2015年12月6日説教「神は生きているものの神である」金田幸男牧師
L151206001.wav ←クリックで説教が聴けます説教「神は生けるものの神」
聖書:マルコによる福音書12章
18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、
19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。
20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。
22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。
24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。
25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。
要旨
【サドカイ派】
イエス・キリストは人々が集まる神殿の庭で教えを語られていました。次々とイエスと論争を企てるものが押しかけてきます。このたびはサドカイ派がキリストを陥れようとして議論を吹っかけてきます。
サドカイ派とは、ダビデの重臣団の一人、祭司ツァドクに由来すると考えられています(サムエル下8:17)。ツァドクをギリシヤ語で読みますと、サッドゥクとなります。ここからサドカイ派という名称が出てきたらしいのですが、ツァドクとサドカイ派の関係は不明です。サドカイ派がユダの大祭司一族とどのような関わりがあったのか不明だからです。
新約聖書でもサドカイ派は何度か登場しますが、ファリサイ派ほどではありません(ファリサイ派は100回以上、サドカイ派は14回だけ)。そして、紀元70年のユダヤ戦争の際のエルサレム陥落と共に姿を消します。このようなところから、サドカイ派は、エルサレムを中心に活動していたようですが、ユダの上流階級に属し、知識人が多く、民衆からは尊敬を受けていなかったというようなことが推量されています。
新約聖書では、サドカイ派が復活を否定していたグループであったことが分かります。このマルコ12:18-27もそうですが、使徒言行録23:6でパウロは最高議会から審問を受けたとき、議会の構成がファリサイ派とサドカイ派からなり、両者がからだのよみがえりについて見解が全く対立しているのを見て、「死者の復活に望みを置く」と語って、議論を混乱させたことが記されます。サドカイ派は復活などないという彼らの立場を聖書の実例から証明をしようとします。サドカイ派は聖書からその証拠を引き出してきます。律法に記されている、いわゆるレビラート婚を材料にしてからだの復活否定を試みます。
【レビラート婚】
レビラート婚というのは、申命記25:5-10に記されています。レビラートとは、ラテン語のレビールから派生した言葉で、子どもがない夫婦で、夫が先に死んだ場合、寡婦となった女性は夫の弟と結婚し、こどもが生まれたら、その子に亡夫の血統、財産を相続させるという規定です。サドカイ派はこの聖書に規定されている定めを持ち出してきて、復活否定を展開します。
そのために持ち出したサドカイ派の考えは、おそらくからだのよみがえりに関して論争相手であったファリサイ派を揶揄し、嘲弄するための、作り話であったようです。7人の兄弟がいた。長男夫婦はこどもなくして夫が亡くなります。レビラート婚の規定に従って、次男が兄の未亡人を娶ります。ところが、この次男も子どもを残さないで死にます。三男が、未亡人を妻にしますが、彼も先に子どもを残さないで死んでしまいます。次々と兄弟が死に、女性は、次々に夫の兄弟と結婚しますが、結局子どもを残さないままに、兄弟のほうは7人とも死に、最後に女性も死んでしまいます。すると、復活があると困ったことになるとサドカイ派は主張します。再婚を繰り返した女性はいったい誰の妻になるのか。復活があるとしたらとても不合理な事態が生じます。いったい誰の妻か分からなくなる。これはたいへん困った事態です。
サドカイ派は、復活否定のためにレビラート婚の規定、つまり聖書から証明をしようとしています。復活などあったらややこしい問題が起きます。
サドカイ派は聖書から、彼らの考え方を証明しようとはかります。他でもない、聖書からの論証で、これには反論の余地がなくなります。聖書を用いて、復活を否定する。これにはたいていの人は反対できなくなります。サドカイ派が狙ったのはこの点でした。
イエス・キリストはこのようなサドカイ派に明確に反駁されます。サドカイ派はイエス・キリストを侮蔑して、「先生」と呼びかけていますが、本心からではありません。イエス・キリストから何がしかの教えを聞くために「先生」などとは言いません。サドカイ派は、聖書に通じていると自負していたはずです。わざわざイエス・キリストに耳を傾けるつもりなどありませんでした。
【あなた方は聖書も神の力も知らない】
キリストは答えられます。あなた方は聖書も神の力も知らない。サドカイ派はこの言葉を聞いて激昂したかもしれません。彼らは聖書をよく読んでいた人々であったと想像されます。ファリサイ派と真っ向から論じ合う実力があると思っていたかもしれません。聖書に通じていたと自覚していたのです。聖書を知らない、とキリストから決め付けられてしまうには心外であったはずです。キリストは聖書だけではなく、神の力を認識していないと指摘されます。
【天使のように】
