2014年1月12日説教「神が望まれるもの」金田幸男牧師
M140112001.wav2014年1月12日説教「神が望まれるもの」金田幸男牧師
聖書: 旧約聖書、詩編147篇
1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。
2 主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
3 打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。
4 主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。
5 わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。
6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。
7 感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。
8 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。
9 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。
10 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。
11 主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。
12 エルサレムよ、主をほめたたえよ/シオンよ、あなたの神を賛美せよ。
13 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む子らを祝福してくださる。
14 あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる。
15 主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。
16 羊の毛のような雪を降らせ/灰のような霜をまき散らし
17 氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。
18 御言葉を遣わされれば、それは溶け/息を吹きかけられれば、流れる水となる。
19 主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。
20 どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。
(説教要旨)
【主を賛美する礼拝】
詩編147もハレルヤで始まっていて、ハレルヤ詩編といわれます。ギリシヤ語訳旧約聖書では1-11節と12-20節を分け、二つの別個の詩編とされていますが、主題からも、内容から特別に分割する必要がないと思われます。ただ形の上では、主を賛美する促しの呼びかけ(1,7,12節)から、三つの部分からなっている詩編と見てもよいと思います。その三つの部分とは、1-6節、7-11節、12-20節です。
神を賛美せよ、ハレルヤと、賛美を促しているのは詩人の役割ですが、この詩編を学ぶものも互いに主を賛美するように呼び出されています。賛美は、神礼拝の重要な要素です。神を礼拝するとは、神を賛美することに他なりません。その賛美の方法は、讃美歌を歌うこと、祈りの中で神を賛美することなどです。
【喜ばしい礼拝】
詩人は、冒頭の1節で、神を賛美することは、喜ばしく、うるわしく、快いと記します。だから、神礼拝は喜ばしいのです。礼拝は喜びに満ちた礼拝でなければなりませんし、礼拝者は喜びをもって神を賛美し、ほめたたえ、礼拝するように導かれています。
喜ばしく、楽しく、快活になるような礼拝を守る。この課題は多くの教会の礼拝で思案され、試みられています。
【コンテンポラリーな(現代的な)礼拝】
そのひとつがコンテンポラリーな(現代的な)礼拝といわれているものです。形式ばった、伝統的な礼拝形式から脱皮して自由な礼拝を守ろうとされます。古い讃美歌ではなく、現代的な音楽をもって賛美を歌い、オルガンだけではなく、リズミカルなさまざまな楽器を用い、説教者も説教壇を取り払って、ジェスチャーを多用したり、説教の中で会衆と会話したり、礼拝堂もいろいろのアイデアで装飾されます。これらは礼拝を喜びに満ちたものとする工夫に違いありません。わたしは新しい礼拝の守り方をもって、礼拝そのものを喜びに満ちたものとするあり方をことごとく否定するものではありませんが、礼拝は教会の営みの中心にありますから、これを変革することは教会にとって慎重な判断と決断する勇気が必要です。
【心に喜びが溢れ出るには】
礼拝を喜びに満ちたものとするためにどうしたらよいのでしょうか。喜びは心の問題です。喜びに満ちた礼拝を守るための工夫は、まずは、礼拝するものの心に喜びが溢れ出るようにしなければなりません。どうしたら、心から喜ばしい礼拝となるのでしょうか。
礼拝者が、礼拝している方はどういうお方かを深く知るようになれば、つまり、私たちの礼拝をしている神が喜びに値する神であることを知り学べば、それだけ喜びに満ちた礼拝となるでしょう。
【礼拝で聖書の神を知る】
神はどういう方か、どんなことをしてくださったのか。この答え。キリスト教信仰においては、創造主であり、イエス・キリストの父である神、神の子、つまり神ご自身である御子、イエス・キリスト、そして聖霊なる神とその働きは、聖書から明らかにされます。聖書のみ言葉から、私たちは神とその大きなみ業を知ることができます。教会で、その礼拝で、私たちはその神を繰り返し、またさまざまな方向から知ることができます。礼拝のたびに私たちは聖書の神を知らされます。
【詩編147篇の主題】
詩編147篇から私たちはどのような神を、そしてその神がなさったことを教えられるのでしょうか。
結論から申し上げますと。二つのことです。ひとつは私たちの神は贖いの神、回復の神であること、もうひとつは神は被造物を支配し、守り、支える神だということです。
その被造物とは、無生物である自然であり、被造物の冠である人間です。このふたつの真理を知ることが神賛美の基礎です。
【回復する神】
回復する神であることは、エルサレム再建という歴史的事実によって証明されます。
この詩編は、紀元前586年のバビロンによるエルサレム滅亡とその後のエルサレム再建を背景にしています。
エルサレムの破滅。列王記下やエレミヤ書、エゼキエル書に、その惨状が描かれています。空前絶後、言葉で記すことができないような悲惨な破局を経験しました。なぜそのような苦難がイスラエル、エルサレムを襲ったのか。聖書は一貫してイスラエル、ユダの罪のせいだと強調します。
偶像礼拝、あらゆる社会的不正義、神の掟の無視、神への背反、霊的汚辱が、エルサレムの惨劇を招きました。
神は長い忍耐のあと、厳しいさばきを下されたのです。それで神はイスラエルを忘れてしまったのでしょうか。見捨てたままにされるのでしょうか。そうではなかったのです。
エルサレムは再建され、捕囚として遠くの地に散らされた民が戻されました。このことは、神がただ憐れみによってイスラエルの過去の罪を許し、贖われる神であることを物語ります。
同様に、神は私たちの罪を赦し、神ご自身との関係を回復し、私たちにいのちを約束されます。
契約を再び思い起こし、恵みと憐れみを示されます。歴史の中であったように、私たちの個々の人生においても、現実に回復し復興されます。私たちは罪の結果である悲惨を背負っています。
【「打ち砕かれた心」】
3節の「打ち砕かれた心」は罪がもたらす悲しみ、苦しみに傷ついて破断された心という意味です。神から離れて、結果、災いと不運を味わい、立ち上がれないほどまで傷ついている私たちの心と思いを回復されます。罪に沈み、神との交わりを失い、霊的にさ迷うものとなった私たちを贖い出す方です。この神を知れば知るほど、そして、この神を礼拝し、賛美していることをしっかり弁えるのであれば、きっと私たちの心は喜びに満たされるでしょう。
【被造物を維持する神】
また、神は被造物を維持する神です。4-6節では、星と貧しい人が出てきますが、神の被造物を代表するものとして描かれます。
星は、満天の星、その数を私たちは数え上げることができません。神はその数を知り、それだけではなく、名前を与える。これは神が世界の隅々まで知り、統治していることを意味します。神の支配下にないものは一切存在しません。神はすべてを治め、調和させられます。
また、人間の中で貧しさは人間の弱さを示します。しかし、神はその弱いものを守られます。
以上の二つの神のみ業は以下でも繰り返されています。
【大地を潤されるお方】
第2部、7-11節では前半で、神が大地に適切な雨を与える方だといわれます。聖書の舞台となっている地域は乾燥したところ、砂漠も含まれます。水は貴重であり、いのちを支えるものです。
過酷な自然環境の中でも、神はみ手を伸ばされます。だから、野獣もからすをも守れられ、食物を備えられます。まして、人間を憐れまれないはずがありません。
イエス・キリストも同じことを語られています(マタイ6:25-34)。私たちは食べることで心配をします。明日どうなるのだろうと不安に襲われます。しかし、私たちは神を知り、神に信頼し、神に希望を抱き、神を信じるときに心安らかになり、喜びに満たされます。
【神が喜ばれるもの】
後半(10-11節)では、神の御心が示されます。神が好まれるのはいかなる力強さ、人間的な力ではありません。神が喜ばれるのは信仰、神への恐れ、希望なのだといわれます。神はこのような人を救い、神の国に受け入れてくださいます。
【神が築かれる神殿】
第3部ではどう記されているでしょうか。神はエルサレム、その丘シオンに神殿を築かれます。古代世界では都市は堅固な城壁に囲まれていました。敵が町を包囲しても容易に占領することはできませんでした。しかし、構造上の弱点があります。それは門です。
門を破れば退去して兵士が突入し、町は破壊されます。神は門のかんぬきを堅く守られ、敵がどんな攻撃をしてもその町の中にあるものは安全なのです。敵がどんなに強力でも、神が守られる城壁のうちは平和で、繁栄を享受できます。
【私たちの敵とは】
私たちはどのような敵に囲まれているでしょうか。私たちの敵は何でしょうか。病気、事故、不運な出来事、災害、経済的社会的混乱、さまざまな不幸、愛するものとの別離。さまざまな敵は私たちを囲み、私たちを滅ぼそうとしています。神はそのような敵の侵入を許されません。
最大の敵は死です。罪の呪いは死です。この敵に抵抗できるものはいません。しかし、神はこの強大な敵から、私たちを守られます。
【冷たい気候】
15節以下では、雪、霜、氷が挙げられています。聖書の世界、パレスティナではめったに雪は降りません。ですから、ほとんどの人、特に社会的に弱者とされるような人々、戦争難民などはその備えをしていませんので、ひとたび降雪などになれば人々は凍えてしまいます。過酷な環境に耐えなければならなくなります。私たち以上に冷たい気候は人を苦しめます。
私たちの人生においても、さまざまな冷気が襲い掛かってきます。過酷な人生経験をしている人にとっては、多くの艱難、困難に苦しめられます。
【人間関係の冷たさ】
私たちの心を冷え冷えとさせるものがあります。人間関係の希薄さ、そして、孤独、心無いことに傷つけられること、今の時代は「自己責任」の時代です。言葉はきれいですが、お互いにそ知らぬ顔ですれ違う関係を肯定しているだけです。人間関係の冷たさは、友人知人関係だけではなく、血が繋がっている家族にも及んでいて深刻になってきています。人間は意図しないまま、冷酷な存在になりもします。
この人間と人間の間にある冷たさを暖かくして癒すものがあるでしょうか。心の冷たさを融解させるような暖気、温風は吹いてくるのでしょうか。
【心を暖かくする御言葉】
詩編の作者はそれが神の御言葉であると語ります。御言葉は速やかに冷たい世界に流れ込み、たちまち世界を暖めます。このような神の業を経験するものは世界中、他にないと詩人は宣言し、だからこそこの主を知り、心を暖かくする御言葉が語られる礼拝できることこそ喜び根源なのだと私たちに示し、神賛美を促すのです。私たちはこのように神を礼拝し、喜びに満たされるようになります。(おわり)
2014年01月12日 | カテゴリー: 詩篇
2014年1月5日説教「神は私の目を開いてくださる」金田幸男牧師
2014年1月5日説教「主はわたしの目を開いてくださる」金田幸男牧師
聖書:旧約聖書、詩編146篇1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。
3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
参照:ヨハネ福音書9章1~12節
要旨
【ハレルヤ詩編集】
詩編146から150までは、ハレルヤという言葉で始まる、まとまった部分で、ハレルヤ詩編集と分類されています。そのほかにハレルヤ詩編集は三つあり、113-118(エジプト・ハレルヤ集)、120-136(大ハレルヤ詩編集)となっています。
なお、111と112もハレルヤという言葉が含まれていますが、省かれています。「ハレルヤ」はヘブライ語で、聖書がギリシヤ誤訳されたときでも翻訳されず、原語のまま残されました。アーメンとか、インマヌエルという語もそうです。翻訳されなかったのは、ギリシヤ語に変えてしまえば語彙が持っている意味と音の響きの結合が失われると思われたからではないかと思います。音の響きが宗教生活において聞きなれていたせいかもしれません。「ハレルヤ」とは「主を賛美せよ」という意味です。神賛美に促す歌です。
【人生の中で最も重要な営みとは?】
ところで、人生の中で最も重要な営みは何であるか考えます。あまり深くこんなことを考えたことがないかもしれません。人間が人間である最も根本的な行為、生き方は何か。
ただ食べたり、飲んだりだけの、いわば本能に従って生きているだけではどうなのでしょうか。人間の格好はしているでしょうけれど人間らしい生き方とはいえません.
