2016年2月

2016年2月28日「過ぎ越しの食事」金田幸雄牧師

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聖  書        マルコによる福音書14章12~21節(新共同訳新約聖書91頁)
過越の食事をする
12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

説教「過越の備え」金田幸男牧師

聖書:マルコ福音書14章10-21

 

要旨

【ユダの裏切】

 14章10-11に、イスカリオテのユダがキリストを裏切って祭司長や律法学者たちの手に渡そうと決心したことが記されています。なぜユダがキリストを裏切ろうとしたのか。今までいろいろな説が語られてきました。しかし、謎のままです。いろいろな憶測はあります。例えば、ユダはキリストのユダヤの社会改革運動に期待していたのだ。今や、エルサレムに多くの民衆の歓呼も受けて入城した。ところがキリストは立ち上がろうとしない。ユダは期待を裏切られと思い、その不信感からキリストを裏切ったのだというのです。

 

けれども、ユダがそのような革命思想を抱いていたという証拠はどこにもなく、まして、彼がキリストにそんな期待を寄せていたという痕跡も見いだされません。また、お金が欲しかったからだという説もあります。ベタニヤでラザロの姉妹マリヤが300デナリオンの香油を惜しみなく注いだとき、ユダはクレームをつけました。福音書記者のヨハネは、ユダがイエスの弟子たちの財布係をしていてその中身をごまかしていた。そのようにお金に『汚い』性格の人間だからマリヤの行為を批判したと書いています。そこから、こういう説が出てくるのですが、イエスを裏切って得た収益は銀30枚でした(マタイ26:15)これではあまりにも金額が低すぎます。銀30枚は30デナリオンに相当しますが、自分の師を売渡すにはあまりにも少額です(30万円そこそこ)。

 

マタイ26章では確かにユダから祭司長らに申し出た金額のように書かれてありますが、ユダにはこの金額でなければならない必然性はなさそうです。結局のところ、ユダがなぜキリストを裏切ったのか福音書記者には分からないのだと思います。ヨハネは「ユダにサタンが入った」と表現しますが(13:27)、この表現が具体的にどういうことなのか分かりません。むしろ、誰もユダの内心をはかることができなかったので、このような曖昧な表現となったのではないかと思います。   

 

ただ、分かることは、祭司長や律法学者たちは過ぎ越しの期間では、イエスを捕らえて殺そうとする計画は騒ぎになるおそれがあるので実行を延期したのですが、ユダのこの決心で事態が変わった。つまり、キリストの十字架へと、人間の企てや思いを越えて、神の計画が実行されようとしています。キリストの苦難と十字架は不可避です。ユダの裏切りもその一つの要素です。

 

【過越の小羊が屠られる日】

12節から、もう一つのことが記されます。除酵祭の第一日、過越の小羊が屠られる日とあります。正確にはこの二つの日付にはずれがあります。過越はユダヤの暦ではニサンの月(太陽暦では3月もしくは4月)の15日に行われます。

 

【過越の小羊】

過越の祭とは、過越の食事を取ることが主なる行事でした。過越の食事では、小羊の肉、イースト菌の入っていないパン、ぶどう酒、苦菜のはいったスープを食べることになっています。メインは、過越の小羊で、小羊は前日のニサンの14日に屠られることになっていました。ユダヤ人ならば必ずこの食事をとらなければなりませんでした。その上、エルサレムに上ってくる巡礼の場合は、エルサレムの城壁の内側で過越の食事をしなければならないという習慣もありました。ところが、ニサンの14日になっても、キリストが過越の食事について何も指示していなかったと思われます。弟子たちは業を煮やして、いったい今回の過越はどうなるのかと心に焦りを感じて、キリストに問うたのだと思います。弟子たちはエルサレムの住民ではありません。早く場所を確保しなければ過越を守れなくなる可能性があります。それは信仰厚いユダヤ人の弟子たちにしてみればあってはならないことです。

 

キリストはこの弟子たちの心の動揺をご存知であったと思われます。二人の弟子をエルサレムに派遣したことが記されます。都に行け。そこで水がめを持った人に出会う。実は水がめを運ぶのは女性の仕事であったとされています。男性が水がめを運ぶことはまれでした。町に入ればすぐその人であることが分かります。その人の後をついていったら、過越の食事をするべき部屋の家の所有者に会える。そこで準備万端整えよ。このような指示を与えられました。この一連のキリストの言葉は一種の予見だという見方もできます。しかし、ここはそのように考える必要はないと思います。キリストは予め手はずを整えておられたと考えらます。つまり、この準備に特別奇跡的要素はないということです。

 

