2013年11月17日説教「神様の愛」姜 世媛先生(WEC宣教師/神戸改革派神学校聴講生)
M131117001.wav2013年11月17日説教「神様の愛」姜 世媛先生(WEC宣教師/神戸改革派神学校聴講生)聖書:Ⅰヨハネの手紙4章7~21節。
7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
(説教要約 文責近藤)
おはようございます。一昨日から風邪のような症状がありましたが、今朝は神様に助けられて元気にここに来ることが出来感謝しています。
準備も十分でなく今日どうなるか心配でしたが、今朝の礼拝前のお祈り会とかここに座ってオルガンの奏楽を聞いていましたら神様は平安な気持ちを与えてくださいました。
【冬のソナタ】
わたしは韓国から日本にきて4年7ヶ月になります。この間たくさんの方にお会いしました。韓国から来たと言うと沢山の人が「私は韓国ドラマが好きだ」とか「韓国の料理が好きだ」と仰って嬉しいです。私より韓国ドラマに詳しくわたしも勉強させてもらいました。
韓国ドラマで日本最初のドラマは「冬のソナタ」です。実は私は日本に来るまで全部を見ていなかったのでもう一度見直しました。皆さん、「冬のソナタ」を見た人は手を挙げて下さい。ご覧になった方の中で、なぜこのドラマが好きになったのでしょうか。色々理由があると思いますが、その理由の一つ、それは変わらない初恋の美しさであると私は思います。時間が過ぎても全然変わらない初恋の愛です。いつでも自分を愛してくれる人がいるといいなと誰でも思うでしょう。愛というものはただ「冬のソナタ」のような愛だけでなく、人間の歴史の一番古くて普遍的テーマです。愛は文学、芸術、詩などで一番多く発見できるテーマです。
あるいはこの愛で笑ってあり、自分の命を捨てたりします。この愛というものは人間になくてはならないものです。私たちのキリスト教は愛の宗教と言われています。また神様の言葉である聖書は神からの愛の手紙、ラブレターだと言われています。
【神様の愛】
この世の中でもとても貴重である愛というものについて聖書のみ言葉を通して考えてみましょう。
今日は,ヨハネの手紙4章の7節から「神様の愛」というテーマで3つの事について考えてみましょう。
【神様は愛である】
1番目は「神様は愛である」ということです。今日の箇所の8節と16節を読みましょう。
ヨハネの手紙一4章8節「 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。
16節「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」。
8節と16節、ここに「神は愛」と書かれています。神は愛だということはどういう意味でしょうか。神様は愛と同じもので、神様には愛だけしかないと言うことです。
私たちの信じている神様は私たちの間違いを罰するお方ではありません。それで神様の愛を受けるために何か特別なことをしなければならないわけではありません。神様は私たちが存在するだけで喜んでおられます。
創世記1章31節に「神はお作りになったすべてのものをご覧になった。それを見てそれはよく、極めて良かった」と仰いました。
神様の本質は人間に向かった愛で、神は愛の原点です。その愛が神様から流れ出て神様を知る人に届く。またその人から他の人々に流れ出すべきです。
ヨハネによる福音書1章の1節から5節は、神様は光で、この光なる神様には暗闇が全然なく、この光はすべての人を照らすと書かれてあります。
もし私たちが光である神様を私たちのうちに受け入れることができたら、わたしたちも光のように輝くでしょう。神様は私たちの中にあるすべての闇は追い出されます。それと同じ同じように、私たちが愛である神様を私たちの心の中に受け入れることができたら私たちは愛の人になれるはずです。
どんなに憎しみで悩んでいる人でも愛に変われるはずです。なぜなら神様は愛であるからです。神は愛ですから神様がおられるところでは驚くべきことが起こります。いちども味わうことのできなかった無条件の愛を経験できます。
【自身のエピソード】
私にも神様の愛に関するエピソードがあります。私は神様の愛の故にクリスチャンになりました。この時から私はいつも皆を愛することができるように祈りました。
また周りの人をいつも愛するように努力しました。その結果、私は学校でも教会でも、
また友達の中でも優しい人だなぁと言われるようになりました。それで私は自分のことを愛で溢れてれているように思っていました。
しかし大学4年の時の一つ出来事によって私の考えが間違っていることがわかりました。
ある日、私が一緒に活動していた宣教団体の先輩のリーダーが私を呼び入れました。
何か話したいことがあるそうです。
わたしもその先輩と一緒にその宣教団体の活動していました。
わたしは多分褒めてくれることを期待していました。
でも実際に言われたのは、わたしは彼の働きに役に立てないということでした。
彼とは30分から1時間も話しました。彼は4つ上の先輩で私が高校に行く時からずっと知り合って私のことをかわいがってくれました。多くのことを褒めてくれましたが、このリーダーである先輩が私をリーダーの一人に推薦してくれると思っていましたが、彼は1時間話したなかで良いことも多く話しましたが、しかし私の心に残った事は、
あなたは私の働きに役に立てないという一言でした。
わたしは宣教団体の中で一生懸命頑張っていました。私は自分のことを自分なりに犠牲にして、この団体のために、兄弟姉妹のために頑張っていたと思っていたが、その一言
「役に立たない」という一言が、私にとって非常にショックでした。それでその時から私は彼のことが嫌いになりました。
学校で彼が前から来ると挨拶を交わしてもあとは彼から遠ざかり、最後の6ヶ月ぐらいはその宣教団体から離れるようになりました。
私はそのすべてのことを彼のせいにしていました。今考えてみたら余り大事なことではなかったのです。
私がもっと大人でしたら、「そうですか、それは済みません。これからもっと頑張ります」と言えば何でもないことでした。
その時私は未熟だったし自分のことを率直に話すことが苦手でした。まだまだ未熟な女の子でした。今考えれば本当に何でもない事でしたが私の心の中の憎しみは2年ぐらい続きました。彼に会うたびに「きらい、きらい。嫌、嫌」と思いながら彼の顔を見ることも本当に嫌でした。私が思っていたのは感情というものは、複雑なもので頭の中で何ともないと思っていても心の中で思ってる、その憎しみが完全に回復するまでは2年ぐらいかかりました。その時、私は神様に私の弱さを告白しました。そうだ、私は他の人を自分の力で愛することができないということを、私の心の中には愛がないということを、実感しました。そう思ったあと、漸く神様の真実の、無条件の愛が深く感じられました。神様の愛はこの世のすべての愛に勝る絶対的な愛です
