エレミヤ書

2012年12月9日説教「あなたの苦しみは報いられる」赤石めぐみ先生

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2012129日説教「あなたの苦しみは報いられる」赤石めぐみ先生

 

聖書:新約聖書マタイによる福音書2

16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

 

説教要約(文責 近藤)

 

待降節は主イエスの御降誕を祝う準備の日ですが主の再臨を待つことでもあります。

 

【子どもを殺された母親の気持ちは】

占星術の学者たちにだまされたヘロデ王は、不安のあまり救い主が含まれる当時2歳以下(数え年で)のベツレヘムの男子を皆殺しにしました。しかし幼子のイエスは父なる神の導きで両親に連れられてエジプトに逃れました。

 こどもを殺された母親の気持ちはどんなであったでしょうか。救い主が生まれたということで自分の愛する子供を犠牲にされた。人類の救い主と言われるお方が来られたことに対して歓びの気持ちが湧いたでしょうか。これは18節に「「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」というエレミヤの預言が実現したと書かれています。赤ちゃんを殺すことが万民を救う神の業でしょうか。

 18節の御言葉はこんな悲しいことの預言ではありません。この預言とは、旧約聖書エレミヤ書3115節に書かれた御言葉の引用です。

主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから」。

とあるとおりです。しかしここだけ読んでも神様の御心は分かりません。

エレミヤ書31章全体は表題にもあるように新しい契約を記しています。今日はマタイ福音書を離れて、このエレミヤ書を通して救い主の来臨の預言を学びたい。少しさかのぼってエレミヤ書29章から預言をひも解いてみましょう。これはエレミヤがバビロン捕囚のユダヤの民に書いた手紙で70年の時が満ちるなら解放されるという慰めの預言です。

エ レミヤ書291節に、

 「以下に記すのは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。」

と書かれているように、この箇所はユダの人々が捕囚の地バビロンで聞いた神様の御言葉なのです。

 

エレミヤ書2910~14節をお読みします。

10 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」

ユダの人々は言います。神様、いつまで捕囚の苦しみを耐えねばならないのですか。それに対して神様は70年だと言われます。70年とは人の一生の長さです。生きている間に帰れるか分からないが神の約束が告げられています。30章に進みます。

 

【回復の約束】

エレミヤ書303節に捕囚からの回復の約束が記されています。

3 見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。」

70年たてば国に帰すとの神のお約束です。


エレミヤ書3010~11節、

10 わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと/主は言われる。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から/お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。11 わたしがお前と共にいて救うと/主は言われる。お前が散らされていた国々を/わたしは滅ぼし尽くす。しかし、お前を滅ぼし尽くすことはない。わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない。」

 

【救い主の預言】

続いてエレミヤ書3020節から22節、

20 ヤコブの子らは、昔のようになり/その集いは、わたしの前に固く立てられる。彼らを苦しめるものにわたしは報いる。

21 ひとりの指導者が彼らの間から/治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので/彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて/わたしに近づくであろうか、と主は言われる。

22 こうして、あなたたちはわたしの民となり/わたしはあなたたちの神となる。」

20節にバビロン捕囚からの回復が預言されているが、これがもっと大きな出来事へと拡大されて行きます。21節に一人の指導者の出現が預言されています。ここに救い主メシアを待つ信仰が始まりました。

 

ひとりの指導者、彼とは誰でしょうか。主イエスのほかに誰が命を懸けて私たち罪人の犠牲となって下さったでしょうか。主イエスがこの世にお生まれになったのは十字架で死ぬためで、神様の救いの御計画を命を懸けて完成するためでした。

 

こうして31章が始まります。

エレミヤ書313 遠くから、主はわたしに現れた。」

「遠くから」とは天からです。

 

「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。」

天の神様が主イエスを遣わされたのは愛と慈しみのゆえです。


7節後半

「主よ、あなたの民をお救いください/イスラエルの残りの者を。」

と祈ります。

主よ、あなたの民をお救い下さい。ホシヤナ、ホサナとは私を救ってくださいの意味。この祈りに神は答えて下さるのです。

 

続く8~9節に地の果てから離散の民の帰還が預言されます、

8 見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。9 彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる。」

 

【民の嘆きが喜びに】

13

そのとき、おとめは喜び祝って踊り/若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。」

 

主イエスが遣わされ救いが完成するとき民の嘆きが喜びに変わると預言されています。

バビロンからエルサレムに帰還し真の神様を礼拝することの喜びが全ての人に広がっていく。

 イエスが来られるとき散らされた世の罪人たちは一つ所に集められ神様を礼拝するようになり、その時、嘆きが喜びに変わるのです。こういう大きなことが預言されています。

 

