2015年9月13日説教「私に従って来なさい」金田幸男牧師

L150914001.wav L150914001.wav ←クリックで説教が聴けますIMG_1426.JPG

説教「わたしに従いなさい」

聖書:マルコ10章17-22

17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。


 

要旨

【ある人】

 10章17に「イエスが旅に出ようとされると(ちょうどそのとき)ある人が走り寄って」来た、と記されています。イエスの出発のことは10章1に記され、ユダヤ地方、エルサレムに向かわれます。

 

ある人が急いでキリストに会おうとしています。一刻も早くという思いでやってきたのです。それほど彼にとっては重大問題であり、イエスがこの地を去る前に是非とも答えを得たいと切に願っています。マルコによる福音書では飛び込んできたこの人物のことを詳細に述べていません。

 

【青年・議員】

同じことを記すマタイによる福音書では青年とあります(マタイ19:20)。この言葉は20歳くらいを表します。ルカ福音書では議員とあります(ルカ18:18)。おそらく、ユダヤ人の最高議会の一員であったと想像できます。最高議会(サンフェドリン)は今で言う国会と最高裁判所を兼ねたような国家の機関で、ユダヤ人社会の中では相当地位の高い家柄でなければこの議員にはなれません。

 

【金持ち】

三つの福音書共通にこの人物は金持ちであったと記します。彼は地位も高く、名誉ある立場にあり、また裕福であり、若さもありました。前途洋々たる人生が目の前にありました。

 

【永遠の命】

 イエス・キリストのところにやってきたこの若者は永遠の命を獲得するためにはどうしたらいいのかと尋ねます。永遠の命、いたって宗教的な課題です。この人がなぜ永遠の命を求めたのだろうかと思います。ある人は、この人物は安楽な日々を過ごし、信仰を趣味としているような人間と見ます。

 

【慈しんで語れた】

実際今日、宗教に関心のある人はよほどの暇人と思われています。仕事で忙しい人は宗教などの関心を持たないと思われています。だから一種の趣味のように宗教を考えているに過ぎない軽薄な人物を解されるのです。しかし、イエスはこの若者をじっと見つめ、慈しんで語れたとあります。慈しんで、は「愛を持って」とも訳せます。イエス・キリストはこの若者を切り捨て、取り合わないようにされたのでは決してありません。だから、この人は生半可な思いでイエスに接近してきたのではありません。彼はたいへんまじめにイエスに問うています。若い人は立身出世や目先の栄華を目指しやすいものです。この若者はそういう同世代の人間とは違った道を行きます。彼は永遠の命をどうすれば得られるのかが最大の関心事でありました。

 

【何をしたらいいのか】

永遠の命を獲得するために何をしたらいいのか。このような問いを投げかける若者は当時もそうでしたし、今日も同じです。その点でもこの若者はユニークな存在でした。永遠の命などと言うあまり人が関心を持たないし、特に若者ならばあまり関わりを持とうとしないものを追求していたのです。この人はそういう点で稀有な存在でありました。昔の人も今日の人も永遠の命などに真剣に探求しようなどと思わないでしょう。人はそういう問題よりも今日をどう生きるかに関心があります。今というときを大切に思い、永遠の命など空論だと思うのです。ところがこの若者は真正面から永遠に生きる道を尋ね求めたのでした。

 

 なぜ永遠の命を求めたのか、マルコ福音書は沈黙しています。止むに止まれぬ切羽詰まった情況があったのでしょう。

 

【よい教師・義の教師】

 彼はイエスに向かって「よい教師」と呼びます。よい先生。これは当時のユダヤ人社会の事情を考えなければなりません。ユダヤ人が律法を重視していました。それは神の与えられた掟でありました。この律法を研究し、相応しい解釈を専門的に行う人々が存在していました。律法学者といわれているように律法を深く研究している人たちがいました。ところがそのような律法学者の中に頭だけの信仰ではなく、律法を熱心に行い、それゆえに人々から尊敬を受けるまで自己修練に励む人たちがおりました。彼らは「義の教師」と呼ばれていました。義の教師は特別敬虔な歩みをしています。彼らはただ律法に忠実だと言うだけではなく、その徳を分かち合うことができると信じられていました。あるいは、特別な教え、それは秘密をされるものですが、これを与えることが出来るものと考えられていました。

 

 イエス・キリストは自分はそのような義の教師であることを否定されます。キリストが何か功績を積みそれを他の人に分配すると言った特別な働きをするものではないと証言されます。あるいは特別な秘儀を隠匿しているようで、特別の仕掛けでそれを得られると言ったような教師とは全然違うのです。そういうことは神の領分です。イエス・キリストはみ父にまさって弟子たちに義を分与できる方ではありません。それも律法の行いではなく、ただ神の恵みに依存して得られるもので、それを与えることが出来るのは父なる神だけです。

 

