2015年8月23日説教「心の頑なさと神の掟」金田幸男牧師

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聖書:ルコによる福音書10章
1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

説教「心の頑なさと神の掟」

聖書:マルコ10章1-12

要旨

 マルコ10章1で、イエス・キリストは「そこを」立ち去ったとありますが、それはガリラヤ湖周辺のカファルナウム(8:33)を指しています。そこからユダヤ地方とヨルダンの向こう(東側)に向かわれます。ヨルダンの東はペレヤ地方と言い、当時、ヘロデ・アンティパスが領主として治めていました。キリスト一行はペレヤを抜けてそこからエリコの町に入り(10:46)、エルサレムに向かわれます。エルサレムでキリストは十字架の上で贖いの死を遂げられます。

 

【ヘロデ・アンティパス】

ヘロデ・アンティパスは6章14以下に記されていますように、ヘロデヤとの結婚を批判した洗礼者ヨハネを投獄した上、殺害しています。

 イエス・キリストはペレヤでも群衆に教えましたが、ヘロデ・アンティパスの近くで活動されたのです。そこにファリサイ派が登場します。彼らはイエス・キリストの質問をしますが、むろん教えを請うためにやってきたのではありません。

 

2節に「試そうとした」とあります。その試みは悪意から出たものですが、離婚について問うということは、あわよくば、ヨハネと同じ運命に陥らせようとするものであったと考えられます。イエス・キリストがヘロデとヘロデヤの結婚を非難するなら、そのうわさはすぐにヘロデの耳に入るはずです。このようにファリサイ派の質問は決してまじめなものではなくイエスを亡き者にしようとする意図が見え隠れします。ですから、ファリサイ派は離婚の是非を質問したり、論じ合ったりするつもりはなかったと見るべきです。

 

【妻を離縁すること】

 妻を離縁することは律法に適っているかどうか。合法的かどうか。もし、イエスが不法だと言えばどうなるでしょうか。ヘロデを非難することになります。この質問の下心を、イエス・キリストは見抜いておられます。だから、キリストは質問に答えず、逆に質問をします。「モーセの律法には何と書かれているのか。」ファリサイ派は直ちに答えます。妻を離縁することは合法的である、これがファリサイ派の答えです。

 

ファリサイ派が根拠とするのは申命記24章1以下です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。」(1-4)

 

離縁状を書いて渡せば離縁することが出来る。ファリサイ派はこのように離婚を合法としていました。ただし、ファリサイ派には大きな議論がありました。離縁の理由となる「気に入らなくなる」についての解釈をめぐって厳格派と穏健派が対立していたのです。厳格な立場は妻の不貞が明らかになった場合と解釈しました。穏健派は例えば妻の料理が下手だとかというように広く解釈するものでした。この両者に白熱した議論が交わされていたのです。

 

ファリサイ派の質問には、イエス・キリストがどちらの味方なのかという点をはっきりさせようと思いが見え隠れします。一方の立場を支持すれば反対派からは敵視されます。結局キリストを論争に巻き込む結果となってしまいます。

 

 ファリサイが申命記を持ち出しましたが、よく見るとたいへん恣意的な用い方をしています。そして、当時のユダヤ人の結婚に対する考え方、習慣をも見ていかなければなりません。申命記の規定は離縁状さえ書けば結婚が合法的だなどという意味が主ではありません。ここはそのあとに書かれてあるように、いったん離縁した妻ともう一度再婚はできないということを規定するのが本来の律法の目的なのです。

 

【弱い女性の立場】

 ユダヤ人の社会では、男は女と結婚するのですが、女が男と結婚は本来できない存在でした。女は結婚されるだけであったのです。つまり、結婚の主体ではありませんでした。ですから、離婚も女性は不利な立場におかれます。夫の方に例えばその職業、あるいは夫の不貞、暴力、病気などの原因があり、妻から離婚を申し立てる場合は裁判所に行かなければなりません。裁判でいろいろ尋問され、離婚は認められます。しかし、彼女には汚名が着せられます。夫の場合は離縁状を書けばあっさり離婚は成立します。このような不平等な習慣が通用している社会でした。

 

 イエス・キリストの答えはこのような背景で考えられなければなりません。キリストは指摘されます。モーセの律法は確かに離縁を認めている。しかし、それは結婚を維持できない事情のあることを認めた上での規定とされます。ところがファリサイ派はそれを人間の権利、あるいは特権のように扱います。特に妻を離縁することが夫の自由、恣意的な決定で決まると解釈します。

 

