2013年11月10日、説教「主、備えたもう―神の摂理への信仰―」市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)
2013年11月10日、説教「主、備えたもう―神の摂理への信仰―」市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)
聖
書
創世記22章1-19節
1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。
(説教要訳 文責近藤)
【信仰の試練と摂理】
摂理という言葉をよく使うことがあります。
神様がご自身の計画に従ってすべての事を、ご自身の栄光のために、そして私たちの祝福のためにご支配し、用いられるということです。一般論としてはその通りで、神は永遠のご計画に従って万事をすべてご自身のために、その民のために支配なさると。しかし、もう少し正確に言うと、摂理というのは信仰の試練に出会う時、その時だけとは言いませんが、その時に体験する神様の恵みであると言わなければならない。
摂理とは、他人ごと、一般論ではありません。神学校では、イエスにおける神の聖定などと言いますが、神はご自身の栄光のために万事を聖く用いられることによってご支配されるというのは間違いではありませんが、神様を信じる事によって困難なことを覚える、それでも神様を信じる。試練や悩みを超えて結果的に強くなる、それが摂理です。
信仰の困難を覚えない時に摂理信仰とは単に口先だけのことになると学生に話します。今日の朗読箇所は摂理信仰を表す典型的な御言葉であります。2番目に典型的な箇所ですが。1番目は何かといえばイエス・キリストの十字架であります。これはまた後ほど申します。
【アブラハムの最大の試練】
さて創世記12章以来長いアブラハム物語が始まりまして、25章ではこのアブラハム物語のクライマックス、頂点でありますが、アブラハムの長い人生のクライマックスであります。神様がこれまで導いてこられたことを凝縮して、ここではこれまでもそういうことがありましたが、ここは代表的なところであります。
さて先ほど申しましたように信仰の試練という事の中で神の摂理ということを本当に体験することができるのですが、アブラハムは最大の試練に今見舞われております。
創世記22章の1節~、
「1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
【息子イサク】
これまで波瀾万丈の人生を歩んできたアブラハムですが、アブラハムには子供が与えられませんでした。古代人にとって跡継ぎがないということは致命的なことであります。
漸く神様の約束が実現しました。99歳になっている妻サラから子供が生まれた、アブラハムは100歳、普通ありえないことですが、神様はそれを実現してくださいました(21章参照)。
【神様のご命令】
やっと子供が与えられた、ところがこともあろうに、その子を神様は捧げ物にせよと命じられた。これがもし異教の神の命令なら「神様、助けてください、こんな目に合っています」とお願いすることができますが、これは神様のご命令です。これはもう神様の中に飛び込むしかありません。命じられたとおりするということです。
子供も与えられ、後継もでき、異教の王アビメルクとの契約関係もうまくいき、漸くアブラハムの生涯はやがて締めくくられようとする、その時に思いがけず神様からの試練を与えられます。物語そのものはアブラハムの心境、胸中一切は語りません。もの事を淡々と叙述します。
【献げ物にする小羊は?】
7節にイサクが「父さん、火と薪がありますが焼き尽くす献げ物にする小羊がありません」と言います。それがお前だとは答えられません。「神様が備えてくださる」としか言いようがありません。
そうした会話も淡々と描写しております。そうであるだけにアブラハムの心中、胸中が見えてくる。どれほど穏やかでなかったか。神の試練を間接的に描写するために、「あなたの息子、あなたの愛する、あなたのひとり子を捧げなさい」、「イサクを捧げなさい」と言えば済むことですが、「あなたの愛するひとり子」、これを失えば後はない、これが神様の命令です。
「焼き尽くす捧げ物」を口語訳では「全焼の生贄」、火のまわりを速くするために、手足を切り落とす、胴体を切り刻む、それは動物でも大変酷いことですが、それを自分の子供にせよというのです。しかしアブラハムはそれを即座に従います。
ここに契約というものがどういうものかがよく現れております。しかし何度もいうことですが、例えば今日、契約と言えば横の関係、対等の関係であります。互恵契約といいます。どちらからでも解約するのは自由です。
【神とその民との間の契約】
けれども聖書に出てくる古代の契約、少なくとも神とその民との間の契約は上下主従の関係であります。契約を維持すること、成就することにおいて神様は一方的でアブラハムと相談して契約を結ぶということはありません。アブラハムは一方的に従うしかありません。契約に生きるという事はこういうことです。
【はい:いつでもお仕えできます】
1節で、アブラハムは「はい」と答えます。「はい」いうのは意訳でして、良い訳ではないと思います。本来「見よ、我ここにあり」ということです。神様に偉そうなことは言えませんので、「ご覧ください、私はここにおります」というのが直訳です。
「ここにおります」。神様にそんなこと言わなくても神様はご存知です。そういう意味ではありません。「神様、私はいつもあなたのお側近くにいます。いつでもお仕えできます」ということですね。
【侍:はべる】
横道に少しそれますが「侍」と言う日本語がありますね。大体言葉の意味を知らずに使っておりますが、「侍、ジャパン」と。本来は、刀を振り回す、そのような人のことを言うのではなく、文語で「さぶろう」、「侍る、はべる」ということです。
お側近くにいる、ということです。常に近くに志向して、何かあればすぐにご主人の命令を行う、そういう人のこと「侍」といいます。
「武士は二君に仕えず」と言いますが、一人の主君に忠誠を尽くすという事で、「ご覧ください。私はここにおります、いつもあなたの前におります」。
【また戻ってくる】
5節に、アブラハムは下僕たちに言います「5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と。「また戻ってくる、一人で」とは言えません。彼らに対してもイサクに対してもですね。
アブラハムは神様の命令ですからイサクを捧げることを決心しているわけです。「また戻ってくる」と言ってもイサクは薪を背負っているわけです。イサクはまさか自分が殺されるとは夢にも思っておりません。
イサクが聞きます、7節「火と薪はここにありまが焼き尽くす捧げ物の子羊はどこに居るのですか」。「それがお前だ」とは口が裂けても答えられません。アブラハムが最も聞かれたくない質問であったと思います。
【主、備え給う】
それに対するアブラハムの答えは「私の子よ。焼き尽くす犠牲の子羊はきっと神が備えてくださる」と申しましたが、これは優等生の模範答案ではございません。アブラハムは必ずそうなると、「お前に代わって神が雄羊を備えてくださる」と彼が確信していたわけでありませんが、うまく表現できないですが、神様がして下さる、神様に逃れる意外に他に答える道がなかったからです。
異教の王の命令ならば、神様に逃れて助けを願うことができますが、神様の命令には、有り体のことでは無いですが、そうなる確信はないですが、神様のなさる事だから神様に任せようという気持ちもありまして、「神が備えてくださる」と答えました。そう答える以外なかった。
イサクはそうなったときにどう反応したかは一切書いておりません。抵抗したか、逃げたとしましてもね、結果として捧げる場所を用意してイサクを縛って薪の上におきました。今まさに刃物でイサクを屠ろうとしたその瞬間に、神の御使いがアブラハムの手を押しとどめた。ここでも「ハイ」と答えておりますが、今、行うとしておる、その子に手を下すことに待ったをかけられました。
【神を畏れるもの】
12節「あなたが神を畏れるものであることが今わかった」。これは神様がそれまで知らなかったという訳ではありません。これは本当に私を信じているか試してやろうということではありません。
試すと言う意味合いはあっても、「試された」と書いてありますから、しかし本当に神様を信じる信仰があるかないか試そうと言うのではありません。
アブラハムが信仰の人であることを神様はご存知です。これまでいろんなことがありました。その信仰を最終的に確証した、確立した。神様は初めからご存知ですがアブラハム自身が自分が本当に神を畏れもるのである事を納得して受け入れるように導いてくださったということであります。イサクもまたそれを感じ取ったことでしょう。
12 節後半、「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
【一匹の雄羊が角をとられて】
13 節「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた」。
雄羊が、なぜ子羊でなかったのかわかりませんが、角を取られていた。それば神様が備えて下さった、神様が受け入れてくださる、捧げものであります。
【息子イサクは死んだ】
これは息子を失わずに済んだ、やれやれと思ってはなりません。
アブラハムの信仰ではもう既に息子を捧げております、息子は既に一旦死んだのです。
しかし神様はアブラハムの信仰を祝福して、あるいは信仰による契約関係における彼の応答を豊かに祝福し、また過分な評価をしてくださいました。それに代わる、いやそれに勝る捧げ物を自ら用意してくださった。
結果として見ますと雄羊がイサクに代わって捧げられたのです。
【信仰によって】
ヘブライ人への手紙の11章17節以下で
「17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。18 この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。
【信仰よってアブラハムはイサクを捧げた:殺した】
さっき言いましたように可愛い一人息子を捧げなくて良かったという程度では無いのです。
アブラハムはその信仰において神様との関係においてイサクを殺した。神様の命令に従ってイサクを捧げたわけです。
そこで神様もこのアブラハムの信仰の応答を豊かに祝福してくださいました。すなわち雄羊を自ら用意してくださったのです。ということはイサクは一旦死んだのですが、その雄羊の犠牲によって生き返らされて、死者から生きかえらせて、息を吹き返してくださった、復活させられて返してくださったということであります。
【イエスの十字架と復活】
もちろんアブラハムが2,000年後に、ナザレのイエスという方が十字架にかかり復活なさるという事は知っておりません。
しかしヘブライ人への手紙の記者はその出来事を知っておりますので、イエス様の出来事の光の中でアブラハムの行為を解釈し直したわけです。
【さらに勝った仕方で】
こうしてそれ自身まことに辛い神様の命令、人間的には理不尽な神様の要求に、しかし「ハイ」という言葉に聞かれますように、契約関係の中で従順に生きるアブラハムは即座に従った。どうなるか分からないけど、神様が何とかして下さるという曖昧な信仰であったかもしれませんが、アブラハムはそれを実行しました。神様をそれに大いに勝った仕方で祝福してイサクを生きて返してくださった。
【キリストは死んで蘇ってくださった】
イエス・キリストと言う犠牲は神様ご自身が用意してくださったものであります。
イエス・キリストの死と復活、これによってキリストを信じるもの全てが生きて返されます。キリストの死と復活に預かるもの、私たちもまたやがて復活するだけではなく今、永遠の命に生かされている。キリストの死と復活に与る洗礼を受けた私たちは、パウロも言うように、ロマ6章にありますが、キリストは死んで蘇ってくださった。私たちは今、永遠の命に生かされています。十分の形で顕されるのが復活の時であります。
