。二日間もかけてカファルナウムに来る。それは彼らの心配ぶり、そして、イエスに対する深い愛情を感じさせられます。

 

 イエスの母がやってきて、イエスに会って直接説得しようとしたに違いありません。ところがイエスの周囲にはたくさんの人が集まっていました。イエス・キリストはこのときにも多くの人を癒されていたのでしょう。そのために近づくことができず、人をやってイエスに意志を伝えようとします。周りにいた人たちがあなたの家族があなたを探しています、とわざわざ伝えています。

 

【キリストはなぜ母や兄弟に合わなかったか】

ところがイエスは、働きを中断せず、母親に会おうとしていません。これは何と冷ややかな態度と見えることでしょうか。母親や兄弟たちは遠路はるばるカファルナウムまでやってきました。それなのに、イエスは会おうともしません。何とも親不孝と思われる行為です。あのイエス・キリストとは思えない行動です。

 

 イエス・キリストは、仕事の邪魔をされると思ったのでしょうか。病人の癒しは重要です。人助けのわざです。母親にそれを中断されるのを不快としたのでしょうか。仕事の邪魔だと思ってこんな冷淡な態度を取ったのでしょうか。そうではなかったと考えるべきです。キリストは家族のつながりを否定しているわけではありません。親孝行を否定しているのでもありません。マルコ10章17-31節では、イエスに永遠の命を獲得するためにどうしたらいいのかと問う若者に、「父母を敬え」という戒めを示されます。永遠の命を得るために十戒のうちの主要な戒めを提示されます。

 

キリストは決して父母を敬うことを退けられたのではありません。同じくマルコ7章7-13節では父母に対する孝行をないがしろにするファリサイ的な律法理解を拒絶されています。イエス・キリストは決して親孝行などしなくてもよいなどと教えられたのではありません。さらにいうならば、家族のつながりを否定しているのではありません。その逆だと思います。

 

【新しい家族の形成】

 それではなぜキリストは家族に対して冷淡とも思われるような言動をしているのでしょうか。それは、仕事の邪魔をしているからだというような理由ではなく、大きな真理、すなわち新しい家族の形成を語ろうとしているからだと思います。

 

家族の絆は、現代社会では大きな波に洗われています。家族の崩壊はいたるところに見られ、それを防ぐ方策はないように思われています。社会の構造が家族を崩壊させ、価値観が大きく変化して、従来の家族観が通用しなくなって来ています。しかし、家族が社会を成り立たせる要素であり、最初の単位であることに変わりはありません。そのために、道徳教育を国家が主導し、国家が描く家族制度や家族観念の構築をめざす事態となっています。孝行、年長者に対する敬意、そして、それを国家への忠誠と直結しようとしています。新しい家族像を再形成することこそ現代社会の混乱を解決する鍵だと見られています。キリストは、そのような意味で新しい家族像を創生されようとしているのではありません。まことの家族とは何か。キリストはどんな家族を形成しようとされておられるのでしょうか。

 

【まことの家族とは何か】

 家族とは血縁で結び合っている人間のつながりを示しています。縁(えにし)とは辞書によると、ある関係を成り立たせるのに間接的に働く原因とありました。家族は血のつながりで、その結びつきを形作ります。むろん正確には家族は血のつながりだけで成り立つものではありません。夫婦を基礎とし、あるいは、法律上のつながり(養子制度)でも家族は成り立ちます。しかし、その結合は極めて固いものとされます。

 

 イエス・キリストはそのような固い人間の結びつきに注目されていると見ることが出来ます。人間は孤独で生きることができません。孤立は苦痛です。ひとりであることは短時間は耐えられるでしょうけれども長時間、ときには人生の大半を孤独なまま生きることになるとすればその人生は暗黒の中にあるといってもよいでしょう。人は本来孤独であることはできません。しかし、それでは固い人間関係を作り出すことは容易なのかというとそうではありません。固い絆で結ばれた人間関係を形成することは決して容易ではありません。

 

【新しい家族/神の家族】

 どうすればそのような固い絆で結び合わされた人間関係を形作ることができるのでしょうか。それが新しい家族です。キリストは、神の御心を行うものが神の家族だと言われます。

 キリストの周囲に座っている人たちがいました。これはイスラエルでは教師がみ言葉を教えるスタイルです。律法の教師が聖書の巻物を開き、それを聞く生徒らは座して聞きました。ですから、キリストが周囲にいる人を見回してまことの家族とは神の意志を行うものたちだと規定されたとき、それはキリストの弟子たちを指していました。それが新しいキリストの家族です。

 

新しい家族とはキリストの弟子団であるのですが、キリストの御心を行う人たちとはキリスト信者のことです。そして、そのキリスト者の共同体であるキリストの教会です。新しい神の家族とは、結論的に言えば教会ということになります。教会こそ新しい神の家族です。

 

【教会こそ新しい神の家族】

 教会では昔から互いに兄弟姉妹と呼び交わしました。教会こそ新しい神の家族だとの認識は古くから成立していました。教会は、神の家族です。しかし、このことは自明の真理ではありません。神の御心とは何か。律法に示されている掟です。その要約は神を愛し、隣人を愛することです。教会は神への愛と隣人への愛という定めを行うべく形成されたキリスト者からなります。けれども、教会の中では、敵対、憎悪、中傷、裏切りが起こりえます。罵り、嘲笑、悪口、罵詈雑言すら飛び交います。このような人間のよこしまが現れているところはとても神の家族などとは言えません。

 

ですから失望が生じます。教会は神の家族であるはずなのにやっていることはひどい人間関係だというのです。何が神の家族か、掃き捨てるように言われるかもしれません。

 神の御心を行うもの同士が神の家族です。それでこそ兄弟姉妹と呼び交わす関係が生じます。でも現実はかけ離れているではないか。このような現実と理念の乖離はつきものです。ですから、仕方がない。教会が神の家族などと言うのは単なる空想に過ぎないのだと思われるかもしれません。現実に圧倒されて諦めが支配します。教会の中に、人間関係を成り立たせないほどの、神の意志を無視する現実があるのを私たちは軽々しく見てはならないというのは当然のことです。

 

現実の家族ですら、親は子どもを慈しみ、大事にします。イエスの母マリヤはこの点で家族愛に溢れた女性だと言えるでしょう。イエス・キリストの家庭はすばらしいものであったに違いありません。そのような家族のつながりが神の家族である教会にないなどということがあってはならないのは当然です。教会はこの点で現実の家族以上でなければなりません。ただ、だからどうすればいいのか。現実の教会は理想とはあまりにも異なります。私たちはこのような現実をただ黙然と見つめるだけなのでしょうか。そんなことは決してないはずです。

 

【終末論的思考】

 わたしは、ここで終末論的思考と言うべき発想が必要だと思います。終末から現在を見る見方です。現在から将来を眺めると不安になります。この世界はどうなるのだろうという不安です。教会の現実から将来を見ると教会は果してこのまま存続するのだろうかと思いもします。現在の混乱を視点にすれば将来はよくなっていくとは思われず、将来を悲観せざるを得ません。それは先のことは何も分からない人間の宿命のようなものです。私たちの希望は転落していきます。しかし、聖書においてこの世の終わりがあると宣告されています。また、わたし個人も終わりがあります。実際そのときの到来は近いのかもしれません。キリストにある者にとって、終わりのときは栄光のときです。将来、教会は、キリストの花嫁として、完成します。そのとき、悪は滅ぼされ、罪の結果は除去され、神の支配が確立します。

 

教会は完成するとき神の家族は文字とおり家族になり、その絆はまったき絆となります。教会は勝利します。

 私たちは今は矛盾し、破れが目立つ教会に生きています。失望は拭い去ることができません。悲しみと怒りに満ちています。けれどもこの教会は完全な神の家族となるとの希望を抱きます。私たちに必要なことは諦めではなく、現状肯定ではなく、失望ではなく、むしろ、神は必ず教会をまことの神の家族とされるのだという希望を抱き、楽観的になることだと思います。

 

そして、だからこそ、神の家族を大切にする思いを心に抱こうと努めます。神は必ずまことの神の家族を形成されると信じて、その信仰に相応しいあり方を追い求めていきます。それが私たちに求められています。

 現実に神の御心を行うことは困難ですがその積み重ねがあってこそ教会がまことの神の家族となっていく道筋となります。(おわり)



2015年01月05日 | カテゴリー: カテゴリを追加 , マルコによる福音書

2014年12月28日説教「すべての罪は許される」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書3章:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。


説教要旨 マルコ3:20―30

 「どんな罪も赦される」

 

【身内の者たちは、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである】

 イエス・キリストはご自身の働きをいっそう前進させるために12人の弟子を選び出されました。その弟子らとカファルナウムにある、ペトロの家に戻って来られたと推測できます。そこへ群衆が押し寄せてきます。病気を癒してほしいという人々であったと思われます。そのためにキリストは食事を取ることもできないほど多忙を強いられました。そこへ、キリストの身内がやってきます。彼らはナザレから来たと思われますが、カファルナウムまで直線距離でも40キロ近くあります。徒歩では2日間かかる距離です。なぜやってきたのか。イエスを連れ戻すためであったと思われます。イエスは気が変になった、と思ったからだと思われますが、イエスが食事もしないで働いていて、過労がひどく、放っておけないので連れ帰ろうとしたと考えることもできます。

 

【エルサレムからの律法学者】

イエスはその人々とナザレに帰ったと推測できますが、それは31節以下に記されます。その前にもうひとつのエピソードが記されます。エルサレムから律法学者がやってきたとあります(22)。彼らは偶然居合わせたのではなく、イエスの言動を調査しにやってきたことは間違いありません。それだけイエスのうわさは広がっていたのです。律法学者は、おそらくイエスの教えが彼ら律法学者と異なるものではないかと疑っていたのです。

 

【悪霊のかしらベルゼブル/ベルゼブブ/サタン】

 律法学者はイエスの言動を見てすぐに結論を出します。イエスはベルゼブルに取りつかれている、というものでした。あるいは、悪霊のかしら、親玉によって、悪霊を追い出している、とも言いました。ベルゼブルはベルゼブブから来ていて、ベルゼブブとはペリシテの神で、蝿の神、したがって汚物の神でありました。害虫の神ですから、人間に災いを下します。あるいは、ベルゼブルはヘブル語で「(悪霊の住む)住まいの主」を意味するとされます。悪霊はその家に住んでいます。その宿の主人公はベルゼブルです。律法学者は悪霊がやすやすと追い出されるのは、その親分のベルゼブル、あるいはサタンの命令であると結論を出します。イエスは悪霊のかしらの所属として、あるいはサタンの力を借りて、悪霊を追い出しているのだというのでした。

 

【内輪もめをする国は成り立たない】

 イエス・キリストはこの律法学者の結論に反駁されます。それを比ゆで語られます。まず、悪霊のかしらが子分である悪霊を追い出しているというのであればそれは内輪もめである。内輪もめをしているような国家は成り立たない。また家族もそうです。現在でも、内戦が長く続くところがありますが、もう国家の態をなしていません。国民は疲弊し、難民となり、飢餓や病弊に苦しめられています。内乱によって国は国の形を失います。それは不幸なことです。家族もそうで、互いに争っている家族はもう家族と言うことができず、その家族の成員は悲惨です。サタンは悪しき霊の集団を体現したものとされますが、サタンがその悪霊集団を追い出すことなどできません。親分が子分を追い出してしまっては、何もできなくなってしまいます。ベルゼブル・悪霊の家の主が、そこに集まっていた悪霊をことごとく追い出したとしたら、ベルゼブル自体が何もできなくなってしまいます。そんな愚かなことを悪霊のかしらがするはずがありません。イエス・キリストは決して悪霊のかしらの力を用いて味方であるはずの悪霊を追い出したりすることは決してない。このことは誰が考えても分かる話です。

 

【キリスト/聖霊は悪霊のかしらに勝る】

 さらにキリストは反論されます。悪霊を追い出している。そうだとすれば、その親分を追い出し打倒するのが先です。そうでないと、親玉が攻撃してきたら、反抗することができません。キリストは悪霊を追い出しているのであるとすれば、すでに悪霊のかしらに勝る力を持っていることを示しています。キリストは、悪霊のかしらに凌駕する大きな力を保持し、それを行使する方なのです。キリストはベルゼブル以上なのです。


【サタンは鎖につながれて今も働く】

 今日は科学万能の時代です。悪霊とかサタンとかいいますと、直ちに作り話、神話、創作という反応が生じます。21世紀の今頃、悪霊の存在など信じているものはないとされます。ばかばかしいと一蹴されてしまいます。しかし、それにもかかわらず、霊に憑かれている、悪霊に呪われている、崇りがある、などといわれると不安に襲われます。そして、あっさりと高価な除霊効果があるとされる品物を買わされたりします。それは霊的なものの存在を否定しながらどこかでその存在を否定できない心の思いがあるに違いありません。

 

 だから、サタンは何か君臨するものとも考えられています。力ある者と見なされます。そして恐れられています。ある注解者が言っていることですが、サタンは鎖につながれている。キリストはまずサタンを縛り付けられました。ところがそのつながれている鎖は長いのです。ですから鎖につながれている範囲でサタンは行動しています。サタンはまだ徹底的に滅ぼされていません。そのためになお暗躍しています。私たちの心に恐怖心を与え、自分は力があるように振る舞います。サタンは自分の力に人が屈するように試みます。そして、しばしばそれは成功しているかのようです。

 

 しかし、私たちはイエス・キリストが言われたように、サタンはまず縛り付けられていることを覚えなければなりません。サタンは全能者のように振舞っていますが、所詮鎖につながれています。鎖を引きずって最後のあがきをしています。しかし、その力は強力でもあります。だからその誘惑に敗北する人が何と多いことでしょうか。

 

 キリストはサタンを打倒し、打ちのめし、追い出す方です。サタンはせいぜい反抗できる程度です。サタンは強大と思われてもイエスの前には無力です。キリストは悪霊を追い出されましたが、悪霊のかしらはキリストに抗することはできません。私たちは霊的な事柄ではだまされやすいのです。しかし、キリストはあらゆる霊的な力に対しても主であることができる方です。薄気味悪い感じを与えて私たちに恐怖心を起すのですが、サタンはキリストに全然勝つことができません。

 

【赦されない罪とは】

 さらにキリストは、イエスがサタンに取り付かれていると中傷する律法学者に反論されます。あらゆる罪は赦される。突然、キリストは罪の赦しを語られます。しかし、赦されない罪がある。その赦されない罪とは何か。聖霊を汚す罪です。聖霊を汚す罪とは何か。

 

【あらゆる罪は赦される】

 人の子ら(罪人)が犯すあらゆる罪は赦される。その罪に中には冒涜の言葉も含まれます。私たちの世界は罪に満ちています。いたるところに罪があります。お互いに人は罪を犯しています。傷つけあい、罵りあい、誹謗のきわみにあります。到底赦しがたいと思われるような罪もあります。ところがキリストは赦されると言われます。

 

 キリスト御自身もときに嘲られ、侮辱されました。ついに命を奪われます。このようなキリストに対する犯罪は赦しがたいものとも思われますが、キリストは,赦されない罪はないといわれます。キリストはそのために十字架につけられました。キリストは私たちの世界に来られて、私たちの罪を全て負い、十字架でその罪に対する神のさばきを身代わりに引き受けられました。

 

 人間は過去の罪を引きずっています。過去の罪に苦しんでいます。そのことを思い出すと立っておれなくなるような気持ちになります。くよくよしている場合もあります。良心の呵責に悩まされていることもあります。どうすることもできない恨みに満たされ、そのために自己嫌悪に陥っている人もいます。罪は私たちの人生を暗くしています。個人だけではありません。人類は多くの罪を積み重ねています。人類の悲劇の根源に人間の罪がある。このように言うことができます。

 

 イエス・キリストはあらゆる罪を赦してくださいます。神の赦しを約束されます。だから、神のさばきを恐れることがありません。キリストの十字架の効果は全体に及びます。過去、現在、未来の全ての罪は赦されました。教会はこのことを全世界に語るように命じられています。

 

【聖霊を汚す罪】

 しかし、赦されない罪があるとキリストは語られます。ひとつの例外がある。それは聖霊を汚す罪です。聖霊は、悪霊にまさる力を持っている方です。聖霊こそ、まず相手のかしらを縛り付けることができる方です。その聖霊は、イエスは主であると告白させる霊です(1コリント12:3)。神の深みを究める方です(1コリント2:10)。聖霊は欺くことができない方です。この方を汚すような罪とは、結局、キリストを悪霊につかれていると主張する場合です。

 

律法学者はイエスの言動をベルゼブルに取り付かれてやっていることだと結論するのですが、それは最も危険なことを言っているのです。赦されないような罪を犯していると言えます。

 イエス・キリストを批判しているのですが、そのイエスの働きがどこから来ているのか、律法学者はサタンに根源を求めました。キリストは、中傷され、批判され、非難されました。しかし、イエス・キリストはそのような攻撃を甘受されます。

 

【キリストを信じない不信仰こそ赦されない罪】

 キリスト教に対する批判、教会批判は、批判であるというだけでは、赦されざる大罪などとはいえません。キリストの十字架は効力が大きいのです。ところがその十字架を否定したり、キリストの救いの効果を否定すればどうでしょうか。それによって私たちの罪が赦されるその根源を無視したり、拒否したりすれば罪赦される余地はなくなってしまいます。

 聖霊を汚す罪とは結局救いの根源を否定する罪だということになります。つまり、キリストを信じない不信仰こそ赦されない罪だということができます。(おわり) 

2014年12月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年12月14日説教「これと思う人々を呼び寄せ」金田幸男牧師


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マルコによる福音書3章13~19

13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。

14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、

15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。

17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。

18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、

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19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。


 

 

説教「これと思う人を呼び寄せる」マルコ3:13―19

要旨  

イエス・キリストは山に登って行かれます。山といってもおそらくガリラヤ湖の周辺の丘で、湖からの傾斜地、その部分は草原ですが、それを越えると荒地になります。キリストの周りに集まっていた群衆はついて来なかったと思われます。

 

【主の召し集め:12使徒】

キリストは、目的を持って人を召し集められますが、それに応じる人が出てきます。キリスト教信者とは、このように召しに応じて集まった人たちを表わします。キリスト教の集団、教会の基礎は召し、選びと応答からなっています。教えっぱなし、呼びかけっぱなしではなく、その声に応じて集まった人たちこそキリストの弟子です。

 

その中からキリストは12人の使徒を選ばれました。使徒とは「派遣されるもの」を意味します。これは聖霊が降った教会においてその指導者たちを指して言われるのであって、それまでは「弟子」というほうが正しいのです。

 

 キリストは12人の直弟子を集められます。聖書もそうですが、数字に意味を与えるというのはどこにでも見られます。私たちも、4とか9という数字は「死」「苦」を連想するので、部屋番号などに使わないという場合もあります。13は西洋ではキリストの処刑された日に結びつけ、これも嫌われます。

 

【イスラエル12氏族】

半面、3,5,7は完全数といって、そこに整合され、調和された意味を見い出します。12もそうなのです。12は12進法では完全数です。さらに、12は旧約聖書では大きな意味を与えられます。イスラエル民族の始祖、ヤコブは別名イスラエルですが、彼には12人の息子がいました。この12人から12の氏族が生まれてきます。カナンに入国してからは、12氏族が定着し、イスラエル国家を形成していきます。12はイスラエル民族を表わす数字でした。

 

【新しいイスラエル:反ユダヤ教】

神はこのイスラエルを選びの民をし、神の国を形成されます。12人の弟子は新しいイスラエルを意味していました。

 キリストは3章6以前のところでは、主としてユダヤ人の宗教施設である会堂を拠点にして働きを続けられていましたが、ファリサイ派はヘロデの支持者と組んでイエスを殺害しようと企てます。マルコ福音書ではこれ以降、6章2以外、キリストが会堂で働かれたとは記しません。有力な推測は、キリストは会堂と絶縁して、会堂の外で教えを語られたということです。ユダヤの宗教体制は会堂の活動を中心にして営まれましたが、キリストは今後、新しい行き方をされます。同時に、古いイスラエルと異なる、新しいイスラエルを生み出されます。これが12人の弟子たちの働きを通じて実現することになります。

 

 イスラエルは神の選びの民でした。そして、そこに大いなる神の栄光のわざが実行されます。神はイスラエルに大きな祝福を提供されます。神の国とその国籍、神の家族の一員とされます。復活の主の命に預かり、永遠の命を授けられます。新しいイスラエルは、新約の教会に他なりません。

12人の弟子たちの福音の説教を通じて、新しいイスラエルが召し集められます。

 

【使徒の目的1:そばに置く】

 キリストが12人の弟子を選ばれた理由は明らかです。14節に「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」とあります。

 そばに置くというのは、王侯君主が側近に人を集め、権威を誇るというのと同じではありません。また、ただそばにおいて置くというためではありません。そばに置くとは、どういうことかを明瞭に示すのがマルコ14章32以下に記されている、ゲッセマネの出来事です。キリストは十字架につけられようとしています。キリストは苦しみ、悶えられます。それは神から見捨てられるという経験をしなければならないからでした。その苦しみは耐えがたいものでありました。

 

そこでキリストは「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と命じられます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」このようにキリストがいわれたのは傍らに弟子がいて、キリストを励ますように期待されたためです。弟子たちはキリストのために執り成しを求められました。私たちは奇異に感じるはずです。神の子がどうして人間に助力を求めるのか。確かに、おかしな感じもします。しかし、キリストは私たちと変らない人間になってくださいました。喜怒哀楽を感じ取ることができるお方として、私たちにご自身を知らされました。このようなキリストは、弟子たちの祈りの加勢を求めました。キリストは、私たちの祈りを求めておられます。そして、父なる神が助けを与えてくださるように祈るとき、私たちと共に、祈るように招かれます。

 

キリストと共にあるというと、単にそこにいるだけではありません。キリストと共に祈るように導かれます。私たちは祈りにおいて光栄な役割を期待されています。キリストをかしらとする教会のために執り成しをすること、それこそがキリストの求められたところです。

 ゲッセマネでは弟子たちはキリストの願いを充分に汲み取ることができませんでした。弟子たちは眠りこけてしまいました。そして、キリストの裁判のときは蜘蛛の子を散らすかのようにどこかに姿を消してしまいました。キリストが弟子を招かれた目的は期待はずれに終わりました。

 

しかし、その後の教会は、いつもキリストがそばにいてくださる(おらせられる)という信仰によって力を取り戻します。

 

【使徒の目的2:福音宣教と悪霊追放】

弟子たちを選ばれたもうひとつの目的は、福音宣教と悪霊追放です。この両者は密接です。福音を宣教することは弟子たちの専ら委ねられた任務でした。ところが弟子たちは悪霊の追放も命じられます。今日では「悪霊」は神話的なもので、その実在は信じられていません。人間の創作だというのです。古代人の想像の産物だとも言われます。悪霊は存在します。

 

そして、悪霊は私たちに神を呪えと命じ、私たちを神から引き剥がすように努力しています。そのための常套句は、神はいない、神の救いはつまらない、価値がないなどというものです。しかも、悪霊は、私たちが福音を信じようとすると、巧妙に妨害をします。悪霊は私たちに神を呪わせようとします。キリストに不信感をあらわにさせようとします。

 

福音が宣教されるとき、悪霊の居る場所は失われます。キリストを信じるものを悪霊は一番嫌います。福音が宣教され、福音を信じるものが起されると悪霊は無力になります。悪霊の存在は薄気味悪いものです。悪霊を描いた絵があります。そういう絵が私たちの頭に記憶されてしまっています。だから悪霊など実在するといわれると直ちに迷信的であるとか、神話的だと切り捨てられます。悪霊は目で見ることはできませんが、存在します。私たちは気持ち悪く思う必要はありません。福音が純粋に宣べ伝えられるところで悪霊は消えていきます。福音の勝利こそ悪霊を圧倒する方法です。

 このように、人里はなれたところで、12人の弟子たちは、地の果てまで派遣されるために訓練され、教育されます。実際に派遣されるのは6章6節以下に記されているとおりです。この間はどれほどか判然としませんが、キリストは弟子たちを派遣する備えをされました。

 

【弟子たちの多様性】

 キリストの弟子たちのリストが挙げられています。ひとりひとり見ていくことは興味あることですが、ここでは全体を眺めまず。この弟子たちは多様です。職業から見ていくと、ペトロたち4人は漁師です。マタイはレビともいわれ、収税人でした。収税人は読み書き計算ができるのでなければ職につけません。しかし、収税人はその職業から同族ユダヤ人に嫌悪されていました。蔑視されていたというべきでしょう。

 

同じ漁師でも、ヤコブとヨハネの父親は舟を所有し、人を雇う立場で裕福な階層であったと思われます。ペトロはそうではない、とすれば船を持たないで沿岸で漁をし、ときどき網元に雇われるような人たちであったと推測されます。ペトロは既婚者でした。熱心党のシモンはキリストの弟子となったときすでに党派を離れていたかもしれませんが、それでも政治的にはローマの支配を、力を用いてでも覆そうとする過激派でした。

 

イスカリオテのユダは他の弟子と違い、ユダヤのヘブロンのケリオテ(ヨシュア記15:25)出身であったと思われます。他の弟子は大半がガリラヤ出身でした。このユダがイエスを裏切ります。十字架のときは全員が姿を消します。信仰が強烈で不動といった人たちではありませんでした。

 

12人の弟子たちのうち、ペトロやヨハネは多く登場しますが、約半分の弟子たちは弟子団のリストに名が挙がるだけで、新約聖書に登場しません。したがって何を語り、何をしたか分かりません。ユダヤ人の宗教的なエキスパートである律法の学者は一人もいません。種々雑多、しかもいわゆるエリートではありません。キリストはこういう人たちを集められたのでした。

 

【教会の船出】

この12人から教会は出発します。教会はこのように単一の性格を持った人からなる純粋な宗教団体ではありません。いろいろな人が加わってこそ教会たりうるのです。むろん、烏合の衆ではありません。いろいろな人がいるだけではばらばら、何のために組織立てられたか分からない曖昧模糊とした集団になってしまいます。教会はいろいろな人からなりますが、その人たちが教育され、訓練され、そして、福音を宣教するために遣わされます。このようにして教会は形を取ります。

今日のキリスト教会もまたいろいろな人が加わっています。それぞれ個性があります。老若男女が集まっています。このような人たちの力が福音宣教のために結集されるときこそまことの教会になります。教会とはこのような特質をその当初から与えられていたのでした。(おわり)

2014年12月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年12月7日説教「あなたは神の子だ」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書3章
:7 それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、
8 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。
9 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。
10 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。
11 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。
12 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。


説教 「あなたは神の子」金田幸男牧師

聖書:マルコ福音書3章7―12

 

要旨

  7-12節は、1章40から始まる一連の癒し物語、特に2章1からのファリサイ派の人たちとの対立を引き起こした安息日のわざの五つの物語と、3章13以下を結び付ける「つなぎの文章」となっています。それは以前のキリストの働きを要約し、新しい展開を示します。

 

【立ち去られた】

7節に、イエスがガリラヤ湖のほうへ「立ち去られた」とありますが、実際には退去されたという意味です。キリストはカファルナウムを中心に活動をされていましたが、ファリサイ派は、ふだんは敵対していたヘロデ王家の支持者と手を組み、キリストを亡き者にしようとの陰謀を企てます。

 

【反キリスト】

そのため、キリストはファリサイ派と全面衝突しないように、町から離れて湖の近くに退かれたのです。これはキリストの宣教活動のはじめでした。キリストはその福音宣教の初期から、敵意に直面したのです。キリストの働きはそのはじめから万事順調に成果を挙げていたというのではありませんでした。ファリサイ派の人々、集まってきた大群衆、そして、汚れた霊、これらはキリストと出会います。彼らは直ちにキリストの権威に服したのかといいますと皆がそうではありません。

 

そこに示されたのは敵意、あるいは一方的な期待です。どう見てもキリストの働きは大成功などとは言えないのです。キリストの福音宣教のみわざは当初より困難を極めていたのです。それだけキリストに敵対するものが多く、その力も強大であったといえるのです。

 

まず、書かれてあったことですが、ファリサイ派の敵意を引き起こします(3:6)。一般民衆にはどうであったでしょうか。大勢の群衆が集まってきます。おびただしい数の群衆でした。彼らは各地からやって来ています。早くもキリストの評判は各地に拡大して行ったので、イエスの力を知ったのでした。ガリラヤから始まり、南部に位置するユダヤ、エルサレム、その南にあったイドマヤ、東に位置するヨルダンの向こう側=トランスヨルダン、西南のティルス、シドン(地中海沿岸の町、フェニキア人が住む、現在のレバノン)にまでキリストの名声は伝わって行きました。

 

このうち、イドマヤを除き、福音書ではのちにイエス・キリストがその地方に足を踏み入れたとあります。イドマヤは旧約に出てくるエドム人の子孫が居住した地域で、紀元180年ほど前、ユダを独立に導いたマカビー王家によって征服され、ユダヤ教を強制されます。イエス・キリストが生まれたときユダヤの王であったヘロデはイドマヤ人でした。

 

福音書の視点からすれば、のちに、イエス・キリストは活動範囲とした地域から続々と人がやってきます。大量の人々がキリストのところに来ます。そのあまりの多さのために、キリストは身の危険を感じ、ガリラヤ湖に舟を用意してもらい、難を逃れるという始末でした。そのエネルギーの凄まじさに舌を巻くのですが、それは病気を癒してもらいたいとの思いから出たものです。病気は病苦ともいいます。病気は病人に過酷な苦しみを与えます。苦しみから解放されたいと願う人々が大挙して来ました。これはイエス・キリストからいわゆるご利益を得たいとの思いから出た行動です。そこには、ただキリストに今負っている苦しみを逃れたいと思っているだけです。

 

【求道の動機】

動機が不純であると誰しもが思います。キリスト教は魂の救済を語っている。あるいは人生の最大の価値を説いている、その意味では最高の哲学である。それは偉大な思想である。このように宗教を捉えているものには、群衆の動きはけしからぬと思っても不思議ではありません。現世的なご利益を求めるような信仰は邪道である。こう思っている人は多数ではないでしょうか。

 

イエス・キリストは神の福音を語られます。悔い改めて福音を信じるように、キリストは訴えられます。だから、この各地からやってきた群衆を避けて身を隠してしまうことも可能でした。群衆はイエス・キリストに迫って湖まで押し立てるところまで押し迫ります。イエス・キリストは身の危険を感じて舟に逃れたのです。異常といえば異常です。キリストがこれ以上の働きを断固拒絶してしまうこともありえました。

 

