テサロニケの信徒への手紙一

2013年9月8日説教 「主に結ばれて生きる」袴田康裕牧師(神戸改革派神学校教授)



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2013年9月8日説教 「主に結ばれて生きる」袴田康裕

新約聖書

テサロニケの信徒への手紙一3

6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。

7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。

8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。

9 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。

10 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。

 

 

(説教要約 文責近藤)

【パウロの喜び】

今朝はテサロニケの信徒への手紙一の3章の6節から10節の御言葉からパウロの喜びについて語りたいと思います。

第二次伝道旅行でパウロはテサロニケの教会を開拓伝道いたしました。

パウロはユダヤ人の迫害により今は離れておりましてもテサロニケの教会のことをいつも思い、いつも心配しておりました。そして、いつも彼らに会いたいと思い、訪問することを願いましたが、テサロニケの信徒への手紙一の2章18節に書かれてありますようにサタンによりその道は妨げられたと言っております。

 

テサロニケの信徒への手紙一2

18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。

 

【テモテの派遣と報告】

テサロニケの信徒への手紙一3

5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。

 

パウロの代わりに同労者のテモテがテサロニケの教会を訪問することになりました。そしてその報告をコリントに居るパウロに伝えたのであります。

 

それは「今帰ってきて」と、36節「6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」。とありますようにその報告はパウロを喜ばせました。

 

【信仰と愛】

信仰とは神全体に対するその態度を表し、神を知ること、神を愛すること、神を信頼すること、神に従うことであります。

テサロニケの教会はユダヤ人のみならずギリシャ人から迫害があったり、いろんな困難、苦難がありましたが信仰に固く立っていました。

 

信仰が神に対する態度であると言いましたように、愛は人に対する態度であります。その信仰によって神に、愛によってテサロニケの教会の信徒同志は強く結ばれていたからです。

 

聖書は信仰と愛は切り離せないと教えています。パウロはガラテヤの信徒への手紙にありますように主イエスに結ばれていれば神への信仰と人への愛に生きるのであります。

 

ガラテヤの信徒への手紙 56 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 

主イエスもまた神と隣人を愛することを最大の戒めと教えられました。

 

テサロニケの信徒は艱難の中でキリスト者の第一の義務を果たし、これを聞いてパウロは喜びに満たされました。それはテサロニケ教会の信徒自身の努力ではなく、神様の導きであったからであります。

 

【うれしい知らせ】

6節「うれしい知らせ」と書いてあります。それは通常「福音」のことを言います。しかしここでは福音と直接関係のない言葉として唯一用いられている箇所ですが、そのテサロニケ教会の信徒が困難や忍耐の中にあっても信仰に固く立っているとのテモテの報告の中に、パウロはその背後にある神の恵みの御手を見たのであります。

 

テモテの報告は「うれしい知らせ」で福音の一部でありましたが故に、パウロは神の福音として聞きました。

神の働きが無ければテサロニケの教会はこのように愛によって結ばれていなかったのであります。パウロはここに神の御業を見たのであります。また神の救い関わる御業をイエス・キリストの福音として聞いたのであります。

 

さらに2つのことをパウロは語っています。

その一つはテサロニケの教会はパウロに好意を持って見ていたということです。当時、中傷やごまかしと言った悪意に満ちた宣伝がパウロに対してなされましたが、テサロニケの信徒は、そう言う噂に惑わされず、パウロをあたたかい愛を持って受け止めていたことが分かります。23節で、パウロ自身も、こう言っております。

テサロニケの信徒への手紙一2章「3 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」。

 

もう一つ、テサロニケの信徒はパウロにまた会いたがっているということも書かれてあります。6節に「、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました」、しきりに再会したいとの思いは、一方通行ではなく、それは相互的な交わりの関係であったことがわかります。単に懐かしい人間的感情といったようなものでなく、パウロから神の言葉を学び霊的指導を受けた彼らは、信仰の養いのため霊的父に会いたい、そういう変わらない想いでパウロに会いたがっていたのです。

 

