2016年1月

2016年1月24日説教「絶えず祈りなさい」金田幸男牧師

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説教「祈りなさい」

 

聖書:マルコによる福音書13

14 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。15 屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。16 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。

17 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。18 このことが冬に起こらないように、祈りなさい。19 それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。20 主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。21 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。23 だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

 

要旨 

【AD70年のエルサレム神殿崩壊予告】

 イエス・キリストがオリーブ山で弟子たちに語られた説教を学んでいます。

マルコ13:14-23もイエス・キリストの言われた意味を明らかにすることは難しい課題です。この個所の理解しにくい点は、キリストが語れている事件はいつのことなのかという問題です。

 イエス・キリストのオリ-ブ山での説教が語られたあと、約40年後に、エルサレムの神殿はローマ軍に略奪されます。

 

AD70年、ユダヤは第1次ユダヤ戦争を引き起こします。そして、その結果、ユダヤは敗北し、エルサレムは占領され、神殿の宝物は奪われてしまいます。イエス・キリストはそれを予告しているのだと言いう解釈が成り立ちます。

 

 予告と申しました。これを否定する立場の人も多くいます。私たちは将来のことを知りません。1分先のことさえ分かりません。何が起きるのか、それは誰にもできないことです。それである人たちはイエス・キリストも将来を語るはずがないと考えます。確かに私たちは将来を知る能力はありません。せいぜい推測にとどまります。しかし、将来のことは全く知りえないのでしょうか。

 

【旧約聖書預言】

旧約聖書に預言者が登場します。彼らは将来を予告しています。預言者の務めは神の御心を伝えることです。その中に未来のことを語ったものもあります。預言の中には予言も含まれています。キリストも預言者です。預言者の役割の第一は神の御心を伝達することなのですが、その中には、バビロンによるエルサレムの破壊も含まれています。預言者は将来起こるであろうバビロンによるエルサレム破壊を繰り返して語りました。これはどう考えて見ても未来のことと関わります。

 

しかしまた、私たちは預言が克明に将来のことを語るのではなかったし、詳細なところで預言通りに実現するのではなかったことも知らなければなりません。預言は将来を含みますが、その未来の予告はまるでテレビを見ているかのような正確な情報の叙述ではありません。そのとおり起きたことばかりではなく、明らかのその通りではないことも多々あります。預言とは神の御心を伝えることであり、将来のことだけを明らかにするものではありません。預言者は、無意識で、あるいは恍惚状態でその務めを果たすこともありますが、大抵は普通の心の状態で預言者の務めを果たしました。彼らは現実を見ます。そして、そこにある腐敗堕落を見ます。それに対する神のさばきのあることを確信します。その時、目前にある町はそのまま存続するはずがない、きっと神はさばかれると判断したかもしれません。それだけならば予測に過ぎませんが、彼ら預言者は御霊に導かれてさばきを語るのです。キリストも同じような過程を経てこのように語られたかもしれません。

 

キリストの目前にあったのはヘロデが建設していた神殿でした。それは当時の土木建築の技術を駆使して造営された立派な神殿建築物でした。ヘロデは自己の権力を誇示するために建設したのです。キリストはこの神殿を見て、そこで行われている事実を見極められます。祭司たちは儀式を取り仕切っていますが、その儀式の意味するところを説明できず、ただ単に儀式を習慣的に行っているだけです。むしろその地位を利用して懐を肥やしていました。神殿だけではありません。ユダヤ人の社会では、ファリサイ派の人々は人目に触れるように、みせかけの敬虔を明らかにしようとします。このような当時の人々の宗教心、宗教的環境を見て、キリストは神のさばきを予感し、あるいは御霊に導かれて、エルサレムの滅亡を予感し、それを預言として語られたと言うことができるはずです。キリストはローマ軍によるエルサレム神殿冒涜を予告していたという考えはあながち的外れではありません。しかし、果たしてキリストは40年後のことを予告していただけなのでしょうか。

 

【憎むべき破壊者】

 イエス・キリストが言われた言葉、「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら」は、明らかに異教徒が聖所に立っているという意味です。神殿には異教徒は立ち入り禁止で違反者は死刑に処せられました。ローマ政府は死刑の権限を属領の住民に認めていませんでしたから、これは例外で、それが崩されます。異教徒が神殿の聖所に入り込みます。