キリストは弟子たちには知られないように、過越を支障なく行えるように準備をされたのです。キリストご自身が過越を是非とも守ろうとされたのです。このたびの過越はいつもの過越とは異なって、キリストが率先して是非とも弟子たちと共に守ろうとされたのです。

 

なぜ、そのようなことをされたのか。過越はなぜ守らなければならないのか。それは単なる行事とか儀式ではありません。行事とか儀式というと何か軽く扱われているように思います。しかし、どのような宗教にでも行われている行事、その中には祭りも含まれます。また儀式には祭儀と言われるものも含まれます。これらは過去にあったことをつねに想起するという意味が含まれています。過去にあったことはそれだけではなく、未来にも起こるという期待を伴います。ですから、行事や儀式は宗教にとって極めて大きな意味を持っています。イスラエルの場合も同じでした。

 

【出エジプト最大の禍:最初に生まれた男子は死ぬ】

イスラエルはエジプトでは奴隷状態のなかで苦しめられていました。その時、神はモーセを立ててイスラエルの民を解放しようとされます。モーセはエジプトの王ファラオの前でさまざまな奇跡を行って見せますが、ファラオは心を頑なしにし続けて、モーセの要求を拒否し続けます。ついにモーセは神の最後の命令を伝えます。その夜、エジプト中を、災いを下すみ使いが駆け巡る。その時、小羊を殺してその血を玄関の鴨居に塗りつけてある家を災いは通り過ぎていく。しかし、それをしていない家では、人間だけではなく、家畜に至るまで、最初に生まれた男子は死ぬ。出エジプト記12章12-36節に記されています。そして、この過越を覚えるために、イスラエルでは例年、過越の小羊を屠ってこれを食べるように命じられます。その都度、イスラエルは、神がエジプトで先祖たちに何をなされたのか思い起こしたのです。単に過去を想起するだけではなく、神を信頼する民にはかつてと同様に神の救済のわざにあずかれると確信したのです。

 

過越はイスラエルの人々にとって救いの神を思い起こす機会となりました。神は決してイスラエルを忘れられない。頼るものを神は必ず守られる。その証拠が何よりも出エジプトの出来事であったのです。

 

イエス・キリストは過越を特に守ろうとされたのは、一般のユダヤ人がしているような習慣の遵守のためではありません。明らかに間もなくご自身の上に起きる受難、特に十字架の死と、過越が示している意味を結びつけるためでした。どちらも、犠牲によって災いを受けなくされるという点で共通しています。キリストは過越の小羊のように殺されます。しかし、それによって、神は罪のもたらす最高の災いである滅びから私たちを救われるのです。キリストはご自身が過越の小羊として殺され、それによってすべての罪人を救われようと願われたのです。

 

旧約聖書はこの点で新約聖書と密接に結びつきます。旧約聖書のないキリスト教はありえないのです。旧約聖書から使信を引き継いで新約の喜ばしい知らせがあるのです。だから、キリスト者は旧約聖書から救いの希望を聞き取ることができるのです。

キリストが過越を弟子たちと共に守りたいと願われたもう一つの目的があったと思います。先に遣わされた二人の弟子たち(ペトロとヨハネ ルカ22:8)は食事を整えます。食事に必要な食材とそれから、クッションとかテーブルなども用意されたはずです。ニサンの15日は夕方から始まります。二人の弟子はベタニヤまで急いで戻ったか、それともキリスト一行を待ったのか分かりませんが、過越は、ニサンの15日が始まる日没後、ただちにかあるいは深夜までの間に行われることになっていました。

 

【裏切り者ユダ】

イエス一行は準備された家の二階間に到着し、早速過越の食事を開始します。その時、キリストは裏切り者のことを持ち出されます。このところを読んで誰も不思議に思うことが、これだけはっきりと裏切りと言う事実がすでにおきていること、そして、キリストはイスカリオテのユダに向って裏切りのことを分かっていると言われているのに、弟子たちはそれが誰のことをいっているのか分からなかったという点です。ここでもやはりキリストの弟子たちはイスカリオテのユダの心に入り込んだ裏切りを悟ることができなかったということを示しています。彼らはユダの内心を彼のそぶりからは知ることができなかったのです。

 

イエス・キリストはそのユダを過越の食事に加えておられます。ここまで分かっているのであれば、ユダの参加を拒んでもよかったのではないでしょうか。いっそのこと、裏切り者がユダであると名指ししてもよかったのではないでしょうか。なぜそれをされなかったのか。

 