【教会と伝道者の苦難】

このような報告を受けたパウロは、「7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」。

7節でパウロは率直に励まされた、慰められたとも訳せるが、言っております。

 

テサロニケの信徒への手紙一35節「5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです」。

 

「誘惑があった」と書かれているように、パウロの第一の関心はテサロニケの信徒の信仰でした。自らが奉仕した教会が信仰に固く立って主に結ばれているということを聞く事は、パウロの励まし、慰めでありました。パウロ自身、7節にあるように困難苦難の中にあったのですが、それが具体的に何かは分かっておりませんが、いずれにせよパウロは常にその困難と苦難の中にあったのでありますが、それは御言葉の奉仕者にはつきもののことで、伝道者にとってはいつもそのような困難や迫害があります。そのような時、伝道者にとっていちばんの励ましと慰めは信徒が信仰に堅く立っている、そして信仰に強められているという事であります。それがなければ伝道所は苦境に立たされてしまいます。

 

【しっかりと立ちなさい】

パウロはその思いを8節に語り直している、「8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」、とかれらの信仰が主にしっかりと結ばれていること、直訳すれば「主にあって固く立っている」という不動の姿を見たのです。不動の反対は揺れ動くことです。信仰が揺れ動くということ、信仰は自分の力で立っていることはきません、揺れ動くという事は自分の内に堅固さ、確かさかないわけです。自分の信心が頼りになるのではない。宗教改革者カルヴィインは言います、信仰自体は空っぽの器である。大切なことは主に結ばれる時、堅固な信仰になるのであると。

イエス・キリストとの関係に集中し固く立つ事は私たちのあり方を決定します。

 

パウロは他の多くの手紙でこのように「しっかりと立ちなさい」と言っております。

 

コリントの信徒への手紙一 1613 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」。

 

ガラテヤの信徒への手紙5章「1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。

 

フィリピの信徒への手紙4章「1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」。

 

【今生きている】

パウロはテサロニケの信徒が信仰に固く立って生きていることに大きな励ましを受けました。そして8節「8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」と「今生きている」と言うことができました。

 

パウロはテモテの報告で彼の命が生き生きと回復したと言っております。パウロは命をかけて福音の使命に生きてきましたが、筆舌しがたい

生涯自分が建てた教会のためにパウロは命を捧げたのであれば、教会の信仰こそがパウロの命でありました。

 

テサロニケの信徒たちの信仰を聞いてパウロは主にあって生きている確信と喜びを感じたのです。

教会の信徒とパウロの命は信仰で結び付いておりました。これがパウロの実感であったと思います。伝道者パウロを生かしておりました教会に対する思いのゆえに、テサロニケの教会が主に結ばれている事にパウロは教会の創設者として喜びに満たされたのであります。

 

99 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」。

9節にパウロの感謝の大きさを語ります。人間的にはテサロニケの信徒に感謝を捧げることや、パウロは自分自身を誇ること出来ましたが、パウロは神の御業以外に栄光と感謝を捧げることをせず、その一切の労苦を神に帰し神に感謝したのであります。

 

【パウロの祈り】

ただただ神の大能のみ業を神に感謝し、ここに祈りが生み出されました。

10節、 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と。パウロは二つのことを祈りました。

その祈りの第一は、顔と頭を合わせて再会すること、テサロニケ教会の信徒たちと直接交わりたいという思いであり、祈りであります。

 

二番目の祈りはテサロニケの教会が、完全であったわけでありません、未だ弱さもあり信仰が欠けているところがありました。それを補いたいとパウロは祈ったのです。

この二つの視点は大事であります。

現在の教会の姿は過去から現在に至る視点であります。それは過去から現在に至る神の恵みと愛に感謝する事ですが、もう一つの視点は未来からの視点であります。すなわち終末からの視点として、完成された教会に向かって前進するという視点から見るなら現在の教会の弱さや欠けも見えてきます。

 