 

これは、ダニエル書9:27(11:31,12:21も)に記されている文章に酷似しています。キリストはダニエル書からこの言葉を引用されたとみなされています。ダニエルが言わんとしているのは、再建された神殿(BC515)が、セレコウス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスの部下によって汚されるという事件のこととされています。BC167年、エルサレム神殿で汚れた犠牲がささげられ、神殿が冒涜されるという事件が起きます。ダニエルはこのことを語っているとされます。ダニエルの預言は成就しました。キリストは、ダニエルの言葉を、アンティオコスの冒涜事件だけ、つまりもう成就したものとだけとらず、その予告はこれから実現するべきものだと考えられていると解されます。

 

 マルコが記すイエス・キリストの言葉、山に逃れるように(山はエルサレム周辺の山々で隠れることが多い)、二階間から階段を使って降りないように(階段は外につけられているので目立ち、敵兵の弓槍に狙われる)、畑にいるものが外套を取りに帰らないように(外套は夜の夜具にもなる)と命じ、妊婦や育児中の女性は不幸だ(逃げられないから)、冬に事件が起きないように願え(エルサレムの冬は結構温度が下がる)などはローマ軍による侵略の光景に合致します。こういうところを見ればキリストは確かに40年後の事件を予告している、そして、弟子たちに警告をしていると解釈されます。だから、キリストの言葉は成就してしまって、私たち読者に関係ないとされるかもしれません。

 

キリストは、その苦難は、創造以来かつてなかったような苛酷で激しく、壮大なものといわれます。その事件は今後も起きないほどの絶大なものです。すると、キリストの言われたことはただ40年後のローマ軍の侵攻だけを語っているのかどうかは疑問です。歴史上、エルサレムを襲った悲劇以上の惨劇は繰り返されています。ローマ帝国が与えた戦争の惨劇はもっとひどいところが多々あります。さらに言えることは、実際、第二次世界大戦の戦火ほど悲惨なものはありません。ローマによる侵略など比較にならない惨事が起きました。そして、そのような災禍に、主がご自分のものとして選ばれたもの=キリストの弟子たちでさえその期間が短縮されなければ救われないような事態が述べられていますが、そうすると、キリストがここで言われている予告は、単に40年後の事件だけではないと見るべきです。

 

【終わりのとき】

つまり、キリストは将来起こる一つの事件ではなく、むしろ、終わりのときに起こる災禍を予告していると解釈できます。終わりのときこそ、未だ、人類が経験したことのないような凄まじい事件が起きます。終わりのときは必ず来るという予告です。この世界はいつまでも存続し、終末などないと思っている人が多い中で、キリストはこのみ言葉を通して、そうではない、この世の終わりはあると宣言されているのです。

 

【偽キリスト・偽預言者】

 終わりの前に起こることがここで語られています。偽メシヤ=偽キリスト、それに偽預言者の登場です。メシヤは救い主を指しますが、その偽者が出てきます(13:5-6)。彼らは惑わすことの専門家です。彼らはしるしや奇跡を行います。超自然的な行為です。手品のようなものもあったかもしれませんし、目くらましであったかもしれません。あるいは、本当に奇跡を起したのかもしれません。今日では、もっと手の混んだやり方で私たちを惑わします。

 

 今日では、コンピューターを使って将来を予測する営みが繰り返されます。そのような将来を予測する研究や学問を否定するものではありません。将来を予測したり、予報を出したりすることは私たちの社会生活にとって大切です。天気予報は以前に比べて精度が高くなりました。そのおかげで私たちは行事を中止したり、実行したりできます。

 

 しかし、そのような予想で、人を惑わすだけではなく、神に従うものたちの心を乱してしまうことも起こっています。終わりのときの予告をすればするほど、人々の不安を駆り立てたり、あるいは絶望させたり、そうかと思うと、終わりのときなどないと信じ込ませようとします。

 

【終わりの日に備える】

 終わりのときは来ます。必ず来ます。偽キリストや偽預言者に惑わされてはなりません。それがキリストの説教の意図です。単に終わりの日があるかないかというだけではありません。その日は必ずありますが、そのことを知って終わりの日に備えさせることこそキリストの意図です。