【あなたの子孫をの星のように増やそう】
こうすることによって神様はアブラハムの信仰と従順を嘉し祝福してくださった。そればかりか、ご自身の約束を今一度確証してくださったのであります。
16節以下、御使いの言葉でありますが、これは神様ご自身の言われる事で、
創世記22章「16 御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る』」。
「私は自らにかけて誓う」と言われる。これまでもあったのですが、今ここでもう一度17節に「あなたを豊かに祝福しあなたの子孫をの星のように増やそう」。これは今までもありました。
12章でまだアブラムと名乗っておりましたの時から、その約束はありました。「あなたの子孫を天の星のように海辺の砂のように増やそう」。
【敵の城門を勝ち取り】
その後のところに、「あなたは敵の城門を勝ち取り」とあります。
当時は戦争は絶えませんでしたから、戦いのイメージを用いていますけれども、神様の敵とは究極的にサタンです。イスラエルの的とはペリシテとかアシリアとかありましたが、神と神の民の究極の敵は悪魔サタンです。
アダムをエバを通じて誘惑した、蛇の形をしたサタン、神様の最大の敵サタンは最後には討ち滅ぼされます。あなたの子孫であるイエス・キリストは敵、サタンを完全に討ち滅ぼす。
それによって地上の諸国民は、その子孫イエス・キリストによって祝福を受ける。福音宣教を通して救われるということであります。
【この「子孫」とは、キリスト】
これに言及しましたパウロはガラテヤの信徒への手紙3章
16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
「あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る」というのは、一人の人、イエス・キリストがサタンの王国を打ち滅ぼして、神を信頼し信じるものが神を畏れることを真に可能にしてくださるのであります。
【永遠に生きる】
そして神様と共に生きる。神様と共に生きるという事は、新約聖書の言葉で言えば永遠に生きるという事であります。イエス・キリストはこのことを果たしてくださったのであります。
アブラハムの長い生涯の中で神様は理不尽な要求をアブラハムに与えられたが、これは神様が先を見越しての、アブラハムをご自身の祝福の大いなる器とするとの出来事であり、経験させられたのであります。
【ヤハウエ・イルエ:主は見る】
アブラハムはその場所を「ヤハウエ・イルエ、主備えたもう」、この様に訳すことも可能ですが、別の聖書の欄外注には「主は見る」と訳すのもあり、「ヤハウエ・イルエ:ヤハウエは見る」という意味です。「イエラエ」も同じです。あらかじめ見ているから備えることができるのであります。摂理のことを英語でプロビデンスと申します。「前もって見る」ということです。ラテン語から来ています。インターネットのプロバイダーという言葉、プロバイダとは提供する、供給する、備えるのがプロバイダですね。provideをローマ字読みにしますと、プロビデ、前もって見る、ということになります。
【最大の備え:イエス・キリスト】
我々は前もって見ることはできませんが、神様はちゃんと見ておられます。だからそれにふさわしい備えができるということです。私たちは先を見ることはできません。「備えあれば憂いなし」と言うが、的確な備えができません。しかし神様は先の事をちゃんと見ておられるですから我々のために備えてくださる訳です。その最大の備えはイエス・キリストってございます。
【キリストの十字架】
キリストの場合はアブラハムと違って、キリストの十字架というのは、人間の側から言えば、これは悪意がなしたことです。もう邪魔になる、権力に楯突くナザレのイエスはけしからんということで、ポンテオ・ピラトが死刑を命じた。
ピラトはイエスには死刑に当たる罪はないと知っていたのですが、暴動が起こると自分の首がないと。それで理不尽ではあるけれども保身のためにイエス様を十字架にかけたのであります。ユダヤの人々はナザレのイエスが変なことを教えている。それで十字架にかけられた。イエスが亡くなると、私たちが勝ったと思ったのです。ローマの役人もユダヤの官憲も。ところがの十字架は罪を犯した人間に対する神の裁きであった。神様はあらかじめご存知だったので罪のないイエス様を罰することにおいて、罪人の処罰をされたのであります。
もし私たち一人一人が罪のために罰せられたならば、なるほど罪の処罰は出来ます。
しかし元々神様のためにつくられ、神様と共に生きる、永遠の命を生きるという事は出来ません。
神は人間の罪をさばきつつ、それを赦して再び生きる道を講じてくださった。人間には不可能なことです。罪なきナザレのイエスが罪人の代表として十字架で裁かれ、また神を信じる正しい人の代表として先駆けとなって蘇ってくださった。キリストの十字架は、罪人に対する神の裁きである。キリストの復活は、キリストが神の前に正しい人であるということ、義であったという確証です。
【聖書の初めから終わりまで全て摂理信仰】
アブラハムに約束してくださったことを、このような形で神様は成就してくださいました。このように見てまいりますとその時理不尽に思えても、神様の約束を信頼して、神様の命令という事で何でも従うと、自分が考えているはるかにを勝る大きな仕事を、神様を称える仕方で導いて下さる。これが摂理信仰であります。その意味で聖書の初めから終わりまで全て摂理信仰であります。
例外が一箇所あります。それは創造です。創世記1章「はじめに神は天と地を造られた」。それは創造でありますが、そこからは黙示録の最後まで全部摂理であるといっても言い過ぎではありません。
創造ですら摂理に受け継がれますので、後のことを切り離して単発のことではありません。聖書全体はまさに摂理信仰に生きてといると言うことであります。私たちもその摂理の道に歩みたいと思います。
【まとめ】
最後に2、3のことをポイントだけワンセンテンスで纏めます。
契約とは神と民との上下主従の関係であります。このことを覚えてほしい。神様がこうしてくださると私たちはそうします、ということではありません。人間同士の契約はそれでいいが、神様は上から下への契約であります。
摂理と試練の中でこそ、信仰の試練の中でこそ、キリストを信じるという試練の中でこそ神様は恵み深い守りと導きがありますね。
「苦しい時の神頼み」という言葉があります。私たちは世俗的な意味でそれを拒否していますが、苦しいときだけ神社、仏閣に参ると言うのは、キリスト信仰から見るととんでもないことですが、言葉の本来の意味で、苦しい時に頼みにならない神は神でない。
都合の良い時だけ御札を売って儲けて、本当に死にそうな時に、知らん顔する神は神でない。詐欺ですね。聖書の神こそが真実、頼りになる神であることを改めて憶えたいのです。
神様が知らない試練は無い。神は全てを知っておられる。
場合によってはそれを用いてもくださる。だから逆に神様に逃れることもできる。アブラハムはイサクに問われて答えられません。確かに「主は備えてくださるだろう」。まさにこれは苦しい時の神頼みの答えであります。正しい意味においてその通りだと思います。
二番目、神様への捧げ物は、自分にとって最も大切なもの、かけがえのないものを捧げなければなりません。
神様はイエス・キリストと言うかけ替えのないものを捧げてくださいました。
アブラハムは息子を捧げる時に、心の苦しさを覚えたでしょうけれども、最も大事なものを捧げたのです。親の人情としては「神様、私の命を取って下さい」と思ったかもしれない。これが人情です。しかし神様はそうではない、「あなたの愛する子を捧げなさい」と言われた。捧げ物とは自分にとって最も大事なもの、ある種の犠牲を伴わないものではないということであります。今週も神様の摂理のなかで神様の摂理の恵みを体験させていただきながら歩みたいと思います。アーメン。
2013年10月20日説教「人と自然の保持―神の怒りと憐れみの中で―」 市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)
2013年10月20日説教「人と自然の保持―神の怒りと憐れみの中で―」 市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)
聖書:創世記9章1~17節
1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」8 神はノアと彼の息子たちに言われた。9 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
(説教要約 文責近藤)
【人と自然の保持】
今読みましたところはノアの洪水物語のところですが、新しい会堂に来て、洪水で神様は心を真っ白にして下さった心持ちです。洪水物語は聖書のよく知られた箇所になりますが人と自然が保たれ保持されていることは神の憐れみである。同時に神の怒りもまた交錯しております。
【人も家畜も空の鳥も滅ぼそう】
今お読みした創世記9章1~17節は創世記6章9節「これはノアの物語である」との書き出しで始まっております。
物語とは聖書の他の箇所では系図とか由来と言われます。ともかくノア物語の締めくくりのところであり、クライマックスであります。これが今日のこの箇所です。
その直前6章1節から8節、そこに神様の思い、あるいは計画が凝縮して記されています。それは創世記6章5節「5主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」
そして7節「7 主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』
人だけでなく家畜も空の鳥も這うものも滅ぼそう」。
動物はかわいそうですね。人間だけが一掃されたらいいのに、家畜や空の鳥、地を這うものは罪を持ってないのになぜでしょうか。神様の怒りはそこまでエスカレートするとは、なぜ神様は人間以外のものも滅ぼし尽くそうとされたのでしょうか。
【人は地を支配するために造られた】
創世記1章~3章から分かる様に、人は他のすべての造られたものの代表です。人だけが神の像(かたち)に似た者に造られ、他の被造物を支配するために造られた。その人間が罪を犯したら、他の被造物も同罪だと。
罪は継承されるだけなくエスカレートします。人間の文化はそのまま継承されません。変化、発展します。良い方向にも悪い方向にもエスカレートします。原子力を見てください。昔はなかったが今はあります。しかし人間が創造したわけでありません。その元は神様が造られたのです。
文化が増大すると同時に罪も増大します。それで神様の怒りも増大します。
【神の裁き】
6章1~8節に人が罪で地を満たしたとあります。神様は恵み深い憐れみ深いお方でありますけれども、しかし聖なるお方、義なるお方ですから罪を放置なさいません。きっちりと後始末を付けられます。それが裁きです。
【ノアは主の好意を得た】
ただしその人間の中で8節「6:8 しかし、ノアは主の好意を得た」とあります。ノアは罪がなかったのではありません。彼もアダムの子孫ですから罪があることに例外ではありません。しかしノアは神を畏れ神を信じる人でありました。9節「6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」。
古い訳ではノアは正しい人であった。それで神はノアに好意を寄せられた。
すべてのものを滅ぼされるのですが、ノアとその家族と一つがいづつの動物を方舟に入れ守られます。
6章9節から始まる物語の締めくくりが先ほど朗読した創世記9章1~17節です。
【ノア契約】
まず第一に神様はノアに契約を与えられるに際して最初の天地創造をもう一度念頭に置かれます。
神様は罪に対して厳しく裁かれますが神様は逆上されるお方でありません。
大洪水をもって地を滅ぼさんばかりに裁かれるのですが文字通りゼロにするということをなさいません。それだったら初めから神様は地球を作らなければよかったわけです。