【癒しを求めて】

 でも、キリストはどうされたのか。キリストは多くの病人を癒されました。動機が不純だといって直ちに群衆を追放されたのではありません。キリストは癒しを求めてやってきた人たちの願いを聞き届けます。その動機の中に真実な求道など見い出せないところで、人々の思いを聞かれます。それはキリストの憐れみのゆえです。キリストはただ病を癒してもらいたい、今負わせられている重荷を軽くしてもらいたい、キリストの助けを求める思いに満たされている人の期待を潰すことをなさいません。

 

キリストのところに来る人々の期待はさまざまです。いわゆる高尚な宗教理念に反するような願いを携えてやってくるというような人もいました。キリストはそのような人たちがはじめから福音のメッセージなど聞く耳も持たないとして、退けられることはありませんでした。動機はさまざまであってもよいのです。キリストは人々の期待を無にするようなことをなさいません。これがキリストなのです。

 

 単純にキリストを求めてやってくる。時には興味半分、あるいは、懐疑的に、キリストを求める人もいるでしょう。しかし、キリストはそのような人たちの思いを大事にして、その願いを実現されます。キリストが地上におられたときその範囲は現在のパレスティナ一帯に限られていましたが、今キリストの昇天後は、そのような地理的限界が取り除かれています。キリストは今も期待をもって近づくものをないがしろにしたり失望に終わらせたりすることはないのです。

 

【汚れた霊に憑かれた者】

 キリストのところにやってきたもう一種類の存在があります。汚れた霊、悪霊といわれる霊的存在です。彼らがキリストのところになぜやってきたのか記されていませんが、清らかな思いからでなかったことは確実です。悪霊は決して回心してキリストのために働くなどということはありません。悪霊はキリストに敵対するだけです。悪霊は、その存在そのものが神に敵対する存在です。人間は回心する可能性があります。誰もが回心することができます。しかし、悪霊はそのようなことにはなりません。

 悪霊につかれた人たちがいました。彼らはキリストのところへ来たのはキリストに敵対するためでした。悪霊が近づく、つまりは悪霊につかれた人間たちが叫びながら、キリストに反対するべく集まってきたのに違いありません。

 

【「あなたは神の子」と叫ぶ悪霊】

悪霊どもは、キリストに向かって「あなたは神の子」と叫んでいます。イエスが神の子であるという信仰こそキリスト教の存続に大きく関わるものです。悪霊が神の真理を語る? 恐ろしいことです。この叫びはキリスト教信仰で最も重要な教義を本当に告白する叫びなのでしょうか。神は悪霊に神の真理の宣教をさせようとしておられるのでしょうか。そんなことは決してありえません。確かにキリストが神の子であるという言葉は真理です。キリスト教最大の真理です。これによってキリスト教は成り立ちます。それほどまで大切な信仰の内容です。悪霊がこんなことを叫ぶとは驚きです。

 なぜ、悪霊はこんなことを言ったのか。敵対する相手の素性を明らかにするというのは戦いの常套手段であったといわれます。相手の本名を明らかにする、そのとき相手は無力化されるというのです。ですからめったに本名を明らかにしません。悪霊はイエス・キリストが神の子であると語ることで、キリストを無力化しようと計ります。これが、悪霊どもの、「あなたこそ神の子です」という言葉の背後にある動機です。悪霊どもはキリストを無力なものとし、キリストを圧倒しようと企てています。動機は敵意、敵対意識からです。悪霊はイエス・キリストをただ単純に神の子といっているのではありません。

 

【クリスマスは光の祭典?】

悪霊に、キリストは沈黙を求められます。これは悪霊に、真理の伝達などさせないと言うものです。神に敵対するもの、神とかかわりを持たないものが、キリスト教の真理を声高に叫んでいる。こういうことは至るところで見られます。クリスマスなどその典型です。イルミネーションを飾り立て、光の祭典などと称しています。しかし、それは人工的な光に過ぎません。暗い闇の中できれいに見えます。しかし、それ以上ではありません。私たちの世界に巣食っている闇の力に対して光を提供することなどできるのではありません。むしろ、人間世界の暗闇はますます大きくなるばかりです。悪、不正、不公平が蔓延しつつあります。光の祭典と言っても人間の魂の闇をとても明るくできるわけがありません。

 

 キリストはご自身に敵対するものに真理の告知の任務を与えられるのではありません。キリストは神の言葉を不真実な勢力に任せられることはありません。

 キリストは敵対するものは真実を語っているとしても、彼らには沈黙を命じられます。悪霊が、イエスは神の子だと大声で叫んだとしても、沈黙を命じられます。つまり、彼らによって神の真理は少しでも語られることなど望まれないのです。

 

【福音宣教はキリスト者の召し】

とすれば、キリストはこの最大の教義をどのようにして世界に発信させられるのでしょうか。キリストの弟子たち以外には考えられません。教会が、そして、キリスト者が神の言葉を宣べ伝えるように召されています。教会以外、キリストを信じるもの以外が何かすばらしい真理を語っているかのように思われても、福音の真理は彼らの口から語られることはありません。キリストを心から愛し、信じるものにこそ「イエスは神の子である」という福音が委ねられているのです。これを世界中に告げ知らせるように、私たちは召されています。(おわり)



2014年12月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年11月30日説教「手を伸ばしなさい」金田幸男牧師

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マルコによる福音書3章:
1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

説教「手を伸ばしなさい」 マルコ3:1―6

 

要旨

【安息日に片手の萎えた人】

 イエス・キリストと反対者の論争物語の最後を共に学びたいと思います。場所は会堂、時は安息日とあるだけで具体的なことは分かりません。そこに片手の萎えた人がいました。彼がなぜ会堂にいたのか記されていません。イエス・キリストが会堂に来るとのことで、癒しの奇跡を期待してやってきたのかもしれません。あるいは、安息日にイエスが人を癒すのかどうか見たいと思う人たちが連れてきたのかもしれません。たまたまそこにいたことも考えられます。

 

彼がどうして手が萎えてしまったのかも記されていません。脳梗塞や脳出血で体が麻痺することは珍しくありませんでした。あるいは怪我の後遺症で手に障害が残ったのかもしれません。手に障害がある、特にその手が利き手である場合、仕事に支障が出ます。多くの場合、仕事ができなくなり、失職の恐れがあります。失職すればたちまち生活に困る場合もありました。

 

安息日に人が癒されるかどうか、居合わせた人たちは興味を示し、イエス・キリストを非難する理由を見つけようとしていました。彼らはもちろん安息日の礼拝を守るために来ていたのでしょうけれども、それ以上に、この日にイエスが病人を癒すかどうか見ようとしていました。

 

【ファリサイ派の安息日規定】

ファリサイ派は安息日に医者が病人を癒すことを安息日の規定違反だと解釈していました。ただし、死にかけているような人の癒しは許されるとしていました。このような安息日規定はよく考えるとファリサイ派に都合のよい理解です。彼らは安息日厳守を主張しています。安息日を守れないような人は罪人だと決め付けていました。

 

安息日は仕事を休む義務があるとされます。でも、仕事を休むことだけなら案外簡単でしょう。しかし、この日、体のどこかが不具合があるにもかかわらず,無理をして安息日の礼拝に出る。そうすると周囲の人は絶賛します。痛みがあるにも拘らず安息日を守っている、何とすばらしい信心の持ち主か、というわけです。この規定があるために、ファリサイ人は人から誉めそやされます。よほどの重病でもなければ、礼拝に出席して評価されます。

 

その上、この規定では重病ならば安息日の礼拝遵守の義務から解放されます。都合よく用いると、つまり、重病だと言いさえすれば安息日は守らなくてもよいということになります。ファリサイ派のしたことはまことに勝手な解釈です。人間が決める規則とは往々にしてこのようなものと言うことができるでしょう。抜け穴だらけの規則を作り、規則を守ってよい評判を獲得できるようになっています。

 

【イエス・キリストと手の萎えた人】

イエス・キリストは、そこにいた人たちの思いを見抜いておられました。そこで、キリストはまず手の萎えた人を真ん中に立たせます。見世物にするためではありません。誰もが見える所に彼を立たせて神のなさる働きを公にするためです。

 

【安息日は何をする日か】

奇跡を行う前にイエス・キリストは人々に問われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」安息日に何が禁止されているかが問題なのではない。この日に何をするかが問題であるとキリストは問われます。安息日とは本来どういう目的で守られるのか。キリストはこれを問題にされています。ところで、安息日に人を殺すといわれますが、殺すことなど果たしてあるのでしょうか。関係のない、極端な話をキリストが持ち出されていると受け止めることはできるかもしれません。しかし、人を殺すとは具体的な殺人ではなくて、広い意味で語られていると解釈する立場もあります。

 

イエス・キリストはこの日に、この会堂に入ってこられました。次の主の日は別のところに移動されています。そうすると、もしこの機会を失えばこの人は癒される機会を失います。そうすれば二度と癒されることはないかもしれません。手に支障があるということは生活が破綻するのに直結しています。職人や、あるいは、普通の労働者にとっても、雇ってもらえず、仕事ができなくなるのは飢えに追い込まれるかも知れず、生きていけないこと意味していました。それが当時の一般的な社会のありようでもありました。そのようなところに追いやられるかもしれないのです。ここで癒されなければ手の萎えた人にはある意味で死が待ちうけていました。

 

だから、キリストはこの安息日に人を生かすことと死に追いやることとどちらが相応しいのかと問われたと見ることが出来るのではないでしょうか。安息日に、手が萎えているゆえに不幸に見舞われ、人生の労苦を背負っている人をその軛から解放することはよいことなのかどうか。安息日の目的にかなっているのはどちらか。キリストはここでは安息日に何をしていいのか、してはならないのかという問題からは離れて、安息日の目的は何かに、主題を転じておられます。安息日は何のためにあるのか。

 

キリストの質問に答えることは難しくありません。ファリサイ派の人々にとっても答は明白です。安息日に善をすることは正しいことです。ファリサイ派ですら、安息日に医者が重病人を癒すことを認めました。安息日に死にかけている人を癒すことまで拒否して安息日厳守を訴えていたのではありません。ファリサイ派も人道的な行為をすることは認めていました。

 

【ファリサイ派の沈黙】

ところが、ここで彼らは沈黙します。答は明白であったにもかかわらず、彼らは何も答えようとはしませんでした。この沈黙が意味しているところは明白です。彼らはそれが正しいかどうかは別問題で、今まで安息日にしてきたことを固守しようとしています。安息日には医者が治療行為をすることを拒んできました。それだけではなく、安息日にさまざまな禁止事項を定めていました。そうする生き方を若いころから続けてきました。正しい行為で神に義と認められたい。イエスに答えるということは彼らの人生観、いえいえ、そんな大袈裟なことではなく、今までやってきた生活の仕方、スタイル、習慣を放棄することをいました。それができないということを暗黙の内に認めています。彼らの生き様、考え方をここで放棄できないというのです。いまさら修正できない。人は長く生きてきた道の行き方を急に変更できないものです。

 

しかし、キリストのみ言葉は私たちに変更を求めます。長く続けてきた、そのような生き方や習慣の変更をキリストは要求されます。それがキリストのみ言葉が持つ特性なのです。そのとき、多くの人は沈黙で応じます。キリストのいうことは分かっている。実際、安息日に善を行うことは正しいことなのです。そういうことは分かりきったことです。だからといって人生の道筋を急に変えることはできない。誰もがそう思うのです。

 

【キリストの怒りと悲しみ】

キリストは、怒りをおぼえ、またその心の頑なさを悲しまれます。福音書において、キリストの感情表現が記されているのは珍しいのです。マルコ福音書は怒りと悲しみと二重にキリストの抱かれた感情を記します。それは強調でもあり、読者に印象付けようとしていると見るべきです。決心を求められているのに、今まで生きてきたあり方に縛られて、心を変えることができない。それは多くの人たちが示す反応です。そのような反応をキリストは心を痛められています。それはキリストにとってはとても残念なことなのです。このことは今でも変わらず起きています。

 

【「手を伸ばしなさい」】

手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と命じられると、その通りになります。真ん中に立たせられたのは、心を頑なにしている人たちの只中で、神の大きな力が現われることを明示するためです。安息日に神は大きなわざを行われます。それを多くの人が目撃します。こうして、キリストは安息日に、手が萎えていることで人生に労苦を負う人を救われました安息日にこそ、このことが起きたのです。ファリサイ派にとってはこの日はいろいろ規則に縛られた日に過ぎません。ところがキリストはそのような人々の目の前で神の恵みを示されたのでした。

 

【イエス・キリストを殺す企て】

安息日、会堂に集まって、神の言葉を聞き、讃美し、祈るという祝福された状況の中で、生ける神の子のなさるみわざをただ眺めただけではなく、キリストと敵対する道が選択されました。ファリサイ派はふだんは敵対しているヘロデ派(こういう政治党派はありません。ただヘロデ王家と結託しているグループというべきでしょう)と手を握ります。イエスという相手を前にして、ライバルと手を結ぶ、それだけではありません。イエス・キリストを殺そうと企てるのです。

 

行いによって神に義と認めていただく。そのような生き方を否定するものを亡き者にしてしまおうとする。恐ろしい不信仰の連鎖です。キリストのみ言葉に抵抗する考えの行きつくところはキリスト抹殺なのです。キリストを否定するだけではすみません。敵意を持つだけで終わりません。キリストを殺し、抹殺してしまうという大罪を犯すことになってしまいます。これは例外事項ではありません。

 

【サタンの存在と病】

キリストはこうして病につかれた人を癒されました。病気は、現在ではその原因を科学的に説明します。細菌の感染のせい、遺伝子の異常による細胞の増殖、血管の閉塞・・・しかし、聖書では病の背後に霊的で人格的なものの働きを見ています。悪しき霊の活躍。その筆頭がサタンです。私たちは病気になるのは偶然と見なされていますが、病気は、神の創造のみわざから見れば逸脱です。これをもたらしたのは人間の罪です。ですから、病気もまた悪霊の追放と同様霊的な敵の行為を見て行かねばなりません。そして警戒しなければなりません。

 

【病の真の癒し】

私たちは病の癒しを祈ります。単なる科学的因果関係で病が発生するのであれば祈りは制約されます。病気の背後にある霊的な事柄、罪の結果という面を考慮するなら、霊的存在を支配する神の力に頼りつつ、祈れます。また、それは祈りでしか解決しません。病の癒しのために祈るのは、神が霊的領域で自由に働かれることを期待して祈るのです。神は安息日にこそその力を示されます。神は安息日の礼拝において、人間を縛り付けている霊的拘束も打ち砕かれるのだと宣言されます。安息日にキリストはここでもよきことを行われます。(おわり)





2014年11月30日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年11月23日説 教 「本当の安息」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書2章
23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

 

要旨

【ある安息日】

  「ある安息日」とありますが、その日がどんな安息日であるか、マルコによる福音書は何も記していません。たぶん「ありふれた」安息日であったに違いありません。

 

安息日はユダヤ人にとっては特別な意味があったとされています。安息日を遵守することはユダヤ人にとってその民族意識を駆り立てる重要な行為でした。しかし、多くのユダヤ人にとっては、ただその日が労働を休む日以上に特別な意味を見出せなくなると、いわゆるマンネリに陥ってしまう傾向もあったでしょう。

 

習慣的に安息日は仕事をしないだけ。この実情を何とかしたい。この安息日の意義をもっと意識させる方策はないものかと、ユダヤ人の指導者たちが熟考したとしても不思議ではありません。

 

ファリサイ派の安息日の禁止事項】

ファリサイ派といわれる宗教的な指導層が考えついたことは、この日を厳格に守ること、そのためにさまざまな禁止事項を設けることでした。こうして安息日を厳守することで安息日の重要性を強く認識させ、これによって民族意識を明確に同胞に持たせようとします。そのために彼ら自身がその規定の遵守に励みます。

 

ファリサイ派は安息日には労働をしないばかりか、家畜に軛をかけることもせず、医者が医療行為をすることも禁じ、安息日に調理することもだめだとします。食事をしないわけには行きませんから、安息日の食事は前日に準備するようにしたそうです。このような細かな規定を定めて、その遵守が敬虔、信心の熱さを示すものと受け止められたのです。

 

【麦穂を食べる弟子たち】

 ある安息日に、キリストの弟子たちが麦畑を通って行きます。ここには記されていませんが、キリストは安息日にはユダヤ人の会堂に入り、礼拝を守りました。詩編歌を歌い、聖書朗読を聞き、定式化された祈祷をささげることがその礼拝の形式でした。弟子たちがその途中、麦の穂を摘んで口に入れます。この行為は律法では許されていました。申命記23:26に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあります。鎌で刈り取るのは盗みになりますが、手で摘むのは許されていました。弟子たちの行為は犯罪にはなりません。弟子たちはおそらく空腹であったのでしょう。

 

彼らはイエス・キリストと共に宣教活動に従事していました。何かの事情で前日に食事を整えることができなかったのでしょう。キリストの弟子たちは空腹に襲われたために、麦の穂を摘み、籾殻を手で揉み、口に入れたのです。米は生で噛んで食べることをしませんが、麦(大麦)は石臼で粉にしないでも、口に入れているとでんぷんが変化して食用となるのだそうです。空腹を充分に満たすことはできなくとも、当座の飢えを満たすことができます。

 

それを見ていたファリサイ派が非難をします。彼らがわざわざ町からキリストの一団を監視するためにやってきたとは思えません。ファリサイ派は安息日に何キロメートルを歩いてはならないと規定していました。キリストを監視するためとはいえ、安息日に何キロも歩くはずがありません。おそらく歩いている最中に、たまたま弟子たちと合流し、弟子たちの行為を見てしまったと考えられます。

 

【ファリサイ派の批判】

ファリサイ派は問います。どうして、キリストの弟子たちは安息日にしてはならないことをするのか。ファリサイ派にとってこれは調理することであり、安息日の禁止事項にふれるというものでした。他人の麦畑で穂を摘んで食べたことを彼らは批判しているのではありません。ファリサイ派が非難したことは、安息日の規定に反するというものです。ここでは、ファリサイ派が定めている安息日規定に反しているとされています。

 

ファリサイ派は、信心深いとされている一派でした。当時、禁欲的な集団が多くあったと考えられています。明らかに洗礼者ヨハネもそのような集団と見なされていました。イエス・キリストも弟子たちを選び、彼らと共同生活をしていました。そのようなキリストの弟子たちも敬虔で信心深くなければなりません。キリストも民衆に教えていますが、ファリサイ派から見ればキリストの弟子集団も禁欲グループであることが期待されていました。

 

そのキリストの弟子たちは安息日にしてはならないとされている行動をしています。これは批判に値するとファリサイ派は考えました。

 

【アビヤタルが大祭司?のとき】

キリストはこの批判にどう答えられたでしょうか。キリストは旧約聖書の故事を用いられます。ダビデの例です。サムエル記上21:2-7にそれが記されています。ダビデはサウルに命を狙われて、ノブという土地で祭司であったアヒメレクのところへ単身出向きます。(マルコ2:26では「アビヤタルが大祭司のとき」とあり、明らかにサムエル記上の記事と異なります。これはイエスが誤ったのか、それともマルコの謝りか。どちらにしても錯誤だと重大視する人もいます。聖書に対する信頼性を失わせないために、ここを「のちに大祭司となるアビヤタルのとき」と訳すこともできますので、アヒメレクとその息子アビヤタルがダビデを迎えたとして、記述には誤りではないとします。)

 

大祭司はレビ記24:5-9によれば安息日ごとパンを焼き、それを祭壇に供えなければなりませんでした。普通は12個焼くことになっています。そして、安息日に新しいパンを備え、古いのは下げます。パンと一緒にささげられた香料は燃やして主のものとされますが、取り下げられたパンは祭司たちが食べたのです。ただし、このパンは祭司とその子どもしか食べてはならないと規定されています(レビ24:9)。

 

【ダビデ、アヒメレクに備えのパンを所望】

 ダビデはやってきてアヒメレクに5個のパンを所望します。アヒメレクはダビデたちが律法では清いとされている状態か問い、ダビデがそうだと答えると、その後パンを与えます。これは明らかに律法に違反しています。このパンは祭司たちしか食べることができません。それなのに、ダビデはこのパンを口にしています。しかしながら、ダビデは律法違反をしたからといって罰せられたことはありません。

 

 イエス・キリストはこの例を引いて、弟子たちの行為を正当化しようとしているように思われます。ここで明らかになるのは、ダビデだけではなく、アヒメレクも緊急状態の中で律法に反することをしています。

 

【例外的緊急避難的措置か?】

同様にキリストの弟子たちも空腹でありました。こういう事情があるときは律法の規定は停止される。世間では法律が国民の生活を律しています。しかし、大きな事件が起きるとその法律を停止させることがあります。それは合法的な事態だとされます。それと同じように、緊急事態のもとでは少々の律法違反は認められる、キリストもここでは律法を無視しても仕方がないとされているのだと主張する人もいます。緊急避難的措置として、律法を曲げることも許されるのだというわけです。果たしてキリストが律法違反を承認しているとか是認しているとか主張できるのでしょうか。緊急避難的に律法は曲げられてもよいとすべきなのでしょうか。

 

 律法は神の言葉です。緊急状態ならば律法は守られなくてもよいというようなことをキリストが発言されるはずがありません。では、どう考えるべきなのでしょうか。

 

【安息日は人のため】

 「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。人の子は安息日の主でもある」とキリストは言われました。

 アヒメレクの家で起きたことはこれを示しています。祭司が安息日に備えのパンを食べることができます。

 

安息日に祭司は12個のパンを手に入れることができます。ダビデは5個を求めました。祭司はなお残りのパンを取得しています。安息日は彼らにとってパンを獲得する日でした。安息日は祭司たちのためにあります。祭司は特別聖なる務めにつけられますが、また、彼らは人でした。空腹を経験せざるを得ない人間ですが、そのために神は備えのパンを祭司たちが食べるように取り計らってくださったのです。ダビデがそのパンを食べることになります。これは律法の違反ではなくて、本来、安息日が人のためにあったことを如実に示す実例なのです。

 

神が燃やされる香料をご自分のものとされますが、パンは人間が命をつなぐために用意されるのです。

 

【本末転倒のファリサイ派】

 安息日にこれが起きました。まして、キリストの弟子たちが麦の穂を摘んで食べますが、これを許す律法の規定も人間のために定められたものです。ファリサイ派は安息日を禁止事項で人をがんじがらめにする日にしてしまいました。これは本来の律法の規定にとって本末転倒です。安息日は、何もしない日ではありません。この日は人間にとって最高の神の恩恵を覚える日です。それは祭司たちにとって、そして、ダビデにとって命を救われた日でした。パンはそのしるしです。神がダビデを守られる、安息日にそれが起きたのです。

 

【安息日は救いの日】 

安息日はただパンが配給される日だというのではありません。この日、神の安息を味わう日です。世俗化するとこの日は休暇になります。あらゆる仕事から解放されて、リクレーションなどの楽しみに打ち興じるときになってしまいます。現実の安息日は単なる休養の日です。本来、そうではありませんでした。まして、何もしないでボーとしている費ではありません。安息は魂の安息を意味しています。安息日は、神の救いを味わう日です。ダビデは安息日に聖なるパンを食べ、サウルの追っ手を避けることができました。それは現実の救出を指していますが、霊的な領域で、神はその民に救いを示されます。安息日に主イエスは私たちと親しくあられること、いつも共におられることを約束し、真の心の平安と慰めを確信させられます。安息日こそ、キリストが私たちの救いを完成し、それを現実の与えてくださることを強く覚える日です。

 

 律法はこうして成就します。ファリサイ派のように安息日を規定だらけにして、恩恵を感じられなくするのはイエスの本意などでは決してありません。(おわり)




2014年11月23日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年11月16日説 教 「新しいものと古いもの」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書2章18―22
18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」


 

要旨

【断食と贖罪日】

 ユダヤ人の宗教生活の中で「断食」は大切にされていました。レビ記16章には贖罪の日の規定が記されています。16:29,31に「苦行」と訳されている言葉は「身を慎む、戒める」の意味がありますが、ユダヤ人はこれを断食と解しました。ユダヤ人はこの規定に従って、贖罪日(チスリの月の10日、太陽暦では9-10月)に年に1度の断食をしました。贖罪日はレビ16:31では最も厳かな安息日であると記されています。1年の50回あまりの安息日(土曜日)の中でこの日が最重要な安息日だとされます。

 

安息というと「休息」を考えますが、仕事を休むこと(レビ16:29)だけではなく、苦行を伴う点で、私たちはイメージする安息とは異なります。体を休めてごろごろとしているのではなく、安息とは、神のわざ、特に贖罪を瞑想し、罪があがなわれている幸いを心に留めることなのでした。

 

贖罪の動物として雄牛がささげられますが、同時に雄山羊もこの日の行事に用いられます。1匹は屠られますが、もう1匹は荒れ野に放たれます(レビ16:6-10)。これを見ながら、イスラエルの人々は罪の赦しを深くおぼえることができました。罪のための身代わりと、罪赦されたものの自由をおぼえたのです。これが安息でした。

 

 時代が進むにつれて断食の回数は増えていきます。ゼカリヤ7:5.8:19によるとバビロン捕囚後にはユダヤ人は4月、5月、7月、10月の年4回に断食を実行していました。そして、断食は嘆きの意味で行なわれていました。バビロンに滅ぼされ、エルサレムが破壊された悲しむべき過去を思い出し、その惨劇を招いたユダヤの不信仰を嘆くのでした。断食は嘆きと結びつきます。

 

イエス・キリストの時代には週2回も断食が行なわれました(ルカ18:12)。月曜日と木曜日の2回であったそうです。この場合、ファリサイ派は彼らの律法への忠実さを示すものとして断食をしていたのです。敬虔や信心の深さと断食を結びつけたのです。今日でもイスラムの人たちはラマダンという断食を厳守しています。断食はその信心と結びついています。

 

 場面は2:13以下のレビ(マタイ)の別れの宴の場所であるかどうかわかりませんが、そうだと考えてもよいと思います。イエス・キリストは徴税人や罪人と一緒に食事をされていました。その食事の席には多くの人が集まっていたようです。その人たちがキリストに好意的であったのか、それとも敵対心を持っていたのか判断できませんが、彼らはヨハネの弟子やファリサイ派の弟子のことをよく知っていたようです。ファリサイ派は特に弟子を作る集団ではありませんので、これはファリサイ派の律法学者の弟子たちであったかも知れません。律法学者は弟子を取って教育しました。

 

【なぜ断食しないのか】

彼らの質問の内容は、ヨハネの弟子もファリサイ派も断食をしているのに、キリストの弟子たちはそうしていない、なぜか、というものでした。洗礼者ヨハネは当時ヘロデ・アンティパスに逮捕され、投獄されていた可能性が大きいので、弟子たちがその不幸を嘆き悲しんで断食していたとも考えられますが、ヨハネ自身が禁欲主義的な生き方をしていましたから、その信仰を表わすものとして、彼自身も頻繁に断食をし、弟子たちもそのように訓練していたかもしれません。

 

ファリサイ派の場合は言うまでもなく、誰よりも信心深いことを示すために律法遵守を目に見える形で実行するものとして断食を考えていました。厳格な宗教生活を示す手段が断食でした。ところが、イエス・キリストの弟子たちは断食をしていません。むしろ、機会があれば宴会に出たり、楽しい食事をしたりしていました。これは、当時の一般のユダヤ人にも奇異に思われたのでしょう。当時のユダヤの宗教グループの多くは禁欲的でした。断食はその一環です。ところが、同じような新しい信仰のグループであるキリストの弟子たち、少なくともそのように見られていたグループは、ことあるたびに楽しい交わり、時には飲めや歌えやの大騒ぎ、賑やかな集団でした。いやしくも宗教の一派であるならば断食くらいしてその敬虔さを示すべきではないか。このように思われたに違いありません。なぜ、キリストの弟子たちはあのように賑やかで楽しくやっているのか。最初のキリストの弟子たちは堅苦しく、しかめっ面しながら修行をしている人々ではありませんでした。歌ったり、踊ったり、楽しい集団であった。それだけでも風変わりなグループと見なされていたに違いありません。

 

今日でもキリスト教というとまじめくさった世の中とは相容れない風変わりな特異な人間集団と見られているかもしれません。教会は堅苦しいところ、息が切れると思われているのかもしれません。キリストの弟子たちはそうではなかったのです。

 

キリストの弟子たちはなぜ断食をしないのか、イエス・キリストに尋ねます。その答えは比ゆで与えられています。花婿と宴会のたとえです。当時、婚礼の宴は最も華やかで時間をかける祝いの席でした。ある場合は1週間近くも宴会が続いたそうです。その間、客はご馳走を食べ、また美味しい酒を飲み交わし、歌と踊りに明け暮れました。そういうとき、一日だけ断食するなど不可能です。その日が月曜日の断食日と重なったとしても、毎日宴会の席にいる人が急に断食をしても断食にはなりません。

 

【花婿が取り去られるときが来る】

言うまでもなく、花婿はイエス・キリスト自身を表しています。そして、その宴会に参加しているものはキリストの弟子たちです。婚礼の祝いの宴席に参加している者たちは断食などしません。それと同じように、キリストがそこにいますのに、断食などしない。キリストが共にいることこそ祝いの席に値します。それはすばらしい機会です。だから、キリストと共にいる間は断食など求められない。キリストの弟子たちは単なる修行集団ではありません。あるいは何かを教育されえているだけの集団でもありません。キリストが中心にいて、そのキリストから、神の恵みを伝えられ、導かれる集団でありました。言い換えれば神の子と共にある時間を過ごしているグループでありました。

 

しかし、キリストは付け加えられます。花婿が取り去られるときが来る。その時、弟子たちは断食することになる。花婿が取り去られるとは何を意味しているのか。キリストが逮捕され、裁判にかけられ、処刑されることだと解釈することは可能です。この解釈では、キリストの宣教活動の初期のそんなに早くからキリストがご自分の死を予告されているはずがないというものもいます。しかし、キリストはその意識を最初から持っておられたと考えることは全く正しいと思います。

 その時は、キリストの弟子たちは起きていることに嘆かざるを得ません。断食をしたという記録はありませんが、それに値するような心理状態になったことは間違いありません。

 

【新しいぶどう酒は新しい皮袋に】

 ところで、21-22節ですが、18-20節の物語と切り離す理解もあります。これは格言で、イエス・キリストの断食の教えと直接繋がらないと言うものです。しかし、確かに一種の格言のように見えますが、内容を考えると密接な関係があると見てよいのではないでしょうか。

 語られているのはふたつの話です。新しい布で古い衣類のつぎはぎなどしない。新しい衣類は水分を吸い、乾くと縮んでしまいます。そうすると、つぎはぎ部分をさらに裂いてしまいます。そうなると折角修繕した衣類はだめになってしまいます。今日ではちょっと服が破れますと、買い換えますが、当時は衣類は高価でした。新しいぶどう酒は発酵がやんでいません。今日では完全に発酵を止めてしまいますが、当時はその技術がなく、泡、炭酸ガスが発生します。もしも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると弾力性がないために張り裂けてしまいます。新しい酒は新しい皮袋に入れるべきです。ここから、新しいものは何でも新しいもので対応すべきであるという教訓が生まれてきます。ここでは、そのことだけが語られているのでしょうか。