【二つの視点】

将来の完成された教会という視点からみると、現状はすべてがマイナスになります。これだけを見ると感謝は起こりません。現状批判が互いに裁き会うことになります。もう一つの最初の視点、これまで与えられた現在の状態を感謝して受け取る。そしてここに止まらないで聖書の教えるあるべき姿に前進すること、完成に向かって前進することが大切です。

教会のみでなくクリスチャン一人一人についても天の御国を目指して信仰生活を一歩一歩前身することに、これは当てはまることであります。

 

フィリピの信徒への手紙313 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。

 

「後のものを忘れ前なる目標を目指し賞を得るために走る」と言うパウロは、いずれにせよ、到達した点からさらに前進を目指しております。私たちは教会に対し、他者に対し、自分自身に対して、この視点を持つことが大切であります。現状を見てさらにそこに留まらず前進し励ましあって欠けを補い会うことが大切であります。そこでこそ教会の交わり、前身があります。

 

【牧師と信徒の関係】

最後に申します。今日の箇所はパウロとテサロニケの信者の関係が記されてされております。それは伝道者と教会の健全な関係について言います。パウロの最大の関心は教会が主に結ばれていること、すなわちテサロニケ教会の信徒の生ける信仰によってパウロは励まされまた生かされているということです。

同様に牧師は信徒の信仰に大きく影響をしますが、同時に信徒の生ける信仰によって励まされていると言うことです。これが教会です。これは信徒同士の関係でも同じでありますが共に励まし、また励まされる。共に慰め、慰められるという関係こそが伝道者と信徒の健全な関係であります。これは本当に幸いなことであります。(おわり)

2013年09月08日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

2013.5.5.説教「良いものを大事にし、悪いものから遠ざかりなさい」ウイリアム・モーア宣教師

2013.5.5.説教「良いものを大事にし、悪いものから遠ざかりなさい」ウイリアム・モーア宣教師

 

新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一5

21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。

22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

 

説教要約(文責 近藤)

【ゴミ屋敷】

数年前、テレビでゴミ屋敷をレポートした特別番組がありました。庭には廃車が2,3台とものすごい量のガラクタが家中所狭しと置いてありました。使えなくなった電気製品や家具類などで一杯になった屋敷をリポーターが訪ねました。

 

玄関のベルを鳴らしても誰もでてきません。それでリポーターは近くのコンビニでお弁当を買ってそれを玄関に置いて帰りました。二日目もこの家の主は出てこないので又弁当を置いて帰りました。弁当は食べているようなので三日目も訪ねましたら漸くこの家の主人が出てきて迎え入れてくれました。

 

中に入ると天上までガラクタで一杯でした。生くさい臭いも鼻につきました。20年前の新聞が置いてあり、2階への階段も物で塞がっており上がれません。リポーターが聞くと「捨てるのはモッタイナイし、ゴミの日にゴミ箱に捨てられたものもいつか役に立つと思って拾っている」と言いました。

 

ゴミやガラクタを家から捨てられないものは普通ではないと思いますが、実は我が家では私がごみを捨てる担当になっています。

 

捨てる物によって曜日が決められていますので分類して廃棄します。殊に生ごみを捨てることは本当に歓びになります。使えなくなった廃品を捨てるのも嬉しくなります。

 

【心のゴミ屋敷】

多くの人は家の中をきれいにかたずけるが、人生の中でのよいことと悪いこととを選別して余計なものを捨てなければなりません。

そうでないと良い物を探すのが難しくなります。

 

今日の聖書は心のゴミ屋敷にならないようにすることを教えます。

 

人生に於いて正しくするものと悪しき習慣を選び分けることは大事なことです。

 

その為には正しい判断により良いことを大事にし、悪しきものを捨てなければなりません。

 

アブラハムが息子イサクの為に嫁を探した時の4つの原理は非常に参考になります。

 

1、神の御言葉を知り、良い判断をもとめること、

2、神の御心を行うこと、

3、神の摂理を信頼すること

4、正しい判断が出来るように知恵と主の導きに従うこと

 

【すべてを吟味し】

テサロニケの信徒への手紙一521 「すべてを吟味し」とは原文では金銀が本物であることを確かめることを「吟味する」と言いました。

 

