2016年2月7日説教「神の言葉は滅びない」金田幸男牧師
説教「神の言葉は滅びない」
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聖書:マルコによる福音書13章28~31節
28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
要旨
【いちじくの葉が出る頃】
いちじくの木はパレスティナでは大変よく知られた果樹で、ぶどう、やし、ざくろと並んでその果実はよく食用に供されています。もともと小アジア原産でしたが、古くから移植され、広く栽培されていました。果実は生のままか、乾燥されて食べられていました。熱帯では常緑樹なのですが、山地では冬(12月ごろ)、葉が落ち、早春の3月ごろ、小枝の先に小さな緑のこぶしができ、そこから葉が出てきて、その葉のところに青い実がなり、夏ごろ急激に大きくなって食用になります。
いちじくは聖書にもしばしば登場しますが、マルコ2-14,20-22に出てきます。そこでは実がなかったためにイエスに呪われて一晩で枯れてしまった木のことが記されていました。
【エルサレム神殿崩壊とこれらのこと】
ぶどうはしばしばイスラエルを象徴し、神の豊かさを表わすものとして描かれますが、なぜかいちじくの木は神の裁きと結び付けられています。想像をたくましくすれば何か言えるかもしれませんが、ここからだけではその理由は分かりません。植物は季節に敏感です。自然現象を見て季節の変わり目を知るという農民や漁師の感覚を私たちは驚きをもって経験します。いちじくの葉が伸びてくると夏が近いと悟る。そのように「これらのこと」を見たら、人の子が戸口に立っていると悟れ。この「これらのこと」が何を指しているのか、という問題があります。この主の言葉が語られて40年後のローマ軍によるエルサレム、その神殿の破壊を指しているとする考え方もありますが、ここはそれも含めて、キリストがすでに語られた苦難を指していると見たほうがよいと思われます。
【人の子の来臨】
戦争、飢饉、地震、迫害、内部告発などキリストの弟子たちが味わうであろう苦難のすべてが起きるのを目撃したら、人の子の来臨の近さを知りなさい。キリストはこのように言われたと解釈されます。
30節を見ますと、はっきり言っておく、という主の言葉がでてきます。主が来られる終わりのときの接近に当たって、私たちはどういう姿勢、態度を示すべきなのか。このはっきり言っておく、という言葉をキリストはしばしば用いられますが、このことは重要だから決して軽く見ないようにという警告を含みます。アーメン、然り、わたしはあなた方に言う。キリストは厳かに命じられます。しかし、それはまた、聞くものがおうおうにして軽く評価をしているということを意味します。
キリストが言われていることは重視せず、どうでもいいことに時間を費やし、精神力を消耗するのがつねです。主の来臨、接近を私たちは軽々に判断してはならないのです。
【人の子が戸口に立っている】
人の子が戸口に立っている。このキリストの来臨の言葉は聖書のほかのところでも出てきます。
ヤコブ書5:7-9「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。」
【忍耐していなさい】
主が来られる。そのために忍耐していなさい、とヤコブは命じます。忍耐とはただ我慢のことではありません。動揺せず、神を信じ、心を堅く保つことを指しています。ここでは、主の来られるときとは終わりのときを指していることは明らかです。主が終わりのときに再び私たちのところに来られるという事実を、戸口に立つと証言されます。
【悔い改めよ】
終わりの日を直接指しているわけではありませんが、ヨハネの黙示録3・19-20では、「悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と語られています。
主が来られるときの私たちの備え方は悔い改めだと言われます。このように、主が近いという事実を前にして、私たちはもっともっと真剣にならなければならないのです。
これらのことはみな起きるだろう。しかし、これらのことが起きるまで、この時代は決して滅びない。この主の言葉には二つのことが含意されます。ひとつは、終わりがくるまでこれらの災難、苦難、危機、困難はまだまだ起きるという警告と取ることができます。キリストは弟子たちに、終わりのときがまだ来ていない以上、神の民を襲う苦難はまだまだ続く。そのように言われます。だから苦難を避けることはできません。それはいつまで続くのか誰も分かりませんが、それまでは災いは終わることがない、そのように覚悟をしなければなりません。これでもか、これでもかと災いは襲ってくる。これが現実でもあります。
【滅び】
もうひとつの点は必ず終わりが来るという予告です。すべて計画されていることは実行されます。実行されるべき計画が終われば必ず滅びがきます。
滅びとは何でしょうか。私たちは存在しています。私たちがここにあるということは自明の真理で動かしがたい真実であると私たちは思っています。ところがどうなのでしょうか。存在しているこのことほど脆いものはないのではないでしょうか。存在するものは何かの上に存在している=立っていると言うことができると思います。エルサレムの壮大なヘロデが建てた神殿は大きな基礎の上に建てられていました。その土台の上の神殿は不動のものと思われていました。しかし、それは簡単に倒されます。存在しているものは、実は危うい基礎の上に建てられているに過ぎません。
【私たちの存在の基盤】
わたしはここにある。存在するものはそれ自体存在している。何ものにも依存していないと思っていますし、そう確信しています。それは反面、事実です。しかし、その基礎はあっけなく崩壊してしまいます。この世界は何の上に建てられているか。私たちは大地の上にしっかり足を踏ん張っているように思います。都市はしっかりとした地盤のうえに建てられたと思っています。ところがあっけなく崩れます。地震は来て大揺れにゆり動いたものは崩壊します。大地という基礎はさほど堅固ではなかったということです。私たちの人生もそうです。私たちの人生は基礎の上に建てられています。資産、学歴、健康、良運、人間関係、その他の人生にとって基礎と思われるものが多くあります。そのような基礎の上に立てられた私たちの人生は堅固そのものと思いますが、それは錯覚に過ぎません。その基礎はそんなに強固ではないのです。人生を強固としていたものは一夜にして失われます。
滅びとはその基礎を失うことです。神はこの世界の基礎を失わせます。終わりの日に起きることです。終わりの日とはこの世界を成り立たせていたものはことごとく失われ、存在していたものがもはや存在できなることを意味しています。あらゆるものは失われるときが必ず来ます。それが終末です。
【最後の審判】
終わりが来たら一切は消滅します。存在していたものはことごとく失われます。終わりとはそのように思っている人が多いのではないでしょうか。まさしく、終わりとは存在していたものが存在しなくなること。それはゼロに帰することなのだ、何もなくなることだ、というふうに考える人が多いと思います。
この世界の終わりとは何もなくなること。そういう観念はどこから来たのでしょうか。それは滅びに対する誤解です。根拠がありません。滅びは神のさばきが行われることであり、恐るべき審判の行われる日であるという理解は間違っていません。しかし、それだけなのでしょうか。
キリストはこの世界はことごとく滅びると宣告されます。同時に、「わたしの言葉は滅びない、決して滅びることはない」と断言されます。
【新しい創造】
キリストの言葉とは単なる音声ではありません。語られたことは必ず実現するという言葉です。終わりの日に一切合切終わり、何もなくなるというのではありません。終わりの時、キリストが来られる時、天と地は全く新しくされます。終わりではなく、新しい創造が起きるのです。すべてが刷新されます。終わりの日はこのまったく新しい天地の始まりでもあります。終わりの日はそれで究極の終末というわけではないのです。イエス・キリストが約束されたことはことごとく成就します。キリストが予告されたことはすべて実現します。神の主権と威厳は完全に回復し、神の栄光が明らかになります。死んだものも生き残っていたものも、すべての神の民が結集されます。
終わりの時、世界は一新されます。キリストの言葉は滅びてしまい消滅するようなことはありません。
【私たちの人生の終末】
そして、大切なことは、世界の終末を考える場合、私たちの終わりも考えるべきだということです。この世界が終わるように、私たちの人生も終わります。私たちの死はあらゆる意味で終わりを意味するのでしょうか。死をそのように受け止める人のなんと多いことでしょうか。死はあらゆる意味で終わり。それで終結。後は何にもない。しかし、このような死生観を持っている人はそれを証明できたわけではありません。それは根拠のない話です。
だれが死んでしまえば一切おしまいといったのでしょうか。根拠なしにそう思っているだけです。イエス・キリストは「わたしの言葉は滅びない」。つまり存在を失うのではないと言われます。キリストはおられる限り、私たちは滅びることはありません。存在しなくなるわけではなく、それどころか、終わりの時は新しい始まりとなります。
このようなことは信じるしかありません。終わりの時はいつか分かりませんが、今から言えば、まだ将来のことですし、未来のことは誰にも分かりません。私たちはただキリストのみ言葉を信じるだけです。信仰とはまさしく信じるだけなのです。(おわり)
2014年12月21日説教「神がまことの人になるとき」金田幸男牧師
L141221001.wav ←クリックして説教をお聴きください説教 「神がまことの人となる」
聖書:ヨハネ1:1―5
要旨
【「めでたい」と言うこと】
クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日と、このように一般に捉えられています。誕生日はめでたい。「愛でる」とは美しさを褒めるという意味があります、誕生日は何が美しいでしょうか。生まれてきた、可愛い赤ん坊が美しいとも言えるかも知れませんが、むしろ新しいのちが存在するようになったことがうるわしいと言えるのではないでしょうか。今まで存在していなかった生命が存在するようになった、そこに、めでたさがあります。
【クリスマスを祝うとは】
イエス・キリストの誕生もまた、それまでありえなかったような存在が地の上に与えられた、だから、クリスマスは祝うべきだというのです。
しかし、クリスマスの喜ばしさはそれだけではありません。ヨハネ福音書1章4に「言は肉となって私たちの間に宿られた」という文章が記されています。その言は1章1では「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言は神であった」と記されていいます。つまり、「神が肉をとって人間となられた」ということになります。
【はじめに】
「はじめに」は、いつか分からないけれども単なる時間のはじめというような「はじめ」を意味していません。むしろ「永遠のはじめ」を意味しています。永遠のはじめなど、言葉の使い方が間違っていると思われるかもしれません。永遠にははじめもなく終わりもないというべきでしょう。しかし、すべてが始まる以前、時間すら開始される前、その永遠から存在していた言葉が、とき至って肉体を取り、人間となられたのです。時間というようなものがまだなかったときから存在しておられた方が来られたという意味です。
【「宿られた」】
「宿られた」とは「住まわれた」と言うことであり、私たち人間の間で生活し、行動されるようになったというのです。
神である方が人間と成り、人間の中に住まわれて、生きるようになった。これがクリスマスの大きな意味なのです。神が人となられた。
【人間が神になる世界】
私たちは人間が神になるという世界にいます。歴史に残るような大きな活躍をした英雄、傑出した業績を残した人が死後神として祭られる世界、これが私たちの住む世界です。人が死ねば、その人は人間を越えるものとして、例えば子孫を守護する存在として崇められます。人間の神化はごく自然な現象として認められています。でも、神となった人間は、生きていたときの特質をあまり失いません。人間としての特質に神の特質が加わると言うことでしょう。
【神が人間となる】
しかし、クリスマスはこれとは異なったことを教えられます。神が人間となった、つまり、逆方向の出来事が起きたとされます。神が人となった。
これはどういうことでしょうか。神がどこか遠くに存在するだけで、人間世界で起きていることを眺めているだけだというのではありません。人間の住む只中に降って来られたと言うのです。神が神であることをやめず、しかし、人間となってくださった。
神が人となるということとは、人が神を見ることが出来るということを意味しています。イエス・キリストこそその人間となった神です。イエス・キリストの周囲には、残念ながら、画家はいなかったようです。もしいたら、彼はイエス・キリストを描くことができました。むろん写真で撮影することができました。キリストはそのような点でまぎれもなく人間となられました。
キリスト教では神は見えないことになっています。私たち日本人もその神観念では、神は見えないことになっています。ご神体の多くは鏡です。鏡は像を移すことができますが、神は見ることができない存在です。神は目には見えません。
【見えざる神】
わたしは牧師としていろいろな質問を受けますが、そういう中で一番多い難問は「神がいるなら見せてくれ、見たら信じる」というものです。神を見せることができれば、手っ取り早く神存在を証明することができるかもしれません。でも、神は見ることが出来ないのです。見ることが出来るようにされた神は神ならざるものでしかありません。
【人となられた神イエスは見ることができた】
イエス・キリストは神であるにもかかわらず、人間となられたのですから、キリストそのものは見ることが出来ます。キリストは幻の中で姿を表したのではありません。
キリストを見れば、確かにそこでは「人間イエス」を見ていることになりますが、そのイエスが神です。神を肉眼で見ることが出来ませんが、イエスの働き、行動行為、説教を聞いておれば、私たちは神の何かを見ていることになります。
言は肉となったと記されていました。肉体を取った神、それは言が肉の姿をとっただけではなく、言葉はイエスの口から発せられます。それは単なる音声に留まるのではなく、神の意志を伝えます。神が何を願い、何を求め、何を欲し、どんな驚くべきことをしようとしておられるのか明白にされます。
言葉は神の御心を明らかにします。その言葉を聞いておれば神とはどういう存在か、神は私たちにとってどういう価値があるのか。神は一帯どんな恵みを提供しようとしておられるのか。神は決して人間を滅ぼしつくそうとしておられるのではありません。そうすればきっとよきことをしようとされています。神は憐れみの神です。救いの神です。
【聖書に記録された神の言葉】
キリストを通じて、私たちは神の意志を知ることができるのです。単なる宗教的天才の発明した思想を受け取るのではありません。
キリストの言葉、すなわち神の言葉は聖書に記録されています。聖書を読めば、神の意志が分かります。キリストが降誕されたのは、イエス・キリストによって神の御心が明白に、隠れるところなく示されるようになるため、また、すばらしい神の働きがなされたことを示されるためです。キリストを信仰の目で見れば神が見えてくるということができます。肉眼で見えなくても、心で神を見ることが出来るようになります。
【処女マリアから生まれたキリスト】
神の子、イエス・キリストが降誕した、その意味は多くありますが、中でも最も大切な意味が何か。キリストの降誕で、キリストは私たちと同じ人間になられました。正確に言うと、罪を除いて、全く私たちと等しい人間となられたということです。罪を除いて、について詳しい説明が必要ですが、処女マリアから生まれた理由です。この点、キリストは私たちとは同じ出生ではありませんでした。だから、キリストは罪なくして生まれてこられました。
【身代わり】
同じ人間であると言うのは私たちの身代わりになれるということです。
子どもが何か悪いことをして誰かに損害を与えたとします。その場合、親が子どもに代わり、謝ります。ときには賠償責任も負います。こうして身代わりになるものが負い目を引き受けて、その邪な行為の張本人は免罪されます。責任を取らされず、処罰されないのです。
【イエス・キリストの贖罪】
イエス・キリストが人間となられたのは身代わりになれる、いや、身代わりになるためでした。人間は身代わりを必要とする闇を背負っています。それは死の陰という闇です。私たちは死の気配の中で生きています。そして、世界もまた、破滅の予兆を示しています。人類はその罪のゆえに戦争、戦乱、飢饉、疫病など数え切れない不幸と災いに見舞われます。その原因は、どこにあるのでしょうか。直接の原因は解明できるでしょうけれども、その打開策を人間は持っていません。例えば戦争ですが、戦争の原因はいろいろと探り知ることができるでしょうけれども、根本的な原因は見い出せません。むろん人間の貪欲、あくなき欲望と言えるかもしれませんが、それを解決する方策は今もって見い出せていません。
人間の悪き存在は自覚されていてもその解決はありません。
イエス・キリストは、人間の悪とその結果を引き受けるためにこの世に来られました。ご自身が十字架につけられることで身代わりになられました。
キリストは、自らを犠牲にすることで、神の裁きを引き受けてくださいました。そうすることで、根本的な人間の中にある闇を取り払われました。
【キリストによる平和の完成】
現在はなおも罪の支配があります。それはまだ力を発揮しているかのようですが、根本は解決しています。キリストのこのみわざを信じるところでは闇は払われています。信じる心があるところで平和が来ています。完成されるまではまだ時間がかかるかもしれませんが、それでも、神は徐々に完全な平和の到来を実現しておられます。
クリスマスはこの神の働きを覚え、また救いの完成を待ち望むときでもあります。主を待ち望みつつこの季節を過ごしたいものです。 (おわり)
2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師
2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師
聖書:マルコによる福音書2章
1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。
4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
要旨
【4人の男と中風の男】
2:1に「数日後」とありますが、マルコ福音書はいつも正確な時間の経過を記していませんので、これがかなりの時間が経ってからなのか、それとも文字通り、4、5日の間なのか分かりません。イエス・キリストは再びカファルナウムの町に戻って来られました。その間ガリラヤ地方で宣教を続けておられました。
カファルナウムでは今度は会堂に入らず、一軒の、おそらく農家に入って行かれます。当時の農家は四方が土壁に囲まれ、多くの場合一部屋があるだけで、台所と寝室が同じ部屋であることも珍しくなかったそうです。大きめの家ならば2、30人は容易に入ることができたと思われます。
キリストはここで専ら御言葉を語っておられました。ところが事情が急変します。そこへ4人の男が床=戸板に中風になった人を運んできたからです。脳梗塞か脳出血のために体が麻痺してしまっている人だったと思います。いつごろ中風になったのか分かりません。
4人の男はイエスのうわさを聞いてこの人を連れてきたのでしょう。イエス・キリストが話をされている家の入り口はすでに人が一杯でした。家の中も立錐の余地もなくなっていたのではないでしょうか。そこで彼らは思いつきます。当時の農家の屋根は木の梁をわたし、その間に草を葺くというもので、屋根に瓦のようなものをかぶせる場合もありました。屋根は地面から登ることができるほど、低くなっていたようで、4人の男は、屋根に上り、一部を剥いで穴をあけ、そこから病人を床ごとおろします。他人の家の屋根を壊すこと自体非常識で乱暴な行動です。
【かれらの信仰を見て】
その上、イエス・キリストの頭のま上ですから、土ぼこりがばらばら落ちてきてとてもキリストは話を続けることができなかったはずです。こんなひどい行動を見てキリストは怒り、しかりつけられたのではあれば話が分かります。ところがキリストはこの人たちに信仰を見たと記されます(5)。
これを読んだ人は以外に思うに違いありません。どこに信仰があるのだろうか。しかも、信仰は中風の人の信仰とは記されず、病人を運んできた人も含めて、「その人たちの信仰」と記されます。病人が自分の病気を直してくれるかもしれないイエスキリストに期待するというのであれば信仰と言えるかも知れません。ここでは、とてもむちゃくちゃな行動をしている人たち、キリストの宣教の働きを中断させてしまった人たちに信仰を見ているのです。
私たちは、なぜこれが信仰だと思うかもしれません。しかし、キリストはこれを信仰と見られます。私たちは自分で信仰とはこういうものだろうと推測します。そして、その規準で信仰であるとかないとかを決めようとします。そうであれば、私たちから見て、とても信仰と思えないこともあります。他人を見て、あの人は本当に信仰を持っているのか、と言います。自分に対しても、こんなことで信じていると言えるかと疑問を抱きます。
しかし、信仰はいろいろなタイプがあっていいのではないでしょうか。いたって知的な信仰の人もいます。かと思うとわけが分かっていると思えないような幼稚な信仰の人もいます。強烈な信仰を自覚している人もおれば疑ってばかりする人もいます。でも、信仰があるとか、ないとかは簡単に言うことはできません。イエス・キリストがここで信仰があると見なした人たちの場合、私たちの評価基準からすればどうして信仰かと思えますが、イエス・キリストはこの人たち、その行動を信仰と見なしておられます。
【子よ、あなたの罪は赦される】
さらに意外と思われることが記されます。イエス・キリストは病人を癒す奇跡を行われません。乱暴に屋根を剥いでキリストの前に病人を連れてきた人、そして何よりも中風の人は病気の癒しの奇跡を期待していたはずです。ところがそれを行なわれずに、ただ。「あなたの罪は赦されている」と言われただけです。そして、これで物語は終わっていたかもしれません。
律法学者が登場します。彼らがなぜこの場に居合わせたのか不明です。あるいはイエスのことを調査にやってきていたのかもしれません。キリストのうわさが広まり始めていました。その教えが異端的ではないかどうか調べるのは律法学者の務めであったはずです。それとも、彼らは単純にキリストの説教を聞きたいと思っていただけかもしれません。どちらとも判然としませんでしたが、キリストの言葉を聞いて、内心、「イエス・キリストは神を冒涜している」と思ったのです。なぜか。罪を赦すことができるのは神だけだ。ところが、イエスは罪の赦しを宣言している、というわけです。
律法学者たちは内心で思ったとあります。口で言い出すことができなかったという意味でもありました。言うことは憚れるという感情が支配していたと思います。それほど重大問題です。人間が自分は神だという。これは当時のローマ社会では通用していたかもしれません。日本のような多神教世界では、人間の神化は珍しくありませんが、ユダヤ人の間では決してそうではありません。恐ろしい言葉です。そんなことは決して許されません。イエスはその恐ろしいことを口にしているのです。
罪を赦すことができるのは神だけだ、というのは当時のユダヤ人の常識でもありますが、また旧約聖書に記される真理です。罪は律法の規定に反することです。その罪を赦されるために犠牲をささげなければなりませんでした。こうして罪が赦されます。それは神だけが赦すということを示しています。ユダヤの裁判で、裁判官が無罪を宣告するとすれば、それは神の代理人が罪を赦すのであって、何か中立の立場の人間が単に法律に沿って罪を赦すのではなかったのです。
日本人である私たちは、人間が罪を赦せると思っています。例えば事件の被害者が、加害者のことを「私たちは絶対犯人を赦すことができません」と強い調子で語るニュースを見たことがあります。これは逆から見れば、加害者を赦すことができるのは我々だけであって、ありえないだろうが、その気になれば、罪を赦せると思っていることを示しています。人間は罪を赦す権利を持っている。
【神だけが罪を赦せる】
ところがユダヤ人はそう考えません。神だけが罪を赦せるのだ。これは強い信念でした。
私たちはここで重大なイエス・キリストの証言に直面しています。キリストは「罪は赦されている」と言われました。罪を赦すという意味です。それができるのは神だけだということをイエス・キリストも良くご存知である。とすれば、キリストはここで、ご自身が神であって、神として罪の赦しを宣言しておられるということになります。これは重大な発言です。キリストの言葉をそのまま受け止めるとしたら、キリストは自らを神としておられるのです。
イエスは律法学者の心にあることを「霊の力によって」見抜いたとも記されますが、「御霊において」分かったと記されます。これもキリストが単なる人間の直観力とか推量で分かったのだというのではなく、神的な能力を持って悟ったということになります。つまり、ここもキリストが神であったと証言しています。イエス・キリストの宣教のはじめのときからキリストはご自身が神であることを明瞭にしておられます。これは驚くべきことです。キリストは神の自覚を持って働いておられるのであって、単なる新しい教えの主唱者に過ぎないというので決してありません。
【どちらがやさしいか】
話はここで終わりません。キリストは、「罪は赦されている」というのと、中風の人に「床を取り上げて歩け」というのとどちらがやさしいのかと質問をされています。質問の仕方からすれば二者択一の答えが求められているように思われます。しかし、どちらが難しいと見るべきでしょうか。罪を赦すことは神だけができます。人間には不可能です。そして、病人を癒す奇跡も人間にはできません。かつては奇跡が行われ、科学文明が発達してからの現代では奇跡は起こらないというようなことはありません。キリストの時代も今日も奇跡は殆ど起こり得ないのです。それができるのは人間を超えた力を有する方だけです。ということはどちらも困難どころか人間には不可能だということになります。
どちらも難しい、困難というよりも不可能と答えるべきです。イエス・キリストはここで奇跡を行なわれます。病人に「起きて、床を取り上げて家に戻れ」と命じられるとその通りになりました。これができるのは神だけです。人間にはできません。こうして、この一連の物語で明らかになったのは、キリストが神であるという真実です。
【キリストは神】
キリストが神であるならどういうことになるのでしょうか。神であるがゆえに罪を赦すことができます。キリストがご自身を犠牲としてささげ、十字架の上で死なれました。それは罪の赦しのためでしたが、キリストは神でありますから、ご自身の十字架によって私たちを確実に赦してくださいます。
キリストが神であるならば、神としての全能性を持っておられます。私たちは確実に祝福を受けます。そして、救われます。罪の結果である死も、呪いも、虚無も打ち砕かれます。キリストが神であるゆえに、私たちに永遠の命は保証され、神の御国に安んじて入れると確信できます。
私たちの信仰は弱いものです。疑うときもあり、不信感を持つときもあります。しかし、そういう私たちをもキリストは愛して、赦しを確実にしてくださいます。イエス・キリストが神であるとの信仰はキリスト教のもっとも重大な信仰です。ここに私たちの信仰の中心部があるというべきなのです。(おわり)
2014年10月26日説教「清くなれ」金田幸男牧師
2014年10月26日説教「清くなれ」金田幸男牧師
聖書 マルコによる福音書1章
40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
要旨
【ライ病、ハンセン病、重い皮膚病】
「らい病」という言葉は、この病気に対する悲惨な扱いの歴史からあまり使われなくなっています。むしろ、この病気の病原菌の発見者であるハンセンという人の名をとってハンセン病というのが一般的です。この病気に対する扱いは最近まで、犯罪人でもないのに療養所に強制的に隔離し、外部との接触を厳しく制限するなどという非人間的なものでした。
聖書においても、狭い意味でのハンセン病ではなく、重い皮膚病に対して、このような規定がありました。「重い皮膚病にかかっている患者は,衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です、わたしは汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まわねばならない」(レビ13:45-46)。
多くを説明する必要はありません。私たちの感覚からすればひどく残酷な規定です。神の言葉である聖書にこのようなことが書かれているゆえに躓きを感じる人はいると思います。確かにこのような規定を文字通り実践する必要はありません。この律法の掟は古代イスラエル国家の法律として機能しましたが、それはイエス・キリストによって完成するはずの御国を指し示す役割を担っているだけであって、キリスト以降はもう廃棄されています。さらに、「汚れ」の意味も変わっています。聖書は古代の書物であり、当時の思考方法や考え方を反映しています。宗教と実生活は密接でした。レビ記11章(食物規定)、12章(出産時)、13-14章(皮膚病)、13:47以下(家屋のカビ)、15章(男女の漏出物)にあるように、外見上の汚れは宗教上の穢れと深く結びついて理解されていました。今日では両者は別のものと理解されています。
【御心ならば】
重い皮膚病にかかった人がイエス・キリストのところに来て平伏します。これは明らかにレビ13:45-46に規定された律法に反する行動です。イエス・キリストの時代、この律法は厳格に実行されていました。この病にかかっている人は町のなかに入ってくることは禁じられています。おそらく周囲にいた人はぎょっとしたに違いありません。それどころか石を投げられたかもしれません。しかし、彼はそのようなことを顧慮せずイエス・キリストに近づいたのです。驚くべき行動です。
「御心ならば」と言いますが、この言葉は彼の行動と比較すると違和感を感じます。もしよければというのはそこに譲歩、あるいはへりくだりの感じを受けます。しかし、彼の態度や行動はとても積極的です。律法の掟は社会的拘束力のある規定ですが、彼はそれを無視し、違反してまで強行に行動しています。大胆というべきか。跪いたとも記されますが、東洋と違い、跪く行為は相手が神(的)なもの、あるいは絶対的な権力者に対して取るものでした。これはこの思い皮膚病を患う人の最大級の期待の表現であると言っても過言ではないでしょう。何とかしてほしいと言う思いが強くこめられています。
【祈りは期待】
彼はイエスの奇跡を見聞したに違いありません。カファルナウムでの悪霊の追放や、病人の癒しにニュースをよく知っていたことでしょう。自分にもイエスの力が現われると期待したのでしょう。
イエス・キリストに何も期待しないというところでは何事も起きません。祈りは期待です。期待してこそ祈ります。何も期待せずという祈りは無きにしも非ずです。しかし、多くの場合、祈りは期待を持って祈るものです。祈りは決して独り言ではありません。単なる願望ではありません。祈りがそうであるように信仰も期待です。期待のない信仰はありえます。しかし、期待なくして信仰から何も生じません。
この思い皮膚病の人が抱いたのは強い期待でした。だからこそ「御心ならば」と言ったのであって、可能性は低いけれどもまあ少しだけは期待しておこうというような態度でキリストの前に身を投げ出したのではありませんでした。期待はずれを恐れる信仰や祈りはあるかもしれません。しかし、期待なしには何も起きないのも事実です。重い皮膚病の人は積極的にイエス・キリストに懇願しています。
【深く憐れみ】
キリストは深く憐れみ、彼に触ったと記されます。これは律法の規定からすれば違反行為です。してはならないことでした。汚れたものに触れる人も汚れるからです。ところがイエス・キリストにはためらうことがありません。このような行動の動機は、憐れみでした。異なった聖書の写本では、ここでは「怒りをおぼえて」と言う言葉もあります。
イエス・キリストは人間を悲惨にし、苦しめている状況を憤られたと見るのです。しかし、「深く憐れむ」という方がキリストの思いを的確に表現していると思います。キリストは深く同情されました。心を動かされました。それは習慣や掟を破ってまで、そのためには石を投げられても仕方がないと言う状況下であえてキリストに願いがささげられたのです。キリストはこの思い皮膚病を患う人の境遇に同情されます。ただそれだけです。イエス・キリストはその御業にふさわしい条件を求められません。何かその人の価値を見つけられたのでもありません。ただただ深く同情されただけのことなのです。
【手を伸ばされ】
イエス・キリストは直接彼に手を伸ばされます。この意味も深いのです。キリストは私たちと全く同じ人間となられました。少しも変わることがありません。ただひとつの点を除いて。キリストは罪なき、従って罪の結果である汚れにも染まっておられません。それで孤高を守られたかと言うとそうではありません。私たちと同じところに立ってご自身は汚れなどないお方であるのに、私たちの汚れを引き受けてくださいました。キリストはご自身が汚れがないのに、他人の汚れを、一人の人間として一身に引き受けられます。それだけならばキリストは汚れた存在になるのですが、神の子として、このような汚れを克服する力を持っておられます。汚れを払拭し、汚れを除去し、清くする力をキリストは所持されています。
【清くなれ】
だから、「清くなれ」と命じることができるのです。私たちは宗教施設で清らかな水で手を洗うと汚れが洗い流されるという信仰を見ることが出来ます。それは宗教的な一種の儀式です。キリストはそうではありません。キリストは神の御子として自ら汚れを克服されるだけではなく、「清くなれ」と命じられます。もはや汚れてはおらず、私たちもまた清くされます。
私たちはさまざまな汚れの中に生きています。魂もまた汚れていると思わざるを得ない思いに打ちのめされることもあります。自分は汚れたものだ。心が汚い。生活も汚い。そういう思いに悩まされることもあります。そのような汚れの感覚はキリストによって除去されます。それは確実です。キリストがこの思い皮膚病の患者に示されたのは一切を清めるキリストのみわざと力です。
【祭司たちに見せなさい】
重い皮膚病は癒されます。これで物語りは終わってもよいのですが、キリストはレビ記13章に記されているような行動を取り、さらに、癒しそのものについては沈黙を求められます。なぜなのでしょうか。
祭司たちに見せなさいと命じられます。祭司は神殿でいけにえをささげるだけの務めを行なう人ではありません。この皮膚病の検査に見られるように、そして,そのようにするために、医師の仕事も課せられていました。他に、占いもしました。カウンセリングのようなこともしました。また、民事の争いには裁判官の役割も果します。祭司がもう病気は治ったと判断しますと、この思い皮膚病の人は社会復帰できました。 キリストはこのような律法のとおりにさせることで、余計な摩擦を避けられたのです。彼は堂々と町のなかでもとの生活をすることができます。キリストはこのようにスムーズな生活ができるように律法どおりの手順を命じられます。
【だれにも、何も話さないように】
さらに、キリストは、この人には誰にも奇跡を語るなと命じられます。逆のように思われます。癒された人が自分の体験をどんどん語ったほうが伝道になる。証しというキリスト教会の伝道集会などで行われる信徒の体験談があります。伝道集会で聖書の話だけでは面白くない。だから体験談も語ってもらいましょうと。このように体験談を語ることで伝道が推進されます。ですから、重い皮膚病を癒された人のほうが宣伝効果は出そうです。ところがイエス・キリストは沈黙せよと命じられます。なぜこんなことをされたのでしょうか。
イエス・キリストの伝道活動が単なる人集めであればそうかもしれません。人々は、キリストの奇跡だけを求めて集まってきます。関心事は癒しです。そうすることで、御言葉の宣教はないがしろにされます。もう聞く耳を持ちません。キリストは実際、多くの人に追いかけられます。病気を癒し、悪霊を追放する奇跡だけが人を集めるきっかけとなりますが、ただそれだけです。
奇跡を見聞きした人が神を信じるのではありません。奇跡的に助かった人が、では信仰を告白するかと言うとそうなりません。信仰は奇跡によって生じるのではありません。私たちは実は数限りない奇跡的な出来事を経験しながら生活をしています。では、奇跡が行われるとこぞって信仰を持つか。そんなことはありません。奇跡が信仰を生み出さないのです。信仰が奇跡を生みます。この思い皮膚病を癒された人は確かに奇跡を経験しています。それは彼がイエス・キリストに大きな期待と希望を抱いたからです。だから、奇跡が起きたのです。奇跡だけを求める人のためにかえって宣教が妨害されます。だからこそ、誰にもしゃべるなとキリストは命じられたのです。(おわり)
2014年10月19日説教「力と喜びとしての祈り」城下忠司伊丹教会長老
L141019003.wav →リックで説教が聴けます。新約聖書2014年10月12日説教「病気を癒すキリスト」金田幸男牧師
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2014年10月12日説教「病気を癒すキリスト」金田幸男牧師
マルコによる福音書1章29~39
29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
33 町中の人が、戸口に集まった。
34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
(ほかの町や村で宣教する)
35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
(要旨)
【すぐに】
安息日、カファルナウムの会堂(シナゴーグ)で、イエス・キリストの働きを妨害しようとした汚れた霊=悪霊を追い出されました。29節によると、キリストはそのあと「すぐに」会堂を出られたようです。何か急いで、あるいは慌ててすぐに会堂を出てペトロの家に行かれたと感じるほどです。それは安息日の悪霊追放と関係があると想像できます。
ユダヤ人、特に律法の遵守を力説するファリサイ派の人々はこのイエス・キリストの行為は認めがたいものであったはずです。安息日の厳守は妥協できない戒律でした。ファリサイ派の批判攻撃を避けるために早々と会堂を去ったと考えられます。
【安息日にペトロの姑が熱病に】
キリストとその一行はシモン・ペトロの家に行かれます。ペトロの姑が熱を出して横になっていました。シモン・ペトロは結婚していて、妻とその母と同居していたことが分かります。キリストの弟子たちはのちの修道士のように独身者ばかりではありませんでした。キリストの弟子たちは、よくあるように戒律中心のゆえに自由を失うというようなことはありませんでした。シモンの姑の熱病の原因や程度は何も記されていません。当時は効果のある解熱剤はなく、あっても高価でした。また、この日は安息日で医者は医療行為を禁じられていました(マルコ3章1-6参照)。高熱であってもただ横になっているだけという場合も多かったのです。
30節、人々はイエスにシモンの姑の熱病のことを話したと記されます。状況から判断すると、ただ彼女の病状を報告しただけであったのではないかと推測します。その日は安息日です。医療行為は禁止されています。あえてキリストにシモンの姑の癒しを願ったとは思われません。ただ、キリストには彼女の病の深刻なことが知らされただけだったと思います。ところが、キリストはどうされたか。
31節、イエスは姑の近くまで行き、手を取って起こした、とあります。詳しい癒しの過程は記されていません。福音書はそんなことにはあまり関心を示していないと見ることが出来ます。私たちにとってはイエスがどういう手順で病気をなおされたのか知りたいところですが、この福音書は教えてくれません。大事なことは癒しがキリストによって安息日に行われたということです。
キリストはこの日が安息日であったことをよく承知しておられたはずです。しかし、キリストはペトロの姑を癒されました。この日は安息日であったからこそキリストは癒しのわざを実行されたというべきでしょう。安息日はユダヤ人にとっては何もしない(してはならない)という戒律の第一位に位置づけられる重要な日です。
【安息日の本義】
キリストはこの日の重要性を否定されませんが、誤って用いられているのには反対をされます。この日は何かをしてはならない厳格な律法遵守の日ではなく、神の大きな働きが示される日なのです。安息日であるがゆえに神の大きなわざが啓示されます。それは悪霊追放や病気の癒しという形で明らかになります。
安息日だから何もしないというのではなく、この日に大きな奇跡が実施されたのです。そして、病に苦しむものをその縄目から解放されます。キリストの奇跡は行われました。詳しいことは書かれていませんが、安息日に神は大きなみわざをなされたという事実は否定できません。
ペトロの姑は熱病のために会堂の礼拝に出られませんでした。戒律を重視する立場から見れば安息日を守れなかったものに神の祝福があるはずもありません。ところが、ペトロの姑は安息日であるからこそ神の大きな幸いを味わう事ができました。安息日はこのように一方的に恵みを受けるときなのです。神は真実に生きようとするものを、安息日であるが故に、大きな喜びを体験させられます。安息日とはそういう日なのです。
シモンの姑は癒されました。彼女はさっそく起きて一同をもてなします。安息日は煮炊きが禁じられていました。彼女は前日から食事を用意していたに違いありません。イエス・キリストから大きな祝福を受けたものは直ちにその応答をしています。
【夕方になると】
32節によると、夕方になるとたくさんの病人や悪霊につかれた人が連れて来られました。ユダヤ人の日の数え方では、一日は日没で終わります。ここでは安息日(土曜日)が終わり、日曜日が来たことを意味しています。するとたくさんの人々が癒しを願ってやってきました。安息日を避けたことが分かります。人々は安息日に癒されることはないと思ったのか、またファリサイ派から攻撃されると思ったのか分かりませんが、とにかく、日が変わってから続々とやってきました。
考えて見ると、彼らは都合のよいことだけを求めています。安息日の規定に反するのを避けるのはいいのですが、それはファリサイ派かの批判を避けるためというなら便宜主義です。しかし、彼らはそれでも病人を癒してもらいたいという切なる願いを持っていました。だから連れてきたのです。キリストはこのような人々の思いを無視したり退けたりはされません。このような人をも見捨てられないのです。イエス・キリストは大勢の人たちを癒されます。キリストは憐れみのみ手を誰に対しても差し伸べられます。
【近くにある多くの町や村に宣教しよう】
35節によると、日曜日の朝、一人離れて祈りに専念されます。ところがシモンその他の人々がイエスを追いかけてきたとあります。彼らの目的は何か。みんなが探していますという報告ですが、もっと多くの人が癒しを求めているということでもあります。
38節、イエス・キリストはこれを聞いて「近くにあるもっと多くの町や村で宣教しよう」といわれます。これは人々が宣教よりも癒しを求める、弟子たちでさえまだこの頃はイエスの超自然的な奇跡実行者であることだけを期待していたので、それを拒絶するために、カファルナウムでの働きを中止されたのだと取れますが、イエス・キリストは宣教とそれに伴う神の力の発露のために、もっと多くの地で宣教活動をしようと決意されたとも取れます。ガリラヤ近辺での働きを拡大されていきます。
【癒しとは】
病気の癒しについてさらに考えたいと思います。マルコは個人の癒し(ペトロの姑)をまず記し、ついで、集団の癒しを記します。さらに多くの人の癒しも語られます。福音の宣教の拡大と癒しの数は比例します。宣教がなされるところでこそ神の大きなみわざが行なわれるのです。
病気は人間が存在するところではどこでも起きます。なくなることはありません。最近、医療技術が格段に進歩しました。そのために人は長く生きるようになりました。高齢化は医学の進歩の結果であることは間違いありません。かつては、人は40歳代、50歳代亡くなっていましたが、今は80歳、90歳も普通となりました。そのために、私たちは病気が克服されたと錯覚しています。
でもそれは誤りです。高齢化して、それだけ多くの病気を経験しなければならなくなりました。今まで聞いたことにない病名に出会います。検査方法が進歩したから、今まで見落とされていた病気が発見されたといえるかもしれませんが、また人は長生きしたために、今までかかる可能性が少なかった病気になるということもありえます。時代はグローバル化しています。すると、今まで地域の病気であったものが世界中に拡大するということも現実になっています。がんについていえばどうでしょうか。かつてはがんは即、死に繋がる病として恐れられました。
がんになると死ぬと思われていたのです。ところが今ではがんも克服されつつあります。それでがんは制圧されたのでしょうか。現在、死因の内、がんが第2位を占めています。がんという病気が克服されたということは正しくありません。がんの治療方法は増えましたが、がんで死ぬ人は多くなって来ています。これは何を意味するのか。病気は消滅しないということです.病気はなくなることはありません。
そして、死はあいも変わらず人間に苦しみを与え続けます。肉体の苦痛は残ります。確かに痛みを制御する方法は進歩しました。肉体の苦痛は解決しつつあるかもしれません。かつてこの病の痛みが病人を苦しめました。今はどうか。精神的な苦痛はかつて以上に人を悩まします。不安や恐怖、あるいは不快さ、時間との戦いは決してなくなりはしません。病気が周囲に人々を苦しめる状況は変わりません。経済的な負担もかえって大きくなりつつあります。国家そのものが今や病気のために財政破綻の危機にさえ直面する時代です。病気はなくなってなどしていません。病気は社会的な立場を失わせます。仕事ができなくなることで大きな損失を蒙ります。
そして、病気は死と直結しています。病気は死の予告なのです。人間は必ず死ななければならないということを教えるのが病気です。死は必ずやってきますが、病気はその死の到来を予告するものです。ところがたいていの人はそう思っていません。
【死の勝利者キリスト】
イエス・キリストは病を癒されます。これはキリストが死も克服する救い主であることを示すものです。病気は私たちに死の備えをさせます。人は病みます。そのとき、その病が死をもたらすことを学ばなければなりません。死に直面したものはどうするのか。諦める。死は一切の終わりであると諦観する。死など考えない。いろいろな備え方があります。キリストは私たちに語られます。病を癒す力ある方は究極的な死の勝利者であられる。
誰もが病みます。病んで、そのときこそキリストが病を癒す救い主であることをおぼえます。だから、病気の癒しを祈り願うのです。キリストはその力を保持しておられます。そして、病気と死が直結している鎖を断ち切ってくださいます。(おわり)
2014年8月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師
L140825003.wav ←クリックで説教が聴けます(始まり部分がありません)2014年8月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師
聖書 ガラテヤの信徒への手紙6章1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
要旨
【御霊の導き】
私たちは御霊に導かれています。「イエスは主である」と告白し洗礼を受けるという事実が御霊の導きのもとにあるという証拠です。御霊に導かれているものは肉の欲望を十字架につけています。つまり極刑に処しています。そうはいうものの、私たちは完全に肉の欲望の罠から脱出できていません。私たちの内なる魂に罪の残りかすがこびりついています。
だから、私たちは意志を固め、自分の足で前進しなければなりません。キリスト者になればエスカレーターでそのまま救いの完成に至るのではありません。キリスト者はただ信仰によって救われるのであって、律法の行いは不要です。信仰プラス律法の行いでもありません。
しかし、救われたものは律法(の成就)を必要とします。御霊に導かれたものにはキリストの律法を全うする目標があります。またそれはどうでもよい勧めではなく、キリスト者の義務でもあります。
パウロは5:26で、「うぬぼれて、互いに挑戦しあい、嫉みあってはならない」と命じます。パウロは論理的、順序だてて勧めを書いているように思われません。これが第一に挙げられているのは理由があると思います。ガラテヤ教会は設立されて10数年しか経っていませんでした。最初は教会員の間では区別などなかったと思いますが、次第に教会員が増え、組織が整ってきますと、指導力を持つものが出てきます。
【ガラテヤ教会の実情】
そういう人の中に権力を振るい、他の会員を支配する傾向が出てきたのではないかと思います。そうすると必ず反抗する人が出てきます。教会員に亀裂が生じ始めます。パウロはそのようなガラテヤ教会の実情を念頭に置きながら、この言葉を語っていると見てよいのではないでしょうか。
自己主張、自己過信が教会員の間を裂く。こういうことは教会が形を取り始めたときに起きやすいのです。嫉妬や競争心が分裂を招きます。そして、教会が割かれるとき、教会は存立の危機に直面せざるを得ません。だからこそこの命令を最初に置いたのだと想像することができます。せっかく教会が形を取り、整い始めた矢先、大きな問題を抱えることになります。パウロはそのようなことがあってはならないと考えています。
【6章1節「万が一」】
パウロは万が一、と仮定を立てて文章を書き始めます。誰かが罪を犯すようなことがあれば。万が一ということは仮初にもそんなことがあるはずがないけれども、という気持ちが表されているように思えます。教会にはそんなことがあってはならない。教会の中に平然と罪が見逃されているようなことがあってはならない、そんなはずがない。パウロはこのように教会は本来罪はあるべきではないと言いたいのでしょう。しかし、現実がそうではありません。教会に罪が認められます。いえ、世間でも起きないような、忌むべき、罪が犯されています。だから、霊に導かれているものは、そのような罪を犯している人を正しい道に戻さなければなりません。正しい道へ方向転換させるとは悔い改めさせるということでもあります。
【教会の「訓練」と役員】
霊に導かれているものはキリスト者のことです。同じ教会員であるものが罪を犯していたら、教会はその罪を矯正する必要があります。このような働きを「訓練」といいます。けれども、訓練はいわゆるトレーニングではありません。この言葉はいろいろな意味を含みます。鍛錬、教練、しつけ、懲戒・折檻というような意味が含まれています。教会はこのような訓練を行なうために教会役員を立てました。教会役員の最も重要な務めは訓練を実施することです。
罪を犯している信徒がおればその人を戒め、正す必要があります。厳格に信徒の訓練ができるかどうか、教会は問われています。キリスト者とその共同体である教会が御霊に導かれているならば、その教会は、罪を犯している人を悔い改めに導かねばならないのです。ところがたいていの場合は、うまく行きません。特に今日、信徒訓練は有名無実化しています。教会役員は教会員の単なる世話役、相談役になっています。
教会の中で罪が犯されていても見過ごされたり、黙認されたりしています。罪を犯している人は反省することもありません。なぜなのだろうかと思います。訓練というと厳しく叱責し、ときには暴力的な仕打ちをしてまで罪を犯した人を懲らしめるという誤解があります。教会は訓練を伝家の宝刀として用いて、教会員を責めたり、批判したりするだけではその効果はありません。
【柔和な心で】
パウロはここで「柔和な心で」はといいます。これは「謙遜な気持ちをもって」と訳される場合もありますが、強権的に信徒を訓練するのではなく、その反対のやり方で信徒を訓練すべきであると言われます。そんな甘いことを言っていても罪を犯した人は悔い改めることはないと、断固たる手段を選ぼうという誘惑に駆られますけれども、そのようにして成功したためしはありません。教会の訓練は別の原則、方法でなされます。
確かに教会の訓練は困難を極めています。訓練のことを「戒規」ともいいますが、これが効果あるように執行された例をあまり知りません。それほど訓練は有名無実化しているわけですが、だからこそ、霊に導かれたものは罪を犯した人を反省させ、悔い改めさせるために真剣さと祈りが求められています。
罪を犯している人を非難し、叱責するとき、あるいは告発し、弾劾するときに陥りやすい過ちは自分のことを棚に挙げて他人の罪を責め、攻撃することだけに集中してしまい、自分も同じような過ちを犯しているということを看過してしまうことです。同じ罪を犯している、あるいは、その誘惑に曝されている場合もあります。
【互いに重荷を負いなさい】
2節で、パウロは互いに重荷を負いなさいと命じます。これこそキリストの律法を成就することとされます。キリストの律法はキリストが命じられる律法という意味ですが、キリストは律法を要約されています。
【律法の要約】
マタイ22章34-37で、キリストは律法を、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に要約されています。また、これは当時の律法研究者の共通の認識でもありました。マタイ19:16で、キリストに永遠の命を獲得するために教えを請うた若者が自ら律法の大切な項目として隣人を愛することを挙げますし、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:25-38)でキリストの問い、律法には何が書かれているのか、に律法学者が隣人への愛と答えているところから分かります。
パウロもガラテヤ5:14で律法はこの隣人への愛という一句にまとめられると語っています。ところがここではパウロは互いに重荷を負うことが律法の成就だと語ります。隣人を愛することは結局互いの重荷を負うことということになります。重荷とは何か、ここでは明確に語られていません。
【5節:自分の重荷を負え】
しかし、私たちの人生は数え切れない重荷を負っています。他人の重荷を負うことがキリストの律法の実現に他なりません。どんな重荷でもそうすることが求められます。ところで、5節では、各自、自分の重荷を負えと命じられます。こうして、私たちは他人の重荷と自分の重荷を負うことになります。これには納得できない人も多いでしょう。
結局、キリスト者は自分だけではなく他人の重荷を背負わなければならないのか。パウロはそう言います。だから、結論的には、わたしの罪を他人には負わせられないということにもなります。私たちは何とかして重荷を軽くしたいものです。しかし、他人には重荷を負わせてはならず、自分自身の重荷も背負う。何ともキリスト者の人生はしんどいということになるかもしれません。
できるだけ荷物は軽くしたい。他人に荷物を背負ってもらえれば大助かりです。ところが、パウロは、自分の重荷を他人に負わせるなと命じているのです。だから、私たちは背負えない重荷に打ちひしがれてしまいかねません。私たちはとどのつまり、神に重荷を背負っていただくしかありません。キリストは私たちの重荷の全てを背負って下さる方です。
私たちは自分の重荷を背負い、誘惑に負けないように気をつけよと命じられています。まさに個人責任です。誰も個人としては弱いものです。神に助けを求めていく以外に道はありません。
【自分を過大評価するな】
3-4節は5章26との関連で見れば同じようなことが語られます。自分をえらいものと思う。過大評価です。自分には力がある。うぬぼれです。だから、他人と比較して自分のほうが立派だと採点します。こうして、他人を見下します。けれども、このようなことがあってはならないとされます。
私たちは実際には何ものでもない。教会という少数者の中では権力があるかのように思い、そのように振舞います。他者を支配しようとします。パウロはこれを戒めています。そうであってはいけないのです。自分がひとかどのもの、実力者と思いあがって、権力を振るおうとします。だからこそ自分自身をしっかり見極めなければなりません。自分を過度に評価するものは自分を欺いています。それは虚構です。何の根拠もありません。絵空事です。
【自分の行いを吟味せよ】
しかし、私たちはしばしば真実ではない自分の姿を勝手に描き出して、それをあたかも真実であるかのように錯覚してしまいます。特に自分の行いを吟味せよと求められます。行いは外に現れていますから、自分で評価できます。外に現われたものを直視すれば本当の姿と評価されます。
パウロは自分に対しては誇れるが、と申しますが、自分が善であると思ってしたこと、誠実に行なったことまで否定する必要はないと語ります。そのようにして行為したことは、自分がよく知っています。自分で自分の行動を見極めることができます。けれども、私たちの行動は、どんなことであっても、他人に対して誇ることができません。だから、実力があるなどと思ってはならないのです。行いを冷静に見つめれば自己評価できます。大したことはないと分かります。
自分の良心にかけて正しいことをしておればそれだけでいいのであって誰かに誉めてもらう必要はありません。(おわり)
2014年08月24日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年8月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師
2014年8月3日説教「御霊なる神の導き」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章
16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21 ねたみ、(殺人)、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
要旨
【キリスト者はどのように生きるべきか】
律法の束縛から解放され、罪の赦しをいただいているキリスト者はどのように生きるべきか。
洗礼を受けた後の生き方について明確な理解を持っていなかったために、ガラテヤの信徒たちはパウロの教えた福音から外れていきました。彼らは信仰だけではだめだ、律法の行いも救いに必要だというユダヤ主義者の教えを簡単に受け入れてしまいました。そのために割礼やユダヤの宗教的な暦の遵守などに血道をあげることになりました。
これとは別にコリントの信徒のように救われたら後は自由だといって放縦にふける人たちもいました(コリント1 5:1)が、どちらもキリスト者がいかに生きるべきかの明確な知識を持っていなかったせいです。
ガラテヤ5:16以下でパウロは答えます。その場合、ふたつの観点から見ています。ひとつは消極的な観点からで、肉の欲に従って歩まないということです。もうひとつは積極的な観点からで、御霊の導きに従って生きて行きなさいというものです。
【キリスト者も罪の支配下にある】
まず、私たちが知らなければならないことは、キリスト者といえども肉の欲望は全く消滅していないという事実です。キリスト者は罪赦され、もはやその奴隷ではありません。しかし、依然として罪は残存し、支配しているのです。神を信じたとたん一切の罪から自由になったのではありません。全く聖とされたのではありません。時間が経っても肉の思いは残るのです。それどころか火山の噴火のよう突然肉の欲望が爆発します。枯野の野火のように急激に拡大し、肉の欲の支配下に戻ります。
肉の欲とは何か。19-21節にそのリストが挙げられています。しかし、肉の欲は多種多様でこれだけではとても描き切れません。ある翻訳聖書(KJV欽定訳)にはねたみの後に殺人を加えますが、肉の思いの数はもっともっと多いということができるでしょう。
ある人はこのリストを4種類に分類します。
第1は、姦淫、わいせつ、好色。いずれも性に関わる欲望です。なぜパウロはこれを最初に挙げたのでしょうか。当時のギリシヤ世界では、禁欲が徳目として挙げられていました。しかし、禁欲には反動が起きやすいものです。肉欲の命じるままに生きることが幸福だという考えが生じ、美しいものは肉体美だとされます。ギリシヤの彫刻には肉体の美しさを追求する作品が多く見られます。そして、性を謳歌する傾向が伴います。実際、ギリシヤ文化は、性的放縦を伴う場合が多かったのです。買春、姦通、不倫、不貞が横行する社会でした。ローマ人の社会も同様です。パウロはその有様を直視しているのです。
フランシスコ・ザビエルが日本伝道を志したのはインドで出会った日本人の聡明さであったといわれます。論理的にものを考え、理路整然とその考えを示す。こうして日本宣教のため上陸しますが、ザビエルは日本人の欠陥は性的なことに関しては野放図だと指摘しています。性的な放縦は人間の目立つ、さらに制御できない肉の思いなのです。だからパウロはここで最初に列挙します。
第2は偶像礼拝と魔術。これらは「霊的な」=宗教的な面での肉の思いです。矛盾した表現ですが、宗教の領域こそ人間の欲望の発露の場所にもなります。自分で神を作り出し、超自然的な力を誇示し、それを欲望の実現のために乱行をします。
第3は、敵意以下ですが、これらは対人的に作用する肉の思いです。一番多く挙げられています。それだけ一般的かつ多様ということでしょう。これらは心の中で生じるだけではなく、実践に移されます。その結果は醜い人間同士の争いとなり、多くの不幸の源泉となってしまいます。
第4は泥酔と酒宴ですが、これらは自己に対する肉の思いです。
肉の思いは多様ですし、時代が変わると形を変えます。また個人によってその現われは異なります。しかし、キリスト者といえどもこの肉の思いから逃れられません。私たちは肉の思いにいつも縛られています。キリスト者はどうすればこの肉に縛られない生活を構築できるのでしょうか。
【キリスト者は御霊に導かれなければならない】
答えは一言で言えば、キリスト者は御霊に導かれなければならないということです。肉の思いの縛られないためには霊に導かれるべきなのです。なぜなら、霊と肉は対立し、決して両立しないからです。肉に従いたくないなら御霊に従うべきなのです。御霊の導きを拒否すれば肉に縛られて生きていくし中のです。
では御霊の導きに従って生きるとはどういうことなのでしょうか。
霊の導きに従って歩みなさい。歩むというのは「生きる」ということです。日常生活を営みなさい。新共同訳聖書は、「霊」と翻訳していますが、従来の翻訳聖書は「御霊」と訳しています。
このような訳の違いは意図があります。なぜ、「御霊」とせず、「霊」と訳したのか。御霊は、私たちの霊に働きかけられますが、その場合、私たちの自覚、意識、理性、判断、記憶などを無視されることはありません。むろんときに聖霊は奇跡的超自然的に作用されることもあります。預言者の場合、全てではありませんが、恍惚状態、無意識で神の託宣を与えられる場合があります。
しかし、このような御霊の働きは例外的であるといってもよいと思います。たいていの場合、人間の自覚、自意識が用いられます。預言者の場合もそうですが、別段意識を失うことなく、神の言葉を語ります。それは聖霊の導きです。聖書の著者、例えばパウロは冷静に、自覚して書簡にペンを走らせます。彼は決して恍惚状態で書いてはいません。しかし、御霊の働きかけ、霊感によって記したのです。
コリントの信徒への手紙一12章3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
私たちは自覚的にイエス・キリストを信じます。そして、そのみ言葉に従います。私たちは操り人形のようにそうするのではありません。ロボットのように神に命令されて、考え、思い、行動するのではありません。わたしはわたしです。決してわたしを失ったりしません。それどころか、わたしが決心し、わたしが決意するのです。最終的には、わたしの霊が意志し、実行します。
ところが、そのわたしの霊の思っているところが御霊の思いなのです。わたしの精神と御霊の思いが一致するのです。こういうことが信仰において起きます。だから、新共同訳聖書では、御霊と訳さないで、「霊」と訳されたのです。ここで「霊」は純粋に人間の霊、精神、心ではなく、聖霊に導かれ、聖霊と同じ思いになっている霊のことなのです。
私たちは肉の思いに支配されやすい現実の中を生きています。その肉の支配から脱出するためには御霊に導かれなければなりません。御霊に導かれるとは、わたしの心の命じるままに生きることです。むろん、単にわたしの心の思いではありません。わたしの心は絶えず肉の思いに支配されます。ここではそのような単純な心の思いではなく、御霊に導かれ、御霊と一致しているわたしの心の思いに従うことなのです。
では、私たちは、どうすれば御霊に支配されるのでしょうか。当然、御霊は御言葉をもって語られる方です。神の言葉、律法もまた神の言葉です。神の言葉によって御霊は私たちに語ってくださいます。神の言葉とは聖書のことです。聖書が説き明かされる。そのとき、私たちの肉の思いは反発します。しかし、御霊に導かれて、私たちの霊はそれが神の意志であると知ります。そして、示された神の御心に従うとき、あるいは従おうとするとき、私たちは肉の思いではなく、御霊に導かれます。礼拝において私たちは常に神の言葉を聞きます。
【私たちの内に残る肉の思い】
私たちには肉の思いに従って生きていこうとする傾向が残っています。それは強力である場合も多いのです。逆に私たちの心は頑なです。神の御旨であると知っても従おうとしません。信仰の決心がそれをよく示します。信仰はいいものだ、人間には救いが必要だ。神の恵みは素晴らしい、と思います。しかし、だからすぐに誰もが信仰を持つとは限らないのです。私たちの心はそう簡単に変わりません。
伝道を志す人は皆これを経験します。どんなに熱心に説得してもなかなか人は決心しません。暴力を持って脅しても人の心は信仰に入るわけではありません。しかし、その不信仰は砕かれます。とても神を信じると思えない人が神を信じるようになります。私たちの霊は、そのままでは決して神に服従などしません。抵抗するばかりです。ところが、その頑固な心も聖霊によって変えられます。
このことはキリスト者の生涯にわたって言うことができます。私たちは聖霊によらなければ御霊の導きに服することはありません。そのままではかえって肉の思いに縛られます。それが人間です。だから、禁欲で解決しようとしたり、人間的な熱心(苦行難行など)で打開を図ります。でもそのような努力には甲斐がありません。人の心ほど堅固なものはありません、ちっとやそっとでは動きません。ではどうすることもできないのか。そうではありません。
【ここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう】
やはりここは「御霊の導き」と翻訳すべきでしょう。御霊は神です。御霊なる神は全知全能です。だから、不可能と思われることも可能とされます。御霊が働かれるとき、人の心を生まれ変わらせることもできます。事実再生することもできます。私たちは聖霊に頼ります。聖霊は神です。神として働かれます。肉の思いに抵抗することは至難のわざです。肉の思いにいつも敗北するのが現実です。しかし、私たちの魂を揺り動かしているのは聖霊です。私たちは霊に導かれます。決して、御霊は間違った方向に導かれません。御霊に信頼して行くことが信仰です。(おわり)
2014年08月03日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年7月27日説教 「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師
L140727003.wav ←クリックで説教が聴けます。2014年7月27日説教「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師
聖書:新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5章
13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
要旨
【真の自由と奴隷状態】
パウロはガラテヤの人々がキリストによって自由にされていると語ります。キリストは彼らを自由にするために召されました。ガラテヤの人々は自由ではない状態、つまり奴隷状態から解放されました。
何からの自由なのか。まず第一に、律法の下からの自由です。彼らは律法の束縛下にありました。彼らは異邦人でしたが、心に律法が刻み込まれており、その律法が遵守を要求しました。律法によって自らが神の前に義とされなければならない、そのために律法を守らなければならない、さもなければ神から裁かれて滅びるるという、ユダヤ人同様の拘束下にありました。それは人間の力で救いを勝ち取る方法です。
そして、重大な問題は、神に対して傲慢な態度からその願望が出てくるということです。だから第二に、この肉的な思いの拘束からの自由のこともパウロが念頭に置いていました。肉の思いはガラテヤ5章19-21に列挙されています。私たちをがんじがらめにしている肉的な思い、願望からキリストはご自身にほうに呼び出して自由にしてくださいました。
【自覚されない罪】
このような肉の思いは罪から生じます。しかし、この思いはあまり自覚されていません。罪は自覚されているとは限りません。気がつかないなら、そこからの解放もまた意識されていません。
例えば、肉の思いの中に妬みがあります。妬みは、至るところに見られます。小さな子どもにも妬みは見られます。兄弟間でも親の愛をめぐって嫉妬が生じます。集団同士でもこの嫉妬は作用します。富める階級と貧しい階級の間で嫉妬が支配して対立が生じます。国同士が妬みから戦争を引き起こすことは珍しくありません。嫉妬などという心の動きが大きな災いを引き起こします。いろいろな大義名分を掲げてもその根本には妬みがある。妬みに世界中が支配され、束縛されています。この所の妬みは潜在化していて自覚・認識されていません。
妬みだけではなく、自尊心、うぬぼれ、過大な自己評価、過剰な自信に縛られている人が何と多いことか。逆に劣等感、自己憐憫、うつ状態に縛られて身動きできない人生を営んでいる人も多いのです。人間の心を支配する感情は複雑です。それがどういうものであれ、人の魂を束縛し、奴隷のように扱います。キリストはこのような心を縛る奴隷的な束縛から私たちを解放されます。
【十字架による解放】
キリストの十字架の意味はこの肉の支配からの解放なのです。自由はそこから生じます。霊的な束縛からの自由に他なりません。
今日、世界で支配的な思想は「ありのままでよい」というスローガンであると思います。
あなたはそのままでよろしい。そう言うのです。この思想が有力なのは当然です。
今日は他者を否定する時代です。才能や能力の欠如、営業成績不振などを理由にして、人間の価値を低く見積もる社会です。ときには金銭の多寡で人間の価値を計ります。このような社会では、ありのままの自分を認めて欲しいと誰もが思っています。ありのままの自己を肯定する思想も今日では殊の外、必要かもしれません。
しかし、結局この『思想』は自分で自分を認め、許す思想でもあります。それは究極的な魂の解放にはならないと思います。自分で自分を許してみても束縛そのものは消滅していません。結局のところ、気持ちの持ち方で終わってしまいかねません。許しは他者から来ます。
【キリストによる神の赦し・解放】
キリストは、私たちを赦されます。肉の思いに縛られていてがんじがらめになっている私たちを、ご自身の犠牲によって赦されます。神の御子が赦しを約束し、宣言し、保証されます。この赦しこそが究極的な自由の源であるといえます。
キリストはこの自由に私たちを召されます。つまり、呼び出されます。み言葉によって私たちを自由に導かれます。まず、わたしたちが肉の思いに縛られている事実を自覚させます。それから、私たちが霊的に奴隷状態であることをみ言葉によって知らせ、そこからの脱出を勧められます。まことの自由はキリストにあります。
私たちは長くこの束縛状態に置かれていました。あまりに長く奴隷状態であったために、キリストから解放されていることに気がつきません。足かせ、首かせは壊されています。ところが、束縛が日常となって、相変わらず束縛されているように錯覚しています。ガラテヤの信徒が味わっている状態はこれです。すでにキリストから自由にされていますが、また、肉の奴隷に戻って行こうとします。
自由人と奴隷状態の共存は、当時は社会の制度でした。その格差は大きいものです。奴隷身分であることは自由がないというだけのことではありません。人間ではなく、売買の対象であり、生殺与奪の権を一方が持っているということを意味していました。キリストに自由にされるということは、律法からの自由であり、肉の支配からの自由を意味していました。ガラテヤの信徒が奴隷の状態から自由を勝ち取ることができました。それなのに奴隷状態への逆行は信じがたい行動というべきなのです。
【キリスト者の自由】
こうして、キリスト者は自由にされています。全く自由なのです。もはや律法を義と認められる方法は破棄されました。ところで、この自由を強く主張することは、律法の破棄に繋がることはありません。現実には、自由の主張が、放任、放縦につながって生きました。キリストを信じるものは律法の行いから自由です。それによって救いを勝ち取ることはありません。すると、律法を軽んじる傾向が生じます。自由を、肉が罪を犯す機会とするという弊害が生じます。
【自由と奔放の違い】
なんでも自由だ、何でも赦される、何を仕様が、何を言おうが勝手だという主張がまかり通ります。あるいはそういう口実が平気で語られます。キリスト者は自由である。もはや何によっても束縛されることはない。こういう主張が出てきます。
戒律が厳しい宗派が存在します。そのような宗派に比較してプロテスタントは自由を強調しました。キリスト者は律法の行いや戒律などに縛られない。救いには関係ない。そこから律法の軽視が生じます。道徳的にたがが外れた状態が起きました。
残念ながらプロテスタントの有力なところで、このような誤った自由の観念が罷り通るという事態が生じました。厳格な戒律で救いを得られない、それはその通りなのですが、律法軽視、あるいは無視の傾向が生じます。
【偶像に捧げられた物を食すこと】
パウロは、自由を乱用したり誤用したりしてはならないと警告をします。実際にガラテヤの信徒とは違った極端が生じています。コリント教会で起きていたことです(コリント1 8:9)。当時ギリシヤでは神殿で犠牲がささげられますが、屠られた動物の肉は市場に払い下げられました。大量の食材が市場に出回っていて、それを買って食べることは一般的な市民の日常生活でした。偶像はただに石や木切れに過ぎない。神は唯一であるから、異なる神などありえない。そういう神に奉献された犠牲の肉を食べることは何ら差し支えないという人もいました。
しかし、そのような行動に躓きを覚える人もいました。一方では自由を主張します。他方では躓いている人もいました。パウロは自由な言動が弱い信徒を躓かせることになると警告をしています。自由は乱用されやすいのです。自由を主張する人は自由を行使しているだけだと思っています。やましさを感じているわけではありません。ところが、自由を乱用して、ある人たちを躓かせ、信仰から離れさせる結果となります。
【指針としての律法】
律法は廃止されるのではなく、救いの手段としての律法は不要となったけれども、律法そのものが不要になったのではありません。キリスト者の人生は律法から離れてあるのではありません。あくまで律法はキリスト者がそれを守って生きていく指針なのです。道しるべといった模様と思います。
パウロは律法の要約をここで引用します。マタイ22:39で、律法の要約がレビ19:18を用いて語られます。パウロはローマ13:9でも同じ点を語っています。
新約聖書マタイによる福音書22:39
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
旧約聖書レビ記19:18
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
ローマの信徒への手紙13:9
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
自分を愛するように隣人を愛しなさい。これこそ律法の要約で、律法の条文が不要になったり、無効になったりしているのではありません。愛して互いに仕えあうと言われます。
【律法の効用】
律法の要約は、律法全体を指し示します。律法は不要になったのではなく、律法はキリスト者には重要であるとされています。律法は廃棄されたのではありません。救いの手段としてユダヤ人が確信していたような仕方で律法が重視されるのではありませんが、律法はキリスト者の行動規範であり続けます。神を信じるものは律法を重んじるべきです。
十戒、使徒信条、主の祈りと共に3要文と呼ばれます。キリスト教において、この三つは肝心要の位置を占め、キリスト教信仰を簡潔に表明するものです。
パウロは警告します。だから、教会員が互いに挑みあい、噛みあい、共食いまでしているならば、そのときキリスト者も、教会も滅びてしまう。教会の外面的なものは存続するでしょう。しかし、教会の内部にあるものは失われます。教会がするべきことは互いに仕えあうことであるはずです。
ガラテヤの教会もまた律法を正しく用いないならばその破局は近くなります。教会は律法を正しく学ばなければならないのです。キリスト者にとって律法は生きていくために指針です。その律法を用いないで、あるいは無視してしまうとき、滅びに至るとは重大な警告です。
律法を守っていないという現実は残ります。だから、律法などどうでもよいものとし、律法を学ばず、律法を生きていく術にしないならば、そのとき、律法は救いの手段ではないとしても、滅びの手立てとなるという皮肉な事態となってしまいます。そのようなことがあってはならないのは当然というべきです。(おわり)
2014年07月27日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
20014年7月20日 説 教 「十字架のつまづき」金田幸男牧師
2014年7月20日説教「十字架の躓き」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章
要旨
【競走のコースを曲げること】
7節で、パウロは陸上競技を比ゆに用います。古代世界でも競争は盛んで、その勝者は民衆の尊敬を受けました。競走は全速力で走ったり、持久力で長距離を走ったりしますが、コースから外れることは許されません。ガラテヤの信徒は今まで全力で走ってきました。ところが誰かが邪魔をします。競走のコースを曲げるようなこと、ゴールを偽ものにすることなど、いろいろな工夫をしてガラテヤのキリスト者の信仰を途中で挫折させようとするものがありました。
パウロはここで邪魔をするもの、10節では「惑わす者」、12節では「かき乱す者」といいます。彼らは、福音だけではなく、律法の行いも必要だと教えました。そのために割礼を要求します。その他の律法の行いを実践しなければ救われない、異邦人もユダヤ人のようにならなければ神の国を継承できないと主張をしたのです。
パウロはここでガラテヤの信者を厳しく断罪していません。信仰は個人の問題です。だから、ガラテヤの信徒たちが福音のみを信じる信仰から、律法の実践も救いに必要だという誤った教えに傾いていきましたが、その場合責任は決断した彼らにあるはずです。今日は自己責任の時代ですから、信仰を動揺させたガラテヤの信徒たちがその責任を問われなければならないはずなのです。
【偽教師、ユダヤ主義者】
パウロはこの手紙の中でガラテヤの人々厳しく責め、責任を問い、告発して当然です。パウロがそれをすることは正当であると思われます。ところがパウロが弾劾しているのは、彼らを惑わす偽教師たち、ユダヤ主義者です。福音信仰に律法の実践を加えてそれが救いの条件だとする異端をパウロは激しく非難します。それどころか呪い、呪詛さえします。誰であろうとも、ガラテヤの信徒を惑わし、最初の告白した信仰を歪めるものはさばきを受けなければなりません。パウロはこの偽教師には全く譲歩などしません。このパウロの姿勢には抵抗を感じる人もいるかもしれません。
本来厳しく責められても仕方がないガラテヤの信徒にはパウロは柔軟に対応しています。信頼さえ表明します。しかし、ユダヤ主義の偽教師にはもっとも過酷な裁きを願います。この落差は、人間的な感情と異なります。少々の違いなどには目をつぶる。これが私たちのすることです。福音理解に関してもそうです。ちょっとした違いなら何でも構わないと思います。
ところがパウロは福音の真理に関しては妥協しません。少しの妥協などしません。福音を捻じ曲げ、水増しし、曖昧にするようなものたちを許しておくことができないとするのです。一歩も退きません。彼らはれっきとしたキリスト者であると主張していたに違いありません。福音を奉じている。キリストを信じている。聖書を受け入れている。こういう点で同じだといい、そしてすぐあとで、ただし、行いも必要だと言い出すのです。パウロはこのような考え方を容赦しません。なぜなら、福音の真理、神の大きな恩寵をないがしろにするからです。福音を歪曲したり、曖昧にすることは決して許されないのです。
【勧誘する宗教】
偽教師からの「誘い」がガラテヤの信徒に向けられていました。この語はパウロに向けられた言葉ではないかと言われています。ガラテヤの信徒たちを誤った方向に勧誘していると。しかし、パウロは偽教師たちこそガラテヤの信徒を勧誘するものだというのです。よく戸別のチラシ配付をしましたが、郵便受けに「セールス、宗教の勧誘、お断り」というステッカーが張ってありました。伝道などセールスと同じようなものと見なされています。パウロはそうではないといいます。ガラテヤの信徒の信仰を危うくするような偽教師たちこそ勧誘をしているのです。自分たちの陣営にガラテヤの信徒をお招きし、お誘いして、人数を増やすことが目的です。宗教団体の活動は多くの場合その団体の人数を増やすことを目的としています。まさしく勧誘することが伝道なのです。
【宣教】
私たちキリスト者も所詮同じだと言われてはなりませんし、自分にそんな言い訳をしてもいけません。勧誘に対置される言葉は「宣教」です。すなわち、キリストを救い主として宣言し、キリストの約束を恵みとして宣言するキリスト教会の伝道は単に自己の宗派の人数増やしに留まるものではありません。福音のみが救いに至る道であると確言し、明瞭に指し示すことです。
福音に欠けがあり、人間が補いをする必要があるなどという教説は破棄されなければなりません。そんなことは決してありません。そんな教えを主キリストが認めるわけがありません。
【腐ったパン種の喩え】
9節でまたパウロは比ゆを用います。パン種、イースト菌の喩えです。古代のイースト菌は雑菌も多かったといわれます。ですから、暖かく湿気の多いところにパンの生地を放置しますと、急速に膨らむのはいいのですが、食べるには適さなくなってしまいます。パン種が作用して練り粉全体が膨らみすぎると味も落ち、酸っぱくなったりして食用にならなくなってしまいます。
【別な考え】
パン種はいうまでもなく偽教師の教えを意味しています。10節で、それは「別な考え」とされています。異なる教えです。その間に何らかの共通点などない教えです。みかけは似たように思えます。実際、共通点がたくさんあるように思えます。福音そのものを否定しているのではありません。福音も必要、しかし、律法も上乗せされると教えるのです。このような偽教師たちの教えはパウロから見れば異なった教え、まったく別の教えとなります。見たところ共通点があっても、肝心の、イエス・キリストを信じる信仰だけが救いに必要だという教えとは水と油の関係なのです。
【パウロの信頼】
これほどパウロは福音のみをいう教えに固執します。それはゆるぎない確信でした。救われるのはただ神の恩寵、恵みによるだけなのです。ここには妥協も譲歩もありません。それがパウロの姿勢でした。
ガラテヤの信徒に対しては、パウロは驚くべき言葉を使います。「信頼する」という言葉です。ガラテヤの信徒が異なれる福音に行ってしまうことはありえない。パウロはそのように断定します。でも現状はどうであったでしょうか。ガラテヤの信徒とパウロの距離はすでにかなり離れていました。ガラテヤの人々はパウロに背を向けていました。しかし、ガラテヤの教会員が別の教えに傾いていくはずがないとパウロは語っています。それどころかあなた方を信頼している。現実は違っていました。ガラテヤの信徒たちは敵対さえしていました。パウロはその事実をよく認識していたはずです。ガラテヤの信徒たちはもうすでに律法の行いに拠って立っていたかもしれません。
私たちの人間関係は少し溝ができると埋めがたいものとなります。そこにあるのは不信感です。教会でもこのことは起こりえます。そして事態は深刻になっていくものです。
教会から離れて行ってしまった人々に、私たちはついそのような人が神から捨てられたのだと断言します。教会の外に救いはない。だから教会に背を向けたような輩は救いから漏れているに違いない。彼らは選ばれてはいない。こういう早合点をしているのです。
パウロはそう言いません。彼らガラテヤの信徒を信頼している。なぜなら、主を拠り所とするからです。教会の人間関係の基礎はキリストです。この基礎の上に立っていたら信頼できる。ガラテヤの信徒たちは必ず戻ってくる。パウロは信じています。彼らが復帰する可能性は低いかもしれません。いったんパウロから離れてしまったのです。もう二度と戻ってくるはずもないと思いがちです。パウロはそう考えませんでした。
ガラテヤの信徒はユダヤ主義者の教えを捨ててもう一度戻ってくると信じています。あのユダヤ主義者の語る教えに満足できなくなるとパウロは思っていたに違いありません。なぜならキリストこそ宝だからです。そこに最大級の価値があるのです。福音の恵みを知ったものが、ユダヤ主義者の惑わしに惑わされ続けるはずがない。福音は素晴らしい。パウロはそのように確信をしていましたから、ガラテヤのキリスト者も同じようになるのだと信じていたのです。
キリストを拠り所にしてこそ、真の信頼が生じます。私たちの人間関係は相互不信と敵対や憎悪、嫉妬や疑念に満ちています。そのためにたがいの関係がばらばらです。教会だけではなく、キリスト者の家庭にもこの影響は及んでいます。パウロの言葉に耳を傾けるべきです。
【ユダヤ人には十字架は躓き】
11節で、パウロが割礼を宣教しているという批判のあったことを推測させます。ユダヤ人には割礼を教え、異邦人には違ったことを言っているというのです。パウロははっきり否定します。相手がユダヤ人であろうとも割礼を宣伝したことはありません。割礼を宣教していたら迫害を受けることはない。ユダヤ人には十字架は躓きでした。十字架を語ったからユダヤ人からの迫害を受けるのです。ユダヤ人は、律法の行い、特にいけにえ奉献で贖われると思っていました。罪が許され、神の民として受け入れられると信じていました。だからキリストの十字架が贖いの犠牲だというようなパウロの教えは受け入れられず、伝統的なユダヤの宗教を破壊すると思われたのです。
1コリント1章23に記されているとおり、十字架はユダヤ人には躓きで受け入れがたかったのです。ユダヤの宗教がキリスト教の存在を認めがたいのはここにあります。律法を語っておれば、割礼を教えておればユダヤ人との摩擦は起きません。
割礼は男性器の一部を切断する儀式ですが、男性器全部を取ってしまえと12節でパウロは語ります。激昂したような言い方です。しかし、福音のみを言う教えを否定して何かを付加する教えはパウロには決して認めることができない誤った教えなのです。(おわり)
2014年07月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年6月29日説 教 「自由と束縛]金田幸男牧師
L140629002.wav ←クリックして音声で説教を聴いてください説教「自由と束縛 」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章21―27
要旨
【初期のがラテやの信徒の信仰】
ガラテヤの信徒への手紙4章8-20でパウロはガリラヤ伝道をしたころのガラテヤ人のパウロに対する態度を思い起こさせていました。パウロが心身ともに弱くなっているときに福音を宣教しました。そういうパウロの状態にもかかわらず、ガラテヤの人々はパウロを好意的に受け入れました。まるで天使でもあるかのように、キリスト・イエスでもあるかのようにパウロを受け入れました。
【ユダヤ主義者キリスト教師の悪影響】
ところが今は両者は敵対関係になってしまいました。その理由はユダヤ主義キリスト教の教師たちの教えをガラテヤ人が受け入れてしまったからです。ユダヤ主義者たちはユダヤの宗教的な暦を遵守すること(4:10)、割礼を受けること(5:2)、その他のユダヤ人が守っている律法を異邦人キリスト者も守らなければ救われないと教えていました。
彼らはおそらく汚れの規定には神経質であったのではないかと思います。特別な病気になったり、死体に触れたり、あるいは汚れた動物の肉を食する外国人との付き合いで汚れるという考えです。このようなユダヤ人が厳格に守ろうとしている規則を異邦人キリスト者にも要求するという立場がユダヤ主義者で、彼らは信仰だけではなく、律法の行ないも救いに必要だと語っていたのです。
パウロはこのような律法を守らなければ救われないというユダヤ主義者の教えを採用した人々に問いかけます。律法のもとにいたいと思っている人たち、律法の行いで救われたいと思っているガラテヤの信徒に呼びかけます。あなた方は律法の言っていることに耳を貸さないのか。この場合の律法は、モーセの律法、旧約聖書のはじめに記されるいわゆるモーセの5書のことで、ここでは特に創世記を意味しています。
【アブラハムの2人の妻とその子ども】
そこにはアブラハムの子たちとその母親のことが記されます。アブラハムには2人の子どもがいました。ひとりはイシュマエルという名前で、母はハガルといいました。もうひとりはイサクです。イシュマエル誕生の次第は創世記16章に記されています。
アブラハムにその子孫が増え広がるという約束が語られていましたが、一向に実現しません。そこでサラは自分の奴隷であったハガルを夫に与えます。こうして生まれてきたのがイシュマエルでした。パウロはこのイシュマエルの誕生を「肉によって生まれた」と語ります。肉的な思いによって、という意味で、何とかして、子どもを獲得し、そのことで子孫増加という神の言葉を強制的に実現しようとするものでした。
これに対してイサクはアブラハム100歳、サラ90歳のときに生まれました(創世記21章)。高齢で子どもを産める年齢ではありません、しかし、サラはイサクを産みます。それは全く神の約束によるものでした。
確かにここには処女降誕のような奇跡が記されていません。アブラハムとサラは夫婦であり、2人の間からイサクは生まれました。天変地異、あるいは思いも及ばないような奇跡がここに起きたのではありません。しかし、やはり、奇跡と言わなければなりません。
【100歳の夫と90歳の妻が子を】
100歳の夫と90歳の妻から子どもが生まれてくるなどというようなことが普通起きません。しかし、それは神の約束により、神の介在によって実現しました。これは神の約束の実現でした。神の約束は神の言葉です。このみ言葉が成就したのです。それを信じることによって神は介入し、介在してくださいます。
【奴隷の女ハガイの場合】
ガラテヤ人は肉の思いで、神から祝福を引き出そうとするハガイの立場と同じです。何とかして人間的に神を思うように動かそうとしています。しかし、そこからは神の恩恵を期待することはできないのです。
【正妻サラの場合】
他方、アブラハムはただ神を信頼します。その信頼に応えて神は行動されます。神の言葉とおりに神は実行されます。律法の働きによって神は行動されることはなく、ただ神を信じ、神の信頼するところから神は行動されます。神は祈れと命じられます。主の御名によって祈ることは何でもかなえてあげようと約束されました。私たちはこの神の約束を信じるのです。そして、信じるものに約束を実現されます。祈るしかないのですが、祈ることは神の約束を基礎としています。
神の約束を放棄して、律法の行ないに頼ることほど愚かしいことはありません。
【イサクとイシュマエルの誕生をめぐる深い意味】
ところで、パウロはこの創世記のイサクとイシュマエルの誕生をめぐる記事には別の意味が隠されている(24)と言います。
これは当時の聖書解釈の方法です。表面上の言葉や意味に現れてきていない、あるいは関係のない意味を想像をたくましくして引き出す解釈の仕方がありました。寓話という文学形式があります。この巧者はイソップです。いくつもの寓話を残しています。それはただ面白い話というのではなく、表面には出てきていない隠された意味があります。例えばウサギとカメの喩え話ですが、競争して、はじめウサギが大きくリードします。ところがゴール寸前で、ウサギはカメがなかなか姿を現さないので、居眠りをし始めます。カメはその間、のろのろと、しかし休まず歩き続けたのでウサギに勝ちます。この話で、勤勉の徳が説かれます。ウサギとカメには勤勉とか忍耐とかの徳目が意味されているわけではありませんが、連想して、あるいは想像して、ときにはこじつけと思われるような仕方で、つまり、別の意味を引き出す解釈法で当時流行していました。
ハガルとサラはふたつの契約を意味する。ハガルとサラは直接契約と関係ありません。しかし、ハガルが奴隷であり、サラが自由人であるというところから連想して、旧約における有名な二つの契約を象徴するもの、そこから連想されるものとして取り上げられています。
【シナイ契約】
ひとつの契約はシナイにおける契約です。シナイ山でモーセは神から律法を与えられます。イスラエルはその律法を守らなければならないとされます。律法授与から始まってイスラエルは民族として国家として形作られていきます。そのための規範が律法でした。律法を完全に守って神から栄光を受けようとします。しかし、現実は律法違反の積み重ねでした。そのために、バビロンによるイスラエル滅亡を言う歴史的事件を招来しました。律法違反に対して神に赦しを求めるべきでした。
本来、律法はこのような目的に用いられるべきでありましたが、イスラエルは律法を神の民になるための必須の条件としてしまいました。律法を完全に守ることができる。だから守らなければならないとされたのです。律法はそのときからイスラエルを縛り付けるものとなり、律法の行いによって救いを勝ち取ろうとするのは律法の奴隷となることなのです。
シナイ山での律法授与はシナイ契約と呼ばれますが、イスラエルにとっては律法の遵守と結びつく契約とされてしまいました。本来はそうではありません。イスラエル国家の基本的な法規、そして、その違反に対しては神からの赦しを求めるべき契約でありました。だから、結局、当時のエルサレムの住民が律法を守ろうとしている態度と同じです。彼らは神殿で律法の通り儀式を守ったりしています。それによって神の恩寵を獲得できると思っていたのです。ユダヤ主義者と同じです。
パウロはハガル、シナイ山、エルサレムをこうして繋ぐようにしたのです。奴隷女であったハガルが現している別の意味は律法遵守を強制する契約理解です。
【サラによるアブラハム契約】
他方、イサクを生んだサラが示していたのは、もうひとつの契約です。アブラハムとの契約を指していることは言うまでもありません。ただ信じることによって神の義を確保できる契約です。ハガルが示しているのは、地上のエルサレム、つまり律法を何とかして厳守し、神の恩寵を引き出そうとする立場です。
サラはアブラハム契約を示し、ハガルは律法の遵守を求めるシナイの契約を意味するといいます。この聖書解釈は文字そのものや文法的解釈でありません。ある飛躍がなければ解釈できません。その意味でこの解釈は面白いのです。しかし、聖書の語句、語彙、あるいは文脈との照合などの解釈と違い、とんでもない推測まで突き進んでしまいます。恣意的な解釈は警戒しなければなりません。パウロはとても自制的に解釈をしています。特に文字や数字の恣意的な解釈は警戒しなければなりません。
サラは自由の女、つまり、奴隷ではありません。律法の奴隷ではありません。律法を遵守して神からの救いを獲得しようとするものは奴隷の系譜に属します。ただ神を信じて救われたいと願うものの自由な判断からそうするのです。
【不妊の女:イザヤ預言】
パウロはこのようにサラを、約束に従って生きていくものとして捉えています。先の創世記16章に記されるように、彼女こそイシュマエルの誕生に大きな役割を占めたのですが、そのことは触れられていません。サラは神に約束を保証され、それを信じて生きたとされます。このように神の約束に生きていく女性はサラだけではありません。
イザヤがそのことを預言しているとして、パウロは預言の1節を取り上げます。不妊の女。古代世界では蔑まれるべき存在でした。また、彼女は結婚もできなかったのです。そのような境遇の女性が幸福であるはずがありませんでした。ところが事態は一変します。エルサレムはバビロンに滅ぼされます。栄華を極めたダビデとソロモンの建設した町です。ところが徹底的な破壊を蒙ります。律法を誇りとし、律法を守れる自らを評価した民の都は滅亡します。しかし、神はある少数の者たちを残されたものとされます。その中の一人が不妊の女性、以前は未婚で過ごした女性がいました。
彼女はバビロン滅亡後、ひとり残されますが、彼女から多くの子どもが生まれてくる。それまで蔑まれ、ひどい扱いを受けていたこの女性が最高の祝福を受けることになります。それはただ神の御心によって実現することです。残された民から神はまことの神の民を起こされます。それは神の約束に依拠します。私たちが求められていることはただ約束を信じて生きていくことだけなのです。(おわり)
2014年06月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年5月11日説教「律法はキリストに導く養育係」金田幸男牧師
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聖書 ガラテヤの信徒への手紙3章19~25節
19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。
20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
要旨
【アブラハム契約(約束)】
アブラハムにまだ子どもがなかったにもかかわらず、また夫婦とも高齢になっていたにもかかわらず(創世記12章4ではアブラハムは75歳)、神はあなたの子孫が増え広がるようにすると約束されました。人間には不可能なこと、ありえないことを神は約束されたのです。アブラハムはその神の言葉を信じました。信仰とは人間にはできないことを神がしてくださるに違いないと信じる希望でもあります。
【モーセ律法授与】
ところがその約束が与えられて長い時間が経ちます。パウロは430年後、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にモーセを通して律法を授けられたと語ります(17)。神はアブラハムに一方的な恵みとして約束を与えられました。ところがその後、律法が与えられて事情は大きく変わったのでしょうか。実際ユダヤ人の中には、シナイでの律法授与以来、律法を守って神の約束が成就すると確信するものたちが現われます。イスラエルこそ神に選ばれたもの、だから律法を守って優れた特質を神の前でも、人の前でも明らかにしようというのです。
律法を与えられたときから、イスラエルはエジプトを脱出し、約束の地で国家を建設するようになります。律法を守っておれば必ずイスラエルが世界に覇を唱える強大国家となると思う思想はずっとユダヤ人の心を捉えていました。律法遵守こそ神の恩恵を受ける手段、方法と考えられたのです。パウロの時代にはそれがファリサイ派に属するユダヤ人の信念となっていました。
神が直接支配する神の国が完成するとき、律法を厳守するファリサイ派が真っ先にその国に入ることができると信じ、そのように教えていました。律法をあまり守れないような輩は神の国に相応しくないとされたのでした。パウロはそのようなファリサイ派の考えを固守してきました。しかし、彼はイエス・キリストとの不思議な出会いによってその考えを打ち砕かれたのでした。
パウロは聖書を何度も引用しながら、神の約束は不変であると主張します。神の一方的な約束が突然モーセを通して律法が与えられて神の救いの仕方が変更されたのではないといいます。
19節の、天使たちを通して、仲介者の手を経て律法が制定されたという文章となっていますが、天使の介在について旧約聖書には出てきません。仲介者とはモーセのことです(申命記5章。出エジプト記20章)。
【何のために律法が与えられたのか】
では、何のために律法が与えられたのか。律法は神のアブラハムへの約束に取って代わるのではありません。モーセを通して与えられた律法は神の救いの恵みを与えるやり方を修正したり、以前の神の約束に並立させるものでもありません。
神はイスラエルに厳かな仕方で律法を与えられた目的は何か。
パウロは比ゆ的な表現で律法の役割を明らかにします。19節の約束を与えられた「あの子孫」とはイエス・キリストのことであるのは明らかです。
イエス・キリストの来られるまでは、律法の役割は違反を明らかにすることであったといわれます。違反とは罪のことです。イスラエルの悪事を明らかにするために律法がイスラエルに与えられたのです。イスラエルは国家建設の端緒を開きます。そうであれば、神はイスラエルに国家の仕組み、特に法的な整備、あるいは国家的宗教の制度、組織、あるいは壮麗な施設建設、そこで行われる祭儀を詳細に規定する律法を与えれば丁度相応しい神の指示ということになるでしょう。
ところが神はそのような目的で律法を授与されたのではないとパウロは考えるのです。むしろ、イスラエルの違反、罪、罪過を明らかにするためだといいます。正義、善、あるいは聖潔といったものと正反対の状態であることをイスラエルの知らせるため、自覚を促すために神は律法を与えられたのだといいます。神の民にはそれが重要とされます。
イスラエルに神は普通では考えられないみわざ(業)をなさいます。それは罪の許しを神にいただくようにするためであったのでした。
【律法の役割は罪の支配下に閉じ込めること】
22節で律法の役割は罪の支配下に閉じ込めることとされています。罪の監視下におく、律法が明らかにする違反である罪は、イスラエルの人々の日常を監視し、そこから脱出できないように縛り付けるのだといいます。律法はイスラエルの人々が選良(エリート)であることを立証するものであるどころか、暗い罪の闇の中に放り込んでしまう役割を与えられているとパウロは語ります。
つまり、律法は罪のもとで私たちが縛り付けられていることを自覚させるのです。ローマ5章13で、パウロは言います。「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪は罪と認められない。」要するに罪は自覚されないという意味です。律法がなければそれが罪であるとは知らされないのです。
律法の役割を無視したり、棚上げしたりするとどうなるでしょうか。
罪を犯しているのに当人は罪と認めない、そうするとどうなるでしょうか。人間の本能だとか、社会が、世間がそうさせたのだ、果ては成り行きだとか、ちょっと行為を大袈裟に言っているだけと、罪を過小評価し、あるいは無視して、罪の問題の深刻さから目を逸らします。
罪の結果は神の呪いでしたが、そんなものは神話、作り話と片づけてしまうのです。結局律法がなければ無責任がはびこります。そうすると逆に誰も責任を取らないために自己責任という言葉が独り歩きし始めます。罪の存在を認めようとしないのです。
23節で、信仰が現われる前とパウロは言いますが、これはイエス・キリストの来臨前とも、また個人の領域ではキリストを知って信じる前、つまり、パウロにとっては入信前ということになります。
律法がモーセを通して与えられてからまた長い時間が過ぎます。神はイエス・キリストをこの世に遣わされました。それまでは、律法は人間が罪を犯していると告発し続ける役割を果たしていました。パウロは多くのユダヤ人同様、律法を懸命に守ろうとしていました。ところが、それはただ律法に自らのあり方を監視されていただけであったと気がついたのでした。
キリストを信じるようになって律法の役割をはっきり理解するようになったとパウロは考えたのでした。律法を遵守しようとしたが、それは日常の言動が律法に沿っているかどうかだけに関心がいく、しかし、そのたびに不完全さを思い知らされる。これがパウロの個人的な体験であったと思われます。律法では、救いへの絶望が出てきます。
【律法は養育係】
24節でもまた比ゆ的な表現が出てきます。律法は養育係だというのです。
古代ローマ社会は奴隷制が敷かれていました。上流階級では子弟の教育をその奴隷に任せました。奴隷の中で読み書きできるものや知識人であるものを選んだり、そのためにわざわざ奴隷を購入したりして、子どもの教育、それには躾けも含みますが、読み書き計算などを教えさせます。
奴隷は、奴隷所有者から命じられたようにしなければなりません。何歳までに読み書きができるように、と命じられると、その命令を守らなければ処罰を受けます。奴隷はたとえ相手が主人の子弟であっても、与えられた命令には従わなければなりません。目標に達しなければひどい仕打ちを覚悟しなければなりません。
【律法の過酷さ】
養育係は鞭とか棒を持って脅しながら教育します。養育係はそうまでして子どもをしつけることになります。むろん、例外はありましょうが、厳しい教育に反発して、子どもは養育係を憎みます。
律法は養育係のようなものとパウロが言うとき、律法の過酷さを言い表しています。律法は手加減などしません。私たちのあらゆる行動を吟味し、批判します。律法を好きになる人はいません。律法の厳しい命令を知れば誰もがたじろぎます。それが律法です。
このような律法は異邦人には関係のないこととでしょうか。ローマ2章14-15「たとえ(モーセの)律法を持たない異邦人も律法の命じるところを自然に行なえば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。こういう人は律法の要求する事柄が人の心に記されていることを示しています。わたしの良心もこれを証ししており、また、心の思いも互いに責めたり、弁明し合って同じことを示しています。」律法が異邦人にも刻み込まれていると言います。
どのような人にも宗教心があり、道徳心があります。また良心もあります。良心はいつもちくちく私たちを責めます。
むろんそれだけで、良心の指摘することに従ったり、悪をやめたりすることはありません。私たちの得意技は常に良心の訴えを無視することです。やむをえなかった、相手が悪い、状況がそうさせた、いろいろ口実を設けて罪を認めず、ますます悪に染まっていきます。
【キリストに生きる】
心に刻まれている律法は罪を抑制することができません。それはただキリストに導いていくだけです(24節)。子どもは愛する親のところに行くしかありません。そこで赦しを請い、そして実際に赦されます。キリストは私たちのために十字架につけられて、罪の呪いを代わりに負ってくださいました。
キリストにより頼むところに赦しがあります。律法は養育係であって罪を帳消しにするような力はありません。ただ批判し告発し、情け容赦なく責めるだけです。決して赦す力を提供などできません。それができるのはイエス・キリスト、その十字架だけです。良心を無視したり、軽んじたりすることはできますが、罪はますます蔓延するだけです。必要なことはキリストの赦しを求め、そのキリストの愛を信じ、キリスト共に生きることです。(おわり)
2014年05月11日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年1月19日、説教「キリストと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師
M140119002.wav ←クリックすると音声で説教が聞けます。2014年1月19日説教「キリトと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章1 -- 5
1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、2
ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。3
わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。4
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。5
わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
(説教要旨)
【使徒とは】
まず最初に、パウロは、自分のことを、「使徒」であると語ります。「使徒」とは全權を委託された使者、国家間では「全権大使」のような役割を与えられたものを意味しています。
外交官である大使は本国政府や(古代世界では)王侯の意志を正確に伝える義務があります。勝手に自分の所信や考えで.発言したり、行動することは許されていません。使徒も同様です。
【父なる神とイエス・キリストの使徒であるパウロ】
パウロは、自分は、父なる神とイエス・キリストの使徒であると言います。つまり、パウロは父なる神とイエス・キリストから派遣されて語るものです。彼は神とキリストの言葉を語るものだと主張しているのです。
これはとても重要なことです。神が不在と思われ、神の言葉など聞けないと思っているこの世の中に生きる人閬に、パウロは神の言業を語るものなのだと主張しているからです。
【聖書は神の言葉】
聖書は、聖なる書というのですが、多くは、しかし、普通の人間が書いたもののように思われて
います。古代のひとつの宗教的文書に過ぎない、あるいはユダヤ教という民族宗教の経典に過ぎないとも思われています。
また、聖書は神の言葉と言われます。でも、所詮人間が書いた書物に過ぎないと考えられています。つまり多くの古典のひとつに過ぎないと見られています。けれども、パウロの主張によれば、彼の書いているこの書物こそ神の言葉だということになります。
古代世界では、私的な手紙のほかに、書簡といわれる公的な手紙が用いられていました。私的な
ことは、多くの場合、蝋の張った板に鉄筆で書きます。これはすぐに消すことができます。それと共に、羊皮紙あるいはパピルス紙という材料に書かれる公的な文書がありました。
【神の言葉であるパウ口の手紙】
パウ口の手紙は 私的な内容を含んでいるから単なる私信と言うのではありません。彼は使徒として、その資格で公的な權威ある書簡を書いているのです。それは神の言葉もあります。
こうして、私たちは神の言葉を読み、また聞くことができるのです。この亊実はとても重いことです6
【牧師も神の言葉を語る】
牧師は説教を主とする働きに従事しています。牧師の説教は神の言葉だといわれます。それを聞いて多くの人はそんな馬鹿なと思うに違いありません。牧師も一人の人間に過ぎません。その牧師がどうして神の言葉を語ることができるのか。畏れ多いことではないでしょうか。神の言葉を語れるのは、牧師もまた神から派遣されているからです。どうしてそれが分かるのか。
【パウロの驚くべき体験】
パウロの場合、使徒言行録にある劇的な経験をしました。彼はキリスト教の迫害者でしたが、ダマスコという町に行く途中、そこで驚くべき体験をします。それはイエス・キリストの出現ですが、それと同時に彼が経験したことは、主イエスのために仕えるものとされたという亊実です。
パウロはそのときアナニヤという人物から洗礼を受けていますし(使徒9:18〕、彼が使命を伝えられたのもアナニヤによりますが、パウロはそのような一連の出来事を経験して、主が直接使徒に任命されたのだと確信をしています。
それがガラテヤ1章1節の言葉となっています。「人からでも、人を通して
でもなく」、いかなる団体の任命によってでもなく、自分はキリストと神から使徒として任じられた と強く断言しています。
これはパウロの、特異ではあるが単なる宗教体験だと切り捨てることはできるかもしれません。しかしどうであれ、パウロはおそらくその体験は真実であると語るはずです。
これはパウロにとって否定しがたい事実であるのです。
【牧師の召命感】
牧師の体驗はパウロと違います。けれども、似たような経験を踏んで牧師になっています。それは召命感と言われています。それぞれの体験は異なっている様相を示します。どうして牧師になったのかは人それぞれ千差万別です。同じ体験はありません。強烈な自覚を持っている人もおれば、そうでない人もいます。
共通していることは、牧師として神から召しだされたという思いです。あるいは確信と言ってもよいと思います6この召命感はその人の確信で、そんなの自己満足だと他人は言っても、妄想だと批判しても、牧師に召されたと思っている人には通じません。それを確かめる方法を教会の組織や制度は有していますが、決定的なものではありません。人間的な能力という点では、牧師以上の知識を持ち、話術や雄弁さをはじめ多くの才能に恵まれた人はいます。牧師にそういう能力が不要と言うのではありませんし、だからこそ自己修練は常に求められるのですが、牧
師の立っているところは神から牧師に召されたという確信です。
パウロは自分が使徒に任命されたという信念に生きていました。だから、彼は自分の語るところは神の言葉だと確信できました。派遣した方の権威をもってその意志を忠実に語る限り、彼は神の言葉を語ったのです。
牧師もまた、自分は牧師として立て、召してくださった方の意志を語っていると確信するところ
で神の言葉を語りうるのです。むろん、牧師の権威を振りかざして、何事でも自分のいうことを聞 け、と命じるなどは乱暴な話です。牧師にはこの誘惑を避けることができません。自分の言っていることがどうして受け入れないのか、言うこと、つまり説教を聞かないのかと思うのです。牧師が
いうことは何でも神の言葉だというほど単純でほありません。パウロ自身、彼が書いたり、話した りする何でもかんでも神の言われることだと主張しているわけではありません。神の言葉であるの
は根拠があるのです,
2 -- 3節は今回省きす。
【死者を復活させる神】
パウロは,自分が神に使徒とされたと言いますが、1節では、キリストを死者の中からよみがえらせた神とも語ります。彼は確かに神の使徒であり、その神から遣わされました。それだけではないのです。その神は死者を復活させる神なのです。つまり、彼は復活の力を持ち、それを行う神の 使者なのですから、彼が語る言葉はこのことを切り離すことほできません。っまり、パウロは確か に神の言葉を語るのですが、懣然と神を語るのではなく、死者を復活させる神の言葉を語るのです。
復活の力はイエス・キリストにおいてはっきり示されていると語ることを含みます。換言すれば、 復活のない神の言葉はありえないということです。いろいろな神の言葉があるようで、実はキリス
トを復活させるほどまで死を打ち倒す神でなければ、その言葉は神の言葉とは言いえないのです。
【罪の支配下にある世界】
さらに、4節で、そのキリストは、この悪の世から私たちを救い出そうとして、ご自身を私たちのためにささげた方と言います。悪の世とはいうまでもなく、私たちが住んでいるこの世界です。ただし、この世界は悪の世界だと言う場合、ただ悪人がのさばっている世(事実そうなのですが)、 あるいは災害などの災いが生じる生きにくい世に中を指しているのではありません。この世は私たちには去って行きたいところと思っている人がたくさんいます。この世界は天国でも極楽でもありません。ただパウロがここで言うのは、単純な悪の世ではなく、罪の支配下にある世界という意味であり、罪の結果である死の支配する世界と言うべきです。
【罪と死の世界を打ち破られたキリスト】
死は大きな力を有します。人間のあらゆる部分を侵食しています。キリストはこの世界から私たちを救い出そうとしているのです。
キリストは私たちの罪のために自らをささげられました。あるいは犠牲としてささげられたというべきです。それはキリストが十宇架にかけられたことを意味しています。キリストが十本架につけられた亊実を誰も否定しないでしょう。事実間題として、復活のほうは信じられないと語る人は多くいます。でも、同時に、キリストの十字架の「意味」を否定する人も多いのです。単なる亊実
ではなく、そこに大きな意味があります。
【あらゆる罪を赦すキリスト】
キリストはあらゆる罪のためにご自身をささげ、十字架の上で死なれました。キリストはあらゆる罪を赦されます。例外はありません。ときどき「聖霊を汚す罪は赦されない(ルカ12
:10)」 とあり、赦されない罪もあると主張する人がいますが、聖霊を汚す罪とは神を拒否し、キリストを 否定し、背を向ける罪で、赦されない罪があるなどいうのもこれにあたります。
キリストはあらゆる罪を赦すために十字架にかかられたのです。そして、それはただ恵による
というのがパウロの堅い信仰でした。
このキリストの使徒ですから、パウロはキリストの十字架を語り続けました。そのとき、パウロ はキリストの使徒として語っています。
【説教の生む実】
説教もまた同じことが言えます。牧師が自分の信念や聖書研究の結果だけを語っていてそれで神
の言葉だというわけではありません。牧師を召した方の御心を語るのでなければ、説教が自動的に神に言葉に変化するのではありません。
会衆はただの聞き手ではありません。説教で十字架と復活が真実に語られているかどうか吟味しなければなりません。語られておれば、好き嫌いの問題ではなく神の言葉として受け入れなけれ ばなりません。会衆には、その「義務」があります。他でもない、神が語るからです。
この職別する営みが説教を聞く人の中で生じてくるのでなければ牧師の説教はいかなる結果も生じないと言えましょう。(おわり)
2014年01月19日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年1月5日説教「神は私の目を開いてくださる」金田幸男牧師
2014年1月5日説教「主はわたしの目を開いてくださる」金田幸男牧師
聖書:旧約聖書、詩編146篇1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。
3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
参照:ヨハネ福音書9章1~12節
要旨
【ハレルヤ詩編集】
詩編146から150までは、ハレルヤという言葉で始まる、まとまった部分で、ハレルヤ詩編集と分類されています。そのほかにハレルヤ詩編集は三つあり、113-118(エジプト・ハレルヤ集)、120-136(大ハレルヤ詩編集)となっています。
なお、111と112もハレルヤという言葉が含まれていますが、省かれています。「ハレルヤ」はヘブライ語で、聖書がギリシヤ誤訳されたときでも翻訳されず、原語のまま残されました。アーメンとか、インマヌエルという語もそうです。翻訳されなかったのは、ギリシヤ語に変えてしまえば語彙が持っている意味と音の響きの結合が失われると思われたからではないかと思います。音の響きが宗教生活において聞きなれていたせいかもしれません。「ハレルヤ」とは「主を賛美せよ」という意味です。神賛美に促す歌です。
【人生の中で最も重要な営みとは?】
ところで、人生の中で最も重要な営みは何であるか考えます。あまり深くこんなことを考えたことがないかもしれません。人間が人間である最も根本的な行為、生き方は何か。
ただ食べたり、飲んだりだけの、いわば本能に従って生きているだけではどうなのでしょうか。人間の格好はしているでしょうけれど人間らしい生き方とはいえません.
