2015年10月4日説教「仕える者が一番偉い」金田幸男牧師
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聖書:マルコによる福音書10章
35 さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。
41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。
45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
要旨
【仕える者になりなさい】
イエス・キリストはエルサレムに上って行こうとされる時、エルサレムで経験される苦難と復活を予告されました。これは第三回目の予告です。2回目の予告のとき、その直後で弟子たちは一番偉いのは誰かと議論をしました(9:30-32)。そのときキリストは「一番先になりたい者はすべての人のあとになり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。
【ゼベダイの子ヤコブとヨハネ】
3回目の予告のあとまた同じことが起きています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出ました。お願いしたいことがある。是非叶えて欲しいと言います。このマルコの記事と平行しているマタイ福音書20章20ではその母がイエスにお願いをしたとありますけれども、二人の兄弟にとっても強い願いであったことは確かです。
キリストは「どんな願いか」尋ねられます。二人がストレートに言わなかったのはその申し出がどんなに重大か分かっていたからでしょう。「あなたが栄光を受けるとき、あなたの右と左に座らせてください。」右と左は真ん中に立つものの側近となることを意味しています。そして、彼らは、イエスがエルサレムに上っていき、そこで「栄光を受ける」と思っていたことを示しています。
栄光を受けるときの具体的な内容をマルコは記していません。しかし、栄光を受けるとはエルサレムで大きな力を獲得すると理解していたことは確実です。イエスが王であるメシヤとして権力を獲得すると考えていたかもしれません。あるいは、終末の時代が来て、メシヤであるキリストは天変地異と共に世界を一変させ、その王座に座る偉大な人間を想定していたかもしれません。イエス・キリストは病人を癒し、悪霊を追い出し、自然に圧倒する力を発揮されました。そのようなことをなさるキリストですから、その目撃者である弟子たちにはエルサレムでキリストが大きく表されると期待しても少しも不思議ではありません。キリストはエルサレムで驚くべきみわざをなされる。弟子たちはそれを期待しました。
ヤコブもヨハネも今先ほど語られたエルサレムでのキリストの苦難の予告を全然理解していなかったことだけは確実です。これほど明確にキリストはエルサレムで経験する受難を語られたのですが、弟子たちはそのキリストの言葉を理解できていませんでした。弟子たちの念頭にあったことがキリストの予告の真意理解を妨げたのでした。
キリストは二人に言われます。まず、あなた方は何を願っているのか分かっていない。つまり、自分の言っていることが分かっていないという意味です。そして、わたしが飲む杯、わたしが受ける洗礼をあなた方も受けることができるかと問われます。キリストはエルサレムで苦難を受けられます。それは律法学者や祭司長たちに裁判を受けさせられ、異邦人の手に渡され、侮辱され、ついに処刑されるという苦難です。キリストはエルサレムで受ける苦難を「杯」と「洗礼」と言い換えられます。そして、この二つの言葉は旧約聖書に慣れ親しんでいるものにはよく聞く言葉でした。
【杯】
まず杯ですが、詩編75篇9を挙げたいと思います。「すでに杯は主の御手にあり/調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み/おりまで飲み干すでしょう。」調合された酒とは劇薬が混ぜられているぶどう酒のことで、酒と一緒に飲めば効果は早く、また確実に効果が出るようになります。主のみ手に毒薬の入った杯があります。それを主に逆らう罪人が仰ぎ飲めば必ず死に至るのです。そのように主は敵対するものをさばかれます。その他、イザヤ51:17、エレミヤ49:12、エゼキエル23:31-34を参照にしてください。
【洗礼】
洗礼は、ここではキリスト教の礼典である洗礼を指しているのではありません。水を注ぐことを指しています。旧約聖書において、頭上から大水が注がれることを指しています。詩編69篇2-3「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み/奔流がわたしを押し流します。」洪水が起こり、激流が押し迫り、あらゆるものを押し流していく災害が描かれています。死が待ち構えています。 その他詩編18篇17も参照してください。大水は神の懲らしめ、そこから救い出されるようにとの叫びが発せられます。キリストはエルサレムで杯、大水が示す大きな苦難を忍ばれます。
