2015年11月1日説教「実を結ばない者」金田幸男牧師

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聖書:マルコによる福音書11章
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

20 朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。
23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
25 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。
26 〔もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕」。



説教「みを結ばないもの」

聖書:マルコ福音書11章12-14、20-26

 

要旨 

【いちじくの木を呪われる主】

 ホサナと歌いながら大声で賛美する群衆と共にエルサレムに上られたイエス・キリストは、その夜はベタニヤ村に戻り、そこで泊まられます。そして、翌朝、再びエルサレムに上って行かれます。このたびは、人々を多数同行しているように思われません。翌日も続々と巡礼者たちはエルサレムに上って行ったはずですが、この日は、イエス・キリストが早朝に出発された可能性があります。

あるいは人に気づかれないように目立たずに出発されたのかもしれません。その途中キリストはひどく空腹をおぼえられました。キリストは木の葉が茂ったいちじくの木をご覧になられます。

 

ところがその木には実がつけられていませんでした。いちじくはだいたい6月ごろに実を結びます。イエス・キリストがエルサレムに上ろうとされたのは過越しの祭のときです。過越しは太陽暦で言えば3月か4月の中旬になります。実がなっているはずもないのですが、キリストはこの木に向かって「今からのち、いつまでもお前から実を食べるものがないように」と言われます。呪詛といってもよいことがらです。11:20を見ますとそこにはこのいちじくの木が根元から倒れ、枯れてしまっていたのでした。

 

 この物語の解釈はたいへん難しいとされています。その理由を三つ挙げたいと思います。

 

まず第一は、こんな奇跡はあるはずがないというものです。キリストは言葉を発しただけです。ところがその言葉が呪いとなっていちじくの木を倒してしまいます。単に言葉ひとつで奇跡が起こります。

 

第二に、キリストは意志も感情もない木に向かって語っておられます。しかも、その木が枯れてしまうという言葉です。あたかも人に向かって語っています。なんとも奇異に感じられるはずです。

 

そして、第三。イエス・キリストは、実を結ぶはずもない時期にその果実を要求しているように思われます。実際、実は夏にできるはずです。過越しの時期、3/4月のころに実を求めること自体無理難題というものです。イエスの言われていることはまったく常識外れです。道理に適っていません。以上の3点だけ挙げてもこの物語は矛盾だらけ、解釈が難しいところです。

 

【奇跡】

 奇跡そのものがありえないならば、この物語は読むに耐えない愚劣な話ということになります。奇跡などありえるはずがないという前提であれば奇跡はありません。あるかないかというだけならば、奇跡がないと信じている人に奇跡はあるはずもありません。しかし、奇跡は存在するかしないかの問題ではなく、認識の問題です。つまり、奇跡と認識するかしないかです。イエス・キリストは神の子であり、全能者の御子であれば、奇跡を行いうるお方です。とすれば、この前提に立ちさえすれば奇跡はありえます。起こりえます。

 

 第二の問題についてはどうでしょうか。イエス・キリストはしばしば譬え話を語られますが、そのとき、さまざまな植物を用いられます。旧約聖書もまた同じような譬えを用いています。

 

いちじくについては、ホセア9:10。「荒れ野でぶどうを見いだすように/わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように/お前たちの先祖をわたしは見た。」ここでぶどうの木もいちじくもイスラエルを表わしています。

 

ナホム3:12、イザヤ28:4、ミカ7:1などでもイスラエルはいちじくにたとえられます。イエス・キリストは実物をたとえに用いられていると見ることが出来ると思います。では何をたとえているのでしょうか。エルサレムにキリストは上って行こうとされています。そこにはヘロデ(大王)が建てた壮大な神殿が聳え立っていました。それは異教の神殿に匹敵するほど立派な建築物であったとされています。そこには多くの祭司が儀式を司っていました。特に過越しが近づき神殿はますます華やかな儀式が執り行われています。

 

そして、その神殿には各地から巡礼が大勢上ってきます。神殿は大賑わいでした。しかし、キリストが神殿で見たものは何であったのでしょうか。11:15-19に記されているように、神殿は商売人たちが商売をするとことなり、その喧騒でエルサレム神殿はどこかの市場と変わらなくなってしまっていたと思われます。どんなにたくさんの巡礼が遠くから上って来てもそこで行われている儀式は形式的なもの、人々は習慣として祭を行っているだけでした。過越しにおいて神がなされた救いのみわざのことは忘れられていました。このような当時のイスラエルの信仰は、いちじくの木と同じです。見かけは青々として茂る葉に覆われ、活気があるように思われます。しかし、それは外見だけであって、イスラエルの信仰の実態は何も実を結んではいないのです。そして、イエス・キリストに対しては何ら貢献できていないというべき状態です。

