ルカによる福音書

2015年12月20日説教「救いのために天から降ってきたイエス・キリスト」 金田幸男牧師

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新約聖書 カによる福音書2章
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

説教「救いのために天から降って来たイエス・キリスト」

聖書:ルカ福音書2章8-20

 

要旨 

【クリスマス=キリストの礼拝】

 クリスマスという英語は、「キリスト」と「ミサ」という二つの言葉の複合語です。「ミサ」がよくご承知のように、ローマ・カトリック教会でつねに行われている礼拝を指しています。

クリスマスとは、キリストの礼拝を意味します。

 

 その「ミサ」は古い英語から発していますが、さらに遡りますと、ラテン語のミシオ(送る)から派生しています。ミシオから英語のミッションという言葉がでます。ミッションとは、外国へ派遣される使節を意味していましたが、キリスト教の宣教団体もミッションと言い、派遣される宣教師をミッショナリと呼び、外国へ送り出す人々を指し、その団体をミッションと呼んだのでした。

 

実はこの言葉が宇宙飛行士が船外作業をすることにも適用されました。特別な任務を帯び、船外に送り出されて仕事をすることがミッションでした。本来、ミサはキリストを礼拝したものが送り出されることを指していましたが、後には、礼拝全体をミサという表現で表わしたのでした。

 

 クリスマスはキリスト礼拝を意味していましたが、キリストを礼拝し、その恵みを心に留めながらそこを離れていく、送り出されることを意味しました。

 

 クリスマスはキリストの誕生を祝う日であることを否定するものではありません。偉大な人の誕生が特別な日とされます。英雄、偉人の誕生日が大きな祭と結びつくのはどこでも見られます。

 

クリスマスがキリストの誕生日を祝う日であることは間違いありません。しかし、クリスマスが単にキリストの降誕を祝うだけの日ではありません。

 キリストは処女マリヤから生まれてきたことは確かです。しかし、私たちの場合と異なる点があります。私たちは母の胎から生まれてきました。キリストも母親から生まれてきました。しかし、キリストの場合と私たちの場合は決定的に異なっています。

 

【天から降って来られた神の御子】

 キリストの場合、天から降って来たとご自身が語られています。ヨハネによる福音書6:42では、イエスが「わたしは天から下ってきたパン」だと言われました。キリストは天から来られた方だとご自身が証言されています。

 

【「天」とは】

 「天」とはどこでしょうか。近代人は「天」という概念を素直に考えることができなくなりました。かつては天は大空でした。あの青い空の向こうに天があると素直に信じていました。しかし、今ではその大空を大きなジェット飛行機が飛び、ロケットが宇宙空間に飛び出してしまっています。宇宙の向こうに天があると言っても大半の人は造り話と片づけてしまいます。その点、ますます現代人は進歩しています。昔、ソ連の宇宙飛行士が、「やはり神はいなかった」と言いました。無神論者であるパイロットにとって見れば、宇宙は天ではありませんでした。そうだとするとそんなものは神話だと考えます。天は場所的な名前ではなく、神がおられるところであり、生身の人間が近づくことができません。

 

 私たちは自分の五感で知覚できないことを信じようとしません。五感を越えてご自身を明らかにしている神を否定する傾向にあります。神を否定するところでは天も否定されます。そんなものは空想だと思うのです。

 

 科学が進歩すれば天の存在など空想だと思われていました。実際天の存在を否定する人が多くなっています。天など現代のもろもろの考え方からすればありえないと思われます。それは空想の産物と思われる可能性があります。

 しかし、天がないと言うことは、神がいないと言うことと同等です。天は神のいますところです。神がいなければ天もありません。天などないという主張は神がないという主張と同じです。

 

【「神はある」】

しかし、聖書は「神はある」と断言されます(出エジプト3:14)。神がご自身について、「ある」と言われます。神があるといわれているのに無神論者は「神などない」と強く主張します。「ある」と「ない」は相容れません。妥協もできません。神があるといわれているのに神がないなどということはできません。

 

 神が存在しなければ、天もありません。しかし、神は存在します。そうすれば天も存在します。天はあります。私たちは想像を逞しくして天を想定しなければなりません。むろん想像をしてからよく分かるものではありません。

 

 神が自ら存在すると言われました。すると天も存在します。そこが神のいますところだからです。

 キリストは天から下ってこられました。この下降は目的があります。一言で言うとキリストは私たち人間を救うために来られました。キリストは目的なしに天から降ってきたのではありません。まさか遊びに来たわけでもなく、何かを調べに来たのではありません。キリストは救いのために来られました。

 

【「救い」の核心】

 ところで、「救い」という言葉も現代人には実感を伴わないあまり心に響かない用語となりました。救いとは何か。救いをいろいろと定義できるでしょう。

お金がなくなった人に、宝くじか何かで偶然に手に入る。それが救いだと言うのです。

病人が癒される。この場合も救われたといいます。

難しい問題があってさ迷っていたが、ようやく解決策を見いだすというようなことを救いといいます。

 

 救いとはいったい何か。一般に「危険を免れる」ことを救いと言っているように思います。危険な状況を免れること、困難なところから解放される。これが救いと言われます。このような言葉の用法が間違っていると思われません、しかし、まことの救いは上にあげられた事柄以上を成し遂げられたお方からきます。 

 

 救いは確実なもので、最大の危険からの解放を意味します。私たち人間にとって最大級の危険と何なのでしょうか。答が多くあるように見えますが、私たちに困難をもたらすのは、「死」ではないでしょうか。

 

【死とは】

 すべて私たちは「ある」という世界に生きています。しかし、死は私たちを非存在にします。死は私たちをないものにしてしまいます。これ以上に恐るべき現象はないと思われます。あったもの、有であったものが急にいなくなるのです。

 

 死は一切を失わせます。この危機をもたらしたのは、人間の罪、言い換えれば、神からの離反でした。神よりも上に立とうとする傲慢さこそが罪です。この罪が根本的に解決されなければ救いはありません。

 キリストはこの罪から私たちを解放しようとして天から降ってこられました。

 

【人は神になり得ない】

 私たちのほうから天に昇って行けません。それは人間自身が神になることを意味しています。人間が神になろうとする。こういうことは常に起きています。しかし、人間が神になろうとして、その人間がよいことをした例はまれどころか皆無です。人間が神になって暴君となり、圧制者となり、

苛酷な政治や統治を行った例は枚挙の暇がありません。人間が神になってろくなことはありません。人間は自らの立場で神になることはできません。

 

【神が世に降られた】

 神のほうが降ってこられました。天から降ってくるとはそういう意味です。

 神が人間と等しくなられます。罪を除いては。

 

 キリストはいのちにいたる道筋をつけてくださいました。この道を行けば必ず目的地に到着します。そのために天から降ってこられました。キリストはご自身に従うものにその道を示されます。間違いなく示されます。それが十字架の道です。

 

 十字架にこそ、私たちが救われる道が刻印されています。この道を行けば必ず天にいたります。聖書はこのキリストに行く道を余すところなく記します。私たちはこのキリストの行かれた道をしっかりと把握するべきです。

 

 キリストは、天から下ってこられ、またそこへ戻られました。私たちの同伴者として今もキリストは私たちと共におられます。キリストが同行してくださいます。キリストの弟子として、キリストを信じて、彼に従って歩むことが私たちもまた天に行く道をしっかり捉えたということを意味します。(おわり)

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2015年12月20日 | カテゴリー: ルカによる福音書

2013年11月24日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師

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20131124日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師

【聖書】ルカによる福音書5111

1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。

3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。


【主題】キリストの御言葉に聞き従う祝福の偉大さ

《Ⅰ》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト

《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さる

①人知を超えた御言葉の深みへ(全知の神への信頼)

②生ける神を知る畏れ

》イエス.キリストに従う光栄

 

I》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト

【ガリラヤ湖畔で主の周りに集う群衆】

今日のルカ福音書の御言葉は、読者である私たちの胸をワクワクさせるような楽しさを持っています。この出来事は、恐らくちょうど今くらいの時刻か、あるいはもう少しお昼近い頃のことであったと思います。イエス様は、ゲネサレト湖、別名ガリラヤ湖の湖畔に立っておられました。

 

私たちにもそういうことがあるのですけれども、湖などの岸辺に立ちますと、湖畔の美しい景色や、湖に浮かぶ舟を眺めたりして、神様が創造された自然界の美しさに心を和ませられるものです。私もこの西谷伝道所を訪れるとき, 千刈キャンプ場近くに静かに流れる美しい流れが好きで眺め、一寸車を止めて眺めています。イエス様が岸辺に立っておられたのも、そのような美しい湖の風景を見ておられたのではなかったでしょうか。

 

するとそこへ、御言葉を聞こうとする大勢の群集がイエス様の周りに押し寄 せてきたといいます。そして、その群集の数は段々盛り上がって、恐らくイエス様も段々群集に押されるようにて水際までさがってお話しするような、足場もない状況になって来た程でありました。

 

イエス様は、この状態では、舟に乗って舟の中からお話する以外にないと考えられたのでありましょう。西谷伝道所のこの会堂も舟です。でもシモン達が乗っていたような漁師の小舟とは違います。ですから大勢の人が入ることが出来ますので、ガリラヤ湖畔の時のように、説教者の居場所に困る位、会堂が礼拝する人々でいっぱいになったらどんなに望ましいことだろうかと思うのです。

 

神様は、このような会堂を建てさせて下さったのですから、私たちにはこの地域の全ての人々をイエス様の許へ招く責任があると思います。さて、イエス様は岸辺を見渡して、ニ艘の舟が岸にあるのをご覧になったといいます。

 

そして、舟の傍には漁師たちが船から上がって、今しがた漁で使った網を洗 って繕っている姿をご覧になったというのです。*朗読2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。

 

この網を洗う漁師たちの姿は、一日の激しい勞働や様々な働きに疲れた姿であります。そしてそれは、彼らの社会生活・市民生活の姿であります。

 

【網を洗うシモンたち】

そしてこの網を洗う光景には、彼らの生活が抱えている苦しみや喜びや悲しみ、彼らの生活の香りが漂っています。そしてイエス様は、そのニ艘の舟と漁師たちの姿に、この世に生きる彼らの人生とその労苦をご覧になっておられるのです。そして、彼らの心の中をもご覧になっているのです。

 

そして片やこちら側には、イエス様を囲む、神の国,天国の福音に耳を傾けている夥しい人々の集まりがあるのです。そして、ガリラヤ湖畔における、このニつの光景のコントラストは、今このように西谷伝道所の会堂に集まって、神を礼拝している私たちの光景と、私たちの外で營まれているであろう地域の人々の様々な活動の光景と同じコントラストがあるのであります。

 

私たちは今、この世の唯中であれやこれやと働いたり、喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、んだりしている人々の生活の直ぐ近くで、こうしてルカ福音書の言葉を語り聞き、神を贊美し、神に祈り、神の安息に与るという神の国・天国 の活動の真唯中に身を置いているのです。

この私たちと教会の外側の地域の人々とのコントラストと、ガリラヤ湖のイエス様を囲む群衆と、漁師たちのコントラストは重なるものがあるのです。

 

【シモンはイエス様を乗せた舟を】

そしてイエス様は、この二つの別々の活動を、決して無関係のものとして見ようとしてはおられなかったことを3節に見るのです。*朗読3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。

 

イエス様は、この世の只中で、網を洗っているシモンの持ち舟に乗って、「岸から少し漕ぎ出してくれるように」と頼んだのでした。イエス様は、この世の働きから、神の国の働きの中に参加し、天国の働きのために奉仕し貢献することを願って、シモンに船を出してくれるよう頼まれたのです。

 

すると、頼まれたシモンはどうしたのでしょうか。

 

恐らくシモンは夜通しの漁で疲れ果てていたことでしょう。それも、少し位収穫があったなら、その疲れはあまり苦にならなかったでしょうけれども、その日は、 雑魚一匹取れなかったというのですから、疲労の上に落胆の気持ちが重な って、大変辛い思いを抱いていたに相違ありません。シモンとしては正直のところ、網を洗い終えたら、すぐにも家に帰って休みたいところだったと思います。

 

しかし、イエス様は、そんなことが分からない訳ではないのですけれども、むしろそれを承知の上で、シモンに舟を出してくれ、と賴まれるのです。

 

そして、その賴みを聞いたシモンはどうしたかと言いますと、むげに断ることもなく、快くイエス様の賴みに応じたのでした。

 

そして、シモンはイエス様を乗せた舟を漕ぎ出しましたので、②

イエス様は舟に腰を下ろして、岸辺に集まった多くの群集に向かって無事に説教を語ることが出来たのでした。

 

しかしシモンとしては、まだこの時、自分が神の国・天国の働きに仕えている のだという意識はなかっただろうと思います。そして、くたびれており失意の中にありましたけれども、唯イエス様から賴まれたので、それを断ろうとはせずに、唯親切心から自分の舟を出しただけのことだったと思います。けれども、イエス様は 彼の人生を良く知っておられ、彼はこの時意識せずして、この世から召し出されて、神の国・天国の勸きに用いられてぃたのでした。

 

そして、やがて彼はこの湖の出来事の後に、後日イエス様によって正式に使徒として召されることになるのです。そしてイエス様は、現在も神の国・天国と教会のために、この世をも見ておられるのです。そして主イエスは、この世には、世の労苦やしがらみの中から、神の国・天国の平安の中へ招き入れようと神が定めておられる人々がおり、神の国と教会に奉仕する人々を召し出そうと望んでおられるのであります。

 

《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さ

さて、このシモンとは誰かといいますと、438節を見ますと、 妻の母親の病を癒やして戴いたシモンであります。そして彼は、この日の出来事の後でイエス様から「シモン・ペトロ」と呼ばれる人になる訳です。

 

ルカによる福音書438 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。

 

【イエス・キリストからの召し】

そして私たちは、この時の彼の態度から、素晴らしい手本となるものがあることを学ぶのであります。それは、彼がイエス様の突然の賴みに対して「自分は疲れていますから、今お手伝いすることは出来ません」と言って断らなかったことであります。むしろ快くイエス様の言葉に応じたことであります。このシモンの態度がこの後、神様の大いなる祝福と惠みを体験するきっかけになり、そして神の国,天国の福音に仕える働きに召されることになって行ったのであります。

 

私たちが、教会の役割や奉仕などに召される場合に、つい自分の都合や、 自分のしたいことを優先させて、あるいはこの世の働きを優先して、教会の御用を後に回したり、場合によっては逃れてしまうというようなことがありはしないでしょうか。シモンの姿に見習わねばならないと思ぃます。

 

私たちは、礼拝を始めとして、教会の活動には、全て必ずイエス・キリストからの召しがあること、そして神の国の働きのためにイエス・キリストが私たち一人一 人を賴みとして下さるものがあるのだ、ということを覚えている必要があると思います。そしてシモンのように、自分の思いを後に回してでも、まずは神の召しに応えて行くことを優先させるように心がけていきたいものであります。

 

     人知をはるかに超えた神の惠みの深みへ(全知の神への信頼)*4~7節

さて、シモンとしましては、イエス様の語る御言葉を聞いて感激もし、同時に自分の舟がイエス様に用いられたことに対する満足感を覚えて舟を岸に戻そうと思っておりました。その時でした。御言葉を話し終えたイエス様の口から、シモンに向って思いもよらぬ言葉が告げられたのでした。

 

【沖へこぎ出し、網をおろして漁を】

4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。 

 

イエス様は、このような言葉をもってシモンに語りかけてくださいました。そしてこの御言葉は、シモンにとって少し意外なものに聞こえたのでした。

 

私たちの日常生活において、神様の御言葉というものは、この場合のように とはかけ離れた、思いもよらない内容の言葉である場合が以外に多くあるのであります。このシモンに対する言葉が正にそうでありました。それは、漁師シモンの返事にその驚きが表われています。

5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。

 

シモンにしてみれば、このイエス様の言葉は、あまりにも現実離れした啞然とするような言葉であったのかと思います。シモンは、プロの漁師だったからです。 しかもガリラヤ湖の漁については、知り尽くしているベテランの漁師でした。いつ 頃、どのくらいの深さで、どうやって網を降ろしたら魚が最も良く獲れるのか。

 

それをよくよく知っている玄人であります。そのベテラン漁師のシモンを始め、 いずれ劣らぬその仲間達が、頃合を見計らって、夜通し最善を尽くして苦労したけれども、何故か雜魚一匹獲れなかったというのです。そもそも長年の漁師生活の中でも、朝まで網を降ろして一匹も取れないというようなことは滅多 にないことでした。それなのに、イエス・キリストは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、 漁をしなさい。」これは、漁のことを知り尽くした腕に自信のある漁師にしてみれば、なんと現実的でない無益なことではないか。

 

シモンはイエス様の提案を内心そう思ったかもしれません。シモンだけではなく、漁師仲間たちは皆、そう思ったことと思います。

 

確かにイエス様の言うことは実情に合わないことでした。何故なら、第一、 漁に適した時間は夜間から夜明けまでであって、自分たちはその時間に朝まで漁をして、しかも一匹も獲れなかったのでした。

 

そのため身体はくたくたに疲れているのです。たまたま折り良くイエス様の御言葉も聞けたので、もう家に帰りたいところなのです。叉当時の資料によると、網による漁は投網漁と引き網漁があったと言われますが、投網漁ならもちろんのこと、引き網漁にしても沖,即ち深みに網を降ろすということも、当時の漁法としては考えられない方法だと言われます。

 

けれども、イエス様は時間も場所も関係ないかのように「さあこれから漁をしなさい」と言われるのです。        

 

