2015年12月

2015年12月27日説教「本当のメシヤ・キリスト」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書12章
35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。

説教「本当のメシヤ・キリスト」

聖書:マルコ12:35-37

 

要旨

【メシヤはダビデの子とは?】

 イエス・キリストは、このときもエルサレム神殿の境内で教えを語られていましたが、注目すべきことは、今までは質問を受ける側に立つキリストが描かれていましたのに、ここでは、キリストのほうが質問をされています。ただし、答えたのはイエス・キリストご自身、つまり、自問自答の形を取っています。

 

 どうして、律法学者たちは、「メシヤ=油注がれたものというヘブライ語で、ギリシヤ語ではキリストは、ダビデの子だ」と言っているのか、とキリストは問われます。ダビデの子とはダビデの子孫を指しています。大事なことは、ここでイエス・キリストは、メシヤはダビデの子、つまり、ダビデの子孫からではないといわれているのではないという点です。イエス・キリストの質問は、どのような意味で、律法学者たちはメシヤ=キリストをダビデの子孫だと言っているのかということです。メシヤがダビデの子であり、ダビデの家系から出るということは、これは旧約聖書の一貫した主張です。メシヤはダビデの子である。ユダヤ人はこのことを信じていました。

 

イエス・キリストもエルサレムに入城するときには、ホサナと歓呼の声を受けられましたが、そのときも、ダビデの来るべき国、つまりダビデの子孫が支配する国の王として入場されたのでした。

 

以下の聖書は旧約、特に預言者たちのことばです。イザヤ9:2-7,11:1-9、エレミヤ23:5-6、30:0,33:15,17,22、エゼキエル34:23-24、ホセア3:5、アモス9:11など多数。

 

 律法学者たちは聖書研究の専門家として、メシヤはダビデの子であると認めていました。しかしながらどういう意味でそのようなことを言うのか。この個所では明確に記されていませんが、律法学者も含め、当時のユダヤ人がどのようなメシヤを期待していたか、それはさまざまな資料を通しても知ることができます。 

 

【ユダヤとローマ帝国】

彼らは切実にダビデの王国の再建を願っていました。その当時、ユダヤはローマ帝国に支配下にありました。名目上、ヘロデ王家が支配者でありましたが、ヘロデ家の支配者たちは、ローマ帝国の権勢のもとでの傀儡政権と言っても過言ではありませんでした。ローマ帝国は支配地の政治や経済機構、文化、宗教などを尊重します。ただし、課税と言うことと、それから、ローマに対する忠誠という点では、支配地を縛り付ける方針をとります。ユダヤ人の中にはこのような体制を受け入れるものも多かったのですが、異民族の支配を潔くないと思うものも多数ありました。どんなに寛容な政策が行われても民族の誇りまで消し去ることはできません。ユダヤ人は誇り高い民族であるというだけではなく、ただひとりの神を信じているというだけではなく、その神から選ばれた民であるという自覚に生きていました。ローマの支配はその自覚と対立するものに他なりませんでした。

 

【ユダ国家再建のメシヤ】

だから、ローマ帝国からの独立は悲願であり、そのために手段は選ばないとまで考える愛国者もいました。このような人々にとって、ローマからの独立、主権の回復は大きな願望でした。その国家再建はメシヤによって実現する、このようにあるユダヤ人は切望し、メシヤを期待しました。その王国再建はダビデ家の出身者が起される。このような期待は当時のユダヤ人社会に充満していました。実際、もうしばらくして、ユダヤ人の中の愛国者たち、熱心党という党派が蜂起して対ローマ戦争を引き起こします。熱心党でなくとも、ユダヤ人はメシヤという指導者が登場し、国家の独立を願ったのです。

律法学者たちも過激な政治運動を画策するものたちと同じであったわけではありませんでしたが、このような民族的な願望から距離を置いたのでもありませんでした。彼らも民衆に迎合して、あるいは本心から、メシヤはダビデの子孫から出る、それが神の約束だと主張していたに違いありません。メシヤはそのように期待されていました。

 

メシヤがユダの国家主権を回復してくださる。ユダはダビデ時代のように繁栄を取戻す。ユダは豊かな経済を営み、強大な軍事国家になる。このようなメシヤ期待がますます大きくなってきていた時代です。イエス・キリストはこのような当時の多くのユダヤ人が心に抱いていた思いを総括して自問自答のようなかたちで明らかにされているのです。キリストは、そのような一般的なメシヤ期待をよくご存知で、律法学者たちもその枠の外にいたのではありませんでした。

