2016年1月31日説教「人の子が来る」金田幸男牧師

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説教 「人の子が来る」

 

聖書:マルコによる福音書13

24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、

25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

要旨 

【それらの日】

オリーブ山でキリストが弟子たちの語られて、いわゆるオリーブ山の説教を学んでいます。マルコ13章24に「それらの日」という表現が出てきますが、13章19にも同じ言葉がでてきます。天と地が創造されてからも、そして将来も起こることのないような苦難、大事件がその日に起こると記されています。このような前代未聞の大きな出来事が起こるのは、終わりの日、この世の終末を指していることは明らかです。

 

 この世界はいつまでも続くものではなく、終わりなどないと思われています。しかしまた、はじめのあるもは必ず終わると何となく思っている人もいます。

 

この二つの思いを両方抱えている人が多いのではないでしょうか。矛盾しているようですが、一方ではこの世界は永続すると信じ、少なくともあと何億年は存在すると思い、他方では、こんな世界はいつまでも続かない、間もなく終わるのではないかと不安がちに思っているのです。将来のことは分かりません。しかし、聖書は終末について明確に語ります。旧約聖書でも語られていました。

 

【旧約聖書イザヤ書13章10】

イエス・キリストはその旧約聖書のイザヤ書13章10を引用しておられます。

 

イザヤ13章9-10見よ、主の日が来る 残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず 太陽は昇っても闇に閉ざされ 月も光を輝かさない。」

 

イザヤはバビロンという罪に満ちた国家の滅亡を預言するのですが、それはまた腐敗した国家、都市に対して下される神のさばきの予兆と見ています。これは主の日に起きます。主の日とはキリスト者にとって日曜日を指す言葉でありますが、ここはそうではなく、主が主権、権威、権勢を明らかにされる恐るべき終わりの日を示しています。これを引用されるとき、キリストは、40年後にやってくるローマによるエルサレム侵略と、そして、それがあらかじめ指し示す終わりのときの予告に当てはめられています。

 

罪と腐敗に満ちた世界は滅ぼされなければならないのです。終わりのときは必ず来ます。キリストはそのように明言されています。旧約聖書はほかにも同様の終末を語ります。イザヤ24章33,34章4、ヨエル2章30-31、アモス8章9、エゼキエル32章7-8など。キリストは旧約の預言者たちが証言したことを肯定されているのです。

 

 その時、恐るべき現象が起きるとイザヤは語り、キリストはそれを引用されます。この天体の異変は文字通り起きるのか、それとも比ゆ的な表現に過ぎないのか、解釈に違いがあります。ある人は核戦争のような人間が引き起こす災禍とし、ある人は日食や月食、あるいは流星のような天体の現象だと解釈します。イエス・キリストはそのような現実世界でありえるような出来事のことを語っておられるように思えません。ここに記されていることはもっと大きな、この世界が破滅するような大事件です。それでは何を指しているのでしょうか。文字通りでありますが、私たちには想像もつかないような激しく大規模で、つまり宇宙規模で、凄まじく、言葉ではとても言い表すことができないような天体現象だという人もいますし、他方では、そのような激しい現象をこのように表現されたのであって、実際に起きることそのものではないと解する人もいます。わたしはどちらであるか決定しないほうがいいと思います。両者のうち、どちらの可能性もあるからです。

 

 終わりの日に、この世界がもはや存在できないような激しい現象が起きる。それだけ聞いただけで恐怖を引き起こし、不安に駆られます。

 

【人の子が来る】

 26節で、その日に、もう一つの大きな出来事が生じると予告されています、人の子が来る、というものです。大いなる栄光と力を持って、天から降ってくる。人の子はイエス・キリストがご自身を指して使われた表現です。そのイエス・キリストは今度は栄光と偉大な力を持ってその姿を現されます。第一回目はベツレヘムの馬小屋にキリストは来られました。第二回目の来臨は栄光の輝きと共に来られます。終わりのときとは、キリストは再び来られる「再臨」を指しています。終わりのときとキリストの再臨は同時だといってもいいでしょう。

 

 このことは、ダニエルがすでに予告していたと語るために、キリストはダニエル書7章13を引用されます。

「夜の幻をなお見ていると、 見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。」

 

ダニエルも「人の子」がくること、「日の老いたるもの=神」の前で、栄光の姿を取り、大きな力を発揮されます。このダニエルの黙示は、イエス・キリストの再臨のとき実現します。キリストはダニエルの言葉が実現すると言われます。

 

