2013年9月22日説教「信仰と行い」姜 世媛カンセウオン先生(WEC派遣宣教師/神戸改革派神学校特別聴講生)
聖書:ヤコブの手紙
【行いを欠く信仰は死んだもの】
2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(説教要約 文責近藤)
今日は「信仰と行い」ということを御言葉から考えてみたいと思います。ヤコブの手紙は主イエス兄弟であるヤコブが書きました。宛先は離散しているクリスチャンです。この手紙は行いを強調していると誤解されている面がありますが、すでに救われて信者になった人びとに書かれたものであります。
一つの質問ですが「信仰生活」とはなんですか。韓国人はこう聞くと多くの人が「はい、はい」って答える人は多いですが、日本人は余り答える人は少ないですね。それは間違っていないかなーと、正しい答えを探しているからだと思いますが、しかし一人一人答えは違うと思いますね。
「信仰生活」と言う4文字熟語になりますが、「信仰」と「生活」とに分けられます。
信仰を持っている信者の生活と言えます。すべての教会の集会に出席する模範的な人、これらが信仰生活と思う言う人もあります。間違っているとは思いませんが、生活全般における人格的に成熟した状態と考えることが出来ます。信仰と生活を分けて考える人、信仰と生活は分けられないと考える人の両方が考えられます。
私は13歳で信仰に入りました時、日曜日が来るのは本当に楽しみでした。しかし月曜日になると寂しくなりました。
信仰と生活を分ける人はこのように世間に出る顔と教会に出る顔が違います。「それでもあなたはクリスチャン」と聞かれるとガッカリいたします。
信仰と生活また行いと言うことで今日は3つのことを考えてみたいと思います。
【「行いのない信仰は死んだものです」】
1番目は「行いのない信仰は死んだものです」
ヤコブの手紙に2章17節、そして2章26節を共に読んでみましょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
今日の15、16節に
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
そしてこのように結びます、
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
行いの伴っていない信仰は信仰と言えるでしょうか。
今日でも日本に食べる者のない人がいると聞くと本当に驚きました。日本で統計的に10人に3人は食べるものがないというのです。
また寂しいと言う人がいるとしますね。忙しくてすぐに帰らなければならないとします。その時「あなた大丈夫、主がともにいます」という言葉だけで済ますことはどうでしょうか。
韓国での話ですが、ある婦人が「私は、主人が亡くなってから寂しい」と言われます。教会全員に毎日同じことを繰り返し繰り返し訴えられます。聞かされる方はもう困惑いたします。その方はうつ病で入院されましたが。いつこの話が終るのだろうと。
周りのの誰かが困っているなら、出来るなら助けてあげるべきです、16節にあるように食べ物がなければ与えるべきです。
17節信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
この前、韓国に帰ったとき大学時代親しくした友人がいました。彼女は結婚して幸せで三人の子供に恵まれましたが、主人の腎臓が悪くなって人口透析をしていましたが遂に腎臓移植を受けることになったのです。主人のために彼女は自分の片方の腎臓を提供いたしました。そしてその主人は回復致しました。そのような事は私にできるでしょうかと迷う気持ちがあります。このように親しい家族にも迷いがあることに驚きました。
家族、友人、教会の人、あるいは好きな人、好きでない人にも、主イエスのようにすべての人を愛して命を与えることが出来るでしょうか。できなくても神様は最善をすることを願っておられます。
【行いのない信仰はむなしい】
二番目、「行いのない信仰はむなしい」と言うことをヤコブの手紙2章20節で言っておりますが、この「役に立たない」という言葉が新共同訳聖書に書かれておりす。しかしこれを新改訳聖書は「むなしい」と書かれております。
信仰を伴わない生活は「むなしい」ものだと言われます。
【ナイアガラ瀑布を渡った曲芸師】
アメリカとカナダの間のナイアガラ瀑布での話ですが、ある綱渡り曲芸師が綱渡りをすることになりました。曲芸師は見物のみんなに聞きました。私はこの綱渡りが成功するでしょうか。みんなは「できる、成功する」。彼は綱渡りに成功した。次に見物人に聴きました。「背中に椅子を背負って綱渡りを成功できるできるでしょうか」。皆は「できる。できる」と喝采した。曲芸師はもう一度聞きました。「それでは誰かこの背中の椅子に乗って私と一緒にナイアガラ瀑布を渡りませんか」と聞きました。が見物客みんなは沈黙しました。誰も彼と一緒にナイアガラを渡りたいと言う人は一人も居ませんでした。観衆は綱渡りの成功を信じましたが行いが伴わなかったのです。
「信仰があっても行いの伴わないものは虚しい」と言うことであります。
今日の2章18節には、
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
良い行いをしても信仰が伴わなければ悪霊どもの信仰と一緒だと言われます。
【悪霊どももそう信じて、おののいています】
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