こうして今日の箇所15節になります。

エレミヤ書3115

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」

 15節の悲しい預言だけで終わるのではありません。続いて

116~17

主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。17 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」

15節の悲しいことだけを言いたかったのではないのです。ここには「泣きやむがよい」と慰めの言葉が与えられ、あなたの苦しみは報いられると主は言われます。15節はこの慰めのきっかけです。ですから今日のマタイ福音書のエレミヤ預言を読む時、エレミヤ書31章に戻ってこの流れで読むことが大切です。

 

【主の慰めと民の悔い改め】

15節の言葉はバビロン捕囚の前を思って書かれました。

ラマとはバビロンに捕囚となる前にユダヤ人が集められた所です。

ラケルとはイスラエルの先祖の妻の名前でイスラエルの母親たちを指しています。

ラケルの墓はベツレヘムにあります。ユダヤ人全てがバビロンに連れていかれたのでラケルは一人残されたことになりました。それで泣いていると言われるのです。

けれども16節「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われるのです」。この慰めの言葉を私たちは受け取らねばなりません。

 

そしてバビロンでイスラエルは悔い改めた。

 

エレミヤ書3118~19

 18わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。「あなたはわたしを懲らしめ/わたしは馴らされていない子牛のように/懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。19 わたしは背きましたが、後悔し/思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ/若いときのそしりを負って来ました。」

主 は民の悔い改めた心を喜ばれ、ここに3131節の新しい契約の始まりが告げられます。

 

【新しい契約の預言】

エレミヤ書3131節、

31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

 このような大きな約束が与えられ新しい世界が始まります。イエス様の誕生は、この救いがバビロン捕囚から帰されたイスラエルの為だけでなく全世界の民へもたらされる福音の始まりの出来事です。31章16節の言葉はイエス様誕生の時、ベツレヘムで子供を殺された母親にこそ告げられるべきメッセージです。

 

【新しい契約の成就】

でも泣き止むがよい、目から涙をぬぐいなさい、と言われても、子を殺された母親の悲しみがどうやって慰められるでしょうか。あなたの苦しみは報いられると言っても素直に聴くことが出来るでしょうか。でも思い出してください。

 となられた主イエスのこの世の御業を思い出してください。イエス様は生涯、神の国の福音を告げ知らせ、病人を癒し、悲しむ人を慰めました。しかし結局は十字架の上で殺されました。父なる神は、ベツレヘムの子供を殺された母親の悲しみを味合われたのです。

主イエスと父なる神様はあの赤ちゃんを失った母親と同じ苦しみを味わってくださったのです。

 

【主の復活】

でも主イエス様は十字架の死で終わられたのではありません。死に打ち勝って復活して今も生きておられるのです。この復活の命を全ての人に与えようとして十字架の道を歩んで下さったのです。

ベツレヘムで殺された赤ちゃんたちも復活の命に与っています。お母さんたちも救いに与っていると思うのです。イエス様を信じる者すべてが永遠に生きるのです。神様の御業によって報いられないことがあるでしょうか。主イエス様が命がけで父なる神様に従ったので実現することが出来ました。

父なる神が愛する独り子を殺されることを味わってくださったからこそ実現することが出来たのです。

 マタイが「エレミヤの預言が実現するためであった」と主イエスが生まれられたばかりの時点で実現したと大胆に言うのです。主が生まれられた時点でエレミヤ書の成就だと確信できるのです。このぐらい神様の約束は確かです。この救いに私たちも入れていただいています。

 わたしたちにも耐えがたい苦しみ悲しみがあるでしょう。でも「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われるのです。」

 

主イエスの誕生を待つこの時に今日のエレミヤの言葉を噛みしめ大きな喜びを与えられてクリスマスを迎えたいと思います。(おわり)

 

 

 