【神様はイエス・キリストを通して愛を示された】
2番目は神様はイエス・キリストを通して愛を示されたということです。今日の箇所の9節と10節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
この節には神様がイエス・キリストを通して愛を示されたことが書かれています。これをもっと理解するためにはヨハネの福音書3章16節も読みましょう。
「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
神様は「この世を、私たちを、御子イエス・キリストをお与えになったほどに愛された」と書かれていました。
また「御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と書かれています。
【罪の結果】
もともと神様と人間との関係は親しい関係でした。いつも神様の愛の中で御心の通りに従順に従いました。しかし人間の罪によって神様から人間は離れてしまいました。
その結果人間は必ず死ななければならないという運命になりました。それを哀れんで下さった神様はその独り子イエス・キリストを宥めの供え物としてこの世にお遣わしになりました。
またそのイエス様は私たちの罪のために十字架に架けられました。ローマの信徒への5章8節には、こう書かれています。
ローマの信徒への手紙5章「8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
神様は私たちを愛してくださいました。それは私たちがその愛を受ける価値があったからではありません。永遠からの神様の愛は私たちがその愛を受ける価値があったからではありません。永遠からの神様の愛は、ありのままの私たち一人ひとりに関心があります。聖書には私たちがまだ罪人であった時、神様が私たちを愛してくださった、と書かれています。
皆さんはこの世の誰かから命懸けの愛を与えられたことがありますか。
たとえその愛が人間の限りある愛としても愛されるという事は本当に素晴らしいことです。ましてそれが永遠に変わることのない神様の限りない真実の愛であるなら本当に幸せなことでは無いでしょうか。神様は私たちをその愛で愛してくださいます。
私たちが神様の愛を持って人を真実に愛するためには、もっと積極的な行動が必要です。今日の箇所の15節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章15 「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」
イエス様を神の御子と告白するのは、私たちの唯一の救い主として告白することです。このイエス・キリストが主である事を信じたら、私たちは裁きの日にも大胆さを持つことができます。
続いて17節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」
【永遠の命】
もし私たちが主であるイエス・キリストを真実に告白したら私たちは死の後のことを恐れる事はありません。なぜなら十字架のイエス・キリストの愛は私たちに永遠の命を保証してくださるからです。
【互いに愛し合うこと】
最後の3番目は神様は私たちが愛し合うことを願っておられるという事です。
よくキリスト教は愛の宗教だと言われています。その愛とはどんな愛でしょうか。
マタイによる福音書22章36以下で、キリスト教の愛は、神様の愛と隣人の愛、この2つからなっていると書かれています。いっしょに読みましょう
マタイによる福音書22章「36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
聖書の中に書かれてあるこの2つの愛、神様への愛と隣人への愛、この二つの愛の中でどちらの方が易しいと思いますか。私は隣人を愛するのはあまり易しいことではないと思います。私も皆さんに証ししたように個人的に人を憎しみ、2年間悩みました。
神様への愛、教会にきて礼拝して神様と関係を持つのは一見難しく見えるけれども、実際私にとってもっと易しいことと感じられました。今日の箇所の11節を読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。愛する子達、神がこのように私たちを愛されたのですから私たちにも互いに愛し合うべきです。」
「このように」私たちを愛されたと書かれてあります。「このように」とはどんな意味でしょうか。
それは9節、10節に書かれてあります。ヨハネの第一の手紙4章
「9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」
ヨハネの第一の手紙4章「11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」。
神様の独り子を私たちのためにこの世に遣わしてくださった。それで私たちも互いに愛しあうべきです。私たちを自分の都合や気持ちによって愛したい人を愛しているだけではいけません。私たちの愛でなく神様の愛でお互いに愛さなくてはなりません。
ヨハネの第一の手紙3章16節と18節を共に読みましょう。
16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
【命を捨てる】
16節はどんなに驚かされる御言葉でしょう。時々映画などで恋人の為に自分の命を捨てる人がいます。また自分の子供の為に命を捨てる父親とか母親がいます。いま周りの方々をご覧になってください。皆さんの側に座ってる方をご覧になってください。聖書は私たちが愛すべき兄弟姉妹だと書かれていますね。皆さんは皆さんの側に座っておられる方々のために皆さんの命を捨てることができますか。正直言って私は自分の夫のために、命を捨てるべきと書かれているが、それは迷いますね。命を捨てる程でなくても、皆さんが少しでも犠牲を払うことはなかなか難しいことです。
愛する兄弟姉妹だと言っても何か一言言われたら顔を見たくもなくなります。それが人間である私たちの弱さです。
18節には「言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合おう」と書かれています。このように愛するのは神様の御心です。
【愛の原子爆弾:ソン・ヤンウォン先生】
韓国に孫良源(ソン・ヤンウォン)と言う牧師先生がおられました。この方は「愛の原子爆弾」というニックネームがあります。1902年生まれで、1939年からハンセン病患者の治療機関である愛養園で患者たち(約1, 000人)を家族のようにケアしました。1948年ある事件で、自分の愛する2人の息子が殺されました。しかしその時、自分の2人の息子を殺した犯人を許すだけではなく自分の養子にしました。1950年、韓国戦争の時に参戦し孫良源先生犠牲になられました。夫と私は何年か前、韓国全羅南道のほうにある「愛養園」に行ったことがあります。