人間とは何か。人間が人間であるためには何が決め手なのか。現在は人間と人間でないものの境界があいまいでぼんやりしてきている時代になったのではないでしょうか。
しかし、私たちは人間です。人間が人間であることの特質とは何か。有名な哲学者は「人間は考える葦だ」といいました。思惟すること、思索すること人間の固有性を保証するというのです。わたしは、意図して意識的に礼拝する人間、これこそ他の被造物と区別される特色ではないかと思います。人間とは礼拝する存在です。
【牧師として】
わたしは牧師として教会で40年以上礼拝のために奉仕をしてきました。牧師としていったい今まで何をしてきたのかと思います。説教を1万回くらいしてきました(1年に250回以上説教をしたら。たぶんそれ以上やっていると思います)。葬儀や結婚式の司式を何度かやってきました。
成果はともかく、伝道、牧会も精一杯しました。信徒の世話も何とかやってきました。でもわたしは牧師として一番力をこめたのは何であったのか。礼拝の遵守、特に主の日を礼拝の日とするために労してきたと思わざるを得ません。
【神礼拝】
礼拝は、人生の中で最も基本的で肝心な営みです。そのことに奉仕的たことは光栄でありました。思い通りの理想的な礼拝を守れたわけではありません。礼拝出席者を増やすこと、安息日厳守を訓練すること、充実した喜びに満ちた礼拝を守ること。こういうことを列挙するとわたしは恥ずかしくなります。でも、わたし自身、人生の下部構造として、40年以上、信徒が礼拝を守るために奉仕をしてきました。
礼拝なしの人生は宗教のない人生です。礼拝なしの人生とは神なしの人生です。現代人は自己責任を強調されて生きています。神などなくして、自分の決断、判断で行動し、その結果責任は当人が負うというものです。
しかし、神なしに、自分の力だけで生きていく人生は、いつも恐怖と不安に付きまとわれます。特に、私たちは老いてついには死んでいかねばなりません。誰かが看取ってくれていても一人で死ぬほかはありません。充実した人生も一寸先の将来は見えません。先がどうなるか分からない人生は不安に付きまとわれます。不明の将来に突進する人生に耐えられる人はいません。
神を礼拝するということは、そのような宗教なき人生、神なき人生の対極にある生き方です。私たちは何か分けが分からない相手を拝んだり礼拝したりしたりしているのではありません。神がどうのようなお方であるかを知るからこそ確信して礼拝できます。
【礼拝とは】
礼拝とは何か、改めて考えます。ある人は説教を聞くことと思っています。ある人はミサ儀礼のような儀式(プロテスタントでは聖餐)にあずかることと思っています。ある人は祈りに行くことだと思っています。ある人信徒同士の交わりに参加することと考えています。これらは間違いではありませんが礼拝の一面を見ているだけです。
礼拝の中で肝心な部分を占めているのは賛美です。賛美は礼拝の業の中で筆頭を占めていると考えることは間違っていません。神を賛美することのない礼拝は人間中心の、人間が工夫している儀式に終わります。
礼拝とは賛美することと定義できます。賛美のない礼拝はありえます。聖書研究、聖書講義だけの礼拝もありえます。儀式、香をたいたり、ともし火を挙げたりする行為を伴う恭しい礼拝もあります。集まって祈っているだけの礼拝もありえます。
でも、それだけではあまりにも単純、無味乾燥した礼拝であるといってもよろしいでしょう。賛美なしの礼拝は考えられません。礼拝において、私たちは賛美します。ハレルヤと神に叫びます。
ただ、わたしたちの教会の礼拝においての賛美の営みは、賛美歌を歌うことによります。ですから、礼拝の奏楽者の役割は決して小さいものではありません。会衆の歌はとても価値があります。
そして、賛美は祈りの重要な要素です。私たちはまず賛美から祈りを始めるのが普通です。
さらに、説教の中でも神が賛美されますし、賛美に促されます。賛美は礼拝の中で重層的に行われます。礼拝は賛美そのものでもあります。
礼拝は神をほめたたえることです。ではどのようにして私たちは神を心から賛美できるのでしょうか。相手も分からないままに真実な礼拝はできません。漠然と何かを礼拝しているか分からないままにただの恐れから礼拝することもありえます。ありがたい,霊験あらたかな神的なものに礼拝を捧げているのです。それは礼拝には違いありませんが、相手がどういう言う方であるか知って礼拝することと、相手も分からないで礼拝することは全く特質が異なります。
【礼拝の対象】
礼拝は礼拝する相手を深く知る機会でもあります。礼拝において、神を正しく賛美できるのは、この詩編の作者が教えてくれています。礼拝とは、つまり賛美とは、一生の営みです(2節)。気が向いたときとか人生のわずかの時間だけ礼拝するべきではありません。礼拝となると、いのちのある限りでなければなりません。礼拝は長時間であればいいというのではありませんが、礼拝は人生の中で繰り返されるとき、私たちは神を深く知り、神がどういうことをなされるか分かります。
礼拝なしに宗教なし、信仰なし、そして神なしと行っても過言ではありません。礼拝なしの年限が多くなってきたこの時代は神をもたない人が圧倒的に多くなってきたことを示します。それが時代の風潮だと決め付けることはできません。神なしの人生こそ最も不幸なことなのです(5節)。
【君侯に頼るな】
どうすれば、私たちは心から神を賛美できるでしょうか。この詩編は二つのことを教えています。ひとつは人間に賛美を帰すべきではないということです(3-4節)。君侯は古代世界では権力の保持者でした。君侯が国民に平和と繁栄をもたらすと信じられていました。君侯、つまり政治や、政治の仕組みが人間の魂を救うとまで期待されています。何でもかんでも政府の力が頼りです。私たちは人生のさまざまな局面で制度や体制が安心を与えてくれると思っています。
しかし、私たちは経験上それらが本当に頼りにならないことを知っています。究極的には政治の仕組み、福祉政策が人間の幸福を保証しません。時代と共に変化します。そして、頼りになりません。
人間は、その中に自分も含まれていますが、所詮、土から造られた人間は土に帰るだけです。そのようなものに頼れない、これは地上的もの、人間的なものに信をおけない以上は、それらを賛美などできないという結論に導かれます。神賛美に向かわざるを得ません。
だから、人間的なものの救いを断念すれば、神に賛美を向けざるを得ません。その神はどういうことをされたのか。7節以下に列挙されています。
① 虐待されている人に正当なさばき、正義に基づく裁判を行われます。人間の裁判には間違いがあります。人間の判断には不正があります。神はそうではありません。
② 神はその人間として最も基本的な生の糧を用意されるかたです。
③ 捕虜を解放されます。戦争捕虜だけではなく、私たちを縛り付けているものは多くあります。そのために不自由な目にあっています。
私たちは多くの欲望、願望に縛られ、人間関係に縛り付けられています。ある人は運命や宿命に縛られていてがんじがらめとなっています。主はあらゆることの解放者です。
④見えない人の目を空けてくださる方です。私たちは見えるべきものも見ていません。特に真実が見えていません。見えなければ闇に住んでいます。神は私たちに真理の光を提供してくださいます。
⑤ うずくまり、打ちのめされ、打ちひしがれている人がいます。立ち上がることができず、苦悩のどん底に呻いている人がいますが、主は立ち上がらせてくださいます。
⑥ 社会的に弱者といわれている人は不当な扱いを受けてきています。しかし、神は寄留の外国人、孤児や寡婦を豊かに守られます。神は大王であって、ここで列記されていることを実現することができる方です。
しかし、ここに書かれているような神を体験できなく、それどころか神の助けを期待できない目に遭うものです。私たちの人生は不幸と不運に見舞われます。そのような時、とても神を賛美できない心境になるものです。神に恨みでも言いたくなるかもしれません。
そのとき礼拝から遠ざかるのではなく、礼拝においてますます神を知る、神がどういうことをして下さるかを知り、その真実を信じます。
信仰から、たとえ失望のどん底にあっても神を礼拝して、神を知ります。その神を信じます。この循環、つまり、礼拝、信仰、賛美、礼拝、信仰、賛美を繰り返すときに、私たちの礼拝は喜びと幸いの源泉となるでしょう。(おわり)
2012.12.30説教「味わい見よ、主の恵み深さを」ウイリアム・モーア宣教師
2012.12.30説教「味わい見よ、主の恵み深さを」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:詩編34篇1 【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】
2 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
5 わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
6 主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
7 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
8 主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
9 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11 若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
説教要約(文責 近藤)
今年もあと数時間です。もう戻ってきません。
今年を振り返ってみると国内的にも国際的にも喜ばしいことは少なかった。
個人的チャレンジもあったでしょう。経済的問題、病気の問題、肉親を失ったことなど試練が大きかったですが、将来にも同じことがあると思うと不安になります。
【どのような時も神に感謝と讃美を】
この詩編を書いたダビデも同じ気持ちを味わいました。
サウル王から逃げるダビデは近くのガドに亡命するつもりでしたが身分がばれるとダビデは気違いの振りをして無事脱出できました。
この詩編はこの時の彼の証しと告白です。
ダビデの証は不安、恐れを感じる私たちに力を与えてくれます。ダビデは恐れをどのように克服したでしょうか。
彼はこの詩編34篇2節「どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」と告白しました。
【不安の時にこそ】
不安の時には神に感謝と讃美を捧げることです。
良いときにはこれは容易なことであっても、不安や恐れの時にこそ主を讃え主に讃美を捧げるなら恐れに打ち克ち、力と勇気を神から与えられます。そして勝利が与えられます。
【使徒パウロの告白】
使徒パウロはローマの信徒への手紙 8章35 節以下にこう記しています。
「35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。36わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
パウロはダビデと同じように迫害を受けてもあきらめず神と人に仕えました。使徒パウロはどのような時にも「わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」と言うことが出来ました。
【わたしの魂は主を賛美する】
次の詩編34篇「3 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」について。
私たちは毎日曜日ここに集い讃美を歌いますが、讃美と主を褒め称えることは私たちのために必要です。勇気が与えられ恐れに勝利します。
讃美を歌うとき歌の意味に集中して讃美しましょう。
【死の陰の谷を行くときも】
詩編34篇5節「 わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してください」。
どんなことがあってもダビデは恐れませんでした。ダビデはかれの残りの生涯にも決して恐れに負けませんでした。
詩編23篇「4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」とダビデはどんなことがあっても主は彼を支え勇気と信仰を与えて下さる神様を信じました。
【味わい、見よ、主の恵み深さを】
詩編34篇9節に「 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」と告白しました。
「味わう」とは自分の経験で知ることです。やってみないと悟られないと言うことです。
【聖餐式】
聖餐式を通して主の恵みを味わうのです。
パンと葡萄酒は十字架で裂かれた主イエスの体と流された血を味合うのです。
主イエスはご自分の命を捨てて私たちの贖いとなり人を愛してくださいましたので私たちの不安と恐れを取り除いて下さいます。
「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。どのような難しいときも力づけて下さる主の恵みを聖餐式を通して与えられることを感謝しましょう。(おわり)
2012年9月9日説教「赦しの恵み」ウイリアム・モーア宣教師
2012年9月9日説教「赦しの恵み」ウイリアム・モーア宣教師
聖書:詩編23篇1~11.