2012年12月09日 | カテゴリー: エレミヤ書

復活の約束 ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書28章1−10
 
【守られない選挙公約】
皆さんも十分お気付きと思いますが、私達は選挙シーズンに入りました。何所へ行っても宣伝車が走り回り、政治家、あるいは政治家になりたい者は車のスピーカで国民にアピールをしています。また、駅前でも、昨日のような雨でも、政治家は選挙運動に励んでいます。他の時は分かりませんが、選挙のシーズンの政治家は大変だと思います。一票でも取る為に必死の努力をしているようです。朝早くから夜遅くまであちこちへ行って住民に顔を売っています。彼らはスピーカで色んな事を叫びますが、そのお話の中で約束事が多いようです。たとえば、「私が国家議員になったら、日本は美しい国になる。」「明るい政治の為に私を選出して下さい。」「我が党は安定した生活を保証します。」何所の国でも同じ事だと思いますが、選挙に勝つ為に、政治家は国民に約束する事が多いのです。しかし、多くの場合、約束を果たすのは全く別の事になります。政治家は約束する時、恐らく皆は心からその約束を守りたいですが、色々な理由で誓った事を実現出来ません。政治的力が足りないか、約束した事は実際的でなかったりします。あるいは、事情があって止むなく約束した事を実現出来ない。また、政治家は選挙に勝つと、選挙の時、約束した事をすっかり忘れる場合もあるかも知れません。とにかく、色々な理由で政治家の言う事を割引して聞いた方が良いと思います。

2007年04月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

神の手にいる ウイリアム・モーア

ヨハネによる福音書10章22−30節

【羊】
バイブル・クイズではないんですが、聖書の中でどんな動物が一番多く言及されていますか。牛ですか。ラクダですか。馬ですか。それともウサギですか。そうですね。その動物も聖書に載ってあるんですが、ある動物は遥かにもっと出て来ます。実は、今日の聖書の朗読は質問の手掛かりになります。やはり、聖書には全ての動物の中で、羊は一番多く言及され、羊という単語は500回以上の所に載ってあります。

羊はなぜ聖書にそんなによく出て来るものなのでしょうか。それは、聖書の時代のパレスチナの人々には日常生活を通してもっとも必要とする大事な動物であったからです。例えば、その毛で布を織って着物を作りました。その乳を飲み、何よりもその肉はおもな食肉となりました。そして、その皮までも色々なところで物を作るのに使われました。ですから、羊はお金のような物になって、何かを買う時、羊で払う事が出来ました。更に、人々は神殿で生け贄をする時、羊を捧げました。社会に羊はなくてはならないものでしたが、また何処にでもいる家畜でもありました。それで皆は羊の事がよく分かりました。誰でも羊の性格と特徴までも詳しく知っていました。ですから、聖書は羊と羊飼いをシンボルとして何回も、何回も用いています。

【主は羊飼い】
旧約聖書の詩編23編にはこの有名な御言葉があります。

「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。」

そして、預言者エレミヤを通して神はイスラエルの人々にこのように約束しました。

エレミヤ書23章3−4節「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れる事も、おびえる事もなく、また迷い出る事もないと主は言われる。」

イザヤ書40章11節にこの御言葉があります。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

このように、聖書には羊飼いを愛する神のシンボルに、そして、羊は神の民、私達を表します。

2006年07月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア

聖書:エレミヤ書1章4-10

【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。

【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。

【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。

【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。

2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

心からの義II ウイリアム・モーア

マタイ5章27-48

【律法を完成する者】

先週、主イエス・キリストが教えて下さった「心からの義」を一緒に学びました。今日も引き続き「心からの義II」を学びたいと思います。さて、覚えておられると思いますが、主は山上の説教でこのような意味深い宣言をしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。」つまり、主イエスによりますと、神の掟をただ表面的に守るのは不十分であり、神を喜ばせる事が出来ません。なぜなら、神と隣人に対して、愛のない、また心が曲がった人でも表面的に十分律法に従えます。実は、主は私達に心からの義を求めておられます。すなわち、神は掟の本当の目的とスピリットを守ろうとする精神を私達の中に見たいのです。主は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥そこまで見られます。何故なら、私達の態度と動機は神には大事であるからです。

【神の恵みを頂くのに相応しい態度】

しかし、神はどうしてそんなに私達の態度と動機に対して関心を持たれるのでしょうか。表面的でも、人間が御自身の掟を守るだけで十分ではありませんか。私達の思いまでも監督するのはちょっと求め過ぎだと思われる人がいるかも知れません。実は、神は私達一人一人を愛して下さいますので、正しい態度と動機を望んでおられるのです。つまり、主の豊な祝福を受けるように、特に霊的な祝福を受ける為に、相応しい態度と動機が必要であります。神が授けて下さった掟は神御自身の益の為ではありません。却って、それは私達個人と、社会全体の幸福の為に定められました。そして、それを喜んで心から守ると、主の祝福を豊に経験出来ます。その反面、心からではなく、ただ掟の表面的な要求だけに従うと、その祝福は余り分らなくなります。

2005年10月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書