人間とは何か。人間が人間であるためには何が決め手なのか。現在は人間と人間でないものの境界があいまいでぼんやりしてきている時代になったのではないでしょうか。
しかし、私たちは人間です。人間が人間であることの特質とは何か。有名な哲学者は「人間は考える葦だ」といいました。思惟すること、思索すること人間の固有性を保証するというのです。わたしは、意図して意識的に礼拝する人間、これこそ他の被造物と区別される特色ではないかと思います。人間とは礼拝する存在です。
【牧師として】
わたしは牧師として教会で40年以上礼拝のために奉仕をしてきました。牧師としていったい今まで何をしてきたのかと思います。説教を1万回くらいしてきました(1年に250回以上説教をしたら。たぶんそれ以上やっていると思います)。葬儀や結婚式の司式を何度かやってきました。
成果はともかく、伝道、牧会も精一杯しました。信徒の世話も何とかやってきました。でもわたしは牧師として一番力をこめたのは何であったのか。礼拝の遵守、特に主の日を礼拝の日とするために労してきたと思わざるを得ません。
【神礼拝】
礼拝は、人生の中で最も基本的で肝心な営みです。そのことに奉仕的たことは光栄でありました。思い通りの理想的な礼拝を守れたわけではありません。礼拝出席者を増やすこと、安息日厳守を訓練すること、充実した喜びに満ちた礼拝を守ること。こういうことを列挙するとわたしは恥ずかしくなります。でも、わたし自身、人生の下部構造として、40年以上、信徒が礼拝を守るために奉仕をしてきました。
礼拝なしの人生は宗教のない人生です。礼拝なしの人生とは神なしの人生です。現代人は自己責任を強調されて生きています。神などなくして、自分の決断、判断で行動し、その結果責任は当人が負うというものです。
しかし、神なしに、自分の力だけで生きていく人生は、いつも恐怖と不安に付きまとわれます。特に、私たちは老いてついには死んでいかねばなりません。誰かが看取ってくれていても一人で死ぬほかはありません。充実した人生も一寸先の将来は見えません。先がどうなるか分からない人生は不安に付きまとわれます。不明の将来に突進する人生に耐えられる人はいません。
神を礼拝するということは、そのような宗教なき人生、神なき人生の対極にある生き方です。私たちは何か分けが分からない相手を拝んだり礼拝したりしたりしているのではありません。神がどうのようなお方であるかを知るからこそ確信して礼拝できます。
【礼拝とは】
礼拝とは何か、改めて考えます。ある人は説教を聞くことと思っています。ある人はミサ儀礼のような儀式(プロテスタントでは聖餐)にあずかることと思っています。ある人は祈りに行くことだと思っています。ある人信徒同士の交わりに参加することと考えています。これらは間違いではありませんが礼拝の一面を見ているだけです。
礼拝の中で肝心な部分を占めているのは賛美です。賛美は礼拝の業の中で筆頭を占めていると考えることは間違っていません。神を賛美することのない礼拝は人間中心の、人間が工夫している儀式に終わります。
礼拝とは賛美することと定義できます。賛美のない礼拝はありえます。聖書研究、聖書講義だけの礼拝もありえます。儀式、香をたいたり、ともし火を挙げたりする行為を伴う恭しい礼拝もあります。集まって祈っているだけの礼拝もありえます。
でも、それだけではあまりにも単純、無味乾燥した礼拝であるといってもよろしいでしょう。賛美なしの礼拝は考えられません。礼拝において、私たちは賛美します。ハレルヤと神に叫びます。
ただ、わたしたちの教会の礼拝においての賛美の営みは、賛美歌を歌うことによります。ですから、礼拝の奏楽者の役割は決して小さいものではありません。会衆の歌はとても価値があります。
そして、賛美は祈りの重要な要素です。私たちはまず賛美から祈りを始めるのが普通です。
さらに、説教の中でも神が賛美されますし、賛美に促されます。賛美は礼拝の中で重層的に行われます。礼拝は賛美そのものでもあります。
礼拝は神をほめたたえることです。ではどのようにして私たちは神を心から賛美できるのでしょうか。相手も分からないままに真実な礼拝はできません。漠然と何かを礼拝しているか分からないままにただの恐れから礼拝することもありえます。ありがたい,霊験あらたかな神的なものに礼拝を捧げているのです。それは礼拝には違いありませんが、相手がどういう言う方であるか知って礼拝することと、相手も分からないで礼拝することは全く特質が異なります。
【礼拝の対象】
礼拝は礼拝する相手を深く知る機会でもあります。礼拝において、神を正しく賛美できるのは、この詩編の作者が教えてくれています。礼拝とは、つまり賛美とは、一生の営みです(2節)。気が向いたときとか人生のわずかの時間だけ礼拝するべきではありません。礼拝となると、いのちのある限りでなければなりません。礼拝は長時間であればいいというのではありませんが、礼拝は人生の中で繰り返されるとき、私たちは神を深く知り、神がどういうことをなされるか分かります。
礼拝なしに宗教なし、信仰なし、そして神なしと行っても過言ではありません。礼拝なしの年限が多くなってきたこの時代は神をもたない人が圧倒的に多くなってきたことを示します。それが時代の風潮だと決め付けることはできません。神なしの人生こそ最も不幸なことなのです(5節)。
【君侯に頼るな】
どうすれば、私たちは心から神を賛美できるでしょうか。この詩編は二つのことを教えています。ひとつは人間に賛美を帰すべきではないということです(3-4節)。君侯は古代世界では権力の保持者でした。君侯が国民に平和と繁栄をもたらすと信じられていました。君侯、つまり政治や、政治の仕組みが人間の魂を救うとまで期待されています。何でもかんでも政府の力が頼りです。私たちは人生のさまざまな局面で制度や体制が安心を与えてくれると思っています。
しかし、私たちは経験上それらが本当に頼りにならないことを知っています。究極的には政治の仕組み、福祉政策が人間の幸福を保証しません。時代と共に変化します。そして、頼りになりません。
人間は、その中に自分も含まれていますが、所詮、土から造られた人間は土に帰るだけです。そのようなものに頼れない、これは地上的もの、人間的なものに信をおけない以上は、それらを賛美などできないという結論に導かれます。神賛美に向かわざるを得ません。
だから、人間的なものの救いを断念すれば、神に賛美を向けざるを得ません。その神はどういうことをされたのか。7節以下に列挙されています。
① 虐待されている人に正当なさばき、正義に基づく裁判を行われます。人間の裁判には間違いがあります。人間の判断には不正があります。神はそうではありません。
② 神はその人間として最も基本的な生の糧を用意されるかたです。
③ 捕虜を解放されます。戦争捕虜だけではなく、私たちを縛り付けているものは多くあります。そのために不自由な目にあっています。
私たちは多くの欲望、願望に縛られ、人間関係に縛り付けられています。ある人は運命や宿命に縛られていてがんじがらめとなっています。主はあらゆることの解放者です。
④見えない人の目を空けてくださる方です。私たちは見えるべきものも見ていません。特に真実が見えていません。見えなければ闇に住んでいます。神は私たちに真理の光を提供してくださいます。
⑤ うずくまり、打ちのめされ、打ちひしがれている人がいます。立ち上がることができず、苦悩のどん底に呻いている人がいますが、主は立ち上がらせてくださいます。
⑥ 社会的に弱者といわれている人は不当な扱いを受けてきています。しかし、神は寄留の外国人、孤児や寡婦を豊かに守られます。神は大王であって、ここで列記されていることを実現することができる方です。
しかし、ここに書かれているような神を体験できなく、それどころか神の助けを期待できない目に遭うものです。私たちの人生は不幸と不運に見舞われます。そのような時、とても神を賛美できない心境になるものです。神に恨みでも言いたくなるかもしれません。
そのとき礼拝から遠ざかるのではなく、礼拝においてますます神を知る、神がどういうことをして下さるかを知り、その真実を信じます。
信仰から、たとえ失望のどん底にあっても神を礼拝して、神を知ります。その神を信じます。この循環、つまり、礼拝、信仰、賛美、礼拝、信仰、賛美を繰り返すときに、私たちの礼拝は喜びと幸いの源泉となるでしょう。(おわり)
2013年12月22日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師
2013年12月22日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師
【ヨハネ福音書3章16〜21節】
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
《説教の主题》暗い世を愛され神の愛の光・キリストを見上げよう
《I》今年一年を顧みて
本年もクリスマスを迎えました。クリスマスの時季になりますと、私は一年を振返って様々の事を回顧することがあります。1年を回顧すると言っても、個人的 なことも回顧もするのですが、クリスマスは何と言っても全世界的な出来事でありますから、自己の一年を回顧すると同時に、むしろ社会に現れた特微的な事共に想いが向けさせられるのであります。
今年も社会の世相を振り返ってみて同様の事を感じるのですが、今年も明るさを觉えた事柄と、暗い事柄を比較してみますと、暗い出来事の方が圧倒的に多かったことであります。皆さん、如何でしょうか?今年のニュースの中で明るい事柄をどれだけ想い起すことができますでしょうか?私の個人的な性格の故であるかどうか解りませんけれども、どうも明るいニュースを明確に思い出すことがあまりないのです。一~二
想い起すなら、富士山の世界遺產登録と、2020年に東京オリンピックの開催が決まったこと、東北楽天が日本シリーズで優勝したこと、最近では日本料理が無形文化遺産に登録された位のものです。健忘症ではないか、と言われてしまうかもしれませんが、あまり明るい事柄が思い出せませんでした。
それに引き替え、暗い出来事はと言いますと、枚举にいとまがないほどに思い出される訳です。特に、暗さの頂点と言えるものには、今年一年で消え去るようなものではなく、むしろ将来に亘って日本の国を暗黑に包み込んで行くような法案の強行採決がありました。
【巷のクリスマス】
このように、年末を象微するクリスマスになりますと一年を回顧するのでありますが、もう一つ、クリスマスの持っているクリスマス特有の特微について想いを向けさせられることがあるのです。
それは、クリスマスの掛け声と共に、年々日本の国がまるでキリスト教国にでもなったかのように、クリスマスツリーが主要都市などの駅前や目技き通りなどに色とりどりのイルミネーションで豪華に飾られ、道行く人々にクリスマスのムードを盛りあげていることであります。
【イエス・キリストの御降誕】
しかし、その賑やかなクリスマスムードの中身であるイエス・キリストの御降誕を記念するという本質は、殆ど認識されることはなく、人々は唯何となく年末のお祭り気分のようなものを感じているだけではないかと想われる訳です。
けれども、そのことを思います時に、それは現在の日本の場合に限る事ではなくて、そもそも、イエス・キリストの御降誕という出来事自体が、同じように多くの人々にその事実が認識されていた訳ではなく、世界の片隅のごく一部のわずかな人々によって、認識され、祝われていた秘かな出来事であったことを想い起すのであります。
【不思議な星に導かれて】
確かに、イエス・キリストの降誕は、神様が広大な天体にその誕生を表明したと聖書は記している訳ですが、その天体に現わされた星を発見し、そこに救い主の降誕を認識することが出来たのは、イスラエルの東方の国(現在のイラン、イラク)の占星術の学者達だけだったというのです。それも現代ならば、先月末太陽の熱で蒸発してしまったアイソン彗星のように、きっと世界中の人々が見つめることになったであろう出来事ですが、わずかニ〜三人の專門学者にしか知られていなかった事実だったのです。
マタイによる福音書2章1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
【夜野宿をしていた羊飼たち】
もう一つ、ルカ福音書が伝えています救い主御降誕の出来事は、降誕の地ベツレヘムの町は全ての宿屋が滿杯になるほど賑わっていましたが、誰一人イエス.キリストの誕生を認識せず、唯、真っ暗な野原で羊の群れの番をし ていた僅かな羊飼達だけであったと言われているのです。*ルカ2:4〜20
このように、クリスマスは元々多くの人々が認識した出来事ではなく、ごく僅かな人々にだけ認識された、秘かに起こった出来事であったのです。
そのように思います時、現代社会が、キリストの御降誕を認識することなく、 唯クリスマスのムードだけを盛り上げている姿も、それ程驚くべきことではなく、
唯教会とクリスチャンたちが、東方の学者達や羊飼達に倣って、真実にイエス・キリストの御降誕を記念し心から感謝し、日ごろ心にかけている人々をクリスマスに招待する事が出来れば良いのだと思うのです。
そこで、私たちは、救い主イエス・キリストの降誕を記念しますこの時、一年を振り返りながら、改めて神様の御心は何であるのかを示されたいと思います。
《Ⅱ》現在の世の闇の只中に现わされた神の愛
そして、私たちはこのような暗く悲しいニュースの方が圧倒的に多い現代の社会に現れている、本質を知らないままに迎えているクリスマスは、2000年前のキリスト誕生の時の情景と類似していることを憶えるのであります。
イエス・キリストの降誕は、月明かりだけの真っ暗な闇夜に一つだけの星の輝きと、これまた深夜の野原に救い主の誕生を告げる天使が神の泶光を照 らしましたが、それを見たのは羊飼い達だけであり、マリアとヨセフ夫婦が泊まる宿さえもなく、馬小屋の飼葉桶に寝ておられたというイエス様の御降誕の貧しい光景は、神様が正に暗闇の世に秘かに現わされた出来事でありました。
【暗き世に贈られた神の御子】
現代の私たちの社会のこの暗い有様と、イエス様の誕生を告げる光景は、 真に良く類似しているのではないでしょうか?そしてこの類似にこそ、神様の御心が現わされたのだ、と聖書は告げているのであります。
つまりクリスマスの御心は、神様が、敢えて悲しむべきことや忌まわしい悲惨なことの多いこの暗い世の只中に、その苦しみや悲しみを受け止めて下さり、
確かな希望と朽ちることのない喜びをお与え下さる為に御子をお贈り下さったのだ、と告げられているのであります。
①悲惨の暗闇の中に見る人の敵意
では、世の暗闇とは何なのでしょうか?そこには物理的な暗さというよりも、 むしろ聖書が語る暗闇とは、霊的そして精神的、倫理的、人道的な暗黑を意味している訳です。そしてそれらを一まとめにするなら「人の罪と死とそこに伴うあらゆる悲惨」ということになります。
そして人間の「罪と死に伴うあらゆる悲惨」が現わす霊的・精神的・倫理的、人道的な暗黑は、神と人、人と人との愛と信頼を失っている暗黑なので
す。
政治は「民主主義は数の多さによって成立つ」とばかり、主権者である 国民の声に耳を傾けようともせずに、内閣と与党の意のままに危險を孕んだ
法案を強行採決してしまう。そこに国家の暗がり度合いが色濃くなっている。
社会には、詐欺事件や食品の偽装表記が身の周りに存在して、何をどこまで信用して良いのやら解らない暗闇があります。教育や子どもたちの世界においてさえ、体罰や虐待、虐めの増大が神と人、人と人との愛と信頼が色
あせて暗い影が覆っている。
【資本主義経済の行き詰まりの原因】
経済の主導権を握っている資本主義経済といえども今や行き詰まりを見せて困迷しているのです。元々資本主義経済は、根本にプロテスタント・キリ
スト教の倫理から生み出された精神がありました。その倫理とは「神の栄光のために」という精神でした。
それを解いたマックス・ウェーバーは、その説を机上の空論でないことを檢証しようと資本主義の国アメリカに旅行して色々と調查をしました。
ある時アメリカで働くドイツ人の友人医師からこういう話を聞いたという。
その医師が話した事は、一人のアメリカ人患者が診察を受けに来た。診察台に橫になったその男は、さっと起き上がって、こう言ったという。なんと言ったかと言うと「先生,私はこの町の〇〇教会の会員です」と言ったと言う。
つまり、キリスト教会の会員を表明するという事は、私は治療費を踏み倒すような人間ではありません。診察して下さい。そういう意味だと言うのです。その友人は、その言葉を聞いてびっくりしたのだ、とウェーバーに語ったという。
マックス・ウェーバーは、そのような実地検証を伴って「資本主義の精神」 はプロテスタント・キリスト教の倫理に基づいて形成されたのだ、というのです。
けれども現在では、資本主義経済は、いつの間にか「神の泶光のために」という基本理念が技け落ちてしまって、単に機構だけが残って、全ては市場に委ねられる事になった結果、資本主義経済は「神の栄光」ではなくて「唯利得追求のため」というものに変わってしまっているのです。
そこに資本主義の暗闇の源があるのです。神の泶光を拒否し、神に敵対するところに暗黑があるのです。かつては唯物主義経済が「神の泶光」を拒否しましたが、その唯物主義経済は70年で立ち行かなくなり、今では独裁政治のために資本主義絰濟を導入して利用しています。
【まず神の国と神の義を求めよ】
そもそも、聖書の教えによりますと、この世の衣食住生活は、神様が保証してくださるものだと教えているのです。
マタイによる福音書6章25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
まず何事よりも神の国と神の義を第一に求める生活を誠実に行いなさい。 そうすれば、この世の生活は、思い悩まなくとも保証されるのですと。
現在の社会生活は、このような聖書の教えに照らすとき、如何に最も肝心な事を失っていることでしょうか。即ち現代社会と現代人は、何と神に対して敵対をしていることでしょうか?!そして、この神と人への敵対こそが、現代の暗闇の源泉なのです。
② 悲惨の中に見える神の痛みと愛
そもそも神様は決して冷酷な方ではありません。むしろ人間の悲惨を共に 悲しまれる神なのです。神の御子イェス様は、災害の悲惨に苦しむ人々のように、言葉を失うような苦恼を味合われました。
旧約聖書イザヤ書53章6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
新約聖書ヘブライ人への手紙2章16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
神の御子キリストは、他ならぬ私達人間の罪を贖うために正に未會有の試練を受けて苦しまれたと言っているのです。
《Ⅲ》神は敵意の只中に御子を赠る程に世への愛を決起された
さて、今までは今年一年の、私たちの社会の暗闇のことを中心に話して来ました。しかし今日はクリスマス記念の礼拝です。それにしては今までのお話は、
クリスマスを祝うのに相応しくないのではないかと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身そのように感じながら説教準備をしておりました。
けれども、どうしても今までお話して来たことを語ることなくしてはクリスマスのメッセージは語れなかったのです。つまりクリスマスは、私たち人間が神に対して如何に鈍感であり、その心と思いがどんなに神を離れ、どんなに神に敵対しているのかを悟らなければならない出来事だからなのであります。
〜アガペーの愛と全ての人の希望の光・キリスト〜
そこで、今日選んだ聖書の箇所を見たいと思います。ヨハネ3:16『神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。』
先程来お話して来ましたとおり、人は心の奥底に神への拒絶反応を表わし、神を拒否し、確かに神に敵対する暗闇の中に生きているのです。
ところがです。神は驚くべきことにそのような世の暗闇に御子をお与えになったいうのです。神は敵対する敵の只中に、正に暗闇の真只中に御独り子を送り込んで来られた。それがクリスマスの出来事なのです。
人間同士の関係であったなら、自分を無視し自分を拒んでいると思える人、自分に敵対している人に対して、心尽くしの贈物などすることは考えられないことです。却って、自分もその人を無視して、敵对閧係を保ったままにするのではないでしょうか。贈物をするような価値のある相手ではないからです。
しかし、神は御子イエス・キリストを、敵であるこの世に贈られたのであります。
神は何故そこまでなさったというのでしょうか?神は『その独り子をお与えになった程にこの世を愛された。』つまり、神は無視し敵対する世を愛されたからだというのです。神がそこまでなさったのは、ご自分を拒絶するこの世を愛するが故だ。その愛の証として御子を送ろうと決起されたのだといわれるのです。
神様はどんなことがあろうとも、私たち人間を永遠に愛するのだ、と愛の決意を表明されたのです。それがクリスマスの出来事なのです。
人間同士の愛はどうでしょうか?相手に愛するに価値が在るかどうか、それが判断の基準になるのです。そこには、当然愛する相手に見返りを期待するのです。けれどもクリスマスに表わされた神様の愛は『アガベ一』という愛で、
相手に価値を求めない愛、お返しを期待しない無償の愛です。無償(只のこと)の愛といっても、どうでもいいような安っぽい愛ではありません。無償の愛といっても、それを戴くならば、価値のない私たちであっても、高い価値のある者になることが出来るのです。
ですから神様が私たちに求められる事は唯、その無償の愛の証であるイエス・キリストを、感謝と喜びをもって受容れることだけが求められるのであります。ヨハネ福音書3章
「16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がー人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなぐ御子によって世が救われるためである。」
御子イエス・キリストが世の暗闇に送り込まれたのは、イエス様が暗闇の故に悲惨に恼み苦しむ私たちの仲間となり、私たちの苦しみ恼みを背負い、私たちに永遠の命を与えて下さるために贈られたことを意味しているのです。
現代社会が、あらゆる面で暗闇の中に行き詰まっている原因も、天地万物の創造者なる神を忘れ、神を無視し、神を拒絶しながら気付かないで唯ひたすら走っているからなのです。ですから、まず全ての人が、悲惨の只中で
自分自身の罪を自觉し、神を見上げることが必要なのです。
そしてこのクリスマスを通して、神様の愛の決意表明に気付いて頂きたいのです。神の無償の愛のしるしであるイエス・キリストを心に迎え入れる備えのときとして欲しいと思います。
人となられた神の独り子キリストこそが、全ての人と、現代社会が真に希望を託すことが出来る唯一つしかない光だからです。何故なら、神様は敵であった私たちを、永遠に愛して下さる証として御子イエス様を世にお与え下さいました。この良き知らせこそ、本日記念致しますクリスマスの出来事です。神様の無償の愛に感謝をお祈りしましょう。
《祈り》西谷伝道所の愛する兄弟姉妹と共にクリスマス記念礼拝を捧げることが出来ました事を感謝致します。尊い独り子イエス・キリストをお与えになった程に、あなたに背いたこの世を愛して下さいました父なる神様、御名を褒め称えます。御子イエス様のご降誕を記念しますこの時、この世があなたとあなたの御心を忘れ、その誤った歩みの故に、多くの悲惨を招き、恼み苦しみを抱えつつクリスマスを迎えています。けれどもあなたは、私たちの思いを超えて、そのような忘恩の罪をもって敵対した世を尚も愛すること止めず、独り子をお与え下さいました。この計り知れない神様の無償の愛を,私達を初め全ての人々がクリスマスを通して改めて知る機会となり、救い主イエス様を心を開いて迎えることが出来るように祈ります。東北の被災者の方々、今年天災に遭って家族や家を失い悲しみと不安の中にある人々の上に豊かな慰めを祈ります。
貴き主イエス・キリストの御名によりて祈り願います。アーメン。
2013年12月15日(日)説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)
2013年12月15日説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜世媛先生(WEC派遣宣教師神戸改革派神学校特別聴講生)
聖書:新約聖書マルコによる福音書10章45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
【僕(しもべ)である王】
皆さん、こんにちは。今日は、主イエス・キリストのご生涯を一緒に考えてみたいと思います。
私は韓国で「十字架への道」というアメリカからきたセミナーに出たことがあります。
そこで私が1番印象に残った事はServant King「僕である王様」ということです。
イエス様は王であるということに依存ありませんでしたが、イエス様が僕であるという事は私にとって驚きで貴重な機会になりました。
日本に来て、イエス様のことを王でもあられ、僕でもあるとのまとめを皆様とともに分かち合いたいと思いました。
私は中学三年のとき、クリスチャンになって高校生、大学生とキャンパス クルセードというところで活動しました。
キャンパスクルセードは世界宣教をする団体で、高校一年生の時、新入生歓迎会に行きました。その時の牧師先生のメッセージを今も覚えています。
【真の人生の目的は何か】
その内容は人間はどこか来てどこに行くのか、真の人生の目的は何か。どのような目的のために人生はあるのかと言うことでした。
その時まで私は深刻に考えたことがありませんでした。
高校一年生の私にとっては、正直な内容だったのです。神様からこの世に遣わされた人間は動物と違って人生に目的を持っているということでした。
愛する兄弟姉妹の皆さん。皆さんはご自分の人生の目的が何であるか考えたことがありますか。
ある方はその人生の目的を見つけて、そのために努力しておられるでしょう。
ある方はそれがなんであるかわからないで悩んでおられるかもしれません。
ある方はそれを一度も考えたことがないかもしれません。
私たちの人生の目的はなんでしょうか。考えるだけでも難しい、そのためにそれを達成するのは本当に難しい。
【イエス・キリストは王】
今日、皆さんにある方を紹介いたしましょう。
その方はご自分の人生の目的が何であるかご存知の上、その道を歩まれたのです。この方はイエス・キリストです。
今日のメッセージを通してイエス・キリストがこの世にこられた目的は何であるか、またイエス・キリストはどんなお方であるかを一緒に考えていきたいと思います。
一番目はイエス・キリストは王であるということです。
イエス・キリストは神の独り子として、この世に来られたお方です。
ヨハネによる福音書3章16 節を一緒に読みましょう。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
神様はこの世のすべて作られたお方です。神様は御言葉でこの世作られました。神様がこの世を創られたときイエス・キリストも神様と一緒に居られました。
ヨハネによる福音書1章~3節を一緒に読みましょう、
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
私たちが読んだ聖書で言葉と書かれているお方はイエス・キリストです。
イエス・キリストははじめから存在されたお方です。神様と一緒に居られました。
またその方こそ神であったと聖書は語っています。
イエス様は神様と一緒にこの世を創られました。
マタイによる福音書28章18 を一緒に読みましょう、
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
イエス・キリストは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われています。イエス・キリストは天地を創られましたが、また創られた全てを治めるお方です。
イエス様は全てを治める王様であられます。
フィリピの信徒への手紙2章9 節~11節を一緒に読みましょう、
9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
神様はイエス・キリストにあらゆる名に勝る名をお与えになった。それはどういった意味でしょうか。
天と地の全てのものがイエス・キリストは主であると告白するということです。
イエス様はすべてを治める王であられるということです。
【世に降られた御子イエス・キリスト】
では王さまでおられるイエス・キリストはこの世に来られて何をなさいましたか。
この世の国の王様になって治められましたか。
それは次のことを通して考えてみましょう。
二番目はイエス・キリストが僕であるということです。
【馬小屋で生まれた神の御子】
皆さんクリスマスのお話を覚えておりますか。始めてイエスさまに会いに来た東方の博士達はどこに行きましたか。
彼らが王様にふさわしい場所だと思って行ったのはヘロデ王の宮殿でした。しかしイエス・キリストはエルサレムの宮殿ではなくベツレヘムの小さい馬小屋でお生まれになりました。
皆さんはどこで生まれましたか。昔は家で生まれる方が多かったですが最近は病院で生まれる方が多いです。
皆さんは大体病院でお生まれになった方が多いいかもしれませんが、ルカによる福音書2章7節にイエス様のおうまれがこう書かれています。一緒に読みましょう、
ルカによる福音書
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
愛する兄弟姉妹。イエス様のお誕生はイエス・キリストの謙遜を顕しています。
皆さん。その時の光景を考えてみましょう。王様であられるイエス様が宮殿でもなく、家の中でもない馬小屋でお生まれになりました。イエス様のお父さん、お母さんがエルサレムに来たとき泊めてもらう場所がありませんでした。
愛する兄弟、姉妹。飼い葉桶に寝かされたイエス様は主の謙遜を示しています。
皆さん。この世の創り主であるイエス様が本当に小さくて人間の姿として来てくださいました。その上、人の住むところでなく馬小屋に生まれたまいました。
これは何ということでしょうか。
【仕える主イエス】
フィリピの信徒への手紙2章5~8節を一緒に読みましょう、
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
兄弟姉妹。イエス様は神の身分でありながら僕の身分になり人間と同じようになられました。今日私たちが読んだ聖書には書かれています。イエス様は人に尊敬されるお方なのですが、尊敬されるよりも人に仕えました。
人間の基本的欲望の中に偉くなりたいということがあります。イエス様の時代でも同じでした。
ルカによる福音書22章24~26節を一緒に読みましょう、
24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
【だれが一番偉いか】
イエス・キリストが十字架にかけられる前の最後の晩餐の時にその晩イエス弟子達はイエス様と最後の食事をしながらイエス様と時間を共に過ごしました。その時こそ本当に貴重な時間ではなかったでしょうか。それなのにイエス様の弟子達はどんなことを話しましたか。彼らの中で誰が偉いかと言う議論が起こりました。イエス様は最後のご自分の任務のためにとても辛い、いちばんつらい任務のために準備をしておられますのに、弟子達の中では誰が一番偉いかと言う議論がありました。
皆さんは聖書の中の弟子達の姿を見てどう思いますか。本当に愚かなことだと思いませんか。イエス様はご自分の任務のために本当に辛い時間を過ごしておられますけど、弟子たちは誰が一番偉いかを議論していました。イエス様は彼らにこう訴えられました。あなた方の中で一番偉いと思うものは一番若い者のようになり、上に立つ人は仕える者になりなさい。
【お互いに仕え合う】
夫と私が属しているWECに導かれた理由の一つはWECが国際的なチーム宣教の団体だということでした。
私は自分が韓国人であることを誇りに思っています。韓国の伝統の1つは年上の人を尊敬して、目上の人に従うことです。それは個人的にとても素敵だと思いますが、時々否定的に表すことがあります。人に会うときありのままの姿でなく、その人の年齢、学歴、社会的な地位、経済力、家柄また体験などで先入観を持って、相手を判断するという根拠です。もちろんこれらがある程度人間にとって役立ちます。しかしこれが人の本来の姿を隠します。
例えばある団体のリーダーを選ぶとき、その人の実力や人格より、その人がその、団体に入って何年経つかそれが1番重要視されます。
夫と私は韓国の上下関係の中にいましたが、もっと平等な人間関係を求めてこのWECに入りました。
ところが私たちは平等な人間関係を求めてWECに入ったはずなのに、私たち自身が尊敬されたいという気持ちがあるということに気付きました。
私たちはまだまだ信仰も人格も成長が必要です。
ヨハネによる福音書13章12~17節を一緒に読みましょう、
12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
私たちもイエス様を見習ってお互いに相手の足を洗い合いましょう。これが神様が私たちに願っておられることではないでしょうか。
【主イエスさまを見習う】
最後の三番目は私たちはイエス様を見習って王にもなり僕にもなりましょう。
今までの御言葉を通してイエス様は王でもあり、僕でもあることを考えてみました。
イエス・キリストは統べ治める王様でありながら同時にへりくだって人々に仕える見本を見せてくださいました。
イエス・キリストを信じて告白する皆は神様の子どもになるとヨハネによる福音書1章12書かれています。一緒に読みましょう、
ヨハネによる福音書1章12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
子どもになるということはイエス・キリストと共に神様の跡継ぎになるということです。
【神の相続人】
ローマの信徒への手紙8章17を一緒によみましょう、
もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
イエス・キリストを信じる私たちは神様の子どもになりました。またイエス様と共に神様の相続人になりました。すなわち私たちの身分が変わったということです。
王様であられる神様の相続人になったということは、つまり王様の権力を持ったということです。
ペトロの手紙一2章9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
私たちが神様の全てを受け継ぐ相続人で王様の権威を持っています。
私がクリスチャンになった15歳までは私がどれだけ神様に愛されているか知りませんでした。
家庭はそれほど裕福ではなかったからです。でもクリスチャンになって世界中の王様である神様がわたしのお父様になってくださいました。そのとき私は王様である神様の子どもである。だから私がお姫さまになりました。
当時よく教会の中で歌った歌の中で「私は姫様です。私は王子様です」という歌を今も覚えています。日本語なら「私は神様のひーひーひーひー姫様です」。「私はおーおーおーおー王子様です」という感じで韓国の教会で歌いました。
それから私は王様である。神様の娘であって王様の権威を持っていることを信じるようになりました。
それは私の自己形成に肯定的な影響を与えました。
でも私が下僕でもあることにはあまり気がついていませんでした。私は教会で奉仕は熱心にしましたが、深く実感していませんでした。
私は神学校に入るまで皆さんと同じように教会で熱心に奉仕をしました。日曜学校のスタッフとして、聖歌隊のメンバーとして、讃美のリーダーとして、青年会のリーダーとして奉仕しました。時に教会で掃除もしました。
【人に仕えるために宣教師として】
神学校を卒業して、夫は牧師として私は伝道師として働くことになりました。
面白いことに韓国の教会では奉仕に対して偏見があるように思いました。奉仕を霊的な奉仕と非霊的な奉仕に分けます。説教、祈祷、聖書を教えることは霊的で重要で、掃除、皿洗い洗濯などは、霊的奉仕に劣る余り重要でない仕事と考えることです。
それで自分が神学校に入るまでは教会で掃除をしたりしたんですけれど、もし私が、夫が教会で掃除をしたら、「先生。それ止めてください。先生はもっと大事なことがあるんじゃないですか。説教の準備をしてください」という感じで話されます。それで教会で掃除や皿洗いから離れて偉そうな格好で歩き回るという感じだったのです。
それで私はWECの宣教師になったとき神様からいろいろ教えていただきました。
神様の愛で人に仕えること、奉仕に重要な奉仕とか、そうでない奉仕の別がないと分かりました。
ある日私たちはアメリカで食事をしに行ったら一番偉い方が、改革派神学校なら理事長に当たるような方が皿洗いをされるのを見て、私たちがびっくりしてやめてくださいと言いたかったほどだったのです。70代の方で、ちょっと身体の不自由な右半分麻痺の方で手が震えている方でした。その先生が皿洗いをされているのを見て、私は遠慮して欲しいと思いました。でも思いました。牧師でも自分できることは自分でやるということです。例えば牧師という、30年以上宣教師として働いた先生も、掃除をされるのを見て私たちの考え方がちょっと違うのだなあということが分かりました。
私たちのWECという団体はみんながそういう働きだったので、日本に来て滋賀で働いて、今は関西神学校の校長をされている中沢先生がおられて、その先生の下で協力宣教師として働いたのですが、その先生はいつも30分まえに教会に来られて準備をされたり、お茶を入れたりしてくださって「とても恐れ入ります」といって遠慮したいなと思いました。
西谷にきたらコーヒーを入れてくださったり、皆がお互いに仕え合う姿をみて考えて見ました。
マルコによる福音書10章45 節には「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と書かれています。
皆さん。イエス様は王様であられる尊い御方なのですが、この世にこられたのは人に仕えるためだと書かれています。イエス様のご奉仕はただの口先だけの言葉でなくて本当に多くの人の贖いの代価としてご自分の命を捧げられました。皆さん。私たちは神様の全てを与えられている王様です。また同時に私たちは神様の愛する人に仕える下僕です。イエス・キリストを見習って神様が私たちに与えてくださった人々に仕えましょう。これが神様が私たちに望んでおられることではないでしょうか。
お祈りしましょう。
愛する天のお父様。あなたの愛と恵みを感謝します。私たちをあなたの子供として選び受け入れてくださってありがとうございます。あなたから与えられた愛をもって、その愛を待っている方々を愛することができるように助けてください。王様であられるイエス・キリストが僕(しもべ)となって大勢の人々に仕えられました。私たちも神様の権威を戴いたものとして堂々とこの世の人々、また周りの人々に謙遜に仕えるように祝福してください。
王様でもあり、僕でもあられる主イエス・キリストの尊い御名によってお祈りいたします。アーメン。
2013年12月1日、説教「私の福音」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研究生)
2013年12月1日、説教「私の福音」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研究生)
新約聖書:ローマの信徒への手紙16章25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。
26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
【教会の財産は福音】
皆さん。教会の財産の中で何が1番大切ですか。建物ですか。設備でしょうか。それとも会員数や出席者の人数でしょうか。教会の建物や設備がいくら素晴らしくても、人数が多くても、教会に福音がなければその教会は教会とは思いません。イエス・キリストの教会は福音というものの上に築かれています。
それが教会を教会らしくする1番大切なものだと思います。今福音を大切にしている人々が集まっている場所が教会だと思います。
私は10年前,短期奉仕者として日本に来たことがあります。
その時一つびっくりさせられたことがあります。ある日本の牧師先生から紹介されてある教会に行ったことがあります。
素晴らしい教会だと思いました。このような素晴らしい教会が日本にもあると私は本当に驚きました。それもホテルに教会があるということは。ホテルの牧師先生に紹介されその先生から言われた事は私には考えられないことでした。その牧師先生はただ結婚式のための牧師でした。教会もまた結婚式だけのための教会だったからです。その教会は私には教会ではありません。その牧師も牧師と言えませんでした。なぜなら福音を述べ伝える場所ではなく、福音を述べ伝える牧師でないからです。
【福音の栄光】
それでは福音とはいったいどういうものでしょうか。
福音とは何かを、パウロはローマの信徒の手紙全体を通して、教会を教会らしくする福音がどういうものかを説明しています。
パウロは1章から11章にかけて福音の真理と栄光について語っています。そして12章からは福音のためにクリスチャンはどう生きるべきかを話しています。今日私たちが読んだ16章25節から27節でパウロは福音の栄光が何であるかをもう一度語っています。
パウロは25節で私の福音と言っています。今日私はパウロが語っている「私の福音」とは一体どういうことであるか皆さんと一緒に考えたいと思います。
パウロが語っている「私の福音」すなわちパウロの福音はどういうものだったでしょうか。
【パウロの福音はイエス・キリスト】
1つ目、パウロの福音はイエス・キリストです。25節から26節を一緒に読みたいと思います。
ローマの信徒への手紙16章25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。
26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
パウロは「私の福音」すなわちイエス・キリストと25節で話していますが、パウロにとって、福音はイエス・キリストでした。パウロはイエス・キリストが救い主である事は福音だと語っています。
パウロはローマの信徒への手紙1章から救い主であるイエス・キリストがどういうお方であるかを詳しく語っています。
皆さんと一緒にパウロが語っている福音、イエス・キリストはどういうお方であるかをみましょう。ローマの信徒への手紙1章1節を共に読みましょう。
ローマの信徒への手紙1章1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
ここでパウロが話していることはなんでしょうか。神の福音のために選び出されたという言い方で自分がどうして使徒になったかを語っています。
続いて2節3節前半を共に読みたいと思います。
ローマの信徒への手紙1章2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです。
ここでパウロが語っている福音とはなんでしょうか。パウロの福音は預言者たちが述べ伝えた神の御子イエス・キリストに関することだと言っています。
【イエス・キリストは真の人間であり真の神である】
即ちパウロの福音はイエス・キリストだと言うことです。イエス・キリストは長い間、預言者たちを通して神様から約束された人だと言う事をここで語っています。
続いて3節後半と4節を読んでみましょう。
御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
パウロはここでイエス・キリストは肉によればダビデの子孫から生まれたと言い、イエス・キリストは真実の人間としてこの世に来られたことを語っています。また続いて聖なる霊によれば死者の中から復活された、力ある神の子としてと定められたと言い、イエス・キリストは真実の神様としてこの世に来られたことを語っています。
つまりイエス・キリストは真の人間としてまた真の神様として、この世に来られたと真の救い主だということを語っています。
真実の人間としてまた真実の神様としてこの世に来られたイエス・キリストこそが、真実の福音だと説明しています。
【わたしは福音を恥としない】
イエス・キリストすなわち福音に関してパウロは1章16節において次のように告白しています。
ローマの信徒への手紙1章16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
福音はパウロにとってどういうものだったでしょうか。パウロは「私は福音、イエス・キリストを恥とはしない」と言います。
パウロがそのように話すことができた理由はなんだったと思いますか。
それは福音とは信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。
皆さん、私たちはクリスチャンだと言われ呼ばれています。パウロのようにイエス・キリストが私たちの福音だと言うことができるでしょうか。
真の人間として、真の神様としてこの世に来られたイエス・キリストが私たちの救い主だと言うことができるでしょうか。パウロのように私は福音を恥としない、思わないということができるでしょうか。
【ローマ帝国とその文化】
パウロはこの手紙をローマにいるクリスチャンたちに読ませるために書きました。
この時、皆さん、ローマはどういう国だったでしょうか。ローマ帝国は非常に強い軍事力を持っていました。その力で多くの国を征服して、その国から多くの宝石や宝ものを強奪して豊かになった国です。またローマは世界最高の哲学体系を発展させた国でもありました。
しかし皆さん次のようなことを知っているでしょうか。
ローマの哲学によって救われた人は1人もいません。多くの宝石や宝物や軍事力はただ独りの人の人生を変えたことはありませんでした。
パウロは福音を持ってローマの人びとに次のように言います。「私は福音を恥としない。福音はユダヤ人にもギリシャ人にも信じるものすべてに救いをもたらす神の力である」。
パウロの福音はイエス・キリストでした。
パウロは一生をとうしてイエス・キリストは救い主である事を述べ伝えました。パウロはこのイエス・キリストを恥とは思いませんでした。皆さんが知っている福音はどういうものでしょうか。それはイエス・キリストではないでしょうか。
使徒言行録4章12を一緒に読みましょう。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
またヨハネによる福音書14章6を一緒に読みましょう。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
福音の核心、福音の唯一の焦点はイエス・キリストです。イエス・キリストのみがすべての人間を救ってくださることのお出来になる真の人間です。
皆さん、パウロのように私たちもイエス・キリストを永遠の救い主として持ってみませんか。また福音を恥と思わないで大胆に隣の人々に述べ伝えてみませんか。
【天地創造の前に建てられたご計画】
二つ目、パウロの福音は神様が天地創造の前に建てられたご計画です。
福音はある日、突然に空から降ってきたものではありません。
神様は天地創造の前に福音を準備しておかれました。
神様は人間をお創りになったとき人間が自分の自由意志を乱用して神様に背を向けて神様から離れることを知っておられました。この人間の罪を許してくださるために、神様はどう言うご計画をお立てになったでしょうか。それはイエス・キリストをこの世に遣わして十字架の死を通して私たちに新しい命を与えてくださるというご計画です。これが神様が天地創造の前に人間をお造りになる前に与えられたご計画です。
【世々にわたって隠されていた福音】
パウロは今日読んだ箇所で世々にわたって隠されていたと言ってます。天地が創造される前、万物が創造されるまえ、長いあいだ福音は隠されて来ました。長いあいだ隠されてきた神様のご計画、即ち福音は今どうなっているでしょうか。
26節を一緒に読みましょう。
16章26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
福音は世々にわたって隠されていた秘められたご計画でした。しかしその福音は今や顕されたとパウロは語っています。即ち奥義が啓示されたのです。
もっと簡単に言うと救われる道が私たちに明らかに啓示されたということです。皆さん。福音は難しいことではありません。この世には難しい哲学があり、むずかしい本もたくさんありますが福音はむずかしいものではありません。
福音は抽象的なものでなく具体的なものです。どのような人も分かることができるのが福音です。福音は誰もやさしくわかることができるように私たちに提示されています。
今私たちは神の福音に触れられるようになり、このことによって私たちは福音を読めるようになり聴けるようになりました。この福音によって私たちは救われて新しい命を受けるようになりました。
皆さん。神様は天地創造の前に私たちを救うご計画を建てられました。これがパウロが今言っている「私の福音」と言う意味です。なんと偉大な福音でしょうか。この偉大な福音は今私たちのものです。神様は私たちがこの福音を持って生きることを望んでおられます。
そしてこの福音を隣の人に伝えることを望んでおられます。
【福音は全ての人への祝福】
三つ目、パウロの福音は祝福です。
パウロは福音はクリスチャンに限らず、クリスチャンでない人にも祝福になるものだと言っています。
皆さん、どうしてクリスチャンではない人にも、クリスチャンにも福音が祝福になることが分りますか。その答えは26節にあります。
16章26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
【信仰による従順】
26節でパウロは信仰による従順に導くためと言っています。パウロが言ったこの言葉を通してクリスチャンになった人々になぜ福音が祝福になるのかが分かるようになります。
神様がこの世にイエス・キリストを遣わしてくださった理由は何だと思いますか。それはただ私たちを救う事のためだけだと思いますか。
真の福音は私たちを救ってくださることだけでは終わりません。神様の救いのご計画はイエス・キリストを通して私たちが救われることと、神様の御前で私たちが従順になるように導くことです。ですから真の福音とは私たちの罪を許してくださるだけでなく、同時に私たちが神様のみ言葉に従順になるように助けてくださるものです。福音がなければ私たちは神様に従順になることができません。
福音があるから救われた私たちが神様に従順に従うことができるのです。
ですから私はパウロの福音はクリスチャンに祝福になることができると言いたいのです。
【神様を知らない異邦人が救われること】
ではなぜクリスチャンでない人々に福音は祝福になるでしょうか。パウロは26節でこのように言っています。すべての異邦人に知られるようになりました。つまり神様を知らない異邦人たちが福音によって救われるようになったということです。
神様を知らない異邦人がイエス・キリストによって救われていることこそが、真の恵みでは無いでしょうか。ですから私はクリスチャンでない人にも福音は祝福になると言いたいのです。
【幸せな人生とは】
皆さん。幸せな人生とはどういうものでしょうか。
パウロの表現で言うと神様に従順に従うことです。逆に幸せでない人生とは神様に従順に従わないことでは無いでしょうか。
多くの人が神様のみ言葉を聞かずに自分の好きなように生きること、そのことが幸せな人生だと思っているのです。
このような人生の最後における結末は何だと思いますか。
無駄な人生、迷った人生、無意味な人生ではないでしょうか。それは空を飛ぶ鳥は空の中にいることだけで自由になることができます。空の気流に従って羽ばたくとき、鳥は本当の自由と幸せを感じます。
海の魚は海の中にいるとき、波に従って泳ぐとき魚は本当の幸せを感じると思います。
皆さん。人間にとって本当の幸せなんでしょうか。神様に従って生きることでは無いでしょうか。
【ある神学者の回想】
アメリカの有名な神学者ボルドウィンが福音について次のように話しました。
私は20代の時、様々な宗教や哲学を勉強しました。それらの宗教や哲学に比べてキリスト教の福音は単純すぎることに気がつきました。
福音は人生をかけて信じるほどのものではないと思いました。しかし30代に、私が志した宗教や哲学は私の人生の悩み苦しみを解決する答えを与えてくれませんでした。
私が迷っているうちに福音は私に近づきました。40代に私は福音を信じて人生の様々な問題と戦っている内に、私に福音の力がつきました。その時、私にとって福音は偉大なことになりました。
50代の時、私はこれまで築き上げたものが崩れてしまったので、人生の真の意味はなんだったのかと悩みました。その時福音は私に残っていたもので一番大切なものになりました。
60代に私の友人たちが1人ずつ、天に召されると、私の手にあるものが1つづつ無くなっていく中で、私が頼ることができるのは福音しかありませんでした。
福音はもはや単純なものではありませんでした。福音は奥深いものでもなく大切なものでもありませんでした。福音は私に残った唯一のもの、私の人生の全てになりました。
皆さん。このようなことが福音の祝福ではないでしょうか。
福音はクリスチャンでない人々に救いを与えてくださる唯一のものであり、クリスチャンになった人々が神様に従順になることができるように助けてくださるものです。
更にクリスチャンには信仰が固くなるように導いてくださるものです。
この世で誰がこのような祝福を与えてくれることができるでしょうか。ただ天地万物を創造された神様を通して与えてくださることができます。
【私の証】
私の証を少ししたいと思います。
私は特に貧しくもなく裕福でもない平凡な家庭に生まれました。私が子供の頃、未来に二つの夢がありました。
一つはお金持ちになる事でした。お金が沢山あれば何でもできると思っていました。特に友達が持っているものが欲しかったので、それを手に入れたかったのです。
その時親に言って返って来ることは叱られることだけでした。
二つ目の夢は世界で有名人になることでした。有名人になればお金持ちになるのは当然だと思ったのです。
しかしある日、私に福音が聞こえてきました。私が福音を聞いてイエス・キリストを救い主として受け入れた時に不思議なことが起こりました。私の二つの夢が消えてしまったのです。私はイエス・キリストに出会って以来いちどもお金持ちになりたいと思ったことはありませんでした。イエス・キリストが無駄な夢を取り除いてくださったからです。
私は福音のために熱心に働いているうちに神様が私に必要なことを満たしてくださいました。
ある時は溢れるほど豊かに与えてくださいました。私は福音によってもうお金には興味がないと告白するようになりました。神様は私が有名人になる夢を取り除いてくださいました。
私は福音を受け入れて以来、一度も地位や名誉を求めたことがありません。
勿論、今からもそのような道を歩み続けたいと思います。
しかし私には一つのの夢があります。それは福音です。福音は、私の人生を通して、私が奉仕している教会を通して、大勢の人々に福音を伝えることが私の夢です。
旧約聖書ハバクク書2:14には「 水が海を覆うように/大地は主の栄光の知識で満たされる」
私を通して、水が海を覆うように主の栄光が日本全土に満たされるようになることが私の夢です。
全ての日本の方が口を合わせて天地を創造された神様に栄光と讃美を捧げることを見ることが私の夢です。私はこの願いやビジョンを持って教会を築きあげたいと思っています。
福音を恥としない。福音を恥としないと言う人々が集まって希望がない人々に福音は述べ伝える教会を築き上げることが私のビジョンです。
1年間私は神戸改革派神学校で色々な事を勉強しました。
もう一年が過ぎました。来年3月になると滋賀県に戻らねばなりません。今からそろそろ戻る準備をしなければなりません。私は滋賀県で何をしたいか。それは一つのことだけです。私の生き方を通して福音が伝えられることです。神様にたくさん用いられて福音を知らない人に神の福音を述べ伝えることができるように、祈って頂ければ幸いです。
【お祈り】
愛する天のお父様。今日御言葉を通してパウロが告白している福音はどういうものであるかを考えてきました。
福音はイエス・キリストです。イエス・キリストは私たちを救ってくださるためにあなたが遣わしてくださったお方であることを私たちは信じます。
このイエス・キリストを私たちの一生を通して隣の人々と分かち合うことができるように私たちを強めてください。
12月に入って忙しくなると思います。 12月には全国でも色々なクリスマス集会が持たれます。あなたの願いは集会を通してイエス・キリストの救いが述べ伝えられることと信じます。様々なすクリスマス行事を通してあなたの救いと愛を分かち合うことができるように私たちを強めてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
2013年12月01日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
2013年11月24日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師
2013年11月24日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師
【聖書】ルカによる福音書5章1〜11
1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
【主題】キリストの御言葉に聞き従う祝福の偉大さ
《Ⅰ》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト
《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さる
①人知を超えた御言葉の深みへ(全知の神への信頼)
②生ける神を知る畏れ
《羾》イエス.キリストに従う光栄
《I》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト
【ガリラヤ湖畔で主の周りに集う群衆】
今日のルカ福音書の御言葉は、読者である私たちの胸をワクワクさせるような楽しさを持っています。この出来事は、恐らくちょうど今くらいの時刻か、あるいはもう少しお昼近い頃のことであったと思います。イエス様は、ゲネサレト湖、別名ガリラヤ湖の湖畔に立っておられました。
私たちにもそういうことがあるのですけれども、湖などの岸辺に立ちますと、湖畔の美しい景色や、湖に浮かぶ舟を眺めたりして、神様が創造された自然界の美しさに心を和ませられるものです。私もこの西谷伝道所を訪れるとき,
千刈キャンプ場近くに静かに流れる美しい流れが好きで眺め、一寸車を止めて眺めています。イエス様が岸辺に立っておられたのも、そのような美しい湖の風景を見ておられたのではなかったでしょうか。
するとそこへ、御言葉を聞こうとする大勢の群集がイエス様の周りに押し寄
せてきたといいます。そして、その群集の数は段々盛り上がって、恐らくイエス様も段々群集に押されるようにて水際までさがってお話しするような、足場もない状況になって来た程でありました。
イエス様は、この状態では、舟に乗って舟の中からお話する以外にないと考えられたのでありましょう。西谷伝道所のこの会堂も舟です。でもシモン達が乗っていたような漁師の小舟とは違います。ですから大勢の人が入ることが出来ますので、ガリラヤ湖畔の時のように、説教者の居場所に困る位、会堂が礼拝する人々でいっぱいになったらどんなに望ましいことだろうかと思うのです。
神様は、このような会堂を建てさせて下さったのですから、私たちにはこの地域の全ての人々をイエス様の許へ招く責任があると思います。さて、イエス様は岸辺を見渡して、ニ艘の舟が岸にあるのをご覧になったといいます。
そして、舟の傍には漁師たちが船から上がって、今しがた漁で使った網を洗
って繕っている姿をご覧になったというのです。*朗読2節そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
この網を洗う漁師たちの姿は、一日の激しい勞働や様々な働きに疲れた姿であります。そしてそれは、彼らの社会生活・市民生活の姿であります。
【網を洗うシモンたち】
そしてこの網を洗う光景には、彼らの生活が抱えている苦しみや喜びや悲しみ、彼らの生活の香りが漂っています。そしてイエス様は、そのニ艘の舟と漁師たちの姿に、この世に生きる彼らの人生とその労苦をご覧になっておられるのです。そして、彼らの心の中をもご覧になっているのです。
そして片やこちら側には、イエス様を囲む、神の国,天国の福音に耳を傾けている夥しい人々の集まりがあるのです。そして、ガリラヤ湖畔における、このニつの光景のコントラストは、今このように西谷伝道所の会堂に集まって、神を礼拝している私たちの光景と、私たちの外で營まれているであろう地域の人々の様々な活動の光景と同じコントラストがあるのであります。
私たちは今、この世の唯中であれやこれやと働いたり、喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、悩んだりしている人々の生活の直ぐ近くで、こうしてルカ福音書の言葉を語り聞き、神を贊美し、神に祈り、神の安息に与るという神の国・天国
の活動の真唯中に身を置いているのです。
この私たちと教会の外側の地域の人々とのコントラストと、ガリラヤ湖のイエス様を囲む群衆と、漁師たちのコントラストは重なるものがあるのです。
【シモンはイエス様を乗せた舟を】
そしてイエス様は、この二つの別々の活動を、決して無関係のものとして見ようとしてはおられなかったことを3節に見るのです。*朗読3節 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
イエス様は、この世の只中で、網を洗っているシモンの持ち舟に乗って、「岸から少し漕ぎ出してくれるように」と頼んだのでした。イエス様は、この世の働きから、神の国の働きの中に参加し、天国の働きのために奉仕し貢献することを願って、シモンに船を出してくれるよう頼まれたのです。
すると、頼まれたシモンはどうしたのでしょうか。
恐らくシモンは夜通しの漁で疲れ果てていたことでしょう。それも、少し位収穫があったなら、その疲れはあまり苦にならなかったでしょうけれども、その日は、
雑魚一匹取れなかったというのですから、疲労の上に落胆の気持ちが重な
って、大変辛い思いを抱いていたに相違ありません。シモンとしては正直のところ、網を洗い終えたら、すぐにも家に帰って休みたいところだったと思います。
しかし、イエス様は、そんなことが分からない訳ではないのですけれども、むしろそれを承知の上で、シモンに舟を出してくれ、と賴まれるのです。
そして、その賴みを聞いたシモンはどうしたかと言いますと、むげに断ることもなく、快くイエス様の賴みに応じたのでした。
そして、シモンはイエス様を乗せた舟を漕ぎ出しましたので、②
イエス様は舟に腰を下ろして、岸辺に集まった多くの群集に向かって無事に説教を語ることが出来たのでした。
しかしシモンとしては、まだこの時、自分が神の国・天国の働きに仕えている のだという意識はなかっただろうと思います。そして、くたびれており失意の中にありましたけれども、唯イエス様から賴まれたので、それを断ろうとはせずに、唯親切心から自分の舟を出しただけのことだったと思います。けれども、イエス様は
彼の人生を良く知っておられ、彼はこの時意識せずして、この世から召し出されて、神の国・天国の勸きに用いられてぃたのでした。
そして、やがて彼はこの湖の出来事の後に、後日イエス様によって正式に使徒として召されることになるのです。そしてイエス様は、現在も神の国・天国と教会のために、この世をも見ておられるのです。そして主イエスは、この世には、世の労苦やしがらみの中から、神の国・天国の平安の中へ招き入れようと神が定めておられる人々がおり、神の国と教会に奉仕する人々を召し出そうと望んでおられるのであります。
《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さる
さて、このシモンとは誰かといいますと、4章38節を見ますと、 妻の母親の病を癒やして戴いたシモンであります。そして彼は、この日の出来事の後でイエス様から「シモン・ペトロ」と呼ばれる人になる訳です。
ルカによる福音書4章38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。
【イエス・キリストからの召し】
そして私たちは、この時の彼の態度から、素晴らしい手本となるものがあることを学ぶのであります。それは、彼がイエス様の突然の賴みに対して「自分は疲れていますから、今お手伝いすることは出来ません」と言って断らなかったことであります。むしろ快くイエス様の言葉に応じたことであります。このシモンの態度がこの後、神様の大いなる祝福と惠みを体験するきっかけになり、そして神の国,天国の福音に仕える働きに召されることになって行ったのであります。
私たちが、教会の役割や奉仕などに召される場合に、つい自分の都合や、
自分のしたいことを優先させて、あるいはこの世の働きを優先して、教会の御用を後に回したり、場合によっては逃れてしまうというようなことがありはしないでしょうか。シモンの姿に見習わねばならないと思ぃます。
私たちは、礼拝を始めとして、教会の活動には、全て必ずイエス・キリストからの召しがあること、そして神の国の働きのためにイエス・キリストが私たち一人一
人を賴みとして下さるものがあるのだ、ということを覚えている必要があると思います。そしてシモンのように、自分の思いを後に回してでも、まずは神の召しに応えて行くことを優先させるように心がけていきたいものであります。
① 人知をはるかに超えた神の惠みの深みへ(全知の神への信頼)*4~7節
さて、シモンとしましては、イエス様の語る御言葉を聞いて感激もし、同時に自分の舟がイエス様に用いられたことに対する満足感を覚えて舟を岸に戻そうと思っておりました。その時でした。御言葉を話し終えたイエス様の口から、シモンに向って思いもよらぬ言葉が告げられたのでした。
【沖へこぎ出し、網をおろして漁を】
4節 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
イエス様は、このような言葉をもってシモンに語りかけてくださいました。そしてこの御言葉は、シモンにとって少し意外なものに聞こえたのでした。
私たちの日常生活において、神様の御言葉というものは、この場合のように
現実とはかけ離れた、思いもよらない内容の言葉である場合が以外に多くあるのであります。このシモンに対する言葉が正にそうでありました。それは、漁師シモンの返事にその驚きが表われています。
5節 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
シモンにしてみれば、このイエス様の言葉は、あまりにも現実離れした啞然とするような言葉であったのかと思います。シモンは、プロの漁師だったからです。
しかもガリラヤ湖の漁については、知り尽くしているベテランの漁師でした。いつ
頃、どのくらいの深さで、どうやって網を降ろしたら魚が最も良く獲れるのか。
それをよくよく知っている玄人であります。そのベテラン漁師のシモンを始め、
いずれ劣らぬその仲間達が、頃合を見計らって、夜通し最善を尽くして苦労したけれども、何故か雜魚一匹獲れなかったというのです。そもそも長年の漁師生活の中でも、朝まで網を降ろして一匹も取れないというようなことは滅多
にないことでした。それなのに、イエス・キリストは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、
漁をしなさい。」これは、漁のことを知り尽くした腕に自信のある漁師にしてみれば、なんと現実的でない無益なことではないか。
シモンはイエス様の提案を内心そう思ったかもしれません。シモンだけではなく、漁師仲間たちは皆、そう思ったことと思います。
確かにイエス様の言うことは実情に合わないことでした。何故なら、第一、
漁に適した時間带は夜間から夜明けまでであって、自分たちはその時間带に朝まで漁をして、しかも一匹も獲れなかったのでした。
そのため身体はくたくたに疲れているのです。たまたま折り良くイエス様の御言葉も聞けたので、もう家に帰りたいところなのです。叉当時の資料によると、網による漁は投網漁と引き網漁があったと言われますが、投網漁ならもちろんのこと、引き網漁にしても沖,即ち深みに網を降ろすということも、当時の漁法としては考えられない方法だと言われます。
けれども、イエス様は時間も場所も関係ないかのように「さあこれから漁をしなさい。」と言われるのです。
【お言葉ですから】
しかも「沖に漕ぎ出して深みに網を降ろしなさい」と、なんとも無知とも、無邪気とも思われることを言われるのです。シモンは、それに対して答えました。
「先生、わたしたちは夜通苦労しましたが.何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
この、前半分はイエス様の提案に否定的な答えであります。「これから漁をしても無馱でしょう」という気持ちの表れであります。しかし、ですけれどもシモンは「私の経験や知識はともかくとして、イエス檨お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えているのです。
このシモンの思いには「何か変わったやり方だから試してみましょう」というものはないのです。「はっきり言って私の知識や経験とは全く違います。けれども、
イエス様あなたの言われる言葉、あなたの御意志であるならば、網を降ろしてみましょう」と言うのです。沖に網を降ろすことは、彼らの人生の未絰驗ゾーンでありましょう。しかし、シモンのこの柔軟な判断と決断は素晴らしい驚くべき結論をもたらしました。*5節B~6節。
イエス・キリストの教え,聖書の教えというものは、全てが、私ども人間の知惠や一般常識と違うものであるという事ではありません。聖書の教えは、多くの場合、天地自然の法則と矛盾するものではありません。しかしある信者は、薬や化学的な治療に頼らない方が良いと言って、神様に祈る事を強調して失敗する人がいます。もちろん病気のために祈ることは必要です。が、迷信的に祈りに頼るべきではありません。しかしまた、科学的でさえあれば、祈りは不要であると言う考えも、これ又迷信的な生き方であることを現代人は知るべきであると思います。そもそも、私たちは自然と言うものをどう考えるかが大切なのであります。
つまり、自然は偶然に存在していると考えるのか、それとも自然は偶然に存在しているのではない、と考えるかは重大な違いがあるのです。それは無神論と有神論の違いです。
有神論はこの天地自然は神が創造されたものと考えるのです。そして神の創造を信じることは神の摂理(自然は神が保存し统治している)と信じる訳です。
しかしこの自然界が自然に、言い方を変えれば偶然に発生し存在しているという無神論的な考えからは、自然の中に神の働きを考えませんから、病のために神に祈ることは愚かなことになる訳です。けれども同時にこの自然界を神が摂理(保存し统治)しているという有神論的な考えは、
自然の秩序も神が創造し、神が摂理しておられると考える訳です。
ですから、私どもは自然の秩序から学んでいる科学を常識として重んじますけれども、科学万能を信じる訳でもありませんから、神に祈ることを大切にするのです。しかし、近頃の社会は、大気汚染や地球温暖化等の現象から、
科学万能に疑義を感じるようになりました。
ですから天地の創造者であり摂理の主である神を知りませんと、唯やたらに科学を否定してカルト的な奇跡や、怪しげなスピリチャルカウンセリングなどに惑わされる危険性もある訳です。そういう意味からも、私どもは、全ての物事を摂理しておられる天地の主なる神であり、救い主であるキリストの言葉を、隣人に証する責任が大いにあるのです。そしてキリスト者は、生活において有神的な人生観・世界観を世に証する者として召されているのです。
そこで、イエス様の言葉に率直に從ったシモンたちの様子を見ましょう。
朗読6〜7節、6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
彼らはイエス様の言われるままに、沖へ深みへと舟を漕ぎ出しました。そして網を降ろしますと、そこに恐ろしいほどの手応えを感じたというのです。
確かに、彼らのプロの漁師としての絰驗と知識は科学的に適うものでした。
しかし、彼らは謙虛に自分の絰驗を横に置いて、とにかくキリストの言葉に率直に從ったのです。あるいはその行動は岸辺にいる群衆からはからかわれる事かもしれませんでした。しかし反面、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦そういう世間的な考方から離れる事でもあったのです。
彼らが沖へ漕ぎ出すことは、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦一般世間の環境から離れて、心を解放し自由にしてイエス様と面と向き会うときともなったのです。そうすることによって彼らは、この社会で每日生きている処とは異なる世界を、湖の沖の深みに体驗するのです。
彼らは、神の言葉に從うという体験の中に、それまでの自分知識や経験をはるかに超えた、神の支配・.神の深い恵みの支配を見たのです。シモンは、 この時はまだそこまでは自觉していたかどうかは分かりません。
けれども、シモンの成功の鍵は、神の言葉に対して自分を無にしたことにありました。自信に滿ちた自分の知惠も知識も经驗も、この際横に置いて、とにかく神の言葉に生きてみようとした結果、彼はこの世界の全てを創造し、全てを摂理しておられる神の図り難く深い知恵と、大いなる力に触れたのでした。そして、その結果は大変なものになりました。
ここでイエス様が教えようとしたことは、決して大漁になる極意をシモンに伝授するためではありません。叉、プロの知識や絰驗が間違っているということでもありませんでした。神の摂理の計り難さ、それ故の人生の計り難さ、神様の御心の計り難さ、驚くべき神の恵み深さ・.豊かさ、正に驚くべき恵み、ァメージン グ・グレースを実感させられる事だったのです。
② 生ける神を知ることの畏れ
恐らく彼らは網に入った魚を二つの舟いっぱいに引上げて、舟が沈みそうになるまでは無我夢中でした。事の成り行きを落ち着いて考える余裕も何もありませんでした。しかし、この驚くべき収穫に気付いた時、シモンはイエス様の足元に平伏して叫びました。
ルカによる福音書5:8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
ここにシモンの言葉と態度に大きな变化が起こりました。
5節ではイエス様を「先生」と呼んで、その提案を半ば否定的に思っていましたが、ここでは「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」
この福音書記者ルカも叉、唯[シモン]ではなく、「シモン・ペトロは」 と書き変えています。彼はイエス様の言葉に、自然を超えて働く神の力を知らされたのです。そして神の力が彼自身の心に届いたのです。それ迄イエス様は
単なる尊敬する「先生」でしたが、ここで'は「主よ、即ち神よ丨という呼び方に 変化しているのです。真の神に触れたとき、彼は自分が「罪深い者」である事を悟る人になっているのです。自分の罪深さを認識する。それは神の御業なのです。私たちは、イエス・キリストの言葉に聞き從って生きて行きますとき、その惠みと力を味合うことが出来るのです。そして、神の患みと祝福溢れるばかりの豊かさを知りますなら、私たちは生ける神の前に自分が罪に汚れた不信仰な存在であることの畏れを実感させられるのであります。
皆さんの信仰に至るプロセスも同様です。初めはキリストは単に世界的に有名な宗教家か人生の偉大な指導者であり、愛の人に過ぎないのかも知れません。しかし、その福音を聴いていて信じ、従って行きますと、次第にイエス様
が天地の主なる神であることが分かり、自分が罪人であることが分かって来るのです。そして、イエス様が惠み豊かな救い主であることが分かって来れば来る程に、自分の罪が鮮明に見えてくるのです。
《Ⅲ》イエス・キリストに徙う光栄
【人間をとる漁師】
そしてシモン,ベトロの信仰は更に深くされる必要がありました。何故なら、真のキリストへの信仰は、決してキリストから遠く離れて恐れおののくことではないからです。イエス様はシモンに言われました。
「10節後半」すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
確かに真のキリスト信仰には「私は不信仰で汚れた罪人であります」という意識が伴います。
けれども、それはイエス様に対して「どうかわたしのような者から離れて下さい」というところから、逆にキリストの懷に飛び込んで行くのがキリスト信仰なのです。信仰は、
謙遜そうに,聖なる神から,イエス・キリストから遠く離れて生きるものでは決してありません。イエス様は「恐れることはない」と救しを宣言して下さるのです。
キリスト信仰は、恐れおののいて神を離れて生きるのではありません。罪人が罪赦されて、神を畏れ敬いつつも、その恵みに信賴してキリストと一緒に生きるのです。そればかりか、キリストの使命に生きることが真の信仰なのです。
「人間を獲る」は「人間を生け捕りにする」という意味です。
「人間をとる漁師になる」これは直接的には、シモンを使徒として:召された言葉ですが、
元の意味は「人を真に生かすために漁る」という意味です。
酸素の欠乏し濁った溜まり水の中から、生け捕って、酸素を豊かに含んでいる生きた水の中に移す、それを「人間を漁る」というのですね。
ですからこの出来事全体は、将来の教会の使命を予表した出来事なのでした。つまりこの出来事は、教会とキリスト者は、この世の人生に唯衣食住を追求して、神もなく希望も平安もなく唯労苦し、思い患いつつ生きている人を、
イエス・キリストが恵み深く支配する神の支配の幸いと喜びの中に、伸び伸びと自由に生きる人生へと漁る働きに召されていることを、前もって表す出来事でありました。
神様は私たちの日常生活の中に啄木が「働けど働けど猶(なほ)わがくらし楽にならざり,じっと手を見る」と歌ったそういう現实を体驗することがあります。 ベトロ達のこの日の漁も似ています。神は通常の人間生活の中に、時として、
労苦が無駄であるかのような試練を与えられることがあります。神が通常の惠みの御手を控えられることがあるのです。
今の社会も、かつての右肩上がりの絰济情勢がまるで夢であったように想われる行き詰った状態が繞いています。そればかりか、自然の大災害や原発事故のような恐るべき人災が相次いで起こります。高級有名ホテルやレストランが誤表示や偽表示を行い、政治や経済や教育の世界までもが人間の生命の大切さを見失い、人間としての正常な感觉が麻痺して来ているので
す。子どもたちの、友達を自殺にまで追い込む虐めが心を痛めます。
【一般恩恵と特別恩惠】
これが近・現代社会に現れている頸著な兆候です。神が恵みの御手を控えられているのです。余りにも、人間が人間の知恵・.知識・経験だけを良しとし、神の恩恵への感謝を忘れて歩むとき、神はそこに一般的な恩恵(コモン グレース)を差控えられることがあるのです。ペトロ達の夜通しの漁のように、雜魚一匹取れない試練を与えられるのです。
しかしそのような試練は、同時に、神の言葉という特別な恩惠(スペシャル グレース)を教え示されるときでもあるのです。それは、人間の思いを遥かに超えた神の恩恵を伴う言葉です。それは人間の罪を救し、救いを与えるキリストの十字架の福音です。
【福音の網を社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ】
キリストの福音、それは、救い主であるイエス・キリストが十字架の上に死に、
死から甦ることによって罪人の罪を救し、救いを与えるという良き知らせです。
ですが、キリストの十字架の福音程、人の経験や知惠や常識とかけ離れたことはありません。ある人には十字架の言葉は、愚かにも思えるのであります。
しかしこの十字架の福音にこそ、実は滅びゆく人を生かす神の知恵と力が
秘められているのです。*1コリント1:18〜25 18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
人は天地万物を創造し保持し統治しておられるキリストの恵み深い支配を受けて生きてこそ、真に生かされるのであります。
そして神の言葉を聴くためのキーポイントは、漁師ペトロのように自分の心を低くし空しくてイエス・キリストの御言葉に聞いて従うことにあるのです。
人を罪と死に結び付ける人生から、キリストのいのちの中に漁どるキリストの言葉・福音というものは、確かにこの世の知惠とも常識とも異なるのです。
そういう訳ですから私たち教会・キリスト者は、この世の常識や経験を絶対視するのではなく、むしろこの世にはない神の測りがたく深い御心に素直に聽き従って、キリストの言葉・福音の網をこの社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ、
つまり私たちの知識や経驗を超えて、滅び行く人の心の深みまで、福音の網を投げる努力をすることによって、神の恵み深い支配〔摂理〕を知って行くのであります。そのようにして人を天国へ移し漁る、この西谷伝道所の舟「西谷丸」の使命を果たして頂きたいのです。この光泶ある使命に感謝しつつ共にイエス・キリストに仕えてまいりたいと思います。
《祈祷》
天地万物の造り主にして、救いの主でいます父.御子.御霊なる神様。御名を讚美し、その豊かな御心と、大いなる愛の御業の故に心から感謝を申し上げます。
愛する西谷伝道所の公同礼拝に奉仕を許され感謝致します。あなたは私共を、この世から御名を礼拝するようにと、御許へと呼出して下さり、御言葉を通してあなたの御心を教え、大いなる 恵みを与えて下さいましたことを深く感謝申上げます。
私共は、しばしばこの世の生活の中に埋没して、あなたの深い御心を意に介さず、社会の風潮や習慣、自分の知恵.力に賴んで生きる愚かな罪ある者であります。しかしあなたは、そのような私共の現实をご存知であって、時宜に適って御言葉を語りかけ、あなたの惠み豊かなご支配を明らかに示して下さいます。又あなたは私共を常にあなた御自身の御許へと招き、神の国の御用に用いようとしていて下さることを教え示されました。どうか、私共が如何なるときも、あなたのみ言葉とあなたの御用を優先する自由で開かれた心を常に抱いて生きて御言葉に從い、御心を行う者とならせて下さい。そして、あなたの大いなる恵み深い摂理の中に感謝しつつ生きる者として下さい。
神よ。昨年の震災の苦恼から回復出来ない東北の人々を顧みてください。そしてそれに伴い生じた原発事故は、正に人間の傲慢と、至らぬ知患に過信した結果が招いた災いでありました。神よ、どうか今なお先が見えないままに恼み苦しむ福島県の人々を憐れみ助けてください。国が相応しい援助を与えるべく用いて下さい。渦中にあります教会・
伝道所を顧みて下さり、主の豊かな恵みに支えられて、周囲の人々に希望を与えるために福音の光を高く掲げ、主の恵みを執り成すものとしてください。尊き主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
2013年11月17日説教「神様の愛」姜 世媛先生(WEC宣教師/神戸改革派神学校聴講生)
M131117001.wav2013年11月17日説教「神様の愛」姜 世媛先生(WEC宣教師/神戸改革派神学校聴講生)聖書:Ⅰヨハネの手紙4章7~21節。
7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
(説教要約 文責近藤)
おはようございます。一昨日から風邪のような症状がありましたが、今朝は神様に助けられて元気にここに来ることが出来感謝しています。
準備も十分でなく今日どうなるか心配でしたが、今朝の礼拝前のお祈り会とかここに座ってオルガンの奏楽を聞いていましたら神様は平安な気持ちを与えてくださいました。
【冬のソナタ】
わたしは韓国から日本にきて4年7ヶ月になります。この間たくさんの方にお会いしました。韓国から来たと言うと沢山の人が「私は韓国ドラマが好きだ」とか「韓国の料理が好きだ」と仰って嬉しいです。私より韓国ドラマに詳しくわたしも勉強させてもらいました。
韓国ドラマで日本最初のドラマは「冬のソナタ」です。実は私は日本に来るまで全部を見ていなかったのでもう一度見直しました。皆さん、「冬のソナタ」を見た人は手を挙げて下さい。ご覧になった方の中で、なぜこのドラマが好きになったのでしょうか。色々理由があると思いますが、その理由の一つ、それは変わらない初恋の美しさであると私は思います。時間が過ぎても全然変わらない初恋の愛です。いつでも自分を愛してくれる人がいるといいなと誰でも思うでしょう。愛というものはただ「冬のソナタ」のような愛だけでなく、人間の歴史の一番古くて普遍的テーマです。愛は文学、芸術、詩などで一番多く発見できるテーマです。
あるいはこの愛で笑ってあり、自分の命を捨てたりします。この愛というものは人間になくてはならないものです。私たちのキリスト教は愛の宗教と言われています。また神様の言葉である聖書は神からの愛の手紙、ラブレターだと言われています。
【神様の愛】
この世の中でもとても貴重である愛というものについて聖書のみ言葉を通して考えてみましょう。
今日は,ヨハネの手紙4章の7節から「神様の愛」というテーマで3つの事について考えてみましょう。
【神様は愛である】
1番目は「神様は愛である」ということです。今日の箇所の8節と16節を読みましょう。
ヨハネの手紙一4章8節「 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。
16節「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」。
8節と16節、ここに「神は愛」と書かれています。神は愛だということはどういう意味でしょうか。神様は愛と同じもので、神様には愛だけしかないと言うことです。
私たちの信じている神様は私たちの間違いを罰するお方ではありません。それで神様の愛を受けるために何か特別なことをしなければならないわけではありません。神様は私たちが存在するだけで喜んでおられます。
創世記1章31節に「神はお作りになったすべてのものをご覧になった。それを見てそれはよく、極めて良かった」と仰いました。
神様の本質は人間に向かった愛で、神は愛の原点です。その愛が神様から流れ出て神様を知る人に届く。またその人から他の人々に流れ出すべきです。
ヨハネによる福音書1章の1節から5節は、神様は光で、この光なる神様には暗闇が全然なく、この光はすべての人を照らすと書かれてあります。
もし私たちが光である神様を私たちのうちに受け入れることができたら、わたしたちも光のように輝くでしょう。神様は私たちの中にあるすべての闇は追い出されます。それと同じ同じように、私たちが愛である神様を私たちの心の中に受け入れることができたら私たちは愛の人になれるはずです。
どんなに憎しみで悩んでいる人でも愛に変われるはずです。なぜなら神様は愛であるからです。神は愛ですから神様がおられるところでは驚くべきことが起こります。いちども味わうことのできなかった無条件の愛を経験できます。
【自身のエピソード】
私にも神様の愛に関するエピソードがあります。私は神様の愛の故にクリスチャンになりました。この時から私はいつも皆を愛することができるように祈りました。
また周りの人をいつも愛するように努力しました。その結果、私は学校でも教会でも、
また友達の中でも優しい人だなぁと言われるようになりました。それで私は自分のことを愛で溢れてれているように思っていました。
しかし大学4年の時の一つ出来事によって私の考えが間違っていることがわかりました。
ある日、私が一緒に活動していた宣教団体の先輩のリーダーが私を呼び入れました。
何か話したいことがあるそうです。
わたしもその先輩と一緒にその宣教団体の活動していました。
わたしは多分褒めてくれることを期待していました。
でも実際に言われたのは、わたしは彼の働きに役に立てないということでした。
彼とは30分から1時間も話しました。彼は4つ上の先輩で私が高校に行く時からずっと知り合って私のことをかわいがってくれました。多くのことを褒めてくれましたが、このリーダーである先輩が私をリーダーの一人に推薦してくれると思っていましたが、彼は1時間話したなかで良いことも多く話しましたが、しかし私の心に残った事は、
あなたは私の働きに役に立てないという一言でした。
わたしは宣教団体の中で一生懸命頑張っていました。私は自分のことを自分なりに犠牲にして、この団体のために、兄弟姉妹のために頑張っていたと思っていたが、その一言
「役に立たない」という一言が、私にとって非常にショックでした。それでその時から私は彼のことが嫌いになりました。
学校で彼が前から来ると挨拶を交わしてもあとは彼から遠ざかり、最後の6ヶ月ぐらいはその宣教団体から離れるようになりました。
私はそのすべてのことを彼のせいにしていました。今考えてみたら余り大事なことではなかったのです。
私がもっと大人でしたら、「そうですか、それは済みません。これからもっと頑張ります」と言えば何でもないことでした。
その時私は未熟だったし自分のことを率直に話すことが苦手でした。まだまだ未熟な女の子でした。今考えれば本当に何でもない事でしたが私の心の中の憎しみは2年ぐらい続きました。彼に会うたびに「きらい、きらい。嫌、嫌」と思いながら彼の顔を見ることも本当に嫌でした。私が思っていたのは感情というものは、複雑なもので頭の中で何ともないと思っていても心の中で思ってる、その憎しみが完全に回復するまでは2年ぐらいかかりました。その時、私は神様に私の弱さを告白しました。そうだ、私は他の人を自分の力で愛することができないということを、私の心の中には愛がないということを、実感しました。そう思ったあと、漸く神様の真実の、無条件の愛が深く感じられました。神様の愛はこの世のすべての愛に勝る絶対的な愛です
【神様はイエス・キリストを通して愛を示された】
2番目は神様はイエス・キリストを通して愛を示されたということです。今日の箇所の9節と10節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
この節には神様がイエス・キリストを通して愛を示されたことが書かれています。これをもっと理解するためにはヨハネの福音書3章16節も読みましょう。
「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
神様は「この世を、私たちを、御子イエス・キリストをお与えになったほどに愛された」と書かれていました。
また「御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と書かれています。
【罪の結果】
もともと神様と人間との関係は親しい関係でした。いつも神様の愛の中で御心の通りに従順に従いました。しかし人間の罪によって神様から人間は離れてしまいました。
その結果人間は必ず死ななければならないという運命になりました。それを哀れんで下さった神様はその独り子イエス・キリストを宥めの供え物としてこの世にお遣わしになりました。
またそのイエス様は私たちの罪のために十字架に架けられました。ローマの信徒への5章8節には、こう書かれています。
ローマの信徒への手紙5章「8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
神様は私たちを愛してくださいました。それは私たちがその愛を受ける価値があったからではありません。永遠からの神様の愛は私たちがその愛を受ける価値があったからではありません。永遠からの神様の愛は、ありのままの私たち一人ひとりに関心があります。聖書には私たちがまだ罪人であった時、神様が私たちを愛してくださった、と書かれています。
皆さんはこの世の誰かから命懸けの愛を与えられたことがありますか。
たとえその愛が人間の限りある愛としても愛されるという事は本当に素晴らしいことです。ましてそれが永遠に変わることのない神様の限りない真実の愛であるなら本当に幸せなことでは無いでしょうか。神様は私たちをその愛で愛してくださいます。
私たちが神様の愛を持って人を真実に愛するためには、もっと積極的な行動が必要です。今日の箇所の15節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章15 「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」
イエス様を神の御子と告白するのは、私たちの唯一の救い主として告白することです。このイエス・キリストが主である事を信じたら、私たちは裁きの日にも大胆さを持つことができます。
続いて17節を一緒に読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」
【永遠の命】
もし私たちが主であるイエス・キリストを真実に告白したら私たちは死の後のことを恐れる事はありません。なぜなら十字架のイエス・キリストの愛は私たちに永遠の命を保証してくださるからです。
【互いに愛し合うこと】
最後の3番目は神様は私たちが愛し合うことを願っておられるという事です。
よくキリスト教は愛の宗教だと言われています。その愛とはどんな愛でしょうか。
マタイによる福音書22章36以下で、キリスト教の愛は、神様の愛と隣人の愛、この2つからなっていると書かれています。いっしょに読みましょう
マタイによる福音書22章「36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
聖書の中に書かれてあるこの2つの愛、神様への愛と隣人への愛、この二つの愛の中でどちらの方が易しいと思いますか。私は隣人を愛するのはあまり易しいことではないと思います。私も皆さんに証ししたように個人的に人を憎しみ、2年間悩みました。
神様への愛、教会にきて礼拝して神様と関係を持つのは一見難しく見えるけれども、実際私にとってもっと易しいことと感じられました。今日の箇所の11節を読みましょう。
ヨハネの手紙一4章「11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。愛する子達、神がこのように私たちを愛されたのですから私たちにも互いに愛し合うべきです。」
「このように」私たちを愛されたと書かれてあります。「このように」とはどんな意味でしょうか。
それは9節、10節に書かれてあります。ヨハネの第一の手紙4章
「9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」
ヨハネの第一の手紙4章「11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」。
神様の独り子を私たちのためにこの世に遣わしてくださった。それで私たちも互いに愛しあうべきです。私たちを自分の都合や気持ちによって愛したい人を愛しているだけではいけません。私たちの愛でなく神様の愛でお互いに愛さなくてはなりません。
ヨハネの第一の手紙3章16節と18節を共に読みましょう。
16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
【命を捨てる】
16節はどんなに驚かされる御言葉でしょう。時々映画などで恋人の為に自分の命を捨てる人がいます。また自分の子供の為に命を捨てる父親とか母親がいます。いま周りの方々をご覧になってください。皆さんの側に座ってる方をご覧になってください。聖書は私たちが愛すべき兄弟姉妹だと書かれていますね。皆さんは皆さんの側に座っておられる方々のために皆さんの命を捨てることができますか。正直言って私は自分の夫のために、命を捨てるべきと書かれているが、それは迷いますね。命を捨てる程でなくても、皆さんが少しでも犠牲を払うことはなかなか難しいことです。
愛する兄弟姉妹だと言っても何か一言言われたら顔を見たくもなくなります。それが人間である私たちの弱さです。
18節には「言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合おう」と書かれています。このように愛するのは神様の御心です。
【愛の原子爆弾:ソン・ヤンウォン先生】
韓国に孫良源(ソン・ヤンウォン)と言う牧師先生がおられました。この方は「愛の原子爆弾」というニックネームがあります。1902年生まれで、1939年からハンセン病患者の治療機関である愛養園で患者たち(約1, 000人)を家族のようにケアしました。1948年ある事件で、自分の愛する2人の息子が殺されました。しかしその時、自分の2人の息子を殺した犯人を許すだけではなく自分の養子にしました。1950年、韓国戦争の時に参戦し孫良源先生犠牲になられました。夫と私は何年か前、韓国全羅南道のほうにある「愛養園」に行ったことがあります。
皆さん、ソン先生の愛こそはイエス様が見せてくださった愛ではないでしょうか。
イエス・キリストはこの世の誰より大きい愛を見せてくださいました。その愛を学ぶべきではないでしょうか。自分の親しい人を受け入れて愛することができないのが私たちです。
ヨハネの福音書13章の34節から35節にこう書かれています。
「34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
また今日の箇所の19節、20節にこう書かれています、
ヨハネの手紙一4章「19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」
もし私たちが本当に神さまを本当に愛するというなら私たちはお互いに愛し合うべきです。
今日のメッセージを通して3つのことを考えました。
1番目は神様は愛であるということ。
2番目は神様はイエスキリストを通して愛を示してくださいました。
3番目は神様は私たちが愛し合うということを願っておられることです。
これらをいつも忘れないで実践することができるように主が助けてくださいますように祈りましょう。(おわり)
2013.10.6.説教「不可能を可能に」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)
2013.10.6.説教「不可能を可能に」崔
宰鉉牧師(WEC派遣宣教師、神戸改革派神学校特別研修生)
マルコによる福音書9章17~24
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
(説教要約 文責近藤)
【不可能を可能にする道】
今日の御言葉から不可能を可能にする道を考えてみたいと思います。
私たちは解決できない問題に直面するとき2つの選択があります。
一つは「余の辞書には不可能は無い」と言う信念を持って問題に立向かうことです。負けず嫌いな前向きな考え方をする人はこのような選択をするでしょう。
私たちの人生には多くの試練や苦難がありますが強い信念を持ってこれに立ち向かう事は大切なことです。
大きな問題に直面した時もう一つの選択は、問題に立ち向かうのでなく諦め、妥協することです。ちょっとした問題にぶつかっただけでもすぐにあきらめる人がなんと多いことでしょう。
【クリスチャンが困難な問題に直面するとき】
ところで私たちクリスチャンも自分の力で解決できない問題に直面するとき、どうすれば私たちは良いでしょうか。この世に解決不可能な問題が存在することを認めます。しかし一方で私たちは神様を信じています。
私たちは神様に助けていただき不可能を可能にすることができると信じます。それでは試練や逆境にあったときそれをどのようにして乗り越えるでしょうか。このことを考えてみましょう。
【弟子たちは癒せなかった、なぜか】
今日の箇所には悪霊によって口が訊けなくされた息子を持った父親が出てきます。この人は悪霊を追い出してもらうために弟子たちの所に息子を連れてきましたが、この時弟子たちはどうしても悪霊を思い出せませんでした。弟子達は打ちひしがれていました。ちょうどそのときイエス様は山から3人の弟子ヤコブ、ペテロ、ヨハネを連れて帰ってきました。主イエスを見つけた瞬間父親は新たな希望持ったでしょう。彼は主の御前に癒しを求めました。この息子の病気は現在の医学でも治療困難です。新約聖書の時代のことでなおさらです。しかしイエス様は皆が治療不可能だと思った息子を治しました。
ここで私たちは不可能を可能にする道で三つのことを考えてみましょう。
【主イエスの御もとに】
一番目は主イエス様の前に自分の問題を携えていくことで問題を解決できる道です。19節の最後の所「その子を私のところに連れてきなさい」と言われ、ここで強調されるのは「私の所に連れてきなさい」です。韓国では「私のところに連れてきなさい」という伝道方法があります。困難な状況に悩み苦しむ人がいれば「私たちの教会に来ませんか、神様が解決してくださいます」。
招かれた人は問題を抱えて教会を訪れます。皆さん教会に来ただけで問題は解決できるでしょうか。もちろんそうではありません。がそういう可能性を完全に否定するわけでもありません。
教会で神様に出会い真の神様を信じれば問題は解決できるでしょう。ただ私が強調したいのは教会に来ただけで問題が解決することではないということです。
「教会に行こう」と言わないで「神様の家に行こう」と言う母親がいました。そのように言うとその子供は「行かない。神様はその家にはいないから行きたくない」と。その子供は神様に会いたいと思って教会の内外を探していましたが、神様は見つかりませんでした。
本当に素直な反応だと思います。
教会は何をするところでしょうか。教会は人々に神様を見せるところだと思います。なぜ私たちは礼拝捧げるのでしょうか。わたしたちが聖書を学ぶ目的はなんですか。神様を体験するためではないでしょうか。単に知識を得るために聖書を学ぶのではありません。神様に会うために神様を礼拝し聖書を学ぶのです。教会の頭は誰ですか。聖書はイエス・キリストが教会の頭だと記しています。
教会という建物の中に入っても奇跡的な力が起こるのではありません。心から礼拝するときに、御名を信じるところに、神様は御臨在されます。そこで神様を体験できます。
主イエス様は問題を解決してくださいます。本当に大切なのは神様に出会い神様を体験することです。イエス・キリストに目を向けてください。イエス・キリストこそ神です。イエス・キリストこそは私たちを神様に連れ行くことの唯一の道です。
なぜ悩み苦しんでおられますか。解決できないと思う問題を抱えておられますか。すべてを携えて主イエスのもとに来てください。そうすればすべての悩み苦しみ、あらゆる問題は解決されます。
【イエス・キリストを信頼する】
二つ目はイエス・キリストを信頼することによって不可能を可能にする道です。主の御前に問題を携えていくとき徹底的にイエス・キリストを信じなければなりません。主イエスは私を癒すことが出来ると言う確かな信仰が必要です。弟子たちは主が悪霊を追い出された後で主に聴きました。今日読まなかったのですがマルコによる福音書9章28節「 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた」。19節に答えがあります。
マルコによる福音書9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは何故ですかと主に密かに聞きました。
神様の栄光を体験できない理由は何ですか。信仰がないからではないでしょうか。
神さまは神を信じるものに栄光を現わされます。
主イエスは弟子たちがこの息子の悪霊追い出せなかったのは神様を信頼しなかった、信じない信仰の為に悪霊追い出せなかったと言われる。
今日と同じ箇所がマタイ17章19節、20節にあります。
マタイによる福音書17章
17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」†
ここでは「弟子たちの信仰が薄いからだ」と言われております。「信仰がない」とは言われないで「薄い」と言われました。
信仰は主イエス様の弟子になる時与えられたと思いますが信仰が全くないとは思いません。私たちも確かに信仰を持っております。信仰があるからこそ今日もここに来て礼拝に出席し説教に耳を傾けます。
私が皆さんにどうしてあなたは信仰がないんですかと言うと、あまり皆さんは良い気持ちなりません。イエス・キリストも弟子たちに信仰が無いとは言われませんでした。しかし信仰が薄いと言われた。弟子たちの信仰が無いからでなく薄いから奇跡が起こらず悪霊を追い出せなかった。
主の弟子たちのイエスに対する信仰が十分ではなかったのです。ところで信仰と言うとき大切なのは信仰という言葉そのものでなく、信じる対象です。イエス・キリストを信じる信仰こそが大切です。キリスト教において信仰の対象は、天地万物を創造された神様です。また御子イエス・キリストです。