 

【イエス・キリストの贖罪】

 もう一度私たちは断食が贖罪日に行なわれるべきだとするレビ記の規定に戻らなければなりません。断食は、贖罪の日になされました。それは、毎年、罪の赦しの約束が明確に宣言される日でした。断食は、贖罪の大いなる神のわざを思う日になされます。

 しかし、レビ記の規定は古い、完全な贖罪の予表に過ぎません。新しい贖罪が起きます。それは、イエス・キリストの贖罪でした。キリストは十字架の上でまことの、完璧な贖罪を実行されました。

 

私たちは、それによって完全な罪のあがないを確信できるようにされました。もはや赦されない罪はありません。古い断食の習慣はもう不要です。確かにキリストの逮捕、裁判、処刑に直面した弟子たちは嘆きの断食に相応しいときに見舞われました。でも実際弟子たちは断食していません。とにかく、キリストが十字架で贖いをされました。そのことによって、新しい贖罪が示されます。古いレビ記が語る贖罪は過ぎ去るのです。それが指し示していたものはキリストにおいて成就します。

 新しい贖罪の主が私たちと共におられます。もはや古い断食は不要です。なおも古い断食を敬虔や信心の表現だとすることはありません。もしも断食が信仰に不可欠だと言うのであれば丁度それは新しい布で古い衣類を繕うのに似ています。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるのに似ています。そんなことをしたら古いものも新しい物も使用不可能となってしまいます。

 レビ記の贖罪が示していたまことの安息は、こうして、イエス・キリストを瞑想するときに与えられます。私たちは安息日を守っていますが、それはキリストが共にいてくださるときに成就しています。キリストが共にいてくださるなら、毎日が安息となります。(おわり) 

2014年11月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師

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2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書2章

1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、

2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。

4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。

7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 

 

要旨 

【4人の男と中風の男】

 2:1に「数日後」とありますが、マルコ福音書はいつも正確な時間の経過を記していませんので、これがかなりの時間が経ってからなのか、それとも文字通り、4、5日の間なのか分かりません。イエス・キリストは再びカファルナウムの町に戻って来られました。その間ガリラヤ地方で宣教を続けておられました。

 

カファルナウムでは今度は会堂に入らず、一軒の、おそらく農家に入って行かれます。当時の農家は四方が土壁に囲まれ、多くの場合一部屋があるだけで、台所と寝室が同じ部屋であることも珍しくなかったそうです。大きめの家ならば2、30人は容易に入ることができたと思われます。

 

キリストはここで専ら御言葉を語っておられました。ところが事情が急変します。そこへ4人の男が床=戸板に中風になった人を運んできたからです。脳梗塞か脳出血のために体が麻痺してしまっている人だったと思います。いつごろ中風になったのか分かりません。

 

4人の男はイエスのうわさを聞いてこの人を連れてきたのでしょう。イエス・キリストが話をされている家の入り口はすでに人が一杯でした。家の中も立錐の余地もなくなっていたのではないでしょうか。そこで彼らは思いつきます。当時の農家の屋根は木の梁をわたし、その間に草を葺くというもので、屋根に瓦のようなものをかぶせる場合もありました。屋根は地面から登ることができるほど、低くなっていたようで、4人の男は、屋根に上り、一部を剥いで穴をあけ、そこから病人を床ごとおろします。他人の家の屋根を壊すこと自体非常識で乱暴な行動です。

 

【かれらの信仰を見て】

その上、イエス・キリストの頭のま上ですから、土ぼこりがばらばら落ちてきてとてもキリストは話を続けることができなかったはずです。こんなひどい行動を見てキリストは怒り、しかりつけられたのではあれば話が分かります。ところがキリストはこの人たちに信仰を見たと記されます(5)。

 

これを読んだ人は以外に思うに違いありません。どこに信仰があるのだろうか。しかも、信仰は中風の人の信仰とは記されず、病人を運んできた人も含めて、「その人たちの信仰」と記されます。病人が自分の病気を直してくれるかもしれないイエスキリストに期待するというのであれば信仰と言えるかも知れません。ここでは、とてもむちゃくちゃな行動をしている人たち、キリストの宣教の働きを中断させてしまった人たちに信仰を見ているのです。

 

 私たちは、なぜこれが信仰だと思うかもしれません。しかし、キリストはこれを信仰と見られます。私たちは自分で信仰とはこういうものだろうと推測します。そして、その規準で信仰であるとかないとかを決めようとします。そうであれば、私たちから見て、とても信仰と思えないこともあります。他人を見て、あの人は本当に信仰を持っているのか、と言います。自分に対しても、こんなことで信じていると言えるかと疑問を抱きます。

 

しかし、信仰はいろいろなタイプがあっていいのではないでしょうか。いたって知的な信仰の人もいます。かと思うとわけが分かっていると思えないような幼稚な信仰の人もいます。強烈な信仰を自覚している人もおれば疑ってばかりする人もいます。でも、信仰があるとか、ないとかは簡単に言うことはできません。イエス・キリストがここで信仰があると見なした人たちの場合、私たちの評価基準からすればどうして信仰かと思えますが、イエス・キリストはこの人たち、その行動を信仰と見なしておられます。

 

【子よ、あなたの罪は赦される】

 さらに意外と思われることが記されます。イエス・キリストは病人を癒す奇跡を行われません。乱暴に屋根を剥いでキリストの前に病人を連れてきた人、そして何よりも中風の人は病気の癒しの奇跡を期待していたはずです。ところがそれを行なわれずに、ただ。「あなたの罪は赦されている」と言われただけです。そして、これで物語は終わっていたかもしれません。

 

 律法学者が登場します。彼らがなぜこの場に居合わせたのか不明です。あるいはイエスのことを調査にやってきていたのかもしれません。キリストのうわさが広まり始めていました。その教えが異端的ではないかどうか調べるのは律法学者の務めであったはずです。それとも、彼らは単純にキリストの説教を聞きたいと思っていただけかもしれません。どちらとも判然としませんでしたが、キリストの言葉を聞いて、内心、「イエス・キリストは神を冒涜している」と思ったのです。なぜか。罪を赦すことができるのは神だけだ。ところが、イエスは罪の赦しを宣言している、というわけです。

 

律法学者たちは内心で思ったとあります。口で言い出すことができなかったという意味でもありました。言うことは憚れるという感情が支配していたと思います。それほど重大問題です。人間が自分は神だという。これは当時のローマ社会では通用していたかもしれません。日本のような多神教世界では、人間の神化は珍しくありませんが、ユダヤ人の間では決してそうではありません。恐ろしい言葉です。そんなことは決して許されません。イエスはその恐ろしいことを口にしているのです。

 

 罪を赦すことができるのは神だけだ、というのは当時のユダヤ人の常識でもありますが、また旧約聖書に記される真理です。罪は律法の規定に反することです。その罪を赦されるために犠牲をささげなければなりませんでした。こうして罪が赦されます。それは神だけが赦すということを示しています。ユダヤの裁判で、裁判官が無罪を宣告するとすれば、それは神の代理人が罪を赦すのであって、何か中立の立場の人間が単に法律に沿って罪を赦すのではなかったのです。

 

日本人である私たちは、人間が罪を赦せると思っています。例えば事件の被害者が、加害者のことを「私たちは絶対犯人を赦すことができません」と強い調子で語るニュースを見たことがあります。これは逆から見れば、加害者を赦すことができるのは我々だけであって、ありえないだろうが、その気になれば、罪を赦せると思っていることを示しています。人間は罪を赦す権利を持っている。

 

【神だけが罪を赦せる】

ところがユダヤ人はそう考えません。神だけが罪を赦せるのだ。これは強い信念でした。

 私たちはここで重大なイエス・キリストの証言に直面しています。キリストは「罪は赦されている」と言われました。罪を赦すという意味です。それができるのは神だけだということをイエス・キリストも良くご存知である。とすれば、キリストはここで、ご自身が神であって、神として罪の赦しを宣言しておられるということになります。これは重大な発言です。キリストの言葉をそのまま受け止めるとしたら、キリストは自らを神としておられるのです。

 

 イエスは律法学者の心にあることを「霊の力によって」見抜いたとも記されますが、「御霊において」分かったと記されます。これもキリストが単なる人間の直観力とか推量で分かったのだというのではなく、神的な能力を持って悟ったということになります。つまり、ここもキリストが神であったと証言しています。イエス・キリストの宣教のはじめのときからキリストはご自身が神であることを明瞭にしておられます。これは驚くべきことです。キリストは神の自覚を持って働いておられるのであって、単なる新しい教えの主唱者に過ぎないというので決してありません。

 

【どちらがやさしいか】

 話はここで終わりません。キリストは、「罪は赦されている」というのと、中風の人に「床を取り上げて歩け」というのとどちらがやさしいのかと質問をされています。質問の仕方からすれば二者択一の答えが求められているように思われます。しかし、どちらが難しいと見るべきでしょうか。罪を赦すことは神だけができます。人間には不可能です。そして、病人を癒す奇跡も人間にはできません。かつては奇跡が行われ、科学文明が発達してからの現代では奇跡は起こらないというようなことはありません。キリストの時代も今日も奇跡は殆ど起こり得ないのです。それができるのは人間を超えた力を有する方だけです。ということはどちらも困難どころか人間には不可能だということになります。

 

どちらも難しい、困難というよりも不可能と答えるべきです。イエス・キリストはここで奇跡を行なわれます。病人に「起きて、床を取り上げて家に戻れ」と命じられるとその通りになりました。これができるのは神だけです。人間にはできません。こうして、この一連の物語で明らかになったのは、キリストが神であるという真実です。

 

【キリストは神】

 キリストが神であるならどういうことになるのでしょうか。神であるがゆえに罪を赦すことができます。キリストがご自身を犠牲としてささげ、十字架の上で死なれました。それは罪の赦しのためでしたが、キリストは神でありますから、ご自身の十字架によって私たちを確実に赦してくださいます。

 

キリストが神であるならば、神としての全能性を持っておられます。私たちは確実に祝福を受けます。そして、救われます。罪の結果である死も、呪いも、虚無も打ち砕かれます。キリストが神であるゆえに、私たちに永遠の命は保証され、神の御国に安んじて入れると確信できます。

 私たちの信仰は弱いものです。疑うときもあり、不信感を持つときもあります。しかし、そういう私たちをもキリストは愛して、赦しを確実にしてくださいます。イエス・キリストが神であるとの信仰はキリスト教のもっとも重大な信仰です。ここに私たちの信仰の中心部があるというべきなのです。(おわり)



2014年11月02日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2014年10月26日説教「清くなれ」金田幸男牧師

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20141026日説教「清くなれ」金田幸男牧師

 

聖書 マルコによる福音書1

40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、

42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、

44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 

 

 

要旨

【ライ病、ハンセン病、重い皮膚病】

 「らい病」という言葉は、この病気に対する悲惨な扱いの歴史からあまり使われなくなっています。むしろ、この病気の病原菌の発見者であるハンセンという人の名をとってハンセン病というのが一般的です。この病気に対する扱いは最近まで、犯罪人でもないのに療養所に強制的に隔離し、外部との接触を厳しく制限するなどという非人間的なものでした。

 

聖書においても、狭い意味でのハンセン病ではなく、重い皮膚病に対して、このような規定がありました。「重い皮膚病にかかっている患者は,衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です、わたしは汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まわねばならない」(レビ13:45-46)。

 

多くを説明する必要はありません。私たちの感覚からすればひどく残酷な規定です。神の言葉である聖書にこのようなことが書かれているゆえに躓きを感じる人はいると思います。確かにこのような規定を文字通り実践する必要はありません。この律法の掟は古代イスラエル国家の法律として機能しましたが、それはイエス・キリストによって完成するはずの御国を指し示す役割を担っているだけであって、キリスト以降はもう廃棄されています。さらに、「汚れ」の意味も変わっています。聖書は古代の書物であり、当時の思考方法や考え方を反映しています。宗教と実生活は密接でした。レビ記11章(食物規定)、12章(出産時)、13-14章(皮膚病)、13:47以下(家屋のカビ)、15章(男女の漏出物)にあるように、外見上の汚れは宗教上の穢れと深く結びついて理解されていました。今日では両者は別のものと理解されています。

 

【御心ならば】

重い皮膚病にかかった人がイエス・キリストのところに来て平伏します。これは明らかにレビ13:45-46に規定された律法に反する行動です。イエス・キリストの時代、この律法は厳格に実行されていました。この病にかかっている人は町のなかに入ってくることは禁じられています。おそらく周囲にいた人はぎょっとしたに違いありません。それどころか石を投げられたかもしれません。しかし、彼はそのようなことを顧慮せずイエス・キリストに近づいたのです。驚くべき行動です。

「御心ならば」と言いますが、この言葉は彼の行動と比較すると違和感を感じます。もしよければというのはそこに譲歩、あるいはへりくだりの感じを受けます。しかし、彼の態度や行動はとても積極的です。律法の掟は社会的拘束力のある規定ですが、彼はそれを無視し、違反してまで強行に行動しています。大胆というべきか。跪いたとも記されますが、東洋と違い、跪く行為は相手が神(的)なもの、あるいは絶対的な権力者に対して取るものでした。これはこの思い皮膚病を患う人の最大級の期待の表現であると言っても過言ではないでしょう。何とかしてほしいと言う思いが強くこめられています。

 

【祈りは期待】

彼はイエスの奇跡を見聞したに違いありません。カファルナウムでの悪霊の追放や、病人の癒しにニュースをよく知っていたことでしょう。自分にもイエスの力が現われると期待したのでしょう。

イエス・キリストに何も期待しないというところでは何事も起きません。祈りは期待です。期待してこそ祈ります。何も期待せずという祈りは無きにしも非ずです。しかし、多くの場合、祈りは期待を持って祈るものです。祈りは決して独り言ではありません。単なる願望ではありません。祈りがそうであるように信仰も期待です。期待のない信仰はありえます。しかし、期待なくして信仰から何も生じません。

 

この思い皮膚病の人が抱いたのは強い期待でした。だからこそ「御心ならば」と言ったのであって、可能性は低いけれどもまあ少しだけは期待しておこうというような態度でキリストの前に身を投げ出したのではありませんでした。期待はずれを恐れる信仰や祈りはあるかもしれません。しかし、期待なしには何も起きないのも事実です。重い皮膚病の人は積極的にイエス・キリストに懇願しています。

 

【深く憐れみ】

キリストは深く憐れみ、彼に触ったと記されます。これは律法の規定からすれば違反行為です。してはならないことでした。汚れたものに触れる人も汚れるからです。ところがイエス・キリストにはためらうことがありません。このような行動の動機は、憐れみでした。異なった聖書の写本では、ここでは「怒りをおぼえて」と言う言葉もあります。

 

イエス・キリストは人間を悲惨にし、苦しめている状況を憤られたと見るのです。しかし、「深く憐れむ」という方がキリストの思いを的確に表現していると思います。キリストは深く同情されました。心を動かされました。それは習慣や掟を破ってまで、そのためには石を投げられても仕方がないと言う状況下であえてキリストに願いがささげられたのです。キリストはこの思い皮膚病を患う人の境遇に同情されます。ただそれだけです。イエス・キリストはその御業にふさわしい条件を求められません。何かその人の価値を見つけられたのでもありません。ただただ深く同情されただけのことなのです。

 

【手を伸ばされ】

イエス・キリストは直接彼に手を伸ばされます。この意味も深いのです。キリストは私たちと全く同じ人間となられました。少しも変わることがありません。ただひとつの点を除いて。キリストは罪なき、従って罪の結果である汚れにも染まっておられません。それで孤高を守られたかと言うとそうではありません。私たちと同じところに立ってご自身は汚れなどないお方であるのに、私たちの汚れを引き受けてくださいました。キリストはご自身が汚れがないのに、他人の汚れを、一人の人間として一身に引き受けられます。それだけならばキリストは汚れた存在になるのですが、神の子として、このような汚れを克服する力を持っておられます。汚れを払拭し、汚れを除去し、清くする力をキリストは所持されています。

 

【清くなれ】

だから、「清くなれ」と命じることができるのです。私たちは宗教施設で清らかな水で手を洗うと汚れが洗い流されるという信仰を見ることが出来ます。それは宗教的な一種の儀式です。キリストはそうではありません。キリストは神の御子として自ら汚れを克服されるだけではなく、「清くなれ」と命じられます。もはや汚れてはおらず、私たちもまた清くされます。

 

私たちはさまざまな汚れの中に生きています。魂もまた汚れていると思わざるを得ない思いに打ちのめされることもあります。自分は汚れたものだ。心が汚い。生活も汚い。そういう思いに悩まされることもあります。そのような汚れの感覚はキリストによって除去されます。それは確実です。キリストがこの思い皮膚病の患者に示されたのは一切を清めるキリストのみわざと力です。

 

【祭司たちに見せなさい】

重い皮膚病は癒されます。これで物語りは終わってもよいのですが、キリストはレビ記13章に記されているような行動を取り、さらに、癒しそのものについては沈黙を求められます。なぜなのでしょうか。

 

祭司たちに見せなさいと命じられます。祭司は神殿でいけにえをささげるだけの務めを行なう人ではありません。この皮膚病の検査に見られるように、そして,そのようにするために、医師の仕事も課せられていました。他に、占いもしました。カウンセリングのようなこともしました。また、民事の争いには裁判官の役割も果します。祭司がもう病気は治ったと判断しますと、この思い皮膚病の人は社会復帰できました。 キリストはこのような律法のとおりにさせることで、余計な摩擦を避けられたのです。彼は堂々と町のなかでもとの生活をすることができます。キリストはこのようにスムーズな生活ができるように律法どおりの手順を命じられます。

 

【だれにも、何も話さないように】

さらに、キリストは、この人には誰にも奇跡を語るなと命じられます。逆のように思われます。癒された人が自分の体験をどんどん語ったほうが伝道になる。証しというキリスト教会の伝道集会などで行われる信徒の体験談があります。伝道集会で聖書の話だけでは面白くない。だから体験談も語ってもらいましょうと。このように体験談を語ることで伝道が推進されます。ですから、重い皮膚病を癒された人のほうが宣伝効果は出そうです。ところがイエス・キリストは沈黙せよと命じられます。なぜこんなことをされたのでしょうか。

 

イエス・キリストの伝道活動が単なる人集めであればそうかもしれません。人々は、キリストの奇跡だけを求めて集まってきます。関心事は癒しです。そうすることで、御言葉の宣教はないがしろにされます。もう聞く耳を持ちません。キリストは実際、多くの人に追いかけられます。病気を癒し、悪霊を追放する奇跡だけが人を集めるきっかけとなりますが、ただそれだけです。

 

奇跡を見聞きした人が神を信じるのではありません。奇跡的に助かった人が、では信仰を告白するかと言うとそうなりません。信仰は奇跡によって生じるのではありません。私たちは実は数限りない奇跡的な出来事を経験しながら生活をしています。では、奇跡が行われるとこぞって信仰を持つか。そんなことはありません。奇跡が信仰を生み出さないのです。信仰が奇跡を生みます。この思い皮膚病を癒された人は確かに奇跡を経験しています。それは彼がイエス・キリストに大きな期待と希望を抱いたからです。だから、奇跡が起きたのです。奇跡だけを求める人のためにかえって宣教が妨害されます。だからこそ、誰にもしゃべるなとキリストは命じられたのです。(おわり)



2014年10月26日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2014年10月12日説教「病気を癒すキリスト」金田幸男牧師

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2014年10月12日説教「病気を癒すキリスト」金田幸男牧師

 

マルコによる福音書1章29~39

29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。

30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。

31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。

33 町中の人が、戸口に集まった。

34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

(ほかの町や村で宣教する)

35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。

36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。

38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 

 (要旨)

【すぐに】

 安息日、カファルナウムの会堂(シナゴーグ)で、イエス・キリストの働きを妨害しようとした汚れた霊=悪霊を追い出されました。29節によると、キリストはそのあと「すぐに」会堂を出られたようです。何か急いで、あるいは慌ててすぐに会堂を出てペトロの家に行かれたと感じるほどです。それは安息日の悪霊追放と関係があると想像できます。

 

ユダヤ人、特に律法の遵守を力説するファリサイ派の人々はこのイエス・キリストの行為は認めがたいものであったはずです。安息日の厳守は妥協できない戒律でした。ファリサイ派の批判攻撃を避けるために早々と会堂を去ったと考えられます。

 

【安息日にペトロの姑が熱病に】

キリストとその一行はシモン・ペトロの家に行かれます。ペトロの姑が熱を出して横になっていました。シモン・ペトロは結婚していて、妻とその母と同居していたことが分かります。キリストの弟子たちはのちの修道士のように独身者ばかりではありませんでした。キリストの弟子たちは、よくあるように戒律中心のゆえに自由を失うというようなことはありませんでした。シモンの姑の熱病の原因や程度は何も記されていません。当時は効果のある解熱剤はなく、あっても高価でした。また、この日は安息日で医者は医療行為を禁じられていました(マルコ3章1-6参照)。高熱であってもただ横になっているだけという場合も多かったのです。

 

30節、人々はイエスにシモンの姑の熱病のことを話したと記されます。状況から判断すると、ただ彼女の病状を報告しただけであったのではないかと推測します。その日は安息日です。医療行為は禁止されています。あえてキリストにシモンの姑の癒しを願ったとは思われません。ただ、キリストには彼女の病の深刻なことが知らされただけだったと思います。ところが、キリストはどうされたか。

 

31節、イエスは姑の近くまで行き、手を取って起こした、とあります。詳しい癒しの過程は記されていません。福音書はそんなことにはあまり関心を示していないと見ることが出来ます。私たちにとってはイエスがどういう手順で病気をなおされたのか知りたいところですが、この福音書は教えてくれません。大事なことは癒しがキリストによって安息日に行われたということです。

 

 キリストはこの日が安息日であったことをよく承知しておられたはずです。しかし、キリストはペトロの姑を癒されました。この日は安息日であったからこそキリストは癒しのわざを実行されたというべきでしょう。安息日はユダヤ人にとっては何もしない(してはならない)という戒律の第一位に位置づけられる重要な日です。

 

【安息日の本義】

キリストはこの日の重要性を否定されませんが、誤って用いられているのには反対をされます。この日は何かをしてはならない厳格な律法遵守の日ではなく、神の大きな働きが示される日なのです。安息日であるがゆえに神の大きなわざが啓示されます。それは悪霊追放や病気の癒しという形で明らかになります。

 

安息日だから何もしないというのではなく、この日に大きな奇跡が実施されたのです。そして、病に苦しむものをその縄目から解放されます。キリストの奇跡は行われました。詳しいことは書かれていませんが、安息日に神は大きなみわざをなされたという事実は否定できません。

 

ペトロの姑は熱病のために会堂の礼拝に出られませんでした。戒律を重視する立場から見れば安息日を守れなかったものに神の祝福があるはずもありません。ところが、ペトロの姑は安息日であるからこそ神の大きな幸いを味わう事ができました。安息日はこのように一方的に恵みを受けるときなのです。神は真実に生きようとするものを、安息日であるが故に、大きな喜びを体験させられます。安息日とはそういう日なのです。

 

シモンの姑は癒されました。彼女はさっそく起きて一同をもてなします。安息日は煮炊きが禁じられていました。彼女は前日から食事を用意していたに違いありません。イエス・キリストから大きな祝福を受けたものは直ちにその応答をしています。

 

【夕方になると】

 32節によると、夕方になるとたくさんの病人や悪霊につかれた人が連れて来られました。ユダヤ人の日の数え方では、一日は日没で終わります。ここでは安息日(土曜日)が終わり、日曜日が来たことを意味しています。するとたくさんの人々が癒しを願ってやってきました。安息日を避けたことが分かります。人々は安息日に癒されることはないと思ったのか、またファリサイ派から攻撃されると思ったのか分かりませんが、とにかく、日が変わってから続々とやってきました。

 

考えて見ると、彼らは都合のよいことだけを求めています。安息日の規定に反するのを避けるのはいいのですが、それはファリサイ派かの批判を避けるためというなら便宜主義です。しかし、彼らはそれでも病人を癒してもらいたいという切なる願いを持っていました。だから連れてきたのです。キリストはこのような人々の思いを無視したり退けたりはされません。このような人をも見捨てられないのです。イエス・キリストは大勢の人たちを癒されます。キリストは憐れみのみ手を誰に対しても差し伸べられます。

 

【近くにある多くの町や村に宣教しよう】

35節によると、日曜日の朝、一人離れて祈りに専念されます。ところがシモンその他の人々がイエスを追いかけてきたとあります。彼らの目的は何か。みんなが探していますという報告ですが、もっと多くの人が癒しを求めているということでもあります。

38節、イエス・キリストはこれを聞いて「近くにあるもっと多くの町や村で宣教しよう」といわれます。これは人々が宣教よりも癒しを求める、弟子たちでさえまだこの頃はイエスの超自然的な奇跡実行者であることだけを期待していたので、それを拒絶するために、カファルナウムでの働きを中止されたのだと取れますが、イエス・キリストは宣教とそれに伴う神の力の発露のために、もっと多くの地で宣教活動をしようと決意されたとも取れます。ガリラヤ近辺での働きを拡大されていきます。

 

【癒しとは】

 病気の癒しについてさらに考えたいと思います。マルコは個人の癒し(ペトロの姑)をまず記し、ついで、集団の癒しを記します。さらに多くの人の癒しも語られます。福音の宣教の拡大と癒しの数は比例します。宣教がなされるところでこそ神の大きなみわざが行なわれるのです。

 

病気は人間が存在するところではどこでも起きます。なくなることはありません。最近、医療技術が格段に進歩しました。そのために人は長く生きるようになりました。高齢化は医学の進歩の結果であることは間違いありません。かつては、人は40歳代、50歳代亡くなっていましたが、今は80歳、90歳も普通となりました。そのために、私たちは病気が克服されたと錯覚しています。

 

でもそれは誤りです。高齢化して、それだけ多くの病気を経験しなければならなくなりました。今まで聞いたことにない病名に出会います。検査方法が進歩したから、今まで見落とされていた病気が発見されたといえるかもしれませんが、また人は長生きしたために、今までかかる可能性が少なかった病気になるということもありえます。時代はグローバル化しています。すると、今まで地域の病気であったものが世界中に拡大するということも現実になっています。がんについていえばどうでしょうか。かつてはがんは即、死に繋がる病として恐れられました。

 

がんになると死ぬと思われていたのです。ところが今ではがんも克服されつつあります。それでがんは制圧されたのでしょうか。現在、死因の内、がんが第2位を占めています。がんという病気が克服されたということは正しくありません。がんの治療方法は増えましたが、がんで死ぬ人は多くなって来ています。これは何を意味するのか。病気は消滅しないということです.病気はなくなることはありません。

 

 そして、死はあいも変わらず人間に苦しみを与え続けます。肉体の苦痛は残ります。確かに痛みを制御する方法は進歩しました。肉体の苦痛は解決しつつあるかもしれません。かつてこの病の痛みが病人を苦しめました。今はどうか。精神的な苦痛はかつて以上に人を悩まします。不安や恐怖、あるいは不快さ、時間との戦いは決してなくなりはしません。病気が周囲に人々を苦しめる状況は変わりません。経済的な負担もかえって大きくなりつつあります。国家そのものが今や病気のために財政破綻の危機にさえ直面する時代です。病気はなくなってなどしていません。病気は社会的な立場を失わせます。仕事ができなくなることで大きな損失を蒙ります。

 

 そして、病気は死と直結しています。病気は死の予告なのです。人間は必ず死ななければならないということを教えるのが病気です。死は必ずやってきますが、病気はその死の到来を予告するものです。ところがたいていの人はそう思っていません。

 

【死の勝利者キリスト】

 イエス・キリストは病を癒されます。これはキリストが死も克服する救い主であることを示すものです。病気は私たちに死の備えをさせます。人は病みます。そのとき、その病が死をもたらすことを学ばなければなりません。死に直面したものはどうするのか。諦める。死は一切の終わりであると諦観する。死など考えない。いろいろな備え方があります。キリストは私たちに語られます。病を癒す力ある方は究極的な死の勝利者であられる。

 誰もが病みます。病んで、そのときこそキリストが病を癒す救い主であることをおぼえます。だから、病気の癒しを祈り願うのです。キリストはその力を保持しておられます。そして、病気と死が直結している鎖を断ち切ってくださいます。(おわり)

2014年10月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2014年10月5日説教「神の聖者だ!」金田幸男牧師


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新約聖書
マルコによる福音1章:
21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

2014年10月05日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年9月28日説教「最初のキリストの弟子たち」金田幸男牧師9

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新約聖書
マルコによる福音書1章6-20節
6 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
7 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
8 二人はすぐに網を捨てて従った。
9 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
10 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

2014928日説教「最初の弟子たち」

 

要旨 マルコ1章16―21

 

【イエスの召し・召命】

 イエス・キリストはガリラヤで神の国の福音を宣教する働きを始められました。ガリラヤ湖のほとりを歩いていたとき、ペトロとアンデレと出会い、彼らを弟子に招きました。さらにヤコブとヨハネをも招かれます。

 ここからひとつのことを知ります。弟子たちから、自分たちから弟子にしてくださいと頼んだのではありません。師の教えに信服して弟子となったのではありません。自分のほうから先生であるイエス・キリストのところに住み込んで入門して弟子となったのではありません。イエス・キリストのほうからペトロとヨハネを招いたのです。言い換えれば、召されたのです。召命とも言います。

 

ペトロたちは何も知らないでキリストの弟子となったのではありません。彼らはイエスの説教を聞いていたはずです。キリストはガリラヤ湖畔を宣教の場所と用いられたと推測できます。斜面に聴衆が座り、下からキリストが語る。音響効果があったと思います。ペトロたちは漁師でしたから、キリストの説教の場に居合わせたことは充分可能性があります。だから、キリストがついてきなさいと言われたとき素直に従えたのだと思います。キリストの教えには聞くに値する何かがあると悟ったのでしょう。

 

【召しとは】

いわゆる専門の伝道者にするために召しがあるのではありません。イエスの召しはさまざまなところで行なわれます。宗教改革者ルターは新約聖書のドイツ語訳で、職業に当たる語を召命と訳しました。彼にとって、職人であろうと、騎士であろうと、また、宗教人であろうとその務めは召しによると考えられていました。現在で言えば、サラリーマンであろうと、学校の教師であろうと、専業主婦であろうと、それぞれは神からの召しによるとされます。神が召してくださったのです。

 

