2016年2月28日「過ぎ越しの食事」金田幸雄牧師
160228_001(変換後)(変換後)(1).mp3 ←クリックで説教が聴けます12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
説教「過越の備え」金田幸男牧師
聖書:マルコ福音書14章10-21
要旨
【ユダの裏切】
14章10-11に、イスカリオテのユダがキリストを裏切って祭司長や律法学者たちの手に渡そうと決心したことが記されています。なぜユダがキリストを裏切ろうとしたのか。今までいろいろな説が語られてきました。しかし、謎のままです。いろいろな憶測はあります。例えば、ユダはキリストのユダヤの社会改革運動に期待していたのだ。今や、エルサレムに多くの民衆の歓呼も受けて入城した。ところがキリストは立ち上がろうとしない。ユダは期待を裏切られと思い、その不信感からキリストを裏切ったのだというのです。
けれども、ユダがそのような革命思想を抱いていたという証拠はどこにもなく、まして、彼がキリストにそんな期待を寄せていたという痕跡も見いだされません。また、お金が欲しかったからだという説もあります。ベタニヤでラザロの姉妹マリヤが300デナリオンの香油を惜しみなく注いだとき、ユダはクレームをつけました。福音書記者のヨハネは、ユダがイエスの弟子たちの財布係をしていてその中身をごまかしていた。そのようにお金に『汚い』性格の人間だからマリヤの行為を批判したと書いています。そこから、こういう説が出てくるのですが、イエスを裏切って得た収益は銀30枚でした(マタイ26:15)これではあまりにも金額が低すぎます。銀30枚は30デナリオンに相当しますが、自分の師を売渡すにはあまりにも少額です(30万円そこそこ)。
マタイ26章では確かにユダから祭司長らに申し出た金額のように書かれてありますが、ユダにはこの金額でなければならない必然性はなさそうです。結局のところ、ユダがなぜキリストを裏切ったのか福音書記者には分からないのだと思います。ヨハネは「ユダにサタンが入った」と表現しますが(13:27)、この表現が具体的にどういうことなのか分かりません。むしろ、誰もユダの内心をはかることができなかったので、このような曖昧な表現となったのではないかと思います。
ただ、分かることは、祭司長や律法学者たちは過ぎ越しの期間では、イエスを捕らえて殺そうとする計画は騒ぎになるおそれがあるので実行を延期したのですが、ユダのこの決心で事態が変わった。つまり、キリストの十字架へと、人間の企てや思いを越えて、神の計画が実行されようとしています。キリストの苦難と十字架は不可避です。ユダの裏切りもその一つの要素です。
【過越の小羊が屠られる日】
12節から、もう一つのことが記されます。除酵祭の第一日、過越の小羊が屠られる日とあります。正確にはこの二つの日付にはずれがあります。過越はユダヤの暦ではニサンの月(太陽暦では3月もしくは4月)の15日に行われます。
【過越の小羊】
過越の祭とは、過越の食事を取ることが主なる行事でした。過越の食事では、小羊の肉、イースト菌の入っていないパン、ぶどう酒、苦菜のはいったスープを食べることになっています。メインは、過越の小羊で、小羊は前日のニサンの14日に屠られることになっていました。ユダヤ人ならば必ずこの食事をとらなければなりませんでした。その上、エルサレムに上ってくる巡礼の場合は、エルサレムの城壁の内側で過越の食事をしなければならないという習慣もありました。ところが、ニサンの14日になっても、キリストが過越の食事について何も指示していなかったと思われます。弟子たちは業を煮やして、いったい今回の過越はどうなるのかと心に焦りを感じて、キリストに問うたのだと思います。弟子たちはエルサレムの住民ではありません。早く場所を確保しなければ過越を守れなくなる可能性があります。それは信仰厚いユダヤ人の弟子たちにしてみればあってはならないことです。
キリストはこの弟子たちの心の動揺をご存知であったと思われます。二人の弟子をエルサレムに派遣したことが記されます。都に行け。そこで水がめを持った人に出会う。実は水がめを運ぶのは女性の仕事であったとされています。男性が水がめを運ぶことはまれでした。町に入ればすぐその人であることが分かります。その人の後をついていったら、過越の食事をするべき部屋の家の所有者に会える。そこで準備万端整えよ。このような指示を与えられました。この一連のキリストの言葉は一種の予見だという見方もできます。しかし、ここはそのように考える必要はないと思います。キリストは予め手はずを整えておられたと考えらます。つまり、この準備に特別奇跡的要素はないということです。
キリストは弟子たちには知られないように、過越を支障なく行えるように準備をされたのです。キリストご自身が過越を是非とも守ろうとされたのです。このたびの過越はいつもの過越とは異なって、キリストが率先して是非とも弟子たちと共に守ろうとされたのです。
