2015年9月27日説教「キリストの死と復活の予告」 金田幸男牧師
説教「キリストの死と復活の予告」
聖書:マルコによる福音書10章32-34
:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
要旨
イエス・キリストはエルサレムに上って行かれます。エルサレムはユダヤ人の都、そこに神殿が聳え立っていました。イスラエルの宗教、政治、文化の中心でもありました。キリストは先頭に立ってどんどんエルサレム方向に足を向けられます。周囲にいた人たちはこれを見て、驚き、恐れたと記されています。その理由をマルコは記してくれていませんが、容易に推測できます。
【過越祭】
このとき、エルサレム周辺、それから遠隔地からエルサレムの神殿を詣でるため多くの人がやってきていました。過越の祭が近くなってきていました。過越祭は1年に1度の大きな祭で、エルサレムでそれを祝おうと続々と押しかけてきていました。巡礼者といいます。イエス・キリストの弟子たちだけではなく多くの巡礼はエルサレムに向かいつつあります。大きな祭のときは、町中に店が出たり、踊ったり、歌ったりすることで商売をするものもいたでしょう。過越祭はユダヤの過去の神のわざを想起するときではありますが、また楽しいときではありました。
【メシヤ=救済者の期待】
また多くに人たちがエルサレムにやってきます。彼らを扇動して騒ぎを起こそうとするものもありました。民衆を動員して反ローマ帝国騒動を引き起こそうとするものがいたのです。当時はそのようなローマに対する反感が人々の中に沸き立っていました。ローマはユダヤ州を直轄的に支配し、総督が派遣されてきていました。彼らの政治は必ずしも公正ではありませんでした。その他のユダヤ人が多く住む地方ではヘロデの息子たちが領主として支配をしていましたが、ローマ帝国の傀儡に近い統治が行われていました。このようなローマの支配を覆し、ユダヤ人が治める国家を作ろうとするものもいました。
イエス・キリストがこれからエルサレムに上って行こうとされています。キリストがエルサレムで騒動を起そうとしているのかもしれないと疑う人もいたでしょう。キリストの弟子たちの場合はそのような期待があったかもしれません。
イエス・キリストはエルサレムに上っていく。それは異国の軍隊を追い出し、メシヤ=救済者が王となり、イスラエルを支配し、強力な国家を作り上げるという期待が弟子たちの中にもあったはずです。キリストが軍隊を指揮し、ローマ軍を滅ぼし、ユダヤ人の国家が出来上がる。そのようにイエスに対して期待するものもいたでしょう。また、終末的メシヤとでもいうべきか、天変地異が起こり、想像できないような現象が次々起こり、こうしてイエスは世の終わりを来たらせる救済者として君臨することが期待されました。このようにイエスキリストがエルサレムに上ろうとしたとき、多くの人たちにはいろいろな期待が満ちあふれたのです。
ところがキリストが明らかにされるのは政治的な、あるいは軍隊の指揮官としてのメシヤなどではありませんでした。
【キリストの予告】
キリストは弟子のうち12人を呼び寄せられます。そして、彼らにはエルサレムで起きることを予告されます。なぜ12人の弟子たちだけに教えられたのでしょうか。この時点では12人の弟子たちも十分に理解をしていたのではありませんでした。キリストが予告されていることは到底理解しがたいものでした。それほどまでキリストのエルサレム行きは不可解な行動でした。
ここでイエスが予告されている点を見ておきましょう。イエスはここで「人の子」という表現を用います。これは一人称、「わたし」と同義と考えられるときもありますが、ここではやはりイエスは人の子=メシヤと言う考えを示しておられると取ったほうがいいと思います。イエスはメシヤがここに記されているようなことを経験すると予告をされます。
【人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される】
そのメシヤは①祭司長たちや律法学者に欺かれて引き渡される。これは裏切られるという意味が含まれています。イエス・キリストは裏切られて引き渡されます。銀30枚でイスカリオテのユダがキリストを売り渡してしまいました。それが裏切りです。
【彼らは死刑を宣告して】
②祭司長たちは死刑を宣告します。裁判にかけるということを意味しています。キリストはユダヤ人の最高議会でさばかれます。キリストはユダヤ人から裁判を受けたのです。
【異邦人に引き渡す】
③キリストは異邦人に渡されます。この場合、ローマ総督を指しています。ユダヤ人はローマ帝国の支配を受けています。ユダヤ人は法律でさばいても死刑に処する権限を与えられていませんでした。だから、異邦人ポンテオ・ピラトに渡されたのでした。
【人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打っ】
④異邦人はイエス・キリストをなぶりものにします。唾をかける行為は最大級の辱めでした。鞭打ちは多くは不従順な奴隷に対して執行されます。キリストは奴隷ではないのにまるで奴隷扱いをされました。
