2015年10月11日説教「聖書人の死から学ぶ」金田幸男牧師

L151012002.wav ←クリックで説教が聴けます(前半)
L151012003.wav         〃(後半)


IMG_3268.JPGIMG_3274.JPGIMG_3270.JPG


IMG_3277.JPG


















IMG_3271.JPG

説教「聖書人の死から学ぶ」金田幸男

 

聖書:創世記23章1-4

 

要旨

 創世記には一見すると荒唐無稽、到底現代人の感覚では受けいれられないような記事がたくさん記されています。しかし、創世記には現代社会の仕組み、問題の発端、諸課題の解決の糸口について多くの示唆を与えてくれる記事が満載されています。

 

聖書から演繹的に真実を引き出す聖書の読み方こそ今日きわめて重要だと思います。ともすれば聖書を現に遭遇している問題解決のためだけに読んでしまう読み方をしているのではないかと思います。確かに聖書はさまざまな問題に対して答えを提供してくれます。ただそれだけでは聖書はその都度対処方法を示すだけになってしまいます。

 

【旧約聖書】

聖書はもっと根本的な原理原則を示し、その上で私たちは問題の本質を見抜くことができます。旧約聖書は、特に創世記は夫婦、家庭、そして、社会、国家の原型を示します。また、創世記は労働の価値、犯罪、法、諸制度、あるいは人間存在の起源、生と死などの問題にもさまざまなあり様を示します。

 

【創世記は、人間の死について語る】

 創世記は、人間の死について語ろうとします。特に人間はなぜ死ななければならないのか、どうして死ぬべきものとなったのかを語っています。死の問題はだれも避けたいと感じます。死を扱うなどとは不吉だというのです。誰も死を避けることはできません。特に親しいものの死に直面したとき、あるいは大病などをして死にかけるというような経験をしたとき、誰も死を自分の問題とするはずです。そのとき、死はどうして人間世界に入り込んできたのか、死は回避できないのか、考え、できないゆえに絶望し、あるいは激しい憤りをおぼえるものです。

 

【人間の創造と罪の結果・死】

 聖書、創世記は何を語るでしょうか。創世記1章27,2章7で神は人間を創造され、いのちの息を鼻に吹き入れられたと記されます。人間はこうして生きるものとなります。ところが、創造された人間は神の命令を破り、神に並び立とうとします。これこそ罪と呼ばれるもので、その結果、人間は塵に帰るものとされます(創世記3:19)。罪の結果死が入り込みます。

 

死の原因は神が命を取り去るからであり、そうなったのは神への反抗のせいです。人が死ぬのは神が死を賜ったからに他なりませんし、その原因は神への反抗心にあります。この罪がもたらした死をいかにして解決するのか。これこそ聖書の主題といっても過言ではありません。聖書は一貫してこの罪と罪がもたらした死の問題に取り組み、解決策を示します。キリストとキリストの十字架の死による贖いこそ答えなのです。

 

【人は生まれ、死ぬ/創世記5章】

 創世記5章をご覧ください。ここにはアダムの子孫の系図が記されますが、ここに記されるのは、人は生まれ、そして、死ぬということで共通しているという事実です。きわめてありふれた事実ですが、これは真実です。人間は死ぬべきものに過ぎないのです。人生はいろいろな経験があります。人は決して他の人の人生を生きることはできません。偉業を成し遂げ、それが後世まで語り伝えられるという人もいます。しかし、それはきわめて少数、例外です。ところで、この創世記の記事は人は生まれ、そして死ぬだけと語ります。どんな偉業を残したと思われる人も所詮は生まれ死ぬだけなのです。これがアダムの子孫のありのままの姿です。それは今日でも共通です。人は墓碑にその人生を記録できません。大半の人にとっては、記録できるには生まれた日、死んだ日だけなのです。

 

【アベルの死/人類最初の死】

 創世記4章には最初の人類の死のことが記されます。創世記4章8にはアベルの死を告げますが、この死が人類最初の死に他なりません。ところがその死は殺人による死でした。不本意な、理不尽な、無残な死でした。アダムの死がもたらしたおそろしい現実でした。

 

 創世記は5章までが第1部といえるでしょうが、そこに記されていることは見方によれば死人ばかりです。死が累々と折り重なっています。創造された人間を共通に襲うのは死でした。6章以下でノアが主人公となります。ここで記されていることは何か。大洪水の記事です。それによってノアの一族以外、すべてが死に絶えます。ここにも大量の死者が報告されます。自然災害ではありますが、神の前に悪を積み重ねた人類を襲う神のさばきに他なりません。

 

 ノアの時代の人々は死に絶えます。数え切れない人の死がここでも記されます。創世記はこれでもかこれでもかと人間の死を記録しています。創世記を読めば必ず死に直面させられます。回避できない現実です。

 

 創世記にはいろいろのことが記されますが、一貫して死を扱っていると見ることができましょう。すべてを吟味できたわけではありませんが、死の問題を避けて通ることができません。創世記を読み、死の問題に直面させられないような読み方は不完全ではないでしょうか。