 

 神を信じて生きているものを惑わすようなしるしや奇跡が繰り返されます。偽キリスト、偽預言者は平穏な時だけ活動するのではありません。むしろ、彼らは苦難の時代に活躍します。それはキリストが3:3-13で予告されているとおりです。恐るべき苦難の時代が到来します。戦争や自然災害だけではありません。神を信じ、告白するものにとっては、迫害や身内による圧迫が起きます。そのようなときこそ偽預言者のつけ入るときです。

 

【忍耐と苦難の短縮】

 私たちは惑わされないように、忍耐しなければなりません。どうすれば惑わされず、忍耐できるのでしょうか。まず、キリストは、神がその期間の短縮を約束してくださっています。忍耐するものは救われます。苦難を耐えることは容易なこととはいえません。誰でも苦難に会えば耐え難いと呻き苦しむことでしょう。だが、私たちは知らなければなりません。神は私たちが救われるように配慮してくださっています。耐え難いと思われる試練は来ます。そういうものが来ないというわけにはいきません。私たちの経験が語るように大なり小なり苦難は来ます。それは避けがたいのです。しかし、その期間を短縮する方は苦難に耐えるようにしてくださっています。終わりの日の近接に対処して、私たちに必要なことは、私たちを守ってくださる主キリストを信頼して、その力を信じきることなのです。(おわり)

2016年01月24日

2016年1月17日説教「終わりの時の到来のしるし」金田幸男牧師

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説教「終わりの時の到来のしるし」

 

聖書:マルコによる福音書13

1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

終末の徴

3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。

11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 

 

 

要旨  マルコによる福音書13章全体は、オリーブ山の説教と言われているところで、終わりのとき、終末について語られています。

 

【二つの誤った考え】

 終わりのときについて、二つの誤った考えがあります。

 

ひとつは否定です。世界は永久に続くというもので、もし終わりがあるとしても何億年も先のこととされます。太陽がエネルギーを失い、大膨張し、太陽系そのものが消滅するとされたときとか、宇宙そのものが消滅するときです。

 

もうひとつは終わりのときは間もないとか、あるいは何年何月まで計算され、その日が近いというものです。聖書のあちこちを引用しながら、終わりのときの接近を叫び、早急の対処を求めます。恐怖心をあおったり、宗教的熱心を促したりします。

 

 確かに、終わりのときはあります。私たちの理性がそのように判断します。この世界には初めがあります。始めのあるものには終わりがあります。私たち自身の人生がそうです。出生があれば死亡があります。罪ある世界では、どのようなものも存在する限り、最初があり、時間と共に古び、そして、失われます。聖書もまた、終わりについて語っています。イエス・キリストがそれを証言してくれています。このマルコ13章もそのひとつです。

 

【最後の審判と希望】

聖書は、終わりのときが単なる存在の終焉に止めません。終わりのときは神のさばきのときでもあります。キリストはこのことについても明言されています。ただ、ここではっきり言わなければならないことは、キリストは終わりについて語られる場合、読者である私たちを恐怖に陥れる意図は決してありません。むしろ、終わりのときはキリストにあるものは終わりのときこそ完全な救いのときとなるのであり、終末は期待して待つ希望の終わりのときなのです。キリストからこのことを学び取りましょう。

 

【神殿の賞賛】

 キリストは神殿を去ろうとされます。そして、キデロンの谷を隔てている、いつも休みを取られるオリーブ山に行かれます。神殿から出て行こうとされたとき、弟子たちは神殿の建物を賞賛します。当時、ヘロデ大王によって新しい神殿の建物が建築中でありました。

 

最初のエルサレムの神殿は、BC958年ごろソロモンによって建てられます。これがエルサレム第一神殿と呼ばれ、その壮大さは当時類を見ないほど壮大で華美を窮めました。多くの装飾がなされ、堅固な建築物でした。ところが、この神殿はBC587年にバビロンによって破壊されてしまいます。その後、BC536年に指導者のゼルバベルの指導下で再建されます〔エズラ6:15〕。

 

