ローマの信徒への手紙

2013年12月1日、説教「私の福音」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研究生)

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2013121日、説教「私の福音」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研究生)

 

新約聖書:ローマの信徒への手紙1625 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

【教会の財産は福音】

皆さん。教会の財産の中で何が1番大切ですか。建物ですか。設備でしょうか。それとも会員数や出席者の人数でしょうか。教会の建物や設備がいくら素晴らしくても、人数が多くても、教会に福音がなければその教会は教会とは思いません。イエス・キリストの教会は福音というものの上に築かれています。

それが教会を教会らしくする1番大切なものだと思います。今福音を大切にしている人々が集まっている場所が教会だと思います。

 

私は10年前,短期奉仕者として日本に来たことがあります。

その時一つびっくりさせられたことがあります。ある日本の牧師先生から紹介されてある教会に行ったことがあります。

素晴らしい教会だと思いました。このような素晴らしい教会が日本にもあると私は本当に驚きました。それもホテルに教会があるということは。ホテルの牧師先生に紹介されその先生から言われた事は私には考えられないことでした。その牧師先生はただ結婚式のための牧師でした。教会もまた結婚式だけのための教会だったからです。その教会は私には教会ではありません。その牧師も牧師と言えませんでした。なぜなら福音を述べ伝える場所ではなく、福音を述べ伝える牧師でないからです。

 

【福音の栄光】

それでは福音とはいったいどういうものでしょうか。

福音とは何かを、パウロはローマの信徒の手紙全体を通して、教会を教会らしくする福音がどういうものかを説明しています。

パウロは1章から11章にかけて福音の真理と栄光について語っています。そして12章からは福音のためにクリスチャンはどう生きるべきかを話しています。今日私たちが読んだ16章25節から27節でパウロは福音の栄光が何であるかをもう一度語っています。

 

パウロは25節で私の福音と言っています。今日私はパウロが語っている「私の福音」とは一体どういうことであるか皆さんと一緒に考えたいと思います。

 

パウロが語っている「私の福音」すなわちパウロの福音はどういうものだったでしょうか。

 

【パウロの福音はイエス・キリスト】

1つ目、パウロの福音はイエス・キリストです。25節から26節を一緒に読みたいと思います。

ローマの信徒への手紙1625 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

パウロは「私の福音」すなわちイエス・キリストと25節で話していますが、パウロにとって、福音はイエス・キリストでした。パウロはイエス・キリストが救い主である事は福音だと語っています。

パウロはローマの信徒への手紙1章から救い主であるイエス・キリストがどういうお方であるかを詳しく語っています。

皆さんと一緒にパウロが語っている福音、イエス・キリストはどういうお方であるかをみましょう。ローマの信徒への手紙11節を共に読みましょう。

 

ローマの信徒への手紙11 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――

 

ここでパウロが話していることはなんでしょうか。神の福音のために選び出されたという言い方で自分がどうして使徒になったかを語っています。

 

続いて2節3節前半を共に読みたいと思います。

ローマの信徒への手紙12 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです。

 

ここでパウロが語っている福音とはなんでしょうか。パウロの福音は預言者たちが述べ伝えた神の御子イエス・キリストに関することだと言っています。

 

【イエス・キリストは真の人間であり真の神である】

即ちパウロの福音はイエス・キリストだと言うことです。イエス・キリストは長い間、預言者たちを通して神様から約束された人だと言う事をここで語っています。

 

続いて3節後半と4節を読んでみましょう。

御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。

 

パウロはここでイエス・キリストは肉によればダビデの子孫から生まれたと言い、イエス・キリストは真実の人間としてこの世に来られたことを語っています。また続いて聖なる霊によれば死者の中から復活された、力ある神の子としてと定められたと言い、イエス・キリストは真実の神様としてこの世に来られたことを語っています。

つまりイエス・キリストは真の人間としてまた真の神様として、この世に来られたと真の救い主だということを語っています。

 

真実の人間としてまた真実の神様としてこの世に来られたイエス・キリストこそが、真実の福音だと説明しています。

 

【わたしは福音を恥としない】

イエス・キリストすなわち福音に関してパウロは1章16節において次のように告白しています。

ローマの信徒への手紙116 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 

福音はパウロにとってどういうものだったでしょうか。パウロは「私は福音、イエス・キリストを恥とはしない」と言います。

パウロがそのように話すことができた理由はなんだったと思いますか。

 

それは福音とは信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。

皆さん、私たちはクリスチャンだと言われ呼ばれています。パウロのようにイエス・キリストが私たちの福音だと言うことができるでしょうか。

真の人間として、真の神様としてこの世に来られたイエス・キリストが私たちの救い主だと言うことができるでしょうか。パウロのように私は福音を恥としない、思わないということができるでしょうか。

 

【ローマ帝国とその文化】

パウロはこの手紙をローマにいるクリスチャンたちに読ませるために書きました。

 

この時、皆さん、ローマはどういう国だったでしょうか。ローマ帝国は非常に強い軍事力を持っていました。その力で多くの国を征服して、その国から多くの宝石や宝ものを強奪して豊かになった国です。またローマは世界最高の哲学体系を発展させた国でもありました。

しかし皆さん次のようなことを知っているでしょうか。

ローマの哲学によって救われた人は1人もいません。多くの宝石や宝物や軍事力はただ独りの人の人生を変えたことはありませんでした。

 

パウロは福音を持ってローマの人びとに次のように言います。「私は福音を恥としない。福音はユダヤ人にもギリシャ人にも信じるものすべてに救いをもたらす神の力である」。

パウロの福音はイエス・キリストでした。

パウロは一生をとうしてイエス・キリストは救い主である事を述べ伝えました。パウロはこのイエス・キリストを恥とは思いませんでした。皆さんが知っている福音はどういうものでしょうか。それはイエス・キリストではないでしょうか。

 

使徒言行録4章12を一緒に読みましょう。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

             

またヨハネによる福音書14章6を一緒に読みましょう。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 

福音の核心、福音の唯一の焦点はイエス・キリストです。イエス・キリストのみがすべての人間を救ってくださることのお出来になる真の人間です。

 

皆さん、パウロのように私たちもイエス・キリストを永遠の救い主として持ってみませんか。また福音を恥と思わないで大胆に隣の人々に述べ伝えてみませんか。

 

【天地創造の前に建てられたご計画】

二つ目、パウロの福音は神様が天地創造の前に建てられたご計画です。

 

福音はある日、突然に空から降ってきたものではありません。

神様は天地創造の前に福音を準備しておかれました。

 

神様は人間をお創りになったとき人間が自分の自由意志を乱用して神様に背を向けて神様から離れることを知っておられました。この人間の罪を許してくださるために、神様はどう言うご計画をお立てになったでしょうか。それはイエス・キリストをこの世に遣わして十字架の死を通して私たちに新しい命を与えてくださるというご計画です。これが神様が天地創造の前に人間をお造りになる前に与えられたご計画です。

 

【世々にわたって隠されていた福音】

パウロは今日読んだ箇所で世々にわたって隠されていたと言ってます。天地が創造される前、万物が創造されるまえ、長いあいだ福音は隠されて来ました。長いあいだ隠されてきた神様のご計画、即ち福音は今どうなっているでしょうか。

26節を一緒に読みましょう。

1626 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

福音は世々にわたって隠されていた秘められたご計画でした。しかしその福音は今や顕されたとパウロは語っています。即ち奥義が啓示されたのです。

 

もっと簡単に言うと救われる道が私たちに明らかに啓示されたということです。皆さん。福音は難しいことではありません。この世には難しい哲学があり、むずかしい本もたくさんありますが福音はむずかしいものではありません。

福音は抽象的なものでなく具体的なものです。どのような人も分かることができるのが福音です。福音は誰もやさしくわかることができるように私たちに提示されています。

 

今私たちは神の福音に触れられるようになり、このことによって私たちは福音を読めるようになり聴けるようになりました。この福音によって私たちは救われて新しい命を受けるようになりました。

 

皆さん。神様は天地創造の前に私たちを救うご計画を建てられました。これがパウロが今言っている「私の福音」と言う意味です。なんと偉大な福音でしょうか。この偉大な福音は今私たちのものです。神様は私たちがこの福音を持って生きることを望んでおられます。

そしてこの福音を隣の人に伝えることを望んでおられます。

 

【福音は全ての人への祝福】

三つ目、パウロの福音は祝福です。

パウロは福音はクリスチャンに限らず、クリスチャンでない人にも祝福になるものだと言っています。

皆さん、どうしてクリスチャンではない人にも、クリスチャンにも福音が祝福になることが分りますか。その答えは26節にあります。

1626 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。

 

【信仰による従順】

26節でパウロは信仰による従順に導くためと言っています。パウロが言ったこの言葉を通してクリスチャンになった人々になぜ福音が祝福になるのかが分かるようになります。

神様がこの世にイエス・キリストを遣わしてくださった理由は何だと思いますか。それはただ私たちを救う事のためだけだと思いますか。

 