【殺す】
⑤そして、殺される。ここでマルコは十字架と記しません。十字架刑は当時最悪の処刑方法でした。死刑にもいろいろランクがありました。貴族などが有罪宣告をされたりすると、自死のみを選ばせられます。多くの場合手首を切り、血管を切り開き、大量出血をさせ、死に至るのですが、これは名誉ある処刑方法でした。その逆が十字架刑でした。残酷で、残忍な処刑方法であると共に極悪犯人や政治犯、あるいはローマ市民権を持たない外国人がこの方法を適用されました。キリストは十字架について言及されなかったのは十字架刑そのものに対する恐怖心を弟子たちにここでは与えられないためと思われます。
【キリストは復活する】
⑥そして、キリストは復活されます。詳しく語られていませんが、復活とは死んでいたものが生き返ることです。それは死に対する勝利に他なりません。このことはすぐに理解されるはずです。
これらはこれからエルサレムで起こることを正確に述べるものです。私たちは将来のことなど分かりません。1分たりとも私たちは未来に関してはまったく無知です。キリストがこんなに正確にこれから起きることを予告できるはずがないと考える人も多くいます。そのために、ある人はこの部分はのちに起きたことをあたかも予告と書く。つまり「事後預言」だとする人もいます。しかし、キリストは将来のことを予見することができる神の子です。
それから、ルカ18:31に記されていますように、預言者が書いたことをキリストは皆実現するために来られました。預言者とはここでは旧約の預言者を意味していますが、それではどの預言かということになります。ある特定の預言書が引用される場合もあります。
たとえば苦難についてはイザヤ52,53章を、復活についてはホセア6:2などが取り上げることもあります。しかし、聖書の一ヶ所や二ヶ所といった少ない個所からキリストの苦難と復活が預言されていると受け止めないほうがいいと思います。旧約聖書全体がキリストの到来を語り、その役割を示しています。聖書の全体から私たちはキリストの苦難の意味を知り、復活の偉大さを学ぶことができます。
イエス・キリストはむろん神から直接ご自身のエルサレムにおける使命を示されていたはずですし、さらに、聖書に精通していたキリストはエルサレムで何が起きるかをすでによく知っておられたのです。
キリストはエルサレムで起きることを弟子たちに明確に語っておられます。それは弟子たちがキリストの苦難を直接目撃したときにその意味を理解するようになるためでした。弟子たちはキリストが苦難を受けているときすらも逃げ去っています。弟子たちは十分にその当座理解できていませんでしたが、のちには十分に理解するに至ります。
キリストがここで語っておられるのはまず苦難でした。十字架の上でキリストは死なれました。それが私たちの罪を身代わりに引き受けての死でした。キリストは私たちのために犠牲となられました。かくして、私たちは罪が許されます。神の前にはばかることなく近づけるようになりました。神は私たちを和解し、神の子としての特権を与え、天の国籍を賦与してくださいます。
キリストは復活されました。死人の中から死を克服し、死に対して勝利をあげられました。キリストを信じる信仰によって私たちはキリストの復活にあずかるものとされます。
キリストはこのためにエルサレムに上って行かれます。キリストは政治的な権力を奪取するためにエルサレムに向かわれたのではありません。また、終末的な超人的な活躍が期待されるようなメシヤとしてエルサレムに向かわれるのではありません。キリストはご自身の死と復活によって救済者としての働きを全うされます。罪の許し、さらに神の子とされること、神と和解されて神と共に歩むものとされます。
このような十字架からの、私たちが受ける恩恵の大きさを信じるときに、真の力が経験できます。この世の人々は政治権力、財の力、あるいは人数の多さこそ力と信じ、それを何とか手に入れようとしています。それが人類を決して幸福などにはしません。むしろ、私たちは十字架のキリストの中に神の御心を味わい知ります。その神の愛と恵みを覚え、心に留め、感謝し、このことを喜ぶことを通じて幸いを経験できます。
また世界は天上が真っ二つに裂け、地面が火にあぶりだされ、天変地異が各地に生じ、そのような中で雲に乗ってメシヤが来て世界が終わり、新しい世が始まるといったような終末論的な再臨がエルサレムで起き、キリストが何かを演じるというのではありません。そんなことで世界が救済されるとは教えられません。あくまでキリストの十字架と復活によってのみこの世界は救われます。
私たちはキリストを信じるとき、その復活も信じます。そして、信じるものにはキリストが得られた復活の命を約束されます。キリストを初穂として私たちもまた復活の命を受け、この命に生かされていきます。最大の救いの約束はキリストと共によみがえる希望にあります。ここにだけまことの救いがあります。(おわり)