これが第二神殿ですが、捕囚となった人々がその厳しい条件下で再建した建物で、再建に多くの民は感激しましたが〔エズラ3:11-13〕実際には、第一神殿に比べて規模も外観も内部装飾も、おそらくみすぼらしいものであると思われます。そして、この神殿はしばしば外国の略奪を経験します。BC169年にはセレコウス朝シリアに、そして、その後またローマに占領されます。

 

こうして第二神殿はかなり破損し、痛んでいました。そこで、ユダヤの王となったヘロデ大王は、自分が外国人であり、ローマと結託して権力を握った手前、その力を誇示するためにも、エルサレム神殿の増築を手がけるようになります。BC20年ごろ着工し、AD64年に完工します。イエス・キリストと弟子たちがエルサレムに上られたときはまだ建築中であったことが分かります。しかし、そのころ工事はかなり進行していて、神殿の建物はすでに出来上がり、工事はおそらく神殿を囲む壁とか、神殿の庭の装飾などに時間がかけられていたのではないかと思われます。弟子たちはすでに出来上がった建物を見て、その壮大さに感嘆します。神殿に用いられた当時のローマの土木・建築技術は最高水準のもので、大きな石がふんだんに使用されていました。弟子たちの大半はガリラヤの出身です。彼らのふるさとの地にはエルサレムの神殿のような大きな施設はなかったでしょう。ヘロデは自身の権力を示すために当時の異教の神殿建築以上に資材を投入したと言われています。弟子たちが驚嘆の声を挙げても不思議ではないほど立派で、多額のお金が使われました。

 

【主は神殿崩壊を預言】

 ところがイエス・キリストはこのヘロデの第三神殿の崩壊を預言されます。弟子たちはそれを聞き、おそらく驚愕したのではないでしょうか。こんな堅固で壮大な建物が壊れてしまうなどということはありえないと思った弟子もいたに違いありません。あまりにも意外なことばを聞いた弟子たちはキリストの言葉にどう考えていいのか全然分からなかったのではないでしょうか。沈黙して、キリストと共にキデロンの谷を通って行きました。キリストはオリーブ山の頂上だと推測できますが、そこに座っておられたとあります。谷を隔てて神殿の建物がよく見えたはずです。

 

【終末のときはいつか?】

そこで4人の弟子たちがやってきます。彼らは恐る恐るやってきたのかもしれません。内容が内容だけに他の弟子たちは尋ねることができなかったのかもしれません。あるいは彼らが他の弟子たちを代表して質問をしているのかもしれません。

 

 弟子たちは、エルサレム神殿の破壊は、単に建物の崩壊だけと認識していたのではないことが分かります。彼らはエルサレム神殿の破壊は終末のときであると受け止めていました。神殿のような、神がそこにいますことが堅く約束されている、ユダヤ人にとっては信仰の拠り所が破壊されるときというのは尋常なことではありません、それはありえない、しかしもし起きればたいへんなことが起きるに違いない、このように考えていたことは明らかです。

 

【終末の到来の兆候は】

 弟子たちは、神殿破壊とは終末の到来と思ったのでしょう。そのときはいつか。そして、その日の到来のしるし、兆候は何か、と問います。この世界の終わりについて緊張しつつ問うたはずです。

 

 キリストは答えられています。13節までに、四つのしるしが語られます。終わりのときの到来、接近を示すしるしはあるのだ。キリストはそのように語られます。

 

【キリストの名を騙るものの登場】

 第一は、キリストの名をかたるものの登場です。彼らは人を惑わします。イエスの名を語り、イエスの名でかたり、教えます。偽ってそうしますので、彼らのことを偽キリストと呼ぶことができます。キリストは救い主、救世主のことです。偽キリストは宗教的な事柄だけではなく、あらゆる領域でも人類の救済を叫びます。独裁者はこの手法を用います。独裁者の言っていることを受け入れることが国家の安泰、国民生活の安定、繁栄を伴うと宣伝されます。独裁者はしばしば救済者であるかのように振る舞います。むろん、宗教界においても救済者はあとを絶ちません。

 

当時、ローマ帝国の支配に対抗し、その転覆をはかるものがメシヤを自称したことが知られています。偽キリストは何度も現れては消え、また現れてきます。

 