皆さん、ソン先生の愛こそはイエス様が見せてくださった愛ではないでしょうか。
イエス・キリストはこの世の誰より大きい愛を見せてくださいました。その愛を学ぶべきではないでしょうか。自分の親しい人を受け入れて愛することができないのが私たちです。
ヨハネの福音書13章の34節から35節にこう書かれています。
「34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
また今日の箇所の19節、20節にこう書かれています、
ヨハネの手紙一4章「19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」
もし私たちが本当に神さまを本当に愛するというなら私たちはお互いに愛し合うべきです。
今日のメッセージを通して3つのことを考えました。
1番目は神様は愛であるということ。
2番目は神様はイエスキリストを通して愛を示してくださいました。
3番目は神様は私たちが愛し合うということを願っておられることです。
これらをいつも忘れないで実践することができるように主が助けてくださいますように祈りましょう。(おわり)
2013.8.18.説教「神からの愛に包まれて」泥谷逸郎牧師(元伊丹教会牧師・現土佐山田教会員)
013.8.18.説教「神からの愛に包まれて」泥谷逸郎牧師(元伊丹教会牧師・現土佐山田教会員)
ヨハネの手紙一4章7~12節
7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
(説教要約 文責近藤)
23年にわたって伊丹教会で信仰を共にした兄弟姉妹とともに、また初めてお目にかかる方々と共に礼拝ができる喜びを神に感謝し、主にある交わりの幸いを、「ここに神がおられる」と言う教会形成を導いてくださった主の愛に感謝いたします。
【不法がはびこる時代】
主は御生涯の終わりごろに「悪がはびこる」と言われ、「多くの人の愛が冷える」と言われました。マタイによる福音書24章です。
24章12 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。
今はその時です。多くの愛が冷えると言われその時です。人の命を極悪人が簡単に奪いとります。悪でないように殺されていく。その他の悪もはびこっています。このような時代の真っ只中にあって、キリストの愛の光が差し込んでいます。それはどこからでしょうか。教会から差し込んでくるのであります。私たち一人一人のクリスチャンは神からの愛を、愛の光を受けて照り輝いている。
【神の愛を映すキリスト者】
だからクリスチャンは愛することに尻込みすべきでありません。そうでなくキリストの愛を持って、もっともっとこの世と取り組んでいかなければなりません。この世の愛が冷えて行けば行くほど、私たちクリスチャンは世の光、地の塩となって、愛することに、神の愛を持って尻込みすることなく教会形成に取り組んでいかなければならないのであります。
ここに教会が建てられた目的があります。またこの西谷に教会が建てられたという事は、神はここに世の光となる灯台を建てられたと言うことであります。すでに幾年前から輝いているのです。
【愛を追い求めなさい】
主はコリントの信徒への手紙一14章1 節で「愛を追い求めなさい。」と言われます。
愛は追い求めるものです。それは祈りにおいて求めるものです。「主よどうぞ愛をください」と祈り求めることにより増し加えられていくものです。愛が乏しいと自覚するなら祈り求めましょう。互いに愛する愛を祈り求めましょう。求めることで増し加えられる。
恵みは感謝して受けるばかりですが、愛は神様から受ける事と神を愛することの両面があります。恵みと愛のバランスが必要です。
教会で恵みを感謝するとともに人を愛し神を愛する愛を増し加えてくださいと祈ることです。
その愛を持って人と神を愛する両面があります。
新約聖書は神の愛をアガペの愛と言います。アガペの愛を頂いて人を愛していきたいのです。
4章9 節をもう一度読みます。
「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」とありますが、続いて「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」。「ここに」とは「どこに」でしょうか。それは主が遣わされたことです。
【永遠の命を生きる】
著者のヨハネは福音書も書きました。そこに答えがあります。ヨハネ福音書の3章16節に
「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」。
ここに答えがあります。「神はその独り子を賜ったほどに世を愛したもうた。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。
【神は、独り子を世にお遣わされた】
今日のヨハネの手紙一4章9 節をもう一度読みます。
「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」
「生きるように」とは私たちが永遠に救われて生きるようになるためです。
教会では永遠の命とよく言いますか、それはイエス・キリストの持っている命です。主イエスを信じるとき、与えられる命です。その命は終わりの日に蘇る命です。神は新しい命を与えてくださった。それは、
ヨハネの手紙一4章10節「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
ここには主の十字架と苦しみがいけにえとして書かれています。御子イエスが遣わされたと言うのは、聖霊の働きによって、マリアの子として生まれられたイエス・キリストが人間としての犠牲の御生涯を全うされたことです。
【神話ではない】
神の御子が世に遣わされて、人の罪の為に命を捨ててくださったということは神話ではありません。今は何でも神話で片付けてしまう時代です。神が人となるなんて事はとんでも無いと言う神話の時代です。しかし主イエス・キリストの十字架と復活は神話ではなく事実です。だから信じる時にあなたもイエス・キリストの永遠の命が与えられるのです。
【イエス・キリストの十字架】
神の御子なるお方が人となれ、罪なきものとして私たちの贖いとなってくださった。イエス・キリストが私の罪を代わって受けてくださった。それが十字架です。そして私たちに永遠の命を与えてくださった。
キリストはご自身の体と魂の贖い死によって私たちの罪を引き受けて下さったのです。
今、私の罪を赦して下さいと祈るなら全ての罪は許されます。
ガラテヤの信徒への手紙3章13節に「13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」とあります。十字架の死は特別なものであり、神に呪われたものとして、私たちに代わって主は十字架に架けられた。
