2016年2月7日説教「神の言葉は滅びない」金田幸男牧師

説教「神の言葉は滅びない」 

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聖書:マルコによる福音書1328~31

28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

要旨

 【いちじくの葉が出る頃】

いちじくの木はパレスティナでは大変よく知られた果樹で、ぶどう、やし、ざくろと並んでその果実はよく食用に供されています。もともと小アジア原産でしたが、古くから移植され、広く栽培されていました。果実は生のままか、乾燥されて食べられていました。熱帯では常緑樹なのですが、山地では冬(12月ごろ)、葉が落ち、早春の3月ごろ、小枝の先に小さな緑のこぶしができ、そこから葉が出てきて、その葉のところに青い実がなり、夏ごろ急激に大きくなって食用になります。

 

いちじくは聖書にもしばしば登場しますが、マルコ2-14,20-22に出てきます。そこでは実がなかったためにイエスに呪われて一晩で枯れてしまった木のことが記されていました。

 

【エルサレム神殿崩壊とこれらのこと】

ぶどうはしばしばイスラエルを象徴し、神の豊かさを表わすものとして描かれますが、なぜかいちじくの木は神の裁きと結び付けられています。想像をたくましくすれば何か言えるかもしれませんが、ここからだけではその理由は分かりません。植物は季節に敏感です。自然現象を見て季節の変わり目を知るという農民や漁師の感覚を私たちは驚きをもって経験します。いちじくの葉が伸びてくると夏が近いと悟る。そのように「これらのこと」を見たら、人の子が戸口に立っていると悟れ。この「これらのこと」が何を指しているのか、という問題があります。この主の言葉が語られて40年後のローマ軍によるエルサレム、その神殿の破壊を指しているとする考え方もありますが、ここはそれも含めて、キリストがすでに語られた苦難を指していると見たほうがよいと思われます。   

 

【人の子の来臨】

戦争、飢饉、地震、迫害、内部告発などキリストの弟子たちが味わうであろう苦難のすべてが起きるのを目撃したら、人の子の来臨の近さを知りなさい。キリストはこのように言われたと解釈されます。

 30節を見ますと、はっきり言っておく、という主の言葉がでてきます。主が来られる終わりのときの接近に当たって、私たちはどういう姿勢、態度を示すべきなのか。このはっきり言っておく、という言葉をキリストはしばしば用いられますが、このことは重要だから決して軽く見ないようにという警告を含みます。アーメン、然り、わたしはあなた方に言う。キリストは厳かに命じられます。しかし、それはまた、聞くものがおうおうにして軽く評価をしているということを意味します。

 

キリストが言われていることは重視せず、どうでもいいことに時間を費やし、精神力を消耗するのがつねです。主の来臨、接近を私たちは軽々に判断してはならないのです。

 

【人の子が戸口に立っている】

 人の子が戸口に立っている。このキリストの来臨の言葉は聖書のほかのところでも出てきます。

 

ヤコブ書5:7-9「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。」

 

【忍耐していなさい】

主が来られる。そのために忍耐していなさい、とヤコブは命じます。忍耐とはただ我慢のことではありません。動揺せず、神を信じ、心を堅く保つことを指しています。ここでは、主の来られるときとは終わりのときを指していることは明らかです。主が終わりのときに再び私たちのところに来られるという事実を、戸口に立つと証言されます。

 

【悔い改めよ】

終わりの日を直接指しているわけではありませんが、ヨハネの黙示録3・19-20では、「悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と語られています。

 

主が来られるときの私たちの備え方は悔い改めだと言われます。このように、主が近いという事実を前にして、私たちはもっともっと真剣にならなければならないのです。

 

 これらのことはみな起きるだろう。しかし、これらのことが起きるまで、この時代は決して滅びない。この主の言葉には二つのことが含意されます。ひとつは、終わりがくるまでこれらの災難、苦難、危機、困難はまだまだ起きるという警告と取ることができます。キリストは弟子たちに、終わりのときがまだ来ていない以上、神の民を襲う苦難はまだまだ続く。そのように言われます。だから苦難を避けることはできません。それはいつまで続くのか誰も分かりませんが、それまでは災いは終わることがない、そのように覚悟をしなければなりません。これでもか、これでもかと災いは襲ってくる。これが現実でもあります。

 

【滅び】

 もうひとつの点は必ず終わりが来るという予告です。すべて計画されていることは実行されます。実行されるべき計画が終われば必ず滅びがきます。

 

