2015年9月27日説教「キリストの死と復活の予告」 金田幸男牧師

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説教「キリストの死と復活の予告」

 

聖書:マルコによる福音書10章32-34

:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。

:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。

:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 

要旨

 イエス・キリストはエルサレムに上って行かれます。エルサレムはユダヤ人の都、そこに神殿が聳え立っていました。イスラエルの宗教、政治、文化の中心でもありました。キリストは先頭に立ってどんどんエルサレム方向に足を向けられます。周囲にいた人たちはこれを見て、驚き、恐れたと記されています。その理由をマルコは記してくれていませんが、容易に推測できます。

 

【過越祭】

このとき、エルサレム周辺、それから遠隔地からエルサレムの神殿を詣でるため多くの人がやってきていました。過越の祭が近くなってきていました。過越祭は1年に1度の大きな祭で、エルサレムでそれを祝おうと続々と押しかけてきていました。巡礼者といいます。イエス・キリストの弟子たちだけではなく多くの巡礼はエルサレムに向かいつつあります。大きな祭のときは、町中に店が出たり、踊ったり、歌ったりすることで商売をするものもいたでしょう。過越祭はユダヤの過去の神のわざを想起するときではありますが、また楽しいときではありました。

 

【メシヤ=救済者の期待】

また多くに人たちがエルサレムにやってきます。彼らを扇動して騒ぎを起こそうとするものもありました。民衆を動員して反ローマ帝国騒動を引き起こそうとするものがいたのです。当時はそのようなローマに対する反感が人々の中に沸き立っていました。ローマはユダヤ州を直轄的に支配し、総督が派遣されてきていました。彼らの政治は必ずしも公正ではありませんでした。その他のユダヤ人が多く住む地方ではヘロデの息子たちが領主として支配をしていましたが、ローマ帝国の傀儡に近い統治が行われていました。このようなローマの支配を覆し、ユダヤ人が治める国家を作ろうとするものもいました。

 

 イエス・キリストがこれからエルサレムに上って行こうとされています。キリストがエルサレムで騒動を起そうとしているのかもしれないと疑う人もいたでしょう。キリストの弟子たちの場合はそのような期待があったかもしれません。

 

 イエス・キリストはエルサレムに上っていく。それは異国の軍隊を追い出し、メシヤ=救済者が王となり、イスラエルを支配し、強力な国家を作り上げるという期待が弟子たちの中にもあったはずです。キリストが軍隊を指揮し、ローマ軍を滅ぼし、ユダヤ人の国家が出来上がる。そのようにイエスに対して期待するものもいたでしょう。また、終末的メシヤとでもいうべきか、天変地異が起こり、想像できないような現象が次々起こり、こうしてイエスは世の終わりを来たらせる救済者として君臨することが期待されました。このようにイエスキリストがエルサレムに上ろうとしたとき、多くの人たちにはいろいろな期待が満ちあふれたのです。

 

 ところがキリストが明らかにされるのは政治的な、あるいは軍隊の指揮官としてのメシヤなどではありませんでした。

 

【キリストの予告】

 キリストは弟子のうち12人を呼び寄せられます。そして、彼らにはエルサレムで起きることを予告されます。なぜ12人の弟子たちだけに教えられたのでしょうか。この時点では12人の弟子たちも十分に理解をしていたのではありませんでした。キリストが予告されていることは到底理解しがたいものでした。それほどまでキリストのエルサレム行きは不可解な行動でした。

 

 ここでイエスが予告されている点を見ておきましょう。イエスはここで「人の子」という表現を用います。これは一人称、「わたし」と同義と考えられるときもありますが、ここではやはりイエスは人の子=メシヤと言う考えを示しておられると取ったほうがいいと思います。イエスはメシヤがここに記されているようなことを経験すると予告をされます。

 

【人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される】

 そのメシヤは①祭司長たちや律法学者に欺かれて引き渡される。これは裏切られるという意味が含まれています。イエス・キリストは裏切られて引き渡されます。銀30枚でイスカリオテのユダがキリストを売り渡してしまいました。それが裏切りです。

 

【彼らは死刑を宣告して】

②祭司長たちは死刑を宣告します。裁判にかけるということを意味しています。キリストはユダヤ人の最高議会でさばかれます。キリストはユダヤ人から裁判を受けたのです。

 

【異邦人に引き渡す】

③キリストは異邦人に渡されます。この場合、ローマ総督を指しています。ユダヤ人はローマ帝国の支配を受けています。ユダヤ人は法律でさばいても死刑に処する権限を与えられていませんでした。だから、異邦人ポンテオ・ピラトに渡されたのでした。

 

【人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打っ】

④異邦人はイエス・キリストをなぶりものにします。唾をかける行為は最大級の辱めでした。鞭打ちは多くは不従順な奴隷に対して執行されます。キリストは奴隷ではないのにまるで奴隷扱いをされました。