神は罪に対して厳しい方ですが、すべての被造物、ことにご自分の像(かたち)に似せて造ったほどに人を愛された。罪を放置はできないけれども被造物そのものを神様は根絶しようと言うのではありません。活かす道も残しておられた。
【人は地の管理人】
神様は人間に他のすべての被造物を正しく管理し、支配するようにと命じられた。
創世記 1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
創世記 1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」、
【エデンの園では菜食】
神様が人に与えられた仕事は造られた被造物を維持管理するということですが、神様はエデンの園にある野菜、果物を人間の食料としてお与えになった。人間は植物を食べ肉は食べなかった。
【肉食と人間の支配者性】
洪水のあとも多くのことは受け継がれております。しかし新しいことが1つあります。それは命あるもの、即ち肉を食べても良い、生き物を食べて良いという事です。
ここに初めて洪水後に肉を食べることを許されました。これは人間の支配者性を確認するできごとであり、保証するためであります。
神の国で、我々が天国に行ったとき肉食があるでしょうか。想像の域ですがおそらく肉食はないと思われます。罪が起こりまして改めて人間が他を支配すると言うことが確認されるときに、人は、神様を別として、被造物を支配する支配者性の確認のために肉を食べることを許された。
【命は命をもって償う】
人間の支配者性を裏から眺めると9章5節「5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。」
人の命である血が流された場合、神は賠償を求められる。罪を犯したからもう人間でないものになった訳ではありません。確かにキリストを信じて救われるまでは真実の神様を知りませんし、神様に祝福されませんけれども、それでも依然として人間なのです。捕虜や囚人に対して人体実験などをしてはなりません。
もし人の命が奪われ、血が流されるなら神様は賠償を要求される。これは神がなさることです。
復讐することは神がなさる事ですから、短絡的に死刑制度が、戦争が、良いとか悪いとかは言えません。それはまた別の議論です。仮に人が殺人し、そのものが復讐を受けるとしても、それは神がなさることです。命はそれを造られた神の所有物であるという事を覚えなければなりません。
【動物は血を含んだまま食べてはならない】
人間は動物を新たに食べることを許されたわけですが、一つ条件がありまして、4節「9:4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」。
動物の血は命であるから血を含んだまま食べてはならないという事です。それは一面医学の発達してない時代、衛生上の面もあったかもしれません。生ま肉を食べると悪いという事もありました。
中心的な事は例え動物であってもそれを造ったものは神様でありますから、命の源であると思われていた血を一緒に食べてはならない。こう言う制限付きでありますが生き物を食べることが確認されております。
【主従契約】
二つ目のこととして覚えることは、神様はノアと契約を結ばれますが、この契約は上下主従関係の契約であります。今日契約と言うと対等の契約、国と国、企業と企業、個人と個人、たとえば日米安全保障条約、一応これも対等ですが、その他、物を買う売買契約も対等契約です。契約を辞めるのもお互いの同意があればいいわけですが、聖書にある契約はときに国と国との契約もありますけれども、概ねは上下主従関係の契約です。
神様と民との間に結ばれる契約は上下主従の絶対的服従関係の中で結ばれます。その契約を守る限りにおいて命を保証するという契約であります。
旧新別なく聖書は契約と言う概念で貫かれております。旧約、新約の約は契約の約です。契約が最初に出てくるのがこのノア物語です。これは特定的に救いを目指す契約ではありません。
【救いの契約】
救いの契約はノアの何代か後のアブラハムから始まります。それは諸民族の中で神の民とする特定の民族と神との契約であります。
救うという契約、救いの約束は聖書の中では最初にアブラハムと結ばれましたが、息子イサクの時に更新され、孫ヤコブの時にまた更新され、代々更新されました。そして最終的にイエス・キリストにおいて成就したのであります。
しかしこのノアの契約には更新はありません。一度結ばれたら世の終わりまで一貫して確かであり、神はそれを守られます。
ノア契約の中身は何かというと二度と地を滅ぼさないということです。アブラハムから始まる救いの契約は、何度も言いますが罪からの贖いで、キリストにおいて成就しましたが、それを目指しての契約であります。
【神の民イスラエルと異邦人】
救いはイエス・キリスト出現まではイスラエルに限られますが、その後、その救いはイスラエルに限らず全世界(異邦人)へと広がってまいります。それまではイスラエルに限局され、諸民族の中でイスラエルだけが神の民とされたのです。
ところがノアの契約は初めの時点で神はすべての肉なるものと契約を結ぶと言われております。つまり動物も入っております。すべてのもの、ノアとその家族が中心ですが、その後の子孫も含めて、動物も、すべての造られたものが契約の対象であります。
改革派教会ではこの契約を一般恩恵などと言っておりますが私は神の一般恩恵というのは曖昧であるので使わないことにしています。端的に保持恩恵と言っております。普通教会で恵と言いますのはほとんど独占的にイエス・キリストにある救いということを恵と言います。
救いは神の恵であると、その通りですが、神の恵を救いの事だけに当てはめると他のものを恵とみなさなくなります。
神様の保持なさる、神が無から創造されたものを神様が保つ、これを神の恵と見なくなる傾向があります。それは神に対して忘恩であると思います。確かに保持することはそれ自身救いではありませんが、しかし保持がなかったら救いも起こりません。
救いの契約という事は全く神様の憐れみであります。アブラハムの時に結ばれましたが、神様がノアの時に建てた契約を保持するという約束があればこそ、ノアから何代か後のアブラハムとの間でその救いの契約が叶えられました。
【私の場合】
わかり易くそれを言いますと私はクリスチャンホームでは生まれたのではありません。家には仏壇や神棚がありました。そして20歳になるまで、そういう環境で育ってまいりました。遠縁には神主がおりますし、母方の叔母は住職であったりという環境で育ってきました。大学に入ってクリスチャンとなって二十歳前に洗礼を受けました。
キリストを信じて救われるのですが、ともかく二十歳近くまで生きてきました。それまで生きてこなかったら救われようがありません。私は勉強は嫌いでしたが日本語はそれなりに理解でき大学に入って教会に連れて行かれ牧師さんの説教を聞いて信じるか信じないかは別として、何を言ってるか分かりました。私は大病はしたこともなく健康でした。キリストへの信仰が与えられたというのは、そして救われたと言うことは言うまでもなく神様の業ですが、しかしそれまで20年間健康が守られ日本語が読めた、聞くことができた、理解できた、それは神様の憐れみ、神様の恵であります。救われることに劣らない神様の恵であると見なければなりません。
【自然法則?】
恵を救いだけに当てはめますと神が創造されたことを恵と見なさないわけです。ではどう見るか、代表的な言い方をするとそれが「自然」ということになります。乱暴な言い方ですが自然なるものはありません。それは神様が造ったもので、自然法則なんてありません。神が造られた法則以外ないわけです。自然とはこれを支えておられる神様の意思なのです。自然法則とは人間が作ったものです。これは変わるものです。戦争は代表的なものです。神様が作られた現象は変わりません、天動説までは太陽が地球の周りを廻りました。地動説になっても現象は同じです。何千年かたってその両方が間違ってるということになるかもしれません。それはともかくも創造する、そしてそれを支えるという事はこれは救いに負けず劣らず、いや救いに先立って神様の根本的な恵であると思います。
ノアに対して二度と地を滅ぼさないとの約束、それはやがてアブラハムなる人物を特定的に召し出して救いを実現していくと言う備えとしてこの契約をお与えになった。だからこそ私たちは日常の生活の中で健康、学校の勉強など、そこに神様の憐れみを見て神様との関係でそれを正しく管理しなければならないと言うことが分かります。
信仰があれば身体なんかどうでもいいという訳ではありません。身体がなければ信仰もありません。
【王と高官のために祈れ】
三つ目のことですが、これは先の二つの延長線上になりますが、それに続く救いは神様の恵でありますが、それに先立つ保持とか維持も神様の恵であります。
その思いは新約聖書にも受け継がれます。
使徒パウロはローマの信徒への手紙13章でローマの信徒に勧めております。ローマの官憲、政治指導者、警察に従うようにと勧めます。
当時のことですからその権力者はイエス・キリストのことをほとんど知らないわけです。それでもパウロは従いなさいと。同じ事はテモテやテトスにも言われております。高官と王のために祈りなさい。彼らに従いなさい。もちろん彼らが「キリストの信仰を捨てよ、ナザレのイエスを信じるな」と言われたらその限りではありません。その場合は逆らわなければなりません。王や高官に従うことはその国や町が制度秩序を保って生活を続けていくことができるためであります。そのために彼らを神が用いておられるのです。神様に従う具体的一環として王や高官に従うこともまた求められます。こうすることが秩序ある平穏な生活を送る上に大切なことです。
普通に考えても分かることですが、いつも国や街が政情不安であるときには信仰生活はしにくいですね。平和、正義、秩序これが保たれる事はよい信仰生活を行う上で必要なことであります。同時に官憲を用いて世界の秩序は保たれる。これも神様の御手のうちにある恵であるとパウロは承知しておりましたのでローマの信徒あるいはテモテに言うことができたのであります。
このことは私たちの信仰生活にも当てはまります。私たちの信仰を否定することを要求することには従うことはできませんが、日本の国民として、あるいは市民として日常生活の中でその市民としての務めを果たさなければなりません。義務があると同時に権利もあります。選挙とか。日常生活とキリストによって救われることは別々のものではありません。それは一貫している一つのことであります。こういう理解が必要であります。
通常契約という言葉は救いに用いられることですか、それにもかかわらず私たちには救いでないことに契約という言葉がここに用いられていることは大変意義深いことであります。
【私たちに起こる災害】
最後に一言、このことを付け加えます。洪水は地を滅ぼすいう神様の怒りが心頭に達した結果でありますが、何度も言いますが神様は単なる逆上をされたと言うのではありません。
ある計画・意図をもってこのことをなさいましたから滅ぼし尽くすことをなさいませんでした。
洪水のあとのノアたち家族と方舟に入った動物が守られ、洪水が終わった後も、方舟に入った動物は守られる。そして洪水が終わった後また植物が繁盛する。
一方で厳しい裁きを招きながら神様は保っておられることから、私たちは軽々に言うべきではありませんが、非常に深いところでは包容できるのではありませんか。なぜ私たちの周りに、また私たち自身に災害が起こるのかということです。
一昨年の例の東北大震災、非常な大震災です。10数年前にも阪神大震災がありました。もちろんそれを神の裁きと短絡的に言う事は出来ませんし言うべきではありません。少なくとも被害にあった人が会わなかった人以上に罪があるとか罪深かったとか、そんな事は決して言えません。
【災害とは神様の意思表示】
しかし高所大局的に見るなら、なぜそれが起こったのか。わたしたちには分かりませんが地球規模で見ますとやっぱり神様の意思表示だと見ないわけにはいきません。
人間が長い居住を許されている地を汚しているという事、これに対する神様の裁きと見るべき神の意思表示ではありませんか。そういうことが往々起こったということを非常に重く受け止めねばなりません。