【お言葉ですから】

しかも「沖に漕ぎ出して深みに網を降ろしなさい」と、なんとも無知とも、無邪気とも思われることを言われるのです。シモンは、それに対して答えました。

「先生、わたしたちは夜通苦労しましたが.何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網をおろしてみましょう」。

この、前半分はイエス様の提案に否定的な答えであります。「これから漁をしても無馱でしょう」という気持ちの表れであります。しかし、ですけれどもシモンは「私の経験や知識はともかくとして、イエスお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えているのです。

 

このシモンの思いには「何か変わったやり方だから試してみましょう」というものはないのです。「はっきり言って私の知識や経験とは全く違います。けれども、 イエス様あなたの言われる言葉、あなたの御意志であるならば、網を降ろしてみましょう」と言うのです。沖に網を降ろすことは、彼らの人生の未絰驗ゾーンでありましょう。しかし、シモンのこの柔軟な判断と決断は素晴らしい驚くべき結論をもたらしました。*5B~6節。

 

イエス・キリストの教え,聖書の教えというものは、全てが、私ども人間の知惠や一般常識と違うものであるという事ではありません。聖書の教えは、多くの場合、天地自然の法則と矛盾するものではありません。しかしある信者は、薬や化学的な治療に頼らない方が良いと言って、神様に祈る事を強調して失敗する人がいます。もちろん病気のために祈ることは必要です。が、迷信的に祈りに頼るべきではありません。しかしまた、科学的でさえあれば、祈りは不要であると言う考えも、これ又迷信的な生き方であることを現代人は知るべきであると思います。そもそも、私たちは自然と言うものをどう考えるかが大切なのであります。

 

つまり、自然は偶然に存在していると考えるのか、それとも自然は偶然に存在しているのではない、と考えるかは重大な違いがあるのです。それは無神論と有神論の違いです。    

有神論はこの天地自然は神が創造されたものと考えるのです。そして神の創造を信じることは神の摂理(自然は神が保存し治している)と信じる訳です。

 

しかしこの自然界が自然に、言い方を変えれば偶然に発生し存在しているという無神論的な考えからは、自然の中に神の働きを考えませんから、病のために神に祈ることは愚かなことになる訳です。けれども同時にこの自然界を神が摂理(保存し治)しているという有神論的な考えは、 自然の秩序も神が創造し、神が摂理しておられると考える訳です。

 

ですから、私どもは自然の秩序から学んでいる科学を常識として重んじますけれども、科学万能を信じる訳でもありませんから、神に祈ることを大切にするのです。しかし、近頃の社会は、大気汚染や地球温暖化等の現象から、 科学万能に疑義を感じるようになりました。          

 

ですから天地の創造者であり摂理の主である神を知りませんと、唯やたらに科学を否定してカルト的な奇跡や、怪しげなスピリチャルカウンセリングなどに惑わされる危険性もあるです。そういう意味からも、私どもは、全ての物事を摂理しておられる天地の主なる神であり、救い主であるキリストの言葉を、隣人に証する責任が大いにあるのです。そしてキリスト者は、生活において有神的な人生観・世界観を世に証する者として召されているのです。

 

そこで、イエス様の言葉に率直に從ったシモンたちの様子を見ましょう。

 

朗読67節、6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。

8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。

 

彼らはイエス様の言われるままに、沖へ深みへと舟を漕ぎ出しました。そして網を降ろしますと、そこに恐ろしいほどの手応えを感じたというのです。 確かに、彼らのプロの漁師としての絰驗と知識は科学的に適うものでした。

 

しかし、彼らは謙虛に自分の絰驗を横に置いて、とにかくキリストの言葉に率直に從ったのです。あるいはその行動は岸辺いる群衆からはからかわれる事かもしれませんでした。しかし反面、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦そういう世間的な考方から離れる事でもあったのです。

彼らが沖へ漕ぎ出すことは、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦一般世間の環境から離れて、心を解放し自由にしてイエス様と面と向き会うときともなったのです。そうすることによって彼らは、この社会で每日生きている処とは異なる世界を、湖の沖の深みに体驗するのです。

 

彼らは、神の言葉に從うという体験の中に、それまでの自分知識や経験をはるかに超えた、神の支配・.神の深い恵みの支配を見たのです。シモンは、 この時はまだそこまでは自していたかどうかは分かりません。

 

けれども、シモンの成功の鍵は、神の言葉に対して自分を無にしたことにありました。自信に滿ちた自分の知惠も知識も驗も、この際横に置いて、とにかく神の言葉に生きてみようとした結果、彼はこの世界の全てを創造し、全てを摂理しておられる神の図り難く深い知恵と、大いなる力に触れたのでした。そして、その結果は大変なものになりました。

 

 

ここでイエス様が教えようとしたことは、決して大漁になる極意をシモンに伝授するためではありません。叉、プロの知識や絰驗が間違っているということでもありませんでした。神の摂理の計り難さ、それ故の人生の計り難さ、神様の御心の計り難さ、驚くべき神の恵み深さ・.豊かさ、正に驚くべき恵み、ァメージン グ・グレースを実感させられる事だったのです。

 

 生ける神を知ることの畏れ  

恐らく彼らは網に入った魚を二つの舟いっぱいに引上げて、舟が沈みそうになるまでは無我夢中でした。事の成り行きを落ち着いて考える余裕も何もありませんでした。しかし、この驚くべき収穫に気付いた時、シモンはイエス様の足元に平伏して叫びました。

 

ルカによる福音書5:8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。

ここにシモンの言葉と態度に大きな化が起こりました。

 

5節ではイエス様を「先生」と呼んで、その提案を半ば否定的に思っていましたが、ここでは「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです

 この福音書記者ルカも叉、唯[シモン]ではなく、「シモン・ペトロは と書き変えています。彼はイエス様の言葉に、自然を超えて働く神の力を知らされたのです。そして神の力が彼自身の心に届いたのです。それ迄イエス様は 単なる尊敬する「先生」でしたが、ここで'は「主よ、即ち神よ丨という呼び方に 変化しているのです。真の神に触れたとき、彼は自分が「罪深い者」である事を悟る人になっているのです。自分の罪深さを認識する。それは神の御業なのです。私たちは、イエス・キリストの言葉に聞き從って生きて行きますとき、その惠みと力を味合うことが出来るのです。そして、神の患みと祝福溢れるばかりの豊かさを知りますなら、私たちは生ける神の前に自分が罪に汚れた不信仰な存在であることの畏れを実感させられるのであります。

 

皆さんの信仰に至るプロセスも同様です。初めはキリストは単に世界的に有名な宗教家か人生の偉大な指導者であり、愛の人に過ぎないのかも知れません。しかし、その福音を聴いていて信じ、従って行きますと、次第にイエス様 が天地の主なる神であることが分かり、自分が罪人であることが分かって来るのです。そして、イエス様が惠み豊かな救い主であることが分かって来れば来る程に、自分の罪が鮮明に見えてくるのです。

 

《Ⅲ》イエスキリストに徙う光栄

【人間をとる漁師】

そしてシモン,ベトロの信仰は更に深くされる必要がありました。何故なら、真のキリストへの信仰は、決してキリストから遠く離れて恐れおののくことではないからです。イエス様はシモンに言われました。

10節後半」すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。

確かに真のキリスト信仰には「私は不信仰で汚れた罪人であります」という意識が伴います。

 

けれども、それはイエス様にして「どうかわたしのような者から離れて下さい」というところから、逆にキリストの懷に飛び込んで行くのがキリスト信仰なのです。信仰は、 謙遜そうに,聖なる神から,イエス・キリストから遠く離れて生きるものでは決してありません。イエス様は「恐れることはない」と救しを宣言して下さるのです。

キリスト信仰は、恐れおののいて神を離れて生きるのではありません。罪人が罪赦されて、神を畏れ敬いつつも、その恵みに信賴してキリストと一緒に生きるのです。そればかりか、キリストの使命に生きることが真の信仰なのです。

 

「人間を獲る」は「人間を生け捕りにする」という意味です。

 

「人間をとる漁師になる」これは直接的には、シモンを使徒として:召された言葉ですが、 元の意味は「人を真に生かすために漁る」という意味です。      

 

酸素の欠乏し濁った溜まり水の中から、生け捕って、酸素を豊かに含んでいる生きた水の中に移す、それを「人間を漁る」というのですね。

 

ですからこの出来事全体は、将来の教会の使命を予表した出来事なのでした。つまりこの出来事は、教会とキリスト者は、この世の人生に唯衣食住を追求して、神もなく希望も平安もなく唯労苦し、思い患いつつ生きている人を、 イエス・キリストが恵み深く支配する神の支配の幸いと喜びの中に、伸び伸びと自由に生きる人生へと漁る働きに召されていることを、前もって表す出来事でありました。

 

神様は私たちの日常生活の中に啄木が「働けど働けど猶(なほ)わがくらし楽にならざり,じっと手を見る」と歌ったそういう現を体驗することがあります。 ベトロ達のこの日の漁も似ています。神は通常の人間生活の中に、時として、 労苦が無駄であるかのような試練を与えられることがあります。神が通常の惠みの御手を控えられることがあるのです。

 

今の社会も、かつての右肩上がりの絰情勢がまるで夢であったように想われる行き詰った状態が繞いています。そればかりか、自然の大災害や原発事故のような恐るべき人災が相次いで起こります。高級有名ホテルやレストランが誤表示や偽表示を行い、政治や経済や教育の世界までもが人間の生命の大切さを見失い、人間としての正常な感が麻痺して来ているので す。子どもたちの、友達を自殺にまで追い込む虐めが心を痛めます。

 

【一般恩恵と特別恩惠】

これが近・現代社会に現れている頸著な兆候です。神が恵みの御手を控えられているのです。余りにも、人間が人間の知恵・.知識・経験だけを良しとし、神の恩恵への感謝を忘れて歩むとき、神はそこに一般的な恩恵(コモン グレース)を差控えられることがあるのです。ペトロ達の夜通しの漁のように、雜魚一匹取れない試練を与えられるのです。

 

しかしそのような試練は、同時に、神の言葉という特別な恩惠(スペシャル グレース)を教え示されるときでもあるのです。それは、人間の思いを遥かに超えた神の恩恵を伴う言葉です。それは人間の罪を救し、救いを与えるキリストの十字架の福音です。

 

【福音の網を社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ】

キリストの福音、それは、救い主であるイエス・キリストが十字架の上に死に、 死から甦ることによって罪人の罪を救し、救いを与えるという良き知らせです。 ですが、キリストの十字架の福音程、人の経験や知惠や常識とかけ離れたことはありません。ある人には十字架の言葉は、愚かにも思えるのであります。

 

しかしこの十字架の福音にこそ、実は滅びゆく人を生かす神の知恵と力が 秘められているのです。*1コリント1:1825       18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。                     

 

人は天地万物を創造し保持し統治しておられるキリストの恵み深い支配を受けて生きてこそ、真に生かされるのであります。

 

そして神の言葉を聴くためのキーポイントは、漁師ペトロのように自分の心を低くし空しくてイエス・キリストの御言葉に聞いて従うことにあるのです。

 

人を罪と死に結び付ける人生から、キリストのいのちの中に漁どるキリストの言葉・福音というものは、確かにこの世の知惠とも常識とも異なるのです。

 

そういう訳ですから私たち教会・キリスト者は、この世の常識や経験を絶対視するのではなく、むしろこの世にはない神の測りがたく深い御心に素直に聽き従って、キリストの言葉・福音の網をこの社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ、 つまり私たちの知識や経驗を超えて、滅び行く人の心の深みまで、福音の網を投げる努力をすることによって、神の恵み深い支配〔摂理〕を知って行くのであります。そのようにして人を天国へ移し漁る、この西谷伝道所の舟「西谷丸」の使命を果たして頂きたいのです。この光ある使命に感謝しつつ共にイエス・キリストに仕えてまいりたいと思います。

 

《祈祷》

天地万物の造り主にして、救いの主でいます父.御子.御霊なる神様。御名を讚美し、その豊かな御心と、大いなる愛の御業の故に心から感謝を申し上げます。

愛する西谷伝道所の公同礼拝に奉仕を許され感謝致します。あなたは私共を、この世から御名を礼拝するようにと、御許へと呼出して下さり、御言葉を通してあなたの御心を教え、大いなる 恵みを与えて下さいましたことを深く感謝申上げます。

私共は、しばしばこの世の生活の中に埋没して、あなたの深い御心を意に介さず、社会の風潮や習慣、自分の知恵.力に賴んで生きる愚かな罪ある者であります。しかしあなたは、そのような私共の現をご存知であって、時宜に適って御言葉を語りかけ、あなたの惠み豊かなご支配を明らかに示して下さいます。又あなたは私共を常にあなた御自身の御許へと招き、神の国の御用に用いようとしていて下さることを教え示されました。どうか、私共が如何なるときも、あなたのみ言葉とあなたの御用を優先する自由で開かれた心を常に抱いて生きて御言葉に從い、御心を行う者とならせて下さい。そして、あなたの大いなる恵み深い摂理の中に感謝しつつ生きる者として下さい。

神よ。昨年の震災の苦から回復出来ない東北の人々を顧みてください。そしてそれに伴い生じた原発事故は、正に人間の傲慢と、至らぬ知患に過信した結果が招いた災いでありました。神よ、どうか今なお先が見えないままにみ苦しむ福島県の人々を憐れみ助けてください。国が相応しい援助を与えるべく用いて下さい。渦中にあります教会・ 伝道所を顧みて下さり、主の豊かな恵みに支えられて、周囲の人々に希望を与えるために福音の光を高く掲げ、主の恵みを執り成すものとしてください。尊き主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

2013年11月24日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

2013年9月15日説教「福音に込められた神の恵みと栄光」佐々木弘至牧師

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2013915日説教「福音に込められた神の恵みと栄光」佐々木弘至牧師

 

聖書:ルカによる福音書416節~30

【ナザレで受け入れられない】

16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」

20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」

23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。

27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

(説教要約 文責近藤)

【主の恵みの年を告げる】

前回の復習ですが、主が生まれ故郷ナザレに帰られ会堂で説教された時、主イエスは旧約聖書のイザヤ書61章12節の言葉を朗読されて、

18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」

 

このイザヤの預言は「今日、あなた方が耳にしたとき実現した」と言われたのです。記念すべきこのことは旧約聖書全体を要約した救い主到来の預言が実現したとの宣言です。

 

【ナザレの人びとの主に対する態度】

ナザレの人々はこの主イエスの語った説教に感嘆し、これを褒めました(22節)が、実はその後の反応を見ると、中身はそうではなかったことが分かります。言うことは立派だが、今語っているこの男は一体何者だと言うわけです。名門に生まれたのでもなく我々はこの男を生まれた時からその素性もよく知っているではないかと。

 

主が語られる言葉に驚いたが、ナザレの人々はイエスの人間性に、ヨセフの息子に、つまずいたのではなく、語られる恵みのみ言葉につまずいたのです。イエスが故郷に錦を飾るように語られたのであれば人々の反応も違ったかもしれません。

人々の気に入られるように語ったならばイエスは故郷では敬われたかもしれませんが、ナザレの人々の反応はこの主イエスの言葉に驚きながらも、つまずいたのであります。

 

これは反面教師としても我々が御言葉を語る時に、土地の人々は大変冷たくこれに対応いたします。世間話ならば喜んで聞くかもしれませんが人々はこのように御言葉に対してはその真意を認めないのであります。

主イエスでさえそのようにあしらわれ批判されたのでありますから、まして私たちはそういう冷笑を覚悟をしなければならない。

 

【御言葉は決して損なわれない】

マタイ福音書によりますと、主イエスはもっとひどく扱われております。そこではイエス様はヨセフの息子と言われず、マリアの息子と言われました。それはどういう意味かというとマリアはまだ結婚していないのに子供が生まれたのでありますから、勿論聖霊によって身ごもったのですが、イエスは父なし子と故郷の人々は言うのであります。それは不倫の子供のように蔑まされたかもしれません。神の言葉の語り手は、主イエスでさえこのように批判されたのですから、普通の説教者はこういう批判は覚悟すべきですが、覚えなくてはならない事は、神の言葉は決して損なわれない、御言葉は生きているということです。今日は御言葉に対する私たちの態度について学びましょう。

 

ナザレの人々は主イエスに対する親しさ気安さがあったのです。これ自体は悪いことではありませんが、悪く作用するとイエスの教えを不要にする危険性がありました。それで主は言われた、

 

23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。

 

【預言者は自分の故郷では歓迎されない】

私事でありますが、牧師になって久しぶりに故郷の信州佐久に帰ると同級生たちが集まってくれます。しかしその時言われます、「お前はどうしてクリスチャンになった。どうして牧師になったか」と。決して尊敬はされません。特に親しい人々がそうであります。

 

主はそれを見抜いておられます。

24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。

 

ナザレの人々は主がガリラヤのカファルナウムでした評判のそのしるし、奇跡に関心がありました。カファルナウムでしたことを郷里のナザレでもしてくれと彼らは神の言葉、恵みの言葉よりも奇跡に興味があった。

こう言ったのは親しさから来る特権意識であったかもしれません。が主イエスにすればしるし(奇跡)を求めるナザレの人々の態度には、宣教の初めに荒野で悪魔の試みにあった時のことを思い起されたに違いありません。勿論、主イエスはしるしのみを行われたのではありません、必ず恵みの御言葉を語られたのです。主はこう言われます、

 

25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。

27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

 

荒れ野で空腹を覚えられた主イエス様に悪魔は「お前が神の子なら石をパンに変えたらどうだ」、

また「お前が神の子なら神殿の上から飛び降りたらどうだ」と悪魔は主を試みました。

 