真の福音は私たちを救ってくださることだけでは終わりません。神様の救いのご計画はイエス・キリストを通して私たちが救われることと、神様の御前で私たちが従順になるように導くことです。ですから真の福音とは私たちの罪を許してくださるだけでなく、同時に私たちが神様のみ言葉に従順になるように助けてくださるものです。福音がなければ私たちは神様に従順になることができません。

 

福音があるから救われた私たちが神様に従順に従うことができるのです。

ですから私はパウロの福音はクリスチャンに祝福になることができると言いたいのです。

 

【神様を知らない異邦人が救われること】

ではなぜクリスチャンでない人々に福音は祝福になるでしょうか。パウロは26節でこのように言っています。すべての異邦人に知られるようになりました。つまり神様を知らない異邦人たちが福音によって救われるようになったということです。

 

神様を知らない異邦人がイエス・キリストによって救われていることこそが、真の恵みでは無いでしょうか。ですから私はクリスチャンでない人にも福音は祝福になると言いたいのです。

 

【幸せな人生とは】

皆さん。幸せな人生とはどういうものでしょうか。

パウロの表現で言うと神様に従順に従うことです。逆に幸せでない人生とは神様に従順に従わないことでは無いでしょうか。

多くの人が神様のみ言葉を聞かずに自分の好きなように生きること、そのことが幸せな人生だと思っているのです。

 

このような人生の最後における結末は何だと思いますか。

無駄な人生、迷った人生、無意味な人生ではないでしょうか。それは空を飛ぶ鳥は空の中にいることだけで自由になることができます。空の気流に従って羽ばたくとき、鳥は本当の自由と幸せを感じます。

海の魚は海の中にいるとき、波に従って泳ぐとき魚は本当の幸せを感じると思います。

皆さん。人間にとって本当の幸せなんでしょうか。神様に従って生きることでは無いでしょうか。

 

【ある神学者の回想】

アメリカの有名な神学者ボルドウィンが福音について次のように話しました。

私は20代の時、様々な宗教や哲学を勉強しました。それらの宗教や哲学に比べてキリスト教の福音は単純すぎることに気がつきました。

福音は人生をかけて信じるほどのものではないと思いました。しかし30代に、私が志した宗教や哲学は私の人生の悩み苦しみを解決する答えを与えてくれませんでした。

 

私が迷っているうちに福音は私に近づきました。40代に私は福音を信じて人生の様々な問題と戦っている内に、私に福音の力がつきました。その時、私にとって福音は偉大なことになりました。

50代の時、私はこれまで築き上げたものが崩れてしまったので、人生の真の意味はなんだったのかと悩みました。その時福音は私に残っていたもので一番大切なものになりました。

60代に私の友人たちが1人ずつ、天に召されると、私の手にあるものが1つづつ無くなっていく中で、私が頼ることができるのは福音しかありませんでした。

 

福音はもはや単純なものではありませんでした。福音は奥深いものでもなく大切なものでもありませんでした。福音は私に残った唯一のもの、私の人生の全てになりました。

 

皆さん。このようなことが福音の祝福ではないでしょうか。

福音はクリスチャンでない人々に救いを与えてくださる唯一のものであり、クリスチャンになった人々が神様に従順になることができるように助けてくださるものです。

 

更にクリスチャンには信仰が固くなるように導いてくださるものです。

この世で誰がこのような祝福を与えてくれることができるでしょうか。ただ天地万物を創造された神様を通して与えてくださることができます。

 

【私の証】

私の証を少ししたいと思います。

私は特に貧しくもなく裕福でもない平凡な家庭に生まれました。私が子供の頃、未来に二つの夢がありました。

一つはお金持ちになる事でした。お金が沢山あれば何でもできると思っていました。特に友達が持っているものが欲しかったので、それを手に入れたかったのです。

その時親に言って返って来ることは叱られることだけでした。

 

二つ目の夢は世界で有名人になることでした。有名人になればお金持ちになるのは当然だと思ったのです。

 

しかしある日、私に福音が聞こえてきました。私が福音を聞いてイエス・キリストを救い主として受け入れた時に不思議なことが起こりました。私の二つの夢が消えてしまったのです。私はイエス・キリストに出会って以来いちどもお金持ちになりたいと思ったことはありませんでした。イエス・キリストが無駄な夢を取り除いてくださったからです。

 

私は福音のために熱心に働いているうちに神様が私に必要なことを満たしてくださいました。

ある時は溢れるほど豊かに与えてくださいました。私は福音によってもうお金には興味がないと告白するようになりました。神様は私が有名人になる夢を取り除いてくださいました。

私は福音を受け入れて以来、一度も地位や名誉を求めたことがありません。

勿論、今からもそのような道を歩み続けたいと思います。

しかし私には一つのの夢があります。それは福音です。福音は、私の人生を通して、私が奉仕している教会を通して、大勢の人々に福音を伝えることが私の夢です。

 

旧約聖書ハバクク書2:14には 水が海を覆うように/大地は主の栄光の知識で満たされる」

私を通して、水が海を覆うように主の栄光が日本全土に満たされるようになることが私の夢です。

 

全ての日本の方が口を合わせて天地を創造された神様に栄光と讃美を捧げることを見ることが私の夢です。私はこの願いやビジョンを持って教会を築きあげたいと思っています。

 

福音を恥としない。福音を恥としないと言う人々が集まって希望がない人々に福音は述べ伝える教会を築き上げることが私のビジョンです。

 

1年間私は神戸改革派神学校で色々な事を勉強しました。

もう一年が過ぎました。来年3月になると滋賀県に戻らねばなりません。今からそろそろ戻る準備をしなければなりません。私は滋賀県で何をしたいか。それは一つのことだけです。私の生き方を通して福音が伝えられることです。神様にたくさん用いられて福音を知らない人に神の福音を述べ伝えることができるように、祈って頂ければ幸いです。

 

【お祈り】

愛する天のお父様。今日御言葉を通してパウロが告白している福音はどういうものであるかを考えてきました。

福音はイエス・キリストです。イエス・キリストは私たちを救ってくださるためにあなたが遣わしてくださったお方であることを私たちは信じます。

このイエス・キリストを私たちの一生を通して隣の人々と分かち合うことができるように私たちを強めてください。

12月に入って忙しくなると思います。 12月には全国でも色々なクリスマス集会が持たれます。あなたの願いは集会を通してイエス・キリストの救いが述べ伝えられることと信じます。様々なすクリスマス行事を通してあなたの救いと愛を分かち合うことができるように私たちを強めてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



2013年12月01日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

2013.8.4.説教「私は福音を恥としない」赤石めぐみ先生(伊丹教会)

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20138.4.説教「私は福音を恥としない」赤石めぐみ先生(伊丹教会)

聖書:ローマの信徒への手紙1

16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 

説教要約(文責近藤)

 

【わたしは福音を恥としない】

使徒パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りました。西谷は因習の強いところだと思いますが、そのような土地で「福音を恥としない」とは、クリスチャンとして福音に生きることは恥が多いことだと言うことでしょうか。

 

今日はこの福音とは何かを考えてみたいと思います。

 

今日のローマの信徒への手紙の少し前のところ一章2に「この福音は、神が既に聖の中で預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです」と書かれています。

 

この福音とは御子に関するものであると分かります。聖書には4つの福音書が書かれていますが、イエス様の生涯の物語だけが福音でしょうか。

 

【異邦人を信仰による従順へと導く】

使徒パウロは、この福音は「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました(ローマの信徒への手紙1章5)」と語ります。異邦人を信仰による従順へと導くためということも福音は含んでいます。

 

すべての異邦人を信仰による従順へと導くため愛を受け使徒とされたとパウロは言ってります。

 

この異邦人の中にイエス・キリストのものとなるようにされたあなた方もいるのですと書かれたように、西谷に居る私たちも同じく異邦人であります。福音にはこのことも含まれると思います。すなわち異邦人を信仰による従順へと導くこと、それはイエス・キリストのものとなることです。

 

【福音は神の力である】

「福音は信じるものに救いをもたらす神の力」と言われます。福音は力を持っていると

いうことが感じられると思います。

 

パウロはコリントの信徒への手紙一18「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とよく似た言葉を語ります。

 

「福音」とこの「十字架の言葉」とはどう違うでしょうか。

福音が十字架の言葉となって私たち救われる者には神の力だと言います。

 

【御子の御生涯】

福音とは十字架と復活だと思います。

主イエスの御生涯を具体的に思い浮かべてみたいのですが御子は正しいお方であるにもかかわらず、すべての人間の罪のために身代わりとなられた、身代りとなって十字架の辱めを、またその肉の苦しみを受けられました。正しい人がこのような理由なき苦難に遭わせられたら私たち人間はどう反応するでしょうか。

 

十字架は悔しい恥ずかしいことです。御子は正しいお方であるにもかかわらずその辱めを受けてくださった。もし自分がそうだったらそういう生き方に耐えられるでしょうか。

 

しかしパウロはそれを、すなわち福音を恥としないと言いました。軽々しく福音を恥としないとは言えないと思うのですがパウロはそう言い切ります。主イエスは死んで終わられない。復活され今も生きておられる事をパウロは知っていたのです。それでパウロは主の生き方を恥としない、主の死の迎え方を恥としないと言い得たのです。

