2015年12月27日説教「本当のメシヤ・キリスト」金田幸男牧師
L151227002.wav ←クリックで説教が聴けます説教「本当のメシヤ・キリスト」
聖書:マルコ12:35-37
要旨
【メシヤはダビデの子とは?】
イエス・キリストは、このときもエルサレム神殿の境内で教えを語られていましたが、注目すべきことは、今までは質問を受ける側に立つキリストが描かれていましたのに、ここでは、キリストのほうが質問をされています。ただし、答えたのはイエス・キリストご自身、つまり、自問自答の形を取っています。
どうして、律法学者たちは、「メシヤ=油注がれたものというヘブライ語で、ギリシヤ語ではキリストは、ダビデの子だ」と言っているのか、とキリストは問われます。ダビデの子とはダビデの子孫を指しています。大事なことは、ここでイエス・キリストは、メシヤはダビデの子、つまり、ダビデの子孫からではないといわれているのではないという点です。イエス・キリストの質問は、どのような意味で、律法学者たちはメシヤ=キリストをダビデの子孫だと言っているのかということです。メシヤがダビデの子であり、ダビデの家系から出るということは、これは旧約聖書の一貫した主張です。メシヤはダビデの子である。ユダヤ人はこのことを信じていました。
イエス・キリストもエルサレムに入城するときには、ホサナと歓呼の声を受けられましたが、そのときも、ダビデの来るべき国、つまりダビデの子孫が支配する国の王として入場されたのでした。
以下の聖書は旧約、特に預言者たちのことばです。イザヤ9:2-7,11:1-9、エレミヤ23:5-6、30:0,33:15,17,22、エゼキエル34:23-24、ホセア3:5、アモス9:11など多数。
律法学者たちは聖書研究の専門家として、メシヤはダビデの子であると認めていました。しかしながらどういう意味でそのようなことを言うのか。この個所では明確に記されていませんが、律法学者も含め、当時のユダヤ人がどのようなメシヤを期待していたか、それはさまざまな資料を通しても知ることができます。
【ユダヤとローマ帝国】
彼らは切実にダビデの王国の再建を願っていました。その当時、ユダヤはローマ帝国に支配下にありました。名目上、ヘロデ王家が支配者でありましたが、ヘロデ家の支配者たちは、ローマ帝国の権勢のもとでの傀儡政権と言っても過言ではありませんでした。ローマ帝国は支配地の政治や経済機構、文化、宗教などを尊重します。ただし、課税と言うことと、それから、ローマに対する忠誠という点では、支配地を縛り付ける方針をとります。ユダヤ人の中にはこのような体制を受け入れるものも多かったのですが、異民族の支配を潔くないと思うものも多数ありました。どんなに寛容な政策が行われても民族の誇りまで消し去ることはできません。ユダヤ人は誇り高い民族であるというだけではなく、ただひとりの神を信じているというだけではなく、その神から選ばれた民であるという自覚に生きていました。ローマの支配はその自覚と対立するものに他なりませんでした。
【ユダ国家再建のメシヤ】
だから、ローマ帝国からの独立は悲願であり、そのために手段は選ばないとまで考える愛国者もいました。このような人々にとって、ローマからの独立、主権の回復は大きな願望でした。その国家再建はメシヤによって実現する、このようにあるユダヤ人は切望し、メシヤを期待しました。その王国再建はダビデ家の出身者が起される。このような期待は当時のユダヤ人社会に充満していました。実際、もうしばらくして、ユダヤ人の中の愛国者たち、熱心党という党派が蜂起して対ローマ戦争を引き起こします。熱心党でなくとも、ユダヤ人はメシヤという指導者が登場し、国家の独立を願ったのです。
律法学者たちも過激な政治運動を画策するものたちと同じであったわけではありませんでしたが、このような民族的な願望から距離を置いたのでもありませんでした。彼らも民衆に迎合して、あるいは本心から、メシヤはダビデの子孫から出る、それが神の約束だと主張していたに違いありません。メシヤはそのように期待されていました。
メシヤがユダの国家主権を回復してくださる。ユダはダビデ時代のように繁栄を取戻す。ユダは豊かな経済を営み、強大な軍事国家になる。このようなメシヤ期待がますます大きくなってきていた時代です。イエス・キリストはこのような当時の多くのユダヤ人が心に抱いていた思いを総括して自問自答のようなかたちで明らかにされているのです。キリストは、そのような一般的なメシヤ期待をよくご存知で、律法学者たちもその枠の外にいたのではありませんでした。
【真のメシヤ】
キリストは、このようなメシヤ観に対して否定をされます。当時のユダヤ人が考えていたメシヤと違う、しかし聖書が明らかにするメシヤとはどのようなものか。イエス・キリストは答えとして詩編110:1を引用されます。