何度も言うようにその地域がそうでない地域より罪深いと言うことではありません。これは震災だけでなく社会の犯罪もそうです。ネットが悪用されて付き合って嫌われて殺されるということが頻繁に起こっております。被害にあった人がそうでない人よりも神様の前に悪いとはそんな事は言えません。
【神は全てご存知】
しかしこういう出来事を見る時に一方で神の存在、神の恐ろしいお方であるということを改めて私たちは慄然とさせられます。が同時に逆説的に、これを神様が引き起こされたとは言いたくないんですが、神の知らないところで起こっているわけではありません。これに対して神様がお手上げと言う訳ではありません。
聖書の神は全能で厳しいけれども恵み深い神様であるという事を信じればこそ、そこにも尚、愛と希望があるということです。
【神に希望を】
震災直後に神が酷いといった人もあります。その気持ちが分からないわけでありません。あるいは神はいないんだと言う人もありました。神がいなかったらあのような悲惨な出来事をよりよく説明できるのか。よりよくそれに対処できるのかと言いますと事柄は全然正反対です。神がいなかったら、居たとしても無力な神なら、また冷酷な神だったら、こんな神はいない方がいいですが、神が居てほしいなら一方で全能、そして恵深い神様、そういう神様の支配の下でああいう災害犯罪が起こるということを信じる時にだけ、ここで私たちは立ち上がり、それに対応することができるのであります。
【生きる力の源】
神が酷い、神はおられないと言うのは、その気持ちよくわかりますが、実はそうではない。神様は全能で恵み深いお方であるということを信じるからこそ私たちは困難に対して再び生きる力を与えられ、希望を持って対処できます。私たちが天に召されるまでにどういうことに遭遇するか分からない、いつ何が起こるか誰も予断ができません。
しかし、全能の恵み深い、正しくかつ恵み深い神様を私たちは見ている。その神様に私たちは取り扱われているという信仰があるときに何があっても耐えることができるということをこの大洪水から学ぶことができます。
大洪水に多くの人ビックリしたでしょう。しかし神様はノアには約束されました。それは自然の猛威とか脅威ではなく神様が起こされた。だからノアは神様を信じることができた。私たちも既にイエス・キリストによって罪許された。それゆえ私たちはイエス・キリストを信じて神の国の相続者とされております。この信仰を持って歩み続けたい。(終わり)
2013年10月20日 | カテゴリー: 創世記
2013年9月1日説教「神様はどういうお方ですか」崔 宰鉉(チェ ジェヒョン)牧師
2013年9月1日説教「神様はどういうお方ですか」崔 宰鉉(チェ ジェヒョン)牧師
聖書:創世記1章25-31節
25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
(説教要約 文責近藤)
【人の生きる主な目的は何か】
クリスチャンとして私たちが生涯を通して為すべき一つの事は何ですか。
それは神を知ることではないでしょうか。礼拝を通して聖書を読むこと、祈ることを通して神を悟る事では無いかと思いすが事は簡単なことではありません。目に見える人間の親についても十分に知り尽くすことが難しいわけですが、まして霊なる神様について暗闇にいる人間は知ることはなおさらです。
【盲人と象】
限りある人間が目に見えない神について知ることは非常に難しいことです。
目の見えない3人が象を触って言いました。はじめの人はこれは柱ですと鼻を触って言いました。次の人は、これは壁であると、その腹をさわって言いました。3人目の人は天井だと象の背中を触って言いました。
すべての人は神を知っていると思っておりますが人は本当は何も分かりません。私たちは神の御前に立つ時まで神のことを完全に知る事は出来ません。しかし人は礼拝で祈り、聖書を読む事によって聖霊の助けによって神様を完全ではないけれども知ることができるのであります。
【神様はどういうお方ですか】
今日そのひとつ神様はどういうお方ですかという趣旨のことを語りたいと思います。
【その1、創造主】
神様は創造主です。創世記1章1節に「始めに神は天と地とを創造された」と五つの単語で御自身を簡単に語っておられます。「初めに、神は、天と、地と、創造された」と単語を知っても、この世の人はだれもこの五つの意味を一生かかっても完全に知る事は出来ません。
【罪人は創造主を知りえない】
神について罪人である人間は完全に神を知る事は出来ません。
この世に降られたイエス・キリストは肉体をとって人となり、罪びとの贖いとなられましたが、それでも神の御心を知るために謙って熱心に祈られました。イエス様でさえこのように祈られたわけです。まして罪のある人間は神様の御心を計り知る事はできません。また天と地の大きさを測る人はありません。200億光年離れた星を最新の観測機器では観測できますが、これは全体ではなく天と地のほんの一部です。
【愚か者は創造の秘密を知らない】
最後に創造の秘密を知る人はこの世にいるでしょうか。人は自分の体を自由に動かせますが、髪の毛一本も人は支配できません。私も白髪が生えたきました。しかし自分で白髪が生えるのを止めることも出来ません。医学が進歩しても人は自分の骨をまた自分の血液を作る事は出来ません。創造の秘密を知らないからです。創世記1章1節は人間の知恵では神の天地創造の秘密を知りえない領域を語ります。これは純粋に信仰の領域であると、このことを信じられない人は、偶然の存在として宇宙や人間の存在を見ていますが、そして自分の好きなように行動しますが、それは愚かなことです。
韓国のある医者の話ですが自分の健康に自信を持っていましたが、ある時検診でガンとわかりました。同僚の医者は手術をしましたが、ガン細胞はすでに全身に広がっており、どうしようもありません。彼は数週間後に亡くなりました。
人間は自分が自分の主人になるにはあまりにも小さな存在です。私たちは神が創造主である事を知り、聖書は被造物に対する使用説明書だと言うことが分からなければなりません。
この世の物はそれを造った会社があります。例えばここにマイクがありますが、マイクを作った会社の使用説明書によって、このマイクを正しく扱うことができます。だれもその使用説明書を疑う人はいません。
神が創造主であると信じる人は、使用説明書である聖書を疑わないで従うと高価な自分の命を正しく育てることができます。
聖書と言う使用説明書を通して人は人間の命を作られた神様と神の目的を知り、そしてその説明書である聖書を通して高価な自分の命を正しく育てることができるのであります。
【その2、神は男と女を創造された】
二番目は神様は父性と母性を持っておられるということです。創世記1章27節をいっしょに読みましょう。
創世記1章27「 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。
多くの人には神さまは男性のように思われますが、それは全てではありません。ここ創世記1章で神は男と女を創造されたのです。神は確かに父性の特性を備えておられます。神はその大きな父性を現されました。
それは出エジプト記では紅海を開いて、イスラエル民族を渡らせました。
また18万5,000人のアッシリアのセナケリブの軍隊を滅ぼされました。神様は父性の強さを表しますが、母親の繊細さや柔らかさが足りません。真の強さは両性を兼ね備えていると思います。
【母親の愛】
子供が高熱を出すとき母親は看病ができますが、そして母親は子供の泣く意味も分もわかりますが、父親はなぜ泣いているかその意味がわかりません。母親の愛は父にないものです。私たちの神は父性とともに母性を備えておられる事実はわたしたちに大きな慰めになります。
詩編121篇の3節、4節を見てください。
「3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない」。
もう一つイザヤ書49章15節を読んでください。
イザヤ書49章15 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」。
この御言葉は神の母性の証拠であります。私たちの神様は母性を備えた方であるということは私たちに大きな慰めになりますね。
【イ・ジェチョル先生の思い出】
韓国の有名な牧師イ・ジェチョル先生は私が尊敬する牧師ですが、朝鮮戦争の直後、母親の愛について証しております。彼が5歳の時、兄は軍隊で軍人でした。そしてその兄を見舞いに行った時のことです。行は軍用車で行きましたが帰りは汽車で帰らなければなりませんでした。それは寒く-20度の気温でした。汽車は古く、吹きさらしの列車でありました。1番辛かったのは寒さで足が凍り付いたことです。私は冷たさに泣きました。母は私に自分の靴下を脱いで履かせました。そして私は暖かくなりましたが、ソウル駅に着いた時、母親を見るとその足は青く凍傷になっていました。イ・ジェチョル牧師と一緒にいたのが母でなく父親だったら「男なら我慢しろ」というでしょう。私は7年間海兵隊で働きましたので、私なら「立て、走ってみろ、温まるから」と言ったでしょう。しかし母親は自分の命のことを顧みません。
神はこのような母性を備えておられ、人間に永遠の命を与えるために御子を犠牲にしてくださった。このように嵐の世を生きるときに私たちの生きる力の源になって下さったのは神の母性のお蔭です。
母性は神の最高のプレゼントで、それは優しくあたたかく、繊細な愛であります。
神は父性と母性で私たちを愛し守り祝福してくださいます。神がともにおられれば私たちは幸せになれない事はありません。
【その3、神様は祝福されるお方】
神様はどのようなお方ですか。その三番目は神様は祝福されるお方であるということです。
創世記1章27~28節を読みましょう。
創世記1章
27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
また5章1節~2節を読みましょう
世記5章
1 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、2、 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
何事も肝心なのは始めが大切だということです。それは後に続くことを規制します。
神は人を創造して初めにされた事はなんでしょうか。それはすぐに作られた人を祝福されたことです。ところで神の祝福とはなんでしょうか。
神様の祝福とは一言でいうと、被造物に対するアフターサービスであります。高価な物にはちゃんとしたアフターサービスがあるのでその製品は確かであります。アフターサービスのない製品には信頼がありません。人間は神のアフターサービスがなければ人間らしくなれません、凶器になりかわります。
創世記5章2節
「男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」。
ここで注意すべきは人は神のご利益のみを求めてはなりません。神でなく祝福のみを求めるのは偶像礼拝者であります。偶像は人の心を破壊する凶器であります。神は御自身の栄光のために人を創造されました。私たちの求むべきは祝福の源である神様です。
今日神様について三つのことを知りましたが、これは神様の一部にしか過ぎません。
神様を知るのは知らない人に神を知る助けとなるためです。
その為に神様を詳しく知る必要があります。私ももっともっと神様について学び神を知らない人に神様をわかりやすく伝えたいと思います。そして御前に美しいクリスチャンでありたいのです。(おわり)
2012年8月12日説教「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみの緊張関係で―」神戸改革派神学校校長 市川康則牧師
2012年8月12日説教「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみの緊張関係で―」神戸改革派神学校校長 市川康則牧師