それは運命だから仕方なく受け入れなければならないものでもなく、偶然そうなったのでもない。自分で適任だと思っている人があるかもしれませんが、究極的には神の召しによってそれぞれの場所に置かれているのです。

 

【召天】

召しは、人生の最後にも用いられます。昇天はキリストの場合に用いられ、キリスト者が人生を終えて天に召されると表現します。帰天という言い方もありますが、召天がいいのではないでしょうか。私たちは一番いいときに、一番ふさわしいあり方で、神が私たちを召してくださいます。これが私たちの人生です。神の召しですから、私たちに人生の終わりは単なる終わりではありません。人生はそれで一巻の終わりというのでもありません。神は私たちを召してそれで人生を終わりとされます。神の介入がそこに示されます。

 

召しは、私たちの信仰の始めでもあります。神は選ばれたものを召されます。召されたものに信仰を与え、義とし、聖とし、神の子として、ついに私たちを救いの完成まで導かれます。この一連の神の救いのみわざは全て神の召しによるのです。神が私たちを暗い滅びの闇から光の御国に呼び出し、召しだしてくださいます。

 

この召しはどうして確信できるのでしょうか。イエス・キリストはわたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。キリストは御言葉によって召されます。この言葉を無視し、拒否するなら招きの言葉は何の意味もありません。しかし、聞いたものにとってそれは神の生ける言葉として、さらに、心に響く言葉として聞かせられます。

 

それは誰がどういおうとも主がお語りになる言葉です。私たちの心に神が語ってくださったのです。召してくださったのです。そんなのは空耳だと人はいうかもしれません。思い込みだともいうかもしれません。けれども、私たちの心に語られたみ言葉は確かです。だから、周囲の言葉に動かされることはありません。ある人は妄信に過ぎないというかもしれません。その可能性はあります。

 

でも、それを聞き分けるのは私たち自身であって、私たちは一人一人神の前で吟味すべきなのです。(むろん、私たちは御霊の内なる働きであることを認めなければなりません。)

 

【召しにしたがう人生】

召しにしたがっているという確信は強固です。誰もそれを否定することができません。ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも紆余曲折がありました。失敗もあれば挫折もありました。ペトロの場合、とんでもない失敗、一時的にキリストを否定してしまうという過ちを犯します。けれども、最後までキリストの弟子でありえたのは、その魂の奥底にまで聞かせられた召しの言葉を確かに受け止めたからです。

 

【人間を取る漁師】

彼らは召されたのは単なるイエスのヘルパーや雑用係として召されたのではありません。

イエス・キリストは、人間を取る漁師にしよう、と言われました。なぜこのようなことを言われたのでしょうか。彼らが漁師であったからだといえるでしょう。網を打って多くの人間をキリストのところに導きいれる、あるいは集めると言うイメージを抱くことは容易となるでしょう。

 

【裁き主なる主】

しかし、それだけではなかったと思います。イエス・キリストはこの言葉を語られたとき、旧約聖書を心に抱かれたのではないでしょうか。エレミヤ16:16-18見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。

 

ここで漁師は神の恐るべき審判を実行するために神が派遣されたものたちという意味です。アモス4:2「主なる神は、厳かに誓われる。見よ、お前たちにこのような日が来る。お前たちは肉鉤で引き上げられ 最後の者も釣鉤で引き上げられる。」この肉鉤は漁師が釣上げる道具と考えられます。漁師は悪を行なうものを引き出してさばかれます(ハバクク1:15なども参照)。

 

これらに共通しているのは、漁師は神のさばきの執行者の比喩的表現として語られている点です。イエス・キリストはこの旧約の表象をご存知であったと推測できます。イエス・キリストが招かれる人間を獲る漁師は恐るべき神の審判の執行者ではありません。

 

【福音の担い手としての漁師】

神の国は近づいた。旧約的には恐るべき審判の到来と見ることが出来ますが、キリストは神の国の福音を宣べ伝えられました。神はただ恵みによって多くの罪人を神の国に入れようと決心され、実行されます。ここにこそ神の憐れみが示されます。神の国に入るべき者たちを集め、導く漁師というイメージが描かれています。この漁師は福音の担い手です。確かに神の支配の完成は近づいています。その神の支配に人を招く、集める、これがキリストの弟子たちの役割なのです。

 

 キリストの最初の弟子となったのは、まずペトロとアンデレです。彼らは網を打っていたとありますが、網の四隅に石を結びつけて、それを海に投げ入れる漁法です。このやり方では岸辺近いところでしか仕事をすることはできません。ガリラヤ湖は魚が豊富だったそうです。ですから、岸に近いところでも充分の漁になったそうですが、他方、ヤコブとヨハネの父ゼベダイは船を持ち、雇い人がありました。ここから推量できるのは、ゼベダイは裕福な漁師であったということであり、ペトロたちはさほど豊かな漁師ではなかったのではないかと言うことです。

 

【教会は多様な弟子たちからなる】

キリストの弟子たちははじめから均質ではありません。能力と関わるのかもしれませんが、この4人のうち、アンデレ以外の3人はキリストの重要な弟子の核となります。ヤコブは12人弟子の中で最初に殉教します(使徒12:2)。ヨハネはかなりの高齢になるまで生きたと伝えられています。キリストの最初の弟子たちのなかにもいろいろありました。才能においても、実力においても、個性においても実際多種多様な人たちが最初の弟子となりました。

 

この弟子たちが教会を形成するのです。教会は当初から均質なグループではありませんでした。そのようないろいろな個性、性格、能力のある人たち、老若男女、身分の違いのある人、社会的地位の差異があっても教会はこの人たちから構成されます。

 

使徒言行録4:13では「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。確かに彼らは学問のある、知的水準が抜群の人たちではありませんでした。それが教会なのです。ただ、キリストが彼らを用いようとして、召し集められたのです。

 

【福音宣教の緊急性】

この短い文章に「すぐに」が2回出てきます(18節、20節)。マルコは弟子たちの召しとそのあとに続く従順は速やかになされたと強調します。このような言葉が用いられるのは、緊急性を示しています。弟子が召し出され、選びされるのは、緊急なのです。弟子たちの仕事は人々を福音により、神の国に導き入れることでした。この作業はついでの仕事などではありません。

 

また、後回しにしても差し支えない仕事ではありません。神の国は接近しています。神の国は間近です。そうであれば、神の国に導いていく弟子たちの務めは緊急の課題なのです。弟子たちの仕事が緊急だと言うだけではありません。福音を信じて神の国に入れられることも緊急の課題なのです。

 恐るべき審判の警告ならば緊急性があると言われても納得できるかもしれませんが、神の国に招く働きとその結果などいつでもできるし、いつでも応じればいいと悠長に構えている場合が多いと思います。そうではないのです。神の素晴らしい使信、メッセージを語ることは緊急性を持っています。緊急性を自覚するように求めるものなのです。(おわり)


2014年09月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年9月21日説教「イエスの働きの開始」金田幸男牧師

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2014921日説教「イエスの働きの開始」金田幸男牧師 

聖書:マルコによる福音書1

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

(誘惑を受ける)

12 それから、"霊"はイエスを荒れ野に送り出した。

13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

(ガリラヤで伝道を始める)

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 

 

要旨

【イエス・キリストの働きの開始】

マルコはイエス・キリストの働きの開始を記します。イエスの受洗、悪魔の誘惑、宣教開始と陸上競技の三段跳びのように話が展開して行きます。

 

9節「そのころ」、マルコ福音書は正確な時間や場所にあまり関心がないかのように語ります。記事は次々に記されますが、「そのころ」「それから」「その後すぐ」といった言葉で記事が繋がっていきます。「そのころ」とはいつごろか分かりませんが、注解者によると紀元27年ごろとされます。

 

【ナザレ時代のイエス】

 イエスはそれまでナザレに住んでいました。マルコ6:3にこのように記されます。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」当時は大工の子は大工であるのは普通でした。イエスは父親のヨセフのもとで大工の修行をしたに違いありません。また、イエスにはたくさんの兄弟がいたことも分かります。ただ、イエスのナザレ時代については、福音書は沈黙していて、殆ど私たちは何も知らないのです。

 

【洗礼者ヨハネから洗礼を受ける】

 あるとき、イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けます。

この洗礼については大きな問題があります。ヨハネは罪からの悔い改めの洗礼を人々に授けました。イエスがこの洗礼を受けたということは、イエスが自分自身罪のあることを認め、洗礼を受けたのだとされかねません。

 

イエスは自分が罪人であると自覚しているということになります。キリストが単なる罪人では私たちの救い主にはなれません。しかし、これを否定する文章が記されます。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」この声は、天が裂けて聞こえます。天がびりびりと布を裂くように引き裂かれます。丁度絵画的な表現で書かれています。これは神の特別な啓示そのものであることを示しています。

 

そして、霊が降って来ます。霊は鳩のように可見的に降って来るということもとても驚くべきことでした。こんな異常な現象と共に語られたのは、イエスが神の子であるという告知です。イエスは罪人ではなく、神の子です。すなわち神です(神の子は神ではないということはありえません)。神の子が罪人であるはずがありません。

 

イエスは罪人ではないけれども、罪人であるかのようになってくださったということになります。イエス・キリストは私たちと同じようになってくださったのです。イエス・キリストは神であられたにもかかわらず、私たちと等しいものとへりくだってくださいました。

 

 洗礼者ヨハネはイエスの受洗の際、マタイ3:13以下では、思いとどまらせようとしたとあります。自分がイエスから洗礼を受けるべきだといいます。ヨハネはイエスが悔い改めの洗礼を必要とはしないと証言しています。しかし、イエスは「正しいことを行なうのだ」といってあえて洗礼を受けられました。

 

キリストは洗礼など必要ではありませんが、私たちと同じところに立たれて、すすんで洗礼を受けられました。私たちの罪を身代わりを引き受けて人間として歩まれます。イエスの洗礼ははからずも彼が神であることを示す出来事となったのです。

 

【サタンの誘惑】

 12節以下ではイエス・キリストがサタンから誘惑を受けたと記されます。誘惑とは罪に陥れようとする試みを指しています。イエスは試練を受けられたのです。

 誘惑したのはサタンです。サタンというとおどろおどろしい感じがします。

サタンは恐るべき力、強力な破壊力を持っているかのように思われています。人間にはサタンは厄介な存在です。サタンの本業は誘惑し、非難することです。ヨブ記1-2章ではヨブを試みます。彼の信仰を試す役割を果たします。しかし、サタンはヨブの命を奪うことは赦されていません。サタンは決して神以上ではありません。

 

 サタンはゼカリヤ書3:1でも出てきますがそこでは大祭司ヨシュアを訴える=告訴する役割を果たしています。告訴し、非難する専門家です。歴代志上21:1ではダビデを誘惑し告発します。脅し、文句をいい、批判するのがサタンの役割です。サタンは私たちを破滅させることはできませんが、人間に対してはしばしば勝利するかのように振舞います。誘惑して神から離れさせようとします。

 

イエス・キリストは私たちと同じようにサタンの誘惑に曝されました。キリストも大きな試練に直面しました。サタンは勝利するかのように振舞います。しかし、サタンは大敗北を喫します。

 

【天使たちが仕える】

13節に天使たちが仕えていたと記されますが、天使の最も大きな役割が神への奉仕です。天使が仕えていたということはイエス・キリストを神の子として仕えていたことに他なりません。ここでもマルコはイエス・キリストが神であることを証言しています。

 

 人間として洗礼を受け、人間として試練に会われますが、また神の子として、神として振る舞い、神であるがゆえに人間ができないことをされます。

 

【神が人となる】

私たちは、人間が神になるという宗教状況に生きています。しかし、その逆である、神が人間になるということは考えられない状況にいます。神が人となるというのであればそれはきわめて重大なことです。ありえないことが行なわれています。

 

神がわざわざ人間となり、人間と等しくなられました。人間となられたイエスは神であることを示されます。私たちはこの神のなさることを無視したりできないはずです。神が救いに必要な働きをまっとうされ、また御言葉を語られるのであれば、私たちはその神の働きを軽視することなどとてもできず、不信心を持って応じることなどできないはずです。

 

神の子が私たちと同じになり、私たちの苦しみ、悲惨を味わってくださいました。そのイエスが神であって、私たちに神として神の御心を啓示されます。それを斥けることなど愚かしい、おぞましい行為です。

 

【福音の要約】

そして、イエス・キリストは宣教を開始されます。神の福音を宣べ伝えたこと、その宣教された言葉が記されます。15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 

9-15節はマルコ福音書の序論に当たります。序論において、全体の要点を記すのが一般的な書物の書き方です。イエス・キリストの公的な生涯の開始を記しますが、単に開始を告げるのではなく、マルコ福音書全体の要約ということができます。イエス・キリストの生涯の言動をここはその方向性を語ります。

 1章7-8は洗礼者ヨハネの説教の要約ということができますが、15節は宣教者イエス・キリストの説教の要約だといえるでしょう。イエス・キリストが語ろうとしたことがここに要約されています。

 

イエスの説教はまず、時は満ちた、です。私たちは時間が水の流れのように流れていくようなものだと思っています。しかし、ここで時間は器に充満するがごとくです。時間はついに溢れ出します。充満し、ついに破裂してしまうようです。そのように時間には節目があり、その節目が来たとき一挙に神は働かれます。イエス・キリストが宣教を開始されたのは満を持して、ついにそのときが来たという感じを表現しています。

 

 「神の国は近づいた」

 神の国は「神の支配」を意味します。時間と共に、時間が始まって以来、つまりこの世界の創造からずっと、神の支配は開始されています。しかし、神の支配の完成はまだです。私たちは神の支配がすでに始まっている世に生き、「神の支配が完成する間近」に生きています。

 

神に支配が完成するとき、私たちの救いも完成します。私たちは神の国に入れられます。イエス・キリストは神の国の完成は近づいていると宣言されます。つまり、救いの完成は近いのです。そのときは近づいている。これがイエスの説教の主題です。神は私たちの救いを完成しようとしておられる。

 

【神の国の備え:神に立ち返れ】

悔い改めて福音を信ぜよ。神の国の備えは、悔い改めと福音を信じる信仰だと語られます。悔い改めは単に反省すること、あるいは後悔することと異なります。神に立ち返ることを指しています。福音はよき知らせです。神が語るよき知らせを信じることが神の国に入る条件です。

 

 洗礼者ヨハネは悔い改めを語りました。イエス・キリストの場合、福音を信じなさいという命令が含まれています。ここがヨハネとの違いです。ヨハネは悔い改めを語っただけでした。悔い改めてするべきことは洗礼を受けることです。イエスはヨハネと違います。悔い改めることだけではなく、福音を信じることを命じるのです。

 

こうして、福音を信じるものに神の国に入る特権は約束されます。約束するのは神の子です。

 このような説教=宣教は人間がしてもよさそうなものです。誰でもよさそうなものです。実際、族長や預言者たちにその役割が与えられていました。しかし、神の子が直接この神の国に至るための道を宣告されます。

 

キリストは人間であるだけではなく、神が降臨されて、福音を語られるのです。それだけ、私たちは神の熱心を知らされます。神は御子を遣わして、福音を宣教させたのです。

 

私たちはキリストの福音を耳にしています。福音書はそのイエスの言行を記します。それは単にイエスという宗教的天才の言葉の羅列ではありません。また、福音は単なる慰安の言葉ではありません。神の子が私たちのところに来て、救いに必要なことを全て行なわれ、その御言葉を信じ、約束を受けいれるならば必ず救われるという神の使信を語られたのです。神のこのような決意を私たちはどのように考えるべきでしょうか。(おわり)

2014年09月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2014年9月14日説教「福音のはじめ」金田幸男牧師

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2014914日説教「福音のはじめ」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書1

1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

要旨

【福音のはじめ】

 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。子どもに物語を話し始めるとき「さあ、お話を始めましょう」と言います。「さあさあ、なになにの物語の始まり・・・」といった調子でしょうか。マルコも1節をそのように始めたかもしれませんが(つまり福音書開始の口上)、もうひとつの解釈は2-8節、洗礼者ヨハネの物語を福音のはじめととる解釈です。

 

2節以下には洗礼者ヨハネの言動が記されます。ヨハネという人物のことは殆ど知られません。ヨセフスという当時の歴史家の著作に名が出てきますが、詳しいことは何も知られません。しかし、キリスト教信仰においてはとても重要な役割を果たした人物です。彼の存在と働きは私たちの信仰には大きな意味があります。

 

【預言者たちの書に】

 「鍵括弧」に入っている2-3節を指して、預言者イザヤの書に書かれているとありますが、実はイザヤだけではありません。旧約聖書の他の個所からの引用でもあります。

 

2節は、マラキ書3:1見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」と、出エジプト3:20「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」の混合引用です。

 

【福音の使者】

マルコはヘブライ語旧約聖書をそのまま引用せず、ふたつの個所を自由に引用混合しています。この引用でマルコが言わんとするのは、まもなく神の大きな業が行なわれるがその前に使者が送られるというものです。

 

大きなわざとは、マラキによれば大いなるさばきです(マラキ1:2-3を見ると恐るべき神のさばきが記されます)。わたしはそう思っていませんが、大きな災害があると神のさばきだと考える人がいます。また個人的にも突然の不幸を経験すると神のさばきと思うのです。しかし、ちょっとしたさばきでも、私たちは耐えられません。神の大きな御業は災いばかりではないと思います。

 

【預言者エリヤと洗礼者ヨハネ】

それはむしろ神の救いの御業です。イスラエルはメシヤ=救世主の到来と信じていました。ユダヤ人はメシヤが必ず来る、そのとき救いは達成される。その前に使者が送られる。それがエリヤだと信じていました(エリヤは列王記下2:11.彼は死なないで火の車で天に挙げられました。ユダヤ人はもう一度エリヤは戻ってくる。神のさばきの前に使者として送られてくると信じられて)。

 

しかし、マルコは、そして、教会は、それこそが洗礼者ヨハネだと信じたのです。イザヤが引用されます(40:3「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」)。荒野にその使者は出現するとイザヤが言っているとマルコは理解したのです。洗礼者ヨハネは荒野で活動を開始します。イザヤの言うとおりであり、使者は民に主の来臨の備えをさせます。

 

 「荒野」と言っても人間が寄り付けない広大な砂漠を指しているのではありません。人里離れた寂しいところという意味です。耕作や居住にふさわしくありませんが、そこに庵を設けたり、時には集団生活をして、もっぱら禁欲に努め、清い生活を求める人々がいました。荒野は清らかな生活をするのにふさわしいと考えられたのです。当時、ユダの荒野で、禁欲生活を実行した人々がたくさんいました(エッセネ派、クムラン)。ヨハネもそのうちの一人であったと思われます。

 

ただ、ヨハネは孤立して世俗世界から断絶するような態度をとっていません。ヨハネ自身、イナゴと蜂蜜を常食としたとありますが、粗食をしたという意味で、断食などしていません。栄養の点で不足のない、普通の生活をすることができました。ここでヨハネは徹底的にひとつの問題を瞑想し、考え込み、そして、熟考しました。ヨハネは清さを追及したに違いありません。砂漠に後退した修行者は禁欲を実践しましたが、それは聖潔を求める生きかたでありました。ヨハネはそこに留まらず、清さの反対の「罪」の問題を追及したと思われます。私たちの観念では清さの反対は穢れと考えます。しかし、砂漠の修行者たちは罪と考えます。ヨハネは罪の問題をどう解決すべきかを考え続けたのです。

 

【罪】

 罪とは何か。定義はできます。「罪とは律法に違反すること」。しかし、私たちは、罪の問題をあまりよく分かっていないのではないでしょうか。この世間では、法律に違反することを罪といいます。殺人、強盗、詐欺など犯罪といいます。刑法という法律はその犯罪に対する処罰まで記します。

 

しかし、キリスト教では、神の律法に反することを罪とし、心の中でも罪は犯されると言います。例えば殺意、憎悪、敵意、嫉妬なども罪とします。情欲まで罪とされます。

 

罪は厄介なものです。定義だけではすまないからです。私たちには良心があります。この良心は罪に痛みをおぼえます。誰でも良心はあります。良心の持たない人間はいません。良心は自分の犯した罪に苦しみます。しかし、罪が厄介なのは、罪を犯していても気がつかないこともあります。無自覚な罪。その数の多いこと。私たちは多くの場合気がつかないで罪を犯しています。ですから結果も気がつきません。

 

さらに罪は深刻です。罪は魂を傷つけます。深く傷つけます。その罪は魂の死を意味します。私たちが死の恐怖から抜け切れないのはこのためです。さらに、魂が負うこの深刻な傷は滅びをもたらします。心の中でおかされる罪は良心が自覚を促しますが、無自覚な罪、あるいは魂への傷を負わせる霊的次元の罪は、多くの場合軽視されています。しかし、結果は甚大です。

 

【悔い改めの洗礼】

 ヨハネは罪の問題を一所懸命追及したに違いありません。そして、当然その罪の問題の解決法も考えたはずです。どうすれば深刻な罪の問題を解決できるのか。罪が赦されること。それ以外にありません。罪を帳消しにされる道がなければなりません。どうすれば罪は赦されるのか。ヨハネはこの答えとして、悔い改めの洗礼を主張します。それを宣教しました。つまり、説教をしました。

 

4-8節でヨハネの活動と説教が記されます。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。罪の赦しはどうすれば得られるのか。悔い改めることだ。ヨハネはそう主張しました。   

悔い改めとは方向転換を意味することですが、聖書では神に立ち返ることを意味しています。自分の道を好きなように生きていた人間がその生き方を捨てて神に立ち戻っていくことを悔い改めと言います。単なる反省する、慙愧の念に駆られる、あるいは後悔するということとは異なります。  

 

罪の道を生きてきたものが悔い改めて神に立ち返る、そのときに罪は赦される。ヨハネはそのように教えたのでした。

 洗礼者ヨハネはさらに洗礼を授けました。これがヨハネの新しさであったということができます。悔い改めとは心の問題である。そう思う人が多いはずです。だから、心の中で悔い改めの気分になればそれでいい。犯した罪を反省します。それだけで終わることが何と多いことでしょうか。罪は謝ればすむではないか。そう考える人もいます。

 

 ヨハネは洗礼を求めます。彼はヨルダン川で洗礼を行ないました。それは単なる儀式ではありません。心に思った悔い改めを形に表すべきなのです。キリスト教という宗教は心に抱いた思いを形にすることを求めます。献金は献身のしるしといいます。神に献身する決心は本人しか分かりません。しかし、それを形にするのは献金なのです。賛美の心が湧いてきます。それを讃美歌という歌にします。ヨハネは悔い改めを洗礼と結び付けます。

 

 このような悔い改めの洗礼が罪を赦すと教えたのですが、続々とヨハネに共鳴する人が出てきました。罪の問題に悩んでいたユダヤ人はヨハネのところに来て悔い改め、罪を告白し、洗礼を受けました。こうして罪の赦しをいただこうと願ったのでした。

 

【悔い改めの水の洗礼は準備】

 ヨハネは懸命に教えましたが、なお不十分さを確信していました。彼の説教が7-8節に記録されていますが、むろん、これは説教のもっとも大切な部分です。水の洗礼だけでは限界がある。もっともっと魂の奥底で変化が起きなければならないと思ったのです。それを実行できるのは自分よりもはるかにすぐれたまことのメシヤ=キリストであると確信しました。自分はそのメシヤの到来の備えをするために来ただけだと自覚していました。つまり、悔い改めの洗礼は準備でしかないと思っていたのです。

 

【聖霊による洗礼】

 メシヤは同じく洗礼を授けます。しかし、その洗礼は聖霊による洗礼です。ヨハネの洗礼とキリスト教の洗礼はどう違うのか。ペトロが答えてくれています。

 

使徒言行録2:38-39「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 

イエス・キリストの名による洗礼とはキリストの十字架の贖いとキリストの復活にあずかる洗礼であり、その恵みにあずかる洗礼です。これこそ聖霊による洗礼であり、ヨハネは自分の洗礼ではとても及ばない真実であると認めたのです。キリストを信じ、その贖いに預かる洗礼は聖霊によるのですから、その洗礼で約束されている祝福は確実です。必ず罪は赦されます。赦しの結果は確実な救いです。間違いなく神の国に入ることができます。そこには曖昧さはありません。

 この洗礼にあずかり、神の国の民としての特権を獲得していただきたいと願います。(おわり)

2014年09月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2013年12月15日(日)説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)

 

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20131215日説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜世媛先生(WEC派遣宣教師神戸改革派神学校特別聴講生)

 

聖書:新約聖書マルコによる福音書1045 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。                             

 

【僕(しもべ)である王】

皆さん、こんにちは。今日は、主イエス・キリストのご生涯を一緒に考えてみたいと思います。

 

私は韓国で「十字架への道」というアメリカからきたセミナーに出たことがあります。

そこで私が1番印象に残った事はServant King「僕である王様」ということです。

 

イエス様は王であるということに依存ありませんでしたが、イエス様が僕であるという事は私にとって驚きで貴重な機会になりました。

日本に来て、イエス様のことを王でもあられ、僕でもあるとのまとめを皆様とともに分かち合いたいと思いました。

 

私は中学三年のとき、クリスチャンになって高校生、大学生とキャンパス クルセードというところで活動しました。

キャンパスクルセードは世界宣教をする団体で、高校一年生の時、新入生歓迎会に行きました。その時の牧師先生のメッセージを今も覚えています。

 

【真の人生の目的は何か】

その内容は人間はどこか来てどこに行くのか、真の人生の目的は何か。どのような目的のために人生はあるのかと言うことでした。

その時まで私は深刻に考えたことがありませんでした。

高校一年生の私にとっては、正直な内容だったのです。神様からこの世に遣わされた人間は動物と違って人生に目的を持っているということでした。

 

愛する兄弟姉妹の皆さん。皆さんはご自分の人生の目的が何であるか考えたことがありますか。

ある方はその人生の目的を見つけて、そのために努力しておられるでしょう。

ある方はそれがなんであるかわからないで悩んでおられるかもしれません。

ある方はそれを一度も考えたことがないかもしれません。

私たちの人生の目的はなんでしょうか。考えるだけでも難しい、そのためにそれを達成するのは本当に難しい。

 

【イエス・キリストは王】

今日、皆さんにある方を紹介いたしましょう。

その方はご自分の人生の目的が何であるかご存知の上、その道を歩まれたのです。この方はイエス・キリストです。

今日のメッセージを通してイエス・キリストがこの世にこられた目的は何であるか、またイエス・キリストはどんなお方であるかを一緒に考えていきたいと思います。

 

一番目はイエス・キリストは王であるということです。

イエス・キリストは神の独り子として、この世に来られたお方です。

 

ヨハネによる福音書316 節を一緒に読みましょう。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 

神様はこの世のすべて作られたお方です。神様は御言葉でこの世作られました。神様がこの世を創られたときイエス・キリストも神様と一緒に居られました。

 

ヨハネによる福音書1章~3節を一緒に読みましょう、

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 

私たちが読んだ聖書で言葉と書かれているお方はイエス・キリストです。

イエス・キリストははじめから存在されたお方です。神様と一緒に居られました。

またその方こそ神であったと聖書は語っています。

 

イエス様は神様と一緒にこの世を創られました。

 

マタイによる福音書2818 を一緒に読みましょう、

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

 

イエス・キリストは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われています。イエス・キリストは天地を創られましたが、また創られた全てを治めるお方です。

 

イエス様は全てを治める王様であられます。

 

フィリピの信徒への手紙29 節~11節を一緒に読みましょう、

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、

11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

神様はイエス・キリストにあらゆる名に勝る名をお与えになった。それはどういった意味でしょうか。

 

天と地の全てのものがイエス・キリストは主であると告白するということです。

イエス様はすべてを治める王であられるということです。

 

【世に降られた御子イエス・キリスト】

では王さまでおられるイエス・キリストはこの世に来られて何をなさいましたか。

この世の国の王様になって治められましたか。

 

それは次のことを通して考えてみましょう。

二番目はイエス・キリストが僕であるということです。

 

【馬小屋で生まれた神の御子】

皆さんクリスマスのお話を覚えておりますか。始めてイエスさまに会いに来た東方の博士達はどこに行きましたか。

彼らが王様にふさわしい場所だと思って行ったのはヘロデ王の宮殿でした。しかしイエス・キリストはエルサレムの宮殿ではなくベツレヘムの小さい馬小屋でお生まれになりました。

 

皆さんはどこで生まれましたか。昔は家で生まれる方が多かったですが最近は病院で生まれる方が多いです。

皆さんは大体病院でお生まれになった方が多いいかもしれませんが、ルカによる福音書2章7節にイエス様のおうまれがこう書かれています。一緒に読みましょう、

ルカによる福音書

2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

愛する兄弟姉妹。イエス様のお誕生はイエス・キリストの謙遜を顕しています。

皆さん。その時の光景を考えてみましょう。王様であられるイエス様が宮殿でもなく、家の中でもない馬小屋でお生まれになりました。イエス様のお父さん、お母さんがエルサレムに来たとき泊めてもらう場所がありませんでした。

愛する兄弟、姉妹。飼い葉桶に寝かされたイエス様は主の謙遜を示しています。

皆さん。この世の創り主であるイエス様が本当に小さくて人間の姿として来てくださいました。その上、人の住むところでなく馬小屋に生まれたまいました。

 

これは何ということでしょうか。

 

【仕える主イエス】

フィリピの信徒への手紙2章5~8節を一緒に読みましょう、

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

兄弟姉妹。イエス様は神の身分でありながら僕の身分になり人間と同じようになられました。今日私たちが読んだ聖書には書かれています。イエス様は人に尊敬されるお方なのですが、尊敬されるよりも人に仕えました。

人間の基本的欲望の中に偉くなりたいということがあります。イエス様の時代でも同じでした。

ルカによる福音書22章24~26節を一緒に読みましょう、

24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

 

【だれが一番偉いか】

イエス・キリストが十字架にかけられる前の最後の晩餐の時にその晩イエス弟子達はイエス様と最後の食事をしながらイエス様と時間を共に過ごしました。その時こそ本当に貴重な時間ではなかったでしょうか。それなのにイエス様の弟子達はどんなことを話しましたか。彼らの中で誰が偉いかと言う議論が起こりました。イエス様は最後のご自分の任務のためにとても辛い、いちばんつらい任務のために準備をしておられますのに、弟子達の中では誰が一番偉いかと言う議論がありました。

皆さんは聖書の中の弟子達の姿を見てどう思いますか。本当に愚かなことだと思いませんか。イエス様はご自分の任務のために本当に辛い時間を過ごしておられますけど、弟子たちは誰が一番偉いかを議論していました。イエス様は彼らにこう訴えられました。あなた方の中で一番偉いと思うものは一番若い者のようになり、上に立つ人は仕える者になりなさい。

 

