2015年12月20日説教「救いのために天から降ってきたイエス・キリスト」 金田幸男牧師
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説教「救いのために天から降って来たイエス・キリスト」
聖書:ルカ福音書2章8-20
要旨
【クリスマス=キリストの礼拝】
クリスマスという英語は、「キリスト」と「ミサ」という二つの言葉の複合語です。「ミサ」がよくご承知のように、ローマ・カトリック教会でつねに行われている礼拝を指しています。
クリスマスとは、キリストの礼拝を意味します。
その「ミサ」は古い英語から発していますが、さらに遡りますと、ラテン語のミシオ(送る)から派生しています。ミシオから英語のミッションという言葉がでます。ミッションとは、外国へ派遣される使節を意味していましたが、キリスト教の宣教団体もミッションと言い、派遣される宣教師をミッショナリと呼び、外国へ送り出す人々を指し、その団体をミッションと呼んだのでした。
実はこの言葉が宇宙飛行士が船外作業をすることにも適用されました。特別な任務を帯び、船外に送り出されて仕事をすることがミッションでした。本来、ミサはキリストを礼拝したものが送り出されることを指していましたが、後には、礼拝全体をミサという表現で表わしたのでした。
クリスマスはキリスト礼拝を意味していましたが、キリストを礼拝し、その恵みを心に留めながらそこを離れていく、送り出されることを意味しました。
クリスマスはキリストの誕生を祝う日であることを否定するものではありません。偉大な人の誕生が特別な日とされます。英雄、偉人の誕生日が大きな祭と結びつくのはどこでも見られます。
クリスマスがキリストの誕生日を祝う日であることは間違いありません。しかし、クリスマスが単にキリストの降誕を祝うだけの日ではありません。
キリストは処女マリヤから生まれてきたことは確かです。しかし、私たちの場合と異なる点があります。私たちは母の胎から生まれてきました。キリストも母親から生まれてきました。しかし、キリストの場合と私たちの場合は決定的に異なっています。
【天から降って来られた神の御子】
キリストの場合、天から降って来たとご自身が語られています。ヨハネによる福音書6:42では、イエスが「わたしは天から下ってきたパン」だと言われました。キリストは天から来られた方だとご自身が証言されています。
【「天」とは】
「天」とはどこでしょうか。近代人は「天」という概念を素直に考えることができなくなりました。かつては天は大空でした。あの青い空の向こうに天があると素直に信じていました。しかし、今ではその大空を大きなジェット飛行機が飛び、ロケットが宇宙空間に飛び出してしまっています。宇宙の向こうに天があると言っても大半の人は造り話と片づけてしまいます。その点、ますます現代人は進歩しています。昔、ソ連の宇宙飛行士が、「やはり神はいなかった」と言いました。無神論者であるパイロットにとって見れば、宇宙は天ではありませんでした。そうだとするとそんなものは神話だと考えます。天は場所的な名前ではなく、神がおられるところであり、生身の人間が近づくことができません。
私たちは自分の五感で知覚できないことを信じようとしません。五感を越えてご自身を明らかにしている神を否定する傾向にあります。神を否定するところでは天も否定されます。そんなものは空想だと思うのです。
科学が進歩すれば天の存在など空想だと思われていました。実際天の存在を否定する人が多くなっています。天など現代のもろもろの考え方からすればありえないと思われます。それは空想の産物と思われる可能性があります。
しかし、天がないと言うことは、神がいないと言うことと同等です。天は神のいますところです。神がいなければ天もありません。天などないという主張は神がないという主張と同じです。
【「神はある」】
しかし、聖書は「神はある」と断言されます(出エジプト3:14)。神がご自身について、「ある」と言われます。神があるといわれているのに無神論者は「神などない」と強く主張します。「ある」と「ない」は相容れません。妥協もできません。神があるといわれているのに神がないなどということはできません。
神が存在しなければ、天もありません。しかし、神は存在します。そうすれば天も存在します。天はあります。私たちは想像を逞しくして天を想定しなければなりません。むろん想像をしてからよく分かるものではありません。
神が自ら存在すると言われました。すると天も存在します。そこが神のいますところだからです。
キリストは天から下ってこられました。この下降は目的があります。一言で言うとキリストは私たち人間を救うために来られました。キリストは目的なしに天から降ってきたのではありません。まさか遊びに来たわけでもなく、何かを調べに来たのではありません。キリストは救いのために来られました。
【「救い」の核心】
ところで、「救い」という言葉も現代人には実感を伴わないあまり心に響かない用語となりました。救いとは何か。救いをいろいろと定義できるでしょう。
お金がなくなった人に、宝くじか何かで偶然に手に入る。それが救いだと言うのです。
病人が癒される。この場合も救われたといいます。
難しい問題があってさ迷っていたが、ようやく解決策を見いだすというようなことを救いといいます。
救いとはいったい何か。一般に「危険を免れる」ことを救いと言っているように思います。危険な状況を免れること、困難なところから解放される。これが救いと言われます。このような言葉の用法が間違っていると思われません、しかし、まことの救いは上にあげられた事柄以上を成し遂げられたお方からきます。
救いは確実なもので、最大の危険からの解放を意味します。私たち人間にとって最大級の危険と何なのでしょうか。答が多くあるように見えますが、私たちに困難をもたらすのは、「死」ではないでしょうか。
【死とは】
すべて私たちは「ある」という世界に生きています。しかし、死は私たちを非存在にします。死は私たちをないものにしてしまいます。これ以上に恐るべき現象はないと思われます。あったもの、有であったものが急にいなくなるのです。
死は一切を失わせます。この危機をもたらしたのは、人間の罪、言い換えれば、神からの離反でした。神よりも上に立とうとする傲慢さこそが罪です。この罪が根本的に解決されなければ救いはありません。
キリストはこの罪から私たちを解放しようとして天から降ってこられました。
【人は神になり得ない】
私たちのほうから天に昇って行けません。それは人間自身が神になることを意味しています。人間が神になろうとする。こういうことは常に起きています。しかし、人間が神になろうとして、その人間がよいことをした例はまれどころか皆無です。人間が神になって暴君となり、圧制者となり、
苛酷な政治や統治を行った例は枚挙の暇がありません。人間が神になってろくなことはありません。人間は自らの立場で神になることはできません。
【神が世に降られた】
神のほうが降ってこられました。天から降ってくるとはそういう意味です。
神が人間と等しくなられます。罪を除いては。
キリストはいのちにいたる道筋をつけてくださいました。この道を行けば必ず目的地に到着します。そのために天から降ってこられました。キリストはご自身に従うものにその道を示されます。間違いなく示されます。それが十字架の道です。
十字架にこそ、私たちが救われる道が刻印されています。この道を行けば必ず天にいたります。聖書はこのキリストに行く道を余すところなく記します。私たちはこのキリストの行かれた道をしっかりと把握するべきです。
キリストは、天から下ってこられ、またそこへ戻られました。私たちの同伴者として今もキリストは私たちと共におられます。キリストが同行してくださいます。キリストの弟子として、キリストを信じて、彼に従って歩むことが私たちもまた天に行く道をしっかり捉えたということを意味します。(おわり)
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2015年12月20日 | カテゴリー: ルカによる福音書
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