 

【真のメシヤ】

 キリストは、このようなメシヤ観に対して否定をされます。当時のユダヤ人が考えていたメシヤと違う、しかし聖書が明らかにするメシヤとはどのようなものか。イエス・キリストは答えとして詩編110:1を引用されます。

 

この詩編はダビデの詩と理解されていました。その中で、主がわが主にお告げになった、とあります。主はヤハウエといわれる主なる神のことです。それは主なる神ご自身です。その神がダビデから見ればわが主、つまり、キリストに対して語られたというのです。主なる神とメシヤとダビデは別個の存在として描かれています。ダビデから見れば、メシヤはわが「主」=主人を表わしています。さらに、そのメシヤはその右の座に座ることを命じられます。右の座に座するものとは、王と同等の権威権力を持って支配することを意味しています。つまり、神の右に座するものとは神そのものといったも過言ではありません。

 

主なる神が仰せになった相手は、単なるダビデ家に属するメシヤというのではなく、もっと偉大な存在である、それは神に等しいものだと詩編自体が明らかにしている。これがキリストの言葉でした。メシヤはダビデ自身が主と呼ぶほどの偉大なものだとキリストは詩編を解釈されます。これは重大な解釈です。キリスト自身が詩編をこのように読み取っておられます。これは決して無視してはならない事実です。

 

【ダビデ以上に偉大な方】

メシヤはダビデ自身が詩編で明らかにしているように、ダビデ王家以上の権威と力、栄光を持っておられるのです。ダビデの子孫であることから見れば、ダビデに比べれば低いかもしれません。しかし、実際にはダビデに比べてはるかに偉大な方、それがメシヤであるとイエス・キリストが明らかにされたのでした。メシヤは神なのです。

 

 キリストはここで結局メシヤとは誰かという問題を突きつけておられます。いったいメシヤをどのような意味で信じ告白するのか。当時もいろいろのメシヤ観がありました。その最大のものがダビデ王国の再建でありました。あるいは再来と言ってもいいかもしれません。すでに数百年もダビデ家が滅んでいましたが、ダビデの子孫がイスラエルを再建し、かつてと同じ版図に拡大し、ユダを強大国にするような偉大な支配者の出現を人々は待望していました。

 

 同じような問いが私たちにも示されます。キリストをどう見るか。ある人は偉大な宗教家、宗派の開祖だと信じています。釈迦や孔子、あるいはマホメットと同じような偉大な宗教的天才であると認めます。ある人は混沌とした現代社会を変革する革命理論を明らかにした人物とみます。あるいは、博愛主義者で、隣人への献身的な親切の実行者、だから、私たちはキリストに倣うものとならなければならないと主張されます。ある場合、キリストというのは狂信者で、結局大言壮語してローマ政府から疑いの目で見られ、ついに逮捕され、殺害された人生の敗残者に過ぎないとさえ言うものもいます。

 

 今日、ますます、イエス・キリストを誰とするかに関して混乱は甚だしくなってきているように思われます。そして、私たちもまたこのことについて自己吟味する作業を怠ってはならないと思います。気づかないうちにキリストを見損なっていることもありえます。

 

【キリストは神】

 イエス・キリストとはいったいどういう者か。キリストは自ら答えられています。詩編110:1を引用されていますが、二つのことに注目させられます。まず第一にメシヤは神の右に座するものと言われるところです。メシヤは単にダビデの子孫というのにとどまりません。また、かつてのダビデ王国の王と同じようにユダを強国にする英雄、あるいは独裁的権力者というのではありません。キリストはまさしく神であられます。

 

 そして、このキリストは敵を打ち滅ぼされる方です。敵を屈服させる方と言われますが、ただ地上の戦争に勝利する軍隊の司令官という意味ではありません。キリストが打ち滅ぼす相手はあくまで霊的な勢力をも指しています。ときには、神の民を滅ぼそうとする国家権力であり、神を信じるものを憎む暴君です。あるいは、宗教的な見せ掛けをして、自分の弟子にしようとする偽キリストの場合もあります。その勢力は拡大し続けます。そして、この世を自らの権力の下に置こうとする霊的な勢力もあります。神に反抗する勢力であり、神の国の建設を極力押さえ込もうとする反キリストが支配する連中です。キリストはこのようなものを破壊する救い主です。

 

【罪の力を滅ぼすためにキリストは世に降られた】

 そのような神に敵対する勢力を動かしているのは罪です。この罪は、私たちに根深く突き刺さっています。キリストはこの罪の力を破壊するために、メシヤとして来られました。

 