この詩編はダビデの詩と理解されていました。その中で、主がわが主にお告げになった、とあります。主はヤハウエといわれる主なる神のことです。それは主なる神ご自身です。その神がダビデから見ればわが主、つまり、キリストに対して語られたというのです。主なる神とメシヤとダビデは別個の存在として描かれています。ダビデから見れば、メシヤはわが「主」=主人を表わしています。さらに、そのメシヤはその右の座に座ることを命じられます。右の座に座するものとは、王と同等の権威権力を持って支配することを意味しています。つまり、神の右に座するものとは神そのものといったも過言ではありません。
主なる神が仰せになった相手は、単なるダビデ家に属するメシヤというのではなく、もっと偉大な存在である、それは神に等しいものだと詩編自体が明らかにしている。これがキリストの言葉でした。メシヤはダビデ自身が主と呼ぶほどの偉大なものだとキリストは詩編を解釈されます。これは重大な解釈です。キリスト自身が詩編をこのように読み取っておられます。これは決して無視してはならない事実です。
【ダビデ以上に偉大な方】
メシヤはダビデ自身が詩編で明らかにしているように、ダビデ王家以上の権威と力、栄光を持っておられるのです。ダビデの子孫であることから見れば、ダビデに比べれば低いかもしれません。しかし、実際にはダビデに比べてはるかに偉大な方、それがメシヤであるとイエス・キリストが明らかにされたのでした。メシヤは神なのです。
キリストはここで結局メシヤとは誰かという問題を突きつけておられます。いったいメシヤをどのような意味で信じ告白するのか。当時もいろいろのメシヤ観がありました。その最大のものがダビデ王国の再建でありました。あるいは再来と言ってもいいかもしれません。すでに数百年もダビデ家が滅んでいましたが、ダビデの子孫がイスラエルを再建し、かつてと同じ版図に拡大し、ユダを強大国にするような偉大な支配者の出現を人々は待望していました。
同じような問いが私たちにも示されます。キリストをどう見るか。ある人は偉大な宗教家、宗派の開祖だと信じています。釈迦や孔子、あるいはマホメットと同じような偉大な宗教的天才であると認めます。ある人は混沌とした現代社会を変革する革命理論を明らかにした人物とみます。あるいは、博愛主義者で、隣人への献身的な親切の実行者、だから、私たちはキリストに倣うものとならなければならないと主張されます。ある場合、キリストというのは狂信者で、結局大言壮語してローマ政府から疑いの目で見られ、ついに逮捕され、殺害された人生の敗残者に過ぎないとさえ言うものもいます。
今日、ますます、イエス・キリストを誰とするかに関して混乱は甚だしくなってきているように思われます。そして、私たちもまたこのことについて自己吟味する作業を怠ってはならないと思います。気づかないうちにキリストを見損なっていることもありえます。
【キリストは神】
イエス・キリストとはいったいどういう者か。キリストは自ら答えられています。詩編110:1を引用されていますが、二つのことに注目させられます。まず第一にメシヤは神の右に座するものと言われるところです。メシヤは単にダビデの子孫というのにとどまりません。また、かつてのダビデ王国の王と同じようにユダを強国にする英雄、あるいは独裁的権力者というのではありません。キリストはまさしく神であられます。
そして、このキリストは敵を打ち滅ぼされる方です。敵を屈服させる方と言われますが、ただ地上の戦争に勝利する軍隊の司令官という意味ではありません。キリストが打ち滅ぼす相手はあくまで霊的な勢力をも指しています。ときには、神の民を滅ぼそうとする国家権力であり、神を信じるものを憎む暴君です。あるいは、宗教的な見せ掛けをして、自分の弟子にしようとする偽キリストの場合もあります。その勢力は拡大し続けます。そして、この世を自らの権力の下に置こうとする霊的な勢力もあります。神に反抗する勢力であり、神の国の建設を極力押さえ込もうとする反キリストが支配する連中です。キリストはこのようなものを破壊する救い主です。
【罪の力を滅ぼすためにキリストは世に降られた】
そのような神に敵対する勢力を動かしているのは罪です。この罪は、私たちに根深く突き刺さっています。キリストはこの罪の力を破壊するために、メシヤとして来られました。
今私たちが学んでいるこのところの直後に記されているのは、キリストの十字架です。キリストは間もなくゴルゴタの丘の上で十字架につけられます。その十字架の上でキリストが死ぬことによって私たちの罪もそこで十字架につけられます。私たちはキリストの犠牲によって罪が許されます。
キリストとは誰か。どのような意味でメシヤはダビデの子というのか。ダビデの子孫として生まれてこられますが、単にダビデの子孫というのはなく、それ以上のお方としてこの世に来られました。神として、神に敵対するあらゆるものを破壊し、滅ぼす方としてこられました。私たちはこの方こそダビデの子、まことのメシヤとして受け入れ信じるのです。(おわり)
2015年12月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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