ここで悪霊どもでさえ神を信じていると言われます。
マタイによる福音書8章29節にそのことが書かれています。
8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
悪霊でさえ神の子を認めており、イエス様は神の子だとわかっておりました。しかし善い行いはありませんでした。
愛する皆さん。だから「行いのない信仰はむなしい」ということが分かりますね。聖霊の助けで良い行いに励みましょう。
【信仰と行いは相働いて実を結ぶ】
三つ目は「信仰と行いは相働いて実を結ぶ」ということです。21節から26節を河内長老に読んでいただきます。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
アブラハムと娼婦ラハブの例が書かれております。
そのことはまたヘブライ人への手紙11章17節と31節に書かれています。
ヘブライ人への手紙11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
ヘブライ人への手紙11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
独り子イサクを捧げようとしたアブラハムの行為を彼の信仰と神は認められたのです。
娼婦らハブのした行為も同じで、信仰によってしたことです。
ルカによる福音書6章43~44節に書かれています。
6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
私たちが真の信仰を持っているなら善い行いが伴います。そして善い実を結びます。
【アナニアとサッピラ】
使徒言行録5章に初代エルサレム教会の献金のことでアナニアとサッピラ夫婦の悪事の例がございます。彼らは自分の持ちものを売って献金しましたが、そのそれは賞賛を得るためで見せかけでありました。その一部だけを出して、それは自分たちの手全財産だと言って嘘をつきました。これは見せかけの聖霊を欺くまた兄弟姉妹を欺く信仰のない行いでした。そしてアナニアとサッピラ夫婦は即座に使徒の前で死にました。
私が高校生の時私はこれを聞いて驚きました。しかしある先生が言われたが現代教会にもアナニアとサッピラはいます。イエス・キリストの名で捧げものをする人がありますが、その人は人々に自分の売名行為のためにし、かれらには信仰はありません。
ヨハネの手紙一3章18~19節に書かれています。
3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます
聖書は口先だけでなく誠実と行いをもって愛し合おうと勧めます。
しかし思いを伝えるのに言葉が大事であることについて私は思います。わたしは主人に「私を愛していますか」とききますと、主人はあれこれと他の言葉で弁解します。一言「愛している」と言えばよいのに。
男性は言葉より行いを重視する傾向があり、話さないことが美徳である考える傾向がありますね。最近の若者は言葉で言ってくれないと分からないと考える人が多くなってきたようです。言葉で表すと言うことも必要であります。言葉と行いで誠実に人を愛しましょう。
愛する皆さん。主イエスは望んでおられます。主イエスとともに信仰と行いに励み、神様の愛をあらわすために信仰と行いが共に相働いて豊かな愛の実を結ぶことを願っております。(おわり)
2013.6.16.説教「神が共におられる人生」田村英典牧師(北神戸キリスト教会)
2013.6.16.説教「神が共におられる人生」田村英典牧師(北神戸キリスト教会)
旧約聖書ヨシュア記1章( モーセの後継者ヨシュア)
1 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。
2 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。3 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。4 荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。
8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
9 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
(説教要約 文責近藤)
【モーセの後継者ヨシュアの不安】
旧約聖書ヨシュア記1章2~10節は古代イスラエルの指導者ヨシュアに対して語られて神様のお言葉です。
天地を創られた神様のお導きのもとにイスラエルをエジプトの奴隷状態から救った偉大なる指導者モーセ。彼が死んで後継者に立てられたヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナン(今日のパレスチナ)に導くのに大きな不安を覚えたでしょう。イスラエル民族自身にも問題点があり、そういう民を神様の約束の地に導かねばならない。モーセに比べなお小さな存在でしかないことを知っていたヨシュアはどんなに不安だったでしょうか。
ヨシュアはイスラエルを率いて目の前の水量豊かなヨルダン川を渡らなければならないしヨルダン川を渡ったとしてもそこにはどんな国があってどんな困難が待ち受けているかも知れないと言う沢山の不安に襲われました。彼はその民を率いてカナンの地に定住させることが自分の使命であることは分かっていました。でもヨシュアはどんなに不安であったでしょう。私たちにも彼の気持ちが分かります。問題が沢山待ち受けていて解決すべきことが余りに多い。どうやって解決すべきかと鉛のような心の重荷を感じ、心が塞ぎ、絶望感に陥ります。出来ればこんな状態から逃げ出したい気持ちに襲われます。しかしそんな無責任なこともできません。