【十戒の後半】

 その上で、キリストは十戒を引用されます。モーセは神から律法を与えられます(出エジプト記20:12-16、申命記5:16-20)。それは石の板2枚に記されています。キリストが引用されているのは第二の板です。よく見るとキリストは十戒を改変されています。ひとつは、父母を敬えという第5の戒めを一番最後にもって来ています。これはおそらく強調のために順序が変えられたのだと思います。もうひとつは第10戒、貪るな、を、奪い取るな、とされています。奪い取ることと貪りとは厳密に言えば違うでしょうけれども、酷似しています。乱暴に、あるいは策略を用いて、他人から大切なものを奪い取り、それを自分のものとしてしまう。それが貪欲と言うものです。

 

【知っているか?】

 さて、ここで注意していただきたいのは、キリストは「知っているか」と尋ねられただけです。ところがこの若者は実行していると答えます。知っていると、実行しているとは異なります。キリストが問題にされたのは律法の意味、もっといえば霊的な意味なのです。律法が本来持っている神意はどこにあるか。キリストは律法をこの観点から捉えられます。山上の説教を見ましょう(マタイ5:21以下)。ここでは兄弟を誹謗するものは殺人罪と同罪であり、裁きを受けなければならないといわれます。あるいは女性を淫らな思いで見るものは姦淫罪を犯しているとキリストは指摘されています。このようにキリストは律法を心の問題にされます。律法が本来持っていた神の意図を読み取らなければなりません。外面的な実行だけが問題ではないのです。

 

【実行しています】

 ところが若者は、知っているかという問いを誤解します。彼は、十戒を小さいときから実行していますと答えます。知っていることと実行することは異なります。しかも、文字面だけではなく、その掟の言葉の奥にある深い神意を知らなければなりません。ところがこの若者は律法を行っているかどうかと言う観点からキリストの言葉を受け止めたのです。

 

この若者は子どものときから掟を守っていると答えますが、ユダヤ人社会では13歳のとき神殿に行って特別の儀式にあずかり、そのとき以来律法を行うべきもの(掟の子)とされたのです。そうは言っても大半の家庭ではさほど厳しく掟の遵守を求められませんでした。この若者の家庭はどうであったか。おそらく他と違って厳格に教育を受けたのでしょう。よき躾を受けていました。この点から見て、若者は品性もまた優れていたと言えると思います。

 

【行け、持ち物を売り払え、施せ、そして、従え】

 キリストはすれ違いをすぐに指摘されません。むしろ、別の言葉を投げかけられます。四つの命令の言葉が並びます。行け、持ち物を売り払え、施せ、そして、従え。若者は永遠の命を得るために律法の行いに務めるべきだという考えを知っていたようです。だから、そういうものは行っている、とすると永遠の命は自分のものとなるか。こういう考えを持っていたのかもしれません。イエスにそれを確かめたかっただけかもしれません。イエス・キリストはそのような若者の考え方に冷水を浴びせられます。

 

【財産を多く持っていたからだ】

 若者は失望しながら去っていきます。なぜなら、財産を多く持っていたからだとされます。イエスから持ち物を全部売り払えと命じられてそれは出来ないと答えます。

 イエスの命令はすべてを捨てよ、という命令と受け止められ、このために、財産を捨て山奥にでも入り隠遁生活をすることしか解決策はないということになります。イエス・キリストはそのような財産放棄をしなければ永遠の命、天の富、天の宝を獲得できないと教えられたのでしょうか。

 

 この若者の生き方を分析すれば、名誉、地位、権力、財産、若さなどの上に永遠の命を重ねようとしています。所詮、永遠の命は彼の人生にひとつを加えるだけなのです。私たちもこういうものをもっています。ある人は学歴、社会的評価、あるいは技能、職業、人生経験、健康、運動能力などを拠り所にし、そのようなものの上に永遠の命を重ねる、それが人生だと思っています。しかし、永遠の命はそのような人生で獲得するものの追加事項ではありません。それはすべてなのです。

 

 律法は、私たちに善行が神の前でいかに無効か、そして、私たちが知るのは掟によっていかに罪深い人間かを知ることです。この若者が律法を行っていてもそれは彼の功績を積み上げるだけに終わります。

 

彼に必要なことは、永遠の命は無償で、ただで受け取るべきものという知識でした。掟はいやおうなく私たちに自力では永遠の命など得られないという事実を突きつけるものです。

 私たちはこの若者のように財産があるわけではありません。しかし、他のものがあります。そして、そういうものを積み重ねていく人生に、さらに究極の永遠の命、天の宝を加えることが幸福だと思っています。しかし、それは誤謬です。永遠の命はあらゆる人間的な救いの可能性を断念し、ただひたすらに神の無償の救いを求めることに他なりません。

 

 イエス・キリストに従うとはどういうことなのかはっきり分かります。ただ、キリストの憐れみを信頼して、救いはそこから来ると確信することなのです。(おわり)

 

 

 

2015年09月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1083