偽物の金や銀をだまされて買わないようにするためにすべてを吟味することは大切です。

 

【霊的真理と偽りの宗教】

使徒パウロは霊的真理と偽りの宗教を見分けるために吟味することを教えます。全ては真理ではありません。

聖書に基づかないことは絶対に受け入れないことは人生に於いて注意すべきことです。

 

人生に於いて吟味すべきことは多いです。

 

広告、マスコミ、政治家の言うことをすべて受け入れると私たちの魂と人生の歩みはテレビで放映されたゴミ屋敷のようになります。

 

【良いものを大事にし】

次に「良いものを大事にしなさい」と言われます。この世には良い物と悪いものがあるので、それらを区別して悪いものを捨て良い物を大事にすることが大切なことです。

 

フィリピの信徒への手紙に使徒パウロはこう書きました、

19 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10 本当に重要なことを見分けられるように。」。

 

主から教えられたことをつかんで日々実行することは信仰生活にとって大事です。善きものと真実がここには保障されています。

 

【あらゆる悪いものから遠ざかり】

最後に「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と言われます。

何よりも自身の中の悪を憎み罪を犯すことを止めることです。

わたしは牧師としていろんな人に出会いました。ガラクタを大事にしている人が多いです。

 

人への悪い思いは、怒り、恨みは捨てるべきです。これらはその人を腐らせていきます。悪い思い、悪い癖、悪い友人、悪い言葉は人生をダメにします。

 

このようなガラクタな思いを捨て、神の助けで捨てて人生をクリーンにしてください。

 

イエス・キリストがこの世に来られたのはこのガラクタのような全ての罪から解放するためです。主を受け入れると新しい人生が始まります。主はこのガラクタを捨てることを助けて下さいます。

 

【エンジントラブルに見舞われた爆撃機】

戦時中のことです。イギリスのある爆撃機がドイツの上空でエンジントラブルに見舞われ4つの内3つのエンジンが止まってしまいました。イギリスまで帰るのは困難でした。ドイツの陸地に不時着すべきという意見もあったが、パイロットはこれを望まず、飛行機を軽くして不必要な機材、物資全てを捨てるように皆に求めました。かなりの爆弾や椅子、兵士の衣服までもすべて捨てさせましたので飛行機は無事にイギリス海峡を越えて基地に帰りつくことが出来たのです。

 

歳を取るとは人生の不必要なものを捨て去ることだと言われます。良い物、永遠のものだけをつかみ取りましょう。

 

高齢でガンのアメリカの父を見舞った時、父の書斎の整理を手伝いました。父は必要なものと不必要なものを分けていました。不必要なものを捨てること、辛いことですがこれは大事なことです。

 

御言葉は「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。

あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と教えて下さいます。(おわり)

2013年05月06日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

「御言葉の力」伊丹教会執事 八尋孝一

聖書Ⅰテサロニケ2章13節~16節 

13:このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦    しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。15:ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、16:異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

 

【自己紹介】

西谷の会堂を訪れたことはありましたが、礼拝を共にするのは初めてです。顔をお見かけして、よく知っておられる方もおられますが、初めてお会いする方もあります。プロフィールにありますが、八尋といいます。珍しい名前ですが、九州にはわりと多いです。10年ほど前に九州は福岡から兵庫へきまして、現在関西学院の高校で世界史を教えています。よく教師なのだから、人前で話すのはお手の物でしょうと言われますが、礼拝で御言葉を語るのは、教室でローマ帝国やフランス革命の話をするのとはわけが違います。今日は、緊張しつつ皆さんの前に立っています。

2009年07月12日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

「お別れのことば」グラハム・スミス

グラハム・スミス

聖書1テサロニケ5章23−28節

23:どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24:あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。25:兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。26:すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。27:この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。28:わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。


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1.お別れのことば

人間関係の難しさの一つはお別れの挨拶です。親しくなればなるほど、別れる時どんなことばを言うか、わからなくなります。宣教師として、何回もオーストラリアの家族から離れて、日本に来ました。空港で「さよなら」を言うことは辛いです。