主は御自身を私たちの罪の身代金として捧げられたのであり、それゆえ主を信じるものは罪ののろいから解き放たれたのです。ここに神の愛が示されています。
これほどの愛がどこにしめされているか?歴史の中に、諸々の民族の中に、この神の愛を探しても、神の愛はイエス・キリスト以外にはありません。イエス・キリストにこそ神の愛、身代わりの愛、犠牲的愛が示されています。わたしたちの罪を贖ってくださった愛です。
今、主に「罪を許してください」と祈るなら全ての罪は許されます。ここに神の愛が示されている。人類は一人の例外もなく滅びさるものです。それなのに私たちの中に救われる者がいるというのはどういうことでしょうか。救いが実際に行われているからです。世界中に救われるものが起こされている。
神の救いはイスラエル民族から始まったのでありますが、今や2000年を経てどの民族どの人種も主の十字架の贖いによって救われる時代が来たのです。諸々の民族の中に主の救いがあります。ここに神の愛があります。
神の愛を信じて喜ぶ人が世界中諸々の民族に起こされています。世界中の信じる者が神を証しています。
なぜ7節「互いに愛しあいましょう」と言われるのですか。
キリストがわたしたちを愛してくださったので、私たちも愛し合いましょうと呼びかけています。
さらに11節は次のポイントでありますが、第二のポイントとして11節「わたしたちも互いに愛しあうべきです」と強調されています。
キリストを信じるものは十字架の愛に包まれている人です。しかし失敗することもある。未だ神を見たものはいない。しかし愛し合うならそこに神は居られる。この30人の群れの中に、互いに愛し合う愛があるなら神がおられる。そして神を知ることが出来るのです。
【互いに愛し合うなら神を見る】
「12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。
姿は見えなくても主イエスは「2,3人わが名によって集まるところ私もその中にいる」と言われました。さらに見ることさえできるとヨハネの手紙一4章12節に言われる、
【イエス・キリストを見る】
互いに愛し合うことは大事なことです。信者もその互いに愛し合うことによって神様を見るようになるでしょう。弟子のピリポが主に質問したことがあります「主よ。私たちに御父を見させてください。そうすれば信じることができるでしょう」。主は答えられました「私は見たものは父を見たのだ」と。
ヨハネによる福音書14章「8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」。
ヨハネによる福音書 6章46にも 「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と書かれています。
【聖書の中に】
今私たちは主イエス・キリストをどこで見るか。それを聖書の中で見るのです。「見る」ということはまた「分かる」という言葉に置き換えられます。聖書の中に描かれたイエス・キリストを見て、分かるのです。
私は中2の時、牧師から、罪と、十字架と、イエス・キリストによる救いを繰り返し繰り返し語られました。そして信仰告白に促されました。
神の言葉である聖書には鏡に映すようにイエス様が様が写されています。霊の目で私たちはイエスを見るのです。神は御子イエス・キリストによって示されます。
ヨハネ福音書の1章18節の言葉「1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。この言葉は真実です。
神の愛の中にとどまることが大切です。だから11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。
神の愛に包まれることによって、私たちは人々をキリストに導くためにも、愛の冷えた時代にいる私たちの信仰の霊的成長のためにも、神の愛に留まるべきです、「互いに愛し合うべきです」と主は私たちを励まして、また豊かに愛してくださいます。(おわり)
「光の中を歩く」伊丹教会長老 城下忠司 2011.9.25.
聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・1章5節~10節
◆神は光
5:わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
6:わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
7:しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
8:自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
9:自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
10:罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
【はじめに:光と闇について理解する】
聖書は、私たちに、多くの箇所で比喩を使って、分かりやすく、神さまのみ心を伝えてくれます。今日のみ言葉で語られる光と闇という言葉の意味も良く分かる言葉となっていると思います。ヨハネは光と闇とを比較してその深い、内側に隠された意味を教えてくれます。
初めに、光と闇について、私たちの感覚で比較して見てみましょう。今の時代、都市に住む人たちは、真っ暗闇というものを経験することはできません。田舎でも今は光の無い場所は中々見当たりません。人気の無い山の奥に入り込まなくては星の観測は出来ない時代です。真っ暗闇の不安、恐ろしさを経験することも出来ないと思います。
【かつて私の経験したこと】
かつて私の経験したことですが、弟と二人で旅行から田舎に帰る途中のことです。鉄道も無く、バスの回数も少ない時代でした。そのバスの終点から家までは30キロあまりありましたが、二人とも高校生でしたので、歩いて帰ることになりました。どんなに暗くても星の光さえあれば、なんとか進んでいけるものです。しかし、その日はあいにく曇り空で、日暮れてからは全く何も見えなくなってしまいました。文字どおり真っ暗闇となり、道は狭くそのうえ、片側は小さな川が音も無く流れているという環境でした。一旦歩き出した二人です。這いつくばるようにしてほんとうに手探り状態で歩き続けました。30分程歩いた時でしょうか、前方にかすかな明かりが見え、近づいてみると農家の灯りであることが分った時のその安堵感、その喜びは忘れられません。幸い、その農家に泊めてもらって翌朝のバスに乗って帰ったという経験を思い出します。闇についての恐ろしさの経験でした。
「命の言葉イエスさま」城下忠司伊丹教会長老2011.8.7.
《聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・1章1節~10節》
【はじめに・12使徒の一人ヨハネ】
以前、朝の礼拝で、橋谷先生からヨハネによる福音書らの説教をお聞きして、とても素晴らしい恵みを頂いたことを覚えています。ヨハネはイエスさまの一生のことを福音書に書き残しましたが、手紙も3通書きました。ヨハネの手紙1・2・3であります。私はこの手紙からイエスさまの素晴らしい恵みに与りたいと思い、ヨハネ第一の手紙を学ぶことにしました。この手紙は愛の手紙と呼ばれ、ヨハネが聖霊に導かれて、イエスさまの愛を余すところ無く私たちに伝えてくれています。
有名な宗教改革者のルタ-はこの手紙から信仰の真髄を得たと言われています。ルタ-がこの手紙について、次のように語ったことが残されています。「これは傑出した書簡である。同書簡は悩める心を支えることができる。その上、同書簡にはヨハネ特有の文体と表現様式があり、非常に美しく、そして優しく、キリストを実に良く、我々に描いてくれている。」
聖書の他の手紙をみると、書き出しが大体決まった形式が多くありますように、当時のギリシャ語を話す人々の間では、次のような書き出しでした。「神の御心によって召された何々の教会へ、そして、聖徒たちへ、私たちの父である神とイエス・キリストから恵みと平安があるように。」というような文章で始まっています。今の私たちキリストを信じる者の手紙は、主の御名を讃美いたします。とか、簡単に在主とかで始めるのではないでしょうか。決まり文句で始めることが多いように思います。
しかし、ヨハネは最初からキリストを証しする言葉から始めます。1節には
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、良く見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とあります。初めからあったものとは何でしょう。言うまでもなく、父なる神さまと一緒に初めからおられた方イエスさまのことです。
ヨハネはこの世に来てくださった神さまの御子イエスさまと、3年の間、共に生活し、手で触れるほどの身近で、お話を聞き続けましたように「皆さんは私も話していますように、イエスさまの弟子たちを通しても御言葉を聞いています。わたしは、このイエスさまのことを伝えたいのです。そして、イエスさまは私たちにとって命の言です」と、ヨハネは語り始めるのです。
「父の愛の中で」城下忠司(伊丹教会長老)2011.5.1
聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・2章28節~3章5節
【父の涙】
私、最近歌の歌詞を、特別気にするようになりました。讃美歌についてだけではなく、この世の歌全てについてもそうです。何年か前に神戸長田教会で、岩淵まことさんという福音歌手のコンサートがありました。その折に聞いた「父の涙」という歌がとても気に入りまして、その後、この歌が大好きになって、自分でも歌えるようになりました。どんな歌詞かを紹介します。
1、心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎてゆく
「十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛」
2、父が静かに見つめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よ彼らを赦してほしいと、(繰り返し)
【父なる神よ】
今日与えられた御言葉から教えられたいと思います。
天の神さまに向かって、イエスさまは語りかけたり、あるいは祈ったりする時には、いつも神さまを父と呼んでおります。山上の説教の中には、17回も神さまは父であるという言葉が用いられていると言われます。福音書の中のイエスさまの言葉をみますと、天の神さまを御自分の父であるとの言及があちらこちらに出てまいります。たとえばイエスさまがまだ子供のころのことですが、神さまを礼拝する神殿で「自分の父の家にいる」(ルカ2章46)と答えられています。また、十字架の上のことですが、「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」と祈られたことが記されています。
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とこしえに揺らぐことがない者 ウイリアム・モーア
聖書:詩編15篇1−5
1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。
【主の日の礼拝】
今朝私達は神を礼拝する為にこの所に集って参りました。毎週、日曜日の朝ごとにここに集まる動機は色々あると思いますが、基本的に私達は恵み深い誠の生ける神を誉め讃える為に、暇だからではなく、心こめて主の日の礼拝に参加します。
この美しい世界と莫大な宇宙を無から創造し、全人類一人一人も貴重にお造りになりました。思い返せば、日々の生活が全能の神によって守られ、支えられる事にすぐ気付きますので、そういう神に感謝を持って主の御前に出たいのです。ですから、愛する神に感謝と讃美を示す目的で、今朝ここに集いました。何よりも、その為に私達は御言葉を持って讃美し、感謝のお祈りを捧げます。
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兄弟を愛して生きる 城下忠司長老
聖 書:1ヨハネの手紙Ⅰ 2章7~11
◆新しい掟
7:愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。 8:しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。 9:「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 10:兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 11:しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。
【愛する者たち】
「愛する者たち」という、ヨハネの呼び掛けのこの言葉は、丁度2章1節の「わたしの子たちよ」との呼び掛けとも同じ、ヨハネの信者に対する愛を深く感じさせる言葉です。このように、ヨハネの手紙からは、自分の牧会する信者の群れを愛するヨハネの、純粋な気持ちを伺い知ることができます。
この「愛する者たち」という語り方は、この手紙では6回もでてきます。(3:2.11/4:1.7.11)
また、ヨハネの手紙Ⅱでも「あなたがたを愛しています」とありますし、手紙Ⅲでも「愛する者よ」
という言葉が2回、「あなたを真に愛しています」とも記されています。
これらの手紙には、牧会者ヨハネの教会の群れに対する本当の愛の姿を鮮やかに見て取ることができるのではないでしょうか。
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『大いなる愛』城下忠司・伊丹教会長老
【聖 書】ヨハネの手紙I4章13節~21節
13:神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。14:わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。15:イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。16:わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。18:愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
【子ども絵本】
最近ノンフィクション作家柳田邦男さんの書きました。「大人が絵本に涙する時」という本を読みました。この方がこんな風に絵本について語っています
「絵本は子どもたちが第一の対象ではあっても、実は、読む人の人生経験が豊かになるにつれて、内容を深く味わえるようになる、すぼらしいメディアであり、自分自身の生き方や心の持ち方や子どもの心の成長などを考えるための滋養分となるものだ。」と言っています。
いま、伊丹教会では毎月第一土曜日に絵本の読み聞かせの奉仕がなされていて、母親と子どもたちが参加されています。多いときは子供が20名ほどで、とても素晴らしい時が与えられています。私も2度読み聞かせの奉仕をしました。