2015年09月27日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年9月20日説教「神の国に入るのはむつかしいか」金田幸男牧師
説教「神の国に入るのは難しいか」
聖書:マルコ10章23-31
要旨
【神の国にはいるのに必要なものとは】
イエス・キリストに従えと言われながら、従うことができなかった議員であり、金持ちであった若者のことを見ました。彼の場合、財産を捨てることができないためにキリストに従えなかったのです。彼は財産を持ったまま神の国を相続しようとしました。彼にとって財産は生きていくうえで不可欠であり、それなしに人生は成り立たないと考えられたのです。しかし、財産だけではなく、私たちにとってそれがないと生きられないと思うようなものがたくさんあります。ある人にとっては名誉地位であり、家族であり、土地であったりすることもあり、健康や職業も人生にとって欠くべからざるものと思われます。
宗教の世界でも、宗教への傾倒,熱心さ、あるいは神学研究へ没頭してしまい、それがないと神の国に入れないかのように思われることもあります。私たちの人生経験、価値観、世界観などに影響されて、神の国に入るためにそれ相応の経験や体験を要すると考えられています。それらが神の国に入る交換条件のように錯覚するのです。
イエス・キリストにところにやってきた若者の場合、律法の行いが神の国に入る条件であると思われていました。律法を守りさえすれば神の国には入れるのはないかと思ったのでした。しかし、彼の予想は覆されます。神の国に入るためには財産を放棄すべきであるとされます。
キリストは、弟子たちに顔を向けられます。キリストは間もなくエルサレムに行こうとされます。そこで十字架にかけられて命を失うことになっています。それは贖いのみわざです。これによって罪人に救いの道が開かれます。弟子たちに救い、つまり、神の国に入るためにはどうすればいいのか改めて教えられます。
【財産のあるものは神の国に入れない】
財産のあるものは神の国に入れない、つまり、永遠の命を獲得できないと言われます。財産のあるものはそれに固執して、結局、財産も救いにとっては不可欠であると錯覚してしまいます。財産がなければ救いは危うくなると思うようになるのです。財産があればこそ救いも安泰と思うようになります。
ユダヤ人は財産を築くことは神の恩寵であると思っていました。そのように資産が増えることは神の祝福であるということには間違いありません。ユダヤ人の中ではイエス・キリストの教えに違和感を感じる人がいても当然です。富のあるものが神に近いと思われていたのです。英国のピューリタンもそうですが、彼らは、事業の成功自体、自分たちが救われ、救いに選ばれていることの証拠、神の祝福であると確信をしていました。アメリカン・ドリームということがありますように。
事業の成功は神の祝福であると考えるのです。敬虔で信心深い人が事業に真剣に取り組み、それでもって豊かな生活ができるようになる、それは神の恵みと考えられたのです。特に資本家にとっては、収益増大は予定されているものに対する神の格別の働きに他ならないとまで考えました。その上、彼らは浪費などしません。その儲けを新しい事業に投資する。結果的に資本が増加し、資本主義が栄えるようになるのでした。近代の資本主義促進とピューリタンの関係を説く学者もいます。もし金持ちが神の国に入れないとすると、財産を得ることが神の恵みとする一般ユダヤ人と衝突することになります。このような考えは誤解であることは間違いありません。確かに財産を獲得することができるのは神の恵みです。しかし、その財産が神の国に入るために妨げになることもあるのです。財産があたかも人間の救いを保証するかのように考えられるならば、その財産は救いにとって妨げとなります。
【神に国に入ることは難しい】
イエス・キリストは弟子たちに語り続けられます。神に国に入ることは難しい。まして、金持ちが神の国に入ることはいっそう難しい。ふたつの文章は同じことの繰り返しではなく、別個の問題を明らかにするものです。私たちはしばしば前半を誤解することが多いと思います。つまり、この文章も金持ちを対象にしていると考えてしまうのです。キリストは弟子たちに向かって語られています。金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい。これは不可能だというものです。しかし、弟子たちなら神の国に入れるのでしょうか。キリストはここで弟子たちが神の国に入るのは難しいと言われたのです。弟子たちもまた神の国に入るのは不可能に近い。まして、金持ちはさらに難しい。ここは弟子たちのほうが可能性は若干高いというような感じはまったくありません。神の国相続は誰にとっても困難なのです。
弟子たちはイエスの言葉をそのまま受け入れています。人間のうち、一体で誰が神の国に入る資格を持っているか。だれが果たして救われるのか。イエスの言葉とおりならば、だれも神の国に入れないではないか。
【人には出来ないが神には出来る】