 

福音とはイエスの生き方に倣うことです。パウロはローマの信徒への手紙6章で5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と言います。

 

私たちが自分の十字架を背負って、敵を許すことのできた主イエスに従うとき主の復活にまたその救いにあやかれることができるのです。

主が示された生き方が福音です。ここに神の義が啓示されて神が正しいとされた生き方があります。

 

主イエスの中に神の義が啓示されています。それが神が正しいとされた生き方です。主の死の迎え方を神は正しいとされました。

 

【信仰を通して実現される神の義】

ローマの信徒への手紙117 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。

 

「信仰を通して実現された」と書かれていることは誤解されやすいですね。信仰は私たちのものと言えないのです。神を私たちが自分の力で信じたとは言えないわけです。信仰は私から生まれるものではなく神様が私たちに信仰を与えて保ってくださるからです。

 

ギリシャ語聖書から「信仰」という言葉を見ますとこれは「アーメン」と書かれています。「アーメン」とは真実ですとか、その通りですという言葉でいつも祈りの終わりに使うことばであります。

信仰は神様の真実から神様の真実へ、神様の確かさから神様の確かさに至るのです。信仰は徹頭徹尾神さまの確かさから生まれる出るものです。神が本当におられるから神は確かなものとされると読めるものですね。私たちの中には正しさは全くありません。主を信じても罪が残ります。自分を捨て、神が救いを達成し、全うさせてくださるという生き方がここに書かれています。

 

【義人は信仰によって生きる】

最後に「正しいものは信仰によって生きる」ということについて考えましょう。

これは旧約聖書のハバクク書2章からの引用です。

 

ハバクク書24 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

 

このハバクク書1章の始めには2 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない」とあり、ここで預言者は「私が助けを求めるのにあなたは聞いてくださらなかった。神は正しい人を助けてくれない」と嘆くのです。

 

【たとえ遅くなっても待っておれ】

ハバクク書234節には3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。

 

ここでは「たとえ遅くなっても待っておれ」が神の答えです。「しかし神に従う人は信仰によって生きる」。すぐに救いは来ない。私たち人間には正しい人はいないのです。神によって神の救いを待って生きる人が正しいとされる人です。

 

今も不法のはびこる世の中です。早く救いがきて欲しいと願います。しかし私たちには、この世に生きる生き方として主イエスの生き方が示されました。忍耐をもって復活の日を待つ、救いを待つ生き方を福音といいます。福音とはこの主の生き方を恥としないと言う生き方です。これが神の力です。神が救いを与えてくださる、永遠の命を待つ生き方、これが神の力です。主イエスの生き方は、人間的には悔しい耐えられないと思われる。私たちはこの生き方を恥として自分の正しさを主張するのです。

 

しかしパウロは主から与えられた生き方を多くの人に伝えたいと思い数々の手紙を書きました。十字架の生き方とその先に復活が待っている生き方を伝えたフィリピの信徒への手紙399 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」

 

フィリピの信徒への手紙317 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。

 

パウロが「今また涙ながらに」と言っていますが、キリストの十字架に敵対する生き方にすぐに戻らないようにとパウロは勧めます。そしてパウロに倣う生き方をを習って、すなわちキリストに倣ってほしい。福音を恥としない生き方を味わってほしいと思います。初めにパウロが言った「私は福音を恥としない」とは簡単な言葉ではないと思うんですがパウロがまだ見ぬローマの信徒たちに伝えたように西谷の人たちにも解ってもらえるようこの伝道を続けたいと思います (終わり)。

2013年08月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「神からの義」ウイリアム・モーア2011.4.3

聖書;ローマの信徒への手紙1章16−17

 

【受難節】

私たちの受難節の旅路が大分進んで参りました。後2週間で受難週に入り、そして24日のイースターに私たちは大きな喜びをもって主イエス・キリストの復活を全世界のキリスト教会と共に祝います。

             

今の受難節に私たちには必要な心の準備の機会が与えられています。すなわち、自分にとって主イエスの十字架の死の意味を新たに覚え、また、唯一の救いの恵みをより深く経験します。言うまでもなく、主イエスの十字架の意味が十分に悟れないと、イースターの蘇りの喜びは不完全なものになります。ですから、今日御一緒にキリストの福音の根本的になる事についてもう一度学びたいと思います。

 

その目的を果たす為に今日与えられた御言葉はとても相応しいです。ローマの信徒への手紙は聖書の中でどこよりも神の福音と我々の信仰の内容をきちんと説明します。使徒パウロは大昔この手紙をローマにある教会に書きましたが、神の聖霊の導きによりそのメセージは全世界の教会の為の大事な御言葉になり、キリストに従う者私たちにも欠かさないお便りになりました。

 

2011年04月03日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙

「生ける生け贄」ウイリアム・モーア

 

聖書;ローマの信徒への手紙12章1−2

 

【新大久保駅での尊い犠牲】

丁度十年程前の出来事ですが、皆さんも覚えていると思います。それは東京の山手線の新大久保駅で、飲み過ぎの男の人が線路に落ちてしまい、ホームに上がれませんでした。その事を見たカメラマンである関根四郎さんと韓国人の留学生イ・スヒョンさんは直ぐにホームから線路に飛んで、男の人を助けに行きました。その二人は一生懸命にどうする事も出来ない男の人を安全にホームまで持ち上げようとしましたが、その瞬間、駅に入ってきた電車は止まる事が出来なくて三人をはねて即死でした。

 

その事件は全国ニュースの一面記事になり、赤の他人を助けに行った二人の方が英雄になりました。森首相も葬儀に出席し、彼等の勇気と献身を高く褒めました。多くの人々はその素晴らしい模範によって感動され、記念碑を建てる為に献金しました。また、その事件を覚える為に日韓共同の映画が作られました。更に、この間も事件10年を記念して、立派な式が行われ、コンサートもありました。

 

二人の英雄は自分の事を忘れ、隣人の命を救う為に命を非常に危険なリスクにさらして、結局、その危機で死に、自分の命を捨てました。当然、私たちはお二人の献身と勇気を畏れ敬います。

 

2011年02月27日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「神はおられるのか」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師

淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師


聖書:ヨハネ福音書1章14~18

14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のこ とである。」 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。  


【神はおられるのか?】
今朝は、神はおられるのか、という根本的なことをお話させていただきたいと思います。
一体、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。私は、20歳の時クリスチャンになりましたが、その前はこのことでかなり迷いました。もし神が本当におられるのなら、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
 
しかし、神が存在しないのなら、そういったことは全くナンセンスです。存在もしないのに、存在するかのように信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。ではどちらなのでしょうか。どちらでもないということは、あり得ません。必ず、どちらかなのです。しかし、それが分らず、かつては私も随分迷いました。
 
いずれにせよ、これは私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかということにも関る重大なことです。
そこで幾つかの点から見てみたいと思います。

2009年10月25日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「神を愛する者の幸い」淀川キリスト教病院 田村英典牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章28節

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。


 
【万事が益となる】
今朝は、多くのクリスチャンに愛され、彼らを力づけている御言葉の一つ、ローマ8:28に注目します。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」無論、万事がそれ自身で勝手に益となるように働くのではありません。神の摂理によってです。
 
それにしても、ここで言われていることはすごいと思います。これは、前後の文脈、例えば、17節「キリストと共に苦しむ」、18節「現在の苦しみ」、26節「弱い私たち」、31節「誰が私たちに敵対できますか」などから分りますように、信仰上のことで様々な苦しみを味わっていたローマ在住のクリスチャンたちを励ますために、紀元56年頃、書かれたものです。彼らは既に信仰の戦いをしていました。しかし、今後もどんな戦いや苦難が待っているか分りません。それに対して不安を感じるのは当然でしょう。そういう彼らに、パウロは聖霊に導かれて書きました。

2009年09月20日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「迫害に遭っても喜ぶ」マタイ福音書5章11~12 淀川キリスト教病院牧師 田村英典

淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:マタイ5章(山上の説教)

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆幸い

3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」


【迫害を受けるクリスチャンの反応】
マタイ5章の冒頭にあるイエスの教えから、真のクリスチャンとはどういう者かを学んでいます。イエスは3~10節で8つの側面からそれを描かれますが、その最後は10節

「義のために迫害される」


という点です。今日の11、12節は10節の続きであり、補足説明と言えます。

2008年08月10日 | カテゴリー: ヘブライ人への手紙 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

私達はどのような神に仕えていますか ウイリアム・モーア宣教師

聖書 燃え盛る炉に投げ込まれた三人
ダニエル書3章8−30

8:さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、9:ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。10:御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。11:そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。12:バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」

13:これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。14:王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないとい うのは本当か。15:今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」

16:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。17:わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」19:ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。20:そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。21:彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。22:王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。23:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。24:間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」25:王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」26:ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。27:総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。28:ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。29:わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのよう  に救うことのできる神はほかにはない。」 30:こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。