 滅びとは何でしょうか。私たちは存在しています。私たちがここにあるということは自明の真理で動かしがたい真実であると私たちは思っています。ところがどうなのでしょうか。存在しているこのことほど脆いものはないのではないでしょうか。存在するものは何かの上に存在している=立っていると言うことができると思います。エルサレムの壮大なヘロデが建てた神殿は大きな基礎の上に建てられていました。その土台の上の神殿は不動のものと思われていました。しかし、それは簡単に倒されます。存在しているものは、実は危うい基礎の上に建てられているに過ぎません。

 

【私たちの存在の基盤】

わたしはここにある。存在するものはそれ自体存在している。何ものにも依存していないと思っていますし、そう確信しています。それは反面、事実です。しかし、その基礎はあっけなく崩壊してしまいます。この世界は何の上に建てられているか。私たちは大地の上にしっかり足を踏ん張っているように思います。都市はしっかりとした地盤のうえに建てられたと思っています。ところがあっけなく崩れます。地震は来て大揺れにゆり動いたものは崩壊します。大地という基礎はさほど堅固ではなかったということです。私たちの人生もそうです。私たちの人生は基礎の上に建てられています。資産、学歴、健康、良運、人間関係、その他の人生にとって基礎と思われるものが多くあります。そのような基礎の上に立てられた私たちの人生は堅固そのものと思いますが、それは錯覚に過ぎません。その基礎はそんなに強固ではないのです。人生を強固としていたものは一夜にして失われます。

 

 滅びとはその基礎を失うことです。神はこの世界の基礎を失わせます。終わりの日に起きることです。終わりの日とはこの世界を成り立たせていたものはことごとく失われ、存在していたものがもはや存在できなることを意味しています。あらゆるものは失われるときが必ず来ます。それが終末です。

 

【最後の審判】

 終わりが来たら一切は消滅します。存在していたものはことごとく失われます。終わりとはそのように思っている人が多いのではないでしょうか。まさしく、終わりとは存在していたものが存在しなくなること。それはゼロに帰することなのだ、何もなくなることだ、というふうに考える人が多いと思います。

 この世界の終わりとは何もなくなること。そういう観念はどこから来たのでしょうか。それは滅びに対する誤解です。根拠がありません。滅びは神のさばきが行われることであり、恐るべき審判の行われる日であるという理解は間違っていません。しかし、それだけなのでしょうか。

 キリストはこの世界はことごとく滅びると宣告されます。同時に、「わたしの言葉は滅びない、決して滅びることはない」と断言されます。

 

【新しい創造】

 キリストの言葉とは単なる音声ではありません。語られたことは必ず実現するという言葉です。終わりの日に一切合切終わり、何もなくなるというのではありません。終わりの時、キリストが来られる時、天と地は全く新しくされます。終わりではなく、新しい創造が起きるのです。すべてが刷新されます。終わりの日はこのまったく新しい天地の始まりでもあります。終わりの日はそれで究極の終末というわけではないのです。イエス・キリストが約束されたことはことごとく成就します。キリストが予告されたことはすべて実現します。神の主権と威厳は完全に回復し、神の栄光が明らかになります。死んだものも生き残っていたものも、すべての神の民が結集されます。

 終わりの時、世界は一新されます。キリストの言葉は滅びてしまい消滅するようなことはありません。

 

【私たちの人生の終末】

 そして、大切なことは、世界の終末を考える場合、私たちの終わりも考えるべきだということです。この世界が終わるように、私たちの人生も終わります。私たちの死はあらゆる意味で終わりを意味するのでしょうか。死をそのように受け止める人のなんと多いことでしょうか。死はあらゆる意味で終わり。それで終結。後は何にもない。しかし、このような死生観を持っている人はそれを証明できたわけではありません。それは根拠のない話です。

 

だれが死んでしまえば一切おしまいといったのでしょうか。根拠なしにそう思っているだけです。イエス・キリストは「わたしの言葉は滅びない」。つまり存在を失うのではないと言われます。キリストはおられる限り、私たちは滅びることはありません。存在しなくなるわけではなく、それどころか、終わりの時は新しい始まりとなります。

 このようなことは信じるしかありません。終わりの時はいつか分かりませんが、今から言えば、まだ将来のことですし、未来のことは誰にも分かりません。私たちはただキリストのみ言葉を信じるだけです。信仰とはまさしく信じるだけなのです。(おわり)

2016年02月08日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

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