キリストは弟子たちに答えられています。人間にはできない。しかし、全能の神にはできないことはありえない。神は何でもできる。だから、人間的にとっては到底不可能と燃えるようなことが起きるのです。まったく神の国に縁がないと思われるものにも神の国の招きがあるでしょう。人間的には神の国など遠いものと思っているかも知れませんが、神にはできないことはありません。決心されたら神は最も救いに遠いところにいるものにも招き、救いを与えられます。神はそのように救いの道を明らかにされます。
人間は自力ではまったく神の国を相続できるような存在ではありません。しかし、神が可能にしてくださいます。イエス・キリストを十字架につけ、それによって、私たちは神の御前に近づくことが出来るようにされたのでした。人間には救いは不可能であるが、イエス・キリストにあって救いの道を神ご自身が案内されます。
【 ペテロ:「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」】
ところがペトロが登場します。福音書の中でペトロの行動は愚かな質問をし、的外れの答をしたりでとても12人の使徒団のリーダーとは思えません。キリスト復活後のペトロの役割から見るとずいぶん違ったイメージの弟子と思われます。ここでペトロが言いたかったことは、自分たちはキリストの弟子として全てを投げ打ってきた。キリストにすべてをささげている。となると神の国は私たちのものではないか。キリストの弟子たちの中でペトロは人一倍熱心であったことは間違いありません。金持ちの若者は悲しいことに去って行きました。それに比べて弟子たちははるかに神の国に入るために好条件に恵まれているではないか。ペトロの気持ちの中には、われわれはあの金持ちの若者とは違うのだという自負心も感じ取られます。あのような若者に比べれば、我々は神の国に入る相応しさはあると思ったことでしょう。ところがキリストはそういうことを認められませんでした。永遠の命を得るために家屋、家族、財産を捨てるだけではすみません。そこで求められていたのは神に対する絶対的依存の信仰でした。実際、この時点ではペトロは何も分かってはいませんでした。彼は自分こそ神の国で相当の地位を得られると思っていたのでしょうか。
キリストはペトロを叱りつけたり、非難されていません。直接ペトロの名を挙げてペトロの発言を退けるようなことをされていません。キリストは本当に神のみ国に入れるのは誰かと教えられています。それは、まず家(家屋)、家族、そして、最後に土地(所有)を捨てるものだと言われています。これらを本当に捨てたものだけが救われます。ペトロはどうであったでしょうか。彼はカファルナウムに自宅があったようです。また、妻子もあったようです。キリストの弟子たちの中には裕福なものもいました。例えば収税人もいたのですが、彼らは不正な手段で多くの財産をかき集めていました。マタイは弟子になったときもその財産をすべて失うように決心したのではないと思います。また、キリストの弟子たちの中には財布係もありました。12人以上が団体で行動するのでした。経費が必要であったようです。ペトロが、キリストの弟子たちの中では、筆頭格で、財産を放棄したとありますが、まったく資産を持たなくなったのではありませんでした。
【迫害を受ける】
その上、迫害を受けるとも記されています。迫害に耐えられず、脱落していくものもあるでしょう。こうなると神の国を相続できるのは一体誰と誰かということになります。誰もいないのです。
このように徹底的に放棄できる人ならば神の国に入れるだろうけれども、どのようなキリスト信者も、とても神の国ははるかに遠いものです。あのペトロとて同様です。何もかも捨ててきましたといえるほど彼らは努力を積み重ねてきたはずですが、キリストが示される基準には達しないはずです。ペトロはここで認めなければならなかったのですが、彼にはとても神の国に入る資格はありません。これを認めてただ神の救いの恵みに頼らざるを得なかったのです。人間はどういうことをしても神の国に入ることができません。ただ神にお願いするしかありません。神の恵みにより、信仰によって捉えるものなのです。
それでもなお、自分は神の国に入るために最大限の努力をしてきた、だから神の国に入れる資格はあると強弁するものもいたことでしょう。キリストは言われます。先のものが後になり、あとのものが先になる。このみ言葉はいろいろなところで用いられています。マタイ20:16、ルカ13:20・ただ文脈から見ると違ったところにおかれていますので、キリストはこの言葉をいろいろな場合に用いられたのでしょう。自分は先頭を切って忠実に努めて来た。こういう自負心を持つものも出てくるでしょう。キリストはそういう先頭を切っていたものも最後には脱落寸前にまで追いやられ、勝利者は別人となるといわれます。自ら救いを率先して獲得できると自負するものはかえって神の国を得られず、できないと思い、神に信頼するものはそれを得るのです。(おわり)