【最近の恐ろしい出来事】
最近新聞に大きく取り上げられたニュースです。 「八王子殺傷、現場近くで包丁購入『誰でもよかった』。 消費者物価1.9%上昇、92年来の上げ幅。 千葉で民家火災、焼け跡から母子4人の遺体。 秋葉原通り魔事件、男が通行人や警察官17人を車ではねて刺す、3人死亡。 東北地方で震度6強地震。 14歳が東名高速でバスジャック。」

2008年07月27日 | カテゴリー: イザヤ書 , ダニエル書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

 悪から善を ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書27章32−56

◆十字架につけられる  32:兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33:そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34:苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめた だけで、飲もうとされなかった。 35:彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36:そこに座って見張りをしていた。  37:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書い た罪状書きを掲げた。 38:折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 39:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40:言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41:同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42:「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43:神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わた しは神の子だ』と言っていたのだから。」  44:一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

◆イエスの死
 45:さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47:そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48:そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49:ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
 50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51:そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52:墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
 53:そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54:百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55:またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56:その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 


【受難週】
今日で私達と全世界の教会は受難週に入ります。イエス・キリストが受難を前にエルサレムに入った日曜日からの一週間をキリスト者は特に主の十字架の貴い犠牲を新たに覚え、その意味と恵みについて思案します。私達は受難週の際、主イエスが払った犠牲に集中すべきです。何故なら、来週の主の日にイエス様の復活をお祝います。


2008年03月16日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

罪を犯す時 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネの手紙一1章5−2章6
 
【だれの奥さん?】
ある男の人が急に耐えられない程、神経質になり、慌てて、掛かり付けの医者へ飛んで行きました。彼は、「私は今日、一日中精神的不安定で、ノイローゼになってしまいそうです。その為に何か良い薬がありますか」と医師に言いました。医師は、患者の問題の原因を知る為、「最近、何か気を転倒させる事がありましたか。例えば、生活に大きな変化があったのでしょうか」と男の人に尋ねました。男の人は、「実は、今朝、この手紙が届いて来ました。」そして、彼は手紙をポケットから出して医者に見せました。その手紙には男の人に対して色々な激しい事が書いてありました。そして、手紙の最後にはこの脅すような言葉があったのです。「もし家の女房との交際を止めないと、あなたは命が無い」と書いてありました。
 
医者は、「あなたの問題の解決は簡単です。常識ですが、手紙を書いた人の妻とこれから会わない事ですね。その行為を早速止めたら、どうでしょうか。」しかし、そのアドバイスを聞いた男の人はあんまり喜ばなかったのです。「手紙をよく見て下さい。送り主は本当に馬鹿ですよ。何故なら、彼は自分の名前を書きませんでした。彼の名前が分からないと、僕はいったいどうして、その妻の身元が分かるはずですか。どちらの奥さんの事でしょうか。」
 
【古い、罪のある自分】
「早速止めたら、どうでしょうか。」ただ止めるのは良い事ですが、ある時、止める事は私達にとって簡単ではありません。私達、皆は神と人間に対する罪を犯す事を完全に止めたいと思います。キリスト者としてそれは私達の目標であります。神の光の中で歩んで、私達の生活の全ての事を通して主を喜ばすのは私達の最大の使命です。しかし、私達一人一人の中の古き、自然の人間は罪を好んでいます。神によって造り変えられた新しい私達の性質が罪を憎みますが、古い性質は罪に引き付けられています。その結果、罪は私達の魂に対して攻めてきます。

2008年01月20日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

新しい年の為の新しい態度 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙5章1−5
 
【新しい年への期待と不安】
明けまして、おめでとうございます。あっと言う間に2007年が終わり、新しい年、主イエス・キリストの2008年になりました。更に、二週間前のクリスマスで、新しい教会暦年が始まりました。この新しい年の玄関に立つ私達はどう言う気持ちでしょうか。2008年は2007年より優れたものになると言う期待がありますか。それとも、2008年に入ることに、何よりも不安を感じていますか。経済的心配や家庭の事の悩みや健康上の問題などの為に心が重いのでしょうか。また、これから、どうなるかを思い煩っているのではないでしょうか。
 
【何事にも揺がない態度】
実は、私達は、この世の中の多くの事を変えられません。例えば、多くの場合、経済的状況と健康の状態は私達の管理を離れています。更に、私達は人の行動と偶然の出来事と事故もコントロール出来ない場合が多いです。しかし、誰でも少なくとも一つの事をいつもコントロール出来るはずです。そして、その事は生活に、健康や経済や不幸な出来事よりも遥かに重要であります。何といっても、その事は私達の態度です。私達が示す態度は生活の豊かさに何よりも大事であります。育てられた家族や学歴や物質的状況や仕事や失敗や成功などは人に強い影響を与えるけれども、自分の日常生活においての態度の影響は最終的にはそれらの事に必ず勝ちます。

2008年01月06日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

占星術の学者達から学ぶ事 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マタイによる福音書2章1−12節
 
【東方から来た占星術学者】
今日の御言葉に於ける占星術学者達の物語は神秘に包まれています。と言うのは、その人物の事についてあんまり知られていません。聖書には彼等の 国と人数、また名前さえも載ってありません。ただ、「占星術の学者達が東の方からエルサレムに来た」と記されています。ですから、長年にわたってその学者達について伝統が結構生じて来ました。例えば、彼等は主イエスに黄金(おうごん)、乳香(にゅうこう)、モツ薬の三つのお贈り物を献げたので、恐らく学者達三人で来たと思われますが、聖書を注意深く読んで見ると、それは確かな事ではありません。また、国はペルシア、つまり現代のイランと言う伝統がありますが、聖書にはただ、彼等は「東の方から」来たと書いてあります。ですから彼等はバビロニアかアラビアから来た可能性もあります。伝統によりますと学者達の名前はガスパルと、メルチオルと、バルテャザルですが、実際にその名前も不明です。さらに彼等はラクダに乗って来たと言う固定的なイメージがありますけれども、それも憶測に過ぎません。
 
【占星術の学者とは】
「占星術の学者」と日本語に訳されたギリシャ語の原語は「マゴイ」です。マゴイはその時代の学問が一番優れた人物でした。色んな課目を学んだ彼等は、当時の学者、あるいは博士でした。彼等の優れた学問の故、中東の諸国でマゴイは国王の顧問になり、地位のとても高い者でした。そして、彼等が学んだ課目の中で天文学と占星術が重要でした。星と惑星の位置と運行によって人や国家の運命が分かると信じた彼等は常に夜の空を研究しました。

2007年12月16日 | カテゴリー: サムエル記下 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

神によって選ばれた民 ウイリアム・モーア宣教師

申命記7:6−8
ローマ人への手紙8:28−39
 
【予定論の誤解】
改革主義教会の教理の中で多分一番有名な教えは予定論だと思います。信者の聖化や神の主権や御言葉を解き明かす事のような他の改革神学の特徴よりも、予定論は良く知られているでしょう。アメリカでも我々長老教会と予定論はいつも人から関連ずけられます。人々は長老教会員と話すと、「じゃ、あなたは運命予定説を信じますね」と言われる事がよくあります。改革主義と予定論とは相伴って行くべきものですけれども、予定論はよく誤解されている教理だと思います。
 
予定論はいったい何でしょうか。具体的に信者にとってどんな意味を持っているのでしょうか。今、その事について一緒に考えさせて頂きたいと思います。
 
先ず覚えて頂きたい事は、改革主義キリスト者は予定論を信じません。それはつまり、私達の信仰の対象はその教理ではありません。予定論を信じるよりは寧ろ私達は唯一の全能の愛である神のみを信じ、頼ります。
 
【予定論は神の愛を表現する】
と言うのは、予定論と呼ばれる教理はキリスト者の歩みの中で経験された、神の愛を表現するものなのです。だからこそ、予定論は信じる事よりも、私達の神様の経験を一番良く説明する表現であるし、御言葉の証言も正しく表すものなのです。

2007年11月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 申命記 , 詩篇

「キリスト者と迫害」
淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:マタイによる福音書5章1~10節

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 

【キリスト者と迫害】
3節から始まるイエス・キリストの幸福の教えを学んで来ました。今日は最後の8番目、10節に進みます。本当は11、12節も関係していますが、今朝は10節だけを取り上げます。
まず前後関係から気づくことがあります。
第一に、これは3節から始まった一連の教えの最後で、いわば締めくくりです。つまり、クリスチャンを完全な形で描く上で、迫害に触れない訳にはいかないということです。厳しいですが、クリスチャンと迫害は切り離せません。
 
第二に、これは9節

「平和を実現する人」


についての教えの後に来ています。クリスチャンが神の御心に従い、平和を実現しようと努力した結果が、しばしばこの世から迫害だということです。悲しいですが、これが現実です。
 
第三に、この教えに付いている約束は3節と同じで、

「天の国はその人たちのものである」


と主は言われます。主はまず3節で人々の心を永遠の天国に向けさせ、またこの最後の教えでもう一度人々の関心を栄光の天に向けようとされます。
 
「迫害はある。だが忘れるな。あなたが受けようとしているものは、生れつきの人が如何にしても手に入れることのできない神の永遠の祝福、天の国である。当座は辛い。だが迫害は決して永遠ではない。あなたは永遠のものを受けようとしている。だから、忍耐して戦い抜きなさい」と励ましておられます。
 