キリストはユダに翻意、つまり、最後の悔い改めのチャンスを与えようとされているではないかと思います。すべての計画は進行中です。それは神の計画です。ユダの裏切りもその中の一環です。それなのに、キリストは過越の食事を共にしようとされています。過越の意味は無論ユダも承知していたはずです。小羊の血と言う犠牲によって罪のもたらす災いを避けることができる。ユダは裏切り者、そのままであれば、この世に生まれてこなかったほうがその人のためといわれる大きな罪です。しかし、その罪をも許すことができるのは神の子キリストの尊い十字架の血、その犠牲なのです。キリストは最後の最後までユダに心を入れ替えることを求めておられます。(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年02月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月21日「最高の奉仕」金田幸雄牧師

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説教要旨 マルコ14:1-9.doc
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説教「最高の奉仕」

 

聖書:マルコ福音書14章1-9

1 さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。2 彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。

3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。

6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。

8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

 


2016年02月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月14日説教「目を覚ましていなさい」金田幸男牧師

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マルコ福音書13章32~37節
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説教「目を覚ましていなさい」

聖書:マルコ13章32-36

 

要旨 

【神殿の崩壊はいつ起こるか】

 イエス・キリストがオリーブ山で弟子たち、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人(13:3)に語られたいわゆる「オリーブ山説教」を4回にわたって学んできました。今回で5回目になります。オリーブ山説教の主題は、4人の弟子たちが「そのことはいつ起こるのか」という問いに対する答として語られたものです。「そのこと」とは、イエス・キリストが語られた神殿の崩壊(3:2)を指しています。

 

しかし、キリストはエルサレム神殿の崩壊だけを語られたのではありません。それは、終わりのときの予兆の一つだとされます。戦争、飢饉、地震、そして、迫害、内部の争いといった艱難は終わりの日の前に起きます。それらの艱難の一つがエルサレム神殿の破壊なのです。弟子たちは、いつエルサレムが滅ぼされるのか、と問いますが、エルサレムの崩壊は神がこの世界を滅ぼされる終わりの日を予兆するものなのです。

 

【主イエスの再臨】

 終わりの時に起きるのは、人の子の来臨です。第1回目の来臨はベツレヘムの馬小屋でした。しかし、第二回目の来臨(再臨)は栄光と力を持って来られます。それはさばきの日でありますが、また、新しい世界が完成するときもあります。

 

 その日はいつ来るのか。弟子たちの関心事はそこにありましたし、この個所を読むものすべてにとっても大いに興味を引く問題です。いったいその日はいつなのか。聖書をあちらこちら引用し、終わりの日を西暦何年何月何日と正確に日を預言する人たちがいますが、キリストご自身がその日がいつかは誰も知らないと言います。ここでは、天使も御子も知らないと記されますが、使徒言行録1:6-7では新しいイスラエルの再建あるいは神の国の完成のときについては誰も知らない、ただ、御父だけがご存知であると語られています。

 

【神の子の受肉】

 御子が知らないということに躓きを覚える方がいるかもしれません。神の子であるはずのイエス・キリストが知らないはずがない、知らないのは神の子ではないからだ、という主張ですが、これは受肉の教理に対する誤解から来ています。

 

受肉とは神の御子は私たち人間と罪を除いては全く等しいものになられたという教説です。クリスマスにはこのことが繰り返されます。御子が私たちと全く同じになられたということは、私たち人間が終わりのときを知らないという限界まで同じになってくださったという意味です。それほどまでキリストはへりくだってくださいました。私たち人間の知識の限界まで身を低くしてくださいました。だから、キリストがその日を知らないとしても不思議ではありません。

 

【どう備えるか】

 誰もその日は知らない。でも終わりの日は必ずやってきます。だからどうすればいいのか。どういう備えをすべきなのか。誰も将来のことは分かりません。数時間先のことも知らないのです。だから、先のことなど考えてもしかたがないと諦め、終わりの日に関して思考停止にする人の何と多いことでしょうか。しかし、知らないから思考停止にすることは正しくありません。

 

キリストはたとえその日がいつか分からなくても、相当の準備をせよといわれます。大抵の人は備えなどしないままに日を過ごしますが、終わりの日は必ずあります。初めがある以上終わりもあるからです。終りのときが来ないなどということは誰も断定できない真理です。終わりは必ず来ます。それがこの世界の冷徹な真実です。この厳かなキリストの預言を軽く見ることは決してできません。それほど重大問題です。

 

【旅に出る主人の譬え】

 そのために、キリストは譬えを語られます。それは旅に出る主人の話です。この主人はたくさんの使用人(奴隷)を抱えていました。当然大きな邸宅の持ち主でもあったと思います。彼は長い旅に出なければなりませんでした。そこで、家人に仕事を割り当て、責任を課します。それはただ厄介な重荷を与えるということだけではなく、使用人を信頼しているから仕事を割り当てたのです。