【戦争、地震、飢饉】

第二は、戦争、地震、飢饉です。戦争のうわさはいつも叫ばれます。21世紀になっても戦争はやみません。それどころか、かたちを変えた戦争が増えています。国、特に、民族と民族の戦争は、ついに世界大戦にまで発展します。国際的な戦争だけではなく、国内では民族紛争が絶えません。

 

飢饉は、未だに収束することはありません。一方では飽食があり、他方では何万人もの人たちが栄養失調になり、餓死するものさえあります。このような災害は地震のような自然災害、そして人間が作り出す人災とその数その種類は数え上げることもできません。人間の科学的知識や技術は進歩しましたが、悲劇は繰り返されています。

 

【迫害】

第三は迫害です。キリストの弟子たちは、その信仰のゆえに迫害を受けます。キリストがここに上げられているのは当時の裁判の手順です。宗教的な犯罪も含め、まず訴えられたものは地方の裁判所に連れて行かれます。それに付随して、ユダヤ人の会堂で取調べを受けます、取調べといっても拷問に他なりません。そして、さらに上級の裁判は地域の支配者によって行われます。信仰のゆえにキリスト者はどの時代でも裁判を受けたり、取調べを受けたり、そして投獄され、処刑されました。

 

【家族の離反】

第四は、家族の離反、争い、そして、命を奪われることも珍しくありません。

 

以上のようなことが終わりのときのしるし、兆候だとキリストは言われますが、ここで考えてみると、これらは特別な現象、出来事でありません。終わりは必ず来ます。そのしるしは何か。特別な不思議な現象が起きると思いがちです。ところがキリストが言われているしるしは常に、あらゆるところで起きている事件に過ぎません。つまり、終わりのときのしるしだとすぐに見分けられるようなしるしではなく、その兆候はいつどこにでも起きている事件なのです。

 

 するとどうなのでしょうか。私たちは終わりの日の到来をどうすれば予測できるのでしょうか。特別明瞭なしるしでなければどうすればいいのでしょうか。

 

【いつ、その日が来てもいいように備えをすること】

 わたしにできることはいつその日が来てもいいように備えをすることです。終わりに日に備えて準備をすることです。ではどういう準備をするのか。キリストは迫害が拡大する、それは福音が地の果てまで宣教されることであり、その宣教が終わるまで終わりの日は来ないと言われます。宣教は福音の宣教にほかなりません。

 

【救いの完成のとき】

神の救いの恵みがあまねくすべての人に伝えられるとき、そこに救いが宣言されます。これは終わりの日の到来を示すのであれば、終わりの日は悲劇的な苛酷な時の到来ではなく救いの完成のときとなります。福音が宣教され、信じるものが満たされるときこそが終わりのときですから。その日の到来は信じるものには神の大いなる御業を経験するときとなります。さらに、最後まで忍耐するものは救われると約束されます。それまでの間は大きな困難に見舞われます。耐えがたい苦痛と苦悩を経験するでしょう。しかし、その期間が終われば救いは完成します。備えをするとはこの希望を持って忍耐することに他なりません。終わりの日は恐るべき、そんな日が来たら困るという日ではありません。むしろ、その逆なのです。私たちには終わりのときは救いの完成のときであり、待ち遠しく思われる日なのです。(おわり)



2016年01月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2016年1月10日説教「献げるとは」  金田幸男牧師

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説教「献げるとは」金田幸男牧師

 

聖書:マルコによる福音書12

41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

要旨

【献金】

 イエス・キリストはエルサレム神殿の庭で教えを語られていましたが、13:1で、神殿の境内を去っていかれたとありますので、神殿で教える働きを終えてしまわれます。その神殿の境内での出来事の最後にあったことが記されています。場所は賽銭箱の置かれていたところとあります。

 

神殿の一番奥は聖所で、そこは祭司しか入ることが許されていませんでした。その後がイスラエルの庭で、さらにその外に「婦人の庭」があり、そのさらに外側が異邦人の庭とされ、異邦人で改宗者がそこまでは入ることができました。ユダヤ教徒ではない異邦人は異邦人の庭にも入ることができませんでした。

 