私たちも挫折を経験したことがあり、絶望したことがあり自分が無力あることも知っています。しかし私たちは救い主イエス・キリストの前に出てイエス様を信じました。神様に仕える生き方を与えられました。
ところで私たちは本当に神様を信頼していますか。いつの間にか神様でなく自分自身を信じているのではないでしょうか。
信じると強調しながら自分自身を信じているのではないですか。このとき弟子たちは全部で9人で、あとの3人ぺテロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスと山に登っておりました。
この9人の弟子たちは悪霊に憑かれた子供を癒せませんでした。9人の弟子たちは3人の弟子がいなかったのでこれは良いチャンスだと思ったかもしれません。私の推測ですが、 3人のいない間に自分たちの良いところを見せてやろうと思った。私たちもペテロと同じことができる。悪霊を取り出して見せましょうと言ったかもしれません。しかしイエス・キリストの御名によって悪霊に出て行けと命じても悪霊を退治できませんでした。
確かに彼らはイエス・キリストの御名を用いました。しかし心の中では思い上がっていたと思います。クリスチャンは気をつけなければなりません。思いあがる時よく失敗します。信仰の弱さをわきまえている時私たちは聖霊に満たされ真のクリスチャンになります。
パウロは自分の弱さを感じるとき聖霊の力に満たされ強くなると申しました。私たちはパウロのように自分の無力を携えて徹底的にイエス様を信じるとき神様は私たちの中に臨在してくださいます。
弟子たちは主イエスに従っていましたがイエス様を心から信頼していませんでした。自分自身を信頼する誘惑に負けたのです。
今日もわたしたちは悩み苦しみに直面するでしょう。そうした時イエス様に目を向けイエス様を信頼してください。イエス様は私たちの助け主になって下さいます。
【祈ることによって不可能を可能にする】
三つ目は祈ることによって不可能を可能にする道です。私たちは祈りによって問題を解決しなければなりません。ちょっとふり返って問題があればどうすればよいでしょう。問題を携えてイエス様の御許に行くことです。その次はイエス様を信頼し信じることです。
ところでどうやってイエス様を信頼すればよいでしょうか。それは祈ることによってです。熱心に祈ることによってイエス様に頼ることができます。逆に祈らなければ自分の考え知恵に頼ろうとしてしまいます。祈る人は主を信頼します。祈る時、最初の言葉は「父なる神、憐れみ深い神様」と祈ります。祈ることによって私たちの目は神様に向かいます。そしてイエス様に頼ることになります。
【人の思いあがり】
なぜ熱心に私たちは祈らないか。それは私たちが思い上がり高ぶっているからです。自分でできるからと。しかしイエス様に頼ることが最善の方法だと信じる人は主イエスに頼り、大きな問題に直面しても恐れません。祈るとき、ひざまずいて祈るとき、思い高ぶっている人は祈ることができません。弟子たちが悪霊を追い出せなかったことに主イエス様は何と答えられたか見てください。
9章29節、今日読まなかったところですが一緒に読みましょう。
マルコによる福音書9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
祈りが問題解決の唯一の道です。ところで同じ記事を扱うマタイ17章とその箇所を比べると17章21節は新共同訳聖書にはありません。新改訳聖書には17章21節があります。
ここには次のように書かれています。
「【新改訳改訂第3版】マタイ福音書17章21節
〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕と書かれています。
【断食】
祈りとともに断食が強調されています。断食とは最も切実な祈りの方法です。食物は人の心を捕えるもので人が生きるのに最も必要なものです。断食は食べる時間を犠牲にして神様に切実に向かいます。
パウロはフィリピの信徒への手紙4章6節で、
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
パウロは何事も思い煩わないで祈りなさいと言いました。思い煩らいは最も非生産的であり何も生じません。
祈りは確に問題、苦しみや悩みを解決します。祈りは人生の目的地に達するたったひとつの道です。
以前伝道方法に関する一冊の本読みました。著者は次のように使徒言行録にでる教会の特徴を記します。初代教会では会議の時間より祈りの時間が長かったと。著者は続けて言います。現代のほとんどの教会は長い会議をしても祈りの時間は短い。わたしたちは多くの問題にこれから立ち向かわなければなりませんが、こうしたときに不満を言う前に私たちは祈る人になってみましょう。時に断食をしてみませんか。
私は信じます。多くの私たちを悩ませる問題の解決に私たちが祈るとき神様は天国の門を開けて栄光を注いでくださり、私たちの問題を解決してくださいます。祈るとき神様の力が現れて私たちを取り囲んで下さって昼の日からも夜の闇からも私たちを守って下さいます。おわり
2013年9月15日説教「福音に込められた神の恵みと栄光」佐々木弘至牧師
2013年9月15日説教「福音に込められた神の恵みと栄光」佐々木弘至牧師
聖書:ルカによる福音書4章16節~30節
【ナザレで受け入れられない】
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
(説教要約 文責近藤)
【主の恵みの年を告げる】
前回の復習ですが、主が生まれ故郷ナザレに帰られ会堂で説教された時、主イエスは旧約聖書のイザヤ書61章1節2節の言葉を朗読されて、
18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
このイザヤの預言は「今日、あなた方が耳にしたとき実現した」と言われたのです。記念すべきこのことは旧約聖書全体を要約した救い主到来の預言が実現したとの宣言です。
【ナザレの人びとの主に対する態度】
ナザレの人々はこの主イエスの語った説教に感嘆し、これを褒めました(22節)が、実はその後の反応を見ると、中身はそうではなかったことが分かります。言うことは立派だが、今語っているこの男は一体何者だと言うわけです。名門に生まれたのでもなく我々はこの男を生まれた時からその素性もよく知っているではないかと。
主が語られる言葉に驚いたが、ナザレの人々はイエスの人間性に、ヨセフの息子に、つまずいたのではなく、語られる恵みのみ言葉につまずいたのです。イエスが故郷に錦を飾るように語られたのであれば人々の反応も違ったかもしれません。
人々の気に入られるように語ったならばイエスは故郷では敬われたかもしれませんが、ナザレの人々の反応はこの主イエスの言葉に驚きながらも、つまずいたのであります。
これは反面教師としても我々が御言葉を語る時に、土地の人々は大変冷たくこれに対応いたします。世間話ならば喜んで聞くかもしれませんが人々はこのように御言葉に対してはその真意を認めないのであります。
主イエスでさえそのようにあしらわれ批判されたのでありますから、まして私たちはそういう冷笑を覚悟をしなければならない。
【御言葉は決して損なわれない】
マタイ福音書によりますと、主イエスはもっとひどく扱われております。そこではイエス様はヨセフの息子と言われず、マリアの息子と言われました。それはどういう意味かというとマリアはまだ結婚していないのに子供が生まれたのでありますから、勿論聖霊によって身ごもったのですが、イエスは父なし子と故郷の人々は言うのであります。それは不倫の子供のように蔑まされたかもしれません。神の言葉の語り手は、主イエスでさえこのように批判されたのですから、普通の説教者はこういう批判は覚悟すべきですが、覚えなくてはならない事は、神の言葉は決して損なわれない、御言葉は生きているということです。今日は御言葉に対する私たちの態度について学びましょう。
ナザレの人々は主イエスに対する親しさ気安さがあったのです。これ自体は悪いことではありませんが、悪く作用するとイエスの教えを不要にする危険性がありました。それで主は言われた、
23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
【預言者は自分の故郷では歓迎されない】
私事でありますが、牧師になって久しぶりに故郷の信州佐久に帰ると同級生たちが集まってくれます。しかしその時言われます、「お前はどうしてクリスチャンになった。どうして牧師になったか」と。決して尊敬はされません。特に親しい人々がそうであります。
主はそれを見抜いておられます。
24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
ナザレの人々は主がガリラヤのカファルナウムでした評判のそのしるし、奇跡に関心がありました。カファルナウムでしたことを郷里のナザレでもしてくれと彼らは神の言葉、恵みの言葉よりも奇跡に興味があった。
こう言ったのは親しさから来る特権意識であったかもしれません。が主イエスにすればしるし(奇跡)を求めるナザレの人々の態度には、宣教の初めに荒野で悪魔の試みにあった時のことを思い起されたに違いありません。勿論、主イエスはしるしのみを行われたのではありません、必ず恵みの御言葉を語られたのです。主はこう言われます、
25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
荒れ野で空腹を覚えられた主イエス様に悪魔は「お前が神の子なら石をパンに変えたらどうだ」、
また「お前が神の子なら神殿の上から飛び降りたらどうだ」と悪魔は主を試みました。
ルカによる福音書4章「9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
この悪魔と同じ試みをナザレの人々は主に要求したのであります。
主が言われた、19節「 主の恵みの年を告げるためである」という言葉を信ぜず、また24節で「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と言われ、主の恵みを告げる言葉を語られても喜ばないという態度を「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と諺で言われ、ここに二つの旧約の聖書の例を根拠に語られたのであります。
【預言者エリアとサレプタのやもめ】
最初の引用は預言者エリア、彼はイスラエル最大の予言者でありますが、その地域が3年半の飢饉にあった時にサレプタのやもめ、それは異邦人に遣わされたのであります。
列王記上17章の8節から16節の御言葉にその事は書かれておりますが、エリアはやもめに対して「私の為に小麦粉を練ってパンつくり食べさせよ」と受け入れがたい要求を語ったのです。やもめは「最後の少しの小麦粉を取っているが、それは死ぬ前に息子に食べさせるため」と言いました。しかしエリヤの言うままにエリヤにパンを作って食べさせたのであります。そしでエリアは食べ、またそのやもめと子どもも食物に不足することなく甕の粉は尽きなかったのであります。
【ライ病になったナアマン将軍】
またもう一つの例はナアマンというシリアの将軍がライ病に罹りましたが、その時そのナアマンのところで召し使われていたユダヤ人の少女から預言者エリシャのところに行けば癒されると言われ、エリシャのもとに赴きました。預言者は彼に七度ヨルダン川の水で身を洗えば癒されると言いました。ナアマンは「何でそんな汚い水で洗わなければならないか、故郷にはもっときれいな水がある」と始めはそれを拒否しましたけれども、彼の家来にたしなめられ、「その川で洗っても何の損はないでしょう」と言うことで、七度ヨルダン川に浸かったところ、ライ病は癒されたのであります。列王記下5章9節から17節に書かれてあります。
【イスラエルと異邦人の救い】
主がこの有名な旧約の二つ例を語られたのは、異邦人の街であるカファルナウムの町で行われた奇跡をナザレの町で行うことを故郷のナザレ人びとは期待したわけですが、それが如何に的外れな要求であったかを教えようとされたのであります。
あえて御言葉に従った人は祝福されたということを覚えさせられるために、始祖アブラハムが召されたとき創世記12章「地上の諸国民はあなたによって祝福を受ける」と恵みがイスラエルの民に与えられ、アブラハムは祝福の源になりましたが、神様の恵みの言葉は時代が変わってもイスラエルに与えられ、その祝福と命の約束は変わりなかったことをナザレの人々は知るべきであったのです。
エリヤの時も、エリシャの時も、たった一人の異邦人の救いのために恵みの言葉で宣教された歴史があるではないかと主イエスは言われ、カファルナウムで恵みの業をなしたのも同じ理由からだと言われるのです。
主イエスはルカ福音書4章14、15節に、
「14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」
とありますように、どこに行っても、その恵みの業は恵みの言葉の宣教によってなされました。
しかし自分が30年間育てられたナザレの町の人々に、同じ恵みの言葉を語っても歓迎されない、受け入れられないという辛さを主は覚えられただろうと思います。
【神の自由、神の主権】
この二つの例にはもう一つの意味があります。神の自由、神の主権性をこの二つの例で教えようとされたのです。
預言者エリヤが神の民イスラエルにも多くのやもめがいたのにただ異邦人のやもめに遣わされたのはどうしたわけですか。エリアの気まぐれだったのでしょうか。そうではありません。
またエリシャがライ病人のナアマンに遣わされたのは、どうしたわけですか。多くのライ病人がイスラエルにも沢山いたわけですが、異邦人のシリア軍人ナアマンに遣わされた、その意味は何かということを主は問われたと思います。
イエスは神の恵みの言葉が語られるのは、神の自由と主権から為されるのだと、それを陶器師の譬えをもって語られます。陶器師は同じ土から一方貴いものに、他方をそうでないものに作るという譬えを持って語られましたが、恵みにおいて御言葉が語られる時、それは主権的に語られ、人々はただそれを歓迎すべきであるということを強調されております。
私たちは神様の御心をすべては知りえませんが、私たちが知るべき神様の救いの御旨は聖書を通してのみ知ることができるのです。それをないがしろにする愚かさを主は言われます。天と地を結ぶのは御言葉です。
【結び:主の中央突破】
結の言葉として28節から30節の言葉が語られます。
28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
主イエスは神御自身の栄光を現わすために御言葉は異邦人にも伝えられるべきと語られたのですが、それに憤慨したナザレの人々が彼を崖から突き落とそうとした。その時にも、彼らの中央を突破されたのであります。
この主のお姿は何を示しているでしょうか。それは神様の栄光、神の言葉の尊さを教えておられるのであります。
故郷の人々によってなされたその仕打ちは、まさに荒れ野の悪魔の試みと同じであり、「お前が神の子なら神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」と言うその試みに対比をいたします。しかしだれも主の中央突破を妨げる者はなかったのであります。(おわり)
2013年9月8日説教 「主に結ばれて生きる」袴田康裕牧師(神戸改革派神学校教授)
新約聖書
テサロニケの信徒への手紙一3章
6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。
7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。
8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。
9 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。
10 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。
(説教要約 文責近藤)
【パウロの喜び】
今朝はテサロニケの信徒への手紙一の3章の6節から10節の御言葉からパウロの喜びについて語りたいと思います。
第二次伝道旅行でパウロはテサロニケの教会を開拓伝道いたしました。
パウロはユダヤ人の迫害により今は離れておりましてもテサロニケの教会のことをいつも思い、いつも心配しておりました。そして、いつも彼らに会いたいと思い、訪問することを願いましたが、テサロニケの信徒への手紙一の2章18節に書かれてありますようにサタンによりその道は妨げられたと言っております。
テサロニケの信徒への手紙一2章
18 だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。
【テモテの派遣と報告】
テサロニケの信徒への手紙一3章
5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。
パウロの代わりに同労者のテモテがテサロニケの教会を訪問することになりました。そしてその報告をコリントに居るパウロに伝えたのであります。
それは「今帰ってきて」と、3章6節「6 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」。とありますようにその報告はパウロを喜ばせました。
【信仰と愛】
信仰とは神全体に対するその態度を表し、神を知ること、神を愛すること、神を信頼すること、神に従うことであります。
テサロニケの教会はユダヤ人のみならずギリシャ人から迫害があったり、いろんな困難、苦難がありましたが信仰に固く立っていました。
信仰が神に対する態度であると言いましたように、愛は人に対する態度であります。その信仰によって神に、愛によってテサロニケの教会の信徒同志は強く結ばれていたからです。
聖書は信仰と愛は切り離せないと教えています。パウロはガラテヤの信徒への手紙にありますように主イエスに結ばれていれば神への信仰と人への愛に生きるのであります。
ガラテヤの信徒への手紙 5章6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
主イエスもまた神と隣人を愛することを最大の戒めと教えられました。
テサロニケの信徒は艱難の中でキリスト者の第一の義務を果たし、これを聞いてパウロは喜びに満たされました。それはテサロニケ教会の信徒自身の努力ではなく、神様の導きであったからであります。
【うれしい知らせ】
6節「うれしい知らせ」と書いてあります。それは通常「福音」のことを言います。しかしここでは福音と直接関係のない言葉として唯一用いられている箇所ですが、そのテサロニケ教会の信徒が困難や忍耐の中にあっても信仰に固く立っているとのテモテの報告の中に、パウロはその背後にある神の恵みの御手を見たのであります。
テモテの報告は「うれしい知らせ」で福音の一部でありましたが故に、パウロは神の福音として聞きました。
神の働きが無ければテサロニケの教会はこのように愛によって結ばれていなかったのであります。パウロはここに神の御業を見たのであります。また神の救い関わる御業をイエス・キリストの福音として聞いたのであります。
さらに2つのことをパウロは語っています。
その一つはテサロニケの教会はパウロに好意を持って見ていたということです。当時、中傷やごまかしと言った悪意に満ちた宣伝がパウロに対してなされましたが、テサロニケの信徒は、そう言う噂に惑わされず、パウロをあたたかい愛を持って受け止めていたことが分かります。2章3節で、パウロ自身も、こう言っております。
テサロニケの信徒への手紙一2章「3 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」。
もう一つ、テサロニケの信徒はパウロにまた会いたがっているということも書かれてあります。6節に「、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました」、しきりに再会したいとの思いは、一方通行ではなく、それは相互的な交わりの関係であったことがわかります。単に懐かしい人間的感情といったようなものでなく、パウロから神の言葉を学び霊的指導を受けた彼らは、信仰の養いのため霊的父に会いたい、そういう変わらない想いでパウロに会いたがっていたのです。
【教会と伝道者の苦難】
このような報告を受けたパウロは、「7 それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」。
7節でパウロは率直に励まされた、慰められたとも訳せるが、言っております。
テサロニケの信徒への手紙一3章5節「5 そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです」。
「誘惑があった」と書かれているように、パウロの第一の関心はテサロニケの信徒の信仰でした。自らが奉仕した教会が信仰に固く立って主に結ばれているということを聞く事は、パウロの励まし、慰めでありました。パウロ自身、7節にあるように困難苦難の中にあったのですが、それが具体的に何かは分かっておりませんが、いずれにせよパウロは常にその困難と苦難の中にあったのでありますが、それは御言葉の奉仕者にはつきもののことで、伝道者にとってはいつもそのような困難や迫害があります。そのような時、伝道者にとっていちばんの励ましと慰めは信徒が信仰に堅く立っている、そして信仰に強められているという事であります。それがなければ伝道所は苦境に立たされてしまいます。
【しっかりと立ちなさい】
パウロはその思いを8節に語り直している、「8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」、とかれらの信仰が主にしっかりと結ばれていること、直訳すれば「主にあって固く立っている」という不動の姿を見たのです。不動の反対は揺れ動くことです。信仰が揺れ動くということ、信仰は自分の力で立っていることはきません、揺れ動くという事は自分の内に堅固さ、確かさかないわけです。自分の信心が頼りになるのではない。宗教改革者カルヴィインは言います、信仰自体は空っぽの器である。大切なことは主に結ばれる時、堅固な信仰になるのであると。
イエス・キリストとの関係に集中し固く立つ事は私たちのあり方を決定します。
パウロは他の多くの手紙でこのように「しっかりと立ちなさい」と言っております。
コリントの信徒への手紙一 16章13「 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」。
ガラテヤの信徒への手紙5章「1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。
フィリピの信徒への手紙4章「1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」。
【今生きている】
パウロはテサロニケの信徒が信仰に固く立って生きていることに大きな励ましを受けました。そして8節「8 あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」と「今生きている」と言うことができました。
パウロはテモテの報告で彼の命が生き生きと回復したと言っております。パウロは命をかけて福音の使命に生きてきましたが、筆舌しがたい
生涯自分が建てた教会のためにパウロは命を捧げたのであれば、教会の信仰こそがパウロの命でありました。
テサロニケの信徒たちの信仰を聞いてパウロは主にあって生きている確信と喜びを感じたのです。
教会の信徒とパウロの命は信仰で結び付いておりました。これがパウロの実感であったと思います。伝道者パウロを生かしておりました教会に対する思いのゆえに、テサロニケの教会が主に結ばれている事にパウロは教会の創設者として喜びに満たされたのであります。
9節「9 わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」。
9節にパウロの感謝の大きさを語ります。人間的にはテサロニケの信徒に感謝を捧げることや、パウロは自分自身を誇ること出来ましたが、パウロは神の御業以外に栄光と感謝を捧げることをせず、その一切の労苦を神に帰し神に感謝したのであります。
【パウロの祈り】
ただただ神の大能のみ業を神に感謝し、ここに祈りが生み出されました。
10節、「 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と。パウロは二つのことを祈りました。
その祈りの第一は、顔と頭を合わせて再会すること、テサロニケ教会の信徒たちと直接交わりたいという思いであり、祈りであります。
二番目の祈りはテサロニケの教会が、完全であったわけでありません、未だ弱さもあり信仰が欠けているところがありました。それを補いたいとパウロは祈ったのです。
この二つの視点は大事であります。
現在の教会の姿は過去から現在に至る視点であります。それは過去から現在に至る神の恵みと愛に感謝する事ですが、もう一つの視点は未来からの視点であります。すなわち終末からの視点として、完成された教会に向かって前進するという視点から見るなら現在の教会の弱さや欠けも見えてきます。
【二つの視点】
将来の完成された教会という視点からみると、現状はすべてがマイナスになります。これだけを見ると感謝は起こりません。現状批判が互いに裁き会うことになります。もう一つの最初の視点、これまで与えられた現在の状態を感謝して受け取る。そしてここに止まらないで聖書の教えるあるべき姿に前進すること、完成に向かって前進することが大切です。
教会のみでなくクリスチャン一人一人についても天の御国を目指して信仰生活を一歩一歩前身することに、これは当てはまることであります。
フィリピの信徒への手紙3「13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
「後のものを忘れ前なる目標を目指し賞を得るために走る」と言うパウロは、いずれにせよ、到達した点からさらに前進を目指しております。私たちは教会に対し、他者に対し、自分自身に対して、この視点を持つことが大切であります。現状を見てさらにそこに留まらず前進し励ましあって欠けを補い会うことが大切であります。そこでこそ教会の交わり、前身があります。
【牧師と信徒の関係】
最後に申します。今日の箇所はパウロとテサロニケの信者の関係が記されてされております。それは伝道者と教会の健全な関係について言います。パウロの最大の関心は教会が主に結ばれていること、すなわちテサロニケ教会の信徒の生ける信仰によってパウロは励まされまた生かされているということです。
同様に牧師は信徒の信仰に大きく影響をしますが、同時に信徒の生ける信仰によって励まされていると言うことです。これが教会です。これは信徒同士の関係でも同じでありますが共に励まし、また励まされる。共に慰め、慰められるという関係こそが伝道者と信徒の健全な関係であります。これは本当に幸いなことであります。(おわり)
2013年09月08日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
2013年8月25日(日)説教「主の恵みの年始まる」佐々木弘至牧師。
2013年8月25日(日)説教「主の恵みの年始まる」佐々木弘至牧師。
聖書:新約聖書ルカによる福音書4章
14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(説教要約 文責近藤)
【主イエスの荒野の誘惑】
今日の御言葉のルカ福音書4章14節から21節の前、13節までは、主イエスが公生涯に入られる前のことでありますが、荒野に導かれて大き試練、誘惑を悪魔から受けられたことが書かれています。
誘惑は救い主としてのテストでもありました。救い主の使命は、アダムの失敗により罪と悲惨の中に堕落した人類を救うために、私たち人類に変わって神に完全なの服従を果たすか否かのテストでありました。
悪魔は主イエスが救い主としての使命を達成することをを邪魔すること、その使命を失敗させるため誘惑しました。
その試練テストの内容は
1、 人間として何を基準に置くか。
2、 人は何の為に人は生きるか。
3、 人はどのようにどう生きるか。
以上3つの点でイエスは誘惑をもって試されました。
そして主イエスは終始父なる神の言葉を基準として悪魔の試みに勝利されました。それは一重に聖霊に満たされ聖霊に頼り、神様の言葉に信頼して試練に耐えられたからです。私たちが聖霊に満たされるとは聖書に書かれた神の言葉によって生きることだと学ばされます。
主は私たちの為にその生き方を示されました。いかに聖霊の導きによって生きるか、イエスは神の子だから当然と考えるのではなく、神として試練を受けられたのではなく、主は人間としていかにその試練と戦われたか、そして試練に打ち勝たれたかということを思い起こすべきであります。
新約聖書フィリピの信徒への手紙2章6~9節を見てください、
「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。
ここで使徒パウロは主は人間と同じ姿になって試練に立たされた、それは私たちの為でありますが、その試練に立たされた主イエスの姿に私たちは倣うことができると言います。
私たちは罪ある人間ですが聖霊と聖書に対する姿勢では私たちと主イエスと同じ立場であります。
信仰の試練に勝利するためには主と同じく聖霊の導きに頼り頼み、御言葉の確信に立つのです。
【"霊"の力に満ちて】
今日の御言葉の箇所、ルカによる福音書4章14節、
「14 イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。」
主は聖霊に満たされて救いの事業を開始されたということが分かります。14節でガリラヤから宣教が始まり、主の評判が広まった、人々から尊敬を受けられたと書かれてあります。
ルカによる福音書4章15節、
「15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。
ルカによる福音書4章16節では
「16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。
主はナザレで育ったと書かれてあります。そしてそこではいつものように会堂に入った。それは安息日であったと言われております。
【ナザレの会堂で始められた福音宣教】
福音宣教はナザレの会堂で始められたのです。会堂は西谷伝道所も同じです。主は何時ものように会堂に入って話された。この会堂とはシナゴーゲとギリシャ語で言いますが、このシナゴーゲができたのは紀元前695年に北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされ、その後また紀元前500年に南ユダ王国もバビロンに滅ぼされました。人々はバビロンに捕囚となりました、今のイラン・イラクあたりであります。捕囚地では神様によって定められた神殿礼拝ができず、もはやそこでは動物犠牲もできません。その代わりに神の言葉による礼拝、聖書朗読、その御言葉の解説といいますか、今でいう説教、そして詩編歌による讃美で神様を礼拝しました。捕囚後でも神礼拝がその会堂で続けられたわけです。紀元前400年代イスラエルはエルサレムに帰還を許され、神殿も再建されましたが、幸いなことでありますが、バビロンで始められた会堂での神礼拝は至る所で続けられました。そこでは御言葉による説教が捧げられました。主もまた幼い時から安息日には会堂で御言葉を学び礼拝を守られたのであります。そしてナザレの村で安息日の礼拝、御言葉の朗読、その学びが聖霊に導かれてて守られたのです。神礼拝のため、御言葉を学ぶために安息日がありました。
【預言者イザヤの巻物が渡され】
当時、会堂司が立てられておりまして、その都度、聖書朗読とその解説、説教ですね、それを手配しました。
ルカによる福音書4章17節、
「17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」。
17節、主イエスはその時、会堂司から巻物を渡されたのであります。立って聖書を朗読した、巻物の事はビブリオといいますね。ビブリオとはバイブル(聖書)の語源であり、その時渡されたものはイザヤの巻物でありました。巻物というのは羊のなめし皮か植物のパピルスで作られておりました。パピルスがペーパーの語源になります。
イエス様は17節「目に留まった」というのは、たまたまその言葉が行き当たりばったりに目に留まったと言うのではなく、イエス様は自分の読むべきイザヤ書61章の1節~2節の言葉を見つけて、読まれたわけです。
これは旧約聖書イザヤ書61章1~2節の言葉です。
1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め・・」
この御言葉は当に旧約聖書の中心的メッセージでありました。イスラエルの人々が待っていた事柄の成就のメッセージです。今日の説教についても同じで、それは「良き訪れ」であります。旧約と新約の聖書の中心的メッセージが恵みの年を告げる今日の御言葉であります。
旧約聖書は救い主の到来を預言し、旧新聖書の中心に救い主の到来があります。新約聖書は救い主イエス様の到来を証するためにあります。
その中心にイザヤ書61章の1節2節の言葉があるわけですが、もちろん聖書の一字一句は主を指している言葉ではありません。聖書には不信仰の歴史もあれば不倫も書かれており、悪魔の言葉さえも書かれております。ヨブ記に於いては3人の友人の言葉のように、偽りの言葉をもそこには記しております。けれども全ての言葉を通して主の恵みを証している、イエス・キリストを証ししているのが聖書であります。
主イエスを通して救いへと導く、主イエスを通して人類の罪が裁かれ、そして救いへと導くのが聖書であります。イスラエルがどんなに罪深くてもイエス様は残りの民を残して救われるのであります。ヨブ記にあるように友人の偽りの言葉さえ、友人の罪を許すために書かれています。それらすべての言葉はイエス・キリストを証するものであります。
旧約は律法の力を、新約はイエスが語った救いを書いているのではありません。
イエスが語った福音、18節以下の言葉「主の霊がわたしの上におられる」とは聖霊によって母マリヤからの出生、また洗礼の時、主の上に聖霊が鳩のように降られたと言う事実を語り、聖霊と共に主が居られることを知ります。
油そそがれた主の来臨の目的は、貧しい人に福音を告げ知らせることであります。
ルカ4章18節の言葉
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし」、は、
旧約聖書イザヤ書61章
「1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」
の言葉です。
旧約時代の救いは捕囚の民の解放と言うこともありましたけれども、イザヤ書61章2節の
言葉「61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め」は新約の現在においては、人生のあらゆる苦悩に捕らわれている人、社会から阻害された人、恐怖や罪と死の中にいる人を解放する、自由にするために遣わされたということであります。
【目の見えない人に視力の回復を告げ】
目の見えない人というのは単に盲人のことではなくて霊的盲人のことを語っております。私たちもかってはそうでした。神もキリストも分からない。肉の目は見えても霊の目は見えない人、そのような私たちの霊的視力の回復を告げるためにイエス・キリストは遣わされたのです。
イザヤの預言は私には無関係という人は主観的にあっても客観的にはいないのです。主は恵みの年を全ての人に告げ知らされたのです。それは救い主の到来を告げることであります。
ルカによる福音書4章19「 主の恵みの年を告げるためである。」
このイザヤの言葉で結ばれたのは今や救い主を待ち望んでいた時代は終わったと言うことであります。
【今は恵みの時】
ルカによる福音書4章20節「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」。主は朗読を終えられると巻物を係りの者に返し、それから座って説教を開始されました。
ルカによる福音書4章21節の言葉
「4:21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。
今日、救い主を待望んでいた時代は終わったということであります。
待ち望んでいた古い時代は終わり、新しい恵みの時代が始まったと主は宣言されました。
「今日」とは19節の恵みの年を指しています。「今日」という年とは1年、 2年と言う当時の事だけではなく、福音を通して与えられる世の終わりまでの全時代を通して、また全民族を含む全ての人に与えられる恵み豊かな時代であります。そのことに目を覚ましていなさいと言われます。
それに対して私たちはどう対応しているか。今は恵みの時と言うが今は誠に恵みの乏しい時代ではないか。ことに福音伝道の困難な時代ではないかと言うかもしれません。
現実に子供たちが教会に来ない。確かにそうかもしれません。しかしイエス様の時代と現代とは神の恵みは少しも変わらないのであります。ただ急速な時代の変化に、またこの世の有り様に翻弄され、世から乖離して、世の有り様に流されているのが教会でないかと思うわけであります。
世に流されて世と教会が乖離し二元化してはならないのであります。いま一度主の宣言に率直に立ち帰らないといけないと思うのであります。
教会信徒がこの御言葉にに立ち返るとき聖霊によって救いの恵みの年が来ているのです。急速な現代社会の変化に翻弄されることなく、乖離することなく、愛する人々に主を証しする、職場において学校において社会において私たちは福音を託され、恵みの年を告げ知らすことができるのであります。終
2013.8.18.説教「神からの愛に包まれて」泥谷逸郎牧師(元伊丹教会牧師・現土佐山田教会員)
013.8.18.説教「神からの愛に包まれて」泥谷逸郎牧師(元伊丹教会牧師・現土佐山田教会員)
ヨハネの手紙一4章7~12節
7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
(説教要約 文責近藤)
23年にわたって伊丹教会で信仰を共にした兄弟姉妹とともに、また初めてお目にかかる方々と共に礼拝ができる喜びを神に感謝し、主にある交わりの幸いを、「ここに神がおられる」と言う教会形成を導いてくださった主の愛に感謝いたします。
【不法がはびこる時代】
主は御生涯の終わりごろに「悪がはびこる」と言われ、「多くの人の愛が冷える」と言われました。マタイによる福音書24章です。
24章12 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。
今はその時です。多くの愛が冷えると言われその時です。人の命を極悪人が簡単に奪いとります。悪でないように殺されていく。その他の悪もはびこっています。このような時代の真っ只中にあって、キリストの愛の光が差し込んでいます。それはどこからでしょうか。教会から差し込んでくるのであります。私たち一人一人のクリスチャンは神からの愛を、愛の光を受けて照り輝いている。
【神の愛を映すキリスト者】
だからクリスチャンは愛することに尻込みすべきでありません。そうでなくキリストの愛を持って、もっともっとこの世と取り組んでいかなければなりません。この世の愛が冷えて行けば行くほど、私たちクリスチャンは世の光、地の塩となって、愛することに、神の愛を持って尻込みすることなく教会形成に取り組んでいかなければならないのであります。
ここに教会が建てられた目的があります。またこの西谷に教会が建てられたという事は、神はここに世の光となる灯台を建てられたと言うことであります。すでに幾年前から輝いているのです。
【愛を追い求めなさい】
主はコリントの信徒への手紙一14章1 節で「愛を追い求めなさい。」と言われます。
愛は追い求めるものです。それは祈りにおいて求めるものです。「主よどうぞ愛をください」と祈り求めることにより増し加えられていくものです。愛が乏しいと自覚するなら祈り求めましょう。互いに愛する愛を祈り求めましょう。求めることで増し加えられる。
恵みは感謝して受けるばかりですが、愛は神様から受ける事と神を愛することの両面があります。恵みと愛のバランスが必要です。
教会で恵みを感謝するとともに人を愛し神を愛する愛を増し加えてくださいと祈ることです。
その愛を持って人と神を愛する両面があります。
新約聖書は神の愛をアガペの愛と言います。アガペの愛を頂いて人を愛していきたいのです。
4章9 節をもう一度読みます。
「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」とありますが、続いて「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」。「ここに」とは「どこに」でしょうか。それは主が遣わされたことです。
【永遠の命を生きる】
著者のヨハネは福音書も書きました。そこに答えがあります。ヨハネ福音書の3章16節に
「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」。
ここに答えがあります。「神はその独り子を賜ったほどに世を愛したもうた。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。
【神は、独り子を世にお遣わされた】
今日のヨハネの手紙一4章9 節をもう一度読みます。
「9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」
「生きるように」とは私たちが永遠に救われて生きるようになるためです。
教会では永遠の命とよく言いますか、それはイエス・キリストの持っている命です。主イエスを信じるとき、与えられる命です。その命は終わりの日に蘇る命です。神は新しい命を与えてくださった。それは、
ヨハネの手紙一4章10節「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
ここには主の十字架と苦しみがいけにえとして書かれています。御子イエスが遣わされたと言うのは、聖霊の働きによって、マリアの子として生まれられたイエス・キリストが人間としての犠牲の御生涯を全うされたことです。
【神話ではない】
神の御子が世に遣わされて、人の罪の為に命を捨ててくださったということは神話ではありません。今は何でも神話で片付けてしまう時代です。神が人となるなんて事はとんでも無いと言う神話の時代です。しかし主イエス・キリストの十字架と復活は神話ではなく事実です。だから信じる時にあなたもイエス・キリストの永遠の命が与えられるのです。
【イエス・キリストの十字架】
神の御子なるお方が人となれ、罪なきものとして私たちの贖いとなってくださった。イエス・キリストが私の罪を代わって受けてくださった。それが十字架です。そして私たちに永遠の命を与えてくださった。
キリストはご自身の体と魂の贖い死によって私たちの罪を引き受けて下さったのです。
今、私の罪を赦して下さいと祈るなら全ての罪は許されます。
ガラテヤの信徒への手紙3章13節に「13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」とあります。十字架の死は特別なものであり、神に呪われたものとして、私たちに代わって主は十字架に架けられた。
主は御自身を私たちの罪の身代金として捧げられたのであり、それゆえ主を信じるものは罪ののろいから解き放たれたのです。ここに神の愛が示されています。
これほどの愛がどこにしめされているか?歴史の中に、諸々の民族の中に、この神の愛を探しても、神の愛はイエス・キリスト以外にはありません。イエス・キリストにこそ神の愛、身代わりの愛、犠牲的愛が示されています。わたしたちの罪を贖ってくださった愛です。
今、主に「罪を許してください」と祈るなら全ての罪は許されます。ここに神の愛が示されている。人類は一人の例外もなく滅びさるものです。それなのに私たちの中に救われる者がいるというのはどういうことでしょうか。救いが実際に行われているからです。世界中に救われるものが起こされている。
神の救いはイスラエル民族から始まったのでありますが、今や2000年を経てどの民族どの人種も主の十字架の贖いによって救われる時代が来たのです。諸々の民族の中に主の救いがあります。ここに神の愛があります。
神の愛を信じて喜ぶ人が世界中諸々の民族に起こされています。世界中の信じる者が神を証しています。
なぜ7節「互いに愛しあいましょう」と言われるのですか。
キリストがわたしたちを愛してくださったので、私たちも愛し合いましょうと呼びかけています。
さらに11節は次のポイントでありますが、第二のポイントとして11節「わたしたちも互いに愛しあうべきです」と強調されています。
キリストを信じるものは十字架の愛に包まれている人です。しかし失敗することもある。未だ神を見たものはいない。しかし愛し合うならそこに神は居られる。この30人の群れの中に、互いに愛し合う愛があるなら神がおられる。そして神を知ることが出来るのです。
【互いに愛し合うなら神を見る】
「12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。
姿は見えなくても主イエスは「2,3人わが名によって集まるところ私もその中にいる」と言われました。さらに見ることさえできるとヨハネの手紙一4章12節に言われる、
【イエス・キリストを見る】
互いに愛し合うことは大事なことです。信者もその互いに愛し合うことによって神様を見るようになるでしょう。弟子のピリポが主に質問したことがあります「主よ。私たちに御父を見させてください。そうすれば信じることができるでしょう」。主は答えられました「私は見たものは父を見たのだ」と。
ヨハネによる福音書14章「8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」。
ヨハネによる福音書 6章46にも 「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と書かれています。
【聖書の中に】
今私たちは主イエス・キリストをどこで見るか。それを聖書の中で見るのです。「見る」ということはまた「分かる」という言葉に置き換えられます。聖書の中に描かれたイエス・キリストを見て、分かるのです。
私は中2の時、牧師から、罪と、十字架と、イエス・キリストによる救いを繰り返し繰り返し語られました。そして信仰告白に促されました。
神の言葉である聖書には鏡に映すようにイエス様が様が写されています。霊の目で私たちはイエスを見るのです。神は御子イエス・キリストによって示されます。
ヨハネ福音書の1章18節の言葉「1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。この言葉は真実です。
神の愛の中にとどまることが大切です。だから11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。
神の愛に包まれることによって、私たちは人々をキリストに導くためにも、愛の冷えた時代にいる私たちの信仰の霊的成長のためにも、神の愛に留まるべきです、「互いに愛し合うべきです」と主は私たちを励まして、また豊かに愛してくださいます。(おわり)
2013.8.11.説教「揺るぎない契約」赤石純也伊丹教会牧師
2013.8.11.説教「揺るぎない契約」赤石純也伊丹教会牧師
新約聖書
マルコによる福音書14章17~25節
17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
(説教要約:文責近藤)
【マルコよる福音書から学ぶ聖餐式】
今日はマルコよる福音書に即して聖餐式について御言葉の解き明かしに集中します。
22節から最初の聖餐式は始まりますが、その前の18節から最後の晩餐が始まります。
【まさかわたしのことでは(あるまいか)】
マルコによる福音書14章:18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。」
少し前のマルコによる福音書14章10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
この10節で「イエスを引き渡そうとして」と言われた同じ言葉が18節「裏切ろうとしている」と訳され、裏切ると言うほど強い言葉で書かれてはおりません。
このような不安なことを言われたのが最後の晩餐です。弟子たちは「まさか私のことではあるまいか」と思って心を痛めている。イスカリオテのユダに言われ言葉とは思わず、私のことではないかと、弟子たち一人一人に自分の不信仰に不安を持たせる言葉でありました。
このように自分の信仰を思って不安な弟子たちです。イスカリオテのユダではなく自分のことではないかと弟子たちに思わせるというのがマルコの福音書が他の福音書と違うところです。
18節「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」、弟子全員が同じ鉢にパンを浸して食べるのが当時の習慣です。神は裏切り者はユダだと、第三者すなわち他人事ではなく、弟子たちが自分のことではないかと思わされるのです。だから21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。(マルコによる福音書14:21)」
【最初の聖餐】
主が「人の子を裏切るものは不幸だ」と言われた言葉を、全員が自分がそう思われているという苦い思い、そういう苦い雰囲気の食事のなかで、22節以下で最初の聖餐がおこなわれた。
「22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」。23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。(マルコによる福音書14:22~23)。」
「取りなさい。これはわたしの体である。」、「また杯を取り・・彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」と書かれてあります。次に24節で、これは契約であったと記されています。
24節「そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコによる福音書14:24)。
最初の聖餐において弟子たちを契約に与らされたのです。
【主従契約】
普通一般には契約とは対等なものですが聖餐式の契約はそうではありません。キリストと弟子たちは対等ではなく、一方的で、弟子たちの主体性はありません。受け身で弟子たちはパンと葡萄酒を受けました。
【揺るぎない契約】
この契約とはどんなものでしょうか。
25節「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコによる福音書14:25)。
主イエスは神の国で新たに飲むまでは、決して再び葡萄酒を飲まないと約束されます。
葡萄酒のことをぶどうの実から作ったものとも言われますが、これは強調する言葉で、一滴もぶどう酒は飲まないという意味であります。神の国で飲むその日までは一滴も飲まない。こんな苦い杯ではなく神の国で祝杯としてもう一度の飲むときまで私は待っている。それまで一滴も葡萄酒を飲まないで待っていると言う一方的な契約であります。
この契約はこれから受ける聖餐式で信仰に不安をお持ちのあなた、また不幸で生まれなかった方が良いと言われ、また思わされる私たち全員に与えられているのであります。
あなたは不幸だと言われ、自分の不幸を直視し、静視させれられる。「生まれなかった方がよかった」と言うような事情の中にある者に、すなわち人生の不幸、現実の生活を直視して、そのあなたと神の国で飲みたいとキリストは招待してくださるのです。私たちは神の国で祝杯を挙げたいのだとの主イエスの招待を受けるのです。
こんな私が神の国に招待されている。私たちはキリストを振り払い、裏切りやすいものですが、主の聖餐に一方的に招待を受け聖餐に与る信仰の弱い者同士なのです。
こんな私が、揺るがない信仰の持ち主でない私が、主を手放し裏切るようなこのような弱い者でありますが、主が一方的にその様なものに神の国で共に祝杯をあげようと契約してくださるのです。
【弟子たちの不安】
19節で、「弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。(マルコによる福音書14:19)」とあります。
キリストを引き渡す、手放すのはわたしではあるまいか。この弟子たちの不安な予感が的中するのです。50節で「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」と書かれてあります。イエスを裏切ったのは皆です。ユダだけでなく皆が「生まれなかった方が良かった」と言われたと分かります。
マルコ福音書の中心はこのような皆を、あなたを、御国に待っている。御国で共に飲みたいのだと主は言われる。しかしそれまでは一滴も飲まないで待っていると言う約束です。これが聖餐の意味です。御国で共に飲む前に、あらかじめ契約を結んでくださったのが聖餐の意味です。
この契約は本当なのか確かめましょう。
15章の23節「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。(マルコによる福音書15:23)」
没薬の葡萄酒を飲ませようとしたがイエスは飲まれなかった。
また同じ36節に
「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。(マルコによる福音書15:36)」
海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付けイエスに飲ませようとしたが飲まれなかったのです。
神は二度繰り返しキリストは約束を守って葡萄酒を飲まずに死なれたと書いてあります。
主を裏切った弟子たち皆に対してキリストは約束を命懸けで守ってくださった、これが他の福音書にない聖餐の意味であります。
【まとめ】
私たちは天下太平のように主イエスを信じるのではありません。私たちには尚「生まれなかった方が良かった」と言われる不幸が、一生消えないような不幸もありますが、私たち一人ひとりの不幸を直視させられるのは信仰生活はごまかしでは無い。何のためか。そのあなたを御国で待っている。洗礼を受ける事はこういう約束です。私たちは「ありがとう」と言うだけでいいのです。どうか洗礼を受けて共に聖餐式に与ってください。
現実にこれからも「生まれなかった方が良かった」と言われることが起こるかもしれません。本当に苦しい時にキリストを手放すユダになるかもしれません。信仰が揺るがされる時にもキリストの契約は決して揺るがない契約であります。私たちに弱さがあっても主の契約は揺るがない。私たちは全員この約束に与るのです。これが神を味方に付けた生き方であります。問題があっても、私の中になかった力を神からいただいて私たちは歩むことができるのです。どうか今日この聖餐に与れない方も次回は是非与ってください。(おわり)
2013.8.4.説教「私は福音を恥としない」赤石めぐみ先生(伊丹教会)
2013.8.4.説教「私は福音を恥としない」赤石めぐみ先生(伊丹教会)
聖書:ローマの信徒への手紙1章
16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
説教要約(文責近藤)
【わたしは福音を恥としない】
使徒パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りました。西谷は因習の強いところだと思いますが、そのような土地で「福音を恥としない」とは、クリスチャンとして福音に生きることは恥が多いことだと言うことでしょうか。
今日はこの福音とは何かを考えてみたいと思います。
今日のローマの信徒への手紙の少し前のところ一章2に「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、3 御子に関するものです」と書かれています。
この福音とは御子に関するものであると分かります。聖書には4つの福音書が書かれていますが、イエス様の生涯の物語だけが福音でしょうか。
【異邦人を信仰による従順へと導く】
使徒パウロは、この福音は「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました(ローマの信徒への手紙1章5)」と語ります。異邦人を信仰による従順へと導くためということも福音は含んでいます。
すべての異邦人を信仰による従順へと導くため愛を受け使徒とされたとパウロは言ってります。
この異邦人の中にイエス・キリストのものとなるようにされたあなた方もいるのですと書かれたように、西谷に居る私たちも同じく異邦人であります。福音にはこのことも含まれると思います。すなわち異邦人を信仰による従順へと導くこと、それはイエス・キリストのものとなることです。
【福音は神の力である】
「福音は信じるものに救いをもたらす神の力」と言われます。福音は力を持っていると
いうことが感じられると思います。
パウロはコリントの信徒への手紙一18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とよく似た言葉を語ります。
「福音」とこの「十字架の言葉」とはどう違うでしょうか。
福音が十字架の言葉となって私たち救われる者には神の力だと言います。
【御子の御生涯】
福音とは十字架と復活だと思います。
主イエスの御生涯を具体的に思い浮かべてみたいのですが御子は正しいお方であるにもかかわらず、すべての人間の罪のために身代わりとなられた、身代りとなって十字架の辱めを、またその肉の苦しみを受けられました。正しい人がこのような理由なき苦難に遭わせられたら私たち人間はどう反応するでしょうか。
十字架は悔しい恥ずかしいことです。御子は正しいお方であるにもかかわらずその辱めを受けてくださった。もし自分がそうだったらそういう生き方に耐えられるでしょうか。
しかしパウロはそれを、すなわち福音を恥としないと言いました。軽々しく福音を恥としないとは言えないと思うのですがパウロはそう言い切ります。主イエスは死んで終わられない。復活され今も生きておられる事をパウロは知っていたのです。それでパウロは主の生き方を恥としない、主の死の迎え方を恥としないと言い得たのです。
福音とはイエスの生き方に倣うことです。パウロはローマの信徒への手紙6章で「5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と言います。
私たちが自分の十字架を背負って、敵を許すことのできた主イエスに従うとき主の復活にまたその救いにあやかれることができるのです。
主が示された生き方が福音です。ここに神の義が啓示されて神が正しいとされた生き方があります。
主イエスの中に神の義が啓示されています。それが神が正しいとされた生き方です。主の死の迎え方を神は正しいとされました。
【信仰を通して実現される神の義】
ローマの信徒への手紙1章17 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。
「信仰を通して実現された」と書かれていることは誤解されやすいですね。信仰は私たちのものと言えないのです。神を私たちが自分の力で信じたとは言えないわけです。信仰は私から生まれるものではなく神様が私たちに信仰を与えて保ってくださるからです。
ギリシャ語聖書から「信仰」という言葉を見ますとこれは「アーメン」と書かれています。「アーメン」とは真実ですとか、その通りですという言葉でいつも祈りの終わりに使うことばであります。
信仰は神様の真実から神様の真実へ、神様の確かさから神様の確かさに至るのです。信仰は徹頭徹尾神さまの確かさから生まれる出るものです。神が本当におられるから神は確かなものとされると読めるものですね。私たちの中には正しさは全くありません。主を信じても罪が残ります。自分を捨て、神が救いを達成し、全うさせてくださるという生き方がここに書かれています。
【義人は信仰によって生きる】
最後に「正しいものは信仰によって生きる」ということについて考えましょう。
これは旧約聖書のハバクク書2章からの引用です。
ハバクク書2章「4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
このハバクク書1章の始めには「2 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない」とあり、ここで預言者は「私が助けを求めるのにあなたは聞いてくださらなかった。神は正しい人を助けてくれない」と嘆くのです。
【たとえ遅くなっても待っておれ】
ハバクク書2章3、4節には「3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」。
ここでは「たとえ遅くなっても待っておれ」が神の答えです。「しかし神に従う人は信仰によって生きる」。すぐに救いは来ない。私たち人間には正しい人はいないのです。神によって神の救いを待って生きる人が正しいとされる人です。
今も不法のはびこる世の中です。早く救いがきて欲しいと願います。しかし私たちには、この世に生きる生き方として主イエスの生き方が示されました。忍耐をもって復活の日を待つ、救いを待つ生き方を福音といいます。福音とはこの主の生き方を恥としないと言う生き方です。これが神の力です。神が救いを与えてくださる、永遠の命を待つ生き方、これが神の力です。主イエスの生き方は、人間的には悔しい耐えられないと思われる。私たちはこの生き方を恥として自分の正しさを主張するのです。
しかしパウロは主から与えられた生き方を多くの人に伝えたいと思い数々の手紙を書きました。十字架の生き方とその先に復活が待っている生き方を伝えたフィリピの信徒への手紙3章9節「9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」
フィリピの信徒への手紙3章「17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。
パウロが「今また涙ながらに」と言っていますが、キリストの十字架に敵対する生き方にすぐに戻らないようにとパウロは勧めます。そしてパウロに倣う生き方をを習って、すなわちキリストに倣ってほしい。福音を恥としない生き方を味わってほしいと思います。初めにパウロが言った「私は福音を恥としない」とは簡単な言葉ではないと思うんですがパウロがまだ見ぬローマの信徒たちに伝えたように西谷の人たちにも解ってもらえるようこの伝道を続けたいと思います
(終わり)。
2013年08月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
2013年7月28日説教「内に塩をもつ」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)
2013年7月28日説教「内に塩をもつ」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)
聖書: マルコによる福音書38-50節
38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。
49 人はすべて火で塩づけられねばならない。50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
【はじめに】
今朝は9章38節以下から共に御言葉に聞いてまいりたいと願います。全体を一読して、意味が分かりにくかったのではないでしょうか。まとまりのないような言葉がいくつも並んでいるような印象を受けるのです。それですから、まず全体をざっと目を通すことで、見取り図を把握しましょう。
今朝の箇所は全体として三つに分かれます。その第一が38節から41節が一つのまとまりです。ただし40節と41節の間に小さな切れ目があります。この38節から41節までは、弟子がテーマになっています。自分と意見が異なる弟子たちに対する態度についての教えです。先週と正反対のことがここではテーマとなります。つまりイエスの名によって拒んでしまうことです。
二番目のまとまりが、42節から48節です。ここでは「つまずき」がテーマです。信仰を同じくする兄弟や、自分自身をつまずかせないことが教えられます。
そして3番目のまとまり、これは結論ですが、50節と51節になります。自分の内に塩を持つことが命ぜられます。以上の3つのまとまりから今朝の箇所はなっています。それぞれを順序に従ってみていきます。
【イエスの名によって】
第一番目のまとまり、38節から41節です。ここは細かく分けるなら、38節から40節と41節だけの二つに細分できます。とりわけ前半の38節から40節ではイエスの様の弟子が反対者に取るべき態度を教えています。
38節「ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を負いだしている者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」」。12弟子のひとりのヨハネが、自分たちと異なるグループが悪霊を追い出しているが止めさせようとした、との報告をイエス様にします。それに対してイエス様は言われます「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」イエスはヨハネの発言をしりぞけます。
【自己判断の過ち】
このヨハネには軽率さと性急さがあります。他のグループが悪霊追放をしているのを見て、ヨハネは自分の判断で止めさせようとしました。ヨハネはイエス様がそのことをどう思われているかを、まず尋ねるべきだったのです。
【権威独占の過ち】
もう一つこのヨハネの発言には根深い罪が隠されています。それは権威を独占したいという欲望です。ヨハネはイエス様の名前によって悪霊が追放されることを目撃しました。その権威は12弟子に与えられた権威でした。しかしその人たちは自分たちのグループでもないし、自分たちの方法にも従わなかったのです。ヨハネは「わたしたちに従わないので、止めさせようとした」のです。イエス様から与えられた特権を自分たちだけのものとして留めたかったのです。
【教派の存在と意味】
ここで求められているのは、キリスト者の集まりの中で、自分と意見が異なる人を受け入れるようにという招きに応えることです。わたしたちは改革派教会に属します。わたしたちは改革派信仰を持って歩んでいます。しかし他の教派も存在するのです。その教派を異にする兄弟たちも同じキリスト者として生きていることを認めるようにとこの箇所は教えます。わたしたちは、わたしたちの教派の中を信仰の確信をもって歩みます。しかしそのことは他の教派を排除することとはつながらないのです。
イエス様は「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの見方なのである」といわれます。キリスト者は神の栄光が、この地上でも、あらわれることを求めて生きます。神の栄光は私を通して現されますが、同時に意見が異なるキリスト者を通しても表されます。他の人を通して、神の栄光が現されることを、イエス様は喜ぶようにと招かれます。
この38節から41節までは名前という言葉が2度(原文では3度)出てきます。先週のつながりで考えますと、先週はイエスの名によって小さな者を受け入れることを教えられました。今朝の箇所は反対の教えです。イエスの名によって拒むことがあってはならないことを教えます。主の祈りで、「御名があがめられますように」と祈ります。イエス様は、自分と意見が異なる人によって神様が崇められていても、ねたんで退けてはならないといわれています。
あの人が教会で評価されると、心が騒ぐという人がそれぞれにいるのだと思います。人はいつも自分がいちばんでありたいと思うからです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という御言葉はここにもあてはまります。わたしたちに求められることは、神の栄光が現されるために仕えることであって、どの人がいちばん用いられているかという教会の中での順序を競うことではないのです。
【もてなし】
そして41節ではかえって、「キリストの弟子だという(名前)理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれるものは、必ず報いを受ける」といわれます。弟子はほかのイエスの名前の弟子に対して、水を飲ませることで報いを受ける。一杯の水は、乾燥したパレスチナでは価値ある贈り物なのです。ありあまる中から一杯の水でもあげるのではなく、ほんとうに価値あるものを差し出すことを意味しています。意見が異なる弟子であっても、いやいやにではなく心からもてなしなさいという招きです。
【つまずき】
さて2つめのまとまり、42から48節を見ていきたいと思います。ここでは「つまずき」という言葉が4回も繰り返されます。ここでのテーマは「躓き」です。42節は他者をつまずかせること、43節以下では自分自身をつまずかせることです。それぞれに割り当てられている分量を見てください。他の人をつまずかせることには1節だけ、自分の躓きにはその3倍以上の分量です。ほかの人のことよりも、自分に対して厳しくあれということです。自分の目の中にある丸太には気が付かないで、他の人の目にあるおが屑が気になるからです。
さて42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな挽き臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。小さな者の一人とは、36節の子どものことを直接には指します。子どもを神様の恵みから遠ざける者は罪深いのです。またすべてのキリスト者は小さな者ですから、どんな信仰者でもつまずかせる者は罪深いのです。
ここで言われる躓きは、身分が自分よりも下だからといって軽んじる人や、自分自身の満足を求めて、他の信仰者の利益を軽んじることです。信仰者がほかの信仰者をつまずかせる。取りわけ、小さな子どもや、信仰に導かれて間もない人をつまずかせることが罪深いのです。
その様な者は、挽き臼、これはロバ引くおおきな挽き臼で真ん中に大きな穴が空いています。その大きな挽き臼を首にかけて、海に投げ込まれてしまえばよい。当時、墓を持たない死に方は不幸な死でした。海に投げ込まれ行方不明の死を遂げるがよいと言われます。神学生である自分の言動を通してつまずかせる方があるのではと私も反省させられます。ここから続いていくイエス様のたとえはとてもグロテスクです。
【自分を躓かせる】
43節以下では自分がつまずくなということを教えられます。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」このあとも「片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」体を切ってしまえとまで、非常に恐ろしいことをイエス様は命じられます。
イエス様は外科医のようです。わたしのなかで巣くっている病気の原因をえぐり取り、切り捨てなさいと命ぜられます。罪と共に滅んでいくよりは、病気の原因を切り取りなさいと言われます。切り取れば、もちろん血が出ます。この言葉に従って古代キリスト教神学者でオリゲネスは去勢をしたのではと伝えられます。
【罪の誘惑を切り捨てよ】
宗教改革者カルヴァンはこういいます「キリストは神の律法に従うために手足を切ることを望まれたわけではない。しかし感覚によって手足が欲望のおもむくままに用いられることよりも、神に従うことの妨げを何であれ切ってしまうことを言うために、大げさな表現を使われた」つまりわたしたちは欲望に任せることで、心が自由にされて誘惑に負けてしまわないように警戒することが求められます。
最初の先祖は悪魔の誘惑に会いました。蛇の誘惑にそそのかされて、女が神の禁じられた善悪の木の実を見ると、「その木はいかにもおいしそうだった」のです。女は目で見て、手で取って食べました。そして足で歩いていって、男に手渡します。男も取って食べました。目で見て欲望がおきます。そして歩いていって、この手で罪を犯すのです。わたしたちの罪は心から起こり、この体を通して実際にやってしまうのです。アダムとエバは罪を犯した結果、裸であることを知りました。神に罪を犯すとき、恥を感じるのです。
【命を得るために】
イエス様の外科手術には、目的があります。それはわたしたちが命を得るためです。手足を失ってでも「命にあずかる方がよい」「神の国に入る方がよい」といわれるのです。イエス様はこのわたしにもこの外科手術を施されます。それは命に生きるためです。神に従っていくために障害となるものを、少々荒っぽいやり方ではありますが切り取られるのです。
これは私にとっては、プライドや健康でした。これまで自分が大切にしていたものを神様はずばっと切り取られます。大切なものであればあるほど、切り取られれれば痛みを感じます。そして切り取られて片手になればかっこうわるいですし、不自由です。しかし、この痛みや恰好悪さがほんとうは必要なのではないでしょうか。
【偉大な信仰者でも】
旧約聖書の代表的な信仰者を思い出してみましょう。例えばモーセです。モーセは出エジプトを導いた偉大な指導者でした。しかし彼は一度だけイスラエルの民の面前で大きな罪を犯しました。岩に命じて水を出せと神が命じられたのに、彼は岩を杖でたたきました。不信仰を民の面前で示してしまいました。そのためモーセは約束の地に足を踏み入れることができませんでした。
もう一人、イスラエルの王ダビデは、人の妻を奪い、その夫を殺すという姦淫と殺人の2重の罪を犯しました。イスラエルの王が大きな罪を犯しました。ほかにもアブラハムも罪を犯しました。幾人ものイスラエルの代表者が大きな罪を犯しました。
【罪を悔いる】
しかし、旧約聖書はこのような神の前のおおきな罪を隠すことをしません。聖書に書かれているのです。今のわたしたちまで彼らの罪が伝えられるのです。しかしけってこのような罪が正直に書かれていることに慰めも覚えます。信仰の代表者たちが失敗をしたからです。しかし同時に彼らは大胆に罪を悔いたのです。罪を言い表すことに立派でした。旧約の信仰者は罪を犯しましたが罪を悔いて、そして罪を神様の前に言い表して生きました。いうなれば自分の恥ずかしさを神と人に隠さずに晒して生きたのです。
【地獄の火で焼かれないため】
わたしたちにはそれぞれ神様によって切り取られる所があるのです。それは地獄の火で焼かれないため、神の永遠の裁きに会わないための神の憐れみによる外科手術です。例えば異教の文化の中でいきるなら、当然家族との対立もあると思います。イエス様に従うとき、家族と間の関係で痛みを覚えます。しかしわたしたちがイエス様に従って生きていくときの痛みは、ただの痛みだけでは終わることはないからです。それは命への招きであることを同時に忘れないようにしたいのです。そしてわたしたちの切られた手足は、天国においては完全に回復されるからです。
【火で塩味を付けられる】
最後に結論の49節50節の結論を見て参ります。49節「人は皆、火で塩味を付けられる」少しなぞめいた文章ですが、これは犠牲の捧げ物と関係があるようです。レビ記2章13節に「穀物の捧げ物にはすべて塩をかける」つまりわたしたちが、神様に捧げ物としてこの体を捧げることがイメージされています。穀物の捧げ物が、塩をかけて火に焼かれて、よい香りと捧げ物を神様は受け入れてくださるように、わたしたちは塩と火によって神に受け入れられるために味付けられるのです。
ところでここでの塩や火は何でしょうか。カルヴァンは、火とは御言葉であるというのです。わたしもその通りだと思いました。48節にも地獄の火が出てくる。49節にも火が出てきます。それぞれ違う火のようでもありますが、同じ火を指すのだと思います。火とは御言葉です。つまり御言葉はわたしたちを燃やすのです。古い私を御言葉は火にかけます。
この御言葉は古い私を断罪して火で焼くのですが、同時に御言葉の火はわたしたちを清めます。御言葉がわたしたちの古い自己の中心に達するとき、その火は燃え上がりわたしたちを裁きます。御言葉の火は古いわたし、肉の私を滅ぼすのです。
【自分自身の内に塩を持ちなさい】
しかしこの御言葉の火は燃やして裁くのと同時に、わたしを立たせるのです。御言葉は私を新たにします。この御言葉の火によって与えられるのが、塩なのです。塩は腐敗を防止することができます。塩を汚れた水の源に投げ入れると水が清くなったことが旧約聖書にあります。塩とは御言葉の火によりあたえられるわたしたちの内にある清い心です。この塩によって、心は腐敗から守られ、浄さを守ることができるのです。
ですから、イエス様は言われます「自分自身の内に塩を持ちなさい」。それぞれの内に御言葉の火による清めとしての塩を持つのです。使徒パウロはこれを発展させてアドバイスして言います「いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。そうすれば一人ひとりにどう答えるべきかが分かるでしょう」(コロサイ4:6)。わたしたちは塩で味付けられた言葉を語るように求められています。それは快い言葉です。
他の人をさげすんで、傷つける言葉が多い時代です。わたしたちは、互いに塩でもって味付けられた快い言葉、本当に他者を立ち上げる言葉を御言葉に基づいて互いに語ることが求められます。「互いに平和にすごしなさい」。イエス様はそれぞれが内に塩を持つことで、愛の言葉を互いに語ることへと招きます。互いに平和に過ごすことは、御言葉による塩によって、汚れた私の心が清められることによって始まります。
先週の聖書箇所から振り返るなら、塩味を失わない生き方とは、子どもを「イエスの名」のためにうけいれること(33-37)、そして自分と意見が違う人を追い出さないで「イエスの名」によって受け入れること(38-41)、そして兄弟たちや自分自身をつまずかせないように配慮を怠らないこと(42-48)です。
【ただ一人主のみ】
しかしだれ一人完全に御言葉に従いきることはできません。イエス様お一人がこの御言葉に生ききってくださったのです。この方が、わたしたちが受けなければならない罪による恥と地獄の滅びを一身に背負ってくださったのです。罪の誘惑にわたしたちはだれ一人、勝つことはできません。
イエス様お一人が罪の誘惑に完全に勝たれました。公生涯のはじめにイエス様は荒れ野で悪魔の誘惑に会われましたが、御言葉によって悪魔の誘惑を退けられます。そして生涯の最後には私に代わってイエス様は最大の恥であり、神の呪いでもある十字架の死を死んでくださいました。そのように十字架の死に至るまで神の御心に完全に従うことで、わたしたちのために永遠の命を代わって獲得してくださったのです。
このお方が私たちに代わって御言葉にしたがって歩み通してくださいました。イエスは死に勝利され復活されたお方です。このイエス様の言葉は、勝利である命への招きの言葉なのです。同時にイエス様の言葉は炎です。わたしたちを裁いて焼いてしまう炎とは、イエス様の犠牲のともなった愛の滴る御言葉でもあります。御言葉はわたしたちを刺し貫きますが、それは命への痛みです。命へと招かれるイエスの愛の御言葉に聴き続けたいのです。(おわり)
2013年7月21日説教「いちばん偉い者とは」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校),森田姉庭でばーべQ 昼食会
2013年7月21日説教「いちばん偉い者とは」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)。
聖書:マルコによる福音書9章30-37
30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
【イエスは人に気付かれるのを好まれなかった】
今朝は9章30節以下の続きから御言葉に聞きましょう。30節「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。」
「そこ」、といわれる場所は、8章27節のフィリポ・カイザリア地方のことである。イエスはそこを立ってガリラヤを通られるが、多くの人たちに気付かれることを好まれなかった。それはこれから話すことが弟子たちだけに向けられた言葉であったからである。
31節のおわりに「と言っておられたからである」とある。この翻訳では抜けている言葉があります。それは「教えられた」という言葉である。イエスはただ何となく弟子たちの耳に入ればよいと語っておられたのではなく、はっきりと教えておられたのである。
その内容は何か。31節「それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、三日の後に復活する」と言っておられたからである」とイエスは御自身の死のことをはっきりと知っておられた。そしてそれは受難の死であり、聖書に基づいて起こるであろうことを弟子たちに、とくとくと諭し教えられたのである。
【メシア受難預言】
受難の内容は旧約聖書に記されている。一つにはイザヤ書53章が挙げられる。苦難の僕と言われる箇所である。その苦難の僕がイエス・キリストなのである。53章「:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」。
そしてもう一箇所はダニエル書7章である。そこには「人の子」という終末にあらわれるメシヤ救い主のことが書かれている。イエスは旧約聖書を基にして、御自身の受難としての死を弟子たちにはっきりと示された。
31節の「人々の手に引き渡される」という言葉は、文字通り読むならば、イエスが弟子のユダの裏切りによって引き渡されたことをさす。ユダによってこの世の支配者たちの手に引き渡され、この世の支配者たちによって有罪宣告を受けることになる。しかし、この「引き渡される」という受け身の表現には、やはり隠された主語がある。それは神であり、神によって十字架へと引き渡されたのである。ローマ8章32「わたしたちすべてのために、その御子をさえ死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」
イエスは御自身の死をはっきりと知っておられ、そこに顔をむけてまっすぐに歩まれる。イエスの十字架での死は偶然でも失敗でもなく、天におられる神の御心の成就である。
【怖くて尋ねられなかった】
しかし、このときイエスから教えられた弟子たちはどうであったか。32節「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とある。弟子たちはこれから起こるとをうっすらと分かっただけであった。そして怖くなってしまった。なぜならイエスの十字架の死はただ残酷だけでなく、その残酷さは自分たちに原因があることを示されるからだ。十字架の直視は、自分の醜さと残酷さの直視となる。このことに人は耐えられない。だから弟子たちはこれ以上尋ねることはできなかった。
そのようにして旅を続けた一行は、ガリラヤを抜け、カファルナウムに到着した。カファルナウムとは福音書の初めから登場する町で、イエスの伝道の拠点であった。
【だれがいちばん偉いのか】
さて、イエスは弟子たちに何を議論していたのかとお尋ねになる。しかし、弟子たちは返答に窮してしまう。なぜなら、彼らの議論していたことは「だれがいちばん偉いのか」という内容だったからである。だれがいちばん偉いのかという議論はこれまでのイエスの教えに明らかにそぐわないものであったからだ。
イエスは弟子たちの心を知っておられた。イエスは「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム16:7)のである。そして弟子たちに自分たちの愚かな思いを振り返らせるため、イエスはあえて問われたのである。
弟子たちは誰がいちばん偉いのかという議論をしていた。「だれがいちばん偉いのか」よりも「だれが、より、偉いのか」というのが直訳である。弟子たちの中で順番をつけようとしていたのである。この種の議論は、この世ではよくあることである。しかしこの議論は弟子たちの中、教会の中で起こったのである。しかもイエスが十字架へと向かっていくその緊張の中で起こった。終末が近づいている緊張の中、弟子たちは愚かにも順番にこだわったのである。
イエスは弟子たちの心を調べられる。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」(エレミヤ17:9-10)。イエスによって心を調べられるなら、弟子たちは黙るしかない。人は皆罪人で、神に心を問われるなら自分の罪を前にして沈黙をもって答えるしかない。
【誰がいちばん偉いか】
弟子たちは主イエスの十字架の受難の予告のあと、すぐさま自分たちの序列を議論し始めた。イエスの教えがあっという間に蒸発してしまったのである。人は不快なこと、十字架を見続けることができない。弟子たちはそれほどに移り気で、薄情であり、なにより不信仰である。
さて彼らが議論していたのは、より誰が偉いかという、人を押しのけて上昇していくことである。上昇志向はその裏に、劣等感が潜んでいることがある。人をうらやむ気持ちには、神が与えてくださったすべての賜物を喜ばない思いが潜んでいる。神からのすべての賜物には弱さも含まれる。弱さや欠けを覚えることが、つらいことではあっても、ほんらい主に頼ることを学ばせる大切な機会だからである。弱さを受け入れないことと、上昇志向はつながっている。
この弟子たちをイエスは呼び寄せられる。35節「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」座って教える姿は、山上の説教でも見られ、権威を表す。そして権威ある声で弟子たちを御許に呼び寄せる。
イエスの弟子たちへの教えは衝撃的である。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。「いちばん先」という語は、聖書の他の箇所で「いちばん上」(マルコ10:44)、とか「指導者」(ルカ19:47)と翻訳される。
いちばん上になりたい者、いちばん先になりたい者は、しんがりを歩み、すべての人に仕えよと命ぜられる。このイエスの教えは、価値観の転倒、考え方の上下の入れ替えを求める。そして考えのみならず、生き方の転倒まで求められる。本当に知ることは生き方が変えられることである。イエスの発言は思い上がる者をくじき、惨めな者に自由と回復を与える言葉である。
上の者になろうとする弟子たちに、ここで謙遜に生きることが提示さる。しかし謙遜に生きることを自らの力で生きようとすることは傲慢である。ただ神の憐れみに生かされることにより、謙遜はただ上から贈り物として神から与えられる。
これまで弟子たちは、すべてを捨てて従ってきた。ペトロは少し後の箇所でいう「このとおり、わたしたちは何もかも捨てて従って参りました」。確かに彼らは、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てて従ってきた。しかし弟子たちの熱心が、彼らの高慢や出世欲と結びついた。神に仕える者が、われこそ誰よりも熱心であるというときほど鼻持ちならない者はない。我こそはという独りよがりの熱心が、同じ兄弟を見下して裁くことになる。
【子どものようになれ】
イエスはその時、一人の子をみそばに呼ばれる。36節「そして、一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」。イエスは子どもを真ん中に立たせる。そして言われる。子どものようになれと。私たちはすでに大人になっているのであるが、子どもになれと言われるのである。ある説教者はいう「富を捨てよと、イエスが青年に言われた。それと同じように、このときのイエスは、弟子たちに大人を捨てよと、言われた」と。つまりイエスは弟子たちに大人としてのプライドを捨てよという。これほどまで献身して歩んできたという誇りや、業績を捨てよといわれる。
ここでの子どもとは、罪がない存在としての子どもということではない。人は誰もが生まれながらに子どもであっても罪がある。イエスが子どもを評価されるのは、その単純さ、素朴さ、そして何よりも低さである。子どもは名誉やプライドに執着して生きることをしない。マルコにはなくマタイであるが「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とイエスは言われる。 イエスは子どもの低さを愛された。低くして子どものようになる人が天国でいちばん偉いのだと。子どもは自分には助けがなければ生きられないことを知っている。弟子たちも子どもと同じく神に頼らなくては生きられないことを示される。
イエスは言われた「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」。子どもを受け入れる人は、イエスを受け入れる。イエスを受け入れる人は、遣わされた父なる神を受け入れるのである。
【炊き出しの列にならぶイエス】
ホームレスが配給を待つために列になって並んでいる絵(フリップ・アイヘンバーグ)がある。夕暮れにくたびれた年老いた男女が、うつむき加減で、一列になって配給を待っている。絵からは並ぶ人たちが沈黙して並んでいることが伝わってくる。厚着をしているのでさむい冬だろう。わたしはこの絵を初めて見たときはっとさせられた。イエスがどこにおられるのかということについてだ。イエスは炊き出しを出すボランティアのなかで奉仕しているのだろうか。そこにはイエスはおられない。なんと!イエスはホームレスと共に列に一緒に並んで配給を待っている。その絵のタイトルは「炊き出しの列にならぶイエス」というタイトルである。
イエスはどこに立っておられるのか。低くされた所におられる。最初に見たイザヤ書53章の苦難の僕は、ギリヤ語訳聖書では僕のことを今日の箇所の「子ども」という言葉で扱っている。またイエスの話されたアラム語では「僕」と「子ども」という言葉が同じであるそうだ。イエスは子どもと自分のことを同一視され、低くされた子どものような僕としての御自身を示される。
【子どもを受け入れる者】
イエスと弟子たちが議論したのは「家」である。この家とは、ペトロの家のことである。ペトロの家でイエスは集まった子どもの一人の手をとられた。ひょっとするとペトロに子があれば、彼の子どもだったかもしれない。カファルナウムの小さな町で、いずれにせよ、弟子の誰かの近親者だったろうと思われる。その子にイエスは目を留められた。当時子どもの話に耳を傾けるのは時間の無駄だと言われていた。その様な無視されていた小さな存在にイエスは目を留められた。
子どもを受け入れる者はイエスを受け入れるといわれた。文字通り受け取るなら、すべての子どもを受け入れているものたちへのイエスの祝福の言葉である。それは両親たちであり、子どもを預かるものへの祝福である。
イエスは小さく低くされたものを受け入れるように招かれる。これは私たちの生来の目は大きいものに注がれがちだからです。だから小さなものへ目を向けよと招かれる。しかし忘れてはいけないことは、「わたしの名のために」という言葉である。イエスの名のためにとは、イエスの支配によってということである。もしイエスの名によらないなら、人は小さな者を受け入れることで、反って逆に自分自身が大きくなり、自分を誇り始めるからである。
いちばん偉い者とは誰か。イエスは極みまで遜って、謙遜であられた。イエスは子どもの低さを愛された。地上で誰よりもいちばん低くなられたのはイエスではなかったか。受難予告はマルコにおいて3度ある。弟子たちは予告の繰り返しでこれから起こることを少しずつ理解する。しかし3度とも弟子のピントはずれてしまい、イエスの思いはくみ取られない。
【人の子は仕えられるためではなく仕えるために】
3度目の受難予告の後、栄光を勝ち取られたイエスの左右の座に座りたいとヤコブとヨハネは言う。その願いは退けられて、イエスは言う「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである』」。
【世の支配者と主イエス】
この世の支配者は自分の思いによってこの世を支配する。この世の力ある英雄たちは、力によってこの世界を結局は駄目にする。彼らは国々を力によって自分自身のために征服するが、そのことによって自分自身を惨めな者にする。しかしキリストはこの世の国々を同じように征服し、その地はキリストが支配されるところとなる。その地に住むもの、神の国に住む者は必ず幸福になる。なぜなら神の国は力ではなく、神の愛と神の正しさによって支配されるからである。
さらにイエスはこのような我々の罪のために命を捧げてくださった。そして神が人となって、そして仕えてくださった。この世の物語では人が神となる。聖書はあべこべであり、神が人に仕えるために、また命を我々に変わって献げるために来られたことを説く。人知を超えた神の一方的な愛が我々に注がれている。
【キリストに倣って】
だからローマ書でパウロは弱い兄弟を受け入れよという。「それなのに、なぜあなたがたは、自分の兄弟を裁くのですか。またなぜ兄弟を侮るのですか」。キリストは私だけのためでなく、我々の兄弟姉妹のためにも命を献げられた。イエスは言われる「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのです」(10:45) 。だから私たちは互いに受け入れ合うのである。
キリスト者すべては聖霊によってキリストが宿っていてくださる宮である。キリストはどんなに見劣りする兄弟にもおられる。だからその人を私たちは重んじなければならない。その人を重んじないならば、そこに宿られるキリストを拒むことになるのだから。私たちはともに教会で互いに受け入れあい歩める恵みに感謝を覚える。(おわり)
2013年7月7日説教「主イエスの変容」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)
2013年7月7日説教「主イエスの変容」西堀元(はじめ)神学生(神戸改革派神学校)
聖書:マルコ9章2-13節
2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
(説教要約 文責近藤)
今朝はマルコによる福音書9章から、御言葉に聞いてまいりたいと願います。2節に「六日の後」にとありますが、これは8章の27節以下にありますペトロの信仰告白、そして続くイエス様の受難と復活の予告があってから六日たった、つまり一週間後ということです。今朝の御言葉は、イエス様が3人のお弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られたことから始まります。
【イエス様の3人の弟子】
イエス様はこの3人の弟子を究めて大切な機会に、伴われて出かけられました。5章35節以下には、会堂長ヤイロの娘の復活にイエス様が同じ三人の弟子を連れられたことが記されています。また14章の32節以下で、ゲッセマネの園で祈られるイエス様は、同じ三人をお近くに連れて行かれました。この三人を連れて行かれるときは、イエス様の秘密のベールが取り除かれるときといって良いでしょう。それは今日の箇所も同じです。出来事の秘密性を強調するために「ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけ」を加えているのです。
そもそも何故3人だけなのでしょうか。これは旧約聖書にあります出来事の証人としての必要な人数だからです。(申命記17:6)重大な証の出来事に必要な最低限の人数をイエス様は連れて行かれました。
そのようにして高い山に、イエス様と3人の弟子たちは登ります。この山は伝統的にタボル山といわれていますがそれが事実であったかは定かではありません。
【山の上での出来事:イエスの姿が変えられた】
2節後半「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」から8節の終わりまでが山の上での出来事です。ここには二つの特徴があります。一つはイエス様が行為の主体になられないことです。イエス様はここでひとこともお語りになりません。イエス様の方から行動を起こされないのです。私たちの新共同訳聖書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」とあるので、イエス様が動作の主体であるようにおもわれますが、そうではありません。原文では受動態の動詞が使われていて、直訳すれば「彼らの面前で姿が変えられた」となります。はっきりと書かれていないですが、主語は神です。神によってイエス様の姿が変えられたのです。
【それは3人の弟子の為に】
第二の特徴はこの出来事は弟子たち三人のために起こったのだということです。彼らのために、彼らの目の前でイエス様の姿が変えられました。雲の中から神の声が「これはわたしの愛する子。これに聞け」と響きました。この声も神がイエス様を彼らに紹介するための声です。
二つの特徴をまとめますと、山の上での出来事のねらいはイエス様が誰であるかを弟子たちに示しているということです。しかもイエス様は受け身ですから、教えるのはイエス様ではなくて神です。
さてこの時のイエス様のお姿は3節にあるように「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」のです。光り輝く栄光のお姿でした。このイエス様の衣の輝きは天に属するお方であることを意味します。イエス様の復活なさったとき墓にいた天使たちの衣も白色でした。
そこにイエス様の天に属する者であることをさらに示すこととして、エリヤとモーセがそこにあらわれました。モーセは律法をあらわし、エリヤは預言者を代表しています。この二人によって旧約聖書の全体を表します。イエス様はこのモーセとエリヤと語り合っておられます。その内容はルカによる福音書の平行記事から分かります。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」のです。(ルカ9:31) 今朝のマルコの記事では語られる内容には注意が払われていなくて、エリヤとモーセと話しているイエス様が天に属するお方であられることに注意を促します。
さてその様な栄光に包まれているイエス様にペトロが口をはさみます。5節「先生、わたしたちがここにいることはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ここで栄光に包まれているイエス様に対してペトロは声を掛けることが出来たということに私たちは慰めを覚えます。ふつう人は権威や力を持てば、その人に容易に近づきがたい印象や権威による圧力を与えます。しかしここでのイエス様は天的な栄光に包まれて光り輝いているにもかかわらず、それでもペトロが声を掛けることの出来るお方でした。
【ペトロの間違い】
さて注目したいのはペトロの発言です。ルカの平行記事では、このとき弟子たちは「ひどく眠かった」とあり、口語訳では「熟睡していた」とあります。どちらとも訳せる言葉です。眠ってしまっていたか、ひどく眠かったか、いずれにせよペトロがここで答えた言葉は、目覚めていながらも寝ている、寝言のような愚かな言葉なのです。
その間違いは、第一にペトロはイエス様を、モーセやエリヤと同列に扱っていることです。仮小屋を「一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのため」という言葉からイエス様を、人間にすぎないモーセとエリヤと並べる過ちを犯しています。宗教改革者のカルヴァンはただの人間をイエス様と同格に扱うことを偶像崇拝の始まりとして厳しく退けています。
第二にペトロは神の栄光を自らの手の内に握りしめようとしたことです。ペトロは言いました「先生、わたしたちがここにいることはすばらしいことです」。ペトロは自分が今ここに居合わせたことはとてもすばらしいことだと思ったのです。ペトロは味わった天的な喜びを引き留めておこうとして「仮小屋」つまり天幕をここに建てましょう、と提案するのです。小屋を建てることでペトロは天の栄光を地上に、自分の手によって引き留めておこうと願ったのでした。人は神の栄光を自分の力で持つことも離すことも出来ません。神の栄光はただ神のものだからです。
さらに第三の間違いはペトロが神の栄光に酔うことで自分の責任を忘れたことです。ペトロはイエス様の圧倒的な栄光を自分が見ることを許されたことで有頂天だったのではないでしょうか。たった三人だけをイエス様は伴われました。イエス様には弟子たちに特権意識を与えるつもりはなくとも、この状況からペトロはほかの弟子たちに対する優越感と神の栄光を見る事への陶酔を味わったはずです。ある聖書注解者はいいます「わたしたちにとって出来事が順調であるとき、私たちは他者に対して心がそぞろになりがちである。そしてわたしたちが喜びに満たされているとき、私たちに負わされている重荷を、その喜びは忘れさせてしまう」と。
【山の下では】
来週に取り上げたいと思っています9章14節以下の記事は、山を下った弟子たちが直面する問題です。弟子たち三人が山の上で栄光のイエス様に出会っているとき、山の下で残された9人の弟子たちは、霊に取り付かれた子供のことで取り乱し困窮の中にありました。山の上での栄光と、山の下での困窮がとても対照的です。
私たちも礼拝において神様に出会い、御言葉に養われ恵みを頂きます。しかし同時にここに集うことが出来ない困窮の中におられる方たちにも心を配りたいと願います。救いのことを知らずに苦しんでいる方は、本当に多いのです。私たちの喜びを、自分のものとして留めて恵みを個人のものとしてしまう弱さから、解き放たれたいのです。どのようにすれば恵みを配ることの出来る人へと変えられるのでしょうか。続けてみてまいります。
【神様の臨在を示す雲】
自分のうちに恵みを独占しようとしたペトロに対して、神の介入がありました。ただ神の介入によって私たちは自己中心の思いから解き放たれます。7節「すると雲が現れて彼らを覆い、雲中から声がした」のです。雲とは神の臨在の象徴です。モーセがシナイ山に十戒を頂くために登ったとき、そこには雲が満ちていました。またソロモンが神殿を建立したとき神殿に雲が満ちたのでした。このように雲とは神の臨在のしるしです。
私たちは神を見ることは許されていないのです。神を見るとき人は死ぬのです。ですから神は人を滅ぼさないために、御自身を表されるとき、同時に雲によって御自身を隠されるのです。カルヴァンはこのようにいいます「一言でいうなら、この雲は私たちに対する"くつわ"の役割を果たす。私たちの好奇心を不当な気まぐれのうちに甘やかすべきでないからだ。弟子たちも以前の自分たちの状態に戻るべきであり、それゆえ、まだその時でもないのに勝利を期待してはいけないのである」
雲によって弟子たちの視界は遮られ、目前の栄光あるイエスとモーセとエリヤは見えなくなりました。私たちも信仰を超え出て、陶酔の中に入るのではなく、素面(しらふ)でいなくてはなりません。
【これはわたしの愛する子。これに聞け】
この弟子たちに雲の中から声がしました「これはわたしの愛する子。これに聞け」私たちは、聞きなさいと命ぜられます。神がイエスに聞きなさいと命ぜられるのです。聞くべきはモーセでもエリヤでもなく、このイエス様のお言葉です。ですから私たちは聞くためには、まず静まらなくてはなりません。ペトロのように栄光に陶酔することで饒舌になるのではなく、神の前に静まるのです。私たちは神の前に静まり沈黙するのです。そうすれば御言葉を聞くことができるのです。そして私たちが静まることで神の権威を知ることが出来ます。
私たちが恵みを独占する自己中心的な思いから解放しうるのは神の介入です。そして私たちに近づかれて神が言われるのは、これに聞け、という命令です。私たちは、イエス様の言葉に聞かなくてはなりません。御言葉に聞くとき、自分自身のつぶやきのような罪深い思いに背を向けて自由にされます。御言葉によって、初めて私たちは自己中心的な思いから解き放たれるのです。
さて今朝のイエス様の変容の出来事はイエス様のご正体を現す出来事です。しかしなぜ正体を明かす必要があったのでしょうか。それを考えるためには、前後の文脈を考える必要があります。8章の27-30節はペトロの告白、31-9章1節は受難予告とペトロの誤解、そして群衆をも呼び集めて、イエス様に自分の十字架を負って従ってきなさいと命ぜられます。
【エリヤはすでに来た】
さらに今朝の9節以下では山を下りた弟子たちに、エリヤはまだ来ていないからメシヤはまだまだだと教える律法学者の教えを正して、エリヤはすでに来たのであり、人の子が苦しむ以上、先行する道備えのエリヤも当然苦しむと言われます。エリヤは律法学者が期待したように栄光の姿を取らなかった、エリヤの到来は洗礼者ヨハネによって成就している、と主張されるのです。とするならば前後の文脈は受難であり、今朝の変容の箇所も受難の文脈で読むことになるはずです。
【栄光の前にある主の御受難】
つまり変容の箇所が、受難の文脈に挟まれていることを考えますと、次ぎようのように言えます。ペトロは相変わらず受難の意味を理解できない。だから彼は栄光のイエス様を見るとそれを永遠に残したくなって小屋を建てようと提案したのです。