妻キャシーの両親は空港の雰囲気が嫌いなので、いつも家から「バイバイ」をします。両親は3年間娘に会わなくなるし、孫さんと関わらないし、寂しい思いで別れます。私はその時、親に、何か意味があることばを言わなければならないというプレシャーを感じます。しかし、いつも、遠慮してしまって、つまらないことしか言えない。

日常生活のなかのお別れも大切にしなければならないと思われています。結婚のカウンセラーによると、夫婦関係がうまく行くために、一つ一つの別れの時と再会の時を大事にしなければなれません。玄関で言われる言葉はその日に残る印象になります。喧嘩(けんか)をして、そのまま別れて、嫌な気持ちが残りますね。

2008年07月06日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

『いつも喜んでいなさい』 植田昌彦伊丹教会長老


聖書:テサロニケ信徒への手紙[I] 5章16~24節
 
【何を求めて教会に】
人は何を求めて教会に来るのでしょうか。キリスト信徒と呼ばれる私たち教会員は何を求めて教会に来また礼拝に出席するのでしょうか。また求道者の方々も何を求めて教会に来られるのでしょうか。人それぞれ願いや思いは違うでしょう。色々な求めがあろうかと思います。心の平安を求めて、最近の言葉で言えば癒しを求めて、幸せを求めて、何か心の清らかさを求めて、宗教に興味を持って、心のよりどころ確かな人生の指針を求めて、等々色々あると思います。またその求めを持つようになった「きっかけ」も人それぞれ異なったものだと思われます。
 
【PHP:心の安らぎ】
ある本に書いてあったのですが、今もっとも日本で読まれている最高の発行部数を誇っている雑誌をご存知でしょうか。本当に日本一かどうかは私自身定かではないのですが。皆さんも読んでおられるかも知れませんが、「PHP」という雑誌というか冊子がそうだと書いてありました。これは松下幸之助が創出した人間の生き方を考える冊子です。忙しい日々の生活の中でほっとした心の安らぎを得たい、共感を覚えるものを求めて、自分の日々の生きる指針を、また生活上ぶつかる色々な心の葛藤へのヒントを、考える冊子として読まれているように思います。このPHPの冊子に求めることと同じものを教会に求めて来られる方もいると思います。それらは、教会に求めるものあるいは信仰に求めるものとしても大切なものであろうと思います。

2007年07月15日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

「平和を実現する人々は幸いである」田村英典

聖書:マタイによる福音書5章9節

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

 

【平和を実現する】

今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」


何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。

まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。

勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。

聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。

2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

用意していなさい ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書24章36−44
 
【ある日、突然】
先週の金曜日の午後2時に何をしていましたか。覚えていますか。職場で働いていましたか。家で家事をしていましたか。あるいは、お買い物で忙しいでしたか。想像して見て下さい。丁度その時、誰かが突然やって来て、「今、している事を辞めて私と一緒に行くんだ」と命令しました。そして、あなたは、 「この仕事がまだ終わってないんだ」と返事します。その人はもう一度、「今やってる仕事を辞めるんだ」と言います。すると、あなたは答えます。「まだ2時なのにどうして今仕事が辞められるのですか。」しかし、相手は、「仕事はもう出来ない。辞めなさい。速く私と一緒に来て下さい」と主張します。あんまり強く言われるから、あなたはその人と一緒について歩きます。しかし、「仕事を済ます為、後で戻れますか」と聞きますと、彼はただ、「それは出来ない」と答えます。そして、あなたは恐怖を感じ、「私を何処へ連れて行くんですか」と訪ねると彼は、ただ「遠い所へ行きます」と答えます。「ちょっと待って下さい。私、週末に計画があります。遠い所へは行けません。ちょっと待って下さい」とあなたが言うのに、その人は、 「速く来なさい」とまた命令します。そして、あなたは、「旅の準備が出来てないので、一度家に帰らせてくれ」と頼むと、その人は、「それは不可能だ」と答えます。更にあなたは、「ちょっと待って下さい。準備が出来ていないのに」と叫ぶと、彼はただもう一度、「早く来なさい」と強く主張します。