そして、二人に、あなた方自身も栄光ではなく、それ(杯と洗礼)を受けることができるかと問われます。ヤコブとヨハネは受けることができると平然と語ります。むろん彼は何を言っているのか分かっていません。キリストは二人がご自分と同じ苦難を受けるだろうと明言されます。それが何を意味しているかまだ誰にも分かっていません。さらにキリストはみ国が完成したとき二人がどのような位置を占めるかについても、それは父なる神だけがご存知であると言われました。それはみ父の専権事項なのです。私たちは何事も自分の思い、発想でことがなると思いがちです。しかし、キリストはみ父だけが実行できる事柄に委ねておられます。私たちはキリストがそうされたようにあらゆることを神にお任せすることが求められます。人間の運命に関してキリストはいっさいはみ父の御心の中にあると語られます。それは今でも同じことです。私たちの将来、定め、行くべき道は神が定められます。私たちはその神の意志に委ねること、それが信仰であると思います。
【他の10人の弟子たち】
41節以下を見ます。他の10人の弟子たちが登場します。彼らは憤慨をしています。だれが一番偉いのか議論をした彼らにとってまだまだその関心事は弟子たちが受ける高い地位に関するものでした。イエス・キリストからすでにキリストの弟子たちの中ではだれが一番偉いのか教えられていました。しかし、弟子たちはなおも分かっていません。誰が一番偉いのか。イエス・キリストは間もなくエルサレムにメシヤとして入城されます。そのときだれが権力を掌握するのか。
キリストは異邦人の中で通用している考え方を指摘されます。異邦人、外国人の問題だけではありません。ユダヤ人も異邦人も関係なく、この世界の人々が何を求めているのか明らかにしておられます。一言で言えば偉くなりたいということです。それは権力を握る、力を獲得することを意味しています。
【世的権力】
人間はだれでも力を得たいと思っています。力は政治的権力が一番分かりやすいでしょう。政治家はこの権力を独占するために悪戦苦闘をします。偉い人間とは権力を掌握するものだと思われています。現在は独裁者が権力を掌握するという事例はたいへん少なくなりました。むろんないわけではありません。ただ民主主義の時代でもだれもが権力あるいは覇権といった力を希求します。力は政治権力だけではありません。軍事力も具体的な力です。諸国間で軍事力の強大化が願われます。今日では力はお金の力でもあります。そして、私たちが知るのはこの力はときに抽象的である場合も多いのです。学歴、出身学校、あるいは、地位という力もあります。抽象的といえば芸術をはじめ文化的な力というものもあります。その力は他を支配する力ともなります。
力そのものは悪でも何でもありませんが、その力を行使する人間の本質、罪が作用する時、その力がもたらすものは残酷な結果、悲惨な結末となります。それは言葉では言い表せないような惨事にもなります。なぜそうなるのか。あきらかに、それは罪の結果です。人間の罪性が力と結びつくときにその結果は見るに耐えないものとなります。
【仕える者・しもべとなれ】
キリストは弟子たちの間ではそのような権力志向であってはならないといわれます。むしろ、あなた方の間では偉くなりたいものは仕える者に、上の人になりたい者はしもべとなれと命じられます。これは常識に反する教えです。
しかし、私たちはこのキリストの教えを悟りません。逆に世間で通用する原理や原則を教会に導入しようとします。逆説的な立場は受け入れがたいものではあります。社会で通用しないことがありますと、だから教会は時代遅れだとか世間を知らないと批判する人がいますが、そもそもキリストは世間では通用しないことを真っ向から教えられる方です。教会でこの逆説を実行しようとするとまずは不可能という反応が生じるはずです。確かに世間で通用しない原則を実践することはほぼ不可能ですが、どうすれば可能となりますか。
【人の子】
キリストはご自身が模範となられました。45節は今日学ぶマルコの福音書のクライマックスです。人の子は・・とキリストは言われますが、これは1人称「わたし」の代用ではありません。この言葉が用いられるときはキリストがまさしくメシヤ、救世主であることを厳かに宣言する場合です。キリストはご自身を「身代金」と表現されます。
【身代金】
これは本来、奴隷を買い戻すお金を指します。キリストは罪の奴隷状態に陥り、その結果神から離れ去り、神のさばきに値するもののためにご自身を身代金となられました。私たちは罪の奴隷です。その買戻しのためには多額の身代金を要します。私たちの場合、いのちという代価を払わなければ罪とその結果である死から解放されることはありません。そして、私たちは今やキリストが支払ってくださった代金で買い戻され、自由にされました。
キリストが私たちのために最も低いものとなり、仕えるものとなり、しもべとなられました。これをキリストは実践してくださいました。私たちはキリストのようにとてもなれないように思われます。人間的にはそのとおりです。できるわけがありません。不可能なことをどうしてできるでしょうか。しかし、私たちは知ります。キリストが実行した方です。その実行力を私たちにも聖霊なる神によって可能としてくださいます。私たちにとってそれは信じるべき事柄です。(おわり)
2015年10月04日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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