1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ
6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ
8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。10 神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
説教要約(文責近藤)
【10人の有名人】
英国人の俳優で劇作家のノエル・ハーワードはロンドンに住む10人の有名人にイタズラをしかけました。「わたしはあなたが犯した行為を知っている。それを公表しないならロンドンを去ってもらう」と書いて匿名で手紙を送りました。この10人は6か月以内に全てロンドンから去りました。それは彼ら10人は自分の罪が知られることを好まず余儀なく自らロンドンを去りました。罪がなかったらその手紙を無視したでしょう。
箴言に「神に逆らう者は追う者もないのに逃げる」(28:1)とあります。
10人は自分の罪を隠したかった。しかしいつか明らかにされる不安と罪の意識に苛まれて生涯を歩まねばなりませんでした。
【罪を隠すこと】
私たちは小さな罪にも良心が痛みます。それが明らかにされる心配があります。
罪を隠すことで周りの人との良い交わりが壊されます。過去に行った罪の囚人になり前に進むことが困難になります。
赦されない未解決の罪は神との関係を損ないます。私たちは全て一人残らず罪人です。罪は殺人や強盗、盗みなどの大きな罪に限らず神の正義に逆らう小さな罪もあります。
コヘレトの言葉7章20「 善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。」とあります。
今日の詩編32篇の御言葉は罪の唯一の解決の道です。それは神の赦しです。
【罪を赦されたダビデ王】
ダビデはイスラエルの王として忠実に神の前に生涯を歩もうとしましたが大きな罪も小さな罪も犯しました。大きな罪とは将軍ウリアの妻バテシバと姦淫し、それを隠そうとウリアを戦場の最前線で戦わせてひそかに彼を殺したことです。
ダビデは許された罪人としてこの詩編を書きました。
まず、その罪が許された者の歓びを歌いその恵みを讃美したのが詩編32篇1~2節です。
【幸いなこと】
詩編32篇1 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
詩編1篇1~2節にも「1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」とありますように罪を犯さないことは一番幸いなことです。
しかし罪を犯しても罪を告白し神の赦しを戴くことも幸いであり主の祝福になります。
ここで罪は3つの言葉で説明されます。
1背き:「神の教えに逆らうこと」、
2罪:神の定められた標準に達しないこと。したこと、しないことで神の御旨に従わないこと。
3咎:堕落したこと。
過ちが許されるとこの3つの罪が許されます。
赦しとは持ち去って下さること、完全に処分してくださることです。
【ゴミの処分】
家のゴミを出すのは私の仕事です。それは気持ちの悪いことではありません。汚いゴミが持ち去られ焼却処分されるとスッキリします。捨てたゴミはもう私と関係ありません。もはや存在しないものとなります。
罪が処分されることは詩編103篇12 節にこう記されています。
「東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。」
罪を告白し悔い改めると神は完全にそれを処分してくださいます。神との良い関係が回復され罪の意識が取り除かれます。
【罪を告白しないとき】
反面、罪を告白しないときの状態が3節に記されています、ダビデ王はいいます、
「3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」
罪を告白しないと霊的に病気になり、精神的にも肉体的にも及びました。ダビデは罪を隠そうとすると苦しく、辛かった。さらにダビデは神の懲らしめを受けました。
4節を見てください、
「 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」
我に返らせるため、罪を告白させるため神の聖霊がダビデに罪の意識を拡大させダビデは大変苦しくなり、耐えられなくなってやっと神に自分の罪を告白しました。彼は瞬時に癒されました。5節を見てください、
5節、わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。
【罪の告白】
ダビデは自分の罪を告白し悔い改めました。悔い改めとはその罪を嘆くことでなく、繰り返おさないこと、神とともに正しい方向に歩むことが、本当の悔い改めになります。
愛する兄弟姉妹、
神の赦しを戴くのに主に乞うことも許しのために善行をすることも必要ありません。
私たちが許していただきたい気持ち以上に、神御自身は何よりも私たちを赦したいのです。
神は私たちを赦すために御自身の独り子をこの世に遣わしてくださいました。
主イエスは十字架の上で私たちの罪を贖ってくださいました。
主イエスは私たちに代わって十字架で死んでくださり私たちの報酬を払い神の赦しを保証して砕いました。
ヨハネの手紙一 1章9 節にこう書かれています。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
主イエスの救いを信じて、神に告白していない罪、ゴミをいつまでも持つ必要はありません。告白すればダビデ王と同じ歓びを経験できます。
ダビデとともに詩編32篇1~2節をもう一度歌いましょう。
「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(おわり)
2012年6月10日説教「嘆きを踊りに変え」ウイリアム・モーア
2012年6月10日説教「嘆きを踊りに変え」ウイリアム・モーア
要約(文責近藤)
聖書:詩編30篇1~13
家族の物語
どこの家でもその家族の物語があります。私の家族にもあります。その物語の主人公は私ですが、その物語の記憶が私にはありません。と言うのも私はまだ1歳未満でした。両親は韓国の宣教師で朝鮮戦争のすぐ後のことでしたが、わたしはひどい高熱で大変危険な状態のようでしたので父親の運転で5時間の砂利の悪路を病院まで走らねばなりませんでした。漸く明け方に病院に着いたのですが、その時には不思議に熱はさがって病院の先生は何処も悪くないと言いました。両親は大喜びで家路につきました。
ダビデ王の病気
ある時ダビデ王は病気で死にそうでした。ダビデは激しく神に祈りました。主は憐れみをもってダビデを癒してくださいました。
ダビデは今日の詩編30編2節~4節のように感謝しました。
「2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。」と神を崇め、自分の回復を公に証ししました。
ダビデは墓穴の手前で主の憐れみゆえに命を守られました。私たちも同じような苦しみにあった時、主から助けられた経験があるでしょう。その時ダビデのように喜びの証をします。
ダビデは詩編30篇「5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」
と自分の体験を証しました。
ダビデはその生涯に多くの苦しみを体験しました。その中には自分の罪に原因するものもありましたが、しかしそこに神様の慈しみと憐れみを体験しました(6節)。神の恵みは彼から離れませんでした。
足を折られた羊
ある若者がスイスの山に旅したときそこで羊飼いと羊の群れを見ました。その羊の群れのなかに1匹の足を折った羊を見ました。青年はどうしてその羊は足を折ったかと尋ねました。羊飼いは答えました。実はわたしがその足を折りました。なぜならこの羊は羊飼いの言うことを聞かずに危険な崖淵にたびたび行き崖から落ちそうになりました。また他の羊までもその後を追いかけるので危険でしたと羊飼いは答えました。
若者が翌日餌を与えようとすると餌を欲しがらず却って彼に噛みつきかかりました。しかしその後に餌を与えると喜んで餌をたべ舌で彼の手をやさしく舐めました。
この羊は苦しみから服従を学びました。苦しみを通し、懲らしめを通して神は私たちを御許に立ち返らせます。
イザヤの預言
イザヤ53章4~6「4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」
これはイエス・キリストの預言です。よい羊飼いであられる主イエス・キリストは私たちに代わって罪を負われられました。
ダビデは元気な時は7節のように言いました。
「7 平穏なときには、申しました/『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。」傲慢になり、神のお蔭を受けていることを忘れました。しかし8節後半のようにパニックになり恐怖に陥ります。
「8しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。」
悔い改め
そこで彼は自分の救いの源を覚え、自分の罪と、弱さを認めて祈ります、
「9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。」
嘆きを踊りに変え
彼ダビデが主の癒しを求めるのは神の証人となるためでした。彼は癒されると神殿に詣でて救いと力と愛の源である神にこのように歌いました。
「12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。」
わたしたちもダビデのように、御子イエス・キリストによって実現した救いと与えられた聖霊の恵みによって、神と隣人に仕える必要な知恵と力を与えて下さる神にとこしえに感謝を捧げましょう。(終わり)
2012年06月11日 | カテゴリー: 詩篇
「あなたに従う道を教えてください」ウイリアム・モーア2011.6.26
【ダビデ王の生涯】
今日、私達は詩編の学びを続けたいと思います。私達は詩編を第一編からずっと順番に学んで来て、今日第25編が与えられました。全体的に見れば、詩編は神の御言葉として何よりも私達に信仰を教えて下さいます。すなわち、神を信じ、頼る私達に相応しい態度と精神を悟らせます。
詩編の作者ダビデ王は自分の生涯において色んな経験がありました。大勝利の時があったら、どん底まで落ちた時もありました。とても元気な時期を過ごしても、力が全部抜けて病気の体験も結構ありました。イスラエルの王としてダビデは権力がありながらでも、同時に沢山の敵に襲われて、常に危機に直面しました。彼は色々な家庭内の問題もあって、悩まされました。ダビデ王は人生に高い山と深い谷のような本当に激しい人生を送りました。私達よりも遥かにもっと劇的な生涯ではないかと思います。しかし、ダビデ王は与えられた誠の信仰から離れず、いつも神の助けで失望せず立ち上がる事が出来、正しく、積極的に生きました。
「主こそ栄光に輝く王」ウイリアム・モーア2011.5.8.
聖書:詩編第24篇1−10
【神の本質と人間との関わり】
皆さん、今日与えられた御言葉、詩編第24篇を通して神様は、私達に誠の信仰の最も大事な真理を啓示して下さいます。
それは、神御自身はどのような神なのか、神が私達人間とどう言う関係を求めておられるのかという事です。
実は、この二つの基本的な事が分からなかったら、本当の信仰は不可能になります。ですから、少なくとも信仰の対象である神の事と、その神と私達の関わりが分かる必要があります。そうしないと、信仰はあまりにも漠然な物になり、意味はあまりありません。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」ウイリアム・モーア2011.3.20
詩編46篇1−12
【東北・関東巨大地震】
愛する兄弟姉妹、言うまでもないが、先日、東北・関東巨大地震、そして、地震が引き起こした津波と福島第一原子力発電所の事故は私たちにとって大きなショックになりました。
現場から遠く離れている私たちにも、テレビや新聞を通してその生々しい光景を見せられ、想像を超える大自然の破壊力にぞっとさせられています。その上、肉親と家と財産と職場などを失った多くの被害者たちを考えますと言葉で私たちの気持ちを表す事は難しいです。彼等の苦しみはきっと私たちの想像を超えるものでしょう。
被害の範囲はまだ計る事が出来ないですが、きっと1923年の関東大震災以来最も大きい天災になると思います。ですから支援と祈りを通して私たちは全ての被害者を覚え助けたい強い願いを持っています。
更に、福島第一原子力発電所が受けた被害の影響はまだ未知です。放射能漏れの問題を解決出来ないと被害が劇的に拡大し、日本だけではなく、全世界の問題になってしまう可能性が多分にあります。特にその問題を解決しようとする者に、上からの知恵と力を切に祈ります。
2011年03月22日 | カテゴリー: 詩篇
「主は羊飼い」ウイリアム・モーア2011.2.20
聖書:詩編23篇1−6
【私には何も欠ける事がない】
「わたしには何も欠ける事がない。」それは詩編第23編に於けるダビデ王の素晴らしい告白です。自分の長い人生を振り返って見ると、「わたしには何も欠ける事がない」と言う事が出来ました。
つまり、自分の経験では、生涯、全ての必要な事が備えられたのです。乏しい事が全然ありませんでした。私たちも自分自身について同じような告白が出来るでしょうか。自分の生活について何も欠ける事がないと言えるのでしょうか。
恐らく私たちはダビデ王の告白を聞くと羨(うらや)ましくなります。と言うのは、自分自身の状態について考えますと、なかなか正直に、「わたしには何も欠ける事がない」と言えません。「健康さえ満足だったら何でも出来る。」「人間関係がもう少し上手な人であったら、何でも旨くいくのに。」「お金がもう少しあれば、どんなに助かるか。」「コネがあったら子供は良い就職が出来たのに。」「頭が回らない。兄のように賢かったら、もっと成功したのに。」皆さん、心当たりがありますか。
本来の人間の状態だと思いますが、私たちは自分の足りない事をよく考えて、いつも持ってない、あるいは不十分な事を欲しがっています。小さい時には、おもちゃや好きな食べ物ぐらいで、割合に簡単な要求でしたが、青年と大人になると、様々な事、色々な物が足りないと言う気持ちでいっぱいになるのは普通だと見えます。
ダビデ王の告白、「わたしには何も欠ける事がない」は到達出来ない夢のような状態だと思われます。「いつかそう言う気持ちになったら、大変有り難いのですが、今はちょっと難しい」と思う人が数え切れません。
ダビデ王はどうしてそういう告白が出来ましたか。恐らく、イスラエルの国王だった為、彼は「わたしには何も欠ける事がない」と言えたのでしょうか。確かにダビデはイスラエルの王になってから、物質的に豊かになりました。国の一番良い物はエルサレムの宮殿に豊かに入りました。しかし、ダビデ王は物質的に豊かになっても、様々な問題と悲劇にぶつかりました。聖書にはダビデの生涯のストーリーが全部記されています。
続きを読む: 「主は羊飼い」ウイリアム・モーア2011.2.20
「見捨てられたと思った時」ウイリアム・モーア2011.1.23
聖書:詩編22篇2−32
【神の沈黙】
皆さん、神によって見捨てられた気持ちになった事がありますか。大変困った時、必死に神に祈りましたが、答えが帰って来るどころか、何も変わりがなく、沈黙しか聞こえなかった事がありましたか。自分の祈願が無駄だと思い、神の御臨在が自分から遠ざかっていった気持ちのした経験がありますか。
【重病の祖母】
私は12歳の頃、初めてそのような経験をしました。祖母が急に病気になり、病院へ運ばれました。治療があまりうまくいかなかった為、命が危ない状態になりました。ですから離れて住んでいたうちの家族は急いで祖母の病院へ訪ねました。病室に入ると幼い私はショックを受けました。以前はとても元気で、活発なお祖母さんが意識を失い、重体の状態でした。そして、一生懸命に息を吸おうしていましたが、祖母の努力はあんまり効果がなかったです。その大変な光景を見た私は何よりもお祖母さんを助けたい気持ちがあったのですが、何も出来なかった為、とても無力なフィーリングでした。そして、私は祈りました。「神様、病気になったお祖母さんを助けて下さい。息が出来ないから命が危ない。あなたは神様ですから、お祖母さんを治す事が出来る。お願いだから元気なお祖母さんを私に返して下さい」と心から祈りました。
「人間に語ってくださる神」ウイリアム・モーア2010.8.15
詩編19篇1−14
1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】2:天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。3:昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。4:話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても5:その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。6:太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように7:天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。 8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。9:主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。10:主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。11:金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。13:知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。14:あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
【詩編第19篇のすばらしさ】
今日与えられた詩編第19篇は全ての詩編の中で特別な存在があります。有名な作家と神学者であるC.S.ルイスは詩編第19篇についてこのように述べました。「 第19篇に勝る詩編もないし、更に、世界の歴史上、優れた詩の中の一つであります。」この詩の言い回しはとても美しいが、神の御言葉としてその内容は更に素晴らしいものです。
「ダビデの証」ウイリアム・モーア2010.6.6
詩編18篇2−4
3:主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。
4:ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
【ダビデ王の神体験】
今日与えられた御言葉は何よりもダビデ王の信仰の証になります。つまり、この詩編第18編はダビデの神体験を語ります。ダビデの生涯に於いて主の救いと、慈しみと、力と、御臨在を豊かに表現します。また、ダビデはこの証を通して神とどのような関係と交わりを持ったかをはっきり示しています。
言うまでもなく、ダビデは信仰の英雄であって、自分の信仰の故に神によって豊かに用いられていました。更に、彼は聖書に於いて「御心に適う人」と呼ばれています。ですからダビデは信仰に於いて私達の為に立派な模範を示します。