2015年09月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年9月13日説教「私に従って来なさい」金田幸男牧師
L150914001.wav L150914001.wav ←クリックで説教が聴けます説教「わたしに従いなさい」
聖書:マルコ10章17-22
17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
要旨
【ある人】
10章17に「イエスが旅に出ようとされると(ちょうどそのとき)ある人が走り寄って」来た、と記されています。イエスの出発のことは10章1に記され、ユダヤ地方、エルサレムに向かわれます。
ある人が急いでキリストに会おうとしています。一刻も早くという思いでやってきたのです。それほど彼にとっては重大問題であり、イエスがこの地を去る前に是非とも答えを得たいと切に願っています。マルコによる福音書では飛び込んできたこの人物のことを詳細に述べていません。
【青年・議員】
同じことを記すマタイによる福音書では青年とあります(マタイ19:20)。この言葉は20歳くらいを表します。ルカ福音書では議員とあります(ルカ18:18)。おそらく、ユダヤ人の最高議会の一員であったと想像できます。最高議会(サンフェドリン)は今で言う国会と最高裁判所を兼ねたような国家の機関で、ユダヤ人社会の中では相当地位の高い家柄でなければこの議員にはなれません。
【金持ち】
三つの福音書共通にこの人物は金持ちであったと記します。彼は地位も高く、名誉ある立場にあり、また裕福であり、若さもありました。前途洋々たる人生が目の前にありました。
【永遠の命】
イエス・キリストのところにやってきたこの若者は永遠の命を獲得するためにはどうしたらいいのかと尋ねます。永遠の命、いたって宗教的な課題です。この人がなぜ永遠の命を求めたのだろうかと思います。ある人は、この人物は安楽な日々を過ごし、信仰を趣味としているような人間と見ます。
【慈しんで語れた】
実際今日、宗教に関心のある人はよほどの暇人と思われています。仕事で忙しい人は宗教などの関心を持たないと思われています。だから一種の趣味のように宗教を考えているに過ぎない軽薄な人物を解されるのです。しかし、イエスはこの若者をじっと見つめ、慈しんで語れたとあります。慈しんで、は「愛を持って」とも訳せます。イエス・キリストはこの若者を切り捨て、取り合わないようにされたのでは決してありません。だから、この人は生半可な思いでイエスに接近してきたのではありません。彼はたいへんまじめにイエスに問うています。若い人は立身出世や目先の栄華を目指しやすいものです。この若者はそういう同世代の人間とは違った道を行きます。彼は永遠の命をどうすれば得られるのかが最大の関心事でありました。
【何をしたらいいのか】
永遠の命を獲得するために何をしたらいいのか。このような問いを投げかける若者は当時もそうでしたし、今日も同じです。その点でもこの若者はユニークな存在でした。永遠の命などと言うあまり人が関心を持たないし、特に若者ならばあまり関わりを持とうとしないものを追求していたのです。この人はそういう点で稀有な存在でありました。昔の人も今日の人も永遠の命などに真剣に探求しようなどと思わないでしょう。人はそういう問題よりも今日をどう生きるかに関心があります。今というときを大切に思い、永遠の命など空論だと思うのです。ところがこの若者は真正面から永遠に生きる道を尋ね求めたのでした。
なぜ永遠の命を求めたのか、マルコ福音書は沈黙しています。止むに止まれぬ切羽詰まった情況があったのでしょう。
【よい教師・義の教師】
彼はイエスに向かって「よい教師」と呼びます。よい先生。これは当時のユダヤ人社会の事情を考えなければなりません。ユダヤ人が律法を重視していました。それは神の与えられた掟でありました。この律法を研究し、相応しい解釈を専門的に行う人々が存在していました。律法学者といわれているように律法を深く研究している人たちがいました。ところがそのような律法学者の中に頭だけの信仰ではなく、律法を熱心に行い、それゆえに人々から尊敬を受けるまで自己修練に励む人たちがおりました。彼らは「義の教師」と呼ばれていました。義の教師は特別敬虔な歩みをしています。彼らはただ律法に忠実だと言うだけではなく、その徳を分かち合うことができると信じられていました。あるいは、特別な教え、それは秘密をされるものですが、これを与えることが出来るものと考えられていました。
イエス・キリストは自分はそのような義の教師であることを否定されます。キリストが何か功績を積みそれを他の人に分配すると言った特別な働きをするものではないと証言されます。あるいは特別な秘儀を隠匿しているようで、特別の仕掛けでそれを得られると言ったような教師とは全然違うのです。そういうことは神の領分です。イエス・キリストはみ父にまさって弟子たちに義を分与できる方ではありません。それも律法の行いではなく、ただ神の恵みに依存して得られるもので、それを与えることが出来るのは父なる神だけです。
【十戒の後半】