 今私たちが学んでいるこのところの直後に記されているのは、キリストの十字架です。キリストは間もなくゴルゴタの丘の上で十字架につけられます。その十字架の上でキリストが死ぬことによって私たちの罪もそこで十字架につけられます。私たちはキリストの犠牲によって罪が許されます。

 

キリストとは誰か。どのような意味でメシヤはダビデの子というのか。ダビデの子孫として生まれてこられますが、単にダビデの子孫というのはなく、それ以上のお方としてこの世に来られました。神として、神に敵対するあらゆるものを破壊し、滅ぼす方としてこられました。私たちはこの方こそダビデの子、まことのメシヤとして受け入れ信じるのです。(おわり)


2015年12月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年12月20日説教「救いのために天から降ってきたイエス・キリスト」 金田幸男牧師

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以下をクリックでクリスマス礼拝祝会の画像が見れます 

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新約聖書 カによる福音書2章
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

説教「救いのために天から降って来たイエス・キリスト」

聖書:ルカ福音書2章8-20

 

要旨 

【クリスマス=キリストの礼拝】

 クリスマスという英語は、「キリスト」と「ミサ」という二つの言葉の複合語です。「ミサ」がよくご承知のように、ローマ・カトリック教会でつねに行われている礼拝を指しています。

クリスマスとは、キリストの礼拝を意味します。

 

 その「ミサ」は古い英語から発していますが、さらに遡りますと、ラテン語のミシオ(送る)から派生しています。ミシオから英語のミッションという言葉がでます。ミッションとは、外国へ派遣される使節を意味していましたが、キリスト教の宣教団体もミッションと言い、派遣される宣教師をミッショナリと呼び、外国へ送り出す人々を指し、その団体をミッションと呼んだのでした。

 

実はこの言葉が宇宙飛行士が船外作業をすることにも適用されました。特別な任務を帯び、船外に送り出されて仕事をすることがミッションでした。本来、ミサはキリストを礼拝したものが送り出されることを指していましたが、後には、礼拝全体をミサという表現で表わしたのでした。

 

 クリスマスはキリスト礼拝を意味していましたが、キリストを礼拝し、その恵みを心に留めながらそこを離れていく、送り出されることを意味しました。

 

 クリスマスはキリストの誕生を祝う日であることを否定するものではありません。偉大な人の誕生が特別な日とされます。英雄、偉人の誕生日が大きな祭と結びつくのはどこでも見られます。

 

クリスマスがキリストの誕生日を祝う日であることは間違いありません。しかし、クリスマスが単にキリストの降誕を祝うだけの日ではありません。

 キリストは処女マリヤから生まれてきたことは確かです。しかし、私たちの場合と異なる点があります。私たちは母の胎から生まれてきました。キリストも母親から生まれてきました。しかし、キリストの場合と私たちの場合は決定的に異なっています。

 

【天から降って来られた神の御子】

 キリストの場合、天から降って来たとご自身が語られています。ヨハネによる福音書6:42では、イエスが「わたしは天から下ってきたパン」だと言われました。キリストは天から来られた方だとご自身が証言されています。

 

【「天」とは】

 「天」とはどこでしょうか。近代人は「天」という概念を素直に考えることができなくなりました。かつては天は大空でした。あの青い空の向こうに天があると素直に信じていました。しかし、今ではその大空を大きなジェット飛行機が飛び、ロケットが宇宙空間に飛び出してしまっています。宇宙の向こうに天があると言っても大半の人は造り話と片づけてしまいます。その点、ますます現代人は進歩しています。昔、ソ連の宇宙飛行士が、「やはり神はいなかった」と言いました。無神論者であるパイロットにとって見れば、宇宙は天ではありませんでした。そうだとするとそんなものは神話だと考えます。天は場所的な名前ではなく、神がおられるところであり、生身の人間が近づくことができません。

 

 私たちは自分の五感で知覚できないことを信じようとしません。五感を越えてご自身を明らかにしている神を否定する傾向にあります。神を否定するところでは天も否定されます。そんなものは空想だと思うのです。

 

 科学が進歩すれば天の存在など空想だと思われていました。実際天の存在を否定する人が多くなっています。天など現代のもろもろの考え方からすればありえないと思われます。それは空想の産物と思われる可能性があります。

 しかし、天がないと言うことは、神がいないと言うことと同等です。天は神のいますところです。神がいなければ天もありません。天などないという主張は神がないという主張と同じです。