信仰の英雄と立派な模範を示しても、ダビデは決してスーパーマンではありませんでした。私達と同じような人間であって、弱さも結構ありました。
実は、神がダビデに立派な信仰を授けたのです。彼は自分の力でそれを作り上げた訳ではなかったのです。しかし、ダビデは与えられた信仰を精一杯生かして、実行する強い意志がありました。
愛する神は、私達一人一人にもその同じような信仰を賜りたいのです。実は、ダビデのような信仰は普通になるはずです。つまり、神様の目から見るとそのような信仰は標準なのです。私達に大きな恵み、また大きな働きを賜る為に神様はダビデ程の信仰を私達に授けたいです。ですから、私達は何よりもダビデのような信仰を持ちたいのです。
続きを読む: 「ダビデの証」ウイリアム・モーア2010.6.6
「神よ、わたしに答えてください」ウイリアム・モーア2010.4.25
聖書:詩編17篇【全】
【ダビデ王の試練】
私は詩編を読むと色々な印象を受けますが、一つは、多くの詩編を書いた人物、ダビデは、生涯に於いて大変なトラブルや試練などを経験しました。私達は今日で、詩編第1篇から第17篇まで順番に学んで来ましたが、その中の大部分がダビデの作品です。そして、その中の7割程はトラブルや病気や敵の攻撃などからの解放と助けのお祈りになります。
「わたしの心は喜び、魂は踊ります」ウイリアム・モーア2010.1.17
詩編16篇1−111:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
【ハドソン・テーラー宣教師】
英国人であるハドソン・テーラー先生は19世紀の代表的中国への宣教師でした。テーラー宣教師は51年間の中国への伝道に渡って、幅広い働きに携わって来ました。テーラー先生が創始された内陸中国宣教団は800人以上の宣教師を中国へ送りました。そして、その宣教団が300の伝道所と教会を開拓し、その他に学校を230校創立し、そしてその影響で18,000人の中国人が主イエスを受け入れ信者になりました。
2010年01月17日 | カテゴリー: 詩篇
とこしえに揺らぐことがない者 ウイリアム・モーア
聖書:詩編15篇1−5
1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。
【主の日の礼拝】
今朝私達は神を礼拝する為にこの所に集って参りました。毎週、日曜日の朝ごとにここに集まる動機は色々あると思いますが、基本的に私達は恵み深い誠の生ける神を誉め讃える為に、暇だからではなく、心こめて主の日の礼拝に参加します。
この美しい世界と莫大な宇宙を無から創造し、全人類一人一人も貴重にお造りになりました。思い返せば、日々の生活が全能の神によって守られ、支えられる事にすぐ気付きますので、そういう神に感謝を持って主の御前に出たいのです。ですから、愛する神に感謝と讃美を示す目的で、今朝ここに集いました。何よりも、その為に私達は御言葉を持って讃美し、感謝のお祈りを捧げます。
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わたしは、あなたの住んでいる所を知っている ウイリアム・モーア
聖書:ヨハネの黙示録2章12−17
12:ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。13:「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。 14:しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。15:同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たち がいる。16:だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。17:耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」』
【マクドナルドで】
少し前、アメリカ滞在中に次男ポールの大学卒業式の為に南部のノースカロライナ州から北部のボストン市まで往復約3、000キロの旅をしました。長い旅ですから、コーヒを飲む為によく高速道路のマクドナルドに車を止めました。そして、ある朝早くの事ですがコーヒを注文すると、レジの請求がメニューに載ってある値段より、半分位安くなっていました。それはめったにない事ですから、不思議に思いながらでも、うれしくって、店の人に言わずにまず席に戻りました。でも、やはり私は安いコーヒーの理由が知りたかったのです。ですからコーヒのレシートをよく見ると、コーヒの代わりに「snrdrnk」と言う、分からない言葉が書いてありました。
「神はおられるのか」 淀川キリスト教病院伝道部長田村英典牧師
聖書:ヨハネ福音書1章14~18
14:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15:ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のこ とである。」 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
【神はおられるのか?】
今朝は、神はおられるのか、という根本的なことをお話させていただきたいと思います。
一体、この天地万物を無から造られ、今も一切を導いておられる永遠者、また絶対者なる真の神はおられるのでしょうか。私は、20歳の時クリスチャンになりましたが、その前はこのことでかなり迷いました。もし神が本当におられるのなら、神を信じ、神に従うのは当然のことであり、何ら特別なことではありません。
しかし、神が存在しないのなら、そういったことは全くナンセンスです。存在もしないのに、存在するかのように信じて生きること程、愚かで馬鹿げたことはありません。ではどちらなのでしょうか。どちらでもないということは、あり得ません。必ず、どちらかなのです。しかし、それが分らず、かつては私も随分迷いました。
いずれにせよ、これは私たちの生きる意味や目的とも関係し、また私たちが死んだ後、どうなるのかということにも関る重大なことです。
そこで幾つかの点から見てみたいと思います。
2009年10月25日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「目を上げて、救いの神を仰ぐ」詩編121篇 神戸改革派神学校教授 牧野信成
聖書:詩編121篇
【巡礼の詩】 今朝は、多くの信仰者に愛されてきた詩編の一つから、信仰の導きを与えられたいと願っています。先ほどお読みしました、詩編121篇です。信仰者の巡礼の旅を歌う詩であり、祈りです。「巡礼歌」、字義通り翻訳しますと「上る歌」となりますが、詩編120篇から始まっています一連の巡礼歌は、一続きの文脈を形作っている、つまりそこにはドラマがありますので、それを意識して続けて読まれることをお勧めします。もちろん、今までのように、一篇一篇をそれぞれに味読して良いのですけれども、段落全体のまとまりを念頭に読みますと、より聖書に即した読み方ができます。1:【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 2:わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3:どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4:見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5:主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6:昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7:主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8:あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
足のともし火 江戸浩三伊丹教会長老
聖書:詩篇119篇105
"あなたのみことばは私の足のともし火、私の道の光です" ルカ福音書8章16~17 ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。
【ともし火】
きょう、皆さんにお伝えする言葉は、ともしび、です。ともし火と聞くと小さな火を連想できます。とろとろと燃えている火をともし火、と表現しますが電気の光でも、ともし火と言えるでしょう。遠方に見える、ぼんやり見える小さな光。
どこかの外灯かもしれません。歩く動きに合わせて左右に揺れる提灯の灯り。
霧のなかの灯台の灯り。小さく見えて頼りなさそうな一筋の光ですがとても重要な役目を持っていることは言うまでもありません。その光を頼りに難を逃れて目的地にたどり着けることはほんとうにうれしいことです。
続きを読む: 足のともし火 江戸浩三伊丹教会長老
井戸端会議 ウイリアム・モーア宣教師
詩編42篇2−3a
2:涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。3:神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
ヨハネによる福音書4章◆イエスとサマリアの女
1:さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2:――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――3:ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4:しかし、サマリアを通らねばならなかった。5:それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6:そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7:サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8:弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9:すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10:イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11:女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12:あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13:イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14:しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15:女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16:イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17:女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18:あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19:女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20:わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21:イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22:あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23:しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24:神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25:女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26:イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
【渇きの記憶】
皆さん、喉が大変渇いた覚えがありますか。夏にお庭や畑で働いて汗をかくと、冷たい麦茶はとても美味しいですね。でもそれは本当の渇きではありません。もし本当に渇いたら、飲む事しか考えられなくなります。喉だけではなく、口も渇いて来て、倒れるかと思う程の渇きの体験がありますか。
私はその体験が一度ありました。それは12歳ぐらいの時なんですけれども、父と一緒に山の奥の小屋に上る時でした。夏の一番暑い時期、空に雲一つない焼きつくような日でした。道の先に泉があると思ったので、水筒の水を全部飲んでしまいました。眩しい日の下に山を登りながら、その泉の爽やかな水に憧れました。ようやく泉の所に着いた時、すぐ水のもとに行って、飲もうと走って行きました。しかし、冷たい湧き出る水の代わりに、乾いた石と泥しか残っていませんでした。やはり長い間雨が降らなかった為、泉の水が枯れてしまいました。言うまでもなく、私は大変がっかりした。しかし、水が沢山ある山の頂きまでには、まだまだ時間がかかりましたが、山の上に向けて頑張るしかありませんでした。渇いた口を少しでも楽にさせる為、父が小さい石を拾って口の中に入れて下さって、舐めるように言われたけれども、それはあんまり効果がありませんでした。そして、今度は足が疲れて来て、痙攣を起こして、殆ど歩けなくなりました。
皆さん、笑ってしまうかも知れませんが、私は山道の中で死ぬかと想像しました。しかし、父が側で助けて、何とかして山の頂上に着きました。すぐその時、素晴らしい水を一杯飲む事が出来ました。それだけではなく、頭も足にも爽やかな水を掛けました。その瞬間まるで生き返るような気がしました。その40何年程前の事は今も生々しく覚えています。
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神を無視する者 ウイリアム・モーア宣教師
詩編14篇1−7
1:【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
2:主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
3:だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
4:悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。5:そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。
6:貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。7:どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。
【熊に襲われた無神論者】
ある日一人の無神論者が深い山に入り、進化論がもたらした美しい大自然を敬服しながら歩き回りました。突然、後ろからの酷いウオーと唸る声を聞いて、振り返って見ると背丈2メートル程の巨大な熊が自分の方へ襲って来ました。無神論者は出来るだけ速く逃げましたが、熊は段々追い迫ってきました。彼は一生懸命に速く走ったけれども、熊は益々近づき、今すぐでも熊に食われる状況でした。心臓がドキドキしていた彼は必死でしたが、ついに石に躓いて転びました。そして、立ち上がろうとしたが、熊は彼の上に立って、前の足で攻撃するところでした。言うまでもなく、無神論者は非常に恐怖を感じ、われ知らずに、「神よ、助けて下さい」と叫びました。
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いつまで、主よ ウイリアム・モーア宣教師
詩編13編1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
2:いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
3:いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
4:わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください/死の眠りに就くことのないように5:敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
6:あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。
【リンカン大統領の悩み】
恐らくリンカン大統領はアメリカの全ての大統領の中、最も偉大な指導者でありました。特に南北戦争の大変な危機の間、リンカン大統領は国の統一を守り、そして戦争後、国の傷を癒す為、敗北した南部に対して寛大な政策を採用しました。
リンカン大統領は南北戦争では非常に悩みました。同国民の間に70万人程の戦死者があって、戦傷者の人数も酷かったのです。そして、その戦争の悩みの上にリンカン大統領は更に個人的な悩みもありました。その南北戦争の間に11歳の最愛の息子ウィリー君が腸チフスになりました。ウィリー君が 一ヵ月間病気と戦かっている間、リンカン大統領と奥さんはその病床から殆ど離れませんでした。目撃者の話によりますと、大統領は寝ずに息子の看病をしていて、繰り返し繰り返し、このように嘆いたそうです。「これは一生の一番辛い試練だ。どうして、どうして、私がこの酷い目にあうんだろう。」そして遂にウィリー君が息を引き取ると、悲しみに沈んだリンカン大統領は泣きながらこう言いました。「私の可哀想な息子よ。この世ではあんまり善い子だったので、神様がウィリーを天に召されたのね。天国はこの世よりもっと良い所だと信じていても、我々はどれほどこの子を愛したか。死なれたら、辛くてたまりません。」
私たち皆は子であり、親であるので、このリンカン大統領の気持ちが十分分かると思います。そして、いつかは誰でもリンカン大統領が経験した試練を受ける事になると思います。それが重い病気や、深刻な家族の問題や、経済的危機や、愛する者の死や、砕かれてしまった夢などのようなものかもしれませんが、いつか私達にも直面する時が来ます。そして、その霊魂の暗闇に私達はリンカン大統領のように「どうして、どうして、私がこの酷い目にあうんだろうか」と神に叫びます。
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人の言葉と神の言葉 ウイリアム・モーア宣教師
詩編12篇1:【指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