 

【殺す】

⑤そして、殺される。ここでマルコは十字架と記しません。十字架刑は当時最悪の処刑方法でした。死刑にもいろいろランクがありました。貴族などが有罪宣告をされたりすると、自死のみを選ばせられます。多くの場合手首を切り、血管を切り開き、大量出血をさせ、死に至るのですが、これは名誉ある処刑方法でした。その逆が十字架刑でした。残酷で、残忍な処刑方法であると共に極悪犯人や政治犯、あるいはローマ市民権を持たない外国人がこの方法を適用されました。キリストは十字架について言及されなかったのは十字架刑そのものに対する恐怖心を弟子たちにここでは与えられないためと思われます。

 

【キリストは復活する】

⑥そして、キリストは復活されます。詳しく語られていませんが、復活とは死んでいたものが生き返ることです。それは死に対する勝利に他なりません。このことはすぐに理解されるはずです。

これらはこれからエルサレムで起こることを正確に述べるものです。私たちは将来のことなど分かりません。1分たりとも私たちは未来に関してはまったく無知です。キリストがこんなに正確にこれから起きることを予告できるはずがないと考える人も多くいます。そのために、ある人はこの部分はのちに起きたことをあたかも予告と書く。つまり「事後預言」だとする人もいます。しかし、キリストは将来のことを予見することができる神の子です。

 

それから、ルカ18:31に記されていますように、預言者が書いたことをキリストは皆実現するために来られました。預言者とはここでは旧約の預言者を意味していますが、それではどの預言かということになります。ある特定の預言書が引用される場合もあります。

たとえば苦難についてはイザヤ52,53章を、復活についてはホセア6:2などが取り上げることもあります。しかし、聖書の一ヶ所や二ヶ所といった少ない個所からキリストの苦難と復活が預言されていると受け止めないほうがいいと思います。旧約聖書全体がキリストの到来を語り、その役割を示しています。聖書の全体から私たちはキリストの苦難の意味を知り、復活の偉大さを学ぶことができます。

 

イエス・キリストはむろん神から直接ご自身のエルサレムにおける使命を示されていたはずですし、さらに、聖書に精通していたキリストはエルサレムで何が起きるかをすでによく知っておられたのです。

 

キリストはエルサレムで起きることを弟子たちに明確に語っておられます。それは弟子たちがキリストの苦難を直接目撃したときにその意味を理解するようになるためでした。弟子たちはキリストが苦難を受けているときすらも逃げ去っています。弟子たちは十分にその当座理解できていませんでしたが、のちには十分に理解するに至ります。

 

キリストがここで語っておられるのはまず苦難でした。十字架の上でキリストは死なれました。それが私たちの罪を身代わりに引き受けての死でした。キリストは私たちのために犠牲となられました。かくして、私たちは罪が許されます。神の前にはばかることなく近づけるようになりました。神は私たちを和解し、神の子としての特権を与え、天の国籍を賦与してくださいます。

 

キリストは復活されました。死人の中から死を克服し、死に対して勝利をあげられました。キリストを信じる信仰によって私たちはキリストの復活にあずかるものとされます。

 

キリストはこのためにエルサレムに上って行かれます。キリストは政治的な権力を奪取するためにエルサレムに向かわれたのではありません。また、終末的な超人的な活躍が期待されるようなメシヤとしてエルサレムに向かわれるのではありません。キリストはご自身の死と復活によって救済者としての働きを全うされます。罪の許し、さらに神の子とされること、神と和解されて神と共に歩むものとされます。

 

このような十字架からの、私たちが受ける恩恵の大きさを信じるときに、真の力が経験できます。この世の人々は政治権力、財の力、あるいは人数の多さこそ力と信じ、それを何とか手に入れようとしています。それが人類を決して幸福などにはしません。むしろ、私たちは十字架のキリストの中に神の御心を味わい知ります。その神の愛と恵みを覚え、心に留め、感謝し、このことを喜ぶことを通じて幸いを経験できます。

 

また世界は天上が真っ二つに裂け、地面が火にあぶりだされ、天変地異が各地に生じ、そのような中で雲に乗ってメシヤが来て世界が終わり、新しい世が始まるといったような終末論的な再臨がエルサレムで起き、キリストが何かを演じるというのではありません。そんなことで世界が救済されるとは教えられません。あくまでキリストの十字架と復活によってのみこの世界は救われます。

私たちはキリストを信じるとき、その復活も信じます。そして、信じるものにはキリストが得られた復活の命を約束されます。キリストを初穂として私たちもまた復活の命を受け、この命に生かされていきます。最大の救いの約束はキリストと共によみがえる希望にあります。ここにだけまことの救いがあります。(おわり)

2015年09月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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