 

【「神はある」】

しかし、聖書は「神はある」と断言されます(出エジプト3:14)。神がご自身について、「ある」と言われます。神があるといわれているのに無神論者は「神などない」と強く主張します。「ある」と「ない」は相容れません。妥協もできません。神があるといわれているのに神がないなどということはできません。

 

 神が存在しなければ、天もありません。しかし、神は存在します。そうすれば天も存在します。天はあります。私たちは想像を逞しくして天を想定しなければなりません。むろん想像をしてからよく分かるものではありません。

 

 神が自ら存在すると言われました。すると天も存在します。そこが神のいますところだからです。

 キリストは天から下ってこられました。この下降は目的があります。一言で言うとキリストは私たち人間を救うために来られました。キリストは目的なしに天から降ってきたのではありません。まさか遊びに来たわけでもなく、何かを調べに来たのではありません。キリストは救いのために来られました。

 

【「救い」の核心】

 ところで、「救い」という言葉も現代人には実感を伴わないあまり心に響かない用語となりました。救いとは何か。救いをいろいろと定義できるでしょう。

お金がなくなった人に、宝くじか何かで偶然に手に入る。それが救いだと言うのです。

病人が癒される。この場合も救われたといいます。

難しい問題があってさ迷っていたが、ようやく解決策を見いだすというようなことを救いといいます。

 

 救いとはいったい何か。一般に「危険を免れる」ことを救いと言っているように思います。危険な状況を免れること、困難なところから解放される。これが救いと言われます。このような言葉の用法が間違っていると思われません、しかし、まことの救いは上にあげられた事柄以上を成し遂げられたお方からきます。 

 

 救いは確実なもので、最大の危険からの解放を意味します。私たち人間にとって最大級の危険と何なのでしょうか。答が多くあるように見えますが、私たちに困難をもたらすのは、「死」ではないでしょうか。

 

【死とは】

 すべて私たちは「ある」という世界に生きています。しかし、死は私たちを非存在にします。死は私たちをないものにしてしまいます。これ以上に恐るべき現象はないと思われます。あったもの、有であったものが急にいなくなるのです。

 

 死は一切を失わせます。この危機をもたらしたのは、人間の罪、言い換えれば、神からの離反でした。神よりも上に立とうとする傲慢さこそが罪です。この罪が根本的に解決されなければ救いはありません。

 キリストはこの罪から私たちを解放しようとして天から降ってこられました。

 

【人は神になり得ない】

 私たちのほうから天に昇って行けません。それは人間自身が神になることを意味しています。人間が神になろうとする。こういうことは常に起きています。しかし、人間が神になろうとして、その人間がよいことをした例はまれどころか皆無です。人間が神になって暴君となり、圧制者となり、

苛酷な政治や統治を行った例は枚挙の暇がありません。人間が神になってろくなことはありません。人間は自らの立場で神になることはできません。

 

【神が世に降られた】

 神のほうが降ってこられました。天から降ってくるとはそういう意味です。

 神が人間と等しくなられます。罪を除いては。

 

 キリストはいのちにいたる道筋をつけてくださいました。この道を行けば必ず目的地に到着します。そのために天から降ってこられました。キリストはご自身に従うものにその道を示されます。間違いなく示されます。それが十字架の道です。

 

 十字架にこそ、私たちが救われる道が刻印されています。この道を行けば必ず天にいたります。聖書はこのキリストに行く道を余すところなく記します。私たちはこのキリストの行かれた道をしっかりと把握するべきです。

 

 キリストは、天から下ってこられ、またそこへ戻られました。私たちの同伴者として今もキリストは私たちと共におられます。キリストが同行してくださいます。キリストの弟子として、キリストを信じて、彼に従って歩むことが私たちもまた天に行く道をしっかり捉えたということを意味します。(おわり)

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2015年12月20日 | カテゴリー: ルカによる福音書

2015年⒓月⒔日説教「もっとも大切な戒め」金田幸男牧師

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2015年12月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年12月6日説教「神は生きているものの神である」金田幸男牧師

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説教「神は生けるものの神」

 

聖書:マルコによる福音書12

18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、

19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。

22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

 

24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。

25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。

 

 

要旨

【サドカイ派】

 イエス・キリストは人々が集まる神殿の庭で教えを語られていました。次々とイエスと論争を企てるものが押しかけてきます。このたびはサドカイ派がキリストを陥れようとして議論を吹っかけてきます。

 