2:主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。3:人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。4:主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を。5:彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
6:主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」7:主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。8:主よ、あなたはその仰せを守り/この代からとこしえに至るまで/わたしたちを見守ってくださいます。9:主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。
【ホロコースト博物館】
最近、私は新聞の記事で感動させられました。その記事はロサンジェルスにあるホロコースト博物館の事についてでした。そのホロコースト博物館は第二次大戦中のナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の惨劇を記録にとどめる為のものです。博物館にホロコーストの色んな資料が展示され、六百万人の犠牲者をもたらしたそのような惨劇が二度と再び起らないように証を立てています。博物館は様々なプローグラムを提供しますが、一つには、ホロコーストの生存者は自分の収容所の体験を語ります。その生存者達は今80歳前後ですけれども、ボランテイアとして、毎週博物館へ行って、自分のホロコーストのストーリを生々しくお客さんに伝えます。
【ホロコースト証人イーヴア•ブラウン婦人】
生存者の一人はハンガリー出身のイーヴア•ブラウン婦人です。七年に亘ってブラウンさんは一千回以上、自分のホロコーストの体験を博物館の来客に語って来ました。「皆が私の叫び、私の悲しみと私の損失を聞いて欲しいです。毎日人の前でその事を覚えるのは辛いですけれども、黙ってはいられません。そのような大虐殺が再び起らないよう、皆に知らせなければなりません」と彼女は言います。ブラウンさんは16歳で収容され、家族皆がアウシュヴィッツで殺されたり、病気や飢餓などで死んだりしていました。
家族と親戚の中、彼女一人だけで生き残りました。収容所の毎日の生活は地獄のような有様で、若いブラウンさんは言い尽くせない程恐ろしいものを目撃し経験しました。
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世の秩序が覆(くつがえ)っているとき ウイリアム・モーア宣教師
詩編第11編
1:【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。
2:見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。 3:世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。
4:主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。
5:主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み 6:逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。
7:主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。
【リーマンブラザース破綻】
最近のニュースや新聞報道を見れば、誰でも分かりますけれども、世界の経済制度は今、危機的時期を迎ています。不良債権の問題でアメリカの経済だけではなく、世界中の国々の経済安定が脅かされています。銀行と投資信託会社が財政的資格のない会社や個人に資金を高い利子で貸しました。しかし、おもに不動産の暴落の為、多くの客さんはそのローンを返済する事が出来なくなり、一方貸し出した方は潰れかけ、金融機関は倒産してしまいました。
その倒産した機関の一つはリーマンブラザースと言う投資銀行でした。リーマンブラザースは150年以上の歴史があってニューヨーク市のウオール街の有名な会社でした。去年には「最も憧れた証券機関」と言う賞を受けたばかりでした。リーマンブラザースに入社すれば、ボーナスで絶対に金持ちになると言う評判がありました。また、従業員は沢山の交際費を頂き、結構豪華な生活が出来ると言う会社でした。
リーマンブラザースが潰れた直後、テレビの記者がその社員の一人をインタビューしました。その社員は課長であって、二十年以上リーマンブラザースで働いていました。そして、会社を信じていたので、長年にわたってその株だけを沢山買いました。数億ドルの株を持っていました。しかし、会社は破綻すると、全てが失われてしまいました。「私の純資産は今ゼロです。信じられません。私の純資産はゼロになった。しかも職場も失いました。初めての失業の経験です」と何回も繰り返しました。表情を見ると、彼は大変なショックを受けた事が明確でした。どうしようもない気持ちでした。これからの人生は真っ黒になりました。
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか ウイリアム・モーア宣教師
詩編10篇(アルファベットによる詩)
1:主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。2:貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。3:神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。4:神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。5:あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し6:「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。7:口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。8:村はずれの物陰に待ち伏せし/不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。9:茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ/貧しい人を捕えようと待ち伏せ/貧しい人を網に捕えて引いて行く。10:不運な人はその手に陥り/倒れ、うずくまり11:心に思う/「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。
12:立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。13:なぜ、逆らう者は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。
14:あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。15:逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き/彼の反逆を余すところなく罰してください。
16:主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。17:主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし18:みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。
【9・11事件】
おそらく皆さんも私と同じようにメデイアで特に酷いニュースを聞くと、口がきけない程の驚きと恐怖を感じ、ぞっとします。例えば、ニュヨーク市の世界貿易センターの9•11事件はそうでした。全く思い掛けなく、テロリストが飛行機を爆弾にして、無差別的に数千人の命を無残にも奪ってしまいました。
私達はどのような神に仕えていますか ウイリアム・モーア宣教師
聖書 燃え盛る炉に投げ込まれた三人
ダニエル書3章8−30
8:さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、9:ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。10:御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。11:そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。12:バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」
13:これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。14:王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないとい うのは本当か。15:今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
16:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。17:わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」19:ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。20:そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。21:彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。22:王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。23:シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。24:間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」25:王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」26:ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。27:総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。28:ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。29:わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのよう に救うことのできる神はほかにはない。」 30:こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。
【最近の恐ろしい出来事】
最近新聞に大きく取り上げられたニュースです。 「八王子殺傷、現場近くで包丁購入『誰でもよかった』。 消費者物価1.9%上昇、92年来の上げ幅。 千葉で民家火災、焼け跡から母子4人の遺体。 秋葉原通り魔事件、男が通行人や警察官17人を車ではねて刺す、3人死亡。 東北地方で震度6強地震。 14歳が東名高速でバスジャック。」
2008年07月27日 | カテゴリー: イザヤ書 , ダニエル書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
御名を知る人 ウイリアム・モーア宣教師
詩編9:1−21
1:【指揮者によって。ムトラベンに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2:わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。3:いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。4:御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。5:あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。6:異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。7:敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。8:主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられ る。9:御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。10:虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。
11:主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。12:シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。13:主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。14:憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。
15:おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。16:異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。17:主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ
18:神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。
19:乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。20:立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。
21:主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ
【あるインデイアンの成人式】
昔のアメリカインデイアンのある部族には青年の訓練の独特のやり方がありました。先ず、13歳位になる青年達は一人前になる為にその父親はもちろん、部族の長老達によって色んな技術を教えてもらいました。魚釣り、狩猟、乗馬、弓術などのような必要な事をしっかり訓練させられました。そして、最後には青年達は試練を受けなければなりませんでした。それは独りで森林の中で一夜を過ごす事です。その時点まで青年はいつも家族の保護に囲まれ、部族から離れた事が一度もありませんでした。しかし、試練の夜、彼は目隠しされ、深い森の中の知らない所へ案内されました。そして、「暫く目隠しを取ってはいけない」と注意されてから、案内する人が去ってしまいました。言うまでもないが、青年は目隠しを外した時、恐れを感じました。暗い夜に色んな不気味な音が聞こえました。そして、その全ての音は襲って来る野獣の現れだと想像したのです。寂しくなってどうしても家に帰りたかったのです。更に、夜の寒さを感じると、震えました。眠る事が出来なくて、地面に座り泣きたいのを我慢し、声も出さず息を抑えて、ただじっとするしかなかったのです。
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避けどころなる神、主 ウイリアム・モーア宣教師
詩編7篇1−18
1:【シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。】2:わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。3:獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から/だれも奪い返し、助けてくれないのです。4:わたしの神、主よ/もしわたしがこのようなことをしたのなら/わたしの手に不正があり5:仲間に災いをこうむらせ/敵をいたずらに見逃したなら6:敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき/わたしの命を地に踏みにじり/わたしの誉れを塵に伏せさせても当然です。〔セラ 7:主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり/憤りをもって身を起こし/わたしに味方して奮い立ち/裁きを命じてください。8:諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。9:主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してく ださい/お前は正しい、とがめるところはないと。10:あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。 11:心のまっすぐな人を救う方/神はわたしの盾。12:正しく裁く神/日ごとに憤りを表す神。 13:立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし/弓を引き絞って構え14:殺戮の武器を備え/炎の矢を射かけられます。15:御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。16:落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。17:災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。18:正しくいます主にわたしは感謝をささげ/いと高き神、主の御名をほめ歌います。
【ダビデの敵】
今日、私達はもう一度詩編に注意を向けて、詩編第7編を通して神の御言葉を学びたいと思います。この詩編は旧約聖書の人物ダビデの作品で、その背景は彼にとって大変辛い事件でした。つまり、ダビデを滅ぼす為、敵は彼に対して中傷的な噂を立てました。ダビデの敵についてあんまり知られていませんが、今日の詩編の一節を見ますと、彼の名前が記されています。「ベニヤミン人クシュの事についてダビデが主に向かって歌ったもの」と書いてあります。クシュはこの所以外、聖書に載っていませんから、彼について詳しい事はあんまり分かりません。しかし、彼はベニヤミン族の出身と知らされている事は重要です。何故なら、その当時のイスラエルの国王はサウルでした。そして、サウル王もベニヤミン人で、彼の家来と顧問も殆ど皆は同じベニヤミン族出身でした。しかし、ベツレヘム出身のダビデは例外でした。自分の忠実と実力で、ダビデはサウルの信頼されたよろい持ちになり、王ととても近くなり、宮殿で偉くなりました。