【お互いに仕え合う】

夫と私が属しているWECに導かれた理由の一つはWECが国際的なチーム宣教の団体だということでした。

 

私は自分が韓国人であることを誇りに思っています。韓国の伝統の1つは年上の人を尊敬して、目上の人に従うことです。それは個人的にとても素敵だと思いますが、時々否定的に表すことがあります。人に会うときありのままの姿でなく、その人の年齢、学歴、社会的な地位、経済力、家柄また体験などで先入観を持って、相手を判断するという根拠です。もちろんこれらがある程度人間にとって役立ちます。しかしこれが人の本来の姿を隠します。

例えばある団体のリーダーを選ぶとき、その人の実力や人格より、その人がその、団体に入って何年経つかそれが1番重要視されます。

 

夫と私は韓国の上下関係の中にいましたが、もっと平等な人間関係を求めてこのWECに入りました。

ところが私たちは平等な人間関係を求めてWECに入ったはずなのに、私たち自身が尊敬されたいという気持ちがあるということに気付きました。

私たちはまだまだ信仰も人格も成長が必要です。

 

ヨハネによる福音書131217節を一緒に読みましょう、

12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 

私たちもイエス様を見習ってお互いに相手の足を洗い合いましょう。これが神様が私たちに願っておられることではないでしょうか。

 

【主イエスさまを見習う】

最後の三番目は私たちはイエス様を見習って王にもなり僕にもなりましょう。

今までの御言葉を通してイエス様は王でもあり、僕でもあることを考えてみました。

イエス・キリストは統べ治める王様でありながら同時にへりくだって人々に仕える見本を見せてくださいました。

イエス・キリストを信じて告白する皆は神様の子どもになるとヨハネによる福音書112書かれています。一緒に読みましょう、

ヨハネによる福音書112 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

子どもになるということはイエス・キリストと共に神様の跡継ぎになるということです。

 

【神の相続人】

ローマの信徒への手紙817を一緒によみましょう、

 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 

イエス・キリストを信じる私たちは神様の子どもになりました。またイエス様と共に神様の相続人になりました。すなわち私たちの身分が変わったということです。

王様であられる神様の相続人になったということは、つまり王様の権力を持ったということです。

 

ペトロの手紙一29 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 

私たちが神様の全てを受け継ぐ相続人で王様の権威を持っています。

私がクリスチャンになった15歳までは私がどれだけ神様に愛されているか知りませんでした。

家庭はそれほど裕福ではなかったからです。でもクリスチャンになって世界中の王様である神様がわたしのお父様になってくださいました。そのとき私は王様である神様の子どもである。だから私がお姫さまになりました。

当時よく教会の中で歌った歌の中で「私は姫様です。私は王子様です」という歌を今も覚えています。日本語なら「私は神様のひーひーひーひー姫様です」。「私はおーおーおーおー王子様です」という感じで韓国の教会で歌いました。

 

それから私は王様である。神様の娘であって王様の権威を持っていることを信じるようになりました。

それは私の自己形成に肯定的な影響を与えました。

でも私が下僕でもあることにはあまり気がついていませんでした。私は教会で奉仕は熱心にしましたが、深く実感していませんでした。

 

私は神学校に入るまで皆さんと同じように教会で熱心に奉仕をしました。日曜学校のスタッフとして、聖歌隊のメンバーとして、讃美のリーダーとして、青年会のリーダーとして奉仕しました。時に教会で掃除もしました。

 

【人に仕えるために宣教師として】

神学校を卒業して、夫は牧師として私は伝道師として働くことになりました。

面白いことに韓国の教会では奉仕に対して偏見があるように思いました。奉仕を霊的な奉仕と非霊的な奉仕に分けます。説教、祈祷、聖書を教えることは霊的で重要で、掃除、皿洗い洗濯などは、霊的奉仕に劣る余り重要でない仕事と考えることです。

 

それで自分が神学校に入るまでは教会で掃除をしたりしたんですけれど、もし私が、夫が教会で掃除をしたら、「先生。それ止めてください。先生はもっと大事なことがあるんじゃないですか。説教の準備をしてください」という感じで話されます。それで教会で掃除や皿洗いから離れて偉そうな格好で歩き回るという感じだったのです。

 

それで私はWECの宣教師になったとき神様からいろいろ教えていただきました。

神様の愛で人に仕えること、奉仕に重要な奉仕とか、そうでない奉仕の別がないと分かりました。

 

ある日私たちはアメリカで食事をしに行ったら一番偉い方が、改革派神学校なら理事長に当たるような方が皿洗いをされるのを見て、私たちがびっくりしてやめてくださいと言いたかったほどだったのです。70代の方で、ちょっと身体の不自由な右半分麻痺の方で手が震えている方でした。その先生が皿洗いをされているのを見て、私は遠慮して欲しいと思いました。でも思いました。牧師でも自分できることは自分でやるということです。例えば牧師という、30年以上宣教師として働いた先生も、掃除をされるのを見て私たちの考え方がちょっと違うのだなあということが分かりました。

 

私たちのWECという団体はみんながそういう働きだったので、日本に来て滋賀で働いて、今は関西神学校の校長をされている中沢先生がおられて、その先生の下で協力宣教師として働いたのですが、その先生はいつも30分まえに教会に来られて準備をされたり、お茶を入れたりしてくださって「とても恐れ入ります」といって遠慮したいなと思いました。

西谷にきたらコーヒーを入れてくださったり、皆がお互いに仕え合う姿をみて考えて見ました。

マルコによる福音書1045 節には「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と書かれています。

 

皆さん。イエス様は王様であられる尊い御方なのですが、この世にこられたのは人に仕えるためだと書かれています。イエス様のご奉仕はただの口先だけの言葉でなくて本当に多くの人の贖いの代価としてご自分の命を捧げられました。皆さん。私たちは神様の全てを与えられている王様です。また同時に私たちは神様の愛する人に仕える下僕です。イエス・キリストを見習って神様が私たちに与えてくださった人々に仕えましょう。これが神様が私たちに望んでおられることではないでしょうか。

 

お祈りしましょう。

愛する天のお父様。あなたの愛と恵みを感謝します。私たちをあなたの子供として選び受け入れてくださってありがとうございます。あなたから与えられた愛をもって、その愛を待っている方々を愛することができるように助けてください。王様であられるイエス・キリストが僕(しもべ)となって大勢の人々に仕えられました。私たちも神様の権威を戴いたものとして堂々とこの世の人々、また周りの人々に謙遜に仕えるように祝福してください。

王様でもあり、僕でもあられる主イエス・キリストの尊い御名によってお祈りいたします。アーメン。         


2013年12月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013年10月13日(日)説教「聖霊による洗礼とは何か」赤石純也牧師

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20131013()説教「聖霊による洗礼とは何か」赤石純也牧師

 

マルコによる福音書15

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた

38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 

参照1、マルコによる福音書17 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

参照2、マルコによる福音書834 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 

(説教要約 文責近藤)

【聖霊で洗礼をお授けになるお方】

今お読みした聖書の他に、もう一か所お読みします。それはマルコによる福音書178節です。ここには、洗礼者ヨハネが出てまいります。ヨハネはこう言いました。7節「私よりも優れた方が後から来られる。私はかがんでその方の履き物の紐を解く値打ちもない」。私よりも優れた、別格の方がおられると言い、その人の印は何かというと、8節「私は水であなたがたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。聖霊で洗礼をお授けになることがただ1つ私ヨハネと違う目印になると言うのです。それほど重要なただ1つの印、すなわち、ヨハネは、水で洗礼授けたがそのお方、主イエスは聖霊で洗礼をお授けになると言うのであります。

 

そうであればこれから現れるキリストが聖霊で洗礼をお授けになると言う予告の実現する場面がなければこの予告は浮いてしまいます。ところがこの予告が実現する場面が聖書に書いてあるのですが、日本語の聖書では分かりにくいのであります。

 

福音書にはっきりと書いてないと思われるのですが、しかしそうではありません。しっかりと書かれてある。洗礼者ヨハネの予告したところのことが実現されて書かれてあるのであります。

 

今日、聖霊の洗礼と言うことをはっきりさせないと私たちは水の洗礼ばかりに目を向けてしまいます。今洗礼を受ける準備をしておられる方もいます。それ以外の方も洗礼を受けてくださることを心から願って待っております。多くの方はすでに洗礼を受けておられますね。私たちは水の洗礼を確かに受けた。それで終わりなのか。そうではないと言うことがここに分かります。

 

それと同じくらい大切なこととして聖霊の洗礼というものが、水の洗礼を受けるのと同じように持っている、そのことを今日はハッキリしたいと思います。

 

【聖霊とは】

どうも聖霊と言われてもなかなかピンとこない、掴み所がない。確かに神様は父なる神様、御子なるキリスト様、ここまではよく解ります。ところが聖霊と言われてもなかなかはっきりと掴み所がないと思う方がおられて尤もかもしれません。それで今日は聖霊ということを考える上で要となる理解を手に入れたいと思います。

 

聖霊というものが今日からは漠然としたものでなく、はっきりとしたものだということを掴んでいただければと思っております。これから本題に入ります。

 

キリストが聖霊で洗礼をお授けになると言う予告はどこで実現したか。

 

それが今日の場面です。聖書に戻りましょう。「イエスの死」という見出しのある箇所ですが今日のところはその全体を見直さないでポイントだけ絞ってみたいと思います。

 

【神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい】

ところで前回の説教で私が一つのことに注目しましたことを思い返してください。イエスの死の場面の中ですが、マルコ15章3637「あるものが走り寄って海面に酸い葡萄酒を含ませてイエスに飲ませようとした」んですね。ところがイエスはそれを飲まないまま息を引き取られた、そのことに注目したいと思います。葡萄酒を飲まなかったと言うことがここだけでなく、その前の23節に「没薬を混ぜた葡萄酒を飲ませようとしたがイエスはお受けにならなかった」とここにも書いてあります。そして十字架の死の場面でもやっぱり飲まないままで死んでしまわれたという事を見ました。それは最後の晩餐の約束です。私たちで言えば聖餐式の約束です。

 

聖餐式制定の場面の締めくくりのイエスの言葉をご覧ください。

マルコ1425「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

 

こういう約束をされましたね。今日も聖餐式でぶどう酒を受けますが、あなたを御国に招待する、それが証拠に私は御国であなたを招いて葡萄酒を飲むまでは一滴も飲まずに待っている、こういう約束でした。その約束が十字架の上で命を懸けてキリストは守って下さった、そのおかげで私たちは守られているのです。これほど頼れる約束は無い。それで私たちは安心なのです。このことを前回お話いたしました。

 

【息を引き取られたー聖霊が放たれた】

今日のところになります。先に注目された一つの事は「飲まなかった」です。そして今日の聖書の言葉、37節をご覧ください。イエスに葡萄酒を飲ませようとした。「しかしイエスは大声を出して息を引き取られた」。今日注目したいのは「息を引き取られた」という言葉に尽きます。

 

日本語で考えてみても「息を引き取る」、これは熟語です。「最後の息をしてしまうー死んでしまう」と言うことですけれども、実は聖書の原文でも熟語が使ってあります。元の聖書には「しかしイエスは大声を出して霊を放たれた」、「霊を放つ」と書いてあります。霊は息と同じです。「霊を放つ」、最後の息を放つことです。死んだことを表す「霊を放つ」という言葉です。このようにイエスは37節「大声を出して息を引き取られたー霊を放たれた」。そうすると38節、神殿の幕が上から下まで間二つに裂けた。そして39節「百人隊長がイエスの方を向いて側に立っていた。百人隊長はイエスが「息を引き取られたー霊を放たれた」のを見て、その時に「本当にこの人は神の子だった」といったと書かれています。39節にもう一度、「息を引き取られたー霊を放たれた」と聖書で繰返す事は大切なことであります。これは「霊を放たれた」と表面的なことだけでなく「霊を放たれた」、このことに注目せよということであります。

 

二回も「霊を放った」と書いてあります。冒頭の予告、この方は「聖霊を放って洗礼を授ける」という予告が実現した、その答えがここにあります。

 

聖書が一番初めから予告していることがここで起こった、とっても大切であるにもかかわらず日本語でははっきり分かりにくい所です。キリストが十字架の上で最期の時に聖霊を放った。それはいいとしましょう。キリストが聖霊を放ってどうなったでしょうか。

 

【ローマの百人隊長】

その聖霊を浴びてしまった人が書かれています。

 

39節、百人隊長はイエスの方向いて立っていた。ちょっとぎこちないこの文章ですが百人隊長はイエスの方を向いてしかも至近距離に立っていた。不自然な印象ですが、イエスが放たれた聖霊を至近距離から受けた百人隊長に聖霊の洗礼が授けられたと言うことがそれで、この百人隊長は「本当にこの人は神の子であった」と告白できたのであります。それはわたしたちにとっては信仰告白で私たちの言葉で言えば「我は全能の父なる神を信ず。われはその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず」ということです。

 

「神の独り子を信じる」という言葉で百人隊長が出来た信仰告白です。「誰でも聖霊によらなければイエスは主であると告白できない」(コリント人への第一の手紙 12:3)とありますが、これがこの百人隊長の上に起こったことです。これが福音書の物語です。

 

【十字架を見上げるとき聖霊が与えられる】

「聖霊の洗礼」をマルコ福音書は全体を通して伝えようとしております。いかがですか。百人隊長はローマの隊長ですが十字架刑の執行した舞台の最高責任者です。いわば十字架刑に責任を持たなければならない人です。キリストを十字架にかけた最も責任を問われる人物です。その人でさえ十字架の正面に立つとき信仰に導かれた。このことを救いと言います。私たちにも当てはまることです。

 

かって私はキリストを知らない年月が長かったです、知らずにキリストを十字架に架けたようなことをして神様から遠いところで自己満足な生き方をしていました。それを聖書は罪人と言っております。しかしそのような誰でもが十字架の正面に立ったとき心に何かを受け取ります。それを聖書は聖霊だと言います。十字架を見つめながら信仰というものを与えられる。

それを聖書は聖霊の洗礼と言い、そのことが人を信仰に導くという。信仰に導かれれた人は救われたと言うのです。

 

【聖霊の洗礼をどこで受けるか】

こういう意味で水の洗礼と同じように聖霊の洗礼は大事です。私たちは聖霊の洗礼をどこで受けるか。私たちが十字架の正面で十字架を見つめる、十字架の正面に立つとき何かを受け取る、これは観念的だと思われるますか。ちょっと抽象的でしょうか。十字架の前に立つ、観念的だと思われるなら礼拝ということを考えてみてください。

 

【礼拝と聖霊】

私たちが礼拝に出て御言葉を聞き、本当にイエス・キリストの十字架が語られているならば、そして十字架の御言葉を皆さんが本当に聞いていらっしゃるなら、皆さんはそこで何かを受け取ることができます。そのことを聖霊の洗礼といいます。そのことが本当に大切だと聖書は言いたいのです。私たちが本当の礼拝を捧げるならば、礼拝ごとに聖霊の洗礼を受けるのです。そしてそのことがまた私たちを新しい信仰へと駆り立てるのです。

 

【私たちの現実】

人はそれぞれいろんな問題があると思います。確かに水の洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、その生活の中でまだまだいろんなことが起こります。

そういう中で私たちの心は揺れ動きます。一度、水の洗礼を受けたがそれで終わりではありません。現実の中にはいろんな問題があっても、そのことと同じぐらい大切なのは毎週礼拝に来て、そして本当に裸の心で御言葉と向かい合う、それは十字架とキリストと向かい合うことです、その時十字架から吹いてくる聖霊を浴び直すということです。それが私たちの力になるはずです。

 

【自分の十字架】

今日、礼拝への招きでこういうキリストの言葉を聴きました、「私に従いたい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」。

 

私たちは自分の十字架を背負ってキリストに従うように呼ばれています。キリストの十字架を見つめるとき、同時にキリストはあなたの十字架を背負っておられる。私イエスがあなたの十字架を背負ったと同じように、あなたは自分の十字架を背負って私についてきなさいと言われます。だったらキリストの十字架を考えるだけでは十分ではありません。

 

自分の十字架とは何でしょうか。皆さん一人一人の自分の十字架は違います。悩み、苦しみ、家族の問題、あるいは病気のこと、人に分からない一人一人自分の十字架を背負っております。それを背負ってキリストについていく。だったら私たちはキリストの十字架の正面に立つとき、実は自分の十字架の正面にも立つのです。

 

自分の十字架と一口に言っても、それは私たちにとって辛いものですので、できればそれから目を反らせるようにしたい。礼拝に出て恵みの言葉を聞いて自分の十字架を忘れたい。それも確かかもしれません。自分の十字架を取り去ってもらいたいと祈ってきた。それでも無くならない自分の十字架がある。これさえなかったなら本当に良いと思うのが自分の十字架です。

 

【キリストの招きと礼拝】

キリストの招きは、そのあなたの十字架を背負って私についてきなさいと言われる。あなたの十字架から逃げようとするのでなく、あなたの十字架を正面から見つめて私の十字架と重ねてご覧らんなさい。礼拝のたびごとに自分の十字架を見つめつつ、それと重なっているキリストの十字架を見つめなさい。私たちがそれぞれ自分の具体的な現実の中で神に向かいあうのです。

 

毎日の生活の中で、リアルな、逃げられない家族の問題とか、いろんな自分の十字架がいくらでもあります。実はその立ち位置が私たちが礼拝を捧げる時の神様と向かい合う立ち位置なのです。つまり百人隊長の立ち位置です。

 

私たちが礼拝を下げるときキリストの十字架を見つめて自分の十字架を重ね、自分の十字架の苦しみと同じところまで来てくださっているキリストを見つめること、自分のその苦しいときの友になってくださるお方、キリストを見つめるとき、これが私たちの本当の礼拝です。

 

【私たちの礼拝場所】

私たちの自分の十字架こそ実は私たちの本当の礼拝場所です。

なぜならそのあなたの十字架の場所にこそ来てくださったのがキリストであります。あなたと同じように苦しんでいるキリストのお姿です。苦しんでいるあなたと同じ姿になってあなたの友になって下さろうと言うお方、苦しんでいるあなたがいるから、主はご自身も同じ苦しみを受けるためにあなたの隣にまで降りて来てくださったのです。そのお方に出会うことだけがわたしたちの本当の礼拝です。本当に聖書の御言葉を知るという事は礼拝での出来事です。

 

【あなたの命を損なうものは無い】

私たちが礼拝ごとにキリストの十字架に向かい合い、そしてそこから聖霊を浴びるならばその聖霊はこんなメッセージを運んでくださるはずです。あなたの十字架はあなたの命を損なうものではない。これさえ取り退けてもらえたら私は生きられる、とそんな風に思われるかもしれないが、そうでは無い。実はあなたの十字架を取りのけるときに命があるのでなく、そのあなたの十字架の中にあなたの本当の命が込められている。

 

どんな悩みによっても損なわれない命、どんな病気によっても損なわれないあなたの本当の命の中心があなたの十字架の中に宿っている。そんなことをこの友が教えてくださいます。

 

【生きる勇気と力の源】

その時に私たちは自分の十字架を背負ってこの方に付いて行くことができると思います。それが私たちにとって大切なことです。礼拝ごとに私たちは百人隊長と同じ立ち位置に立って自分の十字架を正面から至近距離から向かい合いたい。すなわちキリストと向かい合うということです。その時私たちはその十字架から聖霊を浴びるのです。聖霊とは何か。その時あなたに与えられる生きようとする力です。

 

自分の十字架を背負って打ちのめされていたあなたが一人の友イエスに出会ったとき生きる勇気を与えられる、その勇気が聖霊です。

 

今まで力を失っていたあなたに、心の弱っていたあなたに、病の中で力が与えられる。それが聖霊です。神の力が与えられることです。その時、うつむいていたあなたが目を高く上げることができる、もう一度歩き始めることができる。死んでいたにも等しい、ただ生きていたあなたが、そんな生き方から復活することが出来る。死んでいたあなたが立ち上がるということが起こる。これが聖霊の洗礼です。そういう礼拝をこれからも続けていきたいと心から思います。お祈りしましょう。(おわり)

2013年10月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2013.10.6.説教「不可能を可能に」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)

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201310.6.説教「不可能を可能に」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)

マルコによる福音書91724

9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 

(説教要約 文責近藤)

【不可能を可能にする道】

今日の御言葉から不可能を可能にする道を考えてみたいと思います。

 

私たちは解決できない問題に直面するとき2つの選択があります。

 一つは「余の辞書には不可能は無い」と言う信念を持って問題に立向かうことです。負けず嫌いな前向きな考え方をする人はこのような選択をするでしょう。

私たちの人生には多くの試練や苦難がありますが強い信念を持ってこれに立ち向かう事は大切なことです。

 

大きな問題に直面した時もう一つの選択は、問題に立ち向かうのでなく諦め、妥協することです。ちょっとした問題にぶつかっただけでもすぐにあきらめる人がなんと多いことでしょう。

 

【クリスチャンが困難な問題に直面するとき】

ところで私たちクリスチャンも自分の力で解決できない問題に直面するとき、どうすれば私たちは良いでしょうか。この世に解決不可能な問題が存在することを認めます。しかし一方で私たちは神様を信じています。

 

私たちは神様に助けていただき不可能を可能にすることができると信じます。それでは試練や逆境にあったときそれをどのようにして乗り越えるでしょうか。このことを考えてみましょう。

 

【弟子たちは癒せなかった、なぜか】

今日の箇所には悪霊によって口が訊けなくされた息子を持った父親が出てきます。この人は悪霊を追い出してもらうために弟子たちの所に息子を連れてきましたが、この時弟子たちはどうしても悪霊を思い出せませんでした。弟子達は打ちひしがれていました。ちょうどそのときイエス様は山から3人の弟子ヤコブ、ペテロ、ヨハネを連れて帰ってきました。主イエスを見つけた瞬間父親は新たな希望持ったでしょう。彼は主の御前に癒しを求めました。この息子の病気は現在の医学でも治療困難です。新約聖書の時代のことでなおさらです。しかしイエス様は皆が治療不可能だと思った息子を治しました。

 

ここで私たちは不可能を可能にする道で三つのことを考えてみましょう。

 

【主イエスの御もとに】

番目は主イエス様の前に自分の問題を携えていくことで問題を解決できる道です。19節の最後の所「その子を私のところに連れてきなさい」と言われ、ここで強調されるのは「私の所に連れてきなさい」です。韓国では「私のところに連れてきなさい」という伝道方法があります。困難な状況に悩み苦しむ人がいれば「私たちの教会に来ませんか、神様が解決してくださいます」。

 

招かれた人は問題を抱えて教会を訪れます。皆さん教会に来ただけで問題は解決できるでしょうか。もちろんそうではありません。がそういう可能性を完全に否定するわけでもありません。

 

教会で神様に出会い真の神様を信じれば問題は解決できるでしょう。ただ私が強調したいのは教会に来ただけで問題が解決することではないということです。

 

「教会に行こう」と言わないで「神様の家に行こう」と言う母親がいました。そのように言うとその子供は「行かない。神様はその家にはいないから行きたくない」と。その子供は神様に会いたいと思って教会の内外を探していましたが、神様は見つかりませんでした。

本当に素直な反応だと思います。

 

教会は何をするところでしょうか。教会は人々に神様を見せるところだと思います。なぜ私たちは礼拝捧げるのでしょうか。わたしたちが聖書を学ぶ目的はなんですか。神様を体験するためではないでしょうか。単に知識を得るために聖書を学ぶのではありません。神様に会うために神様を礼拝し聖書を学ぶのです。教会の頭は誰ですか。聖書はイエス・キリストが教会の頭だと記しています。

 

教会という建物の中に入っても奇跡的な力が起こるのではありません。心から礼拝するときに、御名を信じるところに、神様は御臨在されます。そこで神様を体験できます。

主イエス様は問題を解決してくださいます。本当に大切なのは神様に出会い神様を体験することです。イエス・キリストに目を向けてください。イエス・キリストこそ神です。イエス・キリストこそは私たちを神様に連れ行くことの唯一の道です。

 

なぜ悩み苦しんでおられますか。解決できないと思う問題を抱えておられますか。すべてを携えて主イエスのもとに来てください。そうすればすべての悩み苦しみ、あらゆる問題は解決されます。

 

【イエス・キリストを信頼する】

二つ目はイエス・キリストを信頼することによって不可能を可能にする道です。主の御前に問題を携えていくとき徹底的にイエス・キリストを信じなければなりません。主イエスは私を癒すことが出来ると言う確かな信仰が必要です。弟子たちは主が悪霊を追い出された後で主に聴きました。今日読まなかったのですがマルコによる福音書9章28節「 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた」。19節に答えがあります。

 

マルコによる福音書9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 

弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは何故ですかと主に密かに聞きました。

神様の栄光を体験できない理由は何ですか。信仰がないからではないでしょうか。

神さまは神を信じるものに栄光を現わされます。

 

主イエスは弟子たちがこの息子の悪霊追い出せなかったのは神様を信頼しなかった、信じない信仰の為に悪霊追い出せなかったと言われる。

 

今日と同じ箇所がマタイ1719節、20節にあります。

 

マタイによる福音書17

17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」†

 

 

ここでは「弟子たちの信仰が薄いからだ」と言われております。「信仰がない」とは言われないで「薄い」と言われました。

 

信仰は主イエス様の弟子になる時与えられたと思いますが信仰が全くないとは思いません。私たちも確かに信仰を持っております。信仰があるからこそ今日もここに来て礼拝に出席し説教に耳を傾けます。

 

私が皆さんにどうしてあなたは信仰がないんですかと言うと、あまり皆さんは良い気持ちなりません。イエス・キリストも弟子たちに信仰が無いとは言われませんでした。しかし信仰が薄いと言われた。弟子たちの信仰が無いからでなく薄いから奇跡が起こらず悪霊を追い出せなかった。

 

主の弟子たちのイエスに対する信仰が十分ではなかったのです。ところで信仰と言うとき大切なのは信仰という言葉そのものでなく、信じる対象です。イエス・キリストを信じる信仰こそが大切です。キリスト教において信仰の対象は、天地万物を創造された神様です。また御子イエス・キリストです。

 

私たちも挫折を経験したことがあり、絶望したことがあり自分が無力あることも知っています。しかし私たちは救い主イエス・キリストの前に出てイエス様を信じました。神様に仕える生き方を与えられました。

 

ところで私たちは本当に神様を信頼していますか。いつの間にか神様でなく自分自身を信じているのではないでしょうか。

 

信じると強調しながら自分自身を信じているのではないですか。このとき弟子たちは全部で9人で、あとの3人ぺテロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスと山に登っておりました。

 

この9人の弟子たちは悪霊に憑かれた子供を癒せませんでした。9人の弟子たちは3人の弟子がいなかったのでこれは良いチャンスだと思ったかもしれません。私の推測ですが、 3人のいない間に自分たちの良いところを見せてやろうと思った。私たちもペテロと同じことができる。悪霊を取り出して見せましょうと言ったかもしれません。しかしイエス・キリストの御名によって悪霊に出て行けと命じても悪霊を退治できませんでした。

 

確かに彼らはイエス・キリストの御名を用いました。しかし心の中では思い上がっていたと思います。クリスチャンは気をつけなければなりません。思いあがる時よく失敗します。信仰の弱さをわきまえている時私たちは聖霊に満たされ真のクリスチャンになります。

パウロは自分の弱さを感じるとき聖霊の力に満たされ強くなると申しました。私たちはパウロのように自分の無力を携えて徹底的にイエス様を信じるとき神様は私たちの中に臨在してくださいます。

 

弟子たちは主イエスに従っていましたがイエス様を心から信頼していませんでした。自分自身を信頼する誘惑に負けたのです。

 

今日もわたしたちは悩み苦しみに直面するでしょう。そうした時イエス様に目を向けイエス様を信頼してください。イエス様は私たちの助け主になって下さいます。

 

【祈ることによって不可能を可能にする】

三つ目は祈ることによって不可能を可能にする道です。私たちは祈りによって問題を解決しなければなりません。ちょっとふり返って問題があればどうすればよいでしょう。問題を携えてイエス様の御許に行くことです。その次はイエス様を信頼し信じることです。

 

ところでどうやってイエス様を信頼すればよいでしょうか。それは祈ることによってです。熱心に祈ることによってイエス様に頼ることができます。逆に祈らなければ自分の考え知恵に頼ろうとしてしまいます。祈る人は主を信頼します。祈る時、最初の言葉は「父なる神、憐れみ深い神様」と祈ります。祈ることによって私たちの目は神様に向かいます。そしてイエス様に頼ることになります。

 

【人の思いあがり】

なぜ熱心に私たちは祈らないか。それは私たちが思い上がり高ぶっているからです。自分でできるからと。しかしイエス様に頼ることが最善の方法だと信じる人は主イエスに頼り、大きな問題に直面しても恐れません。祈るとき、ひざまずいて祈るとき、思い高ぶっている人は祈ることができません。弟子たちが悪霊を追い出せなかったことに主イエス様は何と答えられたか見てください。

 

929節、今日読まなかったところですが一緒に読みましょう。

マルコによる福音書9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

祈りが問題解決の唯一の道です。ところで同じ記事を扱うマタイ17章とその箇所を比べると1721節は新共同訳聖書にはありません。新改訳聖書には1721節があります。

ここには次のように書かれています。

「【新改訳改訂第3版】マタイ福音書1721

  〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕と書かれています。

 

【断食】

祈りとともに断食が強調されています。断食とは最も切実な祈りの方法です。食物は人の心を捕えるもので人が生きるのに最も必要なものです。断食は食べる時間を犠牲にして神様に切実に向かいます。

 

パウロはフィリピの信徒への手紙46節で、

4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

 

パウロは何事も思い煩わないで祈りなさいと言いました。思い煩らいは最も非生産的であり何も生じません。

 

祈りは確に問題、苦しみや悩みを解決します。祈りは人生の目的地に達するたったひとつの道です。

 

以前伝道方法に関する冊の本読みました。著者は次のように使徒言行録にでる教会の特徴を記します。初代教会では会議の時間より祈りの時間が長かったと。著者は続けて言います。現代のほとんどの教会は長い会議をしても祈りの時間は短い。わたしたちは多くの問題にこれから立ち向かわなければなりませんが、こうしたときに不満を言う前に私たちは祈る人になってみましょう。時に断食をしてみませんか。

 

私は信じます。多くの私たちを悩ませる問題の解決に私たちが祈るとき神様は天国の門を開けて栄光を注いでくださり、私たちの問題を解決してくださいます。祈るとき神様の力が現れて私たちを取り囲んで下さって昼の日からも夜の闇からも私たちを守って下さいます。おわり

2013年10月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013.8.11.説教「揺るぎない契約」赤石純也伊丹教会牧師

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20138.11.説教「揺るぎない契約」赤石純也伊丹教会牧師