2006年12月10日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書

「落ち着いた生活」グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

聖書:1テサロニケ4章11−12節、2テサロニケ3章6−13節
 
1.イントロダクション:聖書は日常生活の指南書
今日はテサロニケの信徒への手紙から神様のみことばに耳を傾けようとしています。みことばに対してどんな期待を持って聞くでしょうか。多くの人々にとって聖書は日常生活と関係が全くないものです。聖書に触れたことがないからです。聖書を読んだことがない人が多いです。
 
読みたくない理由をあげると古い本で、わかりにくい言葉と内容があるからだと言われます。それは確かにそうですが、聖書は日常生活と関係がないという意見は誤解です。聖書は創造者なる神様から出た言葉ですから、人間のすべてに語られているものです。人生の大きなテーマ(人間存在や生ける意味など)だけではなく、細かいテーマまで語られています。
 
例えば、セックスについてとか家庭やお金や言葉使いや環境や健康や人間関係などのテーマに言及します。今日の箇所でも重要なテーマが出てきます。「仕事」というテーマです。11節に簡単に語られています、

「自分の仕事に励み、自分の手で働くように務めなさい」。

2006年11月05日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 箴言

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「神のみこころ」 グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)

聖書:1テサロニケの信徒への手紙一4章1--8

【1.生けるためのアドバイス】
私はある英語の新聞を読んでいます。全部読めないですが、必ず、木曜日のトラブルシューティング(人生の悩み相談コーナー)を読んでいます。二人の悩みが書かれて、それに対して一人のアドバイスが書かれています。良く出る問題は人間関係で、夫婦や親子や姑との人間関係又職場の人間関係や親戚との関係です。そのなかには不品行、財産やお金、無責任な行動、アルコール中毒の問題などがあげられます。
 
興味深いことはカウンセラーとして立てられた人たちです。有名な著者、タレント、弁護士と時々は精神科医がアドバイスをします。専門科ではない人ばかりです。その新聞の記事を読みながらいつも考えるのは、人間は人生についてどこからアドバイスを受けているか、求めているか。どうでしょうか。人生を過すために一般の人々はどのように導かれているでしょうか。助け無にして生活している人がいるでしょう。また、家族に相談する人もいるでしょう。学校のなかなら、先生の役割も大きいでしょう。マニュアルにそって人生を歩んでいる人もいるでしょう。占いや宗教によって導かれる人もいます。タレントやスポーツマンの影響を受けている人も少なくないと思います。
 
人々はわざわざ新聞に手紙を書いて送らなくても、良い生活を歩むためのアドバイスを求めていると思います。クリスチャンも求めています。クリスチャンはキリスト教用語で、それはみこころを求めていると言います。神様が望んでいることは何であるか、神様の心の思いは何であるか知りたいのです。神様からの導きを求めています。決断する時だけではなくて、クリスチャンはこの世でどのように歩んだらいいのか導かれたいのです。
 
今日の箇所はその求めの答えになります。神のみこころは何であるかが3節以下にはっきり書かれています。

「3:実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4:おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、5:神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」

  タレントに聞かなくてもいいです。新聞に探さなくてもいいです。先生と相談しなくてもいいです。マニュアルも買わなくてもいいです。占いを避けることも出来ます。なぜなら、聖書には神のみこころが充分に書かれています。今日は、この箇所からみこころを学びたいのです。

2006年09月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

「キリスト者の祈り」グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)

1テサロニケ3:11--13

11:どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスと

が、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。

12:どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、

豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなた

がたを愛しているように。

13:そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる

者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの

父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくだ

さるように、アーメン。

【 祈りについての悩み】

クリスチャンや教会と関わると祈りという習慣を経験します。始めての方にとってクリスチャンが祈っている姿を見て変と思われるでしょう。見えない方を対象にして目をつぶって、普段に聞こえない言葉や表現を使って話していることはピンとこないでしょう。私は小さい時から祈っている人を見かけているのに、またクリスチャンなのに、祈りは不思議だと思っています。