ペトロの思いに反して、イエス様は十字架への道を歩まれます。当時の人たちが期待していた政治的な解放者としてのメシヤではなく、本当のメシヤは苦しまれるメシヤです。8章34節でイエス様は言われます「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人は全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」。
このイエス様の招きの意味がいまだはっきりと分かっていなかったのです。ですからペトロは十字架の道を従うより、栄光を自分のものとして封じ込めようとしたのです。
山を下られたイエス様は、御自身の山の上での変容のことを十字架と復活が起こるまでは、弟子たちに口外を禁じられました。人々の誤解を引き起こすことを避けるためです。メシヤは先ず苦しみ、十字架に付かれる。苦難から栄光への一本の道があります。
【変えられた弟子たち】
さて恵みを独占していたペトロを筆頭とするこの三人の弟子たちはこの後どうなったでしょうか。弟子たちは十字架の前に逃げだしてしまいました。またペトロはイエス様を三度も否定した弱さを持つ弟子です。その様な弟子をもイエス様は用いて証人としてくださいます。
聖書の証言によるとヤコブは早い時期に殉教の死を遂げたことが分かります(使徒12:2)。
ヨハネは長く生きたと言われています。ヨハネの手紙1では冒頭にこうあります「始めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。-この命は現れました。御父とともにあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしは見てあなたがたに証しし、伝えるのです。」
また使徒ペトロもイエス様のこの変容を証言しています。「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(Ⅱペトロ1:16-18)。
このように三人の弟子たちはそれぞれにイエスの復活と十字架の証人として用いられました。
【私たちも造り変えられる】
その様に、私たちも弱さと罪を持ちますが、主の証人として用いられます。私たちは罪赦された者として地上を歩みます。しかし同時に私たちには残る罪があります。ですから神は私たちを清めて御用のために用いようとしてくださいます。私たちは、自分を自分で清めることは出来ず、それはただ神の御霊の働きによるのです。
最後に覚えたいことがあります。イエス様が姿を「変えられる」の「変えられる」という言葉は、新約聖書で平行箇所を除けば、別に2回出てきます。
一箇所はⅡコリント3章18節「わたしたちは皆、顔の覆いが取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」私たちは聖霊なる神様によって、イエス様の栄光あるお姿に似る者へと変えられていきます。清められるのは主の霊によるのであって、私たちの力にはよらないのです。ここに希望があります。
もう一箇所はローマの信徒への手紙12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」です。
どちらの聖句も、「姿に造りかえられ」、「自分を変えていただき」とあるように受け身です。神が主語なのです。私たちはただ神によって造りかえられます。人類の始祖アダムの「堕落」は誘惑する者によって、人間の心を中心に始まりました。ですから私たちの救いもまた心から始まります。この心を神様が造り変え御心に適う者にして主の証人としてくださるのです。
私たちを自己中心から解き放ち、栄光に仕えるように命ぜられるイエス様の御言葉に聞き続けてまいりたいと願います。そして私たちの罪の心を造りかえて主の証人としてくださる聖霊なる神様の働きを求めて祈り願いたいと思います。(おわり)
2013.6.23.説教「御国の主に仕えて生きる」後藤公子元大会派遣インドネシア宣教師
2013.6.23.説教「御国の主に仕えて生きる」後藤公子元大会派遣インドネシア宣教師
聖書:マタイによる福音書25章「タラントンのたとえ」
14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
説教要約(文責 近藤)
【終末時代を生きるクリスチャンの生き方】
主イエス様がこの世に生まれられてから再臨までを終末時代と言うが、終末を生きるクリスチャンの生き方について今日の御言葉から聞きましょう。
主から託されたキリスト者の地上の使命とは何でしょうか。
会社や官庁に働く者には定年がありますが、クリスチャンには定年はありません。そればかりか天に召されて(死んで)も天国での使命が与えられています。
地上で小さいことに忠実な者は天国にあっても大きなものを託された者です。
地上における人の一生の歩みは神様のテストでもあります。
【タラントンのたとえ】
主人が総額8タラントンの金を3人の僕に託して旅に出ました。
1タラントンの重さは今日の単位では34キログラムでお金に換算すると600デナリオンに相当します。マタイ20章にあるブドウ園の話から分かりますが当時一日の労働者の賃金は1デナリオンでした。年に300日働くとすると1タラントンは20年分の賃金です。1タラントンは生活費を支払っても莫大な金額が残ります。
主人が旅に出る留守の間に財産の一部を僕たちに預けたのは、僕たちがそれを運用し利益を上げ資産を増やすことを期待した主人の願がありました。僕に対して厚い信頼があったことが分かります。
5タラントン、2タラントン、1タラントンとそれぞれの能力に応じて僕たちに異なった金額を託しました。当時にも銀行はありましたが、主人はそこに預けることを望まず僕たちが仕えて働くことを望みました。
「少しのものに忠実だったから多くを任せよう」と言うほど主人は大金持ちでした。主人は僕を使って金儲けをすると言うよりはタラントンを預けたことは主人に対する忠実度を測るテストでした。
【早速出て行き】
僕は主人の意図を分かっていました。当時、旅に出ると言うことは、すぐには帰らないと分かっていました。忠実な僕は主人が旅に出るとすぐに働きました。迷いもなく僕として為すべきことをいつものように継続しました。あたかも主人が見ているように、主人がいつ帰ってきても良いように、義務感でなく喜んで働きました。主人の信頼に応えたいと。
【主を愛する忠実な者】
5タラントン預かった僕も2タラントン預かった僕も、その利益は主人のものと分かっていましたが一生懸命働いたと言うことは僕が主人を愛していたからです。
20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
しかし1タラントン預かった僕は主人の気持ちを理解しませんでした。
5タラントンと2タラントンを預けられた僕に対し、21節、23節に書かれているように「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」と同じ言葉でこの二人を誉めました。
【1タラントンを預かった不忠実な僕】
しかし1タラントンを預かった僕は24節、「24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』」
5タラントンと2タラントンを任された僕は運用するために預けられたという意識を明確に持っていましたが、1タラントンを任された僕は運用するために任されたと言う意識がなく、その使命を果たすことなく主人の期待を裏切った。主人の信頼に応えませんでした。それで彼は悪い怠惰な僕、怠け者と言われました。
何も悪いことをしたのではないが怠惰な悪い僕と言われた。
【能力の差と忠実さ】
2人の僕が主人から託された使命を果たしたので主人はこの2人を褒めた。ここで考えるべき事は5タラントンを預けられたの者と1タラント預けられたものだけでよかったと思いますが、2タラントンを預かった第2の僕も5タラントンを預かった僕と同じようにそのタラントンを活用した。
ただ5タラントンと2タラントンの能力の差があったが忠実さにおいて問題はなく主人の目には2人の評価は同じでした。活用する能力の差があったが忠実さに於いて差はないのです。このことを主は2タラントンを預けた僕の例から言はれたのではと思います。
【すべては主からの賜物】
タラントンという言葉はタレントという言葉の語源です。一般に特別な才能を示しています。しかしもっと大きな意味があると思います。
使徒パウロは言います、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか(コリントの信徒への手紙一 4:7)」。
私たちの命、からだ、家族、教育すべては何もかも主からの賜物ですから、自分のものと言えるのは何もありません。
財産、時間すべてを主のために忠実に管理するのが僕の勤めです。
【主人に対する畏敬の念】
忠実な僕と不忠実な僕、その差は主人に対する畏敬の念の差であります。
24節以下「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
1タラントンを預かった僕は主人のために働きたくなかったし、畏敬の念もなかった。
【わたしたちの主人】
主人とは私たちの救い主イエス・キリストです。主イエスは僕としてこの世に来て下さり十字架の上で私たちの為に自らを捧げられ、私たちを救って下さったお方です。
パウロはコリントの信徒への手紙二 5章15 節で「その一人の方(キリスト)はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。
主イエスは全ての人のために死んでくださった。私たちクリスチャンは私たちを救うために死んで復活された主イエス・キリストによって生かされているのであります。自分のために生きるのではなく主と御国のために今ここで生かされております。今与えられているものは一時的に主から預けられているものです。主は私たちを僕として主の為に忠実に働くよう召して下さいました。
【主のための労苦は決して無駄にならない】
一般のビジネスの世界でも人びとは一生懸命働きますが、必ずしも利益を生むとは限りません。しかし神の御国のために働くなら私たちの働きは豊かに報われます。「私たちの苦労は決して無駄になることはありません」と聖書は約束しています。
使徒パウロも言います、「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから動かされないようにしっかり立ち主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない事をあなた方は知っているはずです(コリントの信徒への手紙一 15:58」。
主の御国は確実に進展しています。御国の主であられる主イエス・キリストに与えられたタラントンを用いて忠実に仕えましょう。(おわり)
2013.6.9.説教「試練に出会うとき」姜 世媛(カン・セオン)先生(WEC派遣宣教師)
2013.6.9.説教「試練に出会うとき」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)
聖書:ヤコブの手紙1章1~12節:
1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。
9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
12試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
説教要約(文責近藤)
【自己紹介】
わたしはWEC宣教団で働いている宣教師で滋賀県からきました。日本にきて4年目です。4年目の安息年として1年間の休暇が与えられ、その間、神戸改革派神学校で主人とともに学ぶことにしました。主人は特別研修生ですので試験もありますが私は聴講生ですから試験はありません。1年間伊丹教会に派遣され今日は西谷伝道所で奉仕することが叶えられ感謝です。
【ヤコブ】
今日はヤコブの手紙から御言葉に聞きたいと思います。新約聖書には4人のヤコブがいます。この手紙を書いたヤコブは主イエスの兄弟でした。主が生きておられた間はただの人間の兄弟として主を見ていましたが主イエスが復活されたあとは神様と信じ受入れました。
【ヤコブの手紙について】
この手紙はペテロの手紙やヨハネの手紙と同様に公同書簡と言われ宛先は多くの教会になっています。ヤコブの手紙のあて先は国外に散らされているユダヤ人クリスチャンです。1世紀に書かれています。
このヤコブの手紙はクリスチャンの良き行いが強調されていることから歴史的にみて宗教改革者たちからは聖書の中で一番低く見られていました。何故かと言うとパウロの手紙などのように信仰によって救われると言うことを強調していません。行いを重要視しているように思われています。しかし最近はヤコブの手紙は新約聖書の箴言と言われ信じる信仰を実践する事の大切さを教えて見直されています。
試練に出会うとき神様が私たちに願っておられる3つのことを今日は考えましょう。
【1番目、試練に出会うとき喜びなさい】
ヤコブの手紙1章2節から4節を読みましょう。
「2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。
2節「いろいろな試練に出会うときは」とあるように誰しも試練に出会います。試練という言葉は辞書的に信仰の強さを試すもの、またその時受ける苦難だと言われることは適切だと思います。信仰の強さや実力を厳しく試すことが試練の持つ意味です。
今日のヤコブの手紙には試練と誘惑という二つの言葉が使い分けてありますが、しかし同じ言葉の翻訳もあります。原語聖書も韓国語も同じ言葉を使い韓国語では試験と言ってます。
愛する兄弟姉妹。私たちはいろんな試練に出会うと書かれています。これは認めなければなりません。クリスチャンになっても試練はあります。
試練は人によって違います。どんな試練がありますか。
病気、経済的、人間関係などいろんな試練があり、その時の反応は「何で?」と言う思いで、神様に疑いを持ちます。しかし聖書は理不尽な試練に会うときも2節後半「この上ない喜びと思いなさい」と勧めます。
使徒パウロはフィリピの信徒への手紙 4章4 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言っておりますが、この手紙を書いたのは牢獄の中からでした。
彼が喜ぶことが出来たのは信仰の成長があったからです。3-4節「3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。
皆さん。試練の中にある方は全てのことを神様に委ねて喜ぶ努力をしませんか。今の試練は私たちの信仰の成長の為だと信じませんか。神様は私たちを待っておられます。
【2番目、試練に出会った時祈ること】
ヤコブの手紙5節~8節を一緒に読みましょう。
「5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」。
【知恵を求める】
5節は私の好きなことばです。韓国で学生時代キャンパスクルセ-ドで活動しました。ここで勉強の前に読んだ詩編とヤコブの手紙が自分の信仰と生活に非常に有益に働いたと思い返します。
5「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」とありますが知恵は本当に必要でしょうか。
私の持っている辞書には「知恵とは人生に対する実際的洞察力で、多くの試練に忍耐をもって打ち克つときに得られる」と書かれています。知恵は単なる知識でなく私たちの様々な経験が積み重なって得られる広いものです。5節で知恵を求めるということは私たちが直面している様々な問題に必要な力を求めるということです。
日本のことわざに「苦しいときの神頼み」というのがありますが普段は信じていないのに苦しいときに神に頼ると言うことです。世間の人でも何か大変なことがあると普段信じていない神様に頼ります。私たちにはこの世の神に勝る本当の神様がおられます。
使徒パウロは試練に出会ったとき祈りました。
使徒言行録16章23~26節を読みましょう。
「23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。:24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」。
パウロはフィリピで占いをする女奴隷から主イエスの名によって悪霊を追い出したために牢屋に入れられました。
パウロとシラスが牢屋のなかで歌った讃美や祈った祈りはどんなものだったでしょうか。
彼らは牢から出る事よりも何よりも神様に感謝を捧げ神のご存在をほめたたえました。
【心が定まらない人】
時には祈っても答えられないことがあります。なぜでしょうか。試練にあった時、人は神様を疑うこともあります。
聖書はヤコブの手紙1章6~8節 に「6いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」と語ります。
【二心のある人】
今日の箇所の8節「心が定まらず」疑う人のことを新改訳聖書は二心のある人、英語でDouble mindedとも言います。信仰と不信仰が分裂している人、神と神以外の者に信仰が分かれている人、二股を賭けると言う言葉もあります。不倫を行う人もそうですが、聖書に姦淫を犯すと言うことは真の神様を信じると言いながら神様以外の偶像を礼拝する人のことを言います。
そのように心に疑いを抱くときは神様は祈りに応えられません。
マタイによる福音書 7章 「7求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」。
私たちを愛する神様は必要なら奇跡をも行うことがおできになる全能の神様で、無から有を作り出された神様です。そのような神様が私たちの祈りに耳を傾けておられます。「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に」全てのことを委ねて試練を乗り越える知恵を神に願いませんか。神様は待っておられます。
【3番目、試練に出会ったとき耐え忍ぶこと】
今日の手紙ヤコブ1章の12 節「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」。
聖書は試練を耐え忍ぶ人は幸いだと言います。なぜでしょうか。試練を耐え忍ぶ人は神様から約束された命の冠を戴くからです。ここに書かれている「約束された命の冠」とは何でしょうか。これは主イエスの十字架の死の贖いによって取り換えられた新しい命のことで主イエスが約束してくださったものです。
ヨハネによる福音書11章25~26に「イエスは言われた。『25わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」と。
【ヨブの試練と忍耐】
旧約聖書のヨブの試練を思い起してください。ヨブは神の前に真実な人でしたが彼は試練により子供も財産もすべて失った。しかし決して神様に恨み言を言わず神様を讃美しました。
旧約聖書ヨブ記1章20~22節を見てください。
「20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
21 『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。』22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」。
また家族も財産も健康も失ったヨブに対して三人の友人からもヨブは神様のまえに隠れた罪があるはずだと彼の心は鞭打たれました。しかしヨブはこのような酷い試練にあっても決して神様を非難せず耐えました。神様はヨブの忍耐を喜びその信仰を認められ試練により失ったものを2倍にして返しヨブを祝福された。
ヨブのことをヤコブの手紙5章11節 で語ります。
「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」。
【命の冠を受けるために】
皆さんは試練に会っておられますか。どうしても解決できない問題で涙しておられますか。神様はすべてを御存知です。神様は慈愛と憐れみをもって私たちを顧みてくださいます。神様が準備しておられる命の冠を受けることを期待しながら今日も与えられた道を神様と共に歩みませんか。神様は私たちを待っておられます。私たちが試練にあっても、喜ぶこと、祈り求めること、耐え忍ぶことを神様は願っておられ、聖霊様の助けをもって励ました下さいます。(おわり)
2013.6.2.説教「美しいクリスチャン」崔 宰鉉先生(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)
2013.6.2.説教「美しいクリスチャン」崔
宰鉉先生(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)
聖書:ヨハネによる福音書18 章15~27節
【ペトロの否認】
15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
【大祭司、イエスを尋問する】
19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
【 ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う】
25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
(説教要約 文責近藤)
【美しい被造物】
日本に来て4年目です。私たちの住む日本は四季の美しさがあります。私は中でも秋が好きです。何故かと言うと秋の紅葉が美しいからです。落ち葉が美しいです。それが果たした美しさです。収穫が終わると落葉しやがて腐ります。しかし落ち葉のおかげで新しい芽を出します。それは美しいです。
カマキリの例ですが、オスはメスに食い殺されます。メスはそれによって新しい命を産みます。カマキリのオスの死は美しいです。
動物の親たちは子供の餌の為に本能的に働きます。それは美しいです。
植物も昆虫も動物も人間も同じです。親は子供の命の為に生きます。これは美しいことです。
主イエスを信じる者、クリスチャンは美しいと言われます。ではどのように生きるクリスチャンが美しいでしょうか。以下に美しいクリスチャンを3つの点にまとめます。
1、常にキリストに頼る人は美しい。
今日の18章25~27節
25 『シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた』。
【捕えられる前のペトロ】
ペトロは捕えられる前はどんなことがあっても主イエスに従いますと言いました。
マタイ福音書26章33節『するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った』。
もう一か所はマルコによる福音書
14章31『ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。』。
最後にもう一か所、
ヨハネによる福音書13章37 『ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」』。
ペトロは口先だけで言った訳ではありません。ペトロはイエスが捕えられようとしたとき剣をとり大祭司の弟子の者に切りかかりその耳を切りました。
【ペトロの否認】
ペトロは主イエスの奇跡を体験しました。主は嵐を鎮めたし病人を癒した。そのようなペトロにとって主は全知全能の人でしたが、その主が捕えられて大祭司の裁きを受けている。それはペトロの期待した主イエスではなかったので彼は失望したのです。
25節『人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った』。
また26節以下『 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。』
ペトロは主を呪いさえしました、マタイによる福音書26章
74節 『そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた』。
勇敢だったペトロがこうなった理由は絶望の後ろに居られる神様を見ることが出来なかったからです。
残念ながらペトロは自分の命を守るため主を裏切ったばかりか嘆かわしい記録を残しました。
平穏な時には誰も裏切るようなことはしません。しかし自らが絶望的な決定的状況に追い込まれると試され、その瞬間に裏切るのです。
美しいクリスチャンは信仰の基礎を固くするために毎主日神様を礼拝します。そうでないと決定的瞬間に主を否む可能性があります。
2、美しいクリスチャンは心ひそかに不義を行わない
【大祭司の知り合いの主の弟子】
今日読んだ聖書の箇所にはペテロより悪い主の弟子も登場します。ペトロより悪い行動をとった人です。15節以下を見ましょう。
『15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた』。
ここにペトロともう一人の弟子がいました。もう一人の弟子の名前は記されていませんが彼は大祭司の知り合いでした。彼は大祭司と親しいので堂々と家に入れたのです。そして門番の女中に話してペトロを中にいれました。ペトロが大祭司の家に入った途端、女中はペトロに17節「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言っていますが、ここで女中はこのもう一人の弟子には何も言ってません。彼は表向きは主の弟子でしたが裏では大祭司と内通していた。この弟子は現実的な利益を得ていましたが神様の前では認められませんでした。
私たちも教会の外ではこの弟子のように不義な暮らしをしていませんか。
日本には1%のクリスチャンがいます。韓国は30%、中国にも沢山のクリスチャンがいます。ヨーロッパにはもっといます。それなのにこの世は何故わるくなるのでしょうか。世の闇がなくならないのはその不義を行った弟子のようなクリスチャンが多いからではありませんか。
野望ambitionという言葉は二つの意思を持つという言葉に由来します。野望とは神の方に向かない意思をもった人です。こういう人は神の前に罪人です。美しいクリスチャンは不利益を蒙っても荒海のような困難にあっても絶対に不義を行いません。
3、
美しいクリスチャンとは御言葉を聞いて悔い改める人
【主に対する暴力】
22節に愚かな人が書かれています。『 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った』。
下役が平手で打ったことは主に対する暴力でした。彼はそのことを全く悔い改めていません。その下役は罪が何か分からないので悔い改められませんでした。
しかしペトロは悔改めました。その態度を見ましょう。
ペトロも三度主イエスを否認し最後には主を呪いさえしました。
ペトロも主に暴力をふるいました。それは舌の暴力でした。誰の罪がより主を傷つけるのでしょうか。わたしはペトロの方が主をより傷つけたと思います。
【悔い改めるペトロ】
しかし下役とペトロの違いは明らかです。
マタイによる福音書26章75節 『ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた』。
ペトロは御言葉を聞いて悔い改めの涙を激しく流したが、下役は悔改めを知りません。
ペトロを悔い改めさせたのは鶏の声を聴いたからで、「鶏が鳴く前に三度私を知らない」と言う主イエスのお言葉を思い起こして激しく涙したのです。
皆さん日々私たちが御言葉を聞く理由はなんでしょうか。御言葉がないならクリスチャンとして悔い改めることが出来ません。
神様の御言葉である聖書を知らない人は神の御前で真に悔い改めることがありません。美しいクリスチャンとは悔い改めることの出来る人です。
私たちの特権は御言葉によって悔い改めることが出来ることです。
【ホセ・カレーラス】
1987年白血病で倒れたホセ・カレーラスという声楽家がいました。世界の三大声楽家の一人と言われます。
彼はその名声を守るため絶対にしないことがありました。煙草を吸わないし、また煙草を吸う人のそばにも行かなかった。逆に毎日することがありました。それは毎日30分発声練習をすることでした。数年前に韓国で歌いました。4千人が彼の素晴らしい歌声に歓声をあげました。アンコール曲を歌った後で彼は声楽家として守るべきこととするべきでないことを話しました。
わたしたちクリスチャンが毎日するべきことは何か。毎日聖書を読んで悔い改めることではないか。そうすれば主はあなたを一番美しいクリスチャンと言われます。
心ひそかに不義を行わず、日々御言葉に聞き、罪を悔い改めるなら美しいクリスチャンと言ってくださいます。神様はそのような素晴らしい恵みと愛を止めどなく注いでくださいます。(おわり)
2013.5.26.説教「始められたことを成し遂げられる神」ウイリアム・モーア宣教師
2013.5.26.説教「始められたことを成し遂げられる神」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:新約聖書フィリピの信徒への手紙1章
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
説教要約(文責近藤)
【夢に見る完璧な教会】
皆さん、完璧なキリスト教会について考えてみましょう。
私が夢の幻にみる完璧な教会は、人々は一つになって、教会の益を求め、神の栄光の為に励みます。良いことばかりを励み、相手を自分より偉いと心から尊び、教会員は悪口を言わず、相手について言うことは良いことばかりです。
讃美歌を唄うと天使の歌声のようです。更にこの完璧な教会の牧師の姿を見ると、彼の説教は毎週、信者のニーズを満たし、聞く者は信仰がますます豊かになって成長します。完璧な教会の牧師の説教はいつも面白くて聞く者の注意を集めます。
牧師は魅力的性格と溢れる信仰をもって会員をいつも喜ばせます。
実は私は夢の幻にこのような完璧な教会を見ると目が覚めてしまいます。なぜなら私がこの群れの牧師になったらこの教会の完璧さが壊されてしまうことが分かるからです。
冗談に誰かがこういいました、もし完璧な教会を発見したらその教会に属してはいけません。なぜなら自分がその教会に入ると、その完璧さを壊してしまうからです。
【この世には完璧な教会はない】
実はこの世には完璧な教会は存在しません。使徒パウロは言いました『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です(テモテへの手紙一 1:15)』
ここでいう罪人とは、一般に言う犯罪人のことでなく、聖書のいう罪人とはこの世の定義と異なります。はじめ神と人は平和で互いに愛し合いました。しかし人は神のもとの自由を悪用し自分の目に正しいと思うことをして自己中心的になりました。自己中心的な行為と態度を聖書は罪といい、全ての人は罪人です。
【教会は罪人の病院】
それ故、教会は完璧な人の集まりではなく罪人の病院です。教会で罪という病気は癒されるのです。
主イエスは言われた「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである(ルカによる福音書5:31)」。
完璧でない私たちは教会で神の救いと赦し受け、「私に従いなさい」と主イエスが教えて下さった生き方に従うのです。
【初代教会も罪人の集まりであった】
皆さんは新約聖書の初代教会は今日の教会より優れたものとして憧れます。皆が主の証を立てました。しかし実を言うと今日の教会と変わらず罪人の集まりで、自己中心的であり愛に欠けました。しかし罪の赦しと主が教えて下さった生き方により癒されました。
【フィリピで始められた教会】
今日の聖書はフィリピの教会に送られたパウロの手紙の一節です。パウロと他の二人の弟子がAD50年ころフィリピに来て伝道しました。使徒言行録16章を見てください。
使徒言行録16章
12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
15 そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
フィリピのリディアという婦人が洗礼を受け、このリディアの家で集会が始められたのです。迫害のなかにも奇跡的に神に守られ教会は成長したのでパウロは他の地に伝道に行きました。その後10年間に二度ばかりフィリピ教会をパウロは尋ね信者を励ましました。またフィリピの教会はパウロの為にも捧げ祈りました。
パウロは伝道の結果多くの教会を建てあげましたが、パウロは迫害されローマに連れていかれました。フィリピの信者がパウロのもとに献金をもって行きました。
【フィリピ教会も完全でなかった】
しかしフィリピの教会は完全ではありませんでした。それでパウロはこのように書き送りました。
フィリピの信徒への手紙2章
2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
これは完璧な教会に書き送ったものではありません。教会の中に争いがあり、自己中心的な罪が教会の中にありました。パウロは又こう書き送りました。
フィリピの信徒への手紙3章
18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
フィリピ教会も罪人の集まりでした。又パウロは書きました。
フィリピの信徒への手紙4章
2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
二人の熱心な信者エボディアとシンティケが大喧嘩になりました。パウロの願いは二人の和解でした。そしてフィリピ教会の将来に確信してこう書きました。
それが今日の聖書の箇所です。
フィリピの信徒への手紙1章
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
【パウロの確信】
神が成し遂げられた教会は罪人の集まりであってもパウロは確信しました。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。
【始められたことを成し遂げてくださる神】
その大きな信仰と希望は何処から来たのでしょうか。それは6節に記されています。
6「 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。
【主がフィリピで、西谷で始められた良き業】
神がフィリピで良き業を始められました。川岸でパウロがリディアに出会い彼女に神が信仰を豊かに授けられました。自分ではなくパウロは神こそがフィリピで伝道を始められたと確信しました。忠実である私たちの神は御自身が始められたことを成し遂げて下さるのは理の当然とパウロは信じました。私たちの主は始められたことを成し遂げてくださる全能の神だからです。始められた時からイエス・キリストの再臨の日まで神はずっと働き良い結果を保障してくださいます。
愛する兄弟姉妹、この神の保証はこの西谷教会にも当てはまります。小さな群れでありながら愛する神は西谷教会を成長させ16年近くにわたり忠実に守って導いて下さいました。
これから主の再臨の日まで主イエスが始められたことを成し遂げられ成長させてくださると私は確信しています。(おわり)
2013年05月26日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書
2013.5.12.説教「取って食べなさい」ウイリアム・モーア宣教師
2013.5.12.説教「取って食べなさい」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書26章
26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
説教要約(文責近藤)
【聖餐式に思うこと】
わたしたちの西谷伝道所では年6回ぐらい聖餐式を行います。
この聖餐を受けるとき皆さんは何を考えますか。
1、主の贖い死に対して神様に感謝を覚えます。
2、信仰への熱心を励まされる。
3、主の兄弟姉妹に犯した罪に対して神の赦しと愛を覚えます。
4、しかしまた否定的考えもあるかもしれません。
「また聖餐式がやってきたか。前回に比べて自分は信仰的に成長しただろうか。罪を犯すばかりで神と隣人を愛しただろうか」と。
【取って食べなさい。これはわたしの体である】
このように信仰が不十分だと否定的な思いがあれば主の御言葉を思い返してください。
そうすれば否定的な思いを取り除いてくださいます。
マタイ福音書26章26節「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
主は最初にこの御言葉をもって弟子たちを聖餐式に招いてくださいました。
聖餐式を通して主は私たちを霊的に食べさせ養ってくださいます。
この御言葉は私たちが自分の短所を思うこと以上にはるかに大事なことです。
【信者と未信者の差は何か?】
クリスチャンは道徳を大事にしますが、多くの未信者も道徳を大事に守ります。未信者がキリスト者よりもっと優しく憐れみ深い人も居ます。
実際、信者と未信者の差は何でしょうか。
その一つは聖餐式において私たちはパンと杯を頂きます。これは大きな差です。
聖餐式で聖餐とその交わりに与るとき信仰が励まされます。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」と主は招いて下さいます。
【霊的糧なる主イエスを食べる】
「わたしたちは毎日キリストを咀嚼しなければならない」とある神学者は言います。
それは日に日に主イエスを噛みしめることで主イエスに似ることです。
霊的糧がなければキリスト者としての希望と力が失せてしまいます。
身体には食べ物が必要なように魂は霊的糧により守られています。
私たちの信仰もキリストから霊的糧を受けなければ弱くなります。
聖餐式を通してそのことが教えられています。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」と主は招いて下さいます。
【幼子のように】
主イエスは「良く聞きなさい。誰でも心を入れ替えて幼子のようにならなければ神の国に入ることは出来ない」と言われました。
幼子は泣くことと食べる事しかできませんが、何より食べることは大事です。
幼子が食べないと心配ですが、幼子が食べるときは安心と喜びがあります。
食べることが仕事の赤ちゃんは食べることを悪いと思いますか。
キリスト者は主から幼子のように霊的栄養を頂くべきです。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【歳を取っても】
人は歳を取るほど幼子のようになります。歯が無くなり、以前できたことが出来なくなります。ある面でつらいことです。私の叔母は100歳まで長生きしましたが目も見えなくなり耳も聞こえなくなり寝たきりの状態になりました。今も覚えていますが自立心の強かった叔母が赤子のようになって本当に辛かったと思います。
でも神はご自分の国に入れるために叔母を赤子のようにされたのです。
私たちもそのように幼子のようになって心配せずに主から霊的栄養をいただきましょう。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【主の晩餐】
キリスト教礼拝の中心的儀式である聖餐式は私たちの才能の腕を示すコンテストではありません。それは主の晩餐です。
今日の礼典は晩餐です。
悩みのある人、ない人全ての人が主の食卓の周りに招かれ共に霊的栄養を頂きます。
そうでないと私たちは霊的に飢えてしまいます。
主は「取って食べなさい。これはわたしの体である」と招いて下さいます。
【主は忠実を求められる】
宗教改革者マーティン・ルーテルは興味深いことを言いました。
「律法の時があり、恩恵の時もある。要求のときと恵み深い約束の時がある」と。
キリスト者の務めは良く時間を管理することです。
「自分の十字架を負って私に従わないものは私にふさわしくない」。
「 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる(ルカによる福音書 9:26)。」
これは厳しい言葉に聞こえますが主は私たちが神の国の為に成功するよりも忠実に従うことを求めておられます。律法の時もありますが恩恵の時もあります。
【恵みの時】
最後の晩餐は恩恵の時でした。主は「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と言われ、私から恵みを受けて霊的賜物を一杯取って下さいと主は言われます。
神の国の為に努めることは大切ですが、主イエスが求められることは恩恵です。
律法と恵みが聖餐式の時に一つとなりました。
この招きに一人残らず預かり皆が聖餐式の恵みを受け取ってください。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」と主は私たちを招いておられます(おわり)。
2013.5.5.説教「良いものを大事にし、悪いものから遠ざかりなさい」ウイリアム・モーア宣教師
2013.5.5.説教「良いものを大事にし、悪いものから遠ざかりなさい」ウイリアム・モーア宣教師
新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一5章
21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
説教要約(文責 近藤)
【ゴミ屋敷】
数年前、テレビでゴミ屋敷をレポートした特別番組がありました。庭には廃車が2,3台とものすごい量のガラクタが家中所狭しと置いてありました。使えなくなった電気製品や家具類などで一杯になった屋敷をリポーターが訪ねました。
玄関のベルを鳴らしても誰もでてきません。それでリポーターは近くのコンビニでお弁当を買ってそれを玄関に置いて帰りました。二日目もこの家の主は出てこないので又弁当を置いて帰りました。弁当は食べているようなので三日目も訪ねましたら漸くこの家の主人が出てきて迎え入れてくれました。
中に入ると天上までガラクタで一杯でした。生くさい臭いも鼻につきました。20年前の新聞が置いてあり、2階への階段も物で塞がっており上がれません。リポーターが聞くと「捨てるのはモッタイナイし、ゴミの日にゴミ箱に捨てられたものもいつか役に立つと思って拾っている」と言いました。
ゴミやガラクタを家から捨てられないものは普通ではないと思いますが、実は我が家では私がごみを捨てる担当になっています。
捨てる物によって曜日が決められていますので分類して廃棄します。殊に生ごみを捨てることは本当に歓びになります。使えなくなった廃品を捨てるのも嬉しくなります。
【心のゴミ屋敷】
多くの人は家の中をきれいにかたずけるが、人生の中でのよいことと悪いこととを選別して余計なものを捨てなければなりません。
そうでないと良い物を探すのが難しくなります。
今日の聖書は心のゴミ屋敷にならないようにすることを教えます。
人生に於いて正しくするものと悪しき習慣を選び分けることは大事なことです。
その為には正しい判断により良いことを大事にし、悪しきものを捨てなければなりません。
アブラハムが息子イサクの為に嫁を探した時の4つの原理は非常に参考になります。
1、神の御言葉を知り、良い判断をもとめること、
2、神の御心を行うこと、
3、神の摂理を信頼すること
4、正しい判断が出来るように知恵と主の導きに従うこと
【すべてを吟味し】
テサロニケの信徒への手紙一5章21 「すべてを吟味し」とは原文では金銀が本物であることを確かめることを「吟味する」と言いました。
偽物の金や銀をだまされて買わないようにするためにすべてを吟味することは大切です。
【霊的真理と偽りの宗教】
使徒パウロは霊的真理と偽りの宗教を見分けるために吟味することを教えます。全ては真理ではありません。
聖書に基づかないことは絶対に受け入れないことは人生に於いて注意すべきことです。
人生に於いて吟味すべきことは多いです。
広告、マスコミ、政治家の言うことをすべて受け入れると私たちの魂と人生の歩みはテレビで放映されたゴミ屋敷のようになります。
【良いものを大事にし】
次に「良いものを大事にしなさい」と言われます。この世には良い物と悪いものがあるので、それらを区別して悪いものを捨て良い物を大事にすることが大切なことです。
フィリピの信徒への手紙に使徒パウロはこう書きました、
「1章9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10 本当に重要なことを見分けられるように。」。
主から教えられたことをつかんで日々実行することは信仰生活にとって大事です。善きものと真実がここには保障されています。
【あらゆる悪いものから遠ざかり】
最後に「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と言われます。
何よりも自身の中の悪を憎み罪を犯すことを止めることです。
わたしは牧師としていろんな人に出会いました。ガラクタを大事にしている人が多いです。
人への悪い思いは、怒り、恨みは捨てるべきです。これらはその人を腐らせていきます。悪い思い、悪い癖、悪い友人、悪い言葉は人生をダメにします。
このようなガラクタな思いを捨て、神の助けで捨てて人生をクリーンにしてください。
イエス・キリストがこの世に来られたのはこのガラクタのような全ての罪から解放するためです。主を受け入れると新しい人生が始まります。主はこのガラクタを捨てることを助けて下さいます。
【エンジントラブルに見舞われた爆撃機】
戦時中のことです。イギリスのある爆撃機がドイツの上空でエンジントラブルに見舞われ4つの内3つのエンジンが止まってしまいました。イギリスまで帰るのは困難でした。ドイツの陸地に不時着すべきという意見もあったが、パイロットはこれを望まず、飛行機を軽くして不必要な機材、物資全てを捨てるように皆に求めました。かなりの爆弾や椅子、兵士の衣服までもすべて捨てさせましたので飛行機は無事にイギリス海峡を越えて基地に帰りつくことが出来たのです。
歳を取るとは人生の不必要なものを捨て去ることだと言われます。良い物、永遠のものだけをつかみ取りましょう。
高齢でガンのアメリカの父を見舞った時、父の書斎の整理を手伝いました。父は必要なものと不必要なものを分けていました。不必要なものを捨てること、辛いことですがこれは大事なことです。
御言葉は「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と教えて下さいます。(おわり)
2013年05月06日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生
2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生
新約聖書、ヨハネによる福音書10章7~18節
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
説教要約(文責近藤)
【私は有るという者】
他の福音書には見られない「わたしは良い羊飼いである」という御言葉は神学的に練られた言葉であってユダヤ人、パリサイ派の人びとと言った旧約聖書に精通した人に語られた言葉ではないかと思います。
ヨハネの福音書には「私は・・である」と主イエスは御自身を語られることがよくあります。「わたしは良い羊飼いである」、「私は命のパンである」などなど。
英語では「I am・・」。聖書の書かれたギリシャ語では「エゴ(我」エイミ(有る、存在する)」です。
神様が御自身を「私は有るという者」だと御自身の名前を最初に明かされたのは旧約聖書の出エジプト記3章にある芝の書でモーセを召しだされた記事に出てきます。
モーセが民に「神様、あなたの名を民から尋ねられたら何と答えればよいでしょか」と主なる神様に言いますと、神はモーセに『「私は有る」という者』だと言われました。
「私は・・である」と言われたイエス様が神様を示す「私は有る」という者だと、すなわち主イエスは神と同じだと語られたのです。
【良い羊飼い】
「良い羊飼い」とは「良い牧者」とも言われます。詩編23篇にも「主は羊飼い」とありますが、今日は旧約聖書エゼキエル書34章の預言から主イエス様が御自身を「良き牧者」と言われた旧約聖書の御言葉の成就について語ります。
旧約聖書エゼキエル書34章
11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。
13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。
16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
17 お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。18 お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。
19 わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。
20 それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。21 お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。22 しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。
【イスラエルの偶像崇拝と民の指導者】
ここに「良い牧者」が語られる。
民の指導者が偶像礼拝に陥り神殿の中には偶像がはびこっていたことに神の怒りが落とされイスラエルは北も南も滅ぼされました。
当時のイスラエルの指導者はどんな悪事を働いたかエゼキエル書34章2~10節に「イスラエルの牧者」と言われ次のように語られている、
2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。
3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。
4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。
5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。
6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。
7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。
8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。
9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。
10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
4~8節にあるようにイスラエルの指導者、牧者は羊である民を養わず「まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」と言われる。
今日与えられた御言葉のヨハネ10章8 では「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」と主イエスは語られる。
私より前に来た牧者は、宗教指導者も王も盗人であり、強盗であると主は言われる。ここに人間の牧者たちの姿があります。
彼らは羊の群れを散らし失わせ傷つけるのです。それでも羊は牧者に付いていくしかない。
【主なる神は世の牧者たちに立ち向かう】
神はご自分の民がこのような牧者にさらされ導かれることに耐えられません。
そこで主イエスが遣わされたのです。
ヨハネ10章10節後半「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われます。
エゼキエル書34章後半で神は「私はイスラエルの牧者に立ち向かい彼らから羊の群れを取り戻す」と言われます。
「10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。」
主なる神がその羊である民を牧すること、この良い牧者こそ主イエスであると御言葉は言うのです。
神とイエスは違うのではないか?と疑問に思われるかも知れません。
ヨハネ福音書10章27節以下でユダヤ人に主イエスは答えられています、
「27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。28 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。
29 わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。
:30 わたしと父とは一つである」。
「 わたしと父とは一つである。」と。「私がそれである」と。
あのエゼキエル書で預言された、あの良い羊飼いこそ私であると主イエスは言われた。
確かに主イエスが言われたことは旧約聖書の助けから分かりますが、主イエスが言われるのはこの程度の読みでは終わりません。
【良い羊飼いは羊の為に命を捨てる】
「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」と言われます。
この命を捨てると言う言葉は旧約聖書の何処にあるでしょうか。
ユダヤ人には羊の為に命を捨てるとは尋常ではないと考えられたが、イエス様の読みの深さはもう一度エゼキエル書34章から気づかされる。
旧約聖書エゼキエル書34章22~23節「 22しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。23わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。
ここに「一人の牧者を起こし」という言葉に注目してください。「起し」これは原語で「復活させる」と同じ言葉であります。復活させられるためには神の群れを救うために死ななければならない。「群れの為に命を捨てる良い羊飼い」がここに預言されています。
ゼキエル書34章22 節と23節との間の言葉の意味を主イエスは読み取られたのです。「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」のです。
私たちが従うべき良い羊飼いは主イエス御独りです。
【西谷の牧者】
西谷からモーア先生が去られるので西谷に牧者がいなくなる心配が皆さんにおありかも知れませんが今日伝えたかったことは真の牧者はイエス様御独りであると言うことを信じたいのです。
主のお声は小さく聞き分けにくいですが羊の為に命を捨てる良い牧者イエス様を信じて行きたく思います。主の御声を聞くとき他の悪い牧者に付いていくことはありません。
また西谷にも囲いの外にいる多くの羊がいると思います。そのような羊とも一緒になって主の民を養う牧者が与えられることをお祈りいたします。(おわり)
2013.3.24.説教「十字架を負わされたシモン」近藤春樹長老
説教「十字架を負わされたシモン」
聖書:ルカによる福音書23:26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
●マタイによる福音書27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
●マルコによる福音書15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
●ローマ人への手紙の16:13(パウロ)、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」
今日は棕櫚の日曜日といわれます。主がエルサレムに入られたときユダヤ人たちは主を救い主として歓迎しました。
それはロマ帝国の支配からの解放を期待するものでした。主イエスが人類に与えようと願われた罪と死を滅ぼし永遠の命を賜うという救いではありません。それで期待に反した人々は今度は長老、祭司長、律法学者に煽動され、主イエスを十字架につけろと総督ピラトに要求しました。
今週は受難週といわれ世界の教会は特に主イエス様の十字架の贖い死に感謝するとともに、私たちの罪を悔い改めます。主はこの週の木曜日に最後の晩餐を弟子たちと摂り聖餐式を制定なさい、弟子たちの足を洗いました。そして金曜日に十字架にお架かりになりました。3日目の朝、日曜日の朝早くに墓は空っぽでした。主は蘇られました。
【日々自分の十字架を負い】
今朝は主の十字架と私たちの負うべき十字架について思いを致したい。
主イエスは今日の御言葉ルカ9:23「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。と言われた。
またマタイによる福音書 10:38 「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」。
そしてルカによる福音書 14:27「 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」。
ここで主は私の十字架を負えと言われません。自分の十字架を負えと言われます。それは自分自身の重荷ではないでしょうか。
ガラテヤ人への手紙 6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
参考)コロサイ人への手紙 1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。
【人生の重荷】
それは、自分が犯した過去の過ちの重荷であったり、家族の心配、病気の不安、病気の後遺症、将来の不安、経済的負担であったりと、その重荷の中味は人によって様々だと思いますが、人はそれぞれ何か重荷を負いつつ、重荷を負わされて、人生を歩んでいるのではないでしょうか。先週は【四苦八苦】という仏教用語も聞きました。
【四苦八苦】という仏教用語があります。
四苦とは1、生きる苦しみ、2、死ぬ苦しみ、3、老いる苦しみ、4、病む苦しみ
八苦とは5、愛するものと別れる苦しみ6、憎い者と出会う苦しみ7、求めても得られない苦しみ8、心身の苦しみ
人にとっては、ときには、その重荷が耐え難く、八方塞にまで行き詰まり、悲嘆に暮れ、自ら命を断つ方もおられるのです。
余談1。これは家康の残したことばですが
「人の一生は重き荷を負うて、遠き路を行くが如し。急ぐべからず」人生あくせくするな、ゆっくりやれ。これは気休めにはなることばでしかありません。イエス様はどう言われたでしょうか。
●マタイによる福音書
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28)
参照「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。
主イエスはあなたの、私の重荷を共に負ってくださいます。そして私たちを休ませてくださいます。どのようにしてか?それが主の十字架です。主イエスは私の十字架を負えと言われず、あなた方自身の十字架を負えと言われたことを先に聞きました。
【十字架を負わされて主イエスに従うシモン】
2000年前、一人の人が自分自身の十字架として負わされた十字架について今日の聖書は記しています。
シモンは主イエスの弟子だったわけではありません。おそらく主イエスと会ったこともなかっただろうと思います。たまたまそこに居合わせたのです。主イエスがもう十字架を背負う力がない、と兵士たちが判断したその時に、たまたま近くにいたために、彼が選ばれたのです。兵士たちにすれば、十字架を担いでゴルゴタまで歩くことができさえすれば誰でもよかったのです。こいつなら出来そうだ、とたまたま目に入ったシモンが引っ張り出されたのです。そのようにして彼は、負いたくもない十字架を無理矢理背負わされました。なぜ自分がこんな恥を負わなければならないのか、とんだ貧乏くじを引かされた、と思ったに違いありません。
しかしルカはこのシモンの姿に、主イエスに従う信仰者の姿を見ているのです。
シモンは主の後に従ったとあります。彼の前には主イエスが歩まれました。主は彼を導かれたのです。彼は後でこのことが分かりました。
自分自身の十字架を背負って主イエスについていく、それが弟子たる者の、つまり信仰者のあり方だと繰り返し語られてきたのです。その弟子としてのあり方を文字通り具体的に実行したのがこのキレネ人シモンだったのです。
考えてみてください。誰が「よしこれから十字架を背負って主イエスに従っていこう」と決心して信仰者となった、という人はいないのではないでしょうか。
ですから私たちは誰もがある意味で、自分の意志によってではなく、十字架を背負わされるのです。
【シモンが受けた恵み】
マルコ福音書だけが、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」と紹介しています。ということは、このシモンはこの後、クリスチャンになり、その子、アレクサンドロとルフォスも信仰に導かれたと考えられます。
ローマ人への手紙の16:13でパウロは、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」と述べています。シモンの妻は、パウロが「彼女はわたしにとっても母なのです」というほどの信仰の人になったということで、驚くべき恵みです。
無理やりであっても、主の十字架を担うということはそれほど重大な、また祝福に満ちたことであります。
【人生のマイナス】
なぜ自分がこんな十字架(重荷)を背負わなければならないのか、と思うことがあります。しかしそこで、その十字架を放り出すのではなくて、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」という御言葉に励まされて、自分でも改めて与えられた十字架を感謝する者となって天国の道を歩むのです。
余談2、マイナスとは負けか?漢字はマイナスを負とかきます。これは意味深いことです。
重荷を負わされることは一見人生にとってマイナスに見えます。私たちの人生のマイナスが多ければ人生の負け組になるとおそれます。この世の成功者、勝ち組と言われる人も多くのマイナスを経験したことでしょう。この世界と宇宙を創られた方が十字架で死んだ。主イエスの十字架こそは世界で比べるもののないマイナスです。東日本大震災は日本に大きなマイナスを与えました。神の国にとっては御子の十字架は更に大きなマイナスでした。実際、真の勝者とはだれでしょうか。主イエスの十字架によって贖われた者のみがこの世の勝利者です。主イエスの復活こそ勝利の証です。最大のマイナスが最大のプラスになりました。
参照、ヨハネの手紙一 5:4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
電流は見えませんがプラスとマイナス極の間をながれ力を発揮します。神様は御子の十字架によって霊的マイナス極をつくられました。
Iコリント1:18 - 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
しかし十字架は終わりでなく神様はプラス極をも創られました。主イエスは、三日目の蘇り、40日間弟子たちに現れ、天に上り父なる神の右に坐し給い、復活50日目には約束の聖霊を遣わして、いま私たちとともに居てくださいます。今私たちの内に主イエスの御聖霊が共に住んでいてくださいます。聖霊はプラス極です。
使徒言行録1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
主イエスを信じる者は決して負け組でなく勝利者です。
ローマの信徒への手紙8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
次週はイースター復活祭です。主イエスの復活を心から感謝して祝うともに主イエスの証人としての道を共に歩みましょう。
やがて主は裁き主として再臨されます。しかし主を信じる者には裁きはありません。(おわり)
2013.3.17.説教「苦しみからの脱却」金田幸男先生(甲子園教会牧師)
2013.3.17.説教「苦しみからの脱却」金田幸男先生(甲子園教会牧師)
聖書:マタイによる福音書9章
1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。
2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
7 その人は起き上がり、家に帰って行った。
8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
ヨハネによる福音書9章
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
(説教要旨)
【魂と肉体の癒し】
牧師の務めのひとつが「魂の癒し」といわれています。魂の病の癒しこそ牧師の大切な働きであることを認めますが、二重の意味で抵抗を感じています。まず、魂の癒しは大変困難な働きであるから、そして、魂の癒しというこの働きをうまくやりのけたという実感を持てないからです。
その点、肉体の医者は病気を治すことについては専門家であり、また実際多くの患者の病気を治されます。病院は病気を治す施設であり、多くの患者が病から解放されて、病院の門を出て行きます。医療技術はどんどん進歩し、今まで不治の病といわれていた種類の病気が癒され、また、肉体の苦痛は軽減する方法がいくつも試みられています。
他方、魂の医者が専ら受け持っている部分では、格段に技術が進歩したという話は聞いたことがありません。昔ながらの方法で、聖書の解説をし、教理を語り、教えています。牧師の仕事は昔とあまり変わらないのが実情です。
とはいえ、魂の癒しは旧態然としているのだから無効だというのではありません。肉体の癒しと魂の癒しは、無関係ではありませんが、また同一ではありません。いわゆる精神の病気といわれている病がありますが、信仰だけで精神の病が治ると思いません。そういう期待を
現在では薬剤を用いた治療が有効になって来ています。わたしは、宗教(信仰)が肉体や精神の病とはまったく関わりなしという立場ではありませんが、宗教が現代の医学にとって変わることは決してできないと思っています。医者と牧師は協力できますが、牧師は医者に取って代わることはできませんし、してはならないと思っています。
【苦しみから脱却】
それでは、魂の癒しとは何か。何をするのか。魂の癒しとは、苦しみから脱却できる道筋を示すことだと思っています。
むろん、肉体の苦痛も苦しみであることに違いはありません。魂の癒しという場合、その苦痛は、心を蝕み、傷つける苦しみを指しています。肉体の苦痛も魂に深刻な影響を与える場合には、その癒しについて宗教はもちろん考えなければなりませんが、肉体の苦痛そのものをなくすことは医療の領域です。
【四苦八苦】
苦しみは多様です。四苦八苦という仏教用語があります。
四苦とは
1、生きる苦しみ、
2、死ぬ苦しみ、
3、老いる苦しみ、
4、病む苦しみ
を指します。
八苦とはそれに加えて、
5、愛するものと別れる苦しみ
6、憎い者と出会う苦しみ
7、求めても得られない苦しみ
8、心身の苦しみ
を指します。
それぞれに解説をもっと加えなければなりませんが、要するに、苦しみは多種多様であるという意味です。その上、苦しみは深刻に感じられることもあり、ある人はさほど感じない場合もあるという具合に、その人だけが苦しみを感じているものです。
感じですから、他の人には窺い知れない場合もあります。そして、その苦しみから脱却するためにはそれぞれ個別に答えを探さなければなりません。そうでなければ明快な解答とはいえません。
【苦しみからいかにして脱出するか】
それでも、ひとつの苦しみを取り上げて、聖書から聞きたいと願います。私たちは、苦しみから逃れ出る道を求めます。卑しくも、宗教というべきものは、この苦しみからいかにして脱出するかを語るのだと思います。
【わたしの体験:12年間に6つの大病】
わたしは、この12年間、6つの大病を経験しました。視力を失いかけたこともあります。
4度、全身麻酔の手術を受けました。
(管理者注)1、脳下垂体腫瘍摘出術、2、悪性リンパ腫抗がん剤治療、3、甲状腺腫瘍摘出術、4、右腎ガン摘出術、5、小腸大出血(大量輸血)、6、頸椎腫瘍摘出術。
術後、ICUに入れられましたが、そこで、麻酔が覚め、まったくからだが動かせないまま、24時間そこに置かれました。ナースに声をかけられ、何分経ちましたか、と尋ねました。わたしは1時間以上過ぎたと思ったのですが、わずか5分経っただけだと聞かせられ、時間が全然進まない経験をしました。
抗がん剤の副作用にも苦しみました。吐き気、脱毛、そして、味覚障害、嗅覚障害、不眠、精神症状・・・放射線治療では、痛みも熱さも何も感じないのですが、回数を重ねるうちに鼻血が止まらなくなるという経験をしました。
小腸からの出血多量で意識を失って救急車で搬送されたこともあります。検査も楽ではありません。血管が固くなり、採血の針がするっと滑ってしまい、ナースが悪戦苦闘しているのを眺めるのは気持ちのいいものではありません。
あれやこれや・・・病の中で、わたしはいろいろなことを考え、経験しました。
いいことがあっただろうか。そう思い振り返りますと、現在医学の恩恵を蒙って今生きていることそれ自体が幸いと言えるでしょう。
【神の恵み】
私たちは永遠の命に関わる特別恩恵と、あらゆる生の領域で働く神の恩恵を信じるものですが、その一般恩恵を何度も経験する幸いを与えられました。
また、病気を経験することで、病むことの苦しみを味わい、病む人の苦しみに同情することが出来るようになりました。いつも思うのは、これは肉体の医師、医療関係者には分かって貰えないことです。実際検査ひとつをとって見ても、その苦しみを味わわなければ・・・
【苦しみの多様性】
しかし、やはり病んでいいことよりも辛いことが多かったと言わなければなりません。
どんな苦しみか。現在医学の進歩で、肉体的な痛みはかなりコントロールされて来ました。特に術後の痛みは麻酔術の進歩で軽くなりました。でも、魂の苦しみの方はどうでしょうか。
病んで苦しむ苦しみはこれまたいろいろあります。たとえば、死ぬかもしれないという恐れも苦しみかもしれません。孤独もそうです。誰もいない病室でひたすら天井だけを眺める(首が固定されてしまって)だけ、それは苦痛です。病気は、強制的に仕事ができなくします。同僚がどんどん仕事をしているのにできないための申し訳なさ、あるいは口惜しさ。
経済的な不安も伴ないます。家族に迷惑をかけるという思いも苦痛です。いろいろあります。病苦とは単純ではありません。複雑で難解です。
わたしはその中で、「この自分だけがどうして苦しまなければならないのか」という問いに苦しみました。おそらく病気になった人、特に大病を経験した人が問う問いではないかと思います。今回は取り上げられませんが、もうひとつは、後から病んだ人が先に逝ってしまうということの申し訳なさも苦しみでした。何故人だけが生き残ったかも難問です。
ここで、わたしは聖書のふたつの癒し物語を取り上げたいと思います。マタイ9章1-11とヨハネ9章1-12です。
【罪を許す権威を持っているイエス】
マタイ9章1-9では、中風の人の癒しが記されます。イエスは、罪を許す権威を持っていることを証拠立てるために、病人を癒します。つまり、ここから容易に推測できることは、病気は罪の結果であって、罪が許される=帳消しにされることで、病気も癒されるという真理です。
罪は、ここでは神を持たないこと、あるいは神に顔を向けていないことを指しています。単に、悪とは邪ま、あるいは悪行、邪悪な思いだけを指しているのではなく、神との関係で、神に対して正当なあり方ではないすべてを指しています。
この罪の結果、罪人に災いが持ち込まれます。病気もそのひとつです。本来、神が創造されたときの人類は病むことを知りませんでした。
【盲人の罪でもその両親の罪でもない】
ところが、ヨハネ9章1-12では、目の見えない人の癒しが語られています。ここで主イエスは、その人自身の罪、あるいは、両親の罪によって、この人が視力を失ったのではないと明確に語られています。これではマタイの福音書で言われているところと矛盾します。
しかし、聖書は矛盾したことなど教えません。
一方では、病は罪の結果であるといいながら、他方では、個々の罪の結果ではないという。矛盾しているようではありますが、そうではありません。
病の原因はある人は偶然の所産、ある人は遺伝的体質、また、何らかの悪行の罰、あるいは、運命になすところだといいます。そういう原因の説明では納得できるでしょうか。
ところが、このふたつの癒し物語で明らかにされることは、私たちの病は間違いなく、神から来るということです。しかも、私たちの中にあるという罪の性質に対する神のわざです。
そういう点では、人間の中にある病は罪が原因です。同時にある人が、何か特定の罪を犯したから病むのではないということも真実です。
注意していただきたいことは、わたし自身が病むとき、神からの懲らしめだと思うことは正当な感覚です。同時に、誰かが病気になったとき、神から罰せられたと安易にいってはならないし、口にしてもならないのです。それは神の御心にあることです。わたしが病むのは神がそうされたからです。
神がある人を盲目にされました。それは神の決定です。特別、その人自身に理由があったのではありません。
何故、このわたしだけが苦しまなければならないのか。答えは分かりません。愚かな人間にはあらゆる知恵にまさる神をはかり知ることはできません。
【神を信じる者にはすべてが益になる】
ただ分かることは、主イエスを私たちのために送り出し、御子の十字架によって私たちを贖い出そうとする神には深い配慮があるに違いないということだけです。
神は私たちの魂のために常に最善を尽くす方です。わたしが病み、苦しむには、神が最善を考えられているからに違いありません。わたしには神のすべてが分かったのではないので、不満であり、ときに神に不平を申します。
でも、すぐ分かることはその神は常にわたしと共にあってくださいます。だから、わたしのすることは今この時点でも神に希望を抱き、神を信頼しつづけることです。それが主が示される道でもあります。(おわり)
金田幸男(かなたゆきお)牧師略歴
1946年生 大阪府堺市出身
1972年 神戸改革派神学校卒。
中部中会の四日市教牧師を経て,
1994年 甲子園教会に着任、日に至る。
2013.3.10.説教「パンと杯」ウイリアム・モーア宣教師
2013.3.10.説教「パンと杯」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書26章26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。
28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。29 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
30 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
【子羊の像】
あるドイツの教会にある庭に可愛らしい子羊の像が建てられています。この像が建てられた背景は意義深いものです。
ある日数人の職人が教会の屋根の修理をしていて一人が誤って足を滑らしました。そして高い屋根でしたから同僚の職人たちは転落した仲間の命はないものと思いましたが彼は何事もなかったように無事に生きていました。
彼が転落したとき丁度そこに草を食べている子羊がいたのです。その子羊の上に落ちた職人は命が助かりましたが、その子羊の命はありませんでした。
命を助けられた職人は彼が落下し子羊が亡くなった場所に子羊の像を作りその台座に「砕かれた子羊の記念に」という碑銘を記しました。
【最初の聖餐式】
今朝は聖餐式を守ります。
聖餐式は「世の罪を取り除く神の子羊」としてこの世に来られた主イエス・キリストの贖い死を覚え感謝するわたしたち教会の大切な聖礼典です。
今日お読みした聖書の箇所は主イエス様が制定された最初の聖餐式を記しています。
敵に渡される夜、主は弟子たちを集め、ユダヤ教の過越祭を強行しました。昔イスラエルがエジプトで奴隷であった時、神様はモーセを召してエジプトの奴隷の家からイスラエルを解放して故郷カナンの地に導かれました。
【過越祭】
神がエジプトのパロ王に下された裁きはエジプトの初児を皆殺されるという厳しいものでしたが、ただイスラエルの家には予め傷のない子羊を屠って入口の二本の柱と鴨井に子羊の血を塗るようお命じになりました。更に屠った子羊を焼いて食べるよう命じられました。
命じられた通りに入口に子羊の血を塗ったイスラエルの家はそれが印となり死の天使は過越してその家を神は守られましたが、そうでないエジプトの家は宮殿から奴隷の家まで人も動物も初児は死に絶えましたので頑迷なパロもイスラエルを去らせました。主なる神はイスラエル人がこの過越しの出来事を世々に記念すべき日、主の祭りとして祝うように命じられたのでイスラエル人にとって過越しの祭りは特に大事でした。
【過越祭の新しい意味】
主イエスはその晩、新しい意味を再解釈して過越祭に与えられたのです。過越しの食事の後、主イエスは驚くべきことをなさいました。いつもの儀式から離れて新しいものを制定されました。
26節にこう記されています。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである。また杯を取り、感謝の祈りをしてから彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」と言われました。
過越祭の背景を用いて主は弟子たちに「私こそは新しい過越祭の真の子羊であって私の流す血こそがあなた方の罪を清めてあなたを救います」と教えられました。
主は言われます、「私の十字架の贖い死はあなたの全ての罪を赦し神の愛された子として永遠の命を与えます」。
【聖餐式】
主イエスはパンをとって裂き「これを食べなさい。これはあなた方の為に裂かれた私のからだである」と言われました。屠られた子羊の肉を食べるように命じられたイスラエル人と同じく私たちも「私のパンを食べるように」と聖餐式に招かれています。それは私たちの為に砕かれたイエスの体の表章シンボルになります。
これを食べることによってイエスの贖い死はわたしの為であって主の犠牲のお蔭で滅びに向かっていた私は救われ永遠に神の子として受け入れられます。
同様に杯から飲む葡萄酒は罪の洗いの為に流された主の血を飲むのです。神の敵であった私たちです。希望のない私たちの為に罪のない神の子羊は自ら進んで罪人の私たちの為ご自分の命を投げ出してくださいました。この血によって私たちは贖われ大きな希望と恵みが自由に与えられています。聖餐式の杯を飲むことによって主の愛と犠牲を覚え記念します。
【感謝の応答】
主の救いを覚えることによって私たちは自然にその賜物に反応します。神の御子の最高の犠牲のお蔭で贖われましたので私たちは愛と感謝と信仰をもって答えます。これはわたしたちの行動に影響します。たとえば神を愛すると言いながら隣人を憎むことは出来ません。神の赦しを経験したものは兄弟姉妹を赦すべきです。さらに神の物質的豊かさから多くを戴いたのなら貧しい者にむかって分かち合う責任があります。
その上イエス・キリストの永遠の救いを賜った者はこの福音を周りの者に伝える特権が与えられています。
愛する兄弟姉妹。聖餐式に際して私たちの為に流された主イエスの血を飲み砕かれた主の肉を食して私たちの救いを得させて下さった主の犠牲を心から共に記念したいと思います。
主の犠牲を心から記念し愛と感謝と信仰と憐れみをもってふさわしく主に答えたいと思います。
2013.2.24. 説教「十字架につけられたキリスト」ウイリアム・モーア宣教師
2013.2.24. 説教「十字架につけられたキリスト」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:コリントの信徒への手紙一1章
18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
説教要約(文責近藤)
【受難節】
先週水曜日より受難節に入りました。
復活祭の前の主の日を除く40日間を受難節として主イエス様の私たちの為の御苦しみと十字架の死に私たちは集中します。
受難節は私たちの悔い改めの機会であり私たちの信仰の不足したところを補う期間です。
これによって主の御復活の深い意味を知り復活の喜びを心から祝うことができます。
今日与えられた御言葉に主イエスの十字架の贖い死についてこう書かれています。
22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
一般的に言って人々は大きな人生の質問の答えをどこに求めるでしょうか。使徒パウロの時代「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しま」した。
【ユダヤ人はしるしを求め】
主イエス様はユダヤ人の為に多くの奇跡を行い、そのしるしによって神の独り子としての権威を顕されましたが、当時のユダヤ人は別のしるしを求めました。
その求めるところはこの世的なものでユダヤ人がローマ帝国の支配から解放され自由を勝ち得るなら彼に従ったでしょう。
【主イエスの十字架】
主にはその力が十分にあったのですが、主イエスは十字架の道を選ばれたので、当時のユダヤ人はそれを力と成功の道とは思えず弱さと敗北と恥のしるしと思いました。
彼らは霊的救い主を必要とせず、主の十字架はつまずきとなりました。
ユダヤ人は栄えと力強い軍事的勝利を求めましたので十字架のような霊的道を拒否しました。
【ギリシャ人は知恵を探す】
又当時のギリシャ人は知恵を求めました。
ギリシャはソクラテス、プラトン、アリストテレスを生み彼らの影響は今日も残っています。
ソクラテスによると人間の最も重要なニーズは教育によって答えられると言いました。教育によって人間は理性あるものとなり、教育によって人間は良くなり社会は問題が少なくなると言いました。
使徒パウロは伝道の為ギリシャの首都アテネでギリシャの哲学者たちの前で証をたてました。
はじめは喜んでパウロの新しい話に聞き入りましたが、パウロが宇宙の創造主と全能の神が処女によって人間として降誕したことや、十字架で死なれ、そして復活したことを語ると彼らには全く愚かなことだと受け入れられませんでした。
それは彼らには不合理でした。
その上全能の神は御自身の独り子を十字架に架けることを許されましたが彼らにはそれは理解できませんでした。
更に復活は彼らには不可能なことです。死んだ者は蘇りません。人間の経験からはずれ不論理的だと思い躓きました。これはイエス・キリストの福音に対する大昔の人々の反応ですが、今の私たちも知恵としるしを求め、神を信じる前に確証を求めます。しかし彼らにはどういうしるしが彼らには確証になるのでしょうか。
神などいないと思い込み神御自身が目の前に現れても信じないでしょう。
ただ幻想に違いないと思うでしょう。
現代の人々も知恵を求め、知恵は全てを解決できると仮定する傾向がつよいです。
【この世の進歩】
例えば知恵を通して経済が発展して貧困と犯罪がなくなると思う人は多いです。
また医療の進歩は人類の救いになると信じる人は多いです。
人間の知恵で肉体的と精神的病気が征服されるとこの世はまるでパラダイスになると思い込みます。
人間の知恵によって全ての問題が解決され、人間の力によって全ての質問に答えられると信じたい気持ちは良く分かりますが、全ての質問の答えが得られると言う希望は幻想です。
そういう希望が本当なら、人間はもう少し進歩したはずだと思いますが、今日も国と国の問題は戦争によって解決しようとし、犯罪は増え続け刑務所の人口は減ることがありません。
21世紀は発達したと言いますが世界の貧困層はまだまだ増えて飢え死にするものも珍しくありません。
医療が進歩したと言っても病気に悩む人は一向に無くならず新しい原因の解明されない病気も次々に起こってきます。
【私たちの質問】
「私はどのようにして幸福になりますか。
どうすれば私は心に平安を得られ、どのようにして私は現在の生き甲斐と将来の希望を持つことが出来るでしょう。
死んでも人から忘れられないようにするには私はどうすればよいでしょうか」等々、私たちはこのような質問を問いかけます。
【人生最大の質問】
このような質問は大事ですが、人生においてこれらは最大の質問ではありません。
わたしたち人間は最も重要な質問を見落としています。
それは人間の力に焦点を置いていて「私がどうすればよいか」との質問は人間の力と知恵に焦点されているからです。
そうではなく最も大事な質問は「神はどのようして私にご自分の愛を顕されたか、神はどのようにして私の罪を贖ってくださったか、神はどのようにして人生の目的と希望を私と全人類に与えられたか」と質問すべきです。
【十字架につけられたキリスト】
人間中心的質問よりも神中心の質問が大事です。
神様はそのような質問に導いて下さいます。
その質問の答えはパウロが述べた「十字架につけられたキリスト」です。
キリストの死を通して神はご自身の愛を示されました。
キリストの十字架を通して私の罪を贖って救ってくださった。
イエス・キリストの十字架によって神は私と全人類に人生の確かな希望と目的を与えて下さった。
使徒パウロがその真理をこう伝えました。
23節~25節「23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
十字架につけられたキリスト、全能の神が独り子を犠牲にすることは愚かに見えてもこれは人知を超えた神の知恵です。
神は十字架で罪の全くないキリストを罰しました。
その贖い死によってご自分の正義を全うされ、同時に私たちの全ての罪を赦してくださいました。十字架につけられたキリストこそ神の力と知恵です。
この歴史の中の最も重要な出来事を通して神は私たちを罪の力から解き放ち私たちをご自分との関係を回復し私たちのために永遠の命の門を開いてくださいました。
【復活の喜び】
受難節に人生の最も大事な質問に答える新たな機会を与えられました。
受難節を終えると復活祭イースターの喜びに与ります。
そして主イエスの復活は十字架のキリストこそが神の答えであることを保証します。
受難節の旅の上に神様の祝福がありますように祈ります。(おわり)
2013年02月24日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
2013年2月17日、説教「イエスにお目にかかりたいのです」ウイリアム・モーア宣教師
2013年2月17日、説教「イエスにお目にかかりたいのです」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネによる福音書12章20-26節
【ギリシア人、イエスに会いに来る】
20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
説教要約(文責近藤)
【受難節レント四旬節】
先週の水曜日より受難節に入りました。この日から復活祭までの主の日を入れない40日を四旬節、受難節、レントといます。
十字架の主の贖いがなければ私たちの信仰はむなしく救いはありません。受難節を通して主の御復活を覚えることが出来ます。受難節はキリスト者にとって悔い改めの機会になります。
何故40日間かというと、聖書の中で40という数は特別の準備をする期間です。
モーセは40年間の荒野の試練を通してイスラエルの民を約束の地に入れるように訓練しました。
ヨナは40日以内に悔い改めないとニネベは滅びると人々に訴えました。
主イエスは40日間の荒れ野で断食し試練を耐え忍ばれサタンの誘惑に勝たれました。
聖書には四旬節のことは書かれていませんがこのような伝統に従い全世界教会はこの受難節を守るようになり、主の復活を準備します。ちなみに日曜日は受難節には含まれません。なぜなら日曜日は主の復活を記念する歓びの日だからです。
私たちも世界教会の群れとしてこの受難節を大切に過ごしたい。
主の十字架は私たちの為でありイースターの復活は私たちの喜びになります。
【ギリシャ人の来訪】
今日の御言葉によると外国人であるギリシャ人が過越しの祭りの時にエルサレムの神殿に詣でた。かれらが弟子ピリポに「イエスにお目にかかりたいのです」と願いますとピリポは喜んで兄弟アンデレにそのことを話し、彼らはイエスにギリシャ人のことを伝えました。
【弟子たちの思い】
二人は自分たちの主がギリシャ人にまで有名になり、いよいよ主イエスと自分たちが世に認められる時が近づいたと思いました。しかし弟子たちの思いは主イエスの思いとは違っていました。なぜなら主イエスは数日のうちに御自身が十字架に架けられることを知っておられたのです。
数日前イエス様一行はエルサレムに入り人々から歓迎されました。
「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に』(ヨハネによる福音書12:13)」。
弟子たちの目からは彼らのリーダーの人気が上がり、さらにイスラエルの王として認められたと大変喜びました。弟子たちもその立場が上がると喜びました。しかし主のお言葉を聞くとその喜びは失せてしまいました。
【一粒の麦】
主は思いがけないことを言われました。
23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
弟子たちは「人の子が栄光を受ける時が来た」は理解できましたが、しかし次の「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とのお言葉に当惑し驚かされました。ギリシャ人の訪問とは関係ないと思いました。しかし今日のこの箇所からその意味を悟ると主イエスとキリスト信仰の深さをより深く理解できるようになります。
【一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである】
麦を沢山穫り入れたいのなら種を蒔かねばなりません。主イエスの時代は種を買うことはしませんで、賢い農家は良い種を翌年の収穫の為に食べずに残しました。
明日の為に今日我慢すれば将来は収穫が約束されましたが、残すべき種まで食べてしまった農夫は翌年の収穫が出来ませんでした。この話は弟子たちにもよく理解できましたが、農家の種まきのお話とギリシャ人の訪問は弟子たちには結びつきませんでした。
主は弟子たちのこのようなイエス理解を知っておられたので、主は誰もが知っている種まきの話から弟子たちに主イエス御自身はどういうお方であるかを悟らせようとされました。
弟子たちは主イエス様の救い主としての理解がまだ不足していました。彼らはロマ帝国支配からの解放を主に期待しました。それでギリシャ人も主イエスの味方になれば心強いと思いました。
【十字架の道】
主は為政者としての道を選ばれるなら十字架の道は避けられたことでしょう。しかしそうされたなら全人類の救いの道は閉ざされ、永遠の滅びの道を滅ぼし永遠の命を拓く使命は無かったでしょう。
それゆえに永遠の賜物を全人類に与えるためには主の犠牲が必要です。
永遠の命の道を人類が与えられるために、主イエスは人類の罪の洗うため、私たちに代わって十字架の道を歩まれ、私たちのために死んでくださったのです。そして大きな祝福を与えてくださいました。
主は私たちのために一粒の麦となって下さいました。24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。
一粒の麦を地に植えると言うことはその麦であるイエスさまにとっては犠牲となりますが、全人類に計り知れない恵みが与えられました。主は私たちに命を与えるために十字架の道を選ばれました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書3章16)」。
【自分の命を憎む】
主は弟子たちにだけでなく、私たちにもその原理を悟らせたかったのです。
25 節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。
マタイによる福音書 10章39 節にも同じことが言われます。
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
キリスト者は自分の為でなく主の為に自分を犠牲にするなら真の命を主から豊かに与えられます。
【古い自分を捨てる】
茶色の家を白い家にするためには、白いペンキで家を塗りつぶさなければなりません。
健康のために体重を減らそうとしたいなら、古い食生活を改めなければなりません。
神様の証人になるためには自分の中にある自己中心の生き方に死なねばなりません。私たちが十字架を担うのはイエスの愛が私を通して現れるためです。
受難節に私たちは古い自分を捨て一粒の種として地に落ちなければなりません。ギリシャ人がピリポに「主にお目にかかりたいのです」と頼みました。私たちも主のもとに来て彼らと同じ恵みに与ります。
【主にお目にかかる道】
今日の箇所でその秘訣を教えて下さったのです。
26節「 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
愛する兄弟姉妹。主にお会いしたいなら、わたしたちの生活を通して喜びをもって主に仕え主に従いましょう。(おわり)
2013年1月27日.説教「羊の門であるイエス・キリスト」ウイリアム・モーア宣教師
2013年1月27日.説教「羊の門であるイエス・キリスト」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネによる福音書10章7~10節
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
(説教要約 文責近藤)
【「私は・・である」】
この世を歩まれた主イエスは御自身の使命、身分、役割を啓示されました。ヨハネ福音書には御自身について7つほどの「私は・・である」との宣言が書かれています。
ヨハネによる福音書6章35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
8章12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
10章11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
11章25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
14章:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
15章:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。
【わたしは門である】
そして7番目は今日の御言葉にある主御自身の宣言です。
「わたしは羊の門である。わたしを通って入る者は救われる。」
今日のこの箇所を学びましょう。
門とは入口です。門の役割は壁の向こう側と行き来することができます。
人間と神様との間には罪という障壁があり門は永遠に閉ざされていました。
【罪は神を隔てる】
罪とは何ですか。簡単に言うと神に従わず自己中心、自分勝手な歩みであります。
イザヤ書 59章2
「むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」
主イエスこそは神様への唯一のドアとなります。
人間の罪を御自身の御子イエス様が受けて下さり神様のドアを開けてくださいました。
ドアを入ると神様の赦され愛された子となり、以前は罪ゆえ神の敵であったものが今は愛されて神の受入れられた子供になりました。唯一の全能の神を恐れるよりも、その門から入ると神は私たちの味方になって主の愛と親しい交わりを経験できます。
【門は守る】
門の他の重要な目的は門を閉じているときはその中の者を守ります。
この世は安全でなく病気や不幸は珍しくありません。
現代は治療法も進歩して多くの病気が治りますが、いろんな新しい病気が生まれ治療も困難です、また景気も不安定ですぐ悪くなります。人が富んでも瞬間的に無になります。
誰が良い将来を保証しますか。将来のために努力しても、将来は結局未知なのです。
しかし唯一全能の神は将来を知りご自分の民を守って下さいます。
勿論クリスチャンにも逆境はきます、しかし神はご自分の民を守り忍耐と希望を与えて下さいます。
このようにイエスキリストの門はすべての害悪から私たちを守り保護してくれます。
私たちは使徒パウロとともに確信します。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。(ローマの信徒への手紙 8章28節)
【唯一の羊の門】
又大切なことを覚えて頂きた。主イエス・キリストは唯一の羊の門です。沢山ある門の中の一つではなく、ご自分は羊の唯一の門です。他には門はありません。救いの方法はキリストの門から入る以外にはありません。
神を探すために人間は自分の門を創りたいのです。自分の条件に合った門で神様を知りたいのです。人間が作ったいろんな宗教が良い例です。しかし唯一の真の神の御前に出るために神の条件に合わなくてはなりません。常識ですが神はご自分で条件を創られます。
たとえばイギリスの女王に会うためには自分の条件ではお会いできません。ロンドンに行って自分勝手に塀をのっぼっては泥棒のように逮捕されます。女王の会うには女王の後援会に入り、その活動に参加していると何時かは女王に会えることが叶います。だれでも目上の者に会いたかったらその物の条件に従うべきです。同じように神を知り、神の救いを得ようとすれば神の条件に従うことしかありません。ルカ福音書に主イエスのお言葉がこのように言われます「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(ルカによる福音書 13:24)。
人間の作った条件では絶対に神様の御前に出れません。
主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書 14:6)。
【疑問?】
こういう話では神様が心狭い偏狭なお方で、了見の狭いお方と思いますか?おおらかな神なら色んな道を用意されるのではありませんか?イエス様以外の全ての宗教が神に近ずけるのではありませんか。
【酸素】
しかし少し考えてみてください。
人がこの地上で生きるためには空気が必要で、その中の酸素が絶対必要です。酸素以外では絶対生きられません。神がおおらかな方なら塩素や窒素で生きられるはずですが、とんでもありません、酸素を吸う以外には人が生きる道はないように人を創られました。
主イエスの道のみが人を永遠に生かす道です。これは驚くべきことではありません。他の方法は効果がありません。
【私たちの応答】
さて羊の門に私たちはどのように反応すべきでしょうか。
9「 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。
イエスの門を貴方の保護に使ってください。
この世ではこれから先も何が起こるか私たちには分かりません。しかしイエスに守られているので何物も恐れることはありません。他の誰よりも主なる神は強いお方ですから、どんなことにも失望はありません。主の門は貴方の為に開かれています。素直な心でこの門に入れば、神とともに歩む新たな人生の生き甲斐が分かります。
主イエスのお約束通り「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。(おわり)
2013年1月20日説教「裁かれないために」ウイリアム・モーア宣教師
2013年1月20日説教「裁かれないために」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書7章
1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
説教要約(文責 近藤)
【何事もけなす床屋の話】
ある男が床屋に行き、いつものように散髪をしてくれるように頼みました。この床屋の主人はいつも人にたいする悪口と酷評で満ちていました。政治家は賄賂を取る悪い奴と決めつけ、若ものは怠け者だと決めつけました。散髪をする間に男はローマに行くことを話しました。主人はどこの航空会社で行くか、どのホテルに泊まるかを尋ねました。男が答えるとその航空会社は危険だし、ホテルもサービスが良くないといいました。客は仕事でどうしても行かなければならないと答え、その後でローマ法王の拝謁も受けることになっていると言いました。床屋の主人はどうしてあの最低の神父から拝謁を受けるのかとけなしました。
さてその男は無事ローマから帰るとまた床屋に行きました。主人はローマの旅はどうだったかと聞きました。するとその男は答えました。ホテルも航空会社も満足したものだったよ。
床屋は男に法王にも会ったのかと聞きました。勿論会ったよ。そして膝まづいて法王の指輪に接吻もしたと答えた。主人は、その時法王は何と言ったかと聞きました。男は答えた「法王は頭に手を置いて、『わが子よ、このへたくそな散髪はいったいどこでしてもらったのか』」と言われました。
【人を裁くな。あなたがたも裁かれないためである】
主イエスは「1人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と言われた。
その当時の律法学者やパリサイ派の人々は自らをイスラエルの裁き人として自分の標準に達しない人を罪人として裁きました。自分たちは律法を守っているので罪人ではない義人と確信していました。たとえ罪を冒してもそれは些細なもので気にするほどのことではないと思いこみました。
【律法学者、パリサイ派の人たちの罪】
彼ら律法学者、パリサイ派の人たちは自分たちが神の律法の番人として罪人を探し出し罰することを自分たちの仕事と考え、そうすることで神に仕えていると勘違いしました。
彼らは自分たちが神の剣だと信じ人を裁きました。彼らは自分の罪を隠し又小さく見積り他人を裁くことに集中した。自分たちは正しいのだという独善的態度を常に取りました。
このような背景から主は「人を裁くな」と言われた。
主は人を裁かない理由はあなた方も裁かれないようにするためだと。
主は宣言された2節「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。
人間のレベルではその通りです。相手を裁き批判すると、その相手から何時か復讐される可能性があります。人間は復讐心が強いからです。これは人の常識なのです。
【神の裁き】
しかし主は人の常識を教えられたのではありません。
人を裁くと神から裁かれると言うのが主の教えです。
罪人の私たちは主の憐れみのゆえに全ての罪を赦されました。神の子供として受け入れられました。
ローマの信徒への手紙6章23「 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。
私たちは神に許された者ですから同じ憐れみをもって隣人に接するべきです。
【「仲間を赦さない家来」のたとえ】
主イエスはあるたとえ話をなさいました。ただ聞いて下さい。
マタイによる福音書18章
23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン(一億円相当)借金している家来が、王の前に連れて来られた。25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオン(100万円相当)の借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。
この二つのお話はその背景は違いますが同じ原則があります。
私たちは神に赦されているので隣人を赦すべきです。
そうでないと神の比べられない愛とご配慮の賜物を戴いていることが分かっていないことになり、隣人を赦さないならば神の正しい裁きを受ける恐れがあります。
今日のテキストから主は人間の弱さを示して下さいます。
今日の3~4節のこの御言葉は
「 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」
【自分の目から丸太を取り除け】
全人類は一つの共通点があります。人を厳しく裁きますが、自分自身にはゆるい裁きしかしません。
例えば車の運転中にも見られます。他人がちょっとした速度違反をしたり、高速道路で駐車違反している車を見ると、聞くに堪えないような言葉を発する自分がいます。しかし自分も同じような違反をしてそれに気づいても、自分の違反を正当化したり言い訳をします。
人と自分とでは別の標準があります。
主は私たちにこう指示されました。5節「 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と。
人の過ちや弱さを直す前に自分の過ちを認め直す必要があります。
【蛇のように賢く】
主は1節「人を赦しなさい」と言われますが私たちは全てのことを赦さなければなりませんか?