 

そして、門番には特に厳重に命令を与えます。当時、物騒な世の中でした。特に強盗は厄介でした。そのためにしなければならないのは厳重な戸締りです。扉をしっかり閉じておけば強盗団は侵入できません。しかし、門番は、主人が戻ってきたらすぐの扉を開かねばなりません。戸締りをするのはいいのですが、主人が帰ってきたとき門を開けられないでは困ります。当時、旅人が夜に行動することは珍しくありません。季節によりますが、夏などは日中の日差しを避けて夜に行動するほうが少々危険があっても楽でした。主人は夜に帰館することは大いにありえました。

 

【門番の務め】

 門番は盗人が侵入してこないように寝ずの番をしなればなりませんでした。そして、主人が帰ってきたら家のものを起さなければなりません。主人が帰ってきたときに寝込んでいたら懲罰をこうむるに違いありません。このように門番は大変重大な仕事を課せられたということになります。

 

ここで、夕方、夜中、鶏の鳴くとき、明け方という言葉が並んでいますが、これはローマの夜の時間の区分を指します。鶏が鳴く時間とは午前3時か4時ごろだろうと思います。夜明けは、5時か6時ごろになるでしょうか。ローマ人は夜を等分に分割していませんでした。朝方のほうが短時間になります。そして、この時間の節目に夜の警備兵が交替します。このような習慣が民間でも採用されていたということでしょう。門番は、このように時間の区切りで交替します。朝方のほうが短時間であるのは合理的です。朝方のほうが眠気に襲われやすく、そのために時間が短くされていました。任務に当たる門番はその間は緊張して待たなければなりません。その間眠りこけていることは許されません。

 

 主人が帰ってきたら大声で他のものを起こします。こうして全員で主人の帰りを喜びます。

 以上が譬えの内容です。私たちはこの譬えから何を学ぶのでしょうか。

 

 門番が私たちを表わしていることは明白です。門番は緊張して待たなければなりません。緊張して待つというには並大抵のことではありません。わたしなど待つのが大いに苦手とします。特に、大きな病院で待たなければならないのは苦手です。予約制になっていても自分の名が呼ばれるまで待たなければなりません。その間本で読めればいいのですが、いつ名を呼ばれるか分かりませんので、何もできず、ひたすら待たなければなりません。この間の長い時間の感覚にうんざりします。待つことは骨が折れるものです。けれども、待たなければなりません。

 

いつ終わりの日が来るのか私たちには知らされていません。だからその日に私たちの名が呼ばれたときいつでも返事ができる準備が必要です。

 

 使用人たちも割り当てられた仕事をまっとうし、責任を果たしておかなければなりません。いつ主人から呼び出され、その仕事の成果を報告できるようにしておかなければなりません。一番してはならないことは怠慢です。仕事を怠り、仕事を忘れてしまえば厳しい懲罰を受けること間違いありません。奴隷ならば主人が生殺与奪の権を持っているのですから、処罰を避けることはできません。

 

 私たちも同様です。割り当てられた仕事はそれぞれ置かれた場所で忠実さを現わすべきものです。私たちはいつ何時でも主の前に立つ準備をしていなければなりません。そして、自分のしていることについて弁明できるようにしておかなければならないのです。恥ずべきところのないものとして神にいい訳ができるかどうか。

 

 このように言われますと、誰もがとても主の前に立てない、今終わりの日があると困る・・・このように思い戸惑うばかりに陥ってしまいます。それが誰にも現実であると思います。ですから終わりの日の教説を不安と恐怖心だけをもって受け止めている人も多いと思います。

 

【終わりの日は喜びの日】

 私たちは終わりの日をただ恐れだけをもって迎えるとすれば不幸なことです。譬えを思い出してください。主人が戻ってくること自体喜びです。今日と違い旅は危険この上ありませんでした。旅の途中追いはぎに狙われることもあります。大水や洪水にも襲われます。特に航海は危険で、難破の恐れと隣り合わせでした。主人が戻ってきた時、使用人は歓呼して迎えたはずです。もし主人に事故があれば一家は離散し、使用人たちは仕事を失い、流浪の身になりかねません。そして、主人は大切な仕事を終えて戻るのですから、その益に使用人たちも預かれます。土産話も楽しいものでした。テレビやネットワークのない時代です。旅人の話が最新のニュースとなります。主人からそのような話を聞くだけでも喜びであったでしょう。

 