【ベニヤミン族出身のサウル王】
残念ながら、サウル王は神に従わなかったので、主は預言者を通してサウル政権の崩壊を宣言されました。更に、神はサウルの後任になる王としてダビデを任命したのです。言うまでもないが、その事でダビデは大変な立場でした。サウル王はもちろん自分の地位と権力を失いたくなかったので、彼はダビデを敵として扱うようになりました。ダビデはサウルに対して忠実であって、決してサウルに代わって王になるつもりはなかったのです。しかし、神こそがダビデを王として任命されると、サウルは彼を妬(ねた)んで、滅ぼうとしました。ダビデは国民に大変な人気があったから、サウルは彼を簡単に殺す訳にもいきません。他の方法でダビデを倒す必要がありました。それはダビデに対して中傷的な噂を立てました。その噂の内容ははっきり分かりませんが、恐らくそれはダビデがサウル家に、反逆罪的な行為を企んでいる事でしょう。
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主はわたしの嘆きを聞き ウイリアム・モーア宣教師
詩編6篇1−11
1:【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。3:主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ 4:わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。5:主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。 6:死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。7:わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。 8:苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。 9:悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き10:主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。11:敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。
【重い病に苦しむダビデ】
今日、与えられた詩編第六編は重い病に苦しんでいる者の嘆きと信仰を力強く表現します。その病気の名前は分かりませんが、イスラエルの王ダビデはこの御言葉を通して遠慮なく自分の心を主なる神に打ち明けました。「主よ、憐れんでください、わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください。わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう」とダビデは必死に神に祈りました。肉体的な苦しみは結構酷かったのだと思います。「わたしの骨は恐れ」と言う表現はその痛みを現します。又、その苦しみの故にダビデは寝る事がなかなか出来ませんでした。
7節を見ますと、こう書いてあります。
「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」
実は、ダビデは自分の命が危ないと信じ、神の救いがなければ近いうちにきっと死ぬだろうと思いました。
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盾となる神のお守り ウイリアム・モーア宣教師
詩編5篇1−13 1:
【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしの言葉に耳を傾け/つぶやきを聞き分けてください。3:わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。 あなたに向かって祈ります。 4:主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます。5:あなたは、決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず6:誇り高い者は御目に向かって立つことができず/悪を行う者はすべて憎まれます。 7:主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし/流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。 8:しかしわたしは、深い慈しみをいただいて/あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し/あなたを畏れ敬います。 9:主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。10:彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで/喉は開いた墓、腹は滅びの淵。11:神よ、彼らを罪に定め/そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。 12:あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い/とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ/あなたによって喜び誇ります。13:主よ、あなたは従う人を祝福し/御旨のままに、盾となってお守りくださいます。
【讃美の歌】
今日は私達の詩編の学びを続けたいと思います。月一回、順に詩編の教えを受けて来ました。そして、今日は詩編第5編になります。覚えていらっしゃると思いますが、「詩編」と訳されたヘブライ語の単語の意味は「讃美」あるいは、「讃美の歌」です。ですから、信仰において私達の先祖は個人と集団の礼拝に詩編を歌いました。私達が讃美歌を歌うように、彼等は詩編を歌ったのです。実は、私達が歌う多くの讃美歌は詩編の歌詞に基づいています。例えば、先程歌いました讃美歌88番は詩編90編の影響を受けました。
【慰められ、喜ぶ事】
聖書の全ての書の中で詩編は特別な役割があります。特に、傷つけられた時、落胆の時、又、危機に陥っている時、詩編を読むと、魂が生き返られ、悲しみの中にいても、慰められ、喜ぶ事が出来ます。
【ダビデの詩】
今日の御言葉の一節によりますと、詩編第5編はイスラエルの王ダビデの詩です。ダビデは自分の生涯に色んな事を経験し、良い時があれば難しい時も沢山ありました。彼はもちろん正しい行いもすれば、罪も結構犯してしまいました。しかし、ダビデはその全てにおいて、神との関係を何よりも大事にし、常に主の御前に生きたのです。神御自身が彼を「御心に適う人」と呼んだのです。(サムエル記上13:14)
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罪を犯す時 ウイリアム・モーア宣教師
ヨハネの手紙一1章5−2章6
【だれの奥さん?】
ある男の人が急に耐えられない程、神経質になり、慌てて、掛かり付けの医者へ飛んで行きました。彼は、「私は今日、一日中精神的不安定で、ノイローゼになってしまいそうです。その為に何か良い薬がありますか」と医師に言いました。医師は、患者の問題の原因を知る為、「最近、何か気を転倒させる事がありましたか。例えば、生活に大きな変化があったのでしょうか」と男の人に尋ねました。男の人は、「実は、今朝、この手紙が届いて来ました。」そして、彼は手紙をポケットから出して医者に見せました。その手紙には男の人に対して色々な激しい事が書いてありました。そして、手紙の最後にはこの脅すような言葉があったのです。「もし家の女房との交際を止めないと、あなたは命が無い」と書いてありました。
医者は、「あなたの問題の解決は簡単です。常識ですが、手紙を書いた人の妻とこれから会わない事ですね。その行為を早速止めたら、どうでしょうか。」しかし、そのアドバイスを聞いた男の人はあんまり喜ばなかったのです。「手紙をよく見て下さい。送り主は本当に馬鹿ですよ。何故なら、彼は自分の名前を書きませんでした。彼の名前が分からないと、僕はいったいどうして、その妻の身元が分かるはずですか。どちらの奥さんの事でしょうか。」
【古い、罪のある自分】
「早速止めたら、どうでしょうか。」ただ止めるのは良い事ですが、ある時、止める事は私達にとって簡単ではありません。私達、皆は神と人間に対する罪を犯す事を完全に止めたいと思います。キリスト者としてそれは私達の目標であります。神の光の中で歩んで、私達の生活の全ての事を通して主を喜ばすのは私達の最大の使命です。しかし、私達一人一人の中の古き、自然の人間は罪を好んでいます。神によって造り変えられた新しい私達の性質が罪を憎みますが、古い性質は罪に引き付けられています。その結果、罪は私達の魂に対して攻めてきます。
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2008年01月20日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
嵐の中にも神の平安と喜び ウイリアム・モーア宣教師
詩編4篇1−9:
【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】 2:呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。3:人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ 4:主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。5:おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。〔セラ 6:ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。 7:恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。8:人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜 びを/わたしの心にお与えください。9:平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。
【苦悩の叫び】
「呼び求めるわたしに答えてください」とダビデ王は今日の詩編で神に祈願をこめました。「呼び求めるわたしに答えてください。」私達はその同じようなお祈りを聞いた事がありますか。あるいは、自分自身の口からそのようなお祈りを心から捧げた事がありますか。多分、私達一人も残らず、いつかその同じような祈りを神に捧げた事があるのではないでしょうか。そして、恐らくある難しい時期、毎日のように、「呼び求めるわたしに答えてください」と祈願した事があるに違いありません。
【ダビデ王の苦悩、その原因と結果】
詩編第4編を書いた人物ダビデ王はその祈りを何回も捧げた事がありました。ダビデはイスラエルの王として力がありましたけれども、それと同時に、敵も試練も誘惑も結構あったのです。今日与えられた詩編の背景が記されていないんですが、先月学んだ詩編第3編と同じ状態で書かれていると思われています。ダビデはイスラエル軍の幹部であるウリヤの妻バド•シェバを無理に自分の妻として取ってしまいました。そして、その罪を揉み消す為、もっと酷い罪を犯してしまいました。ダビデ王はわざわざバド•シェバの夫ウリヤを戦場の最も危険な所へ行かせて、結局彼の死を起こしました。その事件のずっと後の事ですが、アムノンと言うダビデの息子が自分の異母姉妹タマルに惚れて彼女に対して暴行を起こしてしまいました。それからタマルの同父母の兄弟アブサロムがその暴行を聞いて、アムノンに復讐する機会を狙(ねら)って、彼を殺してしまいました。しかし、ダビデ王はアブサロムの罪をちゃんと扱いませんでした。息子を罰する為にただ彼を都エルサレムから追放したのです。その軽い罰の理由は、ダビデ王も同じ殺人罪を犯した事があったからです。結局、その為、ダビデが道徳的権威を失ってしまいました。
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私達の頭を高く上げて下さる方 ウイリアム・モーア宣教師
聖書 詩編3篇1−9
【様々な生涯の出来事】
私は自分の50数年の生涯にわたって、少なくとも一つの事が確実に分かって来ました。それはこの世での歩みには様々な事があります。私達には想像以外の事も起きると言う事です。単純に言えば、喜びの日があれば、悲しみの日もあります。全てが旨くいく時期がありますけれども、全てが失敗になるような時もきっと来ます。だからこそ、けっして私達は天狗になれません。今うまく行くからって自分を自慢する事は出来ないのです。又、今いくら元気だからっていつまでも続く保証はありません。いつかは病気が歓迎されない客のように生涯に立ち入ってしまう時もあります。更に、ある日は心配事がちっともない気持ちで溢れますが、時間があんまり経たない内に思い煩う事で不安を強く感じます。恐らく、私達皆は、落胆してお先真っ暗だと思い込んでしまう経験があるんじゃないでしょうか。
【逃れの砦:神の御言葉】
そんな時どうしますか。その時こそ私達キリスト者は襲われた人のように神の御言葉へ逃げ込みます。そして、御言葉に於ける神の変わらぬ約束と愛と慰めと救いを受けると、不思議に、新たな力と希望が与えられ、勇気を持って、どんな事でも積極的に迎えられ、勝利を期待する事が出来ます。
【ダビデ王と詩編】
永年に渡って、落胆と危機の時、キリスト者は特に詩編を通して神の助けと慰めと希望を得る事が出来ました。神の霊に導かれ、詩編を書いた人物・ダビデ王は生涯に色々な事を経験しました。イスラエルの力強い国王として宮殿の栄えを味わいましたが不幸のどん底に沈む時もかなりありました。しかし、ダビデ王はどんな時でも唯一の全能の神との関係と恵みを大事にして、主を常に賛美し、主から力と希望を得る事が出来ました。トラブルと悲しみと危機の中にいても、ダビデ王は主なる神を
「頭を高くあげて下さる方」
として経験されました。
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神によって選ばれた民 ウイリアム・モーア宣教師
申命記7:6−8
ローマ人への手紙8:28−39
【予定論の誤解】
改革主義教会の教理の中で多分一番有名な教えは予定論だと思います。信者の聖化や神の主権や御言葉を解き明かす事のような他の改革神学の特徴よりも、予定論は良く知られているでしょう。アメリカでも我々長老教会と予定論はいつも人から関連ずけられます。人々は長老教会員と話すと、「じゃ、あなたは運命予定説を信じますね」と言われる事がよくあります。改革主義と予定論とは相伴って行くべきものですけれども、予定論はよく誤解されている教理だと思います。
予定論はいったい何でしょうか。具体的に信者にとってどんな意味を持っているのでしょうか。今、その事について一緒に考えさせて頂きたいと思います。
先ず覚えて頂きたい事は、改革主義キリスト者は予定論を信じません。それはつまり、私達の信仰の対象はその教理ではありません。予定論を信じるよりは寧ろ私達は唯一の全能の愛である神のみを信じ、頼ります。
【予定論は神の愛を表現する】
と言うのは、予定論と呼ばれる教理はキリスト者の歩みの中で経験された、神の愛を表現するものなのです。だからこそ、予定論は信じる事よりも、私達の神様の経験を一番良く説明する表現であるし、御言葉の証言も正しく表すものなのです。
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2007年11月04日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 申命記 , 詩篇
私達の避けどころ ウイリアム・モーア宣教師
聖書:詩編2篇(全)
【毎朝の新聞】
私は毎朝起きると、すぐメールボクスへ行って、新聞を取って読みます。それは私の永年の習慣になりました。何故なら、新聞は何よりも、私を眠りから目覚めさせる力があるからです。ある人はコーヒを飲む事によって目が覚めると言います。また、他の人はシャワーを浴びると言いますが、私には新聞を読むのが一番効果的な目覚め方です。と言うのは新聞を読むと、すぐに心拍数が上がり、目が大きくなります。恐ろしい事と、とんでもない事と、腹が立つ事と、涙を流せる事ばっかりで、眠気が完全に消え、すっかり目覚めて、新しい一日を迎えます。特に戦争の事はその効果があります。アフガンとイラクの終わりのない戦争、テロの事、又、北朝鮮とイランの核兵器問題は震えさせ、煩いの種になります。
【主に逆らう支配者たち】
以前より、今の時代は特別に恐ろしいようですね。確かにテロの脅しと核兵器拡散は新しい心配の種になります。しかし、考えて見ますと戦争の事と暴力行為と国際不安定は決して新しい現象ではありません。約2,300年前にある詩人が神の霊に導かれ、このように書き記しました。
「何故、国々は騒ぎ立ち、人々は空しく声をあげるのか。何故、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らうのか。」
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愛する神と悪の諸問題 ウイリアム・モーア宣教師
ローマの信徒への手紙8章28節
【偶然の悲しい出来事】
この間、ロスアンジェルス•タイムズと言う新聞でこの悲しい記事を読みました。記事の題は、「生まれたての赤ちゃんが流れ弾で殺された」とありました。「ベビーカーに寝っていた23日の新生児がロスアンジェルスのマッカーサー公園で流れ弾に撃たれました。日曜日の午後9時30頃、母親が赤ちゃんを公園へ連れたときに撃ち合いに巻き込まれました。三人のラテン・アメリカ系男性と屋台の主人との間で射撃事件が起きて、一人の男も銃で打たれました。彼は病院へ運ばれ、安定した状態で治療を受けています。しかし、赤ちゃんルイス•ガシアが午後10時過ぎに病院で死を宣告されました。当局は事件を調べていますが、犯人達とその動機はまだ不明だそうです。
公園の周辺には小さい売店と屋台が沢山あり、その殆ど全部はラテン系の人の経営です。事件の近くの店の店長が事件についてこのように語りました。「多くの家族が買い物と公園に、ここに集まって来るのに、 残念ながら、ここは危険な所です。 近辺は暴力で悪名になってしまいました。」
皆さん、このような悲惨な出来事を聞くと、その赤ちゃんの家族の悲しみと怒りを容易に想像出来ると思います。もし、自分の家族にそのような酷い乱暴があったら、もちろん悔しくてたまりません。産まれたばかり無邪気な赤ちゃんがそのように無意味に殺されたのは悲劇の中の悲劇になります。その事件はこの世にあるもっとも酷い悪の縮図であると思います。
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2007年09月23日 | カテゴリー: イザヤ書 , ガラテヤの信徒への手紙 , ヤコブの手紙 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 民数記 , 詩篇