実は祈りに慣れているクリスチャンの中でも悩んでいる人が多いみたいです。信仰生活の重要なことですが、祈る時間が少なすぎるし、罪悪感をもったり、祈っても神は答えてくれないし、それで、疑問が生まれます。礼拝では祈っていますが、心は付いてこない場合があります。日本に来てから、日本語で主の祈りを覚えるようになりました。子どもたちも言えます。英語ではできないと思います。でも、がっかりすることは、その祈りの言葉の意味が充分に分かってません。毎回無意識に祈っている時、「ちょっとまって、その意味を確認しましょう」と語りたくなります。

皆さんはどうでしょうか。祈りについての悩みや疑問ありますか。今日の箇所、ただの3節だけですが、パウロの祈りが記録されています。この祈りから学んでみたいのです。すべての疑問に答えるわけではないです。悩みの解決にならないかもしれません。でも、ちょっとでも励ましになればうれしいです。

1テサロニケ3:11--13をもう一度読みます。(略)

2006年08月27日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

「クリスチャンが気になるものは?」グラハム・スミス-CMS宣教師・KGK主事

聖書:1テサロニケ2:17--3:10 

1.大事なもの
人生を過ごしながら、何が大事か、何がつまらないか、わきまえるようになります。人生の経験を重ねることによって、判断する知恵が与えられ、成長します。大抵、子どもは物を大切にします。食べ物や飲み物やおもちゃなど。また、今、すぐに得るものを欲しがります。子どもを買い物に連れていくとその傾向は明らかです。

大人はどうでしょうか。どんなことを大事にしようとしているでしょうか。頭では愛とか、平和とか、健康とか、家族を大切にしていると言われるでしょう。でも、日常生活を見ると、大人も物を大事にしています。利益になるものや自分を満たすものにはまっています。

普通の生活では何が大事かあまり深く考えないですが、時々何かのきっかけで考えさせられます。数年前に私の26歳の妹が原因不明で亡くなりました。そのことで、私と残された家族は大分変わりました。大人らしくなったり、つまらない話をさけたり、不完全なことを気にしなくなったり、「今」という時の意識が強くなって、生きている特権をいつも覚えるようになりました。

人が病気になると何が大事か反省するようになる場合が多いです。この前、旅行の直前、連れていく親戚の子どもが病気なりました。長い間計画を立てて、待ち望んだ休みをとれないような状態になりました。その時の思いを振り返えって見るとすごく恥ずかしいです。子どもの健康のことよりも、自分のことしか考えなかった。7万円の新幹線切符の損、宿泊費の損、バケーションのキャンセルの損ばかり考えました。病気の子どものことは気にせずに、自分のことだけ考えてしまいました。親戚の子供だったので、その親に対する怒りもありました。

もちろん、さまざまな経験から何が大事であるかを考えさせられますが、聖書を読むとその課題がよく出てきます。今日の箇所では、パウロとテサロニケの人々との関わり方から、本当に大事なことは何であるかが見えてきます。別な翻訳では「生きがい」という言葉が出てきます。パウロの生きる意味、生きる目的は何であるか、はっきり書かれています。私たちのいきがいと比べることができます。