その婦人の庭には宝物庫がありました(ヨハネ8:20)。この婦人の庭には、賽銭箱が置かれていました。トランペットの形をした金属製の賽銭箱が13個もずらっと並べられていたそうです。賽銭=献金が奨励されていましたが、イスラエルの人々には2種類の献金が奨励されていました。ひとつは義務的なもので、イスラエルの男性に割り当てられていた献金です(出エジプト30:13,14、1年につき、銀半シェケルと決められています)。もう一つが自主的な献金で(列王記下11:5-6)、この献金は神殿の修復のために集められました。新約の時代にはこの献金はイスラエルの貧しい人たちのために使われたといわれています。イエス・キリストは婦人の庭で賽銭箱の前に陣取って様子をご覧になっていたとあります。トランペット型の賽銭箱は金属性で作られていましたから、賽銭が投げ込まれるとチャリンチャリンと音がします。キリストはその音をじっと聞かれていたのかもしれません。

 

【金持ちの献金】

 この賽銭箱に献金を投げ込んでいたのは多くの金持ちでした。婦人の庭は、イスラエルの庭への通過点となります。当時は過ぎ越しの祭り直前でたくさんのユダヤ人がさらに奥のイスラエルの庭を目指します。とうぜん、金持ちたちが献金しているのはよく見えます。チャリンチャリンと大きな音がする上に、巡礼者たちがここを通過して行きますので、金持ちたちの行動は他の人からよく目立ちます。

 

 献金はその人の敬虔、信心の表現と理解されていました。献金することで、金持ちたちが善行をしているとみなされます。そうすれば社会的に尊敬に値するとみなされます。

 献金は献身のしるしです。少なくともそのような内面の心のあり方の、外側への現われが献金とみなされていました。このこと自体は非難されるべきことではありません。献金はまさしく献身のしるしです。献金することでイスラエルの中で尊敬に値する人物と評価されます。金持ちたちは少なくとも人々から、敬虔で善人という評判を求めた。これが金持ちたちの本心であったと思われます。献金が信仰、特に献身のしるしであるという考えはイスラエルの中でも浸透していました。たくさんの人が通っていく婦人の庭の賽銭箱に献金をするならばその人はたいへんよく目立ちます。だから、金持ちは人に見られ、善人だと思われるためにささげものをしていたのです。このようなみせかけの善行は非難されるべきです。しかし、献金が献身のしるしというのは全く正当な見方です。金持ちたちはその献金の原則を曲解していたのです。

 

【貧しいやもめの献金】

 それに引き換え、貧しいやもめが2レプトン銅貨を献金したことが評価されています。2レプトン銅貨が1クァドランスだと記されます。1クァドランスは64分の1デナリオンに相当するとされています。1デナリオンは当時の労働者1日分の賃金であったとされますが、現在の金銭に変換すれば1万円くらいでしょうか。すると、1クァドランスはせいぜい200円くらいということになります。そして、これがやもめの一日分の生活費であったと記されていますが、1日200円で生きていこうとするのはほぼ不可能なことです。

 

 このやもめが何歳であったかは記されていません。老齢のやもめである可能性が大きいと思います。しかし、若いやもめであったことも否定は出来ません。

 キリストは様子をご覧になっておられました。金属製の賽銭箱にお金が投げられるときチャリンチャリンと音がするのを面白がって見ておられたのかもしれません。

 

キリストは弟子たちを呼ばれます。そして、厳かな言葉で語られます。「はっきり言っておく。」これは極めて重要なのだという意図をはっきりするためにこの言葉が使われます。弟子たちにも重大な問題であると意識させるために使われます。私たちも聞き漏らしてはならない重大な意味が隠されています。弟子たちはこのとき、キリストと同じくベンチに座って様子を見ていたのではなさそうです。

 

 イエス・キリストは金持ちたちの行動を批判されていることは確かです。しかし、どの点を批判されたのか。やもめは評価されていますが、どの点を評価されたのでしょうか。

 

 資産に対する献金額の割合でしょうか。やもめは有り金全部を献金しました。その点では彼女は100パーセント献金しました。金持ちは割合からすれば財産に比してわずかというべきでしょう。 

 

キリストは収入や財産に比べて大きな割合でささげることを評価され、だから多額をささげよと教えられているのでしょうか。そのようなことは考えられません。できるだけ多額の献金をするものが信心深いということにはなりません。しばしば露骨に言われなくとも、献金を多くする人は熱心な信仰の持ち主だという考え方は消えることはありません。