 そのように、終わりの日の到来は喜びの日の到来でもあります。その日は、ただ終わりの日というのではありません。あるいは滅びの日というだけではありません。確かにその日は滅びの日です。滅びは存在を失うことを意味します。しかし、その日は新天新地が来る日でもあります。その日に起きることはキリストの再臨であり、そのとき神の国は完成します。神の国に選ばれた者たちはそのときよみがえらされます。もはや朽ちない体に復活させられます。もはや二度と死ぬことのない命を与えられ、苦しみも悩みもない喜びの神の民に加えられます。

 

 終わりの日は素晴らしい喜びの日ですから、私たちは苦虫を噛み潰したようにしてこの日を待つことは愚かなことです。むしろ待望の心をもってその日を迎えることができるように願って今を生きていくことこそ肝心であるといえるでしょう。

 

 終わりの日は私たちの終わりと直結しています。私たちが終わると、終わりの日が時間的ではありませんが、論理的に連結しているということを覚えたいと思います。(おわり)

2016年02月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年2月7日説教「神の言葉は滅びない」金田幸男牧師

説教「神の言葉は滅びない」 

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聖書:マルコによる福音書1328~31

28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

要旨

 【いちじくの葉が出る頃】

いちじくの木はパレスティナでは大変よく知られた果樹で、ぶどう、やし、ざくろと並んでその果実はよく食用に供されています。もともと小アジア原産でしたが、古くから移植され、広く栽培されていました。果実は生のままか、乾燥されて食べられていました。熱帯では常緑樹なのですが、山地では冬(12月ごろ)、葉が落ち、早春の3月ごろ、小枝の先に小さな緑のこぶしができ、そこから葉が出てきて、その葉のところに青い実がなり、夏ごろ急激に大きくなって食用になります。

 

いちじくは聖書にもしばしば登場しますが、マルコ2-14,20-22に出てきます。そこでは実がなかったためにイエスに呪われて一晩で枯れてしまった木のことが記されていました。

 

【エルサレム神殿崩壊とこれらのこと】

ぶどうはしばしばイスラエルを象徴し、神の豊かさを表わすものとして描かれますが、なぜかいちじくの木は神の裁きと結び付けられています。想像をたくましくすれば何か言えるかもしれませんが、ここからだけではその理由は分かりません。植物は季節に敏感です。自然現象を見て季節の変わり目を知るという農民や漁師の感覚を私たちは驚きをもって経験します。いちじくの葉が伸びてくると夏が近いと悟る。そのように「これらのこと」を見たら、人の子が戸口に立っていると悟れ。この「これらのこと」が何を指しているのか、という問題があります。この主の言葉が語られて40年後のローマ軍によるエルサレム、その神殿の破壊を指しているとする考え方もありますが、ここはそれも含めて、キリストがすでに語られた苦難を指していると見たほうがよいと思われます。   

 

【人の子の来臨】

戦争、飢饉、地震、迫害、内部告発などキリストの弟子たちが味わうであろう苦難のすべてが起きるのを目撃したら、人の子の来臨の近さを知りなさい。キリストはこのように言われたと解釈されます。

 30節を見ますと、はっきり言っておく、という主の言葉がでてきます。主が来られる終わりのときの接近に当たって、私たちはどういう姿勢、態度を示すべきなのか。このはっきり言っておく、という言葉をキリストはしばしば用いられますが、このことは重要だから決して軽く見ないようにという警告を含みます。アーメン、然り、わたしはあなた方に言う。キリストは厳かに命じられます。しかし、それはまた、聞くものがおうおうにして軽く評価をしているということを意味します。

 

キリストが言われていることは重視せず、どうでもいいことに時間を費やし、精神力を消耗するのがつねです。主の来臨、接近を私たちは軽々に判断してはならないのです。

 

【人の子が戸口に立っている】

 人の子が戸口に立っている。このキリストの来臨の言葉は聖書のほかのところでも出てきます。

 

ヤコブ書5:7-9「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。」

 

【忍耐していなさい】

主が来られる。そのために忍耐していなさい、とヤコブは命じます。忍耐とはただ我慢のことではありません。動揺せず、神を信じ、心を堅く保つことを指しています。ここでは、主の来られるときとは終わりのときを指していることは明らかです。主が終わりのときに再び私たちのところに来られるという事実を、戸口に立つと証言されます。

 

【悔い改めよ】

終わりの日を直接指しているわけではありませんが、ヨハネの黙示録3・19-20では、「悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と語られています。

 

主が来られるときの私たちの備え方は悔い改めだと言われます。このように、主が近いという事実を前にして、私たちはもっともっと真剣にならなければならないのです。

 