【バビロン滅亡を預言】

 ダニエルがまず直接語っているのはバビロンのことです。バビロンは歴史上最大の軍事的専制国家であったアッシリアをあっけなく滅ぼした強大国家でした。ダニエルは黙示的表現を用いてそのバビロンも滅亡を預言するのですが、それがただ単にバビロンという国の滅亡だけを語っているのではなく、明らかに、もっと大きな出来事の到来が告知されます。それこそ終わりのときなのです。

 

【イエス・キリストの再臨】

 ここでいう「人の子」をイエス・キリストと同定することを拒否する人々が多いのですが、ここはやはり、イエス・キリストのことを語っていると受け止めざるをえません。イエス・キリストはダニエルが予告した預言の言葉はご自身において成就すると語っておられます。そして、そのキリストが栄光を持って降るとき世界は終わると言われています。終わりのときとはイエス・キリストの第二の来臨に他なりません。

 

 終末の教理を聞いていると誰でも恐怖心を起され、不安に駆られるに違いありません。実際に終末を語って動揺を引き起した宗教集団は数多くありました。終末を語ることでもたらされる結果として、熱狂的になった人々、異常な心理的状態に陥った人たち、孤立して、山中などに逃れていった人々、こういう現象には枚挙の暇がありません。終末の教えを武器にした宗派は瞬く間に人心を集めます。しかしながらその多くはまやかしであり、危険な教えに堕してしまいます。

 終末を正しく理解しなければなりません。

 

【地の果てから選民を召し集める】

 キリストは天使を送って、地の果てから選民を召し集めるとも語られました。このことはどういう意味でしょうか。天使が送られるといわれますが、天使は見ることのできない存在です。地の果てまで送られるのですが、それを見る人はいません。誰にも見えないからです。ではどうして天使が地の果てまで送られることがわかるのでしょうか。また選民が集められるとはどういうことでしょうか。

 選民とはまことに神を信じ、従う者たちのことです。正しい教会のメンバーと言ってもよいでしょう。彼らがそのようになったきっかけは福音が宣教され、その福音を信じたことによります。福音は伝道者を通して、あるいは、キリスト者により、宣べ伝えられたものです。今はさまざまなメディアが使用されますが、手段方法は変わっても福音は世界中に宣教されています。そして、福音を信じ、教会に所属するようになります。地の果てまで天使が派遣された結果です。終わりの時、地の果てまで天使が働いているのです。

 

 終わりのときはいつか誰も分かりません。キリストの直接命令により、福音が宣教されてもう2000年近く経っています。天使が世界中に行き巡ったのではないかと思う人がいます。それなのに、まだ終わりが来ていない、これからも来ないのではないかと疑う人もいます。それは誤りです。

 

主にあっては一日は千年のごとく、千年は一日の如し、終わりの日は明日かもしれません。明後日かもしれません。そういうことは知らされていませんが、今日起らないから明日もないなどとはいえません。福音がこのように世界中に宣教されたということは終わりの接近を予告しているのかもしれません。私たちにとってそれは信じながら緊張して待つ日なのです。

 

 終わりの時、私たちはキリストに招かれ、召し出されます。そのときすでに墓に入れられていたものもまた、キリストに招かれ、集められます。キリストは、そのときただ私たちを呼び集めるだけではありません。

 

【さばきの日は希望の日】

 終わりのときはさばきの日でもあります。私たちが裁き主なる神の前に出るとき、どうなるでしょうか。大抵人たちはそんなことがあったら神に処罰されるだけだと思うでしょう。しかし、私たちはそう思いません。思う必要がありません。そのときキリストは私たちのために執り成しをしてくださいます。罪のあがないを全うされたキリストは私たちの傍らに立って苛酷な処罰ではなく、無罪を宣告され、全く清いものとされ、神の前にはばかることなく近づくことができます。私たちはもはや死ぬことのない新しいからだによみがえり、永遠に神を喜ぶことができるのです。終末は恐怖の日どころか、それは希望の日となります。私たちは大きな期待と思って終末を待ち望むことができます。

 終わりのときまで私たちは生き残っているかどうか分かりません。しかし、ここではっきり確認しておかなければなりません。私たちの人生の終わりのときはそれで一切の消滅を意味していません。それどころか、終わりの日に、私たちは新しいからだのよみがえりという幸い、祝福を受ける約束をいただいています。私たちの終わりのときはその日に直結しています。生き残ってキリストの再臨に出くわすものも、そのときこの世を去っているものも同様の祝福にあずかることができます。(おわり)



2016年02月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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