以上、前後関係から簡単に見ました。もう一度10節を見ます。

「義のために迫害される人々は幸いである。」


これが既に永遠の天の御国に国籍をいただいている幸いな人の紛れもない特徴の一つなのです。
主は正直です。「私を信じたら、何もかもうまく行く。いやなことなどなくなる」とは言われません。それは大嘘つき、またサタンの言うことです。サタンはマタイ福音書4章8節でイエスを誘惑して言いました。

「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう。」


「これ」とは「世の全ての国々とその繁栄」だ。要するに、何でも思い通りになる、万事OKということです。しかし、これは嘘です。イエスは事柄を曖昧にされません。率直に事実を告げられます。「あなたに信仰の故に迫害はある。それが激しいか緩いかは、天の父の御心による。だが迫害を受けるなら、それこそ、あなたが天に国籍を持ち、永遠の神の国の住民であることの明確な証拠である」と主は断言されます。

2007年10月21日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

愛する神と悪の諸問題 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙8章28節
 
【偶然の悲しい出来事】
この間、ロスアンジェルス•タイムズと言う新聞でこの悲しい記事を読みました。記事の題は、「生まれたての赤ちゃんが流れ弾で殺された」とありました。「ベビーカーに寝っていた23日の新生児がロスアンジェルスのマッカーサー公園で流れ弾に撃たれました。日曜日の午後9時30頃、母親が赤ちゃんを公園へ連れたときに撃ち合いに巻き込まれました。三人のラテン・アメリカ系男性と屋台の主人との間で射撃事件が起きて、一人の男も銃で打たれました。彼は病院へ運ばれ、安定した状態で治療を受けています。しかし、赤ちゃんルイス•ガシアが午後10時過ぎに病院で死を宣告されました。当局は事件を調べていますが、犯人達とその動機はまだ不明だそうです。
          
公園の周辺には小さい売店と屋台が沢山あり、その殆ど全部はラテン系の人の経営です。事件の近くの店の店長が事件についてこのように語りました。「多くの家族が買い物と公園に、ここに集まって来るのに、 残念ながら、ここは危険な所です。 近辺は暴力で悪名になってしまいました。」
 
皆さん、このような悲惨な出来事を聞くと、その赤ちゃんの家族の悲しみと怒りを容易に想像出来ると思います。もし、自分の家族にそのような酷い乱暴があったら、もちろん悔しくてたまりません。産まれたばかり無邪気な赤ちゃんがそのように無意味に殺されたのは悲劇の中の悲劇になります。その事件はこの世にあるもっとも酷い悪の縮図であると思います。

2007年09月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ガラテヤの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記 , 詩篇

霊の結ぶ実:節制 ウイリアム・モーア宣教師

コリントの信徒への手紙一9:19−27
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【妻の犠牲と半額割引飛行】
アメリカの1920年頃、飛行機はまだ珍しい時代、あるパイロットは自分の風防のない小型飛行機で国中を巡回しながら、儲ける為に他の人を乗せていました。ある日、牧師とその奥さんが飛行場に来て、ひと乗りしてくれるように願いました。しかし、お金があんまりないから、聖職者割引にしてくれるように頼みました。すると、パイロットは、「聖職割引はないけれども、もし飛行機に乗ってる間に、お二人が黙って、口を何も聞かなかったら、半額で乗せて上げます。しかし、口を出せば、二倍ちょうだいたします」と提案しました。その二人はどうしても飛行機に乗りたかったので、すぐにその条件をのみました。それはあぶく銭と思ったパイロットは牧師と奥さんを飛行機に乗せ、早速離陸しました。そして、彼は色んな激しい曲芸飛行を実行し始めしました。ローラーコースターのように急速で空を上がってから、急降下しました。それから、飛行機を上下転倒して低く飛んで、橋の下を通りました。その激しい曲芸飛行をしたのに牧師とその奥さんは何も言わすに沈黙を守りました。パイロットは諦めて着陸に入ろうとする時、彼は言い出しました。「この飛行は私さえもぎょっとさせたのに、先生は何も言いませんでした。お二人の自制は大変驚くべきものです。」牧師はその事を聞いてこのように返事しました。「実は、飛行の中のある時点、私はもう少しで我慢出来なくて叫ぶところでした。」「それはどんな時でしたか」とパイロットに聞かれると、牧師は返事しました。「飛行機が引っくり返えて家内が陸まで落ちてしまった時は、さすがちょっとびっくりしましたよ。」
 
【聖霊の結ぶ実:節制】
今日は最後の聖霊の結ぶ実にやっと参りました。今まで、愛と喜びと平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和を学んで来ました。そして、最後に節制と言う徳目が与えられています。もう一度強調したいのですが、この「実」は賜物です。キリスト者なら、聖霊なる神は私達に宿り、その実を現す可能性を十分与えて下さいます。しかし、私達の内にいらっしゃる聖霊の働きを許さなければなりません。つまり、それぞれの徳目を毎日の生活に実行する意志が必要です。

2007年07月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙二 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

霊の結ぶ実:善意 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書10:17−22
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
 
【あなたは善人ですか】
皆さん、少し想像してみて下さい。もし電車を乗っている時、誰かがあなたの側に座り、突然、「あなたは善い人ですか」と尋ねられると、どう答えられますか。赤の他人にそのように聞かれると、多分びっくりするでしょう。又、恐らく、その人は正気かと疑うかも知れません。誰がそのような個人的な質問を知らない人に聞くでしょうか。しかし、もしその質問、「あなたは善い人ですか」に答えようとしたら、どう答えられますか。実は、人間誰でも自分が善い人だと思いたいのです。「私は善くない人、悪い人」と言う者はめったにありません。
 
アメリカの教会を牧会した間、私は長年刑務所の訪問を毎月しました。教会の会員の息子が殺人で投獄され、私は彼に会いに行きました。行く度に彼は自分の無罪を主張して、不正な判決を嘆きました。彼が犯した罪の証拠が沢山あったのに、最後まで「他人がやった」と言い張りました。結局、そのような犯罪を認めれば、自分が善い人ではない事を認める事になりますので、なかなか自白出来なかったと思います。
 
私達人間は「自分が善いのだ」と思いたいのです。また、回りの人々に善い人として思われたいでしょう。それは自己像の大事な一部ですから、「あなたは善い人ですか」と聞かれると、それに対して答えるとしたら、殆ど誰でも、「私は善い人だと思う」と答える事でしょう。
 
【聖霊の結ぶ実「善意」】
今日、聖霊なる神の結ぶ実の学びを再び始めたいと思います。今まで愛と喜びと平和と寛容と親切を学んで来ました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。つまり、キリスト者なら、神の霊は私達に宿って下さり、霊の結ぶ実、愛と喜びと平和など、そのものは自分のものになりました。しかし、その徳目を現す為、私達の内に聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。すなわち、神の助けでその賜物を生かす訳です。今朝は「善意」と言う徳目について一緒に考えたいです。神はキリスト者にその実をもう既に授けたのです。ですから、私達はその聖霊の結ぶ実「善意」を豊かに現すべきです。
 
エフェソの信徒への手紙2章10節にこの大事な聖句が記されています。

「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」


書かれた通りに、私達は善い業、つまり善意の業を行う為に神によって特別に造られました。迷わず言える事ですが、それは主から与えられた私達の目的と使命です。その事を通して造り主と救い主なる愛する神の栄光を現します。ですから、私達はこの徳目「善意」を特に注目すべきです。

2007年07月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

洗礼の恵み ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書28章16−20節
(川合兄弟姉妹受洗をまえに)
 
【大きい鍋】
ある小学校の先生はクラスでshow&tell、すなわち「見せて語る」為、生徒達に、それぞれの家族に宗教の代表的物を学校へ持って来るようにと言いました。そして、翌日ある男の子はダビデの星を持って来て、ユダヤ教徒にとってその意味と重要性を説明しました。今度はイスラム教の生徒は新月旗を持って、そのシンボルについて語りました。また、ある仏教の子供は教室の前に来て、小さい仏像を皆に見せて、その意味を説明しようとしました。そして最後に、ある女の子は台所の大きい鍋を持って来て、皆に見せたのです。生徒達も先生もその鍋を見て驚きました。
 
それはどう言う宗教の代表的物がさっぱり分かりませんでした。女の子はこう説明しました。「我々キリスト者は洗礼を大事にするから、教会にある洗礼盤を持って来ようとしました。しかし、それはあんまり貴重な物だと言われ、持って来られなかったから次善の物、この鍋を皆に見せる為、持って来ました」と言いました。
 
ここ西谷集会で2003年クリスマス礼拝時に森田兄弟姉妹の洗礼式を行い、皆がクリスマスの大きなプレゼントだと大喜びしたのをよく覚えています。それからもはや三年半になりました。そして、ここ西谷集会にまた神からの大きな喜びが与えられました。今日は川合御夫妻が洗礼をこの礼拝中に受けます。川合御夫妻が今日の日の為に祈りを持って一日一日を待っていらっしゃった事を私はよく知っています。私達も皆この日の為祈って、嬉しく待ち望んで待って参りました。
 
