2016年2月14日説教「目を覚ましていなさい」金田幸男牧師

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マルコ福音書13章32~37節
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説教「目を覚ましていなさい」

聖書:マルコ13章32-36

 

要旨 

【神殿の崩壊はいつ起こるか】

 イエス・キリストがオリーブ山で弟子たち、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人(13:3)に語られたいわゆる「オリーブ山説教」を4回にわたって学んできました。今回で5回目になります。オリーブ山説教の主題は、4人の弟子たちが「そのことはいつ起こるのか」という問いに対する答として語られたものです。「そのこと」とは、イエス・キリストが語られた神殿の崩壊(3:2)を指しています。

 

しかし、キリストはエルサレム神殿の崩壊だけを語られたのではありません。それは、終わりのときの予兆の一つだとされます。戦争、飢饉、地震、そして、迫害、内部の争いといった艱難は終わりの日の前に起きます。それらの艱難の一つがエルサレム神殿の破壊なのです。弟子たちは、いつエルサレムが滅ぼされるのか、と問いますが、エルサレムの崩壊は神がこの世界を滅ぼされる終わりの日を予兆するものなのです。

 

【主イエスの再臨】

 終わりの時に起きるのは、人の子の来臨です。第1回目の来臨はベツレヘムの馬小屋でした。しかし、第二回目の来臨(再臨)は栄光と力を持って来られます。それはさばきの日でありますが、また、新しい世界が完成するときもあります。

 

 その日はいつ来るのか。弟子たちの関心事はそこにありましたし、この個所を読むものすべてにとっても大いに興味を引く問題です。いったいその日はいつなのか。聖書をあちらこちら引用し、終わりの日を西暦何年何月何日と正確に日を預言する人たちがいますが、キリストご自身がその日がいつかは誰も知らないと言います。ここでは、天使も御子も知らないと記されますが、使徒言行録1:6-7では新しいイスラエルの再建あるいは神の国の完成のときについては誰も知らない、ただ、御父だけがご存知であると語られています。

 

【神の子の受肉】

 御子が知らないということに躓きを覚える方がいるかもしれません。神の子であるはずのイエス・キリストが知らないはずがない、知らないのは神の子ではないからだ、という主張ですが、これは受肉の教理に対する誤解から来ています。

 

受肉とは神の御子は私たち人間と罪を除いては全く等しいものになられたという教説です。クリスマスにはこのことが繰り返されます。御子が私たちと全く同じになられたということは、私たち人間が終わりのときを知らないという限界まで同じになってくださったという意味です。それほどまでキリストはへりくだってくださいました。私たち人間の知識の限界まで身を低くしてくださいました。だから、キリストがその日を知らないとしても不思議ではありません。

 

【どう備えるか】

 誰もその日は知らない。でも終わりの日は必ずやってきます。だからどうすればいいのか。どういう備えをすべきなのか。誰も将来のことは分かりません。数時間先のことも知らないのです。だから、先のことなど考えてもしかたがないと諦め、終わりの日に関して思考停止にする人の何と多いことでしょうか。しかし、知らないから思考停止にすることは正しくありません。

 

キリストはたとえその日がいつか分からなくても、相当の準備をせよといわれます。大抵の人は備えなどしないままに日を過ごしますが、終わりの日は必ずあります。初めがある以上終わりもあるからです。終りのときが来ないなどということは誰も断定できない真理です。終わりは必ず来ます。それがこの世界の冷徹な真実です。この厳かなキリストの預言を軽く見ることは決してできません。それほど重大問題です。

 

【旅に出る主人の譬え】

 そのために、キリストは譬えを語られます。それは旅に出る主人の話です。この主人はたくさんの使用人(奴隷)を抱えていました。当然大きな邸宅の持ち主でもあったと思います。彼は長い旅に出なければなりませんでした。そこで、家人に仕事を割り当て、責任を課します。それはただ厄介な重荷を与えるということだけではなく、使用人を信頼しているから仕事を割り当てたのです。

 

そして、門番には特に厳重に命令を与えます。当時、物騒な世の中でした。特に強盗は厄介でした。そのためにしなければならないのは厳重な戸締りです。扉をしっかり閉じておけば強盗団は侵入できません。しかし、門番は、主人が戻ってきたらすぐの扉を開かねばなりません。戸締りをするのはいいのですが、主人が帰ってきたとき門を開けられないでは困ります。当時、旅人が夜に行動することは珍しくありません。季節によりますが、夏などは日中の日差しを避けて夜に行動するほうが少々危険があっても楽でした。主人は夜に帰館することは大いにありえました。

 