ルカによる福音書4章「9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。

10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

 

この悪魔と同じ試みをナザレの人々は主に要求したのであります。

主が言われた、19節「 主の恵みの年を告げるためである」という言葉を信ぜず、また24節で「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と言われ、主の恵みを告げる言葉を語られても喜ばないという態度を「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と諺で言われ、ここに二つの旧約の聖書の例を根拠に語られたのであります。

 

【預言者エリアとサレプタのやもめ】

最初の引用は預言者エリア、彼はイスラエル最大の予言者でありますが、その地域が3年半の飢饉にあった時にサレプタのやもめ、それは異邦人に遣わされたのであります。

 

列王記上17章の8節から16節の御言葉にその事は書かれておりますが、エリアはやもめに対して「私の為に小麦粉を練ってパンつくり食べさせよ」と受け入れがたい要求を語ったのです。やもめは「最後の少しの小麦粉を取っているが、それは死ぬ前に息子に食べさせるため」と言いました。しかしエリヤの言うままにエリヤにパンを作って食べさせたのであります。そしでエリアは食べ、またそのやもめと子どもも食物に不足することなく甕の粉は尽きなかったのであります。

 

【ライ病になったナアマン将軍】

またもう一つの例はナアマンというシリアの将軍がライ病に罹りましたが、その時そのナアマンのところで召し使われていたユダヤ人の少女から預言者エリシャのところに行けば癒されると言われ、エリシャのもとに赴きました。預言者は彼に七度ヨルダン川の水で身を洗えば癒されると言いました。ナアマンは「何でそんな汚い水で洗わなければならないか、故郷にはもっときれいな水がある」と始めはそれを拒否しましたけれども、彼の家来にたしなめられ、「その川で洗っても何の損はないでしょう」と言うことで、七度ヨルダン川に浸かったところ、ライ病は癒されたのであります。列王記下59節から17節に書かれてあります。

 

【イスラエルと異邦人の救い】

主がこの有名な旧約の二つ例を語られたのは、異邦人の街であるカファルナウムの町で行われた奇跡をナザレの町で行うことを故郷のナザレ人びとは期待したわけですが、それが如何に的外れな要求であったかを教えようとされたのであります。

 

あえて御言葉に従った人は祝福されたということを覚えさせられるために、始祖アブラハムが召されたとき創世記12章「地上の諸国民はあなたによって祝福を受ける」と恵みがイスラエルの民に与えられ、アブラハムは祝福の源になりましたが、神様の恵みの言葉は時代が変わってもイスラエルに与えられ、その祝福と命の約束は変わりなかったことをナザレの人々は知るべきであったのです。

 

エリヤの時も、エリシャの時も、たった一人の異邦人の救いのために恵みの言葉で宣教された歴史があるではないかと主イエスは言われ、カファルナウムで恵みの業をなしたのも同じ理由からだと言われるのです。

 

主イエスはルカ福音書4章14、15節に、

14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」

とありますように、どこに行っても、その恵みの業は恵みの言葉の宣教によってなされました。

しかし自分が30年間育てられたナザレの町の人々に、同じ恵みの言葉を語っても歓迎されない、受け入れられないという辛さを主は覚えられただろうと思います。

 

【神の自由、神の主権】

この二つの例にはもう一つの意味があります。神の自由、神の主権性をこの二つの例で教えようとされたのです。

 

預言者エリヤが神の民イスラエルにも多くのやもめがいたのにただ異邦人のやもめに遣わされたのはどうしたわけですか。エリアの気まぐれだったのでしょうか。そうではありません。

またエリシャがライ病人のナアマンに遣わされたのは、どうしたわけですか。多くのライ病人がイスラエルにも沢山いたわけですが、異邦人のシリア軍人ナアマンに遣わされた、その意味は何かということを主は問われたと思います。

 

イエスは神の恵みの言葉が語られるのは、神の自由と主権から為されるのだと、それを陶器師の譬えをもって語られます。陶器師は同じ土から一方貴いものに、他方をそうでないものに作るという譬えを持って語られましたが、恵みにおいて御言葉が語られる時、それは主権的に語られ、人々はただそれを歓迎すべきであるということを強調されております。

 

私たちは神様の御心をすべては知りえませんが、私たちが知るべき神様の救いの御旨は聖書を通してのみ知ることができるのです。それをないがしろにする愚かさを主は言われます。天と地を結ぶのは御言葉です。

 

【結び:主の中央突破】

結の言葉として28節から30節の言葉が語られます。

 

28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

主イエスは神御自身の栄光を現わすために御言葉は異邦人にも伝えられるべきと語られたのですが、それに憤慨したナザレの人々が彼を崖から突き落とそうとした。その時にも、彼らの中央を突破されたのであります。

この主のお姿は何を示しているでしょうか。それは神様の栄光、神の言葉の尊さを教えておられるのであります。

 

故郷の人々によってなされたその仕打ちは、まさに荒れ野の悪魔の試みと同じであり、「お前が神の子なら神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」と言うその試みに対比をいたします。しかしだれも主の中央突破を妨げる者はなかったのであります。(おわり)

 

2013年09月15日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

2013年8月25日(日)説教「主の恵みの年始まる」佐々木弘至牧師。

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2013825()説教「主の恵みの年始まる」佐々木弘至牧師。

聖書:新約聖書ルカによる福音書4

14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」

20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

(説教要約 文責近藤)

 

【主イエスの荒野の誘惑】

今日の御言葉のルカ福音書414節から21節の前、13節までは、主イエスが公生涯に入られる前のことでありますが、荒野に導かれて大き試練、誘惑を悪魔から受けられたことが書かれています。

 

誘惑は救い主としてのテストでもありました。救い主の使命は、アダムの失敗により罪と悲惨の中に堕落した人類を救うために、私たち人類に変わって神に完全なの服従を果たすか否かのテストでありました。

悪魔は主イエスが救い主としての使命を達成することをを邪魔すること、その使命を失敗させるため誘惑しました。

その試練テストの内容は

1、 人間として何を基準に置くか。

2、 人は何の為に人は生きるか。

3、 人はどのようにどう生きるか。

以上3つの点でイエスは誘惑をもって試されました。

 

そして主イエスは終始父なる神の言葉を基準として悪魔の試みに勝利されました。それは一重に聖霊に満たされ聖霊に頼り、神様の言葉に信頼して試練に耐えられたからです。私たちが聖霊に満たされるとは聖書に書かれた神の言葉によって生きることだと学ばされます。

 

主は私たちの為にその生き方を示されました。いかに聖霊の導きによって生きるか、イエスは神の子だから当然と考えるのではなく、神として試練を受けられたのではなく、主は人間としていかにその試練と戦われたか、そして試練に打ち勝たれたかということを思い起こすべきであります。

 

新約聖書フィリピの信徒への手紙26~9節を見てください、

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。

 

ここで使徒パウロは主は人間と同じ姿になって試練に立たされた、それは私たちの為でありますが、その試練に立たされた主イエスの姿に私たちは倣うことができると言います。

私たちは罪ある人間ですが聖霊と聖書に対する姿勢では私たちと主イエスと同じ立場であります。

信仰の試練に勝利するためには主と同じく聖霊の導きに頼り頼み、御言葉の確信に立つのです。

 

【"霊"の力に満ちて】

今日の御言葉の箇所、ルカによる福音書414節、

14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。

主は聖霊に満たされて救いの事業を開始されたということが分かります。14節でガリラヤから宣教が始まり、主の評判が広まった、人々から尊敬を受けられたと書かれてあります。

 

ルカによる福音書415節、

15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。

ルカによる福音書416節では

16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。

主はナザレで育ったと書かれてあります。そしてそこではいつものように会堂に入った。それは安息日であったと言われております。

 

【ナザレの会堂で始められた福音宣教】

福音宣教はナザレの会堂で始められたのです。会堂は西谷伝道所も同じです。主は何時ものように会堂に入って話された。この会堂とはシナゴーゲとギリシャ語で言いますが、このシナゴーゲができたのは紀元前695年に北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされ、その後また紀元前500年に南ユダ王国もバビロンに滅ぼされました。人々はバビロンに捕囚となりました、今のイラン・イラクあたりであります。捕囚地では神様によって定められた神殿礼拝ができず、もはやそこでは動物犠牲もできません。その代わりに神の言葉による礼拝、聖書朗読、その御言葉の解説といいますか、今でいう説教、そして詩編歌による讃美で神様を礼拝しました。捕囚後でも神礼拝がその会堂で続けられたわけです。紀元前400年代イスラエルはエルサレムに帰還を許され、神殿も再建されましたが、幸いなことでありますが、バビロンで始められた会堂での神礼拝は至る所で続けられました。そこでは御言葉による説教が捧げられました。主もまた幼い時から安息日には会堂で御言葉を学び礼拝を守られたのであります。そしてナザレの村で安息日の礼拝、御言葉の朗読、その学びが聖霊に導かれてて守られたのです。神礼拝のため、御言葉を学ぶために安息日がありました。

 

【預言者イザヤの巻物が渡され】

当時、会堂司が立てられておりまして、その都度、聖書朗読とその解説、説教ですね、それを手配しました。

ルカによる福音書417節、

17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」。

17節、主イエスはその時、会堂司から巻物を渡されたのであります。立って聖書を朗読した、巻物の事はビブリオといいますね。ビブリオとはバイブル(聖書)の語源であり、その時渡されたものはイザヤの巻物でありました。巻物というのは羊のなめし皮か植物のパピルスで作られておりました。パピルスがペーパーの語源になります。

イエス様は17「目に留まった」というのは、たまたまその言葉が行き当たりばったりに目に留まったと言うのではなく、イエス様は自分の読むべきイザヤ書61章の1節~2節の言葉を見つけて、読まれたわけです。

 

これは旧約聖書イザヤ書611~2節の言葉です。

1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め・・」

 

この御言葉は当に旧約聖書の中心的メッセージでありました。イスラエルの人々が待っていた事柄の成就のメッセージです。今日の説教についても同じで、それは「良き訪れ」であります。旧約と新約の聖書の中心的メッセージが恵みの年を告げる今日の御言葉であります。

 

旧約聖書は救い主の到来を預言し、旧新聖書の中心に救い主の到来があります。新約聖書は救い主イエス様の到来を証するためにあります。

その中心にイザヤ書61章の12節の言葉があるわけですが、もちろん聖書の一字一句は主を指している言葉ではありません。聖書には不信仰の歴史もあれば不倫も書かれており、悪魔の言葉さえも書かれております。ヨブ記に於いては3人の友人の言葉のように、偽りの言葉をもそこには記しております。けれども全ての言葉を通して主の恵みを証している、イエス・キリストを証ししているのが聖書であります。

 

主イエスを通して救いへと導く、主イエスを通して人類の罪が裁かれ、そして救いへと導くのが聖書であります。イスラエルがどんなに罪深くてもイエス様は残りの民を残して救われるのであります。ヨブ記にあるように友人の偽りの言葉さえ、友人の罪を許すために書かれています。それらすべての言葉はイエス・キリストを証するものであります。

旧約は律法の力を、新約はイエスが語った救いを書いているのではありません。

 

イエスが語った福音、18節以下の言葉「主の霊がわたしの上におられる」とは聖霊によって母マリヤからの出生、また洗礼の時、主の上に聖霊が鳩のように降られたと言う事実を語り、聖霊と共に主が居られることを知ります。

 

油そそがれた主の来臨の目的は、貧しい人に福音を告げ知らせることであります。

ルカ418節の言葉

 主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし」、は、

旧約聖書イザヤ書61

1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」

の言葉です。

 

旧約時代の救いは捕囚の民の解放と言うこともありましたけれども、イザヤ書61章2節の

言葉「61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め」は新約の現在においては、人生のあらゆる苦悩に捕らわれている人、社会から阻害された人、恐怖や罪と死の中にいる人を解放する、自由にするために遣わされたということであります。

 

【目の見えない人に視力の回復を告げ】

目の見えない人というのは単に盲人のことではなくて霊的盲人のことを語っております。私たちもかってはそうでした。神もキリストも分からない。肉の目は見えても霊の目は見えない人、そのような私たちの霊的視力の回復を告げるためにイエス・キリストは遣わされたのです。

 

イザヤの預言は私には無関係という人は主観的にあっても客観的にはいないのです。主は恵みの年を全ての人に告げ知らされたのです。それは救い主の到来を告げることであります。

 

ルカによる福音書419 主の恵みの年を告げるためである。」

このイザヤの言葉で結ばれたのは今や救い主を待ち望んでいた時代は終わったと言うことであります。

 

【今は恵みの時】

ルカによる福音書420「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」。主は朗読を終えられると巻物を係りの者に返し、それから座って説教を開始されました。

 

ルカによる福音書421節の言葉

4:21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。

今日、救い主を待望んでいた時代は終わったということであります。

待ち望んでいた古い時代は終わり、新しい恵みの時代が始まったと主は宣言されました。

 

「今日」とは19節の恵みの年を指しています。「今日」という年とは1年、 2年と言う当時の事だけではなく、福音を通して与えられる世の終わりまでの全時代を通して、また全民族を含む全ての人に与えられる恵み豊かな時代であります。そのことに目を覚ましていなさいと言われます。

 

それに対して私たちはどう対応しているか。今は恵みの時と言うが今は誠に恵みの乏しい時代ではないか。ことに福音伝道の困難な時代ではないかと言うかもしれません。

現実に子供たちが教会に来ない。確かにそうかもしれません。しかしイエス様の時代と現代とは神の恵みは少しも変わらないのであります。ただ急速な時代の変化に、またこの世の有り様に翻弄され、世から乖離して、世の有り様に流されているのが教会でないかと思うわけであります。

世に流されて世と教会が乖離し二元化してはならないのであります。いま一度主の宣言に率直に立ち帰らないといけないと思うのであります。

 

教会信徒がこの御言葉にに立ち返るとき聖霊によって救いの恵みの年が来ているのです。急速な現代社会の変化に翻弄されることなく、乖離することなく、愛する人々に主を証しする、職場において学校において社会において私たちは福音を託され、恵みの年を告げ知らすことができるのであります。終

2013年08月25日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

2013.5.19.ペンテコステ礼拝説教「体も希望のうちに生きる」赤石純也牧師

2013.5.19.説教「体も希望のうちに生きる」赤石純也牧師
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新約聖書 使徒言行録2章(ペトロの説教)

14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。

24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。

27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。

28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

 

説教要約(文責 近藤)

今日の聖句の前にルカによる福音書23章44~45節を開いてください。

 

ルカによる福音書2344 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

 

【太陽は光を失い全地が暗くなった】

主イエスの十字架の死により全地は太陽が光を失い暗くなったと書かれてあります。

またルカによる福音書は2427 を見ますと復活された主は聖書全体を説明してこの書は御自分について書かれていることを言われたのです。

27『そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された』。

 

【聖霊降臨と教会最初の説教】

そして今日の聖書の箇所に移ります。使徒言行録214~28節(前掲)。

 

14『すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた』

これは五旬祭の日になされた史上最初の説教です。主イエスの復活から50日目のことです。

 

使徒言行録の初めのところ第1章を開いてください。

 

約束の聖霊】

3 『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された』

 

その後に今日のペンテコステの出来事が預言されています。

使徒言行録18 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

ここには聖霊が降ると、あなたがたは力を受けると書かれています。

 

使徒言行録11 節を見ますと『テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました』とあります。

 

第一巻とはルカ福音書です。使徒言行録はその第2巻になります。

 

【聖霊が降る】

第一巻のルカ福音書の最後には主イエスが復活されて四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話された後昇天されたことが記されています。さらに10日後の五旬祭の日に、今日の箇所の前ですが、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったと書かれています。そうすると弟子たちは自分たちの国の言葉で語りだしたのです。聞く者には自分たちの国語で語られる言葉には力がありました。

 

使徒言行録2

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。

 

聖霊が主の復活50日目五旬祭(ペンテコステ)の日に正に降ったのです。そしてペテロがした説教は教会最初の説教です。ペテロは次のように話し出しました。

 

【ペテロの説教】使徒言行録2

14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。』

 

これこそ預言者ヨエルの預言の成就ですとペテロは語ります。

 

17 節以下『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

【聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける】

『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける』と言うことが起こると言われるのです。

 

預言するとは真の神様のことをを語ることができるということです。

 

『炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった』とき弟子たちは力を受けたのです。聖霊は力です。

 

17後半『するとあなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る』

若者は幻を見るとはヴィジョンを与えられること、これは力です。

老人は夢を見るとは希望を持つことが出来る。これも力です。こういう世界が開ける。

 

【全ての人に力が与えられると言うヨエルの預言】

18節『 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する』

主のの霊を持った人でなくても全ての人に力が与えられるのです。

 

子どもたちも神さまについて語るという力が与えられると書かれています。それが21節の終わりに書いてあります。これは救われると言うことです。21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

しかしその前に、主が十字架に架けられた日に太陽が暗くなったと書かれています。

 

20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、』太陽が主の十字架の場面で歴史上の事実として暗くなったと預言の成就が書かれています。

 

21『主の名を呼び求める者は皆、救われる』とは救いの輝かしい日がきて一人一人に力が与えられる日が来た。これは預言者ヨエルによって与えられた預言の成就だといわれます。これが今日覚えるべき一つ目の事柄です。

 

【ダビデの預言】

もう一つの事柄とは25節以下を見てください、旧約聖書のダビデの預言が言われます。

25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。

27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。

 