私は絵本から随分遠のいていましたが、筑波市に住んでいる孫が小学校に上がるまで、孫のところに行った時には、必ず読むことにしていました。実は私の家にはもう絵本はほとんどありません。子供たちが大きくなってから本箱の中から絵本が消え、今は20冊ほどしかのこっていません。
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なくてはならぬもの:愛 ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネの手紙一4章7−12
【洞窟を探険した二人】
二人の青年は幼馴染みで、殆ど毎日一緒に遊びました。互いに家へ行き来したり、学校で同じクラブ活動に参加したり、とても仲良しでした。ある日その二人は近い山にある洞窟を探険しようとしました。懐中電灯を持って、洞窟に入り、結構奥深くまで進みました。青年の一人は足下の所に懐中電灯を照らして恐ろしい光景を見ました。それはでっかい熊の足跡でした。そして、突然、洞窟の先からぞっとさせる熊の吠え声が反響しました。更に、段々近くなる熊の走る音も聞こえました。
【早く逃げたほうが勝ち】
言うまでもなく、二人は死ぬ程怖くなり、必死に洞窟の出口の方へ走りました。しかし、まだ出口に着いてないのに友人の一人は止まって、ブーツを脱ぎ、リュックサックからランニングシューズを出し、それを履こうとしました。相手は彼に怒鳴りました。「お前、何をやってる。速く逃げよう。熊はすぐ後ろに来てるぞ。」
そうすると、彼の相手が立ち上がって、一生懸命に洞窟口へ走り出しました。そして、走りながら後ろにいる友人に叫びました。「俺は熊から逃げなくても良い。ただお前より速く走ったら俺は安心だ。熊はお前に先に襲いかかるから。」
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罪を犯す時 ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネの手紙一1章5−2章6
【だれの奥さん?】
ある男の人が急に耐えられない程、神経質になり、慌てて、掛かり付けの医者へ飛んで行きました。彼は、「私は今日、一日中精神的不安定で、ノイローゼになってしまいそうです。その為に何か良い薬がありますか」と医師に言いました。医師は、患者の問題の原因を知る為、「最近、何か気を転倒させる事がありましたか。例えば、生活に大きな変化があったのでしょうか」と男の人に尋ねました。男の人は、「実は、今朝、この手紙が届いて来ました。」そして、彼は手紙をポケットから出して医者に見せました。その手紙には男の人に対して色々な激しい事が書いてありました。そして、手紙の最後にはこの脅すような言葉があったのです。「もし家の女房との交際を止めないと、あなたは命が無い」と書いてありました。
医者は、「あなたの問題の解決は簡単です。常識ですが、手紙を書いた人の妻とこれから会わない事ですね。その行為を早速止めたら、どうでしょうか。」しかし、そのアドバイスを聞いた男の人はあんまり喜ばなかったのです。「手紙をよく見て下さい。送り主は本当に馬鹿ですよ。何故なら、彼は自分の名前を書きませんでした。彼の名前が分からないと、僕はいったいどうして、その妻の身元が分かるはずですか。どちらの奥さんの事でしょうか。」
【古い、罪のある自分】
「早速止めたら、どうでしょうか。」ただ止めるのは良い事ですが、ある時、止める事は私達にとって簡単ではありません。私達、皆は神と人間に対する罪を犯す事を完全に止めたいと思います。キリスト者としてそれは私達の目標であります。神の光の中で歩んで、私達の生活の全ての事を通して主を喜ばすのは私達の最大の使命です。しかし、私達一人一人の中の古き、自然の人間は罪を好んでいます。神によって造り変えられた新しい私達の性質が罪を憎みますが、古い性質は罪に引き付けられています。その結果、罪は私達の魂に対して攻めてきます。
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2008年01月20日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
わたしの父の家には ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネによる福音書14章1−3
【モリソン宣教師夫妻】
略100年前の事ですが、モリソンと言う宣教師御夫妻は長年のアフリカでの奉仕後、定年を迎えアメリカのニューヨークに帰る事になりました。二人の健康は衰え、年金もなかったので、モリソン御夫妻は色んな心配がありました。偶然の事ですが、彼等はアメリカの大統領セオドア•ルースヴェルトと一緒に同じ客船に乗りました。探険旅行帰りの大統領は一等スウィートルームに泊まりましたが、モリソン夫妻は薄暗い三等船室でした。大統領とその仲間はVIP待遇を受けていましたけれども、誰も宣教師達に留意しませんでした。
まだ航海中に、先生は奥さんにこう呟きました。「これは大変不公平ですよ。我々はアフリカで辛苦に耐えながら一生を捧げましたのに、誰一人私達の事を覚えてくれる人はいませんね。しかし、大統領はただヴァカンスから帰りだけなのに、皆は大騒ぎではありませんか。」
客船がニューヨックに着いた時、ブラスバンドが大統領を歓迎して、大勢の高位高官にある人々は出迎えに来ました。新聞も大統領の帰りを大きく取り扱いました。その反面、誰一人宣教師の帰りを気づく人はいませんでした。その二人はただカバンを持って船から降りて安いアパートを捜し回りました。それから、生活をする為に、仕事を捜そうとしたのです。
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2007年08月12日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書
洗礼の恵み ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書28章16−20節
(川合兄弟姉妹受洗をまえに)
【大きい鍋】
ある小学校の先生はクラスでshow&tell、すなわち「見せて語る」為、生徒達に、それぞれの家族に宗教の代表的物を学校へ持って来るようにと言いました。そして、翌日ある男の子はダビデの星を持って来て、ユダヤ教徒にとってその意味と重要性を説明しました。今度はイスラム教の生徒は新月旗を持って、そのシンボルについて語りました。また、ある仏教の子供は教室の前に来て、小さい仏像を皆に見せて、その意味を説明しようとしました。そして最後に、ある女の子は台所の大きい鍋を持って来て、皆に見せたのです。生徒達も先生もその鍋を見て驚きました。
それはどう言う宗教の代表的物がさっぱり分かりませんでした。女の子はこう説明しました。「我々キリスト者は洗礼を大事にするから、教会にある洗礼盤を持って来ようとしました。しかし、それはあんまり貴重な物だと言われ、持って来られなかったから次善の物、この鍋を皆に見せる為、持って来ました」と言いました。
ここ西谷集会で2003年クリスマス礼拝時に森田兄弟姉妹の洗礼式を行い、皆がクリスマスの大きなプレゼントだと大喜びしたのをよく覚えています。それからもはや三年半になりました。そして、ここ西谷集会にまた神からの大きな喜びが与えられました。今日は川合御夫妻が洗礼をこの礼拝中に受けます。川合御夫妻が今日の日の為に祈りを持って一日一日を待っていらっしゃった事を私はよく知っています。私達も皆この日の為祈って、嬉しく待ち望んで待って参りました。
先程のストーリの女の子が言われた通りです。我々キリスト者は洗礼を大事にします。今日、川合兄弟姉妹は洗礼を受ける際に、私達既に洗礼を受けた者も、まだ受けてない者もその礼典の恵みと意味を新たに学びたいと思います。それによって、私達皆は今日の洗礼式の恵みをよりもっと経験出来ると思っております。
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2007年06月24日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
霊の結ぶ実:愛 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章16−25