祝福への道 ウイリアム・モーア宣教師
聖書:詩編1篇
【詩編について】
早速ですが、聖書のクイズで今日の説教を始めたいと思います。良いですか。聖書の66巻の中でどこに一番短い章がありますか。また、一番長い章がある所は?それから600年程にわたって書かれた書は何ですか。もう少しクルーをあげますと聖書を手にとって、ほぼ真ん中を開くと何と言う書になりますか。この書は聖書の中で一番長い書でもあります。もう答えがお分かりになるでしょう。詩編は2節を持つ第117編は聖書の一番短い章で、176節で形成された詩編第119編は一番長い章です。詩編は600年にわたって書かれました一番長い書で丁度、聖書の真ん中にあります。クイズの全ての正しい答えは「詩編」であります。
【詩編と教会】
恐らく旧約聖書の全ての書の中で、詩編の影響はキリスト教会に一番強かったと思います。詩編は特にキリスト教の礼拝に大変重要な役割を演じて参りました。詩編は文字通りに詩の本です。そして、礼拝に古代ユダヤ人はその詩を神に歌いました。現在も私達が歌う多くの讃美歌は詩編に基づいています。詩編は詩を通してユダヤ人の歴史とその歴史の中の神の御業を語ります。神の民をエジプトの奴隷から解放したモーセから、イスラエルと言う国の発展をもたらしたダビデ王とその息子ソロモン王まで、詩編には神の民の歩みが記録されています。しかし、詩編は詩ですから、その歴史の中の出来事をただ理知的に語るのではなく、信仰と感情と賛美を通してその神の御業を述べてあります。詩編は神の民の勝利と喜びの時を賛美で表現しています。
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霊の結ぶ実:誠実 ウイリアム・モーア宣教師
詩編33
ガラテヤの信徒への手紙5:22−23
【アマンドと父の約束】
1988年に旧ソ連の共和国アルメニアでサミュエルとダニエルと言う両親は自分の幼い息子アマンドを小学校へ送り出しました。いつものように、お父さんサミュエルは息子を見て言いました。「学校でよく勉強してね。そして、万が一、あなたに何かが起きたら、どんな事があってもパパはあなたをすぐ助けに来る事を忘れないで。」そして、サミュエルは息子を強く抱きしめてから学校へ行かせました。
数時間後、力強い地震がその地域を揺らしました。大混乱の中でサミュエルとダニエルは息子の事を尋ねようとしましたが、情報は何もなかったのです。ただ、ラジオのニュースは、「何千人の犠牲者が出た」と伝えるだけです。その事を聞くと、サミュエルは忽ち学校へ走り出しましたが、現場へ着くと悪夢のような光景でした。アマンドの小学校は瓦礫の山と化してしまいました。そして、多くの生徒の家族は泣き悲しんでその酷い場を見詰めていました。
しかし、サミュエルはアマンドの教室があった所を捜し、自分の素手で瓦礫を取り始めました。コンクリートの塊と壊れた木の柱と割れた瓦も必死に取り除きました。
ある父親は、「何をやってますか」と彼に聞きました。そして、「息子を掘り出している」と返事をすると、「止めなさい、瓦礫は不安定なので、もっと悪くする」と言いました。しかし、サミュエルは続けて瓦礫を取り除こうとしました。彼を見ている他の両親たちは一人ずつ帰りましたが、サミュエルはその作業を止めませんでした。やっと、消防士が来た時、サミュエルは、「助けて下さい、私の息子がこの中にいるんです」と願いましたが、消防士も彼を止めさせようとして、やがて帰りました。
サミュエルは休まず一人でその晩ずっと努めました。そして、朝になると生徒の家族は現場に来て子供の写真とお花を瓦礫の前に置いて帰りました。しかしながら、サミュエルは瓦礫を掘るのを止めませんでした。大きな柱を動かそうとした瞬間、「助けて、助けて」と言う子供の小さい叫び声を聞きました。そして、少し後で、「パパ?、パパ?」と言う聞き慣れた声も耳に入りました。そのアマンドの声を聞くとサミュエルは鬼のように瓦礫を掘りました。やっと、 瓦礫の中の空洞に息子の姿を見ました。ほっとひと息つくと、「速く上って来い」とサミュエルは叫びました。しかし、アマンドは、「パパはきっと私を救うから、友達を先に出させて、お願い」と言ったのです。それから、生徒達一人一人はサミェルが掘った穴から出て来ました。最後に小さいアマンドがお父さんの腕に入ってこう言いました。「友達にパパがどんな事があっても僕を助けに来ると言っていたので、みな心配しなかった。」一人のお父さんが誠実であったので、その日14人の命が助けられました。
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2007年07月08日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , フィリピの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
霊の結ぶ実:寛容 ウイリアム・モーア宣教師
マタイによる福音書18章21−35(本文参照)
ガラテヤの信徒への手紙5章22−23
霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
【些細な事を許せない!】
読売新聞によりますと、最近、行儀が悪い人に対して暴力事件が増えて来ているそうです。関東の方ですけれども、ある28歳の高校先生は電車に乗って、足を組んで座っている青年の足に触れられました。先生はその事で怒り出し、青年を大声で叱って、頭を殴りました。
又、他の事件で57歳の警察官が逮捕されました。それは、彼は山の手線に乗っている若い女性の髪の毛を強く引っ張ったからです。尋問されると、警察官はこのように自分の行為を説明しました。「彼女は携帯電話でうるさく長話をして、態度が悪かったんです。」
又、28歳の女性の人も逮捕されました。彼女は空気銃で人の車を撃ちました。信号待ちの時、その車が彼女の車の前へ割り込んだからです。
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主は備えてくださる ウイリアム・モーア宣教師
創世記22章1−19
【男はなぜ溺れ死んだか】
急な大洪水の故にある男の人は避難出来なくて、自分の家に閉じ込められてしまいました。洪水が家の一階に入ると二階へ逃げました。そして、二階にも水が上がって来たので、屋根に上りました。やがて、ヘリコプターが飛んで来て、彼を救う為に梯子を屋根まで下ろしました。ヘリコプターの人が、「梯子を引っ掴んで下さい。上まで引っ張るから」と叫びました。そして、男の人はこう断りました。「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる。」洪水の水がだんだん上がるとまた救助隊が今度は船でやって来て男の人を救おうとしました。「溺れてしまうから、船に乗って下さい」と言いましたのに、男の人はまたこのように答えました。 「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる。」水が屋根の天辺まで上がった時、 救命胴衣(どうい)を引っ張った犬が男の人の方へ泳いで来ました。しかし、彼はもう一度、「結構です。神が私を救うから、いいですよ。私の神は備えて下さる」と断りました。
丁度その瞬間、大きな波が襲って来て、男の人を屋根からさらわれ、彼は溺れ死んでしまいました。彼はイエス・キリストを信じたので天国に着きました。そして、彼は早速主に聞きました。「どうして私を洪水から救いませんでしたか。大きな信仰を持って神の助けを待ちました。神が備えて下さると信じたのに。」そうすると、主は彼を見てこのように返事をしました。「私はヘリコプターと船と犬までもあなたに送ってやりましたが、あなたはその全てを断ってしまったね。それは私が備えてやったのに。」
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「平和を実現する人々は幸いである」田村英典
聖書:マタイによる福音書5章9節
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
【平和を実現する】
今朝はマタイ福音書5章9節に注目します。イエスは言われます。
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
何度もお話していますが、イエスは3~10節で、真の信仰者の幸いな特徴、特質を8つの角度から光を当てて描かれ、全てのクリスチャンがこうであることを強く願っておられます。で、真のクリスチャンの7つ目の特徴が「平和を実現する」、あるいは平和を造り出すことです。
まず私たちは、これが人間の様々なあり方や行動の中でも最も価値あることの一つであることを深く心に刻みたいと思います。私たちはこの世で生きる上で色々なことに携わり、様々な行動が要求されます。
勉強すること、働くこと、社会的、文化的なことに関与するなど、多くのことがあります。しかし、最終的に平和を私たちの周りに造り出すことに貢献しないようなものは、主イエスによれば余り価値がないとさえ言えます。
聖書で言う平和は、単に戦争や争いがないだけではありません。平和とは、国と国、人と人が、互いに愛をもって理解し、助け合い、そうしていわば人が人として造り主なる神の前で完成される上で必要な大切な環境と条件と言えます。大国も小国も、大企業も中小企業も、健康な者も病める者も、皆が夫々の固有性を失わず、全体の益のためにも夫々の存在を守られ支えられ、最終的には造り主なる神に喜ばれるように自らを完成することの出来る環境と条件。これが聖書の言う真の平和と言えます。そうだとするなら、これは極めて尊いものであり、本当は全ての人間が意識的にこのために貢献すべきことと言えます。
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2007年02月11日 | カテゴリー: イザヤ書 , テサロニケの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , マルコによる福音書 , ヤコブの手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
満ち足りた生活の秘訣 ウイリアム・モーア宣教師
ヘブライ人への手紙13:1−8
【突然の遺産相続】
ある日、二人の友人が久しぶりに道端でばったり出会いました。一人はとても悲しそうな顔をして、目に涙がにじんでいました。その様子を見ると友人が驚き、「一体どうかしましたか」と尋ねる、彼はこのように説明しました。「三週間前に伯父が亡くなって遺言で500万円を頂いた」と言いました。「それは嬉しい事じゃないか。どうして悲しいですか」と友人が聞きました。「実は、二週間前にあまりよく知らなかったいとこも死んで私に一千万円を残してくれたのよ」と悲しい友人は述べました。「あなたは運が本当に良いですね」と友人は返事すると相手は言いました。「どうして私の気持ちを理解してくれないの。先週大おばも急に息を引き取って、三千万円を譲ってくれた」と言いました。そうすると、納得出来なかった友人はこう聞きました。「こんなに恵まれているあなたは涙を流す必要がないのに、どうして悲しいですか。言って下さい。」「あなたはまだ私の気持ちが分からないの?。実は、今週は、誰一人死んでないので、一円も今週貰ってないから悔しいのよ」と彼は言いました。
【満ち足りる事とは】
今日、12月31日、私達は正に新しい年、2007年の玄関に立っています。後13時間ぐらいで2006年は完全に過ぎ去り、主イエス・キリストの2007年を迎える事が出来ます。この際、新しい年に入る私達は満ち足りる事について一緒に考えたいと思います。つまり、新しい年にはどういうふうに満ち足りた人生を歩む事が出来るのでしょうか。
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2006年12月31日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ヘブライ人への手紙 , マタイによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「憐れみ深い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
聖書:マタイ5章7節
【真のクリスチャンの幸いとは】
5章3節からのイエス・キリストの幸福の教えの中で、今日は5番目、7節に進みますが、その前にイエスの教えを正しく理解するために三つの点を確認しておきます。第一に、これら一連の教えは、全て信仰により霊的に生れ変った信仰者が聖霊によって与えられる新しい特質を描いたものです。キリスト教信仰に生きる人はこういう人だということです。
第二に、これらは全体として適用されなくてはなりません。真のクリスチャンは3節「心の貧しい」、つまり謙遜な人ですが、同時に6節「義に飢え渇」き、9節「平和を実現」し、いいえ、 3~10節の全ての特徴を持っている人です。これらの内の一つを持っているだけで満足することは、主の御心ではありません。
第三に、これらは私たち自身の人間性と信仰を探り、私たちの心をテストします。これらを学んで「これは私の考えとは違う。私には合わない」というなら、それはその人がまだ本物のキリスト教信仰から遠い存在であることを意味します。逆に、これらの教えに自分を照らして見て、「あぁ、私はまだまだ信仰の薄い者だ。だが、これらは確かに真理だ。私もこうありたい」と心底願うなら、その人は本物のキリスト教信仰を持ち、救いの道を既に歩み始めています。このように、これらは私たち自身をテストします。以上、三つの点を確認しました。
2006年11月12日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「義に飢え渇く人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
マタイ5章6節
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。」
マタイ5章初めの幸福の教えを続けて学んでいます。今日は4番目の6節に進みます。イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は幸いである。」
【義に飢え渇く】
私は20歳の時、初めて聖書のここを読みました。正直なところ、良く分りませんでした。
「義」
とは何か。
「義に飢え渇く人々」
とは強い表現だが、どういう人のことなのか。こういう疑問を抱いたことを今も覚えています。
2006年10月17日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , フィリピの信徒への手紙 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ルカによる福音書 , 使徒言行録 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「柔和な人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
マタイ福音書5章5節 「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」
【幸いな者とは】
イエス・キリストの語られたマタイ5~7章にある山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の三つ目、5:5「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」を今朝は学びます。イエスは3~10節で真に幸いな信仰者がどういう特徴、特質を持つ人かを八つの側面から描かれますが、その三つ目の特徴、特質が柔和ということです。
【柔和な人々は幸いである】
柔和な人々は幸い!しかし、これは当時の多くのユダヤ人たちに違和感を与えただろうと言われます。何故なら、紀元1世紀のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、それをユダヤ人たちは非常な屈辱と感じ、事あらば、武力に訴えてでもローマの支配をはね返そうという反抗心が常にくすぶっていたからです。
「世の中、何だかんだ言っても、力がものを言う。強い人間が勝って、得をするんだ。」これが当時の多くのユダヤ人が体で覚えた人生哲学でした。これは支配者であるローマ人にしても同じだったでしょう。「結局、力だ。強引さだよ。幸せになりたいなら、これだ。」
こういう考えは、今日にも見られると思います。確かに「人にも自然にも優しく」という言葉に見られますように、優しくあることの良さが、近年、言われ出しました。でも、根本ではどうでしょう。「ほしいものを手に入れたいなら、やはり力だ」という思いが根強いのではないでしょうか。しかし、人間とその永遠の運命をも全てご存じの神の御子イエスは断言されます。「柔和な人々は幸いである。」
「さらに愛し合う教会」 グラハム・スミスKGK主事/CMS宣教師
詩編133篇1--3
1:【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
2:かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
3:ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。
テサロニケの信徒への手紙一4章9--10
【1.愛がないと。】
(スキット:持ち物をめぐる争い)
先のふたりの間の会話と行動を見てどう感じましたか。びっくりしたでしょう。恥ずかしかったでしょう。気持ちがわるかったでしょう。
これはスキットに過ぎませんでしたが、残念ながら、日常生活ではこのようなことが繰り返して起こっています。家庭とか会社とか学校の中で似ている問題が起こっています。我が家では下の二人の子供の間では、本当につまらないことで争いがしばしば起こっています。「兄弟喧嘩」と呼ばれていますね。大人は子供よりコントロールができますから目立つ程の喧嘩にならない場合が多いですが、心のレベルでの戦いは態度や言葉使いなどによって起こります。
先のスキットのように、心の感情が外に出ると大変な経験になります。喧嘩の姿がばれるといやな気持ちがしますね。
教会のなかでも愛がないと本当に辛いです。メンバーに傷つけられたり、外への証のつまずきになります。そうならないようにパウロの言葉に聞きましょう。パウロは兄弟愛について語っています。
2006年10月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , ガラテヤの信徒への手紙 , コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テトスへの手紙 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「悲しむ人々は幸いである」 田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長
聖書:マタイ5章4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」
【悲しむ人々は幸いである】