 

【エノク】

(他に、エノクのことも触れなければなりません(創世記5章21-24)。エノクは他の人と比べて短命でした。しかし、彼は神と共に歩み、最後は神が取られてしまいます。短命であることがすなわち不幸だとか不運だとはいえません。その人生が神と共に歩む人生であるかどうかこそが問われます。長く生きることが幸いであり、短命は不幸だと単純にはいえません。長寿社会となってますますそれがよく分かります。ただ単に長く生きることを長寿とは単純にいえなくなってしまったのです。エノクの姿が見えなくなったことは姿を消したというだけではなく、むしろ、神に早く受けいれられたことを表しています。また、死を味わうことがなかったという意味でもあるとされることもあります。エノクは短命でありましたが、それが直ちに不幸だとか不運だと決めることもできません。)

 

【アブラハムと妻サラの死】

 創世記11章27以下ではアブラハムが主人公となります。アブラハムこそイスラエルの祖なのです。そのアブラハムも死に直面しています。23章1-20ではアブラハムの妻サラの死が記されます。信仰の人アブラハムは最も親しいものの死を味わうのです。自分の死の問題だけではなく、私たちは最も親しいものの死も経験することになります。アブラハムはそのとき妻を葬る土地を持ちませんでした。妻に遺体の傍らで嘆き悲しみます(23章2-3)。死は悲痛な思いをもたらします。そしてそれに耐えなければなりません。それが死の現実です。アブラハムは妻の墓地のためにヘトの人と交渉し、高額を支払いようやく墓所を確保します。葬りのためにアブラハムは大きな苦労をしなければなりませんでした。死は大きな悲しみ、そして、途方にくれることを経験させます。アブラハムは暗い思いとそれにもかかわらず生き残ったものの義務を果たします。

 

【息子イサクを献げる】

 彼はもう一つの死にも直面します。創世記22章には、神がイサクを焼き尽くす献げものとして殺害せよと命じられます。これはまったく理不尽な命令です。死はしばしばわけの分からない、理にそぐわない事態を招きます。神がそんなことを命じるとは、と誰もが思います。しかし、死は多くの場合、理不尽で、あってはならないことです。死は不条理であり、過酷な苦悩をもたらします。一体誰が絶えられるでしょうか。ところがアブラハムは神の命令に従います。ときには、人はいやおうなくこのような事態に追い込まれるものです。アブラハムはこのような理不尽な神の命令に反抗することをしていません。むしろ神の命令を守ろうとします。私たちも不条理で理不尽な死を経験しなければならないことがあります。そのとき私たちは神に対しても激しく憤ります。そうせざるを得ないのです。それが普通のことです。アブラハムも同じように思ったに違いありません。神はどうされたのでしょうか。代わりに雄羊が屠られ、イサクは解放されます。死は理屈に合わない悲しみをもたらします。人はその悲哀に耐えがたくなります。そのとき、神は身代わりを備えてくださり、そこから救い出されます。

 

【イエス・キリストの贖い】

神は私たちが罪のゆえに滅ぼされるべきにもかかわらず、イエス・キリストを送り、その死によって私たちを死の縄目から解放してくださいます。イサクは助けられました。それは死からの救出です。神は私たちには不条理である死からキリストによって贖い出してくださいます。これは信じがたいほどの神の壮大な救いのみ業です。アブラハムはこのように死を経験しますが、ついに彼自身も死ななければなりませんでした。

 

【満ち足りて死んだアブラハム・イサク】

 創世記25:7に、アブラハムは長寿を全うし、「満ち足りて」死んだと記されます。さらにその子イサクについて創世記は「高齢のうちに満ち足りて死んだ」と記します(35章29)。アブラハムもイサクも死を迎えなければなりませんでした。しかし、彼らの死は「充実した」死でした。死に充実などありえるのかと思われる方もあるでしょう。なぜ充実した死というのでしょうか。むなしい死でありません。それは約束の地カナンで、神がアブラハム、イサクの神であり続けられたからです。

 

【ヤコブ・ヨセフの死】

ところが、ヤコブについては創世記49章29でこの「満ち足りた」死を記していません。また、ヨセフについても同様です(創世記50:26)。これはどうしたことでしょうか。考えられることはヤコブもヨセフも約束の地カナンで生涯を終えることができなかったことと関係があるのではないでしょうか。二人ともエジプトで死にます。ヤコブの遺体はアブラハム、サラの葬られたマクペラの地まで移送されますが、亡くなった地は約束の地ではありませんでした。ヨセフも同様です。神がアブラハムに約束された地こそ祝福に満ちた御国を予表するものです。満ち足りたというのは単に精神状態がそうであったというだけではなく、神の約束に包まれた地、神が臨在しているところであると考えられます。それこそが満ち足りているところなのです。私たちもまたこの充実した死を経験したいものです。(おわり)



2015年10月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1087