新約聖書

マルコによる福音書1417~25

17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。

18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

 

22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」

23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

 

 

 

(説教要約:文責近藤)

【マルコよる福音書から学ぶ聖餐式】

今日はマルコよる福音書に即して聖餐式について御言葉の解き明かしに集中します。

22節から最初の聖餐式は始まりますが、その前の18節から最後の晩餐が始まります。

 

【まさかわたしのことでは(あるまいか)

マルコによる福音書14章:18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。」

 

少し前のマルコによる福音書1410 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。

この10節で「イエスを引き渡そうとして」と言われた同じ言葉が18節「裏切ろうとしている」と訳され、裏切ると言うほど強い言葉で書かれてはおりません。

 

このような不安なことを言われたのが最後の晩餐です。弟子たちは「まさか私のことではあるまいか」と思って心を痛めている。イスカリオテのユダに言われ言葉とは思わず、私のことではないかと、弟子たち一人一人に自分の不信仰に不安を持たせる言葉でありました。

 

このように自分の信仰を思って不安な弟子たちです。イスカリオテのユダではなく自分のことではないかと弟子たちに思わせるというのがマルコの福音書が他の福音書と違うところです。

 

18節「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」弟子全員が同じ鉢にパンを浸して食べるのが当時の習慣です。神は裏切り者はユダだと、第三者すなわち他人事ではなく、弟子たちが自分のことではないかと思わされるのです。だから21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。(マルコによる福音書14:21)」

 

【最初の聖餐】

主が「人の子を裏切るものは不幸だ」と言われた言葉を、全員が自分がそう思われているという苦い思い、そういう苦い雰囲気の食事のなかで、22節以下で最初の聖餐がおこなわれた。

22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」。23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。(マルコによる福音書14:22~23)。」

 

取りなさい。これはわたしの体である。」、「また杯を取り・・彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」と書かれてあります。次に24節で、これは契約であったと記されています。

 

24節「そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコによる福音書14:24)。

 

最初の聖餐において弟子たちを契約に与らされたのです。

 

【主従契約】

普通一般には契約とは対等なものですが聖餐式の契約はそうではありません。キリストと弟子たちは対等ではなく、一方的で、弟子たちの主体性はありません。受け身で弟子たちはパンと葡萄酒を受けました。

 

【揺るぎない契約】

この契約とはどんなものでしょうか。

25「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコによる福音書14:25)。

 

主イエスは神の国で新たに飲むまでは、決して再び葡萄酒を飲まないと約束されます。

葡萄酒のことをぶどうの実から作ったものとも言われますが、これは強調する言葉で、一滴もぶどう酒は飲まないという意味であります。神の国で飲むその日までは一滴も飲まない。こんな苦い杯ではなく神の国で祝杯としてもう一度の飲むときまで私は待っている。それまで一滴も葡萄酒を飲まないで待っていると言う一方的な契約であります。

 

この契約はこれから受ける聖餐式で信仰に不安をお持ちのあなた、また不幸で生まれなかった方が良いと言われ、また思わされる私たち全員に与えられているのであります。

 

あなたは不幸だと言われ、自分の不幸を直視し、静視させれられる。「生まれなかった方がよかった」と言うような事情の中にある者に、すなわち人生の不幸、現実の生活を直視して、そのあなたと神の国で飲みたいとキリストは招待してくださるのです。私たちは神の国で祝杯を挙げたいのだとの主イエスの招待を受けるのです。

 

こんな私が神の国に招待されている。私たちはキリストを振り払い、裏切りやすいものですが、主の聖餐に一方的に招待を受け聖餐に与る信仰の弱い者同士なのです。

 

こんな私が、揺るがない信仰の持ち主でない私が、主を手放し裏切るようなこのような弱い者でありますが、主が一方的にその様なものに神の国で共に祝杯をあげようと契約してくださるのです。

 

【弟子たちの不安】

19節で、「弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。(マルコによる福音書14:19)」とあります。

 

キリストを引き渡す、手放すのはわたしではあるまいか。この弟子たちの不安な予感が的中するのです。50節で「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」と書かれてあります。イエスを裏切ったのは皆です。ユダだけでなく皆が「生まれなかった方が良かった」と言われたと分かります。

 

マルコ福音書の中心はこのような皆を、あなたを、御国に待っている。御国で共に飲みたいのだと主は言われる。しかしそれまでは一滴も飲まないで待っていると言う約束です。これが聖餐の意味です。御国で共に飲む前に、あらかじめ契約を結んでくださったのが聖餐の意味です。

 

この契約は本当なのか確かめましょう。

15章の23節「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。(マルコによる福音書15:23)」

没薬の葡萄酒を飲ませようとしたがイエスは飲まれなかった。

 

また同じ36節に

「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。(マルコによる福音書15:36)」

海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付けイエスに飲ませようとしたが飲まれなかったのです。

 

神は二度繰り返しキリストは約束を守って葡萄酒を飲まずに死なれたと書いてあります。

主を裏切った弟子たち皆に対してキリストは約束を命懸けで守ってくださった、これが他の福音書にない聖餐の意味であります。

 

【まとめ】

私たちは天下太平のように主イエスを信じるのではありません。私たちには尚「生まれなかった方が良かった」と言われる不幸が、一生消えないような不幸もありますが、私たち一人ひとりの不幸を直視させられるのは信仰生活はごまかしでは無い。何のためか。そのあなたを御国で待っている。洗礼を受ける事はこういう約束です。私たちは「ありがとう」と言うだけでいいのです。どうか洗礼を受けて共に聖餐式に与ってください。

 

現実にこれからも「生まれなかった方が良かった」と言われることが起こるかもしれません。本当に苦しい時にキリストを手放すユダになるかもしれません。信仰が揺るがされる時にもキリストの契約は決して揺るがない契約であります。私たちに弱さがあっても主の契約は揺るがない。私たちは全員この約束に与るのです。これが神を味方に付けた生き方であります。問題があっても、私の中になかった力を神からいただいて私たちは歩むことができるのです。どうか今日この聖餐に与れない方も次回は是非与ってください。(おわり)

 


2013年08月12日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013年7月28日説教「内に塩をもつ」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)

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2013728日説教「内に塩をもつ」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)

聖書: マルコによる福音書38-50

38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

49 人はすべて火で塩づけられねばならない。50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。

 

【はじめに】

今朝は938節以下から共に御言葉に聞いてまいりたいと願います。全体を一読して、意味が分かりにくかったのではないでしょうか。まとまりのないような言葉がいくつも並んでいるような印象を受けるのです。それですから、まず全体をざっと目を通すことで、見取り図を把握しましょう。

 

今朝の箇所は全体として三つに分かれます。その第一が38節から41節が一つのまとまりです。ただし40節と41節の間に小さな切れ目があります。この38節から41節までは、弟子がテーマになっています。自分と意見が異なる弟子たちに対する態度についての教えです。先週と正反対のことがここではテーマとなります。つまりイエスの名によって拒んでしまうことです。

 

 二番目のまとまりが、42節から48節です。ここでは「つまずき」がテーマです。信仰を同じくする兄弟や、自分自身をつまずかせないことが教えられます。

 

そして3番目のまとまり、これは結論ですが、50節と51節になります。自分の内に塩を持つことが命ぜられます。以上の3つのまとまりから今朝の箇所はなっています。それぞれを順序に従ってみていきます。

 

 【イエスの名によって】

第一番目のまとまり、38節から41節です。ここは細かく分けるなら、38節から40節と41節だけの二つに細分できます。とりわけ前半の38節から40節ではイエスの様の弟子が反対者に取るべき態度を教えています。

 38節「ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を負いだしている者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」」。12弟子のひとりのヨハネが、自分たちと異なるグループが悪霊を追い出しているが止めさせようとした、との報告をイエス様にします。それに対してイエス様は言われます「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」イエスはヨハネの発言をしりぞけます。

 

【自己判断の過ち】

このヨハネには軽率さと性急さがあります。他のグループが悪霊追放をしているのを見て、ヨハネは自分の判断で止めさせようとしました。ヨハネはイエス様がそのことをどう思われているかを、まず尋ねるべきだったのです。

 

【権威独占の過ち】

もう一つこのヨハネの発言には根深い罪が隠されています。それは権威を独占したいという欲望です。ヨハネはイエス様の名前によって悪霊が追放されることを目撃しました。その権威は12弟子に与えられた権威でした。しかしその人たちは自分たちのグループでもないし、自分たちの方法にも従わなかったのです。ヨハネは「わたしたちに従わないので、止めさせようとした」のです。イエス様から与えられた特権を自分たちだけのものとして留めたかったのです。

 

【教派の存在と意味】

ここで求められているのは、キリスト者の集まりの中で、自分と意見が異なる人を受け入れるようにという招きに応えることです。わたしたちは改革派教会に属します。わたしたちは改革派信仰を持って歩んでいます。しかし他の教派も存在するのです。その教派を異にする兄弟たちも同じキリスト者として生きていることを認めるようにとこの箇所は教えます。わたしたちは、わたしたちの教派の中を信仰の確信をもって歩みます。しかしそのことは他の教派を排除することとはつながらないのです。

 

イエス様は「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの見方なのである」といわれます。キリスト者は神の栄光が、この地上でも、あらわれることを求めて生きます。神の栄光は私を通して現されますが、同時に意見が異なるキリスト者を通しても表されます。他の人を通して、神の栄光が現されることを、イエス様は喜ぶようにと招かれます。

 

 この38節から41節までは名前という言葉が2(原文では3)出てきます。先週のつながりで考えますと、先週はイエスの名によって小さな者を受け入れることを教えられました。今朝の箇所は反対の教えです。イエスの名によって拒むことがあってはならないことを教えます。主の祈りで、「御名があがめられますように」と祈ります。イエス様は、自分と意見が異なる人によって神様が崇められていても、ねたんで退けてはならないといわれています。

 

 あの人が教会で評価されると、心が騒ぐという人がそれぞれにいるのだと思います。人はいつも自分がいちばんでありたいと思うからです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という御言葉はここにもあてはまります。わたしたちに求められることは、神の栄光が現されるために仕えることであって、どの人がいちばん用いられているかという教会の中での順序を競うことではないのです。

 

【もてなし】

そして41節ではかえって、キリストの弟子だという(名前)理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれるものは、必ず報いを受ける」といわれます。弟子はほかのイエスの名前の弟子に対して、水を飲ませることで報いを受ける。一杯の水は、乾燥したパレスチナでは価値ある贈り物なのです。ありあまる中から一杯の水でもあげるのではなく、ほんとうに価値あるものを差し出すことを意味しています。意見が異なる弟子であっても、いやいやにではなく心からもてなしなさいという招きです。

 

【つまずき】

さて2つめのまとまり、42から48節を見ていきたいと思います。ここでは「つまずき」という言葉が4回も繰り返されます。ここでのテーマは「躓き」です。42節は他者をつまずかせること、43節以下では自分自身をつまずかせることです。それぞれに割り当てられている分量を見てください。他の人をつまずかせることには1節だけ、自分の躓きにはその3倍以上の分量です。ほかの人のことよりも、自分に対して厳しくあれということです。自分の目の中にある丸太には気が付かないで、他の人の目にあるおが屑が気になるからです。

 

さて42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな挽き臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。小さな者の一人とは、36節の子どものことを直接には指します。子どもを神様の恵みから遠ざける者は罪深いのです。またすべてのキリスト者は小さな者ですから、どんな信仰者でもつまずかせる者は罪深いのです。

 

ここで言われる躓きは、身分が自分よりも下だからといって軽んじる人や、自分自身の満足を求めて、他の信仰者の利益を軽んじることです。信仰者がほかの信仰者をつまずかせる。取りわけ、小さな子どもや、信仰に導かれて間もない人をつまずかせることが罪深いのです。

 

その様な者は、挽き臼、これはロバ引くおおきな挽き臼で真ん中に大きな穴が空いています。その大きな挽き臼を首にかけて、海に投げ込まれてしまえばよい。当時、墓を持たない死に方は不幸な死でした。海に投げ込まれ行方不明の死を遂げるがよいと言われます。神学生である自分の言動を通してつまずかせる方があるのではと私も反省させられます。ここから続いていくイエス様のたとえはとてもグロテスクです。

 

【自分を躓かせる】

43節以下では自分がつまずくなということを教えられます「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」このあとも「片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」体を切ってしまえとまで、非常に恐ろしいことをイエス様は命じられます。

 

イエス様は外科医のようです。わたしのなかで巣くっている病気の原因をえぐり取り、切り捨てなさいと命ぜられます。罪と共に滅んでいくよりは、病気の原因を切り取りなさいと言われます。切り取れば、もちろん血が出ます。この言葉に従って古代キリスト教神学者でオリゲネスは去勢をしたのではと伝えられます。

 

【罪の誘惑を切り捨てよ】

宗教改革者カルヴァンはこういいます「キリストは神の律法に従うために手足を切ることを望まれたわけではない。しかし感覚によって手足が欲望のおもむくままに用いられることよりも、神に従うことの妨げを何であれ切ってしまうことを言うために、大げさな表現を使われた」つまりわたしたちは欲望に任せることで、心が自由にされて誘惑に負けてしまわないように警戒することが求められます。

 

最初の先祖は悪魔の誘惑に会いました。蛇の誘惑にそそのかされて、女が神の禁じられた善悪の木の実を見ると、「その木はいかにもおいしそうだった」のです。女は目で見て、手で取って食べました。そして足で歩いていって、男に手渡します。男も取って食べました。目で見て欲望がおきます。そして歩いていって、この手で罪を犯すのです。わたしたちの罪は心から起こり、この体を通して実際にやってしまうのです。アダムとエバは罪を犯した結果、裸であることを知りました。神に罪を犯すとき、恥を感じるのです。

 

【命を得るために】

イエス様の外科手術には、目的があります。それはわたしたちが命を得るためです。手足を失ってでも「命にあずかる方がよい」「神の国に入る方がよい」といわれるのです。イエス様はこのわたしにもこの外科手術を施されます。それは命に生きるためです。神に従っていくために障害となるものを、少々荒っぽいやり方ではありますが切り取られるのです。

 

これは私にとっては、プライドや健康でした。これまで自分が大切にしていたものを神様はずばっと切り取られます。大切なものであればあるほど、切り取られれれば痛みを感じます。そして切り取られて片手になればかっこうわるいですし、不自由です。しかし、この痛みや恰好悪さがほんとうは必要なのではないでしょうか。

 

【偉大な信仰者でも】

旧約聖書の代表的な信仰者を思い出してみましょう。例えばモーセです。モーセは出エジプトを導いた偉大な指導者でした。しかし彼は一度だけイスラエルの民の面前で大きな罪を犯しました。岩に命じて水を出せと神が命じられたのに、彼は岩を杖でたたきました。不信仰を民の面前で示してしまいました。そのためモーセは約束の地に足を踏み入れることができませんでした。

 

もう一人、イスラエルの王ダビデは、人の妻を奪い、その夫を殺すという姦淫と殺人の2重の罪を犯しました。イスラエルの王が大きな罪を犯しました。ほかにもアブラハムも罪を犯しました。幾人ものイスラエルの代表者が大きな罪を犯しました。

 

【罪を悔いる】

しかし、旧約聖書はこのような神の前のおおきな罪を隠すことをしません。聖書に書かれているのです。今のわたしたちまで彼らの罪が伝えられるのです。しかしけってこのような罪が正直に書かれていることに慰めも覚えます。信仰の代表者たちが失敗をしたからです。しかし同時に彼らは大胆に罪を悔いたのです。罪を言い表すことに立派でした。旧約の信仰者は罪を犯しましたが罪を悔いて、そして罪を神様の前に言い表して生きました。いうなれば自分の恥ずかしさを神と人に隠さずに晒して生きたのです。

 

【地獄の火で焼かれないため】

わたしたちにはそれぞれ神様によって切り取られる所があるのです。それは地獄の火で焼かれないため、神の永遠の裁きに会わないための神の憐れみによる外科手術です。例えば異教の文化の中でいきるなら、当然家族との対立もあると思います。イエス様に従うとき、家族と間の関係で痛みを覚えます。しかしわたしたちがイエス様に従って生きていくときの痛みは、ただの痛みだけでは終わることはないからです。それは命への招きであることを同時に忘れないようにしたいのです。そしてわたしたちの切られた手足は、天国においては完全に回復されるからです。

 

 

【火で塩味を付けられる】

最後に結論の4950節の結論を見て参ります。49「人は皆、火で塩味を付けられる」少しなぞめいた文章ですが、これは犠牲の捧げ物と関係があるようです。レビ記213節に「穀物の捧げ物にはすべて塩をかける」つまりわたしたちが、神様に捧げ物としてこの体を捧げることがイメージされています。穀物の捧げ物が、塩をかけて火に焼かれて、よい香りと捧げ物を神様は受け入れてくださるように、わたしたちは塩と火によって神に受け入れられるために味付けられるのです。

 

ところでここでの塩や火は何でしょうか。カルヴァンは、火とは御言葉であるというのです。わたしもその通りだと思いました。48節にも地獄の火が出てくる。49節にも火が出てきます。それぞれ違う火のようでもありますが、同じ火を指すのだと思います。火とは御言葉です。つまり御言葉はわたしたちを燃やすのです。古い私を御言葉は火にかけます。

 

この御言葉は古い私を断罪して火で焼くのですが、同時に御言葉の火はわたしたちを清めます。御言葉がわたしたちの古い自己の中心に達するとき、その火は燃え上がりわたしたちを裁きます。御言葉の火は古いわたし、肉の私を滅ぼすのです。

 

【自分自身の内に塩を持ちなさい】

しかしこの御言葉の火は燃やして裁くのと同時に、わたしを立たせるのです。御言葉は私を新たにします。この御言葉の火によって与えられるのが、塩なのです。塩は腐敗を防止することができます。塩を汚れた水の源に投げ入れると水が清くなったことが旧約聖書にあります。塩とは御言葉の火によりあたえられるわたしたちの内にある清い心です。この塩によって、心は腐敗から守られ、浄さを守ることができるのです。

 

ですから、イエス様は言われます自分自身の内に塩を持ちなさい」。それぞれの内に御言葉の火による清めとしての塩を持つのです。使徒パウロはこれを発展させてアドバイスして言います「いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。そうすれば一人ひとりにどう答えるべきかが分かるでしょう」コロサイ4:6)。わたしたちは塩で味付けられた言葉を語るように求められています。それは快い言葉です。

 

他の人をさげすんで、傷つける言葉が多い時代です。わたしたちは、互いに塩でもって味付けられた快い言葉、本当に他者を立ち上げる言葉を御言葉に基づいて互いに語ることが求められます。「互いに平和にすごしなさい」イエス様はそれぞれが内に塩を持つことで、愛の言葉を互いに語ることへと招きます。互いに平和に過ごすことは、御言葉による塩によって、汚れた私の心が清められることによって始まります。

 

先週の聖書箇所から振り返るなら、塩味を失わない生き方とは、子どもを「イエスの名」のためにうけいれること(33-37)、そして自分と意見が違う人を追い出さないで「イエスの名」によって受け入れること(38-41)、そして兄弟たちや自分自身をつまずかせないように配慮を怠らないこと(42-48)です。

 

【ただ一人主のみ】

しかしだれ一人完全に御言葉に従いきることはできません。イエス様お一人がこの御言葉に生ききってくださったのです。この方が、わたしたちが受けなければならない罪による恥と地獄の滅びを一身に背負ってくださったのです。罪の誘惑にわたしたちはだれ一人、勝つことはできません。

 

イエス様お一人が罪の誘惑に完全に勝たれました。公生涯のはじめにイエス様は荒れ野で悪魔の誘惑に会われましたが、御言葉によって悪魔の誘惑を退けられます。そして生涯の最後には私に代わってイエス様は最大の恥であり、神の呪いでもある十字架の死を死んでくださいました。そのように十字架の死に至るまで神の御心に完全に従うことで、わたしたちのために永遠の命を代わって獲得してくださったのです。

 

このお方が私たちに代わって御言葉にしたがって歩み通してくださいました。イエスは死に勝利され復活されたお方です。このイエス様の言葉は、勝利である命への招きの言葉なのです。同時にイエス様の言葉は炎です。わたしたちを裁いて焼いてしまう炎とは、イエス様の犠牲のともなった愛の滴る御言葉でもあります。御言葉はわたしたちを刺し貫きますが、それは命への痛みです。命へと招かれるイエスの愛の御言葉に聴き続けたいのです。(おわり)




2013年07月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013年7月21日説教「いちばん偉い者とは」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校),森田姉庭でばーべQ 昼食会

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2013721日説教「いちばん偉い者とは」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)。

聖書:マルコによる福音書930-37

30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 

33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。

37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

【イエスは人に気付かれるのを好まれなかった】

今朝は930節以下の続きから御言葉に聞きましょう30「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。」

「そこ」、といわれる場所は、827節のフィリポ・カイザリア地方のことである。イエスはそこを立ってガリラヤを通られるが、多くの人たちに気付かれることを好まれなかった。それはこれから話すことが弟子たちだけに向けられた言葉であったからである。

 

 31節のおわりに「と言っておられたからである」とある。この翻訳では抜けている言葉があります。それは「教えられた」という言葉である。イエスはただ何となく弟子たちの耳に入ればよいと語っておられたのではなく、はっきりと教えておられたのである。

 

 その内容は何か。31「それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、三日の後に復活する」と言っておられたからである」イエスは御自身の死のことをはっきりと知っておられた。そしてそれは受難の死であり、聖書に基づいて起こるであろうことを弟子たちに、とくとくと諭し教えられたのである。

 

 【メシア受難預言】

受難の内容は旧約聖書に記されている。一つにはイザヤ書53章が挙げられる。苦難の僕と言われる箇所である。その苦難の僕がイエス・キリストなのである。53章「:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」。

 

そしてもう一箇所はダニエル書7章である。そこには「人の子」という終末にあらわれるメシヤ救い主のことが書かれている。イエスは旧約聖書を基にして、御自身の受難としての死を弟子たちにはっきりと示された。

 

 31節の「人々の手に引き渡される」という言葉は、文字通り読むならば、イエスが弟子のユダの裏切りによって引き渡されたことをさす。ユダによってこの世の支配者たちの手に引き渡され、この世の支配者たちによって有罪宣告を受けることになる。しかし、この「引き渡される」という受け身の表現には、やはり隠された主語がある。それは神であり、神によって十字架へと引き渡されたのである。ローマ832「わたしたちすべてのために、その御子をさえ死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」

 

 イエスは御自身の死をはっきりと知っておられ、そこに顔をむけてまっすぐに歩まれる。イエスの十字架での死は偶然でも失敗でもなく、天におられる神の御心の成就である。

 

 【怖くて尋ねられなかった】

しかし、このときイエスから教えられた弟子たちはどうであったか。32「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とある。弟子たちはこれから起こるとをうっすらと分かっただけであった。そして怖くなってしまった。なぜならイエスの十字架の死はただ残酷だけでなく、その残酷さは自分たちに原因があることを示されるからだ。十字架の直視は、自分の醜さと残酷さの直視となる。このことに人は耐えられない。だから弟子たちはこれ以上尋ねることはできなかった。

 

そのようにして旅を続けた一行は、ガリラヤを抜け、カファルナウムに到着した。カファルナウムとは福音書の初めから登場する町で、イエスの伝道の拠点であった。

 

【だれがいちばん偉いのか】

さて、イエスは弟子たちに何を議論していたのかとお尋ねになる。しかし、弟子たちは返答に窮してしまう。なぜなら、彼らの議論していたことはだれがいちばん偉いのかという内容だったからである。だれがいちばん偉いのかという議論はこれまでのイエスの教えに明らかにそぐわないものであったからだ。

 

イエスは弟子たちの心を知っておられた。イエスは「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム16:7)のである。そして弟子たちに自分たちの愚かな思いを振り返らせるため、イエスはあえて問われたのである。

 

弟子たちは誰がいちばん偉いのかという議論をしていた。「だれがいちばん偉いのか」よりも「だれが、より、偉いのか」というのが直訳である。弟子たちの中で順番をつけようとしていたのである。この種の議論は、この世ではよくあることである。しかしこの議論は弟子たちの中、教会の中で起こったのである。しかもイエスが十字架へと向かっていくその緊張の中で起こった。終末が近づいている緊張の中、弟子たちは愚かにも順番にこだわったのである。

 

イエスは弟子たちの心を調べられる。人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」エレミヤ17:9-10)。イエスによって心を調べられるなら、弟子たちは黙るしかない。人は皆罪人で、神に心を問われるなら自分の罪を前にして沈黙をもって答えるしかない。

 

【誰がいちばん偉いか】

弟子たちは主イエスの十字架の受難の予告のあと、すぐさま自分たちの序列を議論し始めた。イエスの教えがあっという間に蒸発してしまったのである。人は不快なこと、十字架を見続けることができない。弟子たちはそれほどに移り気で、薄情であり、なにより不信仰である。

 

 さて彼らが議論していたのは、より誰が偉いかという、人を押しのけて上昇していくことである。上昇志向はその裏に、劣等感が潜んでいることがある。人をうらやむ気持ちには、神が与えてくださったすべての賜物を喜ばない思いが潜んでいる。神からのすべての賜物には弱さも含まれる。弱さや欠けを覚えることが、つらいことではあっても、ほんらい主に頼ることを学ばせる大切な機会だからである。弱さを受け入れないことと、上昇志向はつながっている。

 

この弟子たちをイエスは呼び寄せられる。35「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」座って教える姿は、山上の説教でも見られ、権威を表す。そして権威ある声で弟子たちを御許に呼び寄せる。

 

イエスの弟子たちへの教えは衝撃的である。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。「いちばん先」という語は、聖書の他の箇所で「いちばん上」(マルコ10:44)、とか「指導者」(ルカ19:47)と翻訳される。

 

いちばん上になりたい者、いちばん先になりたい者は、しんがりを歩み、すべての人に仕えよと命ぜられる。このイエスの教えは、価値観の転倒、考え方の上下の入れ替えを求める。そして考えのみならず、生き方の転倒まで求められる。本当に知ることは生き方が変えられることである。イエスの発言は思い上がる者をくじき、惨めな者に自由と回復を与える言葉である。

 

上の者になろうとする弟子たちに、ここで謙遜に生きることが提示さる。しかし謙遜に生きることを自らの力で生きようとすることは傲慢である。ただ神の憐れみに生かされることにより、謙遜はただ上から贈り物として神から与えられる。

 

これまで弟子たちは、すべてを捨てて従ってきた。ペトロは少し後の箇所でいうこのとおり、わたしたちは何もかも捨てて従って参りました」。確かに彼らは、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てて従ってきた。しかし弟子たちの熱心が、彼らの高慢や出世欲と結びついた。神に仕える者が、われこそ誰よりも熱心であるというときほど鼻持ちならない者はない。我こそはという独りよがりの熱心が、同じ兄弟を見下して裁くことになる。

 

【子どものようになれ】

イエスはその時、一人の子をみそばに呼ばれる。36節「そして、一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」。イエスは子どもを真ん中に立たせる。そして言われる。子どものようになれと。私たちはすでに大人になっているのであるが、子どもになれと言われるのである。ある説教者はいう「富を捨てよと、イエスが青年に言われた。それと同じように、このときのイエスは、弟子たちに大人を捨てよと、言われた」と。つまりイエスは弟子たちに大人としてのプライドを捨てよという。これほどまで献身して歩んできたという誇りや、業績を捨てよといわれる。

 

ここでの子どもとは、罪がない存在としての子どもということではない。人は誰もが生まれながらに子どもであっても罪がある。イエスが子どもを評価されるのは、その単純さ、素朴さ、そして何よりも低さである。子どもは名誉やプライドに執着して生きることをしない。マルコにはなくマタイであるが「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とイエスは言われる。   イエスは子どもの低さを愛された。低くして子どものようになる人が天国でいちばん偉いのだと。子どもは自分には助けがなければ生きられないことを知っている。弟子たちも子どもと同じく神に頼らなくては生きられないことを示される。

 

イエスは言われた「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」。子どもを受け入れる人は、イエスを受け入れる。イエスを受け入れる人は、遣わされた父なる神を受け入れるのである。

 

【炊き出しの列にならぶイエス】

ホームレスが配給を待つために列になって並んでいる絵(フリップ・アイヘンバーグ)がある。夕暮れにくたびれた年老いた男女が、うつむき加減で、一列になって配給を待っている。絵からは並ぶ人たちが沈黙して並んでいることが伝わってくる。厚着をしているのでさむい冬だろう。わたしはこの絵を初めて見たときはっとさせられた。イエスがどこにおられるのかということについてだ。イエスは炊き出しを出すボランティアのなかで奉仕しているのだろうか。そこにはイエスはおられない。なんと!イエスはホームレスと共に列に一緒に並んで配給を待っている。その絵のタイトルは「炊き出しの列にならぶイエス」というタイトルである。

 

イエスはどこに立っておられるのか。低くされた所におられる。最初に見たイザヤ書53章の苦難の僕は、ギリヤ語訳聖書では僕のことを今日の箇所の「子ども」という言葉で扱っている。またイエスの話されたアラム語では「僕」と「子ども」という言葉が同じであるそうだ。イエスは子どもと自分のことを同一視され、低くされた子どものような僕としての御自身を示される。

 

【子どもを受け入れる者】

イエスと弟子たちが議論したのは「家」である。この家とは、ペトロの家のことである。ペトロの家でイエスは集まった子どもの一人の手をとられた。ひょっとするとペトロに子があれば、彼の子どもだったかもしれない。カファルナウムの小さな町で、いずれにせよ、弟子の誰かの近親者だったろうと思われる。その子にイエスは目を留められた。当時子どもの話に耳を傾けるのは時間の無駄だと言われていた。その様な無視されていた小さな存在にイエスは目を留められた。

 

子どもを受け入れる者はイエスを受け入れるといわれた。文字通り受け取るなら、すべての子どもを受け入れているものたちへのイエスの祝福の言葉である。それは両親たちであり、子どもを預かるものへの祝福である。

 

イエスは小さく低くされたものを受け入れるように招かれる。これは私たちの生来の目は大きいものに注がれがちだからです。だから小さなものへ目を向けよと招かれる。しかし忘れてはいけないことは、「わたしの名のために」という言葉である。イエスの名のためにとは、イエスの支配によってということである。もしイエスの名によらないなら、人は小さな者を受け入れることで、反って逆に自分自身が大きくなり、自分を誇り始めるからである。

 

いちばん偉い者とは誰か。イエスは極みまで遜って、謙遜であられた。イエスは子どもの低さを愛された。地上で誰よりもいちばん低くなられたのはイエスではなかったか。受難予告はマルコにおいて3度ある。弟子たちは予告の繰り返しでこれから起こることを少しずつ理解する。しかし3度とも弟子のピントはずれてしまい、イエスの思いはくみ取られない。