決してそうではありません。主も人を裁きました。律法学者、パリサイ派の人々に「偽善者よ、うわべで人を裁くのを止め、正しい裁きをしなさい」と言われ「悔い改めよ」とはっきりと要求されました。人を見分ける必要がありますが独善的、破壊的な裁きはいけません。
主イエスは言われた「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイによる福音書 10:16)。
【自らの罪と戦え】
独善的に人を裁いてはならないし人を見る眼識が必要です。何よりも罪と戦うこと、特に自分自身の中にある罪と戦うことが必要です。
5節「 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(おわり)
2012年9月23日説教「信仰とは何ですか」ウイリアム・モーア宣教師
2012年9月23日説教「信仰とは何ですか」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:へブライ人への手紙11章1~7節
1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
説教要約:文責 近藤
【夜の高速道路】
最近は夜間に高速道路をドライブすることがよくあります。その理由は深夜割引があったり、渋滞がなく、また夏なら夜は熱くもありません。今年の夏、高速道路で長野に休暇に行きましたが、その帰り道、大雨になり10メートル先が見えないほど見通しが悪い中を危険を感じながら少しスピードを落として走りました。その時のわたしの態度と行動は信仰に近いものでした。道路の先はほとんど見えないが命がけで道があると信じ、道路の側壁は川の激流にも耐えることを確信して走ることができたからです。高速道路を信頼せず道を信じなかったら決して走らず雨が上がるのを待ったでしょう。
このように毎日の生活においても信頼を求められます。例えば朝スイッチを入れれば電灯が燈ることを信じるし、ポストに郵便物を入れると相手に届くとか、医師の処方箋を薬局に出すと薬剤師はその薬が医師の指示通り渡されるということを信じます。
会堂の造り方が分からなくても確かに安全に建てられていると信じるので毎週ここに集います。それは信頼のお蔭です。
それは今日の聖句「1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」です。
毎日の生活は信頼のお蔭で生きることができますが、信頼がなければマヒ状態になります。
【信仰とその対象】
信仰の場合も同じですがその対象は違います。その対象は人や物でなく神です。信仰は神を信じること、神の約束、愛、力、救いを確信しその中に生きることです。わたしたちの信仰の対象は聖書に啓示された神様です。聖書にこう書かれています。
「 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12)
信仰の唯一の正しい対象が聖書に記されています。それはイエス・キリストです。その他の者は救いになりません。
信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
私たちは神を見ないが神を信じて生きています。
【ハドソン・テーラー】
160年前、有名な英国人の伝道者ハドソン・テーラーがはじめて宣教師として中国に伝道に行った時のことです。大凪(なぎ)で船は進めなくなり人食い島に流されそうになりました。海岸では人食い人種が御馳走が流されてくるのを待ち受けていました。
船長はテーラー先生に神の助けを祈ってくれるように頼みました。テーラー先生は船長に「祈りますが風がもうすぐ来るのでまず帆を上げるよう」に言いました。船長は大なぎなのに帆を上げると笑いものになると断りました。テーラー先生は今帆を上げないと風のために祈りませんと答えました。船長がテーラー先生の言うことを聞きいれたので今度は祈りました。すると大風になりましたので、船長はテーラー先生のところにきて「まだ風のために祈っていますか。もう風は十分です。風を止めるように祈ってください」と頼みました。
テーラー先生は神を信じ、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認したので主がその祈りに豊かに答えて下さいました。
今日の聖書は旧約聖書の3人の人物の例を挙げ信仰の結果を記録しています。
【アベル】
「4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」
アダムとイブの最初の子供であるアベルとカインですが、アベルは信仰によって神を礼拝しました。つまり自身をすぐれた生贄として神に捧げました。信仰を持つ者は神を感謝をもって礼拝します。愛する兄弟姉妹、それは私たちの姿ですか。
【エノク】
「5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」
エノクは主とともに歩んだので主に喜ばれました。それ故神はエノクを生きたまま天に移された。
【ノア】
「7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」
人類の堕落と罪の故に神はただノアの家族を除いて人類を滅ぼすことを決めました。ノアの家族のゆえに人類は残りました。周りの嘲りにたえて120年かけてノアの家族は箱舟を造りました。信仰がなければ箱舟を作ることは出来ませんでした。
私たちは望んでいる事柄を確信し見えない事実を確認して神のお働きに参加したい。
2012.7.1説教「だから私たちは落胆しません」ウイリアム・モーア
2012.7.1説教「だから私たちは落胆しません」ウイリアム・モーア
新約聖書
コリントの信徒への手紙二4章
16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
5章1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
使徒パウロの回心
新約聖書のなかでイエス様のほかもっとも知られている人物はパウロでしょう。彼は新約聖書の3分の1を書きました。
ルカの書いた使徒言行録9章に彼の人生のターニングポイントがよく書かれています。
彼の劇的歩みの大変さに私たちは印象づけられます。ユダヤ人でありながらローマの市民権をもち、ユダヤ人の聖職者としても素晴らしい経歴の持ち主でありました。はじめはユダヤ教に熱心のあまり先頭にたってクリスチャンを迫害しました。ダマスコのクリスチャンを捕えるために出かけたとき、途中で主イエスと奇跡的出会いがあり180度人生が変わりました。
使徒言行録9章
3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
一番熱心な迫害者が一番熱心な伝道者になり名前もサウロからパウロになりました。彼は迫害を受ける側になりました。ユダヤ当局だけでなくローマ帝国からも迫害をうけましたが、それにもかかわらず熱心に宣教し教会を中東からヨーロッパに広めました。
当時のクリスチャンも迫害のなかで信仰を守り通し、捕えられては牢に入れられました。
パウロの受けた幾多の苦難
またパウロは伝道のために多くの苦難を経験しました。今日のパウロの手紙に彼の受けた苦難が書かれています。
コリント人への第二の手紙11章
24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。26 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
28 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
このような多くの苦難のほかにパウロの身にとげが与えられたとあります。これは治らない苦しい病気であったと言われます。
これらに加えて宣教活動を支えるためにテント作りにも時間を割かねばなりませんでした。
イエスキリストに出会ってからは苦難の連続でしたが彼は真理を悟ることができ喜んで人生を主に捧げました。最後まで信仰に立つことができたのです。
今日の御言葉にパウロはこう言います「16 だから、わたしたちは落胆しません。」なぜなら「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」
外なる人
「外なる人」とは一時的な存在です。
「8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」コリント人への第二の手紙
こう言うつらいことが「外なる人」にありましたがパウロは決して滅ぼされないという確信がありました。
私たちもこの世にあって外なる人はパウロと同様に苦しむことは否定できません。
外なる人は衰えていくとしても私たちの内なる人は日々新たにされて行くことは今日の御言葉が約束します。
内なる人
私たちの内なる人とは何でしょうか。キリスト者になると神から与えられる新しい命です。
「17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(コリント人への第二の手紙5章)
イエスキリストの贖い死のおかげで私たちは完全に罪ゆるされ神との関係が回復され神の子供になり、私たちは神を知り毎日神と交わりをもっていきます。聖霊なる神は私たちとともに神の子供として相応しく生きる力と知恵と愛をあたえてくださいます。その恵みで私たちの内なる人が神によって生かされ日々新たにされます。だから外なる人が衰えても私たちは落胆しません。
この世でわたしたちの内なる人は日々成長しますが完全にはなりません。それは天に召されたときまで待たねばなりません。
「17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(コリント人への第二の手紙4章)
永遠の命とこの世の命
この世での私たちの生涯は永遠と比べると、あっという間です。今はこの世のことしか直接に見えないのでこの世のことが全てだと思い込むことがあります。しかしそうではありません。これからの命は神との完全な交わりに永遠までその言い尽くせない喜びと楽しみが待っています。といってこの世の生涯はあまり価値がないと言ってはなりません。この世で私たちは神とともに歩んだイエス・キリストに似ていきます。いろいろの経験をとおして私たちは成長していきます。天に召されると神との健全な関係をもって主はそのものを完全にしてくださいます。この世の命は永遠の命の準備の過程です。
「18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント人への第二の手紙4章)
大きな確かな希望をもって私たちは天国を目指すべきです。
パウロが書いたピリピ人への手紙のように「私たちの国籍は天にあります」とあり、この天は私たちの永遠の住処ですから、この世にある間でも天国に目を注ぎ確かな希望をもって楽しんで待ちます。
最後に今日の御言葉コリント人への第二の手紙5章で言われました。
「1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」
この世はテント
テントを作っていたパウロは天幕の限界を知っていました。だれもテントに暮らしたくありません。パウロはこの世の暮らしをテントに比べました。神はテントの代わりにしっかり建てられた永遠の住処、素晴らしい建物をわたしたちのために準備してくださいました。
永遠の確かな住処
主イエスはヨハネによる福音書14章でこう約束されました。
1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
私たちは落胆しない
どんな苦難があっても永遠の住処の希望をもった使徒パウロは落胆しませんでした。自分の外なる人は衰えて行くとしても落胆しないで続けて積極的に神と隣人に仕え福音を伝えました。愛する兄弟姉妹、私たちもこの同じ信仰を抱きましょう。この確かな信仰のみは永遠の住処まで私たちを守って下さいます。(おわり)
2012年07月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書
2012年4月15日「子どものようにさせられて」片桐耕治神学生説教奉仕
2012年4月15日片桐耕治神学生説教奉仕;
マタイによる福音書17章24 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。
25 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
26 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。
27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
18章1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
「光の中を歩く」伊丹教会長老 城下忠司 2011.9.25.
聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・1章5節~10節
◆神は光
5:わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
6:わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
7:しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
8:自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
9:自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
10:罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
【はじめに:光と闇について理解する】
聖書は、私たちに、多くの箇所で比喩を使って、分かりやすく、神さまのみ心を伝えてくれます。今日のみ言葉で語られる光と闇という言葉の意味も良く分かる言葉となっていると思います。ヨハネは光と闇とを比較してその深い、内側に隠された意味を教えてくれます。
初めに、光と闇について、私たちの感覚で比較して見てみましょう。今の時代、都市に住む人たちは、真っ暗闇というものを経験することはできません。田舎でも今は光の無い場所は中々見当たりません。人気の無い山の奥に入り込まなくては星の観測は出来ない時代です。真っ暗闇の不安、恐ろしさを経験することも出来ないと思います。
【かつて私の経験したこと】
かつて私の経験したことですが、弟と二人で旅行から田舎に帰る途中のことです。鉄道も無く、バスの回数も少ない時代でした。そのバスの終点から家までは30キロあまりありましたが、二人とも高校生でしたので、歩いて帰ることになりました。どんなに暗くても星の光さえあれば、なんとか進んでいけるものです。しかし、その日はあいにく曇り空で、日暮れてからは全く何も見えなくなってしまいました。文字どおり真っ暗闇となり、道は狭くそのうえ、片側は小さな川が音も無く流れているという環境でした。一旦歩き出した二人です。這いつくばるようにしてほんとうに手探り状態で歩き続けました。30分程歩いた時でしょうか、前方にかすかな明かりが見え、近づいてみると農家の灯りであることが分った時のその安堵感、その喜びは忘れられません。幸い、その農家に泊めてもらって翌朝のバスに乗って帰ったという経験を思い出します。闇についての恐ろしさの経験でした。
権威と力あるお言葉」宮崎契一奈良教会牧師2011/8/28
聖書:ルカ福音書4章
33:ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。
34:「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」35:イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。36:人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」37:こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
【あいさつ】
今朝は、久しぶりに西谷伝道所での奉仕が許されました。私が前回この教会で奉仕させていただいたのは、確か去年の6月の関西地区の教会の講壇交換の時であったと思います。元々は、伊丹教会、男山教会、奈良伝道所の3つの教会のつながりの中で、講壇交換をしてきましたけれども、昨年から西谷伝道所も新しく加わりまして、4つの教会での礼拝の交わりが許されていることを心から感謝しています。その中で西谷伝道所は、これから新会堂の建築も控えておられるということを伺っています。このこと自体は、とても教会にとって大きな働きを必要とすることだと思いますが、その中で教会が変わることなく主の言葉に立ち続けていくことを願っています。
【汚れた悪霊に取りつかれた男】
今日の聖書の個所は、そのような主イエスがお語りになった言葉についてのところです。カファルナウムという町の会堂の中に、汚れた悪霊に取りつかれた男が出て来ます。私たちが聖書の福音書を見てみると、このような悪霊とか、悪魔とか、サタンといった存在がよく出て来ます。そして、こういう悪霊の姿というのは、私たちにとって、とても印象的にも見えます。
と言いますのは、この汚れた悪霊は、大声で叫びますし、出て行くときもその男を人々の中に投げ倒した、ということがあるからです。また、他の個所を見ると、その取りついた子供にけいれんを起こさせて泡を吹かせたり、さんざん苦しめる、ということも言われているのです。このような、とても激しくて印象に残る動きがあります。ですから、私たちは今日の個所を読んでみても、まず目につくのは、この悪霊に取りつかれて大声で叫んでいる男の姿かもしれません。
「命の言葉イエスさま」城下忠司伊丹教会長老2011.8.7.
《聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・1章1節~10節》
【はじめに・12使徒の一人ヨハネ】
以前、朝の礼拝で、橋谷先生からヨハネによる福音書らの説教をお聞きして、とても素晴らしい恵みを頂いたことを覚えています。ヨハネはイエスさまの一生のことを福音書に書き残しましたが、手紙も3通書きました。ヨハネの手紙1・2・3であります。私はこの手紙からイエスさまの素晴らしい恵みに与りたいと思い、ヨハネ第一の手紙を学ぶことにしました。この手紙は愛の手紙と呼ばれ、ヨハネが聖霊に導かれて、イエスさまの愛を余すところ無く私たちに伝えてくれています。
有名な宗教改革者のルタ-はこの手紙から信仰の真髄を得たと言われています。ルタ-がこの手紙について、次のように語ったことが残されています。「これは傑出した書簡である。同書簡は悩める心を支えることができる。その上、同書簡にはヨハネ特有の文体と表現様式があり、非常に美しく、そして優しく、キリストを実に良く、我々に描いてくれている。」
聖書の他の手紙をみると、書き出しが大体決まった形式が多くありますように、当時のギリシャ語を話す人々の間では、次のような書き出しでした。「神の御心によって召された何々の教会へ、そして、聖徒たちへ、私たちの父である神とイエス・キリストから恵みと平安があるように。」というような文章で始まっています。今の私たちキリストを信じる者の手紙は、主の御名を讃美いたします。とか、簡単に在主とかで始めるのではないでしょうか。決まり文句で始めることが多いように思います。
しかし、ヨハネは最初からキリストを証しする言葉から始めます。1節には
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、良く見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とあります。初めからあったものとは何でしょう。言うまでもなく、父なる神さまと一緒に初めからおられた方イエスさまのことです。
ヨハネはこの世に来てくださった神さまの御子イエスさまと、3年の間、共に生活し、手で触れるほどの身近で、お話を聞き続けましたように「皆さんは私も話していますように、イエスさまの弟子たちを通しても御言葉を聞いています。わたしは、このイエスさまのことを伝えたいのです。そして、イエスさまは私たちにとって命の言です」と、ヨハネは語り始めるのです。
「再臨を待ちながら」ウイリアム・モーア2011.7.31
ルカによる福音書12章35−40
【はずれた預言】
今年の春の事ですが、ハロルド・カンピングと言うアメリカ人のラジオ放送牧師がイエス・キリストの再臨の日を預言しました。5月21日を「最後の審判の日」と預言し、その日、地震が発生し、信者は天国に召されるが、そうでない人は取り残され、数ヶ月にわたって世界の破壊に巻き込まれるというものです。カンピング氏は自分の独特な聖書の解釈に基づいて色々な計算をしてから、その再臨の日が悟られたと言いました。
実は、カンピング先生は1994年にもイエス・キリストの再臨を預言し、誤っていましたが、今年の5月21日の預言について、「いかなる疑いの影もなく成就する」と自信一杯説きました。全国のラジオ放送だけではなく、多くの広告欄で、インターネットも用いて、自分の預言を広く発表しました。
言うまでもないが、5月21日は来て去っても預言通りになりませんでした。ですから、カンピング先生は今もう少し勉強を続けて、将来、もう一度イエス・キリストの再臨の日時を預言するでしょう。
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「宗教と信仰の違い」ウイリアム・モーア2011.7.24
聖書;マタイによる福音書7章21−23
【バルト博士の床屋さんに会った】
カール•バルト博士は有名なスイスの改革派主義神学者でした。ある日、スイスのバーゼル市に住みバルト先生は路面電車に乗ると、一人の観光客が彼の側に座りました。その二人は直ぐに歓談に入り、バルト先生が、「バーゼルは始めてですか」と観光客に聞きました。「そうだ、まったく始めてです」と返事すると、バルト先生は、「じゃ、始めてでしたら、こちらで特別にしたい事がありますか」と聞きました。すると、観光客は、「実は、有名な神学者カール•バルト博士 に会いたいです。彼の本を全部読んで、とても影響を受けたからです。ひょっとしてバルト博士を御存知ですか」と尋ねました。そうすると、バルト先生は冗談でこう言いました。「私はあの人をよく知っています。実は、毎朝彼のひげを剃っているよ。」観光客はそれを聞くと喜んで相手に「さようなら」と言って、ホテルへ帰りながら自分に、「僕は本当にラッキーな人だな。バルト博士の床屋さんに会った」と嬉しそうに言いました。
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「御言葉を実践する人」ウイリアム・モーア2011.7.17.
聖書;ヤコブの手紙1章19−27
【説教は済みましたが、まだ行われていません】
ある男の人が礼拝の為に結構遅く教会に入り、案内係にこう聞きました。「説教はもう行われましたか。」そうすると、案内係は賢明にこう返事しました。「今日の説教はもう済みましたけれども、まだ行われていません。」それはとても良い答えだと思います。神の御言葉の解き明かしを聞く事は大事ですが、毎日の生活に於いて御言葉を実践する事もとても重要であります。つまり、御言葉は私達の行動を通して行うものです。
「慰めを豊かにくださる神」ウイリアム・モーア2011.7.10
聖書:コリントの信徒への手紙二1章3−7
【神が下さる慰めとは】
今日は、 御言葉をもって愛する神が私達に下さる慰めについて学びたいと思います。つまり、私達は悩み苦しむとき、神はどういうふうにして、その苦難を慰めて、新しい希望と力を与えるのでしょうか。
【今、悩みがない?】
しかし、「慰め」と言うと、恐らく、私達の中のある兄弟姉妹はこう思うかも知れません。「神の慰めはとても良い課題だと思いますが、今、私は別に悩みや苦しみなどがない、元気と希望満々だ。ですから、今日のメセージは私と関係があんまりないと思う。」
実は、今、悩みとか別に何もないにもかかわらず、今朝のメセージはあなたに当てはまります。なぜなら、必ずいつか、どんな人でも傷つけられたり、失望したり、苦しみと悩みを味わいます。聖書に於ける多くの人物さえも悩みに打ちひしがれて、苦難に直面したのです。ですから、私達は一人も残らず、いつかそう言う辛い事を体験します。そして、信仰の英雄と同じように、その時こそ、主の豊かな慰めが何よりも必要となります。
2011年07月10日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書
「言葉では言い尽くせない神の贈り物」ウイリアム・モーア2011.7.3.
聖書;コリントの信徒への手紙二9章6−15
【養育費を増やすために】
20数年前の事ですが、私達は子供の教育の為に、将来、資金が絶対に必要だと思って、給料からお金を一所懸命に貯めようとしましたが、宣教師の給料なので、貯金が増える事はなかなか時間がかかりました。
そして、やっとある程度のお金を貯めた時、大事な事が分かりました。それは、三人の子供の学費に必要な資金は、普通にお金を貯めるだけでは全然足りませんでした。つまり、限られた貯金を増やさないと、子供達が大学へ行こうとした時、家計が大変苦しくなります。その時、景気が割合に良かったので、貯めたお金を株に投資しようとしました。色々と調べた上、あるハイテク化学と技術ファンドを探し、勇気を出して子供の教育貯金全部をその株に掛けました。更に毎月少しずつ定期的に株をまた購入したのです。
【株価の虜】
そして、新株主になった私は毎朝起きると、パソコンで必ず株の様子を調べました。もし大きな損の場合、子供達が大学へ行けなくなる可能性がありました。その反面、伸びたら、行かせられるのです。ですから、株に取りつかれてしまい、株価が上がったら大喜びました。下がったら、心配したのです。丸でジェット・コースターのような存在でした。
2011年07月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書
「復活した主を見た」大西良嗣・滋賀摂理教会牧師2011.6.19
聖書:ヨハネ20章11~18 【はじめまして】 おはようございます。滋賀摂理伝道所から参りました大西良嗣と申します。 本日は、関西地区伝道協議会内の講壇交換ということで、めったにない機会を与えられて、西谷伝道所の礼拝で奉仕をさせていただけることになり、感謝をしております。神学生時代には、毎年、近藤長老に健康診断をしていただいて、お世話になりましたが、西谷伝道所の礼拝に出席させていただくのは初めてです。少し前までは、西谷集会所と呼んでいたと思いますが、少し前に伝道所となられましたね(中会に伝道所開設の届が出された時、わたしはその時、中会の副書記をしておりましたので、中会議場で挨拶された方々のお名前を書き留めたことを憶えております。)そして、今は会堂を取得することに取り組んでいらっしゃるということをうかがっておりまして、ぜひ訪れてみたいと願っておりました。 【マグダラのマリアに起こった変化】 ともに御言葉から教えられたいと思います。 今日の個所では、マグダラのマリアという一人の女性に起こった変化に、特に注目をして読んで行きたいと思います。 この変化は、いわば「信仰的な」変化です。その変化は、復活されたイエス・キリストとの関わりの中で起こりました。 マリアとイエス・キリストとの関わりをたどることで、この「信仰的な変化」が私たち一人一人にも起こる可能性があること、この「信仰的な変化」が自分自身にも与えられている希望であることを確かめたいと願っています。
「神への唯一の道」ウイリアム・モーア2011.6.12.
【主イエス・キリストの驚くべき発言】
聖書を読むと、一つの事が明白になります。それは、主イエス・キリストは驚くような発言をよくなさいました。その発言は人間の常識を超えたので、その当時に聞いた人々も、今の私達も驚かせます。例えば、「自分の命を得ようとする者は、それを失う」(マタイ10章39)。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マルコ10章31)。「柔和な人々は、幸いである、その人達は地を受け継ぐ」(マタイ5章5)。「敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい」(マタイ5章44)。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録)。
【私は道であり、真理であり、命である】
上述の主の教えは驚かせますが、最もびっくりさせる発言は、今日与えられた御言葉の中に書いてあります。それはヨハネによる福音書14章6に記されています。「主イエスは言われた。『私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。』」恐らくこの御言葉は主イエス・キリストの発言の中でどんな発言よりも人を躓かせ、むっとさせるでしょう。
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「神の民の喜ばしい祝宴」ウイリアム・モーア2011.6.5.
聖書:コロサイの信徒への手紙3章15−17
【聖餐式と私たち】
今日、私達は新たに聖餐式に預かろうとします。そして、我々の日本キリスト改革派教会は全ての改革主義教会と同じように聖餐式を重んじて、非常に真剣に扱っています。ですから、日本キリスト改革派教会の式文に於ける聖餐式の典礼文にこう書いてあります。「聖餐を受ける者は、神の御前に、自分自身を吟味し、悔改めと信仰を表さなければなりません。また、主を頭とする教会の枝である事を覚え、愛の一致を表さなければなりません。」
つまり、聖餐式を正しく頂く為に心と魂の準備が必要であります。自分の行動と信仰生活を省みて、そして、罪を悔い改めてから聖餐式を受けた方が良いと勧められています。
【宗教改革者ジョン・カルヴィンと聖餐】
実は、宗教改革者であるジョン・カルヴィンは聖餐の純潔を守る為に、信者が礼典にあずかる前に、彼らを面接して、信仰の状態を量りました。そして、合格した信者には、 硬貨に似たトークンが与えられ、それを持って聖餐式を受けました。その反面、面接を失敗した場合、聖餐を頂く事が出来ませんでした。
その結果、聖餐式は非常に厳かなものになり、多くの信者は自分がふさわしくないままで礼典を受ける事を恐れました。ですから、聖餐式は非常に暗くなり、あんまり喜びのない礼典になりました。
2011年06月05日 | カテゴリー: コロサイの信徒への手紙 , 新約聖書
「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」ウイリアム・モーア2011.5.29.
聖書:ヨハネによる福音書14章15、21
【聖書とは何ですか】
皆さん、聖書を読むと、どう思われますか。分かり難い、難しいですか。昔々の遠い国の歴史と人物の事ばかりで、あまり自分の現実に関係がないと見えるのでしょうか。それとも、聖書の色々な「してはならない」と「しなければならない」と言う言葉はあなたにはちょっと難すぎるのでしょうか。
確かに聖書の全ては誰でも直ぐに分かる訳ではありません。聖書は昔の文化と外国の言葉を通して私達に伝わって来ましたので、分かり難い所があるのは当然だと思います。聖書学者さえも、ある個所の正確な意味がまだはっきり分からなくて、今も研究が続けられています。
難しい、分かり難いと言っても、聖書を全体的に見ると、そんなに難しくはないのです。聖書はどんな事よりも私達人間の為の神様の御業の記録なのです。
「あなたがたは何を求めていますか」ウイリアム・モーア2011.5.22.
聖書:ヨハネによる福音書1章35−42
【人間は神を信じるように造られた】
この間、新聞で非常に意義深い記事が目に留まりました。その記事には「研究によりますと、人間は神を信じるように造られた」という見出しがついていました。有名な英国のオックスフォード大学は3百万ドルを掛け、三年間にわたり、その研究を行いました。人類学者、心理学者、哲学者と神学者の幅広い知識を用いて、重要な結論を出しました。研究の結果では、人間は本能的に神と死後の生を肯定します。つまり、私達は人間として、生まれながら霊的な意識を持っています。例えば、子供は超自然界の存在を当たり前の事として想定します。また、人間は死ぬと、魂が残ると言う本能的な確信を私達は持っています。その確信は文化と時代を超える全人類の共通的な仮定です。
【神はなぜ人を創造されたか】
実は、私はその研究の結果にちっとも以外だとは思われませんでした。なるほどと思ったのです。何故なら、御言葉によりますと、愛する神は人間を創造された時、私達が御自分を信じるように、わざわざお造りになりました。さらに、御自分を愛するように、また、御自分との交わりを持つ為にと、主の大きな恵みを受ける為に私達が特別に造られました。
創世記1章27に記されていますように、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」つまり、他の造られた生き物と違って、私達人間は神を知り、神様と共に歩むことが出来ます。
【神不在の人生】
従って、そのように造られた私達は創造主である、愛する神の交わりを断って、誠の神が存在していないように生活をすると、私達は不安であり、空しいです。
それは私達の目的に逆らっているからです。誰かが言いましたけれども、「全ての人間には神の形の穴が空いています。そして、神のみがその穴を満たす事が出来る。」
「神の子となった私たち」ウイリアム・モーア2011.5.15.
聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章26~4章7
【韓国旅行の思い出】
数年前に家内と私は韓国の大田市で開催する、米国長老教会の宣教団の集まりに参加しました。そして、私達は帰りに用事があってソウルで二泊しました。その間にちょっと時間があったので、ある有名なデパートに入り、地下の食品売り場をうろうろしました。その中には勿論キムチの売り場や、お肉屋さんや、果物とお野菜の店などがありましたが、特に面白いのはお茶の売り場でした。何故なら、韓国は、戦争と貧困の故に、お茶の文化が大分衰えて来ましたが、最近の経済発展と伴い、お茶もブームになり、色んな昔のお茶の種類が盛んになりました。とにかく、歩きながら韓国伝統のお茶屋さんの前に止まりました。丁度試飲の時で足も疲れていたので、招待されるままに茶屋に座りました。
家内は座る途端、そのお茶の産地などを聞いたり、入れ方などで話が進みました。お茶の産地は南の方で1920年代から祖父がいた地方でもありました。
【ボイヨル先生】
私はお茶を頂き、「カムサハムニダ」と一言言いました。そしてお茶屋さんの御主人は私の顔をずーと見ながら「ボイヨル先生、ボイヨル先生」と言いました。実はボイヨルという名前は祖父の韓国名でした。
言うまでもなく、私はびっくりしました。全く初めて会ったお茶屋さんの主人が私の顔を見ると、40年以前に亡くなった祖父を思い出しました。私はそれ程祖父に似ていなかったと思っていたのですが、祖父に多少は似ていたようです。
もう少し話すと、お茶屋さんはキリスト者で、教会の長老でもありました。青年の時、私の祖父が携わったミッション・スクールの生徒であって、よく覚えていて祖父に助けてもらった話もしました。帰りにはお茶とか色々なお土産までくれました。
2011年05月15日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
「父の愛の中で」城下忠司(伊丹教会長老)2011.5.1
聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・2章28節~3章5節
【父の涙】
私、最近歌の歌詞を、特別気にするようになりました。讃美歌についてだけではなく、この世の歌全てについてもそうです。何年か前に神戸長田教会で、岩淵まことさんという福音歌手のコンサートがありました。その折に聞いた「父の涙」という歌がとても気に入りまして、その後、この歌が大好きになって、自分でも歌えるようになりました。どんな歌詞かを紹介します。
1、心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎてゆく
「十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛」
2、父が静かに見つめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よ彼らを赦してほしいと、(繰り返し)
【父なる神よ】
今日与えられた御言葉から教えられたいと思います。
天の神さまに向かって、イエスさまは語りかけたり、あるいは祈ったりする時には、いつも神さまを父と呼んでおります。山上の説教の中には、17回も神さまは父であるという言葉が用いられていると言われます。福音書の中のイエスさまの言葉をみますと、天の神さまを御自分の父であるとの言及があちらこちらに出てまいります。たとえばイエスさまがまだ子供のころのことですが、神さまを礼拝する神殿で「自分の父の家にいる」(ルカ2章46)と答えられています。また、十字架の上のことですが、「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」と祈られたことが記されています。
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「全てを変えたイースター」ウイリアム・モーア2011.4.24
聖書;コリントの信徒への手紙一15章1−6
【津波とわが子】
杉本友子さんは最悪の結果を恐れて恐怖に襲われました。5歳の長男ライト君の行く方が全く分からなくなってしまいましたからです。ライト君が通っていた幼稚園は、丁度3月11日に宮城県の石巻市で津波が押し寄せた所です。地震のその時、母、杉本さんは隣の町の会社で働いていたが、直ぐに車に乗り、石巻に帰ってライト君を探そうとしました。しかし、道路は津波の為、完全に通れなくなった状態で仕方なく職場へ戻りました。
翌日、何とかやっと石巻市に帰る事が出来、ご主人と共にライト君の幼稚園へ行きました。しかし、幼稚園には一人もいませんでした。しかも、園舎は津波で大分やられてました。杉本さんは園児について色んな矛盾した情報を聞きました。「子供達皆は助けられた」とか、又は、「皆が海へ流されてしまった」と聞いたのです。その故に彼女は最悪の結果を恐れ嘆きに沈みました。独り子のライト君がいなくなると、若いお母さん杉本さんはどうしようもない状態でした。
三日後、正しい情報がやっと入りました。地震の時、幼児11人と先生14名が幼稚園にいました。津波が襲って来ると皆は園舎の二階へ上がりましたが、黒い海の水は直ぐに二階へ入ったのです。そして、先生達は屋根まで園児を引っ張り上げって、そこで非難する事が出来ました。数時間後で皆が無事に助けられ、避難所へ連れられました。
その嬉しい情報を聞くと、杉本さんとご主人は避難所へ飛んで行きました。ようやく、ライト君と再会すると杉本さんは精一杯息子を抱きしめて、彼を放す事は出来ませんでした。嬉しくてたまりませんでした。ほっとした杉本さんは喜びで泣きながら「良かった、良かった」としか言えませんでした。
杉本婦人は今御家族と共に、仕方なく故郷から離れた場所で生活をしていますが、毎日ニッコリして、とても幸せに暮らしています。「息子ライトと一緒にいると、どんな事があっても前向きに生きられます」と嬉しそうにおっしゃいました。
2011年04月24日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
「パレードか受難か、どちらを選ぶか」ウイリアム・モーア2011.4.17
聖書:マルコによる福音書11章1−11
【過越し祭りとエルサレム巡礼】
過越し祭りの際の為にイスラエルの都エルサレムの人口が数倍増え、大変賑やかになりました。ローマ帝国の遠い隅々から十万人程の巡礼者が続々とエルサレムに入り、その一年中の最も大事なユダヤ教のお祭りを守りました。中東から、ヨーロッパから、小アジアから、アフリカからも敬虔なユダヤ人は自分の宗教の中心地に帰り、エルサレムの神殿で生け贄を捧げ、自分の民族の為の神様の素晴らしい御業を覚え、お祝いました。それは1400年前のエジプトの奴隷の家からの奇跡的解放でした。
【救い主を期待】
そして、その大勢の巡礼者はただ大昔の出来事を記念する為にエルサレムに集まった訳ではありません。実は、イスラエルは又、神によっての解放を切に待っていたのです。その当時、イスラエルは独立が失い、ローマ帝国の植民地になり、辛い日々を送りました。政治的と経済的と宗教的に始め、色んな面で圧迫され、皆は何よりも神の救いを待ち望んでいました。
特に、預言者を通して神様が約束された救い主を期待し、祈ったのです。祭りの為にエルサレムに上がって来た巡礼者は預言者イザヤの言葉を思い出した事でしょう。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の蔭の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。....一人のみどりごが私達の為に生まれた。一人の男の子が私達に与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和はたえる事がない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9章1−2;5−6)
「神の前の私たちの態度」ウイリアム・モーア2011.4.10.
聖書;ルカによる福音書18章9−14
【一番小さいパン】
ある気前のいいパン屋さんが毎日沢山の食パンを焼いて、その中から20個を残して、町の貧しい子供達に施しました。しかし、厄介な問題がありました。それは子どもたちがいつも一番大きいパンを取る為に激しく争っていました。ですから、ある日パン屋さんは密かに金の硬貨を一番小さいパンの生地に入れてから焼きました。そして、その日、いつもと同じように子供たちはパンを頂く為にパン屋さんへ行って、一番大きいパンを取る為に争って、感謝の言葉一つも言わずに帰りました。しかし、ある小さい女の子は皆に押しのけられ残された最後の一番小さいパンを手に取って、パン屋さんに、「伯父さん、ありがとう」と言ってから帰りました。
その晩の夕食でパンを裂くと、金の硬貨が出て来て家族皆は驚きました。とても貧しい家庭なのに、それはきっとパン屋さんの何かの間違えだと思い、次の日女の子は値打ちの高い硬貨をパン屋さんに返しに来ました。そして、パン屋さんは、「それは間違いではないよ。硬貨は貴女の御褒美だよ」と言いました。
「二つの誘惑」ウイリアム・モーア2011.3.27
創世記2章15−17;3章1−7
マタイによる福音書4章1−11
【空腹の子】
ある小学生の男の子は学校の帰りに一人で近所のスーパーに入り、お菓子の所へ行きました。そして、お腹が空いて来た彼は一番好きなお菓子を手に取り、ずっと眺めました。それを買って食べたいけれども、一円も持って来なかったので買う事は無理だと分かりました。しかし、お菓子を眺める程、腹ぺこになり、うっかりそのお菓子を開けてしまいました。
その瞬間お店の人がそれを見て、男の子に、「君は何をしたの」と聞きました。そして、男の子は、慌てて、「何もしてないよ、何もしてないよ」と言いました。店員さんは、「君はお菓子を開けて食べようとしたじゃないか」と聞くと、坊やは泣きながらこう返事しました。「違うよ。まだ食べてない。僕はただお菓子を食べないように頑張っていたよ」と言いました。
【二つの誘惑】
私たちは一人も残らず坊やの気持ちがよく分かると思います。それは誘惑を受ける事と誘惑と戦う事です。今朝、誘惑の事について一緒に考えたいと思います。今日与えられた二つの聖書の個所は、御言葉の中の最も有名な誘惑のお話になります。
最初の人間アダムとその妻エバの誘惑と、神の御子イエス・キリストの誘惑であります。両方は誘惑されましたが、アダムとエバは誘惑に負けて、エデンの園から追い出されました。その反対に、主イエス・キリストは誘惑の上に勝利を得て、人類の為に大きな恵みをもたらして下さいました。ですから、私たちは両方の誘惑から学ぶとき、誘惑に対する私たちの正しい戦略と態度を習得します。
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「神からの報い」ウイリアム・モーア2011.3.13
【素晴らしいコンサート】
音楽大好きな紳士はオーケストラの演奏へ行って素晴らしいコンサートを楽しみました。演奏が終わると紳士は近くに立っている席案内人の二人に気づきました。何故なら、その二人は誰よりもその演奏に拍手して、ブラボー、ブラボーと叫びました。殆ど毎日素晴らしい音楽を聞ける案内係はその晩の演奏を特に高く評価する様子を見た紳士はスリルを感じました。ですから紳士はなおさら演奏が素晴らしいものだと思い感謝し、尚も熱心に拍手しました。
【その動機は別】
しかし、彼は案内係の話をふと耳にしました。一人が同僚に耳うちしました。「もっと続けて拍手しましょう。アンコールをもう一度させると、コンサートを長引かせ、俺たちは残業手当が貰えるぞ。」
様子を見ると彼等はすぐれた音楽のよさが分かって、拍手を続けていたのす。が、その動機は全く別のものでした。彼等は僅かでも収入を増やす為、残業手当の時間を延ばしていたのです。
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「あなたのとげは何ですか」ウイリアム・モーア2011.3.6
聖書:コリントの信徒への手紙二12章7−10
【アカシアの棘】
棘が深く刺さった事がありますか。薔薇の棘やアカシアの木などの棘が身に刺さったら、その痛みをよく覚えていると思います。子供の頃、近所にはアカシアの木が沢山ありました。そして、毎年の夏、アカシアの花が咲く時、仲間がその木に上り、白い花を摘みました。花は甘くて美味しいおやつになりました。しかし、アカシアの木に上るには勇気が結構いりました。何故なら、長く尖っている棘が沢山あったからです。実は、私は友たちに勇気を見せる為、木に上り、何回も棘に刺された事がありました。ですから今日の御言葉に使徒パウロが「身に一つの棘が与えられました」と言うと、その苦しみを十分理解出来ます。
2011年03月06日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書
「生ける生け贄」ウイリアム・モーア
聖書;ローマの信徒への手紙12章1−2
【新大久保駅での尊い犠牲】
丁度十年程前の出来事ですが、皆さんも覚えていると思います。それは東京の山手線の新大久保駅で、飲み過ぎの男の人が線路に落ちてしまい、ホームに上がれませんでした。その事を見たカメラマンである関根四郎さんと韓国人の留学生イ・スヒョンさんは直ぐにホームから線路に飛んで、男の人を助けに行きました。その二人は一生懸命にどうする事も出来ない男の人を安全にホームまで持ち上げようとしましたが、その瞬間、駅に入ってきた電車は止まる事が出来なくて三人をはねて即死でした。
その事件は全国ニュースの一面記事になり、赤の他人を助けに行った二人の方が英雄になりました。森首相も葬儀に出席し、彼等の勇気と献身を高く褒めました。多くの人々はその素晴らしい模範によって感動され、記念碑を建てる為に献金しました。また、その事件を覚える為に日韓共同の映画が作られました。更に、この間も事件10年を記念して、立派な式が行われ、コンサートもありました。
二人の英雄は自分の事を忘れ、隣人の命を救う為に命を非常に危険なリスクにさらして、結局、その危機で死に、自分の命を捨てました。当然、私たちはお二人の献身と勇気を畏れ敬います。
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2011年02月27日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
「主の晩餐:記念と応答」ウイリアム・モーア
聖書;ルカによる福音書22章14~20
【聖餐式の制定】
恐らく皆さんも、主イエス・キリストがどうして聖餐式と言う礼典を制定されたかについて思い巡らしたことがあるかも知れません。
【聖餐式への悪意・偏見】
実際、キリスト教の歴史を振り返って見ると、聖餐式は未信者の誤解を招く事がありました。とんでもない告発ですが、特に初代教会は聖餐式に人の肉を食べ、人の血を実際に飲むという中傷によく直面しました。ローマ帝国の当局とユダヤ教の指導者達はその偽りを用いて教会を迫害しました。
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「コストを考慮すること」ウイリアム・モーア
聖書:ルカによる福音書14章25−33
【ルカ福音書14章25−26】
恐らく、今日与えられた御言葉は、イエス・キリストの全体の教えの中の最も厳しいお話ではないかと思います。特に聖句の初めの所を皮相的に聞けば、消化し難くて、躓きの石と思われる可能性が十分あります。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。』」(ルカによる福音書14章25−26)
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「一つの体、多くの部分」ウイリアム・モーア2011.1.30
聖書;コリントの信徒への手紙一12章12−27
【自分の体に不満】
皆さん、ちょっと変な質問かもしれませんが、自分の体の事についてどう思われますか。おそらく私たちの多くは自分の体についてあんまり言いたくないですね。そして、考えて見ようとすると、自分の体について良い事は心に浮かばないかも知れません。例えば、体重が多過ぎるとか、またちょっと痩せ過ぎとか。あるいは、ある人は背が低すぎる、またある人には背が高過ぎて困るのです。また、ほとんど誰でも自分の顔を鏡で見るともっと奇麗になりたい気持ちがあります。スーパモデルさえもそう言う傾向があるのだそうです。
2011年01月30日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
「律法と約束」ウイリアム・モーア2011.1.16
聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章15−29
【交通違反】
皆さん、交通違反でチケットを頂いた事がありますか。もし、日常的に車を運転するならば、多分少なくとも一度ぐらいは、そう言ういやな経験があると思います。駐車違反や、スピード違反や、信号無視などで捕えられた人は数え切れません。実は、私さえもちょっとした交通違反でネズミ取りをしている警察官によって捕えられた事があります。私は出来るだけ最高速度を守りますが、その時だけ超えて、不幸にも捕えられました。数年前の出来事ですが、今もその2万円の罰金を考えると惜しかったと思えてくるのです。しかも、保険料がそのために上がってしまいました。ですから、今もその場所を通ると思い出します。
【交通ルール】
交通違反で罰せられると、誰もが悔しむ事だと思いますが、そのチケットを切られる理由があります。確かに罰金は政府に結構な収入になりますが、それよりも、交通安全の目的の為に道路の最高速度が警察によって守られています。人々は決められた速度を越える傾向があるから、皆の安全の為に最高速度が実施されています。制限速度がなかったら、ある人は混雑した道であっても、130キロで走ろうとしてしまいます。ですから、国が速度のルールを定めて、皆がそのルールの標準を守るべきです。
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2011年01月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
「シメオンの賛美」ウイリアム・モーア2011.1.9
聖書:ルカによる福音書2章22−35
【隠された30年】
新約聖書を読みますと、一つの事が直ぐに気づきます。それは聖書には主イエス・キリストの幼ない頃と青年の時の事についてあまり記されていません。聖書はイエス様の御降誕の事柄について結構詳しく教えます。最近クリスマスを祝った私たちは、今一度、主イエスの奇跡的誕生とそれに関係する素晴らしい出来事を記念しました。また、聖書には主イエスの成人としての公的のお働きと出来事については沢山記されています。しかし、誕生から成人になった30年間については、殆ど何も書かれてありません。ある神学者はその時を「ナザレでの隠れた時代」と呼んで、その表題で本を書きました。
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「時をよく用いなさい」ウイリアム・モーア
聖書;エフェソの信徒への手紙5章15−20
【新しい年の玄関に】
新年おめでとうございます。今朝私たちは新しい年、主イエス・キリストの2011年の玄関に立っております。毎年、新年を迎える時、私たちは過ぎ去った年に「さようなら」と言い、大きな希望をもって新しい年の新しい出発を歓迎します。特に、私たちはこの際、積極的に自分の生活をよりよいものへと変えようとします。
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2011年01月02日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書
「主の食卓に着きましょう」ウイリアム・モーア2010.12.26.
聖書;コリントの信徒への手紙一10章14−22
【食卓は国の文化】
世界の全ての文化は食卓で特別な行事や祭日などをお祝います。クリスマスや、誕生日や、結婚式や、お葬式や、お正月などは食べ物と深い関わりがあるのだと思います。例えば、日本では御節料理はお正月に伴います。普段に食べない、その特別な料理で新しい年を迎えます。同様にアメリカの場合、七面鳥の丸焼きは秋の感謝祭に付いて来る物です。実は、祭日にそれぞれの特別な料理がなければ、私たちはなかなか満足出来ないものですね。
私は七面鳥のない国で大きくなりました。ですから感謝祭を祝う為に丸焼きの七面鳥の代わりに鶏の丸焼きを食べました。両親が韓国での宣教師だった為、私が幼い頃はなかなか七面鳥の丸焼きは食べられませんでした。鶏の丸焼きでしたが、今から50年前の韓国では鶏でもあまり肉が付いていなかったのです。ですから誰かが育てた七面鳥を市販するのを購入した際には、感謝祭の食卓に七面鳥が出されると、私たちの兄弟は大喜びで、特別な感謝祭になり、満足する事がやっと出来ました。
2010年12月31日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
「クリスマスの愛」ウイリアム・モーア
聖書;ヨハネによる福音書1章1−14
【救い主の誕生】
今日、私たちは神の御子イエス・キリストの御降誕を記念する為、ここに集まっています。2010年前にベツレヘムの馬小屋でマリアと言う乙女がこの世の唯一の救い主を出産しました。ですから、歴史上、その出産はこの世での数え切れない程の出産の中で特別意味深く、素晴らしい出来事であります。つまり、永遠の真の神御自身が人間になり私たちと共に宿り、人類の為にたった一つの救いの道を開いて下さいました。今日、私たちはその無比の恵みを覚え、心からお祝いします。
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「心にクリスマスの賛美を」ウイリアム・モーア2010.12.12.
聖書;ルカによる福音書1章46−55
【乙女マリア】
神の御使いがマリアに現れた時、彼女はごく若い少女でした。その国とその時代の年ごろの娘とは13歳から16歳まででした。マリアの家柄や実家の富や力などを見たら、誰も彼女を認めなかったと思います。人の目から見れば、小さい町に育てられた小農の小娘のマリアはただ数え切れない、つまらない少女の中の一人でした。しかし、どなたか、一人が彼女を高く評価し、最も素晴らしい使命を与えて下さいました。それは神がこの世の救い主と御自分の独り子の母親になる為にマリアを選んだのです。
「誇る者は主を誇れ」ウイリアム・モーア2010.10.3
聖書;コリントの信徒への手紙一1章26−31
26:兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27:ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28:また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29:それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30:神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31:「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
【自慢の新車】
ある男の人が新しい自動車を購入して、その車の良さを同僚に毎日のように誇りました。その新車の加速力や、格好良さや、信頼性などをいつも自慢しました。しかも、車の低燃費も誇り始めましたました。朝、会社に着く度に、その前の日の燃費の数字を嬉しそうに皆に発表しました。
同僚は毎日その自慢話ばかりを聞くと、うんざりして自慢屋にいたずらを企みました。それで同僚の一人が密かに社員駐車場へ行って、毎日自慢屋の車にガソリン数リットルを給油しました。そうしますと、やはり車の燃費が急に上がって、その持ち主はとんでもない数字を発表しました。「昨日、一リットルで60キロ程を走ったよ」 と笑顔で皆に誇りました。いたずらの同僚は当分、毎日、ガソリンの異なった量を彼の車に給油して、燃費はよく変わっても、その持ち主は何も分からなくて続けて自慢しました。端から笑った同僚は更にもっとひどいいたずらを考え出しました。今度は自慢屋さんの車を給油する代わりに、彼等はガソリンをそのタンクから結構な量を抜いてしまいました。そうしますと、燃費が酷く下がり、同僚の物笑いを恐れ、持ち主は自慢を急に止めました。彼は自分の車が分からなくなり、結局燃費も計らなくなりました。
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2010年10月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
「聖餐式の意味」ウイリアム・モーア2010.9.26
聖書:コリントの信徒への手紙一11章23−26
◆主の晩餐の制定
23:わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25:また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26:だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
【珍しい習慣】
毎週の主の日の礼拝に、ある教会が珍しい習慣を必ず守りました。それは、使徒信条を一緒に唱える前に、皆が立ち上がり、右の方に体を向けて、白い壁をじっと見ながら、信仰を告白しました。毎週全く同じ事を自動的にしました。その教会に新しい人はそう言う習慣を見ると、とても不思議だと思いました。何故なら、沢山の教会の礼拝を見ましたけれども、使徒信条の為に皆が体を右の方に向ける事は全く始めてでした。ですから、好奇心からその習慣の理由を聞きましたが、誰も知りませんでした。ただ、「いつもそういうふうに使徒信条を告白して来た」と答えました。
その答えでは満足出来なかったので、また聞きました。やっと、小さい時からその教会の礼拝を守った96歳のお爺さんがその習慣の理由を教えてくれました。
彼の子供の頃、週報がなかった為、使徒信条は教会の右側の壁に大きい字で書かれてありました。ですから、使徒信条を唱える時が来ると、皆は起立し、右側に向いて、その言葉を読みました。しかし、長年にわたり字が段々褪せてきて、何回も壁はペンキで塗り替えられ字が消えてしまったのですが、皆は忠実に未だにその同じ習慣に従いました。そして、ついに、その習慣の意味が分からなくなるまでになりました。
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2010年09月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
「正しい教理と教会の一致」ウイリアム・モーア2010.9.19.
ガラテヤの信徒への手紙2章1−14◆使徒たち、パウロを受け入れる
1~6:(本文参照)――この人たちが そもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。7:それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。 8:割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。9:また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。10:ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。
【ハンターと大熊】
この間、意味深いロシアの説話を読みました。それは、あるハンターが大熊に出会い、熊に銃を向けて引金を引こうとしました。しかし、驚いた事に熊は優しい声でこう言いました。「銃を撃つよりも、対話の方が善いではありませんか。あなたは何を求めていますか。聞こうではありませんか。話し合ってこの問題を解決しましょう。」びっくりしたハンターは銃を下ろして、「あなたが持っている温かい毛皮のコートが欲しい」と答えました。「それは宜しいです。私はただ満腹したいだけですから、話し合いで私達の相違は解決出来ると思います。妥協したいです」と熊が穏やかに言いました。そして、ハンターと熊はその森に座り込み、ゆっくり問題を話し合いました。時間がどのぐらい経ったのでしょうか。やがて熊が立ち上がり独りで帰りました。妥協が成立したのです。熊は満腹になり、そして、同時にハンターは温かい毛皮を得たのです。結局、ハンターは熊の餌になってしまいました。
2010年09月19日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
「変化をもたらす福音の力」ウイリアム・モーア2010.9.12
聖書;ガラテヤの信徒への手紙1章11−24
◆パウロが使徒として選ばれた次第
11:兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。12:わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。13:あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。14:また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。15:しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、16:御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、 17:また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。18:それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、19:ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。20:わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
21:その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。22:キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。 23:ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、24:わたしのことで神をほめたたえておりました。
【魔法の機械】
結構前のお話ですけれども、ある夫婦が60周年結婚記念日を祝う為に、地方から大都会へ上りました。都会を訪ねたのはその二人には全く始めての経験ですので、高層ビルや交通渋滞や賑やかな通りなどを見ると、あっけに取られました。彼等には一生の旅になりますので、第一級のホテルに予約しました。ご主人がホテル到着の手続きを済ませる間、奥さんはその宮殿のようなゴージャス•ロービを歩き回りました。そして、彼女は間もなくエレベーターの前に来て、戸惑いました。エレベーターの事を聞いた事も見た事も全くなかったので、どう言う機械がさっぱり分かりませんでした。ですから、彼女はエレベーターをじっと見つめて調べました。そのうちにぼろぼろの白髪の男の人がエレベーターに入るとドアが自動的に閉めました。そして、一分ならないうちにその同じドアが急に開けて、素敵な紳士が現れました。その驚くべき奇跡を目撃すると、彼女はエレベーターをうっとり眺めながら、ご主人に大声で呼びました。「お父さん、早く来て。この機械のドアに入って御覧」と思わずに叫びました。
2010年09月12日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
「変わりゆくこの世の為の変わらぬ福音」ウイリアム・モーア2010.9.5.
聖書;ガラテヤの信徒への手紙1章1−10
◆挨拶
1:人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、
2:ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。
3:わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
4:キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
5:わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
◆ほかの福音はない
6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
7:ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
8:しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
9:わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
10:こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。
もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
【ビリー•グラハム】
2010年09月05日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
「ザアカイの回心―急ぎ降りよ」禰津省一男山教会牧師2010.8.29
聖書;ルカによる福音書19章1~10節◆徴税人ザアカイ
1:イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2:そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3:イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4:それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5:イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6:ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7:これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8:しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9:イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10:人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
1、木の上のザアカイ
【イチジク桑の木】
御子イエス・キリストの恵みと平和が今朝、ここにおられます一同の上に豊かにありますように。アーメン。
今朝、与えられました御言葉は、ザアカイという一人の徴税人の救いの物語です。
この物語で大きな役割を果たしておりますのは、一本のイチジク桑の木です。イチジク桑という植物をわたしたちは日頃、見ることはないのですが、パレスチナの地ではよく見かける木だそうです。ものの本によりますとイチジク桑の実は普通のイチジクより小さく、味も悪く、食べられますけれども、販売するようなものではないそうです。「イチジクの仲間であって、その葉は桑のように茂る」そうです。イチジクの葉というのは、普通の木の葉よりも大きいですし、それが桑の葉のように良く茂っているとしたら、人が隠れるのはもってこいです。4節に、ザーカイはこの木に登って、主イエス様を見ようとしたと書かれています。ひょっとすると、人々からは自分の姿を隠しておきながら、自分のほうでは、主イエス様を近くで見ようとしたのかもしれません。
「神の傑作である私たち」ウイリアム・モーア2010.8.22
聖書:エフェソの信徒への手紙2章1−10
1:さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3:わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4:しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5:罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6:キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 7:こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9:行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10:なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
【ダイエット広告】
新聞のチラシによく見かける物ですが、人の前と後の写真を用いる広告は面白いです。その前の写真と後の写真で物やサービスを売る訳です。特にダイエット薬や美容整形の広告にその手段を使います。 皆さんも見た事でしょう。ダイエットの前の人の写真はあんまり素敵ではありません。実は、まるで警察で撮る逮捕者のような最低な写真です。事実よりも大変太く見える、ださい服装を着て、悲しそうな顔をする、とてもへつらわない写真になります。
その反面、ダイエット後の写真は全く逆です。飲めば痩せる薬を買って用いると、もっぱら素敵なタレントのような様子です。すごく細長くなり、流行のスタイルを示すとても素敵な人になりました。しかも、自信満々の笑顔をします。その前の写真と比べると全く別人のようになります。そして、その新しく変わった写真を見て、誰でもがすぐにでもその薬を注文したくなります。
2010年08月22日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書
「私達は大勢でも一つの体です」ウイリアム・モーア2010.7.25.
聖書:コリントの信徒への手紙一10章15−17
15:わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。
16:わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
17:パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
【FamilyReunion】
大きな親戚の集まりに参加した事がありますか。日本の習慣はちょっと分からないですが、アメリカでは親戚の集まりは珍しくはありません。近親だけではなくて、遠い親戚までもよく集まって来ます。その集まりは「family reunion」と言います。すなわち、親戚の親睦会でしょう。ある family reunionは小さいところありますが、数百人の集まりも結構あります。全国から集まって来て、四、五日の間、皆は久しぶりの交わりを楽しんで、ばらばらになっていた家族皆は再会の喜びを経験出来ます。
アメリカで、私が牧会した教会のある家族は、よく親戚の親睦会に行きました。その親睦会は全国だけでなく、ヨロッパから外国籍の親戚も参加しに来ます。集まりを通して自分の大きな家族の親睦を養う、その家族にとって本当に大切な行事なのです。自分の喜びと悩みなども皆と話し合って、お互いに良い励ましの時になるのだそうです。
うちの家族は長距離なので family reunionに参加するのはなかなか難しいですが、子供達がまだ小学生の時、一度参加しました。子供達は内の親戚にこんな人がいるとは大喜びでした。
2010年07月25日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
「信仰とは」淀川キリスト教病院伝道部長/田村英典牧師2010.7.18.
聖書:ヘブライ人への手紙11章1~3
◆信仰 1:信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2:昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 3:信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造さ れ、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
【信仰の定義】
今朝は、信仰とはどういうものかを改めて学びたいと思います。
ヘブライ人への手紙11章1節は言います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」これを信仰の定義と取る人もいますが、そこまでは言えないでしょう。
もし、信仰を定義するなら、もっと包括的なものになると思います。例えば、第一に神とその御心についての正しい認識、第二にその納得と確信、第三にそれへの自分の明け渡しと信頼、第四に神への服従など、知、情、意に亘って色々な要素を含みます。
「自分の置かれた境遇に満足する」ウイリアム・モア2010.7.4.
フィリピの信徒への手紙4章10−14
10:さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。11:物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。12:貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。13:わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。14:それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
【秘訣の魅力】
我々人間は秘訣を好む心が結構あります。特に、ある事を行うのに最もよい効果的方法、しかも、めったに他人が知らない奥義を得たいのです。そして、あまり努力しなくても、秘訣でよい結果が直ぐ出たら私達は大変喜びます。それは秘訣のおもな魅力ではないかと思います。何よりも、頑張らなくても、待たなくても素晴らしい物、偉い事を手に入れたいのです。
2010年07月04日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書
「希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」ウイリアム・モーア2010.6.27
ヘブライ人への手紙10章19−25
19:それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。20:イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
21:更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、22:心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。23:約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。
24:互いに愛と善行に励むように心がけ、25:ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
【災害保険のおかげで】
弁護士と政治家が海外の豪華なリゾートで始めて出会い、ゴルフを一緒にやりながら仲良くなりました。そして、やがて弁護士は政治家にこう言いました。「実は、ここに来たのは家が火事で全焼になり、全ての持ち物を失いました。しかし、幸いに保険会社が損失の保険金全額を支払ってくれ、ここに来る余裕が十分ありました。」政治家はその事を聞いてびっくりしてこう述べました。「本当に偶然ですが、実は、私も洪水で家と、その中にある物も全部駄目になってしまいました。僕も保険金のお陰でここに来たのです。きっと、私達二人は不思議な縁があるのでしょう。」
その事を聞くと弁護士は非常に当惑した様子でこう返事しました。「あなたも大したもんですね。しかし、いったいどのようにして洪水を起こしたのですか?
「イエスの十字架を無理に担がせ」奈良伝道所・宮崎契一牧師2010/6/13
マルコによる福音書15章16~23
◆兵士から侮辱される
16:兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。17:そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、18:「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。19:また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。20:このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
◆十字架につけられる
21:そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 22:そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。23:没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
【神様のことを深く知る】
今朝は、この講壇交換を通して初めて西谷伝道所の皆さんと主を礼拝する時が与えられ、神様に感謝をしています。マルコの福音書の御言葉に今朝聞きたいと思います。私たちが信仰生活をするという時に、大事なことだなあと思わされていることがあります。それは、改めて、私たちが神様のことを深く知るということです。これは、信仰者にとっては当たり前のことかもしれませんけ
れども、日々の信仰の歩みの中で自分のことで精一杯になり、いつのまにかこのことから通り過ぎてしまっていることがあるのかもしれません。
「赦し」ウイリアム・モーア2010.5.30.
ルカによる福音書7章36−50◆罪深い女を赦す
36:さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37:この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺 を持って来て、38:後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし 始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39:イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
40:そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41:イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42:二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43:シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44:そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45:あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46:あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47:だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
48:そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49:同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50:イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
【リンカン大統領と女奴隷】
奴隷解放の父と呼ばれるアメリカの大統領エイブラハム・リンカンは誰よりも黒人奴隷制度を憎んで、その制度を無くす為に南北内戦を戦いました。
大統領になる前のある日、リンカンは奴隷競売場へ見学に行きました。そして、ある女性の奴隷を目にし、あまりにも可哀想だから彼は思わず競売に入りました。競りは激しかったがリンカンがついに勝って、代金を払い、その女の人を自分の奴隷にしました。
続きを読む: 「赦し」ウイリアム・モーア2010.5.30.
「ペンテコステ」ウイリアム・モーア2010.5.23
使徒言行録2章1−21
◆聖霊が降る
1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っ ていた家中に響いた。3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5:さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6:この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7:人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8:どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9:わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10:フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11:ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12:人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13:しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
◆ペトロの説教
14:すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15:今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16:そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17:『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18:わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19:上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20:主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21:主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
【教会の誕生】
皆さん、今日、私達は大事な誕生日をお祝いします。その誕生日は私達にとってとても重要であり、その誕生日がなければ、私達は今朝こちらに集わなかったと思います。もちろんそれは私の誕生日ではありません。私はは四月生まれですが、今日祝う誕生日は一人の人の誕生日よりも遥かに重要であります。
続きを読む: 「ペンテコステ」ウイリアム・モーア2010.5.23
「互いに重荷を担う」伊丹教会・城下忠司長老2010.5.16
聖 書「ガラテアの信徒への手紙6章1~10節
◆信仰に基づいた助け合い
1:兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。2:互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。3:実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。4:各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。5:めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
6:御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。
7:思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。8:自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。9:たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。10:ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
【はじめに:神の言葉としての教会規則】
私たちの改革派教会は、学ぶ教会だと言われています。他教派のことは良くは知りませんが、教会では教理の学び、修養会など、神学校でも、西部中会でも色々の場が用意されています。
教会を建てあげていくのは、信者一人一人の信仰、愛の実践が大切で勉強はその次だと思われる方があるかも知れません。私たちの教会が系統だった学びを続けているのは、教会は一時の慰めを与えてくれるだけの場所ではなく、神さまの前に礼拝を捧げ、自分が満足して帰るだけというような場所とも違うのだ、ということをよく理解しているからです。
天地創造以来、神さまは私たち人間に特別な関わりをもち、特別な愛をあらわし、歴史の中で様々な出来事を通して、多くのものを与え続けてこられました。この神さまの側から私たちに与えられたよき音信、聖書という書物をとおして、私たちに論理的にきちんと理解し、納得させ信じさせてくれるものが神学です。私たちの改革派教会の神学というものは、宗教改革以来何百年もかけて作り上げられてきた信仰の基準といわれているものであります。ウエストミンスター信仰告白、大小の教理問答や、信徒の手引き、そして政治基準、訓練規定などです。
2010年05月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
「ある母親の信仰」ウイリアム・モーア2010.5.9.
マタイによる福音書15章21−28
◆カナンの女の信仰
21:イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22:すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23:しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら ついて来ますので。」24:イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25:しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26:イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27:女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28:そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
【「母の日」の起源】
御存知のように今日は母の日です。改革主義キリスト教会は聖書に載っていない行事や祭日をあまり重んじませんけれども、母の日は特別なケースです。何故なら、母の日は教会で生まれたからです。アメリカのウェストヴァージニア州出身、アンナ・マリー・ジャービス夫人が自分のお母さんの死後2年経った1907年5月12日に、亡き母親の愛と信仰を偲び、そして、全ての母親に感謝と敬意を現す為に、母が忠実に日曜学校の教師をしていた教会で、始めての母の日をお祝いました。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案し、1914年に「母の日」はアメリカの祝日になり、5月の第2の主の日と定められました。更に、母の日の運動が段々国際的になり、現在、世界中、約150カ国で祝っています。
母の日に私達は母親に敬意と感謝を表して、母を通して頂いた多くの祝福と恵みの為に神様に感謝します。私達例外なく、母親から生まれましたので、皆はこの母の日に参加出来ます。
続きを読む: 「ある母親の信仰」ウイリアム・モーア2010.5.9.