神の力は人間の力以上です。人間の知恵,力に比べれば比較にならないほど、神の力は強大なもののはずです。死者の復活のとき、人間的に見れば、レビラート婚で再婚した女性の立場は困ったものです。しかし、そのとき、天使のようになるといわれます。そうしますと、娶ったり、嫁いだりするようなことはない。天使のようになれば、人間のしがらみは消え去ります。
聖書を学び、そのときに、神の力という視点から読み解釈される必要があります。レビラート婚の記事を人間的視点で見るならば、復活は不合理な考え方になります。しかし、神の力で見るとき、この地上世界に見られるような人間関係のしがらみはもうありません。神の力でレビラート婚を読み取るとは、神の大きな力に対する信仰の目をもって見るということになります。復活否定など起こりません。
【夫を亡くした女性】
レビラート婚を信仰の目をもって見るとどうなるでしょうか。夫を亡くした女性はたちまち困窮にさらされます。親から多額の財産を所持するというようなことがなければ、本来は子どもに養われるべきなのですが、子どもがいないと身の置き所もなくなります。女性にはたいへんな自体になります。レビラート婚には救済的な側面があったのです。それはいうまでもなく、神の憐れみの表現です。神は社会的に不利な立場に置かれるもののためにおきてを定められました。レビラート婚をキリストの復活否定のために引き合いに出すことなどできなかったのです。
【死人の復活と夫と妻、親と子、兄弟姉妹の関係】
終わりのとき、死人は復活します。そのとき、夫と妻、親と子、兄弟姉妹の関係が亡くなるというと悲しくなる人が出てくるかもしれません。復活のとき、もう夫婦ではなくなる。そんなことは受け入れがたい。そう思う人がいても不思議ではありません。ここでも神の力の観点から読み込めば、別の視点も出てくるはずです。神が地上の人間関係などくだらない、価値のないことと切り捨てられるはずがありません。むしろ、さまざまな思いを聖化してくださる神です。私たちの思いを越えて神は素晴らしいことをなさいます。
【】
キリストは、今度は聖書から、復活の真実性を証明されます。聖書に文字通りに書かれていないことはたくさんあります。キリスト教信仰の重大な教理には文字でそのように書かれていない教理もあります。例えば三位一体の神です。しかし、私たちは聖書を信仰の眼をもって眺めるとき、重大な真理を読み取ることができます。文字通り書かれていないから真理ではないなどとはいえません。
【アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神】
キリストは、出エジプト記3章を引用されます。ここでは、モーセに神が現われ、自らを、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と自己紹介されます。ところで、モーセにこの啓示が与えられたとき、すでにアブラハムから数百年過ぎています。もう彼らの姿はどこにもありません。遺体は墓に収められましたが、もうすでに土に帰ってしまい、形の上ではもうどこにも存在しなかったかもしれません。とっくに無くなっていた。死はあらゆるものを無に帰してします。死は一切の終わり。死んでしまえばもう何もかもなくなるのだと思われています。この考えは何も現代人だけの特徴ではありません。モーセのころ、アブラハムもイサクもヤコブも消滅していたと考える人もいたでしょう。ところがキリストはこの出エジプト記の記事を取り上げて解釈されます。出エジプト記3:6をキリストは取り上げられます。すでに数百年の年月が過ぎ去り、モーセの父祖らは消え去っていたと見えます。
【永遠の契約】
神はアブラハム、イサク、ヤコブを忘れていなかったというだけではありません。神は、彼らと契約を結ばれました。特にアブラハムにはあなたの子孫は海の砂、天の星のようになると約束されます。また彼らに、乳と蜜の流れる約束の地を与えると言われ、契約を結ばれました。この約束は反故にされることはありません。アブラハムたちが死んでも約束は消えません。約束は必ず実現します。契約の内容は必ず実現します。アブラハムの死と共に神の約束は消滅したのではありません。とすれば神は復活を前提にアブラハムに約束をされたと言うことになります。
神は死んでしまい、もうそれで一切が終了してしまったものの神ではなく、一度は死んでもそれでもなお約束が必ず成就するようにされる神です。神はいのちを与えるかたでもあります。約束は必ず実現します。
堅く契約を守られるという信仰をもって、この個所を読みます。すると、神は生けるものの神であるということが分かります。信仰を持って聖書を読むときにこそ真理が明らかになります。信仰を持って、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と自分を明らかにされた神は当然のことながら、今は死んでいるかもしれないが、いつまででも死んだままの者の神ではなく、必ず終わりのときにキリストによりもはや死ぬことのないいのちを与えられたものたちの神なのです。キリストと同じく、その神は私たちをも永遠の命によみがえらされます。おわり
2015年12月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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