 

 金持ちが批判されるのはみせかけの敬虔や信心を献金で表わそうとしたところにあります。それではこのやもめのどこが評価されるのでしょうか。

 

【同労者】

 献金には多くの意味が含まれています。献金の勧めをする場合、その献金の意味を教会員に教える作業を伴わなければなりません。それは恵みの機会の提供です。例えば献金は、遠くにいる働き人と共同作業を可能にします。遠くに同行することができなくても献金で働き人と共に働きます。

 

【献金における罪の赦しと恵み】

献金は罪の赦しを求めてささげられることもあります。それは決して取引などではありません。純粋に、神に対する思いを献金で表現することは決して間違っていません。

 

 しばしば、献金を奨励する場合、何かお金集めに過ぎないと批判にさらされることがあります。献金など形式に過ぎないと批評され、献金の勧めをためらう人も多くいます。

 

しかし、それは誤解です。献金の勧めは恵みにあずかるようにとの勧めに他なりません。伝道のための献金で、私たちが福音宣教の第一戦に立つ働き人と共にたつこと、共に働くことが可能ならばこれこそ神の聖なる大事業に参画することになります。

【主は貧しいやもめの献金の何を賞賛されたか】

 貧しいやもめの献金をキリストはどうして評価されたのでしょうか。彼女が生活費と比べて大きな割合の献金をしたことではありません。貧しい人たちはその日暮らしのために悪戦苦闘しています。キリストはそういう民衆の生き様を否定されるはずがありません。信仰とはそんな日々の営みなどを忘れてひたすら業、修行などに励むこととされたりします。通常の営みを放棄してもっぱらその宗教団体のために奉仕することが価値あることだというような教えが語られたりします。そういう熱心を示すことが厚い信仰とされたりします。

 

 キリストはそういう熱狂を奨励されているわけではありません。

 

【献金は、祈り】

 では何を評価されているのでしょうか。献金は、祈りである、これが多くの宗教に見られる考え方です。賽銭を投げ入れるとき。交通安全とか商売繁盛の祈願がささげられます。献金はその意味で願いをささげることです。むろんその献金の多寡で願いが成就するのだという考えもありますが、献金の多寡よりも献金そのものが祈りとしてささげられることが稀ではありません。

 

【やもめの苦境】

 このやもめがどういう状況に置かれていたのか私たちには分かりません。やもめの年齢も分かりません。当時夫をなくした女性は経済的困窮に陥る場合が多くありました。生きていくために必死になり、その上、よくない評判に巻き込まれることもあったでしょう。老いたやもめならば身よりもなく、生きていくこと自体が困難になってしまうでしょう。ある人は病を負っていたかも知れません。精神的な苦痛と戦っている人もいたでしょう。とにかく、生きていく上でどうすることもできない状態に陥っていたかもしれません。

そういうところで何ができたのでしょうか。最終的に何ができるのか。神だけが頼りである。彼女が行き着いた最後の場面は、神の前で祈りをささげることであったと考えても差し支えないのではないでしょうか。

 

【最後に頼れるお方】

 最後のところで、ただ神だけが頼りである。これこそ「神頼み」です。しかし、神頼みなど弱い、あるいは怠惰な人間のすることだという誤解があります。最後まで努力することこそ大事だと言うのです。しかし、人間にはどうすることもできない局面に遭遇することも珍しくありません。そういう時、神すらも頼りにできない、そういう絶望を味わうしかない人がいます。それに比べて、最後の最後で神を信頼することができるのは幸いというべきでしょう。

 

このやもめがそこにあったからこそあとのことも考えないでささげものをし、祈ったのでしょう。神だけが頼りであると信じきっていたからこそあとのことなど考えないで献金をしたと考えてよいのだと思います。

 

 必死に祈りました。それは神が必ず助けてくださると信じたからです。キリストが評価されたのはこの神への信頼の姿であったと思います。

 

 私たちはやもめのような信心までいたっていないかもしれません。しかし、彼女は私たちの信仰の模範となっています。神が最終的に助けてくださる。どんなに追い込まれても神は助け主である。この信仰に私たちも立っていくように召されています。(おわり)

2016年01月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書