「あらし」ウイリアム・モーア2010.5.2
聖書:マルコによる福音書4章35−41◆あらしを静める
35:その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36:そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37:激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38:しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39:イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40:イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41:弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
【死の恐怖】
皆さんは今日の御言葉に於けるような、命に危機を経験した事がありますか。事故や病気や災害などの故に危うく自分の命を失う恐を感じた事がありますか。私たちは小さかれ、大きかれ、多少の差があるかもしりませんが、今日の聖書の個所を読んで、みなさんも自分を振り返り、色んな事を思い起こすと思います。実は、先程読ませて頂いた劇的な個所は命に恐怖を感じた、私の経験を思い起こさせました。それは40年前程の事件ですが、今も生々しく思い出す経験であります。
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「私たちの使命」ウイリアム・モーア2010.4.11
聖書:マタイによる福音書28章16−20
◆弟子たちを派遣する
16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
【イースターの二つの賜物】
先週の主の日、私たちはイエス・キリストの復活を一緒にお祝いしました。主イエスは敵の手によって十字架につけて殺されましたが、神の力によって三日目に蘇られたのです。その神の奇跡的しるしを通して、私たちの為に二つの素晴らしい賜物が与えられています。
先ず、復活を通して父なる神が主イエスの十字架の死は私達の為の贖い死であった事を承認されました。ですから、主の贖い死と復活のお陰で罪の滅ぼす力が壊されました。
そして、更に、主の復活を通して神は死の力も征服して下さいました。神はイエス・キリストを復活した、その同じ力で、私たち、イエスを信じる者を永遠の命に復活して下さいます。この二つの貴重な霊的賜物は私達に与えられています。
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「あの方は復活なさって、ここにはおられない」ウイリアム・モーア2010.4.4
聖書:マルコによる福音書16章1−8◆復活する
1:安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2:そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3:彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4:ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5:墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7:さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8:婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
【主イエスの十字架刑】
先週、私たちはイエス・キリストの十字架の死を記念しました。当局が不当に主イエスの死刑宣告をして十字架につけました。そして、言い尽くせない程、酷い拷問にかけられてから、イエスは息を引き取られました。多くの目撃者がその最も恐ろしく悲しい光景を見て、ローマ当局は主の死を確かめました。
「誰がイエス・キリストの死に対して責任がありますか」ウイリアム・モーア2010.3.28
マルコによる福音書15章1−47
◆ピラトから尋問される
◆死刑の判決を受ける
◆兵士から侮辱される
◆十字架につけられる
◆イエスの死
◆墓に葬られる
【歴史上最も醜い悪事】
この世の歴史を振り返って見ると数え切れない程の酷い悪事を探す事が出来ると思います。不法な戦争や、大量殺戮や、無差別的テロや、宗教上と人種上の迫害や、幼児虐待などのような大変醜い事件が山程ありました。そして、それがもちろん現在も続いています。その多くの悪事の中でもどれが一番責めらるべきかと聞かれたら、私たちはなかなか答え難い事だと思います。しかし、考えて見ますと、恐らく先ほど読ませて頂いた御言葉は全世界の歴史上、一番酷い悪事を語ります。それは神の独り子イエス・キリストの冷酷な殺人です。罪一つ犯してない神であるイエス・キリストは十字架で処刑されました。責めるべき事の全くないお方なのに、そのもっとも恥ずかしいし残酷な拷問にかけられて死んでしまいました。主イエスは全人類の救いの為に、天国の栄光を去ってこの世に下り、人間の母によって生まれ、受肉され、愛に満ちた生き方を教えたのに、無残にも殺されました。それは結局、神を殺す行為にもなりました。その時、全ての人間の憎しみと悪が天地万物の造り主である、愛する神に焦点されました。その故にイエス・キリストの殺害こそが歴史上の最も酷い悪事になります。
「主イエスのもとに来てください」伊丹教会牧師橋谷英徳2010.3.14
聖書:マタイによる福音書第5章1~12節
◆山上の説教を始める
1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。
◆幸い
3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
1.あいさつ
きょう、この日曜日に皆さんとともに礼拝をささげることができますことを心から感謝しております。
今日は、モーア先生が伊丹の教会の礼拝で説教の奉仕をなさり、私がここにまいりました。今年は相談をいたしまして、1年に3回、このようなときを持つことを予定しています。このようなことをここで致しますのは、私たちが共に離れた場所、異なる土地で礼拝をささげていましても、共に一つの同じ教会に連なっているのだということを覚えるためです。モーア先生も私もそのことを実感することを必要としています。そして、それぞれの教会の方々にも、一つの教会であることを実感することが必要です。このことが一つの助けにはなるでしょう。
日曜日の礼拝のたびにいつも私たちが「ああ今、この同じ時間に伊丹でも礼拝がささげられているのだなあ」、また伊丹でも「今、西谷でも礼拝がささげられているのだなあ」と覚えていただくと良いと思います。あるいはまた病気のためにここに来られない人たちや、遠方にいる人たちのこと、そういう人たちのことも覚えながら、私たちが一つになって共に主を礼拝してゆきたいのです。
「できるかぎりのことをした一人の女」ウイリアム・モーア2010.3.7
マルコによる福音書14章1−11
◆イエスを殺す計略
1:さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。2:彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
◆ベタニアで香油を注がれる
3:イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4:そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。5:この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。6:イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。7:貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。8:この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9:はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
◆ユダ、裏切りを企てる
10:十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。11:彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、 どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
【タイムトラベル】
私はそれ程、空想科学小説と映画のファンではありませんけれども、そのジャンルの一つのアイデアは私にとって、とても面白いです。それはタイムトラベルの事です。タイムマシンに入り、ダイヤルを行きたい所と行きたい時間に回せば、瞬間的にその時点と場所に運ばれています。将来も過去にも自由に何処でも行けます。将来は全く未知なので、そこへ行くのは恐くて遠慮しますが、私は過去へ行くのは興味があります。つまり、私は特に聖書の時代の出来事を自分の目で見たいのです。
「何をしてほしいのか」ウイリアム・モーア2010.2.28
マルコによる福音書10章32−45
◆イエス、三度自分の死と復活を予告する
32:一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33:「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34:異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
◆ヤコブとヨハネの願い
35:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36:イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38:イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39:彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40:しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
41:ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44:いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45:人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
【理想的な宗教とは?】
もし理想的な宗教を作り上げるとしたら、どのようなものに作り上げれば良いのでしょうか。ちょっと一緒に考えて見て下さい。その理想的な宗教はどう言う形を取りますか。例えば、その神はどのような神なのですか。そして、その神は信者の為にどう言う事をなさるのですか。また、信者に対して、その神の期待は何でしょうか。私達が理想的な宗教を作るとしたら、どのようなものが出来上がって来るのでしょうか。
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」ウイリアム・モーア2010.2.21
マルコによる福音書8章27−9章1
◆ペトロ、信仰を言い表す
27:イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28:弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29:そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30:するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
◆イエス、死と復活を予告する
31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34:それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37:自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38:神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」9章1:また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
【レント・受難節・四旬節】
今日、私達はレント、すなわち受難節を迎えています。キリスト教の暦年の中でレントは重要な役割を果たします。それは我々の救い主イエス・キリストの受難の意味と必要性を新たに悟る事です。私達の信仰、私達の永遠の救いは主イエスの十字架の贖い死に基づいていますので、常にその最も重要な出来事を覚え感謝すべきです。そうしますと、4月の第一「主の日」のイースター、即ちイエス・キリストの復活を大きな喜びを持って心から祝う事が出来ます。考えて見ますと、主の受難がなければ喜びの復活もなかったのです。ですから、私達は先週の水曜日から40日間、受難週が始まるまでの日の間、この40日間私達は主イエス・キリストの受難と復活を覚え、敬虔に過ごす時節であります。
「無常の時代に住むための信仰(3):神の国と神の義を求めよ」ウイリアム・モーア2010.2.14
マタイによる福音書6:25−34◆思い悩むな
25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
【思い起こす】
私達はこのところ「無常の時代に住むための信仰」を学んで来ました。先週、キリスト者にとって「思い起こす」ことの重要性を聖書から学びました。信仰に於いて私達の先祖と同じように、過去にある神の御業と恵みを常に思い起こさなければなりません。特に現在の無常の時代、いたるところに激しい変化の時代に生きる私達の為の変わらぬ神の祝福を「思い起こす」べきであります。そして、信仰を持って、現在と将来にその同じような祝福が期待出来ます。確かな希望を抱いて、この難しい時でも、イスラエルの王ダビデと共にこう言えます。「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23:6)
「幸せな日々を過ごしたい人」ウイリアム・モ-ア2010.1.10
聖書:ペトロの手紙一3章10−12
10:「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、11:悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。12:主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
【米国教会訪問中の出来事】
去年アメリカにいる間、家内と私は、私達が属しているアメリカ合衆国長老教会という宗派の多くの教会と中会を訪問しました。秋には本部の世界宣教部によって私達は太平洋側の北西部へ約一ヵ月間行かされました。ワシントン州、アイダホ州、オレゴン州、そして最後には北部のカリフォルニア州に行きました。それぞれの地域にある幾つかの中会が私達のスケジュールをたてて、私達は空港に着くと、全ては教会の方々に任せていたのです。
2010年01月10日 | カテゴリー: 新約聖書
「良い始まり」 ウイリアム・モーア 2010.1.3
ルカによる福音書2章21−40
21:八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
◆神殿で献げられる
22:さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23:それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24:また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。25:そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26:そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27:シメオンが"霊"に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28:シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29:「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。30:わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31:これは万民のために整えてくださった救いで、32:異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
33:父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34:シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35:――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
36:また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37:夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38:そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
◆ナザレに帰る
39:親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。40:幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
【神殿で献げられるイエス】
先ほど読ませて頂いた個所はクリスマス物語のなかで割合に知られていない個所だと思います。馬小屋でお生まれになったイエス・キリストの事と羊飼い達と占星術の学者達の訪問などはクリスマスの時に私達にはよく知られているストーリです。しかし、そのすぐ後の出来事はあんまり強調されていないようですね。先週は聖家族のエジプトへの避難の事を学びました。今日の個所の出来事は主イエスの御降誕とエジプト避難の間に起りました。
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「エジプトに避難」ウイリアム・モーア 2009.12.27
聖書:マタイによる福音書2章13−23
◆エジプトに避難する
13:占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14:ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15:ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
◆ヘロデ、子供を皆殺しにする
16:さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17:こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。 18:「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
◆エジプトから帰国する
19:ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20:言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21:そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22:しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23:ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
【教会暦年のクリスマス】
私にとって、クリスマス後の数日はちょっと寂しい時期になります。何故なら、キリスト教会の暦年によりますと、クリスマス・シーズンはキリストの御降誕日12月25日から1月6日まで続きます。しかしながら、一般の社会を見たら、クリスマスはクリスマスイブ、つまり、御降誕日の前の日までのようです。ある場合はクリスマスイブの前日位からクリスマスのライトや飾りなどが店から消えてしまい、スピーカから流れるクリスマス•キャロルも聞こえなくなります。そして、お正月の商戦が激しく始まります。
クリスマスメッセージ 「あなたがたのために」ウイリアム・モーア
◆イエスの誕生
1:そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3:人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4:ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5:身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7:初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
8:その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9:すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10:天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11:今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12:あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。21:八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
【ソビエト連邦崩壊と孤児たち】
ソビエト連邦の崩壊直後の事ですが、ロシアの新しい政権は国営子供の家を支援する為に、 外国からのボランテイアを受け入れました。その当時、ロシアの経済が崩れ、みなしごと捨て子の数が急速に増加し、大変な社会的問題になっていました。ですからある二人のボランテイアは100人の子供の家へ派遣され、その子どもの世話をしました。食事を作ったり、赤ちゃんに御飯を食べさせたり、歌を教えたり、暖かく子供と話したりしました。
人は皆、神の救いを仰ぎ見る ウイリアム・モーア
ルカによる福音書3章1−6
◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
1:皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2:アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3:そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4:これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。5:谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、6:人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
【アドベント(待降節)、クリスマス、再臨】
私たちのアドベントの歩みは大分進んで参りました。来週の主の日には、大きな喜びを持ってこの世の唯一の救い主、主イエス・キリストの御降誕を覚え祝います。そのために、アドベントで全世界の教会はその最も喜ばしい日の為に準備します。つまり、主イエスの降臨の意味と必要性を新たに覚え、将来の主御自身の再臨も切に待ち望みます。その準備が出来た私たちはクリスマスを心から祝いたいと思います。
【洗礼者ヨハネ】
大昔、ある人物も主イエスの降臨の為の準備をしました。その方の名前は洗礼者ヨハネです。ヨハネは多くの聖書の人物の中でとてもユニークなお方でした。御言葉によりますと彼は荒れ野で住み、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(マタイによる福音書3:4)
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あなたがたの解放の時が近い: ウイリアム・モーア 2009.11.29
ルカによる福音書21章25−28
◆人の子が来る
25:「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒
れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
26:人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気
を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
27:そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、
人々は見る。
28:このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。
あなたがたの解放の時が近いからだ。」
【アドベント・待降節】
皆さん、開けましておめでとうございます。そうです、開けましておめでとうございます。実は、今日こそはキリスト教会の元日になります。つまり、今日のアドベント、すなわち待降節の第一主の日は教会暦年の元日です。
主イエス・キリストの存在と賜物は我々キリスト者にとって最も中心的事実ですので、私達の新しい年は今日のアドベントの第一の主の日から始まりです。
2009年11月29日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書
感謝と信仰 ウイリアム・モーア 2009.11.22
ルカによる福音書17章11−19
◆十人のらい病人をいやす
11:イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12:ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 13:声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
14:イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
15:その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16:そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18:この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19:それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
【収穫感謝】
大昔から人間は神、あるいは神々から受けた恵みに感謝を表す必要性を感じて、色々な方法でその感謝を示しました。特に毎年、刈り入れの時、人は収穫を守って下さった神に感謝を表す気持ちが高まってきました。豊かな収穫を通して神様の支えと摂理に対して人は自然にありがたく思い、具体的な形でその気持ちを表現したかったのです。聖書にも収穫の初物を神に捧げる事によって、信仰をもって私達の先祖は感謝を表しました。
箴言にこの御言葉が記されています。
「それぞれの収穫の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、しばり場に新しい酒を溢れさせてくださる。(3章9−10)
人々は収穫の一部を神殿へ持って行き神様に捧げました。そしてその儀式を通して信仰者は個人的に、公的に神に対する恩を認め、頂いた恵みの為、感謝を表す事が出来ました。
言うまでもなく、今日の私達も常に神に感謝を表すべきであります。収穫の恵みの為だけでなく、日々の生活において主の全ての物質的と霊的恵みを考えると感謝の気持ちが私達から湧き出てきます。農業にあんまり携わらなくても、この秋の刈り入れ時、特に愛する神の大きな祝福と恵みを覚えて心から神に感謝します。ですから、今朝、共に神に対する感謝の意味と重要性を新たに覚えたいのです。
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神に倣う者となりなさい ウイリアム・モーア
聖書:エフェソの信徒への手紙4章25−5章2
◆新しい生き方
25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27:悪魔にすきを与えてはなりません。28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。5章1:あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 2:キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
【ハロウイーン】
この10月31日、 アメリカからの帰りで私は関西空港から六甲アイランド行きのリムジン・バスに乗りました。丁度バスが六甲アイランド停留所に着いた時、窓からとても意外な光景を目にしました。それは十数人の小学生の仲間がハロウイーン・コスチュームの姿で歩いていた事です。ミイラや妖精、魔女、オバマ大統領、スーパーマンなどの姿で夢のように現れました。そして、旅の疲れや時差ぼけの影響で、それを見た瞬間、私はまだロサンジェルスにいて、日本に本当に帰っていないのではと錯覚してしまいそうでした。最近、日本でも10月31日のハロウイーンが流行ってきて、楽しい子供の祭りのようになりました。この世はだんだん小さくなるのだなーと思いました。
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2009年11月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書
とこしえに揺らぐことがない者 ウイリアム・モーア
聖書:詩編15篇1−5
1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。
【主の日の礼拝】
今朝私達は神を礼拝する為にこの所に集って参りました。毎週、日曜日の朝ごとにここに集まる動機は色々あると思いますが、基本的に私達は恵み深い誠の生ける神を誉め讃える為に、暇だからではなく、心こめて主の日の礼拝に参加します。
この美しい世界と莫大な宇宙を無から創造し、全人類一人一人も貴重にお造りになりました。思い返せば、日々の生活が全能の神によって守られ、支えられる事にすぐ気付きますので、そういう神に感謝を持って主の御前に出たいのです。ですから、愛する神に感謝と讃美を示す目的で、今朝ここに集いました。何よりも、その為に私達は御言葉を持って讃美し、感謝のお祈りを捧げます。
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わたしは、あなたの住んでいる所を知っている ウイリアム・モーア
聖書:ヨハネの黙示録2章12−17
12:ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。13:「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。 14:しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。15:同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たち がいる。16:だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。17:耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』
【マクドナルドで】
少し前、アメリカ滞在中に次男ポールの大学卒業式の為に南部のノースカロライナ州から北部のボストン市まで往復約3、000キロの旅をしました。長い旅ですから、コーヒを飲む為によく高速道路のマクドナルドに車を止めました。そして、ある朝早くの事ですがコーヒを注文すると、レジの請求がメニューに載ってある値段より、半分位安くなっていました。それはめったにない事ですから、不思議に思いながらでも、うれしくって、店の人に言わずにまず席に戻りました。でも、やはり私は安いコーヒーの理由が知りたかったのです。ですからコーヒのレシートをよく見ると、コーヒの代わりに「snrdrnk」と言う、分からない言葉が書いてありました。
「神はおられるのか」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師
聖書:ヨハネ福音書1章14~18
14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のこ とである。」 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
【神はおられるのか?】
今朝は、神はおられるのか、という根本的なことをお話させていただきたいと思います。
一体、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。私は、20歳の時クリスチャンになりましたが、その前はこのことでかなり迷いました。もし神が本当におられるのなら、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
しかし、神が存在しないのなら、そういったことは全くナンセンスです。存在もしないのに、存在するかのように信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。ではどちらなのでしょうか。どちらでもないということは、あり得ません。必ず、どちらかなのです。しかし、それが分らず、かつては私も随分迷いました。
いずれにせよ、これは私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかということにも関る重大なことです。
そこで幾つかの点から見てみたいと思います。
2009年10月25日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
兄弟を愛して生きる 城下忠司長老
聖 書:1ヨハネの手紙Ⅰ 2章7~11
◆新しい掟
7:愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。 8:しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。 9:「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 10:兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 11:しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。
【愛する者たち】
「愛する者たち」という、ヨハネの呼び掛けのこの言葉は、丁度2章1節の「わたしの子たちよ」との呼び掛けとも同じ、ヨハネの信者に対する愛を深く感じさせる言葉です。このように、ヨハネの手紙からは、自分の牧会する信者の群れを愛するヨハネの、純粋な気持ちを伺い知ることができます。
この「愛する者たち」という語り方は、この手紙では6回もでてきます。(3:2.11/4:1.7.11)
また、ヨハネの手紙Ⅱでも「あなたがたを愛しています」とありますし、手紙Ⅲでも「愛する者よ」
という言葉が2回、「あなたを真に愛しています」とも記されています。
これらの手紙には、牧会者ヨハネの教会の群れに対する本当の愛の姿を鮮やかに見て取ることができるのではないでしょうか。
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「まことの愛において一つになる」神戸改革派神学校生 國安 光
聖書:フィリピの信徒への手紙2章1~11
◆キリストを模範とせよ
1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
【はじめに:フィリピの教会】
今朝は、フィリピの信徒の手紙よりみなさまと共に神様のみことばに聞いてまいりたいと思います。この手紙は、使徒パウロが牢獄の中で筆を執り、フィリピの教会の信者たちに送った手紙であったといわれております。はじめにフィリピがどこにあるかを確認しましょう。フィリピの場所を知る手がかかりとして、聖書の巻末に地図があります。8パウロの宣教旅行2・3という地図にその場所が記されております。
2009年10月11日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書
『大いなる愛』城下忠司・伊丹教会長老
【聖 書】ヨハネの手紙I4章13節~21節
13:神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。14:わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。15:イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。16:わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。17:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。18:愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
【子ども絵本】
最近ノンフィクション作家柳田邦男さんの書きました。「大人が絵本に涙する時」という本を読みました。この方がこんな風に絵本について語っています
「絵本は子どもたちが第一の対象ではあっても、実は、読む人の人生経験が豊かになるにつれて、内容を深く味わえるようになる、すぼらしいメディアであり、自分自身の生き方や心の持ち方や子どもの心の成長などを考えるための滋養分となるものだ。」と言っています。
いま、伊丹教会では毎月第一土曜日に絵本の読み聞かせの奉仕がなされていて、母親と子どもたちが参加されています。多いときは子供が20名ほどで、とても素晴らしい時が与えられています。私も2度読み聞かせの奉仕をしました。
私は絵本から随分遠のいていましたが、筑波市に住んでいる孫が小学校に上がるまで、孫のところに行った時には、必ず読むことにしていました。実は私の家にはもう絵本はほとんどありません。子供たちが大きくなってから本箱の中から絵本が消え、今は20冊ほどしかのこっていません。
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「神を愛する者の幸い」淀川キリスト教病院 田村英典牧師
聖書:ローマの信徒への手紙8章28節
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。
【万事が益となる】
今朝は、多くのクリスチャンに愛され、彼らを力づけている御言葉の一つ、ローマ8:28に注目します。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」無論、万事がそれ自身で勝手に益となるように働くのではありません。神の摂理によってです。
それにしても、ここで言われていることはすごいと思います。これは、前後の文脈、例えば、17節「キリストと共に苦しむ」、18節「現在の苦しみ」、26節「弱い私たち」、31節「誰が私たちに敵対できますか」などから分りますように、信仰上のことで様々な苦しみを味わっていたローマ在住のクリスチャンたちを励ますために、紀元56年頃、書かれたものです。彼らは既に信仰の戦いをしていました。しかし、今後もどんな戦いや苦難が待っているか分りません。それに対して不安を感じるのは当然でしょう。そういう彼らに、パウロは聖霊に導かれて書きました。
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2009年09月20日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
「従うべき方」片岡 継・神戸改革派神学校3年生
聖書:ペトロの手紙Ⅰ 2章18~25
◆召し使いたちへの勧め
18:召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。19:不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20:罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、 これこそ神の御心に適うことです。 21:あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 22:「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」23:ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24:そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた がたはいやされました。25:あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
【「召使い」とは?】
今日与えられております御言葉は、小見出しにも書かれていますように当時の「召使いたちへの勧め」が書かれている箇所です。この「召使い」というのは、ローマ世界の階級である奴隷一般とは区別されています。ここでの「召使い」というのは、家庭での下働きをする具体的な人たちのことを言っています。当時のローマ世界には、このような人たちが日本の人口の約半分の6千万人もいたと言われております。その中には、教養ある人も多くいまして、医者や教師などの「召使い」もいました。ですからこのような人たちが根底にいまして、当時のローマ世界は支えられていたと言っても過言ではありません。
彼らは、いつも不当な扱いを受けていたわけではありませんが、やはり人間としてよりかは「道具」として見られていた側面が強いようです。しかしそのような中にあって、クリスチャンとされたこの「召使い」に光が当てられるのです。
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『熱心な祈り』伊丹教会長老植田昌彦
聖書:使徒言行録12章1~24節
◆ヤコブの殺害とペトロの投獄
1:そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、 2:ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。3:そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。4:ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。5:こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
◆ペトロ、牢から救い出される
6:ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。7:すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。8:天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。9:それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。10:第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門 がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。11:ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」12:こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
◆女中ロデと信者たち
13:門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。14:ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。15:人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」 と言い出した。 16:しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。17:ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。18:夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。19:ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。
◆ヘロデ王の急死
20:ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。21:定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、22:集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。23:するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。24:神の言葉はますます栄え、広がって行った。
【神とサタン:この世の二大勢力】
世の中の動きには、必ず神様のご計画を進めるものと、それに反する、それを妨げようとする2つの勢力のせめぎあいがあります。私たちの日々の生活の中で、そのことを明確に感じる事は、それほど有るわけでは無いかもかもしれませんが、しかし神様には、ご計画はいつもあり、またそれを妨げようとする人間の動きサタンの働きが常にあります。私たちは信仰の歩みの中で、いつも注意深くそれらを見分けていなければなりません。
勿論人間的思いで勝手に決め付けてはならないことで、最終の判断は神様に委ねる謙虚さも常に持つ必要があります。
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「人を裁く前に」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典
聖書:マタイ7章1~6◆人を裁くな
1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5:偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6:神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
【人を裁くな】
前回は、「人を裁くな」というイエスの教えが、他者への裁きを全て禁じるのではなく、むしろ教会も私たち個々人も、正しい裁きと批判はする義務があること、またこの教えは、すぐ人を詮索し、あら探しをしやすい生れながらの私たちの内にある罪の習性としての裁き癖を問題とし、それを禁じていることを確認しました。今朝も更に学びます。
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「人を裁くな」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典
聖書:マタイ福音書7章◆人を裁くな
1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5:偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6:神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
【人を裁くな】
今朝は、私たちの誰もが犯しやすい過ちの一つに対する主イエスの教えを学びます。主は言われました。7:1「人を裁くな。」
この世では、裁き合いなどは日常茶飯事で、お互いさまかも知れません。しかし、「あの人は最低だ。何も分っていない」などという裁き合いが、家や職場、特に教会で見られるなら、どうでしょうか。心からの礼拝はできないと思います。口には出さなくても心の中で裁き合っているなら、それは神の教会を破壊します。ですから、この主の戒めは、誰もが肝に銘じなくてはならないとても大切なものです。
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「明日のことを思い悩むな-今日を生きる」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典
聖書:マタイによる福音書6章25~34◆思い悩むな
25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、 注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
【思い悩むな】
マタイ福音書6章25節以降の「思い悩むな」というイエス・キリストの教えを今日も学びます。
人間誰しも好き好んで思い悩む訳ではありません。思い悩まないのに越したことはありません。しかし、現実にはあれこれ思い悩んでしまいます。しかも、そこには私たちを神から引き離そうとするサタンの働きがあります。ですから、イエスは私たちにこの問題についてお教え下さるのです。
「まず神の国と神の義を」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典
聖書:マタイ6:25~34◆思い悩むな
25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
【思い悩むな】
今日もマタイ6章25節以降の「思い悩むな」という主イエス・キリストの御声に耳を傾けたいと思います。
前回お話しましたが、自分の将来についてよく考え計画することは、神がご自身に似せて造られた私たちに求めておられることです。しかし、あまり先々のことまで心配し思い悩むことは、神の御心ではありません。
「御言葉の力」伊丹教会執事 八尋孝一
聖書Ⅰテサロニケ2章13節~16節
13:このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦 しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。15:ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、16:異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。
【自己紹介】
西谷の会堂を訪れたことはありましたが、礼拝を共にするのは初めてです。顔をお見かけして、よく知っておられる方もおられますが、初めてお会いする方もあります。プロフィールにありますが、八尋といいます。珍しい名前ですが、九州にはわりと多いです。10年ほど前に九州は福岡から兵庫へきまして、現在関西学院の高校で世界史を教えています。よく教師なのだから、人前で話すのはお手の物でしょうと言われますが、礼拝で御言葉を語るのは、教室でローマ帝国やフランス革命の話をするのとはわけが違います。今日は、緊張しつつ皆さんの前に立っています。
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2009年07月12日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
癒されて知った神の愛 神戸改革派神学校専任教授牧野信成牧師
聖書:ルカによる福音書17章11-19節
重い皮膚病を患っている十人の癒し11:イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12:ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13:声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14:イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
15:その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16:そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18:この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
19:それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
【重い皮膚病】
今朝の御言葉は、ルカ福音書だけに記されています10人のらい病人についての話です。「重い皮膚病」というふうに病名が替わっておりますけれども、重要なことはそれが聖書で指定された重病であったことです。死に至る恐れのある、伝染性の病であり、その深刻さの故に、感染した者は社会から隔離された生活を強いられました。そんな深刻な病に冒された10名の患者を、主イエスは一時に癒された、と福音書は伝えます。憐れみ深い神を示す、大きな救いの御業です。
「思い悩むな」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典牧師
聖書:マタイによる福音書6章25~34節
思い悩むな25:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
26:空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
27:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28:なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29:しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30:今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
【悪魔とともに滅びないために】
今朝は「思い悩むな」という主イエス・キリストの教えを学びます。
まず、ここで主イエスが何を一番問題としておられるかを確認しておきます。それは、私たちの魂を神から離して滅ぼそうとするサタン、悪魔の巧妙な手口です。
クリスチャンは、主イエスを通して日々神との交わりに生き、主に執り成され、神との生きた関係に生きる者です。しかし、この大切な神との縦の関係と共に、私たちはこの世との様々な横の関係にも生きます。そのため、しばしば神との関係を危うくされる危険性があります。イエスは6章19節以降で、この世の宝や富に固執する危険性を言われますが、25節以降でも、目に見えるもの、この世だけに属するものに私たちが心を奪われ、神との関係を損う危険性のあることに注意を促されます。私たちは今一度、サタンの恐るべき力と巧妙さを思い起すべきでしょう。
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主の御声に支えられて 鈴蘭台教会牧師金原義信
聖書:ヨハネ6章16-21節 ◆湖上を歩くイエス
16:夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17:そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18:強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19:二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20:イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21:そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
【人生の荒海】
私たちは天の御国を目指して信仰生活をしています。そして同じ主によって地上で愛され導かれて歩んでいます。その途上にある今、穏やかな所ばかりでなく、嵐の中を通っていく事もあります。ちょうど、ガリラヤ湖で嵐の中行き悩む舟に乗った弟子達のようにです。
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「あなたも見えるようになる、」img河内常男長老
聖書ヨハネによる福音書9章1~12
◆生まれつきの盲人をいやす
1:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2:弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4:わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5:わたしは、世にいる間、世の光である。」6:こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7:そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8:近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9:「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10:そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11:彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12:人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
【親の罪によるのですか】
イエス様と弟子たちが、通りを歩いおられます。道端に生まれつき目の見えない人が,座って物乞いをしています。どうやら、この人は男性のようです。
弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのはどうしてですか、本人が罪を犯したからですか」、それとも、両親が罪を犯したからですか、と尋ねています。
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「信じる自分を見つめるときに」山中恵一神学生
聖書:エフェソの信徒への手紙1章3‐6節
◆キリストにおいて満ちあふれる神の恵み
3:わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4:天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5:イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6:神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
【あいさつ】
今朝はこのように、学びの途上にある神学生に御言葉の奉仕を許していただきまして、ありがとうございます。この場に遣わしてくださった神様と、迎えてくださった皆様に心から、感謝をいたします。また、私どものいます神学校が、みなさまからの本当に多くのお祈りと献金とに支えられていますことを神学校に変わりまして心より感謝をいたします。
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2009年06月07日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書
「聖霊を信じる」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典
使徒言行録2章◆聖霊が降る
1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5:さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6:この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7:人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8:どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9:わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10:フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11:ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12:人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13:しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
【ペンテコステ「五旬祭」と聖霊】
今年のペンテコステ礼拝は次の日曜日になります。従って、一週間早くなるのですが、今朝はこれに関連して、聖霊についてお話させていただきます。
使徒2章1に「五旬祭」(50日目の祭)とあります。これをギリシア語でペンテコステと言います。ユダヤでは、過越祭直後の日曜日から7週目(50日目)にも、神をたたえる祭をしてきましたが、新たにこれは教会にとっても重要な記念日となりました。この日はイエスが十字架の死より復活されて50日目にも当り、1~13節が伝えるように、神の"霊"、聖霊が弟子たちに驚くべき形で臨まれ、この時以来、彼らは聖霊の力を受けて教会の一番大切な福音宣教の働きを始めたのでした。ですから、この日は教会の誕生日とも言われます。
ここに見られるような特別な出来事は一回きりでした。しかし、この後、使徒言行録が伝えるように、聖霊は様々な形で臨まれ、弟子たちはイエスの福音を伝え、真の神も救いも知らなかった世界中のおびただしい数の人が罪と永遠の滅びから救われていきました。今や福音は日本にも伝えられ、真の神を信じ、福音に生き、多くの人に救いの喜びを伝えたい真実な信仰者が起されています。その全てが、実は父なる神と御子イエスの遣わされた聖霊の御業なのでございます。
そこで今朝は、素晴らしい働きをしておられるこの聖霊を信じることの大切さを再確認したいと思います。
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「神の素晴らしい愛」淀川キリスト教病院牧師伝道部長 田村英典牧師
聖書:ヨハネ3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
【小型の福音書】
ヨハネ3章16節は、聖書の中で最も有名な箇所の一つでございます。宗教改革者ルターは、ここを「小型の福音書」と呼びました。それほど、聖書の福音を見事に要約しており、世界中の多くのクリスチャンに愛され、暗唱されてきました。ここはとても短いです。簡潔です。しかし、天と地とその中の全ての物を造られた全知全能の生ける真の神の、私たち罪人に対する愛を見事に伝えています。今朝は、改めてここから神の素晴らしい愛を三つの点から確認したいと思います。
1【世とは】
神の愛の素晴らしさの第一点は何でしょうか。それは神が「罪人」の私たちを愛しておられることです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
実はヨハネ福音書では、「世」という言葉は、単にこの世界を指すだけでなく、造り主なる真の神に背を向け、心を閉ざし、神を無視する不信仰な罪深い世という意味も持っています。例えば、ヨハネ12章31でイエスは言われます。「今こそ、この世が裁かれる。」17章25でもイエスは天の父なる神に「正しい父よ、世はあなたを知りませんが」と祈られます。ですから、ここでも、「世」は単なる世界ではなく、造り主なる神に背き、自分中心に生きる罪深い不信仰な世、またそれを構成する私たち罪ある人間とその世界を意味します。
「永遠のいのちを得るには」 田中茂樹先生
聖書:マタイ 19章16~26◆金持ちの青年
16:さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」17:イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
18:男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19:父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
20:そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 21:イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22:青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
23:イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。24:重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
25:弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
26:イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
【救世軍の社会鍋】
もう今から30年以上前の話で、私が学生だった時の話です。年が明けてから暫くしたある日、下級生のクリスチャンから相談を受けました。その学生が言うには、年末に、年末助け合い募金を募っている救世軍の社会鍋に出会ったというのです。そこで、この学生、貧しい財布の中から僅かながら献金をしたというのですが、その時、心の内に、「それだけで良いのか、全てを捧げなくても良いのか」という声が響いたと言うのですね。勿論、出来れば多くを捧げたい、だけど、全てを捧げたら、自分の生活が出来なくなってしまう。自分の中で言い争う2つの声があるのだけれど、それでも「持ち物を全て処分してでも、全てを捧げなくても良いのか」と言う声が響いて、いつまでも響いて、自分では、どのようにすれば良いのか解らないのです、という相談でした。
クリスチャンとして極めて真面目な学生でしたから、貧しい人に対して、隣人に対して、愛の手を差し出すべきだという思いと同時に、恐らくは、本日お読みしました「富める青年」の話が、――実は、相談に来た彼女は、富めると言うよりも、むしろ貧しい学生だったのですけれども――、彼女を悩ませているのだろうと思ったのです。
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妥協のない伝道のために 川瀬弓弦
ガラテヤ1章6~10節
◆ほかの福音はない 6:キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなに も早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。7:ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。8:しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。9:わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。10:こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
【人の目を気にする自分】
私は人がどう自分を見ているのか、どんな評価をされているのか、ということが常に気になります。今この場に立ちながら、すでに人の目が気になります。これは私の弱さです。人の目が気になるということは、私の言葉や行動が自分の思いに反して左右されやすいということです。妥協をしやすいということです。
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2009年05月03日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
イースターの約束 ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書24:1−12;36−49
◆復活する
1:そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2:見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3:中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4:そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5:婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6:あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7:人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8:そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9:そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10:それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11:使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12:しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
◆弟子たちに現れる
36:こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37:彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38:そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39:わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40:こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41:彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42:そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43:イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。44:イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45:そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46:言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47:また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48:あなたがたはこれらのことの証人となる。49:わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
【主イエスの受難】
悪夢のような一週間でした。しかし、それは幻想ではありません。明白な事実でした。全く信じられない事が起ってしまいました。祈る為に主イエス・キリストと御自分の弟子達がエルサレムに近いオリブと言う山へ行くと、突然、刀と棒を持った群衆が現れました。そして、十二の弟子の一人、ユダは、その群衆から出て来て、「先生、いかがですか」と挨拶して、主イエスを接吻しました。そうすると主はこのように言われました。「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか。」
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なぜわたしをお見捨てになったのですか ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書27章27−50◆兵士から侮辱される
27:それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28:そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29:茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30:また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31:このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
◆十字架につけられる
32:兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33:そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34:苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35:彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36:そこに座って見張りをしていた。37:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38:折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40:言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41:同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42:「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43:神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44:一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
◆イエスの死
45:さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47:そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48:そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49:ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
【東独・放送タワーに現れた十字架】
旧東ドイツの共産主義の時代、あるシンボルがその国のキリスト者に大きな慰めと希望を与えました。それは高層テレビ放送タワーでした。政府がその放送タワーを通して無神論宣伝を国民に送りましたが、一つの問題があったのです。それはタワーの天辺に球状の形のレストランがありました。そして、太陽の光がその球状に当たると、いつも眩しい十字架が映されました。その十字架は有名になり、共産党の政権を当惑させられました。ですから、当局がその十字架を消す為に、あらゆる手段を尽くしました。ペンキを塗ったり、球状の表面にあったガラスにコーテイングを付けたりしましたが、全く役に立ちませんでした。十字架は尚更眩しく映され、キリスト者に大きな励みになりました。ある牧師が十字架の現象についてこのように言いました。「当局がいくらで無神論主義を主張しても、十字架を私達の国から消す事は出来ない。」
喝采が終わった時 ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書19章28−40
◆エルサレムに迎えられる
28:イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29:そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30:言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31:もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32:使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33:ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばを
ほどくのか」と言った。34:二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 35:そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36:イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
37:イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38:「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
39:すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40:イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
【ローズボウル•パレード】
私達人間はなかなかフェステイバルパレードを好む心があります。その理由は色々あると思いますが、恐らくパレードは何よりも刺激的で興奮させるものなので、パレードがあれば、たくさんの人々は集まって来ます。今度アメリカへ行く、ロサンジェルス近郊にあるパサデナという町はお正月のローズボールパレードでとても有名なところです。実況テレビでアメリカ全国によく知られているパレードです。昔になりますが、私達がパサデナに居住していた時、私達はそのローズボウル•パレードを直接に見る事が出来ました。ある人はパレードを見る為、一番良い場所を得るように、大晦日の夜からパレードの道の側で寝泊まりしていました。また、特に良い場所は、席があって切符が高い値段で売られていました。幸い私達は、切符を内の家族にプレゼントしてもらい、夜中から場所を確保する必要がありませんでした。とにかく、その有名なローズボウル•パレードをよく見る事が出来ました。そのパレードの巡行用の山車は特別にゴージャスでした。ローズ•パレードと呼ばれるので、薔薇と様々な他のお花で飾って、100台程の山車がありました。また数十の優れた楽隊もパレードに参加しました。更に、幾つかの素敵な乗馬グループもパレードに出ました。次々と数時間にわたり、ローズ•パレードは忘れられない素晴らしい光景を呈していました。
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良き羊飼い ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書10章7−18◆イエスは良い羊飼い
7:イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8:わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9:わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10:盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
11:わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12:羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13:彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14:わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15:それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16:わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
17:わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18:だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
【子羊の遊ぶ光景】
皆さん、羊と言えば、何が心に浮かびますか。恐らく絵本に出て来るとても可愛らしい子羊の事かも知れません。美しい緑の牧草地に、ふわふわコットンボールのように遊んでいる子羊は何よりも愉快な光景ではないかと思います。羊と直接の経験がない私達にとっても、それはまるで平和と満足のイメージですよね。そして、そのイメージは、いつか牧場で子羊と共に飛んだりはねたりしたいなという憧(あこが)れを私達に起こさせます。ですから、多分今日の御言葉に於ける羊の事を聞くと、本当に暖かい楽しい気持ち感じさせます。
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主イエスとニコデモ ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書3章1−15◆イエスとニコデモ
1:さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9:するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
10:イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11:はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12:わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである
【受難節の40日間】
今朝、私達は今年の受難節の旅を続けたいと思います。キリスト教会は大昔から、主イエスの十字架の贖い死を記念する為に、毎年の受難節に霊的な準備をして来ました。イースター、すなわち復活祭の前の40日間の期間に、キリスト者は主の贖い死の意味を新たに悟らされ、また、自分の信仰生活を顧みる自己評価の機会でもあります。そして、受難節を心より守る事によって、神様が救いに至る主イエスの十字架の贖いの恵みを私達のうちに確かにして下さいます。
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石を手放すこと ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書8章1−11
1:イエスはオリーブ山へ行かれた。
2:朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3:そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕ら えられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4:イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5:こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6:イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7:しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9:これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10:イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11:女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
【石投げ紐】
小学校の4年生頃の事ですが、私は石投げ紐に夢中になり、毎日学校が終わると友達と共に石投げ紐を練習しました。石投げ紐は原始的な武器で的確に狙うのはとても難しいですから、私達はいくら練習してもあんまり上手になりませんでした。石投げ紐の遣り方は御存知だと思いますが、1メートル位長さの紐の真ん中の所の革のポケットに小さな石を入れてから、紐の二つの末端を片手に取り、それをぐるぐる回します。そして、標的に向かいながら、一方の紐を手放すと石が飛び出します。とにかく、私は暇があれば、いつも石投げ紐を練習しました。
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自分を捨てること ウイリアム・モーア宣教師
マルコによる福音書8章31−38◆イエス、死と復活を予告する
31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
34:それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37:自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38:神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
【受難節】
私達は先週の水曜日から受難節に入りました。キリスト教会は大昔から毎年の受難節に私達の為、主イエス・キリストの十字架の贖い死を覚え、その深い意味と重要性を新たに考える時でもあります。言うまでもなく、主イエスの贖い死がなければ、私達は罪の故に神と敵対状態のままであり、救いも希望も全くありません。しかし、主の十字架死のお陰で、罪の全くないイエス・キリストは、罪の為に私達が受けるべき罰を御自分の身に受け、私達主を信じる者は神の赦しを頂き、永遠まで主の豊かな恵みのうちに生きる事になりました。御言葉は主の受難の目的をこのように説明します。「罪と何の関わりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)
それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を御自分の子供として完全に受け入れて下さいます。受難節を守る事によってその言い尽くせない恵みを新たに覚え、感謝します。
また、40日間の受難節に私達それぞれは自分自身の信仰生活を吟味し、よりもっと忠実な主の子供になるようにと決心すべきです。ですから、私達は受難節に主イエスの献身的愛を覚えながら、その愛を模範として、神と隣人に仕えます。
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神の平安 ウイリアム・モーア宣教師
フィリピの信徒への手紙4章4−9
4:主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5:あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はす
ぐ近くにおられます。
6:どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込
めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7:そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と
考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
8:終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべ
て正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉
なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留め
なさい。
9:わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、
見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共
におられます。
【初任給1千万円?】
就職活動に励むある大学の四年生が会計仕事の口を探す為、小企業の社長と面接を受けました。そして、面接に社長はこう言いました。「私は社長だから心配があまりに多いよ。特に不景気でお金の心配が多いから嫌なんだ。だから、うちの会社に入れば、あなたが私の全てのお金の問題を取り扱うんだよ。」青年はそれを聞いて、「会計は私の分野だから、興味がありますが、ところで、年収はどのぐらい頂けるのでしょうか」と聞きました。社長は、「あなたは賢そうな青年だから、始めは一千万円はいかがでしょうか」と返事しました。青年はそれを聞いて大喜びしました。「一千万円!それは結構な話ですよ。十分足ります。しかし、ちょっと知りたい事がありますが、小企業の御社はどうして新入社員に一千万円もの年俸が払えるのですか。」社長は青年を見詰めながらこう答えました。「君、実は、それこそが会計のあなたの最初の心配だよ。」
私達は誰でも心配、あるいは思い煩いを経験する事があります。そして、心配しはじめたら、心配事は限りありません。誰かがこう言いました。「人間は心配の全く無い時が折々あります。そして、その一時休止は『パニック』と言います。」
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2009年02月22日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書
愛とはなにか ウイリアム・モーア宣教師
コリントの信徒への手紙一13章4−7
4:愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5:礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6:不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
【世界のヴアレンタインデー】
皆さんも御存知ですが、昨日はヴアレンタインデーでした。ヴアレンタインデーは世界中に広まって、愛の祭りのようなものになりました。そして、ヴアレンタインデーの習慣は国によって異なります。アメリカとカナダの場合、男性は愛の対象に赤い薔薇の花束とチョコレートをプレゼントをします。ですから一年中で花屋さんの一番忙しい日はヴアレンタインデーです。英国人はヴアレンタイン•カードを好きな人に送って、ヴアレンタインのパーテイーも楽しみます。最近はインドにもヴアレンタインデーが守られて来ているそうです。そのロマンチックな日に男性は結婚をプロポーズします。そして、日本の場合も独特なヴアレンタインの習慣があります。2月14日に女性は男性にチョコレートを贈り、そして、3月の14日のホワイト•デーには男性がお返しに女性にキャンデイーを贈ります。
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2009年02月15日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
来て、見なさい ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書1章43−51◆フィリポとナタナエル、弟子となる
43:その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
44:フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45:フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46:するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47:イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48:ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49:ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50:イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51:更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
【先生はイエス様のお祖母さん?】
ある小さい女の子の幼稚園生が初めて日曜学校へ行きました。家に帰って来るとお母さんは娘に、「日曜学校はどうだった。面白かった」と聞きました。娘は、「うん、とても楽しかった。歌を歌って、ストーリを読んで貰って、面白いゲームもした。そして、私の日曜学校の先生はイエス様のお祖母さんだと思う」と答えました。お母さんは先生がイエス様のお祖母さんだと聞くとびっくりして、娘に、「どうしてそんな事を思うの」と聞きました。「だって、先生は赤ちゃんイエス様の絵をクラスに沢山見せて、イエス様の良い事ばかりを言ったから、先生はきっとイエス様のお祖母さんだと思う」と女の子は答えました。
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わたしは道である ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書14章1−7◆イエスは父に至る道
1:「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2:わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3:行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4:わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
5:トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7:あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
【男と女の違い?】
皆さん、突然の質問ですけれども、女性と男性の主な違いを御存知ですか。それは運転をしていて道に迷うと男の人は道を尋ねません。皆さんも知っていると思いますが、男の人は殆ど誰もが道を尋ねる事を嫌がっています。道を迷っても男の人は出来るだけ他の人に目的地の方向を聞くのを避けたいのです。何故なら、男の人にとってそれは柔弱の表れでもあるからです。もし知らない所へ行こうとしたら先ず地図を見て行くべきですから、道に迷う事は恥ずかしい事でもあります。そして、特に男の人にとって、赤の他人に自分が道に迷った事を知らせるのは恥ずかしいのです。その故に男の人は道に迷うと、「近道を探したよ」、「きっと目的地が遠くはないよ」、「あ、あのコンビニがあったのよね」など言い訳を言いながらも、時間を掛けて目的地を探します。とにかく、男の人にとって道を尋ねるのは最後の手段にしたいのです。
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幸いな新年 ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書13章1−17◆弟子の足を洗う
1:さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2:夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3:イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4:食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5:それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6:シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7:イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8:ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわ たしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。9:そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10:イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11:イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。 12:さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13:あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14:ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15:わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。16:はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17:このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
【新しい年の初めに立って】
明けましておめでとうございます。今日、今年の最初の主の日に当たって、私達は正に新しい年の玄関に立ています。そして、過ぎ去った2008年を振り返って見ると、新しい2009年に対して大きな希望が私達から湧き出て来ると思います。つまり、私達は2009年が2008年より、もっと良い年になって欲しいと願うのであります。言うまでもないが、2008年には私達個人的にも世界的にも色々な事がありました。ですからその影響を考えますと私達だけではなく、全世界の人々も何よりもこの新しい2009年は幸いな年になるのを切に望んでおります。
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奴隷ではなく、子です ウイリアム・モーア宣教師
ガラテヤの信徒への手紙4章
1:つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、2:父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。3:同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。
4:しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。 5:それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。6:あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。7:ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。
【養子縁組】
最近、アメリカで「Adoption」、すなわち「養子縁組」と呼ばれるテレビ番組は結構受けているそうです。その番組は事実に基づいたもので、毎週の日曜日の夜、養子に行く子供とその子を受け入れる家族のストーリです。番組は記録映画のように毎週新しい家族を紹介して、そしてその家族の養子縁組の経験を見せます。家のない幼い子供と子を欲しかっている家族が一つになり、お互いの愛が段々増えて行くのを見ると、とても心温まる嬉しい事です。番組はアメリカ国内の養子縁組と外国から養子にする家族のストーリも紹介しています。特に国籍と言葉と文化と人種を超える養子縁組のドキュメンタリーを見ると、驚くべき愛の力を感じさせられます。
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2008年12月28日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
クリスマスに応えて ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書2章1−12◆占星術の学者たちが訪れる
1:イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3:これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
4:王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5:彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いてい ます。6:『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 7:そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8:そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
9:彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10:学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11:家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12:ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
【最大のクリスマス・プレゼント】
メリークリスマス!今日、私達は主イエス・キリストの御降誕の記念日、クリスマスをお祝い致します。2000数年前に愛である全能の神が全人類の永遠の救いの為、御独り子イエスをこの世に遣わして下さいました。その驚くべき恵みの御業によって、唯一の神は私達に最大のプレゼントを下さいました。ですから、今日その比類なき、貴重なクリスマス•プレゼントを感謝し、記念する為に私達はここに集まりました。
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夢をかなえる本気のクリスマス ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書1章1−18◆言が肉となった
1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2:この言は、初めに神と共にあった。
3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5:光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6:神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7:彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8:彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9:その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10:言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11:言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12:しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13:この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子で ある神、この方が神を示されたのである。
【クリスマス】
今年もいよいよクリスマスが近づいて参ります。丁度一週間後、私達の西谷聖書集会ではクリスマス礼拝を守って、共にイエス・キリストの御降誕をお祝います。その為に私達は色んな準備をしています。子供達は一生懸命にクリスマスのクラフトを作ったりクリスマスの歌を練習したりしています。そして、私達大人も来る日曜日の礼拝と祝会の準備をしています。
デパートに入り、また商店街を歩くと、クリスマスの準備をしている大勢の人々のばたばたしているのが目につきます。クリスマスプレゼントと飾りを買って、クリスマスケーキを注文し、そして、クリスマスデイナーのメニューを考えます。そのように準備をして皆は何よりも楽しく、恵まれたクリスマスを過ごしたいと思います。
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私たちのふるさと ウイリアム・モーア宣教師
マルコによる福音書1章1−8◆洗礼者ヨハネ
1:神の子イエス・キリストの福音の初め。2:預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。3:荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4:洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5:ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6:ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7:彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8:わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
【ホワイト•クリスマス】
最近聞いた事がありますが、世界中でズット以前から現在まで一番人気のある歌はホワイト•クリスマスだそうです。その歌はどんな歌よりも沢山録音され、聞かれ、歌った事があるそうです。特にクリスマスが近づくと、ホワイト•クリスマスはお店のスピーカからよく流れます。「I'm dreaming of a white Christmas just like the ones I used to know. Where the treetops glisten and children listen to hear sleigh bells in the snow.」沢山聞いた事があるでしょう。その歌の日本語の歌詞はこうなります。「夢見るはホワイト•クリスマス、懐かしい過ぎし日。雪に輝く木の梢、そりの鈴の音。」
恐らく、その歌は私たちのノスタルジアを掻き立てるので、ホワイト•クリスマスの人気が今日まで残って来ました。「夢見るはホワイト•クリスマス、懐かしい過ぎし日。」その歌詞は私達の幼い時の思い出を起こすのではないでしょうか。
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キリストの香り ウイリアム・モーア宣教師
コリントの信徒への手紙二2章14−17
【体臭と臭い署名】 ニュ−スを読むと、最近、科学者は色んな珍しいものを研究しているという事が分かります。例をあげていえば、アメリカにある研究所はタイシュウを調べています。そのタイシュウは「多数の人」と定義されているタイシュウではありません。実は、そのタイシュウは人間の肉体の臭いです。研究によりますと、あらゆる人に独特な体臭があります。そして、指紋のようにその臭いは個人に独自のものです。つまり、同じ体臭を持っている人は二人もいません。更に、人は香水をつけて、ニンニクか強いスパイスを食べていても、そのユニークな「臭いの署名」が残ります。ですから、技術が開発されたら、指紋と証明写真の代わりに、当局は肉体の臭いで人の身元を確認する事が可能になります。もしかしたら、将来、空港で入国管理局を通る時、体臭探知器が自分の臭いを嗅ぐかも知れません。14:神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。15:救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。16:滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。17:わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
言うまでもなく、体臭は非常に微妙な問題です。肉体の臭いを消す為に体を洗ったり、歯を磨いたり、香水をつけたりします。私達皆は出来るだけいやな臭いを漂わしたくありません。
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2008年11月23日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , 新約聖書
なくてはならぬもの:愛 ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネの手紙一4章7−12
【洞窟を探険した二人】
二人の青年は幼馴染みで、殆ど毎日一緒に遊びました。互いに家へ行き来したり、学校で同じクラブ活動に参加したり、とても仲良しでした。ある日その二人は近い山にある洞窟を探険しようとしました。懐中電灯を持って、洞窟に入り、結構奥深くまで進みました。青年の一人は足下の所に懐中電灯を照らして恐ろしい光景を見ました。それはでっかい熊の足跡でした。そして、突然、洞窟の先からぞっとさせる熊の吠え声が反響しました。更に、段々近くなる熊の走る音も聞こえました。
【早く逃げたほうが勝ち】
言うまでもなく、二人は死ぬ程怖くなり、必死に洞窟の出口の方へ走りました。しかし、まだ出口に着いてないのに友人の一人は止まって、ブーツを脱ぎ、リュックサックからランニングシューズを出し、それを履こうとしました。相手は彼に怒鳴りました。「お前、何をやってる。速く逃げよう。熊はすぐ後ろに来てるぞ。」
そうすると、彼の相手が立ち上がって、一生懸命に洞窟口へ走り出しました。そして、走りながら後ろにいる友人に叫びました。「俺は熊から逃げなくても良い。ただお前より速く走ったら俺は安心だ。熊はお前に先に襲いかかるから。」
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なくてならぬもの:希望 ウイリアム・モーア宣教師
ヘブライ人への手紙10章19−25◆奨励と勧告
19:それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。20:イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。21:更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、22:心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。23:約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。24:互いに愛と善行に励むように心がけ、25:ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
【病院へ訪問授業】
ある学校の教師は教育委員会によって町の総合病院に派遣されました。それは入院している若い患者の勉強が遅れない為の訪問授業でした。ある日訪問教師は入院している生徒の担任先生からこのような訪問授業の依頼を受けました。「クラスは今文法を学んでいます。入院している生徒に名詞と形容詞の事を教えてくれると有り難いです。」そして、担当の先生はその子の名前と病棟を教えました。
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「強風を見て」淀川キリスト教病院付牧師 田村英典
マタイ14章22~33◆湖の上を歩く
22:それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23:群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24:ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のた めに波に悩まされていた。25:夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26:弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27:イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28:すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29:イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
30:しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31:イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32:そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33:舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
【ペトロの失敗に学ぶ】
今日の箇所は、主イエス・キリストが正に全知全能の神の独り子であられることを示す有名な箇所の一つです。しかし、今朝はその点ではなく、ペトロが湖の上を歩こうとして失敗した出来事から学びたいと思います。
ペトロは信仰的にとても勇敢に行動し始めました。しかし、その後、困難を覚え、ぶざまな姿を露呈しました。最初は信仰に満ち溢れていました。でも後には、惨めな挫折者となり、悲鳴を上げ、イエスに助けを叫び求めました。
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なくてはならないもの:信仰 ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書18章35−43
◆エリコの近くで盲人をいやす
35:イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36:群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
37:「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、38:彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。39:先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 40:イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。41:「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42:そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43:盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエス に従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
【生きるために必要なもの】
生きる為に私達人間には生理的要求があります。それは身体の働きに絶対に必要であるから、なければ、あるいは不十分であるなら、私達の命さえも危なくなります。そのなくてもならないものとは、呼吸と、飲み物と食べ物と排泄と睡眠と住みかです。誰でも本能的にそれらを求めます。だからこそ喉が渇いたら飲み物を欲しがり、お腹が空いたら食べ物を探し、眠くなると微睡みます。私達は生まれつき、その生理的ニーズがあって、そのものを省いては私達の命が危なくなります。
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神の国にふさわしい者 ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書9章57−62◆弟子の覚悟
57:一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58:イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」59:そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60:イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」61:また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62:イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
【あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります】
皆さん、先程読ませて頂いた、今日の御言葉を聞くと、どう思われましたか。ちょっと驚きましたか。と言うのは、三人の人が次から次へと主イエスにやって来て、「あなたに従います」と宣言しました。つまり、弟子として「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」とイエスに言いました。主にとってそれは何よりも嬉しいお話ではありませんか。何といっても、出来かぎり多くの弟子を集める事によって、御自分の働きがうまく遣りやすくなり、社会にも強い影響を与える事ができます。ですから、「あなたに従います」と言う人がどんどん出て来ると主イエスは大いに喜んだはずです。しかしながら、喜びを持ってその献身を熱く歓迎するよりも、逆にイエスは驚くべきことに、却って止めさせようとするような返事で答えられました。
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パンを裂かれた時イエスだと分かった ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書24章13−35◆エマオで現れる
13:ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14:この一切の出来事について話し合っていた。15:話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16:しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17:イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18:その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19:イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20:それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするた め引き渡して、十字架につけてしまったのです。21:わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22:ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23:遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24:仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25:そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26:メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27:そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、 御自分について書かれていることを説明された。28:一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29:二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30:一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31:すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32:二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 33:そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34:本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35:二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
【ヒトラー暗殺計画】
牧師と神学者であるドイツ人のデイートリック•ボーンヘッファーは1943年にナチによって逮捕され、監獄に入れられました。彼はヒトラーの集団殺害的な支配を悟り、その邪悪な政権を倒すのは神の御心だと信じて来ました。ですからボーンヘッファーは同じ目的を持つ仲間を集め、ヒトラーを止めようとしました。そして、仲間は審議した上、ヒトラーを止めるには一つの道しかないと判断しました。それは彼を暗殺する事でした。牧師として、神学者として人を殺すのは大変辛いけれども、そうしないとヒトラーは続けて言い尽くせない悪事を働く事になってしまいます。その為にボーンヘッファーはヒトラーの暗殺計画に関与しました。その計画は正確に進まれ、爆弾の鞄はヒトラーの会議室に置かれました。しかし、会議室に置いた爆弾の鞄が偶然人によって動かされ、爆発はしたもののヒトラーは生き残りました。 計画が失敗すると、やがてボーンヘッファーとその仲間は秘密警察によって逮捕され、死刑を宣告されました。そして、ナチ政権の征服の数日前にボーンヘッファーは処刑されてしまいました。
信仰と行い ウイリアム・モーア宣教師
ヤコブの手紙2章14−26◆行いを欠く信仰は死んだもの
14:わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 15:もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16:あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17:信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
18:しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。19:あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。20:ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。 21:神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22:アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。23:「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。24:これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。25:同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。 26:魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
【発明家ベルと電話】
アレクサンダー•グレアム•ベルは有名な科学者で発明家でした。色んな大事な物を発明しましたけれども、一番大きな影響を及ぼした発明は現在も私達と全人類が毎日使っている物です。その物がなければ、私達の生活は大変不便になります。ベル先生と言えば、皆さんはもうお分かりになったでしょう。彼の発明は電話です。電話の発明のお陰でベル先生は通信に革命を起こし、素晴らしい賜物を人類に下さいました。そして、それだけではなく、ベル先生は電話で有名になり、大金持ちにもなりました。
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競走を忍耐強く走り抜こう ウイリアム・モーア宣教師
ヘブライ人への手紙12章1−3◆主による鍛錬
1:こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
2:信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
3:あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
【オリンピック】
皆さん、先日のオリンピックを見ましたか。最近テレビをつけても、あるいは新聞や雑誌を開いても、オリンピックの情報を避ける事は難しいです。オリンピックは世界の全ての人々の注目を引きつけました。世界中、数10億人が鳥の巣で行った開会式を見たんだそうです。オリンピックの魅力は何でしょうか。その魅力は何よりも選手達は勝利を得る為に一生懸命に訓練を受け、最善を尽くして競技をします。その献身的努力と忍耐は本当に魅力的で、見る人を感動させ、微笑ましくさせます。
先週の木曜日の女子ソフトボールの競技は大変刺激的でしたね。日本のチームは勝てそうもないなのに、頑張って大きな勝利を得ました。皆は最後まで最善を尽くして金メダルの夢を叶えました。
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「試練と信仰」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典牧師
聖書:ペトロの手紙一1章3~7◆生き生きとした希望
3:わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4:また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5:あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。
6:それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7:あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
【試練は必然】
今朝は、私たちにとって最も重要な問題の一つである試練について、御言葉から改めて教えられたいと思います。「朝から試練の話とは、ちょっと重苦しい」と思われる方があるかも知れません。しかし、これは状況を選んでおられるような悠長なテーマではありません。これは信仰に生き、戦っている真のクリスチャンにとって、常に差し迫った問題です。ですから、ペトロも手紙の冒頭ですぐこの問題に言及します。
私たちの将来がどんなものになるかは、誰にも予測できませんが、色々な試練が待っていることだけは間違いありません。そうであるなら、あらかじめ御言葉により備えをしておくことはとても大切です。
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「迫害に遭っても喜ぶ」マタイ福音書5章11~12 淀川キリスト教病院牧師 田村英典
聖書:マタイ5章(山上の説教)
1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。
◆幸い
3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
【迫害を受けるクリスチャンの反応】
マタイ5章の冒頭にあるイエスの教えから、真のクリスチャンとはどういう者かを学んでいます。イエスは3~10節で8つの側面からそれを描かれますが、その最後は10節
「義のために迫害される」
という点です。今日の11、12節は10節の続きであり、補足説明と言えます。
2008年08月10日 | カテゴリー: ヘブライ人への手紙 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
ホームシック ウイリアム・モーア宣教師
聖書:コリントの信徒への手紙二5章1−10
1:わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。2:わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。3:それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。4:この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。5:わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として"霊"を与えてくださったのです。6:それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。7:目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
8:わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。9:だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。10:なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
【ホームシック】
今年の春に中国の上海に行きました。初めての中国の旅ですから、とても面白かったです。特に向こうのキリスト教会の現状と中国の経済的発展を自分の目で見る事は良い勉強になりました。しかしながら、そのツアーの最後の日になると、不思議にどうしても家に帰りたい気持ちがあったのです。
その気持ちになったのは別に上海が嫌い訳ではありませんでした。本当に刺激的な所で、いつかもう一度また来てみたいと思いました。けれども、向こうの環境の違いの故に、家を憧れ帰りたかったのです。言葉は通じなし、食べ物も慣れていませんでした。ホテルのベッドは板のように固くてよく眠れませんでした。また、上海の道が分からなくて自由に動きが取れないと言うのも不便でした。ですから、馴染みが深い神戸と我が家を憧れ帰りたかったのです。と言うのは。
恐らく私はちょっとホームシックになったかも知れません。誰でも遠く離れると、いくら良いと言っても、やはり、楽にさせる家の事や慣れて来た環境をなつかしく思う心があります。
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2008年08月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書
私達はどのような神に仕えていますか ウイリアム・モーア宣教師
聖書 燃え盛る炉に投げ込まれた三人
ダニエル書3章8−30
8:さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、9:ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。10:御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。11:そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。12:バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」
13:これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。14:王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないとい うのは本当か。15:今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
16:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。17:わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」19:ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。20:そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。21:彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。22:王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。23:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。24:間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」25:王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」26:ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。27:総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。28:ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。29:わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのよう に救うことのできる神はほかにはない。」 30:こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。
【最近の恐ろしい出来事】
最近新聞に大きく取り上げられたニュースです。 「八王子殺傷、現場近くで包丁購入『誰でもよかった』。 消費者物価1.9%上昇、92年来の上げ幅。 千葉で民家火災、焼け跡から母子4人の遺体。 秋葉原通り魔事件、男が通行人や警察官17人を車ではねて刺す、3人死亡。 東北地方で震度6強地震。 14歳が東名高速でバスジャック。」
2008年07月27日 | カテゴリー: イザヤ書 , ダニエル書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
わたしの記念としてこのように行いなさい ウイリアム・モーア宣教師
コリントの信徒への手紙一11章23−26
◆主の晩餐の制定
23:わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25:また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26:だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
【人違い】
数年前にアメリカの本国勤務の間に私は久しぶりに属する中会の会議に出席しました。宣教師として日本に来る為に20年前にその中会から離れましたので、見慣れた顔があまりありませんでした。しかし、会堂の向こう側にやっと一人のよく見覚えがある顔を見つけました。それは牧会した教会のドーリスと言う婦人でした。ドーリスの家に何回も訪問して、彼女の娘さんと孫までも教会に出席していました。私はその教会を辞任してからドーリスは長老になりましたので彼女はその日中会へ出席していました。ドーリスに会う為に私は彼女の方へ歩いて、「ドーリス、お久しぶりですね。お元気ですか」と挨拶しました。そして、ドーリスは私をよく見てこのように言いました、「シューフ先生、いったいここで何をするんですか。」ところで、シューフ先生は私がその教会に来る前の牧師でした。ですから私は、「ドーリス、私はシューフ先生ではありません。シューフ先生の後任モーアです。覚えているでしょう」と返事しました。しかし、ドーリスは私を信じないで言いました。「そんな事はない。確かにあなたはシューフ先生です。先生の事はよく覚えています。」会議が終わって、皆は帰る時、ドーリスはわざわざ私にやって来て言いました。「シューフ先生、是非近いうちに教会で説教の奉仕をして下さい。皆が会いたいと思います。」近くにいた牧師はその話を聞いて私に、「気にしないで下さい。ドーリスは最近ちょっとぼけて来ている」と言いました。
実は、そのように忘れられて、私はちょっとショックを受けました。何故なら、人によって覚えられたいからです。特に、親しくなった人によって覚えられたいのです。忘れられると、悲しくなりますね。
2008年07月20日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
御名を知る人 ウイリアム・モーア宣教師
詩編9:1−21
1:【指揮者によって。ムトラベンに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2:わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。3:いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。4:御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。5:あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。6:異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。7:敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。8:主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられ る。9:御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。10:虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。
11:主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。12:シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。13:主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。14:憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。
15:おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。16:異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。17:主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ
18:神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。
19:乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。20:立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。
21:主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ
【あるインデイアンの成人式】
昔のアメリカインデイアンのある部族には青年の訓練の独特のやり方がありました。先ず、13歳位になる青年達は一人前になる為にその父親はもちろん、部族の長老達によって色んな技術を教えてもらいました。魚釣り、狩猟、乗馬、弓術などのような必要な事をしっかり訓練させられました。そして、最後には青年達は試練を受けなければなりませんでした。それは独りで森林の中で一夜を過ごす事です。その時点まで青年はいつも家族の保護に囲まれ、部族から離れた事が一度もありませんでした。しかし、試練の夜、彼は目隠しされ、深い森の中の知らない所へ案内されました。そして、「暫く目隠しを取ってはいけない」と注意されてから、案内する人が去ってしまいました。言うまでもないが、青年は目隠しを外した時、恐れを感じました。暗い夜に色んな不気味な音が聞こえました。そして、その全ての音は襲って来る野獣の現れだと想像したのです。寂しくなってどうしても家に帰りたかったのです。更に、夜の寒さを感じると、震えました。眠る事が出来なくて、地面に座り泣きたいのを我慢し、声も出さず息を抑えて、ただじっとするしかなかったのです。
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「お別れのことば」グラハム・スミス
聖書1テサロニケ5章23−28節
23:どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24:あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。25:兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。26:すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。27:この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。28:わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。
1.お別れのことば
人間関係の難しさの一つはお別れの挨拶です。親しくなればなるほど、別れる時どんなことばを言うか、わからなくなります。宣教師として、何回もオーストラリアの家族から離れて、日本に来ました。空港で「さよなら」を言うことは辛いです。
妻キャシーの両親は空港の雰囲気が嫌いなので、いつも家から「バイバイ」をします。両親は3年間娘に会わなくなるし、孫さんと関わらないし、寂しい思いで別れます。私はその時、親に、何か意味があることばを言わなければならないというプレシャーを感じます。しかし、いつも、遠慮してしまって、つまらないことしか言えない。
日常生活のなかのお別れも大切にしなければならないと思われています。結婚のカウンセラーによると、夫婦関係がうまく行くために、一つ一つの別れの時と再会の時を大事にしなければなれません。玄関で言われる言葉はその日に残る印象になります。喧嘩(けんか)をして、そのまま別れて、嫌な気持ちが残りますね。
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2008年07月06日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
神への道は多いのでしょうか ウイリアム・モーア宣教師
使徒言行録17:22−34