 これらのことはみな起きるだろう。しかし、これらのことが起きるまで、この時代は決して滅びない。この主の言葉には二つのことが含意されます。ひとつは、終わりがくるまでこれらの災難、苦難、危機、困難はまだまだ起きるという警告と取ることができます。キリストは弟子たちに、終わりのときがまだ来ていない以上、神の民を襲う苦難はまだまだ続く。そのように言われます。だから苦難を避けることはできません。それはいつまで続くのか誰も分かりませんが、それまでは災いは終わることがない、そのように覚悟をしなければなりません。これでもか、これでもかと災いは襲ってくる。これが現実でもあります。

 

【滅び】

 もうひとつの点は必ず終わりが来るという予告です。すべて計画されていることは実行されます。実行されるべき計画が終われば必ず滅びがきます。

 

 滅びとは何でしょうか。私たちは存在しています。私たちがここにあるということは自明の真理で動かしがたい真実であると私たちは思っています。ところがどうなのでしょうか。存在しているこのことほど脆いものはないのではないでしょうか。存在するものは何かの上に存在している=立っていると言うことができると思います。エルサレムの壮大なヘロデが建てた神殿は大きな基礎の上に建てられていました。その土台の上の神殿は不動のものと思われていました。しかし、それは簡単に倒されます。存在しているものは、実は危うい基礎の上に建てられているに過ぎません。

 

【私たちの存在の基盤】

わたしはここにある。存在するものはそれ自体存在している。何ものにも依存していないと思っていますし、そう確信しています。それは反面、事実です。しかし、その基礎はあっけなく崩壊してしまいます。この世界は何の上に建てられているか。私たちは大地の上にしっかり足を踏ん張っているように思います。都市はしっかりとした地盤のうえに建てられたと思っています。ところがあっけなく崩れます。地震は来て大揺れにゆり動いたものは崩壊します。大地という基礎はさほど堅固ではなかったということです。私たちの人生もそうです。私たちの人生は基礎の上に建てられています。資産、学歴、健康、良運、人間関係、その他の人生にとって基礎と思われるものが多くあります。そのような基礎の上に立てられた私たちの人生は堅固そのものと思いますが、それは錯覚に過ぎません。その基礎はそんなに強固ではないのです。人生を強固としていたものは一夜にして失われます。

 

 滅びとはその基礎を失うことです。神はこの世界の基礎を失わせます。終わりの日に起きることです。終わりの日とはこの世界を成り立たせていたものはことごとく失われ、存在していたものがもはや存在できなることを意味しています。あらゆるものは失われるときが必ず来ます。それが終末です。

 

【最後の審判】

 終わりが来たら一切は消滅します。存在していたものはことごとく失われます。終わりとはそのように思っている人が多いのではないでしょうか。まさしく、終わりとは存在していたものが存在しなくなること。それはゼロに帰することなのだ、何もなくなることだ、というふうに考える人が多いと思います。

 この世界の終わりとは何もなくなること。そういう観念はどこから来たのでしょうか。それは滅びに対する誤解です。根拠がありません。滅びは神のさばきが行われることであり、恐るべき審判の行われる日であるという理解は間違っていません。しかし、それだけなのでしょうか。

 キリストはこの世界はことごとく滅びると宣告されます。同時に、「わたしの言葉は滅びない、決して滅びることはない」と断言されます。

 

【新しい創造】

 キリストの言葉とは単なる音声ではありません。語られたことは必ず実現するという言葉です。終わりの日に一切合切終わり、何もなくなるというのではありません。終わりの時、キリストが来られる時、天と地は全く新しくされます。終わりではなく、新しい創造が起きるのです。すべてが刷新されます。終わりの日はこのまったく新しい天地の始まりでもあります。終わりの日はそれで究極の終末というわけではないのです。イエス・キリストが約束されたことはことごとく成就します。キリストが予告されたことはすべて実現します。神の主権と威厳は完全に回復し、神の栄光が明らかになります。死んだものも生き残っていたものも、すべての神の民が結集されます。

 終わりの時、世界は一新されます。キリストの言葉は滅びてしまい消滅するようなことはありません。

 

【私たちの人生の終末】

 そして、大切なことは、世界の終末を考える場合、私たちの終わりも考えるべきだということです。この世界が終わるように、私たちの人生も終わります。私たちの死はあらゆる意味で終わりを意味するのでしょうか。死をそのように受け止める人のなんと多いことでしょうか。死はあらゆる意味で終わり。それで終結。後は何にもない。しかし、このような死生観を持っている人はそれを証明できたわけではありません。それは根拠のない話です。

 

だれが死んでしまえば一切おしまいといったのでしょうか。根拠なしにそう思っているだけです。イエス・キリストは「わたしの言葉は滅びない」。つまり存在を失うのではないと言われます。キリストはおられる限り、私たちは滅びることはありません。存在しなくなるわけではなく、それどころか、終わりの時は新しい始まりとなります。