 

【人の子は仕えられるためではなく仕えるために】

3度目の受難予告の後、栄光を勝ち取られたイエスの左右の座に座りたいとヤコブとヨハネは言う。その願いは退けられて、イエスは言うそこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである』」。

 

【世の支配者と主イエス】

この世の支配者は自分の思いによってこの世を支配する。この世の力ある英雄たちは、力によってこの世界を結局は駄目にする。彼らは国々を力によって自分自身のために征服するが、そのことによって自分自身を惨めな者にする。しかしキリストはこの世の国々を同じように征服し、その地はキリストが支配されるところとなる。その地に住むもの、神の国に住む者は必ず幸福になる。なぜなら神の国は力ではなく、神の愛と神の正しさによって支配されるからである。

 

さらにイエスはこのような我々の罪のために命を捧げてくださった。そして神が人となって、そして仕えてくださった。この世の物語では人が神となる。聖書はあべこべであり、神が人に仕えるために、また命を我々に変わって献げるために来られたことを説く。人知を超えた神の一方的な愛が我々に注がれている。

 

【キリストに倣って】

だからローマ書でパウロは弱い兄弟を受け入れよという。それなのに、なぜあなたがたは、自分の兄弟を裁くのですか。またなぜ兄弟を侮るのですか」。キリストは私だけのためでなく、我々の兄弟姉妹のためにも命を献げられた。イエスは言われる「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのです(10:45) 。だから私たちは互いに受け入れ合うのである。

 

キリスト者すべては聖霊によってキリストが宿っていてくださる宮である。キリストはどんなに見劣りする兄弟にもおられる。だからその人を私たちは重んじなければならない。その人を重んじないならば、そこに宿られるキリストを拒むことになるのだから。私たちはともに教会で互いに受け入れあい歩める恵みに感謝を覚える。(おわり)

 

2013年07月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2013年7月14日「信なき我を助けたまえ」西堀元(はじめ)神学生

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2013714日「信なき我を助けたまえ」西堀元(はじめ)神学生

 

聖書:マルコによる福音書914-29

14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。

27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。

28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

【光を求める草木】

今朝も御言葉に共に聞いてまいりたいと願います。西谷では草木を沢山見かけます。わたしはほとんど草木の名前が分からないことを残念に思います。沢山の種類の草木があるわけですが、どれも一つの共通点があるのだと思います。それはどの草木も光を求めるということです。木は光に向かって枝を伸ばします。木が光を受けようとするのは、木として当然のことだからです。もしも光がないのなら木は枯れていってしまいます。

 

【人にとっての光】

 そこで考えたいのは人間にとってこの木の光に当たるものが何であるかということです。それが今日ともに考えていきたいことなのです。それは祈ることです。祈りが人にとって生命的に重要だからです。木にとって光がなければ枯れてしまうように、人は祈ることがないのなら死んでしまいます。あるキリスト者が次のようなお話をしています。

 

 「ある無神論者がいました。その人は大学で助手として仕事を手伝っていた男の人です。その人はキリスト者の大学の先生の手伝いをしていました。無神論者の人は年配の人であったようですが、よくこう言っていたそうです『先生の信仰というものは、結局は苦しいときの神頼みにしか過ぎませんね』というふうにあざ笑うわけではないけれども、信仰についてある距離を置いていました。そして無神論者のお子さんが病気になったときに困っていました。そこでそのキリスト者はよい病院を紹介してあげましたが、いよいよ手術をすることになりました。本当にそのお医者さん以外には、実際にそのお子さんの病気を治す人はないのです。

 

 ですから極端なことを言えば、お子さんが手術室に入られた以上は、あとは無神論者の人も先生も何もすることができないので、相撲の放送を見ていてもよいし、どこかにコーヒーを飲みに行ってもよいわけです。しかしその方は、ジーット手術室の前に座り、ジーットこう手をお祈りするときのように結んで、そしていいます『先生、わたしはこんなふうに祈るということをしたことがないのです。けれども、本当にわたしの命で代わることができるのなら、代わって子どもを助けたい、そう言って祈ってもいいのでしょうか』と。先生は肩をたたいて「わたしもお祈りします。それでよろしいのですよ」と言って時間がなかったために場所を後にしました。そして寒い廊下を歩くとき振り返ると、その人はジーット祈る姿をし続けていました」。

 

 【祈りは人の本分】

木々が光を求めるように、人にとって祈りは本質的なものです。なぜなら人の力には限界があり決して届かないところがあるからです。普段、何事もないときは自信に満ちて生きてはいても、本当の私たちはとても弱い存在です。私たちには出来ることはとても限られています。私たちは神様の御手に信頼して祈るのです。御手に委ねることを知っていることは人間であることの証の一つです。

 

【悪霊に取りつかれた息子の父】

 さて、今朝の箇所ではある父親が息子の命のために助けを求めてやってきますが、助けが得られないことから始まります。幼いときから悪霊に取りつかれて、生命の危機にある子どもが弟子たちの所に連れられてくるのです。マタイとルカによる福音書の平行箇所によりますと、この息子は一人息子であって、てんかんを煩っていたことがわかります。

 

 作家の大江健三郎さんは、脳に障害をもつ息子さんと共に歩んでこられました。ある講演でこう言われます。「障害のある子どもには、毎年のように新しい困難が出てくるものです。それを乗り越えていく喜びもありますけれども。ですから、あれだけ困難があってしかも彼は生き延びてきたということを私どもは喜んでいる」お子さんには、てんかんの発作があります。それに対してお子さんは自分のことをこう書いています。「発作が起こりました。僕は唸っていました。僕はもうだめだ。二十年も生きちゃ困る」と。この言葉は憂鬱にさせたと自分たちの生活の苦しさと苦労を隠さずに率直に述べておられます。

 

【苦しむ子どもを前にして議論】

大きな病気によって苦しむ子どもと共に歩むことはどれほど困難なことでしょうか。そして周りの無理解や無関心にどれほど心くじかれることだろうかと思います。苦しむ子どもを前にして、イエス様の周りには、群衆と律法学者そして弟子たちがいました。彼らは議論していたとあります。苦しむ子どもを前にして議論しかできないのです。弟子たちは無力でした。その議論とは、弟子たちがどうしてこの子供を癒すことができないのかということについてです。苦しんでいる親子を蚊帳の外にして、群衆たちは誰の責任かと議論しています。

 

ここでの群衆は野次馬であって、自分たちの興味関心に流されています。群衆は無責任なのです。また律法学者もいました。彼らも苦しむ親子を前にして議論をしているのです。これは今なすべきことではありません。必要なことをはき違えていると言うことができるでしょう。そこにはさらに弟子たちがいました。しかし弟子たちは無力です。苦しむ子どもと助けを求める父親を前にして何もできないのです。イエス様の名前によって生きているはずの弟子たちが無力なのです。律法学者たちは弟子たちを馬鹿にして、さらにイエス様をけなしていたに違いありません。

 

そしてこの状況はただこのときのイエス様の弟子たちだけのことではないのです。私たちの時代も暗闇に包まれています。そして私たちの所に、教会に来れば何とかなると思って、連れられてくる、また自分からいらっしゃる方もいるのです。それでもその困難な問題を前にして私たちはたたずんでしまう。そしてその方たちを失望と悲しみの中に取り残してしまうことが人ごとのようには思われないのです。これはイエス様のお名前を損なうことになるのだと思います。このときの弟子たちと律法学者や群衆とを分ける違いは何であったはずでしょうか。それは、つまり弟子たちは助けはどこから来るかを知っているという一点です。人は誰もこの苦しむ親子を助ける力は持ち合わせてはいません。ただ弟子たちだけは頼るべきお方を知っているはずなのです。しかし残念なことにこのときの弟子たちはいちばん大切な頼るべきお方のことを忘れていました。神様を信頼することをどこかに置いてきてしまったのです。

 

 今朝の主人公の親子は、誰も助けることの出来ない困窮の中にありました。これまで誰も癒すことが出来なかったのです。これまでに父親は息子をさまざまな医者のところへ連れて回ったことでしょう。そして最期には評判のイエス様の弟子のところに連れていったのです。それでも駄目でした。万事休すという所ですが、まだ連れて行っていないお方がお一人だけいたのです。それはイエス様の御前です。

 

 【おできになるなら】

父親はイエス様の所に息子を連れてきました。子どもは引きつけを起して緊急事態が発生しています。それでも父親のお願いの仕方は、疑いながらです。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」。しかしその救助の求めにはある限定が含まれています。直訳すると「もしあなたが、何か、おできになるなら」というのです。ここにあるイエス様への期待は、ある種のためらいが含まれています。期待しつつも、全幅の信頼を寄せてはいません。なぜならこの父親はこれまで、期待をしては、期待が裏切り続けられてきたからです。ですからこの父親はある留保を保ちつつイエス様にお願いをするのです。きっとまた駄目じゃないだろうか、期待もそこそこにしておこうと思っていたことでしょう。

 

 その父親にイエス様は問い返されます。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」、イエス様の痛烈な問い返しです。「「できれば」というか」、とは「あなたはわたしを信じているのか」と言う、野球でいえばまっすぐなピッチャー返しのような質問です。イエス様は問いをまっすぐに父親へ投げ返されます。ぎくりとする質問をイエス様は父親に向かって問い返されます。あなたはわたしだけを信じるのか。あなたはわたしだけにしか救いはないと信じるのかと。

 

 【救われるべき名はキリストの他にない】

日本人の一般的な信仰はよく山登りにたとえられます。「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月をこそみれ」。これを信仰に置き換えてどのような信仰でも結構であって、何でもよいから信じてさえいれば山の頂上に到達できると言うわけです。

 

 しかしキリスト教はあくまでこれとは正反対のことを主張してきましたし、主張するのです。キリストのお名前だけが私たちを救うことが出来るのです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)

 

 十字架と復活のキリストこそ私たちを救うただ一つの御名です。このわたしの罪のために十字架について下さったお方です。ですからイエス様は父親に対して、キリストにしか救いはないことを信じるのかと問われるのです。この父親や私たちが求めるさまざまな救いは山登りのようにいくつかの方法があります。その方法の中には自分で自分を何とかしたいと思う、自力救済があります。ここでイエス様は自分がほんとうに無力であることを認めなさい。私のほかには救いはない、強がりを捨てて武装解除しなさいと招かれるのです。自分の弱さを認めること、無力であることを認めることは人にとって困難なことです。自分で自分のことは何とかしたい。ここからは先はどうしても触れて欲しくない所があるからです。しかし使徒パウロは言います。「わたしは弱いときにこそ強い」と。私たちの周りにある困窮は、私たちが無力であることに徹し切れていないことに原因があるのであって、キリストは私たちに自分を明け渡すことを求めておられます。

 

キリストの前に出て弱さを告白することを拒むことは私たちの罪のあらわれの一つです。『「できれば」と言うか』。キリストの他に救いの道はないことを認めなさいとイエス様は愛を持って痛烈に心の奥底にまで響く声で問い返して下さったのです。これはイエス様の愛から出たまっすぐな言葉です。この親子が滅んで欲しくはないからです。突き刺すような言葉が、この父親の目を覚まさせるために必要だったのです。

 

そして同時にイエス様はこの父親に問いかけたのでした。「信じる者には何でもできる」。これはとても重たい言葉です。わたしはいくらかは信仰を持って生きているはずだという土台が崩される言葉です。木っ端みじんに父親の土台を崩す言葉です。なぜなら父親は何もできないからです。自分自身がこの言葉によって調べられるなら、自分のうちに信仰と呼べるものは何もないことを知らされます。わたしは無力であり、何もなすことができない。わたしはただ困窮の中にあるのです。「信じる者には何でもできる」と言われるならば、自分はただ空っぽであること、不信仰であることを告白しなければなりません。このイエス様の言葉は私たちがあぐらをかいて座っている土台を切り崩します。

 

【信なき我を助けたまえ】

ですからこの父親は叫ぶのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。父親は自分には信仰と呼べるようなものは、自分のうちにないことを告白せずにはおれません。不信仰なわたしなのです。自分で自分を救う力は全くないのです。これは論理的には矛盾しているようですが、父親は同時に「わたしは信じます」と叫びます。ある写本ではここが「泣きながら叫んだ」となっています。私たちの聖書ではそうは読みませんが、このときの父親は泣いていたという読みかたの思いが分かります。整って行儀よくイエス様の前に出るのではなく、悔いくずおれて泣きながらイエス様の前に出るのです。

 

父親はイエス様に向かって全面的に必死になって自分を明け渡すことを告白するのです。父親の心の奥底からの救いを求める叫びこそ、ほんとうの信仰の告白に違いないのです。父親の中には信仰と呼べるようなものはありません。ですからこの父親の告白は神様から一方的に贈り物として与えられたものです。困窮の中、心の奥から絞り出す、イエス様に向かって助けを求めるこの叫びこそ真実な信仰告白と呼べるのです。これは教理問答のようにきちんと整った言葉ではありません。しかしこれは真実な信仰のありかたを凝縮した告白です。

 

細かいことなのですが、ここで父親は「信仰のないわたしを助けてください」といったときの「助けてください」は文法的に「助け続けてください」という言葉です。最初はただ子どもの癒しだけが父親の心にあって、それはただ一回子供を癒していただければという求めだったのです。それが変化して、父親はこれからずっとイエス様に自分を助けていただきたいと、自分の存在をイエス様に委ねきっています。ただ一回限りのイエス様との関係ではなく、救いとは永遠にこのイエス様にしっかりと結びつけられることだからです。

 

【悪霊を追い出すイエス】

この告白の後、イエス様は子どもから悪霊を追い出されます。弟子たちの言うことは聞かなかった悪霊がイエス様の言われることには聞き従うのです。この悪霊に対して弟子たちが力を用いることが何故できなかったのでしょうか。イエス様はおできになりました。この違いは神への信仰、神への信頼の違いです。弟子たちは不信仰だったのです。弟子たちよりもむしろ悪霊の方が神様はどのようなお方か知っているのでしょう。しかし悪霊は神がどのようなお方かは知っていても、悪霊は神をまったく信頼していないのです。今朝の箇所での問題は信頼についてのことなのです。

 

弟子たちが悪霊を追いだして癒すことが出来なかった理由を見てきました。それは信頼の欠如、つまりイエス様の言葉では「不信仰」です。イエス様は弟子たちだけになったとき、悪霊を追い出せなかった理由を尋ねる弟子たちに教えて下さいました。「この種のものは祈りによらなければ決しておいだすことはできないのだ」と、イエス様は祈りをすすめられます。祈りとは神様に向かって私たちが心を開き交わることです。冒頭に無神論者であっても祈ることをすることをみました。人は極限に追い詰められれば祈らざるを得ないのだと思います。

 

【なぜ人は祈るか】

なぜ人は祈るのでしょうか。それは創世記によると人が神のかたちに造られているからです。私たちは神との交わりの中に創造の初めから入れられるように造られているからです。だから祈ることは人にとって当然のことなのです。神と共に生きることが人にとって当たり前のことだからです。困ったときは勿論ですが、いつでも祈るように神様は招いておられます。

 

【愛なる神】

それでも私たちは自分の祈りが聞かれているのかどうかが不安になることがあるのだと思います。神様はいるのか。神はおられても無力ではないか、と3・11以降のわたしたちは思います。また神はおられて力があっても、その神様は無慈悲なお方ではないかと。しかし聖書は言います。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と。神はひとり子を犠牲にされるほどわたしを愛してくださるのです。

 

このような大きな愛があるのですから、私たちには、聞かれていないように思える祈りがあるとしても神様は必ず聴いていてくださることを信じます。有限な私たちには理解できないことがあるからです。父親の信仰の始まりは、同時に子どもへの癒しの訪れでした。父親が助けを求めた叫びから家族の回復が始まりました。イエス様の御許にわたしたちの唯一の避け所があります。イエス様は破れを持つまま一緒になって自分のところへと来るように招かれます。イエス様こそ私たちの体と心全体の癒しと、まことの信仰の源であられるからです。イエス様は私たちも招いてくださいます。「その子をわたしの所へ連れてきなさい」。(おわり)

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2013年07月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2013年7月7日説教「主イエスの変容」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)

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201377日説教「主イエスの変容」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)                                

聖書:マルコ9213新約聖書

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。

13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」


 

(説教要約 文責近藤)

今朝はマルコによる福音書9章から、御言葉に聞いてまいりたいと願います。2節に「六日の後」にとありますが、これは8章の27節以下にありますペトロの信仰告白、そして続くイエス様の受難と復活の予告があってから六日たった、つまり一週間後ということです。今朝の御言葉は、イエス様が3人のお弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られたことから始まります。

 

【イエス様の3人の弟子】

 イエス様はこの3人の弟子を究めて大切な機会に、伴われて出かけられました。535節以下には、会堂長ヤイロの娘の復活にイエス様が同じ三人の弟子を連れられたことが記されています。また14章の32節以下で、ゲッセマネの園で祈られるイエス様は、同じ三人をお近くに連れて行かれました。この三人を連れて行かれるときは、イエス様の秘密のベールが取り除かれるときといって良いでしょう。それは今日の箇所も同じです。出来事の秘密性を強調するために「ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ」を加えているのです。

 

 そもそも何故3人だけなのでしょうか。これは旧約聖書にあります出来事の証人としての必要な人数だからです。(申命記17:6)重大な証の出来事に必要な最低限の人数をイエス様は連れて行かれました。

 

 そのようにして高い山に、イエス様と3人の弟子たちは登ります。この山は伝統的にタボル山といわれていますがそれが事実であったかは定かではありません。

 

【山の上での出来事:イエスの姿が変えられた】

 2節後半「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」から8節の終わりまでが山の上での出来事です。ここには二つの特徴があります。一つはイエス様が行為の主体になられないことです。イエス様はここでひとこともお語りになりません。イエス様の方から行動を起こされないのです。私たちの新共同訳聖書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」とあるので、イエス様が動作の主体であるようにおもわれますが、そうではありません。原文では受動態の動詞が使われていて、直訳すれば「彼らの面前で姿が変えられた」となります。はっきりと書かれていないですが、主語は神です。神によってイエス様の姿が変えられたのです。

 

 【それは3人の弟子の為に】

第二の特徴はこの出来事は弟子たち三人のために起こったのだということです。彼らのために、彼らの目の前でイエス様の姿が変えられました。雲の中から神の声が「これはわたしの愛する子。これに聞け」と響きました。この声も神がイエス様を彼らに紹介するための声です。

 

 二つの特徴をまとめますと、山の上での出来事のねらいはイエス様が誰であるかを弟子たちに示しているということです。しかもイエス様は受け身ですから、教えるのはイエス様ではなくて神です。

 

 さてこの時のイエス様のお姿は3節にあるように「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」のです。光り輝く栄光のお姿でした。このイエス様の衣の輝きは天に属するお方であることを意味します。イエス様の復活なさったとき墓にいた天使たちの衣も白色でした。

 

 そこにイエス様の天に属する者であることをさらに示すこととして、エリヤとモーセがそこにあらわれました。モーセは律法をあらわし、エリヤは預言者を代表しています。この二人によって旧約聖書の全体を表します。イエス様はこのモーセとエリヤと語り合っておられます。その内容はルカによる福音書の平行記事から分かります。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」のです。(ルカ9:31) 今朝のマルコの記事では語られる内容には注意が払われていなくて、エリヤとモーセと話しているイエス様が天に属するお方であられることに注意を促します。

 

 さてその様な栄光に包まれているイエス様にペトロが口をはさみます。5節「先生、わたしたちがここにいることはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ここで栄光に包まれているイエス様に対してペトロは声を掛けることが出来たということに私たちは慰めを覚えます。ふつう人は権威や力を持てば、その人に容易に近づきがたい印象や権威による圧力を与えます。しかしここでのイエス様は天的な栄光に包まれて光り輝いているにもかかわらず、それでもペトロが声を掛けることの出来るお方でした。

 

【ペトロの間違い】

 さて注目したいのはペトロの発言です。ルカの平行記事では、このとき弟子たちは「ひどく眠かった」とあり、口語訳では「熟睡していた」とあります。どちらとも訳せる言葉です。眠ってしまっていたか、ひどく眠かったか、いずれにせよペトロがここで答えた言葉は、目覚めていながらも寝ている、寝言のような愚かな言葉なのです。

 

 その間違いは、第一にペトロはイエス様を、モーセやエリヤと同列に扱っていることです。仮小屋を「一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのため」という言葉からイエス様を、人間にすぎないモーセとエリヤと並べる過ちを犯しています。宗教改革者のカルヴァンはただの人間をイエス様と同格に扱うことを偶像崇拝の始まりとして厳しく退けています。

 

 第二にペトロは神の栄光を自らの手の内に握りしめようとしたことです。ペトロは言いました「先生、わたしたちがここにいることはすばらしいことです」ペトロは自分が今ここに居合わせたことはとてもすばらしいことだと思ったのです。ペトロは味わった天的な喜びを引き留めておこうとして「仮小屋」つまり天幕をここに建てましょう、と提案するのです。小屋を建てることでペトロは天の栄光を地上に、自分の手によって引き留めておこうと願ったのでした。人は神の栄光を自分の力で持つことも離すことも出来ません。神の栄光はただ神のものだからです。

 

 さらに第三の間違いはペトロが神の栄光に酔うことで自分の責任を忘れたことです。ペトロはイエス様の圧倒的な栄光を自分が見ることを許されたことで有頂天だったのではないでしょうか。たった三人だけをイエス様は伴われました。イエス様には弟子たちに特権意識を与えるつもりはなくとも、この状況からペトロはほかの弟子たちに対する優越感と神の栄光を見る事への陶酔を味わったはずです。ある聖書注解者はいいます「わたしたちにとって出来事が順調であるとき、私たちは他者に対して心がそぞろになりがちである。そしてわたしたちが喜びに満たされているとき、私たちに負わされている重荷を、その喜びは忘れさせてしまう」と。

 

 【山の下では】

来週に取り上げたいと思っています914節以下の記事は、山を下った弟子たちが直面する問題です。弟子たち三人が山の上で栄光のイエス様に出会っているとき、山の下で残された9人の弟子たちは、霊に取り付かれた子供のことで取り乱し困窮の中にありました。山の上での栄光と、山の下での困窮がとても対照的です。

 

 私たちも礼拝において神様に出会い、御言葉に養われ恵みを頂きます。しかし同時にここに集うことが出来ない困窮の中におられる方たちにも心を配りたいと願います。救いのことを知らずに苦しんでいる方は、本当に多いのです。私たちの喜びを、自分のものとして留めて恵みを個人のものとしてしまう弱さから、解き放たれたいのです。どのようにすれば恵みを配ることの出来る人へと変えられるのでしょうか。続けてみてまいります。

 

 【神様の臨在を示す雲】

自分のうちに恵みを独占しようとしたペトロに対して、神の介入がありました。ただ神の介入によって私たちは自己中心の思いから解き放たれます。7「すると雲が現れて彼らを覆い、雲中から声がした」のです。雲とは神の臨在の象徴です。モーセがシナイ山に十戒を頂くために登ったとき、そこには雲が満ちていました。またソロモンが神殿を建立したとき神殿に雲が満ちたのでした。このように雲とは神の臨在のしるしです。

 

 私たちは神を見ることは許されていないのです。神を見るとき人は死ぬのです。ですから神は人を滅ぼさないために、御自身を表されるとき、同時に雲によって御自身を隠されるのです。カルヴァンはこのようにいいます「一言でいうなら、この雲は私たちに対する"くつわ"の役割を果たす。私たちの好奇心を不当な気まぐれのうちに甘やかすべきでないからだ。弟子たちも以前の自分たちの状態に戻るべきであり、それゆえ、まだその時でもないのに勝利を期待してはいけないのである」

 

 雲によって弟子たちの視界は遮られ、目前の栄光あるイエスとモーセとエリヤは見えなくなりました。私たちも信仰を超え出て、陶酔の中に入るのではなく、素面(しらふ)でいなくてはなりません。

 

 【これはわたしの愛する子。これに聞け】

この弟子たちに雲の中から声がしました「これはわたしの愛する子。これに聞け」私たちは、聞きなさいと命ぜられます。神がイエスに聞きなさいと命ぜられるのです。聞くべきはモーセでもエリヤでもなく、このイエス様のお言葉です。ですから私たちは聞くためには、まず静まらなくてはなりません。ペトロのように栄光に陶酔することで饒舌になるのではなく、神の前に静まるのです。私たちは神の前に静まり沈黙するのです。そうすれば御言葉を聞くことができるのです。そして私たちが静まることで神の権威を知ることが出来ます。

 

私たちが恵みを独占する自己中心的な思いから解放しうるのは神の介入です。そして私たちに近づかれて神が言われるのは、これに聞け、という命令です。私たちは、イエス様の言葉に聞かなくてはなりません。御言葉に聞くとき、自分自身のつぶやきのような罪深い思いに背を向けて自由にされます。御言葉によって、初めて私たちは自己中心的な思いから解き放たれるのです。

 

さて今朝のイエス様の変容の出来事はイエス様のご正体を現す出来事です。しかしなぜ正体を明かす必要があったのでしょうか。それを考えるためには、前後の文脈を考える必要があります。8章の27-30節はペトロの告白、31-91節は受難予告とペトロの誤解、そして群衆をも呼び集めて、イエス様に自分の十字架を負って従ってきなさいと命ぜられます。

 

【エリヤはすでに来た】

さらに今朝の9節以下では山を下りた弟子たちに、エリヤはまだ来ていないからメシヤはまだまだだと教える律法学者の教えを正して、エリヤはすでに来たのであり、人の子が苦しむ以上、先行する道備えのエリヤも当然苦しむと言われます。エリヤは律法学者が期待したように栄光の姿を取らなかった、エリヤの到来は洗礼者ヨハネによって成就している、と主張されるのです。とするならば前後の文脈は受難であり、今朝の変容の箇所も受難の文脈で読むことになるはずです。

 

【栄光の前にある主の御受難】

つまり変容の箇所が、受難の文脈に挟まれていることを考えますと、次ぎようのように言えます。ペトロは相変わらず受難の意味を理解できない。だから彼は栄光のイエス様を見るとそれを永遠に残したくなって小屋を建てようと提案したのです。

 

ペトロの思いに反して、イエス様は十字架への道を歩まれます。当時の人たちが期待していた政治的な解放者としてのメシヤではなく、本当のメシヤは苦しまれるメシヤです。834節でイエス様は言われますわたしの後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人は全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」。

このイエス様の招きの意味がいまだはっきりと分かっていなかったのです。ですからペトロは十字架の道を従うより、栄光を自分のものとして封じ込めようとしたのです。

 

山を下られたイエス様は、御自身の山の上での変容のことを十字架と復活が起こるまでは、弟子たちに口外を禁じられました。人々の誤解を引き起こすことを避けるためです。メシヤは先ず苦しみ、十字架に付かれる。苦難から栄光への一本の道があります。

 

【変えられた弟子たち】

さて恵みを独占していたペトロを筆頭とするこの三人の弟子たちはこの後どうなったでしょうか。弟子たちは十字架の前に逃げだしてしまいました。またペトロはイエス様を三度も否定した弱さを持つ弟子です。その様な弟子をもイエス様は用いて証人としてくださいます。

 

聖書の証言によるとヤコブは早い時期に殉教の死を遂げたことが分かります(使徒12:2)。

 

ヨハネは長く生きたと言われています。ヨハネの手紙1では冒頭にこうあります始めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。-この命は現れました。御父とともにあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしは見てあなたがたに証しし、伝えるのです。」

 

また使徒ペトロもイエス様のこの変容を証言しています。「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(Ⅱペトロ1:16-18)。

このように三人の弟子たちはそれぞれにイエスの復活と十字架の証人として用いられました。

 

【私たちも造り変えられる】

その様に、私たちも弱さと罪を持ちますが、主の証人として用いられます。私たちは罪赦された者として地上を歩みます。しかし同時に私たちには残る罪があります。ですから神は私たちを清めて御用のために用いようとしてくださいます。私たちは、自分を自分で清めることは出来ず、それはただ神の御霊の働きによるのです。

 

最後に覚えたいことがあります。イエス様が姿を「変えられる」の「変えられる」という言葉は、新約聖書で平行箇所を除けば、別に2回出てきます。

 

一箇所はⅡコリント318節「わたしたちは皆、顔の覆いが取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」私たちは聖霊なる神様によって、イエス様の栄光あるお姿に似る者へと変えられていきます。清められるのは主の霊によるのであって、私たちの力にはよらないのです。ここに希望があります。

 

もう一箇所はローマの信徒への手紙122「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」です。

 

どちらの聖句も、姿に造りかえられ」、「自分を変えていただき」とあるように受け身です。神が主語なのです。私たちはただ神によって造りかえられます。人類の始祖アダムの「堕落」は誘惑する者によって、人間の心を中心に始まりました。ですから私たちの救いもまた心から始まります。この心を神様が造り変え御心に適う者にして主の証人としてくださるのです。

 

私たちを自己中心から解き放ち、栄光に仕えるように命ぜられるイエス様の御言葉に聞き続けてまいりたいと願います。そして私たちの罪の心を造りかえて主の証人としてくださる聖霊なる神様の働きを求めて祈り願いたいと思います。(おわり)

2013年07月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2012.9.16.説教「生涯における最大の質問」ウイリアム・モーア宣教師

2012.9.16.説教「生涯における最大の質問」ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マルコによる福音書8章
27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

説教要約(文責近藤)

【「行かなかった道」】
私が中学生のとき暗記させられたアメリカの代表的詩人ロバート・フロストの「行かなかった道」という作品があります。
黄色く染まった森の中で道が二つに分かれていた。
残念だが二つの道を行くことはできなかった。
長い間立ち止まって私は一方の道を眺めていた。
・・一方の道を出来るだけ遠くまで眺めた。
それからもう一方の道を見た。同じく美しかった。
こちらの方が私の心を捕えた。
なぜならそれは草に覆われ踏みならされていない地だったからだ。
私がそこを通れば踏みならされてしまうわけだけど。
二つの道は同じように私の前に横たわっていた。
だれの足跡もないままに。
こんな風に考えていても、もう同じ場所には帰ってこないだろうことも知っていた。溜息とともにこれだけは言える。
遠い遠い未来のどこかで森の中、道は二手に分かれている。
そして私は誰もが選ばない道を選んできたのだ。
そのことがどれだけ大きく私の人生を変えたことか。

【生涯における選択】
私たちの生涯でどのような教育を選ぶか、友人の選び、就職の選択、結婚の相手などでどちらの道を選ぶべきか決断を迫られる時があります。その答えによって私たちの人生は大きく変わります。

今日の主イエスの質問は弟子たちにとって大事な質問でした。彼らの教育、友人、就職、結婚の相手などでどちらの道を選ぶかということではありませんで、パレスチナの地方を巡回しながら福音を多くの人に述べ伝え、病人を癒しながらのことです。主は弟子たちに質問をしました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。