2006年08月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 使徒言行録 , 新約聖書

がらくたを捨てる ウイリアム・モーア

聖書:テサロニケの信徒への手紙一5章21-22

21:すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。

22:あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

【ゴミ屋敷の主人】

数年前に見たテレビ番組ですけれども、なかなか忘れられません。それはゴミ屋敷についての番組でした。あるリポーターがその事を調べる為に町の有名なゴミ屋敷を訪ねました。家の周りはゴミだらけでした。古い故障した自転車数十台がお庭に山積(さんせき)して、錆びた電気製品も沢山置いてありました。また、古いぼろぼろになった家具も結構あったのです。近所の人によりますと、主人はいつも在宅していましたが、リポーターが玄関のベルを鳴らすと、誰も出て来てくれませんでした。そして、リポーターはコンビ二へ行ってお土産としてお弁当を買って、玄関の外に置いて帰りました。次の日にも同じ事をしましたけれども、ベルを鳴らしても主人はドアを開けてくれませんでした。やっとその次の日、お弁当を持って来た時、主人はドアを少し開けましたので、リポーターは話掛けることができました。優しく語りましたので、主人はやっとリポーターを玄関まで迎え入れてくれました。しかし、入るとびっくりしました。その家の中は床から天井まで物で一杯でした。そして、使えそうな物は殆どなくて、大半はがらくたでした。さらに臭い臭いがする生ゴミまでも置いてありました。そこに置いた新聞をちらっと見ると、大変驚きました。20年前の日付でした。家の中を自由に歩けない程ゴミが置いてありました。その上、階段はゴミがあんまり沢山積んであったので、ニ階へは全く上がれませんでした。

2005年07月03日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

「新しい教会へのメッセージ・パートⅡ」
グラハム・スミスCMS宣教師KGK主事

◆テサロニケでのパウロの宣教      1テサロニケ2章1-16 1:兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。 2:無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。 3:わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。 4:わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 5:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 6:また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 7:わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 8:わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 9:兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。 10:あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。 11:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 12:呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧め たのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 13:このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦 しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。 15:ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 16:異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。 しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

【倣うもの】
有名な聖書のことばを紹介します。


「わたしがキリストに倣うものであるように、あなたがたもこの私に倣うものとなりなさい。」(1コリント11:1)

これは使徒パウロという初代教会の宣教師が言ったことばです。私に倣うものとなりなさいと。
別の箇所で、パウロはテモテという福音の働き人にこう言いました、


「信じる人々の模範になりなさい。」(1テモテ4:12)

一人の弟子であるペテロも、キリストの苦しみを模範とすることを勧めました(1ペテロ2:22)。模範を示すことや倣う者になることは、人間の成長のために重要な方法です。異文化の生活に慣れるために回りの人がやっていることを注意深く見て、同じように行動することは大切なのです。 (例え)

2004年05月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , 新約聖書

【新しい教会へのメッセージ】グラハム・スミス 

2004年3月7日グラハム・スミス氏

【聖書】1テサロニケ1:1ー10
◆挨拶
1:パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
◆主に倣う者
2:わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3:あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐しているこ とを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
4:神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけに よらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6:そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
7:マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
8:主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
9:彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
10:更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。

【話しかけてくださる神様】(聖書の大切さ)
西谷集会に招かれていることを心から感謝を申し上げます。ひさしぶりという感じがしています。ここで、このように、毎週、礼拝のために集まることはすばらしい事です。今日、この交わりの喜びに預かることを感謝しています。今日の聖書箇所を見る前に、一つの問いをかけたいのです。どうして、礼拝の中心は聖書の話しですか。不思議と思いませんか。今日学ぶ箇所は2000年ほど前のギリシャの町の話しです。歴史の研究会なら納得できますが、どうしてクリスチャンたちは古い本からメッセージを聴くでしょうか。答えには二つのことが言えます。まず、その聖書は神様、すべてをお造りになった、すべてを支配しておられる、いのちを与える、生きる道を示す神様からのメッセージだからです。そして、もう一つの答えは、すべての聖書箇所には現代にあてはまるところがあるからです。特に、今日の箇所はテサロニケの教会への手紙ですが、ちょっと調べると、その教会とここに集まっている西谷集会の事情が良く似ているということが分かります。あとで説明しますが、共通点が多いです。このことを考えると、この手紙は古くて、別な地域の話しにも関わらず、今日の私たちに神様からのメッセージとして、受け取る事が出来ます。必要とされているのは、このメッセージを聴こうとする姿勢です。もう一度、神様が語って下さるメッセージを聴くことができるように祈りましょう。

2004年03月07日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書