その上で、キリストは十戒を引用されます。モーセは神から律法を与えられます(出エジプト記20:12-16、申命記5:16-20)。それは石の板2枚に記されています。キリストが引用されているのは第二の板です。よく見るとキリストは十戒を改変されています。ひとつは、父母を敬えという第5の戒めを一番最後にもって来ています。これはおそらく強調のために順序が変えられたのだと思います。もうひとつは第10戒、貪るな、を、奪い取るな、とされています。奪い取ることと貪りとは厳密に言えば違うでしょうけれども、酷似しています。乱暴に、あるいは策略を用いて、他人から大切なものを奪い取り、それを自分のものとしてしまう。それが貪欲と言うものです。
【知っているか?】
さて、ここで注意していただきたいのは、キリストは「知っているか」と尋ねられただけです。ところがこの若者は実行していると答えます。知っていると、実行しているとは異なります。キリストが問題にされたのは律法の意味、もっといえば霊的な意味なのです。律法が本来持っている神意はどこにあるか。キリストは律法をこの観点から捉えられます。山上の説教を見ましょう(マタイ5:21以下)。ここでは兄弟を誹謗するものは殺人罪と同罪であり、裁きを受けなければならないといわれます。あるいは女性を淫らな思いで見るものは姦淫罪を犯しているとキリストは指摘されています。このようにキリストは律法を心の問題にされます。律法が本来持っていた神の意図を読み取らなければなりません。外面的な実行だけが問題ではないのです。
【実行しています】
ところが若者は、知っているかという問いを誤解します。彼は、十戒を小さいときから実行していますと答えます。知っていることと実行することは異なります。しかも、文字面だけではなく、その掟の言葉の奥にある深い神意を知らなければなりません。ところがこの若者は律法を行っているかどうかと言う観点からキリストの言葉を受け止めたのです。
この若者は子どものときから掟を守っていると答えますが、ユダヤ人社会では13歳のとき神殿に行って特別の儀式にあずかり、そのとき以来律法を行うべきもの(掟の子)とされたのです。そうは言っても大半の家庭ではさほど厳しく掟の遵守を求められませんでした。この若者の家庭はどうであったか。おそらく他と違って厳格に教育を受けたのでしょう。よき躾を受けていました。この点から見て、若者は品性もまた優れていたと言えると思います。
【行け、持ち物を売り払え、施せ、そして、従え】
キリストはすれ違いをすぐに指摘されません。むしろ、別の言葉を投げかけられます。四つの命令の言葉が並びます。行け、持ち物を売り払え、施せ、そして、従え。若者は永遠の命を得るために律法の行いに務めるべきだという考えを知っていたようです。だから、そういうものは行っている、とすると永遠の命は自分のものとなるか。こういう考えを持っていたのかもしれません。イエスにそれを確かめたかっただけかもしれません。イエス・キリストはそのような若者の考え方に冷水を浴びせられます。
【財産を多く持っていたからだ】
若者は失望しながら去っていきます。なぜなら、財産を多く持っていたからだとされます。イエスから持ち物を全部売り払えと命じられてそれは出来ないと答えます。
イエスの命令はすべてを捨てよ、という命令と受け止められ、このために、財産を捨て山奥にでも入り隠遁生活をすることしか解決策はないということになります。イエス・キリストはそのような財産放棄をしなければ永遠の命、天の富、天の宝を獲得できないと教えられたのでしょうか。
この若者の生き方を分析すれば、名誉、地位、権力、財産、若さなどの上に永遠の命を重ねようとしています。所詮、永遠の命は彼の人生にひとつを加えるだけなのです。私たちもこういうものをもっています。ある人は学歴、社会的評価、あるいは技能、職業、人生経験、健康、運動能力などを拠り所にし、そのようなものの上に永遠の命を重ねる、それが人生だと思っています。しかし、永遠の命はそのような人生で獲得するものの追加事項ではありません。それはすべてなのです。
律法は、私たちに善行が神の前でいかに無効か、そして、私たちが知るのは掟によっていかに罪深い人間かを知ることです。この若者が律法を行っていてもそれは彼の功績を積み上げるだけに終わります。
彼に必要なことは、永遠の命は無償で、ただで受け取るべきものという知識でした。掟はいやおうなく私たちに自力では永遠の命など得られないという事実を突きつけるものです。
私たちはこの若者のように財産があるわけではありません。しかし、他のものがあります。そして、そういうものを積み重ねていく人生に、さらに究極の永遠の命、天の宝を加えることが幸福だと思っています。しかし、それは誤謬です。永遠の命はあらゆる人間的な救いの可能性を断念し、ただひたすらに神の無償の救いを求めることに他なりません。
イエス・キリストに従うとはどういうことなのかはっきり分かります。ただ、キリストの憐れみを信頼して、救いはそこから来ると確信することなのです。(おわり)