【霊の実と肉の業】 16:わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17:肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 18:しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 19:肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20:偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21:ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 22:これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 24:キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26:うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
【キリスト者とは?】
皆さん、「キリスト者であると言うのは、どんな事ですか」と聞かれると、どう答えられますか。その事について考えた事がありますか。多分色んな正しい答え方があるのですが、やはり一番大事なのは、キリスト者はイエス・キリストを唯一の救い主として信じ、頼ります。そして、更にキリスト者は毎日の生活にイエス・キリストに従って生きようとする者なのです。つまり、私達は主イエスを模範として生きたい。又、主イエスに似て行く熱望を持っています。
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2007年05月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書
私達の弁護者 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネの手紙一2章1−6節
【高価なシガーに保険を掛けたずる賢い弁護士】
アメリカで実際に起こった事件です。ある弁護士が一箱の非常に高価なシガー、すなわち葉巻を購入しました。ちょっと信じがたいですが、その24本の葉巻を手に入れる為に1万五千ドル(約170万円)程の代金を支払いました。あんまり高かったので弁護士はそのシガーに火災保険をかけました。そして、彼は一ヶ月以内でその24本の高価なシガーを全部吸ってしまいました。そうすると、彼は保険会社に対して要求を起こしました。葉巻が一連の小さい火事で焼けてしまったと弁護士は主張しました。保険会社は弁護士が通常のようにシガーを消費したともちろん支払いを拒否したのです。しかし、弁護士はその判断を受け入れなかった為、保険会社に対して訴訟を起こしました。そして、驚くことに彼は勝ちました。裁判管は原告の主張が軽薄であると保険会社に同意しました。しかし、保険の契約書にはどのような火事は当たらないと言う事が詳しく載ってないので、残念ながら、保険会社は原告の要求を払う義務があると裁判官が述べました。その判決を受けると保険会社は弁護士にシガーの価値、1万5千ドルをちゃんと払いました。そして、保険のお陰で無料でその優れたシガーを楽しめたと弁護士は大笑いしました。
しかし、弁護士がその代金を受け取ると、保険会社は弁護士を裁判での証言に基づいて、すぐに放火罪で彼を逮捕させました。そして、弁護士は保険をかけられた資産を故意に燃やした罪で有罪判決を受けてしまいました。放火罪で彼は刑務所の24ヶ月と2万4千ドルの罰金を宣告されました。驚きますが、この事件は本当にあったのです。
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2007年03月18日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書
用意していなさい ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書24章36−44
【ある日、突然】
先週の金曜日の午後2時に何をしていましたか。覚えていますか。職場で働いていましたか。家で家事をしていましたか。あるいは、お買い物で忙しいでしたか。想像して見て下さい。丁度その時、誰かが突然やって来て、「今、している事を辞めて私と一緒に行くんだ」と命令しました。そして、あなたは、 「この仕事がまだ終わってないんだ」と返事します。その人はもう一度、「今やってる仕事を辞めるんだ」と言います。すると、あなたは答えます。「まだ2時なのにどうして今仕事が辞められるのですか。」しかし、相手は、「仕事はもう出来ない。辞めなさい。速く私と一緒に来て下さい」と主張します。あんまり強く言われるから、あなたはその人と一緒について歩きます。しかし、「仕事を済ます為、後で戻れますか」と聞きますと、彼はただ、「それは出来ない」と答えます。そして、あなたは恐怖を感じ、「私を何処へ連れて行くんですか」と訪ねると彼は、ただ「遠い所へ行きます」と答えます。「ちょっと待って下さい。私、週末に計画があります。遠い所へは行けません。ちょっと待って下さい」とあなたが言うのに、その人は、 「速く来なさい」とまた命令します。そして、あなたは、「旅の準備が出来てないので、一度家に帰らせてくれ」と頼むと、その人は、「それは不可能だ」と答えます。更にあなたは、「ちょっと待って下さい。準備が出来ていないのに」と叫ぶと、彼はただもう一度、「早く来なさい」と強く主張します。
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2006年12月10日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書
眠りから覚める時が来た ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ローマの信徒への手紙13章11−14
【アメリカ滞在中の出会い】
今年の秋、アメリカの教会訪問中、色々な兄弟姉妹と会って、様々な素晴らしい恵みを受けました。沢山の信徒達の家に泊まり、主にあって貴重な交わりを持つ事が出来ました。その交わりの中、特に一つの出会いは印象深かったのです。それは今日から丁度二週間前の時でした。家内と私はサポートをして下さるノースカロライナ州にあるモントリート教会の主の日の礼拝を守りました。礼拝後、私達のすぐ後ろの席に座った三十代後半の男性が話をかけて来て挨拶を交わし、彼は私達に話を始めました。彼はその町の大学の教授で、音楽を教えているそうです。教授は二年前から、毎日頭痛があって、ついにあまりに酷くなった為、病院へ行って診察を受けました。そして、その結果は最悪でした。脳に悪性腫瘍が見付かり、手術をすぐ受けなければならないと、命が長くないと言われてしまいました。その上、手術が難しいので、受けても結果は全然保証されていないとまた言われました。話が出来なくなったり、麻痺になったり、さらに手術室で死んだりする事もあると告知されました。教授は若い家族があって、危なくても一つしかない希望の道、手術を選びました。
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2006年12月03日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師
詩編133篇1--3
1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。
テサロニケの信徒への手紙一4章9--10
【1.愛がないと。】
(スキット:持ち物をめぐる争い)
先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。
これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。
先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。
教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。
2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
神を愛する事 ウイリアム・モーア