◆アテネで 22:パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23:道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。24:世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25:また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 26:神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27:これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。28:皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。29:わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。30:さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。 31:それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」32:死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。33:それで、パウロはその場を立ち去った。34:しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
【定年退職した男の話】
ある男の人は長いキャリアを経て、やっと退職の日がまいりました。そして、その記念すべき日と自分の第二の人生の始まりを祝う為に、旅行の計画を立ちました。それは世界一周の旅でした。ずっと仕事で忙しかったので、見に行きたい所が沢山ありました。古代エジプトのピラミッド、アメリカのグランドキャニオン、スイスの風景、アフリカの野生動物などを自分の目で見たかったのです。旅行の出発の日を楽しみに待ちながら自分にこのように言いました。「私は長い間頑張りました。真面目な生活をして、同僚と家族の者に迷惑をあんまりかけませんでした。ちゃんと国に税金も払って、一度も警察のお世話にならなかったのです。しかも、出来るだけ困っている人に手を延ばし、助けて来ました。ですから、私は誰よりもこの旅行に値するべきです。」
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「主イエスを信じて死ぬ幸い」 宝塚教会牧師 国方敏治
ヨハネ福音書11章17-44節
◆イエスは復活と命 17:さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18:ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19:マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20:マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21:マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22:しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23:イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24:マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27:マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 ◆イエス、涙を流す 28:マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29:マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30:イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31:家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32:マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33:イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34:言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35:イエスは涙を流された。 36:ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37:しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 ◆イエス、ラザロを生き返らせる 38:イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39:イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40:イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41:人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、 わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42:わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43:こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44:すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
【死は幸い?】
私たちにとって「死」とは、死ぬ事は最大の不幸、最大の災いと考えられています。
けれども、聖書には「今から後、主(イエス)に結ばれて死ぬ人(死人)は幸いである」(黙示14:13)と言われています。教会やキリスト信者の葬られた墓の墓碑に、しばしばこの御言葉が記されているのを見るのです。では、死が幸いであるとは、どういう事か。今朝は、この驚くべき福音の言葉を共に聞き取りたいと願っています。
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やもめの献金 ウイリアム・モーア宣教師
マルコによる福音書12章41−44
◆やもめの献金 41:イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 42:ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 43:イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 44:皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
【エルサレムの神殿で】
エルサレムの安息日の朝。日がまだ強くならないうちに人々は礼拝する為に、もう神殿の入り口に寄せて来ました。焼き尽くす捧げ物の独特の臭いが空気に浸透していました。そして、信徒達は皆並んで献金を捧げようとしました。金持ちも貧乏人も、また、その中間の人々も、神に捧げる献金を持って、賽銭箱がある部屋に入りました。その賽銭箱は金属製の漏斗形の投げ口があって、信徒達はそこに硬貨を入れました。その時代、紙幣がなかったからです。言うまでもなく、硬貨を箱に投げると、カチンと鳴る音が響きました。
【主イエスと弟子たち】
人々は献金をして、礼拝する為、すぐそのお部屋を出ましたが、一人の人と彼の弟子達は献金が済んでからも部屋の隅に残りました。そして、今日与えられた御言葉によりますと、主イエスは、群衆が賽銭箱にお金を入れる様子を見ていました。
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パン種に似ている天の国 ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書13章33−35節
33:また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」 ◆たとえを用いて語る 34:イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。 35:それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
【パン種】
皆さん、手製のパンを作った事がありますか。もし作った事があればその基本的材料を思い浮かべるでしょう。小麦粉、砂糖、塩、水、と油ですね。その材料を捏ねて、発酵して焼くと、美味しいパンが食べられるでしょう。実は、その材料だけを用いたら、美味しいパンどころか、全く食べられない物になります。ふわふわするパンになるどころか煉瓦のような成果をあげてしまいます。忘れてはならない一つの材料が分かりますか。それはもちろんパン種です。パン種を加えないと、焼く時、パンが食べられない程固くなり、捨てるしかありません。
【パン種を入れ忘れた】
実は家内は昨日YWCAの委員会があって、金曜日の夜、遅くまでその会議のおやつになるバナナパンを作っていました。朝、起きてみるとパン種をうっかり入れ忘れて、固く、全然膨らんでませんでした。家内は特別に美味しくする為にアーモンドペーストまでも入れたのに、「パン種を忘れたのよ」と嘆きました。そして、残ってしまったそのぺちゃんこバナナパンは私のおやつになりました。
パンを作る時、パン種を少し入れますと、生地が段々膨らんでパンは軽くなり、美味しく食べられます。パン種は酵母菌で、発酵させると二酸化炭素が生じます。そして、その気体が生地に泡を作り、膨らみます。生地を焼く時、泡が残り、柔らかいパンが出来上がります。
主イエスの時代もパレスチナではパンは主食でした。ですから、誰でもパン種の重要性がよく分かりました。現在と違って、大昔はインスタントパン種がまだなかったので、主婦は壷に生酵母を培養していました。そして、パンを作る時、その酵母を少し生地に混ぜて、膨らんでから焼きました。
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避けどころなる神、主 ウイリアム・モーア宣教師
詩編7篇1−18
1:【シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。】2:わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。3:獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から/だれも奪い返し、助けてくれないのです。4:わたしの神、主よ/もしわたしがこのようなことをしたのなら/わたしの手に不正があり5:仲間に災いをこうむらせ/敵をいたずらに見逃したなら6:敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき/わたしの命を地に踏みにじり/わたしの誉れを塵に伏せさせても当然です。〔セラ 7:主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり/憤りをもって身を起こし/わたしに味方して奮い立ち/裁きを命じてください。8:諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。9:主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してく ださい/お前は正しい、とがめるところはないと。10:あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。 11:心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾。12:正しく裁く神/日ごとに憤りを表す神。 13:立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし/弓を引き絞って構え14:殺戮の武器を備え/炎の矢を射かけられます。15:御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。16:落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。17:災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。18:正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います。
【ダビデの敵】
今日、私達はもう一度詩編に注意を向けて、詩編第7編を通して神の御言葉を学びたいと思います。この詩編は旧約聖書の人物ダビデの作品で、その背景は彼にとって大変辛い事件でした。つまり、ダビデを滅ぼす為、敵は彼に対して中傷的な噂を立てました。ダビデの敵についてあんまり知られていませんが、今日の詩編の一節を見ますと、彼の名前が記されています。「ベニヤミン人クシュの事についてダビデが主に向かって歌ったもの」と書いてあります。クシュはこの所以外、聖書に載っていませんから、彼について詳しい事はあんまり分かりません。しかし、彼はベニヤミン族の出身と知らされている事は重要です。何故なら、その当時のイスラエルの国王はサウルでした。そして、サウル王もベニヤミン人で、彼の家来と顧問も殆ど皆は同じベニヤミン族出身でした。しかし、ベツレヘム出身のダビデは例外でした。自分の忠実と実力で、ダビデはサウルの信頼されたよろい持ちになり、王ととても近くなり、宮殿で偉くなりました。
【ベニヤミン族出身のサウル王】
残念ながら、サウル王は神に従わなかったので、主は預言者を通してサウル政権の崩壊を宣言されました。更に、神はサウルの後任になる王としてダビデを任命したのです。言うまでもないが、その事でダビデは大変な立場でした。サウル王はもちろん自分の地位と権力を失いたくなかったので、彼はダビデを敵として扱うようになりました。ダビデはサウルに対して忠実であって、決してサウルに代わって王になるつもりはなかったのです。しかし、神こそがダビデを王として任命されると、サウルは彼を妬(ねた)んで、滅ぼうとしました。ダビデは国民に大変な人気があったから、サウルは彼を簡単に殺す訳にもいきません。他の方法でダビデを倒す必要がありました。それはダビデに対して中傷的な噂を立てました。その噂の内容ははっきり分かりませんが、恐らくそれはダビデがサウル家に、反逆罪的な行為を企んでいる事でしょう。
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主イエス•キリストの権威 ウイリアム・モーア宣教師
◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす
21:一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22:人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23:そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24:「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25:イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26:汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27:人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28:イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
【時は満ち、神の国は近づいた】
主イエスが御自分の地上の働きを始めたばかりの時でした。バプテスマのヨハネによって洗礼を受け、そして、荒れ野で40日間誘惑を受けましたが、悪魔に負けませんでした。それから主は弟子達を選び始め、伝道活動を開始しました。主は国を巡回して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言うメセージを述べ伝えました。
【権威ある者として】
ある日、イエスは弟子と共にカファルナウムと言う町に着きました。そして、安息日にシナゴーグ、すなわちユダヤ教の会堂に入って、巡回教師としてイエスは人々を教え始められました。その聖日に与えられた聖書の朗読と主イエスのお話の内容も記されていませんが、御言葉によりますと、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として教えになった」と書いてあります。イエスは権威ある者として教えましたので、人々は驚きました。そのお話の内容は重要でしたが、内容よりも、その話し方が人々にとって印象的でした。つまり、イエスは神と救いについて発言する権利があったようにお話をなさいました。やはり、主は神の独り子としてそう言う権利と資格があったからこそ、権威ある者として人々に教えることが出来ました。
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2008年04月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書
漁に行こう ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書21章1−14
◆イエス、七人の弟子に現れる
1:その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2:シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が 一緒にいた。3:シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4:既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5:イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6:イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれ るはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7:イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をま とって湖に飛び込んだ。8:ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9:さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10:イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11:シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12:イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
13:イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14:イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
【スーザン•ボイル】
最近、ほんの一週間の間に、声楽の世界に新しいスターが生まれました。スーザン•ボイルと言う英国の小さな田舎町出身の歌手が、全世界のセンセーションになりました。先週、彼女は「アメリカン・アイドル」と言う人気テレビ番組の英国版に初めて舞台を踏みました。それは観衆を驚かせる歌唱力でした。そして、マスコミの力でスーザン•ボイルは一夜にして全世界中に知られ、話題になりました。
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主イエスによって永遠の命を得る ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書3章1−17
◆イエスとニコデモ 1:さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9:するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10:イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありなが ら、こんなことが分からないのか。11:はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12:わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によ って世が救われるためである。
【あなたがどんな人であっても救われます】
ある学者が名門の神学校の学長に選ばれ、学校のPRと紹介の為に色んな所へ巡回して挨拶をしました。ある日、都会にあるロータリークラブに招かれました。集まっていた皆を笑わせようと、面白いと思ったエピソードを語り始めました。その日、彼はロータリークラブの会場まで 地下鉄に乗って来ました。地下鉄から出るとそこには救世軍が貧しい者の為に募金をしていました。そして、クリスマス時期なので学長は献金箱にお金を少し入れました。そうすると献金箱を見ていた救世軍のボランテイアが突然、「あなたは救われていますか」と彼に聞きました。神学長がその出しゃばりを聞くとびっくりして、はっきりした返事をしませんでした。そしたら、ボランテイアさんは、「イエス・キリストを救い主として信じ、主に従っていますか」と新たに尋ねました。そう言う質問を聞かれると、彼は自分の身分をボランテイアに教えようとしました。 誇りを持っていた彼は、「本当は、私は有名な神学校の学長ですよ」と自分の地位を明かしました。きっと、その事を聞くと、しつこいボランテイアは静かになるだろうと思いましたが、またこう言われました。「そんな事は気にしないで下さい。あなたがどんな人であっても、どんな事をしても、今でも救われますよ。」
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生きた水の流れ 河内常男伊丹教会長老
聖書 ヨハネ7:37より38
◆生きた水の流れ
37:祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38:わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39:イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである。
【私の信仰の歩み】
私は、33歳のときに伊丹教会へ復帰しました。復帰したというより、放蕩息子がやっとの思いで、たどり着いたという感じです。神様の哀れみです。
私の洗礼は18歳の高校生のときでした。津山の日本キリスト教団 津山城西教会という小さい教会でした。私には5つ上の姉がおり連れられて日曜学校へ行くようになったのです。
牧師先生からあなたも、洗礼を受けなさいというそのひと言で受洗しました。今思えば先生が良く薦めて下さったと感謝しています。
【社会人として】
でも私には信仰の本当の深い意味が判っていませんでした。高校を出て伊丹で就職し、大阪で5年、その後又伊丹のもといた工場へ戻り、15年間は教会から離れていました。
私は、大学の受験に失敗してから、これを良いことにすぐ就職しました。仕事の内容はあまり問題ではなく、津山を出て行くことが、目的のようなものでした。自分にとって津山での10年は良い思いありませんでした。
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2008年03月30日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書
わたしは主を見ました ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書20章1−23
◆復活する 1:週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2:そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3:そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4:二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5:身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6:続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7:イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8:それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9:イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10:それから、この弟子たちは家に帰って行った。 ◆イエス、マグダラのマリアに現れる 11:マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12:イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13:天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14:こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15:イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わた しが、あの方を引き取ります。」16:イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17:イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18:マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 ◆イエス、弟子たちに現れる 19:その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21:イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22:そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23:だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
【フィリップとイースターの宿題】
フィリップと言う小学生は普通の男の子ではありませんでした。彼は知的障害を持って、12歳なのに、知力が一年生程度でした。しかし、フィリップの両親は出来るだけ彼に普通のクラスに参加させる為、一般の小学校に行かせました。フィリップは頑張りましたけれども勉強はなかなか難しくて、他の子供達にはついていけなかったのです。春になると、先生は復活祭の事、イエス・キリストがお墓から蘇った事をクラスに教えてくれました。先生が特に強調したのは、主イエスが復活してから、そのお墓が空になった事です。そして、宿題として先生は生徒達にプラスチック卵一個ずつを渡して、このように言いました。「プラスチック卵をお家に持って帰って、復活と新しい命を示す物を探し、卵に入れ、明日学校に持って来て下さい。分かりましたか。」子供達皆は、「先生、分かりました」と熱心に答えましたが、フィリップは先生に聞かれても何も返事しませんでした。ですから、いつものようにフィリップの家へ連絡して、宿題を説明するつもりでしたが、先生は忙して忘れてしまいました。
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悪から善を ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書27章32−56
◆十字架につけられる 32:兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33:そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34:苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめた だけで、飲もうとされなかった。 35:彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36:そこに座って見張りをしていた。 37:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書い た罪状書きを掲げた。 38:折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 39:そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40:言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41:同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42:「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43:神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わた しは神の子だ』と言っていたのだから。」 44:一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
◆イエスの死
45:さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46:三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47:そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48:そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49:ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50:しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51:そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52:墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
53:そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54:百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55:またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56:その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
【受難週】
今日で私達と全世界の教会は受難週に入ります。イエス・キリストが受難を前にエルサレムに入った日曜日からの一週間をキリスト者は特に主の十字架の貴い犠牲を新たに覚え、その意味と恵みについて思案します。私達は受難週の際、主イエスが払った犠牲に集中すべきです。何故なら、来週の主の日にイエス様の復活をお祝います。
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2008年03月16日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
主イエス・キリストのみ ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書17章1−8
◆イエスの姿が変わる 1:六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2:イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3:見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5:ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7:イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8:彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
【六甲山の魅力】
家の北側の窓から六甲山がよく見えます。そして、小さい時から山が好きだった私は毎朝起きると、窓のカーテンを開けて、その日の六甲山の様子を眺めます。ある朝は、六甲山は雲と霧に包まれて、完全に見えなくなります。又ある冬の日は雪で美しく輝いていました。春になって暖かくなると、六甲山は段々緑に覆われて、見るだけで気分が爽やかになります。そして、秋の六甲山は燃えるかのような紅葉になり、とても奇麗です。山は平地より、季節の変化が目立ちますので、とても面白くて魅力があります。
【高所から】
しかし、季節の変化以上に、やはり山の高度は山の魅せられるところではないかと思います。高い山に登ると別の世界に入るような気がします。空気が美味し、人里離れますので自然の音しか聞こえないし、すずしいです。そして、山から平地を見下ろすと山の魅力が特に感じられます。つまり、自分が全ての上にいるから、遠くまで見えるし、下にある普通の世界は小さくなります。ある面では、高い山から世界を見下ろすと、私達人間は神の目から見られているような感じかもしれません。
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自分を無にする事 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:フィリピの信徒への手紙2章1−11
◆キリストを模範とせよ 1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰 め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、 わたしの喜びを満たしてください。 3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに 相手を自分よりも優れた者と考え、 4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみら れるものです。 6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固 執しようとは思わず、 7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ ました。人間の姿で現れ、 8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で した。 9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与 えになりました。 10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス の御名にひざまずき、 11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父 である神をたたえるのです。
【キリストに似ること】
この世にいる間、私達キリスト者はおもに一つの目的を持って生きています。それは私達の救い主イエス・キリストにだんだん似て行く事です。何故なら、キリストに従って、似て行く者はキリスト者です。そして、同時に、キリスト者はキリストに従って似て行く者であります。その上、私達はキリストに似て行く事が何よりも父なる神の御旨であり、何よりも主を喜ばせる事であるとよく知っています。
【イエス・キリストに似て行く道】
今日の御言葉はイエス・キリストに似て行く道を教えて下さいます。この個所は私達がどういうふうに主イエスにより近づけるかを説明します。今日与えられた御言葉によりますと、イエスのようになろうとしたら、私達は先ず主との同じ態度をとらなければなりません。フィリピの信徒への手紙2章5節の所を見て下さい。使徒パウロはこのようにフィリピと言う町にいるキリスト者に語りました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト•イエスにもみられるものです。」
原文を調べると、その表現は、「キリスト•イエスの同じ考え方、あるいは同じ態度をとりなさい」となります。つまり、主イエスの態度と価値観が自分のものになると、私達の動機と行動が変わり、徐々にイエスに似ていきます。
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2008年03月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書
「罪を赦す権威者イエス・キリスト」 泥谷逸郎教師
聖書 ルカ福音書 5章17~26
◆中風の人をいやす 17:ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。18:すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 19:しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 20:イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 21:ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 22:イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 23:『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。24:人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。 25:その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。 26:人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
【はじめに】
「中風の人をいやす」出来事のあらすじは次の通りです。
主イエスがご自分の町カファルナウムに帰ってこられたある日のことです(マタイ9:1、マルコ2:1)。そこに、大勢の人々がやって来ました。主イエスに批判的なファリサイ派や律法学者たちも座っていました。
ファリサイ派は、律法主義者で、先祖たちの言い伝えを守るのに熱心な人々でした。律法学者とは、モーセ律法をはじめ、旧約聖書の学者のことです。彼らは歪んだ律法解釈のために主イエスが誰であるか分からなくなっていました。
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イエスにお目にかかりたい ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書12章20−26
【イエスにお目にかかりたいのです】
今日の御言葉によりますと過越しの祭りの為に何人かのギリシア人がエルサレムに上って来ました。その外国人はイスラエルの神を信じ、わざわざエルサレムの神殿まで来て、礼拝を捧げました。そして、都にいる間に彼らは主イエスの弟子フィリポにやって来て、願うことがありました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と求めました。フィリポはその嬉しいお話を聞いて、直ちに弟子同士のアンデレに知らせて、その二人は主イエスの元へ行って、ギリシア人の事を伝えたのです。
【イスラエルの王に】
弟子達は知りませんでしたが、その時、主イエスの受難が近付いて来ました。数日の内にイエスはユダヤ人の当局によって逮捕され、十字架で処刑されてしまいます。イエスはその事をよく御存知ましたが、弟子達にはさっぱり分かりませんでした。実は、主がエルサレムに入った時、都の大勢の住民が向かえに来て、イエスの為に熱烈な歓迎をしました。国王を迎えるように、人々はなつめやしの枝を道にひいて、ロバに乗っていたイエスを都に案内しました。更に、群衆はこのように叫び続けました。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
(ヨハネ12:12−13)
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私達の金の子牛は何か ウイリアム・モーア宣教師
聖書 出エジプト記32:1−14
【出エジプトと十戒】
今日与えられた御言葉は旧約聖書の劇的な出来事の中でも、非常に印象的であります。もしデミル監督の有名な映画、「十戒」を見られたら、今日の個所を描写する場面をよく覚えていると思います。
【モーセとアロン】
イスラエルの民族が全能の神の奇跡的力によってエジプトの奴隷の家から導き出された時です。エジプトから約束された地カナンまで旅中の事件ですが、彼等のリーダー・モーセは神から十戒を含んだ律法を頂く為、独りでシナイ山に登りました。その帰りが遅いと思った人々はモーセの兄弟また助手であるアロンに行って、このように願いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造って下さい。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか、分からないからです。」
【金の子牛】
そして、不思議に思うのですが、アロンはその願いに応じて、皆が寄付した金の耳輪で、拝む為に子牛の鋳像(ちゅうぞう)を造りました。そしてその偶像を見ると人々はこのように言いました。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」
【モーセの怒り】
すると、アロンは祭壇を作り、翌日に行うお祭りを宣言しました。人々は金の子牛を拝んで、飲み食いし、わいわいしました。モーセは山から下り、その光景を見ると大変怒りました。救い主である本当の生ける神の戒めをすぐ忘れ、偶像を造って拝むと言うのは信じられませんでした。モーセは子牛の像を取り、粉々に砕いて、水の上にまきちらし、罰として人々にそれを飲ませました。
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2008年02月03日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書
身に着けるべきもの ウイリアム・モーア宣教師
コロサイの信徒への手紙3章12−17
【もったいない】
うちの両親は宣教師だったので、私が大きくなるまで、家族は貧乏ではないけれども、それ程の余裕もありませんでした。ですから私達は出来るだけ節約して暮らしてきました。石油の変わりに石炭を使って暖房しました。又、家の後ろの畑で野菜を作り、冬の為に沢山瓶詰めにしました。両親は電気と水の無駄使いを見ると、私達兄弟に注意しました。小さい時からその訓練を受けた私は、大人になっても自動的につけっぱなしの明かりを消すようになりました。ある時、家族が部屋にいたのに、私が出る時、うっかりライトを切ってしまった事もあります。ですから私は日本の「勿体ない」と言う概念に心から賛成します。
【お下がり】
実は節約する為、小さい時、お母さんは私を兄のお下がりを着せたのです。僕は三人の兄弟の真ん中で、兄の洋服を着て、そして、弟は私の洋服を着せられました。しかし、お下がりばかり着るのは可哀そうだとちっとも思いませんでした。当然だと思ったのです。その上、兄の洋服が着られる事は私の成長の表れになりましたので、喜んでその服を貰いました。身長が伸びたと言う事を皆に見せたい故に、誇りを持ってその古着を着たのを覚えます。子供の頃のその事を思い出すと笑いますが、不思議にその無邪気な時を憧れます。
【主イエスからのお下がり】
今朝、皆さんにお下がりを差し上げたいと思います。しかし、そのお下がりは私からではありません。もし私からであったら、きっと大き過ぎて全然合わないでしょう。実は、差し上げるお下がりは主イエス・キリストからのものです。主イエスこそがその着物を着ましたが、今は私達が着るようにと切に願っておられます。今日の御言葉の12節にその「身に着ける」ものが記されています。それは、
「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、と寛容です。」
そして、そのイエス・キリストのお下がりを着ると、私達は主に似ていくので、廻りの者が私達の中に主を見る事が出来ます。
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2008年01月27日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , 新約聖書
罪を犯す時 ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネの手紙一1章5−2章6
【だれの奥さん?】
ある男の人が急に耐えられない程、神経質になり、慌てて、掛かり付けの医者へ飛んで行きました。彼は、「私は今日、一日中精神的不安定で、ノイローゼになってしまいそうです。その為に何か良い薬がありますか」と医師に言いました。医師は、患者の問題の原因を知る為、「最近、何か気を転倒させる事がありましたか。例えば、生活に大きな変化があったのでしょうか」と男の人に尋ねました。男の人は、「実は、今朝、この手紙が届いて来ました。」そして、彼は手紙をポケットから出して医者に見せました。その手紙には男の人に対して色々な激しい事が書いてありました。そして、手紙の最後にはこの脅すような言葉があったのです。「もし家の女房との交際を止めないと、あなたは命が無い」と書いてありました。
医者は、「あなたの問題の解決は簡単です。常識ですが、手紙を書いた人の妻とこれから会わない事ですね。その行為を早速止めたら、どうでしょうか。」しかし、そのアドバイスを聞いた男の人はあんまり喜ばなかったのです。「手紙をよく見て下さい。送り主は本当に馬鹿ですよ。何故なら、彼は自分の名前を書きませんでした。彼の名前が分からないと、僕はいったいどうして、その妻の身元が分かるはずですか。どちらの奥さんの事でしょうか。」
【古い、罪のある自分】
「早速止めたら、どうでしょうか。」ただ止めるのは良い事ですが、ある時、止める事は私達にとって簡単ではありません。私達、皆は神と人間に対する罪を犯す事を完全に止めたいと思います。キリスト者としてそれは私達の目標であります。神の光の中で歩んで、私達の生活の全ての事を通して主を喜ばすのは私達の最大の使命です。しかし、私達一人一人の中の古き、自然の人間は罪を好んでいます。神によって造り変えられた新しい私達の性質が罪を憎みますが、古い性質は罪に引き付けられています。その結果、罪は私達の魂に対して攻めてきます。
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2008年01月20日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
嵐の中にも神の平安と喜び ウイリアム・モーア宣教師
詩編4篇1−9:
【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】 2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ 4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ 6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。 7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜 びを/わたしの心にお与えください。9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。
【苦悩の叫び】
「呼び求めるわたしに答えてください」とダビデ王は今日の詩編で神に祈願をこめました。「呼び求めるわたしに答えてください。」私達はその同じようなお祈りを聞いた事がありますか。あるいは、自分自身の口からそのようなお祈りを心から捧げた事がありますか。多分、私達一人も残らず、いつかその同じような祈りを神に捧げた事があるのではないでしょうか。そして、恐らくある難しい時期、毎日のように、「呼び求めるわたしに答えてください」と祈願した事があるに違いありません。
【ダビデ王の苦悩、その原因と結果】
詩編第4編を書いた人物ダビデ王はその祈りを何回も捧げた事がありました。ダビデはイスラエルの王として力がありましたけれども、それと同時に、敵も試練も誘惑も結構あったのです。今日与えられた詩編の背景が記されていないんですが、先月学んだ詩編第3編と同じ状態で書かれていると思われています。ダビデはイスラエル軍の幹部であるウリヤの妻バド•シェバを無理に自分の妻として取ってしまいました。そして、その罪を揉み消す為、もっと酷い罪を犯してしまいました。ダビデ王はわざわざバド•シェバの夫ウリヤを戦場の最も危険な所へ行かせて、結局彼の死を起こしました。その事件のずっと後の事ですが、アムノンと言うダビデの息子が自分の異母姉妹タマルに惚れて彼女に対して暴行を起こしてしまいました。それからタマルの同父母の兄弟アブサロムがその暴行を聞いて、アムノンに復讐する機会を狙(ねら)って、彼を殺してしまいました。しかし、ダビデ王はアブサロムの罪をちゃんと扱いませんでした。息子を罰する為にただ彼を都エルサレムから追放したのです。その軽い罰の理由は、ダビデ王も同じ殺人罪を犯した事があったからです。結局、その為、ダビデが道徳的権威を失ってしまいました。
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新しい年の為の新しい態度 ウイリアム・モーア宣教師
ローマの信徒への手紙5章1−5
【新しい年への期待と不安】
明けまして、おめでとうございます。あっと言う間に2007年が終わり、新しい年、主イエス・キリストの2008年になりました。更に、二週間前のクリスマスで、新しい教会暦年が始まりました。この新しい年の玄関に立つ私達はどう言う気持ちでしょうか。2008年は2007年より優れたものになると言う期待がありますか。それとも、2008年に入ることに、何よりも不安を感じていますか。経済的心配や家庭の事の悩みや健康上の問題などの為に心が重いのでしょうか。また、これから、どうなるかを思い煩っているのではないでしょうか。
【何事にも揺がない態度】
実は、私達は、この世の中の多くの事を変えられません。例えば、多くの場合、経済的状況と健康の状態は私達の管理を離れています。更に、私達は人の行動と偶然の出来事と事故もコントロール出来ない場合が多いです。しかし、誰でも少なくとも一つの事をいつもコントロール出来るはずです。そして、その事は生活に、健康や経済や不幸な出来事よりも遥かに重要であります。何といっても、その事は私達の態度です。私達が示す態度は生活の豊かさに何よりも大事であります。育てられた家族や学歴や物質的状況や仕事や失敗や成功などは人に強い影響を与えるけれども、自分の日常生活においての態度の影響は最終的にはそれらの事に必ず勝ちます。
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2008年01月06日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
幼子イエスに出会ったシメオンとアンナ ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書2章22−40
2007年のクリスマスはもう終わりました。先週まで何所へ行っても聞こえて来たクリスマスキャロルは聞こえて来ません。クリスマスの飾りは来年の為にもう物置きに納められています。子供達は既に憧れたクリスマスプレゼントを忘れ、来年に頂きたい物を考えています。あっと言う間にクリスマスが終わってしまい、お正月と故郷帰りの準備で皆はばたばたしています。
【幼子イエスのお宮参り】
同じように、2007年前に、最初のクリスマスが済んでから、幼子イエスの両親、マリアとヨセフは忙しくなりました。しかし、それはお正月と親戚の訪問の為ではありません。実は、大事な宗教上の儀式を行わなければなりませんでした。それは長子イエスをエルサレムの神殿へ連れて、ユダヤ教の掟に従ってその子を神に献げる事です。旧約聖書の律法によりますと、
「人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一ヶ月を経た後、銀5シェケル、つまり1シェケル当たり20ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う。」
(民数記18:15−16)
驚くべき恵み ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書2章1−20節
【日本でもクリスマス?】
毎年、クリスマスが近づくとアメリカの教会の人々からこのような手紙をよく頂きます。「日本のクリスマスはどうですか。そちらはキリスト者があまりいないと聞くので、大変寂しいでしょう。わたしの町はクリスマスの為にとても明るくなりましたが、日本はそうではないでしょう。辛く、寂しいけれども頑張って下さい。」
返事として私はこのように書きます。「多くの日本人はクリスマスを一生懸命に祝って下さいますので私達の事は心配しないで下さい。ここでは、十一月上旬からクリスマスの宣伝が始まります。どこでもサンタクロースとクリスマスツリーの姿が見えるし、店のスピーカではクリスマスキャロルもアメリカに負けない程よく聞こえます。クリスマスパーテイーも流行っていますし、クリスマスプレゼントを買う為に人々はデパートへ押し寄せます。その上、日本では我々アメリカ人にないクリスマスの伝統も結構あります。ここは12月24日にケンタキー•フライド•チキンとクリスマスケーキを食べます。また、青年達はクリスマスイブに特別なデートをします。私達の事を考えて下さって大変有りがたいのですが、日本人はクリスマスが大好きですので、私達の事は心配しなくてもよいのです。」
今年も、日本とアメリカだけではなく、全世界の多くの人々はクリスマスを祝っています。アフリカでは太鼓の音と激しいダンスでクリスマスの喜びを表しています。ヨーロッパでは色々な昔からのクリスマス伝統が守られています。南米では教会はクリスマスの為に満員になります。そして、パレスチナでは人々は主イエス・キリストがお生まれになった町ベツレヘムへ集まって礼拝を行います。本当にクリスマスは全世界の人々のものになり、一番良く守られた祭日ではないかと思います。
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2007年12月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書
占星術の学者達から学ぶ事 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書2章1−12節
【東方から来た占星術学者】
今日の御言葉に於ける占星術学者達の物語は神秘に包まれています。と言うのは、その人物の事についてあんまり知られていません。聖書には彼等の 国と人数、また名前さえも載ってありません。ただ、「占星術の学者達が東の方からエルサレムに来た」と記されています。ですから、長年にわたってその学者達について伝統が結構生じて来ました。例えば、彼等は主イエスに黄金(おうごん)、乳香(にゅうこう)、モツ薬の三つのお贈り物を献げたので、恐らく学者達三人で来たと思われますが、聖書を注意深く読んで見ると、それは確かな事ではありません。また、国はペルシア、つまり現代のイランと言う伝統がありますが、聖書にはただ、彼等は「東の方から」来たと書いてあります。ですから彼等はバビロニアかアラビアから来た可能性もあります。伝統によりますと学者達の名前はガスパルと、メルチオルと、バルテャザルですが、実際にその名前も不明です。さらに彼等はラクダに乗って来たと言う固定的なイメージがありますけれども、それも憶測に過ぎません。
【占星術の学者とは】
「占星術の学者」と日本語に訳されたギリシャ語の原語は「マゴイ」です。マゴイはその時代の学問が一番優れた人物でした。色んな課目を学んだ彼等は、当時の学者、あるいは博士でした。彼等の優れた学問の故、中東の諸国でマゴイは国王の顧問になり、地位のとても高い者でした。そして、彼等が学んだ課目の中で天文学と占星術が重要でした。星と惑星の位置と運行によって人や国家の運命が分かると信じた彼等は常に夜の空を研究しました。
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2007年12月16日 | カテゴリー: サムエル記下 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書
インマヌエル-神は我々と共におられる ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書1章18−25
【主イエスの呼称】
聖書には主イエスが数多くのお名前で呼ばれています。例えば、平和の君、キリスト、救い主、世の光、ユダヤ人の王、神なる言(ことば)、油注がれた者、アルファでありオメガである。それぞれの素晴らしいお名前は私達に主の役割と重要性と存在を豊かに教えます。つまり、そのお名前を通して私達は主イエスがどう言うお方であるかを悟るのです。
今、アドベントを守っている私達には主イエスの多くの名前の中でもっとも意味深いものが一つがあります。そのお名前は先程読ませて頂いた個所に載ってあります。マタイによる福音書1章22と23を見ますと、こう書いてあります。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である。」
【インマヌエル】
インマヌエル、すなわち、神は我々と共におられる。実は、神の独り子イエス・キリストが人間の赤ちゃんになり、この世に誕生されました。天国の全ての特権と栄光を捨てて、我々と共におられる為、又、私達を罪から救って下さる為、この世に生まれました。しかも、神の御子は貴族や大金持ちなどの家庭に誕生されませんでした。却って、普通の大工と許嫁(いいなずけ)になっている若い娘に生まれました。そして、宿がなかったので、主の生まれた所は馬小屋で、ベッドは飼い葉桶でした。御自分の救いは全人類の為であるので、人間としてこの世に入った時、主イエスが自分を非常に低くして我々と共におられました。
2007年12月09日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書
自分の救いを達成するように努めなさい ウイリアム・モーア宣教師
フィリピの信徒への手紙2章12−18
【牢獄のパウロ】
使徒パウロは先程読ませて頂いた御言葉を牢から書きました。彼は信仰の故にローマ帝国の当局によって逮捕され、裁判を受ける間、閉じ込められました。私達はその告発が詳しく分かりませんが、イエス・キリストの信仰を大胆に人々に伝えたので、牢に入れられ、これから死刑される可能性が十分ありました。
牢に入れられた使徒パウロはその大変不安な時を、どのように日々を過ごしたでしょうか。彼が自分の不安と困苦と法的問題で落ち込んでいたら私達はその気持ちが十分分かります。また、信仰の為にそうなったので使徒パウロが神に失望していたら、それも私達は十分理解出来ると思います。「神様、どうして私はこんなに酷い目にあったのですか。長い間主イエス・キリストの福音を忠実に述べ伝えたのに、どうして私を守りませんでしたか。」もしパウロは気が滅入って来て、そのように呟いても、誰も彼を責めるものはなかったでしょう。しかし、パウロは監獄の大変な生活の中で大きいな喜びを持って、続けて積極的にイエス・キリストの僕として一所懸命に励みました。自分の投獄についてこのように書きました。「兄弟たち、私の身に起こった事が、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。つまり、私が監禁されているのはキリストの為であると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕われているのを見て確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピの信徒への手紙1:12−14)
2007年11月25日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書
神の招きにふさわしく歩もう ウイリアム・モーア宣教師
エフェソの信徒への手紙4章1−6
【聖墳墓教会の争い】
大昔の言い伝えによりますと、エルサレムにある聖墳墓教会はイエス・キリストが復活させられるまで横たわっていたお墓の上に建てられています。しかし、残念ながら何百年前から現在いたるまで色んなキリスト教宗派がその聖地の管理を主張して来ました。その問題はあんまり深刻になりましたので、1752年に、当時パレスチナを治めたオスマン帝国の君主が聖墳墓教会を六つの部分に分けて、その部分それぞれを六つの宗派に与えました。教会の屋上はエチオピア正教会の物になりましたが、1800年代の流行病のため、エジプト•コプト教会が屋上の管理を取りました。しかしながら、1970年頃、エジプト•コプト教会の修道士が屋上からちょっと留守の間、 エチオピア正教会が百年ぶりにもう一度屋上を占領しました。もちろん、コプト教会はその行為を争って、自分の修道士を屋上へ行かせ、その時から両方の宗派の代表が屋上に暮らしていました。しかし、そのライバルの二人はあんまり良い関係を持ってなかった為、2002年の夏に殴り合いなりました。両方の仲間がその騒ぎを聞くと、屋上へ飛んで来て、大変な喧嘩が起こりました。修道士11人が怪我になり、一人が無意識状態で病院へ運ばれました。主イエス・キリストのお墓と復活の聖地なのに、そう言う事件が実際に起こってしまいました。
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2007年11月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , テモテへの手紙一 , 新約聖書
神によって選ばれた民 ウイリアム・モーア宣教師
申命記7:6−8
ローマ人への手紙8:28−39
【予定論の誤解】
改革主義教会の教理の中で多分一番有名な教えは予定論だと思います。信者の聖化や神の主権や御言葉を解き明かす事のような他の改革神学の特徴よりも、予定論は良く知られているでしょう。アメリカでも我々長老教会と予定論はいつも人から関連ずけられます。人々は長老教会員と話すと、「じゃ、あなたは運命予定説を信じますね」と言われる事がよくあります。改革主義と予定論とは相伴って行くべきものですけれども、予定論はよく誤解されている教理だと思います。
予定論はいったい何でしょうか。具体的に信者にとってどんな意味を持っているのでしょうか。今、その事について一緒に考えさせて頂きたいと思います。
先ず覚えて頂きたい事は、改革主義キリスト者は予定論を信じません。それはつまり、私達の信仰の対象はその教理ではありません。予定論を信じるよりは寧ろ私達は唯一の全能の愛である神のみを信じ、頼ります。
【予定論は神の愛を表現する】
と言うのは、予定論と呼ばれる教理はキリスト者の歩みの中で経験された、神の愛を表現するものなのです。だからこそ、予定論は信じる事よりも、私達の神様の経験を一番良く説明する表現であるし、御言葉の証言も正しく表すものなのです。
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2007年11月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 申命記 , 詩篇
「聖なる祭司として」 淀川キリスト教病院牧師 田村英典
聖書:ペトロの手紙Ⅰ 2章1~10
◆生きた石、聖なる国民 1:だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。4:この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5:あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。6:聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」7:従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、8:また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。 9:しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10:あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。
【宗教改革】
毎年10月31日は宗教改革記念日ですので、今朝はそれを覚えて説教をさせていただきます。
御承知のように、ヨーロッパの宗教改革は実際には中世の終りから色々な人たちが始めていま
した。イギリスではウィクリフ、ボヘミヤではフス、フィレンツェではサヴォナローラなど、当時の教会の腐敗に多くの人が心を痛めていたのです。ただ、全体的運動には至りませんでした。
それを変えたのがルターでした。1517年10月31日、ヴィッテンベルク城の教会の扉にルターは95か条の公開質問状を張り付けました。これは特に過激な方法ではなく、当時よく使われたものです。ルターは自分の疑問について公に討論をしたかっただけで、大ごとになるとは全く考えていませんでした。彼の思想も神学もまだ十分整理されていませんでした。
しかし、印刷技術の発達やその他の理由で、事態は思わぬ大きな展開を見せ、その中で彼の考えも整理され、展開し、成熟していきました。更にルターだけでなく、ブーツァー、ツヴィングリ、カルヴァン、ノックスなど、当時のヨーロッパの色々な人たちにこの運動は広がり、大きな困難の中にも定着していきました。改革派教会は、この宗教改革に源流を持つ教会です。
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2007年10月28日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ペトロの手紙一 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書
「キリスト者と迫害」 淀川キリスト教病院牧師 田村英典
聖書:マタイによる福音書5章1~10節
10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
【キリスト者と迫害】
3節から始まるイエス・キリストの幸福の教えを学んで来ました。今日は最後の8番目、10節に進みます。本当は11、12節も関係していますが、今朝は10節だけを取り上げます。
まず前後関係から気づくことがあります。
第一に、これは3節から始まった一連の教えの最後で、いわば締めくくりです。つまり、クリスチャンを完全な形で描く上で、迫害に触れない訳にはいかないということです。厳しいですが、クリスチャンと迫害は切り離せません。
第二に、これは9節
「平和を実現する人」
についての教えの後に来ています。クリスチャンが神の御心に従い、平和を実現しようと努力した結果が、しばしばこの世から迫害だということです。悲しいですが、これが現実です。
第三に、この教えに付いている約束は3節と同じで、
「天の国はその人たちのものである」
と主は言われます。主はまず3節で人々の心を永遠の天国に向けさせ、またこの最後の教えでもう一度人々の関心を栄光の天に向けようとされます。
「迫害はある。だが忘れるな。あなたが受けようとしているものは、生れつきの人が如何にしても手に入れることのできない神の永遠の祝福、天の国である。当座は辛い。だが迫害は決して永遠ではない。あなたは永遠のものを受けようとしている。だから、忍耐して戦い抜きなさい」と励ましておられます。
以上、前後関係から簡単に見ました。もう一度10節を見ます。
「義のために迫害される人々は幸いである。」
これが既に永遠の天の御国に国籍をいただいている幸いな人の紛れもない特徴の一つなのです。
主は正直です。「私を信じたら、何もかもうまく行く。いやなことなどなくなる」とは言われません。それは大嘘つき、またサタンの言うことです。サタンはマタイ福音書4章8節でイエスを誘惑して言いました。
「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう。」
「これ」とは「世の全ての国々とその繁栄」だ。要するに、何でも思い通りになる、万事OKということです。しかし、これは嘘です。イエスは事柄を曖昧にされません。率直に事実を告げられます。「あなたに信仰の故に迫害はある。それが激しいか緩いかは、天の父の御心による。だが迫害を受けるなら、それこそ、あなたが天に国籍を持ち、永遠の神の国の住民であることの明確な証拠である」と主は断言されます。
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2007年10月21日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
イエス・キリストを動かした女の信仰 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書15章21−28
【カナンの女】
今日与えられた御言葉は非常に感動的なお話になります。と言うのは、その語られた事件を通して私達はあるお母さんの素晴らしい愛をはっきりと見る事が出来ます。そのお母さんは自分の病気の娘の回復の為に最善を尽くして、その癒しを頂くまで諦めませんでした。
今日の個所の21節と22節を見て下さい。マタイによる福音書15章21節の所を開いて下さい。
「イエスはそこをたち、テイルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」
と記されています。
【娘の病気と悪霊】
その娘の病はどう言うものかは分かりません。主イエスの時代、分からない病気、特に変わった、気味が悪い症状と行動を示した病気は「悪霊の為」と思われました。恐らく娘は激しい癲癇を起したり、あるいは、精神病の故、不合理な振舞いを現しました。とにかく、お母さんはひどく苦しめられた娘の事を大変心配して、助ける為、あらゆる手段を尽くしました。恐らく廻りの者と相談して色んなアドバイスを聞きました。そして、多分娘を悪魔払いの祈祷師へ連れて癒しを求めました。また、願いを叶えようと様々な神々に生贄を捧げました。さらに、聖地を巡礼して娘の為に必死に祈りました。しかし、どんなに励んでも最愛の娘は良くなりませんでした。却って、その症状が悪くなってしまいました。しかし、お母さんはこうなるのも運命と諦めませんでした。
愛する神と悪の諸問題 ウイリアム・モーア宣教師
ローマの信徒への手紙8章28節
【偶然の悲しい出来事】
この間、ロスアンジェルス•タイムズと言う新聞でこの悲しい記事を読みました。記事の題は、「生まれたての赤ちゃんが流れ弾で殺された」とありました。「ベビーカーに寝っていた23日の新生児がロスアンジェルスのマッカーサー公園で流れ弾に撃たれました。日曜日の午後9時30頃、母親が赤ちゃんを公園へ連れたときに撃ち合いに巻き込まれました。三人のラテン・アメリカ系男性と屋台の主人との間で射撃事件が起きて、一人の男も銃で打たれました。彼は病院へ運ばれ、安定した状態で治療を受けています。しかし、赤ちゃんルイス•ガシアが午後10時過ぎに病院で死を宣告されました。当局は事件を調べていますが、犯人達とその動機はまだ不明だそうです。
公園の周辺には小さい売店と屋台が沢山あり、その殆ど全部はラテン系の人の経営です。事件の近くの店の店長が事件についてこのように語りました。「多くの家族が買い物と公園に、ここに集まって来るのに、 残念ながら、ここは危険な所です。 近辺は暴力で悪名になってしまいました。」
皆さん、このような悲惨な出来事を聞くと、その赤ちゃんの家族の悲しみと怒りを容易に想像出来ると思います。もし、自分の家族にそのような酷い乱暴があったら、もちろん悔しくてたまりません。産まれたばかり無邪気な赤ちゃんがそのように無意味に殺されたのは悲劇の中の悲劇になります。その事件はこの世にあるもっとも酷い悪の縮図であると思います。
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2007年09月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ガラテヤの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記 , 詩篇
誘惑にNOと言えるあなた ウイリアム・モーア宣教師
聖書:コリントの信徒への手紙一10章13節
【厚かましいラクダ】
ある寒い夜、アラブ人が自分のテントに入り、寝ようとしました。彼が丁度眠りに入った時、自分のラクダが頭をテントに差し込んで、「外はあんまり寒いから足だけをテントに入れても良いですか」と願いました。ラクダが可哀そうと思ったアラブ人は少し考えてから、その願いを聞き届けました。そして、彼はもう一度毛布に包まって眠りに入りました。ラクダはたちまちにまた主人を起して、「あんまり寒いから寝られません。頭もテントに入れさせて下さい」と乞い求めました。アラブ人は臭いラクダの頭と近くに寝たくなかったのに、半分眠っていたからその願いも聞き入れて、ラクダは頭をテントの中に入れたのです。そして、しばらくしてから、ラクダはもう一度主人の目を覚めさせて、「お尻が凍ってしまうので、お尻もテントに入れたいですが、よろしいですか」と尋ねました。主人はラクダの大きなノミに食われたお尻をテントの中に許すのに抵抗を感じました。しかし、仕方がないと思って、自分のラクダの願いを叶えて上げました。
アラブ人は何とかもう一度眠り込みましたが、テントは段々狭くなった為、目が覚め起きてしまいました。そして、ラクダの足と頭とお尻だけではなく、ラクダ全体がテントにいました。アラブ人はびっくりして、「このテントはあなたと私、両方泊る余地がありません」とラクダに言ったところ、ラクダは、「余地がないと言えば、御主人の方が出たらどうでしょうか」と厚かましく返事しました。
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2007年09月16日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , マルコによる福音書 , 新約聖書
自分自身を超える事 ウイリアム・モーア宣教師
マルコによる福音書9章33−37
【兄弟喧嘩】
私は三人男兄弟の真ん中の子として大きくなりました。年があんまり離れていない私達は成長する時、色んな楽しい思い出が沢山あります。私達三人はお父さんが下さった段ボール箱で家の裏でお城を建てて、そこで一緒に一晩を過ごしました。また、毎年夏になると家族そろって休暇を山小屋へ行って、のんびりと日々を共に過ごしました。私達男兄弟三人は楽しい思い出が沢山ありますが、それ程楽しくない思い出も作ったのです。と言うのは、私達は喧嘩をよくしました。いつもつまらない事で喧嘩したのですが、ある時は結構激しくなりました。私達がアメリカの西部から東部へと車で旅行していた時の事ですが、私達三人は後ろの狭い席に座ると喧嘩になる事が多かったのです。余地があんまりないから、私達はお互いに「あなたは場所を取り過ぎる」と責めて大騒ぎになりました。特に、私達が眠くなった時、相手の領地に入ると、喧嘩になりました。又、おやつの事で私達は喧嘩しました。自分の分よりお菓子を沢山食べてしまうと、大変になりました。そして、喧嘩があんまり酷くなると、お父さんは我慢しきれなくなり、車を道路の肩に止めて、お母さんが後ろの席の真ん中に座り、そして、兄弟一人は助手席に乗りました。今、思えば本当につまらない事でよく喧嘩していたと思います。しかし、それが私達の旅の姿でした。
【誰が一番偉いか】
今日の御言葉によりますと、 旅の途中、主イエスの弟子達の間にも喧嘩がありました。主と弟子達はイスラエル北部の地方ガリラヤを通った時、歩きながら弟子達は激しい議論に入りました。車の後ろの座席に座っている子供のように口喧嘩をしたのです。そして、彼等の家カファルナウムと言う町に帰ると、主イエスは弟子達にこのように尋ねました。
「途中で何を議論していたのか。」
もちろん全ての人の心が分かった主イエスは彼等の議論の課題はもうすでに分かりましたが、弟子達を教える為にお聞きになりました。
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教会の交わり ウイリアム・モーア宣教師
エフェソの信徒への手紙2章19−22
【100人の子供】
最近新聞で次の驚くべき記事を読みました。「78人 の子供を持つ一本足のアラブ首長国連邦の市民ダアド•ムラド•ムハンマド•アブドウル•ラーマンさんは次の二人の妻を募集しています。何故なら、彼は2015年までに100人の子供を儲けたいからだそうです。60歳のアブドウルル•ラーマンさんは今まで15人のお嫁さんがありましたが、イスラム教は同時に妻4人しか許されないので、その中、13人の妻を離婚しました。「2015年に私は68歳になり、子供100人を目標にしています。それに成功したら、新しい結婚はもうしません」とアブドウルル•ラーマンさんが言いました。地元の新聞は第一面に78人の子供に囲まれた彼の写真を載せました。長男は36歳で、末っ子は産まれてわずか20日です。そして、現在、二人の妻は妊娠中です。
アブドウルル•ラーマンさんによりますと、自分の大家族は15件の家に住んでいます。退役軍人である彼は年金と国の援助で家族を支えるんだそうです。
この世には色々な家族がありますね。アブドウルル•ラーマンさんは何故そんなに大きな家族を築いたのかは分かりません。恐らく子供が大変好きなんでしょう。あるいは、子供を儲ける事によって有名になりたがったのかも知れません。しかし、それは決して楽な年金生活ではないと思います。子供の名前を覚える事さえも大変です。それぞれの妻との関係も確かに複雑です。 気の毒ながら事業自得です。
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2007年08月26日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , コロサイの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , ペトロの手紙一 , ヤコブの手紙 , 新約聖書
真の自由 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネによる福音書8章31−38
【ウオレス将軍】
「パッション」と言う映画で有名になったメル•ギブソン監督は1995年に「ブレイブハート」と言う他の映画でスコットランド人のウオレス将軍の役を務めました。その映画はウオレス将軍が無残なイギリスから自分の国スコットランドの自由を回復しようとするストーリです。ウオレス将軍は立派にイギリス軍と戦って多くの勝利を得ましたが、最後に彼は友人によって裏切られ、イギリスの王に渡されてしまいました。そして、イギリスの王はウオレス将軍を処刑するつもりでした。しかし、処刑する前にイギリスの王はウオレス将軍に恥をかかせる為、慈悲を乞わせようとしました。ウオレス将軍はあざける群衆の前に連れ出され、唾を吐かれたり、物を投げられたりしました。それから、死刑執行人は拷問をかけ始め、ウオレス将軍に言いました。「もし、慈悲を乞うなら、死刑を速く進めよう、しなかったら、もっと酷い拷問をかける」と脅しました。また、ウオレス将軍の声が聞こえるように、執行人は群衆を黙らせました。しかし、将軍は恥をかきませんでした。むしろ、残った力を全部奮(ふる)い起こして、大きい声で「自由」と叫びました。
【自由】
「自由。」その言葉は力強いです。自由の為に多くの人々は自分の命を犠牲にしました。又、自由の為に敵を殺す事も少なくありませんでした。歴史が始まった以来、自由の為に数え切れない程の戦争が起りました。又、現在も自由はいたるところで重んじられています。自分の自由を束縛されたいと思う人は珍しい事でしょう。
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2007年08月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書
わたしの父の家には ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネによる福音書14章1−3
【モリソン宣教師夫妻】
略100年前の事ですが、モリソンと言う宣教師御夫妻は長年のアフリカでの奉仕後、定年を迎えアメリカのニューヨークに帰る事になりました。二人の健康は衰え、年金もなかったので、モリソン御夫妻は色んな心配がありました。偶然の事ですが、彼等はアメリカの大統領セオドア•ルースヴェルトと一緒に同じ客船に乗りました。探険旅行帰りの大統領は一等スウィートルームに泊まりましたが、モリソン夫妻は薄暗い三等船室でした。大統領とその仲間はVIP待遇を受けていましたけれども、誰も宣教師達に留意しませんでした。
まだ航海中に、先生は奥さんにこう呟きました。「これは大変不公平ですよ。我々はアフリカで辛苦に耐えながら一生を捧げましたのに、誰一人私達の事を覚えてくれる人はいませんね。しかし、大統領はただヴァカンスから帰りだけなのに、皆は大騒ぎではありませんか。」
客船がニューヨックに着いた時、ブラスバンドが大統領を歓迎して、大勢の高位高官にある人々は出迎えに来ました。新聞も大統領の帰りを大きく取り扱いました。その反面、誰一人宣教師の帰りを気づく人はいませんでした。その二人はただカバンを持って船から降りて安いアパートを捜し回りました。それから、生活をする為に、仕事を捜そうとしたのです。
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2007年08月12日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書
コストを見積もる事 ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書14章25−33
【ある鶏と豚が】
ある鶏と豚が教会の掲示板を見て、次の日曜日の説教題を読みました。それは、「私達は貧しい者の為にどうすべきか?」と言う題でした。鶏は考えて、考えて、「分かった!私達二人はベーコンと卵の朝食を準備して、貧しい者に提供しょう。私は生んだ卵を提供して、あなたは自分のベーコンを差し出す事が出来る。」豚は鶏のアイデイアを聞いて、ちょっと困った顔をしながら言いました。「ベーコンと卵の朝食を貧しい者に食べさせるのに一つの問題があります。それは、あなたにはただ寄付になりますが、僕には完全な献身を求められる。」
今日の御言葉によりますと、
「大勢の群衆が一緒に」
主イエスについて来ました。なぜなら、イエスは驚くべき印を行いました。病を患った多くの人を奇跡的に癒されました。また、少年の小さい弁当を取り、それを拡大して5千人程の群衆を満腹させました。その上、主イエスはイスラエルの祭司達と違って、権威ある者のように神について彼等を教えられました。ですから、イエスは有名になり、何所へ行っても大勢の人が主について来ました。
【聞きたくないお話】
言うまでもないが、それは伝道に大変良い機会になりました。御自分の人気を用いて、沢山の人々に神の福音を伝える事が出来、収穫が多くなります。もし甘い言葉を上手に使ったら、多くの人は御自分の弟子になって、主の影響と名声がきっと高くなります。しかしながら、今日の御言葉によりますと、主イエスは、人々に非常に聞き難いお話をしてしまいました。26節を見ますと、この主のお話が記されています。
「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない」
と主イエスは群衆に声明しました。
【自分の十字架を背負って】
皆さん、その主のお話をどう思われますか。もし主が祝福や心の安らぎや神の愛や永遠の命などばかりを説いたら、多くの人々はもっとついて来たはずです。しかし、
「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」
とおっしゃると、人が集まるどころか、人を追い出すような言葉になります。更に、
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない」
とはとても難しいお話です。十字架はもちろん処刑する道具です。ですから、「自分の十字架を背負う」事は、献身の道になります。その難しい言葉を聞くと、私達は主イエスに、そんな極端な表現を避けた方が良いのではないでしょうか」と言いがちですね。「そのメセージは伝道にはあんまり役に立ちません」と言いたいです。つまり、もし、イエスの弟子になる条件として、家族の者と自分自身の命さえも憎むのなら、また、自分の十字架を背負う必要があるなら、いったい誰が弟子になれるでしょうか。
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霊の結ぶ実:節制 ウイリアム・モーア宣教師
コリントの信徒への手紙一9:19−27
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
【妻の犠牲と半額割引飛行】
アメリカの1920年頃、飛行機はまだ珍しい時代、あるパイロットは自分の風防のない小型飛行機で国中を巡回しながら、儲ける為に他の人を乗せていました。ある日、牧師とその奥さんが飛行場に来て、ひと乗りしてくれるように願いました。しかし、お金があんまりないから、聖職者割引にしてくれるように頼みました。すると、パイロットは、「聖職割引はないけれども、もし飛行機に乗ってる間に、お二人が黙って、口を何も聞かなかったら、半額で乗せて上げます。しかし、口を出せば、二倍ちょうだいたします」と提案しました。その二人はどうしても飛行機に乗りたかったので、すぐにその条件をのみました。それはあぶく銭と思ったパイロットは牧師と奥さんを飛行機に乗せ、早速離陸しました。そして、彼は色んな激しい曲芸飛行を実行し始めしました。ローラーコースターのように急速で空を上がってから、急降下しました。それから、飛行機を上下転倒して低く飛んで、橋の下を通りました。その激しい曲芸飛行をしたのに牧師とその奥さんは何も言わすに沈黙を守りました。パイロットは諦めて着陸に入ろうとする時、彼は言い出しました。「この飛行は私さえもぎょっとさせたのに、先生は何も言いませんでした。お二人の自制は大変驚くべきものです。」牧師はその事を聞いてこのように返事しました。「実は、飛行の中のある時点、私はもう少しで我慢出来なくて叫ぶところでした。」「それはどんな時でしたか」とパイロットに聞かれると、牧師は返事しました。「飛行機が引っくり返えて家内が陸まで落ちてしまった時は、さすがちょっとびっくりしましたよ。」
【聖霊の結ぶ実:節制】
今日は最後の聖霊の結ぶ実にやっと参りました。今まで、愛と喜びと平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和を学んで来ました。そして、最後に節制と言う徳目が与えられています。もう一度強調したいのですが、この「実」は賜物です。キリスト者なら、聖霊なる神は私達に宿り、その実を現す可能性を十分与えて下さいます。しかし、私達の内にいらっしゃる聖霊の働きを許さなければなりません。つまり、それぞれの徳目を毎日の生活に実行する意志が必要です。
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2007年07月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙二 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
霊の結ぶ実:柔和 ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書11章28−30節
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23節
【柔和なロッキー】
三週間前から家内と娘セーラと私は家の家族にロッキーと言う新しい一員を引き受けて世話をするようになりました。その新しい一員はまだ7歳なのに、とても毛深いです。更に、ロッキー君は50キロで、結構重いのですが、背はまだ70センチしかなっていません。また、鼻が大きいし、耳もでっかいです。今朝、教会に連れて来て、皆に紹介したかったのですが、その子は臭うから、多分歓迎されないと思いました。実は、ロッキー君は人間ではありません。その子は四つ足で歩くゴールデンレトリーヴァーと言う犬です。近所の家内の英国人の友達は夏休みの帰国為、ロッキーを家に預けました。
ロッキー君は何よりも散歩が大好きです。ですから、降っても照っても、必ず朝と晩、近所を散歩しなければなりません。そして、歩きながらロッキーは常に道にあるものを嗅ぎ出します。また、餌を捜します。ロッキーは道にある物、何でもかんでも食べてしまうので、散歩をさせる私達は危ない物を食わないように、気をつけなければなりません。
ロッキー君はとても大人しい犬で、吠える事は滅多にないです。不思議だと思いますが、散歩の時、他の犬に巡り合っても、ロッキーはあんまり反応しません。ある日、そう言うロッキーを連れて歩いているとある小さい犬はロッキーを見る瞬間、震えて動けませんでした。また、ロッキーは、吠えられても、お返しに吠えません。他の犬が一生懸命に吠えながらロッキーの方へ走っても、ロッキーは、その犬をただちらっと見て、平然とゆっくり散歩を続きます。脅かされても、ロッキーは相手を脅かしません。他の犬より大きく力強いので、ロッキーはどんな相手であっても勝つ事が出来るはずですが、戦う興味が全くないようです。それは訓練の為か、生まれつきの性格の為なのかが分かりませんけれども、ロッキーは素晴らしい徳目を示します。ロッキーはきっと私達人間に教える事があると思います。
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2007年07月22日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 民数記
『いつも喜んでいなさい』 植田昌彦伊丹教会長老
聖書:テサロニケ信徒への手紙[I] 5章16~24節
【何を求めて教会に】
人は何を求めて教会に来るのでしょうか。キリスト信徒と呼ばれる私たち教会員は何を求めて教会に来また礼拝に出席するのでしょうか。また求道者の方々も何を求めて教会に来られるのでしょうか。人それぞれ願いや思いは違うでしょう。色々な求めがあろうかと思います。心の平安を求めて、最近の言葉で言えば癒しを求めて、幸せを求めて、何か心の清らかさを求めて、宗教に興味を持って、心のよりどころ確かな人生の指針を求めて、等々色々あると思います。またその求めを持つようになった「きっかけ」も人それぞれ異なったものだと思われます。
【PHP:心の安らぎ】
ある本に書いてあったのですが、今もっとも日本で読まれている最高の発行部数を誇っている雑誌をご存知でしょうか。本当に日本一かどうかは私自身定かではないのですが。皆さんも読んでおられるかも知れませんが、「PHP」という雑誌というか冊子がそうだと書いてありました。これは松下幸之助が創出した人間の生き方を考える冊子です。忙しい日々の生活の中でほっとした心の安らぎを得たい、共感を覚えるものを求めて、自分の日々の生きる指針を、また生活上ぶつかる色々な心の葛藤へのヒントを、考える冊子として読まれているように思います。このPHPの冊子に求めることと同じものを教会に求めて来られる方もいると思います。それらは、教会に求めるものあるいは信仰に求めるものとしても大切なものであろうと思います。
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2007年07月15日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
霊の結ぶ実:誠実 ウイリアム・モーア宣教師
詩編33
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
【アマンドと父の約束】
1988年に旧ソ連の共和国アルメニアでサミュエルとダニエルと言う両親は自分の幼い息子アマンドを小学校へ送り出しました。いつものように、お父さんサミュエルは息子を見て言いました。「学校でよく勉強してね。そして、万が一、あなたに何かが起きたら、どんな事があってもパパはあなたをすぐ助けに来る事を忘れないで。」そして、サミュエルは息子を強く抱きしめてから学校へ行かせました。
数時間後、力強い地震がその地域を揺らしました。大混乱の中でサミュエルとダニエルは息子の事を尋ねようとしましたが、情報は何もなかったのです。ただ、ラジオのニュースは、「何千人の犠牲者が出た」と伝えるだけです。その事を聞くと、サミュエルは忽ち学校へ走り出しましたが、現場へ着くと悪夢のような光景でした。アマンドの小学校は瓦礫の山と化してしまいました。そして、多くの生徒の家族は泣き悲しんでその酷い場を見詰めていました。
しかし、サミュエルはアマンドの教室があった所を捜し、自分の素手で瓦礫を取り始めました。コンクリートの塊と壊れた木の柱と割れた瓦も必死に取り除きました。
ある父親は、「何をやってますか」と彼に聞きました。そして、「息子を掘り出している」と返事をすると、「止めなさい、瓦礫は不安定なので、もっと悪くする」と言いました。しかし、サミュエルは続けて瓦礫を取り除こうとしました。彼を見ている他の両親たちは一人ずつ帰りましたが、サミュエルはその作業を止めませんでした。やっと、消防士が来た時、サミュエルは、「助けて下さい、私の息子がこの中にいるんです」と願いましたが、消防士も彼を止めさせようとして、やがて帰りました。
サミュエルは休まず一人でその晩ずっと努めました。そして、朝になると生徒の家族は現場に来て子供の写真とお花を瓦礫の前に置いて帰りました。しかしながら、サミュエルは瓦礫を掘るのを止めませんでした。大きな柱を動かそうとした瞬間、「助けて、助けて」と言う子供の小さい叫び声を聞きました。そして、少し後で、「パパ?、パパ?」と言う聞き慣れた声も耳に入りました。そのアマンドの声を聞くとサミュエルは鬼のように瓦礫を掘りました。やっと、 瓦礫の中の空洞に息子の姿を見ました。ほっとひと息つくと、「速く上って来い」とサミュエルは叫びました。しかし、アマンドは、「パパはきっと私を救うから、友達を先に出させて、お願い」と言ったのです。それから、生徒達一人一人はサミェルが掘った穴から出て来ました。最後に小さいアマンドがお父さんの腕に入ってこう言いました。「友達にパパがどんな事があっても僕を助けに来ると言っていたので、みな心配しなかった。」一人のお父さんが誠実であったので、その日14人の命が助けられました。
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2007年07月08日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
霊の結ぶ実:善意 ウイリアム・モーア宣教師
マルコによる福音書10:17−22
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
【あなたは善人ですか】
皆さん、少し想像してみて下さい。もし電車を乗っている時、誰かがあなたの側に座り、突然、「あなたは善い人ですか」と尋ねられると、どう答えられますか。赤の他人にそのように聞かれると、多分びっくりするでしょう。又、恐らく、その人は正気かと疑うかも知れません。誰がそのような個人的な質問を知らない人に聞くでしょうか。しかし、もしその質問、「あなたは善い人ですか」に答えようとしたら、どう答えられますか。実は、人間誰でも自分が善い人だと思いたいのです。「私は善くない人、悪い人」と言う者はめったにありません。
アメリカの教会を牧会した間、私は長年刑務所の訪問を毎月しました。教会の会員の息子が殺人で投獄され、私は彼に会いに行きました。行く度に彼は自分の無罪を主張して、不正な判決を嘆きました。彼が犯した罪の証拠が沢山あったのに、最後まで「他人がやった」と言い張りました。結局、そのような犯罪を認めれば、自分が善い人ではない事を認める事になりますので、なかなか自白出来なかったと思います。
私達人間は「自分が善いのだ」と思いたいのです。また、回りの人々に善い人として思われたいでしょう。それは自己像の大事な一部ですから、「あなたは善い人ですか」と聞かれると、それに対して答えるとしたら、殆ど誰でも、「私は善い人だと思う」と答える事でしょう。
【聖霊の結ぶ実「善意」】
今日、聖霊なる神の結ぶ実の学びを再び始めたいと思います。今まで愛と喜びと平和と寛容と親切を学んで来ました。覚えていると思いますが、聖霊の結ぶ実は神の賜物です。つまり、キリスト者なら、神の霊は私達に宿って下さり、霊の結ぶ実、愛と喜びと平和など、そのものは自分のものになりました。しかし、その徳目を現す為、私達の内に聖霊の働きを許さなければなりません。それぞれの徳目を実行する意志が必要です。すなわち、神の助けでその賜物を生かす訳です。今朝は「善意」と言う徳目について一緒に考えたいです。神はキリスト者にその実をもう既に授けたのです。ですから、私達はその聖霊の結ぶ実「善意」を豊かに現すべきです。
エフェソの信徒への手紙2章10節にこの大事な聖句が記されています。
「私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」
書かれた通りに、私達は善い業、つまり善意の業を行う為に神によって特別に造られました。迷わず言える事ですが、それは主から与えられた私達の目的と使命です。その事を通して造り主と救い主なる愛する神の栄光を現します。ですから、私達はこの徳目「善意」を特に注目すべきです。
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2007年07月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上
洗礼の恵み ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書28章16−20節
(川合兄弟姉妹受洗をまえに)
【大きい鍋】
ある小学校の先生はクラスでshow&tell、すなわち「見せて語る」為、生徒達に、それぞれの家族に宗教の代表的物を学校へ持って来るようにと言いました。そして、翌日ある男の子はダビデの星を持って来て、ユダヤ教徒にとってその意味と重要性を説明しました。今度はイスラム教の生徒は新月旗を持って、そのシンボルについて語りました。また、ある仏教の子供は教室の前に来て、小さい仏像を皆に見せて、その意味を説明しようとしました。そして最後に、ある女の子は台所の大きい鍋を持って来て、皆に見せたのです。生徒達も先生もその鍋を見て驚きました。
それはどう言う宗教の代表的物がさっぱり分かりませんでした。女の子はこう説明しました。「我々キリスト者は洗礼を大事にするから、教会にある洗礼盤を持って来ようとしました。しかし、それはあんまり貴重な物だと言われ、持って来られなかったから次善の物、この鍋を皆に見せる為、持って来ました」と言いました。
ここ西谷集会で2003年クリスマス礼拝時に森田兄弟姉妹の洗礼式を行い、皆がクリスマスの大きなプレゼントだと大喜びしたのをよく覚えています。それからもはや三年半になりました。そして、ここ西谷集会にまた神からの大きな喜びが与えられました。今日は川合御夫妻が洗礼をこの礼拝中に受けます。川合御夫妻が今日の日の為に祈りを持って一日一日を待っていらっしゃった事を私はよく知っています。私達も皆この日の為祈って、嬉しく待ち望んで待って参りました。
先程のストーリの女の子が言われた通りです。我々キリスト者は洗礼を大事にします。今日、川合兄弟姉妹は洗礼を受ける際に、私達既に洗礼を受けた者も、まだ受けてない者もその礼典の恵みと意味を新たに学びたいと思います。それによって、私達皆は今日の洗礼式の恵みをよりもっと経験出来ると思っております。
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2007年06月24日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
『悔い改めにふさわしい実を結べ』吉田 謙千里摂理教会牧師
*聖書 マタイによる福音書3章1節~12節
【そのころ、洗礼者ヨハネが現れて】
今、朗読いたしました記事は、
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて」
という言葉で始まっています。では、ここで言われている「そのころ」とは、いったい、いつ頃のことなのでしょうか。4つの福音書の全てが、今日の洗礼者ヨハネの登場を告げていますけれども、その中でも歴史家とも言われる福音書記者ルカは、洗礼者ヨハネの登場をこのように述べています。
「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。」
( ルカによる福音書3章1~4節)。
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霊の結ぶ実:親切 ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書6章32−36
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善い事をしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人も同じ事をしている。返して貰う事を当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返して貰おうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善い事をし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、沢山の報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
【小さな親切】
ある青年が自分の高校の時の体験談を語りました。「私は高校一年生の時、学校から家へ帰る途中、同級生ヘンリーを見かけました。週末の初め、金曜日なのに、彼は山程の教科書を手で運んで歩いていましたので、ヘンリーは余程ガリ勉屋だと思いました。私は週末にはいつもパーテイーとスポーツで楽しい予定がありましたから、勉強する余裕がありませんでした。突然、不良連中がヘンリーの方へ走って行って、何も言わずに彼が持っている教科書を取って地面に投げ捨てました。そして、彼等はヘンリーを強く蹴って倒しました。彼の眼鏡は数メートルまで飛んで行って芝生に落ちました。連中が去ってからヘンリーが顔を上げた時、私は彼の目に恐ろしい悲しみを見ました。
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霊の結ぶ実:寛容 ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書18章21−35(本文参照)
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23
霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
【些細な事を許せない!】
読売新聞によりますと、最近、行儀が悪い人に対して暴力事件が増えて来ているそうです。関東の方ですけれども、ある28歳の高校先生は電車に乗って、足を組んで座っている青年の足に触れられました。先生はその事で怒り出し、青年を大声で叱って、頭を殴りました。
又、他の事件で57歳の警察官が逮捕されました。それは、彼は山の手線に乗っている若い女性の髪の毛を強く引っ張ったからです。尋問されると、警察官はこのように自分の行為を説明しました。「彼女は携帯電話でうるさく長話をして、態度が悪かったんです。」
又、28歳の女性の人も逮捕されました。彼女は空気銃で人の車を撃ちました。信号待ちの時、その車が彼女の車の前へ割り込んだからです。
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霊の結ぶ実:平和 ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書14章15−27
◆聖霊を与える約束 15:「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16:わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあ なたがたと一緒にいるようにしてくださる。17:この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18:わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19:しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20:かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21:わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 22:イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 23:イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24:わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25:わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26:しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27:わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23
「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。
【シカゴ大火とスパーフォドさん】
アメリカのシカゴ大火は1871年に起こりました。その火事はシカゴの中心商業地区を全焼して、死者は300人、住む家を無くした者は十万人でした。シカゴ大火の一人の英雄は弁護士で実業家であるホレイショー•スパーフォドさんでした。彼は敬虔なキリスト者で讃美歌の歌詞も書く人でした。実は、スパーフォドさんは大火で多くの物件を失いました。その上、大火の年に幼い独り息子を病気で失くしました。それにも関わらず、彼は大火の犠牲者の為に色んな救援活動に参加しました。財産が結構無くしたのに彼は残った物を惜しまずに苦しんでいる住民の回復の為、寄付したのです。特にスパーフォドさんは家と肉親を亡くした人を慰めて、助けて下さいました。
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霊の結ぶ実:喜び ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネによる福音書15章1−12
◆イエスはまことのぶどうの木
1:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3:わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4:わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながってい る。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6:わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7:あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8:あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 9:父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10:わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることに なる。11:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」
【イエス・キリストに似るために】
今日、先々週から始まった「霊の結ぶ実」の学びを続けたいと思います。キリスト者になると、神の霊は私達に宿って下さいます。そして、霊の導きに従って歩むと言うのは、すなわち私達の内に霊の働きを許す事です。そして、私達キリスト者は「霊の結ぶ実」を現します。そのものは先程読まして頂いたガラテヤの信徒への手紙5章22−23に記されています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と書いてあります。毎日の生活にその実を現すと、私達はイエス・キリストに似て行って、キリスト者として相応しく生きられます。この霊の結ぶ実の学びを通して私達の内にいらっしゃる聖霊の全ての働きを許し、その霊の実をよりもっと豊かに結ぶ事が出来ます。
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2007年05月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
わたしの母とはだれか ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書12章46−50
◆イエスの母、兄弟 46:イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47:そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48:しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49:そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 50:だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
【今日は母の日】
御存じのように、今日は母の日です。母の日に私達はお母さんを覚え、特別に敬う日なのです。私達それぞれは、誰でもどんな人でも、母がいますので、皆この日に参加する事が出来ます。今日は世界中で、数え切れない人がこの日を覚え、祝っています。北、中、南米の殆ど全ての国は5月の第二の主の日に母の日を祝います。そして、ヨーロッパとアフリカ諸国も今日、母の日を祝っています。アジアだったら、フィリビン、シンガポール、マレーシア、韓国、もちろん日本などにも母の日は大切に守られています。実は、最近中国さえも多くの人々は今日、自分のお母さんを特別に覚えています。
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2007年05月13日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 列王記上 , 新約聖書 , 旧約聖書
霊の結ぶ実:愛 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章16−25
【霊の実と肉の業】 16:わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17:肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 18:しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 19:肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20:偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21:ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 22:これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23:柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 24:キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25:わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26:うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
【キリスト者とは?】
皆さん、「キリスト者であると言うのは、どんな事ですか」と聞かれると、どう答えられますか。その事について考えた事がありますか。多分色んな正しい答え方があるのですが、やはり一番大事なのは、キリスト者はイエス・キリストを唯一の救い主として信じ、頼ります。そして、更にキリスト者は毎日の生活にイエス・キリストに従って生きようとする者なのです。つまり、私達は主イエスを模範として生きたい。又、主イエスに似て行く熱望を持っています。
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2007年05月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , コロサイの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書
新しいことを行ってくださる神 ウイリアム・モーア宣教師
イザヤ書43章
18:初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 19:見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。 20:野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。 21:わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。 22:しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。 23:あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。 24:あなたは香水萱をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。 25:わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。
【難船の男】
ある男が難船の故に独りで大海の中の小さい無人島に流れ着きました。彼は半死半生の状態でしたが、やっと雨と太陽から身を守る為に流木で小屋を建てる事が出来ました。彼は救われるように毎日一生懸命に神に祈りましたけれども、何週間経っても助けられませんでした。ある日、彼は食べ物を漁り歩いてから、小屋に帰ると、酷い光景を見ました。稲妻が小屋を打って、もうもうたる煙が立っていました。小屋は全焼してしまったので、男の人は怒りと悲痛で神に叫びました。「神よ、どうしてこんな酷い目に遭わせたのですか。もう我慢出来ません。私の命を取って下さい。」
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2007年04月29日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙二 , 列王記下 , 新約聖書 , 旧約聖書
神の世の管理者なる私たち ウイリアム・モーア宣教師
創世記1章26−31節26:
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27:神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28:神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 29:神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30:地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31:神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
【環境破壊の原因】
最近、 マスメデイアのお陰で私達は世界の環境問題について益々承知されるようになりました。殆ど毎日、ニュースで環境についての新しい情報を見る事が出来ます。そして、言うまでもなく、その情報はあんまり喜ばしくはありません。地球の温暖化が進んで来て、色んな害を起してしまいます。絶滅した動物と植物の種類がだんだん増えて、ある被造物は完全に消えてしまいました。平均して毎日、三つの種類がこの世から去ってしまうんだそうです。大都市で大気汚染は酷くなり住民の健康を害します。ゴミは海に入り、その大量が南太平洋の島の砂浜に流れ着きます。更に、多くの国に淡水の量が足りなくて、農業生産が脅(おびや)かされるどころか、きれいな飲む水も乏しいです。また他に環境問題が沢山ありますが、殆ど全は共通点があります。それは、その問題は全て人間の行動で起こりました。私達の行動と生き方の故に大気と海が汚れて来て、また多くの動物が絶滅しました。つまり、私達人間の為で今、地球はその深刻な問題に直面しています。証拠を客観的に見ると、明白に私達人間には責任があります。
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私たちは神の作品 ウイリアム・モーア宣教師
エペソの信徒への手紙2章8−10
8:事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9:行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10:なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
【牛乳差しを壊した坊や】
1800年代の末ごろ、ヘンリー•ムーアハウスと言う英国人の伝道者はアメリカを巡回して伝道大会を行いました。ある町に着くと、ムーアハウス先生は地域の現状を見る為、貧しい所を尋ねました。そして、そこらを歩いていると、お店から出て来る小さい坊やを見つけました。小さいのに坊やは両手で大きい牛乳差しを持って、家へ帰ろうとしました。突然、彼は石に躓いて転び、陶器の牛乳差しが手からすべり落ちて、めちゃくちゃに壊れてしまいました。もちろん、牛乳も溢(こぼ)れ落ちました。
ムーアハウス先生は坊やの方へ走り、彼を立たせて、怪我がなかった事を確かめました。怪我がなかったけれども坊やはあまりの恐れて大声で泣き出しました。「ママが私を叩く、ママが私を叩く」と坊やが泣きながら叫び続けました。坊やを慰める事が出来なかったムーアハウス先生は彼を自分の手に抱いて、近くにあるお店に入り、新しい牛乳差しを買ってあげました。そして、また牛乳の店へ戻り、容器を牛乳で一杯にしてから、一緒に坊やの家へ向かいました。家の前に着くと、ムーアハウス先生は坊やを下ろして、新しい容器と牛乳を渡し、このように聞きました。「ママが今でも僕を叩くの?」そして、その涙の跡だらけの顔から大きい笑いが現れ、坊やが返事しました。「新しい牛乳差しが壊した物よりずっと良いから、大丈夫だ」と言って、心強く家に入りました。
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2007年04月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書
復活の約束 ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書28章1−10
【守られない選挙公約】
皆さんも十分お気付きと思いますが、私達は選挙シーズンに入りました。何所へ行っても宣伝車が走り回り、政治家、あるいは政治家になりたい者は車のスピーカで国民にアピールをしています。また、駅前でも、昨日のような雨でも、政治家は選挙運動に励んでいます。他の時は分かりませんが、選挙のシーズンの政治家は大変だと思います。一票でも取る為に必死の努力をしているようです。朝早くから夜遅くまであちこちへ行って住民に顔を売っています。彼らはスピーカで色んな事を叫びますが、そのお話の中で約束事が多いようです。たとえば、「私が国家議員になったら、日本は美しい国になる。」「明るい政治の為に私を選出して下さい。」「我が党は安定した生活を保証します。」何所の国でも同じ事だと思いますが、選挙に勝つ為に、政治家は国民に約束する事が多いのです。しかし、多くの場合、約束を果たすのは全く別の事になります。政治家は約束する時、恐らく皆は心からその約束を守りたいですが、色々な理由で誓った事を実現出来ません。政治的力が足りないか、約束した事は実際的でなかったりします。あるいは、事情があって止むなく約束した事を実現出来ない。また、政治家は選挙に勝つと、選挙の時、約束した事をすっかり忘れる場合もあるかも知れません。とにかく、色々な理由で政治家の言う事を割引して聞いた方が良いと思います。
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2007年04月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書
イエス・キリストの犠牲 ウイリアム・モーア宣教師
マルコによる福音書15章33−39
【主イエスの受難】
私達の主イエス・キリストの受難記念日はもうすぐです。実は、今週の金曜日になります。主イエスの受難の全ての犠牲はあなたの為、私の為でしたので、この際、主の犠牲を改めて思案すべきだと思います。来週、いよいよイエス・キリストの復活をお祝いします。しかし、この受難がなければ、復活もなかった事でしょう。そして、イエス・キリストの十字架の死の意味が分からなかったら、その復活の意味と喜びも分かるはずがありません。ですから、今朝、主イエスの犠牲について一緒に思案したいと思います。
イエス・キリストの犠牲を考えるとき、すぐに残酷な十字架を思い出します。十字架に掛けられた間、イエスが言い尽くせない程、肉体的苦しみを経験されました。ローマ帝国の処刑の方法として、十字架の死は一番酷い拷問でした。普通の犯罪者は他のもっと速い方法で死刑に処されたのですが、国に対して謀反(むほん)のような重い罪を犯した場合、十字架刑を使いました。つまり、これ以上の厳しい刑罰がありませんでした。一日の拷問に限られなくて、死ぬまで大抵二日、三日程の時間がかかりました。あまり残酷なので、私達は主イエスの十字架の死の肉体的苦しみを十分想像出来ないと思います。
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2007年04月01日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書
聖書に於ける最も大事な質問 ウイリアム・モーア宣教師
使徒言行録16章25−34
【聖書に於ける最も大事な質問:救われるためにはどうすべきか】
聖書には色々な大切な質問が問われていると思います。たとえば、創世記で神に逆らったアダムとエバが善悪の知識の木から実を取って食べると、彼らはその罪の故に神の顔を避けて自分たちの身を隠しました。そうすると、主なる神はアダムを探し出す為に、このような質問を問いました。「どこにいるのか。」また、新約聖書で主イエス・キリストは御自分の弟子達にこの重要な質問をしました。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」そう聞かれると、シモン•ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、始めてのキリスト信仰の告白をしました。(マタイ16:15−16)。この二つの質問は大事で意味深い問ですけれども、恐らく今日の御言葉に問われた質問はもっと大事であると思います。そして、その答えは私達には、いや、私達だけではなく、この世界の全ての人々に最も重要であります。その質問は今日の朗読の30節にあります。つまり、
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
それは使徒パウロとシラスに問われたフィリピと言う町の監獄の看守の質問でした。
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私達の弁護者 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ヨハネの手紙一2章1−6節
【高価なシガーに保険を掛けたずる賢い弁護士】
アメリカで実際に起こった事件です。ある弁護士が一箱の非常に高価なシガー、すなわち葉巻を購入しました。ちょっと信じがたいですが、その24本の葉巻を手に入れる為に1万五千ドル(約170万円)程の代金を支払いました。あんまり高かったので弁護士はそのシガーに火災保険をかけました。そして、彼は一ヶ月以内でその24本の高価なシガーを全部吸ってしまいました。そうすると、彼は保険会社に対して要求を起こしました。葉巻が一連の小さい火事で焼けてしまったと弁護士は主張しました。保険会社は弁護士が通常のようにシガーを消費したともちろん支払いを拒否したのです。しかし、弁護士はその判断を受け入れなかった為、保険会社に対して訴訟を起こしました。そして、驚くことに彼は勝ちました。裁判管は原告の主張が軽薄であると保険会社に同意しました。しかし、保険の契約書にはどのような火事は当たらないと言う事が詳しく載ってないので、残念ながら、保険会社は原告の要求を払う義務があると裁判官が述べました。その判決を受けると保険会社は弁護士にシガーの価値、1万5千ドルをちゃんと払いました。そして、保険のお陰で無料でその優れたシガーを楽しめたと弁護士は大笑いしました。
しかし、弁護士がその代金を受け取ると、保険会社は弁護士を裁判での証言に基づいて、すぐに放火罪で彼を逮捕させました。そして、弁護士は保険をかけられた資産を故意に燃やした罪で有罪判決を受けてしまいました。放火罪で彼は刑務所の24ヶ月と2万4千ドルの罰金を宣告されました。驚きますが、この事件は本当にあったのです。
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2007年03月18日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書
恵みの賜物 ウイリアム・モーア宣教師
ローマの信徒への手紙5章12−21
【何を問題とすべきか?】
皆さん、毎日、新聞を開いてニュースを読むと、その内容のおもなテーマは何でしょうか。ニュースの内容は色々ありますが、一つのテーマは他のテーマよりも、遥かに大きいです。また、私達はこの世を見ると、その同じテーマがいつも出て来ます。さらに、自分自身の人生と生活を振り返って見ると、不思議にそのテーマも明確になります。その大きなテーマはやはり「問題」です。新聞に載ってる問題はテロや、戦争や、温暖化や、犯罪や、核兵器の拡散などのようなものです。そのようなものがなかったら新聞は大変薄くなります。また、自分の人生を見ても、どの問題も大きなテーマになると思います。経済的問題、子供の問題、夫婦の問題、心の問題、仕事関係問題、健康の問題などです。次々とそのようなものに襲われると、人生はおもに問題の扱いで形成されているかのように思いがちです。
【何が一番大きな問題か?】
皆さん、私達の問題の中で何が一番大きいでしょうか。そのように聞かれると、「それは人によって違います」と答えるかも知れません。人々は様々な背景があって性格も違いますので、当然一番大きい問題が共通しません。また、ある時は一番大きい問題が解決されると、そのものの代わりに他の問題が一番のもんだいとなります。
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2007年03月11日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
キリスト者の為のチェックリスト:その3 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ローマの信徒への手紙12章14−21節
【キリスト者に相応しい行動とは】
今月の説教で、私達はローマの信徒への手紙12章9−21を一緒に見て、この御言葉からキリスト者の為のチェックリストを発見しました。つまり、この個所には使徒パウロが私達の為に、キリスト者として為すべき事を教えて下さいます。イエス・キリストによって救われた罪人である私達は、その大きな主の哀れみと愛に答えて、毎日の生活に相応しい行動を現すべきです。そのキリスト者に相応しい行動が具体的にこの御言葉に載っています。一回目の説教で次のチェックリストの項目を学びました。
「人を心から愛する事、悪を憎む事、善から離れず事と、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う事」
です。そして、先週はこの項目を学びました。
「怠らず励み、霊に燃えて、主に使える事、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る事と、兄弟姉妹達の貧しさを自分のものとして彼らを助ける事に励む、旅人をもてなすよう努める事」
です。今日は最後に、六つの項目を一緒に学びたいと思います。今までの項目はおもにキリスト教会の中の行動を扱いました。つまり、信者の互いの振る舞いと信仰生活の事であります。しかし今日のチェックリストは大体において、教会の外の者に対する私達の行動です。すなわち、キリスト者として未信者の正しい扱いを教えて下さいます。
【あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい】
さて、14節を見て下さい。
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」
原文を調べるとここでの「迫害」と言う事は信仰の故に迫害された事に限られていません。ここでの迫害は人から受けた全ての害が含まれます。例えば、身体的害や、精神的害や、経済的害などです。特に、繰り返された被害の事であります。キリスト者はそのような害を受けると、どのように反応すべきでしょうか。迷わずに こう教えられています。
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」
文字通りに私達はその者を呪うどころか、祈りを持って、その者が祝福を受けるように神に祈るべきです。もちろん私達は迫害する人の上に神の祝福を祈りながら、復讐を企てはいけません。実は、この御言葉の意味は文字通りの意味より広いと思います。つまり、ただ迫害する者を呪わず、自分の祈りにその者の上に神の祝福を願うだけではなく、積極的にその人の為に善い行動をすると言う意味もあります。ただ悪に悪を返さない事だけでは不十分です。迫害する人に善い行いを通して自分の手を伸ばす必要があります。
2007年02月25日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
キリスト者の為のチェックリスト:その2 ウイリアム・モーア宣教師
ローマの信徒への手紙12:9−13
【天国に入るには】
ある人が亡くなって天国の門に着きました。そうすると、主イエスの弟子ペトロは彼を迎えに来てこう言いました。「天国に入るには一千点が必要です。あなたは何点をお持ちでしょうか。」そして、その人は、「何点を持っているかと聞かれると、困りますよ。溜まった点数の合計はさっぱり知りません。」「それでは、あなたの生涯を調べて見ましょう」とペテロが返事しました。「あなたが実行した全ての善い行いを教えて下さい。私が点数を計算します。」そうすると、その人は一生懸命に自分が行なった善い行動を思い出し、全てをペテロに語り始めました。小さい親切から大きい善行まで一つ一つを数え上げました。彼がやっと終わった時、ペテロはその点数を計算して、全部で百点しかないと知らせました。天国に入る為に一千点が必要なのに、ただの百点しか持っていないその人は大変がっかりしてしまいました。彼は、「やっぱりとても無理ですね。一生頑張ったのに、百点しか溜まらなかった」とペトロに言いました。「神の恵みでなければ決してこの所には入れないですね」と彼は呟きました。その事を彼の口から聞いたペテロは大変喜んで、こう言いました。「実は、神の恵みは九百点の価値がある。どうぞ、入って下さい。」
【神の恵みのみ】
我々キリスト者は神の恵みのみで救われ、神の恵みのみに頼ります。罪人である私達はいくら頑張っても私達の救いを勝ち得る事が出来ません。イエス・キリストを信じる事によって神の賜物、御自分の救いを自由に受けられます。使徒パウロが書いた通りに、
「私達は信仰によって義とされたのだから、私達の主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」
(ローマの信徒への手紙5:1−2)
2007年02月18日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
「平和を実現する人々は幸いである」田村英典
聖書:マタイによる福音書5章9節
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
【平和を実現する】
今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。
まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。
勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。
聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。
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2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
キリスト者の為のチェックリスト:その1ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ローマの信徒への手紙12章
9:愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 10:兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
【石鹸で十分】
皆さんの事はよく分かりませんが、私は年を取るに伴って、記憶力が少しずつ落ちて来ました。以前は良く覚えていたものが、今はよく忘れます。多分それは誰でも経験する老化の現れだと思いますが、時々忘れっぽい事で困ります。この間、会議の為に出かけました。二泊三日の旅なので、色んな物がいりました。鞄に詰める時、忘れ物がないように一生懸命に気をつけましたので、今回はきっと大丈夫だと思いました。しかし、翌日、宿でシャワーを浴びる途中、シャンプーを忘れた事に気付きました。どうしょうと一瞬思いましたが、幸いに宿の石鹸で十分間に合って、髪も変になりませんでした。実は、節約する為にこれからは石鹸で髪を洗っても良いと思いました。
これは小さい例ですが、もしいつか私は説教の原稿をうっかり家に忘れ、西谷に来るんだったら、私にも皆さんにも大変冒険になると思います。神の恵みは私には十分であると信じながらでも、出来るだけそのように神の恵みを試したくないのです。
【チェックリストの必要】
とにかく、私は忘れ事の対策としてチェックリストを書くようになりました。つまり、しなければならない事や忘れては行けない事などを毎日手帳に書き記して、よく参考します。そうしないと、大事な事を忘れる恐れがあります。
2007年02月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
急いで降りて来なさい ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書19章1−10
【税務官】
あるスポーツクラブのオーナーが自分の力を人々に見せつける為、自分よりも強い人には十万円の賞金を出すと言い出しました。人の力を試す方法で、彼はレモン一個を取って片手で一生懸命に搾り出しました。そして、そのレモンを挑戦者に渡しました。もし挑戦者がそのレモンからもう一滴の汁だけでも搾り出す事が出来たら、賞金が貰えます。力強い挑戦者が沢山集まりましたけれども皆は失敗してしまいました。いくら頑張ってもレモンからもう一滴の汁を搾る事が出来ませんでした。ある日、骨と皮ばかりの弱虫に見える男がスポーツクラブに初めて現れ、大胆にもオーナーに挑戦しました。皆が大声で彼を笑いましたが、オーナーはいつものようにレモン一個を取り完全に搾り出してから挑戦者に渡しました。そして、相手がそのレモンを片手に取って搾り始めました。すると、一滴だけではなく、二滴、三滴と、レモンから落ちて来ました。その珍しい光景を見た人々全ては彼に声援を送りました。負けたオーナーは大変驚きましたが、約束通りに賞金をちゃんと出しました。そして、オーナーは挑戦者の実力の説明として、その人の職業を尋ねました。そうすると、「僕は税務署で働いています」と返事が来ました。
【ザアカイ】
今日の聖書朗読は税務署で働いていたザアカイと言う人を紹介します。彼は住民から税金を搾るので悪名高い人でした。その当時、徴税人は国が決めた額以上に税金を無理やり取り、その差額(さがく)を自分のポケットに入れていましたので、大変嫌われた人でした。
さらに、ザアカイは徴税人の頭で部下からも何割かを要求して、大金持ちになりました。つまり、ザアカイは人を犠牲にして、豊かになったのです。その上、彼はユダヤ人でありながらでも、外国のローマ政権の為、ユダヤ人から徴税しました。その結果、彼は村八分になり、非国民のように扱われました。「罪人」、「悪党」と呼ばれ、ザアカイは金持ちになっても、とても寂しい人でした。
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満ち足りた生活の秘訣 ウイリアム・モーア宣教師
ヘブライ人への手紙13:1−8
【突然の遺産相続】
ある日、二人の友人が久しぶりに道端でばったり出会いました。一人はとても悲しそうな顔をして、目に涙がにじんでいました。その様子を見ると友人が驚き、「一体どうかしましたか」と尋ねる、彼はこのように説明しました。「三週間前に伯父が亡くなって遺言で500万円を頂いた」と言いました。「それは嬉しい事じゃないか。どうして悲しいですか」と友人が聞きました。「実は、二週間前にあまりよく知らなかったいとこも死んで私に一千万円を残してくれたのよ」と悲しい友人は述べました。「あなたは運が本当に良いですね」と友人は返事すると相手は言いました。「どうして私の気持ちを理解してくれないの。先週大おばも急に息を引き取って、三千万円を譲ってくれた」と言いました。そうすると、納得出来なかった友人はこう聞きました。「こんなに恵まれているあなたは涙を流す必要がないのに、どうして悲しいですか。言って下さい。」「あなたはまだ私の気持ちが分からないの?。実は、今週は、誰一人死んでないので、一円も今週貰ってないから悔しいのよ」と彼は言いました。
【満ち足りる事とは】
今日、12月31日、私達は正に新しい年、2007年の玄関に立っています。後13時間ぐらいで2006年は完全に過ぎ去り、主イエス・キリストの2007年を迎える事が出来ます。この際、新しい年に入る私達は満ち足りる事について一緒に考えたいと思います。つまり、新しい年にはどういうふうに満ち足りた人生を歩む事が出来るのでしょうか。
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2006年12月31日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
子供のようにクリスマスを ウイリアム・モーア宣教師
ルカによる福音書2章1−20
【最初のクリスマス】
皆さん、メリークリスマス!私達は大きな喜びを持って、この世の唯一の希望、私達の救い主、イエス・キリストの御降誕をお祝い致します。
2006年前にマリアと言う乙女が全能の神の独り子をベツレヘムと言う町にある馬小屋でお産みになりました。宿屋には彼らの泊る場所がなかった為、マリアはその御子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、と聖書に記されています。万物の造り主で永遠の神は自ら進んで非常に低くなり、この世に下って、人間として私達と共に宿りました。そして、主は、「神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いてあります。ですから、クリスマスは非常に大切な記念日になります。唯一の神が天から下って人間の赤ちゃんの姿でこの世に入るのは決して普通の事ではありません。歴史上、その最も素晴らしい出来事を通して神は私達に対する御自分の驚くべき愛を具体的に表されました。
愛する兄弟姉妹、私達は救い主である、神の御子の誕生の記念日をどういうふうに祝うべきでしょうか。この世の人々は色々なかたちでクリスマスを迎えようとしていますが、恐らく、私達は今年、幼子のようにクリスマスを迎え祝いたいのです。
そして幼子のようにクリスマスを迎え祝う事によって神の恵みと祝福をより豊かに受けたいと思います。
先程読ませて頂いた聖書の箇所はクリスマス•ストーリーです。その中に「初めての子」と「乳飲み子」と言う表現が見られます。神は御自分の全ての栄光と力ある姿で私達に現れる事が十分お出来になりました。しかし、主はわざわざ防御出来ない人間の赤ちゃんとしてこの世に下りました。全能の神が御自分の全勢で私達に現れたら皆は恐れる事でしょう。その故に皆が見た事がある可愛らしい赤ちゃんの姿で私達の世に現れて下さいました。
ですから、幼な子が現れないうちはクリスマスの出来事が不可能のように、私達は子供のようにならないと、クリスマスを豊かに祝う事が出来ません。主イエスはこのように言われました。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事は出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(マタイ18:3−4)
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2006年12月24日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書
用意していなさい ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書24章36−44
【ある日、突然】
先週の金曜日の午後2時に何をしていましたか。覚えていますか。職場で働いていましたか。家で家事をしていましたか。あるいは、お買い物で忙しいでしたか。想像して見て下さい。丁度その時、誰かが突然やって来て、「今、している事を辞めて私と一緒に行くんだ」と命令しました。そして、あなたは、 「この仕事がまだ終わってないんだ」と返事します。その人はもう一度、「今やってる仕事を辞めるんだ」と言います。すると、あなたは答えます。「まだ2時なのにどうして今仕事が辞められるのですか。」しかし、相手は、「仕事はもう出来ない。辞めなさい。速く私と一緒に来て下さい」と主張します。あんまり強く言われるから、あなたはその人と一緒について歩きます。しかし、「仕事を済ます為、後で戻れますか」と聞きますと、彼はただ、「それは出来ない」と答えます。そして、あなたは恐怖を感じ、「私を何処へ連れて行くんですか」と訪ねると彼は、ただ「遠い所へ行きます」と答えます。「ちょっと待って下さい。私、週末に計画があります。遠い所へは行けません。ちょっと待って下さい」とあなたが言うのに、その人は、 「速く来なさい」とまた命令します。そして、あなたは、「旅の準備が出来てないので、一度家に帰らせてくれ」と頼むと、その人は、「それは不可能だ」と答えます。更にあなたは、「ちょっと待って下さい。準備が出来ていないのに」と叫ぶと、彼はただもう一度、「早く来なさい」と強く主張します。
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2006年12月10日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書
眠りから覚める時が来た ウイリアム・モーア宣教師
聖書:ローマの信徒への手紙13章11−14
【アメリカ滞在中の出会い】
今年の秋、アメリカの教会訪問中、色々な兄弟姉妹と会って、様々な素晴らしい恵みを受けました。沢山の信徒達の家に泊まり、主にあって貴重な交わりを持つ事が出来ました。その交わりの中、特に一つの出会いは印象深かったのです。それは今日から丁度二週間前の時でした。家内と私はサポートをして下さるノースカロライナ州にあるモントリート教会の主の日の礼拝を守りました。礼拝後、私達のすぐ後ろの席に座った三十代後半の男性が話をかけて来て挨拶を交わし、彼は私達に話を始めました。彼はその町の大学の教授で、音楽を教えているそうです。教授は二年前から、毎日頭痛があって、ついにあまりに酷くなった為、病院へ行って診察を受けました。そして、その結果は最悪でした。脳に悪性腫瘍が見付かり、手術をすぐ受けなければならないと、命が長くないと言われてしまいました。その上、手術が難しいので、受けても結果は全然保証されていないとまた言われました。話が出来なくなったり、麻痺になったり、さらに手術室で死んだりする事もあると告知されました。教授は若い家族があって、危なくても一つしかない希望の道、手術を選びました。
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2006年12月03日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
神の信実・神への忠信 ―ダビデ王とその家臣― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授
(歴代誌上11章15‐19)
序.