【ペテロの証】

預言者の言葉をペテロは自分の言葉のように語っています。

説教で聖書の言葉が自分の身の上に起ったことだとペテロは自身の言葉として語ります。

 

かってペテロは第一部の人生では希望を失い、命に至る道を見失い、どんなに涙を流したことか。そのペテロが変えられたのです。目の前に主を見て、いつも主を信じて生きる生き方へと変えられたのです。その力が今日与えられた。またこの力は誰にでも与えられているという勧めです。

 

25『主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない』

26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう』。

 

25節では、ペテロは神を信じて生きる者となって、主がいつもともにおられるので決して動揺しないものになった。それは全ての人にも与えられている生まれ変わらせる力です。

 

【人生の第一部と第二部】

まとめてみましょう。人生の第一部で仮にあなたが試練にあい動揺ばかりして希望を失っても、たとい道を失ったとしても、涙が止まらなかったとしても今日からは生きるヴィジョンを持った人生の第二部を生きることが出来る。そういう力が誰にでも与えられるのです。

 

ペテロの第一部を紹介します。「なぜ聖書が分からないのか」と主イエスから何度も言われたペテロです。それなのにやけに自分に自信を持っていて他の弟子の誰もが主に従わなくて死んでも私は主に従いますと。この彼の虚栄が崩れてしまって涙にくれるペテロでした。

 

私たちも自分を鼓舞し頑張るのです。しかし辛い試練が起ります。たとえば病、家族の病、に襲われ歯を食いしばって生きた人生の第一部を持っています。

 

【教会から始まる第二部の人生】

しかし今日、人生の第二部を始めることが出来ます。一同が教会に集まっていた時に第二部のドラマが始まったのです。これは私たちにも起こります。教会で神様が新しい人生の第二部を与えられる。それは教会で聖書の解き明かしを聞くときです。第一部では辛すぎました。病や職場の戦い、人生いろんな問題でへとへとです。辛すぎる人生です。生きる喜びも無くなっている。しかしこれは神様の御心ではありません。どうか教会で人生の第二部を備えてください。

 

それが今日です。今日に限らず毎週の礼拝に集うとき聖霊の稲妻が降るのです。

毎日ヘトヘトの生活している中でこういうヴィジョンが見えないです。

悩み、悲しみ、虚しく生きるのは主の御旨ではありません。

 

どんな人生の重荷があっても感謝して今日生きることを神様は願っておられます。

 

教会に行くことをやめ、自分で歯を食いしばって生きて年老いた時に希望があるでしょうか。

死んで無の世界に入るかと心に動揺を覚えても当然ですが、神様はこんな人生の第一部をもって不安のまま死んでいくことを望まれません。

 

第二部の人生を今日から始めること、今週もそして来週も、毎週ごとに与えられる確かな希望を持って生きることを神様は待っておられます。

第二部の人生が教会で、礼拝で与えられる。そしてたとい現実の状況は変わらなくても第二部の人生を生きることが出来るのです。

 

教会こそ確かなヴィジョン、希望をもって生きる力が与えられるところです、教会以外にこの力は与えられません。この真理は教会以外のほかのどこでも与えられません。

人生の第二部を生きる力を教会で、礼拝で、説教で、神の言葉から受けてください(おわり)。

 

 

 

2013年05月19日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 使徒言行録

2013.3.31.説教「復活の喜び」ウイリアム・モーア宣教師

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2013.3.31.説教「復活の喜び」ウイリアム・モーア宣教師

 

ルカによる福音書24章エマオで現れる

13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

説教要約(文責 近藤)

今日はイースターです。世界中で主イエス様の復活を祝い墓から主イエスを挙げられた神を賛美します。

 

【ユダの裏切りとイエスの逮捕】

今朝は主の十字架と復活の意味について考えましょう。

 

主イエス様の十字架は弟子たちにとって悪夢のような1週間でした。それは幻想ではありませんでした。全くの事実でした。

 

それはエルサレムに近いオリーブ山で始まりました。主は来たるべきご自身の御苦難について語られましたが弟子たちにはその意味が分かりませんでした。弟子たちにはこれから起こることも分かりませんでした。

 

その夜、突然、祭司長たちから差し向けられた群衆は刀と棒をもって主を捕えにやってきました。ユダは自分が接吻をもって挨拶するものがイエスだと前もって合図していました。ユダは主に近づき「先生、いかがですか」と言って接吻したので、主は言われた、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と(ルカ22:48 )」。

 

主を守るため弟子の一人が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。

そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた(ルカ22:51)

 

【ユダヤ議会の裁判】

オリーブ山で捕えられたイエスはすぐに最高法院で裁判にかけられました。

 

マタイ26

人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。

大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」

イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」

そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。

 

【ピラトの裁判】

それから総督ピラトの所に連れて行かれピラトの裁判を受けます。ユダヤ人には人を殺す権限がなかったからです。

 

ピラトはイエスに何の罪も認めずイエスを赦そうとしましたが、ユダヤ人はイエスを「十字架につけろ。十字架につけろ」とピラトに激しく訴え、その声が勝ち、ピラトは負けました。

 

弟子たちの前で主イエスは刑場に十字架を背負って歩かれました。二人の犯罪人とともに十字架に架けられました。十字架の上で主は「父よ彼らを赦したまえ。彼らは自分が何をしているか分からないのです」と執成されました。

 

何時間も苦しまれたあと最後に主は「父よ、わが霊をあなたに委ねます」と言われて息を引き取られました。

 

主イエスを尊敬していたアリマタヤのヨセフという人がピラトのもとに出向きイエスの遺体引き取りを願いました。そして自分の為に用意していた新しい墓に主の体を収めました。

 

イエスの敵は勝ったと思われました。ユダヤの指導者たちにはもう何も心配はないと思いました。イエスは死んだのだ。イエスに従うものなどいない。イエスは人々から間もなく忘れ去られるだろう。

 

【弟子たちの失望と心配】

その時の弟子たちの気持ちはどんなだったでしょう。全てをかけていた彼らの主は残酷な方法で処刑され彼らの生き甲斐も希望は全てなくなりました。

 

主の愛を体験した弟子たちはこれからどうすればよいのでしょう。

神から来られたのなら何故神は御子を死なせたのか。彼らには主の死は意味のない悲劇と思いました。

弟子たちは主のことの他に、自分たちの身の安全を心配せねばなりませんでした。

 

弟子として知られていたペテロは三度、主イエスを知らないと、自分が主の弟子であることを否定しました。

 

弟子たちはこの悪夢を忘れるために故郷に帰り以前の仕事に戻ることが賢明と考えたでしょう。

 

イエスは失敗した。主は「神の国は近づいた」と語られたがその話はどうなったのか。

 

【なぜ生きている方を死人の中にさがすのか】

墓から帰った弟子の婦人たちの言葉に驚かされました。墓に行くと天使が「なぜ生きた方を死人の中に探すのか」と言ったことを弟子たちに伝えました。

 

弟子たちは婦人たちが言ったことが信じられず婦人たちに言いました。あなた方は幻を見たのです。主は死んだ。死んだ者は生き返らない」。

 

【エマオ途上で】

もう一つの話は、その日二人の弟子がエマオという村に行こうと歩いていた時、主が彼らに近づかれたが、主だと分からなかった。主は二人が歩きながら話していたことを尋ねられた。

 

ルカによる福音書24

17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

 

24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

やっと弟子たちは主の死の意味を悟りました。

 

28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 

【主イエスの復活】

言うまでもなく二人の弟子は主に出会ったので歓びました。主は死んだが今は生きておられる。主イエスの十字架は勝利になりました。

 

早速二人の弟子はエルサレムに帰り他の弟子たちにこのことを話しました。

他の弟子たちも復活された主イエスはシモンに現れたと告げました。

 

愛する兄弟姉妹。私たちは主の弟子たちの喜びが想像できます。3日前、死なれた主は今は生きておられます。神様の力によって死の力は打ち破られました。罪人の勝利でなく、神の勝利になりました。

 

そして弟子たちはすっかり変わりました。弟子たちは自分の目で主の復活を見たのです。

 

そして命じられたように福音を世界の果てにまで伝えたのです。

 

この2000年前の出来事が今の私たちとどう関係があるのでしょうか。

 

主イエスの復活は世界で一番大切な歴史です。

 

なぜなら復活を通してイエス様は神の子であることを証明されました。

 

イエス様が復活されなかったら、主の十字架は正しい人が無実の罪に陥れられたというただの悲劇に終わります。実際ローマ帝国は多くの人を残酷な十字架刑で殺しました。

 

 

【今も生きておられる主イエス】

では1980年後でも主の死と復活の目的と意味は何でしょうか?

 

主の死は私たちが神に赦され、私たちの受ける罰の身代りでした。御子の死によって人は神と和解され神との正しい関係が回復されています。

 

エマオ途上の主は二人の弟子に御自身の死と復活の意味を悟らされました。この二人の弟子と同じく私たちはイエスの死を今理解できます。

 

主の贖い死により私たちは救われます。イエスの死と復活は今も喜ばしい出来事です。

 

主の復活の意味はまだあります。

 

主は今も生きておられ天に昇られた主はそこから聖霊を遣わしておられます。

主は「2,3人わが名によって集まるところ我もそこにいる」と言われた。

 

又同じように「私は世の終わりまでいつもあなた方とともに居る」とも言われました。

 

【永遠の命への復活の希望が】

最後に伝えたいこと、それは復活の希望はこの世に限らず、私たちには永遠の命への復活の希望が与えられています。

 

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』(ヨハネによる福音書 11:25)」。

 

主イエスの復活により死は征服されたので、神は死の上の勝利を得て下さいました。

永遠の命の希望をもって死後を恐れず期待できます。

 

【父のこと】

私は先々週、末期肺がんの父の病気見舞いにアメリカに帰りましたが、父には平安があり認知症の母のことを心配して色々介護のことや母の兄弟のことを気遣って話し合いました。

 

父の平安は復活の実であり、父の姿に励まされます。

 

愛する兄弟姉妹。主イエスは蘇られました。イースターの際、皆さまに平安と希望を豊かに経験できますようにお祈りいたします。(おわり)

2013年03月31日 | カテゴリー: ルカによる福音書

2013.3.24.説教「十字架を負わされたシモン」近藤春樹長老

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説教「十字架を負わされたシモン」


聖書:ルカによる福音書23:26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

●マタイによる福音書27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

●マルコによる福音書15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

●ローマ人への手紙の16:13(パウロ)、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」


今日は棕櫚の日曜日といわれます。主がエルサレムに入られたときユダヤ人たちは主を救い主として歓迎しました。

 

それはロマ帝国の支配からの解放を期待するものでした。主イエスが人類に与えようと願われた罪と死を滅ぼし永遠の命を賜うという救いではありません。それで期待に反した人々は今度は長老、祭司長、律法学者に煽動され、主イエスを十字架につけろと総督ピラトに要求しました。

 

今週は受難週といわれ世界の教会は特に主イエス様の十字架の贖い死に感謝するとともに、私たちの罪を悔い改めます。主はこの週の木曜日に最後の晩餐を弟子たちと摂り聖餐式を制定なさい、弟子たちの足を洗いました。そして金曜日に十字架にお架かりになりました。3日目の朝、日曜日の朝早くに墓は空っぽでした。主は蘇られました。

 

日々自分の十字架を負い

今朝は主の十字架と私たちの負うべき十字架について思いを致したい。

 

主イエスは今日の御言葉ルカ923「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。と言われた。

またマタイによる福音書 10:38 「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」。

そしてルカによる福音書 14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」

 

ここで主は私の十字架を負えと言われません。自分の十字架を負えと言われます。それは自分自身の重荷ではないでしょうか。

 

ガラテヤ人への手紙 6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである

 

参考)コロサイ人への手紙 1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。

 

【人生の重荷】

それは、自分が犯した過去の過ちの重荷であったり、家族の心配、病気の不安、病気の後遺症、将来の不安、経済的負担であったりと、その重荷の中味は人によって様々だと思いますが、人はそれぞれ何か重荷を負いつつ、重荷を負わされて、人生を歩んでいるのではないでしょうか。先週は【四苦八苦】という仏教用語も聞きました。

【四苦八苦】という仏教用語があります。

四苦とは1、生きる苦しみ、2、死ぬ苦しみ、3、老いる苦しみ、4、病む苦しみ

八苦とは5、愛するものと別れる苦しみ6、憎い者と出会う苦しみ7、求めても得られない苦しみ8、心身の苦しみ

 

人にとっては、ときには、その重荷が耐え難く、八方塞にまで行き詰まり、悲嘆に暮れ、自ら命を断つ方もおられるのです。

 

余談1。これは家康の残したことばですが

「人の一生は重き荷を負うて、遠き路を行くが如し。急ぐべからず」人生あくせくするな、ゆっくりやれ。これは気休めにはなることばでしかありません。イエス様はどう言われたでしょうか。

 

マタイによる福音書

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28)

 

参照「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

  

主イエスはあなたの、私の重荷を共に負ってくださいます。そして私たちを休ませてくださいます。どのようにしてか?それが主の十字架です。主イエスは私の十字架を負えと言われず、あなた方自身の十字架を負えと言われたことを先に聞きました。

 

【十字架を負わされて主イエスに従うシモン】

   2000年前、一人の人が自分自身の十字架として負わされた十字架について今日の聖書は記しています。

 

シモンは主イエスの弟子だったわけではありません。おそらく主イエスと会ったこともなかっただろうと思います。たまたまそこに居合わせたのです。主イエスがもう十字架を背負う力がない、と兵士たちが判断したその時に、たまたま近くにいたために、彼が選ばれたのです。兵士たちにすれば、十字架を担いでゴルゴタまで歩くことができさえすれば誰でもよかったのです。こいつなら出来そうだ、とたまたま目に入ったシモンが引っ張り出されたのです。そのようにして彼は、負いたくもない十字架を無理矢理背負わされました。なぜ自分がこんな恥を負わなければならないのか、とんだ貧乏くじを引かされた、と思ったに違いありません。

 

しかしルカはこのシモンの姿に、主イエスに従う信仰者の姿を見ているのです。

シモンは主の後に従ったとあります。彼の前には主イエスが歩まれました。主は彼を導かれたのです。彼は後でこのことが分かりました。

自分自身の十字架を背負って主イエスについていく、それが弟子たる者の、つまり信仰者のあり方だと繰り返し語られてきたのです。その弟子としてのあり方を文字通り具体的に実行したのがこのキレネ人シモンだったのです。

 

考えてみてください。誰が「よしこれから十字架を背負って主イエスに従っていこう」と決心して信仰者となった、という人はいないのではないでしょうか。

 

ですから私たちは誰もがある意味で、自分の意志によってではなく、十字架を背負わされるのです。

 

【シモンが受けた恵み】

マルコ福音書だけが、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と紹介しています。ということは、このシモンはこの後、クリスチャンになり、その子、アレクサンドロとルフォスも信仰に導かれたと考えられます。

 

ローマ人への手紙の16:13でパウロは、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」と述べています。シモンの妻は、パウロが「彼女はわたしにとっても母なのです」というほどの信仰の人になったということで、驚くべき恵みです。

 

 無理やりであっても、主の十字架を担うということはそれほど重大な、また祝福に満ちたことであります。

 

【人生のマイナス】

なぜ自分がこんな十字架(重荷)を背負わなければならないのか、と思うことがあります。しかしそこで、その十字架を放り出すのではなくて、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」という御言葉に励まされて、自分でも改めて与えられた十字架を感謝する者となって天国の道を歩むのです。

 

余談2、マイナスとは負けか?漢字はマイナスを負とかきます。これは意味深いことです。

 

重荷を負わされることは一見人生にとってマイナスに見えます。私たちの人生のマイナスが多ければ人生の負け組になるとおそれます。この世の成功者、勝ち組と言われる人も多くのマイナスを経験したことでしょう。この世界と宇宙を創られた方が十字架で死んだ。主イエスの十字架こそは世界で比べるもののないマイナスです。東日本大震災は日本に大きなマイナスを与えました。神の国にとっては御子の十字架は更に大きなマイナスでした。実際、真の勝者とはだれでしょうか。主イエスの十字架によって贖われた者のみがこの世の勝利者です。主イエスの復活こそ勝利の証です。最大のマイナスが最大のプラスになりました。

参照、ヨハネの手紙一 5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

 

電流は見えませんがプラスとマイナス極の間をながれ力を発揮します。神様は御子の十字架によって霊的マイナス極をつくられました。

Iコリント118 - 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

しかし十字架は終わりでなく神様はプラス極をも創られました。主イエスは、三日目の蘇り、40日間弟子たちに現れ、天に上り父なる神の右に坐し給い、復活50日目には約束の聖霊を遣わして、いま私たちとともに居てくださいます。今私たちの内に主イエスの御聖霊が共に住んでいてくださいます。聖霊はプラス極です。

 

使徒言行録1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」


主イエスを信じる者は決して負け組でなく勝利者です。

 

ローマの信徒への手紙8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。


次週はイースター復活祭です。主イエスの復活を心から感謝して祝うともに主イエスの証人としての道を共に歩みましょう。

 

やがて主は裁き主として再臨されます。しかし主を信じる者には裁きはありません。(おわり)



2013年03月24日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

2012年8月19日説教「主イエス・キリストの記念」ウイリアム・モーア

CIMG7054x600.jpg2012年8月19日説教「主イエス・キリストの記念」ウイリアム・モーア
聖書:ルカによる福音書22章14~20節
説教要約(文責 近藤)