2015年09月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年9月6日説教「子どもを祝福するイエス・キリスト」金田幸男牧師
L150906001.wav ←クリックで説教が聴けます説教「子どもを祝福されるイエス・キリスト」
聖書 マルコ福音書10章13-16
要旨 今までマルコによる福音書を学んできましたが、子どもが登場する個所が2ヶ所ありました。
【主イエスの子ども観、1】
9章36では、弟子らが、自分たちの中で誰が一番偉いのかと論じ合っていたとき、キリストは彼らの真ん中に子どもを立たせ、「わたしの名のために、このような子どもを受け入れるものがわたしを受け入れるのだ」と言われました。イエス・キリストのために、キリストの代わりに子どもを受け入れるようなものこそ一番偉いのだというのです。子どもは価値のないものとされていました。その子どもをキリストのために受け入れ、尊ぶものこそ弟子たちの中で重視されるべきなのです。
【主イエスの子ども観、2】
第二は9章42で「わたしを信じるこれらの小さいものの一人を躓かせる者は大きな石臼を首にかけられて海に投げ入れられるほうがはるかによい」とあります。小さいものは子どもを指していますが、比ゆ的に用いられていて、小さいものはただキリストを信じるもので、その中でもあまり重視されていないようなものを指しています。弱いものを躓かせ、キリストから引き離すようなことをするものは溺死刑に処せられたほうがよい。
【主イエスの子ども観、3】
そして、第三に上げられるのは今日学ぼうとしている10章13-16です。子どもがイエスに触れていただくために連れて来られたとあります。この子どもを祝福するイエスの働きについてはマタイとルカ福音書にも記されています。
マタイ19章13では「そのとき、イエス手を置いて祈っていただくために」子どもが連れて来られたとあります。当時の習慣では、名声を博している教師、あるいは有名な人が来ると彼らに子どもを祝福してもらうことになっていました。偉い人であればあるほどその祝福の祈祷には効力があると思われていました。そして、祝福は単なる祝福祈願に留まるものではなく、その祝福は現実に実を結ぶと信じられていました。
ルカ18章15では、触れていただくためにやってきたものの中には、乳飲み子も含まれていたことが知られます。マタイとマルコの出てくる子どもは12歳くらいの子どもをさす用語ですが、ルカの場合はまるっきりの赤ん坊を指しています。中には泣き叫ぶような小さい赤ちゃんもいたでしょう。さらに、人々と訳されている言葉は「男たち」と訳されてもよい表現です。連れてきたのは一家の長でした。だからその妻も同行し、子どもの兄弟姉妹もいた。となるとこの場は騒然としていたに違いありません。
【叱る弟子たち】
イエスの弟子たちがこれを見て叱りつけたとありますが、理由は容易に推測できます。キリストは長時間教えておられました。今日と違いマイクやスピーカーがあるわけではありません。キリストは声を張り上げて語られたことでしょう。長時間の教えにキリストは疲れきっていました。弟子たちも同様に疲れを覚えていたでしょう。そこでたくさんの人が押し寄せてきたのです。弟子たちはその勢いに怒りをおぼえたのです。疲れきっているキリストをはじめ、弟子たちの休息を邪魔するなどとはとても失礼なものと思ったのでした。
【主の憤り】
ところがキリストはそのような弟子たちの言動に憤られたとあります。なぜ、キリストは腹を立てられたのでしょうか。マルコの福音書では、キリストの感情を率直に記している個所があります。マルコはイエス・キリストをこのように情に動かされるものと見ています。実際キリストは喜怒哀楽を示す方です。決してキリストは冷血漢ではありません。キリストの感情がよく表現されています。マルコの特徴的な表現です。
キリストは子どもたちを祝福したいと切に思われていたに違いありません。ところが弟子たちが阻もうとしています。それに憤られたのです。キリストは子どもたちを祝福したいと願われました。子どもは祝福されなければならないと思われ、祝福したいと願われたのです。
キリストは子どもたちを来させ、神の国はこのようなものたちといわれます。「はっきり言っておく」は厳かに真理を宣言されるときに使われる表現なのですが、神の国の真理をキリストは自らの口で明言されようとしています。
【子どもはなぜ祝福されねばならないか】
ここで私たちは二つのことを十分区別しておかなければなりません。この二つはもちろん相互に深く関係します。ただ、区別が必要なのです。
まず第一のことから見て行きましょう。イエス・キリストは何としても子どもたちを祝福しなければならないと思われます。弟子たちがそれを阻もうとしたとき激しく怒られました。それほどキリストは子どもの祝福を重視されています。