聖
書 創世記4章1ー26節
1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。
12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。
18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。
23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。
24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」
25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。26 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。
【罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみとの緊張関係のなかで】
今日の説教題にのせましたのは「罪の伝達と拡大―神の裁きと憐れみとの緊張関係のなかで」。
人間の罪は単に継承されるのではなく拡大する、分かりやすく言いますと人間は文明を発達させることができます。発達させて来ました。これはどんな動物にもできません。
猿がどんなに賢くてもできません。しかしその結果、被害、弊害も大きくなってきました。
【原発事故、この世の災害の根源】
昨年起こった原発の事故はそれを雄弁に物語ります。原発が良い、悪いを申してるのではありません。原子力発電は素晴らしい力を発揮しました。そのために助かってるものも多いです。しかし一旦何かが起こると、もう被害はとてつもなく大きいのです。これは何も原発に限りません。例えば包丁もそうです。台所に欠かせませんが、包丁は人を刺すことにも使えます。その種の犯罪が多ございます。一面人間は文化の歴史を発達させることができますが、その弊害もまた大きくなったのは事実であります。
さて創世記4章の物語から人間の罪が継承される、しかも増大していく。これに対して神の裁きも大きくなっていくが、神の哀れみもまた忘れられず、大きくなると言うことを覚えたい。
申し加えますが原発の被害、それが神の裁きだとは言えませんし、言っておりません。
被災した人が、それに値した神の裁きに遭わされたということでもありません。
が人類全体の規模から見るなら「神様の警鐘」という事は言えなくもありません。これは何も震災に限りません。よその国で起こった津波もそうです。よその国で起こった犯罪もそうです。日本人も含めて人類全体が犯した罪の結果という事は一面言えると思います。
そうですが個々の出来事に対する神様の裁きとは言えません。
【人類の始祖アダムトエヴァ】
さて堕落したカインの罪は最初ではありません。4章の前に、3章がありますが、その初めにカインの親、アダムとその妻エヴァ、彼らが最初に罪を犯しました。
まぁ杓子定規に言えば、まず初めにエヴァが罪を犯した。しかしエヴァは人類の代表ではありません。アダムが罪を犯すまでは神様は怒りを顕わにされませんでした。
これは私の想像です、カッコしてお聞きください。創世記3章の始まりを見ますと蛇、即ち悪魔がエヴァを誘惑して神に背かせました。そしてエヴァはアダムに果物を食べるよう話しましたが、「園の中央にある善悪の知識を食べるな」と言う神様の命令を直々に受けたのはアダムです。
エヴァが木の実をとって食べても、神に背いたとしても、アダムがしなかったなら人類に対して、おそらく神は怒りを発せられなかったでしょう。わたしの推測ですが。
しかし聖書に書いてありますように、残念ながらアダムはエヴァを通じて間接的でありますがサタンの誘惑に屈しました。そしてそれで神様は創世記の3章の中程のところで、最初に言われたように呪いを発せられました。
【罪の結果】
創世記3章17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
土は不毛となり、いばらやあざみしか生じない。これは不毛の象徴です。顔に汗して働いても土はいばらやアザミしか生えない。罪の結果、労働は苦しみでしかない。エバはまた生みの苦しみを負う。こうしたことは罪に対する神の人間に対する裁きであります。
【神の義】
もう一度申しますが神様は恵み深いお方、憐れみ深いお方です。が罪を多目に見られる方ではありません。きっちりと後始末を付けられる正義の神であります。そうでなければ私たち人間社会は無法状態になります。哀れみ、哀れみ、愛、愛と言って罪を許しておれば、我々人間社会はどうなりますか。悪ばかりが横行いたします。犯罪が起こればその罪に対してきちんと対応すべきであります。後始末をつけるべきです。それは神様がそうされるからですね。
【伴侶】
そのように最初にアダムとエヴァは罪を犯しました。神様はアダムをお造りになって、そしてアダムのためにふさわしい助け手をお与えになりました。エヴァをお造りになりました。アダムはエヴァを受け入れ、これこそ「私の骨の骨、肉の肉」と言い、その分身であるかのように、最も近い関係、これをある人は愛の賛歌といいます。男から取ったので女と呼ぼう。日本語では分かりませんがヘブライ語の聖書では、イシュから取ったのでイシャーと呼ぼう。
【責任転嫁】
男と女はもちろん区別されますが、アダムとエヴァは別人です。がしかし人間としては同質です。こういう近い関係であったアダムが、罪をおかしてから、アダムは神様から「とって食べるなと命じた木から食べたのか」と言われると、そうするとアダムは「あなたが私のために造って下さったエヴァが私にくれたので私が食べたのです」。自分の罪の責任転嫁を最初にしたのです。
ここでエヴァを自分の罪を擦り付ける対象にした、当然、人間関係が断絶いたします。神に背くと神との関係に亀裂が生じるという事は人間関係においても亀裂が生じるという最初の出来事であります。
【殺人の罪】
しかしながらアダムはエヴァを自分の罪の責任転嫁の対象としましたが、しかし、ここではまだ殺人の罪は起こっていません。カインの時になりまして、罪を犯した人間を神は怒っておられる、人間は神に呪われたのとして、アダムもエヴァもカインもそして殺されたアベルも皆同じ罪人です。
【罪はエスカレートする】
しかしその罪深さが現れる、現れ方がエスカレートすると、その次が、この4章のこの物語なります。
4章の前半を見ますと神様はエヴァとアダムを哀れみ、罪を犯してエデンの園を追放される二人ですけど、なお神様は彼らに哀れみを確保してくださり、エヴァ、命と言う名ですが、その名にふさわしい働きができるように、つまり母となることができるように、人間の命の源となるようにしてくださいました。それが出産です。エデンの園から追放されたにもかかわらず、アダムは尚、命を受け取ることが出来ました。
それが一つです、アダムはエヴァを知ったことでカインを生んだ。エヴァは言った、「わたしは主によって男子を得た」。神様に栄光を帰すると言う素晴らしい表現です。
生まれてきた子供が長男カイン、次男アベル、その次の物語が私たちを悩ましますが、カインは土を耕す者となって農耕に従事した。アベルは羊を飼って牧畜に従事した。それぞれ自分の仕事の稔、地の産物または初子を神に捧げた。カインの捧げ物が悪かったと、どこにも書いてありません。何故かわかりませんけれども神様はアベルの捧げ物を嘉し給いました。新改訳聖書では「肥えた羊」が、「最上の羊を群れから取って神様に捧げた」とあります。
それを神様は受け入れられたというのです。
カインとその捧げ物には目を止められなかった。目を止められなかったとは受け入れられなかったという事です。神様ですから人間のようにものを直接食べると言う事をいたしません。神様が肉は好きとか嫌いだとは言われません。神様は気まぐれではありませんから、原因が当然あるはずだと言います。
【人間の罪深さを暴きだすため】
カインの捧げ物が悪かった。アベルはよかったと言う風に人は見るわけですが、しかし聖書自体の中にはそのことの言及はありません。なぜ神はそうなさったかと言うことですが、この物語がなぜ書かれているかということにですが、聖書の意図を汲み取らねばなりません。これはカインに象徴される人間の罪深さを暴きだすため、描き出すための出来ごとです。
実際起こらなかったけれども、作者がそういう風に書いたということでもありません。実際に起こったことですけれども、なんでそんなことが起こったかということです。カインに象徴される人間の罪深さはどれほどのものか、それを明らかにするのが目的でございます。
神様はカインに、なぜ怒るのか、もしお前が正しいのなら、自分の捧げ物にやましいことがなければ、例え弟の捧げ物を神が喜ばれた、受け入れられたとしても自分自身は卑下することはないでしょう。しかしこれができないのが罪人なのです。
【サウル王】
ダビデがまだ王となる前のことです。サウル王の家来だった頃、イスラエルの敵ペリシテ人に巨人ゴリアテと言う大将がいて、これにダビデが勝利した。それまでイスラエルはペリシテ人の前に風前の灯火でありました。ダビデがゴリアテを倒したために形勢逆転、イスラエルは大勝利をしました。
そしてサウルやダヴィデたちが帰ってきました時に、エルサレムで婦人たちが、「サウルは千を撃ち、ダヴィデは万を撃った」と歌います。サウル王は「王である私が千、家臣のダビデが万」と、これを聞いてそれからダビデを憎むようになりました。愚かなことです。しかしこういうことが人間には起こるのです。
人が褒められたら自分が貶されたように思う。それが人間の習性です。自分よりも遥かにえらい牧師先生がいい説教した。あれは良い説教だなぁと何とも思いませんが、自分と同輩の牧師が褒められるとすると、また後輩が褒められたとすると自分は貶されたように思うのですね。自分にも子供がありますが下の子を褒めたのですね、そうすると上の子が自分のことを褒めたのですね。これから子供を褒める時はよく注意しなければならないと思いました。教訓になりましたが、この類のことなんですね。
【自分の罪を制することが出来ない】
神様は何もカインを臭しているわけではありませんね。お前の捧げ物は駄目と言っておられるわけではありません。何かわかりませんけれどもアベルの捧げ物を受け取られました。
それでカインは腹を立て、この時、自分の罪深さを制することが出来ない程になっている、それがこれから明らかになります。神は言いました、「もしお前が正しいのなら顔をあげればいいでしょう」。つまり「私を見ることができるはずだ」と言われました。
7節後半、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と罪を制御せよとの警告です。
【最初の殺人】
カインはアベルと野に行ったのですが、その時にアベルを襲って殺してしまいました。カインは当然質問されます。「お前の弟アベルはどこに行ったか」。それはちょうど最初に罪を犯したアダムが神様を恐れて木の根元に身を寄せて隠れた。「お前はどこに居るのか」。神様はお見通しですが、罪を犯した人間が神様を直視できないことがわかる象徴的な出来事です。
「お前はどこにいるか」と。「あなたを恐れて隠れています」。
今度は「弟アベルはどこにいるか」。そうしたらカインは「知りません」と答える。こんな大胆不敵な答えはありません。「知りません」というのはもう「関わりはありません」ということです。
「私は弟の番人でしょうか」、番人と訳されております言葉は世話をする、保護をするという意味もあります。世話人、保護者。新約聖書の、特にイエス様の言葉を大胆に用いますと、隣人という意味です。それは世話をする、保護すべき相手です。「私は弟の番人でしょうか。知りません。」
こうしてアダムが既に罪人でありましたが、まだアダムが犯さなかった殺人という大罪をカインは犯しました。しかしこれはカイン個人の問題ではありません。もしカインがアベルを殺さなかったならアベルはそのまま大きくなったでしょう。がアベルも神様の前には罪人です。人間の罪はこうして増大します。