【記念碑】
人類は大昔から重要な出来事や人物を忘れないために記念碑やモニュメントを建ててきた。例えば明治天皇を記念して明治神宮を、エジプトの王はピラミッドを造り、アメリカのワシントンにはリンカン記念堂や戦没者追悼碑があります。ここには重要な人物や出来事を忘れないでくださいという願いがあります。しかしこれらの古代の記念碑はやがて崩れ去って忘れ去られます。世界一の記念碑ピラミッドさえも建てられた時には表面はピカピカの大理石でしたが今は荒れた石がむき出しです。これら記念物は年月とともにちりに帰ります。

【永遠の記念碑】
しかし世界で一つだけキリスト者の心に生きている聖餐という礼典は今も変わらずに残っています。
出エジプトの記念として過越の食事をユダヤ人は祝いました。主イエスが最後の過越祭を祝った時、その行事に新しい意味を付け加えました。ルカ福音書22章14-20節にそのことが書かれています。

ルカによる福音書22章
14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

【私の記念として】
主イエスはもうすぐに起こるご自分の贖い死を通して誰でも信じる者に永遠の救いと命を約束されました。
「私の記念としてこのように行いなさい」と主は弟子たちに教えられました。キリスト者は当時から現代まで2000年間この教えを守ってきました。
聖餐式に参加することによってイエスの贖い死を感謝して記念します。

今もどこの国でもどこの教会でも主の日には教会で礼拝を守り聖餐を受けることができます。この西谷でも聖餐を受けられます。主は大きな記念碑を作ることを命じられませんでした。しかしこの聖餐は年月とともに世界中に広がり信者の各世代でもっと輝き磨かれます。

【最初の聖餐式】
12人の弟子に囲まれエルサレムにある二階の間で初めての聖餐式を主イエスは執り行われました。

その出来事は大きな霊的意味があります。これは主御自身の為でなく初めから終わりまで私たちの為です。この礼典で主の希望に満ちた新しい命が与えられました。聖餐式でイエスの死を覚え感謝をもってその意味を覚えます。そして主が再び来られるまでこの聖餐式を守ります。

『イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

【聖餐式の意義】
私たちは聖餐のパンと葡萄酒を拝みませんが、主の犠牲のシンボルであるパンと葡萄酒を戴くことは私たちの信仰の告白になり、主の犠牲の記念になります。

【招き】
主はご自分を信頼するものを聖餐に招かれます。そうすると「わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われた主イエスの教えを守ることができます。

愛する兄弟姉妹、大きな感謝と希望をもってこの聖餐を戴きましょう。(おわり)

2012年08月21日 | カテゴリー: ルカによる福音書

権威と力あるお言葉」宮崎契一奈良教会牧師2011/8/28

 

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聖書:ルカ福音書431:イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。32:人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

 33:ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。

 34:「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」35:イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。36:人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」37:こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

 

【あいさつ】

 今朝は、久しぶりに西谷伝道所での奉仕が許されました。私が前回この教会で奉仕させていただいたのは、確か去年の6月の関西地区の教会の講壇交換の時であったと思います。元々は、伊丹教会、男山教会、奈良伝道所の3つの教会のつながりの中で、講壇交換をしてきましたけれども、昨年から西谷伝道所も新しく加わりまして、4つの教会での礼拝の交わりが許されていることを心から感謝しています。その中で西谷伝道所は、これから新会堂の建築も控えておられるということを伺っています。このこと自体は、とても教会にとって大きな働きを必要とすることだと思いますが、その中で教会が変わることなく主の言葉に立ち続けていくことを願っています。

 

【汚れた悪霊に取りつかれた男】

今日の聖書の個所は、そのような主イエスがお語りになった言葉についてのところです。カファルナウムという町の会堂の中に、汚れた悪霊に取りつかれた男が出て来ます。私たちが聖書の福音書を見てみると、このような悪霊とか、悪魔とか、サタンといった存在がよく出て来ます。そして、こういう悪霊の姿というのは、私たちにとって、とても印象的にも見えます。

 

と言いますのは、この汚れた悪霊は、大声で叫びますし、出て行くときもその男を人々の中に投げ倒した、ということがあるからです。また、他の個所を見ると、その取りついた子供にけいれんを起こさせて泡を吹かせたり、さんざん苦しめる、ということも言われているのです。このような、とても激しくて印象に残る動きがあります。ですから、私たちは今日の個所を読んでみても、まず目につくのは、この悪霊に取りつかれて大声で叫んでいる男の姿かもしれません。

 

 

2011年08月28日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「再臨を待ちながら」ウイリアム・モーア2011.7.31

ルカによる福音書12章35−40

 

【はずれた預言】

今年の春の事ですが、ハロルド・カンピングと言うアメリカ人のラジオ放送牧師がイエス・キリストの再臨の日を預言しました。5月21日を「最後の審判の日」と預言し、その日、地震が発生し、信者は天国に召されるが、そうでない人は取り残され、数ヶ月にわたって世界の破壊に巻き込まれるというものです。カンピング氏は自分の独特な聖書の解釈に基づいて色々な計算をしてから、その再臨の日が悟られたと言いました。

 

実は、カンピング先生は1994年にもイエス・キリストの再臨を預言し、誤っていましたが、今年の5月21日の預言について、「いかなる疑いの影もなく成就する」と自信一杯説きました。全国のラジオ放送だけではなく、多くの広告欄で、インターネットも用いて、自分の預言を広く発表しました。

 

言うまでもないが、5月21日は来て去っても預言通りになりませんでした。ですから、カンピング先生は今もう少し勉強を続けて、将来、もう一度イエス・キリストの再臨の日時を預言するでしょう。

2011年08月05日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「神の前の私たちの態度」ウイリアム・モーア2011.4.10.

聖書;ルカによる福音書18章9−14

 

【一番小さいパン】

ある気前のいいパン屋さんが毎日沢山の食パンを焼いて、その中から20個を残して、町の貧しい子供達に施しました。しかし、厄介な問題がありました。それは子どもたちがいつも一番大きいパンを取る為に激しく争っていました。ですから、ある日パン屋さんは密かに金の硬貨を一番小さいパンの生地に入れてから焼きました。そして、その日、いつもと同じように子供たちはパンを頂く為にパン屋さんへ行って、一番大きいパンを取る為に争って、感謝の言葉一つも言わずに帰りました。しかし、ある小さい女の子は皆に押しのけられ残された最後の一番小さいパンを手に取って、パン屋さんに、「伯父さん、ありがとう」と言ってから帰りました。

 

その晩の夕食でパンを裂くと、金の硬貨が出て来て家族皆は驚きました。とても貧しい家庭なのに、それはきっとパン屋さんの何かの間違えだと思い、次の日女の子は値打ちの高い硬貨をパン屋さんに返しに来ました。そして、パン屋さんは、「それは間違いではないよ。硬貨は貴女の御褒美だよ」と言いました。

 

2011年04月10日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「主の晩餐:記念と応答」ウイリアム・モーア

聖書;ルカによる福音書22章14~20

 

【聖餐式の制定】

恐らく皆さんも、主イエス・キリストがどうして聖餐式と言う礼典を制定されたかについて思い巡らしたことがあるかも知れません。

 

 

【聖餐式への悪意・偏見】

 

実際、キリスト教の歴史を振り返って見ると、聖餐式は未信者の誤解を招く事がありました。とんでもない告発ですが、特に初代教会は聖餐式に人の肉を食べ、人の血を実際に飲むという中傷によく直面しました。ローマ帝国の当局とユダヤ教の指導者達はその偽りを用いて教会を迫害しました。

 

また、ある人は他の理由で聖餐式を理解できません。彼等は厳かな儀式の際、飲食する事は極めて適切ではないと思って、聖餐式に躓きます。特に、霊的な儀式の環境で食べる事と飲む事は相応しくはないと思い込み、主イエスはもっと威厳のある礼典を設定すべきだと判断して、違和感を覚えてしまいます

2011年02月13日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「コストを考慮すること」ウイリアム・モーア

聖書:ルカによる福音書14章25−33

 

【ルカ福音書14章25−26】

恐らく、今日与えられた御言葉は、イエス・キリストの全体の教えの中の最も厳しいお話ではないかと思います。特に聖句の初めの所を皮相的に聞けば、消化し難くて、躓きの石と思われる可能性が十分あります。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。』」(ルカによる福音書14章25−26)

 

2011年02月06日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「シメオンの賛美」ウイリアム・モーア2011.1.9

聖書:ルカによる福音書2章22−35

 

 

【隠された30年】

新約聖書を読みますと、一つの事が直ぐに気づきます。それは聖書には主イエス・キリストの幼ない頃と青年の時の事についてあまり記されていません。聖書はイエス様の御降誕の事柄について結構詳しく教えます。最近クリスマスを祝った私たちは、今一度、主イエスの奇跡的誕生とそれに関係する素晴らしい出来事を記念しました。また、聖書には主イエスの成人としての公的のお働きと出来事については沢山記されています。しかし、誕生から成人になった30年間については、殆ど何も書かれてありません。ある神学者はその時を「ナザレでの隠れた時代」と呼んで、その表題で本を書きました。

 

2011年01月09日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「心にクリスマスの賛美を」ウイリアム・モーア2010.12.12.

聖書;ルカによる福音書1章46−55

 

【乙女マリア】

神の御使いがマリアに現れた時、彼女はごく若い少女でした。その国とその時代の年ごろの娘とは13歳から16歳まででした。マリアの家柄や実家の富や力などを見たら、誰も彼女を認めなかったと思います。人の目から見れば、小さい町に育てられた小農の小娘のマリアはただ数え切れない、つまらない少女の中の一人でした。しかし、どなたか、一人が彼女を高く評価し、最も素晴らしい使命を与えて下さいました。それは神がこの世の救い主と御自分の独り子の母親になる為にマリアを選んだのです。

 

2010年12月12日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「ザアカイの回心―急ぎ降りよ」禰津省一男山教会牧師2010.8.29

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聖書;ルカによる福音書19章1~10節◆徴税人ザアカイ

 1:イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2:そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3:イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4:それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5:イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6:ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7:これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8:しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9:イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10:人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

1、木の上のザアカイ

 

【イチジク桑の木】

 御子イエス・キリストの恵みと平和が今朝、ここにおられます一同の上に豊かにありますように。アーメン。

 今朝、与えられました御言葉は、ザアカイという一人の徴税人の救いの物語です。

 

この物語で大きな役割を果たしておりますのは、一本のイチジク桑の木です。イチジク桑という植物をわたしたちは日頃、見ることはないのですが、パレスチナの地ではよく見かける木だそうです。ものの本によりますとイチジク桑の実は普通のイチジクより小さく、味も悪く、食べられますけれども、販売するようなものではないそうです。「イチジクの仲間であって、その葉は桑のように茂る」そうです。イチジクの葉というのは、普通の木の葉よりも大きいですし、それが桑の葉のように良く茂っているとしたら、人が隠れるのはもってこいです。4節に、ザーカイはこの木に登って、主イエス様を見ようとしたと書かれています。ひょっとすると、人々からは自分の姿を隠しておきながら、自分のほうでは、主イエス様を近くで見ようとしたのかもしれません。

 

 

2010年08月29日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「赦し」ウイリアム・モーア2010.5.30.

ルカによる福音書7章36−50◆罪深い女を赦す

 36:さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37:この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺    を持って来て、38:後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし    始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39:イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

 40:そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41:イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42:二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

 43:シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44:そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45:あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46:あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47:だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 48:そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49:同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50:イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

 

        

【リンカン大統領と女奴隷】

奴隷解放の父と呼ばれるアメリカの大統領エイブラハム・リンカンは誰よりも黒人奴隷制度を憎んで、その制度を無くす為に南北内戦を戦いました。          

大統領になる前のある日、リンカンは奴隷競売場へ見学に行きました。そして、ある女性の奴隷を目にし、あまりにも可哀想だから彼は思わず競売に入りました。競りは激しかったがリンカンがついに勝って、代金を払い、その女の人を自分の奴隷にしました。

2010年05月30日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「良い始まり」 ウイリアム・モーア 2010.1.3

モーア宣教師,2010.1.10

ルカによる福音書2章21−40

21:八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

◆神殿で献げられる

 22:さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23:それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24:また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。25:そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26:そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27:シメオンが"霊"に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28:シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

 29:「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。30:わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31:これは万民のために整えてくださった救いで、32:異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」

 33:父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34:シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35:――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 36:また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37:夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38:そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

◆ナザレに帰る

 39:親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。40:幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 

【神殿で献げられるイエス】

先ほど読ませて頂いた個所はクリスマス物語のなかで割合に知られていない個所だと思います。馬小屋でお生まれになったイエス・キリストの事と羊飼い達と占星術の学者達の訪問などはクリスマスの時に私達にはよく知られているストーリです。しかし、そのすぐ後の出来事はあんまり強調されていないようですね。先週は聖家族のエジプトへの避難の事を学びました。今日の個所の出来事は主イエスの御降誕とエジプト避難の間に起りました。

2010年01月03日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

クリスマスメッセージ 「あなたがたのために」ウイリアム・モーア

  ウイリアム・モーア宣教師ルカによる福音書2章1−21

◆イエスの誕生

  1:そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3:人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4:ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5:身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7:初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

◆羊飼いと天使

  8:その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9:すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10:天使は言った。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11:今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12:あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。21:八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 

【ソビエト連邦崩壊と孤児たち】

ソビエト連邦の崩壊直後の事ですが、ロシアの新しい政権は国営子供の家を支援する為に、 外国からのボランテイアを受け入れました。その当時、ロシアの経済が崩れ、みなしごと捨て子の数が急速に増加し、大変な社会的問題になっていました。ですからある二人のボランテイアは100人の子供の家へ派遣され、その子どもの世話をしました。食事を作ったり、赤ちゃんに御飯を食べさせたり、歌を教えたり、暖かく子供と話したりしました。

 

2009年12月20日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

人は皆、神の救いを仰ぎ見る ウイリアム・モーア

ルカによる福音書3章1−6

◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる

  1:皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2:アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3:そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4:これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。5:谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、6:人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 

【アドベント(待降節)、クリスマス、再臨】

私たちのアドベントの歩みは大分進んで参りました。来週の主の日には、大きな喜びを持ってこの世の唯一の救い主、主イエス・キリストの御降誕を覚え祝います。そのために、アドベントで全世界の教会はその最も喜ばしい日の為に準備します。つまり、主イエスの降臨の意味と必要性を新たに覚え、将来の主御自身の再臨も切に待ち望みます。その準備が出来た私たちはクリスマスを心から祝いたいと思います。

 

【洗礼者ヨハネ】

大昔、ある人物も主イエスの降臨の為の準備をしました。その方の名前は洗礼者ヨハネです。ヨハネは多くの聖書の人物の中でとてもユニークなお方でした。御言葉によりますと彼は荒れ野で住み、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(マタイによる福音書3:4)

2009年12月13日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

あなたがたの解放の時が近い: ウイリアム・モーア 2009.11.29

ルカによる福音書21章25−28

◆人の子が来る

 25:「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒

    れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。

 26:人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気

    を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。

 27:そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、

    人々は見る。

 28:このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。

    あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 

 

【アドベント・待降節】

皆さん、開けましておめでとうございます。そうです、開けましておめでとうございます。実は、今日こそはキリスト教会の元日になります。つまり、今日のアドベント、すなわち待降節の第一主の日は教会暦年の元日です。

 

主イエス・キリストの存在と賜物は我々キリスト者にとって最も中心的事実ですので、私達の新しい年は今日のアドベントの第一の主の日から始まりです。

 

2009年11月29日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

感謝と信仰 ウイリアム・モーア 2009.11.22

ルカによる福音書17章11−19

◆十人のらい病人をいやす

 11:イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12:ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 13:声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。

 14:イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

 15:その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16:そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

 17:そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18:この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19:それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

【収穫感謝】

大昔から人間は神、あるいは神々から受けた恵みに感謝を表す必要性を感じて、色々な方法でその感謝を示しました。特に毎年、刈り入れの時、人は収穫を守って下さった神に感謝を表す気持ちが高まってきました。豊かな収穫を通して神様の支えと摂理に対して人は自然にありがたく思い、具体的な形でその気持ちを表現したかったのです。聖書にも収穫の初物を神に捧げる事によって、信仰をもって私達の先祖は感謝を表しました。

 

箴言にこの御言葉が記されています。

「それぞれの収穫の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、しばり場に新しい酒を溢れさせてくださる。(3章9−10)

 

人々は収穫の一部を神殿へ持って行き神様に捧げました。そしてその儀式を通して信仰者は個人的に、公的に神に対する恩を認め、頂いた恵みの為、感謝を表す事が出来ました。

 

言うまでもなく、今日の私達も常に神に感謝を表すべきであります。収穫の恵みの為だけでなく、日々の生活において主の全ての物質的と霊的恵みを考えると感謝の気持ちが私達から湧き出てきます。農業にあんまり携わらなくても、この秋の刈り入れ時、特に愛する神の大きな祝福と恵みを覚えて心から神に感謝します。ですから、今朝、共に神に対する感謝の意味と重要性を新たに覚えたいのです。

2009年11月22日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

癒されて知った神の愛 神戸改革派神学校専任教授牧野信成牧師

神戸改革派神学校専任教授牧野信成牧師

聖書:ルカによる福音書17章11-19節

重い皮膚病を患っている十人の癒し11:イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12:ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13:声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14:イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

15:その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16:そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

17:そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18:この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

19:それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


【重い皮膚病】

今朝の御言葉は、ルカ福音書だけに記されています10人のらい病人についての話です。「重い皮膚病」というふうに病名が替わっておりますけれども、重要なことはそれが聖書で指定された重病であったことです。死に至る恐れのある、伝染性の病であり、その深刻さの故に、感染した者は社会から隔離された生活を強いられました。そんな深刻な病に冒された10名の患者を、主イエスは一時に癒された、と福音書は伝えます。憐れみ深い神を示す、大きな救いの御業です。

2009年07月05日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

イースターの約束 ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書24:1−12;36−49

◆復活する

1:そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2:見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3:中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4:そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5:婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6:あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7:人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8:そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9:そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10:それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11:使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12:しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

◆弟子たちに現れる

36:こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37:彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38:そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39:わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40:こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41:彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42:そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43:イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。44:イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45:そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46:言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47:また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48:あなたがたはこれらのことの証人となる。49:わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


【主イエスの受難】

悪夢のような一週間でした。しかし、それは幻想ではありません。明白な事実でした。全く信じられない事が起ってしまいました。祈る為に主イエス・キリストと御自分の弟子達がエルサレムに近いオリブと言う山へ行くと、突然、刀と棒を持った群衆が現れました。そして、十二の弟子の一人、ユダは、その群衆から出て来て、「先生、いかがですか」と挨拶して、主イエスを接吻しました。そうすると主はこのように言われました。「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか。」

2009年04月12日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

喝采が終わった時 ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書19章28−40

◆エルサレムに迎えられる

28:イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29:そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30:言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31:もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32:使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33:ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばを

ほどくのか」と言った。34:二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 35:そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36:イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

37:イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38:「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」

39:すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40:イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」



【ローズボウル•パレード】
私達人間はなかなかフェステイバルパレードを好む心があります。その理由は色々あると思いますが、恐らくパレードは何よりも刺激的で興奮させるものなので、パレードがあれば、たくさんの人々は集まって来ます。今度アメリカへ行く、ロサンジェルス近郊にあるパサデナという町はお正月のローズボールパレードでとても有名なところです。実況テレビでアメリカ全国によく知られているパレードです。昔になりますが、私達がパサデナに居住していた時、私達はそのローズボウル•パレードを直接に見る事が出来ました。ある人はパレードを見る為、一番良い場所を得るように、大晦日の夜からパレードの道の側で寝泊まりしていました。また、特に良い場所は、席があって切符が高い値段で売られていました。幸い私達は、切符を内の家族にプレゼントしてもらい、夜中から場所を確保する必要がありませんでした。とにかく、その有名なローズボウル•パレードをよく見る事が出来ました。そのパレードの巡行用の山車は特別にゴージャスでした。ローズ•パレードと呼ばれるので、薔薇と様々な他のお花で飾って、100台程の山車がありました。また数十の優れた楽隊もパレードに参加しました。更に、幾つかの素敵な乗馬グループもパレードに出ました。次々と数時間にわたり、ローズ•パレードは忘れられない素晴らしい光景を呈していました。

2009年03月29日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

なくてはならないもの:信仰 ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書18章35−43
◆エリコの近くで盲人をいやす

35:イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36:群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。

37:「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、38:彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。39:先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 40:イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。41:「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42:そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43:盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエス に従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。


【生きるために必要なもの】
生きる為に私達人間には生理的要求があります。それは身体の働きに絶対に必要であるから、なければ、あるいは不十分であるなら、私達の命さえも危なくなります。そのなくてもならないものとは、呼吸と、飲み物と食べ物と排泄と睡眠と住みかです。誰でも本能的にそれらを求めます。だからこそ喉が渇いたら飲み物を欲しがり、お腹が空いたら食べ物を探し、眠くなると微睡みます。私達は生まれつき、その生理的ニーズがあって、そのものを省いては私達の命が危なくなります。

2008年10月19日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

神の国にふさわしい者 ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書9章57−62◆弟子の覚悟

57:一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58:イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」59:そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60:イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」61:また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62:イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

【あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります】
皆さん、先程読ませて頂いた、今日の御言葉を聞くと、どう思われましたか。ちょっと驚きましたか。と言うのは、三人の人が次から次へと主イエスにやって来て、「あなたに従います」と宣言しました。つまり、弟子として「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」とイエスに言いました。主にとってそれは何よりも嬉しいお話ではありませんか。何といっても、出来かぎり多くの弟子を集める事によって、御自分の働きがうまく遣りやすくなり、社会にも強い影響を与える事ができます。ですから、「あなたに従います」と言う人がどんどん出て来ると主イエスは大いに喜んだはずです。しかしながら、喜びを持ってその献身を熱く歓迎するよりも、逆にイエスは驚くべきことに、却って止めさせようとするような返事で答えられました。

2008年10月12日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

パンを裂かれた時イエスだと分かった ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書24章13−35◆エマオで現れる

13:ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14:この一切の出来事について話し合っていた。15:話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16:しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17:イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18:その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19:イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20:それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするた め引き渡して、十字架につけてしまったのです。21:わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22:ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23:遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24:仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

25:そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26:メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27:そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、 御自分について書かれていることを説明された。28:一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29:二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30:一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31:すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32:二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 33:そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34:本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35:二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


【ヒトラー暗殺計画】
牧師と神学者であるドイツ人のデイートリック•ボーンヘッファーは1943年にナチによって逮捕され、監獄に入れられました。彼はヒトラーの集団殺害的な支配を悟り、その邪悪な政権を倒すのは神の御心だと信じて来ました。ですからボーンヘッファーは同じ目的を持つ仲間を集め、ヒトラーを止めようとしました。そして、仲間は審議した上、ヒトラーを止めるには一つの道しかないと判断しました。それは彼を暗殺する事でした。牧師として、神学者として人を殺すのは大変辛いけれども、そうしないとヒトラーは続けて言い尽くせない悪事を働く事になってしまいます。その為にボーンヘッファーはヒトラーの暗殺計画に関与しました。その計画は正確に進まれ、爆弾の鞄はヒトラーの会議室に置かれました。しかし、会議室に置いた爆弾の鞄が偶然人によって動かされ、爆発はしたもののヒトラーは生き残りました。 計画が失敗すると、やがてボーンヘッファーとその仲間は秘密警察によって逮捕され、死刑を宣告されました。そして、ナチ政権の征服の数日前にボーンヘッファーは処刑されてしまいました。

2008年10月05日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

「迫害に遭っても喜ぶ」マタイ福音書5章11~12 淀川キリスト教病院牧師 田村英典

淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:マタイ5章(山上の説教)

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆幸い

3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」


【迫害を受けるクリスチャンの反応】
マタイ5章の冒頭にあるイエスの教えから、真のクリスチャンとはどういう者かを学んでいます。イエスは3~10節で8つの側面からそれを描かれますが、その最後は10節

「義のために迫害される」


という点です。今日の11、12節は10節の続きであり、補足説明と言えます。

2008年08月10日 | カテゴリー: ヘブライ人への手紙 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

主イエス・キリストのみ ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書17章1−8

◆イエスの姿が変わる   1:六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2:イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3:見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」   5:ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。   6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7:イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8:彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

 
【六甲山の魅力】
家の北側の窓から六甲山がよく見えます。そして、小さい時から山が好きだった私は毎朝起きると、窓のカーテンを開けて、その日の六甲山の様子を眺めます。ある朝は、六甲山は雲と霧に包まれて、完全に見えなくなります。又ある冬の日は雪で美しく輝いていました。春になって暖かくなると、六甲山は段々緑に覆われて、見るだけで気分が爽やかになります。そして、秋の六甲山は燃えるかのような紅葉になり、とても奇麗です。山は平地より、季節の変化が目立ちますので、とても面白くて魅力があります。
 
【高所から】
しかし、季節の変化以上に、やはり山の高度は山の魅せられるところではないかと思います。高い山に登ると別の世界に入るような気がします。空気が美味し、人里離れますので自然の音しか聞こえないし、すずしいです。そして、山から平地を見下ろすと山の魅力が特に感じられます。つまり、自分が全ての上にいるから、遠くまで見えるし、下にある普通の世界は小さくなります。ある面では、高い山から世界を見下ろすと、私達人間は神の目から見られているような感じかもしれません。         

2008年03月09日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

「罪を赦す権威者イエス・キリスト」 泥谷逸郎教師

 聖書 ルカ福音書 5章17~26 

◆中風の人をいやす  17:ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。18:すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 19:しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 20:イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。  21:ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 22:イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 23:『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。24:人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。 25:その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。 26:人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。



【はじめに】
「中風の人をいやす」出来事のあらすじは次の通りです。 
主イエスがご自分の町カファルナウムに帰ってこられたある日のことです(マタイ9:1、マルコ2:1)。そこに、大勢の人々がやって来ました。主イエスに批判的なファリサイ派や律法学者たちも座っていました。
ファリサイ派は、律法主義者で、先祖たちの言い伝えを守るのに熱心な人々でした。律法学者とは、モーセ律法をはじめ、旧約聖書の学者のことです。彼らは歪んだ律法解釈のために主イエスが誰であるか分からなくなっていました。


2008年02月24日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

幼子イエスに出会ったシメオンとアンナ ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章22−40
 
 
2007年のクリスマスはもう終わりました。先週まで何所へ行っても聞こえて来たクリスマスキャロルは聞こえて来ません。クリスマスの飾りは来年の為にもう物置きに納められています。子供達は既に憧れたクリスマスプレゼントを忘れ、来年に頂きたい物を考えています。あっと言う間にクリスマスが終わってしまい、お正月と故郷帰りの準備で皆はばたばたしています。
 
【幼子イエスのお宮参り】
同じように、2007年前に、最初のクリスマスが済んでから、幼子イエスの両親、マリアとヨセフは忙しくなりました。しかし、それはお正月と親戚の訪問の為ではありません。実は、大事な宗教上の儀式を行わなければなりませんでした。それは長子イエスをエルサレムの神殿へ連れて、ユダヤ教の掟に従ってその子を神に献げる事です。旧約聖書の律法によりますと、

「人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一ヶ月を経た後、銀5シェケル、つまり1シェケル当たり20ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う。」


(民数記18:15−16)

2007年12月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記

驚くべき恵み ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章1−20節
 
【日本でもクリスマス?】
毎年、クリスマスが近づくとアメリカの教会の人々からこのような手紙をよく頂きます。「日本のクリスマスはどうですか。そちらはキリスト者があまりいないと聞くので、大変寂しいでしょう。わたしの町はクリスマスの為にとても明るくなりましたが、日本はそうではないでしょう。辛く、寂しいけれども頑張って下さい。」
 
返事として私はこのように書きます。「多くの日本人はクリスマスを一生懸命に祝って下さいますので私達の事は心配しないで下さい。ここでは、十一月上旬からクリスマスの宣伝が始まります。どこでもサンタクロースとクリスマスツリーの姿が見えるし、店のスピーカではクリスマスキャロルもアメリカに負けない程よく聞こえます。クリスマスパーテイーも流行っていますし、クリスマスプレゼントを買う為に人々はデパートへ押し寄せます。その上、日本では我々アメリカ人にないクリスマスの伝統も結構あります。ここは12月24日にケンタキー•フライド•チキンとクリスマスケーキを食べます。また、青年達はクリスマスイブに特別なデートをします。私達の事を考えて下さって大変有りがたいのですが、日本人はクリスマスが大好きですので、私達の事は心配しなくてもよいのです。」
 
今年も、日本とアメリカだけではなく、全世界の多くの人々はクリスマスを祝っています。アフリカでは太鼓の音と激しいダンスでクリスマスの喜びを表しています。ヨーロッパでは色々な昔からのクリスマス伝統が守られています。南米では教会はクリスマスの為に満員になります。そして、パレスチナでは人々は主イエス・キリストがお生まれになった町ベツレヘムへ集まって礼拝を行います。本当にクリスマスは全世界の人々のものになり、一番良く守られた祭日ではないかと思います。

2007年12月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

イエス・キリストのアドベント ウイリアム・モーア宣教師

聖書:マラキ書3章1−4
 
【アドベント:明けましておめでとうございます】
皆さん、明けましておめでとうございます。そうです。明けましておめでとうございます。実は、今日は正にアドベント、すなわち待降節の始まりの日で、キリスト教暦年の元日になります。大昔からキリスト教会はクリスマス前の約四週間の間、世界の唯一の救い主であるイエス・キリストの御降誕を祝う心の準備をして来ました。そして、更に、将来、主が再びいらっしゃる事、主の再臨を私達はアドベントに心から待ち望みます。アドベントと言う単語の文字通り意味は、「出現」、あるいは、「いらっしゃる(来臨)」と言う事です。ですから、アドベントに私達は喜びを持って主イエスの降臨を記念すると同時に、大きな希望を抱き、これからの主の御再臨を待っています。
 
キリスト教会は結局主イエスの御降誕に起源を持ているので、当然教会暦年はアドベントで始まります。2007年前に父なる神は御自分の独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして、主イエスの救いを通して私達は新しい命と新しい希望が与えられたのです。その比類なき程素晴らしい再出発を記念して、今日私達はアドベントの始まりと教会暦年の元日を覚え祝います。明けましておめでとうございます!
 
【アドベント•リース】
アドベントを豊かに守るように、毎年のように、今年も津村姉妹がまた私達の為にアドベント•リースを準備して下さいました。長い伝統ですから、リースはシンボルとして色々な深い意味を生じて来ました。先ず、リースの円形によって私達は神が始めもなければ終わりもない永久の神である事を覚えます。また、神の愛と憐れみは限りがないと言う意味もあります。そして、リースの常緑の葉っぱはイエス・キリストが賜って下さる新しい誕生と永遠の命を示します。更に、ろうそくの火は神の光、イエス・キリストのシンボルになります。
 
【世の光・主イエス】
世の光である主イエスの御降誕の際に、神、御自身がこの世にいらしゃって、救いと愛の光を全人類に照らして下さいました。アドベントの毎週、主の日に、外側のろうそくを一本ずつ点す事によって、イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいると言う意味なのです。そして、真ん中のろうそくは「キリストのろうそく」と言われています。私達はやがてクリスマス礼拝を迎えるとそのろうそくを点します。神の光である主イエスはクリスマスの中心だけではなく、この世の歴史の中心である事の印になります。
 
外側の赤いろうそくは、一本、一本も特別な意味があります。それは主イエスの御降誕から来る、私達が頂いた賜物なのです。今日点すろうそくは希望を現します。来週のろうそくは平和を意味します。そして、その次のろうそくは喜びと、その次は愛を表します。今年のアドベントにその四つの貴重な賜物を覚えながらクリスマスを迎える準備を皆さん一人一人と共にしたいと思います。アドベント•リースを用いて私達は今年もクリスマスを記念し、共にその神の賜物、希望と平和と喜びと愛を新たに経験したいです。

2007年12月02日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マラキ書 , ルカによる福音書 , 旧約聖書

「キリスト者と迫害」
淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:マタイによる福音書5章1~10節

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 

【キリスト者と迫害】
3節から始まるイエス・キリストの幸福の教えを学んで来ました。今日は最後の8番目、10節に進みます。本当は11、12節も関係していますが、今朝は10節だけを取り上げます。
まず前後関係から気づくことがあります。
第一に、これは3節から始まった一連の教えの最後で、いわば締めくくりです。つまり、クリスチャンを完全な形で描く上で、迫害に触れない訳にはいかないということです。厳しいですが、クリスチャンと迫害は切り離せません。
 
第二に、これは9節

「平和を実現する人」


についての教えの後に来ています。クリスチャンが神の御心に従い、平和を実現しようと努力した結果が、しばしばこの世から迫害だということです。悲しいですが、これが現実です。
 
第三に、この教えに付いている約束は3節と同じで、

「天の国はその人たちのものである」


と主は言われます。主はまず3節で人々の心を永遠の天国に向けさせ、またこの最後の教えでもう一度人々の関心を栄光の天に向けようとされます。
 
「迫害はある。だが忘れるな。あなたが受けようとしているものは、生れつきの人が如何にしても手に入れることのできない神の永遠の祝福、天の国である。当座は辛い。だが迫害は決して永遠ではない。あなたは永遠のものを受けようとしている。だから、忍耐して戦い抜きなさい」と励ましておられます。
 
以上、前後関係から簡単に見ました。もう一度10節を見ます。

「義のために迫害される人々は幸いである。」


これが既に永遠の天の御国に国籍をいただいている幸いな人の紛れもない特徴の一つなのです。
主は正直です。「私を信じたら、何もかもうまく行く。いやなことなどなくなる」とは言われません。それは大嘘つき、またサタンの言うことです。サタンはマタイ福音書4章8節でイエスを誘惑して言いました。

「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう。」


「これ」とは「世の全ての国々とその繁栄」だ。要するに、何でも思い通りになる、万事OKということです。しかし、これは嘘です。イエスは事柄を曖昧にされません。率直に事実を告げられます。「あなたに信仰の故に迫害はある。それが激しいか緩いかは、天の父の御心による。だが迫害を受けるなら、それこそ、あなたが天に国籍を持ち、永遠の神の国の住民であることの明確な証拠である」と主は断言されます。

2007年10月21日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

愛する神と悪の諸問題 ウイリアム・モーア宣教師

ローマの信徒への手紙8章28節
 
【偶然の悲しい出来事】
この間、ロスアンジェルス•タイムズと言う新聞でこの悲しい記事を読みました。記事の題は、「生まれたての赤ちゃんが流れ弾で殺された」とありました。「ベビーカーに寝っていた23日の新生児がロスアンジェルスのマッカーサー公園で流れ弾に撃たれました。日曜日の午後9時30頃、母親が赤ちゃんを公園へ連れたときに撃ち合いに巻き込まれました。三人のラテン・アメリカ系男性と屋台の主人との間で射撃事件が起きて、一人の男も銃で打たれました。彼は病院へ運ばれ、安定した状態で治療を受けています。しかし、赤ちゃんルイス•ガシアが午後10時過ぎに病院で死を宣告されました。当局は事件を調べていますが、犯人達とその動機はまだ不明だそうです。
          