 

このいちじくの有様はイスラエルの現状を反映しています。実を結ばないいちじくの木は倒されるしかないように、主に対して不誠実、不真実なものは神にさばかれ、滅ぼされるしかありません。

 

 そして、第三のこと。この時期、実を結ぶはずもないいちじくが実を結んでいないから枯らし倒れさせるというのは理不尽ではないか。自然の理に反することをキリストは要求しているということになります。

 

【神を信じなさい】

 私たちは自然法則のもとに生きています。常識に沿って生きています。それが当然だと思っています。自然の道理に反することは起きるべくもないと思っています。しかし、キリストはありえないことを信じるように求められています。神を信じなさい。この物語の核心はここにあると言っても過言ではありません。キリストはその常識に反することを行われました。自然の理に適わないことを行われます。

 

 キリストの周囲にいた人たち、ここではキリストの弟子たちですが、彼らは信仰を求められたのです。この実を結ぶはずもない一時期が実を結ぶ。こんなことはありえないと思うのは当然ですが、信仰はその常識を超えます。ありえないと思い込んでいるのが私たちです。しかし、キリストはここでその常識が壊されるようにされています。

 

 信じるならば、ありえないこともありえます。

 23節以降は、22節と切り離して考えるべきだという解釈者がいます。23節以後は他の福音書に出てくるみ言葉でもあります。(マタイ6:13-14,7:7,17:20,18:19、ルカ11:9,17:6など)つまり、他の福音書の個所の聖句の羅列ということになります。しかし、なぜそんな言葉をこの個所でわざわざ急に羅列しなければならないのか理由がありません。

 

 むしろ、キリストは信仰を求められました。その信仰がいかなるものかを弟子たちにさらに語っておられると理解すればいいのだと思います。

 実のなるはずもない時期に実を結ぶ奇跡を信じることが信仰とされます。ありえないことがあると信じることが信仰です。私たちがいつも常識で考えている限り、あるいは日常がいつも繰り返しに過ぎないと思っている人には、そんなことは起こりえないと一蹴することばかりです。しかし、信仰はそれを乗り越えるものです。

 

 私たちはいつも普通の日常生活で満足しています。自然の理を歪めてしまうようなことはありえないと思っています。しかし、本当にそうだろうかと思います。私たちの常識を超えて何かが起こる。私たちはそのように私たちの生きている世界を見る必要もあるのではないでしょうか。

 常識では割り切れないことが多々あります。それを無視するか、あるいは信じるか。二者択一です。

 

【信仰の世界、信仰体験】

私たちは常識だけで生きられません。あるいは自然法則にのかっかってだけ生きているべきでしょうか。この世界にあるさまざまな法則にだけ流されている、そういう人生が人生でしょうか。そうではない。信仰の世界があります。信仰体験があります。山に移れ、海に飛び込めというとその通りになる。それが信仰です。そして、神の約束によれば信仰の通りになります。

 

【祈りはかなえられる】

 このあり方は祈りと共通します。祈りは単なる願望ではありません。祈りはかなえられるものです。実現すると信じて祈る、それが祈祷です。実際、その通りになります。祈り求めるとき、それが実現していなくてもその通りになると信じる、祈りに信仰が必要です。信仰のない祈祷ほど空しいものはありません。祈祷は神に実現を強制するものではありません。しかし、信仰のないところで祈りは成就するはずがありません。

 

【赦しという奇跡】

 そして、第三に赦しが続きます。これが信仰、祈祷とどう関係するのでしょうか。恨みを持っている人がいる。その恨みはなかなか忘れることはできません、まして、赦すなどできないことです。敵対している相手を愛することなどできません。それが普通であり、常識というものです。けれども、赦すことができる。本来私たちの心は変わらない性質を持っています。それが変わる。これは信仰と同じ類の精神であるはずです。心が変わる中に信仰も含まれています。何も信じられないとがんばっている人が信じることができるようになる。そこでは奇跡が起きています。それは信仰の領域に属します。

 

【み言葉の力】

 むろん、私たちは信仰を容易に持つことができず、必ずかなえられると信じて祈ることができず、まして、憎む相手を赦すことなどできるわけがありません。もう一度いちじくの木の物語を見なければなりません。キリストは葉が茂っていちじくの木を一夜で枯らしてしまわれました。むろんキリストは何も手を下したと記されてはいませんが、明らかにこの奇跡を行われたのはキリストですし、キリストのみ言葉には奇跡さえ起す力が含まれています。私たちはキリストのみ言葉を心に留めるときそこで何が起きるのか。キリストは生きて働いておられます。(おわり) 

2015年11月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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