サドカイ派とは、ダビデの重臣団の一人、祭司ツァドクに由来すると考えられています(サムエル下8:17)。ツァドクをギリシヤ語で読みますと、サッドゥクとなります。ここからサドカイ派という名称が出てきたらしいのですが、ツァドクとサドカイ派の関係は不明です。サドカイ派がユダの大祭司一族とどのような関わりがあったのか不明だからです。

 

新約聖書でもサドカイ派は何度か登場しますが、ファリサイ派ほどではありません(ファリサイ派は100回以上、サドカイ派は14回だけ)。そして、紀元70年のユダヤ戦争の際のエルサレム陥落と共に姿を消します。このようなところから、サドカイ派は、エルサレムを中心に活動していたようですが、ユダの上流階級に属し、知識人が多く、民衆からは尊敬を受けていなかったというようなことが推量されています。

 

新約聖書では、サドカイ派が復活を否定していたグループであったことが分かります。このマルコ12:18-27もそうですが、使徒言行録23:6でパウロは最高議会から審問を受けたとき、議会の構成がファリサイ派とサドカイ派からなり、両者がからだのよみがえりについて見解が全く対立しているのを見て、「死者の復活に望みを置く」と語って、議論を混乱させたことが記されます。サドカイ派は復活などないという彼らの立場を聖書の実例から証明をしようとします。サドカイ派は聖書からその証拠を引き出してきます。律法に記されている、いわゆるレビラート婚を材料にしてからだの復活否定を試みます。

 

【レビラート婚】

 レビラート婚というのは、申命記25:5-10に記されています。レビラートとは、ラテン語のレビールから派生した言葉で、子どもがない夫婦で、夫が先に死んだ場合、寡婦となった女性は夫の弟と結婚し、こどもが生まれたら、その子に亡夫の血統、財産を相続させるという規定です。サドカイ派はこの聖書に規定されている定めを持ち出してきて、復活否定を展開します。

 そのために持ち出したサドカイ派の考えは、おそらくからだのよみがえりに関して論争相手であったファリサイ派を揶揄し、嘲弄するための、作り話であったようです。7人の兄弟がいた。長男夫婦はこどもなくして夫が亡くなります。レビラート婚の規定に従って、次男が兄の未亡人を娶ります。ところが、この次男も子どもを残さないで死にます。三男が、未亡人を妻にしますが、彼も先に子どもを残さないで死んでしまいます。次々と兄弟が死に、女性は、次々に夫の兄弟と結婚しますが、結局子どもを残さないままに、兄弟のほうは7人とも死に、最後に女性も死んでしまいます。すると、復活があると困ったことになるとサドカイ派は主張します。再婚を繰り返した女性はいったい誰の妻になるのか。復活があるとしたらとても不合理な事態が生じます。いったい誰の妻か分からなくなる。これはたいへん困った事態です。

 

 サドカイ派は、復活否定のためにレビラート婚の規定、つまり聖書から証明をしようとしています。復活などあったらややこしい問題が起きます。

 サドカイ派は聖書から、彼らの考え方を証明しようとはかります。他でもない、聖書からの論証で、これには反論の余地がなくなります。聖書を用いて、復活を否定する。これにはたいていの人は反対できなくなります。サドカイ派が狙ったのはこの点でした。

 

 イエス・キリストはこのようなサドカイ派に明確に反駁されます。サドカイ派はイエス・キリストを侮蔑して、「先生」と呼びかけていますが、本心からではありません。イエス・キリストから何がしかの教えを聞くために「先生」などとは言いません。サドカイ派は、聖書に通じていると自負していたはずです。わざわざイエス・キリストに耳を傾けるつもりなどありませんでした。

 

【あなた方は聖書も神の力も知らない】

 キリストは答えられます。あなた方は聖書も神の力も知らない。サドカイ派はこの言葉を聞いて激昂したかもしれません。彼らは聖書をよく読んでいた人々であったと想像されます。ファリサイ派と真っ向から論じ合う実力があると思っていたかもしれません。聖書に通じていたと自覚していたのです。聖書を知らない、とキリストから決め付けられてしまうには心外であったはずです。キリストは聖書だけではなく、神の力を認識していないと指摘されます。

 

【天使のように】

 神の力は人間の力以上です。人間の知恵,力に比べれば比較にならないほど、神の力は強大なもののはずです。死者の復活のとき、人間的に見れば、レビラート婚で再婚した女性の立場は困ったものです。しかし、そのとき、天使のようになるといわれます。そうしますと、娶ったり、嫁いだりするようなことはない。天使のようになれば、人間のしがらみは消え去ります。