公園の周辺には小さい売店と屋台が沢山あり、その殆ど全部はラテン系の人の経営です。事件の近くの店の店長が事件についてこのように語りました。「多くの家族が買い物と公園に、ここに集まって来るのに、 残念ながら、ここは危険な所です。 近辺は暴力で悪名になってしまいました。」
 
皆さん、このような悲惨な出来事を聞くと、その赤ちゃんの家族の悲しみと怒りを容易に想像出来ると思います。もし、自分の家族にそのような酷い乱暴があったら、もちろん悔しくてたまりません。産まれたばかり無邪気な赤ちゃんがそのように無意味に殺されたのは悲劇の中の悲劇になります。その事件はこの世にあるもっとも酷い悪の縮図であると思います。

2007年09月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ガラテヤの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記 , 詩篇

コストを見積もる事 ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書14章25−33
 
 
【ある鶏と豚が】
ある鶏と豚が教会の掲示板を見て、次の日曜日の説教題を読みました。それは、「私達は貧しい者の為にどうすべきか?」と言う題でした。鶏は考えて、考えて、「分かった!私達二人はベーコンと卵の朝食を準備して、貧しい者に提供しょう。私は生んだ卵を提供して、あなたは自分のベーコンを差し出す事が出来る。」豚は鶏のアイデイアを聞いて、ちょっと困った顔をしながら言いました。「ベーコンと卵の朝食を貧しい者に食べさせるのに一つの問題があります。それは、あなたにはただ寄付になりますが、僕には完全な献身を求められる。」
 
今日の御言葉によりますと、

「大勢の群衆が一緒に」


主イエスについて来ました。なぜなら、イエスは驚くべき印を行いました。病を患った多くの人を奇跡的に癒されました。また、少年の小さい弁当を取り、それを拡大して5千人程の群衆を満腹させました。その上、主イエスはイスラエルの祭司達と違って、権威ある者のように神について彼等を教えられました。ですから、イエスは有名になり、何所へ行っても大勢の人が主について来ました。
 
【聞きたくないお話】
言うまでもないが、それは伝道に大変良い機会になりました。御自分の人気を用いて、沢山の人々に神の福音を伝える事が出来、収穫が多くなります。もし甘い言葉を上手に使ったら、多くの人は御自分の弟子になって、主の影響と名声がきっと高くなります。しかしながら、今日の御言葉によりますと、主イエスは、人々に非常に聞き難いお話をしてしまいました。26節を見ますと、この主のお話が記されています。

「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない」


と主イエスは群衆に声明しました。

【自分の十字架を背負って】
皆さん、その主のお話をどう思われますか。もし主が祝福や心の安らぎや神の愛や永遠の命などばかりを説いたら、多くの人々はもっとついて来たはずです。しかし、

「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」


とおっしゃると、人が集まるどころか、人を追い出すような言葉になります。更に、

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない」


とはとても難しいお話です。十字架はもちろん処刑する道具です。ですから、「自分の十字架を背負う」事は、献身の道になります。その難しい言葉を聞くと、私達は主イエスに、そんな極端な表現を避けた方が良いのではないでしょうか」と言いがちですね。「そのメセージは伝道にはあんまり役に立ちません」と言いたいです。つまり、もし、イエスの弟子になる条件として、家族の者と自分自身の命さえも憎むのなら、また、自分の十字架を背負う必要があるなら、いったい誰が弟子になれるでしょうか。

2007年08月05日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

『悔い改めにふさわしい実を結べ』吉田 謙千里摂理教会牧師


*聖書 マタイによる福音書3章1節~12節
 
【そのころ、洗礼者ヨハネが現れて】
今、朗読いたしました記事は、

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて」

という言葉で始まっています。では、ここで言われている「そのころ」とは、いったい、いつ頃のことなのでしょうか。4つの福音書の全てが、今日の洗礼者ヨハネの登場を告げていますけれども、その中でも歴史家とも言われる福音書記者ルカは、洗礼者ヨハネの登場をこのように述べています。

「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。」

( ルカによる福音書3章1~4節)。

2007年06月17日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マラキ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

霊の結ぶ実:親切 ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書6章32−36

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善い事をしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人も同じ事をしている。返して貰う事を当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返して貰おうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善い事をし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、沢山の報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


ガラテヤの信徒への手紙5:22−23

【小さな親切】
ある青年が自分の高校の時の体験談を語りました。「私は高校一年生の時、学校から家へ帰る途中、同級生ヘンリーを見かけました。週末の初め、金曜日なのに、彼は山程の教科書を手で運んで歩いていましたので、ヘンリーは余程ガリ勉屋だと思いました。私は週末にはいつもパーテイーとスポーツで楽しい予定がありましたから、勉強する余裕がありませんでした。突然、不良連中がヘンリーの方へ走って行って、何も言わずに彼が持っている教科書を取って地面に投げ捨てました。そして、彼等はヘンリーを強く蹴って倒しました。彼の眼鏡は数メートルまで飛んで行って芝生に落ちました。連中が去ってからヘンリーが顔を上げた時、私は彼の目に恐ろしい悲しみを見ました。

2007年06月10日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

霊の結ぶ実:愛 ウイリアム・モーア宣教師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章16−25

【霊の実と肉の業】  16:わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。  17:肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。  18:しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。  19:肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20:偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21:ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。  22:これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。  24:キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26:うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

 
【キリスト者とは?】
皆さん、「キリスト者であると言うのは、どんな事ですか」と聞かれると、どう答えられますか。その事について考えた事がありますか。多分色んな正しい答え方があるのですが、やはり一番大事なのは、キリスト者はイエス・キリストを唯一の救い主として信じ、頼ります。そして、更にキリスト者は毎日の生活にイエス・キリストに従って生きようとする者なのです。つまり、私達は主イエスを模範として生きたい。又、主イエスに似て行く熱望を持っています。

2007年05月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

イエス・キリストの犠牲 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書15章33−39
 
【主イエスの受難】
私達の主イエス・キリストの受難記念日はもうすぐです。実は、今週の金曜日になります。主イエスの受難の全ての犠牲はあなたの為、私の為でしたので、この際、主の犠牲を改めて思案すべきだと思います。来週、いよいよイエス・キリストの復活をお祝いします。しかし、この受難がなければ、復活もなかった事でしょう。そして、イエス・キリストの十字架の死の意味が分からなかったら、その復活の意味と喜びも分かるはずがありません。ですから、今朝、主イエスの犠牲について一緒に思案したいと思います。
 
イエス・キリストの犠牲を考えるとき、すぐに残酷な十字架を思い出します。十字架に掛けられた間、イエスが言い尽くせない程、肉体的苦しみを経験されました。ローマ帝国の処刑の方法として、十字架の死は一番酷い拷問でした。普通の犯罪者は他のもっと速い方法で死刑に処されたのですが、国に対して謀反(むほん)のような重い罪を犯した場合、十字架刑を使いました。つまり、これ以上の厳しい刑罰がありませんでした。一日の拷問に限られなくて、死ぬまで大抵二日、三日程の時間がかかりました。あまり残酷なので、私達は主イエスの十字架の死の肉体的苦しみを十分想像出来ないと思います。

2007年04月01日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

急いで降りて来なさい ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書19章1−10
 
【税務官】
あるスポーツクラブのオーナーが自分の力を人々に見せつける為、自分よりも強い人には十万円の賞金を出すと言い出しました。人の力を試す方法で、彼はレモン一個を取って片手で一生懸命に搾り出しました。そして、そのレモンを挑戦者に渡しました。もし挑戦者がそのレモンからもう一滴の汁だけでも搾り出す事が出来たら、賞金が貰えます。力強い挑戦者が沢山集まりましたけれども皆は失敗してしまいました。いくら頑張ってもレモンからもう一滴の汁を搾る事が出来ませんでした。ある日、骨と皮ばかりの弱虫に見える男がスポーツクラブに初めて現れ、大胆にもオーナーに挑戦しました。皆が大声で彼を笑いましたが、オーナーはいつものようにレモン一個を取り完全に搾り出してから挑戦者に渡しました。そして、相手がそのレモンを片手に取って搾り始めました。すると、一滴だけではなく、二滴、三滴と、レモンから落ちて来ました。その珍しい光景を見た人々全ては彼に声援を送りました。負けたオーナーは大変驚きましたが、約束通りに賞金をちゃんと出しました。そして、オーナーは挑戦者の実力の説明として、その人の職業を尋ねました。そうすると、「僕は税務署で働いています」と返事が来ました。
 
【ザアカイ】
今日の聖書朗読は税務署で働いていたザアカイと言う人を紹介します。彼は住民から税金を搾るので悪名高い人でした。その当時、徴税人は国が決めた額以上に税金を無理やり取り、その差額(さがく)を自分のポケットに入れていましたので、大変嫌われた人でした。
 
さらに、ザアカイは徴税人の頭で部下からも何割かを要求して、大金持ちになりました。つまり、ザアカイは人を犠牲にして、豊かになったのです。その上、彼はユダヤ人でありながらでも、外国のローマ政権の為、ユダヤ人から徴税しました。その結果、彼は村八分になり、非国民のように扱われました。「罪人」、「悪党」と呼ばれ、ザアカイは金持ちになっても、とても寂しい人でした。

2007年01月07日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

子供のようにクリスマスを ウイリアム・モーア宣教師

ルカによる福音書2章1−20
 
【最初のクリスマス】
皆さん、メリークリスマス!私達は大きな喜びを持って、この世の唯一の希望、私達の救い主、イエス・キリストの御降誕をお祝い致します。
2006年前にマリアと言う乙女が全能の神の独り子をベツレヘムと言う町にある馬小屋でお産みになりました。宿屋には彼らの泊る場所がなかった為、マリアはその御子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、と聖書に記されています。万物の造り主で永遠の神は自ら進んで非常に低くなり、この世に下って、人間として私達と共に宿りました。そして、主は、「神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いてあります。ですから、クリスマスは非常に大切な記念日になります。唯一の神が天から下って人間の赤ちゃんの姿でこの世に入るのは決して普通の事ではありません。歴史上、その最も素晴らしい出来事を通して神は私達に対する御自分の驚くべき愛を具体的に表されました。
 
愛する兄弟姉妹、私達は救い主である、神の御子の誕生の記念日をどういうふうに祝うべきでしょうか。この世の人々は色々なかたちでクリスマスを迎えようとしていますが、恐らく、私達は今年、幼子のようにクリスマスを迎え祝いたいのです。

そして幼子のようにクリスマスを迎え祝う事によって神の恵みと祝福をより豊かに受けたいと思います。
 
先程読ませて頂いた聖書の箇所はクリスマス•ストーリーです。その中に「初めての子」と「乳飲み子」と言う表現が見られます。神は御自分の全ての栄光と力ある姿で私達に現れる事が十分お出来になりました。しかし、主はわざわざ防御出来ない人間の赤ちゃんとしてこの世に下りました。全能の神が御自分の全勢で私達に現れたら皆は恐れる事でしょう。その故に皆が見た事がある可愛らしい赤ちゃんの姿で私達の世に現れて下さいました。
 
ですから、幼な子が現れないうちはクリスマスの出来事が不可能のように、私達は子供のようにならないと、クリスマスを豊かに祝う事が出来ません。主イエスはこのように言われました。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事は出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(マタイ18:3−4)

2006年12月24日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

神の信実・神への忠信 ―ダビデ王とその家臣― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授

(歴代誌上11章15‐19)

序.
 歴代誌上11章15‐19は、ダビデとその家臣が共々に、またそれぞれに、神に対して忠義であり、真に献身したことを伺わせる一つのエピソードを記しています。この箇所の並行記事がサムエル記下23章13‐17にありますが、そこでは、三勇士の武勲は、ダビデの生涯と事績を記す一連の物語の終わりのほうに位置しています。今朝の箇所では対照的に、ダビデがサウルに代わって登場してくるのを書き始める部分―長いダビデ物語の初めのほう―に位置しています。
 
神の民、イスラエル王国の要とも言うべきダビデ王朝の勃興・形成の物語の最初期から、ダビデ自身の事績のみならず、彼の忠義な家臣団が―各自の名前が連ねられて―述べられていることは意義深いことです。イスラエル王国の基礎固めがなされ、それを通して主なる神の主権的支配が着実に進んで行く背景には、ダビデだけなく―ダビデ一人ではどうにもなりません!―彼が自らの王の任務を遂行することができるように、彼に仕えた多くのイスラエルの家臣がいたことが、読者には初めから印象付けられます。神はご自身の御業の遂行のために、ダビデの忠実な家来をも(ダビデと共に)用いられたのです。

2006年11月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , サムエル記下 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上

「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」

 
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
 
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。

「義」


とは何か。

「義に飢え渇く人々」


とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
 

2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師

詩編133篇1--3

1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。

テサロニケの信徒への手紙一4章9--10

【1.愛がないと。】

(スキット:持ち物をめぐる争い)

先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。

これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。

先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。

教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。

2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


【山上の説教】

今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。

3~10節で主は


「~は幸いである」

と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。

2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書

十字架からの御言葉(その7):「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」ウイリアム・モーア

ルカによる福音書23章44-24章12

【イースター】
御存じのように今日はイースターです。今日、私達と全世界の教会は神の御子イエス・キリストの復活を祝い、主を死から蘇らさせた父なる神を讃美し、誉めたたえます。実は、その初めのイースターで起こった事は私達の信仰に最も重要な素晴しい出来事になります。何故なら、復活を通して全能の神はイエス・キリストがなさった事と言われた事を承認されたことの保証になるからです。主イエスの約束と教え、そして、最も大事な御自身与える救いは本当である事が復活を通して証明されました。その事が本当でなければ、真理の源、唯一の神は決して主イエスを蘇せるはずがなかったのです。ですから、私達は今日、復活の印と勝利を心から記念し、お祝いします。

【十字架上の七番目の発言】
今日、イースターの出来事がもっと深く分るようにイエス・キリストの十字架からの最後の御言葉を学びたいと思います。主イエスは十字架から七つの発言をなさいました。そして、今までその貴重な御言葉を通して私達はイエス・キリストについて重要な事を学んで来ました。私達罪人の為の御自身の赦しと愛と救い。また、十字架につけられた主の霊的と肉体的苦しみは私達の唯一の贖いになった事も学びました。そして、今日の最後の御言葉を通して、イエス・キリストの復活の信仰が分って来ます。今日与えられた聖書の個所によりますと、

「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」

と記されています。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

実はイエスはここで詩編を引用して発言なさいました。 詩編第31編6節にこの御言葉が書いてあります。

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」

これはダビデの詩です。ダビデは敵によって苦しめられ、また、友人に見捨てられた大変困難な時、この信仰を告白しました。

「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」

そして、十字架で死ぬ直前に主イエスは最期の言葉として同じ信仰を告白しました。皆が聞こえるように大声で叫びました。

「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」

2006年04月16日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ルカによる福音書 , 新約聖書

十字架上のお言葉(その2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 ウイリアム・L・モーア

ルカによる福音書23章39-43節

【有名人物の最期の言葉】
有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ダヴィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死にぎわの言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかもない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉いと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」

先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。

先週私達は十字架上の主イエスの第一の御言葉を学びました。それは、御自分に罪を犯す者、また、御自分の敵の為の赦しの言葉です。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

とおっしゃいました。つまり、十字架の贖いを通してイエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも神から罪の赦しを受けられます。自由に主イエスの義を頂き、神の愛された子供のように受け入れています。その赦しの言葉が十字架上の第一の御言葉です。

【十字架上の第二のみ言葉:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】
今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。

2006年03月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

十字架上のお言葉(その1):「赦し」 ウイリアム・モーア

ルカによる福音書23章32--43節 34父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

【ある韓国人兄弟の物語】
韓国の古い伝説ですけれども、ある貴族に二人の息子がいました。そして、その長男はやがて最高裁判所長官になりました。しかし、次男は不良の道を選び、悪名高い強盗になってしまいました。それにも関わらず、お兄さんは弟思いで本当に愛して、何回も彼を変えようとしましたが、弟は聞きませんでした。そして、弟が遂に捕まえられ、裁判長である兄の裁判に連れられてきました。裁判の結果はもう決まってると皆は思いました。何故なら、兄の長官は弟を深く愛していましたので、手段を選ばず彼を釈放してやると皆は思ったのです。しかし、裁判の結果は、兄長官が弟を有罪と判決しました。兄が弟に死刑を宣告した時、皆は驚きで息が止まりました。

やがて死刑を実行する日が来ました。そして、長官であるお兄さんは最後に弟に会いに刑務所へ行きました。面接の時間が終わりかけた時、お兄さんは弟に、「番人が見てないうちに、私の衣服を着て席を交代しよう。そして、私の代わりに帰ってくれ」と言いました。それで弟は兄の工夫に承知して、言われた通りに逃げました。もちろん当局は囚人が実際に裁判長官である事が分ると処刑を止めるはずだと信じていました。

しかし、弟は事実を確かめる為、近くにある丘に上って遠くから死刑台を眺めました。誰かが死刑台へ連れられてきました。信じられない光景ですけれどもその人は自分のお兄さんでした。そして自分の目の前で兄が処刑され、自分が受けるべき罰を受けてしまいました。