 このようなことは信じるしかありません。終わりの時はいつか分かりませんが、今から言えば、まだ将来のことですし、未来のことは誰にも分かりません。私たちはただキリストのみ言葉を信じるだけです。信仰とはまさしく信じるだけなのです。(おわり)

2016年02月08日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

2016年1月31日説教「人の子が来る」金田幸男牧師

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説教 「人の子が来る」

 

聖書:マルコによる福音書13

24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、

25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

要旨 

【それらの日】

オリーブ山でキリストが弟子たちの語られて、いわゆるオリーブ山の説教を学んでいます。マルコ13章24に「それらの日」という表現が出てきますが、13章19にも同じ言葉がでてきます。天と地が創造されてからも、そして将来も起こることのないような苦難、大事件がその日に起こると記されています。このような前代未聞の大きな出来事が起こるのは、終わりの日、この世の終末を指していることは明らかです。

 

 この世界はいつまでも続くものではなく、終わりなどないと思われています。しかしまた、はじめのあるもは必ず終わると何となく思っている人もいます。

 

この二つの思いを両方抱えている人が多いのではないでしょうか。矛盾しているようですが、一方ではこの世界は永続すると信じ、少なくともあと何億年は存在すると思い、他方では、こんな世界はいつまでも続かない、間もなく終わるのではないかと不安がちに思っているのです。将来のことは分かりません。しかし、聖書は終末について明確に語ります。旧約聖書でも語られていました。

 

【旧約聖書イザヤ書13章10】

イエス・キリストはその旧約聖書のイザヤ書13章10を引用しておられます。

 

イザヤ13章9-10見よ、主の日が来る 残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず 太陽は昇っても闇に閉ざされ 月も光を輝かさない。」

 

イザヤはバビロンという罪に満ちた国家の滅亡を預言するのですが、それはまた腐敗した国家、都市に対して下される神のさばきの予兆と見ています。これは主の日に起きます。主の日とはキリスト者にとって日曜日を指す言葉でありますが、ここはそうではなく、主が主権、権威、権勢を明らかにされる恐るべき終わりの日を示しています。これを引用されるとき、キリストは、40年後にやってくるローマによるエルサレム侵略と、そして、それがあらかじめ指し示す終わりのときの予告に当てはめられています。

 

罪と腐敗に満ちた世界は滅ぼされなければならないのです。終わりのときは必ず来ます。キリストはそのように明言されています。旧約聖書はほかにも同様の終末を語ります。イザヤ24章33,34章4、ヨエル2章30-31、アモス8章9、エゼキエル32章7-8など。キリストは旧約の預言者たちが証言したことを肯定されているのです。

 

 その時、恐るべき現象が起きるとイザヤは語り、キリストはそれを引用されます。この天体の異変は文字通り起きるのか、それとも比ゆ的な表現に過ぎないのか、解釈に違いがあります。ある人は核戦争のような人間が引き起こす災禍とし、ある人は日食や月食、あるいは流星のような天体の現象だと解釈します。イエス・キリストはそのような現実世界でありえるような出来事のことを語っておられるように思えません。ここに記されていることはもっと大きな、この世界が破滅するような大事件です。それでは何を指しているのでしょうか。文字通りでありますが、私たちには想像もつかないような激しく大規模で、つまり宇宙規模で、凄まじく、言葉ではとても言い表すことができないような天体現象だという人もいますし、他方では、そのような激しい現象をこのように表現されたのであって、実際に起きることそのものではないと解する人もいます。わたしはどちらであるか決定しないほうがいいと思います。両者のうち、どちらの可能性もあるからです。

 

 終わりの日に、この世界がもはや存在できないような激しい現象が起きる。それだけ聞いただけで恐怖を引き起こし、不安に駆られます。

 

【人の子が来る】

 26節で、その日に、もう一つの大きな出来事が生じると予告されています、人の子が来る、というものです。大いなる栄光と力を持って、天から降ってくる。人の子はイエス・キリストがご自身を指して使われた表現です。そのイエス・キリストは今度は栄光と偉大な力を持ってその姿を現されます。第一回目はベツレヘムの馬小屋にキリストは来られました。第二回目の来臨は栄光の輝きと共に来られます。終わりのときとは、キリストは再び来られる「再臨」を指しています。終わりのときとキリストの再臨は同時だといってもいいでしょう。

 

 このことは、ダニエルがすでに予告していたと語るために、キリストはダニエル書7章13を引用されます。

「夜の幻をなお見ていると、 見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。」

 

ダニエルも「人の子」がくること、「日の老いたるもの=神」の前で、栄光の姿を取り、大きな力を発揮されます。このダニエルの黙示は、イエス・キリストの再臨のとき実現します。キリストはダニエルの言葉が実現すると言われます。