先程のストーリの女の子が言われた通りです。我々キリスト者は洗礼を大事にします。今日、川合兄弟姉妹は洗礼を受ける際に、私達既に洗礼を受けた者も、まだ受けてない者もその礼典の恵みと意味を新たに学びたいと思います。それによって、私達皆は今日の洗礼式の恵みをよりもっと経験出来ると思っております。

2007年06月24日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

霊の結ぶ実:喜び ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書15章1−12

◆イエスはまことのぶどうの木

  1:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3:わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4:わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながってい    る。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6:わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7:あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8:あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。  9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10:わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることに    なる。11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。


 

ガラテヤの信徒への手紙5章22−23

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」



【イエス・キリストに似るために】
今日、先々週から始まった「霊の結ぶ実」の学びを続けたいと思います。キリスト者になると、神の霊は私達に宿って下さいます。そして、霊の導きに従って歩むと言うのは、すなわち私達の内に霊の働きを許す事です。そして、私達キリスト者は「霊の結ぶ実」を現します。そのものは先程読まして頂いたガラテヤの信徒への手紙5章22−23に記されています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と書いてあります。毎日の生活にその実を現すと、私達はイエス・キリストに似て行って、キリスト者として相応しく生きられます。この霊の結ぶ実の学びを通して私達の内にいらっしゃる聖霊の全ての働きを許し、その霊の実をよりもっと豊かに結ぶ事が出来ます。

2007年05月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

私達の弁護者 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ヨハネの手紙一2章1−6節
 
 
【高価なシガーに保険を掛けたずる賢い弁護士】
 アメリカで実際に起こった事件です。ある弁護士が一箱の非常に高価なシガー、すなわち葉巻を購入しました。ちょっと信じがたいですが、その24本の葉巻を手に入れる為に1万五千ドル(約170万円)程の代金を支払いました。あんまり高かったので弁護士はそのシガーに火災保険をかけました。そして、彼は一ヶ月以内でその24本の高価なシガーを全部吸ってしまいました。そうすると、彼は保険会社に対して要求を起こしました。葉巻が一連の小さい火事で焼けてしまったと弁護士は主張しました。保険会社は弁護士が通常のようにシガーを消費したともちろん支払いを拒否したのです。しかし、弁護士はその判断を受け入れなかった為、保険会社に対して訴訟を起こしました。そして、驚くことに彼は勝ちました。裁判管は原告の主張が軽薄であると保険会社に同意しました。しかし、保険の契約書にはどのような火事は当たらないと言う事が詳しく載ってないので、残念ながら、保険会社は原告の要求を払う義務があると裁判官が述べました。その判決を受けると保険会社は弁護士にシガーの価値、1万5千ドルをちゃんと払いました。そして、保険のお陰で無料でその優れたシガーを楽しめたと弁護士は大笑いしました。
 
しかし、弁護士がその代金を受け取ると、保険会社は弁護士を裁判での証言に基づいて、すぐに放火罪で彼を逮捕させました。そして、弁護士は保険をかけられた資産を故意に燃やした罪で有罪判決を受けてしまいました。放火罪で彼は刑務所の24ヶ月と2万4千ドルの罰金を宣告されました。驚きますが、この事件は本当にあったのです。

2007年03月18日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

恵みの賜物 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙5章12−21
 
【何を問題とすべきか?】
皆さん、毎日、新聞を開いてニュースを読むと、その内容のおもなテーマは何でしょうか。ニュースの内容は色々ありますが、一つのテーマは他のテーマよりも、遥かに大きいです。また、私達はこの世を見ると、その同じテーマがいつも出て来ます。さらに、自分自身の人生と生活を振り返って見ると、不思議にそのテーマも明確になります。その大きなテーマはやはり「問題」です。新聞に載ってる問題はテロや、戦争や、温暖化や、犯罪や、核兵器の拡散などのようなものです。そのようなものがなかったら新聞は大変薄くなります。また、自分の人生を見ても、どの問題も大きなテーマになると思います。経済的問題、子供の問題、夫婦の問題、心の問題、仕事関係問題、健康の問題などです。次々とそのようなものに襲われると、人生はおもに問題の扱いで形成されているかのように思いがちです。
 
【何が一番大きな問題か?】
皆さん、私達の問題の中で何が一番大きいでしょうか。そのように聞かれると、「それは人によって違います」と答えるかも知れません。人々は様々な背景があって性格も違いますので、当然一番大きい問題が共通しません。また、ある時は一番大きい問題が解決されると、そのものの代わりに他の問題が一番のもんだいとなります。

2007年03月11日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

キリスト者の為のチェックリスト:その3 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ローマの信徒への手紙12章14−21節
 
【キリスト者に相応しい行動とは】
今月の説教で、私達はローマの信徒への手紙12章9−21を一緒に見て、この御言葉からキリスト者の為のチェックリストを発見しました。つまり、この個所には使徒パウロが私達の為に、キリスト者として為すべき事を教えて下さいます。イエス・キリストによって救われた罪人である私達は、その大きな主の哀れみと愛に答えて、毎日の生活に相応しい行動を現すべきです。そのキリスト者に相応しい行動が具体的にこの御言葉に載っています。一回目の説教で次のチェックリストの項目を学びました。

「人を心から愛する事、悪を憎む事、善から離れず事と、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う事」


です。そして、先週はこの項目を学びました。

「怠らず励み、霊に燃えて、主に使える事、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る事と、兄弟姉妹達の貧しさを自分のものとして彼らを助ける事に励む、旅人をもてなすよう努める事」


です。今日は最後に、六つの項目を一緒に学びたいと思います。今までの項目はおもにキリスト教会の中の行動を扱いました。つまり、信者の互いの振る舞いと信仰生活の事であります。しかし今日のチェックリストは大体において、教会の外の者に対する私達の行動です。すなわち、キリスト者として未信者の正しい扱いを教えて下さいます。
 
【あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい】
さて、14節を見て下さい。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」


原文を調べるとここでの「迫害」と言う事は信仰の故に迫害された事に限られていません。ここでの迫害は人から受けた全ての害が含まれます。例えば、身体的害や、精神的害や、経済的害などです。特に、繰り返された被害の事であります。キリスト者はそのような害を受けると、どのように反応すべきでしょうか。迷わずに こう教えられています。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」


文字通りに私達はその者を呪うどころか、祈りを持って、その者が祝福を受けるように神に祈るべきです。もちろん私達は迫害する人の上に神の祝福を祈りながら、復讐を企てはいけません。実は、この御言葉の意味は文字通りの意味より広いと思います。つまり、ただ迫害する者を呪わず、自分の祈りにその者の上に神の祝福を願うだけではなく、積極的にその人の為に善い行動をすると言う意味もあります。ただ悪に悪を返さない事だけでは不十分です。迫害する人に善い行いを通して自分の手を伸ばす必要があります。

2007年02月25日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

キリスト者の為のチェックリスト:その2 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙12:9−13

【天国に入るには】
ある人が亡くなって天国の門に着きました。そうすると、主イエスの弟子ペトロは彼を迎えに来てこう言いました。「天国に入るには一千点が必要です。あなたは何点をお持ちでしょうか。」そして、その人は、「何点を持っているかと聞かれると、困りますよ。溜まった点数の合計はさっぱり知りません。」「それでは、あなたの生涯を調べて見ましょう」とペテロが返事しました。「あなたが実行した全ての善い行いを教えて下さい。私が点数を計算します。」そうすると、その人は一生懸命に自分が行なった善い行動を思い出し、全てをペテロに語り始めました。小さい親切から大きい善行まで一つ一つを数え上げました。彼がやっと終わった時、ペテロはその点数を計算して、全部で百点しかないと知らせました。天国に入る為に一千点が必要なのに、ただの百点しか持っていないその人は大変がっかりしてしまいました。彼は、「やっぱりとても無理ですね。一生頑張ったのに、百点しか溜まらなかった」とペトロに言いました。「神の恵みでなければ決してこの所には入れないですね」と彼は呟きました。その事を彼の口から聞いたペテロは大変喜んで、こう言いました。「実は、神の恵みは九百点の価値がある。どうぞ、入って下さい。」
 
【神の恵みのみ】
我々キリスト者は神の恵みのみで救われ、神の恵みのみに頼ります。罪人である私達はいくら頑張っても私達の救いを勝ち得る事が出来ません。イエス・キリストを信じる事によって神の賜物、御自分の救いを自由に受けられます。使徒パウロが書いた通りに、

「私達は信仰によって義とされたのだから、私達の主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」


(ローマの信徒への手紙5:1−2)

2007年02月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「平和を実現する人々は幸いである」田村英典

聖書:マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

【平和を実現する】

今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」


何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。

まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。

勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。

聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。

2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

キリスト者の為のチェックリスト:その1ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ローマの信徒への手紙12章

9:愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 10:兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。  