主イエスは人の心を見抜くことがおできになるのでその答えは分かっておられたが、もっと大きな質問をするためにこの質問をした。

弟子たちは答えた。周りの人は「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

【あなたがたはわたしを何者だと言うのか】
周りの人たちは主イエスを神のお働きをする人物として高く評価しました。主はその報告にコメントせず、その代わりに弟子たちにさらに尋ねた。はじめからこの質問をなさるおつもりでした。それは弟子たちの生涯におけるもっとも大事な質問であり、今日の私たちにとっても同じく大事な質問だからです。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

【あなたは、メシア、救い主です】
ペトロが答えた。「あなたは、メシア、救い主です。」それはペテロの信仰告白で、ペテロの人生を大きく変えました。

あなたにとって主イエスはどう言うご存在ですか。
聖書には主はご自分が誰であるか明らかに御自身の言葉で記しています。
主は神の永遠の御子、この世のすべての民の救い主、永遠の命に至る唯一の道、主こそ私たちとともにおられる神であります。

【主イエスは救い主、神の御子、主】
主御自身の主張を信じますか?この人生の最大の質問は大事です。主が私たちの救い主、神の御子、主であると信じるならすべてが変わります。この告白ができたらこの世で生きる力と歓び、目的、希望が与えられます。

ヨハネによる福音書14章
6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

神の聖霊が今、生きて働きわたしたちに慰め、信仰、力、知恵、助け、平安を与えて下さる。

【赦し】
主の祈りを捧げるごとに「われらに罪を犯すものをわれらが許す如く、われらの罪おも赦したまえ」と祈ります。

神は私たちを罪人とは見ません。御子イエスの義を見て私たちを完全に赦して下さいます。
神に罪を赦された私たちは人を赦すことができます。相手の罪を赦すことで恨みから解放されると神と人間の間の平和が実現します。わたしたちの生き方が変わります。

【自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい】
今日の御言葉に「34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

主イエスを信じ主とともに歩むと自己中心的わたしを捨てることができ主に似てきます。それは自分の十字架を背負うということです。自分を捨て何より神に仕え隣人に仕えます。

【人生に勝利する】
最後に主が自分の救い主になると最後の敵である死の恐れにも打ち勝ちます。主は復活により死に勝利されました。主はこう約束されます。

「25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書 11章)

主を信じる者はこの世の歩みが終ってもはるかに素晴らしい天国で永遠の命を救い主とともに生きるのです。

愛する兄弟姉妹。神なる主はわたしたち一人一人に今も問いかけられます。「あなたはわたしを何者だと言うのか」。その答えがどれだけ私の人生を変えることか。(おわり)

2012年09月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2012.3.4礼拝風景

今年は灰の水曜日が2月22日で、この日から4月7日(土)までが受難節レントになります。

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2012年03月05日 | カテゴリー: マルコによる福音書

「パレードか受難か、どちらを選ぶか」ウイリアム・モーア2011.4.17

聖書:マルコによる福音書11章1−11

 

 

【過越し祭りとエルサレム巡礼】

過越し祭りの際の為にイスラエルの都エルサレムの人口が数倍増え、大変賑やかになりました。ローマ帝国の遠い隅々から十万人程の巡礼者が続々とエルサレムに入り、その一年中の最も大事なユダヤ教のお祭りを守りました。中東から、ヨーロッパから、小アジアから、アフリカからも敬虔なユダヤ人は自分の宗教の中心地に帰り、エルサレムの神殿で生け贄を捧げ、自分の民族の為の神様の素晴らしい御業を覚え、お祝いました。それは1400年前のエジプトの奴隷の家からの奇跡的解放でした。

 

【救い主を期待】

そして、その大勢の巡礼者はただ大昔の出来事を記念する為にエルサレムに集まった訳ではありません。実は、イスラエルは又、神によっての解放を切に待っていたのです。その当時、イスラエルは独立が失い、ローマ帝国の植民地になり、辛い日々を送りました。政治的と経済的と宗教的に始め、色んな面で圧迫され、皆は何よりも神の救いを待ち望んでいました。

 

特に、預言者を通して神様が約束された救い主を期待し、祈ったのです。祭りの為にエルサレムに上がって来た巡礼者は預言者イザヤの言葉を思い出した事でしょう。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の蔭の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。....一人のみどりごが私達の為に生まれた。一人の男の子が私達に与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和はたえる事がない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9章1−2;5−6) 

2011年04月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

「イエスの十字架を無理に担がせ」奈良伝道所・宮崎契一牧師2010/6/13

マルコによる福音書151623

◆兵士から侮辱される

 16:兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。17:そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、18:「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。19:また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。20:このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

◆十字架につけられる

 21:そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 22:そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。23:没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

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【神様のことを深く知る】

今朝は、この講壇交換を通して初めて西谷伝道所の皆さんと主を礼拝する時が与えられ、神様に感謝をしています。マルコの福音書の御言葉に今朝聞きたいと思います。私たちが信仰生活をするという時に、大事なことだなあと思わされていることがあります。それは、改めて、私たちが神様のことを深く知るということです。これは、信仰者にとっては当たり前のことかもしれませんけ

れども、日々の信仰の歩みの中で自分のことで精一杯になり、いつのまにかこのことから通り過ぎてしまっていることがあるのかもしれません。

 

2010年06月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

「あらし」ウイリアム・モーア2010.5.2

聖書:マルコによる福音書4章35−41◆あらしを静める

 35:その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36:そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37:激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38:しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。

 39:イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40:イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 41:弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 

【死の恐怖】

皆さんは今日の御言葉に於けるような、命に危機を経験した事がありますか。事故や病気や災害などの故に危うく自分の命を失う恐を感じた事がありますか。私たちは小さかれ、大きかれ、多少の差があるかもしりませんが、今日の聖書の個所を読んで、みなさんも自分を振り返り、色んな事を思い起こすと思います。実は、先程読ませて頂いた劇的な個所は命に恐怖を感じた、私の経験を思い起こさせました。それは40年前程の事件ですが、今も生々しく思い出す経験であります。

 

2010年05月02日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

「あの方は復活なさって、ここにはおられない」ウイリアム・モーア2010.4.4

CIMG2328.JPG 聖書:マルコによる福音書16章1−8◆復活する

1:安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。  2:そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3:彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4:ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5:墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7:さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8:婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

【主イエスの十字架刑】

先週、私たちはイエス・キリストの十字架の死を記念しました。当局が不当に主イエスの死刑宣告をして十字架につけました。そして、言い尽くせない程、酷い拷問にかけられてから、イエスは息を引き取られました。多くの目撃者がその最も恐ろしく悲しい光景を見て、ローマ当局は主の死を確かめました。

 

 

 

2010年04月04日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

「誰がイエス・キリストの死に対して責任がありますか」ウイリアム・モーア2010.3.28

マルコによる福音書15章1−47

◆ピラトから尋問される

◆死刑の判決を受ける

◆兵士から侮辱される

◆十字架につけられる

◆イエスの死

◆墓に葬られる

 

【歴史上最も醜い悪事】

この世の歴史を振り返って見ると数え切れない程の酷い悪事を探す事が出来ると思います。不法な戦争や、大量殺戮や、無差別的テロや、宗教上と人種上の迫害や、幼児虐待などのような大変醜い事件が山程ありました。そして、それがもちろん現在も続いています。その多くの悪事の中でもどれが一番責めらるべきかと聞かれたら、私たちはなかなか答え難い事だと思います。しかし、考えて見ますと、恐らく先ほど読ませて頂いた御言葉は全世界の歴史上、一番酷い悪事を語ります。それは神の独り子イエス・キリストの冷酷な殺人です。罪一つ犯してない神であるイエス・キリストは十字架で処刑されました。責めるべき事の全くないお方なのに、そのもっとも恥ずかしいし残酷な拷問にかけられて死んでしまいました。主イエスは全人類の救いの為に、天国の栄光を去ってこの世に下り、人間の母によって生まれ、受肉され、愛に満ちた生き方を教えたのに、無残にも殺されました。それは結局、神を殺す行為にもなりました。その時、全ての人間の憎しみと悪が天地万物の造り主である、愛する神に焦点されました。その故にイエス・キリストの殺害こそが歴史上の最も酷い悪事になります。

 

2010年03月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

「できるかぎりのことをした一人の女」ウイリアム・モーア2010.3.7

マルコによる福音書14章1−11

◆イエスを殺す計略

  1:さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。2:彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

◆ベタニアで香油を注がれる

  3:イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4:そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。5:この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。6:イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。7:貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。8:この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9:はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

◆ユダ、裏切りを企てる

 10:十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。11:彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、    どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

 

【タイムトラベル】

私はそれ程、空想科学小説と映画のファンではありませんけれども、そのジャンルの一つのアイデアは私にとって、とても面白いです。それはタイムトラベルの事です。タイムマシンに入り、ダイヤルを行きたい所と行きたい時間に回せば、瞬間的にその時点と場所に運ばれています。将来も過去にも自由に何処でも行けます。将来は全く未知なので、そこへ行くのは恐くて遠慮しますが、私は過去へ行くのは興味があります。つまり、私は特に聖書の時代の出来事を自分の目で見たいのです。

 

2010年03月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

「何をしてほしいのか」ウイリアム・モーア2010.2.28

マルコによる福音書10章32−45

◆イエス、三度自分の死と復活を予告する

 32:一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33:「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34:異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

◆ヤコブとヨハネの願い

 35:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36:イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38:イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39:彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40:しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

 41:ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44:いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45:人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

          

【理想的な宗教とは?】

もし理想的な宗教を作り上げるとしたら、どのようなものに作り上げれば良いのでしょうか。ちょっと一緒に考えて見て下さい。その理想的な宗教はどう言う形を取りますか。例えば、その神はどのような神なのですか。そして、その神は信者の為にどう言う事をなさるのですか。また、信者に対して、その神の期待は何でしょうか。私達が理想的な宗教を作るとしたら、どのようなものが出来上がって来るのでしょうか。

2010年02月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」ウイリアム・モーア2010.2.21

マルコによる福音書8章27−9章1

◆ペトロ、信仰を言い表す

 27:イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28:弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29:そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30:するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

◆イエス、死と復活を予告する

 31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34:それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37:自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38:神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」91:また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

【レント・受難節・四旬節】

今日、私達はレント、すなわち受難節を迎えています。キリスト教の暦年の中でレントは重要な役割を果たします。それは我々の救い主イエス・キリストの受難の意味と必要性を新たに悟る事です。私達の信仰、私達の永遠の救いは主イエスの十字架の贖い死に基づいていますので、常にその最も重要な出来事を覚え感謝すべきです。そうしますと、4月の第一「主の日」イースター、即ちイエス・キリストの復活を大きな喜びを持って心から祝う事が出来ます。考えて見ますと、主の受難がなければ喜びの復活もなかったのです。ですから、私達は先週の水曜日から40日間、受難週が始まるまでの日の間、この40日間私達は主イエス・キリストの受難と復活を覚え、敬虔に過ごす時節であります。

2010年02月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

自分を捨てること ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書8章31−38◆イエス、死と復活を予告する

31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

34:それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37:自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38:神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



【受難節】
私達は先週の水曜日から受難節に入りました。キリスト教会は大昔から毎年の受難節に私達の為、主イエス・キリストの十字架の贖い死を覚え、その深い意味と重要性を新たに考える時でもあります。言うまでもなく、主イエスの贖い死がなければ、私達は罪の故に神と敵対状態のままであり、救いも希望も全くありません。しかし、主の十字架死のお陰で、罪の全くないイエス・キリストは、罪の為に私達が受けるべき罰を御自分の身に受け、私達主を信じる者は神の赦しを頂き、永遠まで主の豊かな恵みのうちに生きる事になりました。御言葉は主の受難の目的をこのように説明します。「罪と何の関わりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)

それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を御自分の子供として完全に受け入れて下さいます。受難節を守る事によってその言い尽くせない恵みを新たに覚え、感謝します。

また、40日間の受難節に私達それぞれは自分自身の信仰生活を吟味し、よりもっと忠実な主の子供になるようにと決心すべきです。ですから、私達は受難節に主イエスの献身的愛を覚えながら、その愛を模範として、神と隣人に仕えます。

2009年03月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

私たちのふるさと ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書1章1−8◆洗礼者ヨハネ

1:神の子イエス・キリストの福音の初め。2:預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3:荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4:洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5:ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6:ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7:彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8:わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


【ホワイト•クリスマス】
最近聞いた事がありますが、世界中でズット以前から現在まで一番人気のある歌はホワイト•クリスマスだそうです。その歌はどんな歌よりも沢山録音され、聞かれ、歌った事があるそうです。特にクリスマスが近づくと、ホワイト•クリスマスはお店のスピーカからよく流れます。「I'm dreaming of a white Christmas just like the ones I used to know. Where the treetops glisten and children listen to hear sleigh bells in the snow.」沢山聞いた事があるでしょう。その歌の日本語の歌詞はこうなります。「夢見るはホワイト•クリスマス、懐かしい過ぎし日。雪に輝く木の梢、そりの鈴の音。」

恐らく、その歌は私たちのノスタルジアを掻き立てるので、ホワイト•クリスマスの人気が今日まで残って来ました。「夢見るはホワイト•クリスマス、懐かしい過ぎし日。」その歌詞は私達の幼い時の思い出を起こすのではないでしょうか。

2008年12月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

やもめの献金 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書12章41−44

◆やもめの献金  41:イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。  42:ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。  43:イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。  44:皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

【エルサレムの神殿で】

エルサレムの安息日の朝。日がまだ強くならないうちに人々は礼拝する為に、もう神殿の入り口に寄せて来ました。焼き尽くす捧げ物の独特の臭いが空気に浸透していました。そして、信徒達は皆並んで献金を捧げようとしました。金持ちも貧乏人も、また、その中間の人々も、神に捧げる献金を持って、賽銭箱がある部屋に入りました。その賽銭箱は金属製の漏斗形の投げ口があって、信徒達はそこに硬貨を入れました。その時代、紙幣がなかったからです。言うまでもなく、硬貨を箱に投げると、カチンと鳴る音が響きました。

 

【主イエスと弟子たち】

人々は献金をして、礼拝する為、すぐそのお部屋を出ましたが、一人の人と彼の弟子達は献金が済んでからも部屋の隅に残りました。そして、今日与えられた御言葉によりますと、主イエスは、群衆が賽銭箱にお金を入れる様子を見ていました。 

2008年06月08日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

主イエス•キリストの権威 ウイリアム・モーア宣教師

◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす

21:一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22:人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23:そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24:「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25:イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26:汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27:人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28:イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 

【時は満ち、神の国は近づいた】
主イエスが御自分の地上の働きを始めたばかりの時でした。バプテスマのヨハネによって洗礼を受け、そして、荒れ野で40日間誘惑を受けましたが、悪魔に負けませんでした。それから主は弟子達を選び始め、伝道活動を開始しました。主は国を巡回して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言うメセージを述べ伝えました。
 
【権威ある者として】
ある日、イエスは弟子と共にカファルナウムと言う町に着きました。そして、安息日にシナゴーグ、すなわちユダヤ教の会堂に入って、巡回教師としてイエスは人々を教え始められました。その聖日に与えられた聖書の朗読と主イエスのお話の内容も記されていませんが、御言葉によりますと、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として教えになった」と書いてあります。イエスは権威ある者として教えましたので、人々は驚きました。そのお話の内容は重要でしたが、内容よりも、その話し方が人々にとって印象的でした。つまり、イエスは神と救いについて発言する権利があったようにお話をなさいました。やはり、主は神の独り子としてそう言う権利と資格があったからこそ、権威ある者として人々に教えることが出来ました。

2008年04月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

自分を無にする事 ウイリアム・モーア宣教師 

聖書:フィリピの信徒への手紙2章1−11

 ◆キリストを模範とせよ   1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰     め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、   2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、     わたしの喜びを満たしてください。   3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに     相手を自分よりも優れた者と考え、   4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。   5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみら     れるものです。   6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固     執しようとは思わず、   7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ     ました。人間の姿で現れ、   8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で     した。   9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与     えになりました。  10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス     の御名にひざまずき、  11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父     である神をたたえるのです。  

 

【キリストに似ること】
この世にいる間、私達キリスト者はおもに一つの目的を持って生きています。それは私達の救い主イエス・キリストにだんだん似て行く事です。何故なら、キリストに従って、似て行く者はキリスト者です。そして、同時に、キリスト者はキリストに従って似て行く者であります。その上、私達はキリストに似て行く事が何よりも父なる神の御旨であり、何よりも主を喜ばせる事であるとよく知っています。
 
【イエス・キリストに似て行く道】
今日の御言葉はイエス・キリストに似て行く道を教えて下さいます。この個所は私達がどういうふうに主イエスにより近づけるかを説明します。今日与えられた御言葉によりますと、イエスのようになろうとしたら、私達は先ず主との同じ態度をとらなければなりません。フィリピの信徒への手紙2章5節の所を見て下さい。使徒パウロはこのようにフィリピと言う町にいるキリスト者に語りました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト•イエスにもみられるものです。」
 
原文を調べると、その表現は、「キリスト•イエスの同じ考え方、あるいは同じ態度をとりなさい」となります。つまり、主イエスの態度と価値観が自分のものになると、私達の動機と行動が変わり、徐々にイエスに似ていきます。

2008年03月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書

誘惑にNOと言えるあなた ウイリアム・モーア宣教師

聖書:コリントの信徒への手紙一10章13節
 
【厚かましいラクダ】
ある寒い夜、アラブ人が自分のテントに入り、寝ようとしました。彼が丁度眠りに入った時、自分のラクダが頭をテントに差し込んで、「外はあんまり寒いから足だけをテントに入れても良いですか」と願いました。ラクダが可哀そうと思ったアラブ人は少し考えてから、その願いを聞き届けました。そして、彼はもう一度毛布に包まって眠りに入りました。ラクダはたちまちにまた主人を起して、「あんまり寒いから寝られません。頭もテントに入れさせて下さい」と乞い求めました。アラブ人は臭いラクダの頭と近くに寝たくなかったのに、半分眠っていたからその願いも聞き入れて、ラクダは頭をテントの中に入れたのです。そして、しばらくしてから、ラクダはもう一度主人の目を覚めさせて、「お尻が凍ってしまうので、お尻もテントに入れたいですが、よろしいですか」と尋ねました。主人はラクダの大きなノミに食われたお尻をテントの中に許すのに抵抗を感じました。しかし、仕方がないと思って、自分のラクダの願いを叶えて上げました。
 
アラブ人は何とかもう一度眠り込みましたが、テントは段々狭くなった為、目が覚め起きてしまいました。そして、ラクダの足と頭とお尻だけではなく、ラクダ全体がテントにいました。アラブ人はびっくりして、「このテントはあなたと私、両方泊る余地がありません」とラクダに言ったところ、ラクダは、「余地がないと言えば、御主人の方が出たらどうでしょうか」と厚かましく返事しました。

2007年09月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , マルコによる福音書 , 新約聖書

自分自身を超える事 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書9章33−37
 
【兄弟喧嘩】
私は三人男兄弟の真ん中の子として大きくなりました。年があんまり離れていない私達は成長する時、色んな楽しい思い出が沢山あります。私達三人はお父さんが下さった段ボール箱で家の裏でお城を建てて、そこで一緒に一晩を過ごしました。また、毎年夏になると家族そろって休暇を山小屋へ行って、のんびりと日々を共に過ごしました。私達男兄弟三人は楽しい思い出が沢山ありますが、それ程楽しくない思い出も作ったのです。と言うのは、私達は喧嘩をよくしました。いつもつまらない事で喧嘩したのですが、ある時は結構激しくなりました。私達がアメリカの西部から東部へと車で旅行していた時の事ですが、私達三人は後ろの狭い席に座ると喧嘩になる事が多かったのです。余地があんまりないから、私達はお互いに「あなたは場所を取り過ぎる」と責めて大騒ぎになりました。特に、私達が眠くなった時、相手の領地に入ると、喧嘩になりました。又、おやつの事で私達は喧嘩しました。自分の分よりお菓子を沢山食べてしまうと、大変になりました。そして、喧嘩があんまり酷くなると、お父さんは我慢しきれなくなり、車を道路の肩に止めて、お母さんが後ろの席の真ん中に座り、そして、兄弟一人は助手席に乗りました。今、思えば本当につまらない事でよく喧嘩していたと思います。しかし、それが私達の旅の姿でした。
 
【誰が一番偉いか】
今日の御言葉によりますと、 旅の途中、主イエスの弟子達の間にも喧嘩がありました。主と弟子達はイスラエル北部の地方ガリラヤを通った時、歩きながら弟子達は激しい議論に入りました。車の後ろの座席に座っている子供のように口喧嘩をしたのです。そして、彼等の家カファルナウムと言う町に帰ると、主イエスは弟子達にこのように尋ねました。

「途中で何を議論していたのか。」


もちろん全ての人の心が分かった主イエスは彼等の議論の課題はもうすでに分かりましたが、弟子達を教える為にお聞きになりました。

2007年09月09日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

霊の結ぶ実:善意 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書10:17−22
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【あなたは善人ですか】
皆さん、少し想像してみて下さい。もし電車を乗っている時、誰かがあなたの側に座り、突然、「あなたは善い人ですか」と尋ねられると、どう答えられますか。赤の他人にそのように聞かれると、多分びっくりするでしょう。又、恐らく、その人は正気かと疑うかも知れません。誰がそのような個人的な質問を知らない人に聞くでしょうか。しかし、もしその質問、「あなたは善い人ですか」に答えようとしたら、どう答えられますか。実は、人間誰でも自分が善い人だと思いたいのです。「私は善くない人、悪い人」と言う者はめったにありません。
 
アメリカの教会を牧会した間、私は長年刑務所の訪問を毎月しました。教会の会員の息子が殺人で投獄され、私は彼に会いに行きました。行く度に彼は自分の無罪を主張して、不正な判決を嘆きました。彼が犯した罪の証拠が沢山あったのに、最後まで「他人がやった」と言い張りました。結局、そのような犯罪を認めれば、自分が善い人ではない事を認める事になりますので、なかなか自白出来なかったと思います。
 
私達人間は「自分が善いのだ」と思いたいのです。また、回りの人々に善い人として思われたいでしょう。それは自己像の大事な一部ですから、「あなたは善い人ですか」と聞かれると、それに対して答えるとしたら、殆ど誰でも、「私は善い人だと思う」と答える事でしょう。
 
【聖霊の結ぶ実「善意」】
今日、聖霊なる神の結ぶ実の学びを再び始めたいと思います。今まで愛と喜びと平和と寛容と親切を学んで来ました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。つまり、キリスト者なら、神の霊は私達に宿って下さり、霊の結ぶ実、愛と喜びと平和など、そのものは自分のものになりました。しかし、その徳目を現す為、私達の内に聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。すなわち、神の助けでその賜物を生かす訳です。今朝は「善意」と言う徳目について一緒に考えたいです。神はキリスト者にその実をもう既に授けたのです。ですから、私達はその聖霊の結ぶ実「善意」を豊かに現すべきです。
 
エフェソの信徒への手紙2章10節にこの大事な聖句が記されています。

「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」


書かれた通りに、私達は善い業、つまり善意の業を行う為に神によって特別に造られました。迷わず言える事ですが、それは主から与えられた私達の目的と使命です。その事を通して造り主と救い主なる愛する神の栄光を現します。ですから、私達はこの徳目「善意」を特に注目すべきです。

2007年07月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

イエス・キリストの犠牲 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書15章33−39
 
【主イエスの受難】
私達の主イエス・キリストの受難記念日はもうすぐです。実は、今週の金曜日になります。主イエスの受難の全ての犠牲はあなたの為、私の為でしたので、この際、主の犠牲を改めて思案すべきだと思います。来週、いよいよイエス・キリストの復活をお祝いします。しかし、この受難がなければ、復活もなかった事でしょう。そして、イエス・キリストの十字架の死の意味が分からなかったら、その復活の意味と喜びも分かるはずがありません。ですから、今朝、主イエスの犠牲について一緒に思案したいと思います。
 
イエス・キリストの犠牲を考えるとき、すぐに残酷な十字架を思い出します。十字架に掛けられた間、イエスが言い尽くせない程、肉体的苦しみを経験されました。ローマ帝国の処刑の方法として、十字架の死は一番酷い拷問でした。普通の犯罪者は他のもっと速い方法で死刑に処されたのですが、国に対して謀反(むほん)のような重い罪を犯した場合、十字架刑を使いました。つまり、これ以上の厳しい刑罰がありませんでした。一日の拷問に限られなくて、死ぬまで大抵二日、三日程の時間がかかりました。あまり残酷なので、私達は主イエスの十字架の死の肉体的苦しみを十分想像出来ないと思います。

2007年04月01日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

「平和を実現する人々は幸いである」田村英典

聖書:マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

【平和を実現する】

今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」


何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。

まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。

勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。

聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。

2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

主イエスを怒らせる事 ウイリアム・モーア

マルコによる福音書11:12−19

【イエスの御性格と怒り】
私達は神の御子イエス・キリストを考えるとき、どんなイメージが心に浮かぶでしょうか。先ず、愛を説いた優しい人物である事を思い出します。例えば、小さい子供達を抱いて、彼らを祝福しました。また、主は数えきれない病人を憐れんで癒して下さいました。そして、主は許しを大事にして、「あなたがたの中で罪を犯した事のない者が、先ず、この女に石を投げなさい」と言われました。更にイエスは全ての侮辱に耐えて、復讐する気持ちがちっともありませんでした。実に、主は御自分の敵の為に命を捨てて下さいました。しかし、今日の御言葉を聞くと驚きます。確かに、今日の個所はちょっと変わっていると思います。何故なら、主イエス・キリストがいちじくの木を呪った事と神殿から商人を追い出した事は御自分の性格にあんまり合わない行動に見えるからです。 今日、与えられた御言葉は二つの出来事を語ります。先ず、主イエスは実らないいちじくの木を呪って、その木が枯れてしまいました。そして、それから主はエルサレムにある神殿へ行って、境内で商売をする商人と両替人を神殿から追い出して、その腰掛けをひっくり返しました。いくら言っても今日の個所は主の怒りをはっきりと現します。実は、その時、イエスはいきどうりに燃えていました。

ここでは問題点がありそうですね。と言うのは、怒りは罪ではありませんか。しかし、聖書の証によりますと、イエス・キリストは罪を一つも犯されないお方です。その故こそ主は私達の罪を償う事が出来ました。この矛盾した点についてどう解釈しますか。恐らくその道は怒りの正しい理解にあります。

【悪に対する怒り】
あるクリスチャン心理学者は怒りについてこのように書きました。「悪に対して怒りを感じられない人は実際に善について熱意があんまりありません。悪と不正を憎まない者は、正義の為の愛が疑わしいです。」その言明はエフェソの信徒への手紙にあるこの御言葉をよく説明すると思います。その御言葉は、

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」(エフェソ5:26)。

つまり、自己中心的怒りはいつも罪です。怒る事を通して自分の立場と権威を守る為であるなら、それは悪です。癇癪を起こす事や、怒りを持って下品な言葉を言う事や、個人攻撃と脅しなどはいつも罪です。しかし、私達は悪と罪と不正に対して怒りを感じるべきです。そうしないと、神の正義が分からなくなります。

2006年08月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書

神の手にいる ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書10章22−30節

【羊】
バイブル・クイズではないんですが、聖書の中でどんな動物が一番多く言及されていますか。牛ですか。ラクダですか。馬ですか。それともウサギですか。そうですね。その動物も聖書に載ってあるんですが、ある動物は遥かにもっと出て来ます。実は、今日の聖書の朗読は質問の手掛かりになります。やはり、聖書には全ての動物の中で、羊は一番多く言及され、羊という単語は500回以上の所に載ってあります。

羊はなぜ聖書にそんなによく出て来るものなのでしょうか。それは、聖書の時代のパレスチナの人々には日常生活を通してもっとも必要とする大事な動物であったからです。例えば、その毛で布を織って着物を作りました。その乳を飲み、何よりもその肉はおもな食肉となりました。そして、その皮までも色々なところで物を作るのに使われました。ですから、羊はお金のような物になって、何かを買う時、羊で払う事が出来ました。更に、人々は神殿で生け贄をする時、羊を捧げました。社会に羊はなくてはならないものでしたが、また何処にでもいる家畜でもありました。それで皆は羊の事がよく分かりました。誰でも羊の性格と特徴までも詳しく知っていました。ですから、聖書は羊と羊飼いをシンボルとして何回も、何回も用いています。

【主は羊飼い】
旧約聖書の詩編23編にはこの有名な御言葉があります。

「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。」

そして、預言者エレミヤを通して神はイスラエルの人々にこのように約束しました。

エレミヤ書23章3−4節「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れる事も、おびえる事もなく、また迷い出る事もないと主は言われる。」

イザヤ書40章11節にこの御言葉があります。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

このように、聖書には羊飼いを愛する神のシンボルに、そして、羊は神の民、私達を表します。

2006年07月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

十字架上のお言葉(その2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 ウイリアム・L・モーア

ルカによる福音書23章39-43節

【有名人物の最期の言葉】
有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ダヴィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死にぎわの言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかもない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉いと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」

先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。

先週私達は十字架上の主イエスの第一の御言葉を学びました。それは、御自分に罪を犯す者、また、御自分の敵の為の赦しの言葉です。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

とおっしゃいました。つまり、十字架の贖いを通してイエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも神から罪の赦しを受けられます。自由に主イエスの義を頂き、神の愛された子供のように受け入れています。その赦しの言葉が十字架上の第一の御言葉です。

【十字架上の第二のみ言葉:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】
今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。

2006年03月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

イエスに聞け ウイリアム・モーア

◆イエスの姿が変わる(マルコによる福音書9章2-8節) 2:六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、    

3:服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

4:エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

6:ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

7:すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

8:弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけ が彼らと一緒におられた。

【新約時代における父なる神の御声】
考えて見ますと、新約聖書に於ける天の父なる神の直接な御言葉は本当に僅かです。実は、新約聖書の証しによりますと、父なる神は二度だけ御自分の口を開いて下さいました。一度は主イエスが洗礼者ヨハネによって洗礼を受けた直後でした。マタイによる福音書に記されていますが、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた.その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、『これは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(3:16~17)。これはとても短い宣言ですけれども、父なる神はその僅か16字で最も大事な事を語られました。天地万物の造り主、唯一の全能の神はイエスについてこのようにおっしゃいました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」つまり、「イエス・キリストは私の愛する子、また私の心に適う者ですから、皆が彼に従うべき」と言う大事な御言葉です。

2005年07月24日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書