今日は人生のこのような不安を覚えるときにヨシュアに与えられた神様の御言葉から3つばかりのことを覚えたい。
【1、神が共におられることを信じること】
もう一度5節後半からお読みします
「5わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」
第一に教えられることは何でしょうか。
神は偉大な信仰者また指導者であったモーセのような人物とともに居られたように、9節から分かるように、うろたえ、おののくこともあるヨシュアのように小さいもの、弱いもの、足りない者、そしてその欠点をいやというほど知っている信仰者とともに居て見放すことも見捨てることもされないということです。
神様は断言されます。5節後半「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と。
神様は偉大な信仰者とともにおられるだけでなく、神様は弱い、小さくて頼りない、ちょっとしたことに大きく動揺するような私どものような信仰者とも確かに共におられる。これは何と大きな慰めに満ちた事実であり、約束でありましょう。この点をもう一度確認して心に深く刻んでおきたい神様のお言葉です。
【サタンの力】
困難に襲われ心が弱って不安な時には必ずサタンはこれを煽りますので心は乱れ自分自身をコントロールできない状態にします。そういう時にこそ神がヨシュアに言われた御言葉と約束、5節後半「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」との御言葉を思い起こしたい。
こういう不安な時こそ信仰を働かせて、状況に流されてはならない。今こそ信仰を働かせるのです。目に見えないが主イエス・キリストが、父なる神様が、聖霊なる神様が私どもと共に居てくださることを自覚的にもう一度信じ直すのです。信じるよう自分自身に命じたいのです。そのように自覚的に神様に信頼したいと思います。
詩編42篇6節 「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と」。
困難な中で詩編作者は振り回される自分を放っておかないのです。彼は自分に尋ねる「わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め」と。私たちも自分に尋ね神を待ち望むことを勧めるのです。
自分と議論し、自分に命じるのです「神を待ち望め」と自分に促すのですことは大事です。
辛い状況に流されることなく信仰により自分と議論し、自分に尋ね、自分に命じることが全てのクリスチャンの務めです。クリスチャンは牧師でなくても自分自身に御言葉により説教が出来るのです。困難な時こそ私たちはこの信仰を用いたい。
【2真剣に祈り求めること】
二つ目の点は神様がヨシュアとともに居られたように私どもと共に居て下さることをキリストへの信仰をとおして一層真剣に祈り求めることです。
【ヤコブの信仰】
創世記32章はイスラエルの先祖のヤコブが兄のエソウを裏切って逃げていたのですがその兄と再会する前に兄の復讐を恐れて不安から一晩中ペヌエルで祈ったとあります。
神が共におられることを信じていないわけではありませんが、兄から逃げた時は一人でしたが今や彼は妻や子供と多くの一族に増えていたので彼らが安全で居れることを一晩中激しく祈ったのです。それは神の天使と一晩中格闘したような激しい体験で、そのためヤコブは腿の関節を痛めたほどです。
夜が明けようとして神の天使が彼から離れ去ろうとするのですがヤコブは天使を掴んで「私を祝福してくださるまではあなたを去らせません」と必死に願いました。
神様は彼の願を聞き入れました。結果、彼ヤコブに事を冷静に見極め、賢く対処する知恵を与え、兄の心を和らげるように導かれました。こうしてヤコブと一族は危機を乗り越えました。そののちの生涯に於いても困難はありましたが父なる神様はヤコブと共に居られたのです。私たちも同じです。
【真剣な祈りの例】
確かに主イエスはマタイ福音書6章7節に「祈るとき異邦人のようにくどくどと祈るな、彼らの真似をしてはならない」と教えられた。時間をかけて祈ればよいと言うようなものではありませんがイスラエルの先祖ヤコブのように、また預言者サムエルの母、ハンナの祈りもそうでありましたように熱心に祈りたい。
列王記下4章27節の自分の子供が死んだときに預言者エリシャの足に縋り付いたシュネムの婦人のように辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、不安で心配でたまらないときに私たちにご自身の力、愛、憐れみを示して下さったイエス・キリストの父なる神様に私たちと私たちの愛する人たちとともに居て下さることを真剣に祈り求めたい。
私たちは祈って神様をねじ伏せると言うことではなく、最終的にすべてを神様に委ねて、熱心に、あっさり祈るのでなく、しぶとく真剣に神様に神が共に居て下さるように、ヤコブのように真剣に祈りましょう。
【3、神様と共に生きる】
神様が共に居て下さることを信じ、共に居て下さるように熱心に祈ることの次には私たちの方も神様から離れず神様と共に居るように生きることを覚えましょう。
ヨシュア記 1章7~8 節で神はヨシュアに言われた、