【石鹸で十分】
皆さんの事はよく分かりませんが、私は年を取るに伴って、記憶力が少しずつ落ちて来ました。以前は良く覚えていたものが、今はよく忘れます。多分それは誰でも経験する老化の現れだと思いますが、時々忘れっぽい事で困ります。この間、会議の為に出かけました。二泊三日の旅なので、色んな物がいりました。鞄に詰める時、忘れ物がないように一生懸命に気をつけましたので、今回はきっと大丈夫だと思いました。しかし、翌日、宿でシャワーを浴びる途中、シャンプーを忘れた事に気付きました。どうしょうと一瞬思いましたが、幸いに宿の石鹸で十分間に合って、髪も変になりませんでした。実は、節約する為にこれからは石鹸で髪を洗っても良いと思いました。
 
これは小さい例ですが、もしいつか私は説教の原稿をうっかり家に忘れ、西谷に来るんだったら、私にも皆さんにも大変冒険になると思います。神の恵みは私には十分であると信じながらでも、出来るだけそのように神の恵みを試したくないのです。
 
【チェックリストの必要】
とにかく、私は忘れ事の対策としてチェックリストを書くようになりました。つまり、しなければならない事や忘れては行けない事などを毎日手帳に書き記して、よく参考します。そうしないと、大事な事を忘れる恐れがあります。

2007年02月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

眠りから覚める時が来た ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ローマの信徒への手紙13章11−14
 
【アメリカ滞在中の出会い】
今年の秋、アメリカの教会訪問中、色々な兄弟姉妹と会って、様々な素晴らしい恵みを受けました。沢山の信徒達の家に泊まり、主にあって貴重な交わりを持つ事が出来ました。その交わりの中、特に一つの出会いは印象深かったのです。それは今日から丁度二週間前の時でした。家内と私はサポートをして下さるノースカロライナ州にあるモントリート教会の主の日の礼拝を守りました。礼拝後、私達のすぐ後ろの席に座った三十代後半の男性が話をかけて来て挨拶を交わし、彼は私達に話を始めました。彼はその町の大学の教授で、音楽を教えているそうです。教授は二年前から、毎日頭痛があって、ついにあまりに酷くなった為、病院へ行って診察を受けました。そして、その結果は最悪でした。脳に悪性腫瘍が見付かり、手術をすぐ受けなければならないと、命が長くないと言われてしまいました。その上、手術が難しいので、受けても結果は全然保証されていないとまた言われました。話が出来なくなったり、麻痺になったり、さらに手術室で死んだりする事もあると告知されました。教授は若い家族があって、危なくても一つしかない希望の道、手術を選びました。

2006年12月03日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

「憐れみ深い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章7節

【真のクリスチャンの幸いとは】

5章3節からのイエス・キリストの幸福の教えの中で、今日は5番目、7節に進みますが、その前にイエスの教えを正しく理解するために三つの点を確認しておきます。第一に、これら一連の教えは、全て信仰により霊的に生れ変った信仰者が聖霊によって与えられる新しい特質を描いたものです。キリスト教信仰に生きる人はこういう人だということです。

第二に、これらは全体として適用されなくてはなりません。真のクリスチャンは3節「心の貧しい」、つまり謙遜な人ですが、同時に6節「義に飢え渇」き、9節「平和を実現」し、いいえ、 3~10節の全ての特徴を持っている人です。これらの内の一つを持っているだけで満足することは、主の御心ではありません。

第三に、これらは私たち自身の人間性と信仰を探り、私たちの心をテストします。これらを学んで「これは私の考えとは違う。私には合わない」というなら、それはその人がまだ本物のキリスト教信仰から遠い存在であることを意味します。逆に、これらの教えに自分を照らして見て、「あぁ、私はまだまだ信仰の薄い者だ。だが、これらは確かに真理だ。私もこうありたい」と心底願うなら、その人は本物のキリスト教信仰を持ち、救いの道を既に歩み始めています。このように、これらは私たち自身をテストします。以上、三つの点を確認しました。

2006年11月12日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」

ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。

「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。

最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。

次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。

2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

イエス・キリストは現在私の為に何を なさっていますか ウイリアム・モーア

フィリピの信徒への手紙2章18b−26節

【リストラされたあるサラリーマン】
あるサラリーマンが30年間忠実に会社の為に働きました。しかし、ある日突然リストラされてしまったのです。職場を失われた彼は年金を貰うにはまだ若いのであちこちへ行って新しい仕事を探しました。しかし、いくら探しても雇ってくれる人がいませんでした。そして、時間が経つとともに彼が貰った退職金が乏しくなり、生活が苦しくなりかけました。何かをしなければならないと思った彼は自分の甥の事を思い出しました。20年間、甥に会ってないですけれども、甥は実業家として成功し、結構盛んな会社を経営していました。仕方なく、彼はプライドを捨てて、働き口を得る為に甥を訪ねて行きました。しかし、頼むとこのように冷たくに言われました。「伯父さん、残念ながら、今は新社員を募集していません。」

そう言う事を聞くと彼はちょっと必死になって、 「肉親だから助けてくれ。あなたが五歳の時、私は魚釣りに連れてやったんじゃないか。覚えてるでしょう」と言いました。甥はそれを聞いてこのように返事しました。「そうですね、その事を覚えてますよ。御陰さまで今も魚釣りが好きです。実は、明日息子を連れて釣りに行く予定です。」

それを聞いて伯父さんは勇気づけられ、また言いました。「あなたは高校の野球をした時、私はいつも試合に行って応援したよね。覚えてるかい。」すると、「ええ、もちろんその事を覚えてますよ。伯父さんがいるからこそ励まされました」と甥が言いました。

そして、伯父は更に言いました。「大学の時、家の車をよく貸してやっただろう。夏休みに私の車で仲間と一緒に海に遊びにいったんじゃないか。」すると、「そうですね、伯父さんは本当に優しかったです」と甥が答えました。

話がうまく進むと思って、伯父は続けて言いました。「結婚した時、あなたがお金に困っていたので私は新婚旅行をプレゼントをした事も覚えてるわよね。一生のお願いだから、私をどうか助けてくれ。」

甥は少し考えこむように頭をうなずきながらこう言い始めました。「伯父さん、昔あなたがした事をもちろんよく覚えています。伯父さんは本当に気前の良い人でした。しかし、今になってちょっと問題があります。それは伯父さんは最近私の為にいったい何をしてくれましたか」と甥が平然と聞きました。

2006年07月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

私たちに語って下さる神 ウイリアム・モーア

ヘブライ人への手紙1章1−4

【聖書に於ける神とは?】
皆さん、「聖書に於ける神はどのような神なのか」と聞かれると、どう答えられますか。色々な答えが可能ですけれども、先ず「我々の神は永遠の万物の造り主、全能の唯一の神である」と言ったら正しいでしょう。つまり、神は宇宙の中の全ての物、私達人間を含めて、無から創造されました。そして、神の存在は始めもなければ終わりもありません、永遠の神です。更に、我々の神は唯一の神です。すなわち、この神以外に実際に存在する神がいません。また、真の神は全能の神ですから、御自分の力と知恵が限られていません。しかも、神は正義の神なので、不正と全ての罪を憎みます。聖書に於ける神はどのような神なのかと説明すると、以上のような事を言ったら良いと思います。しかし、真の神について一番大事な事はまだ言っていません。それは我々の神は御自分が造った被造物を愛します。

「神は愛である」

と聖書に記されています。(ヨハネの手紙一4:8)そして、その愛の対象は私達です。神は御自分にかたどって造られた私達人間を特に愛します。

【人を創造された目的】
実は、神が人間を創造されたのは特別な理由があったのです。それは私達との交わりを持つ為です。つまり、神は、御自分を人間に現す事によって、私達を祝福し愛する熱望を示しているのです。そして、私達を愛するから、私達に語って下さいます。

考えて見て下さい。もし自分が誰かを本当愛するならば、その人を無視出来ますか。ただ遠くから離れてその人を眺めるだけですか。もちろんそうではありません。人を本当に愛するならば、その人に関心を持って相手にする必要があります。つまり、コミュニケーションと交わりがいります。自分の愛をその人に表します。愛する神は同じように御自分の愛を現す為、私達に色々な方法で語って下さいます。我々の神は沈黙する神ではないのです。私達を愛するほどに、御自分を現します。

【宇宙生命体以上のすばらしいご存在】
現在、多くの科学者は地球外での理解力のある生命(生物)を探しています。電波望遠鏡を遠い銀河系に焦点を集め、宇宙人の話を聞こうとします。あるいは、人工衛星を宇宙空間に打ち上げ、地球外の生物の証拠を探します。実は、今までその方法で何一つ証拠は見つかっていません。

2006年06月18日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , ヘブライ人への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

十字架からの御言葉(その5,6):「渇く」と「為しとげられた」ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書19章28-30

聖書によりますと、イエス・キリストは十字架に掛けられた間に、七つの御言葉をおっしゃいました。 今日は5番目と6番目の二つの十字架からの御言葉を学びたいと思います。それは