【門番の務め】

 門番は盗人が侵入してこないように寝ずの番をしなればなりませんでした。そして、主人が帰ってきたら家のものを起さなければなりません。主人が帰ってきたときに寝込んでいたら懲罰をこうむるに違いありません。このように門番は大変重大な仕事を課せられたということになります。

 

ここで、夕方、夜中、鶏の鳴くとき、明け方という言葉が並んでいますが、これはローマの夜の時間の区分を指します。鶏が鳴く時間とは午前3時か4時ごろだろうと思います。夜明けは、5時か6時ごろになるでしょうか。ローマ人は夜を等分に分割していませんでした。朝方のほうが短時間になります。そして、この時間の節目に夜の警備兵が交替します。このような習慣が民間でも採用されていたということでしょう。門番は、このように時間の区切りで交替します。朝方のほうが短時間であるのは合理的です。朝方のほうが眠気に襲われやすく、そのために時間が短くされていました。任務に当たる門番はその間は緊張して待たなければなりません。その間眠りこけていることは許されません。

 

 主人が帰ってきたら大声で他のものを起こします。こうして全員で主人の帰りを喜びます。

 以上が譬えの内容です。私たちはこの譬えから何を学ぶのでしょうか。

 

 門番が私たちを表わしていることは明白です。門番は緊張して待たなければなりません。緊張して待つというには並大抵のことではありません。わたしなど待つのが大いに苦手とします。特に、大きな病院で待たなければならないのは苦手です。予約制になっていても自分の名が呼ばれるまで待たなければなりません。その間本で読めればいいのですが、いつ名を呼ばれるか分かりませんので、何もできず、ひたすら待たなければなりません。この間の長い時間の感覚にうんざりします。待つことは骨が折れるものです。けれども、待たなければなりません。

 

いつ終わりの日が来るのか私たちには知らされていません。だからその日に私たちの名が呼ばれたときいつでも返事ができる準備が必要です。

 

 使用人たちも割り当てられた仕事をまっとうし、責任を果たしておかなければなりません。いつ主人から呼び出され、その仕事の成果を報告できるようにしておかなければなりません。一番してはならないことは怠慢です。仕事を怠り、仕事を忘れてしまえば厳しい懲罰を受けること間違いありません。奴隷ならば主人が生殺与奪の権を持っているのですから、処罰を避けることはできません。

 

 私たちも同様です。割り当てられた仕事はそれぞれ置かれた場所で忠実さを現わすべきものです。私たちはいつ何時でも主の前に立つ準備をしていなければなりません。そして、自分のしていることについて弁明できるようにしておかなければならないのです。恥ずべきところのないものとして神にいい訳ができるかどうか。

 

 このように言われますと、誰もがとても主の前に立てない、今終わりの日があると困る・・・このように思い戸惑うばかりに陥ってしまいます。それが誰にも現実であると思います。ですから終わりの日の教説を不安と恐怖心だけをもって受け止めている人も多いと思います。

 

【終わりの日は喜びの日】

 私たちは終わりの日をただ恐れだけをもって迎えるとすれば不幸なことです。譬えを思い出してください。主人が戻ってくること自体喜びです。今日と違い旅は危険この上ありませんでした。旅の途中追いはぎに狙われることもあります。大水や洪水にも襲われます。特に航海は危険で、難破の恐れと隣り合わせでした。主人が戻ってきた時、使用人は歓呼して迎えたはずです。もし主人に事故があれば一家は離散し、使用人たちは仕事を失い、流浪の身になりかねません。そして、主人は大切な仕事を終えて戻るのですから、その益に使用人たちも預かれます。土産話も楽しいものでした。テレビやネットワークのない時代です。旅人の話が最新のニュースとなります。主人からそのような話を聞くだけでも喜びであったでしょう。

 

 そのように、終わりの日の到来は喜びの日の到来でもあります。その日は、ただ終わりの日というのではありません。あるいは滅びの日というだけではありません。確かにその日は滅びの日です。滅びは存在を失うことを意味します。しかし、その日は新天新地が来る日でもあります。その日に起きることはキリストの再臨であり、そのとき神の国は完成します。神の国に選ばれた者たちはそのときよみがえらされます。もはや朽ちない体に復活させられます。もはや二度と死ぬことのない命を与えられ、苦しみも悩みもない喜びの神の民に加えられます。

 

 終わりの日は素晴らしい喜びの日ですから、私たちは苦虫を噛み潰したようにしてこの日を待つことは愚かなことです。むしろ待望の心をもってその日を迎えることができるように願って今を生きていくことこそ肝心であるといえるでしょう。

 

 終わりの日は私たちの終わりと直結しています。私たちが終わると、終わりの日が時間的ではありませんが、論理的に連結しているということを覚えたいと思います。(おわり)

2016年02月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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