「7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。8この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」
ここで決して救いは良き行いを熱心に守って得ると言う律法主義的に捕えることのないようにしてほしいのですが、なぜなら救いはただただ主イエス・キリストを信じる信仰によるのですから、私たちも神様の御恵みに感謝して神様から離れないで、思いを尽くし精神を尽くし力を尽くして神様とともに居るように背一杯努めることです。信仰に立って聖書に書かれていることを忠実に守り喜んで生きることで全知全能の神様から離れないということです。
【神が共に居て下さるように祈り生きること】
自分の思い通り、考え通りに生きて神が共におられることを願うのは身勝手です。そうではなく私たちの方も神様から離れないで生きる、朝も昼も夜も、夜寝るときもそうです。私たち夫婦の祈りですが、眠っている間、私たちは神を忘れていても神様の近くに居ることが出来るように、また神様が近くに居て下さいと祈ります。勿論、私たちは天に召されるまで不完全ですから神の近くに居ることは出来ませんが、ただ願いにおいて神様のお側に居させてください、どんなときにも神様の傍らに居らせて下さいと祈るとき神様の方も喜んで私たちとともに居られ祝福してくださいます。
ヤコブの手紙4章8節「 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」。
【神が共に居て下さる者の幸い】
独り子を十字架に架けられた神様、私たちを創られた神様は私たちの髪の毛一本をも支配しておられる。その神様がどんなときにも私たちとともに居てくださいますので私たちは安心です。
私たちはあと何年生きられるか分からない。いや何年神様に生かされるのでしょうか。誰も明日のことは分かりません。明日死んでも神様が共に居て下さると言うことは何という平安でしょうか。
【クリスチャンはこの世の勝利者】
主は新約聖書ヨハネによる福音書16章33節で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われた。主イエスはこの世では悪魔が働いていることを御存知です。
ペトロの手紙一 5:8 「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」この事実を決して忘れてはなりません。同時に私たちの主は断言されました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」私たちは世に勝たれたキリストとともに居るのです。
私たちは最終的に滅ぼされないで罪と悪魔と死に勝利できると言うことをキリストは今日このヨシュア記を通して教え約束しておられます。
【信仰の成長のために】
大きな困難のときは勿論ですが日頃の積み上げが大事です。生活習慣病という言葉もあります。体のことばかりでなく精神的なこともそうです、ちょっとした困難な時にすぐ逃げるか、ごまかすか、それともぶつかっていくか、失敗しても誠実に謝るか、そのちっちゃな精神のあり方の積み重ねが私たちの人格、性格を形造るのです。
信仰も同じです。一つ一つの習慣の積み重ねが大事です。くせ、神は人にくせを与えて下さっていますが神様はそれをプラスに生かしてそれらを祝福してくださっています。
どうか毎日を始める当たって何があろうとも私たちのような小さな者にも、1、神が共にいてくださることを確信し、2、そのことを覚えながらひと時ひと時一層神に真剣に祈り求めて、3、我々自身も神さまの御言葉を固く守り行う、失敗しても悔い改めを決意して神と共に生きることです。(おわり)
2013年06月16日 | カテゴリー: ヨシュア記
「無常の時代に住むための信仰(2)思い起こす」ウイリアム・モア2010.2.7
【写真:アメリカ合衆国長老教会アジア太平洋宣教局長ハドソン師Rev.David Hudsonとモーア宣教師】
ヨシュア記4章1−7◆記念の十二の石
1:民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに言われた。 2:「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、3:彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」
4:ヨシュアはイスラエルの各部族から一人ずつ、かねて決めておいた十二人を呼び寄せて、5:言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に 担いで来い。6:それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、7:こう答えなさい。『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の流れはせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と。」
【無常の時代に住むための信仰】
先週から私達は無常の時代に住むための相応しい信仰の学びを始めました。現代のこの世は目まぐるしい程変化して、その変化の影響により私達の生活がますます変わります。変化をもたらすグローバリゼーションやテロや温暖化や科学技術などは色んな問題を起こしてしまいました。そして、その結果はストレスと思い煩いです。