【失楽園】
17節、カインは神様にエデンの園を追放されます。カインは追放されてノド、カッコして「さすらい」という地に移ります。住み着いた、定住したところが「さすらい」の地、矛盾しています。「さすらい」とは「定住しない」ことです。神に命を守られながらも、自覚の上では神様を捨てる、神から去っていく、放浪するということを表している。相応しいの町の名前であると思います。
【二人の妻を娶ったレメク】
その子孫に子供が生まれます。そして18節、レメクという人物が登場します。このレメクは傲慢な服を着ている人間で、19節、二人の妻を娶った。神様がアダムに妻としてお与えになったのはエヴァ一人でした。一人の夫、一人の妻、そこで二人は霊肉ともに一体となることができる、真実な交わりを深めることができるのです。
二人の妻を娶るという事は、一夫多妻ですが、そこでは真に一対一の人格関係は生まれません。一夫多妻はなんのためにあるのか。それは人間が堕落した結果でありますが、古代社会のことを考えますと今のように医学は発達していませんので、しかも家系を絶やさぬことがなく一門の繁榮のために、子孫が繁榮しなければなりません。そういうことから一夫多妻が普遍化されますが、もう一つは女性を男の欲望の手段とするということです。
レメクが二人の妻を娶ったというのは人間を自分の欲望の手段と化したというとんでもないことです。
【無制限な復讐】
23節、そしてレメクの言葉は、創世記4章
23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。
4:24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」
「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」、この復讐は神様の定められた限界を遥かに超えています。自分を神よりも上に置いています。どういうことかと言いますと、カインがアベルを殺しました。そして神様の怒りに触れて御許から去っていきます。彼は恐れます。
14節を見ますと「14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。質問、カインに誰が出会うでしょう。カインとアベル二人しかいない世界です。
【額に印を】
5章を見ますとアダムはカインとアベル、セト、この後にまた男と女をもうけて二人の子供だけではありません、いずれにせよ、カインは自分は殺人をしておいて自分が殺されるのを恐れた得手勝手な人間です。カインが殺されないようにカインに印をつけられたと書かれてあります。
もし誰かがカインを殺したなら神様はその復讐をなさる。その復讐は7倍、誰かがカインの命を取れば取ったものから7倍の復讐をすると言われます。そんなことできないことですが、これは殺人の罪がどんなに重いことかと言うことを表します。それを神は許さないということを語る明瞭な神の意思表示です。
殺人を犯したカインですら、そのカインを殺すなら神様は7倍の復讐をすると。今レメクはどうか。カインのための復讐が7倍ならばレメクための復讐は77倍、無制約、無限ということです。7というのは完全数、77倍というのはもう無制限に復讐するということ、しかも神様はカインが殺されたら、そうするということですが、レメクは殺されなくても、傷だけでも人を殺すというのです。23節、「傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す」。
自分が殺されるのでもない、ただ傷を負う、それでも相手を殺す。復讐心が増大するということ、つまり罪は増大するということであります。
それは神様の呪いが増大するからであります。こうして人の罪に対する神の怒りは増大します。
しかし神様は一方で哀れみをもお忘れになりません。エスカレートする罪と怒りをなお抑制される。神様がカインに命じられた、
「4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」、
お前は罪を支配しなければならない。それができなかったですね。神様は罪に対して怒り心頭に達しておられます。
悪いのは人間ですからこの地球を滅ぼしても、罪を犯した始めの時点で神は人を滅ぼしたとしても、神様には不正、落ち度はありません。が神様はそうなさらなかった。罪を犯して罪を制御できない人間に対し神は怒り心頭に達していても、なおご自分を自制されるのであります。それがカインに対する、また人間に対する憐れみであります。
いま申しましたように自分は殺人を犯しながら自分が殺されることを恐れる。そのカインに対して神様はエデンの園から、つまりご自分との交わりからは追放なさいます。けれどもそれでも尚カインが殺されないように処置を講じられました。その額に一つの印をつけられたとあります。その印は何であったか詮索する、知る必要はありませんが、いろんなことを考えます。刺青のようなものでなかったか。いずれにせよカインを保護されたということであります。
【カインは街をたてた】
それだけではなくカインがノドーさすらいと言う名前のついた街でありますけれども、
17節で、街を建てています。街とは共同生活の象徴であります。創世記1章26節以下を見ますとは神は、他の被造物はその種類に従って造られたわけですが、人間だけは神に似せて、「我々に似せて」、つまり神に象って人を創ろうと言われました。
神様はお一人ですが、不思議なことに、ご自分のことを「我々」と言われます。「我々」と呼ばれる神様の像に人間を造られた。人間は複数の存在であります。だからアダムからエヴァを作られたのであります。アダムとエヴァからカインとアベル、セトが増えるようになりました。
人は初めから複数に、皆で営みます。みんなで生きるのです。その象徴が街を建てるという事であります。街を建てるという事は、街で一緒に生活するということです。
街で一緒に生活できないとどうなるか。仙人になるしかありません。
何の材料を用いて街を建てたか分かりません。れんがであれ木であれ、何であれ神様が創造において自然の中に与えておられるものを用いて造られました。
カインが加工したかも知れませんが、それを用いて街を造った。神様は罪を犯した人間がなお共同生活ができるように、人間にふさわしい生活ができるようにしてくださいました。
そしてレメクに子供が生まれます。
一人はアダ、もう一人はツィラといった。20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。
【人類文化文明の発展】
ヤバルは牧畜を営むものの先祖となる。ユバルは竪琴や笛を奏でるもの音楽、芸術の祖、それからトバルカインは青銅や鉄で様々なものを創る工業の祖となりました。大工の工、鉱業の鉱、どちらの意味でも産業ですね。
牧畜の延長線上に農耕。様々な産業。つまり神様は堕落して、人を殺すほどに、堕落した人類に尚共同生活を、単なる共同生活ではなく、猿でも共同生活します、その程度ではありません。文化を営むことができるようにされました。歴史を形成するために文化を達成されたのであります。個人としても、共同体としても、肉体的にも精神的にも、文化的にも社会的にも、人類が生きる事ができるように神様はして下さったのです。
【音楽の賜物】
宗教改革者のカルバンは神様がカインの子孫に音楽の賜物を与えたことについて、御霊の賜物、聖霊の神様は侮るべからず、音楽は御霊の賜物であると賞賛したほどです。通常御霊の賜物というのは福音、信仰の成長ということで用いられますが、カルバンは、断りまして、ここはいかなる意味でも救いではないが、しかしそれでも侮ってはいけない。神様が人類にお与えになった御霊の賜物である。神は罪を犯し続ける人間を怒られますけれども同時に哀れんでくださる。
【主のみ名を呼び始めた】
創世記4章25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。
25節を見ますと再びアダムはエバを知った。先に2人の子供が与えられたが、一人は兄弟によって殺された。一人は追放された。後を継ぐ者がいなくなった。しかしそれでも神様はアダムを哀れんでくださり、エバがその名前の通り、「命の源」となることができるように、もう1人の男の子供をお与えになりました。カインがアベルを殺したのでアベルに変わる子を授けられた。「授ける」と言うことから「セト」と名付けました。
神は罪人に対してこの上なく厳しく怒られ、同時に罪は罪として裁かれますが、人そのものを憐れみ、尚生きることができるように、しかも身体的にも精神的の文化的にも豊かな意味に於いて生きることができるように神はしてくださいました。
【命の継承】
そして25節を見ますと、セトにも子供が生まれた。カインに象徴される人間は、神にのみ属するという命というもの、命は神にのみ所有権がありますが、カインに象徴される人間は命を奪います。それでも神は人類から命がなくならないように、人類が命を継承する、あるいは伝達することができるようにしてくださいました。そしてセトが生まれました。
そしてセトがエノシュを産みました。主のみ名を呼び始めたのはこの時代のことである。主のみ名を呼ぶという事は、わかり易く言えば礼拝するということです。それまで神様を礼拝しなかったと言う訳ではない、どんな形式で礼拝するかわかりませんけれども、積極的に神様を礼拝するという事が起こりました。こうしてこの創世記4章は神様の憐れみで始まった。
アダムとエヴァから命の継承を象徴する出来事、子供の出生という神様の哀れみが始まります。人間はそれを台無しにし、神様はそれを怒られますが、それでも神様は哀れんでくださって人間の子孫が絶えることのないように、むしろそれを豊かに発展、継承させるために、そして再び神様の命の継承、和解で閉じられます。
そして次の5章へと展開します。神は再三申しますが、罪に対して大目に見ることはなさいません、後始末を付けられます。
【主イエス・キリスト】
しかし、それを許す手立ても講じられます。この時から何年たったかわかりませんが、遥か後代でありますけれども、イエス・キリストと言う方が来られます。このイエス・キリストはカインとは正反対で全く罪を犯されなかった。
誘惑に逢われましたが、その誘惑をことごとく退けて神様に対して完全であられました。それを聖書は義と申します。ところがこの義人イエスを人類の罪をすべてこのイエスに負わ人類の身代わりに否人類の代表として罪の王国の王として厳罰に処せられた。
【十字架刑】
それは十字架に付けるということですが、十字架刑はイスラエルの伝承では神に呪われたもの、石打の刑よりもっと呪われたもの、木に架けられたということですが、時代はローマのものは時代ですからローマ帝国では十字架刑は通常用いられませんでした。少なくともローマの市民には用いられませんでした。国家に対する反逆や大罪といったものにのみ用いられる、例外的なでありました。それが十字架刑で、ナザレのイエスはローマ帝国からも、ユダヤの伝統からも裁かれたということです。何のため裁かれたか、それは人類の罪を裁くためです。人類の罪を裁くための神様の処置であったのです。こうして神様はナザレのイエスを十字架につけられて、怒りを爆発されました。しかしこのナザレのイエスは30年半余りの生涯で、罪を全く犯されなく義であられました。そのことを神様ご自身が示されたのが復活であります。こうしてイエス・キリスト信じるものは、イエス・キリストの十字架の処罰が信じる者、私自身の罪に対する神の処罰であります。それで私の罪は許され、帳消しにしてくださいます。
さらに自分自身では守れない神の戒めを、神のみ心を、それをイエス・キリストが完璧に守ってくださって神の前に義であると、信じる私もまた主イエス・キリストの故に義と認めていただけるということであります。神様はイエス・キリストの死と復活、二〇〇〇年経っていますが、それを信じない者、罪を悔い改めないものに、それを求められます。
罪の処罰は間違いなくあります。しかし主イエスを信じる者には裁かれません。キリストを信じる人々の主として神様は、それを要求されません。それは主イエス・キリストの復活の命を豊かに注いで下さり、豊かに生きることができるようにしてくださいます。