今日、私たちが見ている子どもたちと当時の子どもたちは大いに異なる状況に置かれていました。子どもは弱い、というよりも価値のないものとみなされていました。その弱さは二重の意味を持っています。まず、子どもたちが幼くして死ぬ率は極めて大きなものでした。私たちの中で高齢者と言われている世代には,子どものころに兄弟をなくした方も多いのではないでしょうか。わたしも実は6人兄弟ですが、二人の姉は「赤痢」とか「疫痢」と言われている病気で、一人は6歳,もう一人は3ヶ月で亡くなっています。子どもすべてが順調に育つことのほうが稀な致死率でした。
イエス・キリストの時代にはいろいろな病気があり、栄養状態も悪く、それにさまざまな事故で子どもはあっけなく命を失ったのでした。キリストはそのような子どものために祝福を祈ろうとされています。
もうひとつの弱さは社会的なもので,子どもは価値のない存在と見なされていました。家父長制家族制度の中で父親は生まれたばかりの子どもを殺害しても犯罪にはなりませんでした。また、子どもを負債のために奴隷に売ってしまう権利を有していました。子どもの置かれた状態はこのように劣悪でありました。それは実はほんの2.3百年前まで続いてきた状況でした。子どもは弱く、価値もなく、重視されていません。まして子どもの人権などまったく認められてはいませんでした。そのような子どもたちをキリストは祝福されたのでした。それは弱いものへの憐れみ、同情を持って祝福するものであったと断言できます。
キリストは弱い立場のものへの憐れみを示されます。10章1-12では、離縁された社会的には疎外されている女性への憐れみを示されていますが、ここでは弱いものと見られていた子どもへの深い慈しみを示されます。
ここでキリストは子どもたちを祝福されました。この子どもたちは、劣悪な状況に置かれていましたが、キリストはその子どもたちが苦しみの中にないようにと願われたのです。そして、実際医学の進歩で子どもが小さいときに命を失う状態は少なくなって来ています。ますます医学が進歩して子どもたちが幼いときに死ぬというような悲しみが少しでも少なくなるように私たちは願い、また実現のためにもっともっと教会は関心を払うべきでしょう。
キリストの祝福から2000年も過ぎています。その間、キリストのなされた祝福は文字どおりに現実のものとなって来ています。また、社会的に子どもの人権が認められて来ています。子どもたちは大事に育てられています。これこそキリストの祝福の実現です。キリストが祝福されて何百年かかり、祝福が現実のものとなって来ています。だからこそ、世界にも日本にも不幸で悲惨な状態にある子どもが多くいることを覚え、そのような子どもたちが少なくなることを願い祈り、またそのために支援の働きも肝心でしょう。
【子どものように】
もうひとつのことを学ばなければなりません。イエス・キリストは厳粛に真理を宣告されます。神の国は子どものような者たちに属する。子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることは出来ない。ここで子どもは比ゆ的なものとして表現されています。
子どものように、という表現は二種類の意味があります。ひとつは子どものような無知蒙昧で、知恵がないという意味がありますが、ここでキリストがいわれる意味ではありません。キリストがここで言われているのは、子どものように素直で、純真で、疑うところのない、という意味です。
母親がこのような経験をしていることだろうと思います。疑うことなく母親の愛に依存している子どものように、神に疑わず、真実に、神を信じるもの、そのようなものが神の国に入れます。
神の国とは何か。単語そのものは「神の支配」を意味しますが、抽象的な物言いです。地獄はどういうところか私たちはすでに見ました。(10章42-50)
地獄は聖書ではどういうところか表現されていませんでした。私たちはこの世界で地獄を見ます。地獄絵を見たと表現されたりします。そのとおり、地獄のような悲惨な有様を、私たちは目にします。戦争、飢餓、疾病、あるいは、天災、このような事件に遭遇してその有様を見た人には地獄をみたかのように思われますが、それは地獄絵なのです。正確に言えば、本当の地獄はそれ以上だということです。想像を超えています。私たちは地獄がどれほど恐るべきか真実に知らされているのではありません。
神の国、天国についても同じことが言えます。黙示録21以下に記されている新しいエルサレムはまことの神の国の表象ではありません。あくまで幻です。黙示とはそういうものです。偽りではありません。しかし、それは本当のものを目撃して言い表されたものではありません。神の国はそれ以上なのです。私たちはその神の国に入りたいと思うのであれば子どものように、神を信じ、自らは救いに相応しいものは何もないとへりくだり、ひたすら神からの救いの賜物を期待するしかありません。自分の相応しさを主張し、救いに相応しい実績をもっていると神の前で強弁など出来ないもの、それがここでいう子どものようなものを指しています。ただ、神から恵みを受けられることだけを期待する、それが神の国に相応しい子どものようなものなのです。(おわり)
2015年09月06日 | カテゴリー: マルコによる福音書