今朝は、イエスの語られた山上の説教の冒頭の「幸福の教え」の二つ目に進みます。4節「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」
ここですぐ疑問が湧いてきます。「ちょっと待ってほしい。悲しみは不幸以外の何ものでもないではないか。何故こんなことが言えるのか。」恐らく誰もがこういう疑問を抱くと思います。
「悲しむ人々は幸い。」この逆説はどういうことでしょうか。イエスはどういう意味でこう言われるのでしょうか。
最初に一つのことを確認しておきます。イエスは悲しむ人の誰もがこうだと言われるのではありません。前回も申し上げましたが、ここの教えは皆、イエスを神の御子、また私たち人間を罪と永遠の滅びから救うことのできる、ただ一人の救い主と心から信じる真の信仰者、真のクリスチャンの幸いな特徴、特質を八つの角度から描いたものです。これはクリスチャンでない人たちを締め出すというのではありません。ただ、真のクリスチャンとはどういう人で、どういうことが真に幸いか、ということです。
次のような誤解もあります。これは世間にしばしば見られ、クリスチャンですら時に誤解しているものです。つまり、クリスチャンはいつも笑顔で明るいというものです。成程、教会へ行くと皆明るい。笑顔で挨拶し、爽やかな印象を与えます。「私はクリスチャンだから、人につまずきを与える苦しそうな暗い顔をしてはいけない。明るくなくては」と思って努力する人もいます。中には、常に明るいことを自分のトレードマークとし、他のクリスチャンにもそれを要求する人もいます。これでは、クリスチャンは悩んではならず、悲しむことはキリスト教信仰と相容れないみたいです。
2006年09月17日 | カテゴリー: コヘレトの言葉 , コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
神の手にいる ウイリアム・モーア
ヨハネによる福音書10章22−30節
【羊】
バイブル・クイズではないんですが、聖書の中でどんな動物が一番多く言及されていますか。牛ですか。ラクダですか。馬ですか。それともウサギですか。そうですね。その動物も聖書に載ってあるんですが、ある動物は遥かにもっと出て来ます。実は、今日の聖書の朗読は質問の手掛かりになります。やはり、聖書には全ての動物の中で、羊は一番多く言及され、羊という単語は500回以上の所に載ってあります。
羊はなぜ聖書にそんなによく出て来るものなのでしょうか。それは、聖書の時代のパレスチナの人々には日常生活を通してもっとも必要とする大事な動物であったからです。例えば、その毛で布を織って着物を作りました。その乳を飲み、何よりもその肉はおもな食肉となりました。そして、その皮までも色々なところで物を作るのに使われました。ですから、羊はお金のような物になって、何かを買う時、羊で払う事が出来ました。更に、人々は神殿で生け贄をする時、羊を捧げました。社会に羊はなくてはならないものでしたが、また何処にでもいる家畜でもありました。それで皆は羊の事がよく分かりました。誰でも羊の性格と特徴までも詳しく知っていました。ですから、聖書は羊と羊飼いをシンボルとして何回も、何回も用いています。
【主は羊飼い】
旧約聖書の詩編23編にはこの有名な御言葉があります。
「主は羊飼い、私には何も欠ける事がない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる。」
そして、預言者エレミヤを通して神はイスラエルの人々にこのように約束しました。
エレミヤ書23章3−4節「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れる事も、おびえる事もなく、また迷い出る事もないと主は言われる。」
イザヤ書40章11節にこの御言葉があります。
「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
このように、聖書には羊飼いを愛する神のシンボルに、そして、羊は神の民、私達を表します。
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2006年07月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マルコによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
愚かな者にならないように ウイリアム・モーア
聖書:詩編53編2-3
【愚かな者】
「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と」
と今日の御言葉、詩編第53編に記されています。それは新共同訳聖書ですが、1955年改訳聖書はこのようにヘブライ語の原文を翻訳します。
「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。」
「神を知らぬ者」と「愚かな者」、相違があるから、どちらが良い翻訳かを調べました。原文を見ると「愚かな者」が正しい訳と思います。つまり、
「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」
の方が原文により近いです。はっきり分りませんけれども、恐らく、
「愚かな者」
と言う表現はあまり強いので、新共同訳聖書は
「神を知らぬ者」
を用います。しかし、聖書には、神を知らない事と愚かな事は全く同じ意味になります。例えば、箴言にはこの御言葉があります。
「主を恐れる事は知恵の初め、聖なる方を知る事は分別の初め。」(9:10)
逆に言えば、「主を畏れない事は愚かである、神を知らぬ事は分別のない表れになります。」結局、聖書に於ける「愚かな者」と「神を知らぬ者」は同じ者です。しかしながら、ここでの「愚かな者」はばか者、あるいは白痴ではありません。ここでの愚かな者は、現実について大間違いをする人です。つまり、現実について間違った仮定のもとに自分の判断と行いを築く者です。
【神の存在を疑う愚かさ】
ですから、今日の詩編第53編によりますと、「神はない」と思う者は大変間違った仮定の上に現実を判断してしまいます。その故に、彼らは愚かな者です。神の存在はあまりに明白な事実ですから、「神はない」と主張する者の理解力が乏しいと言う意味です。詩編第19編はこの事について聖書の思想を明白に表します。
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話す事も、語る事もなく、声は聞こえなくても、そのひびきは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」
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十字架からの御言葉(その3):「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」 ウイリアム・L・モーア
ヨハネによる福音書19章23-27
【十字架上のお言葉(3)】
イエス・キリストの十字架からの御言葉を学び続けたいと思います。覚えていらっしゃると思いますが、主イエスは十字架に掛けられた間、御自分の唇から七つの大事な御言葉をおっしゃいました。私達は受難節の際にもうすでにその二つを覚えました。第一は赦しの言葉
「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」
そして、神はそのお祈りを叶えて、十字架の贖いを通して、御自分の御子を救い主として信じる者は、誰でも罪の赦しを与えて下さいました。
先週学んだ主イエスの第二の御言葉は永遠の救いの約束でした。傍らの十字架に掛けられた犯罪人は主に、
「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」
と心から願いました。その願いは悔い改めと信仰を表しましたので、イエスはこの素晴しい約束を彼にしました。
「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
その同じ悔い改めと信仰を表すならば、私達の為にも神は天国の戸を開いて下さいます。罪の赦しと永遠の救い。その二つの御言葉で、唯一の全能の神は私達の個人的、また、全人類の一番大事なニーズにお答えになりました。
【二つのグループ】
さて、十字架から第三の主イエスの御言葉の背景を見てみましょう。実は、今日与えられた聖句は著しい対照をなしています。と言うのは、主イエスの十字架の前で二つの全く違っているグループが立っていました。一方にはイエスを苦しませ、死刑を実行した四人の兵士達でした。そして、他方には主を誰よりも愛した五人がいました。
【兵士たちがしたこと:預言の成就】
先ず兵士達を見てみましょう。主イエスは四人組の兵士に付きそわれて、形場へ着くと,彼らは主を十字架に付けました。そして、当番で処刑の任務についたこの兵士達の役得は、受刑者の着けていた衣服でした。ユダヤ人は通常五種類の衣具をつけていました。サンダル、ターバン(すなわち頭に巻く頭巾)、帯(おび)、下着、それに外套。兵士は四人、衣服は五品目でありました。彼らは賽を投げてそれらの取りっこをしました。それぞれが自分に当たった物を取り、下着だけが残りました。それは縫い目がなく、一つ織りの物でした。それを四つに裂けば、勿体ないので、それが誰の物になるかを決める為に、もう一度、賽が投げられました。こうして、兵士達は十字架のもとで賭け事をしました。不思議にその事は旧約聖書の預言を成就しました。詩編に救い主についてこの預言があります。
「私の着物をわけ、衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:19)
神を愛する事 ウイリアム・モーア
【613の掟】 今日の御言葉によりますと、ある日、ユダヤ教の律法専門家がやって来て主イエスにこのように尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」その当時、律法はユダヤ教の中心になり、宗教の律法を守る事によって、信者は神を喜ばせようとしました。ですから、専門家達が律法を研究して、御言葉の中から613程の掟を見つけました。そして、その613の掟を「重い」、つまり重要なものと「軽い」すなわち、それ程大事ではない掟に分けました。マタイによる福音書22章34-40 ◆最も重要な掟 34:ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35:そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36:「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37:イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38:これが最も重要な第一の掟である。 39:第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40:律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
またある学者によりますと、律法を重いものと軽いものに分けてはいけない事だそうです。なぜなら、もし神から授けられたものだったら、全ての掟は同じく重要であり、従わなければならないものなのです。ですから、律法を区別する事は神に対して罪になります。ユダヤ教の学者達がこの二つの立場を激しく議論しましたけれども、なかなか決定する事が出来ませんでした。
【最も重要な二つの掟】
恐らく律法の専門家が主イエスをこの問題に巻き込む為、また、試そうとして、
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」
と聞きました。そして、イエスは迷わずにはっきりとこのように答えられました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
主イエスのお答えは真に素晴らしいものでした。その二つの掟に神の全ての律法が纏められています。何故なら、もし神を本当に愛するならば、真の神をおいて他の神を拝まないし、神の名をみだりに唱えません。また、神を愛する者は安息日を心に留め、聖別します。同様に、もし隣人を愛するならば、もちろん隣人を殺さないし、その物を盗まないし、彼に関して偽証などをもしません。つまり、愛の掟に従ったら、神の御旨に従って生きる事が出来ます。
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」
と主が言われました。もし心からこの二つの掟だけを守ろうとしたら、同時に残りの611の掟も守る事になります。
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賢い者として新年を歩みましょう ウイリアム・モーア
エフェソの信徒への手紙5章15-17
讃美歌 15
【評判の良くない兄弟】
ある町に二人の兄弟がいました。その二人は双子のようにとても仲良く、いつも何でも共にしました。兄弟の仲は良いですけれども、町での評判はあんまり良くありませんでした。飲み過ぎて人と喧嘩したり、乱暴な言葉をよく吐きました。そして彼等はお金があったのにも係らず、あちこちで勘定をためて、なかなか払いませんでした。更に、自分の会社の従業員を厳しく扱いましたので、皆に嫌われていました。
ある日、兄弟の一人が急に病気で亡くなりました。そして、残った一人は町の教会へ行ってお葬式の為に牧師と相談しに訪ねました。彼は、牧師に一つ頼みがあると言いました。それは「お葬式の時、是非兄を『聖人』と呼んで欲しい。そうすると、家族に大きな慰めになるから」と頼みました。牧師は、「それはちょっと難しいですよ。町の人は皆、お兄さんの事をよく知っていますから、『聖人』と呼んだら笑われるかもしれません。しかし、弟は願い続けて、「お願いだ。お葬式の時、兄を聖人と呼んで下さい。そうすれば、教会に$1、000献金します」と約束しました。
仕方なく、牧師はお葬式の時、そうする事にしました。そして、お葬式の際、牧師は立ち上がって、皆の前でこのようにお話をしました。「故人は乱暴で、長い間我々の町に迷惑ばかり掛けました。その上、勘定も沢山残して亡くなりました。しかし、とても嬉しい事ですが、故人について少なくとも一つの良い事を言えると思います。それは、弟さんに比べると故人は本当に聖人だったと正直に言えます。」
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2006年01月01日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
「死を覚え、よく生きる」淀川キリスト教病院伝道部長・田村英典牧師
聖書:詩編90編12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
「生涯の日を正しく数えるように教えてください」
今朝は「死を覚え、よく生きる」と題して、一時お話させて頂きます。
先程、お読みしました詩編90編12節に「生涯の日を正しく数える」とありますが、死で終る自分の人生の残りがどれ程かをしっかり心に留めるという事でしょう。作者はそのように自分を「教えて下さい」と神に祈るのです。ではそれは何の為でしょうか。
「知恵ある心を得る事が出来る」為だと言います。
「知恵ある心」とは、神の御前で自らの一生を真に意味あるもの、そして終には永遠の天の御国に入れる心と言えましょう。
特に人生最後の時、「辛い事も悲しい事も沢山あったが、生きてきて良かった。感謝です」と、神にも人にも自分にも言う事が出来、平安と感謝の内に天国に召して頂けるような心のあり方でしょう。
注目したいのは、自らの死を覚える事と、真に意義深い人生を送る知恵ある心を得る事が、密接不可分な関係にある事だということです。
2005年08月28日 | カテゴリー: フィリピの信徒への手紙 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇
川の方が良い ウイリアム・モーア
聖書:詩編46篇
【四万十川】
先々週、木曜日と土曜日に、四国で二つの学校の理事会がありました。その間の金曜日が暇になりましたので、高知県の四万十川を私のゴム・カヤックで下りました。実は、去年から、「日本の最後の清流」と呼ばれる四万十川を下りたかったのです。去年の秋、会議の帰りに一度川を調べに行きました。山の奥の源流から河口(かこう)までの196キロの全長を車で辿りました。そうすると、四万十川の美しさが分かりました。工場や大きな町がない田舎の田舎ですから、大自然が奇麗に残されています。しかも、川は山地を流れているので、景色はすごく美しいです。その時から、私の気持ちは近いうちに四万十川を下ろうと強くなりました。
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2005年07月17日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 旧約聖書 , 詩篇
神と津波 ウイリアム・モーア宣教師
詩編34編
2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。
5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。
7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。
8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。
9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。
【巨大津波】
一人残らず、私達はこの間の恐ろしい津波の事でぞっとさせられたと思います。このところ毎日、テレビを通してその生々しい現場が見られ、私達の想像を超えた津波の破壊的力に驚くばかりです。現場から遠く離れていても、被害統計を聞くと、津波がもたらした災害の範囲が分かってきます。死者は15万人以上、家族のメンバーを無くした者と怪我人は数十万人、住む家を失った人は5百万人、職場を無くした人は数百万人、そして飢えている人は2百万人程です。国連によりますと、今回の自然災害の被害の程度は60年ぶりだそうです。津波の為の精神的と肉体的の苦しみはきっと私達の想像を超えるものです。
【神は何故】
その災害がもたらしたひどい悪に対して、多くの人はこのような質問を聞いています。もしこの世と宇宙を創造された神が愛する全知全能の完璧な神であるなら、いったいどうして津波のような大きな災害を許すのでしょうか。本当に力があるなら、善い神は御自分の被造物をそのような非常な災いから守るべきではないでしょうか。
ある人は神を弁護するかのように、こう語ります。「神には力があるんですが、津波までは足りてないのです。神は実際に全ての悪をこの世から除去したいけれども、地震や津波のような自然災害の場合は神の手におえません。」
その反対に、ある人は神の全能を認めますが、神の善と愛を疑います。すなわち、「主は実際に天地万物を治める力がありますが、ただ巨大な宇宙の中にいる小さい私達までは忘れているのです。」あるいは、「神は私達を見るのですが、哀れみをあんまり感じてません。」
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