「渇く」と「成し遂げられた。」

です。

【渇く】
先ず「渇く」を学びましょう。実は、先の四つの意味深い発言に比べると「渇く」と言う単純な表現はあんまり大した御言葉ではないかのように見えます。私達も何度もそのような言葉を言った事があるし、子供から聞いた事も結構あります。喉が渇いた事、誰でもその経験があります。人間の体重の約7割は水だそうです。そして、身体の正しい働きは水に頼っています。人間は食べなくても結構長く生きられますが、水が飲めないと大低数日が限界です。

【脱水】
私はカリフォルニアに行く度に山歩きをします。いつも泊る所はロサンジェルスの近い郊外になります。そして、そこには鹿と熊と山猫が出るMt.Wilsonと言う高い山があります。南カリフォルニアは乾燥した砂漠のような気候ですから、山歩きをすると、十分な水を持って行く事は何よりも大事です。そして、喉の渇きを感じる前に少しずつ水を飲む必要があります。そうしないと、脱水状態になって、倒れます。実は、山道に迷って脱水で亡くなる人も珍しくはありません。

十字架につけられたイエス・キリストは大変な渇きを覚えました。出血と厳しい日差しと比べられない程の苦痛の故に喉が酷く渇いて来て、「渇く」と言われました。実際に、誰でも同じ状態だったら、「渇く」と言って、飲み物を願うでしょう。間違いなく、主イエスの右と左に十字架につけられた犯罪人も激しい乾きに苦しめられていました。ですから、イエス・キリストの「渇く」と言う御言葉を通して、主は人間であることを確かめられます。主イエスは100%真に神でありながら、同時に100%真に人間でもありました。

【人間となられたイエス】
私とあなたのように痛みを本当に感じ、私とあなたのように喉も渇いて来ました。主は本当に人間である事はなぜそんなに大事でしょうか。実際に、イエスが人間を贖おうとしたのなら、イエスは人間にならなければなりませんでした。私達をイエスのようにする為には、イエスが先ず、私達のようにならなければなりませんでした。だからと言っても、全く清い人間だけが私達の代わりに罪の罰を受ける事が出来、私達を神と和解させて下さいます。イエスが渇きを覚えた事を通して御自身が人間である事は明白になります。真の人間として十字架の痛みと苦悩とを経験されました。「渇く」という主イエスの発言は人間として御自分の苦しみが現実なものである事を保証します。

2006年04月09日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書

十字架上のお言葉(その2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 ウイリアム・L・モーア

ルカによる福音書23章39-43節

【有名人物の最期の言葉】
有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ダヴィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死にぎわの言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかもない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉いと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」

先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。

先週私達は十字架上の主イエスの第一の御言葉を学びました。それは、御自分に罪を犯す者、また、御自分の敵の為の赦しの言葉です。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

とおっしゃいました。つまり、十字架の贖いを通してイエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも神から罪の赦しを受けられます。自由に主イエスの義を頂き、神の愛された子供のように受け入れています。その赦しの言葉が十字架上の第一の御言葉です。

【十字架上の第二のみ言葉:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】
今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。

2006年03月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました ウイリアム・モーア

テモテへの手紙二4章6-8

【告知】
この間、私はある人と共に死について話し合いました。私は牧師だから他の人よりも、恐らくそういう機会が多く与えられています。その時、相手の人は数カ月前に亡くなった家族の一員の事を語りました。実は、その方は亡くなる一年前に、自分が病気で死にかかっている事が分っていたそうです。それから話が、人は先立って自分の死を告知される方が良いかどうかと言うことになりました。自分の死が先立って分っていたら色々と準備が出来るので良い事もあると言いました。逆に、分らないと残りの時間を黒い雲のような状態で過ごさなくてもすむから良い面もあると話しました。皆さんはどうでしょうか。

【死刑囚パウロ】
今日、与えられた御言葉を書いた人物は、自分には限られた日しか残ってない事が分っていました。実は、彼、使徒パウロは信仰の故にローマ帝国の囚人になり、死刑宣告を受けてしまいました。暗い死刑囚監房(かんぼう)に閉じこめられたパウロはどんな気持ちで自分の日を待っていたのでしょうか。来るべき死刑実行を恐れて惨じめな気持ちでしたか。あるいは、不正な判決の為に敵に対する恨みをいだきましたか。少なくとも彼は気持ちが落ち込んでいたはずだと思います。長い間、福音宣教の為に励んで、宣教師として数え切れない程の犠牲を払って来ました。迫害と様々な困難の故に決して楽な生活ではありませんでした。そして、その報いは何だったか。ついに死刑という悲惨な運命になりました。使徒パウロが絶望したとしても、ちっともおかしくありませんね。 しかし、彼は絶望しませんでした。敵と自分の運命をののしりませんでした。却って、その代わりに手紙を書きました。希望と勝利と信仰に満ちた素晴らしい手紙を書いて、自分が開拓した教会と協力者に送りました。自分の遺言と思って、受け継いだ信仰を守るようにと信者を励み続けました。

使徒パウロは今日の個所をテモテに書いて送りました。割合若いテモテはパウロと共に伝道に励んで、パウロの弟子のようになりました。手紙にパウロはテモテを「愛する子」と呼びましたので、間違いなく彼等は親子のような親しい関係を持っていました。そして、死に直面したパウロはテモテに自分の信仰と死に対する確信を伝えたかったのです。与えられた信仰のお陰でパウロは勝利者として死に向かい、恐れませんでした。

私達も使徒パウロの言葉から学ぶ事があります。特にイエス・キリストを信じ頼る者として私達には、パウロの証は大事であると思います。

2006年01月22日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

心からの義II ウイリアム・モーア

マタイ5章27-48

【律法を完成する者】

先週、主イエス・キリストが教えて下さった「心からの義」を一緒に学びました。今日も引き続き「心からの義II」を学びたいと思います。さて、覚えておられると思いますが、主は山上の説教でこのような意味深い宣言をしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。」つまり、主イエスによりますと、神の掟をただ表面的に守るのは不十分であり、神を喜ばせる事が出来ません。なぜなら、神と隣人に対して、愛のない、また心が曲がった人でも表面的に十分律法に従えます。実は、主は私達に心からの義を求めておられます。すなわち、神は掟の本当の目的とスピリットを守ろうとする精神を私達の中に見たいのです。主は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥そこまで見られます。何故なら、私達の態度と動機は神には大事であるからです。

【神の恵みを頂くのに相応しい態度】

しかし、神はどうしてそんなに私達の態度と動機に対して関心を持たれるのでしょうか。表面的でも、人間が御自身の掟を守るだけで十分ではありませんか。私達の思いまでも監督するのはちょっと求め過ぎだと思われる人がいるかも知れません。実は、神は私達一人一人を愛して下さいますので、正しい態度と動機を望んでおられるのです。つまり、主の豊な祝福を受けるように、特に霊的な祝福を受ける為に、相応しい態度と動機が必要であります。神が授けて下さった掟は神御自身の益の為ではありません。却って、それは私達個人と、社会全体の幸福の為に定められました。そして、それを喜んで心から守ると、主の祝福を豊に経験出来ます。その反面、心からではなく、ただ掟の表面的な要求だけに従うと、その祝福は余り分らなくなります。

2005年10月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

「死を覚え、よく生きる」淀川キリスト教病院伝道部長・田村英典牧師

2005年8月28日淀川キリスト教病院伝道部長・田村英典牧師

聖書:詩編90編12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください」

今朝は「死を覚え、よく生きる」と題して、一時お話させて頂きます。

先程、お読みしました詩編90編12節に「生涯の日を正しく数える」とありますが、死で終る自分の人生の残りがどれ程かをしっかり心に留めるという事でしょう。作者はそのように自分を「教えて下さい」と神に祈るのです。ではそれは何の為でしょうか。
「知恵ある心を得る事が出来る」為だと言います。

「知恵ある心」とは、神の御前で自らの一生を真に意味あるもの、そして終には永遠の天の御国に入れる心と言えましょう。

特に人生最後の時、「辛い事も悲しい事も沢山あったが、生きてきて良かった。感謝です」と、神にも人にも自分にも言う事が出来、平安と感謝の内に天国に召して頂けるような心のあり方でしょう。

注目したいのは、自らの死を覚える事と、真に意義深い人生を送る知恵ある心を得る事が、密接不可分な関係にある事だということです。

2005年08月28日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

川の方が良い ウイリアム・モーア

聖書:詩編46篇

【四万十川】
先々週、木曜日と土曜日に、四国で二つの学校の理事会がありました。その間の金曜日が暇になりましたので、高知県の四万十川を私のゴム・カヤックで下りました。実は、去年から、「日本の最後の清流」と呼ばれる四万十川を下りたかったのです。去年の秋、会議の帰りに一度川を調べに行きました。山の奥の源流から河口(かこう)までの196キロの全長を車で辿りました。そうすると、四万十川の美しさが分かりました。工場や大きな町がない田舎の田舎ですから、大自然が奇麗に残されています。しかも、川は山地を流れているので、景色はすごく美しいです。その時から、私の気持ちは近いうちに四万十川を下ろうと強くなりました。

2005年07月17日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 旧約聖書 , 詩篇