 

 聖書を学び、そのときに、神の力という視点から読み解釈される必要があります。レビラート婚の記事を人間的視点で見るならば、復活は不合理な考え方になります。しかし、神の力で見るとき、この地上世界に見られるような人間関係のしがらみはもうありません。神の力でレビラート婚を読み取るとは、神の大きな力に対する信仰の目をもって見るということになります。復活否定など起こりません。

 

【夫を亡くした女性】

 レビラート婚を信仰の目をもって見るとどうなるでしょうか。夫を亡くした女性はたちまち困窮にさらされます。親から多額の財産を所持するというようなことがなければ、本来は子どもに養われるべきなのですが、子どもがいないと身の置き所もなくなります。女性にはたいへんな自体になります。レビラート婚には救済的な側面があったのです。それはいうまでもなく、神の憐れみの表現です。神は社会的に不利な立場に置かれるもののためにおきてを定められました。レビラート婚をキリストの復活否定のために引き合いに出すことなどできなかったのです。

 

【死人の復活と夫と妻、親と子、兄弟姉妹の関係】

 終わりのとき、死人は復活します。そのとき、夫と妻、親と子、兄弟姉妹の関係が亡くなるというと悲しくなる人が出てくるかもしれません。復活のとき、もう夫婦ではなくなる。そんなことは受け入れがたい。そう思う人がいても不思議ではありません。ここでも神の力の観点から読み込めば、別の視点も出てくるはずです。神が地上の人間関係などくだらない、価値のないことと切り捨てられるはずがありません。むしろ、さまざまな思いを聖化してくださる神です。私たちの思いを越えて神は素晴らしいことをなさいます。

 

【】

 キリストは、今度は聖書から、復活の真実性を証明されます。聖書に文字通りに書かれていないことはたくさんあります。キリスト教信仰の重大な教理には文字でそのように書かれていない教理もあります。例えば三位一体の神です。しかし、私たちは聖書を信仰の眼をもって眺めるとき、重大な真理を読み取ることができます。文字通り書かれていないから真理ではないなどとはいえません。

 

【アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神】

 キリストは、出エジプト記3章を引用されます。ここでは、モーセに神が現われ、自らを、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と自己紹介されます。ところで、モーセにこの啓示が与えられたとき、すでにアブラハムから数百年過ぎています。もう彼らの姿はどこにもありません。遺体は墓に収められましたが、もうすでに土に帰ってしまい、形の上ではもうどこにも存在しなかったかもしれません。とっくに無くなっていた。死はあらゆるものを無に帰してします。死は一切の終わり。死んでしまえばもう何もかもなくなるのだと思われています。この考えは何も現代人だけの特徴ではありません。モーセのころ、アブラハムもイサクもヤコブも消滅していたと考える人もいたでしょう。ところがキリストはこの出エジプト記の記事を取り上げて解釈されます。出エジプト記3:6をキリストは取り上げられます。すでに数百年の年月が過ぎ去り、モーセの父祖らは消え去っていたと見えます。

 

【永遠の契約】

 神はアブラハム、イサク、ヤコブを忘れていなかったというだけではありません。神は、彼らと契約を結ばれました。特にアブラハムにはあなたの子孫は海の砂、天の星のようになると約束されます。また彼らに、乳と蜜の流れる約束の地を与えると言われ、契約を結ばれました。この約束は反故にされることはありません。アブラハムたちが死んでも約束は消えません。約束は必ず実現します。契約の内容は必ず実現します。アブラハムの死と共に神の約束は消滅したのではありません。とすれば神は復活を前提にアブラハムに約束をされたと言うことになります。

 

 神は死んでしまい、もうそれで一切が終了してしまったものの神ではなく、一度は死んでもそれでもなお約束が必ず成就するようにされる神です。神はいのちを与えるかたでもあります。約束は必ず実現します。

 

堅く契約を守られるという信仰をもって、この個所を読みます。すると、神は生けるものの神であるということが分かります。信仰を持って聖書を読むときにこそ真理が明らかになります。信仰を持って、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と自分を明らかにされた神は当然のことながら、今は死んでいるかもしれないが、いつまででも死んだままの者の神ではなく、必ず終わりのときにキリストによりもはや死ぬことのないいのちを与えられたものたちの神なのです。キリストと同じく、その神は私たちをも永遠の命によみがえらされます。おわり

 

 

 

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2015年12月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書