2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生
2013.4.28.説教「羊の為に命を捨てる良い羊飼い」赤石めぐみ先生
新約聖書、ヨハネによる福音書10章7~18節
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
説教要約(文責近藤)
【私は有るという者】
他の福音書には見られない「わたしは良い羊飼いである」という御言葉は神学的に練られた言葉であってユダヤ人、パリサイ派の人びとと言った旧約聖書に精通した人に語られた言葉ではないかと思います。
ヨハネの福音書には「私は・・である」と主イエスは御自身を語られることがよくあります。「わたしは良い羊飼いである」、「私は命のパンである」などなど。
英語では「I am・・」。聖書の書かれたギリシャ語では「エゴ(我」エイミ(有る、存在する)」です。
神様が御自身を「私は有るという者」だと御自身の名前を最初に明かされたのは旧約聖書の出エジプト記3章にある芝の書でモーセを召しだされた記事に出てきます。
モーセが民に「神様、あなたの名を民から尋ねられたら何と答えればよいでしょか」と主なる神様に言いますと、神はモーセに『「私は有る」という者』だと言われました。
「私は・・である」と言われたイエス様が神様を示す「私は有る」という者だと、すなわち主イエスは神と同じだと語られたのです。
【良い羊飼い】
「良い羊飼い」とは「良い牧者」とも言われます。詩編23篇にも「主は羊飼い」とありますが、今日は旧約聖書エゼキエル書34章の預言から主イエス様が御自身を「良き牧者」と言われた旧約聖書の御言葉の成就について語ります。
旧約聖書エゼキエル書34章
11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。
13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。
16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
17 お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。18 お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。
19 わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。
20 それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。21 お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。22 しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。
【イスラエルの偶像崇拝と民の指導者】
ここに「良い牧者」が語られる。
民の指導者が偶像礼拝に陥り神殿の中には偶像がはびこっていたことに神の怒りが落とされイスラエルは北も南も滅ぼされました。
当時のイスラエルの指導者はどんな悪事を働いたかエゼキエル書34章2~10節に「イスラエルの牧者」と言われ次のように語られている、
2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。
3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。
4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。
5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。
6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。
7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。
8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。
9 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。
10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
4~8節にあるようにイスラエルの指導者、牧者は羊である民を養わず「まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」と言われる。
今日与えられた御言葉のヨハネ10章8 では「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」と主イエスは語られる。
私より前に来た牧者は、宗教指導者も王も盗人であり、強盗であると主は言われる。ここに人間の牧者たちの姿があります。
彼らは羊の群れを散らし失わせ傷つけるのです。それでも羊は牧者に付いていくしかない。
【主なる神は世の牧者たちに立ち向かう】
神はご自分の民がこのような牧者にさらされ導かれることに耐えられません。
そこで主イエスが遣わされたのです。
ヨハネ10章10節後半「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われます。
エゼキエル書34章後半で神は「私はイスラエルの牧者に立ち向かい彼らから羊の群れを取り戻す」と言われます。
「10 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。」
主なる神がその羊である民を牧すること、この良い牧者こそ主イエスであると御言葉は言うのです。
神とイエスは違うのではないか?と疑問に思われるかも知れません。
ヨハネ福音書10章27節以下でユダヤ人に主イエスは答えられています、
「27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。28 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。
29 わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。
:30 わたしと父とは一つである」。
「 わたしと父とは一つである。」と。「私がそれである」と。
あのエゼキエル書で預言された、あの良い羊飼いこそ私であると主イエスは言われた。
確かに主イエスが言われたことは旧約聖書の助けから分かりますが、主イエスが言われるのはこの程度の読みでは終わりません。
【良い羊飼いは羊の為に命を捨てる】
「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」と言われます。
この命を捨てると言う言葉は旧約聖書の何処にあるでしょうか。
ユダヤ人には羊の為に命を捨てるとは尋常ではないと考えられたが、イエス様の読みの深さはもう一度エゼキエル書34章から気づかされる。
旧約聖書エゼキエル書34章22~23節「 22しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。23わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。
ここに「一人の牧者を起こし」という言葉に注目してください。「起し」これは原語で「復活させる」と同じ言葉であります。復活させられるためには神の群れを救うために死ななければならない。「群れの為に命を捨てる良い羊飼い」がここに預言されています。
ゼキエル書34章22 節と23節との間の言葉の意味を主イエスは読み取られたのです。「良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」のです。
私たちが従うべき良い羊飼いは主イエス御独りです。
【西谷の牧者】
西谷からモーア先生が去られるので西谷に牧者がいなくなる心配が皆さんにおありかも知れませんが今日伝えたかったことは真の牧者はイエス様御独りであると言うことを信じたいのです。
主のお声は小さく聞き分けにくいですが羊の為に命を捨てる良い牧者イエス様を信じて行きたく思います。主の御声を聞くとき他の悪い牧者に付いていくことはありません。
また西谷にも囲いの外にいる多くの羊がいると思います。そのような羊とも一緒になって主の民を養う牧者が与えられることをお祈りいたします。(おわり)
「主イエスを信じて死ぬ幸い」 宝塚教会牧師 国方敏治
ヨハネ福音書11章17-44節
◆イエスは復活と命 17:さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18:ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19:マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20:マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21:マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22:しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23:イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24:マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27:マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 ◆イエス、涙を流す 28:マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29:マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30:イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31:家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32:マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33:イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34:言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35:イエスは涙を流された。 36:ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37:しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 ◆イエス、ラザロを生き返らせる 38:イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39:イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40:イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41:人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、 わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42:わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43:こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44:すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
【死は幸い?】
私たちにとって「死」とは、死ぬ事は最大の不幸、最大の災いと考えられています。
けれども、聖書には「今から後、主(イエス)に結ばれて死ぬ人(死人)は幸いである」(黙示14:13)と言われています。教会やキリスト信者の葬られた墓の墓碑に、しばしばこの御言葉が記されているのを見るのです。では、死が幸いであるとは、どういう事か。今朝は、この驚くべき福音の言葉を共に聞き取りたいと願っています。
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