 

【バビロン滅亡を預言】

 ダニエルがまず直接語っているのはバビロンのことです。バビロンは歴史上最大の軍事的専制国家であったアッシリアをあっけなく滅ぼした強大国家でした。ダニエルは黙示的表現を用いてそのバビロンも滅亡を預言するのですが、それがただ単にバビロンという国の滅亡だけを語っているのではなく、明らかに、もっと大きな出来事の到来が告知されます。それこそ終わりのときなのです。

 

【イエス・キリストの再臨】

 ここでいう「人の子」をイエス・キリストと同定することを拒否する人々が多いのですが、ここはやはり、イエス・キリストのことを語っていると受け止めざるをえません。イエス・キリストはダニエルが予告した預言の言葉はご自身において成就すると語っておられます。そして、そのキリストが栄光を持って降るとき世界は終わると言われています。終わりのときとはイエス・キリストの第二の来臨に他なりません。

 

 終末の教理を聞いていると誰でも恐怖心を起され、不安に駆られるに違いありません。実際に終末を語って動揺を引き起した宗教集団は数多くありました。終末を語ることでもたらされる結果として、熱狂的になった人々、異常な心理的状態に陥った人たち、孤立して、山中などに逃れていった人々、こういう現象には枚挙の暇がありません。終末の教えを武器にした宗派は瞬く間に人心を集めます。しかしながらその多くはまやかしであり、危険な教えに堕してしまいます。

 終末を正しく理解しなければなりません。

 

【地の果てから選民を召し集める】

 キリストは天使を送って、地の果てから選民を召し集めるとも語られました。このことはどういう意味でしょうか。天使が送られるといわれますが、天使は見ることのできない存在です。地の果てまで送られるのですが、それを見る人はいません。誰にも見えないからです。ではどうして天使が地の果てまで送られることがわかるのでしょうか。また選民が集められるとはどういうことでしょうか。

 選民とはまことに神を信じ、従う者たちのことです。正しい教会のメンバーと言ってもよいでしょう。彼らがそのようになったきっかけは福音が宣教され、その福音を信じたことによります。福音は伝道者を通して、あるいは、キリスト者により、宣べ伝えられたものです。今はさまざまなメディアが使用されますが、手段方法は変わっても福音は世界中に宣教されています。そして、福音を信じ、教会に所属するようになります。地の果てまで天使が派遣された結果です。終わりの時、地の果てまで天使が働いているのです。

 

 終わりのときはいつか誰も分かりません。キリストの直接命令により、福音が宣教されてもう2000年近く経っています。天使が世界中に行き巡ったのではないかと思う人がいます。それなのに、まだ終わりが来ていない、これからも来ないのではないかと疑う人もいます。それは誤りです。

 

主にあっては一日は千年のごとく、千年は一日の如し、終わりの日は明日かもしれません。明後日かもしれません。そういうことは知らされていませんが、今日起らないから明日もないなどとはいえません。福音がこのように世界中に宣教されたということは終わりの接近を予告しているのかもしれません。私たちにとってそれは信じながら緊張して待つ日なのです。

 

 終わりの時、私たちはキリストに招かれ、召し出されます。そのときすでに墓に入れられていたものもまた、キリストに招かれ、集められます。キリストは、そのときただ私たちを呼び集めるだけではありません。

 

【さばきの日は希望の日】

 終わりのときはさばきの日でもあります。私たちが裁き主なる神の前に出るとき、どうなるでしょうか。大抵人たちはそんなことがあったら神に処罰されるだけだと思うでしょう。しかし、私たちはそう思いません。思う必要がありません。そのときキリストは私たちのために執り成しをしてくださいます。罪のあがないを全うされたキリストは私たちの傍らに立って苛酷な処罰ではなく、無罪を宣告され、全く清いものとされ、神の前にはばかることなく近づくことができます。私たちはもはや死ぬことのない新しいからだによみがえり、永遠に神を喜ぶことができるのです。終末は恐怖の日どころか、それは希望の日となります。私たちは大きな期待と思って終末を待ち望むことができます。

 終わりのときまで私たちは生き残っているかどうか分かりません。しかし、ここではっきり確認しておかなければなりません。私たちの人生の終わりのときはそれで一切の消滅を意味していません。それどころか、終わりの日に、私たちは新しいからだのよみがえりという幸い、祝福を受ける約束をいただいています。私たちの終わりのときはその日に直結しています。生き残ってキリストの再臨に出くわすものも、そのときこの世を去っているものも同様の祝福にあずかることができます。(おわり)



2016年02月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書