歴代誌上11章15‐19は、ダビデとその家臣が共々に、またそれぞれに、神に対して忠義であり、真に献身したことを伺わせる一つのエピソードを記しています。この箇所の並行記事がサムエル記下23章13‐17にありますが、そこでは、三勇士の武勲は、ダビデの生涯と事績を記す一連の物語の終わりのほうに位置しています。今朝の箇所では対照的に、ダビデがサウルに代わって登場してくるのを書き始める部分―長いダビデ物語の初めのほう―に位置しています。
神の民、イスラエル王国の要とも言うべきダビデ王朝の勃興・形成の物語の最初期から、ダビデ自身の事績のみならず、彼の忠義な家臣団が―各自の名前が連ねられて―述べられていることは意義深いことです。イスラエル王国の基礎固めがなされ、それを通して主なる神の主権的支配が着実に進んで行く背景には、ダビデだけなく―ダビデ一人ではどうにもなりません!―彼が自らの王の任務を遂行することができるように、彼に仕えた多くのイスラエルの家臣がいたことが、読者には初めから印象付けられます。神はご自身の御業の遂行のために、ダビデの忠実な家来をも(ダビデと共に)用いられたのです。
2006年11月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , サムエル記下 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上
「心の清い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
【心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る】
5章8節だけ、もう一度お読み致します。
「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」
何か私たちの心に静かな余韻を残す言葉ではないかと思います。
これは今から二千年前、神の御子イエス・キリストが真の信仰者の特徴と幸せについて語られた教えの一つですが、まだ洗礼を受けず、クリスチャンになっておられない皆様にも、さ程抵抗なく、受け止めていただけると思います。
心の清い人々が幸いであることを否定する人はまずいないでしょう。また、もし神を見ることが本当にできるなら、それは幸いだと思う方も少なくないと思います。私は10代の終り頃、生きる道を求め、20歳の時に初めて近くの教会へ行ってみました。とはいえ、最初は強く警戒し、極力深入りすまいと心に決めていました。しかし、それとは別に、私は教会の中に何か世間とは違う真実なものがあると感じました。少し大袈裟に言えば、それは私に別の世界のあることを気付かせ、心を洗われる気がしました。
そして、人間というものが、いいえ、私自身が罪深いことも素直に認めることができました。聖書が行なう人間や社会の分析、そして洞察についても、余り抵抗はありあせんでした。「これならクリスチャンになってもいい」と割合早い時期に思ったものです。
2006年11月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書
「憐れみ深い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
聖書:マタイ5章7節
【真のクリスチャンの幸いとは】
5章3節からのイエス・キリストの幸福の教えの中で、今日は5番目、7節に進みますが、その前にイエスの教えを正しく理解するために三つの点を確認しておきます。第一に、これら一連の教えは、全て信仰により霊的に生れ変った信仰者が聖霊によって与えられる新しい特質を描いたものです。キリスト教信仰に生きる人はこういう人だということです。
第二に、これらは全体として適用されなくてはなりません。真のクリスチャンは3節「心の貧しい」、つまり謙遜な人ですが、同時に6節「義に飢え渇」き、9節「平和を実現」し、いいえ、 3~10節の全ての特徴を持っている人です。これらの内の一つを持っているだけで満足することは、主の御心ではありません。
第三に、これらは私たち自身の人間性と信仰を探り、私たちの心をテストします。これらを学んで「これは私の考えとは違う。私には合わない」というなら、それはその人がまだ本物のキリスト教信仰から遠い存在であることを意味します。逆に、これらの教えに自分を照らして見て、「あぁ、私はまだまだ信仰の薄い者だ。だが、これらは確かに真理だ。私もこうありたい」と心底願うなら、その人は本物のキリスト教信仰を持ち、救いの道を既に歩み始めています。このように、これらは私たち自身をテストします。以上、三つの点を確認しました。
2006年11月12日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「落ち着いた生活」グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師
聖書:1テサロニケ4章11−12節、2テサロニケ3章6−13節
1.イントロダクション:聖書は日常生活の指南書
今日はテサロニケの信徒への手紙から神様のみことばに耳を傾けようとしています。みことばに対してどんな期待を持って聞くでしょうか。多くの人々にとって聖書は日常生活と関係が全くないものです。聖書に触れたことがないからです。聖書を読んだことがない人が多いです。
読みたくない理由をあげると古い本で、わかりにくい言葉と内容があるからだと言われます。それは確かにそうですが、聖書は日常生活と関係がないという意見は誤解です。聖書は創造者なる神様から出た言葉ですから、人間のすべてに語られているものです。人生の大きなテーマ(人間存在や生ける意味など)だけではなく、細かいテーマまで語られています。
例えば、セックスについてとか家庭やお金や言葉使いや環境や健康や人間関係などのテーマに言及します。今日の箇所でも重要なテーマが出てきます。「仕事」というテーマです。11節に簡単に語られています、
「自分の仕事に励み、自分の手で働くように務めなさい」。
2006年11月05日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 箴言
「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。
「義」
とは何か。
「義に飢え渇く人々」
とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「柔和な人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
マタイ福音書5章5節 「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」
【幸いな者とは】
イエス・キリストの語られたマタイ5~7章にある山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の三つ目、5:5「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」を今朝は学びます。イエスは3~10節で真に幸いな信仰者がどういう特徴、特質を持つ人かを八つの側面から描かれますが、その三つ目の特徴、特質が柔和ということです。
【柔和な人々は幸いである】
柔和な人々は幸い!しかし、これは当時の多くのユダヤ人たちに違和感を与えただろうと言われます。何故なら、紀元1世紀のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、それをユダヤ人たちは非常な屈辱と感じ、事あらば、武力に訴えてでもローマの支配をはね返そうという反抗心が常にくすぶっていたからです。
「世の中、何だかんだ言っても、力がものを言う。強い人間が勝って、得をするんだ。」これが当時の多くのユダヤ人が体で覚えた人生哲学でした。これは支配者であるローマ人にしても同じだったでしょう。「結局、力だ。強引さだよ。幸せになりたいなら、これだ。」
こういう考えは、今日にも見られると思います。確かに「人にも自然にも優しく」という言葉に見られますように、優しくあることの良さが、近年、言われ出しました。でも、根本ではどうでしょう。「ほしいものを手に入れたいなら、やはり力だ」という思いが根強いのではないでしょうか。しかし、人間とその永遠の運命をも全てご存じの神の御子イエスは断言されます。「柔和な人々は幸いである。」
「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師
詩編133篇1--3
1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。
テサロニケの信徒への手紙一4章9--10
【1.愛がないと。】
(スキット:持ち物をめぐる争い)
先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。
これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。
先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。
教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。
2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」
【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」
ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。
「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。
最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。
次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。
2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「心の貧しい人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
マタイによる福音書5章 ◆山上の説教を始める 1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。 ◆幸い 3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
【山上の説教】
今朝は、主イエスの語られた山上の説教の冒頭の教えに注目したいと思います。
3~10節で主は
「~は幸いである」
と言われます。どういう人のことを、主は語っておられるのでしょう。実は真の信仰者、真のクリスチャンとは、どういう特徴を持つ人かを、8つの角度から描いておられるのです。従って、これらにより、私たちはクリスチャンとしての自分を様々な角度から吟味することができ、また何が真に幸いなのかも再確認できます。
2006年09月10日 | カテゴリー: イザヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , コリントの信徒への手紙二 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 出エジプト記 , 新約聖書 , 旧約聖書
「神のみこころ」 グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)
聖書:1テサロニケの信徒への手紙一4章1--8
【1.生けるためのアドバイス】
私はある英語の新聞を読んでいます。全部読めないですが、必ず、木曜日のトラブルシューティング(人生の悩み相談コーナー)を読んでいます。二人の悩みが書かれて、それに対して一人のアドバイスが書かれています。良く出る問題は人間関係で、夫婦や親子や姑との人間関係又職場の人間関係や親戚との関係です。そのなかには不品行、財産やお金、無責任な行動、アルコール中毒の問題などがあげられます。
興味深いことはカウンセラーとして立てられた人たちです。有名な著者、タレント、弁護士と時々は精神科医がアドバイスをします。専門科ではない人ばかりです。その新聞の記事を読みながらいつも考えるのは、人間は人生についてどこからアドバイスを受けているか、求めているか。どうでしょうか。人生を過すために一般の人々はどのように導かれているでしょうか。助け無にして生活している人がいるでしょう。また、家族に相談する人もいるでしょう。学校のなかなら、先生の役割も大きいでしょう。マニュアルにそって人生を歩んでいる人もいるでしょう。占いや宗教によって導かれる人もいます。タレントやスポーツマンの影響を受けている人も少なくないと思います。
人々はわざわざ新聞に手紙を書いて送らなくても、良い生活を歩むためのアドバイスを求めていると思います。クリスチャンも求めています。クリスチャンはキリスト教用語で、それはみこころを求めていると言います。神様が望んでいることは何であるか、神様の心の思いは何であるか知りたいのです。神様からの導きを求めています。決断する時だけではなくて、クリスチャンはこの世でどのように歩んだらいいのか導かれたいのです。
今日の箇所はその求めの答えになります。神のみこころは何であるかが3節以下にはっきり書かれています。
タレントに聞かなくてもいいです。新聞に探さなくてもいいです。先生と相談しなくてもいいです。マニュアルも買わなくてもいいです。占いを避けることも出来ます。なぜなら、聖書には神のみこころが充分に書かれています。今日は、この箇所からみこころを学びたいのです。「3:実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4:おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、5:神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」
2006年09月03日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
「キリスト者の祈り」グラハム・スミス(CMS宣教師・KGK主事)
1テサロニケ3:11--13
11:どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスと
が、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。
12:どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、
豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなた
がたを愛しているように。
13:そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる
者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの
父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくだ
さるように、アーメン。
【 祈りについての悩み】
クリスチャンや教会と関わると祈りという習慣を経験します。始めての方にとってクリスチャンが祈っている姿を見て変と思われるでしょう。見えない方を対象にして目をつぶって、普段に聞こえない言葉や表現を使って話していることはピンとこないでしょう。私は小さい時から祈っている人を見かけているのに、またクリスチャンなのに、祈りは不思議だと思っています。
実は祈りに慣れているクリスチャンの中でも悩んでいる人が多いみたいです。信仰生活の重要なことですが、祈る時間が少なすぎるし、罪悪感をもったり、祈っても神は答えてくれないし、それで、疑問が生まれます。礼拝では祈っていますが、心は付いてこない場合があります。日本に来てから、日本語で主の祈りを覚えるようになりました。子どもたちも言えます。英語ではできないと思います。でも、がっかりすることは、その祈りの言葉の意味が充分に分かってません。毎回無意識に祈っている時、「ちょっとまって、その意味を確認しましょう」と語りたくなります。
皆さんはどうでしょうか。祈りについての悩みや疑問ありますか。今日の箇所、ただの3節だけですが、パウロの祈りが記録されています。この祈りから学んでみたいのです。すべての疑問に答えるわけではないです。悩みの解決にならないかもしれません。でも、ちょっとでも励ましになればうれしいです。
1テサロニケ3:11--13をもう一度読みます。(略)
2006年08月27日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
「神に背負われる幸せ」 田村英典牧師・淀川キリスト教病院伝道部長
聖書:イザヤ書46章1~4節
1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。 2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。
3:わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。4:同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
【キリスト教信仰が私たちに与える祝福】
キリスト教信仰が私たちに与える祝福には色々あります。一番大切なものはイエス・キリストの十字架の死と復活が、そのイエスを心から信じ依り頼む者に罪の赦しと永遠の命を与えることです。
しかし、これだけでなく、この中心的なものの回りに様々な祝福があります。例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章22、23は、主を心から信じる者に御霊が結ばせて下さる実を9つ上げます。
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制で、どれも尊いです。これらが私たちの内に形成されるなら、どんなに幸いでしょう。
他に忍耐力もあります。聖書によると、忍耐力とは、物事がうまく進まず、万事が私たちの願っていることと正反対の状態にあると思える時でも、私たちが尚前進して行くことのできる力です。これもキリスト教信仰の与える優れた祝福の一つです。しかし、今朝はイザヤ46章4節の伝える
「神に背負われる幸せ」
を学びます。
【無力な偶像の神々】
ここはバビロンで崇められていた偶像の神々ベルやネボと比べて真の神はどういう方かを、神御自身が語られた所です。偶像は金銀で如何にうまくできていても、自分では動けず、動物に背負われて運ばれました。その動物が躓いたなら、偶像も転げ落ち、壊れます。偶像には何の力もありません。そんなものを信じていたら、人も疲れ、その挙句に悲惨な目に遭います。
【私たちを背負われる神】
真の神は違います。古代イスラエルは不信仰のために色々懲らしめを受けましたが、ここで神は、ご自分がどれ程慈しみ豊かであるかを示し、彼らに悔い改めを促されたのでした。それはともかく、ここで一番私たちの心に響くのは、神が私たち信仰者を背負って下さることだと思います。
少し想像してみます。親に背負われてスヤスヤ眠り、あるいは親の背中で嬉しさと喜びで一杯の幼子!何とも言えない心和む光景です。それを見る者にも温かいものが伝わって来ます。親に背負われている幼子程、平安で幸せなものはないでしょう。実はイエス・キリストへの信仰の故に神の子とされた者も、同じように神に背負われる幸せに与っているのです。聖書はこの素晴らしい事実を教え、私達を励まします。
「クリスチャンが気になるものは?」グラハム・スミス-CMS宣教師・KGK主事
聖書:1テサロニケ2:17--3:10
1.大事なもの
人生を過ごしながら、何が大事か、何がつまらないか、わきまえるようになります。人生の経験を重ねることによって、判断する知恵が与えられ、成長します。大抵、子どもは物を大切にします。食べ物や飲み物やおもちゃなど。また、今、すぐに得るものを欲しがります。子どもを買い物に連れていくとその傾向は明らかです。
大人はどうでしょうか。どんなことを大事にしようとしているでしょうか。頭では愛とか、平和とか、健康とか、家族を大切にしていると言われるでしょう。でも、日常生活を見ると、大人も物を大事にしています。利益になるものや自分を満たすものにはまっています。
普通の生活では何が大事かあまり深く考えないですが、時々何かのきっかけで考えさせられます。数年前に私の26歳の妹が原因不明で亡くなりました。そのことで、私と残された家族は大分変わりました。大人らしくなったり、つまらない話をさけたり、不完全なことを気にしなくなったり、「今」という時の意識が強くなって、生きている特権をいつも覚えるようになりました。
人が病気になると何が大事か反省するようになる場合が多いです。この前、旅行の直前、連れていく親戚の子どもが病気なりました。長い間計画を立てて、待ち望んだ休みをとれないような状態になりました。その時の思いを振り返えって見るとすごく恥ずかしいです。子どもの健康のことよりも、自分のことしか考えなかった。7万円の新幹線切符の損、宿泊費の損、バケーションのキャンセルの損ばかり考えました。病気の子どものことは気にせずに、自分のことだけ考えてしまいました。親戚の子供だったので、その親に対する怒りもありました。
もちろん、さまざまな経験から何が大事であるかを考えさせられますが、聖書を読むとその課題がよく出てきます。今日の箇所では、パウロとテサロニケの人々との関わり方から、本当に大事なことは何であるかが見えてきます。別な翻訳では「生きがい」という言葉が出てきます。パウロの生きる意味、生きる目的は何であるか、はっきり書かれています。私たちのいきがいと比べることができます。
2006年08月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , 使徒言行録 , 新約聖書
主イエスを怒らせる事 ウイリアム・モーア
マルコによる福音書11:12−19
【イエスの御性格と怒り】
私達は神の御子イエス・キリストを考えるとき、どんなイメージが心に浮かぶでしょうか。先ず、愛を説いた優しい人物である事を思い出します。例えば、小さい子供達を抱いて、彼らを祝福しました。また、主は数えきれない病人を憐れんで癒して下さいました。そして、主は許しを大事にして、「あなたがたの中で罪を犯した事のない者が、先ず、この女に石を投げなさい」と言われました。更にイエスは全ての侮辱に耐えて、復讐する気持ちがちっともありませんでした。実に、主は御自分の敵の為に命を捨てて下さいました。しかし、今日の御言葉を聞くと驚きます。確かに、今日の個所はちょっと変わっていると思います。何故なら、主イエス・キリストがいちじくの木を呪った事と神殿から商人を追い出した事は御自分の性格にあんまり合わない行動に見えるからです。 今日、与えられた御言葉は二つの出来事を語ります。先ず、主イエスは実らないいちじくの木を呪って、その木が枯れてしまいました。そして、それから主はエルサレムにある神殿へ行って、境内で商売をする商人と両替人を神殿から追い出して、その腰掛けをひっくり返しました。いくら言っても今日の個所は主の怒りをはっきりと現します。実は、その時、イエスはいきどうりに燃えていました。
ここでは問題点がありそうですね。と言うのは、怒りは罪ではありませんか。しかし、聖書の証によりますと、イエス・キリストは罪を一つも犯されないお方です。その故こそ主は私達の罪を償う事が出来ました。この矛盾した点についてどう解釈しますか。恐らくその道は怒りの正しい理解にあります。
【悪に対する怒り】
あるクリスチャン心理学者は怒りについてこのように書きました。「悪に対して怒りを感じられない人は実際に善について熱意があんまりありません。悪と不正を憎まない者は、正義の為の愛が疑わしいです。」その言明はエフェソの信徒への手紙にあるこの御言葉をよく説明すると思います。その御言葉は、
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」(エフェソ5:26)。
つまり、自己中心的怒りはいつも罪です。怒る事を通して自分の立場と権威を守る為であるなら、それは悪です。癇癪を起こす事や、怒りを持って下品な言葉を言う事や、個人攻撃と脅しなどはいつも罪です。しかし、私達は悪と罪と不正に対して怒りを感じるべきです。そうしないと、神の正義が分からなくなります。
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2006年08月06日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , マルコによる福音書 , 新約聖書
神の手にいる ウイリアム・モーア
ヨハネによる福音書10章22−30節
【羊】
バイブル・クイズではないんですが、聖書の中でどんな動物が一番多く言及されていますか。牛ですか。ラクダですか。馬ですか。それともウサギですか。そうですね。その動物も聖書に載ってあるんですが、ある動物は遥かにもっと出て来ます。実は、今日の聖書の朗読は質問の手掛かりになります。やはり、聖書には全ての動物の中で、羊は一番多く言及され、羊という単語は500回以上の所に載ってあります。
羊はなぜ聖書にそんなによく出て来るものなのでしょうか。それは、聖書の時代のパレスチナの人々には日常生活を通してもっとも必要とする大事な動物であったからです。例えば、その毛で布を織って着物を作りました。その乳を飲み、何よりもその肉はおもな食肉となりました。そして、その皮までも色々なところで物を作るのに使われました。ですから、羊はお金のような物になって、何かを買う時、羊で払う事が出来ました。更に、人々は神殿で生け贄をする時、羊を捧げました。社会に羊はなくてはならないものでしたが、また何処にでもいる家畜でもありました。それで皆は羊の事がよく分かりました。誰でも羊の性格と特徴までも詳しく知っていました。ですから、聖書は羊と羊飼いをシンボルとして何回も、何回も用いています。
【主は羊飼い】
旧約聖書の詩編23編にはこの有名な御言葉があります。
「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。」
そして、預言者エレミヤを通して神はイスラエルの人々にこのように約束しました。
エレミヤ書23章3−4節「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れる事も、おびえる事もなく、また迷い出る事もないと主は言われる。」
イザヤ書40章11節にこの御言葉があります。
「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
このように、聖書には羊飼いを愛する神のシンボルに、そして、羊は神の民、私達を表します。
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2006年07月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
テントから永遠の家へ ウイリアム・モーア
コリントの信徒への手紙二5章1−10
【避暑地の出来事】
私は韓国で大きくなる間、毎年の事ですが夏になると家族そろって、韓国の南にあるチリ山と言う山で休暇を過ごしました。その高い山の天辺に憩いの場として宣教師達がその所を開拓し、夏の蒸し暑さを逃げて、静かな所で休む事が出来ました。車の道がなかったので、上まで登るのは四、五時間程かかりました。電気や電話やお店なども全くありませんでしたが、特に私達子供はそこで素晴らしい日々を過ごしました。友達と一緒に山歩きとテニスと遊泳でのんびり休みを楽しむ事が出来ました。子供の頃の思い出の中で、その山での思い出は一番心に残っています。実は、今も大人になっても私は山に憧れ、たまに登ります。
【台風でテントは壊された】
山の思い出はとても良いんですが、一つだけとても怖い思い出があります。それは五歳の頃です。その時わたしたち家族には山小屋がまだなかった為、テントを張って夏を過ごしました。それはこの部屋の大きさぐらいの軍用テントでした。朝鮮戦争の残り物で、お父さんが市場で購入したと思います。小さい子供であった私にはその大きなテントで暮らすのは大変面白かったです。しかし、ある夜、台風が来ました。始めは雨が激しく降りましたけれどもテントの中は安心でした。しかし、やがて風が吹き始めました。そして、風は段々強くなると共にその音がひどくなりました。更に、テントがひどく揺れだしました。すると、テントを支えている真ん中の木の柱が曲がって来て、壊れる恐れがありました。お父さんとお母さんが側にいましたので、僕はその時までもあんまり心配しませんでしたが、お父さんが急に、「避難しなくちゃ。早く逃げよう」と叫ぶと、ちょっと不安になりました。そして、五人の家族はその酷い台風の風と雨の中で200メートル離れた友人の小屋へ何とか進んで、やっと無事に着きました。その恐怖は今もよく覚えています。
寝る事も出来なかったけれども、その晩は友人の小屋で過ごし、朝早く台風が過ぎてから、早速家のテントを見に行きました。テントはもちろんその中にある物もメチャクチャになり、被害が少なくありませんでした。避難しなかったら、多分怪我をしたかも知れません。お母さんがぺちゃんこになったテントを見て、お父さんに、「小屋を作ってくれないうちは、この山に戻りません」と言いました。そして、次の夏、その台風の御陰で家の家族は丈夫な山小屋で夏を過ごす事が出来ました。
【テント生活の限界】
今日の聖書の箇所に使徒パウロは私達のこの世での存在をテントに暮らすような存在と比べました。実は、パウロは伝道をしながらテントの職人として食べて行きました。彼は優れたテントを作ったと思いますが、テントの基本的な限界がよく分かりました。今日の朗読、コリントの信徒への手紙二5章1節からもう一度お読み致します。
「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている事を、私達は知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私達は、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いても、私達は裸のままではおりません。この幕屋に住む私達は重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう為に、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」
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2006年07月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書
イエス・キリストは現在私の為に何を なさっていますか ウイリアム・モーア
フィリピの信徒への手紙2章18b−26節
【リストラされたあるサラリーマン】
あるサラリーマンが30年間忠実に会社の為に働きました。しかし、ある日突然リストラされてしまったのです。職場を失われた彼は年金を貰うにはまだ若いのであちこちへ行って新しい仕事を探しました。しかし、いくら探しても雇ってくれる人がいませんでした。そして、時間が経つとともに彼が貰った退職金が乏しくなり、生活が苦しくなりかけました。何かをしなければならないと思った彼は自分の甥の事を思い出しました。20年間、甥に会ってないですけれども、甥は実業家として成功し、結構盛んな会社を経営していました。仕方なく、彼はプライドを捨てて、働き口を得る為に甥を訪ねて行きました。しかし、頼むとこのように冷たくに言われました。「伯父さん、残念ながら、今は新社員を募集していません。」
そう言う事を聞くと彼はちょっと必死になって、 「肉親だから助けてくれ。あなたが五歳の時、私は魚釣りに連れてやったんじゃないか。覚えてるでしょう」と言いました。甥はそれを聞いてこのように返事しました。「そうですね、その事を覚えてますよ。御陰さまで今も魚釣りが好きです。実は、明日息子を連れて釣りに行く予定です。」
それを聞いて伯父さんは勇気づけられ、また言いました。「あなたは高校の野球をした時、私はいつも試合に行って応援したよね。覚えてるかい。」すると、「ええ、もちろんその事を覚えてますよ。伯父さんがいるからこそ励まされました」と甥が言いました。
そして、伯父は更に言いました。「大学の時、家の車をよく貸してやっただろう。夏休みに私の車で仲間と一緒に海に遊びにいったんじゃないか。」すると、「そうですね、伯父さんは本当に優しかったです」と甥が答えました。
話がうまく進むと思って、伯父は続けて言いました。「結婚した時、あなたがお金に困っていたので私は新婚旅行をプレゼントをした事も覚えてるわよね。一生のお願いだから、私をどうか助けてくれ。」
甥は少し考えこむように頭をうなずきながらこう言い始めました。「伯父さん、昔あなたがした事をもちろんよく覚えています。伯父さんは本当に気前の良い人でした。しかし、今になってちょっと問題があります。それは伯父さんは最近私の為にいったい何をしてくれましたか」と甥が平然と聞きました。
2006年07月02日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
私たちに語って下さる神 ウイリアム・モーア
ヘブライ人への手紙1章1−4
【聖書に於ける神とは?】
皆さん、「聖書に於ける神はどのような神なのか」と聞かれると、どう答えられますか。色々な答えが可能ですけれども、先ず「我々の神は永遠の万物の造り主、全能の唯一の神である」と言ったら正しいでしょう。つまり、神は宇宙の中の全ての物、私達人間を含めて、無から創造されました。そして、神の存在は始めもなければ終わりもありません、永遠の神です。更に、我々の神は唯一の神です。すなわち、この神以外に実際に存在する神がいません。また、真の神は全能の神ですから、御自分の力と知恵が限られていません。しかも、神は正義の神なので、不正と全ての罪を憎みます。聖書に於ける神はどのような神なのかと説明すると、以上のような事を言ったら良いと思います。しかし、真の神について一番大事な事はまだ言っていません。それは我々の神は御自分が造った被造物を愛します。
「神は愛である」
と聖書に記されています。(ヨハネの手紙一4:8)そして、その愛の対象は私達です。神は御自分にかたどって造られた私達人間を特に愛します。
【人を創造された目的】
実は、神が人間を創造されたのは特別な理由があったのです。それは私達との交わりを持つ為です。つまり、神は、御自分を人間に現す事によって、私達を祝福し愛する熱望を示しているのです。そして、私達を愛するから、私達に語って下さいます。
考えて見て下さい。もし自分が誰かを本当愛するならば、その人を無視出来ますか。ただ遠くから離れてその人を眺めるだけですか。もちろんそうではありません。人を本当に愛するならば、その人に関心を持って相手にする必要があります。つまり、コミュニケーションと交わりがいります。自分の愛をその人に表します。愛する神は同じように御自分の愛を現す為、私達に色々な方法で語って下さいます。我々の神は沈黙する神ではないのです。私達を愛するほどに、御自分を現します。
【宇宙生命体以上のすばらしいご存在】
現在、多くの科学者は地球外での理解力のある生命(生物)を探しています。電波望遠鏡を遠い銀河系に焦点を集め、宇宙人の話を聞こうとします。あるいは、人工衛星を宇宙空間に打ち上げ、地球外の生物の証拠を探します。実は、今までその方法で何一つ証拠は見つかっていません。
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2006年06月18日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , ヘブライ人への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
思い煩いからの解放 ウイリアム・モーア
聖書:フィリピの信徒への手紙4章4-7節
【思い煩い】
「思い煩い」は誰にでもあると思います。夜中に目が覚めて、思い出し、眠れません。朝起きると、やはり同じ思い煩いが頭の中を巡っています。「ああ、この悩みさえ解決されれば、私はどんなに幸せか」と思って、一ヶ月も、二ヶ月も、心の中は黒い雲のように晴れません。「あんな事さえしなければ、良かったのに」、「あの人が悪い」と自分を責めて、また、人を責めます。
しかし、一つの思い煩いが去っても、しばらくしてまた別な事が起って来ます。自分の中で、家庭で、職場で、また友人の間で。いつまで経っても生活から思い煩いは消えません。
そして、どうしますか。独りになって考えます。また、人に相談します。話すと少し気が楽になったようですが、またそれ以上の思い煩いになります。人は信頼出来なくなったので、今度はお金を払って占い師を訪ねる人もいます。このような方法で一時の慰めを得ても、決して思い煩いをなくしてしまう事は出来ません。
【思い煩いという病原菌】
しかし、考えて見ると、この世の中では思い煩う事は無理もないと思います。誰でもよく知っていますが、この世は危険な所だからです。色々な恐ろしい病気があるし、事故や天災などは珍しくはありません。そして御存知のように人間関係が齎す思い煩いには限りがありません。
それで「誰にでも思い煩いはある事さ。引きずって生きていこう」と心に決めていませんか。「解決の方法はない」と諦めていませんか。しかし、思い煩いを甘く見てはいけません。思い煩いは、全ての人の心の中にあって、人を死にまで追いやる、しつこい病原菌です。思い煩いによって病気になる人は大勢おります。内科医師の弟によると彼の患者の病因の半分ぐらいは精神的な事だそうです。そして、その思い煩いは精神的の原因の中で一番大きくて、万病の元だそうです。
でも思い煩いは病気の元になると言う理由の為だけではなく、また色々な理由でも無くした方が良いのです。第一は先ず、あんまり心配すると毎日の生活は自分を希望と挑戦と成長するよりも、退歩し、自分の生活が面倒臭くなって、楽しくはありません。自分の人生を精神的に豊に生きる事が出来ません。そして、思い煩いを引きずって生きていると、自分の仕事はもちろん良く出来ない、周りの人まで迷惑を掛ける事があります。持っているあなたの才能を半減させます。
【どのようにして思い煩いから解放されるか】
私達皆は思い煩いが良くない事であると認めると思います。思い煩いで悩んだ事のある人は良く分っていらっしゃると思います。しかし、どのように思い煩いからの解放を得るのでしょうか。自分の力で解決出来る方法はありますか。もし自分の精神をもう少ししっかりコントロールするなら、解決出来ますか。もし自分の問題をもっと積極的に扱ったら、心配する理由がなくなるのでしょうか。自分のあらゆる力を使って自分の思い煩いから解放して見て下さい。そうするとその方法は駄目であると言う事が分って来ると思います。
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2006年06月04日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書
自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア
聖書:エレミヤ書1章4-10
【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。
【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。
【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。
【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。
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2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書
十字架からの御言葉(その7):「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」ウイリアム・モーア
ルカによる福音書23章44-24章12
【イースター】
御存じのように今日はイースターです。今日、私達と全世界の教会は神の御子イエス・キリストの復活を祝い、主を死から蘇らさせた父なる神を讃美し、誉めたたえます。実は、その初めのイースターで起こった事は私達の信仰に最も重要な素晴しい出来事になります。何故なら、復活を通して全能の神はイエス・キリストがなさった事と言われた事を承認されたことの保証になるからです。主イエスの約束と教え、そして、最も大事な御自身与える救いは本当である事が復活を通して証明されました。その事が本当でなければ、真理の源、唯一の神は決して主イエスを蘇せるはずがなかったのです。ですから、私達は今日、復活の印と勝利を心から記念し、お祝いします。
【十字架上の七番目の発言】
今日、イースターの出来事がもっと深く分るようにイエス・キリストの十字架からの最後の御言葉を学びたいと思います。主イエスは十字架から七つの発言をなさいました。そして、今までその貴重な御言葉を通して私達はイエス・キリストについて重要な事を学んで来ました。私達罪人の為の御自身の赦しと愛と救い。また、十字架につけられた主の霊的と肉体的苦しみは私達の唯一の贖いになった事も学びました。そして、今日の最後の御言葉を通して、イエス・キリストの復活の信仰が分って来ます。今日与えられた聖書の個所によりますと、
「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、私の霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」
と記されています。
「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」
実はイエスはここで詩編を引用して発言なさいました。 詩編第31編6節にこの御言葉が書いてあります。
「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」
これはダビデの詩です。ダビデは敵によって苦しめられ、また、友人に見捨てられた大変困難な時、この信仰を告白しました。
「まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。」
そして、十字架で死ぬ直前に主イエスは最期の言葉として同じ信仰を告白しました。皆が聞こえるように大声で叫びました。
「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」
2006年04月16日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ルカによる福音書 , 新約聖書
十字架からの御言葉(その5,6):「渇く」と「為しとげられた」ウイリアム・モーア
ヨハネによる福音書19章28-30
聖書によりますと、イエス・キリストは十字架に掛けられた間に、七つの御言葉をおっしゃいました。 今日は5番目と6番目の二つの十字架からの御言葉を学びたいと思います。それは
「渇く」と「成し遂げられた。」
です。
【渇く】
先ず「渇く」を学びましょう。実は、先の四つの意味深い発言に比べると「渇く」と言う単純な表現はあんまり大した御言葉ではないかのように見えます。私達も何度もそのような言葉を言った事があるし、子供から聞いた事も結構あります。喉が渇いた事、誰でもその経験があります。人間の体重の約7割は水だそうです。そして、身体の正しい働きは水に頼っています。人間は食べなくても結構長く生きられますが、水が飲めないと大低数日が限界です。
【脱水】
私はカリフォルニアに行く度に山歩きをします。いつも泊る所はロサンジェルスの近い郊外になります。そして、そこには鹿と熊と山猫が出るMt.Wilsonと言う高い山があります。南カリフォルニアは乾燥した砂漠のような気候ですから、山歩きをすると、十分な水を持って行く事は何よりも大事です。そして、喉の渇きを感じる前に少しずつ水を飲む必要があります。そうしないと、脱水状態になって、倒れます。実は、山道に迷って脱水で亡くなる人も珍しくはありません。
十字架につけられたイエス・キリストは大変な渇きを覚えました。出血と厳しい日差しと比べられない程の苦痛の故に喉が酷く渇いて来て、「渇く」と言われました。実際に、誰でも同じ状態だったら、「渇く」と言って、飲み物を願うでしょう。間違いなく、主イエスの右と左に十字架につけられた犯罪人も激しい乾きに苦しめられていました。ですから、イエス・キリストの「渇く」と言う御言葉を通して、主は人間であることを確かめられます。主イエスは100%真に神でありながら、同時に100%真に人間でもありました。
【人間となられたイエス】
私とあなたのように痛みを本当に感じ、私とあなたのように喉も渇いて来ました。主は本当に人間である事はなぜそんなに大事でしょうか。実際に、イエスが人間を贖おうとしたのなら、イエスは人間にならなければなりませんでした。私達をイエスのようにする為には、イエスが先ず、私達のようにならなければなりませんでした。だからと言っても、全く清い人間だけが私達の代わりに罪の罰を受ける事が出来、私達を神と和解させて下さいます。イエスが渇きを覚えた事を通して御自身が人間である事は明白になります。真の人間として十字架の痛みと苦悩とを経験されました。「渇く」という主イエスの発言は人間として御自分の苦しみが現実なものである事を保証します。
2006年04月09日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書
十字架上の御言葉(その4):「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ウイリアム・モーア
聖書:マタイによる福音書27章45-50
【父に縁を切られたエリザベス】
英国の詩人エリザベス・バレットは四十一歳で詩人同士のロバート・ブラウニングと結婚しました。しかし、残念ながらエリザベスの父親はその結婚を認めず、娘との縁を切ってしまいました。何故なら、奥さんを亡くした彼には、今度は娘がお嫁に行く事は大変辛かったからです。ですから、エリザベスが家を出た時から、父は彼女とまったく連絡せず、彼女を死んだ者のように扱いました。
結婚してからエリザベスとロバートはイタリアへ移りました。年月が経つにつれて、お父さんの心が和らいで来ると信じたエリザベスは、毎週お父さんに手紙を書きました。その手紙に彼女はお父さんに対する愛を表し、これからどうしても父と和解したい熱望も伝えたのです。しかし、彼女が父に数百枚の手紙を書いたのにも関わらず、返事は全く帰って来ませんでした。
エリザベスはやがて英国に帰りました。そして彼女は仲介者を通して父との関係を回復しようとしました。ある日、突然父からの小包が届きました。しかし、小包を開けて見ると、心が沈みました。そこには彼女が今まで父に送った手紙が全部入ってありました。そして、手紙を詳しく見ると、エリザベスは大変なショックを受けてしまいました。それは父がその手紙の一つも開けなかった事が明白になりました。心の慰めのない状態で父によって見捨てられた彼女は国をもう一度出て、終生愛した父と会う事はありませんでした。
見捨てられる事。きっとそれは我々人間には大変恐ろしい事です。特に、愛した者によって縁が切られる事は、涙と心痛と耐えられない孤独感を伴います。
【十字架上の第四のお言葉】
今日、続けてイエス・キリストの十字架からおっしゃった御言葉を学びたいと思います。そして、今日与えられた第四の御言葉はこの苦悶に満ちた主イエスの叫べです。
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
聖書に記されていますが、主イエス・キリストの処刑は6時間程かかりました。朝9時頃兵士達は主イエスの手と足を釘で打ち十字架につけました。そして、9時から12時の間に、苦しみを受けながら最初の三つの御言葉をおっしゃいました。皆さんはそれを覚えているでしょうか。第一は、
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」
と主が祈られました。そして、第二は、共に十字架に掛けられた一人の犯罪人に永遠の救いの約束をして下さいました。
「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
また、先週学びましたけれども、第三の御言葉として御自分の母マリヤに弟子ヨハネについてこのように言われました。
「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」
次に、ヨハネに向いて、マリアの事について、
「見なさい。あなたの母です」
とおっしゃって、マリアの将来を保証しました。
十字架からの御言葉(その3):「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」 ウイリアム・L・モーア
ヨハネによる福音書19章23-27
【十字架上のお言葉(3)】
イエス・キリストの十字架からの御言葉を学び続けたいと思います。覚えていらっしゃると思いますが、主イエスは十字架に掛けられた間、御自分の唇から七つの大事な御言葉をおっしゃいました。私達は受難節の際にもうすでにその二つを覚えました。第一は赦しの言葉
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」
そして、神はそのお祈りを叶えて、十字架の贖いを通して、御自分の御子を救い主として信じる者は、誰でも罪の赦しを与えて下さいました。
先週学んだ主イエスの第二の御言葉は永遠の救いの約束でした。傍らの十字架に掛けられた犯罪人は主に、
「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」
と心から願いました。その願いは悔い改めと信仰を表しましたので、イエスはこの素晴しい約束を彼にしました。
「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
その同じ悔い改めと信仰を表すならば、私達の為にも神は天国の戸を開いて下さいます。罪の赦しと永遠の救い。その二つの御言葉で、唯一の全能の神は私達の個人的、また、全人類の一番大事なニーズにお答えになりました。
【二つのグループ】
さて、十字架から第三の主イエスの御言葉の背景を見てみましょう。実は、今日与えられた聖句は著しい対照をなしています。と言うのは、主イエスの十字架の前で二つの全く違っているグループが立っていました。一方にはイエスを苦しませ、死刑を実行した四人の兵士達でした。そして、他方には主を誰よりも愛した五人がいました。
【兵士たちがしたこと:預言の成就】
先ず兵士達を見てみましょう。主イエスは四人組の兵士に付きそわれて、形場へ着くと,彼らは主を十字架に付けました。そして、当番で処刑の任務についたこの兵士達の役得は、受刑者の着けていた衣服でした。ユダヤ人は通常五種類の衣具をつけていました。サンダル、ターバン(すなわち頭に巻く頭巾)、帯(おび)、下着、それに外套。兵士は四人、衣服は五品目でありました。彼らは賽を投げてそれらの取りっこをしました。それぞれが自分に当たった物を取り、下着だけが残りました。それは縫い目がなく、一つ織りの物でした。それを四つに裂けば、勿体ないので、それが誰の物になるかを決める為に、もう一度、賽が投げられました。こうして、兵士達は十字架のもとで賭け事をしました。不思議にその事は旧約聖書の預言を成就しました。詩編に救い主についてこの預言があります。
「私の着物をわけ、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:19)
十字架上のお言葉(その2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 ウイリアム・L・モーア
ルカによる福音書23章39-43節
【有名人物の最期の言葉】
有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ダヴィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死にぎわの言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかもない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉いと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」
先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。
先週私達は十字架上の主イエスの第一の御言葉を学びました。それは、御自分に罪を犯す者、また、御自分の敵の為の赦しの言葉です。
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」
とおっしゃいました。つまり、十字架の贖いを通してイエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも神から罪の赦しを受けられます。自由に主イエスの義を頂き、神の愛された子供のように受け入れています。その赦しの言葉が十字架上の第一の御言葉です。
【十字架上の第二のみ言葉:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】
今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは
「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」
と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。
2006年03月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書
十字架上のお言葉(その1):「赦し」 ウイリアム・モーア
ルカによる福音書23章32--43節 34父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。
【ある韓国人兄弟の物語】
韓国の古い伝説ですけれども、ある貴族に二人の息子がいました。そして、その長男はやがて最高裁判所長官になりました。しかし、次男は不良の道を選び、悪名高い強盗になってしまいました。それにも関わらず、お兄さんは弟思いで本当に愛して、何回も彼を変えようとしましたが、弟は聞きませんでした。そして、弟が遂に捕まえられ、裁判長である兄の裁判に連れられてきました。裁判の結果はもう決まってると皆は思いました。何故なら、兄の長官は弟を深く愛していましたので、手段を選ばず彼を釈放してやると皆は思ったのです。しかし、裁判の結果は、兄長官が弟を有罪と判決しました。兄が弟に死刑を宣告した時、皆は驚きで息が止まりました。
やがて死刑を実行する日が来ました。そして、長官であるお兄さんは最後に弟に会いに刑務所へ行きました。面接の時間が終わりかけた時、お兄さんは弟に、「番人が見てないうちに、私の衣服を着て席を交代しよう。そして、私の代わりに帰ってくれ」と言いました。それで弟は兄の工夫に承知して、言われた通りに逃げました。もちろん当局は囚人が実際に裁判長官である事が分ると処刑を止めるはずだと信じていました。
しかし、弟は事実を確かめる為、近くにある丘に上って遠くから死刑台を眺めました。誰かが死刑台へ連れられてきました。信じられない光景ですけれどもその人は自分のお兄さんでした。そして自分の目の前で兄が処刑され、自分が受けるべき罰を受けてしまいました。
自責の念で一杯の弟は走って刑務所の門を叩きながら叫びました。「間違っている、無罪の人の死刑を先程実行しました。私こそはその処刑すべき囚人です。私を処刑して下さい。」そして刑務所長が出て来ると弟は自分の名前を言って、繰返し、「私を処刑して下さい、私を処刑して下さい」と願いました。しかし、刑務所長はこのように言いました。「帰りなさい。そう言う名前を持っている囚人の刑は、もうすでに実行されたので、全ては済みました。速く帰りなさい」と命令しました。
【イエス・キリストの贖い】
私達は受難節に入りました。そして、受難節の際私達は特にイエス・キリストの十字架の贖いの死の意味を新たに考え思案します。皆さんはいまだに罪の意識を引きずっているのですか。その罪の罰はもうすでに実行されました。全ては済みました。十字架のお陰で、先程の伝説の弟のように、私達は罪の故に支払うべき罰が主イエスによってもうすでに支払われました。使徒パウロが述べたように、
「罪と何のかかわりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)
それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を完全に受け入れて下さいました。受難節にその言い尽くせない程の恵みを覚え感謝したいのです。
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神のお答え ウイリアム・モーア(受難節1)
コリントの信徒への手紙一1章22-25
【受難節】
先週の水曜日から私達は受難節に入りました。受難節は復活祭、すなわちイースターの前の40日の間です。その40日間はイエス・キリストが公の働きを始めた直前、断食と祈りをする為に荒れ野で過ごされた40日間に相当します。特に、受難節に、私達は主イエスが私達の為に負われた苦しみと十字架の死に集中します。
そして、その主の犠牲は私達の罪の贖いになりましたので、受難節は私達一人一人の悔い改めの機会になります。自分自身の生き方と信仰生活を吟味し、神の助けによって足りない所を治す時期にもなります。
私達がこの受難節を守って過ごすとき、主イエスの復活の意味と喜びがより深く分かって来て、心から祝う事が出来ます。
実は、受難節と言う伝統は聖書には載っておりません。しかし、初代教会が今から約1800年前、イースターの準備の為に受難節を守り初めました。教会の大事な伝統になり、世界中ほとんど全てのキリスト教会が受難節を重んじて来ました。私達は大きな世界教会の一つの群れですが、私達も心から受難節を覚える事によって、大きな恵みになると信じております。主イエス・キリストの十字架の死は本当に私自身の救いの為であると新たに悟らされます。すなわち、受難の出来事を通して、愛する神は私と全人類の最も重要なニーズを叶えて下さいました。また、その贖いの死は、人生についての私達の大きな質問に答えてくださいます。
【コリントの信徒への手紙一1章22ー25】
今日、与えられた御言葉に使徒パウロはイエス・キリストの贖いの死についてこのように書きました。
「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシヤ人は知恵を探しますが、私達は、十字架につけられたキリストを伸べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを伸べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリントの信徒への手紙一1章22ー25)
続きを読む: 神のお答え ウイリアム・モーア(受難節1)
2006年03月05日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
隣人を愛する事 ウイリアム・モーア
マタイによる福音書22章34-40節
【ある運転手と暴走族】
あるトラックの運転手が高速道路のサービスエリアで車を止めて、レストランに入りました。大変空腹を覚え、ハンパーグステーキとマッシュポテトとグリンビンズを注文し、口に唾がたまる程その大好きなメニューを楽しみに待っていました。そして、やっとウェートレスが食事を持って来て、運転手さんは美味しそうに食べ始めました。その時です。暴走族の連中がレストランに入って来て、運転手の隣のテーブルに座り込みました。しかし、そのテーブルには皆が座れる余地がないから、番長らしい人が運転手に向かって、「退け!あんたのテーブルを譲れ」と怒鳴りました。そうすると、運転手は、「食事はもうすぐ済むから、ちょっと待って下さい」と言いました。すると、番長らしい人が運転手のコーヒー・カップを自分の手に取って、コーヒーをその食事の上に流してしまいました。そして、「これで食事が済んだぞ。早く帰れ」叫びました。
運転手は何も言わずに立ち上がって、平然とレジの方へ歩いて、暴走族の笑いを後ろにしながら会計を済ませました。事件を見ていたウェートレスは申し訳ない気持ちで外まで運転手に付いて行って見送りました。そしてウェートレスがレストランに戻った時、連中の一人は彼女に言いました。「あの親爺は弱虫だぞ。本当に男らしくないね。」すると彼女はこう返事しました。「男らしくないと言えば、運転も大変下手ですよ。運転手なのに出た時、外で並んでいたあなた達のオートバイ8台をトラックで轢いて帰ってしまったよ。」
【復讐】
私達はこのストーリを聞くと笑いますが、更に何とも言えない満足も感じる事だと思います。なぜなら、あの暴走族の連中は相応(そうおう)の罰を受けたからであります。正義が行われました。私達は傷つけられたら、傷をつけたい気持ちが強いのです。しかし、多くの場合は勇気が出せないから仕返しが出来なくて、我慢するしかありません。ですから、私達は先程のストーリの何倍もの復讐劇を聞いては喜ぶのです。恐らく私達は密かにあの運転手のようになりたいかも知れません。やられたらその倍にして返すのです。
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神を愛する事 ウイリアム・モーア
【613の掟】 今日の御言葉によりますと、ある日、ユダヤ教の律法専門家がやって来て主イエスにこのように尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」その当時、律法はユダヤ教の中心になり、宗教の律法を守る事によって、信者は神を喜ばせようとしました。ですから、専門家達が律法を研究して、御言葉の中から613程の掟を見つけました。そして、その613の掟を「重い」、つまり重要なものと「軽い」すなわち、それ程大事ではない掟に分けました。マタイによる福音書22章34-40 ◆最も重要な掟 34:ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35:そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36:「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37:イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38:これが最も重要な第一の掟である。 39:第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40:律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
またある学者によりますと、律法を重いものと軽いものに分けてはいけない事だそうです。なぜなら、もし神から授けられたものだったら、全ての掟は同じく重要であり、従わなければならないものなのです。ですから、律法を区別する事は神に対して罪になります。ユダヤ教の学者達がこの二つの立場を激しく議論しましたけれども、なかなか決定する事が出来ませんでした。
【最も重要な二つの掟】
恐らく律法の専門家が主イエスをこの問題に巻き込む為、また、試そうとして、
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」
と聞きました。そして、イエスは迷わずにはっきりとこのように答えられました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
主イエスのお答えは真に素晴らしいものでした。その二つの掟に神の全ての律法が纏められています。何故なら、もし神を本当に愛するならば、真の神をおいて他の神を拝まないし、神の名をみだりに唱えません。また、神を愛する者は安息日を心に留め、聖別します。同様に、もし隣人を愛するならば、もちろん隣人を殺さないし、その物を盗まないし、彼に関して偽証などをもしません。つまり、愛の掟に従ったら、神の御旨に従って生きる事が出来ます。
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」
と主が言われました。もし心からこの二つの掟だけを守ろうとしたら、同時に残りの611の掟も守る事になります。
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神への道 ウィリアム・モーア
ヨハネによる福音書14章 6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」
【驚くべき主イエスのお言葉】
イエス・キリストの教えは人間の常識を遥かに超えるものですから、その教えを聞くと私達の耳に驚くべき事がよくあります。例えば、「自分の命を得ようとする者は、それを失う。」また、「受けるよりは、与える方が幸いである」と「柔和な人々は地を受け継ぐ。」そして、「敵の為に祈りなさい」と「迫害される時、あなたがたは幸いである。喜びなさい」と教えられました。そのイエス・キリストの御言葉は私達を驚かされますが、恐らく今日の聖句は最も驚くべき主のご発言であります。
「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。」
考えて見ますと、この主イエスの御言葉は本当にすごいものです。そして、あんまりにも大胆ですから、ある人々には躓きになります。つまり、イエスは御自分が神への唯一の道であるとおっしゃる事は、ちょっと傲慢な発言だと思う者がいます。了見の狭い、あるいは頑迷な主張と受け取る人もいるかも知れません。そう言う排他的な事を言ってはいけないのではないかと思う者が大勢おられるでしょう。
しかし、イエス・キリストは
「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」
と宣言されるとき、神の独り子として真理を語りました。そして、御自分の発言は傲慢ではなく、却って愛と憐れみの動機からなさいました。
実は、この宣言は全人類と私達一人一人にとって、最も貴重な真理であると信じております。何故なら、この教えは私達の永遠の救いへの唯一の道を示して下さるからです。
この主イエスの発言は躓きになる理由が様々あると思いますが、多分おもに宗教に関する誤解と言えば三つの事が取り上げられます。
この三つの誤解を抱く者が多いですから、恐らく皆さんも聞いた事があると思います。
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わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました ウイリアム・モーア
テモテへの手紙二4章6-8
【告知】
この間、私はある人と共に死について話し合いました。私は牧師だから他の人よりも、恐らくそういう機会が多く与えられています。その時、相手の人は数カ月前に亡くなった家族の一員の事を語りました。実は、その方は亡くなる一年前に、自分が病気で死にかかっている事が分っていたそうです。それから話が、人は先立って自分の死を告知される方が良いかどうかと言うことになりました。自分の死が先立って分っていたら色々と準備が出来るので良い事もあると言いました。逆に、分らないと残りの時間を黒い雲のような状態で過ごさなくてもすむから良い面もあると話しました。皆さんはどうでしょうか。
【死刑囚パウロ】
今日、与えられた御言葉を書いた人物は、自分には限られた日しか残ってない事が分っていました。実は、彼、使徒パウロは信仰の故にローマ帝国の囚人になり、死刑宣告を受けてしまいました。暗い死刑囚監房(かんぼう)に閉じこめられたパウロはどんな気持ちで自分の日を待っていたのでしょうか。来るべき死刑実行を恐れて惨じめな気持ちでしたか。あるいは、不正な判決の為に敵に対する恨みをいだきましたか。少なくとも彼は気持ちが落ち込んでいたはずだと思います。長い間、福音宣教の為に励んで、宣教師として数え切れない程の犠牲を払って来ました。迫害と様々な困難の故に決して楽な生活ではありませんでした。そして、その報いは何だったか。ついに死刑という悲惨な運命になりました。使徒パウロが絶望したとしても、ちっともおかしくありませんね。 しかし、彼は絶望しませんでした。敵と自分の運命をののしりませんでした。却って、その代わりに手紙を書きました。希望と勝利と信仰に満ちた素晴らしい手紙を書いて、自分が開拓した教会と協力者に送りました。自分の遺言と思って、受け継いだ信仰を守るようにと信者を励み続けました。
使徒パウロは今日の個所をテモテに書いて送りました。割合若いテモテはパウロと共に伝道に励んで、パウロの弟子のようになりました。手紙にパウロはテモテを「愛する子」と呼びましたので、間違いなく彼等は親子のような親しい関係を持っていました。そして、死に直面したパウロはテモテに自分の信仰と死に対する確信を伝えたかったのです。与えられた信仰のお陰でパウロは勝利者として死に向かい、恐れませんでした。
私達も使徒パウロの言葉から学ぶ事があります。特にイエス・キリストを信じ頼る者として私達には、パウロの証は大事であると思います。
2006年01月22日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , フィリピの信徒への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書
世の光であるイエス・キリスト ウイリアム・モーア
ヨハネによる福音書9章1--11
【ひと間違い】
このような経験がありますか。遠くから人を見て、その人が知人だと思って手を振りました。そして、挨拶しに近づくと、その人は実は全く知らない人でした。恥ずかしいですね。または、電話の声で相手を「なになにさん」だと思って、直ぐ会話を始めましたが、一分、二分しゃべると、実は相手が違う人だと気付きました。それも恥ずかしいですね。
この間の話ですが、家に電話がかかってきました。電話を取ると、「Hey, what's up?」つまり、「おい、どうしてる」と言う声が聞こえました。ちょっと可笑しい挨拶だなと思ったんですが、声がアメリカにいる長男らしいので、色んな話に入りました。しかし、突然、相手が、「Who are you?」つまり、「あなたは誰ですか」と私に聞きました。その瞬間ピンと来ました。相手は実は次男の友人で、ポールと話したかったんですが、私の声をポールと間違えたようでした。その事件は家で大笑いになりました。
【相手の身元を知る】
相手の身元を知るのは大切な事です。それが分らなかったら、相手と話す事さえも難しいです。どんな身分や、何処の人などが不明の場合は、その人と関係を結ぶのはなかなか難しいです。その反面、相手の身元が十分分かると、適当な関係を持つ事が出来ます。だからこそ、初めて人に会う時、よく名刺を交換します。名刺を見たら、相手の身元が分かって、適切に扱う事が出来ます。
【イエス・キリストの身元】
同じようにイエス・キリストの身元もちゃんと分かった方が良いと思います。主イエスは世界歴史の一番重要な人物だし、今も主の教えはキリスト教信徒だけではなく、社会にも大きな影響を与えて来ました。
さて、イエス・キリストはいったい誰ですか。どんな役割を果たしましたか。そう、その事が分かるには、先ずイエス・キリストが御自分について何と言われたかを調べるのが良いと思います。すなわち、もしイエス・キリストに名刺があたら御自分について何と書いたのでしょうか。
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2006年01月15日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書
賢い者として新年を歩みましょう ウイリアム・モーア
エフェソの信徒への手紙5章15-17
讃美歌 15
【評判の良くない兄弟】
ある町に二人の兄弟がいました。その二人は双子のようにとても仲良く、いつも何でも共にしました。兄弟の仲は良いですけれども、町での評判はあんまり良くありませんでした。飲み過ぎて人と喧嘩したり、乱暴な言葉をよく吐きました。そして彼等はお金があったのにも係らず、あちこちで勘定をためて、なかなか払いませんでした。更に、自分の会社の従業員を厳しく扱いましたので、皆に嫌われていました。
ある日、兄弟の一人が急に病気で亡くなりました。そして、残った一人は町の教会へ行ってお葬式の為に牧師と相談しに訪ねました。彼は、牧師に一つ頼みがあると言いました。それは「お葬式の時、是非兄を『聖人』と呼んで欲しい。そうすると、家族に大きな慰めになるから」と頼みました。牧師は、「それはちょっと難しいですよ。町の人は皆、お兄さんの事をよく知っていますから、『聖人』と呼んだら笑われるかもしれません。しかし、弟は願い続けて、「お願いだ。お葬式の時、兄を聖人と呼んで下さい。そうすれば、教会に$1、000献金します」と約束しました。
仕方なく、牧師はお葬式の時、そうする事にしました。そして、お葬式の際、牧師は立ち上がって、皆の前でこのようにお話をしました。「故人は乱暴で、長い間我々の町に迷惑ばかり掛けました。その上、勘定も沢山残して亡くなりました。しかし、とても嬉しい事ですが、故人について少なくとも一つの良い事を言えると思います。それは、弟さんに比べると故人は本当に聖人だったと正直に言えます。」
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2006年01月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
私の為の良い訪れ ウイリアム・モーア
ルカによる福音書2章1-20
【今日はクリスマス】
メリークリスマス!今日、12月25日は丁度主イエス・キリストの御降誕の記念日になります。日曜日が主の日のクリスマスになるのは11年ぶりですので、今日は西谷集会で始めて迎える主の日のクリスマスです。キリスト教会は大昔から12月25日にイエス様の御降誕を祝って来ましたので、今年は全世界教会と共に主の日にその最も素晴らしい記念日を守る事が出来ます。
【光が世に来た】
今日の礼拝はクリスマス礼拝ですので、アドベント・リースの外側の希望と平和と喜びと愛のろうそくを灯すだけではなく、真ん中にあるキリストのろうそくも灯しました。2005前に、「世の光」である、神の独り子、主イエスはベツレヘムにお生まれになりました。その日、全人類の永遠の救いの為に全能の唯一の神が肉体を取って、人間として私達と共に宿りました。
【馬小屋に生れた救い主】
先程ルカによる福音書に記されている、イエス・キリスト御降誕の次第を読ませて頂きました。神の力強い御業で、御自分の御子イエス・キリストは人間の母マリヤから、この世にお産まれになりました。そして、驚いた事に、その歴史の中の最も重要な出来事は馬小屋で起こりました。なぜなら、マリヤとヨセフはローマ皇帝の勅令で、全領土の住民と共に、それぞれの故郷に帰って、登録を余儀なくされました。そして、「宿屋には彼等の泊まる場所がなかったから」臨月になったマリヤはその卑しい馬小屋で神の御子をこの世に誕生なさいました。
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クリスマスの愛 ウイリアム・モーア
フィリピの信徒への手紙2章1-11
【クリスマスの愛】
私達のアドベントの旅は大分進んで参りました。
丁度来週の主の日はクリスマス、イエス・キリストの御降誕の記念日になります。毎週の説教を通して私達はクリスマスの準備が出来ました。「 クリスマスの希望」と、「 クリスマスの平和」と、「 クリスマスの喜び」を一緒に学びました。そして、今日は「「 「 クリスマスの愛」について共に考えたいと思います。実は、何よりもクリスマスの出来事は私達人間に対する神の愛を現します。そして、神の愛の故に私達はクリスマスの他の恵み、希望と平和と喜びを経験する事が出来ます。今日は主イエスの御降誕を通して神が私達に現わされた愛を新に見ましょう。
【フィリピの教会に】
使徒パウロは今日の聖書の個所をフィリピと言う町に住んでいるキリスト者に手紙の形で送りました。パウロはフィリピの教会を開拓しましたけれども、信仰の理由で牢に入れられフィリピの信徒を訪ねる事が出来ませんでした。ですから使徒パウロは手紙で彼等を励まし、教えました。特に、キリスト者としての相応しい態度と生き方を教えました。彼等を主イエスの愛の手本に思い返させて、その手本に従うようにと奨励しました。
イエス・キリストが示して下さった愛と献身が自分達のものになると、彼等は一つになって、そして、更に、信仰の力の証人になります。つまり使徒パウロはフィリピの信徒にこのように言いました。
「お互いに『クリスマスの愛』を示して下さい。」
そして、その「クリスマスの愛」とは何でしたか。今日のテキストの6節の所を見て下さい。フィリピの信徒への手紙2章6節
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」
とパウロはフィリピの信徒に思い起こさせました。
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2005年12月18日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書
クリスマスの喜び ウイリアム・モーア
ルカによる福音書1章26−56
◆マリアの讃歌(ルカによる福音書1章)
46:そこで、マリアは言った。
47:「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48:身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49:力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、50:その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51:主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52:権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53:飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
54:その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55:わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
クリスマスの喜び
【讃美歌 102】
もろびと声あげ、喜び称えよ、
神の恵み、 この世に表われ、
ダビテの村の いぶせき馬屋に、
きよき御子は 生まれたもう。
もろびと声あげ、喜び称えよ、
あめのとびら 今しも開かれ、
つきぬ恵みを 身に帯び給いて、
きよき御子は 生まれたもう。
もろびと声あげ、喜び称えよ、
死の恐れを 追いやりたまいて、
よき音ずれを あまねく伝うる
きよき御子は 生まれたもう。
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クリスマスの平和 ウイリアム・モーア
ルカによる福音書2章1−20
【パックス・ロマ−ナ】
真っ暗なパレスティナの夜でした。羊は牧場の草の中でぐっすり眠っていました。しかし、羊飼い達は狼や泥棒などの危険の為、寝ずに夜番をして、羊の群れを見守っていました。夜は寒いので羊飼い達は焚き火を囲んで体を暖めました。そして彼等は長い夜の時間を潰す為、羊の群れの番をしながら、ゆっくりとお互いに色んな話をしました。町に住んでいる自分の家族の事や、次の日の予定や、病気の羊の問題や、最近のうわさ話などもしました。話は様々ですが、最後に彼等はいつも一つの話題に戻っていました。それは自分の国イスラエルの不幸な状態です。つまり、長い間、外国の支配を受けて、イスラエルはローマ帝国の三流植民地になってしまいました。以前は独立した国としての自由な存在であったのに、ローマの兵士は自分の国に侵攻して、剣で住民を食い物にしてしまいました。ローマの暴君によってこの状態は「パックス・ロマ−ナ」と呼ばれました。すなわち、the peace of Rome 、ローマの支配による平和と言う意味です。しかし、イスラエルの人々にはそれは決して平和ではありませんでした。却って、何よりもテロの状態でした。イスラエルの住民はローマの政権に厳しく監督され、ローマの市民ではないから、人権は殆ど守られていなかったのです。更に、貧しい者からも無理に税金が徴集されました。また、ローマの政権は全ての反対者を冷酷に扱いました。必ず謀反の報酬は拷問と残酷な死でした。
羊飼い達は自分の国の悲惨な現状を話し合うと、彼等にとって一つの事が明白になりました。いくら言っても、外国の兵士の靴がイスラエルの土地を踏む限り、平和は自分の国に来ません。何よりもローマの圧迫からの解放の日を待ち望んでいました。イスラエルの預言者イザヤはその日を予告して、このように宣言しました。
「主は、御自分の右の手にかけて力ある御腕にかけて、誓われた。私は再びあなたの穀物を敵の食物とはさせず、あなたの労苦による新しい酒を異邦人に飲ませる事も決してない。穀物を刈り入れた者はそれを食べて、主を賛美しぶどうを取り入れた者は聖所の庭でそれを飲む。」(イザヤ書62:8--9)
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ひとりのみどりご ウイリアム・モーア
イザヤ書9章1-6
【巷のクリスマス】
歳月は本当に速いですね。私だけがそう思うのでしょうか。もうすぐクリスマスをまた迎えます。もう二週間前から神戸の町はクリスマス・ツリーが飾られているのです。あちこちではクリスマス・パーテイーが計画され、人々のスケジュールは12月はもう一杯だそうです。また多くの人はクリスマスの買い物で忙しいです。昨日、アメリカのニュースで、クリスマス・セールの為に人々は遠い所から朝早くショピングに来て並んでいました。そして、セールの商品の量が限られているから、その物を勝ち取る為、客さんが殴り合う映像が流れていました。
【アドベント(来臨)】
一般社会よりちょっと遅れていますが、実は、キリスト教会のクリスマスの準備は今日から始まります。今日はアドベント(来臨)、すなわち待降節(又は来臨節)の始まりです。待降節はイエス・キリストの誕生日の前の四番目の主の日から始まり、クリスマス・イブに終わります。大昔からキリスト教会は、特にアドベントの間に主イエスの御降誕の意味を新に覚え、クリスマスを祝う準備をしました。そして、同時に、将来、主が再びいらっしゃる主の再臨を心から待ち望んで来ました。
【アドベント・リース】
待降節を祝う為に毎年の事ですが、津村姉妹が今年もまた私達の為にアドベント・リースを準備して下さいました。長い伝統ですから、リースはシンボルとして色々な深い意味が生じましたが、簡単に説明します。始めに、リースの円形によって、父なる神の素晴しさを覚えさせられます。リースと同じように神は始めもなければ終わりもありません。つまり、永遠の神です。また、神の愛と憐れみは限りがないと言う意味もあります。そして、リースにある緑色は大事な徴(しるし)になります。常緑の葉っぱはイエス・キリストが賜る新しい生まれと永遠の命を示します。さらに、ろうそくは神の光、イエス・キリストのシンボルです。世の光である主イエスの御降誕は、神、御自身がこの世にいらしゃって、救いと愛の光を私達に照らして下さいました。
今日の聖書の朗読に書いたように、主の御降誕の際
「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9:1)
アドベントの毎週、主の日に、外側の赤いろうそくを一本ずつ灯す事によって、イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいると言う意味なのです。そして、真ん中のろうそくは「キリストのろうそく」と言われています。私達はクリスマスの日、来月の25日に、そのろうそくを灯します。神の光であるイエス・キリストはクリスマスの中心であり、主イエスのいないクリスマスは全く意味のない空しい事になってしまうと言う徴(しるし)なのです。
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命を選びましょう ウイリアム・モーア
マタイ7章13-29
【豊かな命を与える主イエスの教え】
今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。
イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。
「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)
【二つの門、二つの道】
山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。
今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
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2005年11月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書
求めなさい ウイリアム・モーア
マタイ7章7-12
【祈りの大小】
皆さん、今朝、一つの質問を致したいのです。それは、祈る時、神にどのような祈りを捧げますか。つまり、自分のための願いは大きいですか。それとも小さいですか。この質問をするには理由があります。それは、何よりも祈りは神に対する私達の態度と概念の現れなのです。ですから、私達は自分の祈りを調べてみたら、実際にどのような神を私達が信じているかが分ります。
【子供が親に願う事】
子供が親に願う事と、神に祈るのはある面で非常に似ているところがあると思います。実は、アメリカで勉強している次男のポールは今、車を欲しがっています。ロサンジェルスは広くて、また、公共輸送は不便ですから、車があったら活動が随分楽になると考えられます。ですから、ポールは家に電話する時、車の課題がよくでます。この間、彼は、「$2、000があったら車を手に入れられる」と言いました。そして、車を買ってくれたら、アルバイトを探す事が出来るし、その報酬で自動車保険にも入れると更に言ってきました。つまり、ポールは親の予算を考えながら、願っています。間違いなく、もし金持ちの親であったら、ポールは新車の高級スポーツカーを願った事でしょう。しかし、彼は家族の状態が分るから、言われなくてもそれは不可能だとよく知っています。
同じように、私達は神の力が限られていると思ったら、私達の祈願があんまり大きくはないでしょう。神には不可能だと思った事を願うはずがないからです。また、神は私達の願いを出し惜しむ、気難しいお方だと思っていたら、祈りをあんまりしないかも知れません。その反面、神は全てを造り、全てを所有する愛する天のお父さんだと信じたら、きっとその願いは大きいはずです。
【求めなさい。そうすれば、与えられる】
今日の聖書の朗読はイエス・キリストの山上の説教の続きになります。そして、主はこのように私達に命じています。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)
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2005年11月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書
人を裁くな ウイリアム・モーア
マタイ7章1一6
【皮肉屋の理髪店主】
次のストーリは本当か、どうかは分りませんけれども、ある男の人が理髪店へ行って、主人に髪を切ってくれるように頼みました。理髪店の主人は非常に頑固で何でも批判的な態度を取る習慣がありました。どんな話題であっても、彼の話はいつも悪口と酷評で終わてしまいました。「政治家は皆賄賂を取る奴ら」とか「今の若い人は怠け者ばっかりだ」のような発言で有名になりました。
散髪する間、いつものように男の人と主人の会話が盛り上がり、男の人は「出張でもうすぐイタリアのローマへ行くつもりなんだよ」と言いました。床屋さんは「どんな航空会社を使って、何と言うホテルで泊るのかい」とすぐ聞きました。そして、男の人が答えると床屋さんは、「あの航空会社は危ないよ。去年恐ろしい事故があったの覚えてるだろう。」そして、「特にそのホテルは酷い。サービスが最低だと聞いてる。ローマへ行かない方が良いじゃないか」と強く押し付けました。
「大事な仕事があるので、ローマへ行かなければなりません。そして、仕事が済んでからローマ法王に拝謁を賜りますから、是非行こうと思います」と男の人が返事しました。しかし、「ローマ法王は一番堕落した神父なのに、どうして会いたいのかい」と床屋さんが言い返しました。
数週間後、男の人はローマから帰って来て、理髪店へまた行きました。「ローマの旅はどうだったかい。多分大変だっただろう」と言う挨拶で主人が男の人を迎えました。「いいえ、素晴らしい出張になりました。航空会社もホテルも大満足しました」と答えました。「法王に会ったかい。がっかりしたでしょう」と主人が言うと男の人はこのように答えました。「もちろん会いましたよ。実は、法王の前にひざまずいて法王の指輪にせっぷんする事が許されました。大変な光栄でした」と男の人が言いました。
「教えて。その時、法王は何を言ったかい」と床屋さんが聞きますと、男の人はこのように言いました。「実は、ひざまずくと、法王は御自分の手を私の頭に置いて下さって、このようにお尋ねになりました。『我が子よ、この下手くそな散髪はいったいどこでされたのか』とお聞きになりました。」
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お金の使い方 ウイリアム・モーア
マタイ福音書6章19-34
長年の謎
1997年、長年の謎がやっと解けました。それは誰が、全部で数十億ドルを寄付したかという事です。その寄付を受けた福祉施設や学校や救済団体などは寄付者が全く分りませんでしたので、お礼の手紙さえも送る事が出来ませんでした。寄付金はいつも銀行口座宛小切手の形で送られましたから、寄付者は不明でありました。そして、小切手と一緒に来たメモには、送り主は無名で寄付したいと書いてありました。
マスコミは誰かが莫大な金額を無名で寄付している事を聞いて、その送り主の身元を調べました。そして、調査は10年程かかりましたけれども、やっと寄付者の名前が明かになりました。それは66歳のチャールズ・フィーニー社長でした。彼は大きな免税店チェーンストアのオーナーで、アメリカで400人のお金持ちの中の一人と思われました。しかし、詳しく調べたらフィーニー社長は実際にそれ程の金持ちではありませんでした。財産の99%をもうすでに寄付していましたからです。自分の会社の株を少しずつ売って、全部で40億ドル、すなわち、4600億円を密かに寄付していました。フィーニー社長は古い衣服を着て、5ドルの腕時計を使って、家も、車さえも持っていません。彼は本当に質素に暮しています。
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心からの敬虔 ウイリアム・モーア
施しと祈りと断食聖書:マタイ6章1-18
主イエス・キリストの当時、敬虔なユダヤ人だと言う人は誰でも信仰生活で、必ず三つの事を行いました。それは施しと祈りと断食です。敬虔な信者は少なくともその三つの宗教的行為を実行しました。ユダヤ人はこの三つを大変重んじましたので、主イエスも山上の説教でこれを扱いました。施しと祈りと断食と言う行為を通して、イエスは神が望んでおられる「心からの敬虔」を教えられました。
さて、今日の個所の始めのところ、マタイによる福音書6章1ー4を見て下さい。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いを頂けない事になる。だから、あなたは施しをする時には、偽善者達が人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼等は既に報いを受けている。施しをする時は、右の手のする事を左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせない為である。そうすれば、隠れた事を見ておられる父が、あなたに報いて下さる」
とイエスは言われました。
善行の動機
イエスも善行と施し、その行動を大事にしました。しかし、善行その行為よりも、善行の裏にある私達の態度と動機をもっと大切にしました。実は、動機が誤まったら、善行の霊的な意味がなくなるからです。主イエスによりますと、もし人の褒め言葉と賞賛を得る為と言う動機ならば、神はその善行を高く評価しません。更に、自分が他の人よりも偉いと言う気持ちで良い行いをすると、神はその善行をも受け入れません。
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心からの義II ウイリアム・モーア
マタイ5章27-48
【律法を完成する者】
先週、主イエス・キリストが教えて下さった「心からの義」を一緒に学びました。今日も引き続き「心からの義II」を学びたいと思います。さて、覚えておられると思いますが、主は山上の説教でこのような意味深い宣言をしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。」つまり、主イエスによりますと、神の掟をただ表面的に守るのは不十分であり、神を喜ばせる事が出来ません。なぜなら、神と隣人に対して、愛のない、また心が曲がった人でも表面的に十分律法に従えます。実は、主は私達に心からの義を求めておられます。すなわち、神は掟の本当の目的とスピリットを守ろうとする精神を私達の中に見たいのです。主は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥そこまで見られます。何故なら、私達の態度と動機は神には大事であるからです。
【神の恵みを頂くのに相応しい態度】
しかし、神はどうしてそんなに私達の態度と動機に対して関心を持たれるのでしょうか。表面的でも、人間が御自身の掟を守るだけで十分ではありませんか。私達の思いまでも監督するのはちょっと求め過ぎだと思われる人がいるかも知れません。実は、神は私達一人一人を愛して下さいますので、正しい態度と動機を望んでおられるのです。つまり、主の豊な祝福を受けるように、特に霊的な祝福を受ける為に、相応しい態度と動機が必要であります。神が授けて下さった掟は神御自身の益の為ではありません。却って、それは私達個人と、社会全体の幸福の為に定められました。そして、それを喜んで心から守ると、主の祝福を豊に経験出来ます。その反面、心からではなく、ただ掟の表面的な要求だけに従うと、その祝福は余り分らなくなります。
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2005年10月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書
心からの義 ウイリアム・モーア
マタイによる福音書5章17-26
◆律法について
17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
18:はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
19:だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20:言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
◆腹を立ててはならない
21:「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
23:だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
25:あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
26:はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
腰痛とスポーツクラブ
私はずっと前から腰が弱いので、腰の手入れにかなり気を付けています。そうしないと腰がすぐ痛くなり、ある時はベッドから全然起き上がられない程ひどくなります。
数年前、特に苦しかった時、病院へ行って、腰痛の対策を教えて貰いました。それはおもに腰と腹の筋肉を強くさせる運動と足のストレチング・エクササイズでした。その運動をちゃんとすれば、腰が良くなると言われた私は頑張りました。しかし忙しい時は、忘れてしまいました。そうすると、やはり腰がまた痛くなります。
ですから、運動がもっとちゃんと出来るように近くにあるスポーツ・クラブに通い始めました。実際よく続けて運動しました。そうして腰は良くなりました。
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2005年10月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書
塩と光 ウイリアム・モーア
◆地の塩、世の光(マタイによる福音書5章)
13:「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その 塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、 外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
14:あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
15:また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
16:そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、 あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
チャーリーとペパーミント
ある日、ピーナッツと言う漫画の主人公チャーリー・ブラウンは自分の友人ペパーミント・パテイーにこのように言われました。「チャーリー、今日は新学年の始めの日なのに、あなたの為に私は校長先生の世話になってしまった。」びっくりしたチャーリー・ブラウンは、「私の為?学校が違うからそんなことはないはずよ。どうして全てが私の為といつも言うの」と言い返しました。すると、ペパーミントは返事しました。「チャーリー、私たちは昔からの友人でしょう。友人だったら、あなたは私にもっと良い影響を与えるべきだったのよ。」
また、ある牧師が家の庭で犬小屋を建てる最中に近所の坊やがやって来てその作業をじっと見つめていました。長い間何も言わずに坊やはただ牧師の姿と犬小屋を面白そうに見学していました。自分の月曜大工(日本では日曜大工)としての腕前が良いと思った牧師は坊やが興味深いのは賛嘆と受け取り、このように話しかけました。「犬小屋の建て方を教えようか。君も自分の犬の為にきっと建てられるよ。」そうすると、坊やは言いました。「家には犬がいないから、犬小屋を作る必要はないよ。実は、牧師先生が親指をハンマーで打つと、どんな言葉が出て来るかと思って待っているだけなの。」
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霊的な革命 ウイリアム・モーア
聖書:マタイによる福音書5章
1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。
◆八福
3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのもので
ある。
4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
幸せになりたい
私たちは誰でも幸福になりたいです。幸福の追求は人間に生まれながらの本能ではないかと思います。もし誰かが「私は幸せに暮したくない」と言ったら、その人の精神状態を疑う理由が十分あります。誰でも重要な目標として「幸せになりたい」と言う事を心に抱いていると思います。
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山上の説教 ウイリアム・モーア
◆山上の説教を始める(マタイによる福音書5章1-2)
1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。
讃美歌501
【クリスチャン生活の中心と基盤】
当然な事ですけれども、主イエスの教えは我々キリスト者にとって生活の中心と基盤になります。毎日の生活にその教えを覚え、心から従う事によってこそ、私達は本当のキリスト者になります。ですから、私達は常にその教えを学んで、毎日具体的に実行する必要があります。そうしないと私達の信仰はただ形式的なものとなり、主イエスが約束した豊な命を経験出来ず、空しい状態になります。
この最も大事な事について主イエスはこのように語られました。「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ7:24~27)と主イエスが言われました。
神の御子イエス・キリストの御言葉、すなわち御自分の教えははっきりと聖書に残されています。ですから、それを学ぶ為、聖書を開く必要があります。しかし、聖書を何処から学べば良いのか分からなくなる時があります。聖書の中で色々なお話が載ってありますので、イエスの教えとなる良い出発点は何処なのでしょうか。
【山上の説教:キリスト教の憲法】
実は、主イエス・キリストの基本的な教えを覚えようとしたら、一つのところを勧めたいと思います。それはマタイによる福音書に於けるイエスの「山上の説教」と言われるお話です。マタイによる福音書5章、6章、7章にあるこの山上の説教は何処の個所よりも主イエスの一番大事なお話を纏めています。ですから、ある人は山上の説教を「キリスト教の憲法」と呼びました。このマタイによる福音書の5~7章だけをマスターしたら、主イエスの教えの一番重要な点を理解出来るようになります。そして、その教えに従って、毎日の生活に実行すると、主の約束通りに「岩の上に自分の家を建てる人」になります。どんな事が襲って来ても、しっかり立つ事が出来、神は豊に勝利と恵みを授けて下さいます。
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神の祝福である私たちの子供 ウイリアム・モーア
箴言22章6:若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこから離れることがないであろう。
マタイによる福音書18章1-4
1:そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2:そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3:言われた。「はっきりいっておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4:自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
マタイによる福音書19章13-1513:そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14:しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」15:そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
【子供の頃】
子供の頃のどんな思い出が残っていますか。よく考えて見たら色々な思い出が溢れるように出て来ると思います。楽しい思い出、辛い思い出、沢山あるでしょう。幼い頃の思い出の一つとして父と一緒に町ヘ出掛けることでした。町に用事がある時、父は「私と町に行きたい人はいるか」と聞きました。もしいれば、車に乗せて用事の所へ一緒に連れてってくれました。私はいつも喜んで、すぐ父と行きました。色々な店や役所があって、郊外に住むわたしにとって、町はすごく面白かったです。私にとっては町に行く事は楽しい冒険になりました。でも父が側にいるからいつも安全な冒険でした。ほかにも色々な楽しい思い出が沢山あります。
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「死を覚え、よく生きる」淀川キリスト教病院伝道部長・田村英典牧師
聖書:詩編90編12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
「生涯の日を正しく数えるように教えてください」
今朝は「死を覚え、よく生きる」と題して、一時お話させて頂きます。
先程、お読みしました詩編90編12節に「生涯の日を正しく数える」とありますが、死で終る自分の人生の残りがどれ程かをしっかり心に留めるという事でしょう。作者はそのように自分を「教えて下さい」と神に祈るのです。ではそれは何の為でしょうか。
「知恵ある心を得る事が出来る」為だと言います。
「知恵ある心」とは、神の御前で自らの一生を真に意味あるもの、そして終には永遠の天の御国に入れる心と言えましょう。
特に人生最後の時、「辛い事も悲しい事も沢山あったが、生きてきて良かった。感謝です」と、神にも人にも自分にも言う事が出来、平安と感謝の内に天国に召して頂けるような心のあり方でしょう。
注目したいのは、自らの死を覚える事と、真に意義深い人生を送る知恵ある心を得る事が、密接不可分な関係にある事だということです。
2005年08月28日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
イエスに聞け ウイリアム・モーア
◆イエスの姿が変わる(マルコによる福音書9章2-8節) 2:六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3:服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4:エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6:ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7:すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8:弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけ が彼らと一緒におられた。
【新約時代における父なる神の御声】
考えて見ますと、新約聖書に於ける天の父なる神の直接な御言葉は本当に僅かです。実は、新約聖書の証しによりますと、父なる神は二度だけ御自分の口を開いて下さいました。一度は主イエスが洗礼者ヨハネによって洗礼を受けた直後でした。マタイによる福音書に記されていますが、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた.その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、『これは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(3:16~17)。これはとても短い宣言ですけれども、父なる神はその僅か16字で最も大事な事を語られました。天地万物の造り主、唯一の全能の神はイエスについてこのようにおっしゃいました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」つまり、「イエス・キリストは私の愛する子、また私の心に適う者ですから、皆が彼に従うべき」と言う大事な御言葉です。
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「神が望んでおられる事」ウイリアム・モーア
聖書:テモテへの手紙一2章
1:そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 2:王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
3:これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
4:神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
5:神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 6:この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。
7:わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。
【ドーナツ好きの男】
ある男の人が大変太って来て、健康に障るので、体重を減らすようにと医師によって注意されました。そうしないと、早く死ぬと言われた彼は早速ダイエットを始めようと決心しました。しかし、一つの問題があったのです。それはドーナツが大好きでした。毎朝、仕事へ通う時、必ずドーナツ・ショップに止め、ドーナツ四つを買って、コーヒーを飲みながら食べる習慣がありました。命の問題ですから、ドーナツを食べてはいけないと思っても、誘惑に負けました。そして、ドーナツ・ショップの近くに来ると彼はこのように祈りしました。「神様、どうか、御心を現して下さい。今朝だけですが、もしドーナツを食べても構わないのなら、ドーナツ・ショップの直ぐ前に駐車のスペースを開いて下さいますようにお願いします。」
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がらくたを捨てる ウイリアム・モーア
聖書:テサロニケの信徒への手紙一5章21-22
21:すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
22:あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
【ゴミ屋敷の主人】
数年前に見たテレビ番組ですけれども、なかなか忘れられません。それはゴミ屋敷についての番組でした。あるリポーターがその事を調べる為に町の有名なゴミ屋敷を訪ねました。家の周りはゴミだらけでした。古い故障した自転車数十台がお庭に山積(さんせき)して、錆びた電気製品も沢山置いてありました。また、古いぼろぼろになった家具も結構あったのです。近所の人によりますと、主人はいつも在宅していましたが、リポーターが玄関のベルを鳴らすと、誰も出て来てくれませんでした。そして、リポーターはコンビ二へ行ってお土産としてお弁当を買って、玄関の外に置いて帰りました。次の日にも同じ事をしましたけれども、ベルを鳴らしても主人はドアを開けてくれませんでした。やっとその次の日、お弁当を持って来た時、主人はドアを少し開けましたので、リポーターは話掛けることができました。優しく語りましたので、主人はやっとリポーターを玄関まで迎え入れてくれました。しかし、入るとびっくりしました。その家の中は床から天井まで物で一杯でした。そして、使えそうな物は殆どなくて、大半はがらくたでした。さらに臭い臭いがする生ゴミまでも置いてありました。そこに置いた新聞をちらっと見ると、大変驚きました。20年前の日付でした。家の中を自由に歩けない程ゴミが置いてありました。その上、階段はゴミがあんまり沢山積んであったので、ニ階へは全く上がれませんでした。
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2005年07月03日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
ヤイロの娘は父に何を見ましたか ウイリアム・モーア宣教師【父の日】
◆ヤイロの娘【ルカによる福音書8章】
40:イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。 41:そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
42:十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。・・・・・・
49:イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 50:イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
51:イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。 52:人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
53:人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。 54:イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。 55:すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。
56:娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
【パパ。ママの嫌いな事をする人:子育てはママの仕事ですか?】
電車の中のお話ですが、お母さんと4歳ぐらいの子供が一緒に乗っていました。その4歳の子供はじっと座っていられなくて、座ったり立ったり、窓を叩いたりしていました。それを見ていたお母さんは止めさせようと何度か連れ戻して、横に座らせましたが、坊やはまた逃げて行ってドアの方に立っていたのです。お母さんは呼び戻そうとこう叫びました。「ママの嫌いな事をする人って誰かしら?」するとその息子は思わず「パパ。ママの嫌いな事をする人はパパだ」と言ったそうです。
今の社会でパパ、お父さんと言う存在はどう映っているのでしょうか。また、この話の中のパパはどんな人でしょうか。ママにとって、坊やのパパがする嫌いな事は分かりません。色々な嫌いな事を想像出来ますが、恐らくこのパパは子供の養育にあんまり関心がなかった為、ママの反感をいだかせたかも知れません.現在の社会ではどこの国でもそれは大きな問題になっています。お父さんは仕事とお付き合いとレージャで忙しく、子供の為の時間が僅かになります。また、お父さんは子育てはママの仕事だと思い込んで、子供の事なら、ほとんど全てをお母さんに任せるケースが多いようです。ですからお父さんは家族には幽霊のような存在であります。先日、息子ポールの卒業式であるお父さんに初めて会いました。そのお母さんには何度か会った事があります。しかし、そのお父さんは12年間この卒業式の際に始めて学校に来たそうです。最後の機会になりましたが、卒業式に来ました。
「あなたがたは世の光である」ウイリアム・モーア
マタイによる福音書5章14~16
14:あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
15:また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
16:そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
コリントの信徒への手紙一10章3131:だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
【ピエロの宣教】
最近、キリスト教の世界にも世の流れと共に色んな宣教方法があります。青年伝道や、学校・病院のチャプレンの働きや、神学校で教える事などは昔からよく知られている奉仕ですけれども、最近は珍しい、あんまり知られていない特別な奉仕もあります。例えば、ある団体の働きは、道路がまだないアフリカと南米のジャングル村まで宣教師達を飛行機で移送して下さる事です。飛行機は小さいですが、宣教師の為の航空会社みたいです。またある団体は聖書を珍しい言葉に翻訳します。御言葉は全ての民の為であると信じ、わずか数千人の部族でも、その人の言葉に聖書を提供します。しかし、私が聞いた変わった宣教方法の中で、恐らくピエロの宣教は一番珍しいのであります。その方々はピエロのスーツを着て、観衆を楽しませながら、聖書のお話を語ります。
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恐れることはない。イエス・キリストは復活なさったのだ ウイリアム・モーア宣教師
◆復活する
1:さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方にマグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2:すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
3:その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4:番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5:天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6:あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7:それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8:婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9:すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10:イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
【イエス・キリストは復活された】
今日はイースター、すなわち復活祭です。この日に私達は世界の全てのキリスト者と共にイエス・キリストの栄えある復活を祝って、死から主イエスを蘇らせた愛する天の父なる神を賛美し、心から褒め讃えます。
間違いなく、イエス・キリストの復活は我々の信仰の中心的出来事になります。何故かと言いますと、もし主イエスがただ死んでしまった優れた人物であるならば、ずっと前に忘れられていた事でしょう。実は、世界の歴史の中で優れた人物は大勢いましたが、ほとんど皆はやがて忘れられてしまいました。しかし、イエスが現在まで世界中の人々に覚えられた理由は、確かに、主は唯一の全能の神の力によって蘇られて、今、生きておられるからです。ですから、今日、生きておられるイエス・キリストを祝っています。
使徒パウロは主イエスの復活についてこのようにコリントにある教会に書きました、「最も大切な事として私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私達の罪の為に死んだ事、葬られた事、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活した事、ケファに現れ、その後十二人に現れた事です。次いで、五百人以上もの兄弟達に同時に現れました。」(コリント第一15:3~6a、)
使徒パウロが伝えた通りです。確かに、イエス・キリストの復活は「最も大切な事」です。特に、その当時、蘇られたイエスを目撃した弟子達には最も大切な事になりました。
神と津波 ウイリアム・モーア宣教師
詩編34編
2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
【巨大津波】
一人残らず、私達はこの間の恐ろしい津波の事でぞっとさせられたと思います。このところ毎日、テレビを通してその生々しい現場が見られ、私達の想像を超えた津波の破壊的力に驚くばかりです。現場から遠く離れていても、被害統計を聞くと、津波がもたらした災害の範囲が分かってきます。死者は15万人以上、家族のメンバーを無くした者と怪我人は数十万人、住む家を失った人は5百万人、職場を無くした人は数百万人、そして飢えている人は2百万人程です。国連によりますと、今回の自然災害の被害の程度は60年ぶりだそうです。津波の為の精神的と肉体的の苦しみはきっと私達の想像を超えるものです。
【神は何故】
その災害がもたらしたひどい悪に対して、多くの人はこのような質問を聞いています。もしこの世と宇宙を創造された神が愛する全知全能の完璧な神であるなら、いったいどうして津波のような大きな災害を許すのでしょうか。本当に力があるなら、善い神は御自分の被造物をそのような非常な災いから守るべきではないでしょうか。
ある人は神を弁護するかのように、こう語ります。「神には力があるんですが、津波までは足りてないのです。神は実際に全ての悪をこの世から除去したいけれども、地震や津波のような自然災害の場合は神の手におえません。」
その反対に、ある人は神の全能を認めますが、神の善と愛を疑います。すなわち、「主は実際に天地万物を治める力がありますが、ただ巨大な宇宙の中にいる小さい私達までは忘れているのです。」あるいは、「神は私達を見るのですが、哀れみをあんまり感じてません。」
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完璧な贈り物 ウイリアム・モーア宣教師 クリスマス礼拝
◆イエスの誕生 ルカ福音書2章
1:そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3:人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4:ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5:身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7:初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
8:その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9:すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10:天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11:今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12:あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
13:すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14:「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
【子供だった頃】
私は子供の頃、一年中クリスマスが来るのを一番楽しみにしていたのでした。何故かと言えば、クリスマスに沢山のプレゼントが貰えるからです。我が家ではお年玉の伝統がなかったので、おもにクリスマスにプレゼントを頂きました。そして、我が家では、その包装紙とリボンで包んだプレゼントをクリスマスの前に絶対に開けてはいけないと言うルールがありました。ですから、子供の私には、クリスマスが来るまで待つのはとても難しいことでした。今も覚えていますが、クリスマスが近くなると母に毎日こう聞きました。「ママ、クリスマスまで後何日残ってる?」そして、その日数が小さくなる程、幼い私の興奮がますます高まりました。
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2004年12月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書
神への愛・人への愛―キリストの十字架に見るその極致― 市川康則神戸改革派神学校教授
ルカ福音書23章
32:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34:〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36:兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39:十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40:すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。44:既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 45:太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 46:イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 こう言って息を引き取られた。 47:百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」 と言って、神を賛美した。 48:見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 49:イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
【はじめに―キリストの忍耐】
キリストの十字架物語は、復活物語と一つになって、新約聖書、否、全聖書の中心的な出来事とその教えを成しています(Ⅰコリント15:3‐4)。今朝はルカ福音書23:32‐49に記されるキリストの十字架の苦難の特徴に注目して、極限状態の中でのキリストの忍耐とそこに示される愛―真実、最高の愛―を見たいと願っています。
人が忍耐することのできる条件、状況は二つです。一つは、そうすることが自分にとって利益があるとき、そうすることが得策であるときです。このときは、とにかく我慢します。しかし、もう益がないと思えば、さっさとあきらめたり、忍耐を捨てます。
もう一つは、相手を真に愛するときです。相手を喜ばせよう、喜ばれたいという思いから、どんな困難をも厭わない、忍耐が苦痛でなくなります。竹取物語で、かぐや姫の無理難題を引き受けようとした5人の貴公子の苦労は、その見本でしょう。このような愛ゆえの忍耐の極致が殉教です。殉教とは、人に対する愛であれ、思想に対する愛であれ、そのために命を犠牲にすることです。
「新しい教会へのメッセージ・パートⅡ」
グラハム・スミスCMS宣教師KGK主事
◆テサロニケでのパウロの宣教 1テサロニケ2章1-16 1:兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。 2:無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。 3:わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。 4:わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 5:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 6:また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 7:わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 8:わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 9:兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。 10:あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。 11:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 12:呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧め たのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 13:このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦 しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。 15:ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 16:異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。 しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。
【倣うもの】
有名な聖書のことばを紹介します。
「わたしがキリストに倣うものであるように、あなたがたもこの私に倣うものとなりなさい。」(1コリント11:1)
これは使徒パウロという初代教会の宣教師が言ったことばです。私に倣うものとなりなさいと。
別の箇所で、パウロはテモテという福音の働き人にこう言いました、
「信じる人々の模範になりなさい。」(1テモテ4:12)
一人の弟子であるペテロも、キリストの苦しみを模範とすることを勧めました(1ペテロ2:22)。模範を示すことや倣う者になることは、人間の成長のために重要な方法です。異文化の生活に慣れるために回りの人がやっていることを注意深く見て、同じように行動することは大切なのです。 (例え)
2004年05月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , 新約聖書
復活節礼拝メッセージ【ここに私達の希望がある】ウイリアム・モーア
◆復活する マタイ28章 1:さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2:すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3:その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4:番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5:天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6:あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7:それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8:婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9:すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10:イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
【主イエス・キリストの復活】
今日、復活祭、イースターの際に、私達は主イエス・キリストの蘇りを覚え祝う為にここに集めて来ました。そして、世界中数え切れない程の主にある兄弟姉妹も私達と一緒に復活の喜びを分かち合っています。しかし、主の蘇りを祝うと同時に私達の心は重いです。特に今年はこの世はテロと戦争に巻き込まれ、平和と愛の世界は夢にすぎないような気がします。毎朝、新聞を読むと悪いニュースは良いニュースより遥かに多く、この世はいったいどうなるのか心配で心を取り乱しています。
【十字架からの愛】ウイリアム・モーア
【聖書】ルカによる福音書23章32~43 32:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34:〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36:兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39:十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40:すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、 同じ刑罰を受けているのに。 41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。 しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
【パッション】
今回私がアメリカに戻った時、アメリカ全国の話題になる映画がありました。それはメール・ギブソン監督の The Passion of the Christ すなわち「救い主であるキリストの受難」と言う映画です。何週間の間その映画は一番良く見られた作品で、大ヒットになりました。実は、アメリカの人口の五分の一程がその映画を見に行きました。来る五月には日本でも公開される予定です。内容はイエス・キリストの十字架の死とその前の24時間です。弟子ユダの裏切りと神殿警察によっての逮捕と不正な裁判と鞭で懲らしめる事と最後に十字架の死を詳しく見せる映画です。
私は先月、教会を訪問する為にアメリカのあちこちへ行きましたが、どこへ行っても何よりもその映画の事が話題になりました。「あの映画をもう見ましたか。どう思った」などとよく聞かれました。さらにマスコミもその映画の事をよく取り上げました。「受難の時のイエス・キリストに対する暴力があんまり詳しく見せるから子供には見せない方が良い」や「映画は人々に反ユダヤ主義を起こす恐れがある」などの批判がありました。
しかし、私はその映画を見る事によってイエス・キリストの十字架からの大きな、大きな犠牲的愛を新たに覚え、経験する事が出来ました。その愛はイエス・キリストを信じる人には希望と永遠の救いを届ける力があると確信が強くなったのです。
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【あなたはイエス様が見えますか】伊丹教会長老城下忠司
【聖書】ヨハネによる福音書9章1~12,35~41
◆生まれつきの盲人をいやす
1:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけ
られた。
2:弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見え
ないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4:わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5:わたしは、世にいる間、世の光である。」
6:こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7:そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8:近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10:そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と
言うと、
11:彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12:人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」 と言った。
◆ファリサイ派の人々の罪
35:イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36:彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37:イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38:彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
39:イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。 こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40:イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41:イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
【あなたはイエス様が見えますか】
皆さんおはようございます.伊丹教会の城下と申します。
今日は初めて、皆さんの前でお話させていただきます.初めてのお方もいらっしゃいますが、よろしくお願いいたします.
読んでいただいたこの物語は、一言で申しますと、イエス様に目を見えるようにして頂いた盲人がイエスさまを信じるようになったというお話です。
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【新しい教会へのメッセージ】グラハム・スミス
【聖書】1テサロニケ1:1ー10
◆挨拶
1:パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
◆主に倣う者
2:わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3:あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐しているこ とを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
4:神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけに よらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6:そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
7:マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
8:主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
9:彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
10:更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。
【話しかけてくださる神様】(聖書の大切さ)
西谷集会に招かれていることを心から感謝を申し上げます。ひさしぶりという感じがしています。ここで、このように、毎週、礼拝のために集まることはすばらしい事です。今日、この交わりの喜びに預かることを感謝しています。今日の聖書箇所を見る前に、一つの問いをかけたいのです。どうして、礼拝の中心は聖書の話しですか。不思議と思いませんか。今日学ぶ箇所は2000年ほど前のギリシャの町の話しです。歴史の研究会なら納得できますが、どうしてクリスチャンたちは古い本からメッセージを聴くでしょうか。答えには二つのことが言えます。まず、その聖書は神様、すべてをお造りになった、すべてを支配しておられる、いのちを与える、生きる道を示す神様からのメッセージだからです。そして、もう一つの答えは、すべての聖書箇所には現代にあてはまるところがあるからです。特に、今日の箇所はテサロニケの教会への手紙ですが、ちょっと調べると、その教会とここに集まっている西谷集会の事情が良く似ているということが分かります。あとで説明しますが、共通点が多いです。このことを考えると、この手紙は古くて、別な地域の話しにも関わらず、今日の私たちに神様からのメッセージとして、受け取る事が出来ます。必要とされているのは、このメッセージを聴こうとする姿勢です。もう一度、神様が語って下さるメッセージを聴くことができるように祈りましょう。
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2004年03月07日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書
【二人の家を建てる者】ウイリアム・モーア
【わたしの言葉を聞き、それを行う人】ルカによる福音書6:46~49 46:「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 47:わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48:それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49:しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
【アメリカの教会で】
アメリカで教会の牧会をしていた頃、色んな人に接することがありました。牧会をしていた教会の会員だけではなく、全く知らない人にもよく巡り会いました。つまり、色々な人々は教会を頼りにして訪ねて来ました。日本ではちょっと困った事があったら近くの交番へ行かれるのだそうですね。アメリカでは多くの場合、困った事があったら、遠慮なく一番近い教会を訪ねて来ます。そういうふうにして訪ねて来る多くの人は大抵自分で可愛そうな話を考え出し、現金を恵んでくれるように頼みます。ある人は近くの教会をあちこち訪ねながら、生活をしている人もいます。このような人々は大抵現金だけを求めて来ますが、時には生活に必要な物を求めて来る人もいます。
ある日、教会で説教の準備をしていたら、全く知らない人から電話がありました。「高速道路で車のガソリンが切れてしまったが、お金が全然ないから、ちょっとガソリンを持って来て下さいませんか」と言う事でした。そう言う願いは全く始めてで、ちょっとびっくりしましたけれども、少しでも困っている人の助けになりたい気持でガソリンスタンドへ行って、ガソリンの18リットル缶を一杯にして、高速道路に入りました。そしてガソリンがなくなった車の所に着いた時は、またびっくりしました。その車は私の車よりもずうっと良い物だったのです。車の中を覗いて見ると家族は楽しそうにおやつを食べながら旅行をしているようでした。運転席に座っているお父さんのように見える人はこう言いました。「ああ、ガソリンを持って来てくれてありがとう。入れてくれないか」と平然と言いました。ガソリンを入れて上げてからこう考えました。この家族は多分このように教会に頼みながら旅行をしている人達なんだなと思いました。ガソリンがなくなると、いつも一番近い教会に電話をして、ガソリンを一杯にしてくれるようにと頼んでいるようでした。とにかく、ガソリンを注ぎ終わると、家族皆はにっこりして、さようならと言って、高速道路を走り出しました。
またこんな話もあります。ある夜遅く自宅に電話がありました。「結婚式を今夜でもすぐ挙げて下さいませんか」と突然、知らない女性からの電話でした。「先ず、あなたの相手になる人と一緒に教会に相談しに来て下さい」と私が答えました。「いや、私自身の事じゃなくて、十六歳の妹の事です。彼女は良い男を見つけて、速く結婚したいと言っているんです。」私は、「もし妹さんが結婚する時期になったら、本人が教会に直接来て貰って、私と相談すべきではありませんか」と言いました。その電話はそれっきりで、もう電話はかかって来ませんでした。
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【私達が愛するのは神がまず私達を愛して下さったから】ウイリアム・モーア
【神は愛です】ヨハネの手紙一4:16bー21 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 17:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 18:愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
【ウエスレー兄弟の先輩―ウイリアム・ロー】
メソジスト教派の創始者であるジョン・ウエスレーは神学生の時、良いクリスチャンになる為に、一所懸命に頑張りました。兄弟チャールズと一緒に英国のオクスフォード大学で仲間を集め、厳しいクリスチャン生活を送りました。そのグループは「ホーリイクラブ」すなわち神聖クラブと呼ばれていました。色々な厳しいルールを作って、真面目、真面目に神に従おうとしました。しかし、残念ながら、いくら頑張っても彼等は平安と喜びをあんまり経験出来ませんでした。ウエズレー兄弟がアドバイスを求め、先輩ウイリアム・ローに訪ねたどころ、ロー先生はこのように言いました。「君達はキリスト教から面倒くさい複雑なものを作っている。実は、キリスト教信仰は本当に簡単です。我等の信仰の本質はただこれです。『私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。』」
【キリスト信仰の本質―神は愛です】
キリストの信仰は基本的に難しくはありません。もちろん聖書のある箇所は色々な解釈があって、神学の微妙な違いで議論に入る事が出来ますけれども、本質は実に簡単です。その本質について少し考えると、キリスト教信仰の重要な点はピントが合って来て、主イエスに従う意味が新たに分かってきます。
さて、簡単にキリスト教信仰とキリスト教会を説明する事が出来ますか。「私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。」恐らく何よりも、これは私達の信仰の本質だと思います。ある程度、神秘に包まれているので、全能の唯一の神についてまだ分からない事があります。しかし、私達人間に対しての神の御業は、十分分かっています。それは主に愛です。神様は御自分の大きな愛から私達を愛して下さいます。今日の朗読の通りに「神は愛です。」もちろんキリスト信仰には天国の素晴らしい事についての教えがありますが、今、この世にあっては、神に愛された事と隣人を愛する事を強調します。そして、キリスト教には律法、すなわち規則があるけれども、愛は全ての 律法を成就します。
社会では愛の事について良く聞きますね。多分これはキリスト教の影響だと思います。しかし、社会に愛を実現するのはなかなか難しいです。なぜなら、愛がかなり誤解されていると思います。その理由は、愛にとって絶対に必要な基盤を知らず、愛を実現しようとしているからです。その基盤とは私達の為の神の愛であります。神が先ず私達を愛して下さったから、私達は愛する事が出来ます。本当の愛の源は神からです。
【揺り動かされる事のないもの】ウイリアム・モーア
【揺り動かされないもの】ヘブライ人への手紙12:25―29 25:あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。 26:あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」 27:この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。 28:このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、 神に喜ばれるように仕えていこう。 29:実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
【阪神淡路大震災】
去る17日はに阪神淡路大震災の9周年記念がありました。9年後の今になっても、まだまだその後遺症で霊的と肉的において沢山の人々は苦しんでいると聞きました。特に、力強い神様の慰めと癒しがその方々一人一人の上にあります事をお祈りします。震災の日、朝早く、わずか20秒の間ですが、ほんのちょっとの間、どうしょうも出来ない事が起きました。その事で多くの人々の人生は完全にひっくり返てしまいました。その結果、5、500人が亡くなり、また35、000人の怪我人がありました。壊れた建物は18万軒、住む家を無くした者は30万人程でした。そして、地震が直接に起こした経済的被害は13兆円以上と思われています。
地が揺り動くと、多くの者は仕事の上で、家庭の上で、個人それぞれのプランや思いをこえ、人々の人生はすっかり変わりました。震災を経験した者一人一人は誰よりもその事をよく知っておられると思います。愛する者を亡くしたり、そして財産と職場が失われたり沢山の人々は現在も毎日、震災の影響の下で生きています。
【この世の変化】
恐らく地震はこの世の変化と変動の一番劇的な例であると思います。瞬間的に全てを大きく変えるからです。しかし、考えて見れば、この世の全ての事は常に変わります。特に人間の社会はますます変わって来ます。もし100年前の日本人が現在の日本を訪ねると、驚いてしまう事でしょう。変化があんまり大き過ぎて、きっとここは日本ではないのかと思ってしまいます。今の日本の社会には良い変化と良くない変化両方が沢山ありますから、恐らくここが日本だと信じ難いですね。
技術的な変化も結構沢山ありました。人間には不可能な多くの事が随分可能になりました。例えば、交通が良くなって飛行機で20時間以内にほどんど何処の国へでも行けます。また、電話とインタネットを通して即座の連絡が普通になって、色々な情報をすぐ入手出来ます。そして、医学の技術を通して、心臓移植のような以前には想像も出来なかった事が今は普通になりました。
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【私は何の為に生きていますか】ウイリアム・モーア
◆「タラントン」のたとえ マタイ25:14~30 14:「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15:それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16:五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17:同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18:しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
19:さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20:まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
21:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22:次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
23:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』24:ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25:恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
26:主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
27:それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28:さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29:だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
30:この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
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【一番良いものを得る事】ウイリアム・モーア
マタイ13:45~46 45:また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 46:高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
【欲しかったカメラ】
何かの物をどうしても手に入れたいと言う気持ちになった事がありますか。とでも素敵な物を見て、それを欲しくてたまらない程憧れがあった事がありますか。誰でもそのような経験があったと思います。私は中学生の時代、カメラの事で夢中になって、ある新しく出たカメラが欲しかったのです。そのカメラのパンフレットとカタログをよく見て、カメラを触る為に、わざわざ店へ何回も足を運びました。夢にもそのカメラを見る程でした。とにかく、あのカメラをどうしても手に入れたかったのです。しかし、結構高かったので、中学生の私の予算ではなかなか合わなかったんです。でもそのカメラは私の一番憧れる物だったので、どんな犠牲を払っても、それを自分の物にしようと決心をしました。お小遣いを全部貯めて、お金を稼ぐ為に近所のお庭の芝生刈りをして、そして持っていたカメラと他の私の宝物を全部売ってしまいました。そしてようやくカメラの代金を集め、買いに行きました。長く欲しかった物をやっと手に入れた気持ちは何十年が経った今も良く覚えています。
【高価な真珠を見つけた商人】
先ほど読んだ聖書の箇所にイエス様はその同じようなお話を語って下さいました。もう一同読みましょう。マタイ13:45~46。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
このイエスの譬え話は大変短いです。恐らくこれはイエスの譬え話の中で一番短いものなんですが、その背景には意味深いものがあります。お仕事で宝石商人があちこちへ行って、真珠を探していました。でも、今回は普通の真珠ではなくて、特別に優れた真珠を求めていました。
ところで、その当時はもちろん養殖真珠の時代のずっと前ですから、真珠は珍しく、大変高かったのです。一般の人には夢でも真珠を持つ事は想像も出来ませんでした。普通の小さい真珠はすごく高かったんですが、特別に良い物は大変珍しいですので、信じられない程高かったんです。クレオパトラ、古代エジプトの女王は一つの優れた真珠を持っていました。それは、今のお金で5億円の値打ちがあったんだそうです。とにかく、イエス様の譬え話の商人は色々な所へ行って良い真珠を買い求めました。
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【お正月の聖餐】ウイリアム・モーア
◆主の晩餐の制定 コリントの人への手紙一11:23-32
23:わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25:また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26:だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
27:従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
28:だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
29:主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
30:そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
31:わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
32:裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
皆さん、HappyNewYear!.開けましておめでとうございます。神様の大きな恵みによって私達にこの新しい年、主イエスキリストの2004年と言うこの年が与えられました。どうか、この2004年には神様の大きな祝福とイエスキリストの御臨在が皆さんと皆さんの御家族一人、一人の上に豊にあります事を祈ります。
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2004年01月04日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
【子供のように神の国を受け入れる人】ウイリアム・モーア
◆子供を祝福する、ルカによる福音書18:15~17 15:イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。 弟子たちは、これを見て叱った。 16:しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 17:はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」
弟子たちは叱った
ある日、多くの人々がイエスの教えを聞く為に町を出て郊外に集まって来ました。有名になったイエスのもとには、どこへ行っても大勢の人が集まって来ました。主の教えは全ての点で他の先生(ラビ)とは違いました。イエスは権威ある者のように教えられましたからです。神様の事を力強く人々に直接述べ伝え、素晴らしい奇跡的印(しるし)も行いました。また、病気を治す力がありましたので、病気の人々は次から次えとやって来て癒してくれるように切に願いました。ある病人はただイエスの着物に触れただけで元気になりました。
休む暇、食事を取る暇もない程、イエスは毎日大忙しでした。どうしても、神の御言葉を求める人や病気の人を断る事が出来ませんでした。毎日、毎日、人の悩みや質問を聞いて、分かりやすく答えられました。イエスのお話を聞くとそれは神からの御言葉だと皆が悟りました。
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クリスマス・メッセージ ウイリアム・モーア 待降節第4週
◆イエス・キリストの誕生 18:イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20:このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21:マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22:このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 23:「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24:ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25:男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
【私のクリスマス・プレゼントは何?】
私の子供の頃、クリスマスが近くになると、両親はいつも私達三人の兄弟に一つの素晴らしい質問を問い掛けました。普段には両親からの質問は「宿題が済んだの?歯を磨いた?帰りは何故遅くなったのか?」などのようなあんまり歓迎されるものではないけれども、クリスマスの頃の質問は私達兄弟三人が一年中楽しみに待っていたのです。
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【洗礼の意味】ウイリアム・モーア 待降節第3週
洗礼の意味◆弟子たちを派遣する マタイによる福音書28章16~20節 16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
昔のアメリカでは多くの田舎の教会は洗礼式を川で行ないました。そして、ある日、一人の男の人はちょっと飲み過ぎて、散歩しながら、洗礼式を行なう教会の群れに巡り会いました。彼はあんまり深く考えないで、その式を近くで見る為に川の水に入って、牧師の側に立ちました。
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【イエス・キリストによる神のみ言葉(預言)の実現】ウイリアム・モーア 待降節第2週
ルカによる福音書4章16:イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
17:預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18:「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、
/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、
/捕らわれている人に解放を、
/目の見えない人に視力の回復を告げ、
/圧迫されている人を自由にし、
19:主の恵みの年を告げるためである。」
20:イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
21:そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(旧約聖書)イザヤ書61章1~3
◆貧しい者への福音
1:主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2:主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め 3:シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。