【613の掟】 今日の御言葉によりますと、ある日、ユダヤ教の律法専門家がやって来て主イエスにこのように尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」その当時、律法はユダヤ教の中心になり、宗教の律法を守る事によって、信者は神を喜ばせようとしました。ですから、専門家達が律法を研究して、御言葉の中から613程の掟を見つけました。そして、その613の掟を「重い」、つまり重要なものと「軽い」すなわち、それ程大事ではない掟に分けました。マタイによる福音書22章34-40 ◆最も重要な掟 34:ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35:そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36:「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37:イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38:これが最も重要な第一の掟である。 39:第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40:律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
またある学者によりますと、律法を重いものと軽いものに分けてはいけない事だそうです。なぜなら、もし神から授けられたものだったら、全ての掟は同じく重要であり、従わなければならないものなのです。ですから、律法を区別する事は神に対して罪になります。ユダヤ教の学者達がこの二つの立場を激しく議論しましたけれども、なかなか決定する事が出来ませんでした。
【最も重要な二つの掟】
恐らく律法の専門家が主イエスをこの問題に巻き込む為、また、試そうとして、
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」
と聞きました。そして、イエスは迷わずにはっきりとこのように答えられました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
主イエスのお答えは真に素晴らしいものでした。その二つの掟に神の全ての律法が纏められています。何故なら、もし神を本当に愛するならば、真の神をおいて他の神を拝まないし、神の名をみだりに唱えません。また、神を愛する者は安息日を心に留め、聖別します。同様に、もし隣人を愛するならば、もちろん隣人を殺さないし、その物を盗まないし、彼に関して偽証などをもしません。つまり、愛の掟に従ったら、神の御旨に従って生きる事が出来ます。
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」
と主が言われました。もし心からこの二つの掟だけを守ろうとしたら、同時に残りの611の掟も守る事になります。
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完璧な贈り物 ウイリアム・モーア宣教師 クリスマス礼拝
◆イエスの誕生 ルカ福音書2章
1:そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3:人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4:ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5:身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7:初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
8:その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9:すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10:天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11:今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12:あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
【子供だった頃】
私は子供の頃、一年中クリスマスが来るのを一番楽しみにしていたのでした。何故かと言えば、クリスマスに沢山のプレゼントが貰えるからです。我が家ではお年玉の伝統がなかったので、おもにクリスマスにプレゼントを頂きました。そして、我が家では、その包装紙とリボンで包んだプレゼントをクリスマスの前に絶対に開けてはいけないと言うルールがありました。ですから、子供の私には、クリスマスが来るまで待つのはとても難しいことでした。今も覚えていますが、クリスマスが近くなると母に毎日こう聞きました。「ママ、クリスマスまで後何日残ってる?」そして、その日数が小さくなる程、幼い私の興奮がますます高まりました。
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2004年12月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書
【私達が愛するのは神がまず私達を愛して下さったから】ウイリアム・モーア
【神は愛です】ヨハネの手紙一4:16bー21 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 17:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 18:愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
【ウエスレー兄弟の先輩―ウイリアム・ロー】
メソジスト教派の創始者であるジョン・ウエスレーは神学生の時、良いクリスチャンになる為に、一所懸命に頑張りました。兄弟チャールズと一緒に英国のオクスフォード大学で仲間を集め、厳しいクリスチャン生活を送りました。そのグループは「ホーリイクラブ」すなわち神聖クラブと呼ばれていました。色々な厳しいルールを作って、真面目、真面目に神に従おうとしました。しかし、残念ながら、いくら頑張っても彼等は平安と喜びをあんまり経験出来ませんでした。ウエズレー兄弟がアドバイスを求め、先輩ウイリアム・ローに訪ねたどころ、ロー先生はこのように言いました。「君達はキリスト教から面倒くさい複雑なものを作っている。実は、キリスト教信仰は本当に簡単です。我等の信仰の本質はただこれです。『私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。』」
【キリスト信仰の本質―神は愛です】
キリストの信仰は基本的に難しくはありません。もちろん聖書のある箇所は色々な解釈があって、神学の微妙な違いで議論に入る事が出来ますけれども、本質は実に簡単です。その本質について少し考えると、キリスト教信仰の重要な点はピントが合って来て、主イエスに従う意味が新たに分かってきます。
さて、簡単にキリスト教信仰とキリスト教会を説明する事が出来ますか。「私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。」恐らく何よりも、これは私達の信仰の本質だと思います。ある程度、神秘に包まれているので、全能の唯一の神についてまだ分からない事があります。しかし、私達人間に対しての神の御業は、十分分かっています。それは主に愛です。神様は御自分の大きな愛から私達を愛して下さいます。今日の朗読の通りに「神は愛です。」もちろんキリスト信仰には天国の素晴らしい事についての教えがありますが、今、この世にあっては、神に愛された事と隣人を愛する事を強調します。そして、キリスト教には律法、すなわち規則があるけれども、愛は全ての 律法を成就します。
社会では愛の事について良く聞きますね。多分これはキリスト教の影響だと思います。しかし、社会に愛を実現するのはなかなか難しいです。なぜなら、愛がかなり誤解されていると思います。その理由は、愛にとって絶対に必要な基盤を知らず、愛を実現しようとしているからです。その基盤とは私達の為の神の愛であります。神が先ず私達を愛して下さったから、私達は愛する事が出来ます。本当の愛の源は神からです。