イエス・キリストより遥か昔に起こった出来事はそれを表します。私たちはこれから先何が起こるかわかりませんが、イエス・キリストによって神様に守られている。キリストの死と復活が私の罪の処置と生きる力である。それを信じて私たちは生きたいと願います。そして主にある恵みを人々に証していきたい、共有していきたいと思いますね。(おわり)
「二つの誘惑」ウイリアム・モーア2011.3.27
創世記2章15−17;3章1−7
マタイによる福音書4章1−11
【空腹の子】
ある小学生の男の子は学校の帰りに一人で近所のスーパーに入り、お菓子の所へ行きました。そして、お腹が空いて来た彼は一番好きなお菓子を手に取り、ずっと眺めました。それを買って食べたいけれども、一円も持って来なかったので買う事は無理だと分かりました。しかし、お菓子を眺める程、腹ぺこになり、うっかりそのお菓子を開けてしまいました。
その瞬間お店の人がそれを見て、男の子に、「君は何をしたの」と聞きました。そして、男の子は、慌てて、「何もしてないよ、何もしてないよ」と言いました。店員さんは、「君はお菓子を開けて食べようとしたじゃないか」と聞くと、坊やは泣きながらこう返事しました。「違うよ。まだ食べてない。僕はただお菓子を食べないように頑張っていたよ」と言いました。
【二つの誘惑】
私たちは一人も残らず坊やの気持ちがよく分かると思います。それは誘惑を受ける事と誘惑と戦う事です。今朝、誘惑の事について一緒に考えたいと思います。今日与えられた二つの聖書の個所は、御言葉の中の最も有名な誘惑のお話になります。
最初の人間アダムとその妻エバの誘惑と、神の御子イエス・キリストの誘惑であります。両方は誘惑されましたが、アダムとエバは誘惑に負けて、エデンの園から追い出されました。その反対に、主イエス・キリストは誘惑の上に勝利を得て、人類の為に大きな恵みをもたらして下さいました。ですから、私たちは両方の誘惑から学ぶとき、誘惑に対する私たちの正しい戦略と態度を習得します。
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「まことに主がこの場所におられる」ウイリアム・モーア2010.7.11
創世記28章10−22(讃美歌 320)
◆ヤコブの夢
10:ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11:とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12:すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
13:見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。14:あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。15:見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
16:ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」17:そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」18:ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、19:その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。20:ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、 わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、21:無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、22:わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
【夢】
心理学者によりますと、私達人間は眠る時、誰でも、夢を見るそうです。特に、ラム睡眠(急速眼球運動サイクル)の時、私達はよく夢を見ます。そして、目覚めると、ある人々は見た夢をよく覚え、生々しくその内容を語る事が出来ます。うちの家内はそのような人です。実は、家内の夢には自分の両親や子供がよく現れます。その場合、家内は心配して夢に出て来た人に直ぐ電話してその調子を確認します。もっと酷い時は夜中の3時に自分の母親が病気かもしれないと起された事もあります。
祝福の源となるように ウイリアム・モーア宣教師
聖書 創世記12章1−4◆アブラムの召命と移住
1:主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。2:わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名 を高める/祝福の源となるように。3:あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
4:アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
【神との損得勘定】
ある会計士が自分と神との計算書を作成しました。彼はよく考えて、その会計書に神から頂いた恵みと祝福を全部記帳しようとしました。自分の命や日々の糧や健康や住む家や友人や家族や信仰などを会計帳簿に詳細に記入しました。そして考えれば考える程記入が多くなり、計算帳簿はいっぱいになりました。それから会計士は自分が神様の為にした事を記帳始めました。積んだ善行を記入しようとしたが、あんまり立派なものではありませんでした。ある程度の施しや人助けなどを計算帳簿に記入しましたが、あまり思い出せませんでした。神から授けられた恵みと比べると本当に僅かでした。彼は道徳的に生きようとしましたけれども失敗が少なくなかったのです。更に信仰の歩みも色んな面で欠けていました。計算帳簿を見ると、差し引き勘定をする事が全く不可能であるとよく分かりました。「間違えなく神様は私の貸し主で、私は赤字から抜け出す事が出来ません。主から頂いた恵みと比べると私がした事は計算する価値がない」と告白しました。
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人間は何ものなのでしょう ウイリアム・モーア宣教師
詩編8編1:
【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を 築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。8:羊も牛も、野の獣も9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。
【夜空に想う】
晴れた夜に大空を見上げた事がありますか。数え切れない星の中、北斗七星ややカシオぺア座や北極星などを探した事がありますか。又、空を昇る輝く満月の姿を見て、感動した事がありますか。誰でも無限の大空をゆっくり眺め、その雄大さに打たれた事があるでしょう。天文学に興味を特に持つ者ではありませんが、ある美しい夏の夜、私は天を見上げて、自分の存在の意味を新たに思案しました。
【雨が晴れた夜】
その時は高校三年生の頃でした。いつものように家族と共に山小屋へ行って、夏休みを過ごしました。その日、朝からずっと雨が降りましたが、日没後、小屋のトタン屋根に雨の音が急に聞こえなくなりました。その日、雨の故、朝から小屋にこもったので、足を伸ばす為、散歩しようとしました。そして、懐中電灯を持って、小屋の裏にある丘を上りました。丘を上って、風景を見ると驚きました。雲が消えてしまって、完全に晴れて来ました。そして、大空を仰ぐと、数え切れない、ピカピカした星が眩しく光りました。始めてそんなに美しい空を見た私はうっとりしました。神が創造された雄大な宇宙を眺めると大変感動しました。
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2008年06月01日 | カテゴリー: 創世記
占星術の学者達から学ぶ事 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:マタイによる福音書2章1−12節
【東方から来た占星術学者】
今日の御言葉に於ける占星術学者達の物語は神秘に包まれています。と言うのは、その人物の事についてあんまり知られていません。聖書には彼等の 国と人数、また名前さえも載ってありません。ただ、「占星術の学者達が東の方からエルサレムに来た」と記されています。ですから、長年にわたってその学者達について伝統が結構生じて来ました。例えば、彼等は主イエスに黄金(おうごん)、乳香(にゅうこう)、モツ薬の三つのお贈り物を献げたので、恐らく学者達三人で来たと思われますが、聖書を注意深く読んで見ると、それは確かな事ではありません。また、国はペルシア、つまり現代のイランと言う伝統がありますが、聖書にはただ、彼等は「東の方から」来たと書いてあります。ですから彼等はバビロニアかアラビアから来た可能性もあります。伝統によりますと学者達の名前はガスパルと、メルチオルと、バルテャザルですが、実際にその名前も不明です。さらに彼等はラクダに乗って来たと言う固定的なイメージがありますけれども、それも憶測に過ぎません。
【占星術の学者とは】
「占星術の学者」と日本語に訳されたギリシャ語の原語は「マゴイ」です。マゴイはその時代の学問が一番優れた人物でした。色んな課目を学んだ彼等は、当時の学者、あるいは博士でした。彼等の優れた学問の故、中東の諸国でマゴイは国王の顧問になり、地位のとても高い者でした。そして、彼等が学んだ課目の中で天文学と占星術が重要でした。星と惑星の位置と運行によって人や国家の運命が分かると信じた彼等は常に夜の空を研究しました。
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2007年12月16日 | カテゴリー: サムエル記下 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書
神の世の管理者なる私たち ウイリアム・モーア宣教師
創世記1章26−31節26:
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27:神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28:神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 29:神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30:地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31:神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
【環境破壊の原因】
最近、 マスメデイアのお陰で私達は世界の環境問題について益々承知されるようになりました。殆ど毎日、ニュースで環境についての新しい情報を見る事が出来ます。そして、言うまでもなく、その情報はあんまり喜ばしくはありません。地球の温暖化が進んで来て、色んな害を起してしまいます。絶滅した動物と植物の種類がだんだん増えて、ある被造物は完全に消えてしまいました。平均して毎日、三つの種類がこの世から去ってしまうんだそうです。大都市で大気汚染は酷くなり住民の健康を害します。ゴミは海に入り、その大量が南太平洋の島の砂浜に流れ着きます。更に、多くの国に淡水の量が足りなくて、農業生産が脅(おびや)かされるどころか、きれいな飲む水も乏しいです。また他に環境問題が沢山ありますが、殆ど全は共通点があります。それは、その問題は全て人間の行動で起こりました。私達の行動と生き方の故に大気と海が汚れて来て、また多くの動物が絶滅しました。つまり、私達人間の為で今、地球はその深刻な問題に直面しています。証拠を客観的に見ると、明白に私達人間には責任があります。