【結婚の意味】

 そこで、キリストは創世記1,2章に記される結婚観を明らかにされます。イエス・キリストはなぜこんな個所を持ち出されたのか。当時の状況を見ていかなければなりません。当時のローマ人社会の家族制度は家父長制度です。家長は特に子どもに対しては、生殺与奪の権すら握っていました。奴隷に売り払うことも合法的であるとされていました。ユダヤ人の間でも家長の権限は大きなものでした。結婚も家長の許可なしに出来ません。しかし、結婚すると、父親は子どもに対してもはや絶対的な権威を振るうことが出来ません。むしろ、結婚したものの絆が固い。

 

ここで、「神が結び合わせたものを切り離すな」と命じられるとされますが、この箇所を離婚を禁じる御言葉だと解釈されてきました。しかし、キリストがここで指摘されているのは、離縁が安易に行われている事実に対するものです。聖書を一箇所引用して、夫が離婚する身勝手さが合法化されます。

 このような聖書も用い方は今日でもしばしば見られます。自分の都合のよいように聖書の言葉を持ち出します。しかも文脈を外れて解釈したものです。あるいは聖書に書かれていないから自由だとされます。カルヴァンは「聖書に書かれていないことは禁じられる」と主張したのもこの人間の恣意的な解釈の弊害を避けるためでした。聖書の全体を十分に理解し、その全体的な理解から聖書の言葉を理解すべきなのです。聖書には必ず答があります。ただし、明瞭に分かる部分もあれば明白ではないところもあります。それを丹念に研究していくときに答えは明らかになってきます。

 

【ファリサイ派の間違い】

 キリストは離婚そのものを罪だとか、よこしまなことだと言われていません。創世記を挙げられているのは結婚の絆が父親の権限以上だといわれているだけです。ですから、今結婚をしているものは固い絆で結ばれている。父親ですらその絆を解くことは出来ないというのです。結婚の本質はその一致の堅さにある。ファリサイ派はそれを安易に評価していました。だから、申命記を用いて男性が妻を離縁しやすいようにしてしまっていたのです。家長は自分の思いとおりに権力を行使するのは間違っているとキリストは言おうとしておられます。

 

【不法な結婚】

 家の中でキリストは弟子たちにさらに教えられたとあります。ここでは三つのことを挙げたいと思います。まず、同じような記事はマタイ19:1-12に記されています。マタイ19:9で「不法な結婚でもないのに」という言葉が記されています。実際、不法な結婚が行われていました。例えば人身売買的な結婚です。そういう結婚で束縛されている人の離婚を不当とすることはできません。

【男女平等】

第二に、キリストは夫と妻の両方を挙げています。妻の場合、離婚の申し立ては不利な立場におかれていました。ところがキリストは区別をされていません。夫も妻も同じように扱われなければならないという意味です。今日では結婚は両性の合意によるのであって、一方的ではないとされていますから、キリストの指摘は当たり前のことにあっていますが、当時はまったく事情は異なります。

 

【姦通の罪】

第三に、妻を離縁して他の女と再婚すると「姦通の罪を犯す」とあります。なんともおどろおどろしい表現のように見えます。しかし、ここは、姦通の罪を犯させると理解すべきです。当時、妻は不当に離婚させられました。つまらない理由で夫が妻を追い出したのです。彼女には何の落ち度もありませんでした。そのような女性は社会的には不遇な立場におかれます。彼女から申し立てた裁判では申し立てどおりになっても彼女は汚名を着せられました。それは不当なことです。その上、離縁されたものの生活は惨めな場合が圧倒的に多かったのです。よほどの財産を持っていなければ離縁された女性の境遇は極めて悲惨でした。だから、再婚するしかありません。不本意な再婚である場合が多かったのです。こういう不本意な再婚を強制的にさせることは罪を犯させることと同じです。離婚そのものをキリストは罪だとか邪悪だとかいわれていません。むしろ、不当な扱いを受けざるをえない女性に対して同情以上に好意的です。言い換えれば恣意的な離婚の権利を振舞わす男性を断罪するものと見てもよいでしょう。弱い立場に追いやられるものの味方になろうとされるのがキリストです。

 

 ここに記されていることは、今日の結婚、あるいは離婚にそのまま当てはめると変な話になります。同時に、不当な扱いをされているもの、それは男女を問いません。そのような苦しむものにとってキリストがどういう考えを持っておられるかを知ることは大きな慰めです。そして、さらに大切なことは自分の欲していることを聖書から合理化して正当とするのではなく、もし過ちがあれば主に許しを求めるべきです。主の十字架を仰いで、許しを求め、許されている幸いを感謝して立ち上がるべきなのです。(おわり)





2015年08月23日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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