なぜ、そのようなことをされたのか。過越はなぜ守らなければならないのか。それは単なる行事とか儀式ではありません。行事とか儀式というと何か軽く扱われているように思います。しかし、どのような宗教にでも行われている行事、その中には祭りも含まれます。また儀式には祭儀と言われるものも含まれます。これらは過去にあったことをつねに想起するという意味が含まれています。過去にあったことはそれだけではなく、未来にも起こるという期待を伴います。ですから、行事や儀式は宗教にとって極めて大きな意味を持っています。イスラエルの場合も同じでした。
【出エジプト最大の禍:最初に生まれた男子は死ぬ】
イスラエルはエジプトでは奴隷状態のなかで苦しめられていました。その時、神はモーセを立ててイスラエルの民を解放しようとされます。モーセはエジプトの王ファラオの前でさまざまな奇跡を行って見せますが、ファラオは心を頑なしにし続けて、モーセの要求を拒否し続けます。ついにモーセは神の最後の命令を伝えます。その夜、エジプト中を、災いを下すみ使いが駆け巡る。その時、小羊を殺してその血を玄関の鴨居に塗りつけてある家を災いは通り過ぎていく。しかし、それをしていない家では、人間だけではなく、家畜に至るまで、最初に生まれた男子は死ぬ。出エジプト記12章12-36節に記されています。そして、この過越を覚えるために、イスラエルでは例年、過越の小羊を屠ってこれを食べるように命じられます。その都度、イスラエルは、神がエジプトで先祖たちに何をなされたのか思い起こしたのです。単に過去を想起するだけではなく、神を信頼する民にはかつてと同様に神の救済のわざにあずかれると確信したのです。
過越はイスラエルの人々にとって救いの神を思い起こす機会となりました。神は決してイスラエルを忘れられない。頼るものを神は必ず守られる。その証拠が何よりも出エジプトの出来事であったのです。
イエス・キリストは過越を特に守ろうとされたのは、一般のユダヤ人がしているような習慣の遵守のためではありません。明らかに間もなくご自身の上に起きる受難、特に十字架の死と、過越が示している意味を結びつけるためでした。どちらも、犠牲によって災いを受けなくされるという点で共通しています。キリストは過越の小羊のように殺されます。しかし、それによって、神は罪のもたらす最高の災いである滅びから私たちを救われるのです。キリストはご自身が過越の小羊として殺され、それによってすべての罪人を救われようと願われたのです。
旧約聖書はこの点で新約聖書と密接に結びつきます。旧約聖書のないキリスト教はありえないのです。旧約聖書から使信を引き継いで新約の喜ばしい知らせがあるのです。だから、キリスト者は旧約聖書から救いの希望を聞き取ることができるのです。
キリストが過越を弟子たちと共に守りたいと願われたもう一つの目的があったと思います。先に遣わされた二人の弟子たち(ペトロとヨハネ ルカ22:8)は食事を整えます。食事に必要な食材とそれから、クッションとかテーブルなども用意されたはずです。ニサンの15日は夕方から始まります。二人の弟子はベタニヤまで急いで戻ったか、それともキリスト一行を待ったのか分かりませんが、過越は、ニサンの15日が始まる日没後、ただちにかあるいは深夜までの間に行われることになっていました。
【裏切り者ユダ】
イエス一行は準備された家の二階間に到着し、早速過越の食事を開始します。その時、キリストは裏切り者のことを持ち出されます。このところを読んで誰も不思議に思うことが、これだけはっきりと裏切りと言う事実がすでにおきていること、そして、キリストはイスカリオテのユダに向って裏切りのことを分かっていると言われているのに、弟子たちはそれが誰のことをいっているのか分からなかったという点です。ここでもやはりキリストの弟子たちはイスカリオテのユダの心に入り込んだ裏切りを悟ることができなかったということを示しています。彼らはユダの内心を彼のそぶりからは知ることができなかったのです。
イエス・キリストはそのユダを過越の食事に加えておられます。ここまで分かっているのであれば、ユダの参加を拒んでもよかったのではないでしょうか。いっそのこと、裏切り者がユダであると名指ししてもよかったのではないでしょうか。なぜそれをされなかったのか。
キリストはユダに翻意、つまり、最後の悔い改めのチャンスを与えようとされているではないかと思います。すべての計画は進行中です。それは神の計画です。ユダの裏切りもその中の一環です。それなのに、キリストは過越の食事を共にしようとされています。過越の意味は無論ユダも承知していたはずです。小羊の血と言う犠牲によって罪のもたらす災いを避けることができる。ユダは裏切り者、そのままであれば、この世に生まれてこなかったほうがその人のためといわれる大きな罪です。しかし、その罪をも許すことができるのは神の子キリストの尊い十字架の血、その犠牲なのです。キリストは最後の最後までユダに心を入れ替えることを求めておられます。(おわり)
2016年02月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1106
コメントする