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復活の約束 ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書28章1−10
【守られない選挙公約】
皆さんも十分お気付きと思いますが、私達は選挙シーズンに入りました。何所へ行っても宣伝車が走り回り、政治家、あるいは政治家になりたい者は車のスピーカで国民にアピールをしています。また、駅前でも、昨日のような雨でも、政治家は選挙運動に励んでいます。他の時は分かりませんが、選挙のシーズンの政治家は大変だと思います。一票でも取る為に必死の努力をしているようです。朝早くから夜遅くまであちこちへ行って住民に顔を売っています。彼らはスピーカで色んな事を叫びますが、そのお話の中で約束事が多いようです。たとえば、「私が国家議員になったら、日本は美しい国になる。」「明るい政治の為に私を選出して下さい。」「我が党は安定した生活を保証します。」何所の国でも同じ事だと思いますが、選挙に勝つ為に、政治家は国民に約束する事が多いのです。しかし、多くの場合、約束を果たすのは全く別の事になります。政治家は約束する時、恐らく皆は心からその約束を守りたいですが、色々な理由で誓った事を実現出来ません。政治的力が足りないか、約束した事は実際的でなかったりします。あるいは、事情があって止むなく約束した事を実現出来ない。また、政治家は選挙に勝つと、選挙の時、約束した事をすっかり忘れる場合もあるかも知れません。とにかく、色々な理由で政治家の言う事を割引して聞いた方が良いと思います。
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2007年04月08日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書
主は備えてくださる ウイリアム・モーア宣教師
創世記22章1−19
【男はなぜ溺れ死んだか】
急な大洪水の故にある男の人は避難出来なくて、自分の家に閉じ込められてしまいました。洪水が家の一階に入ると二階へ逃げました。そして、二階にも水が上がって来たので、屋根に上りました。やがて、ヘリコプターが飛んで来て、彼を救う為に梯子を屋根まで下ろしました。ヘリコプターの人が、「梯子を引っ掴んで下さい。上まで引っ張るから」と叫びました。そして、男の人はこう断りました。「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる。」洪水の水がだんだん上がるとまた救助隊が今度は船でやって来て男の人を救おうとしました。「溺れてしまうから、船に乗って下さい」と言いましたのに、男の人はまたこのように答えました。 「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる。」水が屋根の天辺まで上がった時、 救命胴衣(どうい)を引っ張った犬が男の人の方へ泳いで来ました。しかし、彼はもう一度、「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる」と断りました。
丁度その瞬間、大きな波が襲って来て、男の人を屋根からさらわれ、彼は溺れ死んでしまいました。彼はイエス・キリストを信じたので天国に着きました。そして、彼は早速主に聞きました。「どうして私を洪水から救いませんでしたか。大きな信仰を持って神の助けを待ちました。神が備えて下さると信じたのに。」そうすると、主は彼を見てこのように返事をしました。「私はヘリコプターと船と犬までもあなたに送ってやりましたが、あなたはその全てを断ってしまったね。それは私が備えてやったのに。」
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神の信実・神への忠信 ―ダビデ王とその家臣― 市川康則牧師/神戸改革派神学校教授
(歴代誌上11章15‐19)
序.
歴代誌上11章15‐19は、ダビデとその家臣が共々に、またそれぞれに、神に対して忠義であり、真に献身したことを伺わせる一つのエピソードを記しています。この箇所の並行記事がサムエル記下23章13‐17にありますが、そこでは、三勇士の武勲は、ダビデの生涯と事績を記す一連の物語の終わりのほうに位置しています。今朝の箇所では対照的に、ダビデがサウルに代わって登場してくるのを書き始める部分―長いダビデ物語の初めのほう―に位置しています。
神の民、イスラエル王国の要とも言うべきダビデ王朝の勃興・形成の物語の最初期から、ダビデ自身の事績のみならず、彼の忠義な家臣団が―各自の名前が連ねられて―述べられていることは意義深いことです。イスラエル王国の基礎固めがなされ、それを通して主なる神の主権的支配が着実に進んで行く背景には、ダビデだけなく―ダビデ一人ではどうにもなりません!―彼が自らの王の任務を遂行することができるように、彼に仕えた多くのイスラエルの家臣がいたことが、読者には初めから印象付けられます。神はご自身の御業の遂行のために、ダビデの忠実な家来をも(ダビデと共に)用いられたのです。
2006年11月26日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , サムエル記下 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 歴代誌上
自尊心はどこから来ますか ウイリアム・モーア
聖書:エレミヤ書1章4-10
【確かな希望】
先週の説教に私達は希望の重要性を一緒に学びました。確かな生き生きとした希望があれば、私達はどんな事があっても絶望せず、積極的に、力強く生きられます。さらにその希望が全能の唯一の神の約束と愛に基づいているのであれば、私達はその希望に徹底的に委ねる事が出来るのです。神の御子イエス・キリストが提供して下さる永遠の救いを受け入れると、私達の生涯は大きな意味と素晴しい目的地を得て、神の賜物、真の希望を豊に経験します。常に変わりつつある周りの環境から来る希望と違って、神が授けて下さる希望は誰も、何も、私達から取り上げられません。豊に生きる為には、神からの大きな、また、確かな希望が絶対に必要であります。
【神に喜ばれる適切な自尊心】
今日は、また人間には絶対に必要なものについて考えたいと思います。それは自尊心です。つまり、それは自分の尊厳と価値を正しく意識する事です。適切な自尊心があると、私達は自信を得て、生涯に起こる事を積極的に扱う事が出来、勝利と成功を経験します。また、自分を正しく評価する事によって、人間関係がより豊になります。なぜなら、自分自身を適切に愛すると、周りの者も愛し尊敬出来ます。
【自尊心の欠如】
その反面、自尊心が足りなかったら、自信を失う事があり、惨じめになります。そして、生涯に襲って来るチャレンジに積極的に扱う事が出来ず、失敗が大きくなります。さらに、自尊心が少ない場合、人間関係が上手く行く事が難しくなります。やはり、自分自身をあんまり愛さないと、相手の愛を信じ、受ける事が困難であります。最近、引きこもりの問題が深刻になりました。原因は色々あると思いますが、恐らく自尊心を段々と失った結果であると思います。
【過度の自尊心】
自尊心が足りない場合があれば、自尊心があり過ぎる場合もあると思います。つまり、適切な自尊心が自負心と高慢になります。自分が誰よりも優れていると言う態度をとり、周りの者の存在はただ自分に仕える為であると思い込んでしまいます。もちろん、そう言う自己中心的態度をとると、人間関係がすぐ駄目になり、極端な場合、人に対して酷い事をします。
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2006年04月30日 | カテゴリー: イザヤ書 , エレミヤ書 , コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , ヨハネによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書
神の祝福である私たちの子供 ウイリアム・モーア
箴言22章6:若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこから離れることがないであろう。
マタイによる福音書18章1-4
1:そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2:そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3:言われた。「はっきりいっておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4:自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
マタイによる福音書19章13-1513:そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14:しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」15:そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
【子供の頃】
子供の頃のどんな思い出が残っていますか。よく考えて見たら色々な思い出が溢れるように出て来ると思います。楽しい思い出、辛い思い出、沢山あるでしょう。幼い頃の思い出の一つとして父と一緒に町ヘ出掛けることでした。町に用事がある時、父は「私と町に行きたい人はいるか」と聞きました。もしいれば、車に乗せて用事の所へ一緒に連れてってくれました。私はいつも喜んで、すぐ父と行きました。色々な店や役所があって、郊外に住むわたしにとって、町はすごく面白かったです。私にとっては町に行く事は楽しい冒険になりました。でも父が側にいるからいつも安全な冒険でした。ほかにも色々な楽しい思い出が沢山あります。
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「生きることの意味」神戸改革派神学校校長・牧田吉和先生(要約・文責近藤)
聖 書:創世記第5章1-32節
はじめに
今日は、初めて皆様の西谷聖書集会にお招きを受け、説教奉仕を許されて心から感謝します。
今自分が一番考えさせらていることとは何かといいますと、"人生"、"生きること"についてです。私は、年令的に還暦を少し過ぎました。私の年令は、昔で言えば一通りの人生を終えたことを意味する年令になると思います。さらに、個人的なことになりますが、母親の死んだ年令(59歳)をわずかに超え、母親の死とも重ねあわせ、自分の死についても考えさせられ、「人生とは、生きるとは何か」という問いを最近深く考えさせられています。
長寿は生命の賛歌?
この聖書の個所を読んで、恐らく誰が読んでも第一に目に入るのは、ここに出てくる人たちの年齢の長さでしょう。天文学的数字です。「5:5 アダムは全部で930年生きた。こうして彼は死んだ。」、「5:8 セツの一生は912年であった。こうして彼は死んだ。」、「5:14 ケナンの一生は910年であった。こうして彼は死んだ。」 何百何十年という人生の長さに、多くの方々がこのような天文学的数字をどう理解したらよいか疑問に思われることでしょう。聖書の学問的研究では色々の考え方があります。しかし、聖書の語ろうとすることを読み取る上では、素朴に個人の歴史が記されていると理解して読むときに、語ろうとすることを的確に読み取ることができます。