自責の念で一杯の弟は走って刑務所の門を叩きながら叫びました。「間違っている、無罪の人の死刑を先程実行しました。私こそはその処刑すべき囚人です。私を処刑して下さい。」そして刑務所長が出て来ると弟は自分の名前を言って、繰返し、「私を処刑して下さい、私を処刑して下さい」と願いました。しかし、刑務所長はこのように言いました。「帰りなさい。そう言う名前を持っている囚人の刑は、もうすでに実行されたので、全ては済みました。速く帰りなさい」と命令しました。

【イエス・キリストの贖い】
私達は受難節に入りました。そして、受難節の際私達は特にイエス・キリストの十字架の贖いの死の意味を新たに考え思案します。皆さんはいまだに罪の意識を引きずっているのですか。その罪の罰はもうすでに実行されました。全ては済みました。十字架のお陰で、先程の伝説の弟のように、私達は罪の故に支払うべき罰が主イエスによってもうすでに支払われました。使徒パウロが述べたように、

「罪と何のかかわりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)

それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を完全に受け入れて下さいました。受難節にその言い尽くせない程の恵みを覚え感謝したいのです。

2006年03月12日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

私の為の良い訪れ ウイリアム・モーア

ルカによる福音書2章1-20

【今日はクリスマス】
メリークリスマス!今日、12月25日は丁度主イエス・キリストの御降誕の記念日になります。日曜日が主の日のクリスマスになるのは11年ぶりですので、今日は西谷集会で始めて迎える主の日のクリスマスです。キリスト教会は大昔から12月25日にイエス様の御降誕を祝って来ましたので、今年は全世界教会と共に主の日にその最も素晴らしい記念日を守る事が出来ます。

【光が世に来た】
今日の礼拝はクリスマス礼拝ですので、アドベント・リースの外側の希望と平和と喜びと愛のろうそくを灯すだけではなく、真ん中にあるキリストのろうそくも灯しました。2005前に、「世の光」である、神の独り子、主イエスはベツレヘムにお生まれになりました。その日、全人類の永遠の救いの為に全能の唯一の神が肉体を取って、人間として私達と共に宿りました。

【馬小屋に生れた救い主】
先程ルカによる福音書に記されている、イエス・キリスト御降誕の次第を読ませて頂きました。神の力強い御業で、御自分の御子イエス・キリストは人間の母マリヤから、この世にお産まれになりました。そして、驚いた事に、その歴史の中の最も重要な出来事は馬小屋で起こりました。なぜなら、マリヤとヨセフはローマ皇帝の勅令で、全領土の住民と共に、それぞれの故郷に帰って、登録を余儀なくされました。そして、「宿屋には彼等の泊まる場所がなかったから」臨月になったマリヤはその卑しい馬小屋で神の御子をこの世に誕生なさいました。

2005年12月25日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

クリスマスの喜び ウイリアム・モーア

ルカによる福音書1章26−56

◆マリアの讃歌(ルカによる福音書1章)
46:そこで、マリアは言った。
47:「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48:身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49:力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、50:その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51:主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52:権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53:飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
54:その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55:わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

クリスマスの喜び

【讃美歌 102】

もろびと声あげ、喜び称えよ、
神の恵み、 この世に表われ、
ダビテの村の いぶせき馬屋に、
きよき御子は 生まれたもう。

もろびと声あげ、喜び称えよ、
あめのとびら 今しも開かれ、
つきぬ恵みを 身に帯び給いて、
きよき御子は 生まれたもう。

もろびと声あげ、喜び称えよ、
死の恐れを 追いやりたまいて、
よき音ずれを あまねく伝うる
きよき御子は 生まれたもう。

2005年12月11日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

クリスマスの平和 ウイリアム・モーア

ルカによる福音書2章1−20

【パックス・ロマ−ナ】
真っ暗なパレスティナの夜でした。羊は牧場の草の中でぐっすり眠っていました。しかし、羊飼い達は狼や泥棒などの危険の為、寝ずに夜番をして、羊の群れを見守っていました。夜は寒いので羊飼い達は焚き火を囲んで体を暖めました。そして彼等は長い夜の時間を潰す為、羊の群れの番をしながら、ゆっくりとお互いに色んな話をしました。町に住んでいる自分の家族の事や、次の日の予定や、病気の羊の問題や、最近のうわさ話などもしました。話は様々ですが、最後に彼等はいつも一つの話題に戻っていました。それは自分の国イスラエルの不幸な状態です。つまり、長い間、外国の支配を受けて、イスラエルはローマ帝国の三流植民地になってしまいました。以前は独立した国としての自由な存在であったのに、ローマの兵士は自分の国に侵攻して、剣で住民を食い物にしてしまいました。ローマの暴君によってこの状態は「パックス・ロマ−ナ」と呼ばれました。すなわち、the peace of Rome 、ローマの支配による平和と言う意味です。しかし、イスラエルの人々にはそれは決して平和ではありませんでした。却って、何よりもテロの状態でした。イスラエルの住民はローマの政権に厳しく監督され、ローマの市民ではないから、人権は殆ど守られていなかったのです。更に、貧しい者からも無理に税金が徴集されました。また、ローマの政権は全ての反対者を冷酷に扱いました。必ず謀反の報酬は拷問と残酷な死でした。

羊飼い達は自分の国の悲惨な現状を話し合うと、彼等にとって一つの事が明白になりました。いくら言っても、外国の兵士の靴がイスラエルの土地を踏む限り、平和は自分の国に来ません。何よりもローマの圧迫からの解放の日を待ち望んでいました。イスラエルの預言者イザヤはその日を予告して、このように宣言しました。

「主は、御自分の右の手にかけて力ある御腕にかけて、誓われた。私は再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず、あなたの労苦による新しい酒を異邦人に飲ませる事も決してない。穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美しぶどうを取り入れた者は聖所の庭でそれを飲む。」(イザヤ書62:8--9)

2005年12月04日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

心からの敬虔 ウイリアム・モーア

聖書:マタイ6章1-18

施しと祈りと断食

主イエス・キリストの当時、敬虔なユダヤ人だと言う人は誰でも信仰生活で、必ず三つの事を行いました。それは施しと祈りと断食です。敬虔な信者は少なくともその三つの宗教的行為を実行しました。ユダヤ人はこの三つを大変重んじましたので、主イエスも山上の説教でこれを扱いました。施しと祈りと断食と言う行為を通して、イエスは神が望んでおられる「心からの敬虔」を教えられました。

さて、今日の個所の始めのところ、マタイによる福音書6章1ー4を見て下さい。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いを頂けない事になる。だから、あなたは施しをする時には、偽善者達が人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼等は既に報いを受けている。施しをする時は、右の手のする事を左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせない為である。そうすれば、隠れた事を見ておられる父が、あなたに報いて下さる」

とイエスは言われました。

善行の動機

イエスも善行と施し、その行動を大事にしました。しかし、善行その行為よりも、善行の裏にある私達の態度と動機をもっと大切にしました。実は、動機が誤まったら、善行の霊的な意味がなくなるからです。主イエスによりますと、もし人の褒め言葉と賞賛を得る為と言う動機ならば、神はその善行を高く評価しません。更に、自分が他の人よりも偉いと言う気持ちで良い行いをすると、神はその善行をも受け入れません。

2005年10月23日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

ヤイロの娘は父に何を見ましたか ウイリアム・モーア宣教師【父の日】

◆ヤイロの娘【ルカによる福音書8章】

40:イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。 41:そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。

42:十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。・・・・・・

49:イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 50:イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

51:イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。 52:人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」

53:人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。 54:イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。 55:すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。

56:娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

【パパ。ママの嫌いな事をする人:子育てはママの仕事ですか?】

電車の中のお話ですが、お母さんと4歳ぐらいの子供が一緒に乗っていました。その4歳の子供はじっと座っていられなくて、座ったり立ったり、窓を叩いたりしていました。それを見ていたお母さんは止めさせようと何度か連れ戻して、横に座らせましたが、坊やはまた逃げて行ってドアの方に立っていたのです。お母さんは呼び戻そうとこう叫びました。「ママの嫌いな事をする人って誰かしら?」するとその息子は思わず「パパ。ママの嫌いな事をする人はパパだ」と言ったそうです。
今の社会でパパ、お父さんと言う存在はどう映っているのでしょうか。また、この話の中のパパはどんな人でしょうか。ママにとって、坊やのパパがする嫌いな事は分かりません。色々な嫌いな事を想像出来ますが、恐らくこのパパは子供の養育にあんまり関心がなかった為、ママの反感をいだかせたかも知れません.現在の社会ではどこの国でもそれは大きな問題になっています。お父さんは仕事とお付き合いとレージャで忙しく、子供の為の時間が僅かになります。また、お父さんは子育てはママの仕事だと思い込んで、子供の事なら、ほとんど全てをお母さんに任せるケースが多いようです。ですからお父さんは家族には幽霊のような存在であります。先日、息子ポールの卒業式であるお父さんに初めて会いました。そのお母さんには何度か会った事があります。しかし、そのお父さんは12年間この卒業式の際に始めて学校に来たそうです。最後の機会になりましたが、卒業式に来ました。

2005年06月19日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

完璧な贈り物 ウイリアム・モーア宣教師 クリスマス礼拝

2004年12月19日ウイリアム・モーア宣教師 


◆イエスの誕生          ルカ福音書2章
1:そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3:人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4:ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5:身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7:初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
8:その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9:すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10:天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11:今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12:あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

【子供だった頃】
私は子供の頃、一年中クリスマスが来るのを一番楽しみにしていたのでした。何故かと言えば、クリスマスに沢山のプレゼントが貰えるからです。我が家ではお年玉の伝統がなかったので、おもにクリスマスにプレゼントを頂きました。そして、我が家では、その包装紙とリボンで包んだプレゼントをクリスマスの前に絶対に開けてはいけないと言うルールがありました。ですから、子供の私には、クリスマスが来るまで待つのはとても難しいことでした。今も覚えていますが、クリスマスが近くなると母に毎日こう聞きました。「ママ、クリスマスまで後何日残ってる?」そして、その日数が小さくなる程、幼い私の興奮がますます高まりました。

2004年12月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

神への愛・人への愛―キリストの十字架に見るその極致― 市川康則神戸改革派神学校教授

2004年7月11日市川康則神戸改革派神学校教授


ルカ福音書23章 
32:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34:〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36:兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39:十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40:すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。44:既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 45:太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 46:イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 こう言って息を引き取られた。 47:百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」 と言って、神を賛美した。 48:見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 49:イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

【はじめに―キリストの忍耐】
キリストの十字架物語は、復活物語と一つになって、新約聖書、否、全聖書の中心的な出来事とその教えを成しています(Ⅰコリント15:3‐4)。今朝はルカ福音書23:32‐49に記されるキリストの十字架の苦難の特徴に注目して、極限状態の中でのキリストの忍耐とそこに示される愛―真実、最高の愛―を見たいと願っています。
 人が忍耐することのできる条件、状況は二つです。一つは、そうすることが自分にとって利益があるとき、そうすることが得策であるときです。このときは、とにかく我慢します。しかし、もう益がないと思えば、さっさとあきらめたり、忍耐を捨てます。

もう一つは、相手を真に愛するときです。相手を喜ばせよう、喜ばれたいという思いから、どんな困難をも厭わない、忍耐が苦痛でなくなります。竹取物語で、かぐや姫の無理難題を引き受けようとした5人の貴公子の苦労は、その見本でしょう。このような愛ゆえの忍耐の極致が殉教です。殉教とは、人に対する愛であれ、思想に対する愛であれ、そのために命を犠牲にすることです。

2004年07月11日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

【十字架からの愛】ウイリアム・モーア

【聖書】ルカによる福音書23章32~43 32:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34:〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36:兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39:十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40:すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、 同じ刑罰を受けているのに。 41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。 しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

【パッション】
今回私がアメリカに戻った時、アメリカ全国の話題になる映画がありました。それはメール・ギブソン監督の The Passion of the Christ すなわち「救い主であるキリストの受難」と言う映画です。何週間の間その映画は一番良く見られた作品で、大ヒットになりました。実は、アメリカの人口の五分の一程がその映画を見に行きました。来る五月には日本でも公開される予定です。内容はイエス・キリストの十字架の死とその前の24時間です。弟子ユダの裏切りと神殿警察によっての逮捕と不正な裁判と鞭で懲らしめる事と最後に十字架の死を詳しく見せる映画です。

私は先月、教会を訪問する為にアメリカのあちこちへ行きましたが、どこへ行っても何よりもその映画の事が話題になりました。「あの映画をもう見ましたか。どう思った」などとよく聞かれました。さらにマスコミもその映画の事をよく取り上げました。「受難の時のイエス・キリストに対する暴力があんまり詳しく見せるから子供には見せない方が良い」や「映画は人々に反ユダヤ主義を起こす恐れがある」などの批判がありました。
しかし、私はその映画を見る事によってイエス・キリストの十字架からの大きな、大きな犠牲的愛を新たに覚え、経験する事が出来ました。その愛はイエス・キリストを信じる人には希望と永遠の救いを届ける力があると確信が強くなったのです。

2004年04月04日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

【二人の家を建てる者】ウイリアム・モーア 

【わたしの言葉を聞き、それを行う人】ルカによる福音書6:46~49 46:「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 47:わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48:それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49:しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

【アメリカの教会で】
アメリカで教会の牧会をしていた頃、色んな人に接することがありました。牧会をしていた教会の会員だけではなく、全く知らない人にもよく巡り会いました。つまり、色々な人々は教会を頼りにして訪ねて来ました。日本ではちょっと困った事があったら近くの交番へ行かれるのだそうですね。アメリカでは多くの場合、困った事があったら、遠慮なく一番近い教会を訪ねて来ます。そういうふうにして訪ねて来る多くの人は大抵自分で可愛そうな話を考え出し、現金を恵んでくれるように頼みます。ある人は近くの教会をあちこち訪ねながら、生活をしている人もいます。このような人々は大抵現金だけを求めて来ますが、時には生活に必要な物を求めて来る人もいます。

ある日、教会で説教の準備をしていたら、全く知らない人から電話がありました。「高速道路で車のガソリンが切れてしまったが、お金が全然ないから、ちょっとガソリンを持って来て下さいませんか」と言う事でした。そう言う願いは全く始めてで、ちょっとびっくりしましたけれども、少しでも困っている人の助けになりたい気持でガソリンスタンドへ行って、ガソリンの18リットル缶を一杯にして、高速道路に入りました。そしてガソリンがなくなった車の所に着いた時は、またびっくりしました。その車は私の車よりもずうっと良い物だったのです。車の中を覗いて見ると家族は楽しそうにおやつを食べながら旅行をしているようでした。運転席に座っているお父さんのように見える人はこう言いました。「ああ、ガソリンを持って来てくれてありがとう。入れてくれないか」と平然と言いました。ガソリンを入れて上げてからこう考えました。この家族は多分このように教会に頼みながら旅行をしている人達なんだなと思いました。ガソリンがなくなると、いつも一番近い教会に電話をして、ガソリンを一杯にしてくれるようにと頼んでいるようでした。とにかく、ガソリンを注ぎ終わると、家族皆はにっこりして、さようならと言って、高速道路を走り出しました。

またこんな話もあります。ある夜遅く自宅に電話がありました。「結婚式を今夜でもすぐ挙げて下さいませんか」と突然、知らない女性からの電話でした。「先ず、あなたの相手になる人と一緒に教会に相談しに来て下さい」と私が答えました。「いや、私自身の事じゃなくて、十六歳の妹の事です。彼女は良い男を見つけて、速く結婚したいと言っているんです。」私は、「もし妹さんが結婚する時期になったら、本人が教会に直接来て貰って、私と相談すべきではありませんか」と言いました。その電話はそれっきりで、もう電話はかかって来ませんでした。

2004年02月29日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

【子供のように神の国を受け入れる人】ウイリアム・モーア

◆子供を祝福する、ルカによる福音書18:15~17 15:イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。 弟子たちは、これを見て叱った。 16:しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 17:はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」

2003年12月28日ウイリアム・モーア先生

弟子たちは叱った  

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ある日、多くの人々がイエスの教えを聞く為に町を出て郊外に集まって来ました。有名になったイエスのもとには、どこへ行っても大勢の人が集まって来ました。主の教えは全ての点で他の先生(ラビ)とは違いました。イエスは権威ある者のように教えられましたからです。神様の事を力強く人々に直接述べ伝え、素晴らしい奇跡的印(しるし)も行いました。また、病気を治す力がありましたので、病気の人々は次から次えとやって来て癒してくれるように切に願いました。ある病人はただイエスの着物に触れただけで元気になりました。
休む暇、食事を取る暇もない程、イエスは毎日大忙しでした。どうしても、神の御言葉を求める人や病気の人を断る事が出来ませんでした。毎日、毎日、人の悩みや質問を聞いて、分かりやすく答えられました。イエスのお話を聞くとそれは神からの御言葉だと皆が悟りました。

2003年12月28日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

【イエス・キリストによる神のみ言葉(預言)の実現】ウイリアム・モーア 待降節第2週

ウイリアム・モーア先生

ルカによる福音書4章16:イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
17:預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18:「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、
/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、
/捕らわれている人に解放を、
/目の見えない人に視力の回復を告げ、
/圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」
20:イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
21:そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。



(旧約聖書)イザヤ書61章1~3
◆貧しい者への福音
1:主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2:主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め 3:シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

2003年12月07日 | カテゴリー: イザヤ書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書